はてなキーワード: 公論とは
毎日新聞記者の、コラボネタは報じる価値が低いということでマスコミ各社一致している、SNSは偏っているという旨の発言に触れて思ったこと。
「紙の新聞の余命は15年」との観測記事とあわせて眺めるに、たいへん趣深い。
https://togetter.com/li/2036314
https://news.yahoo.co.jp/byline/kamematsutaro/20230101-00330946
ここからは本当の末期だというわかりやすいメルクマールだ。闘病中と聞いていた知人がガリガリの別人みたいな相貌に変わっていたらいよいよかと思う、そんな感じ。
そもそも緘口令が出ているかのように黙殺したり、年はじめで各社一斉に同工のフォーマットで報じるその一糸乱れぬ斉一ぶりは異様だ。そういうのが当たり前になっていること自体が。
もっとコラボの悪行を報じろよとか暇空氏にも味方してやれよとかいう話ではない。
つまらない私闘にすぎないとかよくあることだとか言うなら、そのつまらないことがかくも多くの人間の関心を集めているということ自体が常には無い変事だろう。取り上げる切り口なんていくらでもあり得る。ネットでいま〇〇が話題だそうです式のお手軽ヤドリギ記事は大好きだったはずだ。
ひたすら「特落ち」を恐れ、また「抜け駆け」はせず、まるでお役所みたいに決めごとで動くジャーナリズム。どうかしてるぜ。という指摘はかつて上杉隆らが行った。その後の体たらくは誰もが知る通りだが。
有限な紙幅にニュースバリューの高い順に取り上げられてるだけで他意はないと言えばもっともらしいが、滑稽なまでに「一糸乱れぬ」動きの言い訳にはなっていない。
そもそも「情報の重大性」と「紙面への取り上げやすさ」は全く別である。
例えば紛争地域のリアルタイムでの実情などは、重大さは最大級であり、一次情報の取得コストも大きい。つまり取り上げやすさは最小。
一方「小学生が田植え体験をしました」みたいないわゆるヒマネタは、誰一人関心はないが業務上極めて扱いやすい「定型文の穴埋めで作れる記事」であり「予め予定が立つニュース」である。重要度ほぼゼロ、取り上げやすさMAX。
お上のプレスリリースと違い、スペースの都合で没にするのも自在。
大都市圏居住者は、あるいは実際には見たことがないかも知れない。地方紙の社会面や地方局の夕方ニュースにおいて、田植え体験や高校生のSDGsの取り組みの模様が永遠に垂れ流されるのを。ニュースバリューとは。
知られた話だが、新聞社は調査報道機関ではない。納品された情報を整理して受け流す、聞こえよく言えばキュレーターである。
形の揃った野菜を出荷するみたいに「いつもの定番ネタ」は業務ルーティンにするっと乗りやすい。
まだ世評・解釈の定まっていない新奇な話、いびつなキュウリははじかれやすい。ニュースバリューとは。
しかしそういう型にはまった本邦マスコミ報道のありかたはひとえに害でしかなかったのかと言えば、そんなこともない。主な利点はスタビリティということにある。おつむの軽い「熱血記者」は悪いやつらにうまく利用されるのが関の山だ。世間は大新聞の腰の重さをむしろ信頼してきた。
そもそも良い報道とは? ジャーナリズムとは本来どうあるべきか? といった問いにみんなが納得する答えはあるか。ジャーナリズムが共有すべき、一番ベーシックな価値とは何か。
「権力を監視すること」とか言ったって国家権力ばかりが権力じゃない。
「事実をありのままに」とか「客観的に、公平公正に」みたいなことは実現不能だ。
実現不能なお題目を掲げることは建前と実態の乖離を常態化させ固定してしまう。
そもそも電波法に縛られるTV局は別として、新聞社に中立の義務はない。
思うにやっぱり「果敢さ」しかねぇんじゃねぇの? なんとか月衣塑子みたいな薄っぺらい熱血妄動に陥らないようバランスを取りつつの。
こんにち新聞が相手にされなくなる一方で、文春のスキャンダリズムが一定の信頼を得ているのを見よ。
政権与党にガツガツ果敢に切り込む新聞があったり、むしろ野党にガンガン行く社があったり、それぞれの角度から検証可能な形で情報を提供する。
それらが合わさりデコボコを埋め合って、民主主義社会のいわば媒質であるところの公論の場ができる。
そもそも、マスコミの存在目的とはその社会に生きる人々の共有する「場」を提供することなのだ。一億人が同じ情報に容易に触れ得るということによって。情報の水の中に個人は油滴のように浮かんでいるのだ。
オールドメディアがネットにお株を奪われたのは、速報性とか取材力とかいうことではなく、その「共通の場を提供する機能」である。つまり本質の部分。
マスメディア全盛の時代にも、それ以外の情報伝達経路、例えば万古よりの「噂話」が命脈を失ないはしなかった。
でも文字通りマスに同時に届けられるという点で、すなわち前述の「場を作る機能」において、新聞TV会社は特権的立ち位置にあった。
今はそういう時代ではない。
それなのに「なんだかんだ言ってもぼくらプロの新聞記者の取材力、信用にはSNSなんかはまだまだ太刀打ちできないでしょ」とふんぞり返る記者様の図。まさに悲喜劇。
王国が滅びようとしてる現実に向き合えない落日のお貴族様の姿だよ。
■追記
「そんなに新聞様に取り上げてほしかったらしかじかの体裁をとれ」というコメントが付いている。
だから暇空のこともっと取り上げて欲しいという話はしてないんだけどな。
「取り上げてやるかどうかの基準はこうだ」と硬直的な決め事を振りかざすのは、換言すれば咀嚼力のなさを自慢するひ弱なお公家さん仕草であり、マスコミの生命力低下のあらわれであると言っている
はてなブックマークやTwitterなどで、「中立」「客観」と言った態度について批判的に論じるものをたびたび見かける。特に、差別や政治など、権力闘争の類で非対称性が存在するときによく使われるイメージがある。それらについて私なりに論点を整理してまとめ、コメントしようと思う。これらの論に親和的な人も、逆に批判的な人も読んでほしい。
まず、当たり前の話なのだが、何かを批判するときは通常複数の論点から批判できる。
例えば、社会民主主義は新自由主義の立場からすれば「市場が政府権力によってゆがめられ、効率的な資源分配が出来ない上に政府権力が不健全に増大する」と批判できるし、共産主義の立場からすれば「結局彼らは資本主義や自由市場と言った搾取を『多少マシ』にしている程度であって、本質的解決には役に立っていない。どころか、革命に向かう人々を減らすという点で有害ですらある」と批判できる。
これを見て、もし社民主義者の人が「アンチ社民主義者は矛盾している。市場原理主義みたいなことを言いながら、資本主義を否定している。彼らは矛盾している」と言うのがおかしいというのは分かるはずだ。あるいは、「新自由主義者は社民主義を批判している。これは共産主義者と同じだ。よって新自由主義者は共産主義者なんだ」もおかしいとわかるだろう。
インターネットではそれぞれの発言と発言主が結びつかず、なんとなく「自分の考えを非難する人」を全部同じカテゴリに放り込む処理をしてしまいがちだ。(なお、話をややこしくするのは本当に矛盾した意見を言うやつも一定数存在することだ)
そんなわけで、いわゆる「中立」「客観」批判者は皆「お気持ち」(ここでは、自分の快不快の問題をシームレスに社会的な問題につなげて、自分の感情に社会が従うべきだ的な発想を持っている人)の人たちだ、という雑な世界観を持っている人も多いが、ここで「中立」「客観」批判の理屈に触れて、「なるほど、こいつらはこういう理由でそういっているんだな。(自分は賛同できないにしても)まあ理屈は分かるな」と思ってくれれば幸いである。
これは厳密には『中立』『客観』を否定していない。どころか、不徹底な『中立』『客観』を批判し、本物の『中立』『客観』を目指そうとする方向性も見受けられる。
実際問題、はてなやTwitterでは、『中立』『客観』(それからこれと似ている『是々非々』など)を「右」と「左」(あるいは任意の対立する二大勢力)のどちらも全肯定/全否定しないことだと思っている感じがする人が複数見受けられる。まあ確かに、「右」のいう事を全肯定/全否定、とか、「左」のいう事を全肯定/全否定すると最初から決めてかかるのは紛れもなく党派的な姿勢であり、中立的でも客観的でもない。しかし、そもそも「右」がどうとか「左」がどうとか党派性を意識し、この二者のいう事には従わないぞ!みたいに決めてかかっているのは、全く同じではなかろうか。ようは、「中道」という第三の党派に過ぎない。そうではなく、中立や客観というものに自分は完璧に到達できないのだという事を自覚し、他人が中立的であるか客観的であるかは究極的にはジャッジできない(もちろん明らかにこいつ主観的に過ぎるやろみたいな人はいるけど、そう思っている私の方がおかしい可能性は否定できない)という事を踏まえなければ、「中立」「客観」という言葉は単なる党派性の御旗にしかならない。
これは実のところ、「正義の暴走」論とよく似ている話だ。正義の暴走を非難する人は正義が嫌いなのではなく(まあそういう人もいるが)正義のために正義の暴走は抑止した方がいいという話をしている。正義の暴走とは、やっている本人たちが勝手に正義と思っているだけで、実際には悪である、というロジックだ。同じように、「中立」「客観」の濫用を非難する人が「中立」「客観」を否定していないのも当たり前の話だ。彼らが否定しているのは「中立」「客観」を装った「党派性」「主観」だからだ。(面白いのが、「正義の暴走」論を持ち出す人の多くは「中立」「客観」の濫用の問題を考えず、「中立」「客観」を批判する人は「正義の暴走」論を持ち出されると不満を表出することが多い事である。両者はほぼ同じことを言っているのだが)
まあ、つまりこの批判は「お前は自分が客観的と思ってるかもしれないけど本当は違う(かも)しれないぞ!」というものである。個人に向けるときは喧嘩する気がなければ使わない方がいいとは思うが、一般論としては(特にわたしのような『中立』『客観』が大好きな人間ほど)よく頭に刻んでおいた方がいいと思う。
こちらは、『中立』『客観』的な態度を、ある一分野のみについてとはいえ明確に否定している(と私は思う)ので、論点①とは様子が違う。
まあ言っている事は正直分からなくもない。この手の人たちが良く比喩として使うように、「足で踏んでいる人と踏まれている人」の間で『中立』『客観』的な議論を成立させろ、というのは無茶である。差別されている人と、その差別をたとえ直接はしてはいなくても差別によって得られる利益を(その自覚なしに)享受している人の関係は、「足で踏んでいる人と踏まれている人」のそれよりはるかに複雑で見えづらいものがあるが、似たような関係性であるという事は、その是非は別として、可能ではあると思う。なので、倫理的な個人が差別問題について論じるときはその辺に気を付けて論じてもよい、論じた方が好ましいくらいのことは私も思う。
しかし、この考えを強い規範として言論空間に導入することに対しては私は警戒心を抱く。
「誰が加害者か」「誰が被害者か」「どこからどこまでが『差別問題』か」「どんな事実を適示すればそれが『被害者非難をあおっている』と言えるか」
これらをみんなが納得いくように定めるのは非常に難しい。間違った基準を定めてしまえば、例えば本来「被害者」である人たちを「加害者」として力づくで非難する事や、本来「加害者」である人たちの罪悪を「被害者」として覆い隠すこともありうる。「被害者」「加害者」の推定が正しかろうと、「被害者非難をあおっていると言える事実」と認定されたものがもし違えば、その事実は公論上での扱いが不当に小さくなりかねない。差別発言自体は言論の自由で守る価値はまったくないのだが、論点②の批判が拡大すると差別発言以外も巻き添えになるリスクがとんでもなく大きくなりそうである。そもそも一国の言論空間なんて政治勢力も右から左からワラワラ湧いてくる場所なんだから、うかつに基準を厳しくしたら、その基準が「万人」でも「マイノリティ」でもなく「特定の政治権力」の都合の良いようになってしまう可能性もある。一方で、剥き出しの、それこそ差別主義者やデマもなんでもござれの「言論の自由」が良いとも思えないし、「中立」を装って攻撃を誘発する人たちを何とかしたいという気持ちはあるので複雑なところである。
(ちなみに、個人としてこの観点から批判すること自体はどんどんやったらいい。問題なのはこの考えが強い規範になることである)
①②は曲がりなりにも論として成立しているが、③は論外である。これこそが「お気持ち」である。
これについて論じることは特にない。まあしいて言うならば、「個人的な感情の表明」自体は何ら悪ではないという事は付け加えておきたい。こういう風に、自分の感情だけで他人を思うままに動かす権利が自分にあると思っている人をまともに相手する必要がないというだけである。
①②③それぞれ、言う層が全然違ってくるということがイメージできるだろうか。
①は、左右問わずおそらくそれなりに頭のいい人、論理的な思考が好きな人が言うと思う。(ただし、論理的な思考が好きな人は左に行きやすいので、左が多い気はする)
②は、明確に左の中でも主張が強めの人が言うだろう。(なお、加害者と被害者の構造を、中国と日本あたりにすれば、右の主張強めの人たちも似たようなことを言っている)ここで重要なのは、彼らの主張は我々と大きく違うが、別に彼らは頭がいいわけでも悪いわけでもない。どちらかと言えば頭のいい人が多いと思う。
③の人は、多分単純に頭が悪い。左にも右にも真ん中にもこういう馬鹿は沢山いる。ただし、バカの中でもわざわざ自分はバカですとアピールしたがるインセンティブが強いのは右左の中でも過激な人たちだろう。
「お気持ちサヨクはバカ」みたいなことを言う人たちは、多分①②の理屈で「中立」「客観」を批判している人に左翼が多いという事と、③の人たちにバカが多い事を混同して、左翼=お気持ち=バカみたいな図式を作り上げているのではないかと思う。あと、「お気持ちサヨクはバカ」と言った同じ口で「リベラル(おそらくこの人はリベラルとサヨクをほぼ同義として使っているはず)は啓蒙思想を押し付けている」みたいなことを言っている人もいた。確かに②は啓蒙思想押し付けのダメな部分全開という感じで、③はバカである。たぶん構造としては②が③の人たちを率いて暴れまわっているという感じではなかろうか。まあそんな感じで、「中立」「客観」大好きな人たちも、③は論外として①②の理屈は普通にそれなりに通っているっていうことをちゃんと意識しよう。(まあ意識できてる人もいるだろうけど)
公論がーといいながら、とんづらこいたおばさんの顔を思い浮かべた
公論がどうのと吹き上がっていた人かな
悪い意味で話題になっているえんとつ町のプペルの記事を見ていて、気になることがあったのでまとめました
正式名称は「PoupeIIe Of ChimneyTown VR ~into the world~」。「えんとつ町のプペル」のストーリーをVRで再現したという作品。
2019年6月21日にリリース。クラウドファンディングをもとに開発された作品で絵本の作者いわく「サロンメンバーの作品」とのこと。
store.steampowered.com/app/1079520/
twitter.com/nishinoakihiro/status/1080226066575159296
13個のSteamアカウントがレビュー。そのうち2019年6月23日に投稿された3件のレビューにおいて
いずれもSteamプロフィールページが未作成で、アカウントに記録されている製品がプペルVRだけ(または記録なし)。
いずれも投稿日時が同じ日で投稿間隔も40~50分になっている。
以下魚拓
2019年6月26日にある海外ユーザーはSteamスレッドで「明らかにフェイクレビューが投稿されてるので買うの辞めました」と指摘。開発・パブリッシャーのvLabは無反応。
2020年5月には5chの掲示板で怪しいレビューを投稿しているアカウントIDと開発者の名前の類似性を指摘するIDがいた。
2020年11月に商業サイトにレビュー寄稿するユーザーが「本作をオススメしない」というレビューを投稿しつつ、レビューの中でこの件に触れる。
ところで、Steamレベル0か1、アカウント内の製品数1、レビュー件数1、プレイ時間0.3時間みたいな感じの人達がいっぱいオススメレビュー書いてるんだけど、なんでだろうね?
彼らはこれを買うためだけにSteamにアカウントを作って、20分遊んだあとに急にSteamに関する興味の一切を失ったのかな? ご存命ですか?
おわり
あのおっさん問題起こしすぎだし全然好感持ってないしかばう気もない。
有力選手が病に倒れて、「コメントを一言」「残念です」これがそこまで問題か?
五輪相としては日本チームの旗手勤めてもいいような有望で若い知名度ある選手欠いたら「残念」ってまず思うでしょうよ。それがそこまでギャーギャー叩かないといけないこと?
満点はそりゃ病気の心配だけするとかノーコメントとかだろうけど、そこで満点とることがそんなに大事か?
例えばはてな民はそこで満点に近いコメント考えるのが五輪相よりは自信あるでしょうよ。(それでも座って落ち着いて考えるのと絶え間ない記者の突撃に立って答えるのは条件が違うと思うケド。)
で、それがなんの意味あるの?そんなことはたとえば仕事中にサボってはてなみたいなネットいりびたってたりすれば、当人の知能にもよるけど誰でもある程度は上達するようなことでしかない。そいつが使える人間かとはなんの関係もない。はてななんてむしろ実務も抜けてて世渡りもそんなにうまくないようなクスブリが多数派なんじゃないの?
俺は特にそういうとこで満点とるのは得意中の得意。はてなの有象無象よりずっと得意。思いやりがあるのではなく、そんなのは国語力の亜種だから。その方向に頭がよければ素早く満点出せる。
はてブでもトップコメントとるの簡単。みんなが求めてる通りの答弁とか、みんなの脳のメモリではがまとめきれないもやっとしたことを100文字にまとめるコメントとか、みんなが思い付かないちょっと上のコメントとか、とても得意。
でもそれってそんなたいした能力じゃない。たいした能力じゃないというか、実務能力とはそんなに関係ない。
おれは仕事だと真面目にやるほどむしろ内容濃すぎになったり話が一気に遠いとこまで進みすぎたりして相手の反応鈍くなること多い。
大幅に割り引いてほとんど相手をバカにしてるレベルのコメントにまとめると「素晴らしく整理されて分かりやすかったです!」って感激感謝メールされたりする。
仕事のクオリティと有象無象からの心象なんて全然関係ないんだよ。まして五輪相の仕事なんて何も知らないわからないやつらが、くだんねえコメントで満点をとらなかった、私たちのお気持ちに沿わなかった、そんなことで実務者を叩きまくる。
心底下んなくね?
そこで満点とらないことを池江や池江の親が気持ちのどこかでちょっと引っ掛かるくらいならわかるけど、公論に付すようなことことなのかこれが?愚民天国にもほどがある。
そもそも池江が病に倒れて次の五輪出られなくなったならその時点で現五輪相とは関係ない人になったってことじゃん。わざわざコメント求める必要すらねーよ。かわいそうかわいそうってシコるのはそういう仕事の芸人と暇人でやってろよ。
なのにそれをわざわざ忙しい人間にコメント求めて、そこで思いやりに満ちた満点回答しなかったら叩きます!って、なんなのそれ。
ちゃんと仕事してて、人並み以上に仕事が出来てる人なら俺の言ってることわかると思うんだけど。(あの五輪相が仕事できるのかは知らん。)
なんでいちいちトラップみたいな高好感度答弁テストされて、満点取らなかったらうぜえ罰ゲーム受けなきゃならんのよ。大臣だとそんな非生産的ないやがらせ受けながら仕事しないとあかんの?それってなんの意味があるの?ろくに仕事もできない小姑じみた暇人のワタシタチのお気持ちに這いつくばれ!ってだけやん。
最悪な社会だよな。はてなのお前らも最悪だよ。ようそんなんで普段ニホンシャカイとかロウガイとかを叩いてるわ。わらわすな。お前らもおんなじような人の足引っ張るだけの建設性のない(生産性のない、って書きかけてやめた。何でかわかるやつはわかるだろう。お気持ちバカに突っ込まれない文ていうのはこういうくっだらねえ神経の芸でしかない)カスだよ。
「百田尚樹というブランド」を作り上げるのにかかった年月と、そのための努力、これは悔しいが素人では太刀打ちできないのだ、悔しいが
よく書店ではなくコンビニで売ってる、古代史や戦国時代に関する紙質の悪い雑学本の仕事をしている
その程度の本でも、Wikipediaは最後の裏取り程度にしか使わず、吉川弘文館だの中公公論社だの岩波書店だのから刊行されてる、それなりの実績がある大学教授が書いた専門書を参考に書いてる
実際、現代ではまともな歴史学者の資料に当たると「日本書紀のこの記述はウソ、当時の政治的な作為がうんぬん」「平家物語のこの記述は~」「太平記のこの記述は~」という調子で、いわゆる面白そうな話はほとんど全否定になる
逆に、マニア的に「じつはそうだったのか!」的な面白さもあるのだが、これはある程度の前提を理解したマニアでないと通じにくい
通俗歴史本の執筆という点では、誇張抜きに、俺の方が百田尚樹より真面目に仕事してると本気で思ってる
しかし、それでは売れないのだ
あのくだらん日本国紀は、「百田尚樹というブランド」の勝利なのである
そして実際、無名の歴史系の底辺ライターである俺は、『海賊と呼ばれた男』だの『永遠の0』ほどの小説は書けないし書いたこともない、負けなのは仕方ないと認める
が、たかが書店ではなくよくコンビニで売ってる雑学本でも、俺はWikipediaに頼らず、一定の実績ある歴史学者が書いた文献を参考に書くことを辞める気はない
読者に正確な事実を伝えたいなんてご大層なことではない
「いないとみなして良い。
韓国では園長先生や幼稚園バスの運転手からの幼児へのセクハラが社会問題になってるから。
だから「男性保育士に娘の着替えをさせないのは男性差別だ!」なんて日本のバカ男の様な主張は誰もしない。
また、女性保育士しかいないのは、韓国でも保育士が薄給であることもある」
「まあ知らなかったとしても自分の子が性犯罪の対象になることを恐れる母親に心配ならお前が全部保育すろってクズ以外無いんですね
昨年韓国のツイッターで○○界の性犯罪 と言うハッシュタグが回って、○○界(芸術界や放送界とか色々)で働くか勉強する女性達が自分より立場が上の男性にセクハラされた経験談をそれぞれ暴露した事があります
昨年韓国のツイッターで○○界の性犯罪 と言うハッシュタグが回って、○○界(芸術界や放送界とか色々)で働くか勉強する女性達が自分より立場が上の男性にセクハラされた経験談をそれぞれ暴露した事があります
韓国も何前までは自国民達が治安が良い云々したんですが、道での犯罪を受けた女性達が声を出したから今はそんな事言う人あんまりいません
それに本当にいる沢山の被害事実を公論化した結果、韓国の男達も「韓国に性犯罪は少ない」とかは絶対言えない雰囲気になったので「すべての韓国男が性犯罪者ではない」云々に変わりました」だそうです
http://anond.hatelabo.jp/20131021172902
そしてマコの存在。色んな天然キャラは居るがこの天然の感じがどうも不快だ。
理由はこれこそ生理的なものだと思うが、存在そのものがご都合的で記号的で「馬鹿」な「女」を娯楽として楽しむためのものだからだ。
男女問わず、あのアニメにご都合的で記号的じゃないキャラなんか居るか?
居るなら挙げてみなよ。
どうだ、「ご都合的」じゃない「記号的」じゃない「馬鹿みたい」じゃない男が居るか?
こんなこと言い出すならな、
あれだってお前の言い方すれば存在そのものがご都合的で記号的で「馬鹿」な「男」を娯楽として楽しむためのものだろ。
あれについての批判を昔書いたから暇なら読め。
すごく表層的な部分で「熱血」に呼応して見るだけ。
登場人物にしっとり真面目に感情移入しようと思って裏切られたって言うなら
それはその視聴者の方がアホなだけだ。
そういう意味で俺のカミナ批判だって作品自体の価値を毀損出来る物ではなく
タケコプターに「首折れるんじゃねえか?」なんつって遊ぶ程度の、ズらした批判なんだ。
自分はこの笑いのツボを持ち合わせていない。
それは俺やお前の個人の感性であって
公論に付すような話じゃない。
気になるのは「こういう作品」なのに、まるで万人に喜ばれてるように、手放しに評価されている点である。
これこそ余計なお世話だろ!
俺のように敢えてズれながら部分的にツッコんでいくならまだしも
「こんなものを楽しむ奴が多いなんて!」とか言い出して何になる?
これは女性が(製作者も消費者も)もっと頑張りましょう、おわり、ってだけの話じゃね?
で、お前が納得して感情移入できる女性主人公なりエロエロお色気サービス男性主人公なりが実現すりゃいいというまで。
(『ミチコとハッチン』はお話が退屈で観るに耐えなかったね。)
じゃあ珍奇な意欲作をちゃんと買え。
お前みたいな思考のまとまらないもやもやした馬鹿を満足させるためにやってんじゃねえんだよアニメ製作スタッフは。
余裕なんか全然無いんだ。
きっぱりはっきり「こういうの作れば売れるぞ!」ってビジョンにまとめろ。
まとまったら企画にして売り込みにいけ。
話は逸れるが「東のエデン」についても同じような引っ掛かりを感じていたことを男性ファンに話したことがある。
自分が「ヒロインが好きになれない。女性として感情移入出来ない行動をとる。それでいて女性主人公の恋愛をメインに描くとはどういうことだろう。」
あのヒロインて男にも人気ねーじゃん。
王子様のほうも気持ち悪いし。
ガジェット部分とかサブカル的な雰囲気が一部に面白がられただけで
キャラ人気なんかねーだろあれ。
「そこじゃないでしょ、この作品はー!」
と返された。
そりゃそうだ。
もう男女論ですらなくなって、純粋にお前がピンボケなだけその件は。
でもそういう風に引っかかってしまう人間も、いるんだよと、頭の片隅に入れていていただけると、一石ならぬ砂利ですが投じた甲斐があります。
意味がわかりません。
どうして欲しいのかぐらい言え。
「こうすべき」ってはっきり言え。
それぐらいまとめられないのは醜態だと自覚してくれ。
いい大人なら自分の主張をまとめろよ。
結局レスポンシブルな「これ!」って主張なり要求なりにまとめられない、
「なんかわかってよ」「よろしく私のキモチの為に努力してちょ」みたいな雰囲気漂わせて終わり、
ってクズだろそれは。
言いたくないんだけど
フェミっぽい人ってこういう
「結局どうして欲しいの?」って言わざるを得ない、
物をちゃんと言い切れないモジモジちゃんが多くねーか?
(ビシバシと「こうしろや!」ってキッパリ言う田島陽子がもてはやされた理由がわかる。
内輪の外に行っても話になるのはあの人ぐらいだったってことだろう。)