はてなキーワード: 権力とは
毎日新聞記者の、コラボネタは報じる価値が低いということでマスコミ各社一致している、SNSは偏っているという旨の発言に触れて思ったこと。
「紙の新聞の余命は15年」との観測記事とあわせて眺めるに、たいへん趣深い。
https://togetter.com/li/2036314
https://news.yahoo.co.jp/byline/kamematsutaro/20230101-00330946
ここからは本当の末期だというわかりやすいメルクマールだ。闘病中と聞いていた知人がガリガリの別人みたいな相貌に変わっていたらいよいよかと思う、そんな感じ。
そもそも緘口令が出ているかのように黙殺したり、年はじめで各社一斉に同工のフォーマットで報じるその一糸乱れぬ斉一ぶりは異様だ。そういうのが当たり前になっていること自体が。
もっとコラボの悪行を報じろよとか暇空氏にも味方してやれよとかいう話ではない。
つまらない私闘にすぎないとかよくあることだとか言うなら、そのつまらないことがかくも多くの人間の関心を集めているということ自体が常には無い変事だろう。取り上げる切り口なんていくらでもあり得る。ネットでいま〇〇が話題だそうです式のお手軽ヤドリギ記事は大好きだったはずだ。
ひたすら「特落ち」を恐れ、また「抜け駆け」はせず、まるでお役所みたいに決めごとで動くジャーナリズム。どうかしてるぜ。という指摘はかつて上杉隆らが行った。その後の体たらくは誰もが知る通りだが。
有限な紙幅にニュースバリューの高い順に取り上げられてるだけで他意はないと言えばもっともらしいが、滑稽なまでに「一糸乱れぬ」動きの言い訳にはなっていない。
そもそも「情報の重大性」と「紙面への取り上げやすさ」は全く別である。
例えば紛争地域のリアルタイムでの実情などは、重大さは最大級であり、一次情報の取得コストも大きい。つまり取り上げやすさは最小。
一方「小学生が田植え体験をしました」みたいないわゆるヒマネタは、誰一人関心はないが業務上極めて扱いやすい「定型文の穴埋めで作れる記事」であり「予め予定が立つニュース」である。重要度ほぼゼロ、取り上げやすさMAX。
お上のプレスリリースと違い、スペースの都合で没にするのも自在。
大都市圏居住者は、あるいは実際には見たことがないかも知れない。地方紙の社会面や地方局の夕方ニュースにおいて、田植え体験や高校生のSDGsの取り組みの模様が永遠に垂れ流されるのを。ニュースバリューとは。
知られた話だが、新聞社は調査報道機関ではない。納品された情報を整理して受け流す、聞こえよく言えばキュレーターである。
形の揃った野菜を出荷するみたいに「いつもの定番ネタ」は業務ルーティンにするっと乗りやすい。
まだ世評・解釈の定まっていない新奇な話、いびつなキュウリははじかれやすい。ニュースバリューとは。
しかしそういう型にはまった本邦マスコミ報道のありかたはひとえに害でしかなかったのかと言えば、そんなこともない。主な利点はスタビリティということにある。おつむの軽い「熱血記者」は悪いやつらにうまく利用されるのが関の山だ。世間は大新聞の腰の重さをむしろ信頼してきた。
そもそも良い報道とは? ジャーナリズムとは本来どうあるべきか? といった問いにみんなが納得する答えはあるか。ジャーナリズムが共有すべき、一番ベーシックな価値とは何か。
「権力を監視すること」とか言ったって国家権力ばかりが権力じゃない。
「事実をありのままに」とか「客観的に、公平公正に」みたいなことは実現不能だ。
実現不能なお題目を掲げることは建前と実態の乖離を常態化させ固定してしまう。
そもそも電波法に縛られるTV局は別として、新聞社に中立の義務はない。
思うにやっぱり「果敢さ」しかねぇんじゃねぇの? なんとか月衣塑子みたいな薄っぺらい熱血妄動に陥らないようバランスを取りつつの。
こんにち新聞が相手にされなくなる一方で、文春のスキャンダリズムが一定の信頼を得ているのを見よ。
政権与党にガツガツ果敢に切り込む新聞があったり、むしろ野党にガンガン行く社があったり、それぞれの角度から検証可能な形で情報を提供する。
それらが合わさりデコボコを埋め合って、民主主義社会のいわば媒質であるところの公論の場ができる。
そもそも、マスコミの存在目的とはその社会に生きる人々の共有する「場」を提供することなのだ。一億人が同じ情報に容易に触れ得るということによって。情報の水の中に個人は油滴のように浮かんでいるのだ。
オールドメディアがネットにお株を奪われたのは、速報性とか取材力とかいうことではなく、その「共通の場を提供する機能」である。つまり本質の部分。
マスメディア全盛の時代にも、それ以外の情報伝達経路、例えば万古よりの「噂話」が命脈を失ないはしなかった。
でも文字通りマスに同時に届けられるという点で、すなわち前述の「場を作る機能」において、新聞TV会社は特権的立ち位置にあった。
今はそういう時代ではない。
それなのに「なんだかんだ言ってもぼくらプロの新聞記者の取材力、信用にはSNSなんかはまだまだ太刀打ちできないでしょ」とふんぞり返る記者様の図。まさに悲喜劇。
王国が滅びようとしてる現実に向き合えない落日のお貴族様の姿だよ。
■追記
「そんなに新聞様に取り上げてほしかったらしかじかの体裁をとれ」というコメントが付いている。
だから暇空のこともっと取り上げて欲しいという話はしてないんだけどな。
「取り上げてやるかどうかの基準はこうだ」と硬直的な決め事を振りかざすのは、換言すれば咀嚼力のなさを自慢するひ弱なお公家さん仕草であり、マスコミの生命力低下のあらわれであると言っている
キモいは盾なんです。
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
https://www.ucanews.com/news/when-media-is-in-cahoots-with-japans-powers-that-be/99922
私たちがメディアを信頼できなくなったとき、私たちは全体主義国家の瀬戸際にいます。
日本の大衆がメディアが重要な記事を報道したがらないことに幻滅を感じていることは、以前の記事「日本で宗教がビジネスになるとき」と「日本で 慈善活動がビジネスになるとき」で示したように、今や議論の余地のない真実です。
主流メディアは、監視役としての役割を果たし、彼らに責任を負わせることよりも、有力者や機関との関係を維持することに関心があると多くの人が感じています.
最近、NPO(非営利団体)の創設者の逮捕とコラボという組織の怪しげなビジネスに関するスキャンダルが日本で山火事のように広まっていますが、広大な火の嵐はTwitterでしかみることができません.
Colabo のストーリーは、これらの時代の核となる真実を浮き彫りにしているため、非常に重要です。組織的な監視機関はもはや存在せず、本物の調査ジャーナリズムのパンであった土を掘り起こしてきたボランティアの「野良犬」だけが存在します。
これらのボランティアの 1 人は、Twitter のハンドルネーム @himasoraakane で活動しています。彼は自分自身を Amazon アソシエイト プログラムの参加者であると定義し、公的資金で運営されている Colabo 組織がそのリソースを悪用していたと主張しています。
告発の 1 つは、この組織が資金を政治的目的に使用しているというものです。たとえば、組織が女性を連れて、沖縄の米軍基地に反対するような特定の政治的抗議行動への参加者数を増やすのを助けることになっているということです。弁護団は、少女たち自身が一緒に来るように頼んだと主張した)。
彼は公式文書を要求し、その活動を精査して不正行為がないかどうかを確認し、その結果をブログに投稿しました。これは、私たちの集合的なリソースがここで悪用されている可能性があるため、すべての納税者が懸念すべきことです.
日本の海岸に太陽が昇る中、この孤独な市民は自分の机に座って書類を調べ、進行中の「私的」調査で最新のパズルをつなぎ合わせています。何ヶ月もの間、彼はこの組織による公的資金の不正使用についての真実を掘り下げることに専念しており、明らかに他の Twitter ユーザーも彼の探求を助けてくれました。
11月29日、一般社団法人コラボの代表は、暇空氏(ツイッター名)に対し、デマの流布と誹謗中傷を理由に訴訟を起こした。
彼らは事実を明らかにするために実際に路上に出て深く掘り下げました。たとえば、公式文書で主張されているほど頻繁にタイヤを交換していないことを証明するために、コラボで使用されている車のタイヤの写真を撮りました。
「被害者であることを主張したり、ミソジニーを告発したりして責任をそらすことは、生産的でも公平でもありません」
監査の結果を待っているところですが、コラボ弁護団の一員である神原肇弁護士の言葉を引用します。「それは本質的に、女性の権利に反対する人々による女性に対する差別です。」
さて、それはどれほどばかげているでしょうか?
違法なことで告発されると、有罪かどうかにかかわらず動揺する可能性があることは理解できますが、この場合のように、被害者であることを主張したり、女性嫌悪の告発を行ったりして責任をそらすことは、生産的でも公正でもありません。そして、弁護士にとって、適切に対応できないことは、無意識のうちに罪を認めているように聞こえます.
ブロガーから調査ジャーナリストに転身したこの人物は(編注:してないよ!)、東京都に調査依頼を送り、コラボの帳簿を調査しました。不当会計、不正な公的扶助の受領、および公職選挙法違反です。要請は 11 月初旬に送信され、それによって彼は資金調達も開始し、驚異的な 6,300 万円 (481,200 米ドル) に達しました。
誰かが私の議論を批判した場合、控えめに言っても、彼らの「生物学的偏見」を指摘し、それを特定の性別のせいにするのは非常に賢明ではありません. 彼らの性別は、議論の問題とは何の関係もありません。
(編注:狂った「性自認」というバカげた単語を振りかざすトランス女性(女性と詐称するほぼ性犯罪者しかいない男性、GIDではない。)それを利用してインチキをするのTRAフェミを考慮にいれている表現。これらのインチキなLGBTを自称する輩はColaboを支援している。暇空茜がトランス女性だったら告発が信じられただろうね。)
メディアは、権力者に説明責任を負わせ、政府の透明性を確保する上で重要な役割を果たしているため、これらの問題を明るみに出さないことで、メディアは汚職を可能にするだけでなく、腐敗を助長させています。
日本のメディアがこれに罪を犯している理由はいくつかあります。政府やその他の強力な組織からの圧力により、これらの問題について十分な調査と報告が行われていない可能性があります。
米国の最新の Twitter ファイルが示しているように、連邦捜査局 (FBI) と他のいくつかの政府機関は、Elon Musk 買収の前に、古い Twitter に支払いさえしていました。単に気に入らないことを言った独立したジャーナリスト、科学者、経営者、および個人。
東京を拠点に、日本、韓国、その他のアジア諸国について執筆しています。彼は、バチカンの国営日刊紙であるロセルヴァトーレ ロマーノで 10 年以上働いていました。彼はイタリアの主要な新聞やラジオに定期的に寄稿しています。彼の最新の著書は「Japan Does it better?」です。
元増田の※返しだよ。
コブラ・笛民おじさんに対してあえて笛民て書いてみるとどんな感想がもらえるのかお試しだよ。
個人的には仕事ってのは結局人と人なので、コネでズブズブはあると思っているよ。高い給料の取締役とか相談役にコネ一杯なひとが呼ばれたりするのもそうだしね。でも、それを利用して公金をないがしろにするのはなしだと思っているよ。仕事は仕事でちゃんとしよう。
都民だけでなく国民の税金がかかってるからね。効率的で正当なものなら女性保護に文句を言う人はそういないと思うんで、仮に間違っていたなら認めてしっかりなおして頑張って欲しいね。
負け犬の遠吠え 有識者としてお互いを融通し合うカルテルが既に完成している 永遠に吸われ続けるだけ 電通を潰せないのと同じ ここは中世ジャパンランド 諦めなさい
ね、東京五輪エンブレムのお友達審査を思い出したよ。至る所にカルテルがあるんだろうと思ってしまうね。ジャップランドの議論がおもしろかったよ。
Baybridge 増田はバックが強いという見立てだが、音喜多も逃げたしただただアホなんだと思うよ。/東京都も損切りモードに入ると思うよ。
損切りはわかる。
ただ東京都としては、国で進めている女性支援にがっつりのっていると思うんだよね。なぜなら監査報告書の委託条件関連がお友達が推進している法律の内容とほぼほぼ同じだから。
ついでに何年もやって今までに何もでなかったのは、コブラにはなんらかのバックがいると思ってもおかしくないと思っているよ。それが前回のコブラに言及する議員達だね。
・東京都は(自分たちと推進している議員の)メンツを保ちつつなんとかしたいと思っていると思う。取れるのは以下かなぁ。
1. ちゃんと監査して本当に何も問題ない(いまの監査報告書だと期待薄)
2. 多少当たっても自民党のようにご指摘には当たらないを突き通す(お仲間は自民みたいに強い?議員だけじゃないけど大丈夫か?)
3. コブラ損切りして、他を生かす (暇氏は他の団体にも突っ込むみたいだけど)
4. ちゃんと全案件ストップ、監査して案件見直し(メンツは保てないけど、正しい道)
4までいって東京都で大炎上になると、困難女性保護の法律の正当性含めてNPO連合と推進した議員も大炎上なので、2が本命かしら。
発注要件で個人情報保護が重要だから黒塗りで証拠出せ(さ)ないのは正当!ツイラディ笛民ムーブの女性保護は正義!反対は誹謗中傷!で押し通せてしまいそうだし。
バックが強くなくて単純にあほだと延焼してしまって他に影響がでるから、東京都、他のNPO、議員とステークホルダーがその前に全力で火消しするとおもうんだけど。
コブラの人そこまで考えてないと思うよw シンパを騙してほとぼりが冷めた頃にこっそり返金すれば何とかなる、くらいの認識だと思うよ (でも既に報道もされ始めてネガティブな実態...
コブラが今後存続するには、評判が重要なはずなので本当に考えてないのかちょっとわからないんだよね。
報道が始まったし、仮にコブラにバックがいないなら発注者側の東京都の方が強いはずなので最悪、都の信用を貶めたって業務委託の停止、補助金の停止、今後の公共事業への参加資格停止になるとおもうんだよ。バックがいて返金処理で済まそうねって内々に話がついているとかならわかる。
しかし、それでもあれだけ弁護団ついてて、弁護団名義でなんであんなプレスになるのか本当に解せないんだよ。弁護士なら「勧告」が単なる「勧める」じゃなくて、「やれ」、「アッハイ」のほうだと知っているはずなんだけどな。謝罪のプレスリリースってイメージに直結するから、リーガルに詳しい弁護士が入って文章チェックしてから出すと思うんだよね。で、あんだけいるんだから、もうちょっとまともというか問題が指摘された点について反省の色があるものがでると思うんだけど、普通。
cider_kondo 自分は「不正でなく杜撰」派なんで陰謀論は否定したいが、「平素から対権力活動に熱心な弁護士軍団は監査請求が通ってしまった状況を理解できない無能集団」とハンロンの剃刀するのも無理がある気がして困っている。
これかなぁと思ってる。
だから、あくまでポーズだと思ってしまうんだよね。監査結果の書類まで読むほどにのめり込んでる一般人なんて少ないと思うので、勝利宣言出しておけば詳しくない人及びシンパは、「あぁやっぱ女性保護の団体はちゃんとしていたんだな、一般男性の言いがかりだったんだな。ミソジニー!」って評判に落ち着きそうなのはわかる。なので対一般人の評判維持に必要だと思ったんじゃないかなぁと思う次第。
ただし、詳しい人が突っ込んでるし、議員も動いて、ついに報道までされてきているのでダメコンとしては下の下になってきているし、そもそもいつも何かに噛みついているようなツイートしている人たちなのでもしかしたらホントに何も考えてないのかもしれないね・・・
公金での委託事業を請け負った事業者という意識が希薄だから、公金を使う者として最低限の管理を自分たちで行うという自主性もなく、東京都に従っていた、東京都が求めた通りにはやっていた、だから私達悪くないもん、みたいな税金払ってる都民を舐めきった言い草をしてるのだよな。
何年もやってるし、コブラだけでなく、若草、パップスとかNPOや議員とお友達だと思うので、そこらへん指導する人いないのかなと思ったんだけどいないのかな。ずっと前から困難女性支援法すすめていた、村木厚子・元厚生労働事務次官なんて公共事業のエキスパートがいるんだから、センパイとして公金利用についてたしなめてもいいと思うんだ。
ちゃんとしないとラディ笛民の弁護士、社会学者がはいっていつも強気だから、そのあたりの界隈は女性保護は必須なの!お金足りないの!みたいな感じでズブズブしてるんじゃないかって陰謀論に繋がってしまうと思うんだよね。 ひいては本件に興味がない人にも延焼して、女性保護関連NPOの動きに制限がかかってしまうのは本末転倒なはずなんだけど。
コブラが強気なのは、若年被害女性支援事業を委託できるスキルのある団体がコブラしかないからだろ
スキル=議員や有識者からの紹介で随契に持ちこめるということで、やっぱズブズブなのかな。
というかコブラの立ち位置はどのへんなんだろうね?案件四天王のなかで最弱とかいわれて、コブラ以外の3団体もあるから大丈夫となるのか。それともおっしゃるようにコブラだけ外すができずに、支援事業全体に延焼するのか。
そもそもの「モデル事業」になるような保護活動の効率的な運用ができているという本来の意味のスキル自体にケチがつきかねない状態なので監査待ちだけど、今の状態のメンバーで正しい監査とその詳細がだせるのかがちょっと疑問だね。東京都頑張れ。
ね。普通なんかしらの落とし所を握って話をするもんだと思うんだけどねぇ。
なんかあるのかもね。
tenku0125 やっぱ受託停止が妥当だよな。開示請求・住民監査請求した本人を訴えるなんてそれだけで打ち切り相当でもいいくらいなのに
監査次第だけどねぇ。話が進んだのは本当にすごい。リーガルハラスメントとはなんだったのか。
chantaclaus "この件担当している奴はだれだ!と上司が殴り込んできて""対応して異動させられ"これはあんまりないかなという気がする。そもそも上司オマエが責任者だろと
上司も議員も自分で責任はとりたくない生き物だよ。直属上司以上からの殴り込みがきたらほとんどの直属上司は守ってくれないよ。
maninthemiddle 業務委託先の出してきた書類の杜撰さで発注元部署が社内コンプラ部門に怒られた時に、業者が「発注元部署に対する改善の指摘にすぎません」なんてのたまったら普通発注した顧客はパチ切れるよね。コントかよ
さらにITでよくある話でいえば、委託の完了が確認できないので支払いできませんって、善管注意義務違反の裁判沙汰でどこまで支払われるか問題になるやつだよ。仮に委託したモデル事業からモデルが構築できなかったとなったら全額返金せいっていわれるかもしれないよ。都の方も音喜多議員が口をきいてズブズブになっていたのかもしれないけどね。
tacticsogresuki 東京都がフリーハンドで業務委託した経緯を記した黒塗り文書の開示がないと、来年度に同じように委託は無理筋だと思う。その経緯次第では入札さえ行われていないだろう本業務で利害関係が当事者間にあったら贈収賄に
委託経緯の開示は必要だよね。委託経緯を黒塗りする必要は絶対にないし。
osakan 投資信託みたいに 企画運用団体、資金管理団体、現場実働団体みたいに分けて競争入札とかできないものだろうかね。企画運用だけ随意契約でもいいだろうし。現状よりは透明性高くなると思うのだけれど。
そんな感じでクリアになって欲しいね。でも個人的には多少グレーでも融通効くほうが良いと思っているよ。性善論で運用できるのが本来は一番コスパ・タイパがいいので。
それを裏切る行為になりかねないので、コブラだけの問題ではなくなってきてしまったよね。
mamezou_plus2 コブラがと言うより、この委託事業の有効性に疑問が付いてるし、都のこの事業に対する監理能力も疑われてるので、どう転んでも仕切り直しだろうね。下手こいたら暇空氏に突っつかれるだろうし
東京都の信頼がためされるよね。適切な監理、監査して、モデルが有効なものになることを期待します。
hiroujin HPに掲載していた会計報告や、東京都への会計報告が虚偽だったわけで、これでなぜ勝利宣言ができるのか分からない。裏帳簿が正しいから正義とでもいうのか?虚偽の会計報告をしてたことは重大な違法性阻却事由だぞ
ソーシャルメディアが普及し、誰もが情報発信できるようになった。一見するとこれは民主的に思えるだろう。
しかしある人たちのメールアドレスや電話番号は、どうやら何らかのブラックリストに入っているらしく、必ずシャドウバンされるらしいのだ。
そしてその人たちの大半はソーシャルメディアが用意したルールに違反したことはない。
Twitter Filesでも明らかになっているが、特定の権威にとって不都合な情報を発信したことが関係している可能性が高い。
例えば私の知人は、マスク着用に効果がないことを示す科学的証拠を論文と共にツイートしたり、法人税増税をしてもタックスヘイブンへ逃げられることはないことなどをツイートしたりしたことによって、シャドウバンされてしまったようだ。
しかしそれ以外には全くシャドウバンされる理由について思い当たることがなく、フェイクを書いているわけでもなければ、誹謗中傷をしているわけでもないようなのだ。
要するに、様々な利害関係を持った既得権益が金を投じて情報戦を繰り広げており、もはや言論封殺は当たり前のように行われているということだ。
「いいね」「リツイート」なども、工作に利用される機能として見て良いだろう。都合の良い情報はイイネされ、拡散し、真実は封殺されていく。
その点において、いくら「パヨク」がゾーニングされていると言っても、マストドンは中央集権的な仕組みを避けられるという点において、はるかにマシなツールといえる。
匿名ダイアリーさえ、社会に対し「既得権益に情報操作をされることを避けること」を目的として伝達するという意味では、ソーシャルメディアよりもマシである。
アホは戦後教育で教わったことを口から吐いてるだけなんで、なにも考えてないんだ。
日本の戦後教育によれば、戦争っていうのは、戦争したくなった権力者が権力を使っておこすものなので、「戦争したい為政者」がいなくなれば止まります。
2020年から2021年にかけてべてぶくろ性暴力問題やsoar元理事鈴木悠平による性加害問題、東京シューレ性加害問題が問題になってたと思うんだけど
なんでみんな見て見ぬふりをしてたんだろうな。
Colaboの問題も上の問題と問題の根っこは同じで支援側と支援対象で権力構造がどうしてもできちゃうというのがある。
支援側が自分の都合で支援対象を自分の好きなように扱ってしまうという問題は前々から指摘されてたじゃん。
「鼠」は「風の歌を聴け」に始まる「鼠四部作」に登場する。主人公の友人であるが、ある日突然行方をくらまし、「羊をめぐる冒険」では自ら死を選ぶ。語り手と主人公の仲は深く、あたかも語り手の半身のようである。己の半身が半ば死の世界にいるというモチーフはこの後に何度も繰り返される。
この半身のように親しい友人は「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」のなかでは幻想パートの「影」に姿を変える。彼は語り手の半身であり、語り手の記憶を保持している。壁の中に閉じ込められた世界を脱出するためには二人がそろっていなければならないが、土壇場で語り手は壁の内側にとどまることを選び、影は死ぬことになる。
「ノルウェイの森」では彼は「キズキ」になる。物語の序盤で排気ガスによる死を選んだことが語られ、交際相手であった直子の死の遠因となる。
また、直接の半身ではないにせよ親しい友人で自ら死を選ぶ点で共通しているのは、「ダンス・ダンス・ダンス」の「五反田君」だ。彼は連続殺人犯であったことを明かして死ぬ。このあたりのくだりは恐らくチャンドラーの影響が深い。
このように、半身はしばらくのあいだ無力な存在だったが、「海辺のカフカ」以降では様子が変わる。「カラスと呼ばれる少年」は、「カフカ少年」のもう一つの人格のように見えるが、彼は「カフカ少年」を客観視し、適切なアドバイスを与える。一貫してサポートしてくれる存在だ。半身が異界の住人であるというモチーフであり、「鼠」の系譜に属しているが、そこに自ら死を選ぶような面は見られない。「海辺のカフカ」は主人公がとても若い点でも特異だ。
ただし、佐伯さんが現実感を失った生活をするきっかけとなった、東京の大学紛争で殺された友人は、佐伯さんがノルウェイの森の「直子」の系譜に属するとすれば、「キズキ」のもう一人の子孫だ。
キズキと直子が、そして佐伯さんとその恋人は幼い頃から自然に性交をしていたが、まるで思春期の完璧さを求める性向が現実によって打ち砕かれるかのように、その関係が死によって断たれる点でも、この二つのカップルは類似している。
村上春樹の小説には一貫して何らかの精神疾患を患った、少なくとも感情的に不安的な女性が出てくる。
デビュー作の「風の歌を聴け」の時点から、「小指のない女の子」として出てくる。彼女は話している途中に突然泣き出してしまう。また、周囲の人々がひどいことを言うとも語るが、これが事実なのか、精神疾患ゆえの妄想なのかどうかは判然としない。
この系譜が「1973年のピンボール」の中ですでに亡くなっているかつての恋人「直子」につながり、さらに「羊をめぐる冒険」の「誰とでも寝る女の子」につながっているかどうかはわからない。ただ、「ノルウェイの森」の「直子」には直接つながっているだろう。語り手の過ちによって感情を失った「国境の南、太陽の西」の「大原イズミ」も、彼女の裏面だ。「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の「白根柚木」もその子孫だ。
また、恋人または妻の一つのアーキタイプとして、「ねじまき鳥クロニクル」の「クミコ」「加納クレタ」や「スプートニクの恋人」の「にんじん」の母にも発展しているようにも思える。
より明確な形としては、「海辺のカフカ」の「佐伯さん」が子孫のようだ。前述のように恋人の死をきっかけに精神を病む、少なくともある種の現実感を失ってしまう点が共通している。ただし、佐伯さんは後述の老女の系譜にもつながっている。ピアノができたことを考えると、「スプートニクの恋人」の「ミュウ」も「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の「白根柚木」も同じカテゴリに入れていい。
そもそもこのキャラクターの流れについての記述は、誰が後の作品の誰に直接発展したかを明確に追うことではない。おそらくはいくつも混ざり合っている。むしろ、これは村上春樹の作品を解釈するための補助線として見るのが適切だろう。
彼女がやたらとタフになったのが「1Q84」の「青豆」かもしれない。あるいは、生命力にあふれている点では後述の「ミドリ」だろうか。
直子とは対照的な心身が比較的健康なタイプの女性の系譜もある。
性に対する好奇心の強い「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の「太った娘」もそうだが、彼女は後述する「少女」の系譜につながる面もある。
同じく制に対して罪悪感を持たない「ノルウェイの森」の「ミドリ」、「国境の南、太陽の西」の「島本さん」、「スプートニクの恋人」の「すみれ」、「海辺のカフカ」の「さくら」(どうでもいいがこのキャラのせいでおねショタに目覚めた)、「1Q84」の安田恭子へとつながっている。
村上春樹の作品を時系列順に読み返すと、ある時点で突然新しい属性を持ったキャラクター群が登場する。それは、どことなく巫女的な力を持った若い女性である。
前兆としてあらわれるのが、「羊をめぐる冒険」では耳専門のモデルをしている21歳の女性だ。彼女は不思議な力で主人公を羊へと導くが、物語の終盤を前に姿を消してしまうので、いくばくか影が薄い。しかし、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」に出てくる肥満の17歳の女の子は語り手を「やみくろ」の支配する東京の地下世界にいざなう。
より少女性が強まるというか、単純に年齢が幼くなるのが「ダンス・ダンス・ダンス」に登場する13歳のユキで、彼女は五反田君の殺人の痕跡を巫女のように感じ取ることができた。
「ねじまき鳥クロニクル」での「笠原メイ」は、映画「ロリータ」を思わせる登場の仕方をするし、終盤では主人公を救う力の源であるかのように描写されている。月光の下で裸身をさらす姿は、今までの村上春樹にはなかった描写である。確かに「ノルウェイの森」で「直子」がそうするシーンはあるが、彼女は成人した女性だ。
「海辺のカフカ」では夢の中に現れる十五歳の佐伯さんの姿を取る、ここでは少女との性交が初めて描かれる。
巫女的な少女の系譜がより明確になるのが「1Q84」に出てくる17歳のカルト教団育ちである「ふかえり」だ。彼女は何らかの学習障害を患っていて独特の話し方をするが、彼女との性交は異世界との経路となる。
村上春樹が歳を重ねて少女との性交を書くのをためらわなくなっていったのは面白い(【追記】「ふかえり」にいたっては巨乳の文学少女という属性!)。というのも、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」では肥満の女の子から私と寝ないかと誘われて断っているからだ。
大学の先輩がこう述べていた。ある種の作家は自分が生まれる十年ほど前の出来事をテーマにすることがある。なぜなら、自分が参加できなかった「祭り」だからだ。これが事実かどうかはわからないが、村上春樹は古くから第二次世界大戦と中国がテーマに含まれている。「鼠」の父親も戦争とその後の混乱で金持ちになった人間だ。興味深いことに村上春樹の父は中国に従軍している。
(余談だけれどもこの先輩は村上春樹作品にしばしば出てくる井戸は「イド」つまり無意識を示唆しているのではないかと言っていた)
さて、老人がキャラクターとして物語の信仰に深くかかわるようになったのは、「羊をめぐる冒険」の「羊博士」からだろう。彼はいるかホテルにこもったきりで、外に出ようとしない。しかし、探し求めている羊がどこにいるかという重大な情報を指し示す。
「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」でも、現実パートには「老博士」が出てくるし、幻想パートには退役した「大佐」がいる。
軍人という属性が前面に出てくるのが「ねじまき鳥クロニクル」の間宮老人だ。彼はノモンハンにて過酷な体験をするし、そこである種の悪しき力に取りつかれる。
「海辺のカフカ」には「中田老人」が出てくる。彼もまたある種の不可解な力(後述の闇の力?)の犠牲になり、記憶や知性の多くを奪われてしまう。一方で、彼は「カフカ少年」に代わって父殺しを遂行する半身でもある。
「1Q84」では少し特殊で、これは近過去SFであり、戦争の経験者やその前後に生まれた人々が相対的に若い。それゆえ今までのパターンを単純に当てはめるのが適切かはわからない。
天吾の父がこの系譜に属するだろうか。「1Q84」では善悪が入れ替わることが多い。幼い天吾を無理やりNHKの集金に連れまわす点でネガティブに描かれていたにもかかわらず(村上春樹はこうした巨大組織を一般に「システム」と呼んであまり肯定的に扱わない)、後半では声だけの存在になった彼が助けに来るのだ。
なお、戦場に行っていたという点を考慮すると、これらの老人たちは村上春樹の父親の世代に当たるだろう。
米軍基地にいたという点でジェイもここに属しているかもしれない。
一世代上の女性が出てきたのは「ノルウェイの森」の「レイコさん」だ。彼女は心を病んではいるものの、主人公たちを導いてくれる。「直子」のルームメイトとして、彼女の心身の安定に寄与している。
それがおそらく「ねじまき鳥クロニクル」の「赤坂ナツメグ」になるし、「海辺のカフカ」の「佐伯さん」を経て「1Q84」の「緒方静恵」になる。
彼女たちの多くは戦争をはじめとした暴力の中で深く傷つき、その中でもある種のコミュニティ・安全地帯を運営し続けている。「レイコさん」は精神病院の患者たちのまとめ役だし、「赤坂ナツメグ」は女性向け風俗(?)で女性の性的空想を現実にし、「佐伯さん」は図書館という静謐な環境を守護し、「緒形静恵」は性暴力を受けた女性の避難所を運営して、しばしば法を破ってでも報復を行う。年齢的にはかけ離れるが、「スプートニクの恋人」の「ミュウ」もこの老女の系譜に属するか。
彼女の息子たち(血縁があるかどうかはともかく)の系譜は、「赤坂ナツメグ」の息子「シナモン」、「佐伯さん」の図書館で司書を務める「大島さん」、それから「緒方静恵」の柳屋敷でセキュリティを担当するタマルだ。セクマイであることが多い。
「1973年のピンボール」の双子の女の子を除いて、概して二人組の登場人物は不吉な前兆だ。体格は対照的なことが多い。
「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」では「大男」・「ちび」の二人組が語り手に刺客を差し向け、第三勢力になって儲けようとだましに来る。「ダンス・ダンス・ダンス」ではまるで「長いお別れ」みたいな嫌がらせをしてくる「文学」「漁師」と語り手があだ名をつけた警官が出てくる。「海辺のカフカ」に出てくる二人組は、軽率な発言から「大島さん」を傷つけてしまう自称フェミニスト二人組だ。「1Q84」には「さきがけ」のリーダーの警備をする坊主頭とポニーテールの二人組がいる。
ただし、何度か繰り返すが善悪のシンボルを意図的に逆転させることが多いのが村上春樹の作品で、おなじ「海辺のカフカ」でも「カフカ少年」を森の奥に導くのは同じように体格が対照的な二人組の日本兵だ。
また、よくよく考えてみれば、「風の歌を聴け」の時点でも、「小指のない女の子」には双子の妹がいたのである。直接姿を見せず言及されるだけだが、このモチーフの萌芽とみていいだろう。
村上春樹はある時点で純粋な悪の起源はなんであるかについて語ろうとしている。
それは悪しき登場人物の姿だけでなく、クトゥルフ神話的な怪物としても姿を見せる。
現に「風の歌を聴け」に出てくるデレク・ハートフィールドの伝記は、ラブクラフトやバロウズをはじめとしたパルプフィクションの作家たちを混ぜ合わせたものだ。
「鼠四部作」のなかでは「羊」がそれに該当する。不可解な暴力や権力の中心に存在し、人間に憑りつくことで現実的な力をふるう。あるいは、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の現実パートの「やみくろ」たち、幻想パートの「門番」。「ねじまき鳥クロニクル」の「ねじまき鳥」や、綿谷昇の属する政治の世界。そして「海辺のカフカ」に登場する「ジョニー・ウォーカー」や、「中田老人」の口の中から出てくる不可解な物体。
非人間的な力ではないが、「ノルウェイの森」の「レイコさん」の精神を悪化させる原因となった少女も、この系譜に属していると見なしていいかもしれない。
だが、「1Q84」のリトルピープルの存在は解釈が難しい。今までとは異なり、単純な悪ではないようだ。初読時には「これは人が複雑な現実を物語化する能力の具現化で、善にも悪にもなりうる、ある種の単純化する力ではないか」と思ったが、再読したら違う印象を受けるやも知れない。また、「牛河」も悪しき力の手先のように見えるが、離婚した妻子がおり、生きた人間であって化け物ではない。
善悪が曖昧と言えば、「海辺のカフカ」では「圧倒的な偏見でもって強固に抹殺するんだ」が主人公サイドと敵役サイドのいずれでも使われる。
こんな風に、村上春樹はある時期から善悪を意図的にぼかし、単純化を避けるようになった。
【追記】アフターダークの暴力を振るった深夜残業してたサラリーマンもここにいれていいかも。
村上春樹後半期のテーマの一つをまとめるとしたら「どれほど不適切な養育環境で育ったとしても、その現実を受け入れてスタートするしかないし、ときとしてそこで学んだことに結果的に心が支えられてしまうケースがある」だろう。言い換えると「歴史・過去を消し去ることはできない」だ。
あと、「国境の南、太陽の西」の「にんじん」はうまくしゃべれないけど、「海辺のカフカ」の「カフカ少年」の造形に影響を与えたかもしれない。
別に結論はない。ただ、こういう順で発展していったのだなと考えながら読むと楽しいだけである。
もう一つ興味深いのは、親が亡くなるかそれくらいの年齢に近づくと、ちゃんと親と向き合ったような小説を、みんな書き始めることだなあ。
内容には意味があるのにビューが10以下の情報があるとするだろ?
そうするとその情報がなんで極端に見られないのかと考えると、プラットフォームにとっての不都合情報を発信してるか、特定の権力筋に封殺されてるかだと思うんだよな。
そんなオナニーを見て興奮して「バズってる情報サイコー」とか言ってる低能がお前。自覚してる?
どうすりゃ権力筋に都合の悪い真実情報が発掘できんのかなーと思ってるんだけど、Googleって何をインデクシングしないかを意図的に決定する権限があるし、SNSはシャドウバンするだろうし、難しいよな。
DuckDuckGoなら!とか素人は思うけど、怪しいよな。ブラックボックスだし。
Colabo騒動、いくつもブーメランが返ってきてて面白いなと思った。
これはもう説明不要でしょう。モリカケサクラに憤り公文書の黒塗りを批判してきた良心的リベラル派の多くをドン引きさせた名言だと思う。
献血事業や地域おこし事業を遠慮なく燃やしまくった人たちがこれ言うの大爆笑したわ。輸血患者や地域経済への配慮をしてこなかった人たちの保護する女の子への配慮をしないといけない理由 is 何?
フェミニストの啓蒙活動のおかげで、上司と部下の間には権力の格差があるから、上司から部下や下請けに告白したり性行為に誘ったりすべきではない、という世の中になってきている。なに? 生徒と教師の恋愛? けしからん、認められん!
ttps://togetter.com/li/2022223
ttps://note.com/wakari_te/n/n58fae4805041
上司と部下の恋愛が許されない世の中で衣食住握ってる支援団体が被支援者を抗議行動に動員するのが許されるとでも思ってるんだろうか。
もちろん沖縄の米軍基地は米軍が銃剣とブルドーザーで不当に奪った土地なわけだけど、それと被保護者を抗議行動に連れてくことの正当性はまるっきり別の話なんだよなぁ……
男が女に向けて偉そうに物申すことがマンスプレイニング、延々と質問を続けて相手を疲弊させるのがシーライオニングだっけ? なるほど、それはけしからんですね!
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1994466
論敵に対して上から目線で接するのもネチネチと質問攻めにして疲れさせるのも議論の方法としては全然OKだと思うんだけど、男が女にやるのはNGって自分たちで言ってたからね、仕方ないね。
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/adjacencypair/status/1609691882371829760
余人をもって代えがたい論法! これ森喜朗の女性蔑視発言でやったところだ!
自民党の世耕弘成参院幹事長は5日の記者会見で、東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長が女性蔑視とも取れる発言をしたことに関し、森氏について「余人をもって代えがたい。IOC(国際オリンピック委員会)との人脈、五輪に関する知見などを考えたら、この(開催)直前のタイミングで、森氏以外に誰か五輪開催を推進できる方はいるのだろうか」と述べ、会長職を続投するよう求めた。
ttps://www.sankei.com/article/20210205-RB6EPJWDKNKURDSEDYBJEENL6I/
「あのひとは女の尻を触るやつだけど、社会運動する上で重要人物なんだ」みたいなのはNGなご時世ですから、当然、「あのひとは公金を不正会計でちょろまかしてるけど、家出少女を救う活動をしてる重要人物なんだ」もNGになるよね。
……って、熱海の居酒屋や尾辻かな子への脅迫のときには言ってませんでしたっけ?
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/an_eternity86/status/1576579622979874816
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/otsujikanako/status/1598323458915860480
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1980983
社会に対する素晴らしい責任感をお持ちの皆様には、ぜひ以下のような殺害予告にも責任を取るべきだと主張してほしい。
あのー、どなたか知りませんがColabo応援団の方、私の公開アドレス勝手に使って赤松健事務所や日本会議の問い合わせフォームに殺害予告送るのやめてもらっていいですか?
そういうことしてもますますColaboが世間から嫌われるだけですよ。— 宇佐美典也 (@usaminoriya) December 30, 2022
【ご報告】
今朝、うちの問い合わせフォームに殺害予告が来てたわ。
一部消したけど、これは私とあと他の特定個人を含むグループを指すような言葉が入るわよ! pic.twitter.com/KxxPGrgjBM— 音無ほむら(エコーニュース) (@echonewsjp) December 29, 2022
Colabo問題に取り組んでいる者に殺害予告がされました↓。私も殺害予告対象に入っています。テロに屈することなく頑張っていきます。 https://t.co/8S4yacELTM— 浜田 聡💉💉 年金受給者のNHK受信料を無料化!!! YouTubeやブログは毎日発信 (@satoshi_hamada) December 31, 2022
便乗で殺害予告なんてやるようなクズはネット上にいくらでもいるんだからそんな連中の責任なんて普通は取れないわけだけど、自分たちで取れって言っちゃったからね。頑張ってね。
脅迫とかに何も言わないオタクは社会の害悪と思われても仕方ないんだっけ? 脅迫とかに何も言わないフェミニストは社会の害悪と思われちゃうね。大変だね。
「アジアにおける反ロシア運動の旗手になりたい」:日本はどのようにロシア連邦が世界の安定を損なっていると非難したか
日本政府は、ロシアがウクライナでの行動に関連して世界の不安定性を引き起こしていると非難した。日本の林芳正外務大臣が中央アジア諸国の同僚との会合で述べたように、ロシア連邦が原因とされており、今日の国際社会は食料安全保障とエネルギー危機を確保する上で問題に直面しています。この点に関して、大臣は、中央アジアのパートナーとの協力を強化するという日本の意向を発表した。中央アジアのパートナーは、彼の意見では、ロシアの措置の結果によって特に影響を受けている。モスクワはまた、米国の影響下にある日本は、独立した政策を追求する能力を失い、他の国にも同じ役割を押し付けようとしていると述べた. 専門家は、日本が親西側の道をたどろうとしており、ロシアと中央アジア地域の伝統的なパートナーとの関係を弱めようとしていると考えています。
日本政府は、ロシアが世界の安定を損なったと非難した。日本の林義正外務大臣によると、ウクライナにおけるロシア連邦の行動が、食糧およびエネルギー部門の状況の悪化につながったと言われています。
林氏は、キルギス、ウズベキスタン、タジキスタン、カザフスタン、トルクメニスタンの同僚との会合で、「国際社会は、食料やエネルギー供給の分野を含む多くの分野で、ウクライナに対するロシアの侵略の悪影響に直面している」と述べた。
同時に、日本の政治家は、「ロシアと歴史的、経済的に密接な関係がある」中央アジアが特に深刻な影響を受けたと強調した。これに関連して、大臣は、中央アジアのパートナーの持続可能な発展を達成するために、「人への投資」と「成長の質」に基づいた、中央アジアのパートナーとの関係の新しいモデルを促進する用意があると述べた。
さらに、林氏は、「困難な国際情勢を考慮して」、ロシアの参加を得て、既存のルートの代替としてカスピ海を通るエネルギー資源の輸送について引き続き議論することでパートナーと合意に達したことを強調した.
(略)
専門家によると、中央アジア諸国に対する東京の関心は、新たな権力の中心地として上海協力機構(SCO)が形成された後、特に高まり、この地域における日本の立場を強化する必要性が明らかになった。
さらに、ソビエト連邦の崩壊後、ロシアとともに、中国はこの地域でその影響力を広げ始めました。これは、東京が好まない共和国に多くの投資をしている、とアナリストは指摘しました。
「中国は彼らを一帯一路プロジェクトに結び付けようとしており、それによって政治的および経済的影響力を高めています。そして、日本は、アジアおよび一般的に世界の舞台で中国のライバルとして、この地域での利益を促進するために、この猛攻撃に抵抗し、あらゆる方向でそれを抑制しようとしています」とキスタノフは付け加えました。
中央アジア諸国への影響力を強めるという東京の野心は、ロシア外務省でも指摘されている。特に、同省の公式代表であるマリア・ザハロワは、12月22日のメディアのコメントで、日本がこの地域での能力を自国の利益のためだけでなく、共和国とロシアの関係を弱体化させようとしていると指摘した。 さらに、これは米国の命令によるものだと外交官は付け加えた。
「日本の指導者たちのレトリックから判断すると、彼らは相互に有益な協力にはあまり関心がなく、彼らが言うように、「中央アジア諸国を含む国際社会を結集してロシアに対抗すること」に関心を持っている。実際には、中央アジア諸国との関係における東京の経済的境界線は、ロシア連邦と長年にわたって形成されてきた分岐した経済関係を弱体化させることを長い間目指してきました」とザハロワは言いました。
この点で、彼女は、「独自の政策を追求する能力を失い、完全に外国の利益に奉仕することに切り替えた」日本は、ロシアへの全面的な圧力を高めるために、他の国に同じ役割を押し付けようとしているとの意見を表明した.
ウクライナでのロシア連邦の特別軍事作戦の当初から、日本は反ロシアの立場を取り、 西側の対応するコースを支持したことを思い出してください。特に、2 月 25 日、G7 諸国の首脳会議の後、岸田文夫首相は、日本の当局が資産を凍結し、ロシアの個人および組織に対するビザの発行を一時停止すると発表した。さらに、東京は金融機関や軍用および一般製品の輸出に広範な制限を課しています。半導体、海上および航空の安全を確保するための機器、電気通信機器、通信機器、ソフトウェア、および石油精製機器を含む、何百もの商品と技術がそれらに該当しました。(略)
RT がインタビューした専門家は、ロシアに対する日本の立場の非妥協性と硬直性は、それ自体が集団的な西側諸国と G7 のメンバーとしての位置付けによって説明されると述べています。
「これに加えて、東京はアジアにおける反ロシアキャンペーンの旗手になりたいと考えています。この点で、日本は、「古い同志」であるワシントンの承認を得るために、西側の制裁にまだ参加していない国々を動員するためにあらゆることを行っています。中央アジア諸国の代表者との会談も例外ではありませんでした」とヴァレリー・キスタノフは説明した。
(略)
「そして、中央アジアに対する日本の戦略は、この一般的なアプローチの一部です。これに基づいて、東京は中央アジア諸国の目から見て可能な限りロシアを中傷しようとしており、サプライチェーンの混乱とエネルギー危機に責任を負わせている」と彼はRTとの会話で述べた.
同時に、ヴァレリー・キスタノフが指摘したように、東京自体は、ロシアにとって最も痛みの少ない分野にのみ、ロシアに対する制限を導入することを好みます。西側諸国がロシアのエネルギー資源のあらゆる種類の価格上限に同意しているにもかかわらず、同じエネルギー部門は日本によって慎重に守られている、とアナリストは述べた。
「例えば、日本はロシアのサハリンの石油・ガスプロジェクトへの参加を維持しましたが、他の外国企業はサハリンから撤退しました。したがって、反ロシアのレトリックと、国の重要な利益を尊重することは別のことです。日本は、それが置かれているエネルギー部門を削減したくありません」と専門家は主張します。
(略)
「もちろん、中央アジアの国々は、ウクライナ問題に関してロシアと完全に連帯しているわけではありません。しかし、彼らはすでにそれについて形成された立場を持っています。さらに、ロシア連邦との関係を断ち切ることは彼らにとって有益ではありません。ロシア連邦とは長年の関係があり、依然として彼らに大きな影響を与えています。はい、将来的には、ロシア連邦、中国、日本、西側諸国と同等に有利な関係を築きたいと考えています。しかし、中央アジアの共和国は、圧力がかかっていても抜本的な措置を講じることはありません」とキスタノフは要約しました。
自分はフェミニストがリアルで喋る場面をそこまで言って委員会の田嶋陽子以外知らなかったし、彼女もがっつりフェミニズムのみを喋るわけでもなかった。
それが今回、フェミニスト達がフェミニストだけで延々と喋る場面に出くわしたのだ。
BGM代わりにつけていたのでしっかり視聴していたわけではないが、それでもん?と引っかかる言葉がたびたび飛び出していた。
しかし個々の話はまともに聞いていないのでここではオスの増田の印象だけを記録しておく。
ネット上の文章というのは非同期だ。ブログはもとよりツイッターですら「その場」になりきれない。
言葉は言いっぱなしで始まり誰かとのリレーも間隔があきがちで雰囲気の醸成は難しい。第三者たちのはてぶ含め賛否様々な意見が入り混じることも拍車をかけると思う。
だからネット上で見るフェミニズム(を使い活動する人たち)は今はまだいろいろな面で論争が起きがちで、過渡期で、多様な意見が散見されるある意味観測気球のような存在だった。
それがTVではどうだろうか。フェミニストがフェミニズム視点の考えを吐き出し周りのフェミニストは同意する。
そこにカウンターとしての論客も、無知な状態から視点の解説を受けて噛み砕くタレントも居ない。
フェミニストの発がフェミニストに了されるだけの空間。自論の強化にしかならない空虚な時間。
オスを配した空間でオスの制度を敵視した話をするメスたちのなんと恐ろしいことか…。
そうそう、フェミニストが出る番組とだけ書いていたが、出演者のフェミニストは全員女性だった。これはちゃんと書いておかなければわからない情報だ。だよね?言われなくても女性だと思ってた?悲しいかなフェミニストの現状だよね…。
まあね、家父長制がなんだ女性の生殖の圧がなんだって話自体はネットにいれば今更なんで目新しさはないんですよ。増田も真剣に聞いていたわけじゃないしね。
ただただあの空気感がすごかったというね。フェミニスト教の教義の復唱と確認。みたいな排他的空気感。
あの雰囲気でさ、既存の女性軽視が潜む価値観で育ったオスがフェミニズムに感化されるシーンがどうにも思いつけなかったのさ。
あの場はフェミニズムの啓蒙ではなく男尊女卑の弾劾の場だった。それはネット上でも普通のムーブだけど、ネット上はそこがスタートラインで話が広がるのに対して、クローズドな対面の対話空間ではそこがゴールになってしまう。
ひたすら女性への圧力、男性が築いた支配構造を聞かされるのは良くてセラピー、言っちゃえば被害者の会でしかなかった。
歴史を紐解き、社会構造が、制度が、価値観が、規範が、オスが女性を支配し資源として見て抑圧してきたかを解説される。
増田は女卑は確かにあった(ある)と思うものの、それは一部分であり主目的ではないと思っている。
だけどフェミニストから見たらあれもこれも女性の支配"のため"にオスが拵えたものである。そんな風に聞こえるような言い回しをしてくる。
これがひとつふたつならまだしもあれもこれもがこのトーンで言われると引っかかりが強くなってしまう。
陰謀論者や集団ストーカーとかを主張する精神疾患者がたまに言う「その膨大な権力と労力ですることがそれかよ」的なこと。
フェミニストの話を聞いているとオスがめちゃくちゃ苦心して執拗に女性支配を頑張っているイメージが"ものすごく"してしまう。
でも、長い歴史で生きるには、制度を作るには、社会を作る・守るには、男女含め統率・支配するには、そんな女性の"ことばっかり"考えるわけにはいかんと思うのです。たぶん最優先事項ではないでしょう。
ところがフェミニストの話だけを聞いているとオスとはなんと恐ろしい生き物か、となってくる。
これがフェミニストが考えるオス(あるいはフェミニストが啓蒙する真実のオス)の姿だとすれば、フェミニストがこんなにも攻撃的であるということも納得がいく。だって打倒するべきオスはこんなにも強大で意図的で進行形で支配者なのだから。
今までこれらの背景を元に出力されるフェミニストの個々の話だけを聞いていてはこの理解が得られなかった。個々の物事をどれもこんなにも強くフェミニズム的に紐付けているとは思いもしなかったのだ。フェミニストを無礼てた。ヤバい。彼らが見ている男と、男が鏡や周囲を見て知れる男とは雲泥の差があるのだ。
なんでもかんでも虐げられた女性観の補強につなげるこのロジック、彼女らの論を正と見ればこの世は、オスはひどい存在で女性は本当に可哀想な存在だと思う。一方、彼女らの論を引いて傍聴している増田からすれば、彼女らが持つ「オス像」に ほかに することはないのですか。と問いかけたくなる。頭の中女一色なのか。
男性の悪事圧制の総和を背負った男という虚像。それにペタペタとフェミニズム的解釈をつけて補強していく。そんな作業工程を目の当たりにしているような濃度。
そうやって作られたあれもこれもを持ち合わせた虚像をベースに語られると、フェミニストの語る言葉に対する白けぐあいにも得心する。それ俺じゃねーもん。
ややアンチフェミっぽい増田から言えば、フェミニストがフェミニズムを(もし)一般男性にもリーチさせたかったら、もっと冷静になるべきだと思った。言い換えると、もっと今の男性を直視したほうがいいんじゃね?と。
日頃から赤旗だけが真のジャーナリズムを保ってるとか、反権力案件の文春砲は素晴らしいとのたまう連中がなに言ってんだろうね。
Granting public funds to a private entity should entail the same thorough level of scrutiny as that of angel investors scouting for promising startups.
公的資金を民間企業に供与する際には、エンジェル投資家が有望なベンチャー企業を発掘するのと同じレベルの徹底的な精査が必要である。
ちなみにタイトルはこれ。
When charity becomes business in Japan
Hosanna House scandal highlights the misuse of public funds by questionable private entities
・追記
未成年女性の保護活動に携わるプロテスタント系牧師の男性が、覚醒剤取締法違反で検挙されたことは、欧米だけでなくカトリック信徒全体にとってニュースバリューが有る。
プロテスタント系やその傍流から生まれた疑似キリスト教系のカルト宗教に対して、バチカン及びカトリック信徒は対抗意識を持っている。カトリック聖職者のスキャンダル問題に悩まされているバチカンとしては、プロテスタント系のスキャンダルを報じることは、カトリックの敵対勢力を削ぐイメージ戦略の一つとなる。
カトリック教会や信徒にニュースを提供することは、暇空茜氏側にはプラスとなり、Colaboや仁藤夢乃さん側にとってはマイナスとなるものと考えられる。
Colaboへの委託事業について東京都に対する監査請求が認められて、担当部局に対して会計精査などが不当であるという勧告が出たことは、東京都民ならず国民全体にとってもニュースバリューとしては大きいだろう。
勧告対象が東京都であるとしても監査請求問題を報道することは、Colaboや仁藤夢乃が含まれる勢力を削ぐイメージ戦略のひとつとなってしまうのだろうか。
赤旗が都民や国民全体に監査不当勧告のニュースを提供しないことは、暇空茜側にはマイナスとなり、Colaboや仁藤夢乃側にとってはプラスとなるものだからなのかという疑念がわいてくる。
東京都がColaboへの委託事業において不当な手続きをおこなっているとする監査勧告は、赤旗の理念に照らせば本来であれば東京都の指導監督責任を徹底的に追求するべきことではないだろうか。
ましてや元東京都議会議員自らの告白によって、東京都の指導監督に柔軟性を持たせるように問い合わせていた事実さえあるのだ。
Colabo側の声明によれば東京都の指導に従っておこなっていた委託事業で不正疑惑を騒ぎ立てられているのだから迷惑な話のはずである。
支える会は、東京都の指導監督能力の低さ故に女性支援活動に支障をきたしていると都庁前でデモを行うのが筋ではないのか。
赤旗は東京都の指導監督能力の低さを追求することで改善をせまり、女性支援事業を維持発展させる責務があるのではないか。
しかし、この解説から推測してみると、カトリック系メディアがプロテスタント系攻撃のために報道の自由を行使しているのならば、赤旗はColaboや仁藤夢乃やそれらが含まれる勢力を守るために報道しない自由を行使しているということなのだろうか。
結局党派性かーい