はてなキーワード: 自由意思とは
その通りだ。1960年前後、まだフェミニズムという言葉がなくウーマンリブと呼ばれていた時代は、ミニスカートは男によるふしだら侮蔑を乗り越え女性が自由な格好をする権利の象徴だった。
だが、今は違う。『女体に対する社会の性的なまなざしそのものが女性差別の構造を産み出しているから、男が女性を性的な存在として扱わない構造を作らなければならない』という現在のフェミニズムの考えでは、女性は自分の自由意思に基づいてミニスカートを履いているのではなく男尊女卑社会の構造によってミニスカートを履かされていると考えられている。だからミニスカートを履く女性は現代フェミニズムにおいては男尊女卑社会の維持に荷担する存在だ。
政府や国が出産を奨励する施策は人権侵害で、頭数を揃えようという姿勢で、グロくて気持ち悪い、みたいな人増えてない?
今の日本の問題の多くは少子化に突き当たるんだし、少子化対策って、どうのこうの言ったって出産奨励じゃん。
「露骨にやらなくても皆の賃金を上げたり幼稚園保育園の充実をすれば」とか言うけど、現状の深刻さでは、それらだけでは動機づけとして弱すぎるんだから、もっと露骨な出産奨励もしなきゃいけないでしょうよ。
というかそもそも、出産や子育てという行いや人体機能自体が、目をそらしたいよくないもの、生々しくグロいものだと思ってる人が増えてないか?
「出産や子育てはグロテスク、あるいは自傷的行動であり、強く望んでやる人は止めないけど決して素敵な行動ではないし目をそらしておきたい世界にとっての消しきれない悪行みたいなものだから、子供を産むのは良いことみたいな文脈で扱いたくない、まして他人からやりましょうと言われるなんて耐えがたい」みたいな嫌悪感をインターネットの世論から感じる。
出産奨励されるぐらいなら清く正しく少子化が進んだ方がいい、って実質的に反出生になりつつある。
「ある行為をポジティブに扱うなら、しないことは相対的にネガティブに扱われる」ってのは、飛躍じゃなくて実際そうならざるをえないと思う。そんな単純な二択じゃないんだなんて理屈も世の中にはあるが、それは誤魔化しの建前である。
けど、中長期的に考えればそれは責められる事じゃないはずだ。
あらゆる論功行賞だってそうでしょ。表彰される生き方、賞金をもらえる努力が推奨されて、そうじゃない人生はネガティブに扱われることで、よりよい人材を増やそうとしている。それが回り回ってみんなの幸せに繋がる。
これまでは、個人の自由意思尊重の理念を語りつつ、実質的には価値のない生き方はやめましょうという干渉も両立させて回してきたけど、建前を建前じゃなく徹底させるべきってのを本気で信じる極論論者が増えて、持続性がヤバくなってる。
しかも、出産奨励に嫌悪感を持つ人って、個人の自由な生き方を大事にせよとは言うけど、そこで想定される個人の自由って、今から5年か10年程度の短いタイムスパンでしかなくないか?
なんなら5年どころか、今この一瞬における、妊娠出産への感情的な嫌悪感に駆られてないか?
現時点で出産奨励のメッセージや施策というある程度の干渉を受け入れることで、30年後でも個人の自由と幸福をある程度保てる、そういうもんだと思うよ少子化対策は。
一般人の立場でこういうことを言うと「ただの平社員なのに経営者目線かよ。権威と自分を同一視して気持ちいい?」みたいな揶揄もあるけど、民主主義では有権者である私たちが正に経営者なんだから、数年単位の個人規模というミクロな幸福論だけでなく、社会持続性みたいなデカくて長いマクロなことも考える必要がある。
個人レベルを超えて社会全体のためになることを考えるのは全体主義に繋がるから怖い、と拒絶していては、国家の主権者としてよくないのだ。
ああ、本当ならこういうのも匿名じゃなく主張したい。
でも友達付き合いしてるアカウントたちにグロテスク!って怒りと軽蔑むき出しにしてる人たちがかなりいて、ビビって理屈を語れないよ。
私は弱い奴だ。
まあ、あのtweetをみて俺も反省して、「つべこべ言わずにやれーー!」と言うようにした。
モダンな親は体のいい責任逃れみたいのもあるから余計子供にとってつらいわな。
実質親に強制されてやっているんだが、失敗してもお前のせいみたいな感じで余計傷つく。
「つべこべ言わずにこれにしろ!」で成功した場合は親に感謝で失敗した場合も親のせいにできるけど。
自分で選んだほうが学びが大きいみたいな話はあるが、その場合は緩い強要などせず、本当に自分の自由意思で選ばせないといけないからよほど難しい。
私は30代前半。嫁は2つ下。
同じ学校で出会い、同棲を経て卒業後数年で結婚しました。子無しです。
大きな前提として彼女に対する愛は深く、彼女からの愛情も感じています。
2人とも穏やかな性格で大きな喧嘩もなく、仕事関連で多少の波風はありながらも金銭的な不自由もなく基本的には平和な日常を過ごしています。
嫁の体型が気になりだしたのは5年くらい前、家着のパーカーを着ている様子を見てのことです。
普通体型だった嫁が、ややふくよかな体型にあることに衣服の膨らみから感じとっていました。
食事や料理が趣味の彼女に対してそれを制限するのも悪いと思い、言葉を選びつつヘルシーな食事を私が心がけたいと伝え、食生活の改善を弱めに促しました。
この頃、気づけば、私自身も痩せ型だった体型が標準の太めまでサイズアップをしており、食と運動に対してアンテナがたつようになっています。
一緒に散歩や運動をする習慣を作ろうとしたこともありましたが、彼女の足の怪我・生理痛などの事情で断続的になりやすく、気づけば運動は個人のサイクルになっています。
ただ、この時点では、ややぽっちゃり。という程度で、食生活で維持をしてくれれば良いかな。という考えでいました。
さらに年月が経ち、我が家はクイーンサイズのベットで一緒の布団に寝ているのですが、彼女のいびき...というよりは気道をこじ開けるようなガガガガという轟音と、キュポッっと蓋が閉じるような音で目が覚めることになります。
轟音よりは淡白な閉じる音が個人的には大きなトラウマで、毎回ではないですが、今もたまに聞くことがあります。
気づけば、やや というレベルはこえ、ぽっちゃり の体型になっている嫁に危機感を覚えます。
何度か症状を伝え、録音したいびき?も聞かせ(これはこちらも辛かったですが)、真剣なトーンでダイエットについて気持ちを伝えました。
switchのゲーム、散歩、ジョギング、縄跳びなど、様々な運動を数日は実践するものの何かしらの理由がつき7日間続きません。
日常では楽しい会話や雰囲気を維持したいので、事細かな注意は避けたいのですが、飲食店でのトッピング・甘いものの飲食など以前は気にならなかった行動が目についてきてしまいました。
また、本人の意向もありプロに頼もうと数十万の費用を貯金のうちから出すことも計画し、ジムの候補と気にいるのなければ他のジムでもいい旨は伝えていますが動きはありません。
自分でできることはやり尽くした感があり、これ以上は関係の破壊を覚悟し日常の管理にまで足を踏み入れるべきか悩んでいます。
痩せてほしいという思い自体が私の一方的な我儘な可能性もある一方で、体調面の不安・トラウマの音がある状況も悩みの種です。
理想は彼女の自由意思で能動的にダイエットに励んでもらうことです。良い説得方法をご意見いただけないでしょうか。
最後に、彼女の笑顔は最高で絶対に手放したいものではありません。その手のコメントはお控え下さい。
長文にお付き合いいただきありがとうございます。
Colaboが保護対象者を沖縄に連れていった件について、"「公費は使い込んで沖縄に行った」も明らかにデマ"との指摘があった。
本当にそうなのか見ていこう。
自分も仁藤氏の私費だと思っていたので事実なら団体の姿勢として大いに問題と思う。一方で「公費を使い込んで沖縄に行った」も明らかなデマなのに問題視する人が皆無なのは残念。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/Colabomamorukai/status/1606952982461186053
Colaboによると以下の通りの運用をしているようだ。
都に報告義務があるのは委託経費の上限である「125,000円」です。それを超過した金額は委託経費からは支出せずColaboが自主財源から支出している
つまり、委託事業と自主事業の内容・経費の切り分けが外部(もちろん東京都も含む)に全く見えない状況ということだ。
そして、Colaboの支出では自主事業と委託事業について、どうも案分がなされていないようだ。
(例えば、車を委託事業以外に用いているのであれば委託経費から○割、自主財源から✕割と案分が必要だが一切なされていない。また車検費用や定期点検費用などが計上されてもいないようだがこれは自主財源から?)
したがって、委託事業用に整備した備品消耗品等々を自主事業部分で一切使っていないのか、という疑義が残ってしまう。
以上のことから、少なくとも現時点で、「保護対象を沖縄に連れていったのは公費か否か」について、Colaboの内部の人以外には結論付けることはできないと考えている。
費用面に加えて、Colaboが沖縄に保護対象者を連れていき、政治活動に参加させていることについて、以下の点に疑義があると考えている。
拒否したら追い出されるのではないかという恐怖などが考えられる中で、自由意思など担保できないのではないか。
これは、結果的に「勉強になった」「参加してよかった」と述べることとは何の関係もない(そもそもその言説が本心からかどう担保するというのか。)。
参加者によると「参加して初めて基地問題や慰安婦問題などを知った」とのことであり、参加時にどこまで説明がなされていたのか疑問が残る。
上述のとおり、Colabo外部には委託費用と自主財源の区分が見えない体制であるため、どこまで自主財源で支払ったのか不明である。都の監査が明後日までに出るそうだがある程度はここで分かるのだろうか。
(自主財源としても、寄附から出しているのであれば寄附をした人への説明は必要(活動報告書には記載なし)だとか、その会計上の処理はどうなってんのとかあるけどね。)
以上、文責が不明な「Colaboと仁藤夢乃さんを支える会」ではなく、Colabo・仁藤夢乃さん・弁護団いずれかの見解が聞きたいところだ。
ColaboがPDF文書「Colabo及び仁藤夢乃さんに対する誹謗中傷について」(以下「説明文」とする。)との文書を公表している。( https://colabo-official.net/kaiken2211/ )
一通り目を通してみたが、個人的に説明が不十分かなと感じたことを列挙してみる。
※これをもって不正不当とするのではなく、個人的にもう少し詳細な説明が欲しかったなという部分です。
※勿論、誰にも、私個人に説明する義務も義理もないので、裁判を静観します。(双方ともに明らかにしていない事実はたくさんあるでしょうし)
※暇空茜氏の告発等と見比べて、現時点で不正不当と断定する根拠は足りていないと思われます。仁藤氏とColaboの今後の活躍を期待します。
(説明文3ページ。文中のスペースは原文まま。)
都からの若年被害女性等支援事業の受託金、DV等被害者支援交付金、自主事業としての収益 が含まれる。従って、都からの事業委託を受けている関係でColaboが東京都に対して行う報告は、(1)~(6)それぞれのうち、東京都からの委託事業として行った部分についてのみである。
このとおりだとすると、Webでの活動報告は常に都への報告よりも数字が大きいか同じでないとおかしいのではないか。
実際はWebでの活動報告が大きいこともあれば、都への報告が大きいこともあるようだが、理由はなんだろうか。集計期間が微妙に違ったりするのだろうか。(年度と年とか)
(説明文14ページ)
Colaboと繋がった女性が、仁藤やスタッフとと一緒に辺野古に行ったことはあるが、それはその女性たち自身が自らの意思で参加を決めたためである。
(略)
それとも、表にはでてきていないだけで参加者の自由意思を担保する何かがあるのだろうか。
https://mobile.twitter.com/erishibata/status/1579847848740663297
仁藤夢乃さんの新刊を読んだけど、支援対象の「女の子」たちを政治活動に巻き込むのはかなりダメだと思うわ。様々な要因で追い詰められて、支援者・団体を頼らざるを得ない状況の被支援者と支援者では、権力が非対称すぎるから、きっぱりNOが言えるかかなり怪しいと思う。
また、仁藤氏の著作によると、少女のコメントとして「沖縄で、辺野古に行って、基地の問題を初めて知ったり」とある。つまり、基地問題を知らない人に対して、ろくに説明もせずに辺野古に連れていったように読める。もちろん口述なので、正確には参加前に行く場所や活動の趣旨はきちんとつたえていたのかもしれないが、ここからは読み取れないので疑念を抱かせることになっているように思う。
(説明文15-16ページ)
このデマは、「Colaboが産婦人科医に対し支援対象女性の自己負担相当額を支払い、それを東京都からの委託経費でまかない、その金額相当額を医師が寄付金として団体に寄付している」という、事実と異なる決めつけに基づいている。実際には、上記に述べた通り、連携する産婦人科医の「無料プロジェクト」対象の診療の場合には、都の委託経費は使用していない。
バズフィードの記事によると、自己負担部分を団体が負担し、同額を団体に寄付しているようだが、これはキックバックとはいえないのだろうか。
説明文では、自己負担分を「それを東京都からの委託経費でまかない」という部分しか否定できておらず、「そもそも自己負担部分の減額等は違法(療担規則違反)ではないか?」との批判に答えられてないと思うので、更に詳しい解説を聞きたい。
(できれば厚労省か地方厚生局からのお墨付きが欲しい。参入したい事業者・医療機関は多いはず。)
つまり、この説明文では「都の委託経費を不正に取得しているのではないか?」という問題には回答できていても、「そもそも医療機関からの自己負担部分の寄付は違法では?」という問題には回答できていないように思えた。
https://www.buzzfeed.com/amphtml/naokoiwanaga/free-pill-project-drsong
保険診療の場合、患者さんの自己負担部分は団体に支援していただき、後程同額を団体に寄附するという形で医療を提供しています。
(説明文19ページ)
バスは、他の車両と異なり長距離を走行していない上、夏タイヤと冬タイヤを季節ごとに交換して使用しているため摩耗が遅く、2014年製のものでも現在も十分使用できているというに過ぎない。
確かに違法ではない、が極めて危険であり安全のためにも速やかに交換した方がいいと思う。
一般に、タイヤの耐用年数は使用開始から4~5年、製造年から10年(ただし、保管環境が良好な場合。本件の場合は路上駐車なので、10年はもたない可能性が高い。)程度である。
タイヤ購入費用を計上しているのであれば、当該バスを新車で購入したとしても、まず優先的にこのタイヤから交換する必要があるのではないかと思う。
(説明文22ページ)
一般論として、車を運転していたら記憶にない傷(植え込みの木々に擦ったり)があることは珍しくない(バスなどのように大型車両なら尚更)が、「何者かが故意に車体を傷つけたことは明らか」と断定する根拠が書かれていないように感じた。
つまり、暇空茜氏の主張(昔からあった傷ではないか?)と弁護団の主張(故意に付けられた傷である)の双方が誤りの可能性を捨てきれないように思う。
(説明文35ページ)
当然毎年作成しており、現に委託事業の申請の際に毎年都に提出してきたが、公告について問題意識が乏しいままになっていた。このたび都から指摘を受け、取扱いを確認検討し、また過去の決算も点検した上で公告することとした。なお現在はホームページに掲載する電子的方法としているが、今後は合理的な公告方法のあり方も含めて検討したい。
ならば批判者による指摘は正当だったのでは?と思う。
(説明文1ページ)
弁護団は、このような、女性差別に根差す卑劣な嫌がらせを断じて許さず
(説明文5ページ)
このような支離滅裂な言説を繰り出し続けるのは、真実は何かなどには一片の関心もないまま、ただColabo及び仁藤を貶め、集団で嘲笑することに興じる、侮辱的で女性蔑視的な態度
少なくとも形式的にはColaboによる不正不当の告発の体裁を取っている相手に対して、「女性差別」「女性蔑視的」と言える根拠はなんなんだろう(説明文には入っていないが、会見では「リーガルハラスメント」「女性全員への攻撃」であるとの主張もあった。)。
法律には詳しくないが、これは名誉毀損にはならないのだろうか。その場合、暇空茜氏が行ったとする(弁護団が主張する)名誉毀損があったとして、相殺(お互いさま)になったりしないのだろうか。
仁藤氏のためにももう少し穏当な表現で事実に反するところを指摘していって欲しい。
(追記)
「泣いたら私が悪者じゃない!!」「泣かれたら困る」
自分も毒親育ちなんで分かるんだけど、元増田は奥さんに感化されないように、あと子供に奥さんが同じようなこと言ってないか気を付けてあげて欲しい。
文章読んでると奥さんのせいで元増田がおかしくなってそうなんだよな(元増田は否定するだろうけどモラハラ毒家庭被害者みたいな兆候がある)
毒家庭育ちが毒親みたいになるのはあるあるなので、本当に気を付けて。増田は自分と子供を大切にしてくれ。
既にほかの人から「奥さんがおかしい」って指摘も入ってるけど、もし可能であればリアルで誰かに話して
「奥さんがおかしい」ってジャッジを肉声と映像で自分の脳内に入れた方がいい。精神攻撃受けたときの防御壁になるから。
何でもいいから奥さん以外の話のわかる人とつながってくれ。浮気じゃなくて命綱だから。モラハラと毒被害者で一番危険なのは閉鎖環境と孤立な。
あと、自己肯定感はすぐ自己評価や自己効力感と混同されるけど「自分凄い」「〇ができる」「栄誉を受けている」って自認のことではない。
巷に流布する「自己肯定感の低い人にありがちなこと」はでたらめだから真に受けないで欲しい。
自己肯定感って言葉が出てくるまで考えもしなかった人、性犯罪被害者とか血統主義とかのやむを得ん理由以外の自由意思で子供作ってる人は
https://toyokeizai.net/articles/-/631285
「気候変動抑止のためなら無差別殺人も辞さない」という主張にしか見えなかったが。
誰かに人権があるということは、あらゆる他人がその人の自由意思を尊重する、ということだ。
ゴッホの絵にケチャップかけて「私たちの意見を学び、共感し、同調しろ!」と主張することは他人の自由意思の尊重という態度に真向から対立する態度であり、
最終的に無差別殺人も辞さない(そして血濡れのナイフを突きつけながら「私たちの意見を学び共感し同調しろ!」と主張する)という見解に届くのに対して遠くないと、私は理解する。
それはテロリズムだ。
「あなた方が特に倫理的に優れていて、他人を扇動し正しい道に修正させる権利を持っている」というわけではない。
アメリカ人の友達「偽物の教会で、お葬式の曲が流れる不思議な結婚式に出たのよ」「それ、日本の標準的結婚式です…」
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1956479
これはつまり「ブライダル業界の結婚式」だが、なんでこうなったのか?。
今主流のこういう結婚式の始まりは1970年代なんだが、その元は60年代にある。
日本のイエ制度は明治に出来たようなもんだが(武家を除く)、昭和初期には堅固なものとなり、更に国家と天皇がイエに擬製されて人間はそこから逃れる術はほぼ無かった。ゲマインシャフトと国家有機体論の合体だ。
戦争に負けるとおせっかい焼きのアメリカが自由の形だけを作って置いていった。国家権力だけは縛ったからあとは勝手に使うがよいと。
それで戦後も時代が下り生活レベルが向上すると段々と生活や人生上の自由が増大化していった。
イエというのは家督であり、継げるのは長男一人だけだ。しかしその他の女子や次男以下も生き方が制限された。
長男は適齢期になると親が勝手に縁談をまとめて「あの家の娘と一緒になれ」。断った場合は勘当されて死ねと言われる。
次男以下は中学(尋常小学校)を出ると「小僧」の勤め先を親が決めてくるので、そこに入る。小僧っていうのは商家に住込みの店員見習いだ。然程の長時間労働ではないが「仕事」ではなくて24時間主人に仕える事が求められる。全人格労働だ。
こういう風習があったので会社勤めが一般化しても昭和中期まで独身者は会社の寮に住込みが基本だった。勿論集団生活で雑居だ。プライバシーとかいう事を気にする者はアメリカかぶれの不良である。
女子は妙齢になるとやはり親が勝手に嫁ぐ先を決める。断るのはアメリカかぶれの不良である。そもそも断ると生きていく術が無い。本人が何とかなっても家族が村八分になる。
商家に女版小僧として働くというケースもあった。勿論住込みの全人格労働だ。これも妙齢になると主人が見合いの相手を見つけてくるので恋愛期間なく結婚せねばならない。
戦後生まれの団塊世代が成人する60年代末になると都会ではそういう古いイエに縛られない核家族が増え、子供用個室が出来たりもした。
でもそれは都会の話で、田舎の方ではまだ古いイエに縛られたままの人間が多かったのだ。
例えば中島みゆきの『ファイト』は1982年の歌だが、「薄情もんが田舎の町に砂かけんのか、出てくならお前の身内住めんようにしちゃる」と言われて長距離切符燃やそうとしたが出来なかった。東京行の文字が滲んだ切符をまだ持ってる、っていう節がある。
なんでこんなキツイ歌詞を考えつくの…と思うがこれは中島みゆきの深夜ラジオに送られて来たリスナーのハガキの内容を切り貼りした歌詞なんである。
つまり1970年代末~1980年代頭にもこういう思いをした人は居たという事だ。
「ファイト」の語感だけで元気を振るう歌だと思っていると衝撃を受ける事と思う。苦難や挫折が生々しいのだ。
勉強を頑張って東京の大学に進む事が出来るように先生に親を説得してもらう(余計な勉強なんかして更に大学に進もうなんて親不孝のアメリカかぶれの不良である)。
集団就職に参加する。
一度商家に入り、数年奉仕し18or20歳の年齢制限をクリアして暇を貰い、水商売に入る(増田の親のパターン。単に不良である)。
そういう状況だったから古い世間では自由恋愛=不良であった。それは流行恋愛歌に乗せられて人の道を踏み外すアメリカかぶれの不良である。
一方、若者からすれば自由恋愛とは誰と恋愛してもいいよという状態の事だけじゃなくて因習から逃れる解放のテーゼだ。
人は好きな人と結ばれる権利がある。それを称揚すべきである。ロマンチックラブイデオロギーだ。
そういう訳で沢山のフォークソングで自由恋愛が称揚されるようになった。1960年代には社会への異議申し立てという歌詞が多かったのが、70年代になると安保闘争の挫折も相俟って現状肯定、恋愛称揚などのポジティブ系にシフトしていく。
有名なのが吉田拓郎の『結婚しようよ』1972年で、僕の髪が伸びたらチャペルで結婚式を挙げよう、というもの。
チャペルはキリスト教会の礼拝場の事なのだが、実際に多く使われるのはミッション系大学の礼拝場だ。要するに学生結婚したいねという欲求を惹起する歌だ。
もう一つ有名で披露宴でも使われるのがチェリッシュの『てんとうむしのサンバ』(1973年)で、夢の国の森の小さな教会で結婚式を挙げました、という歌詞。
こういう曲のヒットにより「小さなキリスト教会での挙式」というのが憧れとなり、実際にミッション系大学併設の教会での挙式が多く行われた。因みに式の前に洗礼を行って形だけでも「キリスト教者」になっておく。
ただ、ミッション校の教会は限られていてパイが少ないし両方の親族が沢山来たら礼拝堂に入らない。
でもそれがまた「イエvs.イエ」の結婚式へのアンチテーゼとして働いた訳だ。
なんでキリスト教会なの?と言えば、それは第一に西欧への憧れであり、第二に「日本古来の神式、仏式でないから」だ。神式、仏式にはイエの因習の表象をまとっていた。
今は厳かな神式も人気で特に鎌倉鶴岡八幡宮の舞殿で行われる神前式は人気だ。これには団塊/全共闘の残した軽いノリへのアンチテーゼで権威的なものを好むというテイストもあるだろう。
でも今の神前式を選ぶのと60年代の仏/神前式は意味が違うのだ。現代のは一度因習との結びつきが嫌われて廃れ死んだ後に、「博物館入り」して個人にとって安全になったものだ。安全になったので「自由意思で選択」しているのである。
「花嫁は夜汽車に乗ってとついでいくの」という『花嫁』(はしだのりひことクライマックス 1971年)なんか歌詞をよく確認してみたら駆け落ちなのな。こいつを披露宴で掛けるのはヤバそうだ。
それ以前の結婚式は仏式/神前とあったが、特に都市部だと著名な特徴があった。
それは「祝言(しゅうげん)として能の演目『高砂』の一節の謡いを仲人がやる」という事。俗にいう「高砂や~」である。
https://www.youtube.com/watch?v=Zm1Se2fRnvU
これをこの調子で仲人が謡う。これは都市部では必ずやる。絶対にやる。だから仲人はこの祝言を暗記して慣れない能の謡い方を練習した。それを笑った落語もある。「高砂や~」って練習してる時に「とうふ~」と豆腐売りが来ちゃって混じって覚えちゃうのな。
これは恐らく江戸時代後期には一般化していたと考えられるが、廃れた時期ははっきりしてて団塊世代の適齢期だ。
ちょっと脱線だが老松町という地名があったり地名変更で無くなったが祭りの町内会名や祭りの神輿や山車の提灯なんかで出てきたりする。
でも昔は結婚式では「必ず」高砂の祝言を謡ったのだ。『高砂』の内容とは、神主が兵庫県の高砂で老女老男に出会い、我らは片や高砂の、片や大阪市住之江区の住吉大社の老松だと言われる。小舟に乗って去った老夫婦の後を追って船で住吉に向かうと、住吉明神が神々しい舞を見せた、というものだ。
まぁ今は埋め立てで遥か内陸になってしまって阪堺電軌じゃないと行けませんがね…。
この「老松」なのですよ。昔は結婚式で必ず仲人が高砂を謡った。故に門出の歌なのですな。
関東大震災で下町が壊滅すると多くの人が板橋区とか池袋、世田谷、杉並などの郊外に移り住んだ。すると農村の人口が増えて村から町になり区画も分割される。そこでめでたい瑞祥地名として新婚の門出と長寿と願って老松町というのが増えた。
でもその後字面が年寄臭いって事で消えてしまった。『高砂』が廃れた現在から見るとやっぱ年寄臭く見えるけど、それは習俗が途絶えて常識が消えたせいなんでありますな。
会場が教会だったり披露宴でフォークソングとか歌うし高砂やはやらないしで、この新しい結婚式に保守的な人らは憤慨していた。
どのくらいかというと、わざわざ入試問題に新型披露宴を批判したり、親戚のオヤジがマイクを渡されてフォークソング披露宴への憤懣ぶちまける説教演説したのを現代文の問題で出したりするくらい。そんなのを入試に出すなよ。過去問としてアーカイブされて10年以上参照されるんだぞ。
しかし芸能人などが次々とキリスト教式で挙式するようになる。するとこれは大きな需要であるから「ブライダル業界」が立ち上がり、洗礼とかがない宗教的に気軽なキリスト教式結婚式を提供するようになったのだ。それまでは互助会のような組織が主だった。
ホテルなどでの挙式よりは断然安い。しかし教会での式よりは断然高い。
だから団塊のイエへの抵抗から始まったブームが大きくなって70年代中頃に業界化し、80年代には完全に一般化してこっちが主流になったのである。だが80年代には色々行き過ぎて珍妙な式が行われており、それでまた年配者の顰蹙を買ったようだ。ハイジみたいなブランコで新郎新婦が登場とかラブソングカラオケ熱唱とか色々おかしい。
だから「なんで偽物の教会でやるの?」と聞かれたら「それが昔は近代的な解放だったんだよ」「その意味が社会から消えても形式と業界がそのままになってるんだよ」「貴方の国の若い人らもハングルやひらがなを混ぜて書く事があるけど、それも同じ抑圧からのサブカルチャー的解放の意味があるんじゃないの」と言えばよい。
それとは別にやっぱあの形式の結婚式にはダサさを感じるし、偽物の教会も中途半端で教会建築への理解の少なさが出ちゃってる。標準的形式の練り直しはすべき時期かもしんない。