はてなキーワード: 田植えとは
最近思ったことがある。多くの生き物って、人間にとって見た目がいいように進化している気がする。
哺乳類とかだったら、人間にとって気持ち悪いやつはあまりいないだろう。爬虫類とか両生類とか、特に昆虫類だったら気持ち悪いやつがけっこういる。
今回思うところがあったから、4つほどエピソードを語らせてほしい。
去年の秋頃だったか、近所の裏山に登って、入会地の傍にある栗林で農作業をしていたのだが、そこにひょこっとアナグマが現れたのだ。アナグマというのは……約10年前にやってた「のんのんびより」のEDだったかな。「あれってハクビシンとか、タヌキとか、アライグマとか、イタチですよ」とか、そういう歌詞があったのだが、だいたいそんな生き物だ。
アナグマはイタチ科の動物で、体長1m未満のずんぐりしたイタチみたいなやつだ。顔はハクビシンに似ている。※ようつべで検索するとすぐに出てくる。
で、そのアナグマだが、栗林で農作業をしていた私の方に寄ってきたのだ。まだ若そうな個体だった。当方だが、農業林業はこれでも10年以上やっている。これまで、数多くのイタチ・キツネ・アライグマその他の小動物が箱わなに引っかかり、漁師や地元住民に殺処分されるところを見てきた。
正直、あまりいい印象はなかったが、半径数メートル以内まで寄ってきたところで、「けっこうかわいいな」という印象が支配するようになっていた。このあたりにはアナグマが少ないのもある。あと、私が育ててるのは栗だから、こいつらには盗まれんだろうという感覚もあった。
そういえば、小学校高学年だった姪っ子が、同じようなシチュエーション(農地の中)で、狸っぽい生き物にポテトチップスやコンビニのホットスナック(ファミチキ)をあげていたのを思いだした。あれは遠目からだったが、やはりずんぐりした見た目だった。
結局、栗林に来たアナグマは、その辺りをちょっと掘り返しただけで山の中に帰っていった。もう二度と出会うことはないだろう。例えばもし、私が育てているのがイチゴだったとしたら、確実にその場でクワなんかを握りしめて、ヤツを叩き殺そうとしていただろう。
実際、うちの畑でサルを見かけた時は、全力で追い払うようにしているし、タヌキやアライグマだったら石を放り投げてぶつけた後、スコップで殴り殺したこともある。蛇とかだったら、毎年20匹以上は駆除してる。長靴で踏んづけて、もう片方の足裏で頭を叩き潰すのだ。ジャンボタニシだったら、毎年夏になると百匹以上は生き埋めにしてる。イノシシは……あれはプロの量子さんの領域である。農家は手を出さない。
私はこれでも専業農家である。大切に育てた農作物を捕る生き物は憎くてしょうがない(人間まで含めて)。蛇足になるが、農業従事者は漁師率がけっこう高い。昔の農家は、田植えや稲刈りの時期を除いては、鶏を育てたり、山に入って鳥獣を捕っていた。今でも、狩猟免許がある人もない人も、山でイノシシとか鹿とかを捕って食料にしている例はある。
私の祖父もそんなだった。私がまだ小学生の頃に、鶏小屋がキツネかタヌキかアライグマかはわからないが、そういうのに襲われてしまった。非金属のネット小屋だったから、鶏が何匹かやられてしまっていた。祖父は悔しそうな顔をしていた。
或る夜に、実家で夕食を食べていると、鶏が騒いでいる声が聞こえた。祖父と親父はすぐに実家を飛び出して、鶏小屋に行くと、キツネのようなものが鶏小屋のネットを破ろうとしていた。なぜか、祖父よりも自分と父の方が早く鶏小屋に着いていたっけ。
後ろでカチャッ、という音が聞こえた。祖父が目の前に出てきたと思ったら、パアンッ!! という音が聞こえた。※祖父が散弾銃を撃ってた。
キツネのようなものは、その場で転がって痙攣しながら逃げようとしていた。親父が、祖父に鍬を手渡していた。それで、祖父が走り出して、ほうほうの体で逃げるキツネに追いついて……後は、何度何度も鍬が振り下ろされた。ぐちゃ、べちゃという音が聞こえて、狐は何度か鳴き声をあげると……多分絶命したのだろう。※近づいてわかったが、縞々のしっぽだった。アライグマである。
祖父は「このバカタレが、バカタレがぁ、アアッ!!」って叫んでたっけ。愛鶏(?)を殺されたのがショックだったのだろう。とにかく狐に凄まじい恨みを持ってた。あの時の自分は、「すげー。銃かっこいい!! 撃たせて」って祖父にねだってたよ。それくらい衝撃的な体験だった。私にとってのエポックメイキングだった。
「なに、お前も撃ちたい? 大人になったら警察行って免許がとれるど!」
「わしはもっとらん。ひいじいちゃんはもっとった。でも、わしは撃てるけえええんよ」
「俺も撃ちたい」
「○○くんが撃ったらいけん。捕まるよ」
平成初期の話である。当時はおおらかな時代だったのだ……。今だったら普通に逮捕される。絶対にマネしないように。
さしもの私も、祖父の遺品である銃剣類は所持しているが、自らの敷地内であっても使おうとは思わない。なにしろ、狩猟免許もってないからな。ほかの地元民と同じく、鳥獣の駆除行為はひっそりとやりたい。
話があっちの方にいってしまったが、私は基本的に、うちの農地に入ってくる鳥獣類は殺そうとする。苦労して育てた農作物を食われるのは絶対に嫌である。しかし、たまに殺さない例もある。それが上の例でのアナグマだった。
その状況で見逃したのは、なんとなくという理由が強い。農場内でメシを食ったばかりで、ゆっくりしたかったのもある。しかし、珍しくこっちに寄ってくるアナグマが「かわいい」という感情もあったのだと思う。うちの地域では、アナグマが珍しかったのもあるかもしれない。しかし、不思議な体験だった。
今度は市街地での話だ。
まだ若いころ、農業者じゃなくてサラリーマンだった時代に、とある国道沿いの飲み屋街にいた。最初の一軒目を探していたのだ。ふわふわと路地をさまよいながら、国道に出たところで、そいつに出会った。
歩道の上に、もぞもぞと動く物体があった。よく覗いてみると、コガネムシだった。背中の色が特殊で、なんとベージュだった。限りなく白に近い真珠色といってもいい。レア甲虫である。いとおかし!! いとおかし!!
その真珠コガネムシは、あまり元気がなかった。しかも車道に向かってもぞもぞと進んでいた。このままでは自動車に轢かれて死ぬだろう。ぐしゃ、という音がするのだろうな。昆虫類が車に轢かれると、意外と大きい音がする。
私は、そいつの目の前に人差し指を延ばした。するとそいつは、六本の足でガシッと私の指を掴んで、勢いよく私の手を昇り始めた。
土の中から出てきたばかりのカブトムシとまではいかないが、元気な様子で私の手指を昇っていた。そのまま徒歩で飲み屋街に移動して、レストラン沿いの並木を見つけた。おそらく欅だったろうか。樹の表面にコガネムシをくっつけると、また元気そうにどんどん昇って行った。
どうしてあの時、コガネムシを助けてやったのだろう。そういえば、小学生の頃は甲虫が好きだったような気がする。懐かしい気持ちになった。
今でも、夏場で路上に転がってるセミとか見つけると、拾って助けてやる。すぐ近くにあるクヌギかコナラにくっつけてやる。
これは私じゃなくて、息子の話だ。当時は小5だったかな。夏休みだった。
ある日、家の庭の中にある小道(※田舎だから家が大きい)で、息子が「トカゲ見つけた」と報告してきた。「捕まえたの?」と聞くと、「捕まえてない」と言う。
現場に行ってみると、小道の上でトカゲが2匹、それぞれ離れたところに倒れていた。お腹を上に向けて。瀕死だった。おそらくだが、野猫にやられたのだろう。お腹に爪で引っかかれた跡があった。
息子がそいつらを触ったところ、1匹だけはまだ息があった。残り1匹について、「よい旅を」と私がその場に埋めてやっていると、息子が生き残った方に落ち葉や土を被せてやっていた。どうやら、回復を待つつもりらしい。「これ、おうち」と言っていた。
好きにさせるべきだと思った。息子に対して、「日光に当てないように木陰を作る」「できるだけ触らないように」「1日に1回は霧吹きで水をかけてやるように」「餌はやらなくていい」など最低限の指示をした。
私はトカゲが1日以内に死ぬと思っていた。木の棒で突いても、片方の足が全く動いてなかったし、どう見ても虫の息だったからだ。早い話、移動能力を失っている。
その日から、息子は毎日トカゲのところに足を運んでいたっけ。水やりは欠かさなかったし、日光を浴びて体がのけぞっていたりすると、木陰の位置を調整してやったりする。
3日が経って、私が現場を見に行くと、どうやらまだ生きていた。土くれと落ち葉を払いのけると、少しだけ体が動いた。体にはまだヌメリが残っていた。片足だけを動かして、体をのけ反らせて私から逃れようとしていた。「シャー」みたいな感じで、口を開けてこちらを威嚇している。少し気の毒になって、植物用の霧吹きをしてやったのと、一応、ミルワームを顔の近くに寄せてやったが、無反応だった。やはり餌は不用のようだ。
次の日だったか、息子が飛んできて、「トカゲが動かない」という。現場に行ってみると、そこには……「おうち」から出てきたところで静止しているトカゲの姿があった。口には小さいミミズのようなものが入っていた。目は閉じていた。
「餌をあげてしまったの?」
「うん。お腹すいてると思って」
「そうか。たぶん、びっくりして死んでしまったんだね」
「うん」
「……どう思った?」
「わかんない」
「うん」
そんなやり取りをしたかな。
そのトカゲは、結局何時間たっても動かなかった。生命活動を停止したのだ……。推測だが、ミミズが喉に詰まって息ができなくなったのかもしれない。放っておいても、数日中には死んだだろうが。
息子にとっては、トカゲがかわいかったのだろうと思う。私は、あまりそうは思わないが。大人になると、高速で動くトカゲはちょっと苦手だ。だがまあ、カナヘビはまだかわいいと思える。トカゲと似ているが、比較するとあまり動かないのもある。
先日、県道を車で運転していたところ、路側帯を走っていた自転車が急に停まった。その彼女はアスファルトにゆっくりと降りて、自転車を端に寄せると、足先でなにかを小突いていた。
ちょうど信号待ちになったので、その様子を眺めていると、どうやらそれはひっくり返ったセミのようだった。彼女が小突く度に、「ジジッ」という音でセミは鳴いていた。死んではいないようだ。
その子は、セミに向かって指先を伸ばした。セミは指を樹木だと思ったのか、ホールドした。その子の指に乗ったセミは、一緒に自転車でまっすぐの方向に進んでいった。
次の信号で、彼女に追いついた。自転車を降りて、民家の入り口に生えている樹にセミをくっつけようとしていた。指で押してやると、セミは樹にくっついて、もぞもぞと枝を張っていた。彼女はセミをちょっと撫でたかと思うと、また自転車に乗って県道を走り抜けていった……。
一応、セミもかわいい部類には入るのだろうか。丸っこい見た目だから好きな人もいるかもしれない。当方はどちらともいえないが、今度セミがひっくり返っていたら、死んでいるか小突いて確認してみようか……と思った。新しい世界が開けるかもしれない。
話は長くなったが、結びにしよう。
大昔から、それこそ多くの生き物がいたのだろうが、人間にとってかわいくない種の生き物がどんどん淘汰されていった。それで、今みたいに哺乳類や鳥類は可愛いのばかりが残った。
それは、全然定かではない。でも、かわいい生き物はというと、殺される場面でも殺されないことがあったのではないか。大昔から。よって、醜い種に比べて生き残れる可能性が高かったのではないか。と、先日『利己的な遺伝子』を読み終えたばかりの私は感じた。
あなたはどうだろうか。生き物は、やっぱりカワイイ方が生き残れると思うだろうか。しかるに人間の場合は、かわいげがあって、みんなに好かれる個体ほど早死にする傾向があるように思えるのだが。
いやお前さぁ
ADHDとかアスペルガーとかの発達障害なんて言葉は近年の甘え用語としてインターネットで広まっただけだぞ
それまではただの「バカ」「アホ」「マヌケ」とか「アンポンタン」とか「ウンコマン」とか言われてただろ
そんでそういう奴らは
北海道でじゃが芋を作ったり新潟県で田植えしたり農業をやってきた
あるいは漁師になって魚とるか水産物を加工したりする漁業をやってきた
大体この3つをバカは誰でもやってたんだよ
お前が自分に問題あるならいますぐこれら3つのどれかを従事すればいい
お前は北海道へ行って
「ここでジャガイモ作りをさせてください!」
さすれば「よかろう」と恩赦をいただける
何年も何十年も
インターネットなんてつかってねーでジャガイモのことだけ考えればいい
これだけやってりゃいいんだ
さっさと北海道へ行ってこい
男は黙ってジャガイモだろ
稲苗が標的となる田植え直後に水張りをゼロにし、スクミリンゴガイを眠らせる。その後、1日1mmずつ水深を上げ、雑草の芽を食べさせる。10日後には一気に5cmの深さにする。こうすれば、株元が固くなった稲よりも生えてくる雑草を好んで食べてくれるので、除草剤なしで栽培が可能であるとされる[14]。30日程度が経過すれば雑草の芽がなくてもイネが十分な大きさになるので食べられることはなくなる。(ただし大雨などで水面が上がり過ぎると食べられる危険はある)。イネが優先的に食べられない理由として水面下が硬い茎になることや、イネがケイ素吸収の特に多い植物で細胞壁が硬いことが原因としてある[15]。しかし、この行為により生息域が拡大したとの指摘がある[16]。スクミリンゴガイの移入した地域である福岡県などがこの方法を紹介しているが、同時に農業害虫であり駆除が難しいことから除草目的での本種の移入は行ってはならないとしている[17]。
ジャンボタニシが流行り始めた頃に話題になったのが「被害がまったくない水田がある」という事実
ジャンボタニシは繁殖力が凄まじいので駆除作業はほとんど意味が無く
一度広まるとあたり一面の水田にうじゃうじゃと湧いてくるんだが
その中でなぜか被害が全く無い水田がいくつかあることが分かった
「被害が少ない」のではなくて「全く無い」のだ
原因について調査した
その結果、被害のない水田の苗は他の水田に比べて茎が非常に太いことが分かった
ジャンボタニシは細い茎を好むために太い茎の稲は食べない
一般的な苗の太さはちょうどジャンボタニシ好みの太さなので甚大な被害が出るのだが
太い茎にすることで被害が出ないだけでなく、雑草の生え始めのような細い茎が食べられるため、結果として除草効果が生まれた
この結果から「よし、茎が太くなるまで苗を育てよう」という農法が生まれそうだがそう簡単にはいかない
一般的な育苗で用いられる苗箱はただの四角い箱の中に土を入れて種を植えるような形で
その状態から根をちぎって水田に植え付けるような方法が行われている
この方式だと茎が太くなると根が増えてしまうためこれ以上茎を太くすることが難しい
これを改善するために生まれたのがポッドタイプの苗箱で種一つ一つを小さな穴(ポッド)の中で生育する
お互いの根が干渉しないために根をちぎって植える必要がなく、太い茎の育苗が可能になる
(ダッシュ村で使われている苗箱がこれにあたる)
前述した篤農家などはこの方式を以前から利用しており、ジャンボタニシの被害が全く出ていなかった
では全農家がこの方式に切り替えれば良いかと言われるとそう簡単にはいかない
苗箱を変えるということは播種の機械を全て入れ換えることになり、更には田植機も買い替える必要がある
農協側の苗箱交換と全農家の田植機交換を合わせる必要があってほとんど不可能に近い
これらの費用を鑑みると「ジャンボタニシを駆除した方が安い」という結論になって今でも駆除を続けている
ただ、何年も駆除作業をしているが完全に焼け石に水状態で用水路にはピンクの卵がびっしりと植え付けられ
自家で育苗している農家は苗箱交換をしたり、田植えの直前・直後にしっかりと殺虫するなどしている
さて、これで話が終わるかと思いきや、最近では前述した篤農家の水田にも被害が広がっている
茎が太くてもやられてしまうのだ
原因はまだ分かっていないが、恐らくだが「ジャンボタニシが増えすぎている」
餓死寸前のジャンボタニシは茎が太くても稲の苗を食べるようになり
父方の実家が嫌いだ。
最近ようやくその縁が切れる目処が立ってきたのだが、いざというとき決心が鈍らないようにどんなに嫌いか書き起こしておくことにした。
緩やかな坂の上に建つ家は大きく、貧乏だった祖父が会社を興し一代で築いた。隣の家に行くのに坂を下り道路を渡っていかなければいけない。
いずれは父の家庭(つまり私たち)を呼び寄せ二世帯で暮らすことも考えていた、と後から聞いた。
その割には電気関係があまりに貧弱で頻繁にブレーカーが落ちていたので、どのみち無理だったと思う。
家の前は杉林でそのまま山へと続く。夏はアブが、冬はカメムシが大量発生する。
敷地は広く、車が三台収まるコンクリート造りの車庫に加えて大型の農機具が複数収まる小屋や鶏小屋、2つのビニールハウスを備えてなお広がる畑もある。
畑の先にはそれなりの大きさの池があり、祖父がそこに鯉を放し飼いにしており夕方には餌をやりに行っていた。
その池を回ろうと祖父が小型の舟を買ったことがあったが私は一度も乗った記憶はなく、舟は池の側で逆さで放置されていた。
祖父は昔からそうだ。思いつきで使いもしないものを大金はたいて買い、あとはゴミになる。成金そのものだ。
正月や盆にはその親族が大勢この家に集まって、仕出し料理なんかをとって宴会をする。映画のサマーウォーズのような風景だ(なお、このために私は本作が嫌いである)
私は普段はそこから車で一時間弱の県庁所在地に暮らしているが、長期休みや時には土日ともなればすぐさま連れて行かれ父の実家に預けられて過ごした。(これは祖父母の意向であり、母は嫌々だったと聞いている)
家の周りは田んぼと山で、歩いていける範囲にあるのは駄菓子屋のみ。
その頃にはすでに人口の過疎化が進んでおり同年代の子供は一人しかいなかったし、あまり気も合わなかったのでその子とはあまり遊ばなかった。
長期休みの始めから終わりまでを、家から持ち込んだ自由帳に絵を描いたり、擦り切れるほどに読んだ漫画をまた読み返したり、近所の家のお兄さんのお下がりのファミコンソフト数本でしのぐのだ。いつも学校で一緒の友達はみんな64で遊んでいる時代にも関わらず。
家業は建築業であったが農業も営んでおり、物心ついた頃から田植えや稲刈りに連れて行かれるのが普通だった。
当然ヒマだったし、それなりに成長してからは仕事が振られるがそれも嫌だった。
小学生の頃は春に運動会、秋に学芸会があったがちょうど田植えや稲刈りの時期と重なっており、父や父方の祖父母がそれを観に来た覚えはない。母と母方の祖母がいつも来ていた。
仲の良かった子たちの親はみんな会社勤めや公務員だったりして、行事のときには父母揃っている姿をよく見た。
羨ましいと思った記憶はないが、うちは何か違うんだなぁということは感じた。
一番嫌だったのは、運動会の後にはそのまま車で父実家に連行されて田植えに駆り出されることだった。最初から体操着を着ているので都合がよかったのだ。
運動会頑張ったから今日はレストランに晩ごはん食べに行こう、と話すどこかの家族がドラマの世界のようだった。
田舎の自然環境や農業中心の暮らしよりも嫌だったのは、親戚付き合いや近所付き合いだった。
道を歩いているだけでどこの家の人間かわかってしまう。他に子供がいる家がないからだ。
そして田舎特有の距離感で、なまりの強い言葉でやたらと話しかけてくる。こっちはお前が誰だかも知らないのに。
私は三姉妹の真ん中だが、みんなだいたい私を姉と思って話しかけてきた。
姉とはけっこう歳が離れているので普通なら間違わない。実際、地元の知り合いに私と姉を間違う人はいなかった。
しかし田舎の人たちは子供を見慣れていないので子供の年齢からくる体格の違いなんてわからないのだ。子供は子供、と一括りにされている。
そもそも私たちがいくつになるかなんて知らないし興味もなかっただろう。なら放っておけばいいのに何故か近寄ってくる。
妹とは歳が近かったし見た目も似ていたので当然間違えられた。最初から最後まで間違えたまま帰る人もいた。
中間子は影が薄いなんて言われることもあるが、姉と妹の名前は覚えているのに私の名前だけ出てこないなんてこともザラにあった。
母(というか女性)は親戚集まりの際には台所であれやこれやと仕事をしていなければならなく、それは子供である私達も同じだった。
ただ飲んで騒ぐだけの男たちにやれ酒を持ってこいだのあれが足りないだのと次から次に言い付けられても愛想のいい姉はちゃんと対応していたし、妹は人見知りがひどかったので常に台所で母にくっついて手伝いをしていた。
私も妹と同じく人見知りだったが母は妹に取られている、かといってよく知りもしない親戚連中のおばさんたちに指示を仰ぐこともできない。
人見知りなのだから愛想がいいわけもなく、私が「もっともだめなやつ」になるのは当然だった。
そのうち人前に出ることも手伝いをすることも拒否するようになって、親戚集まりの際には空き部屋に引きこもるようになるとますます評価は下がった。
「姉も妹もよく働くのに、どうしてあなたは」とわざわざ嫌味を言いに来るおばさん(祖父の妹の一人)もいたが無視していた。
上記のおばさんには奇しくも私と生年月日を同じくする孫(私からすると再従兄弟になる)がおり、彼はいわゆる優等生だった。勉強ができ、親の言うことをよく聞く子だった。(数年後に爆発して親と険悪、音信不通になったが)
更に私は高校受験に失敗するし入った学校は結局辞めるし定時制高校に入り直すもバイトに明け暮れて学業を疎かにして卒業が危うくなるしで株を落とし続けた。
親戚中からの「あいつはどうしようもないやつだな」みたいな空気は幼い頃から親戚集まりがあるたびに感じていたのに、後半はもう完全に腫れ物でいないものかのような扱いだった。その頃にはもうその方が居心地がよいほどに親戚が嫌いだったが。
高校に入ってすぐに父母が離婚して、当然私は母方の籍に入った。というか三人全員そうした。
父方の親戚たちは離婚時にまで首を突っ込んできた。(中でも嫌味おばさんはすごかった)
なんで夫婦の問題に祖父母どころか親戚が絡んでくるのか謎だったし、そういうのが当たり前な気質が気持ち悪かった。
元々苦手だった祖父母のことも、このときに嫌いだとハッキリ自覚したと思う。
それまでは幼い頃にそれなりに一緒に過ごした情があったというか「家族(親戚は別)を嫌うのは悪いこと」という固定観念があったので「自分は祖父母が嫌い」ということから目をそらしていたのだと思う。
幼い頃から父とあまり関わってこなかったせいか特に離婚そのものにダメージはなかったし、なんなら父とはその後不仲になる一方だった。
離婚後に実家に戻ったことで、父に元々あった、私の嫌いな「〇〇家(父実家)の人間っぽいところ」が顕著になったために父に対する嫌悪感が強くなってしまったのだと思う。
(親権は母が持ったが、みんなそれなりの年齢だったので私たちが父や父実家に関わるかは本人に任せるスタンスだった。そのため離婚後もときどき父実家に行ったりなどがあった)
離婚から十年近く経ってから、父が亡くなった。持病を持っていたし年々痩せていたので長生きはしないと思っていたがまだ五十代で予想よりもずっと早かった。
父とは、死の半年前に病院から退院する父を迎えに行ったときが最後だった。
私よりも父と過ごした時間が長かった姉や就職と同時に県外に出ていた妹は訃報を聞いて泣いていたが、私は一度も泣かなかった。飼っていたペットが死んだときの方がずっと悲しかったし泣いた。
その頃には父のことが嫌いとまではいかなかったが決して好きとは言えない、という程度で、なんなら二人が行くなら私は葬式に行かなくてもいいか?と姉妹に聞くくらいだった。葬式の日に舞台のチケットを取っていたのだ。私にとっては本当にそのくらいの関係性になっていた。
誰が喪主をやるかで揉めて、しまいにはすでに嫁に出て別姓を名乗っている姉に押し付けようとするために姉が泣く始末になった。
私は当然怒って姉を庇ったが普段ロクに喋らないので、おそらく親戚たちが聞いた最初で最後の私の怒声だっただろう。
嫌味おばさんが人生終了レベルのトラブルに見舞われたり(自業自得)親戚の中でも故人が増えたりしながら数年経った。
父の死後は、介護とまではいかないが姉に協力するという形で祖父母の様子を見に行ったり通院の付き添いをするようになっていた。
姉は祖父母を見捨てきれなかったが姉一人であの家に関わったら姉が潰れてしまうと思ったので協力することにしたのだ。
数年間そんな生活をしていたが、少し前に祖父が持ち前のクズを発揮して優しい姉に絶縁宣言をされた末に施設へ入った。
姉が縁を切るなら私ももう関わる義理はないので、自分が請け負っていた祖母の病院関係を整理したりして縁切りの準備をしている。
最低限の下準備はしてあげているので今後は自力でなんとかするだろう。というかするしかないけど。
姉と妹は結婚しているが子供はおらず、私に至っては結婚願望どころか恋愛願望すらない。
自分にもあの一族の血が混ざっていることが嫌だし、自分もああなってしまう可能性があるかと思うとボケたときなんかが恐ろしくてたまらない。
別に葬式もいらないし、火葬だけは法的にしないといけないので最低限のお金を遺して身元保証会社とかにお願いしておくから適当に無縁仏とかに放り込んでおいてほしい。
最近はそういうことを考える。
https://anond.hatelabo.jp/20231121162032
中国にしてもインドにしても国民人口が多いというだけの理由で偉そうな顔ができるわけ
ビグザム1機でジムやボールを10や20倒したところで、ソロモンは陥落するしかない
稼げる人材がいたとしても、稼げる仕事に投入できる時間が限られてたら稼げない
1億3000万人のうち外資企業で億の年収稼げるやつだけ10万人がいたら残りの1億2990万人は死んでいいかといえば、
残りの1億2990万人に掃除、洗濯、建設、配送、田植え、草刈り、害獣駆除、その他もろもろやってもらわないと、
億稼ぐ仕事だけに専念できないんだわ
いとこでワイだけFじゃない大学入れました。
頭が良くなるからやれと言われた。なんだかんだ一回小さな大会で優勝したり学校で伴奏したり役立った。
→文章力をつけるために寝る前に書かされてた。小学校に入ってからは3行日記が宿題で出てたため解放された。
言い回しとかは毎日添削入ってた。これにより小説書くのが好きになって今のささやかな趣味になってる。
物心毎晩読み聞かせしてもらってて、年少からは自分で絵本とか読んでた。親が10代の頃読んでたちょっとエロい漫画とかも読んでた。ルビ振ってくれてた。
→トランプオセロかるた。家族で園児の頃からめっちゃやった。祖父祖母ともやった。オセロは今でもめちゃくちゃ弱い。
こどもちゃれんじ
→進研ゼミのやつ。2歳くらいから小3くらいまでやってた。サボってたけど課題添削は出してたかなぁ。
→謎に2年くらい習ってた。何にも覚えていない。
土いじり
→親の実家が農家だったんで、田植えや稲刈りやじゃがいもの収穫とか物心ついた時から色々
やっとけばよかった
→英語と数学の先取りを全くやらずに中学に行ったのでキツかった。
→小学校の頃何か一つチームスポーツをやっとくべきだった。メンタル面での成長が欲しかった。
あとは園児の頃からイベント作る系の遊びが好きだった。ごっこ遊びと称してちょっとしたお遊戯会みたいなのを友達と開催したり(演目の練習とかプログラムとかも作ってた)紙芝居を友達と合作したり、お手紙交換も園児の頃からやってた。
増田の出身小学校にはいわゆる校庭(グラウンド)とは別に裏庭があった
裏庭には田んぼ、畑、ちょっとした雑木林、飼育小屋、ちょっとした池、テニスコート1面があった
田んぼ…6年生が先生の監督下で田植えから収穫までやってた。収穫したお米は他のお米と合わせて学校行事でおにぎりにして食べてた。おにぎりを作るのは朝っぱらから集められたPTAの親御さんたちだったので、大人になってから振り返ると楽しかったのと想像し得る親御さんの大変さとでちょっと複雑な気持ちになる
畑…4〜6年生が色んな野菜を育てていた。5年生の時はさつまいもを栽培して、秋になったら1年生の子とグループを作って雑木林の落ち葉で焼き芋をした。時間内だと全ての芋に火が通らなくて、しっかり焼けた甘い芋はみんな1年生に食べさせて自分たちは微妙な芋を頑張って齧った。自分たちの芋は美味しくなかったが、1年生が美味しそうに芋を食べてたので少なくとも増田は充足感を覚えていた。この畑では教頭先生がスイカを育てていて、夏になると休み時間に全校児童と先生たち皆でこのスイカを食べた。夏の暑い日に外で食べたスイカは甘くて瑞々しくて美味しかった。教頭先生は学芸会の時に正体がモロバレしてる謎のヒーローになる楽しい人だった(やればできる!の人みたいな明るさがあった)
ちょっとした雑木林…裏庭の端に色んな木が植えられていた。枇杷とか桑とかの果樹も生えていて、実がなったら食べてOKだったので一学期の終わり頃の時期は雑木林が人気スポットだった。この雑木林の向こう側が工事業者の敷地だったせいか、捨てられたと思しきトラロープとかホースの切れっ端が転がってることがあった。5年生の時に学年の皆でこの雑木林の隅に生えてた一番大きな木と上記の廃材で秘密基地を作った(担任の先生が掛け合ってくれて年度末には片付けることと他学年の子が来ても受け入れることを条件に校長先生に許可してもらった)。廃材で作った適当すぎるブランコを勢いよく漕いだ増田は勢い余りすぎてすっ飛んでビターーーン!と地面に自分を叩きつけたことがあるけど今も元気に生きてる
飼育小屋…うさぎとニワトリがいて、4年生が当番制で世話をしていた。ニワトリの卵は当番の子が貰ってOKだった。増田がニワトリの卵を貰った時はさっさとTKGにして食べたのだが、これは増田のきょうだいが当番をしていた時に卵を貰ってきたのを勿体ながっていつまでも食べずに残していた結果、いざ食べようと卵を割ったらヒヨコになりかけたやつが出てきた事件から学んだつもりの行動であった
ちょっとした池…でかめの金魚と鯉がいた。たまに野生か野良の動物に魚がやられてしまうことがあって校務員さんが残念そうにその話をしていたが、小3の増田はその話を聞いた2分後くらいにはセミの抜け殻を集めて池を縁取る石の上に並べたりしていた
テニスコート…テニスコートではあったが在校中にネットが張られたのを見たことがない。休み時間の鬼ごっこ会場か教頭先生がスイカを振る舞う会場にしか使われてなかった
小学校は本当に楽しかった。裏庭も好きだったけど、ちっちゃい丘みたいなのがある校庭も、閲覧席の陽当りがいい図書室も好きだった。卒業式でめちゃくちゃ泣くくらい楽しい学校生活だった
時々思い出して、あの頃はよかったな〜とノスタルジーに浸ってはもう戻れない思い出の世界なのだとちょっぴり寂しくなったりしてる
こんなとこにそんな情報置いても仕方ない気はするが
役に立つかも人もいるかもしれんので置いておく
まず農林系の役所の窓口に行って
を聞く。
堆肥撒いてくれるとこがあったら撒いてもらってそれだけで稲作する。そしたら環境保全型直接支払交付金で堆肥代が浮く。
窓口でこれも斡旋してくれる。
牛糞なら反当たり3トン毎年入れればそれだけで米取れる。
鶏糞は反当たり300kgくらいかな?やってないからわからん。
これで圃場内では有機肥料のみで育てた美味しいお米作れる。
JAで買う苗にふりかける箱材といわれる殺虫剤と殺菌剤はやらなくていい。無駄。
除草剤は絶対いるがかならずフロアブルという液体タイプにする。
粉やら投込むタイプのティーバッグみたいなやつは効きません。濃度が上がるまでに流出して効きにくいのよ。
水は当てっぱなしでいいし中干しいらない。
水の中にはがっつり栄養があるので水がながれないように調整する。
刈り取る前に水は全抜きしてしっかり乾かして。盆明けとかがいいかな。
稲の下から数えて最初の葉っぱがでているところから呼吸すると言われているので、これ以上水位を上げないようにする。
上げるとどんどん伸びてヒョロヒョロになってぶっ倒れる。
仕上げ防除とかいうカメムシ対策の殺虫剤にお金払うくらいなら後で色彩選別機でカメムシにやられた黒い米を取り除いてもらったほうが綺麗な米になる。
他の異物も取れるしな。
乾燥する時は40℃までの低温でやれば割れにくいし美味しい。なんなら17%くらいまでは時間かかるが風だけで乾燥できる。のこり1%だけ灯油使って乾燥すれば灯油代ケチれる。
これだけ抑えとけば付加価値ついたバッチリいいお米作れて大してお金かかりにくい。間違ってもJAの言うとおりにして農薬肥料買いすぎないように。
-------------------------
→僕は父親がJAの通りにやってたのを全部見直して儲かるように仕組みを作り直した専業2代目です。
全部作業を委託すれば参入障壁は低いですが、機械を買う場合でも近所の幅利かせてる農機具屋に稲作やめて機械手放す人が出てきたら教えてくれるように言っておけば、ただ同然の値段で機械は揃えられます。
→うちの地域はJAの職員でそんな幅利かせてるのいないですね。良くも悪くも公務員みたいな人しかいないです。そもそもJAから機械借りたことないし稲作の機械は稲作してる農家から借りたらいいのであってJAに借りる必要ないのでは?
いい米つくりたかったら良い水流してくれるところに田んぼ持たないとだめなので、何処から水引いてくれるのか確認も必要です。
→これはほんとそう。うちの父は50過ぎて脱サラして始めたため水が漏れるとか水が来にくい田んぼばっかり借りてて、除草剤効かな過ぎて大変なことになってました。フロアブルスプラトゥーンで解決したわ!
水戦争は上流の人間がいつ水触るか全部観察して触った後なら1日後まで触らないので、そのタイミングでさわると確実。上流の人間の入れてる水を少しずつ解らないように減らすことで下流の自分のところに水が来るようにしてください。こうすればバレないしバレても1日後まで水量は回復している。
→その通りです。自分で調整して。
周りが農薬撒いてて地域に虫が少ないからできる奴。 お前んとこ虫の発生源言われてるんちゃう
→むしろ聞きたいけど田んぼにちょっと農薬撒いたぐらいで虫が消せるとでも?それ以外の草むらの面積の方がとんでもなく広いのに。。
ちなみにうちの地域では稲作してる人はかなり減っていて、うちの作ってる面積がかなりを占めてるが問題は起きてないので関係ないと思う。
ゲッ、自然派かよ
→自然派というかコスパ的にも一番安いし、なんなら自然派の人に高く売れるのでただ儲けたいだけでもこの方法がベスト。やってみりゃわかるけど結局うまく育つのって人工物を使っても自然の模倣した方法になるので、じゃあもう自然のものだけにすればええやんってことになる。
JAに逆らうと周りの農家からいじめられて作物駄目にされるのに
→ほんまにそんなとこあるんか正直信じられないけど周りに米農家やろうなんてとこないからそこまで寂れたら関係ないんかな?
中干しって、台風来たときに倒れないように根を伸ばすのが主目的なんじゃないの? 収量は減るかもしれんけど、台風でぶっ倒れたら稲刈り大変だし砂利だらけになるじゃん
→中干しは確かに根は伸びるけど、それは乾いた時専用の根なのでまた水張ったら水の中専用の根に戻る。なので早めに水切って根を伸ばさせる方が理にかなっている。書いた通り水を初期に深く入れすぎると伸び過ぎて倒れるから注意。こけたら砂利は確かに入ることもあるけど石抜き機と色選あるとこに機械とおしてもらえばほぼ100%なくなります。
無農薬とか自然農法とかアホらしいと思ってんだけど 無農薬ですよってラベルに書いておくと高く売れるのか? そんなん証明しようがないし偽装し放題じゃねえの?
→高く売れる。結構バカにしてるひといるみたいだけどお金持ちほどそういうの気にしてるみたい。
偽装し放題はその通りなので信頼できるとこから買いましょう。正直有機JASでもいくらでも偽装できると思う。検査がザルすぎる。
残留農薬の検査しまくってるの知らんの? 無農薬だの有機農法だのラベルにつけると真っ先に検査にやってくるぞ。
→ぜんぜんこない。
中干しは稲が伸びすぎて倒れるのを防ぐためにやるんだよ 倒れて台風でも来た日にはとてもじゃないけど刈り取れなくて酷いことになるぞ。
→やってみればわかるけど稲は倒れてもコンバインが優秀すぎるので刈れる。ちょっと時間はかかるけど。むしろ倒れてる方がよくできてるとか言う人がいるくらい。
JAの苗はハウスの高温で一気に伸ばすので苗が貧弱で倒れやすいから、もし自分で苗を育てられるなら路地で育てると良い。そうすれば短くて倒れにくい苗になるし、初期の状態がそのまま最終の状態にそのまま引き継がれる。
・堆肥撒いてくれる組合はあるか これハードル高いかな。地域によるのか、増田の書いてることは概ね納得出来る。 元兼業だが、田植えして除草剤撒けば後はそんなに稲作は難しく無いよな。 刈り取りは任せてたから、俺の経費除いて計算してみると数万しか利益が無いから他に任せて辞めたけど。 稲作は二丁歩程度じゃ話にならん世の中になってしまった。
→堆肥は畜産やってる地域じゃないと厳しいね。JAの買取が安すぎるので、道の駅等で付加価値つけた分を高く売る等の努力をしないとオペレーター頼むと手元にはあまり残らないですね。
JAってマジでなんのためにあるんだ?日本の農家の国際競争力を削いだり農業従事者減らすために存在してるんか?
→米は保存が効くから自分たちでさばけるけどあしのはやい野菜等はまとめて買い取ってくれるから意味ないことはないですよ。ただJAは公務員的な仕事の仕方しかしないので、値段を上げる努力をあまりしていない印象。ここを改善しないと廃れる一方だと思う。
農業をやりたい方は今までの日本の農業関係の資料が読めるルーラル電子図書館というのがあって、年間15000円くらいだったかな?それ使えばいままでの研究論文等読み放題なので活用するといいです。1年もあれば自分に必要な情報は取捨選択しながら読み切れると思う。
同僚に九州大学近くのインド料理屋のラップサンドが美味いと聞いた
トルティーヤを油で揚げたもので、キャベツとか人参とかをマヨネーズと香辛料を混ぜたもので合えたものと、チキンティッカみたいなのが巻いてあった
一口かぶりつくと、揚げパンのような小麦の香りの中から油がじゅわっと染み出てくる感じと野菜のしゃきしゃき感、そのまま噛み切れるチキンの柔らかさとマヨっぽいなじみ深い味と、後味にカレーっぽいスパイスを感じる
野菜部分の味付けと、チキンティッカのソース部分との味付けが異なるから噛む場所で味の濃さと香り、食感も違うのが楽しい
さすがにラップサンドだけじゃ腹いっぱいにならんだろうと思って、ビリヤニも買ったのだけど、ラップサンドが恵方巻みたいなサイズ感だったので両方食ったら満腹で動けなくなった
九州大学辺りは最近、蔦屋書店ができたり、外国人向け寮ができたりと、九大新町という地名にふさわしくだんだんと発展し、ただの田舎の田んぼだったところがここ数年で町になってきている
それでも一本道を外れると、田園風景が広がっていて、帰り道には小学生とその家族らしき人たちが田植え体験をしていた
ファミリーカーが道の端に並んで駐車していて、水面は空を映していて、泥の底に頼りなさげに稲苗が並んでいて、小さな裸足が平らな底をくぼませていき、畔の周りで大人が写真を撮っていた
からっ梅雨が続くけど、どうせ夏本番になれば台風の大雨とかで雨量の心配をしていたのをすぐに忘れるのかなと思って過ごした週末だった
そんなことを書いていたら、窓の外で雨が降り始めた
自給自足といっても、
山奥で野人のように
暮らす、
それ、ひとりでやろうと思ったら、どんだけ大変なんだろうな。
これ自給自足しようと思ったら、
そろそろ田植えの準備とかしなくちゃいけないのか?
つーか田んぼってどうやってつくるんだ?
そもそもどうやって苗って手に入れたらいいんだ?
そういうことを全部、自分でしなくちゃいけない。
気が遠くなるような話だ。
今は夏がくるのが早いから、もう初夏が始まった時点で暑いだろうな。
となると衣替えしなけりゃならないんだけど、
自分で縫うことをしなくちゃいけない。
つーて、そもそも布から作りゃなきゃいけないんだけど、布ってどうやってつくるんだ?
なんかね。
というと言い過ぎかもしれないけれど、
その対価として受け取っている現代の生活というのは随分と恵まれているよなあ、
とふと思ったりした。
都会からとおく離れた地方の村。その村の終わるところ、田んぼの果ての小川の向こうに蕎麦屋が点在する地域がある。
そのなかの一軒がふと気になった。ちいさな生形の暖簾に書かれた屋号の筆の走りが尋常ではなかったのだ。
近寄って暖簾を眺める。名のある書家によるものと思われた。暖簾のむこうの扉は開かれていた。
暖簾をくぐった。
店内に人の姿はなかった。
客はおろか店主すらいなかった。
呼び鈴の類はなかった。とりあえずカウンター席に腰をおろした。
からっぽの厨房の左手に開け放たれた勝手口が見え、簾の向こうには新緑の林が見えた。
薄暗い店内でひとり目を閉じ耳をすませた。
小川のせせらぎと風の音がする。遠くで雷が鳴っている。小川の水面が反射する初夏の光が樹々の葉を照らしている。
背中に風を受けた。ふと立ち上がり振り向いた。開いている扉の向こうには田植えをまえにゆたかに水を張りはるか遠くの海までまでつづく水田と、そこにうつる空と雲が見えていた。天地の別があやふやだった。太古の伝説にきく幻の湖をゆく孤舟からの眺めとはこんなものかと思った。