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2015-10-24

王様は裸だ! と叫ぶ勇気 ~伊藤計劃ハーモニー』の崩壊

 基本的に、これまで僕は匿名文章を書くということをしてこなかった。

 パソコン通信しろブログしろmixiしろTwitterしろ、誰かと議論したり何かを主張したりするときは、常に素性をオープンにし続けてきた。腰をすえて議論する気もなく匿名書き逃げするような連中に、僕自身、さんざん苦しめられてきたから、同じようにはなるまいと思っていたのである

 それがSF小説批判だったらなおのこと。自分の愛するジャンルであるからこそ、逃げも隠れもせず持論を述べ、反論を迎え撃つ――それが本来の筋だと思う。

 しかし今回は、自分名前を出して発言するのはあまりリスクが大きいと判断して、不本意ながらこういう形を取らせてもらった。実は匿名で書くことにすら尻込みを感じている。

 なぜなら僕が今から批判しようとしているのは熱狂的なファンを多くもつ作家――伊藤計劃氏の作品からだ。

 2009年に亡くなった伊藤計劃氏だが、いまだにSFマガジン特集が組まれたり、映画が3作も公開されたりで、その人気はとどまるところを知らない。

 僕が始めて読んだ氏の作品は、『虐殺器官』だった。新人デビュー作ながらその年の、SFが読みたい! の1位を取ったというので、期待をもって読み始めたのだ。

 しかし、あまり感心しなかった。なぜなら作中のメインアイデアである虐殺の文法」というものが、言語SF歴史の中ではさほど捻ったものではなく、更に2005年に別の日本人作家が発表した短編とも酷似している。プロットの方も、ミイラ取りがミイラになってしまったというありふれたもの、逃げのようなもので、短編ならともかく、長編としてはガッカリするような結末だった。だもんで、個人的には年度ベスト1位を取るほどの作品とは思えなかった。

 年刊日本SF傑作選『虚構機関』に収録されている「The Indifference Engine」をたまたま読んだ時も、僕の評価は覆らなかった。

 舞台紛争地に置き換えてはいものの、アイデアから構成からテッド・チャン「顔の美醜について」にそっくりで、決して独創的とは思えなかったのだ(余談だが、「顔の美醜について」は、世間で変に高評価されている「あなたの人生の物語」よりもよほど構成のちゃんとした、優れたSFだと思う)

 出版されるSF作品の数も、世間SFファンの数も膨大なので、僕が好きではない作品や、アイデアが目新しいとも思えない作品が、評価されたりランキングの上位にのぼることもある。とはいえ、趣味に合わない作家を追い続けるのもあまり建設的ではないので、僕はその後、伊藤氏の作品をずっと読んでこなかった。

 だから、もしかしたら永久に他の作品を手に取ることもなかったかも知れない――

 2014年に、伊藤氏の『ハーモニー』が、日本SF長編部門オールタイムベスト1位を取らなければ。

 いくら避けてきたとはいえ、傑作『百億の昼と千億の夜』の牙城を、2000年代に発表された作品が崩したとなれば、さすがに読んで確かめざるを得なかった。

ハーモニー』のあらすじはこうだ(以下、ネタバレ注意)。

 大きな戦争のあと、生命至上主義によって、医療技術が高度に発達した世界

 人間は16歳になると健康管理用のナノマシン群「WatchMe」を体内にインストールし、その恒常性健康を、常にモニタリングされる。

 健康に生きることを強いる社会に反逆するため、御冷ミァハ、霧慧トァン、零下堂キアンの3人の少女は、餓死による自殺を試みるが、失敗した。

 その十数年後、ミァハは、新たな目的をもって暗躍をはじめ、その結果、トァンの目の前でキアンが犠牲になる。

 ミァハの願いは、Watchmeに組み込まれていた自意識喪失プログラムハーモニクス」を発動させ、人間たちの意識を奪うことだった。

 最終的に、ミァハはトァンに殺害されるが、ミァハの計画は実現し、全人類ハーモニクスされた結果、そこには誰もが意思を持たない完全に調和がとれた世界誕生する……。

 この結末を読んで、僕はひっくり返った。

 ちょっと待て、「ハーモニクス」できるのは、WatchMeを体内にインストールしている人間だけじゃなかったのか!?

 確か作中では、人々がWatchMeをインストールしていない地域のことも書かれていたはずだ。

 そして何より――子どもたちのことはどうなったんだ?

 16歳未満の子どもには、WatchMeがインストールされていない。WatchMeを入れられたくないからこそ、ミァハたちは16歳になる前に心中しようとしたはずだ。

 つまり、16歳未満の子どもはハーモニクスすることが物理的に不可能である

 にもかかわらず、エピローグでは、全人類意識ハーモニクスされたように書かれている。作中の設定どおりなら、こんなことはあり得ないのだ。

 この作者は、自分が書いた設定を忘れている!

 だいたい、ミァハの目的については、健康世界に苦しむ、「意識」ある子ども自殺をなくす、というのも書かれていたはずだ。

 にもかかわらず、彼女の行動で出来上がったのは、「先進国の大人だけが意識を失い、先進国の子どもたちや、一部地域人間意識を保ったままである世界」だ。 子ども自殺はなくならないだろう。出発点と正反対だし、エピローグの、全人類意識を失った調和の取れた世界、という光景は有り得ない。はっきり言って無茶苦茶である

 そう、『ハーモニー』という長編は、その評判とは裏腹に――完全に破綻しているのだ。

 作家というのも一人の人間である。あまりに大きなミスはいえ、病床の伊藤氏が見落としてしまったのも仕方ないのかもしれない。

 情けないのは早川書房だ。自分で書いたものをそのまま世に出してしまえる同人誌と違って、商業出版には校正という作業が存在する。誤字や誤植のほか、作中の矛盾などを指摘して、作者に修正を促す大事な行程だ。 『ハーモニー』のこの矛盾は、プロット自体を完全に崩壊させる、校正が厳格な出版社だったら絶対に許さないようなミスだ。これが講談社新潮社のように校正がしっかりしている出版社だったら、こんな欠陥を抱えたまま作品が世に出ることはなく、伊藤氏も、恥をさらさずに済んだだろう。

 それに輪を掛けて情けないのがSFファン。

 SF評価する上で、アイデアは確かに重要だ。

 けれど、その作品プロット構成が、最低限成立しているかどうかくらいは、アイデア好き嫌い以前に、ちゃんと見極めるべきだ。

 ちなみに、僕は『ハーモニー』のアイデアも独創的だとは思わない。

 ユートピアを追求したら自由意思存在しないディストピアになってしまったという結末は、星新一や、アシモフ代表作のほか枚挙にいとまがないし、クラークの某長編をはじめとする「人類補完もの」のバリエーションひとつとも読める。 また、ラスト以降の世界が、「自由意思を失った大人が、自由意思をもった子どもたちと暮らしており、子供も大人になると自由意思を失うことになる」、というものであれば、ほぼ、『キノの旅』1巻の重要エピソードである「大人の国」と同じ世界になる。

 ともあれ、これほどまでに構成破綻した作品日本SF大賞の受賞作にしたり、オールタイムベストの1位に選んでしまうのは問題だろう。

 考えてみて欲しい。SFというジャンルに興味を持ってくれた人が、こういうランキングを参考にして、まず第1位の作品から読み出したとき、「SFって、こんなにいい加減なプロット作品評価しているんだ」と失望してしまったら? 「SFなんて適当構成でも許されてしまう、低レベル小説ジャンルなんだ」と思ってしまったら?

 それはきっと、SF作家たちとジャンルにとって大きなダメージになるだろう。

 この文章を書いている途中で、僕は奇妙なことに気づいた。

 SFマガジンのような活字媒体と違って、WEB上では、この大きな穴について言及している感想もぽつぽつ見かける。だが、そういうミスを指摘できているのは、SF作家SFライターSF評論家ではなく、ごく一般の読書ブログをつけているような人、「SF界とは繋がりが薄そうな人」ばかりなのだ

 そこでふと思い至った。

 いくらなんでも、あれだけ多くのSFファンやSF評論家が持ち上げているのに、誰一人として欠陥に気づかないというのは、どう考えてもおかしい。

 みんな、欠点に気づいていながら、それを指摘してしまえば伊藤氏のファンから一斉に反発を食らってしまうために、沈黙しているのではないか?

 あるいは、伊藤氏が亡くなってしまっていて、作品の欠陥を指摘したところで訂正の機会がないから批判するのは忍びないと感じているのではないか?

 だとすれば、これはまるっきり、童話の「裸の王様」だ。みんなで持ち上げるうちに引っ込みがつかなくなって、誰かが声を上げるのを待っている。童話と違うのは、誰ひとり「王様は裸だ!」と言う勇気がなくて、とてつもない歪みが生じていることだ。

 僕は、この歪みが決定的な打撃をもたらすのは、『ハーモニー』の映画公開時だと睨んでいる。「夭逝天才が残した傑作SF」の評判を聞き付けて、SFファンや伊藤氏のファン以外にも、たくさんの観客が訪れるだろう。その時、プロットがぐちゃぐちゃに壊れているのを発見した観客たちによって、「さよならジュピター」なみの珍作として扱われることになるのではないか。

 誤解しないで欲しい。僕は何も、伊藤氏の人格を貶めようとしている訳ではないし、『ハーモニー』を賞賛するのはやめよう、と言っているわけでもない。

 ただ、彼の作品を持ち上げようとするために、SF読者、それもジャンルにどっぷりつかっているような人間たちが、構成上の欠陥に対して目をつぶり、盲目的になってしまうのは、SF未来を考える上で、間違っている、と主張したいのだ。もしも、「この『ハーモニー』という作品は、これだけ小説としては崩壊しているけど、それでも僕は好きなんです」と言える読者がいるのなら、僕もそれは否定しない。作品の出来不出来と、個人的好き嫌いは必ずしも一致するものではないからだ。 僕だって、出来は悪いけど好きだと胸を張って言えるSF作品は沢山ある。

 たとえ何年か後、オールタイムベストの上位から滑り落ちたとしても、今のように、宗教的で無批判な礼賛ではなく、伊藤氏のファンが「こういう風に壊れている部分もあるけれど、好きな部分もある」という主張を大っぴらにできるようになったら、その時はじめて、『ハーモニー』は、正当な評価を受けられるのではないか、それこそが伊藤氏のためになるのではないか――僕はそう信じる。

2014-03-08

http://anond.hatelabo.jp/20140308193257

いや確かに伊藤計劃は凄いし、自分メタルギア小説版The Indifference Engineまで読んでるファンだが

死んでなかったらもっと話題になってなかったと思うよ。

伊藤計劃キリストを超えた。わけあるか。くたばれ。

<hopelessness>

これは、どうにもならない。

</hopelessness>

伊藤計劃は偉大な作家だ。

少なくともある程度本を読む人間にとって、彼の代表作、評価、 その死後の受賞歴を長たらしく記す必要がない程度には。どうしようもなく。

それゆえに、ある種の人にはその逝去を悼まれる死者として、またある種の人には越え難い壁として、

そしてある種の人々には華々しい装飾品として扱われる。

更に法人からSF業界に新しい息を吹き込む新鋭として、 また広告塔として。素材として。贄としてだ。

彼の最大の幸福早川書房との出会いである

小松左京賞を逃した『虐殺器官』が早川書房へと持ち込まれ、ハヤカワJコレクションとして発刊される。

本作の評価、また出版のうえでの編集者との出会い等がなければ『ハーモニー』が生まれることはなかっただろう。

彼の死後、同社より、関連書籍の刊行が相次いだ。 『伊藤計劃記録』をはじめとして、ブログ及び個人ページに書きためていた映画評、

同人雑誌への寄稿が次々と出版され、多くの読者たちの手に渡った。

『記録』の主な素材は短編小説のほか、彼のブログに重ねられた書き捨ての文章である。その時既に彼の文章は死者の書物として上書きされていた。

だが、それらの文はインターネット上といえ、確かに人に見せるために彼自身の手により発信されたものだ。公開できるものとして。自らの分身として。

豚はその皮を食い破り、腸を捕まえる。裂け目から沸きだした臓物の汁の一滴まで啜り続ける。 その餌を与えたのもやはり同じ、早川書房である

文庫化を機にベストセラーとなった『虐殺器官』には、解説という名の追悼文が録されている。

近しい知人のみに公開されたmixi日記に連ねられた彼のことばが、共有される感動の実話として金を集めていく。

豚たちにとってそれは飲み込まれるのを待つだけのコンテンツ喪失という名の欲望を満たすために在るただの肉でしかない。

彼の最大の不幸もまた同社との出会いであった。

現在ブックファースト新宿店では「伊藤計劃を超えろ!フェア」が実施である

新宿駅から西口方面に足を運んでみれば、きらびやかなポップ体の横断幕がきみを出迎えてくれる。

並んでいるものを見れば何ということはない、ただの新人博覧会だ。

ただの博覧会であるからこそ、彼の名を据える必要がどこにあるのだろうと考える。

それは書店を出て左手に曲がれば見える、マクドナルドの壁に張られた新作商品広告

プリンタ限界まで引き延ばされた少女たちの、血色の粘膜をめいっぱいに広げ、バーガーかぶりつこうとする笑顔と何も変わりはしない。

意味など最初からない。それは羽虫たちを惹き寄せるだけのためのただの明かりだ。

...そんな「人間意識」だけが死んで、自分のように振舞う要素だけが

言うなれば魂なきコンテンツけが生き延びてゆく。

これこそまさに、煉獄というやつなのではないか。

「From the Nothng, With Love.」(『The Indifference Engine』(ハヤカワ文庫JA)) P.254

伊藤計劃はこれからコンテンツとして生き続ける。言及は絶えず続き、没後の節目を迎えるたびこのような商業作戦は行われ続けるだろう。

「彼の本が」ではない。「彼が」でもない。そこに掲げられるのはもはや彼ですらない、幻想としての"伊藤計劃"だ。

"それ"は新刊をさばくための道具だ。士気を煽るための墓標だ。いつでも痛みを味わえる、簡単で都合のいい薄っぺらい擦り傷だ。

またはただの便利な、ブログツイートの空白を「かんがえさせられましたにっき」で埋めるための装置だ。

伊藤計劃の『虐殺器官』『ハーモニー』といった大天才の大傑作があって、以後立て続けに批評家レビュワーによる伊藤作品を踏まえた社会評が発表されて、

あーやべーSFスゲーじゃんめっちゃ社会語れんじゃん、俺が社会語れんじゃん!といった風潮ができて。

虐殺文庫版が10万部を超えるベストセラーになり、SF野郎のみならず意識高い学生たちもここぞとばかりに殺到し、

ぼくのわたしの社会評を発表する最高にダルい場所ができあがった。あー気持ち悪い。

彼らにとっての社会はそこで閉じている。「知っている」「考えている」ところを「他人に見せる」ことで完結している。

から少しでも話が小難しくなればWikipediaさえも読み通せはしない。

参考文献などページ数の無駄しかないと思っている。

ただ彼を善く語ることで自分を見せることしか考えていない読書人を殺せ。

売れる本を売れるときに金に換えるためだけに存在するキャンペーン書店を焼き倒せ。

故人をコンテンツフォロワーを増やし、友達にくだらない話をすることばかりしか頭にないソーシャルクソ野郎を排除しろ

創作物に死の匂いを振りかけて、クソ野郎のための新しい餌の在処を振りまくクソ書房はおとなしく無個性ライトノベルでも出していればいい。

死者の日記帳よりよっぽど健全だ。

派手な色彩の建物はまかりならん、と誰が法律で定めたわけでもないというのに、そこに広がっているのはひたすらに薄味で、

何の個性もなく、それゆえに心乱すこともない街だった。

どこまでも、ひたすらに、河の両岸を果てしなく。

彼らの漬かった沼を満たす泥は金だ。あるいは承認の欲望だ。

社会的であらねばならないこと。そのポージングが直結する意識下、無意識下のスタンドプレイ同調圧力強要

彼が稚拙ともいえる比喩で、『ハーモニー』の作中、あからさまに批難したのはこのやさしさの窒息ではなかったか

取り合う手と手に首を締められるその苦しさではなかったか

虐殺器官』に描かれた偽りの平和主義破壊に、お前は何も思うところは無いのか。

自分が何を読んだのか、何に心を動かされたのか、少しでも彼の書いたもののことを思うなら、WiFi電波オフにしてもう一度考えてほしい。

墓の上のワルツを今すぐにやめろ。

目障りでやかましいステップを停止しろ

お前は何ひとつ自分の頭で考えちゃいない。

彼は神ではない。

彼は救世主ではない。

お前を輝かせるための装飾品ではない。

お前はお姫様ではない。

ただの惨めで愚かな豚だ。

歌って踊るだけのこの世の屑だ。

臭い口を閉じろ。

キーボードを叩き割れ。生きる資格など無い。

彼が評価されるべき理由は「死んだから」ではない。

生きて、素晴らしい小説を書いたからだ。

ブックファースト新宿店様ではただいま「伊藤計劃を超えろ!」フェアを開催中です!

藤井太洋さんも含めた次世代SF作家代表作がドバーッと網羅されています! 必見です! http://pic.twitter.com/soYpfhPPDn

恥じろ。 醜い。

 
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