はてなキーワード: ポジティブシンキングとは
ポジティブシンキング! 行動は変えれないけど気持ちは変えれるから
バタフライエフェクト的なすぐには行動は変えれない
てかやはり不幸幸福ってのはバカにしてたけどうつ病になるから重要
ご主人 フラグを踏み その沼にはまっていく はまっていったら抜け出せない
布団パタパタ それはやるんだ ご主人
どうせ死ぬし じゃあ失敗の人生ってあるのかって言われるとない
質問の仕方によって答えが変わってくる
まあアレルギーないほうがいいよねとりあえず そういう人生のほがいいよね
いい思いをしたいか べつになくてもいいか って質問だと べつになくてもいいってなる
だけど どちらも選べるならどっちがいいかみたいな聞き方だとそりゃいい思いしたい
カビ カビ うおあああおおああ
なんで生きてるのかとか考えなくなった
劇的に寒い。
冬の便座は温かいに越したことはない。その方がいいに決まっている。
学業や仕事から離脱し、わざわざ氷のように冷たい物体に尻をべったりと押し当てに行くなど意味が分からない。
拷問と何が違うというのだろう。
まあ、こんなに不平不満をもらしている手前、私の職場の便座が温かいわけがない。
拷問と何が違うというのだろう。
なぜわざわざ「スピリチュアルな」と形容しなければならないバイト先にいるかといえば、理由はいろいろある。
遡れば十年近く前、大学卒業直前に父が突然亡くなり、それがトリガーで鬱になったとか……それが原因で何年も正規雇用でまともに働けていないとか……父が亡くなってから母の認知症が進み、家族のことを全員忘れてしまったとか……そういうあれこれで私の鬱も何年経ってもなかなか寛解せず……
まあ、人生いろいろある。
いろいろあって私は「スピリチュアルな」「バイト」をしている。
この増田のトピックとしてはさほど重要な話ではないので、詳細は省く。「スピリチュアルな」「バイト」にわざわざ就く経緯の説明としては、こんなもんでいいだろう。
バイト先はスピリチュアルグッズや、怪しいけど合法の、薬っぽいものなどを通信販売している会社だ。
あんなもん、どこの会社の、どんな奴が売ってんだよ、と皆さんも人生でちょっとは思ったこと、ありませんか?
私もそう思っていました。私のような人間が経営の一端を担っています。スピリチュアル業界の未来が心配。
ここまで読んでいただけたなら大抵の人が理解していることと思うが、私はスピリチュアルグッズも、怪しいけど合法の薬っぽいものもまあ小馬鹿にしている。
なぜ大して好きでもない商品を販売する職場で働けているのか。理由は二点ある。
一点目は、給料が良いのだ。
ちょっとExcelとWordが使えて、ちょっと正しい日本語が扱えるというだけで、随分と歓迎されている。私のような経歴ではなかなか巡り合えない、好待遇のアルバイトだと思う。
二点目は、働いている人の善さだ。
ここで言う「人の善さ」とは、スピリチュアルらしく開運オーラを持つ人だとか、いつも笑顔で縁を引き寄せる人だとか、そんな話ではない。
うちの会社に限った話かもしれないが、スピリチュアルグッズを取り扱っている会社にしては社長も社員も、全くスピリチュアルに傾倒していない。
ここからは憶測と、ちょっとした悪口になるが(ここまでも大概だが)、おそらく販売する側が正気でいないと、正気じゃない人間にまともに売り込めないのだと思う。
正気じゃない商品を正気じゃない人に親切に売りつけるには、正気でいなければならない。
ビジネスの考え方ってこうじゃないとな、とも改めて思える。
少々話が逸れたが、本題に入る。
スピリチュアルなバイト先は給料も良く、人も善いというのに、トイレの便座が冷たい。
わざわざ温かいオフィスを離れ、冷たい便座に尻を押し当てに行きたくない。何度も冷たい便座に座りたくない。
おかげで乏尿になってしまった。乾燥していてよく水分は摂る癖に……膀胱炎になったらとんだお笑い種だ。
スピリチュアルに携わっているくせに乏尿だの膀胱炎だの、代謝が悪そうな人間になってるの、可笑しくないですか?そうでもないか。
だが、最近冷たい便座に座る回数が減った。シフトを減らされたのだ。
薄々予想はしていた。三人いたバイトのうち一人が解雇され、もう一人は週三、週二、週一と見かける回数が日に日に減っていき、ある日とうとういなくなった。
しかし、私はシフトを減らされるのみで、なぜか解雇されなかった。おまけに会社はバイトを二人解雇したと同時に、正社員を数名雇っていた。
そうして念願叶って冷たい便座に座る回数が減り、また、それに応じて給料も減ることになった。
後者は全くもって望んでいなかった。本当に。
給料が減れば必然的に精神は不安定になる。鬱の非正規雇用者というのは、そういう生き物だ。
でも、鬱だろうがなんだろうが、人間は案外しぶとい。私は運命と精神疾患者に厳しい世間に抗うため、副業を探すことにした。
今のバイト先と兼業できて、同業じゃない、スピリチュアルとは無関係の、いいバイト先を……
と思いながら面接を受け続け、なぜか今よりも胡散臭い気配が漂う会社で副業をすることが確定した。
なんでだよ。普通、なんかこう、こういうときは起死回生の展開があるはずだろ……
でも、私は「起死回生の展開」なぞ存在しないことを知っている。なぜなら、私の人生だからだ。私の人生に、そんな展開は都合よく訪れない。
会社のドアもまあボロく、「チェンソーマンに出てくるボロいドアに似てるな、貼り紙はないけど」というのが会社の第一印象だった。
だが、そんな印象に反して面接をしてくれた社長は優しく気さくで、なかなか楽しい気分で面接ができた。オフィスワーク経験も活かせそうだったので、内定の連絡には二つ返事で承諾した。
オフィスのドアに貼り紙はなかった。だが、面接のとき見えなかったオフィスの壁には、大量の紙が貼ってあった。
壁の紙にはおそらく慶弔用と思われる筆ペンで
「論理的思考で世界を回す!」「社会人として自立を意識」「ポジティブシンキングが良い結果を生む!」
などと書いてあった。もっと書いてあったが、全く覚える気がないので、これ以上思い出せない。
「社会の嘘」が書いてあるな、と思った。
スピ会社でも思ったが、この会社でも「ここで聞いたことはすべて信じないことにしよう」と思った。
だが、待遇が良く、人が善いのはスピ会社と同じだ。オフィスワーク経験も活かせている。
いいんだ、これで……
温かい……
そう、温かかったのだ。便座が、温かい!
待遇が良く、人が善く、どうしようもなく胡散臭く、オフィスに出勤する度に、名札が渾名で書いてあるタイプの居酒屋に来た気分になるけど、というかこの会社、トイレにすら「社会の嘘」の紙が貼ってあるけど、そんなことはどうでもいい。
便座が、温かいのだ!
私は心底感動した。
便座が冷たいスピリチュアルなバイト先と、便座が温かいキショい居酒屋みたいなバイト先。
どっちも別に好きではない。正直目くそ鼻くそだが、真冬に便座が温かいことは、とんでもないアドバンテージだ!
今の時期だけはお前を愛することにする!
夏になったらどうなるか知らんが!しばらくよろしくな!
馬鹿というが、将来の死や最悪の可能性に心を囚われないことは一つの才能であり幸福に生きるために必要な能力だ
一方的に下に見ずにポジティブシンキングを訓練してみるのもありだと思うぞ
新入社員が入ってきた。
まず基本口角が上がっており楽しそう。
挨拶を全力で行う。うちの会社は、すれ違った人とは軽く挨拶しあう文化ではあるのだが、ちらっとすれ違っただけでも満面の笑みで全力でお疲れ様です!と言ってくれる。
リアクションがすごく大きい。大したことない説明でも喜んでくれるので教えてて楽しい。
仕事でタイマーを使う機会がある。彼はそのタイマーの音がよい、と言うのである。3秒前から鳴るタイプなのだが(ピ、ピ、ピ、ピー)、「始まるぞって感じがしてよい」とのこと(終わりのアラームなのだが)。
正直毎日使っててそんなことかけらも思ったことがなかった。彼は本物だな、と思った。
ある日、1時間くらいひたすらカッターで線を引く仕事をお願いしたときも、嫌な顔一つせずに「座禅みたいで楽しいです!」と黙って楽しそうにやってくれた。
他にも彼は散歩が好きらしく、ただ彼の家の周りは住宅地で何もないのに何を楽しみに散歩しているのかと聞いたところ、「家が綺麗だなー」と思って、とのこと。
私が覚えているエピソードはこんなもんだが、常に楽しそうな彼は見ていてこちらも楽しくなるのでとても好感を持っている。あと単純に新人の振る舞いとしてなんと素晴らしいのか。見習いたい。
さて、世界名作劇場「ポリアンナ物語」や、原作小説「少女パレアナ」をご存知だろうか。
赤毛のアンのような頃の作品(恐らく)で、ポリアンナ(パレアナ)という名の少女が、色々と困難な状況に置かれるも、「よかった探し」と呼ぶハイパーポジティブシンキングで乗り越えていく作品である。
例えば、馬車でお迎えに来てくれたのが叔母でなくメイドだった時は、「それでは私は叔母に会う楽しみがまだ残っている」と言い、叔母に与えられた部屋が鏡のない屋根裏部屋だったときは、「じゃあ私のソバカス顔を見なくて済むわ」と言う、とかそういう「よかった探し」をするのである。
個人的には、ポリアンナの後ろ向きなよかった探しは、あまり健康的ではないよな、と思う。現状よりも悲惨な状況を想像して安心するのは、健全ではないと思う。一時の慰めにはなるため必要なことではあろうが、ブラックな働き方を肯定してしまうような思考回路だろう。
実際、「ポリアンナ症候群」という言葉があるらしい。直面した問題に含まれる微細な良い面だけを見て負の側面から目を逸らすことにより、現実逃避的な自己満足に陥る心的症状を指す(Wikipediaより)、とのこと。
で、私はその新人の彼に仕事を教えながら、彼はまるでポリアンナみたいだな、と思ったのである。
彼ならば、屋根裏部屋で暮らすことになっても、「鏡はなくても天井のシミがきれい」とか言って楽しむだろう。
ただ、20代の同僚にこの話をしたところ、誰もポリアンナを知らなかった。
まあね、昔の作品だしね。私も家にたまたま小説があったから知ってたけど、そうじゃなきゃ知らなかったと思うしね。おじさまならポリアンナをしっているかしら。
子供が二人いるが上の子が発達障害だ(検査済、療育通うが手帳持ちではない)
家の場合は3歳の時に保育園から町の療育センター行けと言われ何回か通った後に医師による診察を経て発達障害と診断された。その後大きい病院に半年周期で経過観察しつつ普通に保育園に通っているが来年は小学校で正直どうなるかは未定。
モンテッソーリ教育とかしている園だったらすんなり受け入れられるだろうが大半の幼保園は難色を示してくる。特に人員が少なかったりする園は遠回しじゃない言い方で転園を進めてきたりする。儲けが変わらないので言うこと聞く手のかからない子を多く受け持ちたいのだと思う。下の子も発達障害では無いが身体の成長が少し遅いため上の子とは別の園に半ば強制的に変更させられた。
他の園での対応とか見ていると上の子が今も通っている保育園が異常だとなんとなく思うようになったが、上の子の診断を受けた時は正直絶望した。幸い妻がアンミカ並みのポジティブシンキングなのでそれに甘えたのと新型コロナで在宅が増えて嫌な思いをあんまりしなくなった。公費で療育通っているがやはりプロは上手で傍目から見た良い子ではないが一般的な子供になったと自分では思っている。ただ最終的な判断は医師に任せたい。
発達障害の子供の親は大概幼保園の先生に冷たい仕打ちを受けると思うし診断出た時は無茶苦茶自分を呪うと思うが、実際月2くらいの支援センター通いが数か月続いた後に市区町村の決まった流れに乗って本格的な支援を受けられるようになるので少しの間だけ頑張れば住んでる街に助けてもらえます。なので知識のない友人やネットで検索するより役所の窓口で「幼稚園(保育園)で発達障害じゃないかって言われたんですけど」って言った方が早いよ。どうせ園も紹介状みたいなの書いてくれるからスムーズよ。
一番駄目なのは「ウチの子は健常者だ!」って思いこんで色んな園回って押し付けて普通の生活させようとすること。支援センターと医師の診断結果出た後でもそれをすると確実に子供の将来は暗くなるよ。
4月30日、同居する親が体調を崩した。
なんでも、親の勤務先に、家族が新型コロナウィルスになった人物(要するに濃厚接触者)がいたらしく、その人と会話したらしい。
その人物もかなり体調が悪そうだったらしいが、その後親も同様に体調を崩した。
家にあった抗原検査キットを使うと、すぐに新型コロナウィルス陽性であることが判明した。すぐに自宅別室への隔離措置をとることとなった。
親は案内が来るごとに必ずワクチンを接種する(この時点で4回)など、かなり感染症対策に気を使っていたからか、幸い重症化もせず数日後には回復した。
私の勤務先でも、私とデスクで隣り合う両者が風邪気味だった。また、ここ最近忙しい状況だった。
だからか、4/28の夕方から少しのどが痛く、日曜日微熱があり倦怠感を感じた。
トローチを連続してなめ続け、市販の風邪薬を服用するとすぐに回復した。
だが、そのときの体調がどうだろうが、その定義に該当する以上、私は濃厚接触者になってしまったことには変わりない。
抗原検査キットに残りがあったので、親の勧めを受け私も検査した。しかし陰性の判定だった。季節の変わり目ということもあり、私も風邪気味だったのかもしれない。
私もワクチンは案内が来るたびに毎回接種していたからか、ここまでの3年間ずっとノーマスクandノー自粛だったものの新型コロナウィルスに感染することはなかった。
5月1日は普通に出勤できそうな体調ではあったが、自己判断で出勤すると勤務先に迷惑だろうから、念のため勤務先に電話した。
すると、うれしいことに5/1,2は出勤しないよう指示が出た。
これを理由とした休暇制度があるらしく、次の出勤日(5/8)に休暇届を出せば、欠勤にはならず給与や昇給、年次休暇の日数などには一切影響しないという。
こうして私は、意外なところで9連休を手にしたのであった。
どんなときもポジティブシンキングでいこうと思い、親に感謝するとともに、早い回復を祈ることにした。
もしこれで親になにかあったら私一人で家族を養わないといけなくなる。家族が安心していられるのは親が健康でいるからだ。
夜更かししてデレマスU149のアニメを見た。勤務日の朝は早く睡眠時間を確保するため、2時間ほど寝てから放送時間直前に起きてみるのが普通だが、今回だけはそのまま起きていた。
小春ちゃん(ちなみに彼女はアニメ放送半年以上前からの担当で、すでに180万人以上のファンを獲得しています)、仁奈ちゃん、ありすちゃんだけでなくみんな可愛すぎる。
この子たちのせいで貴重な精子を何億個無駄にしたかわからない。
できるなら毎晩交代でこの子たちと一緒に風呂に入って一緒のベッドで寝たい。髪の匂いを嗅ぎたい。
抱き枕やタオル、フルグラフィックTシャツが出たらもちろん買うだろう。
引き続き抗原検査は陰性のままで変わらないので、電車に乗ってカラオケに行った。
この前CDを買った、Vast world, Brand New!など20曲程度を歌唱。
グッズを買いあさったところ、イラスト入り紙袋もくれた(有料化が義務付けられたレジ袋にはあたらないらしい)。せっかくなのでそれを肩にかけて帰宅。
5/2-3の両日で抗原検査が陰性だったため、こちらは自宅待機の解除ができるようになった。ただ全身ダルい。
両親ともに、家の中を動き回れる程度には体調も回復した(感染者のため自宅療養の解除はできないが)。
私は行きたいところもあまりなく、ベッドに横たわるだけで何日も過ぎていった。
ある日、さやかはいつものようにSNSをスクロールしていた。ポジティブな投稿には「いいね」をし、ネガティブなものにはすぐにブロックをしていた。しかし、今日は彼女の目に異変があった。彼女がブロックしたはずのアカウントから投稿が流れてきたのだ。
さやかは驚いたが、その投稿を見て驚きは更に深まった。なんと、その投稿が現実に起きていたのだ。例えば、彼女がブロックした元カレがSNSで結婚を報告していた。彼女はその時思った。「私がブロックしても、現実には消えなかったのね」と。
そこで、彼女は試しに、「私は神様」と投稿した。すると、その瞬間、彼女が神様であることを示すような出来事が起こった。突然、彼女が神様であると信じる人々から多くのリプライが来たのだ。
しかし、さやかは心の中で複雑な思いを抱いていた。彼女が神様であることは嘘であり、それを信じる人々は愚かであると思っていた。それでも、彼女はこの状況を利用して、偶像崇拝者たちを騙すことに決めたのだった。
「ねえさやか、何見てるの?」
「ああ、いやなんでもないよ。ちょっとSNSをやってるだけ。」
このとき、さやかに悪魔が囁いた。(そうだ、ちょうどいいから、このあかねを実験台にして、こいつが蛇に騙される偶像崇拝者なのか試してやれ)
「え?なに?」
「あかねはキリスト教徒だよね?様々な神々が人間と戦うアニメがあったら、どっちを応援する?」
この問いの答えは、さやかが思うに、人間である。というのもここで出てくる神々というのは、おそらく神の名を騙る偶像であり、たとえキリストであろうと偶像に代わりはない。神の計画をあかねもさやかも知るはずがないし、それどころか、神が唯一であり善であるという以外はわからないのが普通だからだ。
これでさやかは明確にわかった。蛇に制されたあかねのような偶像崇拝者たちというのは、つまりこういうことなのだ。蛇は時として薬であるが、それは進化によって悪魔的鳴き声を手に入れた野獣のごときことである。
「でも、神々という偶像を応援すると言ったじゃない。神は一つであり、偶像になることはないと思うけど。」
「そうだけど、私はただ楽しむために言っただけだよ。偶像崇拝なんて信じていないし。」
あかねはさやかの疑いを否定したが、さやかはまだ納得していなかった。
「でも、あかね、私たちが見ているものは現実とは違うかもしれないんだよ。私たちは情報をコントロールしているかもしれないし、私自身が神だと思っているんだ。」
「なんてこった。そんなことが本当に起こりうるの?」
あかねは驚いていた。さやかの言葉は現実にはありえないことを示唆していた。
「でも、それは、ただの妄想じゃない?そんなことができたら、世界はどうなるの?」
あかねは疑問を持ちながらも、興味深そうに聞いていた。
「あなただけに言うわ。」とさやかは話し始める。「私は蛇よ。私自身は本当は自分を神だなどと思ってないの。神は唯一であり、善である、という以外のことは誰もわからないからね。でも、私がインフルエンサーだってあなたは知ってるでしょう?推しだのなんだの言ってあいつらは崇拝してるのよ私を。そういう連中は地の論理で進化することしかできない獣なので、偶像崇拝の獣は獣らしく蛇に操られる運命であると考えるようになったわ」
あかねは驚きを隠せなかった。「さやか、それはどういうこと?蛇に操られる運命って?」
「私は、自分がコントロールできるものだけを受け入れ、それ以外をブロックすることで、自分の思考が現実に影響すると信じているの。そして、その思考をコントロールするのが蛇なの。蛇については聖書にも出てくるし、古代から様々な文化で神聖視されてきた生き物よ。」
「でも、それって、ただの自己暗示じゃないの?」
「違うわ。私たちは思考によって現実を創造することができるの。引き寄せの法則って聞いたことあるでしょう?私たちの思考が宇宙にエネルギーとして放たれ、それが現実に反映されるっていう考え方よ。だから、私は自分の思考をコントロールすることで、現実をコントロールすることができるの。」
あかねは、さやかの言葉に深く考え込んだ。自分もさやかと同じように、自分の信じることが現実に影響を与えると信じていた。でも、それって本当に正しいことなのだろうか?
あかねは言う。「引き寄せの法則...それこそが獣の論理だと思うのよ。」
「えっ、どういうこと?」とさやかは訊く。
「私たちはただの人間で、コントロールできるものとできないものがある。それが現実だと思う。でも、あなたは自分が神であると信じて、ポジティブなものをイイネすることで全てをコントロールできると信じている。それって、自己中心的であり、自分自身を正当化するための言い訳になっているわけじゃない?」
あかねの言葉に、さやかは驚いた。自分が偶像崇拝者であることを認め、改めなければいけないのかもしれないと思い始めた。
「でも、でも私は...」とさやかは口ごもる。
「そんなに自分を責めなくてもいいわよ。人間は完璧じゃない。でも、自分自身を騙してまで、偽りの世界に生きる必要はないと思うの。現実を受け止めて、前に進むことが大切よ」とあかねは優しく言葉を続けた。
さやかはあかねの言葉に、少しずつ心を開いていった。自分が偶像崇拝者であることを認めるのはつらいけれど、あかねが言うように、現実を受け止めることが大切だと思った。
ポジティブシンキングは病んでいる
「中止」の方がニュアンスとしてより厳密なのは、誰も疑ってないよね
広義の失敗
一般的には失敗
「今回の」! 打ち上げは! 失敗
「今回の発射は失敗ですよね?」「いや中止だ」
いやだから中止なのは失敗ではない理由にならないってば。中止であると同時に失敗でもありうるじゃん
中止
失敗
原因究明と調整を終えれば直ぐに次回チャレンジする予定なのは誰も彼も理解してる
分からないのは、なぜ「今回の打ち上げは」失敗にさえ、コメントの人たちが一丸となってゴリ押しを通そうとしてるのか、だ。理系だったら論理的に反論できるはずでしょう? 「今回の打ち上げは」失敗になり得ない論理が「中止だから」はおかしいと思う
失敗は成功のもとと発言した大臣は謝罪に追い込まれ、失敗を認めさせようとする人を説得する記事が大人気になり、今度は文系のジャーナリストの女性を集団リンチし始めた
私には子どもみたいに駄々をこねて言葉遊びしてるのは理系の人たちの方に見える
彼らの視点では核融合炉のもんじゅとかも失敗じゃなくて中止になるんだろうな。アベノマスクも失敗じゃなくて配布中止だし、第二次世界大戦だって日本の技術発展につながったんだから成功になるんだろう
はぁ…………(ため息)
はてなの理系さん達は賢いなあって尊敬してたんだけど、ショックだ
追記・
もし自信をなくして
くじけそうになったら
いいことだけ
いいことだけ
思い出せ
生活を支えてるはずの理系の人たちが、たった一言の「失敗」指摘で、ポジティブシンキングと偽った心理学の「否認」に集団罹患するのは不安でしょうがないって言ってるのよ
「今回の打ち上げは失敗」と認めるかと迫られただけで、なんで当事者じゃない人たちまで自信をなくしてくじけそうになってんの?
心が弱すぎない?
もう、文系だけの街を作ってそこに住みたい
追記・
ポジティブシンキングの鬼で笑った 最強中年じゃん
意図はいいかな?なんか広告のコンセプト自体が筋が悪いというか、ポジティブシンキングへの転換がそもそも難しい感じがするけれども。
京本が死んでひたすら悲しい、その悲しみを消化しきれていない、ラスト以降藤野は悲しみから立ち直れるかわからない、強い喪失感が描かれている、という風に読める。というか私はそうとしか読めなかった(ただ後述するように、創作賛歌とも読めるのでタイトルは言い過ぎなんだが)。よくできたマンガだとは思うけど、これを読んで心を折られたりやる気をだしたりするのは違和感が強い。人生を共にした友は理不尽に失われたけど主人公は立ち直って自分の好きなマンガ描いていくんだ!とだけ読むのはポジティブシンキング過ぎるんだよな。
そもそも作者は私の読みも可能なように描いているとは思うが、強いてその根拠を挙げるなら、
1.京本の部屋で泣いて以降藤野の表情は描かれていない(ので、ラストでもどんな顔で机に向かっているかわからない。漫画を描けているかすら不明)。
2.ラストのコマで藤野のうなだれ方が他の同じ構図のコマと比べて大きい。悲しみに沈んでいるように見える
3.ラストのコマは同じ構図の最も近いページのコマに比べて大して景色が変化していない(なので、事件後の藤野の未来が描かかれていない)
といったところ。
作者は創作賛歌とも読めるようにこのマンガを描いている(例えば、2.はより深くマンガに集中しているともとれるし、3.は明確にどれくらい時間がたったかは描写されていないので、立ち直ってしばらくたった後、ともとれる。1.は立ち直ってマンガ描きの日常に戻ったことを意味している、ととることは可能)というのはわかるんだが。まあ、解釈の幅を残すように描いているとは言えるだろう。悲しみを乗り越えて生きていくんだ!よりも悲しみとともに生きていくしかないんだ、人生は決定的に変わってしまったんだ、の方が私は好みなんだよ。
いきなり何言ってんだと思うかもしれないが俺は自身の経験からそう考えるに至った。
わりと真面目な話なので、どういう事なのかちゃんと説明していく。
俺は、背が高い。
なかでも一番困ることのひとつは、
他人から身長に関する質問をアホほどされることだと思っている。
俺は今まで生きてきて数え切れないくらい身長に関する質問をされてきた。
よくある質問がこういうやつ。
「靴のサイズは?」
「合う服見つけるの大変じゃない?」
「昔から大きかったの?」
「家族も大きいの?」
「どうやったら大きくなるの?」
「カルシウムたくさん摂ったの?」
「牛乳よく飲むの?」
「バレーやってるの?」
「バスケやってるの?」
「なにかスポーツやらないの?」
「身長比べてみてもいい?」
他にも沢山あるが省略する。
こういう質問は大抵セットで訊かれるというか、
パターンは違えどだいたい同じことを一通り訊かれる。
後で詳しく書くが、これがまた困るのよな。
例えば、通りすがりの人間、信号待ちの人間、ATM待ちの人間、レジ係の人間、散歩中の猫など。
その場に偶然居合わせただけの人間から訊かれることもわりと多い。
大抵の人間は礼儀正しいが、なかには失礼な態度で絡んでくる輩もいる。
「いま急いでいるのですいません」と答えた途端にキレる輩もいる。
当たり前のように質問して一定時間拘束しようとする人間はマジで困る。
もちろん全員が全員そうではない。
でも人の都合なんかお構いなしって人間には、どうしても出会ってしまうのよな。
そういうのは”通り魔”と呼ぶほかない。
よく会っているはずの知り合いから定期的に訊かれることもあった。
好きでもなく親しくもない先輩から何度も何度も同じことを訊かれるのは正直ウザかった。
そういうのに悪気がねえのは知っている。
単なる会話のきっかけであるとかポジティブな意味合いで訊いているのも知っている。
だがそういうことじゃない。
主に問題なのは、俺の都合などお構いなしにそれが何度も繰り返されることだ。
俺は元々他者とのコミュニケーションがそんなに好きな方じゃない。
そんな人間が、
何度も何度も同じことを質問され、
何度も何度も同じことに答えるのはやっぱりしんどい。
一個一個は些末なことであっても塵も積もればそのストレスは山となる。
同じ問答の繰り返しは少しずつ負の感情を増幅させる。
誰にも相談すらできないなら尚更。
あんたが何気なくぶつけた質問も、俺にとっては百万回目の質問ちゅうこった。
加えて言うなら、これがもし”胸の大きさ”や”体重”だったらということ。
知らん人間からいきなり「胸大きいねぇ!何センチ?」と訊かれたら。
知り合いから「相変わらず太ってるねぇ!いま体重何キロ?」と頻繁に訊かれたら。
前者はもちろん、後者も関係性次第でハラスメントになるだろう。
大抵の人間にとってはそういう質問をすること自体が憚られるはず。
同じく身体的特徴に関する質問でも、「身長何センチ?」は気軽にして良いものと思われている。
セクハラというわけでもないし、高身長はポジティブな要素だから世間的にはOKだと捉えられている。
世間的にはそこまで大したことじゃないから言い出しづらいってのもある。
こういうことを愚痴っても自慢話にしか思えないって意見があるのもわかる。
共感できねえよ、知らねえよ、どうでもいいわ、てのもわかる。
体はでかいのに器は小さいんだな、てのも実際言われたことがある。
両親にすら同じようなことを言われた。
愚痴っても誰にも分かってもらえないこと。
とりあえずポジティブシンキングでいけと励まされ話をそらされること。
もっと辛い人もいるんだからその程度のこと気にすんなよと言われること。
大人になった今はそれも理解できるが、子供の頃はやはり辛かった。
だから俺は、胸が大きい人間の胸が大きいことによる愚痴や不満を自慢とは思わない。
最近は胸に関する悩みも真面目に受け取られるような風潮になっていて良いことだなと思う。
ただし自虐風自慢はクソだと思っている。
うちの兄貴の自虐風高身長自慢を見ていると毎回アッチョンブリケしたくなる。
兎にも角にも、
背の高い人間に安易に身長のことを訊かないほうが良いと言いたい。
他にも色んな人間が同じ様な悩みを抱えている気がする。
だから俺は、彼らに対して安易にそういう質問をぶつけないように気を付けている。
質問するにしても、その人個人のことを見極めてから、あるいは親しくなってからだ。
だが今回の話は結局のところ、ほとんど俺個人の経験に基づく話でしかない。
いろいろだと思う。
だが質問責めが好きじゃない人間もいるということだけは覚えておいて欲しい。
そして俺と同じ様な悩みを抱えている人間がどれだけいるのかも知りたい。
余談だが、昔の俺は身長に関する質問にはいつも真面目に答えていた。
根がクソ真面目な人間なのでそういうのでボケたり適当ぶっこくことができなかった。
そのうち私生活で色々あって鬱になり、そこから質問にはほとんど適当に答えるようになった。
真面目に答えないことに最初は罪悪感めいたものもあったが段々気にならなくなっていった。
そうしたら少しずつ気が楽になっていったのを覚えている。
その後色々あって鬱ではなくなり、気付けば質問されることも前ほど嫌じゃなくなっていた。
そういうやつには無表情で冷たく答えると大抵訊いてこなくなる。
あしらい方を覚えられたと考えれば結果的には良かったのかもしれない。
ちなみに俺は自分の背が高いことそれ自体を嫌だと思ったことは一度もない。
むしろ誇らしく感じているし、そういうところが俺のいいところだと思う。
そう思えて偉いな。もし俺が同じ立場だったら「同じくらいの労力をかけてるのに注目されない小説はやっぱり日陰者なんだな」と思ってしまいそうだ。ポジティブシンキングを見習いたい。