はてなキーワード: 伊藤とは
http://bylines.news.yahoo.co.jp/itokazuko/20151101-00051024/
読んだ。
伊藤弁護士もそうだが、それに絡んでる人間がよりクソなのでどっちにも関わりたくない。
現行法(児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律、略して「児童買春・児童ポルノ禁止法)では児童ポルノは以下のように定義されています。
第2条3
この法律において「児童ポルノ」とは、写真、電磁的記録(電子的方式、磁気的方式その他人の知覚によっては認識することができない方式で作られる記録であって、電子計算機による情報処理の用に供されるものをいう。以下同じ。)に係る記録媒体その他の物であって、次の各号のいずれかに掲げる児童の姿態を視覚により認識することができる方法により描写したものをいう。
一 児童を相手方とする又は児童による性交又は性交類似行為に係る児童の姿態
二 他人が児童の性器等を触る行為又は児童が他人の性器等を触る行為に係る児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの
三 衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって、殊更に児童の性的な部位(性器等若しくはその周辺部、臀部又は胸部をいう。)が露出され又は強調されているものであり、かつ、性欲を興奮させ又は刺激するもの
この「三」というのがいわゆる3号ポルノと言われるもので、児童ポルノの範囲を拡大しました。しかし、現実には「着エロ」と言われるビデオが広範に流通していますが、3号ポルノに該当すると思われるのに、規制が十分ではありません。
「現実の18未満の女性」を巻き込んでいるのに規制対象にならずに流通しているビデオがある、ということですよね。
三号ポルノ問題に関しては、そもそも法の筋が悪いので全面的に変えた方がいいんじゃね?という話を別の弁護士の方がされていた気がする(という話があるのを伊藤弁護士が知らないのかちょっと気になる)
これは別途議論されなければいけないんだけれど、ここまでまじめにチェックしてる人がそもそも少数だと思う。
私は児童ポルノについてだけお話しし、「漫画やアニメの規制はどう思うか」と聞かれたので、「日弁連は規制に反対しています」ということを紹介しました。
明日、来日中の国連の児童ポルノ・児童買春に関する特別報告者とおあいする予定。この秋葉原の街は未だに、児童ポルノと児童買春にあふれています。警察はなぜあからさまな児童ポルノを野放しにしているのか疑問。国連から厳しい報告書を出してもらうよう、明日はしっかりプレゼンするつもりです♪
このツイートで伊藤和子さんが意図したのは「現実には「着エロ」と言われるビデオが広範に流通していますが、3号ポルノに該当すると思われるのに、規制が十分ではありません」という話であって、二次オタ規制の話などしてないと思うのだが。
仮に内面で伊藤和子が二次ヲタへの嫌悪を抱いていたとしても、こちらの対応としては「これは三号ポルノの話で、今回は二次元コンテンツには関係ありませんよね」と聞いて、向こうがアッハイと言えば、問題なかったと思うんだよね。
後は「三号ポルノはどのくらいの数確認されたのですか?」と聞けばよかった。そして、その数がそれほど多くなかったのであれば、「児童ポルノと児童買春にあふれています」という表現は言いすぎですよね、秋葉原に対して失礼ですよ、といえば穏やかに訂正できていたかもしれない。
だが実際には秋葉原や二次元オタの被害者意識が強すぎて話がだいぶこじれてしまった。
ブコメのコメントたちもマウンティング思考が非常に強く嫌悪感を感じる。
狐アイコンのおじさん、この手の話題以外では面白い記事を書く人だが、フェミの話題になった瞬間
毎回毎回狂ったようにフェミのひとたちを殴りに行くので家庭でDV的なことをやらかしてないかが心配になるレベル。
自分が女性だったらこの人とだけは結婚してはいけないなと思う。
言ってる事は解らないでもないんだけど、井藤氏が秋葉原を問題視する理由がよくわからない。その手のビデオは新宿でも売ってるわけで、秋葉原限定の問題ではないような
いやちゃんと摘発されてるのを「野放し」と秋葉原を名指しで言ったことが疑問なわけですよ。背景にマンガやアニメの表現規制を実施する意図があるのではないかと疑うのが当然でしょうこれは。
秋葉原在住の弁護士なんだから自分の活動拠点である秋葉原の問題にフォーカスしてついて述べているだけだと思います。
とはいっても秋葉原について言及することのデリケートさについて若干甘えがあったのは事実かなと思いますが。
まさかヤフーの記事だけで事足りると思っているのなら、臭いものに蓋をしようとしてより火に油を注いでしまっている。
冷静に話し合う気がなくて、相手をただ殴って黙らせよう殺そうとしている二次オタの方がより恐ろしいが
自分の発言に責任を持たない伊藤和子さんもあまり真剣に耳を傾ける人ではないと感じる。
どっちもクソ過ぎて近寄りたくない。
全然言いたいことが伝わってないアホが何人かブクマで喚いているのでもうちょっとだけ補足する。
まずこれだけわかりやすくどっちもどっちだと書いてるのに伊藤弁護士擁護だと思ってるやつは、自分に100%味方しないやつは敵だと思ってんのか。かんべんしてくれ。
俺はどっち側も事実ないがしろにして言葉遊びばっかりやってるのがアホらしいって書いてるんだよ。なんでわからんのかな。さすがにいらつく。
事実以外を焦点にして、相手がこういうやつだとレッテルを張り合ったり印象批判で戦い方はまったく無駄にしか感じないんだよ。
今回で言えば両者が、「三号ポルノに該当するのに規制が不十分な対象」がどれほどあるのか、という事実を核として戦うべきだろう。
ここ明らかにしないかぎりなんどでも役者を変えて同じような問題が何度でも蒸し返されるのだから、気に入らないやつをみんなで叩いてすっきり、問題解決なんてことにはならない。
ああいう発言を言った言わないだの、ましてその発言によってこいつはなんとか主義者だというレッテル貼りは「お前がそう思うんならそうなんだろうな」でしかない。
そういう無駄なことはアホと暇人がやっていればよいのであって、公に発信している人間はまじめに取り合ってはいけない。
伊藤弁護士に絡んでるやつらがそういう戦い方を知らないバカの集まりなのはまだわかる。
しかし伊藤弁護士側が、バカと戦い方をしているのは全く理解に苦しむ。なので今回の件に関してはどちらかというと伊藤弁護士側の言い分に疑いを持っている。
しかし詳細は調べるつもりもないが
某芋屋とかジュニアアイドルのソフトを専門に扱う店の存在やJKビジネスにおけるアキバでの摘発例といった“事実”を見てみぬふりして「フェミニストの捏造」にしたい人がたくさんいるってこと。 / “秋葉原における児童ポルノの問題、両陣営…” https://t.co/OEN3iQv4Yd— 董卓(不燃ごみ) (@inumash) 2015, 11月 1
こういう話があるようだ。伊藤弁護士側の人間も、叩いている人間もちょっと調べたらいかがか。
というより、この董卓さんが記事でも書けば済む話であり、アホが群がってギャーギャー騒いでいるのも、伊藤弁護士のすっとぼけた討論もどちらもクソすぎて近寄りたくない。
基本的に、これまで僕は匿名で文章を書くということをしてこなかった。
パソコン通信にしろブログにしろmixiにしろTwitterにしろ、誰かと議論したり何かを主張したりするときは、常に素性をオープンにし続けてきた。腰をすえて議論する気もなく匿名で書き逃げするような連中に、僕自身、さんざん苦しめられてきたから、同じようにはなるまいと思っていたのである。
それがSF小説の批判だったらなおのこと。自分の愛するジャンルであるからこそ、逃げも隠れもせず持論を述べ、反論を迎え撃つ――それが本来の筋だと思う。
しかし今回は、自分の名前を出して発言するのはあまりにリスクが大きいと判断して、不本意ながらこういう形を取らせてもらった。実は匿名で書くことにすら尻込みを感じている。
なぜなら僕が今から批判しようとしているのは熱狂的なファンを多くもつ作家――伊藤計劃氏の作品だからだ。
2009年に亡くなった伊藤計劃氏だが、いまだにSFマガジンで特集が組まれたり、映画が3作も公開されたりで、その人気はとどまるところを知らない。
僕が始めて読んだ氏の作品は、『虐殺器官』だった。新人のデビュー作ながらその年の、SFが読みたい! の1位を取ったというので、期待をもって読み始めたのだ。
しかし、あまり感心しなかった。なぜなら作中のメインアイデアである「虐殺の文法」というものが、言語SFの歴史の中ではさほど捻ったものではなく、更に2005年に別の日本人作家が発表した短編とも酷似している。プロットの方も、ミイラ取りがミイラになってしまったというありふれたもの、逃げのようなもので、短編ならともかく、長編としてはガッカリするような結末だった。だもんで、個人的には年度ベスト1位を取るほどの作品とは思えなかった。
年刊日本SF傑作選『虚構機関』に収録されている「The Indifference Engine」をたまたま読んだ時も、僕の評価は覆らなかった。
舞台を紛争地に置き換えてはいるものの、アイデアから構成からテッド・チャン「顔の美醜について」にそっくりで、決して独創的とは思えなかったのだ(余談だが、「顔の美醜について」は、世間で変に高評価されている「あなたの人生の物語」よりもよほど構成のちゃんとした、優れたSFだと思う)
出版されるSF作品の数も、世間のSFファンの数も膨大なので、僕が好きではない作品や、アイデアが目新しいとも思えない作品が、評価されたりランキングの上位にのぼることもある。とはいえ、趣味に合わない作家を追い続けるのもあまり建設的ではないので、僕はその後、伊藤氏の作品をずっと読んでこなかった。
だから、もしかしたら永久に他の作品を手に取ることもなかったかも知れない――
2014年に、伊藤氏の『ハーモニー』が、日本SF長編部門オールタイムベスト1位を取らなければ。
いくら避けてきたとはいえ、傑作『百億の昼と千億の夜』の牙城を、2000年代に発表された作品が崩したとなれば、さすがに読んで確かめざるを得なかった。
大きな戦争のあと、生命至上主義によって、医療技術が高度に発達した世界。
人間は16歳になると健康管理用のナノマシン群「WatchMe」を体内にインストールし、その恒常性と健康を、常にモニタリングされる。
健康に生きることを強いる社会に反逆するため、御冷ミァハ、霧慧トァン、零下堂キアンの3人の少女は、餓死による自殺を試みるが、失敗した。
その十数年後、ミァハは、新たな目的をもって暗躍をはじめ、その結果、トァンの目の前でキアンが犠牲になる。
ミァハの願いは、Watchmeに組み込まれていた自意識喪失プログラム「ハーモニクス」を発動させ、人間たちの意識を奪うことだった。
最終的に、ミァハはトァンに殺害されるが、ミァハの計画は実現し、全人類がハーモニクスされた結果、そこには誰もが意思を持たない完全に調和がとれた世界が誕生する……。
この結末を読んで、僕はひっくり返った。
ちょっと待て、「ハーモニクス」できるのは、WatchMeを体内にインストールしている人間だけじゃなかったのか!?
確か作中では、人々がWatchMeをインストールしていない地域のことも書かれていたはずだ。
そして何より――子どもたちのことはどうなったんだ?
16歳未満の子どもには、WatchMeがインストールされていない。WatchMeを入れられたくないからこそ、ミァハたちは16歳になる前に心中しようとしたはずだ。
つまり、16歳未満の子どもはハーモニクスすることが物理的に不可能である。
にもかかわらず、エピローグでは、全人類の意識がハーモニクスされたように書かれている。作中の設定どおりなら、こんなことはあり得ないのだ。
この作者は、自分が書いた設定を忘れている!
だいたい、ミァハの目的については、健康な世界に苦しむ、「意識」ある子どもの自殺をなくす、というのも書かれていたはずだ。
にもかかわらず、彼女の行動で出来上がったのは、「先進国の大人だけが意識を失い、先進国の子どもたちや、一部地域の人間は意識を保ったままである世界」だ。 子どもの自殺はなくならないだろう。出発点と正反対だし、エピローグの、全人類が意識を失った調和の取れた世界、という光景は有り得ない。はっきり言って無茶苦茶である。
そう、『ハーモニー』という長編は、その評判とは裏腹に――完全に破綻しているのだ。
作家というのも一人の人間である。あまりに大きなミスとはいえ、病床の伊藤氏が見落としてしまったのも仕方ないのかもしれない。
情けないのは早川書房だ。自分で書いたものをそのまま世に出してしまえる同人誌と違って、商業出版には校正という作業が存在する。誤字や誤植のほか、作中の矛盾などを指摘して、作者に修正を促す大事な行程だ。 『ハーモニー』のこの矛盾は、プロット自体を完全に崩壊させる、校正が厳格な出版社だったら絶対に許さないようなミスだ。これが講談社や新潮社のように校正がしっかりしている出版社だったら、こんな欠陥を抱えたまま作品が世に出ることはなく、伊藤氏も、恥をさらさずに済んだだろう。
それに輪を掛けて情けないのがSFファン。
けれど、その作品のプロットや構成が、最低限成立しているかどうかくらいは、アイデアの好き嫌い以前に、ちゃんと見極めるべきだ。
ちなみに、僕は『ハーモニー』のアイデアも独創的だとは思わない。
ユートピアを追求したら自由意思の存在しないディストピアになってしまったという結末は、星新一や、アシモフの代表作のほか枚挙にいとまがないし、クラークの某長編をはじめとする「人類補完もの」のバリエーションのひとつとも読める。 また、ラスト以降の世界が、「自由意思を失った大人が、自由意思をもった子どもたちと暮らしており、子供も大人になると自由意思を失うことになる」、というものであれば、ほぼ、『キノの旅』1巻の重要エピソードである「大人の国」と同じ世界になる。
ともあれ、これほどまでに構成の破綻した作品を日本SF大賞の受賞作にしたり、オールタイムベストの1位に選んでしまうのは問題だろう。
考えてみて欲しい。SFというジャンルに興味を持ってくれた人が、こういうランキングを参考にして、まず第1位の作品から読み出したとき、「SFって、こんなにいい加減なプロットの作品を評価しているんだ」と失望してしまったら? 「SFなんて適当な構成でも許されてしまう、低レベルな小説ジャンルなんだ」と思ってしまったら?
それはきっと、SF作家たちとジャンルにとって大きなダメージになるだろう。
この文章を書いている途中で、僕は奇妙なことに気づいた。
SFマガジンのような活字媒体と違って、WEB上では、この大きな穴について言及している感想もぽつぽつ見かける。だが、そういうミスを指摘できているのは、SF作家やSFライター、SF評論家ではなく、ごく一般の読書ブログをつけているような人、「SF界とは繋がりが薄そうな人」ばかりなのだ。
そこでふと思い至った。
いくらなんでも、あれだけ多くのSFファンやSF評論家が持ち上げているのに、誰一人として欠陥に気づかないというのは、どう考えてもおかしい。
みんな、欠点に気づいていながら、それを指摘してしまえば伊藤氏のファンから一斉に反発を食らってしまうために、沈黙しているのではないか?
あるいは、伊藤氏が亡くなってしまっていて、作品の欠陥を指摘したところで訂正の機会がないから、批判するのは忍びないと感じているのではないか?
だとすれば、これはまるっきり、童話の「裸の王様」だ。みんなで持ち上げるうちに引っ込みがつかなくなって、誰かが声を上げるのを待っている。童話と違うのは、誰ひとり「王様は裸だ!」と言う勇気がなくて、とてつもない歪みが生じていることだ。
僕は、この歪みが決定的な打撃をもたらすのは、『ハーモニー』の映画公開時だと睨んでいる。「夭逝の天才が残した傑作SF」の評判を聞き付けて、SFファンや伊藤氏のファン以外にも、たくさんの観客が訪れるだろう。その時、プロットがぐちゃぐちゃに壊れているのを発見した観客たちによって、「さよならジュピター」なみの珍作として扱われることになるのではないか。
誤解しないで欲しい。僕は何も、伊藤氏の人格を貶めようとしている訳ではないし、『ハーモニー』を賞賛するのはやめよう、と言っているわけでもない。
ただ、彼の作品を持ち上げようとするために、SF読者、それもジャンルにどっぷりつかっているような人間たちが、構成上の欠陥に対して目をつぶり、盲目的になってしまうのは、SFの未来を考える上で、間違っている、と主張したいのだ。もしも、「この『ハーモニー』という作品は、これだけ小説としては崩壊しているけど、それでも僕は好きなんです」と言える読者がいるのなら、僕もそれは否定しない。作品の出来不出来と、個人的な好き嫌いは必ずしも一致するものではないからだ。 僕だって、出来は悪いけど好きだと胸を張って言えるSF作品は沢山ある。
たとえ何年か後、オールタイムベストの上位から滑り落ちたとしても、今のように、宗教的で無批判な礼賛ではなく、伊藤氏のファンが「こういう風に壊れている部分もあるけれど、好きな部分もある」という主張を大っぴらにできるようになったら、その時はじめて、『ハーモニー』は、正当な評価を受けられるのではないか、それこそが伊藤氏のためになるのではないか――僕はそう信じる。
エロゲの有名作品をいくつかやってみたけど、純文学や前衛的な現代文学とクロスオーバーを自覚的に試みているような作品は存在しないと思う。
文学的に頑張ってるエロゲ作品って海外のハードSFやハイファンタジー、日本のミステリの新本格(特に京極夏彦とか)等を美少女とのセックスや俺TUEE!系の中二病設定などの砂糖菓子でコーティングした劣化コピーという印象だった。
むしろ当時、文学に対して真面目でストイックなオタクはエロゲの作り手やユーザーを見下す傾向にあったと思う(故・伊藤計畫とか)エロゲのイラスト等ビジュアル方面にしてもハイエンド系に影響を受けた世代のhukeなんかは自身のブログで「エロゲからは絶対に影響を受けない」と拒絶の意思を表明していた。
そう言った事実から意識の高いオタクはハイエンド系ブームを支持し、エロゲブームは絵が理解できない低リテラシーなヌルいオタク達のなんちゃって選民思想表明で正解だと思う。
ただKeyのAirとかは文学的にポンコツで稚拙過ぎて逆にアンチ文学としてものすごい凄みを持ってしまった作品のような気がする(映画で言うと塚本晋也の初期作品のような)。
大多数は無垢で純粋な美少女が死ぬ単純明快な感動ポルノなプロットで泣きながらオナニーするような豚野郎だったと思うけれど、ヒロインの名台詞「永遠はあるよ」を始めとする要所要所の演出により稚拙ないたる絵のグラフィックを映し出すパソコンモニタの向こう側に永遠を見出してしまうナイーブな性格で高リテラシーなオタク層である沙村広明や西E田がいたのも事実だ。
もっとエロゲやオタク事情に詳しいKanose大先生あたりに余裕ぶっこいてないでさっさと当時のムーブメントの詳しい解説や反論をして欲しいですね。
そういう中で有名な人、について分析をしてみる
人気は勿論わかるんだけど、実績で見ていってみて、冷静に、どういう点で有名になって、今何が凄いのか?という点について考えてみる
### 伊藤直也氏
新卒でニフティ、はてなに転職して、ブログ時代に知名度をあげる
はてブを作って、はてブユーザにとっては神なのかもしれない。はてなCTO。
その後、グリーに転職し、スマホ事業部長。2015年の大赤字化したグリー。
経営の問題はあったのかもしれないが、明らかにスマホ事業の苦戦はスマホ事業の責任者であった、伊藤直也氏が作ったものだと言ってもおかしくはないと思う
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1009/07/news070_3.html
そして、今はフリー、とかいって優雅に寿司を食いながら技術系の人にインタビューしたり、技術顧問とかいって格好をつけているけど、新しい技術にちょこっと手を出し、マスターしたつもりになっているだけで、肝心のプロダクトを出して、それがヒットしたとか、そういうものが無いので、正直何が凄いのか分からない
知名度だけが先行して実力が伴わなかった最たる例であるように感じる
はてな自体のPVもキーワードリンクスパム、はてブのブックマークページのペナルティ扱い等、伊藤氏が作った仕組みによって、大きく下落していることも忘れてはいけない。
MovableType潰して、Plaggerも鳴かず飛ばず。
http://kessan-kanpo.blogspot.jp/2015/06/13.html
食えなくなったので、Cookpadに逃げ込んだ、というイメージ
この人も人気はあるにせよ、技術的観点以外での実績というものがない
### あまちゃん氏
技術系の人に人気があった、というだけで、具体的に何をどうしたとか、JavaScriptを作った人でもないのにそれっぽく扱われている事にかなりの違和感があった。
ヒットプロダクトがずーーーーーーっとない状態。お花のFacebookプレゼントサービスも鳴かず飛ばず
新しく作ったサービスも、200万PVを超えたとかいうことでニュースになっていたけど、200万PVでは到底食えないし、日本のトップサービスのPVからしてみれば誤差の範疇。
http://jp.techcrunch.com/2014/04/21/140421-kactel-pictory/
一向にiOS版が出てこないし、やはりプロダクトを作るのに向いてない人なんじゃないのって思ってしまう。
というか、センス無いよ、と思い続けて5年以上、やっぱりセンスなかったな、という印象。
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まあ要するに私がいいたいことは、人気、知名度と実力は必ずしも一致せず、
本当にトップのサービスやヒットサービスをやっているような人ほど、いちいちブログなんか書かずにプロダクトに集中したり、コードを書いているよねっていう話です。
10年も前からはてな界隈では有名人だけど、今は没落している人が多いように感じるのは、実際の所、実力が無いのに過剰評価されていたことの証明だとは思う。IPO直後の株価のように、やはり実態は平均化される。
勿論、人気も実力のうち、であることは承知してはいるが、実力がないのに過大評価されている状態を見ると、なんとも残念な気持ちになってしまうのでした。
イギリスの新聞「ガーディアン」に、反五輪の会のインタビューが掲載されました。
The troubled history of Zaha Hadid’s Tokyo Olympic stadium project
(“The Guardian”,Oliver Wainwright,Friday 17 July 2015 14.27 BST)
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問題だらけのザハ・ハディド作東京五輪新国立競技場プロジェクトの沿革
東京都心の明治公園に、それはそれは巨大な銀河系自転車ヘルメットのような格好で、白いアーチを描きながら、低層の環境に覆いかぶさってそそり立つように現れる予定だった。このザハ・ハディドのデザインによる2020年夏季オリンピックの競技場は、今や叶わないものとなった。2520億円(13億ポンドまたは20億ドル)までのぼった建設費は、計画当初の予算のほぼ倍に達している。近代における競技場の中でも一番高く、このなんとも過大なアリーナの計画はついに中止された。
多くの人は、今回決定した白紙撤回は2年遅れでやってきたと感じている。2013年の計画発表当時から、あらゆる方向から厳しい批判を受けてきたこのデザインは最初からボツになる運命にあったようなものだ。発表直後から日本でも最も著名な建築家陣がこぞってシンポジウムを開き、反対署名を集め、抵抗心丸出しでこの計画を叩いた。彼らは「周辺の住宅地等の環境と完全に不釣り合いな怪物」と述べている。
彼らは、競技場の予定地は、建築物の高さ20メートルの制限がある歴史のある場所であり、ハディドのデザインによるとこの場所に高さ70メートルにものぼる競技場が明治神宮を上から眺めるような形で建てられることになる、という点を強調した。プリツカー賞受賞者の槇文彦をはじめ、伊東豊雄、隈研吾、藤本壮介といった建築家が名前を連ねた反対署名は、8万人もの署名を集めた。この数は予定されていた大競技場の収容人数とちょうど同じ数だ。
署名活動に加えて、バルセロナ五輪の競技場を担当した磯崎新による猛烈な攻撃が続いた。磯崎はハディドのデザインを「歴史的な誤謬」と呼び、「後世に恥をさらすことになる」と警告した。2020五輪の企画を担当する日本スポーツ振興センターへの長い公開状のなかで、彼は「歪んだ」建設計画が「列島の水没を待つ亀のような鈍重な姿」と述べた。
「東京は世界で最初の例を実現するチャンスがあるのにもかかわらず」と記し、この建設計画はオープニング・セレモニーのための無駄な装飾品を造るという欲によってのみ動かされていることを指摘した。磯崎はさらに、いかに競技場の規模の縮小が可能になるかを詳細にわたって提案したが、オープニング・セレモニーにおいては、皇居のそばに規模の小さな臨時特別会場を建て、江戸城の外壁を使ってドラマチックな背景にすることなどを挙げた。しかしこのライトで低コストな気の利いた提案はすべて政府側に無視された。
それにもましてハディドは、自分の建築デザインを批判する者に対し「彼らにとっての恥だ」と述べながら素早く反撃した。「これは彼らの街に建つものです」と理解をただよわせながら、「でもこの競技場をあの場所に建てることに反対するのなら、初めから五輪開催地候補になんてなるべきではなかった。ただの偽善者だ。新競技場計画がつぶれた原因は彼らの問題だ。国立競技場を外国人建築家に作らせることを拒んでいるが、日本人は世界中で起業しているではないか。」と話した。
しかし、反対派の主張は建築界や専門家の内部抗争などの領域をはるかに超えたところで展開されている。地元の反対派グループは、新競技場がもたらす影響により都心でも数少ない自然の残されている場所を破壊することになる、と腹を立てている。この地域は1900年代初頭に孤立した島国日本を近代化に導いた明治天皇を偲んで植えられた銀杏の木や庭園が多くある場所である。
神宮外苑と国立競技場を未来へ手わたす会共同代表の清水伸子は「ここはオアシスのような場所です。」と話す。「ここは散歩したり、おしゃべりしたり、ピクニックのできる場所。新競技場ができたら、こんな公園と緑が失われてしまう。ありえないことです。」
環境問題はさておき、さらに地域の怒りをもたらしたのは、ハディドの新競技場計画にしたがい、周辺の都営霞ヶ丘アパートから約300戸もの住民が強制退去を強いられたことだ。退去令はアパート住民に限らず、公園内で寝泊まりするホームレスの人々にも襲いかかった。「年配の方々がたくさん住むこの場所で、新たな住居への移動によるストレスは大変なものです。」五輪に圧力をかける反五輪の会メンバーの小川てつオはこう話す。「霞ヶ丘の住民のあいだには、実に強いコミュニティー感覚がある。でも強制移住によってこれが壊されてしまいます。」
実際のところは、現状よりもはるかに低コストで周辺への影響も小さい代替案も存在していたのである。旧競技場は1964年オリンピックの会場でもあり、54000人収容できる。1936年ベルリン五輪や1932年と1984年のロサンゼルス五輪で成功した例があるように、実在する競技場を改築または再利用して開催する手もあったのだ。
伊藤豊雄は代替案まで提案したが、これはもし国立競技場が解体されてさえいなければ、実現したかもしれなかった。結局、ハディド作の宇宙船の着陸帯をもうけるために、国立競技場は今年の5月には瓦礫の山へと化していた。
東京のテンプル大学のジェフ・キングストンは、「ホワイトエレファントになるのを待っているような状態だった」と話している。「東京のわずかな緑地帯を損なってまで建てても、ここまで巨大な競技場が必要になるようなイベントはほとんど存在しない。多少の費用で古い競技場を改築すれば、新競技場よりはその後の管理もずっと少なくて済んでいたはず。税金を納める人にとって、これは迷惑にしかならない贈答品をもらうようなものです。」
ザハ・ハディド建築事務所のスポークスマンは、予算が急騰したのはデザインのせいにされるべきではない、と話す。しかし同事務所は今後も競技場に関する仕事を続ける予定だと述べている。
「先の予算上昇はデザインに原因がある、と言われていますがこれは事実と異なります。このデザインは、基準どおりの資材を使い、建設業者の技術範囲と日本スポーツ振興センターの予算内に収まるように設計されています。」とハディド事務所は声明のなかで述べている。加えて、「新競技場の実際の課題は、東京の建築業界の年間費用上昇、そして定められた期限に対応した予算を打ち出す、という点でした。」と述べた。
これは2012年ロンドン五輪委員会がメイン競技場の配備において避けようとした問題だ。当時は相当な批判を浴びたにもかかわらず、通常行われる国際競合を廃止した上、時間と予算の削減を考慮して、建築業者のリードする企業連合によってすすめられた。
時間通り完成はしたものの、ロンドン競技場の建設費もまた収拾がつかなくなるほどに跳ね上がった。当初の予算だった2億8千万ポンド(約535億円)から、4億9600ポンド(約948億円)にまで昇った。解体される計画だったが結局のところまだ残されており、今はサッカー競技場にするために改築中だ。この改築費も含めた総工費予算は7億ポンド(約1339億円)にまで上がってしまった。
もともとは「コンパクトなオリンピック」と称されていたが、東京の開催委員会もスリムな理想像に沿った制御をするために、ロンドンと似たような道を辿っている。ハディドの過剰なデザインが、いま拡大しているこの高価な試みに対する不満分子の中心だ。安倍晋三首相の支持率は最近になり新たな降下をみせているが、政府関係者によると五輪に対する世論の悪化が原因のひとつだという。五輪開催までわずか5年となった今、五輪推進派は、まだ旧競技場が残っているうちに自国の建築家たちの必死の警告を受け止め、彼らの極めて思慮深いアドバイスに耳を傾けるべきだった、と後悔しているのではないか。
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http://anond.hatelabo.jp/20150716232738
元増田はぼくにピース又吉の受賞記事を紹介し、それからぼくの口にペニスをつっこんで、文明の進歩が欲しいならまずは死ぬことだと言った。元増田とぼくは旧知の間柄だ。おまえは元増田と知り合いか、ぼくは始終そう訊かれている。
ぼくの喉の奥に亀頭を食いこませて、元増田は言う。「心配するな、おれたちは死なない」
陰茎に開いた尿道口が舌に触れる。ぬめった感触の大部分は包皮だ。元増田の陰茎の大部分は皮がかむっている。見栄えのするペニスを欲しいなら、包皮を取り除いたあと尿道にカンガルーの骨を挿入して陰茎の下部をナイフで穿てばいい。尿道割礼したペニスは、勃起したときに扁平になる。強そうに見える。
「これは文学の死じゃない」元増田が言う。「おれたちは新しい文学になるんだ。増田文学。名無しのままで永遠に生きる」
ぼくは舌でペニスを頬に避けて言う。元増田、それじゃまるきり京都の大学生だ。
ぼくらが立っているホッテントリカテゴリは十分後には更新される。内容のない時事ネタを一文あたり三倍の濃度で薄めて、村民をidコールする。サブカルネタも適宜加える。次に、ブクマの加虐心をそそる致命的な脇の甘さポイントを一箇所作る。300users超えの記事ができる。
ぼくらの足の下にある百九十一カテゴリのどこかで伊藤プロジェクト悪ふざけコミッティ所属のブクマbotどもが暴れ回り、古い文学を最後の一片まで破壊している。
昔から、愛は憎しみと紙一重と言うだろう。見ろよ、逆もまた真なりだ。
亀頭を口に突っこまれて陰茎を噛んでいると、こうやってタイプするくらいしかできない。
ぼくらに残された時間は十分。
また一記事、クソみたいな与太記事が吹き上がり、漏れだした憎悪が鳩の群れみたいにルサンチマンを反射しながら散っていき、悪ふざけbotたちの手で押し出された注目記事がはてなのトップの下部に現れ、ついには火を吹き、拡散し、炎上する魔法の飛行物体になって群衆に飲み込まれる。
クソ人気増田記事のハウツーは、ドナルド・キーンの文学史を見ても書いてない。
ホッテントリの三製法。その一、等量の紋切り型と悪意を混ぜあわせる。その二、等量のライフハックネタと悪意を混ぜあわせる。その三、等量の下ネタと悪意を混ぜあわせる。
ブクマの集め方なら訊いてくれ。威力抜群のブラック企業の告発法も。
あと八分。
「いまやこのインターネットはおれたちのものだ、全世界がおれたちのものだ」元増田が言う。
「古代人どもが爆釣だ」
この結末を知っていたら、書店員になって本屋大賞受賞作の帯にコメントを寄せているほうがよほど幸せだっただろう。
ぼくらは文学になるのかもしれないし、ならないのかもしれない。やめろ、とぼくは言う。待てよ、とぼくは言う。
「作者の死」を書き残さなかったとしたら、バルトは文学の記憶に残っていただろうか。
三分。
ぼくは舌でペニスを頬に避けて言う。文学になりたいなら、元増田、ぼくが文学にしてやるよ。最初にここにいたのはぼくらなんだ。昔からぼくらしかいなかったし、この先もずっとぼくらしかいない。
ぼくは何もかもトラバしている。
残り一分。
作業しながら頭をよぎっていった作業に関係ない言葉たちを10分間書きとめてみた
朝辛子 ソレミシ ソラシミレドシ 関東ローリング名刀 千手観音紹介 ミレドレ 連打ブレンディ
どんどん屯田 冷麺パワー 盛りのついたギャラリー 副交感神経膜 腹膜 フッくんあのね メッケー部
シュカ シュガー この町 あの町 Heart ゲイン コンバット小町 木炭 木刀 白蓮 シンデレラ饅頭 サム指姫
ちんすこう グアテマラ 国旗 ピーチ味の無精髭 白髪交じり 43% バンテリン バッテリー パルテノン信玄
湿度の高いポテチ ちりめんじゃこの艦隊 混成三部岩礁 ガッチョン カシューナッツ合唱 ドドミドレ ガンギャラド
瀕死のグルグルボッチ メティオーロ ビブラート肩こりガンダム ダンブルドア武運ダウンロード Send デデンデン ドレスデン
ペンさ PENさ ペン先さ ベンジャミンさ ペン捌きさ ペン先しまっとこう しまっていこー しまった伊藤 神速 Get It PENTAX
復讐 予讐 触媒宿題 吟醸 1965万個の銀賞 Head ラドミレ マグロディストピア 霊峰ナクナク 首輪ハンサム グラビティ緑茶
年表系エルダーエラー ナンボin天狗恋愛 ルワンダ 奇襲 紀州 新古今和歌集 チャウオック ハムエッグ ベンジャミン酢
3.9 三連休 産卵するワオキツネウオ 腕毛テヅルモヅル 三尺 芍薬 生薬ミルキー アルビノエンペルト ソース味
M字クリップ兄弟 肉汁ギャップ 胞子inほうじ茶 ガッデムヘルストローク 男爵ヒモ 死んでる ハミってる クマビスケット
ゼリービーンズ りんごとハチミツと歯茎 ババァモンテネグロ 入れ歯総選挙 10分
集中ってなんだろう。
ttp://biz-journal.jp/2015/07/post_10624.html
http://megalodon.jp/2015-0709-1915-43/biz-journal.jp/2015/07/post_10624.html
要約:発注通りに制作を行わないWeb制作会社エレファントコミュニケーションズ。納期直前になっても、オーダーした通りのデザインになっておらず、発注者のA社はカンカン。
社長が謝罪と説明にくるアポを取り決めたが、当日来たのは制作担当の社員2名。(ディレクターとデザイナー)
ディレクターは制作会社側に非はなく、今後も対応を続けると表明。
「サーバーは空の状態に戻す」
とし、ウェブサイトの公開ができないことに。
この記事を書いたのは、株式会社ヴィベアータ代表取締役、ブラック企業アナリスト新田 龍なる人物。
ttp://viebeata.com/
この記事が掲載された時点から「発注側からの視点でしか記述されていない」ことがWeb業界内で不審がる声があがった。
また、発注者は匿名としながら、問題とされる制作会社「エレファントコミュニケーションズ」は会社名実名名指しであったことも疑惑をよんだ。
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=980053998693287&id=204780772887284
要約:
・発注者である「A社」は名指ししないものの「カルマ清算コース」なるサービスを提供する運営会社である>>
ttp://lyrasantih.blog54.fc2.com/blog-entry-1237.html
http://megalodon.jp/2015-0709-1931-22/lyrasantih.blog54.fc2.com/blog-entry-1237.html
BizJournalで述べられていた「サーバー廃棄にともない、ブログにてサイト運営を引き継いでいる」ことを伺わせる。
インフォメーション
ノア・アカデミーのホームページは、現在制作中です。皆さまには、ご不便をおかけしております。ノア・アカデミーのホームページが完成するまでの間、2daysワークショップ、1dayセミナーの新情報、料金案内などは、当ブログ上にてご案内いたします。
◆ 住所
なお、noah-z-academy.comは、現在BASIC認証によるアクセス制限がかけられている
2001年の四国八十八カ所巡礼にて数々の神秘体験を経た後、人類の霊的進化を促すために必要な膨大な情報を様々な次元領域から得る。その後、陰陽法則をマスターした自身の過去生に属する感覚的記憶を辿りながら、2011年には今生におけるリマスターを完遂。その裏付けとして完成させたメソッド「人格統合」(総合法令出版)には、個が内なる統合を果たし輪廻を制するに至るまでの指針が明瞭に示されている。
ttp://lyrasantih.blog54.fc2.com/blog-entry-1244.html
http://megalodon.jp/2015-0709-1935-12/lyrasantih.blog54.fc2.com/blog-entry-1244.html
http://megalodon.jp/2015-0709-1936-47/www.ly-ra-academy.com/
皆さまには、ご不便をおかけしております。
ノア・アカデミーのホームページが完成するまでの間、2daysワークショップ、
http://web.archive.org/web/20150214221322/http://www.ly-ra-academy.com/program.html
確かな霊的進化を果たしたい人たちへ
表面的な癒しや善信仰(ポジティブシンキング)に逃げるのではなく、目の前の現実と向き合い、自身の課題を直視することなしに、霊的成長を果たすことはできません。
リラ・アカデミーでは、それぞれの事情や経済状況に合わせて、個々が望む結果を得ることができるよう、様々なプログラムを用意しております。
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エレファントコミュニケーションズは、コーポレートサイト見る限り、しっかりした案件を多く手がけているのに、なんでこんなトンデモなの引き受けちゃったのかな??
しばらく当該案件のヲチをさぼってたのですが、若干動きがあった模様
ttp://ameblo.jp/nitta-ryo/entry-12049856050.html
http://megalodon.jp/2015-0723-1737-23/ameblo.jp/nitta-ryo/entry-12049856050.html
しており、1週間の回答期限を過ぎても先方から何ら連絡は
なかった
説明は依然としてなされていない
なお、続報を準備中とのこと。
ttp://biz-journal.jp/2015/07/post_10624.html
いつごろ取下げられたのかは不明。Wayback machineでは、7/8付の状態では公開中であったことが確認されている。
津田大介氏はソフトウエアの海賊版だのネット軽犯罪をする側から読者をむしろ扇動するようなタイプのライターだったし、伊藤隼也氏だって今で言えば反論の余地の無い児童ポルノ制作に関わるカメラマンだったのに、今じゃすっかりジャーナリストって事で世に出ていて、(ネット以外では)誰もそれに突っ込まない。
そりゃ、改心すれば、今はどうでもいいって言う人もいるかも知れないけど、「お前にえらそうなこという資格あんの?」って感じはどうしてもしちゃうし。
テレビに出ている芸能人は、たまに昔の黒歴史の話とかされて気まずそうな顔してる場面はみるけど、彼らがそういう目に遭う所は殆ど見ないんだよねぇ…なんか、ジャーナリストって、そんなに力あるのかなぁ?
伊藤@ichi_plus
で、根拠として海外の事情(ノルウェーのシンママ支援?とか)を紹介すると支援を打ち切れって事か!みたいになるのも良く判らない。両方救済される道を模索するんじゃダメなの?まあ使えるお金には限界があるから取捨選択はどうしても必要だろうけど、妥協点を見出す事も可能だと思うんだけどなー
≫ichi_plus その点は、女性が自由意思によって主夫を養う選択をする、ということで両方が救済され丸く収まるということはまとめられている人たちの合意ではあるですよ。逆に言うとそれ以外に全員が救済される道が無いというか。
≫ichi_plus その海外の事情を「支援が貧困を促進させてる!!」っていう風に持ち出して来てるんだから、「支援を打ち切れ」と主張してるという風に取られるのは必然かと。むしろ、そうじゃなかったらどんだけ説明が下手なんだって話である
≫oldschool1933 私も「男女平等、少子化対策、格差対策を鼎立する方法は女性が男性を自主的に養う以外知らない」と書いている通り、それ以外は男女不平等にするか、少子化するか、格差拡大するかの3択になってしまう、と書いているわけです。
≫kyslog だから、「不平等になるから子育てに関する支援を打ち切れ」ってことでしょ?シングルマザー支援をはじめとする子育て支援を否定的文脈・文言で持ち出しておいて、存続には口を濁すのはちょっとどうかと。
≫oldschool1933 私は、どの選択をするかは判断しない立場ですね。ただ、男女平等、格差対策、少子化対策はそれぞれ求められているものであって、できれば全部なんとかしたいわけだから、知らずのうちに良かれと思って良くないことをしている可能性は検討しておかないと危険だね、と呼びかける立場です。
伊藤@ichi_plus
≫oldschool1933 うーん、そうかなあ?「支援が貧困を促進させてる」というのは弱者男性が発生するロジックの説明だと思うんすよね。状況把握の為に現状出ている問題点のピックアップみたいな。KYの雑記氏はそこで提示された問題点をどう対処するかはについては語ってないと思うので支援を打ち切れって言ってる、というのはちょっと違う気がしてます
≫ichi_plus 否定的文脈かつ否定的文言で持ち出されたけど存続の有無について言及してない、「僕は否定していない、忠告しただけ」とか言われると、「シングルマザーに支援すべきでない」ともいってないことになるし「支援を打ち切れ」も一緒だから、どう受け取るかになる。でも、「恩恵を受けれない公的扶助のための徴税によって貧困に!!」って言う論調は生活保護しばき主義とかで見られたロジックなんで、やっぱりもにょる
≫oldschool1933 前者は全方位に対して批判しているので、その批判は受け入れます。後者はちょっと違いますね。結果的に貧しい男から税を取って豊かな男に再分配する逆進性が強いと言っているのであって、中流から下流への再分配は中流を痛めつけるから不要だ、と言うタイプの生活保護しばき主義とは違うものです。
性欲を持て余していた。31歳独身。風俗なんて行ったこと無いし、キャバクラでさえも行ったことなかった。
数年前別れた彼女はもうすぐ結婚するし、一昨日焼肉に連れて行った女子大生は「先週彼氏出来た」とのたまう。ハッ◯ーメールには2万円を要求する女しか居ないし、Yahooパートナーもさっぱり返信がない。FC2動画に有料登録し、俺のマイページは「ニーソ」「マッサージ」「黒髪ストレート」「色白スレンダー」「貧乳」「乳首桜色」「ロリ体型」…などと細かく分類されていつでもオンデマンドで楽しめるようになっていた。
いい加減セックスがしたい。裸で抱き合ってキスをしたい。朝から前立腺が泡立つような感触が続いている。
Google先生で「府中 デリヘル」と検索する。府中は隣町だ。きっとすぐに来てくれる。俺は基本的に一発しか出せない。60分もあれば大丈夫だ。
出てきた風俗情報サイトを上から眺める。やがて一件のダサめのサイトに辿り着く。ロゴの解像度ガバガバやな。今日の出勤に、黒髪ロングストレート&ニーソの女の子が映る。顔はぼかされている。プロフ上Cカップだがもっと無いだろう。でも、これだ。俺の11cm電探(仮性)に感あり。
20分後、女の子がデリバリーされてきた。ドミノ・ピザより早い。インターホンが鳴る。甘ったるいアニメ声だ。期待が高まる。オートロックを解除する。ドアを開ける。橋本環奈似の美少女がいきなり抱きついてきてディープキスを迫ってくる。大当たりだ。今までの彼女よりも美少女が来てしまった。夏らしいさわやかな花がらのワンピース。残念ながらニーソではないがそんなことどうでもいい。女の子がお店に到着連絡をし、再び抱き合ってベロチュー。混乱してきて童貞並みにどうすればいいかわからなくなってしまった。今までの彼女は何だったんだろう。シャワーを浴びベッドに向かう。
ベッドの上で裸で抱き合って橋本環奈似の美少女ベロチュー。発射なしでももう充分満足してしまっている。やばい、彼女つくるより全然良くないか、これ。アップル並みのユーザーエクスペリエンスだ。店長はジョブスなのか?彼女の脇腹をスワイプし、綺麗な桜色のホームボタンの外周をなぞり、口に含む。実物の桜色を目にするなんて初めてある。彼女は僕の性体験をことごとくiOSアップデートしていく。「Hey,Siri.ノーハンドでしてくれ」僕が指示を出すとSiriは嬉しそうに僕のLightningコネクタを口に加える。やがて彼女は僕の足を持ち上げ僕のSiriをむき出しにし、舐め始める。彼女にも舐められたこと無いのに!童貞みたいな声を上げる。僕のセキュリティ・ホール突いた彼女は再びLightningコネクタを咥えroot権限の奪取を試みる。今度は手でしごきながらだ。やがて僕は橋本環奈の口内にめいっぱいcoreをdumpした。dumpが終わっても彼女はアタックし続けた。彼女はまた僕の性体験をiOSアップデートしていった。コアダンプを口にしたまま動かなくなる彼女。「あ、ティッシュいるよね」頷く彼女。デバッグは追加料金である。
まだ時間はある。再び橋本環奈を抱き寄せベロチュー。何これ、すごい幸せ。ひとしきり腕の中で彼女の体温を感じ、再び咥えてもらう。「こんな短時間に2回とかしたことないんだよね」「がんばれ♡がんばれ♡」急に伊藤ライフがやってきた。口の中柔らかいし上手い。今度はスマタだ。ローションを塗り彼女の股間に当てる。幼い顔からは想像できない大きめの赤貝。へイラッシャイ!築地久兵衛感覚で赤貝を人差し指と中指で覆い握る。あっ、彼女全然濡れてない。仕事でやってるんだなということに気付くもそれ以上の体験がそこにはあり、もはやどうでもいい事であった。なので気兼ねなく思いっきりサービスしてもらおう。その後、上になってもらって下からちっぱいをながめたり自分が上になって赤貝に擦りつけたりした後に口で。こんな短時間で2発目はちょっと厳しかったが、どうしてそこでやめるんだ、そこで!!もう少し頑張ってみろよ!大丈夫かな、あはぁ~ん。不安になってくるでしょ?ならば、一所懸命、一つの所に命を懸ける!そうだ!今ここを生きていけば、みんなイキイキするぞ!!「もっと熱くなれよ!」僕は心で叫びなから文字通りイキイキした。
再びシャワーを浴びて服を着る。別れ際に抱き合い、またキスし、彼女を送り出す。とても1.5万円とは思えない満足度であった。酒を飲み、fue先生の「フエラハメりっぷす」(巻頭作品がアンドロイドがひたすら口でしてくれるもの)で抜いて寝た。月一回くらいだったらいいかも。
枕には橋本環奈の匂いが染み付いていた。「彼女いたら呼べないな、これ。」
なんだこの長文。
主 文
原判決を破棄する。
右罰金を完納することができないときは、金一、五〇〇円を一日に換算
理 由
本件控訴の趣意は、東京高等検察庁検察官検事鈴木信男が差し出した東京地方検
察庁検察官検事伊藤栄樹作成名義の控訴趣意書に記載してあるとおりであるから、
控訴趣意第一点(訴訟手続の法令違反ないし事実誤認の主張)について
所論は、原判決が、被告人に対する本件酒酔い運転の公訴事実につき、警察官に
よつて採取された被告人の本件尿は、被告人に対し偽計を用いこれを錯誤に陥し入
れて採取したと同様のものであり、かつ尿中のアルコール度を検査する真意を告知
すれば被告人がこれに応じないことが推認される場合であるのに、令状なくして採
取したことは、憲法三五条、刑訴法二二二条(原判決は二一三条と記載している
が、これは明らかな誤記と認められる。)、二二五条または二一八条等の定める令
状主義の原則を潜脱し、憲法三一条、刑訴法一条の要求する適正手続にも違反する
ものであるから、右尿は事実認定の証拠としては使用できないものであり、右尿中
に含有するアルコールの程度の鑑定結果を記載した鑑定書も、右尿と同じく事実認
定の証拠とはなしえないものと判断し、結局被告人が酒に酔いまたは酒気を帯び
て、身体に呼気一リットルにつき〇・二五ミリグラム以上のアルコールを保有する
状態にあった事実が認められないとして、無罪の言渡しをしたのは、憲法、刑訴法
の解釈を誤って採証演則に関する訴訟手続の法令違反をおかし、ひいては事実を誤
認したものであつて、これが判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、破棄を
免れないと主張する。
そこでまず、本件において問題となる尿の採取及び鑑定の各過程について検討す
るに、原審証人A、同B、同C、同Dの各供述、当審証人E、同Bの各供述、D作
成の鑑定書二通、司法警察員作成の鑑定嘱託書謄本、当審において取調べた被疑者
留置規則実施要綱(昭和四二年五月二五日通達甲三号)謄本、警視庁刑事部刑事管
理課長作成の「玉川警察署被疑者留置運営内規の報告受理について」と題する書
面、警視庁玉川警察署長作成の「玉川警察署被疑者留置運営内規の送付について」
と題する書面、「玉川警察署被疑者留置運営内規の制定について」と題する書面
(右内規を含む)謄本を総合すれば、次の事実が認められる。即ち、被告人は、昭
和四七年九月一九日午前〇時四四分ごろ、東京都世田谷区ab丁目c番d号付近道
路上において、酒酔い運転の現行犯人として警察官に逮捕されたものであるとこ
ろ、酒酔いの事実を否認し、呼気検査に応ぜず、玉川警察署に連行されてからも右
検査を拒否していたが、同日午前二時五分ごろ同署留置場に入監させられたこと、
当時玉川警察署留置場における夜間の留置人の処遇は、被疑者留置規則(昭和三二
年国家公安委員会規則四号)、前記被疑者留置規則実施要綱および玉川警察署被疑
者留置運営内規に則って行われていたが、留置人の夜間の用便に際しての処置につ
いて、右要綱第三、看守の項の「13看守者の遵守事項」中の(15)には、「夜
間、留置人が不時に疾病、用便等を訴えたときの留置人の出房は、必ず幹部の指揮
を受け、他の看守者立会いのうえ措置しなければならない。」と規定されており、
また右内規二一条には、「看守者は夜間宿直体制に入つてからの留置人の起床、就
寝、用便、急病等に際し、必ず宿直幹部の立会いを求めてこれらを行う」べき旨定
められていたこと、なお同署留置場の房内には便所が設けられていなかったこと、
当夜同署留置場において看守勤務についていたB巡査は、被告人の入房に先立ち身
体検査をした際、入房後不時に被告人から用便の申出があると宿直幹部の立会が必
要となるので、入房前に用便をさせておくのがよいと考え、被告人に対し「トイレ
に行くか」と尋ねたものの、被告人が「行きたくない」と答えたので、午前二時二
〇分ごろ同人を入房させたところ、ほどなく被告人から用便の申立があったので、
前記諸規定に則り宿直幹部の立会を求めるため、留置場備付けのインターホンで宿
直事務室に連絡をしたが、応答がなくその立会が得られなかつたため、被告人に房
内で用便をさせようと考え、以前留置人が病気のときに使用したおまる様の便器が
たまたま留置場横の物入れに保管されていたので、その便器を出して被告人に渡
し、立会幹部が来られないからこの便器の中に尿をしてくれと告げたところ、被告
人は午前二時三〇分ころ房内において右便器内に排尿し、排尿した右便器をBに引
き渡したこと、当夜内勤宿直主任(宿直幹部)として勤務していた警察官Eは、前
記のように玉川署に連行されて来た被告人の取調べに当り、これを終えて午前二時
二〇分ごろ事務室に戻つた際、警視庁から神田警察署管内の派出所に爆弾が投入さ
れたので庁舎等を警戒するようにとの緊急電話指令が入つていたことを知り、これ
に基づき警察署庁舎および付属施設周辺の警備を実施すべく、直ちに宿直警察官を
指揮して庁舎周辺等を巡視点検させ、自らもその巡視に出て午前二時四〇分ころ事
務室に戻ったなどの事情があつたため、同人をはじめ他の宿直幹部はいずれもBの
前記インターホンによる連絡を知らず、被告人の用便の立会に行けなかつた状況に
あったこと、前記B巡査は、被告人を入監させる際、交通係のF巡査より、被告人
が酒酔い運転の容疑で逮捕され入監する者でアルコール度の検知が未了であること
を告げられ、被告人から用便の訴えがあつたときは小便をとつておいてくれとの依
頼を受けていたので、被告人の排泄する尿がアルコール度を検定する資料に用いら
れることはその予想するところであつたが、前記のように被告人が用便を訴えた際
には、右のことには触れず、前記のとおりのことのみを申し向けて便器を差し入れ
たこと、そして同巡査は、F巡査より前記の依頼を受けていたため、被告人から受
け取つた右便器内の尿を便所に流すことをせず、便器はふたをして看守室に置き保
存したこと、そして同日午前五時ころ宿直事務室に尿をとつてあるから取りに来る
ようにと連絡したところ、同署交通係のC巡査が牛乳の空瓶を持つて留置場に来
て、便器内にあつた尿の全量を右牛乳瓶に移し入れ、その口をビニ―ル製の袋で塞
ぎ輪ゴムでとめて持帰り、同日午前九時三〇分ころ前記F巡査とともに右牛乳瓶入
り尿及び鑑定嘱託書を携行して玉川警察署を出発し、警視庁科学検査所に行つて係
官にこれを渡し鑑定を依頼したこと、同検査所第二化学科主事D作成の昭和四七年
九月二八日付鑑定書は右牛乳瓶入り尿(容量約五〇ミリリツトル)を資料としてし
た鑑定結果を記載したものであること、その他被告人は、現行犯逮捕された現場で
警察官がうがい用に差し出した水筒の水を飲み干したほか、玉川警察署に到着後調
室内洗面所において湯のみ茶碗に四杯の水を飲み、その後取調を受けている途中に
捜査係の室にある便所に排尿に行き、これを終ってのち水道の蛇口に口をつけて若
干の水を飲んだこと、以上の各事実を認めることができる。被告人は、原審並びに
当審公判においてB巡査から便器を差し入れられたことは記憶にあるが、その中に
排尿をした記憶はないと供述し、弁護人は、入監前に大量に水を飲んだ被告人の排
尿の量がわずかに五〇ミリリツトルであることはあり得ないことであり、被告人の
供述をも総合して考えれば、本件において鑑定の資料とされた尿が被告人の尿であ
るということはすこぶる疑わしいというが、被告人の原審並びに当審におけるこの
点に関する各供述は、その他の証拠と対比して到底信用できないものであり、入監
前に相当量の水を飲んだ事実があつても、前記のとおり入監前に一度捜査係の室の
便所において相当量の排尿をしたことが認められる本件の場合においては、入監後
二五分位を経過した時点における排尿の量が五〇ミリリツトルであつても、異とす
るには足りないと考えられるのであるから、弁護人の所論は容れることができな
い。弁護人は、また、F巡査からの依頼により被告人の尿を保存することを予定し
ていたそのB巡査が被告人の用便に際し宿直幹部の立会を求めたということは、あ
り得ないことである旨、及び、そもそも前記被疑者留置規則実施要綱及び玉川警察
署被疑者留置内規中の留置人の夜間の用便に関する規定は、いずれも、刑訴法に根
拠を有しない違法な規定であるのみならず、憲法の保障する基本的人権、特に生理
に関する自由を侵害するものである旨論ずるが、右要綱及び内規は、国家公安委員
会が警察法五条一、二項、同法施行令一三条に基づき逮捕された被疑者の留置を適
正に行うため必要とする事項を定めた昭和三二年国家公安委員会規則四号、被疑者
留置規則等に根拠を有するものであつて、それらの中の夜間の用便等につき宿直幹
部の指示を受けることまたはその立会を要する旨の定めは、事故防止の見地からす
るそれなりの合理的理由のある規定であつて、疾病等でやむを得ない者については
房内で便器を使用させることができる旨の規定(要綱13の(16))があること
に徴すれば、本件のように宿直幹部の立会が得られない場合に応急措置として房内
において便器を使用することを禁ずる趣旨のものとも解せられないのであるから、
その規定自体は、人の生理の自由を特別に侵害するものとはいえず、これを違法、
またB巡査は、留置人の夜間の用便については宿直幹部の立会を要する定めにな
つているため、一応形式的に宿直事務室に連絡を取つたとみられるのであつて、F
巡査よりあらかじめ被告人の尿を採取保存することを依頼せられていたにかかわら
ず、宿直事務室に連絡したことを架空の全くの虚構のことであるといわなければな
らない理由はないのであるから、叙上の点に関する弁護人の所論もまた容れること
はできない。
そこで、以上の事実関係を前提として、本件尿の採取行為の適法性及びD鑑定書
の証拠能力の有無について考えてみるに、被告人が現行犯逮捕の現場においても、
玉川警察署に連行されたのちにおいてもその呼気検査を拒否し続けていたことは前
段認定のとおりであるが、前段認定のとおりの尿の採取経過によつてみれば、本件
尿の採取は、酒酔い運転の罪の容疑によつて身柄を拘束されていた被告人が、自然
的生理現象として尿意をもよおした結果、自ら排尿の申出をしたうえ、看守係巡査
が房内に差し入れた便器内に任意に排尿し、これを任意に右巡査に引渡したことに
帰するものであつて、この採取行為を違法というべき理由を発見することはできな
い。原判決は、立会の幹部が来られないというのは単なる口実であるといい、本件
尿は、偽計を用い被告人を錯誤に陥し入れて採取したのと同様であるとするが、立
会の幹部が来られないということが単なる口実ではなかつたことは、前段認定のと
おりであるばかりでなく、被告人が尿意をもよおして排尿を申し出て排尿した尿で
あることは、右のことの如何にかかわらず動かし難い事実である。もつとも、看守
係のB巡査が、被告人の尿がその中に含まれているアルコール度検出のための資料
とされることを知りながら、そのことを告げないで便器を差し入れたことは前段認
定のとおりであり、原判決も、被告人の原審公判廷における供述を根拠として、
「被告人は自己の尿中にあるアルコールの程度を検査する意図であることを知った
ならば、尿の排泄を断念するか、あるいは排泄した尿を任意に捜査官に引き渡さな
かつたものと推認できる」とし、右の点においても被告人を錯誤に陥し入れたこと
になるものとしていると解せられるが、本件被告人のように、酒酔い運転の罪の容
疑によつて身柄を拘束されている被疑者が自然的生理現象の結果として自ら排尿の
申出をして排泄した尿を採取するような場合、法律上いわゆる黙秘権が保障されて
いる被疑者本人の供述を求める場合とは異なり、右尿をアルコール度検査の資料と
することを被疑者に告知してその同意を求める義務が捜査官にあるとは解せられな
いのであるから、右のことを告知して同意を求めなかつたことをもつてその採取行
為を違法とする理由の一とすることはに賛同できない。特に本件被告人の場合は、
容疑事実を否認していたことは別としても、呼気検査を拒否したばかりか、逮捕後
大量の水を飲み体内のアルコール度の稀薄化を意図していたと認められるのである
弁護人は、本件の場合、被告人は、その尿が便所に捨でられると思つていたから
便器に排尿したもので、これを検査に使用するといえば当然に反対することが予想
された場合であるから、便所に捨てるというような道徳上または常識上承認される
処置を完了するまでは、被告人が排泄した尿は、排泄着たる被告人の占有に属した
物であり、これについて適法な法的手続をとらず、勝手に検査の用に供した措置は
違法であると論ずるが、各人がその自宅の便所以外の場所において日常排泄する尿
の如きものは、特段の意思表示のない以上は、排泄の瞬間にこれに対する権利を放
棄する意思をもつて排泄するというのが社会常識上も首肯できる解釈であり、被告
人の場合もその例外ではなかつたと認むべきてあるから、排泄後の占有が依然とし
て被告人にあつたことを前提とする所論は、採ることができない。
これを現行刑訴法上の立場から考えても、理論的には、裁判官の発する鑑定処分
許可状・差押令状を得てこれを採取することその他の方法が考えられないではない
としても、刑訴法二一八条二項が「身体の拘束を受けている被疑者の指紋若しくは
足型を採取し、身長若しくは体重を測定し、又は写真を撮影するには、被疑者を裸
にしない限り、前項の令状によることを要しない。」と規定していることとの対比
からいつても、本件の場合のように、被疑者が自ら排泄した尿をそのまま採取した
だけでその身体を毀損するなどのことの全くないものは、むしろ右二一八条二項に
列挙する各行為と同列に考えるのが相当である。その他、酒気帯び状態ないしは酒
酔い状態の有無は、他の徴憑によつてこれを判定することが不可能でない場合にお
いても、できる限り科学的検査の方法によつて明らかにされることが望ましいとこ
ろ、尿はその性質上飲酒後の時間の経過とともにアルコールの含有量を漸減して行
くものであつて、飲酒後なるべく早い時間に採取される必要性、緊急性がある<要
旨>ことも、考慮に値いしないことではなく、上述のところを彼此総合すれば、本件
のように、酒酔い運転の罪の</要旨>容疑により身柄を拘束されている被疑者が、自
然的生理現象の結果として自ら排尿方を申し出て担当看守者が房内に差し入れた便
器内に排尿した場合に、担当看守者が尿中のアルコール度を検定する資料とする意
図をもつて右便器内の尿を保存採取することは、たとえ右担当看守者が房内に便器
を差し入れ被疑者をしてこれに排尿させる際当該尿を右検定の資料とする意図があ
ることを告知しなかつた場合であつても、憲法及び刑訴法の規定する令状主義の原
則及び適正手続に違反する無効の証拠収集であるということはできない(原判決が
引用する仙台高等裁判所の判決は、採血に関するものであり、本件とは事案を異に
し、適切ではない。)。
そうとすれば、本件において、前記B巡査が便器内に保存したうえ、C巡査が牛
乳空瓶に移し入れて警視庁科学検査所に持参した尿は、これを証拠として使用でき
ないという理はないのであり、右尿中のアルコール度を鑑定したD作成の鑑定書
も、その作成者であるDが原審公判廷において証人として尋問をうけ真正に作成し
たものであることを供述している以上、その証拠能力において欠けるところはない
というべきである。そして右鑑定書によれば、右尿中には一ミリリツトルについて
一・〇二ミリグラムのアルコールが含有されており、これを血液アルコール濃度に
換算すると、血液一ミリリツトル中のアルコール含有量が〇・七八ミリグラムとな
ることが認められるのであるから、右鑑定書は本件酒酔い運転の公訴事実の証明に
欠くことのできない証拠であるというべきである。とすれば、右鑑定書を事実認定
の証拠とはなしえないものとした原判決には、訴訟手続の法令違反があり、これが
以上説示のとおり、論旨は既に右の点において理由があり、原判決は破棄を免れ
ないので、控訴趣意第二点、事実誤認の主張)については判断を省略し、刑訴法三
九七条一項、三七九条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書に従つて更に次の
とおり自判する。
(罪となるべき事実)
伊藤計劃以後とは何か?
http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20140323/1395596751
藤田直哉はこのブログの中で、伊藤計劃が自らの死を利用し、死後に作動するプログラムとして『屍者の帝国』という小説を構想したという考えを披露しています。
伊藤計劃が皮肉を込めて描き、死後にまで作動する「悪ふざけ」のプログラムを残し、そして「悪ふざけ/本気」としてそれを実行する/せざるをえない、この社会そのものを相対化するプロジェクトであるのだと、ぼくは考えています。そこで必要なのは、きっと怒りではなく、(冷めた)笑いの共有なのではないかと思います。
そして、死人を利用する資本主義の話である。これが、自身の「死」の物語をどう利用されるか理解し、それを用いてプロジェクトを用いた、伊藤計劃という作家の壮絶なところ。感情や感動、物語に冷淡な目を向けていた。二次創作的な模倣が「感動」を生み出すことを理解して冷めていた。でも、自身の死という、物語ではない、絶対性の高いものを、そういう物語として利用した。そしてその「死」の物語を消費する人をあざ笑うかのようないたずらを仕組んだ。
その結果、伊藤計劃を用いたビジネスもまた、伊藤計劃の仕掛けたいたずらの延長のようになった。この皮肉な仕掛けこそが、伊藤計劃という作家の最大のプロジェクト。
所詮は商業的レッテルでしょ、とか、故人を商売に利用しているんでしょ、という批判があるのはよくわかる。実際そういう側面はあるが、ぼくは、伊藤計劃というのはそれを理解して、わざと仕組んだと解釈する立場。ある意味で、死を贈与した。それがSF界や出版社に利益をもたらしたことは否定できない。その代わり、ぼくらは贈与だけではなく、このプロジェクトという呪いを受けるようになってしまった。「伊藤計劃の言語」みたいなものが、解釈や、資本の中に残って蔓延している状況を作られてしまった。
僕は、この考えというものはとてもグロテスクで不快なものだと思いますが、まあ藤田直哉がそういった考えを持つこと自体は否定しません。人の死に物語を求めてしまうのは、ある程度は仕方のないことではあります。
伊藤計劃は、自らが死ぬことによって作動するプログラムとして『屍者の帝国』を構想した。僕はこの考えにまったく賛同できませんが、藤田直哉の考えが間違っていると断定することもできません。伊藤計劃はもう死んでいて、その真偽を問うことはできないのですから。
しかしながら、藤田直哉はこの妄想を正当化するために、円城塔が自分と同じ見解に立っているという嘘をつきました。
藤田直哉がこのブログに掲載している、「週刊読書人に寄稿した『屍者の帝国』評」に次のような文があります。
悪質な冗談はこれだけではない。伊藤計劃はそのような屍者を労働させるプロローグを、死病に苛まれながら、書いた。まるで、自身の「死」がどう利用され、「物語化=伝説化」されるか理解したうえで、チェシャ猫のような微笑を死後に残そうとしたような「冗談」を伊藤は遺した。それを受ける円城も、あくまで本作が死後に駆動し続けることを見越した悪ふざけのようなプロジェクトとして理解し、そう書かれているからこそ執筆を引き受けた旨をインタビューで答えている。悪ふざけを受けつぐ粋な心こそが、プロジェクトを先に進めるエンジンとなった。
ここで、藤田直哉は「それを受ける円城も、あくまで本作が死後に駆動し続けることを見越した悪ふざけのようなプロジェクトとして理解し、そう書かれているからこそ執筆を引き受けた旨をインタビューで答えている」と述べていますが、そのような事実はありません。藤田直哉は自分の妄想を正当化するために、円城塔の言葉をねじ曲げています。
円城塔は「『屍者の帝国』あとがきに代えて」で次のように述べています。
http://www.kawade.co.jp/empire/
伊藤計劃は『屍者の帝国』を自分の全てを語り切る畢生の作、最後の作品として構想したわけではなく、次へと続く切り替えの場として、むしろ軽い読み物として考えていたはずです。
ここで円城塔は、伊藤計劃が『屍者の帝国』を自身の最後の作品として構想していた、という考えをはっきりと否定しています。「あくまで本作が死後に駆動し続けることを見越した悪ふざけのようなプロジェクトとして理解」などしていません。
確かに『屍者の帝国』が発表されたことのインタビューで、「悪ふざけは続けよう」といった言葉を円城塔は語っています。当時のインタビューが乗っていたサイトはもう削除されているため、一部のみの引用となってしまいますが、一応載せておきましょう。
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1346917403/
「『死者が動く』話でなければ、やらなかった。当人が亡くなって、冗談のようであっても、誰かが引き受けなければならないだろうと思いました。
追悼というわけではなく、悪ふざけは続けようと」
「死者が動いてる話じゃなければ、やらなかったです。(中略)冗談の中の雰囲気で、中編ぐらいのボリュームで、死者が動く話。それで、当人は死んでしまう。“ええっ、(自分が)動かさないといけないのでは”と(笑い)。それが一番ですよ」
確かにここで円城塔は「『死者が動く』話でなければ、やらなかった」とは述べています。しかし、そのことが円城塔が「あくまで本作が死後に駆動し続けることを見越した悪ふざけのようなプロジェクトとして理解し、そう書かれているからこそ執筆を引き受けた」ことに繋がるとは思えません。先ほど引用したように、円城塔は伊藤計劃が『屍者の帝国』を自身の最後の作品として構想した、という考えを退けています。
確かに円城塔は、伊藤計劃の死によって中断された小説を書き継ぐ、という状況を『屍者の帝国』を書くにあたって利用しています。
しかし、『虐殺器官』で言葉による人間社会の崩壊を、『ハーモニー』で人間の意識自体の喪失を描いた伊藤計劃が、「死んでしまった人間を労働力とする」物語を構想した以上、その先へと進もうとする意図を読み取らずにいることはとても難しいのです。また、その脈絡を受け入れない限り、わたしが『屍者の帝国』の続きを書くという仕事を受ける意味はないとも考えました。なぜなら、『屍者の帝国』の続きを書くということはそのまま、「死者を働かせ続ける」作業となるに決まっているからです。偶然にも与えられたこの図式を最大限に活かすことが、わたしの作業目標になりました。
しかし、その図式は「偶然にも与えられた」ものでしかありません。伊藤計劃がこの状況を意図して作り上げたという考えは明示されていません。
円城塔は「『屍者の帝国』文庫本あとがき」でもこのように述べています(藤田直哉がブログを書いた後に発表された文章ですが)。
そもそも自分の死の可能性が確率として高まっている状態で、次回作は死者を労働力としている世界について書きます、と嬉々としている時点で人の悪さも極まっている。
ここでわたしは、伊藤計劃が自分の死を見越して、そのあとに展開するはずの「死者を素材として利用する世界」を書こうとしていたといいたいのではない。
まあ、とりあえず藤田直哉が自らの妄想を正当化するために円城塔の言葉をねじ曲げた、ということはご理解いただけたのではないかと思います。
藤田直哉は伊藤計劃の「計劃」というペンネームに無理に意味を求めようとしたことが原因で、このような妄想を抱いてしまったのではないかと僕は妄想してしまいます。ペンネームはペンネームです。伊藤計劃がプロジェクトという呪いをSF界にかけたなんていうのはただの被害妄想にしか思えません。
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やっつけで直した
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事故当日、やっつけで直した箇所が吹っ飛んだ
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衝撃で垂直尾翼も吹っ飛んだ
↓
垂直尾翼には油圧4系統すべてが通っていたので、油が全部流出した
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「油圧(ハイドロ)全部だめ」
↓
おしりの方向舵・昇降舵、大きい羽のスポイラ(揚力調整)・エルロン(補助翼、バルク(傾き)調整)などすべて操作不能
事故当時、日本航空はそれまでの半官半民の特殊会社体制から完全民営化へと移行する方針を決定していたが、本事故の影響による経営の悪化、安全体制や経営姿勢に対する社会からの批判を受けて、政府主導により抜本的な体制の刷新が行われた[31]。1985年12月、当時カネボウの会長だった伊藤淳二が日航副会長に就任(後に会長へ昇格)し、経営体質の改革や長年の懸案であった同社の労働組合問題の解決に取り組むとともに「絶対安全の確立」を新たな経営方針の一つとして掲げ、機付整備士制度の導入や技術研究所の設置などの施策が行われた[32]。
2006年4月24日、羽田空港整備地区に日本航空安全啓発センターが開設された[33]。同センターには本事故の残存機体の一部(後部圧力隔壁、垂直尾翼前側、後部胴体の一部、座席、フライトデータレコーダ、コックピットボイスレコーダなど)を含め、事故に関する資料が展示されている。社内向けの施設であるが一般にも公開されており、事前に申し込みをすれば見学することができる。なお、センター内は特別の場合を除き撮影禁止となっている。
747SRは日本航空がローンチカスタマーであったが、事故を受けて同型機は全て売却された。なお、スペースシャトル輸送機の改造ベースとしてJA8117を購入したNASAは受け取った機体の整備技術に敬意を表し、JALの整備部に表彰状を贈っている[34]。また、JA8118はボーイングが金属疲労試験機として購入した。
パンアメリカン航空845便離陸衝突事故 - ボーイング747、1971年。進入灯に接触し、4本の油圧配管のうち床下を走る3本を破断。ボーイング747初めての人身事故。内田幹樹は著書の中で、この事故後に適切な設計変更がされていれば123便の油圧喪失は防げたのではと語っている。
アメリカン航空96便貨物ドア破損事故 - DC-10、1972年。飛行中貨物扉が与圧に耐えられず脱落。急減圧により床下の操縦索を損傷。このときの機長は油圧のみで操縦する第3世代の機種に不安を抱いており、油圧喪失時の操縦を研究していた。
大韓航空機撃墜事件(大韓航空007便) - ボーイング747、1983年。INSの故障でソ連を領空侵犯しミサイルを発射される。ミサイルは尾翼に命中し操縦索や油圧系統を損傷し、急減圧が発生して緊急降下を試みたが墜落した。
ユナイテッド航空232便不時着事故 - ダグラスDC-10、1989年。本事故の教訓から油圧系統が全滅した場合の操縦方法を研究していたパイロットが搭乗していたため、着地は不完全であったものの空港への帰還に成功した。
アメリカン航空587便墜落事故 - エアバスA300-600R、2001年。離陸直後に、方向舵の過剰操作により垂直尾翼が脱落して墜落。乗客・乗員全員と地上にいた5人が死亡し、1人が負傷した。
チャイナエアライン611便空中分解事故 - ボーイング747、2002年。1980年に起こしたしりもち事故で修理していた胴体後部の外壁が、金属疲労で破壊され墜落した。
垂直尾翼がふっとんでもコントロールを失わない設計は可能なのか
それは実現されているのか
そうですね操縦システムや誘導に関するもの、整備に関するもの、機体強度に関するものなど色々あると思いますが例えば、機体に関してですが各翼に付いている昇降舵や方向舵の油圧系統は昔、全てつながったような1系統だった為に1ヶ所が破損した場合全ての機能がアウトになりましたが、現在では右と後の組、左と後の組、などの様に2重またはそれ以上にして1ヶ所が破損した場合でも他の系統で補える様にして万が一の時でも危険性を少なくする様な設計がされているようです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11130243796
→どういう配管からどういう配管になったのか図で見てみたい
政治資金の何か、一目性がなく、とても見づらいので適当に抜き出しておいた。
http://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seijishikin/reports/SF20121130.html
安倍 晋三 個750万 総1,558万
石破 茂 個30万 総530万
岡田 克也 個108万 総108万
小沢 一郎 個16,194万 総21,344万
平 将明 個7万 総863万
志位 和夫 みあたらず
山口 那津男 個44万 総44万
渡辺 喜美 個721万 総751万
H25年分
http://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seijishikin/reports/SG20141128.html
安倍 晋三 個1,343万 総2,253万
石破 茂 個222万 総332万
枝野 幸男 個0万 総0万
岡田 克也 個275万 総275万
小沢 一郎 個3,594万 総4,594万
平 将明 個19万 総847万
山口 那津男 個44万 総144万
渡邉 美樹 個0万 総2,250万
渡辺 喜美 個547万 総717万
ピックアップは適当である。この人がないというのであればフォークしてマージされたし。
でも、党全体でも6億→4億しかないし。
見方がよくわからないので、ここで抜き出したものが正鵠を得ているかは謎。
PDFも手書きをスキャンしているだけだし、初めてみた感想としては「なんじゃこりゃ。」
こういうのはどこかでオンブズマン的な人たちがクラウドソーシングとかで入力がんばってたりしないのかな?
データベースにしてくれていたら、平均値だとか最頻値だとかだして、異常値検定とかできると思うんだけど。
統計につかうにはもってこいだと思うのですが。
というか、支持者の住所がそのまま出ているのはよいのかな?
件の支持者の住所は詐欺などにそのままつかわれてしまい二次被害になってしまうのではないか。
逆に言えば、おとり捜査が日本でできた場合これほどよい釣り場はないのだが…