はてなキーワード: 真骨頂とは
①セミコロンを使う場合は、セミコロンをはさんでいる二つのセンテンス間に主従の関係がない。
②セミコロンを挟む「 二つ のセンテンスが 共通のテーマで結ばれており」、
forwardとbackwardのように、明暗、天地、苦楽、善悪のような「一対の対照的要素を左右に配置できる」ときにその真骨頂を示す。
③ピリオドで 区切ることのできる独立性を備えていながら他のセンテンスと共通性のある二つのセンテンスをセミコロンで区切ります。
These are my favorite animals: bears, for their strength; lions, for their courage; and monkeys, for their cuteness.
①bears, for their strength
②lions, for their courage
③and monkeys, for their cuteness.
の3つが並列されている。
●「Grammar In Your Pocket Series Introduction」から引用
At home, you learned from Mom and Dad; in school you learned from Teacher. What you learned was what they knew.
→①AT HOME, you learned from Mom and Dad; ②IN SCHOOL you learned from Teacher. What you learned was what they knew.
「英文法を学ぶ場所、状況」という共通テーマで、at home(家庭)と、in school(学校)がセミコロンで並列されてる。
清水亮は、天才的だ。若いころはプログラマーとして名を売っていたようだが、今は詐欺師として日本一だ。
いや、詐欺師というのは、ちょっと大げさだ。別に犯罪をしているわけじゃない。
だけど、口車のうまさは、まさしく天才的だ。
例を挙げよう。
(1) enchant MOON
こいつは使い物にならないゴミなのに、ものすごい夢の機械だと思わせて、結構大量に販売した。
こんなゴミなど、普通まったく売れない物だが、ゴミを大量に売りつけるあたり、まさしく天才だ。
http://d.hatena.ne.jp/shi3z/20130116/1358319670
(2) 進撃の巨人
こいつはただのゴミ映画なのに、素晴らしい傑作映画だと思わせて、結構大量に映画チケットを買わせた。
ちょっと待てば、酷評の嵐なのだし、誰も見に行かないはずだが、
ゴミ映画を見に行かせるチケットを大量に売りつけるあたり、まさしく天才だ。
http://d.hatena.ne.jp/shi3z/20150722/1437513836
(3) 人工知能
人工知能の研究は大切だが、現段階では、金儲けのためというより、基礎研究だ。
したがって基礎研究に資金を出せる大企業が参入するべきだ。たとえば Google みたいな。
ところが、どういうわけか、ドワンゴがこの分野に乗り出した。
それというのも、UEIリサーチなんていう眉唾物を清水亮から購入したからだ。
http://japan.cnet.com/news/service/35068319/
http://d.hatena.ne.jp/shi3z/20150926/1443248077
http://hiroki-uemura.hateblo.jp/entry/2015/09/01/230611
こんな会社に、新卒者を招こうとして、人工知能研究を「素晴らしい」と吹聴する。
これで洗脳される人も続出だろう。就職できずに路頭に迷う人も続出だろう。
その一方、ドワンゴは、焼きそば要員がたっぷりとできる。まったく、天才的だ。
この言葉が出てくるっと昔からモヤモヤするんですよね。私を含めて素人さんが「表現の自由」という言葉について考慮すること無くオレオレ定義でいきなり使い出したら、読者はそっ閉じしちゃうと思います。「ネットでこの言葉使う人に関わってはいけないそっ閉じランキング」やったらトップ10には間違いなく入るやつだと思います。
私含めて普通の人にとって、「自由」という言葉ってなかなか捉えがたい概念じゃないですか? だから言葉に対する解釈がバラバラになり過ぎて同じ言葉を使っても議論にならない、という印象が強く有ります。
とにかくこの言葉を使って議論を進めるためには、最低限「なぜ表現の自由の自由が大事なのか?」が共有できている状態、つまり「表現の自由とはなにか」ということと「表現の自由の重要性」が理解されていることが必要だと思うのですが、出来てます?聞き手どころか「表現の自由」を主張している人ですら、それが理解できているように思えないんですよね。よく理解できてないけど「表現の自由」をただ絶対正義のスローガンのように唱えてるだけじゃないですか?
「自由」というただでさえフワフワした言葉を、フワフワした状態で使って、それで何かしらの主張をしました、って。それただの自己満足ですよね。まぁ私もネットは自己満足のために使うべきだと思うのでそれでいいと思うのですが、少なくとも議論どころか主張にすらなってないもので、反対する人を説得できるとは思わない方がいいですよね。
主張すらしてないのに「僕達にとっては自明のことなのにそれがわからない反対派はバカだ」みたいなしょうもないことを言ってる人を見ると、さすがげんなりさせられます。
民主主義は、何が正しいかわからないからこそみんなで議論しお互いの考えをぶつけ合って、もっともよいものを見つけだそうとするものです。そこでお互いが自由にものを言えなければ成り立たないのです。
国や政治家が特定の考え方をメディアに押しつけることも、メディアの自由な報道に何らかの影響を与えるような行動をとることも許されません。国や政治家などの権力を持つ者は、国民の思想や言論活動といった精神的な営みの領域には立ち入ってはいけないのです。
何か一つの考えを正しいとして絶対化することを抑制することにこそ本質がありそうだし、これなら共有可能な気がする。
悪書追放のなにがいけないかというと、どんなに優秀な人間でもその能力の限界は時代の限界に規定されているからです。現代に生きる僕たちはどうやっても次の時代にの正しさを知ることはできないわけです。この時代の感性で記録を焼くようなことがあってはいけない— 大澤めぐみ (@kinky12x08) 2015, 8月 30
表現の自由の真骨頂っていうのは、吐き気をもよおすような嫌悪感を抱かせる表現に対してもその自由を担保するというところにこそあるのであって、どれだけ創作物のその邪悪さを主張されたところで「なればこそ表現の自由によって守られねばならない」と、こうなる— 大澤めぐみ (@kinky12x08) 2015, 8月 30
こういう話が前提なのだとしたら、まずここを共有すべく努力したらいいと思うんだけど。ここまで考えてる人がそもそも少ないよねえ。
たださ、少なくとも「表現の自由」を声高に叫ぶだけの人は相手からしたら「わがまま」にしか聞こえないだろうと思うよ。これが良い、これが悪い、と二者択一的に区分けする考え方こそが危険、っていう主張をしていったほうがええと思うんやけどな。 そのルールのもとに私達は平等ですよ、と。
そうしないと、ほんとに規制を唱える側ってのは、自分たちの正義を信じてるからね。自分たちは正しいからそうしてるのであって、間違った奴がいうことは聞かないどころか自由を主張するとは何事か、わがままだって思っちゃうんだよね。炎上でよく知らない人を叩いた経験がある人ならわかるでしょ? 普段君らが何も考えてないくせに、炎上してる人見たらとりあえずこいつは安全に叩いていいやつだっていって叩きに行く。あれと一緒だよ。 そんな時に「表現の自由」を主張してるやついたらどう思う? 実態は違っても相手の感情はあれと同じ。
きみら炎上してる人を叩いてる時って、相手が何言っても許さないでしょ?「犯罪者に人権はない」くらいの感覚でしょ?その経験があるなら、そういう状況で、君らが普段からちゃんと考えてないから中身がスッカスカのスローガンでしか無い「表現の自由」って唱えても無駄ってわかるでしょ。 水戸黄門じゃない人が黄門さまの印籠だけ取り出して掲げても無駄だよ。だって、きみには何の権力もないからね。 そういうことを理解しないといけないよ。
「表現の自由」って言葉の大事さが共有されてないなら、相手に合わせて伝え方考えないとあかんよね。そうしないと規制しようとしてる人は、感覚として「炎上してる奴は徹底的に叩け」と同じ感情で行動してるだけなんだから。炎上してるやつを叩いてるときの君たちと同じくらい知能低下してるんだから。そこで下手に反論しようとすると、相手は「こんなことなら自由という考え方自体が害悪だな。犯罪者からは人権を剥奪しよう」くらい過激なことを考えるよ。君たちだって普段そのくらいの感じで見知らぬ人間を叩いてるよね。
そのことをよく踏まえた上でこの言葉使ってほしいよね
はてブホットエントリーの30選(http://gathery.recruit-lifestyle.co.jp/article/1141321068543131601)がイマイチ感性に響かなかった(普段読書しない人向けか?)ので、俺選してみる。
【反省会】
気が付くと、近隣のスーパーに置いてある食パンが軒並みどこも六枚切りがメインになってた。
さらには、かつては関東では見かけなかった、四枚切りなどという醜悪な厚さの商品まで並んでいる。
俺はトーストは「サクッ」という食感こそが真骨頂だと思っている。
六枚切りでは厚すぎるのだ。(四枚切りは論外)。
日本でフランスパンやバケットが柔らかすぎるのはもうあきらめている。
引きちぎるように噛み切らないと食べられない固さであるがゆえに、噛みしめるほどに麦の味がにじみ出てくるようなパンは、もう海外に行った時の楽しみにとっておくことにする。
だがら、せめてサクッとしたトーストの悦びを俺から奪わないでくれ。
そもそも、現代の日本人は、あまりにも「ふわふわ」「もちもち」の食感ばかりを崇め奉りすぎだ。
顎の力を失い、噛みしめる悦楽を忘れつつあるこの国に未来はない。
昔、ある出会いがあった。
おそらくは、一秒すらなかった光景。
されど。
その姿ならば、たとえ地獄に落ちようとも、鮮明に思い返すことができるだろう。
その先が地獄だとしても前に進むと決めた士郎と
その先が滅亡と知っていても王になると決意したセイバー
やっぱりこの二人は似たもの同士だと改めて思ったなあ
本編のアーチャーの詳細の中で「なんのペナルティもなく固有結界を使いこなし」という一文があったが、本当に消えかかった身でも発動可能なくらい消費が少なかったんだな
わりと初期の頃このペナルティがどれくらいのものなのかと議論されていたがまさかこんなところで結論が出ようとは
HAの『たとえ地獄に落ちようとも思い返すことのできる光景』をまさかUBWで見れようとはなぁ………
アーチャーが契約した“かつてのセイバー”に対する思い入れ、出会いの強さがしんみりと来たぜ
……だからこそ、歯痒いものを感じる
セイバーの聖杯に対する願望、そして自分の内にある鞘の存在を知るほどの関係に至っていたのに、なんで彼女を救えなかったんだ馬鹿野郎………!!
この世界の士郎は先にアーチャーを見たからこそ、アーチャーの様にはならないんだろうな。
守護者の立場が確定したアーチャーはもう抜け出せないけど、後悔だらけの自分とは違う道を示す自分を見たわけで。
本人にはもう救いはなくても、可能性を感じられるだけマシ、なのかなあ。
問おう、貴方が私のマスターか
のカットが入っててまたいいわ。あのシーンて確か本編士郎じゃなくて
本編アーチャーの過去編だったよね。
セイバーの表情もとても良かった。
そういえば士郎はよく「借り物の理想に執着してしまった愚かな男」って言われてるけど、どっかの誰かさんが言ったように「借り物の理想を持たない人間はいない」んだよな。そして自分も元だけど「借り物の理想」をもった人間に該当する。
何年か前、ある人の実況動画をみて、その実況者がプレイしたゲームの素晴らしさに憬れて、自分もそのゲームの製作者のように素晴らしい作品を造りたいと思うようになったのよ。
でもいつからだったか覚えてないんだけど、自分の抱いた理想が「そのゲームの製作者のように」ではなく「自分だけの、自分にしかできない作品を創りたい」という理想に変わったたんだ。
つまり何が言いたいかっていうと、全ての理想に対するanswerは「他人から受け継いだ借り物の理想を借り物の理想のままに終わらせるか」と「借り物の理想を自分だけの理想に変えられるか」という二つの結論に帰結するんじゃないかなといいたいんだ。
新規の人のコメントで「袖がないアーチャーの服は『涙を拭くことができない』ことを表していると思った。」っていうのを見てめちゃくちゃ納得した。
一晩たって落ち着いて考えてみると、この一番大事なシーンを時間の制限ついたアニメにしっかり合わせて分かりやすく構成してると感心するわぁ…
原作やったのがだいぶ昔でアーチャーの言葉にひたすら対抗して打ち合ってたイメージあったけど、ちゃんとその苦しみを理解してその上で対峙するって段階を丁寧に丁寧に描写してたのがほんとよかった、特に同情なんてしないけど心が欠けそうになるってシーン。
あと原作やった時は二人にしか目が行かなかったけどセイバーさんめっちゃ辛そうだな
挿入歌の「傷だらけの硝子の心が」の部分でボロボロの士郎が映って、「忘れかけた熱をともす」でアーチャーに切り替わってるんだよな
偶然かもしれないけど、なんか感じるところがあった
ある意味では士郎にとっても(桜関係や横暴なところを除けば)そういった持ち味を持った慎二も愛おしい日常の象徴だったんだな。だからこそHAでの殺し殺されるっていう緊迫した感じや魔術に対する毒気が抜けて、これから間桐家から出て一般人として再出発しようと語る慎二と士郎のやり取りは(セイバー&桜√で死んでることを考えると)胸にくるものがある。もしHAが映像化したらぜひ入れて欲しい。
理想に執着しているのであって助ける相手に執着していないと言っているのだと思う
衛宮士郎は幸福のために邁進する者ではなく、もっとあいまいなものを守ろうとしているに過ぎないと
だから誰を救うのかも定まらない
それは特定の誰かを助けるために必死になれる人間(たとえば士郎のために真剣に怒った凛など)に比べれば動機が弱い
自分の欲望ではなく願いのために戦うから薄っぺらいんだとエミヤは言いたいんだと思う
じっさいは薄っぺらいどころか士郎は折れる気配すらないと悟るんだけど
今思えばアヴァロンって必ず誰かを救ってくれる要なんだよね…士郎の命が切嗣によって救われただけじゃなく切嗣自身も士郎と出会い救われたし、SNでは後にセイバーが士郎と忘れられないあの夜に出会って彼女自身が救われるきっかけになったしさ。皆の架け橋のような存在だよね。
数ある宝具の中でも、特にアヴァロン(全て遠き理想郷)は尊いものに感じるな。
エミヤに「その先は地獄だぞ」と言われた後の士郎の微笑みが素晴らしかった。
自分の理想の根底にかつての自身の願いがあったことに思い至っての、自身の理想が空虚な借り物でなかったことへの安堵、かつての自分と同じようにたとえ未来の自分から進む先が地獄だと告げられてもその道を進むことをやめようと思わない「自分」と言う人間の性への苦笑、そしてこれからも理想を追い求めていくという決意、それらがあらわれた絶妙な表情だった。
「士郎は人間の振りをしたロボット」とよく言われていたけれど、実は士郎も自分自身のやりたいことを追い求めたれっきとした人間だったんだな。
士郎の始まりは切嗣との出会いでも「正義の味方」という借り物の理想ではなく大災害の地獄の中で願った「誰かを助けたい」という思いだった
今回の話は視聴するまで不覚にも自分ですら忘れていた事柄を士郎と一緒に再確認させられたエピソードだった
これまで士郎は「人間のフリをしたロボット」や「士郎が人間になれるのはHFだけ」っていう意見が多かったし、自分もそう思っていたところがあったけど
今回の回想を見て、改めて以前にきのこが語っていた「士郎という人間は大災害に遭わなくっても最初からああいう人間だった」や「士郎は成長しない主人公」という言葉通り、士郎は最初から士郎以外の何者でもないと改めて気付かされた
今回のUBWはアーチャーが忘れてしまった大切な事を思い出す物語であると同時に、視聴者が「衛宮士郎は衛宮士郎という一人の人間である」っていう原作をした時には分かっていたことを思い出す話じゃないのかな?
そういう風に思わせてくれるufoときのこの演出は本当にすごい
ある意味ではこれまでのfateの総決算ともいえるの名エピソードでした
Fate/stにおいては近くにアーサー王がいるとオートリジェネが入る便利装備
もう一つ便利機能があるがこれは別の話
アーサー王物語にて、策略でアーサー王と決闘させられたある騎士がすんでで相手の正体に気がつき
鞘をアーサーに返却、同時に鞘の加護が消滅してしまい、治癒しきっていなかった致命傷が元で死亡してしまった
と、本来なら死亡しているであろう傷でも命を繋ぎとめてしまう能力がある
もう一つの便利機能、害意判別といいアーサー王物語におけるエクスカリバーの本体はこっちなんじゃないかとの声も
忘れてしまったモノを思い出す為に記憶(うみ)に潜り、あの地獄、あの原初の光景の中にある大切なモノを手繰り寄せる。
Fateは偉大な英霊同士のバトルが目玉なのはよく分かるし、派手だから目に付きやすいし当然だと思う。
でもやっぱり、こういった『人間の想い』を丁寧に織り上げる物語こそが、Fateの真骨頂だとPC版をプレイした時からずっと感じてた。
次話の『answer』もだけど、これから終局まで続く怒涛の展開に期待!
ユニクロ士郎は前編通してやるともうこれしかねぇって感じになるからね、仕方ないね。
個人的に士郎のユニクロについては、端的に士郎の特徴を現してる気がする。
服装って現代では(昔からそうではあるが)自分をよりよく見せたいとか人と異なる服装をして自己の個性を出したい、または同じ服装をすることで一体感を味わいたいといった意味で使われると思う。でも、士郎にはそういった人より優れた自分を見せたいという“自己”には乏しい。士郎がユニクロ着てることからそういう風にも読み取れるんじゃないかなぁと自分は思ってます。
凛の「アイツはああでなくちゃいけないって、ああいうヤツがいてもいいんだって救われてる。」
20話視聴後の感想はまさにこの心境だった
衛宮士郎というキャラクターは創作物の中でも一番好きなキャラかもしれん
違うアーチャーも言ってただろ
「助けたいから助ける」そこに理由がないから偽善だって言ってる
普通の人は大切な人だからとか誰かを助けるに足る理由が存在する
でも士郎は見ず知らずの人すら命がけで助けてしまう
でその理由を挙げるなら死にそうな誰かを助けたいという理想しかないんだよ
間違ってない願いだけど人間として致命的に欠けている
「それを手にする前に、きちんと考えたほうがいい。それを手にしたが最後、君は人間ではなくなるよ」
「おい、そこから先は地獄だぞ」
剣を抜くカットもそうだけど、この辺りもまた対比になってるなぁ
元から、「今、願ってる主体」が士郎以外の誰かだったことはないよ原作でも。
これ、普通の物語なら「始まりがなんだろうとこれは俺の心だー!」になるんだけど
そこで、「もう借物だとか自分の心だとか、理想が理想である前には超些細ですし」
までぶっとぶのがUBW。
「笑いたかっただけ」みたいな話は、普通のキャラにとっては深刻なんだけど
衛宮士郎二人にとっては、自分が偽善呼ばわりされるなんて大した話じゃないから
話さくさく流れて理想の話になっちゃうんだよね。
そこを凄い脳内で拡大してる人が出たりする。
それこそ、「士郎は切嗣の行動をなぞってるだけ」とか。
士郎は切嗣に「憧れた」わけだけど、
それはつまり、「ああいうものに憧れを抱く、善しとする価値観」を
士郎が元々持っていないと始まらない。
それを考えると、もうちょっと複雑なんだよねその辺り。
アーチャーの「幸せそうだったから憧れただけ」を真に受けるのはナシだしな。
「実は贖罪」もそうだけど、UBWであいつが殊更露悪ぶって口にする言葉を
それよりは
>「―――覚えてる。俺を覗き込む目とか、助かってくれと懇願する声を。
> その淵で思ったんだ。自分が助かった事じゃなくて、助けてくれるヤツがいる事は、なんて」
> 素晴らしい、奇蹟なんだって事を。
の辺りを読み込んだ方が未だヒントになりそうな。
→じゃぁもっと決定打になるものを見せてやろう
っていう意味じゃないか? UBW展開は。
「お前の辿り着く先はこの不毛の荒野だ」を文字通り目に物見せると。
あと、演出的には、Ufoはアーチャーと士郎を背負う空(特に雲)で表すそうだから
多分answerが凄いことになる。
UBWは心象世界だから、心象のぶつかりあいをビジュアル化する装置になりうるんだよ。
まさかここにきて、「アーチャーのUBW展開はローコスト」という設定が
演出上の最強のカードになろうとは。
某動画サイトでのコメントはアーチャーがセイバーを間接的にdisってるwwって解釈してるから違和感ある。
あそこのシーンのセイバーはアーチャーの言葉に傷ついてるわけじゃなくて自分と同じような道を歩んだ士郎の成れの果てのアーチャーを痛々しく思いながらも自分と似た願いを持つアーチャーを否定しきれない葛藤も持ちながら二人の問答の答えがどうなるか見守ってるんだと思う。
ホントそれ。そもそも願いが間違いなだけでセイバーの在り方自体はFateの全編を通して否定しえないものとして書かれてる。
SNから入った人はセイバー√で初めにそれを理解するんだけどそれをZeroで盛大に全否定したもんだから
そこから入った連中はセイバー=否定される、していいキャラとして認識してるから大問題。
虚淵のネームバリューもあって被害は甚大よ。
たまに絵に起こしてもらうと、ゲームのCGイベントは戦闘だし、
「いかにもうおおおおおとか言いそう」なとこが対外的には押されがちだったけど
基本「己と向き合い自分の心を形にする」人間だから
実は「動」だけじゃなくて「静」の面も強いんだよね。
その「静」に支えられるから熱さもあるって感じ?
今回の、内面でのアーチャーとの静かな対峙で
「静」の面が凄いクローズアップされたと思った。
自分はこれが見たかったんだよね。
とりあえず、「以前の記憶がない」は「ほほをつたう」と矛盾してると思う。
士郎、思い出に浸るのを自分に禁じただけで、普通に記憶はあるぞ。
> 何もなくなった場所にいって、有りもしない玄関を開けて、
> 誰もいない廊下を歩いて、姿のない母親に笑いかけた。
> ……あの日の前に戻れて。
> 何もかも悪い夢だったのだと、そう目が覚める日を待ち続けた。
士郎って割と元々ああよ。
衛宮士郎がアーチャーと士郎に分かれて真剣に自分の将来を模索するお話まじ熱い
アーチャーは自分が辿った選択ではろくな道筋にならないと力説する
士郎は自分が進む未来は「選べる道」ではなく「選びたい道」を進もうとする
幾度の面談を経て衛宮士郎は見つけづらい険しい道筋を見つけて答えとする
自分会議(物理)は死ぬほどストレスたまりそうだけどその分効率の良さが半端じゃないな
今回のエピソードは、アーチャーの月下の誓いに対する「呪い」という言葉が
あまりにそのまま伝わり過ぎていることに対する反論的な意味もあるのかな……と思った。
余人から見れば呪いととられかねない歪なものなのは確かだし、発言したのが未来の士郎と
いう点もあって、「信憑度が高い」と取られても仕方がない部分はある。
だが、そうじゃない。そんなものは、アーチャーのレトリックに過ぎない。
「月下の誓いに至るには、大火災のさなかで救いを求める自分がいて、生存者がいないと分かりながらも
助けようとした切嗣がいた。だからこそ、救われない人間をこそ救おうとするエミヤが生まれた。呪いなんて、忘れてしまったアーチャーの後付だ」というように。
ここら辺、原作やってても勘違いしちゃう人間がいるし。これをより説明的にしたことを指してデチューンと言ってたのかもね。
なんだかんだ分析してるが、初見じゃもうボロボロ涙でて凄かったよ。そうだよ!そうだよ!と絶叫しちまった。
価値観っていうと語弊があるのかもしれないが
とにもかくにも「心」はないと憧れも発生し得ないってところは
押さえておいてもいいのではと。憧れって心の働きなので。
災害中の描写から、衛宮士郎の連続性を断つ描写は作者したつもりないと思うんだよな-。
っていうか、原作の描写をそう読まれちゃったことを踏まえて再構成したのが
んー、言いたいことは分る。確かにもっともだ。
だが、「心が死んだ」「ゼロの状態で切嗣から新規に心を貰った」だと
極論すると、士郎以外の誰であっても
上記二条件を満たせば、士郎の如き人間になるってことだろう。
実際問題、それは非常に考えづらくないか?
なんで士郎がああまで凄まじい人間になっちゃったのかって言ったら
やっぱり元々「何もできないのに謝って楽になるのはだめだ」と
涙を呑んで歩き続けるような真っ当すぎて真っ直ぐすぎる子供だったからで、
そういう心をベースに憧れが発生したからだろう。
「心が死んだ」「ゼロの状態で切嗣から新規に心を貰った」
を強調し過ぎると、なんっかその辺拾えてない印象になる。
大事そうな話をよく読むとさっくり投げっぱなしにしつつ
「え、そこ?」ってとこに落ち着くのな。
よく考えたら何故その話が理想に落ち着く、みたいな。
読み甲斐があるといえばそうなんだけど、お陰で
「借物」が「心がない」と誤解されたり
「笑いたかっただけ」が一人歩きしたり、
今回、物凄い分かり易くバッサリまとめてきて、色々衝撃だった。
始まりは憧れ、でも根底に在るのは願い って、きのこだなぁおい
思い出したよ、くっそながい文章アホみたいにぶっ通しで昼夜読み続けてここの所で「なんて尊い大馬鹿野郎どもだ」ってボロボロ泣いたの。
今回は素晴らしかった。
なんというか、エミヤシロウというキャラクターの魅力を再確認できたよ
人間なら誰であれ死に絶えるような地獄の中で意味もなく切り捨てられる小さな命をこそ守りたいと願った少年が、その地獄の希望をくれた人から受け継いだ理想によって、その最も救いたかったものを切り捨てて大多数を救うものになってしまったんだからやるせないよなあ
士郎が本当に凡人なら、途中で折れるんだろうけど、地獄の道行を後悔なく駆け抜けることができてしまった心身の強さに物悲しくなる
一応補足しとくけど、兄貴とディルでは置かれた状況が全く違うからな
兄貴とディルを比べてディルをけなしている人はそこらへんを忘れているし、あえてどちらがより酷いかといえばディルの方が遥かにひどい状況だったんだよなぁ
そりゃ恨み節の一つも吐きたくなるだろって納得するくらいに
仮にディルが戦闘続行を持ってて、セイバーと切嗣を倒してケイネスたちを救えた後に消滅したなら恨み節は残さなかったろうし
もし兄貴がディルと同じ状況だったら、恨み節はともかくとしてやはり憤怒の形相で怒っていたんではなかろうか
それに主君に忠を尽くすってディルの願いも、強い奴と全力で戦いたいっていう兄貴の願いも自分本位な願いという意味では同じだからディルも兄貴同様、立派なケルトの英雄だと思うけどなぁ
士郎が人助けをしたいのに、元々法政志望してたことが昔から疑問だった。救急隊とか医者とか、もっとわかりやすく人助けできる仕事があるのに、と。
でも、きっと士郎はそんな自分の手の届く距離だけに留まるミクロの人助けではなく、社会の仕組み全体を変えるようなマクロの人助けをしたかったんだろうな。
そう思うと、世界と契約したのも、膨大な力で社会全体をよりよくできるという期待を持ってたのに、実際は何の権限もないただの末端の処刑人でしたっていうオチに涙せずにいられない。
なんて愚かで、なんて愛おしいんだろう。大人しくレスキュー隊にでもなっていれば良かったのに。でも身の程を超えて、それより上を、人類の幸福の根源を求めてしまう士郎だからこそ、愛せずにはいられない。
大河になってアーチャーを馬鹿馬鹿って言いながら思い出してくれるまで思いっきり抱きしめたい。
俺もそんな風に思っていたけどFateを深く考察するようになってちょっと考えが変わった
士郎が最も助けたいのは苦しみ足掻いてなお幸せになろうとする人なんだよね
だからもしかしたら罪を犯しても尚幸せになろうと苦しんでいる人をこそ助けたいと思っていたのかも
分かりやすい消防隊員や警察官を目指さないのは
だからあのゲリラの少年を始めとする人々はアーチャーにとっては助けたい相手だったんじゃないかって
指導者はともかく実際に戦っている人達は思想に関係なく自分や家族が食べていく為だったりするし
>>「(幼士郎の)この地獄を覆してほしいという願い」
>原作ではこう
>>自分では持ち得ないから、その尊さに涙した。
>>いけないのか。自分の気持ちではないから、それは偽物なのか。
それ、別に矛盾しなくない?
士郎は元々恐ろしく真っ当な子供で、「『誰か』この地獄を覆してほしい、みんな助かってほしい」
っていう願いを持ってた。
でもそれは、救いのない、誰も彼も死んでいく現実をつきつけられて
意味をなさなくなった(これを「心が死んだ」作中では表現する)
そして、その地獄にあって未だ生存者を探す、
「『自分で』地獄をどうにかしようとする」切嗣に会って、
士郎は、「助かりたい」「助かってほしい」という情動すらボロボロになった己の心では
抱けなくなってたその思いに涙したわけだろう。
SN切嗣では強すぎて物語にならないのは分かるけどだからといってケイネス一人に原作で語られた外道戦術使うのはちょっと弱体化させすぎやな(せめてもう一組くらい・・・)
会話の制約があったとはいえ、セイバーをあからさまな無能騎士道中にしたり、切嗣に明らかにおかしい戦争は英雄のせいだ論を抱かせるのもちょっとな(過去編から考えても切嗣が恨むようになるのは魔術師のはずだし、セイバーがあんなに騎士道大好きなはずもないから、明らかに話の都合のためにそうなったようにしか見えない)
これはもうちょっとやり様があったのじゃないかと思ってしまう
後やっぱりなぜ切嗣は火災の犯人になったのだろうか?
虚淵さんが言峰大好きだったから変えたんじゃないよな流石に
ナタリアとの別れによる正義への絶望や故郷での事件等の過去編がよかったから余計にそこらへんの矛盾や弱体化が気になってしまうな
横からだけど、「士郎は正義の心を元来から備えていた」と思われる描写は今回、原作、前回のアニメでも見えたりしてるよ。
・泣きながら災害のなかを歩いた。その時、周囲から「助けて」 と声が聞こえてきた。止めてくれ、オレにはそんな力はない。という感じの描写。
・そして今回の顔。泣いてはいるけど、泣き顔ではない。
「誰か助けて」ではなく、「助けられないのに助けを求められることに対して謝りながら、歩き続けた」
スマホからだと書きにくいな…
俺は
「たしかに、始まりは憧れだった」
「けど、根底にあったものは願なんだよ」
「(幼士郎の)この地獄を覆してほしいという願い」
「(切嗣)誰かの力になりたかったのに、結局、何もかも取りこぼした男の、果たされなかった願いだ」
って解釈した
根底にある願いは切嗣に会う前から持っていた
のコメントを見て思ったけど、確かに「こんな地獄を覆して欲しい」っていう表現は、今まであの手この手を尽くして地獄を覆すために努力してきた切嗣の願いとしては受動的すぎるかなって思うんだよね。だからこれはやっぱり地獄を前に何も出来なかった子供士郎の願いなんだと思う。
車の傍の死体
暗転[黒い画面に白い文字で]理想(じごく)を見た。
トンネルの中の死体
暗転[黒い画面に白い文字で]理想(じごく)を見た。
荒野の木の周りの死体
暗転[黒い画面に白い文字で]理想(じごく)を見た。
世界との契約
暗転[赤い画面に黒い文字で]――いずれ辿る、地獄(りそう)を見た。
という事?
そうじゃなくて、
地獄を見た。
地獄を見た。
地獄を見た。
――いずれ辿る、理想(地獄)を見た。
ってこと。
いや、原作ではとてもそうは見えなかったけどな。
実力的には1/10しか戦闘能力出せない状態でも圧倒的に士郎<アーチャー。
そして勝負のついた最後の一刀もアーチャーなら余裕で防げた。けれど防がずに士郎の攻撃を受け入れたってちゃんと理解出来る用になってる。
セイバーも「アーチャー…何故……」って疑問を口にしてた筈だし。
だからこそDEEN版でそこが分かりづらくて不満点になってるんだし。
セイバーが辛そうなのは士郎達が殺し合ってるのに見てる事しか出来ない辛さだと、思うけどな。
彼女はずっと士郎の生き方は危ういと言ってたし、実際に破滅したアーチャーが士郎を殺そうとしてるんだからそりゃ辛い。
士郎とセイバーは似たもの同士だから士郎やアーチャーの気持ちもセイバーは理解できるだろうしね。
挿入歌にあるSTARDUSTって星屑もそうだけど「夢を見るようなロマンチックな気持ち」という意味もあると知ってショックを受けたよ。星屑はまさに「願い」の記号だけどそれだけじゃなく、地獄と知っていても夢を掴みにいく士郎の熱い気持ちも表しているようでAimerさん、なんという言葉を選んでくれたんだ。ついでに、
Ashは色も熱も失った灰塵=アーチャー
Judasはエミヤシロウを最後には殺してしまう裏切り者=理想
として歌詞を見ると本当にアニメ映像とリンクしていてもうこの歌が大好きになってしまったよ。本当になんてすばらしい物をつくってくれたんだこの人たちは。
恒心教と言われてもピンと来ない人が多いと思われますが、簡単に言うと犯罪行為に両足突っ込んでる淫夢厨です
淫夢内であれこれする行為に飽きたらず艦これのコンテンツユーザー(以下艦豚)に対してちょっかいを出す行為が今も続いています。ちょっと前はもっとひどかったりしたんですがまぁそれは各自で調べてください。
以下適当に貼り付け(飽きてきた)
https://twitter.com/zangenouta4/status/599570825516191744
さんびゃくまん
@zangenouta4
恒心教徒がラブライバーや艦豚といった馬鹿共を理不尽に煽り、潰し、嘲笑することで一般人が抱く唐澤貴洋(のアイコン)へのイメージは最悪になりつつあります。
こうして考えると、我々がこうして何気なく行っていることも唐澤貴洋にヘイトを集める恒心教の理念に基づいているのかもしれません。
https://twitter.com/zangenouta4/status/599752858964111360
さんびゃくまん
@zangenouta4
ゆあさん社員が特定されて垢消しした時にざまぁ見ろと少しでも思わなかったか?
生意気なことを言った馬鹿が謝罪した時に少しでも満足感や多幸感が芽生えなかったか?
恒心教徒は地獄に落ちるのだから毒を喰らうなら皿までの精神でいるべき
https://twitter.com/jap_cross/status/599758499724144642
@jap_cross
当職も恒心前は艦豚でした。
ですがオメガ、魚類と言った頭唐澤の愚業を見て彼らのようにはなるまいと最終的にであったのが恒心教だった。
心ある教徒によって昔の当職を殺してやりたいと思った一瞬でした。
まぁ以前はこの理論でも十分に押し通せてたんですけど騒動がある程度沈静化したのと彼らの攻撃対象が明らかにアレな艦豚しか当てはまらなくなっています。
そういうアレなのを攻撃して暇つぶしをしてたまに突っかかってくる捨て垢に口喧嘩を応酬したりする事でひがな一日遊んでおります。
同じ恒心教徒の中でもこの路線に疑問を持つ人も居るみたいで「恒心教は炎上屋じゃない」「こうやって暴れまわることがTwitter路線の真骨頂なのでは?」とまぁ表立って争っていませんがそこらへんでも意見が割れています。
http://jbbs.shitaraba.net/internet/21265/
http://jbbs.shitaraba.net/internet/22579/
このへんとかこの辺とかで色々と誹謗中傷が飛び交う楽しい議論が行われています。あとはWIKIも参照
http://krsw.shoutwiki.com/wiki/%E5%94%90%E6%BE%A4%E8%B2%B4%E6%B4%8B
まぁわからない人にはわからない内容盛り沢山でしたがここの界隈煽り耐性皆無の人と何かあったらすぐIP開示を要求してくるような面白い人がいっぱい居るのでみなさんぜひ遊びに来てください。
ちなみに私はなんでも実況Jで贔屓チームの試合の実況スレを彼らの乱立によって落とされた事があるので基本死ねばいいと思っていますが特に何をするわけでもないのでご安心ください。
「この業界周りで働く人たちは、皆、総じて、"愛"に弱い。」(辻村深月 ハケンアニメ!)
「アイドルマスターシンデレラガールズ」の第3話を見てこの一文を思い出さずにはいられなかった。思い返せば第1話冒頭。ニュージェネレーションから漏れた彼女たちをすでにデビューしたアイドルとして見せた「お願い!シンデレラ」。画面からあふれでる愛におぼれるようだった。それからはじまった物語も素晴らしく、決め台詞が差し込まれる話運びにただただ溺れるしかなかった。そして第2話の宣材の撮影。たとえ短くともまた漏れてしまった彼女たちが出演している絵に心が震えた。
そこからの第3話。ついにはじまるシンデレラストーリー。ゲーム本編をプレイしていないため彼女たちの衣装がどのイベント、レアリティのそれなのか判らないことが残念でならない。
ここまでアニメデレマスは漠然としていた「見たいもの」が予想以上の物語と絵をもって与えられる、天啓の甘露のようだ。まぶしいばかりの愛が散りばめられ、あふれている。まさにスターだ。
そして光が強ければ強いほどに闇が色濃く見える。
アニメ「艦これ」である。アニメ企画が発表された当時に当然の展開と受け止めていた。そして同時に口にはしなかったが漠然とした不安が芽吹いたのも事実だった。
時がたち発表されたPV第1弾。動く彼女たちを見て真っ先に感じたのは違和感だった。重い曇天、鈍色の海。それらを従えたなによりも黒い深海棲艦。立ち向かう艦娘たちにもどこか闇がつきまとう。戦争が舞台であることは承知していたが、これはあまりに暗すぎる。その色遣いは先立って感じた不安に塗り込められた胸の内を投影したかのように見えた。
そして第2弾PV。不安を拭い去るかのような明るい場面……の果てにでてくる秘書官長門。参戦本部なのだろうか、その色遣いはセピア色。軍楽隊が奏でるBGM。夕日の中飛行する戦闘機(九七式艦攻? というところに目が行ってしまう)。当然であるが戦争だと思い知らされる。美少女動物園の日常アニメではないと見せつけられる。
それが見たいわけじゃない。
そんな不安の中はじまったアニメ艦これ。なぜか舞台は現代でも未来でもない。過去だ。太平洋戦争当時なのだろうか。その説明はない。不安ばかりが募る始まりだった。
そして第3話。不安は形になり、姿を見せた。これは戦争なのだ。生きるか死ぬかの物語なのだ、と。轟沈と隣り合わせの青春なのだ、と。
艦これは強烈にデレマスとの対を感じさせる。
女の子が戦う世界を見せつけることで、全提督に冷や水を浴びせ続けるかのように。世界は絶望に満ちていると押さえつけるかのように。誰もが死ぬんだと殴るかのように。目をそらすなと睨むように。
ここに期待はないんだと叫ぶように。
俺は木曜に冷や水を浴び、金曜夜には愛を浴びる(BSは異なる、と入れておけばいいのか)。
艦これは物語世界にあまりに従いすぎている。物語の下に艦娘たちを配置している。だから戦争の影から逃れられない。すべてを支配する。
いっぽうデレマスは女の子たちが物語を従える。彼女たちの意思が物語を拓いていくのだと共感できる。
ただそれだけだと虚構のにおいが強いのだが、竹内Pとその上司たちがしっかりと世界を支えている。第3話で楽屋に現れた部長に川島瑞樹が挨拶をする場面などその真骨頂だろう。リハーサルでの音響さんのセリフ(ここの芝居がとりわけ印象的だ)、ステージ下のスタッフ。そしてライブ終了後の挨拶でスタッフの労をねぎらうセリフ。そういった細かいところがこれは「仕事」だと伝えてくる。言ってしまえば彼女たちだって戦っているのだ。みくにゃんの繰り返しの挑戦だって彼女なりの戦いだ。負けるけど。
デレマスのこの「愛し方」が判っている背景は突然のことではなく、これまでに連綿と繰り返されてきたアニメ化によって制作側に培われた技術なのだろう。つまり、もし艦これと同時期に「ゼノグラシア」が放送されいたらと思わないでもないのだ。
アイマスは愛し方が確立している。その頂点が先の劇場版であり、Febriの特殊号だろう。最新号は艦これ特集なのもなにか運命めいた存在を感じさせる。
小山高生がタイムボカンについて語った際に「天地人がそろった」と述べていた。同じことをデレマスに感じるし、いけないほうの天地人がそろったことを艦これに感じる。これまた偶然であり、運命の綾であろう思いたいが、第3話放映翌日から艦これアーケードのロケテストが始まった。三国志大戦撤去直後に発表されただけにその知らせに触れたプレイヤーが何を期待したのかは想像がつくし、その結果がどうなったかはご覧のありさまである。
「艦これではなく艦これ人気が好きだった」という増田には深く同意できる。残念だがいまのところ、艦これはすべて期待を裏切り続けていると言わざるを得ない。これから目をそらし、褒めそやすことは大本営発表を報道し続けた太平洋戦争末期の報道各社と変わりがないだろう。連想するなら艦これへの弓道からの批判は、本来であれば物語全体に向けられるべき「コレジャナイ」を局所的に言語化した結果なのだろうか。
竹内Pと提督の造形の違い、二次設定の使い方、ゲーム中の素材の扱い、表現……。あまりにデレマスと艦これは対をなしすぎる。恐ろしいほどだ。同時期に放送したのは両者の意地なのか、運命なのか、それとも他の何かか。私の心境としては、見届けるデレマスと看取る艦これ、というところだ。
「人為的に誘発された知能は,その増大量に比例する速度で低下する」(ダニエル・キイス 「アルジャーノンに花束を」)
ループする世界に意味をこじつけなくたって、ポストモダンが動物化しなくたって、何かで性欲を正当化する必要なんかなく、いつだって僕たちにはオナニーする権利はある。
F4Uの新作『好奇心は猫をもアレする』は、ひとたび開けば一気に理性なんて吹っ飛ばし、声に出して読みたい日本語と限りない法悦が襲い掛かる、そんなステキな作品である。
この一冊を開いて、一番初めのコマに書いてあるのは「ヘルス部だぁ!?」の一言である。変な部活ものがこの世の春を謳歌する現代において、逆に禁じ手なのではないか。
僕はこれから自分を打ちのめすであろうF4Uワールドへの期待に、床上手な処女のように打ち震えた。
手際よくぴゅっぴゅする導入を経て、「偏差値15学園」連作は開始される。ヒロインはレイプが横行する偏差値15学園において先述のヘルス部を立ち上げ、貯めたお金で塾に行くことを夢見る黒ギャルである。奇想である。どこへ行くんだこの話。その先は是非あなたの目で確かめてほしい。その果てで、あなたはきっと「偏差値」という単語の持つポテンシャルを知ることとなるだろう。
さてさて話はかわるが、読者諸賢もご存知の通りエロ漫画において女の子が行為に及ぶエクスキューズは数多く存在する。そして、どの「なぜ」を選ぶかには、作家性が色濃く現れる。
らぶらぶえっちがあり、無理やりからの快楽堕ちがあり、悪堕ちがあり。中には、極端に人口上の男女比が崩れ女は牝奴隷と化している、機械が人類の観察のために性行為を模するなど、世界の法則を歪めるレベルのエクスキューズでSFというジャンルに一歩も二歩も足を踏み入れた作品も少なくない。
『好奇心は猫をもアレする』では、凌辱系にしろらぶらぶ系にしろ、とにかく女がペニス(作中の言葉をひくなら“そう、それは――ちんぽと呼ぶには、あまりにもペニス”)を求めて堕ちてゆく。
エロ漫画ってそういうものでしょう、と紳士たるあなたは思うかもしれない。
しかしそこはF4Uの真骨頂、堂々たる男根で牝を盛らせ、攻撃的なまでに擬音を響かせながら堕としていく様は迫力すら感じられる。中出しした後に膣から溢れ出る精液からは生命が匂い立つ。
言葉で、絵柄で、セックスに至る過程を暴力的なまでに納得させられている。その独特な言語感覚に支えられた強烈なドライブ感に、F4Uの作家性があらわれている。
思うにF4Uの凄味は、可愛い女の子描写(頭身高め、ヤンキー、優等生、地味子、巨乳貧乳何でもアリ)、ダイナミックな構図作り(魅せるための体位作り!)だけではないのだろう。
それらに加えて、底抜けに力強いちんちん賛歌があるのではないか。どいつもこいつも血管の浮き出た逸物をビキビキイキり立たせ、牝を思うがままに喘がせている。
F4Uの描くちんちんは、物言わずともその在り様で雄弁に語る。早く挿入れたいと切なげに、女を牝に引きずり堕としたいと猛々しく。
「カラオーケストラ」では優等生らしいJKに自ら笑顔でチンポを求めることを強要して内側から精神を破壊し、「忘れ××もの」では処女からセックス中毒に堕とした元カノに真の絶頂を思い出させている。
F4Uの作るエピソードには、どれにもチンポへの畏敬の念が通底している。本作のカバー下でも、チンポ作画に関するこだわりを見せている。そのチンポへの飽くなき追求、はもはやちんちん賛歌の域にある。
これは私見なのだが、エロ漫画は可愛い女の子とちんちん賛歌の両輪で駆動する地獄車である。エロスとナルシシズムの幸福なマリアージュと言い換えてもいいだろう。
性的欲望を向けるに足りる対象と、欲望やその持ち主自身を肯定する象徴としての力強いペニス。特に後者は、露出された欲望を雄々しいもの・女性から欲望されるものそのものとして描いていることで、読者から理性を引き剥がすための後押しとなりうる。僕たちはヒロインたちに欲望を肯定され、ガチガチの男根の背中に自分を重ね、ひととき獣に戻る。男根によって世界に没入し世界と繋がり、猫をもアレしているのは、きっと僕たちだ。
理屈をこねまわすのは終わりだ。サタデーナイトはオナニーフィーバーとキャノン先生も言っている。
さあ諸君。知恵の実なんて吐き捨てよう。猫に戻ろう。めくるめく夜を始めよう。
勝率クン、それが昔のアダ名であった。
長らく勝率七割をキープしていたのはただ二名、その一人が木村一基八段である。もう十年近く昔になるが、その彼が七大タイトルのひとつである竜王へ挑戦する。相手は渡辺であった。
結果は四局全敗であった。あと一歩の対局もあったが、勝ち筋を逃してしまった。
少し時は経ち、いまから六年前から五年前。同じく七大タイトルの一角である王座戦、棋聖戦と挑戦に名乗りを上げた。相手はどちらも当時復調した羽生善治。もう一人の、そして現在も勝率七割を誇り、かつて同時に七大タイトルを握った棋士である。
まず、王座戦は三局全敗であった。木村はタイトル戦では勝てないのか、そうささやかれ始めた。しかし五番勝負の棋聖戦でようやく二勝一敗とリーチをかけた。その後二連敗で敗退したが、直後の王位戦にも挑戦権を獲得した。
深浦王位を相手にいきなり三連勝してリーチをかけた。しかしここから四連敗を喫してしまう。よほどこたえたのだろうか、木村は七大タイトル戦の舞台から五年も遠ざかってしまう。
時は流れ……
羽生は更に強くなった。棋士というものは普通、齢四十を過ぎればだんだんと勝てなくなっていくものである。羽生はもう四十三であるにも関わらず、名人戦と棋聖戦でライバルの森内に全七局を全勝で叩きのめした。
プロ棋士のレーティングを算出しているサイトがあるのだが、もともと異様に高かった羽生のレーティングは、今年更に急激に伸びて、前人未到の1999に達している。参入と引退のレート差があるので普通にしていれば上昇するものだ、という意見はあるが、二位から九位まで約50しか差がないのに、二位と羽生との差は150に届こうとしている。
木村も齢四十に達して、レートは1700台をいったりきたりしている。十強(専門的に言えばA級等)からも遠ざかっていた。
木村は粘りの棋風で知られている。(専門的には少し違うが)取られれば負けてしまう玉自身も果敢に守備へ参加する「顔面受け」は木村の真骨頂である。また非常に解りやすい解説をすることでも知られ、解説名人との異名も持つ。
だが、それだけで終わってしまうのだろうか。
木村は再び、王位戦の挑戦権を獲得した。そして第一局、十一連勝中だった羽生王位相手に今日、実績差を打ち破るかのように勝利した。戦いが始まってからは、守りを固めるのではなく、攻めきって勝った一局だった。木村は進化したのだろうか?
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清志郎は、日本ロック史に刻まれる稀有な才能の持ち主だったと思うが「カバーズ」等で披露したプロテストシンガーとしての側面は、生前から過大評価されていたように思う。
押しつけがましくない率直な言葉やユーモラスな隠喩を紡いで作ったラブソングや、他のソングライターが見逃してきた日常の一断面を切りとる視点こそが、彼の真骨頂であった。
それに比して反原発ソングは直接的な表現が多く、かつ国家権力や巨大組織によって庶民が騙されているという
有りがちなサヨク的なものであって、あまり清志郎ならではのオリジナリティの感じられるものではなかった。
“たくみな言葉で一般庶民をだまそうとしてもほんの少しバレてる、その黒い腹(中略)だまされちゃいけねぇ ”※ラブミーテンダー
“原子力は要らねえ 危ねえ 欲しくない”※サマータイムブルース
「髪の毛が抜ける」「汚染地域の牛乳は危険」といった、過度に不安を煽り立てる歌詞は、チェルノブイリ住民に対する配慮は微塵も感じられず
国内での事故で同様の表現で歌を作っていたら風評被害を巻き起こしていたたろうと想定される。
カバーズの歌詞は、今ではその多くが科学的根拠を欠いた陰謀史観で作られたものとしてされている広瀬隆の著作の影響が強かったとされる。
もし清志郎が生きていたら、311以後日本を席巻した、怪しげな反原発運動に加担した可能性は否定できない。
幕末ともなれば穀潰しを遊ばせる余裕も世情も無く、結局のところ彼は糊口を凌ぐ為に己の才能を切り売りした。
どうやら武に纏わる技芸はさほど優れたものではなかったようだ。さりとて彼には商売の才能はなかった。
しかし彼には類まれなる発想と、稀有な才能があった。
それは、勘定をし、その勘定結果がどのような未来を描くか、どうすれば違う未来を描けるかを、説明する才能だった。
今で言う、ファイナンシャル・プランナーである。
彼が歴史に名を残したのは単なる偶然でしか無く、江戸の醤油売から東北の豪商に至るまでそこここの日記や書付にその偽名が残るのみである。
幅広い人脈を築いた結果得られたものが何だったのかも、どこの誰だったのかも結局判らない。
しかし、大店の影にその人ありと実しやかに囁かれた風聞は、今も色褪せることのない伝説として語り継がれている。
分を弁えよ、ではない。
人が贅沢を夢見たり、買えなかったものが買えるようになるのは良いことだとした。
一定の石高を常に保証される武士にとっては、倹約を旨とすればその分貯まる。
武士にとっては、勤めを果たすことが上向く方法だからだ。後は倹約しか無い。
しかし、町人や商人は異なる。己の才覚で事業を行う必要があるからだ。
ケチケチと貯めるばかりでは、生活は全く変わらず何のための商いか分からぬ
しかし、稼いだ分を使ってしまってばかりでは、商いを大きくすることは出来ぬ。
こう、説いたのである。
すると、分相応な使い方は出来ないが、使え、と言っていることになる。
これはどういうことか。
貯めてばかりでなく使え、使ってばかりでは貯まらぬ。
そして、その加減は余人にも当人にも図りがたし。
だから、そもそも無いものとして考え、ある分を使えば良いと、こう伝えられている。
これは意外なことに好評だったようだ。
元々宵越しの銭は持たない気っ風の良さを心情とする江戸っ子以外にも、粋や趣味には金がかかる。
これを抑えるのではなく、存分に使えと言うわけである。
大圓朝の芝浜と偶然にも結果は同じことを言っているわけであるが、後世の創作を加味すると、村田の方が時代を先んじていたと言えよう。
使うと言ってもここでは、無かったものとした貯めた分のことである。
そもそも無いものとして生活せよ、とする場合、言ってみれば稼ぎよりも貧乏になれ、と言っているのと同じである。
誰しも貧乏よりは裕福が良い。
程度はあれど銭金があって困ることは少ない。
だから、如何に使うかを考え、決してあるものとして勘定してはならぬ、それは無いものだ。
なぜならば、使い処が別にあるからだと、こう言っていたようだ。
この使い方指南こそが村田の真骨頂であったようだが、商売の正に秘伝とも言うべき部分の事で、手に入る資料の中にはさほど面白い事由は残されていない。
さて、よほど複雑なものでもない限り、商売の基本は数を数えることになる。
いくらのものを、いくつ仕入れ、手間賃をいくら払って、いくらで売る。
この管理ができなければ店の維持も難しいが、といって、数を数えてピッタリに合わせるだけではそれこそ丁稚にも出来る仕事である。
まず数を数え、その数を増やすのか減らすのか、増やせばいくら儲かり、減らせばいくら損するのか。
安く仕入れ高く売れればそれが一番良いが、なかなかそうはいかない。
小さな損に怯えず、最後に儲かる為には使うことを恐れるなと、指南していたようである。
どうやら、村田は積み上げて説明するのが好きだったようである。
これは、昨今の結論から話せという風潮からすれば迂遠に聞こえるが、相手には伝わりやすかったようだ。
無いとはいえ実はある、だから理由をしっかり考えて手をつけるな。
使い処を考えるのであれば、損することを恐れず最後に儲かるようにせよ。
こう話していけば、ではどうすれば儲かるのか、と、儲かるためには貯めねばならぬということが前提として相手に伝わっている。
先に述べたように、実際の使い方指南は、秘伝として秘されてしまい、伝わっていない。
しかし、その大本の考え方自体はどうやらこういうことのようだ。
大風呂敷を広げるだけ広げてしまい、その穴だらけでボロボロの風呂敷の穴を、繕って埋めていけ、
小さく着実に繕っていけば、いずれ大きな風呂敷が完成すると、こういうことのようだ。
商売の形態は大きく変わり、今となっては古臭い考え方でもある。
しかし、こと家計に関しては、今も村田の教えを活かす部分は大いにある。
ボーナスでご褒美を買っても良いだろう、
偶には飲みに行くのも構うまいと、
人は自分がどれだけ使っても良いかを客観的に知り、それを見極めるのが酷く難しい。
高収入でも貯められないのは、その人が自堕落であるというよりも、使い方を知らないからだと言える。
余ったぶんを貯金しようという考え方では、貯められないというのは良く聞く話である。
勤労者に対して天引きで貯蓄を促すというのは、財形等で政府が主導した手法でもある。
結局、分相応が難しいのであれば、元々給与が少ないものとして考えるのが良いわけだ。
貯めるのが目的なのではなく、使い処を考えろということなのだ。
そして、しっかりと考えた使い処があれば、今月の呑み代に窮して手を付けることは無い。
逆に言えば、手をつける程度の使い処は、余りしっかり考えたとは言えないのだ。
ここが、昨今の風潮とは一線を画すると言える。
村田は、まずは数えよとは言わなかった。どうやらどんぶり勘定の相手もしていたようである。
家計簿をつけて家計を見直すのは、もっとずっと後のことだと、つまりはこう言っているわけである。
家計簿をつけるのが目的ではない、無駄を見つけて節約することだ、というのは良く言われることである。
村田は、手順としてそれは後のことだと言っているのだ。
無駄を見つけて節約するのは、無いものとして考えた残りで自由にやりくりすれば良い。
最初に、何に使うかをしっかり考え、それは最初から無いものとして意識から外せと、繰り返し言っているのだ。
そして、単純に今欲しい物を考えよとも言わなかった。
大風呂敷を広げよと、こう言っている。
欲しい物のために我慢するのは馬鹿げていると手を付ければ元の木阿弥なのだ。
これは、大風呂敷を広げるだけの甲斐性がなければ、貯める必要がないという突き放した目線でもある。
日々の生活に事欠く人間に、夢を描け無いものとして貯めよと言っても虚しく聞こえるのは重々承知の上だろう。
享楽に行き、明日路傍に倒れるとも已む無しという無宿人も多かった時代だ。
これは現代でも変わらない。
小さくとも庭付きの一軒家で犬と子供に囲まれた幸せな家庭を築きたい、今は何もかも欠けている。
その夢を描くには、何が足りないのか、何を足してどうなればそこに辿り着けるのか。
無いものとして考え、ある中で使ってやりくりをする。
まずは夢こそが大切であるのだ。
村田惣右衛門という商人は、夢を描く手助けをし、それを現実に落としこむ手腕が鮮やかだったのだろう。
現代にも通づるそのファイナンシャルの考え方は、まず夢ありきであった。
夢を見つけ、具体的な道筋を立て、その手段として帳簿を使う。
帳簿を使って無駄を探るノウハウを伝授しても、無駄に使ってしまっては何にもならない。
最後までお付き合いいただいた読者諸兄におかれては、
石井浩郎による水岡俊一内閣委員長解任決議案に対する賛成討論――2013.12.05
石井:私[ワタシ]は自由民主党・公明党を代表して、只今議題となりました、内閣委員長、水岡俊一君に対する解任決議案について賛成の立場から討論させていただきます。現在の日本の状勢は、少子高齢化が急速に進み、経済活動や社会の仕組みも大きな変革が求められております。安倍政権がすすめるアベノミクスによる「三本の矢」によって経済活動を活性化させ、日本経済を回復、拡大基調にのせていく重要な局面にきております。また民主党政権の三年の間に失われたわが国の"大切なもの"を取り戻すため、国を挙げて取り組まねばなりません。"国民は"そのことを承知しており、昨年の衆議院選挙、そして夏の参議院選挙において自民党・公明党に大きな期待を寄せ、"まさに国益を損ねてきた衆参のねじれ"は解消したのであります。まともな政治、まともな政策を果敢に断行する安倍内閣の真骨頂が発揮される環境が整ったのであります。参議院選挙後の、初のこの臨時国会はアベノミクスの政策、法案を取りまとめ、成立させ、実行に繋げていく極めて重要な国会であることはいうまでもありません。国会においては衆参を問わず、与野党を問わず、一丸となって、国民生活の向上に資するための努力をすることが議員としての責務であります。ただこの臨時国会も残すところ僅か数日となり、限られた時間のなかで迅速に重要法案の審議・採決を行う必要性が高まっております。特に参議院での内閣委員会ではアベノミクスの最重要法案の一つといわれる国家戦略特別区域法案の審議がすすんでおらず、その成立が遅れれば、国民生活に多大なる支障が出ることが懸念されます。本来ならば内閣委員会では委員長を先頭に、与野党の理事を中心に審議日程の調整と採決までの段取りをしっかりと描いて委員会を継続して開催し、法案の採決ができるよう最大限の努力をすべきであります。しかしながら以下に述べるように、委員長はその努力をおこたり、まさに法案潰しとしか思えないような対応を繰りかえしてきたのであります。そもそも内閣委員長は国権の最高機関たる国会において、委員会運営において責任をもち、その運営にあたっては公正中立に職務を遂行することが求められているのであり、また、付託された法案に関して、充分な審議をつくしたうえで迅速に採決することが求められております。しかしながら水岡委員長はわれわれ自民党そして公明党の法案審議の要求を踏みにじり、委員会の最高責任者としての指導力を発揮せず、いたずらに法案審議を遅らせてきたのであります。12月2日、自民党・公明党・みんなの党・新党改革-無所属の会は共同で、今国会の最重要法案の一つである国家戦略特別区域法案の委員会審議を求める、委員会開会要求書を委員長に提出致しました。さらに同3日にも直接委員長に会い、強く委員会の開会を求めたところであります。それまで筆頭理事間で何度も何度も委員会開会に向けて粘り強く要求し、話し合いを続けてきましたが、民主党は受け入れようともしませんでした。最後の望みとして委員長に事態の打開を懇願したのであります。しかしながら水岡俊一委員長は、民主党の筆頭理事には伝えておくので理事間で協議をすすめるようにとまるで他人事のように返答するだけで、自ら指導力を発揮せず、委員会開会に向けてなんら努力もしなかったのであります。いうまでもなく、国家戦略特別区域法案はアベノミクスの成否を握り、日本経済を回復から拡大に向かわせる政策が盛り込まれた最重要法案であり、"国民だれもが"その早期の成立を強く望んでいるものであります。法案の審議・採決をかたくなに拒否する委員長の姿勢は国民への背信行為であり、充分解任に値するものと考えます。内閣委員長水岡俊一君が行った行為は本院において多くの先輩が努力され積み上げてきた議会制民主主義を根底から覆すものであり、良識の府たる参議院の権威を踏みにじるものとして断じて看過できないものであります。ここで一言、12月2日に民主党が提出した岩城光英議院運営委員長に対する解任決議案に関して強く抗議の念を申し述べます。岩城委員長は残る会期と法案の重要度合いを考慮し、社会保障制度改革プログラム法案のツルシヲオロス[? 聞きとれず]という苦渋の選択をされたのであります。また岩城委員長は温厚な人柄でもあり全議員に親しみと尊敬の念をもって知られる存在であります。委員長の職責は、一党一派に偏ることなく中立公平な運営を行うことで議会政治の本筋を守ることであります。岩城委員長はその職責を十全に果たし、委員会運営を円満かつ平等に進められてきたことは誰の目にも明らかであります。岩城委員長に解任決議を突きつける民主党の軽挙妄動はわれわれがこれまでに与野党のわけ隔てない協力のもと地道に営々と築いてきた議会運営の王道を破壊するものであり、まさに断腸の思い[?]であります。われわれと民主党の本質の違いを、皆さんよくわかっていただきたいと思っております。以上、水岡内閣委員長に対して解任決議案を提出する[? 「賛成の立場から討論させていただきます」]理由を申しあげ、また、水岡内閣委員長を生んだ民主党の本質的な問題点を指摘させていただきました。本決議案に対して会派を超えた多数の賛同を強く求めまして、私の討論と致します。
三原順子による岩城光英議員運営委員長解任決議に対する反対討論――2013.12.05
三原:私[ワタクシ]は自由民主党・公明党を代表して、只今議題となりました、議院運営委員会、岩城光英委員長に対する解任決議案について反対の立場から討論させていただきます。現下のわが国の状勢をみますと、少子高齢化が急速に進み、経済活動や社会の仕組みも大きな変革が求められております。安倍政権がすすめるアベノミクスによる「三本の矢」によって経済活動を活性化させ、日本経済を回復、拡大基調にのせていく重要な局面にきています。また民主党政権の「三年猶予」の間に失われたわが国の"大切なもの"を取り戻すため、国を挙げて取り組まねばなりません。"国民は"そのことを重々承知しており、昨年の衆議院選挙、そして夏の参議院選挙において自民党・公明党に大きな期待を寄せ、"衆参のねじれ"は解消したのであります。まっとうな政治、まっとうな政策を果敢に断行する安倍内閣の真骨頂が遺憾なく発揮される環境が整ったのであります。参議院選挙後の、この臨時国会はアベノミクスの各般の政策、法案を取りまとめ、成立させ、実行に繋げていく極めて重要な国会であることは言を待ちません。岩城委員長は参議院での国会運営の要である議院運営委員会において、国民が期待と願いをこめて待ち望んでいる法案を充分な時間をかけて、真剣に議論し、しかるべき時期に結論を出すべく、毎日毎日たいへんな努力を重ねてこられたのであります。そのことは野党の諸君も充分諒解されており、岩城委員長に対しては感謝と尊敬の念を抱いておられるといって過言ではありません。今回解任決議案を提出したのは"偏屈な"民主党で、社会民主党とみんなの党も加わってはいますが、他の会派の諸君は、民主党のこうした"独りよがりの横暴な行為を冷ややかな目で見ている"のであります。民主党はそのことを全くわかっておらず、周りからは"蔑み"と"嘲笑"を買っていることをこの際強く認識すべきであります。"まったく呆れるばかり"であります。民主党は解任決議案の中で、野党の意見を封殺する一方的な議事運営を繰りかえしたと述べていますが、全く事実に反する"為にする批判"といわざるをえません。委員長は各会派の意見を充分過ぎるほど聞きながら、円満な委員会運営を心掛け、この臨時国会の会期と法案の重要性を鑑みながら、最終的には採決によって委員会付託という手法で法案審議をすすめようとしたものであります。このことを理解していない、また、わかっていても党利党略のみを優先して岩城委員長を意図的に難詰するのは「流石国民からそっぽを向かれた民主党」といわざるをえません。衆議院選挙と参議院選挙で、民主党がどのような評価を国民から下されたのか、どうして国民から相手にされなくなったのか全く理解せず、何の反省もしていません。こうした民主党のやり方に対しては、"怒りを通り越して情けなさと悲哀を感じている"のが"民主党以外の政党"と、"有権者――国民"なのであります。改めて言います「民主党の皆さん、恥を知りなさい」。また、民主党は解任決議案の理由の中で「社会保障制度改革プログラム法案の本会議での趣旨説明・質疑を求めた際には、衆議院とのバランスを理由に、拒否する与党の言い分のみを採用し、本会議での趣旨説明を聴取しないまま、議院運営委員会での採決によって法案を公正労働委員会に付託した。これは本院の存立を危うくする行為であり、さらには野党の質問する権利を封殺する暴挙である」といっています。全く的外れな指摘であり、本院の存立を危うくしているのは、岩城委員長ではなく、"あなた方――民主党の存在そのもの"であります。民主党は"独りよがり"の質問権を振りかざし、三本もの法案に関し、一党だけで本会議質問を強行したのであります。今国会での重要・広範議案と呼ばれるものは五本であり、衆議院ではそれに対して本会議質問がなされ、衆議院でも登壇ものとすることが当然でありました。しかし、その慣例を無視して、また他の会派の意向や要望を考慮もせず、民主党は自らの党利党略のみで三本も単独で質問したため、他の全会派が必要性を認める登壇ものの法案はなくなってしまったのであります。岩城委員長は残る会期と法案の重要度合いを考慮し、苦渋の選択をされたのであります。今回の行為を喩えれば、民主党はあさはかにも、衆目のゲンゼン[眼前?]で自分の首を自分の手で締めつけ、苦しみもがく演技をして「岩城委員長が首を絞めている、助けてくれ」と叫んでいるのであります。その"滑稽さ"と"バカさ加減"に気がつかないところが、"まさに民主党の民主党たる所以"であります。岩城委員長はその温厚な人柄であり[?]全議員に親しみと尊敬の念をもって知られる存在であります。委員長の職責は、一党一派に偏ることなく中立公平な運営を行うことで議会政治の本筋を守ることにあります。委員長はその責任を十全に果たし、委員会運営を円満かつ平等に進められてきました。岩城委員長に解任決議を突きつける民主党の軽挙妄動はわれわれがこれまでに与野党のわけ隔てない協力のもと地道に営々と築いてきた議会運営の王道を破壊するものであります。まさに断腸の思い[?]であります。最後に、われわれ参議院議員は今後とも良識の府に[を?]標榜し正常な議会運営を心がけ、真摯に審議を積み重ねる姿勢を終始一貫して貫いていくことを国民にお約束します。以上、われわれは、民主党には反省して事態を改善する自浄作用も、倫理観も、良心のかけらもないことを"知りつつ"、敢えて今回も民主党に対して、度重なる党利党略、与党のみならず他会派の意見を全く聞かない、議会制民主主義に悖る見苦しい暴挙に対して猛省を求め、岩城委員長の解任決議案への反対討論と致します。
表題では女性主役に違和感があるとしたが、実際にはどこどこ国の軍師だとかその妻、妹、恋人に焦点が当たる事に違和感を感じている。
大河ドラマの真骨頂は戦国や安土桃山や江戸時代、幕末と激動の時代を駆け抜けた人物、とりわけ戦国大名や天下人の活躍であって、
それを影で支えた、いわゆる縁の下の力持ちを主役に据えるのは最近のトレンドらしいが、正直言ってその殆どは彼らの配偶者であるとか上司が立役者であって、
女性主役の話を出すのは良いが、時代背景を鑑みても女性が、時代を駆け抜けた!では違和感しかない。
それは史料が少なすぎる事も起因している。
安土桃山時代ですら、立花誾千代や甲斐姫を除けば政略結婚の道具としてしか活躍の場がない。
大奥は江戸時代の徳川一門の室での揉め事騒動をさした物語であるが、政略的な内容でしかなく、時代の主役はあくまで徳川一門なのである。
精神論で何とかなるんなら、一度従業員にボランティア活動をさせればいい話だ。
社長の厳命で、全社員が一緒になって老人ホームの要介助の老人方をしっかり介抱したり
学校とか市民グラウンドに覆い茂ってる雑草をこれでもかって延々掃除すれば、
あるいは従業員にボランティアの何たるかを理解してもらえる、つまりは精神論の大勝利だが、実際はそうならない。
日本人というのは目の前で募金の呼びかけをする市民団体に対してメリットが働かなければ無用のオブジェクトを見るかの如く
素通りするもので、件のボランティア活動に際しても自らメリットがなければ、例えその会社の従業員で、社長自ら厳命していても放棄するものだ。
例えば、募金をすること、あるいは募金活動を行う事で自己満足に浸るといったメリットがあるなら皆良い事をしたという気分で募金をし、またボランティアを率先して行う。
実際は、インターンシップのような見返りを求めた物が多かったりする。
インターンシップは会社の従業員と共に仕事を行う代わりにその会社で働く、職場体験というメリットがあり学生はそれに給与も交通費も出なくても喜んでそのボランティアを積極的にやるもんだ。しかし、インターンシップを体験した所で、実は何もメリットが無かった事を理解するのは、そのボランティアの終了と同時に学生生活に戻り、また就職活動を行う時だ。
就職活動をやってる人でインターンを経験した人とそうでない人で、はっきりした就職率が出ないのは、インターンを経験すればもれなく職場体験したというメリットが出てくるけど、企業からすればタダ働きやボランティアを喜んでするような人が、給与の出るウチを受けるなんて変な話だなと懐疑的になり結果、祈られてしまう事態にならない事もないだろう。
そうなれば、インターンシップというのはメリットがあるようでいて実はデメリットを孕んでるということだ。
なるほどインターン以上にボランティア活動というのは、そうした金銭的な、名誉的な、物欲的な物が全く実現されないことだが、それ以上に自己を満足してくれる清涼剤の働きを得ているから、結論として精神論で片付いてしまうのも無理はない。
自己の精神を高揚させるためのボランティア活動であるから、給料が貰え地位が約束され衣食住が保障される生活を果さなくても何も問題がない。
そのため、こういった活動に勤しむような人は無償で欲しいに違いない。
このようなお人よしはソルジャーつまり会社の奴隷として生きるに適しているということだ。
残業している自分に酔う、といった精神的充足感を得る、ただそれだけのために人はサービス残業を行うのだ。
そこに出世欲は当然あるかもしれないが、一方でこうしなければ自分はクビになってしまうかもしれないという約束された保障が消えてしまうのではという恐怖を安心に変えるためかもしれない。
いずれにしろ、彼らにあるのは目的意識とは全く異なる強要するボランティア活動に従事させられているということだ。
これはボランティアでは決してない。
尤も精神論が役立たずなのは、この行き過ぎたボランティアの強要に対して得られる物が自己満足ではなく、上の人間の社員に対する斜め上の労いと言う点だ。
サービス残業は、ボランティア活動をすることは会社の総意であり、そしてその会社の一員なのだから、やって当たり前なんだという意識が強い。
現に、人に課すのは本来無用のボランティア精神であり、金銭的な取り決めの元に契約したはずの会社と従業員の立場はこのボランティアの強要によって既に破綻し切っていることだ。
ボランティアというのは、決して精神論で片付けられるものではない。
あくまで自己満足という目的意識が存在し、件のような目的意識の元にボランティアに勤しむものであって、進んでやるものがボランティアの真骨頂なのだ。
そうではなく、精神論でやるボランティアというのは、あくまで目的意識がどこにあるかさえ判明しない、どこかに置き忘れたであろう自分とは異なる人間の自己を満足させるための奴隷なのだ。
言換えれば目的意識の存在しないボランティアはもはやボランティアの意義がなくタダ働きに準じているということで合っているだろう。
というわけで一本何か書いてみようという安易な意識からキーボードを叩き始めました。名も無きはてな民です。よろしく。
さて、今回は巷でネット民の熱い羨望を浴びながら、同時にドス黒い憎悪と嫉妬とを育み続ける孤高のネットライター、ドリー氏の行う書評について、何か適当に書いていこうと思います。正直言って資料を用いながらの適確で分析的な記事とかは書く気がしないんで、フィーリングで書いていくことにします。
さて、ドリー氏については説明不要だと思います。あの村上春樹の新作『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』をamazonレビューにてけちょんけちょんに叩き、その軽快でユーモラスな批評において人気を博した、ネットの出身の新鋭ライター・ブロガーでございます。あ、ちなみにこんな風に書くとまるで私自身がドリー氏のモグリか何かのように見えるでしょうが、その心配には及びません。この記事は売名を目的にしてはおりません。
ドリーさんには、今回のamazonレビューを切掛にして、何と出版社からのライターとしての依頼が飛び込んできたようです。何ともまあ、驚くべきことです。ネットからの躍進というものが、こんなに身近な部分で行われているなんて……と、些かめまいのようなものを覚えてしまう塩梅でございます。そんなこんなで、今更になってドリーさんの名前を広める為に誰かが努力をしたりステマをしたりする必要は、今の時点ではおよそ皆無だと言えるでしょう。何たって既にその名前が広がっていく余地が取られているわけですからね。
さてまず、彼の批評について述べる上で、彼の書く批評文においては幾つかのポイントがあるわけですが、それについて紹介していきたいと思います。
自分をアッパークラスならぬダウナークラスに位置付け、そしてそのような低きからの視点において、批判対象(アッパーな雰囲気を纏うものや、ハイソな雰囲気を纏う書物)を叩いていく、というのがドリーさんの基本スタイルとなっております。
こういう風な「ダメ人間」としてのキャラ付けで文章を書くのは、ドリーさんの特徴でもあります。ちなみに、これまで「ダメ人間」としてのキャラでエッセイを書いてきた著名な作家を挙げるとすれば、例えば滝本竜彦とか、あるいは穂村弘などが該当するんではないでしょうか。ともかく彼のレビューは低い視点から行われます。そして必然、そのような視点が読者からの親しみを呼んだり、あるいは共感にまでこぎつけることも当然起こります。こういったことで、ドリー氏はネット層のナイーヴで、どちらかと言えばハイ・カルチャーには属していない人々の人気を勝ち取ってきたというわけです。
ドリー氏がamazonにて村上春樹を批評した手段はまだはてな民の皆さんには記憶に新しいと思うのですが、ドリーさんの真骨頂は、この「形而下ツッコミ」にあります。
ときに、今年の四月中旬に発売された、『色彩を持たない~~』という小説。これは村上春樹の発売した新作なのですが、この小説にはこれまで村上春樹が取り組んできた様々なエッセンスというものが生かされており、また、その他にも新奇な取り組み、挑戦的なメッセージなどが込められた作品でありました。
そのような『色彩を持たない~~』ですが、特にこの作品に込められたメッセージの中で重要なものを上げるとすれば、それは次のようなものになると思います。つまり、「我々の見る〈夢〉と、現実に起きている様々な事象の間には、ある種の相関関係があり、そして我々は夢というものを通じて現実の事象における幾らかのレスポンシビリティー(責任)を共有している」というものです、こうやって一文に纏めると分かりにくいんですが、もう少し分り易くまとめると、要するに「我々は社会的責任や個人としての責任というものを、夢という通路を介して確認することになる」、ということです。このようなメッセージは、恐らく村上春樹氏がこれまで取り組んできた、ユング研究者との間のやりとりや、あるいは彼の人生経験というものを基立ちにして書かれているものだと思われます。そのような点において、村上春樹の主張している文学性というものが光っているのです。
ドリー氏の批評のやり方は、そういった〈文学性〉。いわば、〈形而上学的〉な分野においては、全くタッチしないという、そういう方法論を使ったものだったのです。
これは、私が主観的な立場において評している事柄ではありません。
というのは、こういう「形而下的ツッコミ」とか、あるいは別名「表層ツッコミ」という言葉は、誰でもない、他ならぬドリー氏自身によって発された言葉であるからです。正に彼自身が、彼のレビューのやり方を評して、「表層ツッコミ」。あるいは、「形而下的ツッコミ」と呼び習わしていたのです。
つまり、彼の特徴を一言で述べるならば、その作品の奥深さというものに関してはできるだけ発言を控える。というものなのです。そして、そういった「奥深さ」に関しての発言よりも、もっと身近で物質的な、そういった部分に関して照明を当てる、というのが、ドリー氏の批評術なのでした。
アレ、ちょっと待てよ? という意見が、そろそろ出てきてもいいのではないでしょうか。
というか、若干キレ気味な方というのが、現れてきてもいいんじゃないか、という風に僕は思ってます。なんなんだそれは! と声を荒げてもおかしくない方法論じゃないのかこれは? と、むしろ僕自身がそんな風に思ってきているところです。
ドリーさんのやり方は、例えば以下のようなものです。
『色彩を持たない~~』にて、以下、主人公とその友人「アカ」とのやりとり。
アカは笑った。「嘘偽りはない。あのままだ。しかしもちろんいちばん大事な部分は書かれていない。それはここの中にしかない」、アカは自分のこめかみを指先でとんとんと叩いた。「シェフと同じだ。肝心なところはレシピには書かない」
「あるいはそういうこともあるかもしれない」とアカは言った。それから愉快そうに笑って、指をぱちんと鳴らした。「するどいサーブだ。多崎つくるくんにアドヴァンテージ」
アカは言った。「俺は思うんだが、事実というのは砂に埋もれた都市のようなものだ・・・」
こういった、ちょっとオサレというか、まあそれらしい描写に関して、ドリーさんは以下のように述べています。
なるほど……。と思えるようなツッコミです。確かに、アカの言い方からは、極普通の社会生活を営んでいる方々から見れば、少し苦笑いをしてしまうような、あるいは軽く眉を顰めてしまうような、そういう素振りが端々から匂わされています。
これが、いわゆる「形而下ツッコミ」というものなのです。読者にとって、距離の近い何か、つまり、作中の人間における特徴的な発言とか、あるいは、そのキャラクターが行なっているファッション、あるいはスタイルというもの、そういった身近な位置に存在するものに関して、一つ一つツッコミを入れていく、という技術。これが、ドリーさんが主に自称しているところの、「表層ツッコミ」という技術なのでございます。確かに、このツッコミは面白い(笑)
ぶっちゃけ僕も何度か読み直して笑ったくらいのものです。それくらいに、この「形而下ツッコミ」には効果があります。
しかしです。
実際に、この『色彩を持たない~~』を読み込んでいくと、このようなツッコミに果たして正当性を認めてよいものなのだろうか? というようなメッセージが改めて浮かび上がってきています。
と言いますのは、まず、このアカという人物。なんと、未読の方にはネタバレになってしまうのですが――
――ですから、この先の部分に関しては未読の方は注意して読んで下さい、お願いします――
――同性愛者なのです。しかも、そのような事実に関して、何と自身が女性と結婚関係を持ち、暫くしてから気付いてしまった、というかなり不幸な人物でもあるのです。彼は、結婚後自分の性癖について自覚してしまい、かなりの苦悩を感じていた模様です。
その辺りは、『色彩を持たない~~』本編においてかなり描写が尽くされております。
ところで、ここで、「アレ?」と思われる方はいらっしゃいませんでしょうか?
つまり、ドリーさんのツッコミの内容が、果たして本当に妥当なものなのだろうか? という感想を抱いた方が、ここまでの文章を読んでいて幾らかいるんじゃないかということなのです。
ドリーさんのツッコミの内容は、以下の通りでした。
「『アカ』の臭わせている『自分大好き』臭がひどい、彼の自己陶酔的な態度がヤバい」
しかし、上のような本文の描写を読む限りで、そのようなツッコミはぶっちゃけ間違っていることが、明らかになっています。つまり、むしろ「アカ」の根底には、「自分大好き臭」などではなく、徹底的な自己嫌悪が存在しているということなのです。
付け加えるならば
この「アカ」は、その父親が何と名古屋大学の経済学部で教授職を務めている人物であったりするのですが、そのような父親に対してアカは名状しがたい反感のようなものを抱えて青年時代以降を生きてきていた、ということが本文にて言われています。しかし、多崎つくるが生きている現代の世界、彼が36歳になっている時点において、アカは一般企業向けのサラリーマン育成サービス会社の代表を務めているのですが、何と彼は、自分が忌み嫌っていた父のような、尊大で狭量な振る舞いを、そっくりそのままその会社経営やスピーチにおいて行なってしまっているのを作中で嘆いているのです。つまり、繰り返すように彼の中にあるのは、「自己嫌悪」というべき以上の何物でもない感情なのです。そしてそれを無視したまま、ドリーさんは「自分大好き臭がすごい」、などなどと形而下的ツッコミに終始してしまっているということなのです。
ドリー氏は他にも、レビュー中で多崎つくるのファッションについて言及しており、彼の終盤におけるファッション、「オリーブ・グリーンのバスローブ」について批判しております。
曰く、その色は「クソ緑」とのこと(笑) なんともまあユーモラスな表現ではありませんか。
しかしです。このような緑の色、というのは、西洋においてはいわば「嫉妬」というものを表す象徴的な色でもまたあるのでした。
主人公の多崎つくるは、本編の終盤において、交際相手の女性の浮気現場を目撃してしまい、そのことで苦悩します。そして本作は、作中において何か特定のスタイルや生き方、つまり「色彩」を持てなかった彼が、最終的に嫉妬の感情を表す「オリーブ・グリーン」のバスローブを着込む、ということを最後に、幕が降りることになります。結局のところ、この『色彩を持たない~~』という物語は、多崎つくるというプレーンで如才ない特徴の無かった男が、嫉妬という、これまで無色だった彼にとってあまりにも大きすぎる感情を背負うことになってしまうという作品なのです。そんなテーマが描かれた小説なのでした。
しかし、ドリー氏はこの「オリーブ・グリーン」の比喩に関して、「クソ緑」とただ一言切り捨てたのみなのです。それ以上の言及を、彼は避けております。
これが、いわゆる「形而下ツッコミ」の正体なのです。その、暗喩や文学的比喩といった奥深さに関しては常に除外し、表面的な部分にのみ視点をおいて俗っぽい言葉によって吐き捨てる、というのが、結局のところドリー氏の行っている批評の正体と言えるでしょう。
ドリー氏は、これは個人的な意見になってしまうのですが、はっきり言ってそういった「奥深い部分」に対する想像力、というものを発揮しない(あるいは表立って発言しない)といった批評のやり口に、あまりにも慣れきってしまっている感があります。何というか、そういった相手の表現したい奥深い分野については言及せず、大体において「表層的」あるいは「形而下的」な部分に対してのツッコミだけを行う、というのが彼のスタイルになってしまっているのです。
さて、ここまで長々と書いてきて、結論としては、ドリーさんの批評(クリティーク)においては、あまりにも想像力や文学的表現に対する理解というものが欠けてしまっている、ということが言いたいわけなのです。そんなこんなで、ドリーさんの書籍批評に関しては、以下の言葉でまとめることができるでしょう。やはり、ドリーさんの書籍批評はまちがっている、と
second lifeを卒業してはや3年。
やってる間よく聴いていたとか増田の経歴なんてどうでもいいな、中略!
最近ニコ動のキーワードでchouchouがランキング1位になってて「ん?」と思って見たらやっぱりあのchouchouだったー!
そして久しぶりに聴いてたら耳が幸せになったので!恥ずかしげもなくノリノリでオススメしちゃおうと思いましたまる
chouchouは音楽はもちろんPV、プロデュースとなんでも自分達でこなし、果てはJASRACも通さず著作権管理まで自分達でやっているユニットです。
仮想世界と言う国境のない世界で活動し、人種問わずの国際的評価を得ています。楽曲が海外の映画で採用されたこともあります。
インディーズながらハイセンスで完成度の高い作品を生み出し、口コミでじわりじわりと広まって知る人ぞ知る存在となっています。
ですが知名度はまだまだ低く、こんなもんじゃないと今回筆を取りました。
というわけでいきなり先ずは私をハイにさせている曲の紹介です
◆cloud 9
http://www.youtube.com/watch?v=hJLSHce3ugU
http://www.nicovideo.jp/watch/sm16824961
chouchouはいろんな曲調、アレンジ、表現に挑んでるユニットですが、これまたいいエレクトロ!
PVの素材もまた素敵で、フワフワと高速トリップ出来る感じが半端ないです。
iTunesでも買ったけどついついニコ動でPVごとループさせてしまう曲です。
続きましてはchouchouの原点と言うかスタンダードなイメージの曲です
◆coma
http://www.youtube.com/watch?v=X5NZYgCbpBk
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2122474
ピアノベースの曲にウィスパーボイスで織り成す不思議な世界観。
PVに仮想世界を使ってその世界観を演出するのもこれぞ原点!と言った曲です。
そしてそんな原点からの変貌を告げた曲
◆neverland
http://www.youtube.com/watch?v=Jh1KtgFwhg0&feature
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9485583
ファンの間で根強い人気を誇る評価の高い一曲です。
映像はchouchouではなくtadakumaと言う方が撮影、編集されたライブ映像です。
tadakumaさんはsecond life内でいろんなアーティストのライブ映像等を
撮影されてる方でchouchouとの絡みも多く、ライブ映像が流れたらtadakumaさんだと思ってください。
尚ニコ動のchouchouで度々表示される静止画は歌い手のjulietさんデザインのジャケ写です。
◆空知らぬ雨、空に知られぬ雪
http://www.youtube.com/watch?v=-v_MFka2UC0
http://www.nicovideo.jp/watch/sm16608928
常に新たな音を求めて止まないchouchou。
それ故に様々な音に取り組み、一曲一曲をその集大成といった形で聴くことが出来ます。
そんな変化の道中、優しい和の一曲です。
ピアノの旋律に心洗われるインストゥルメンタル曲
◆R.I.P
http://www.youtube.com/watch?v=D81Zj7hAtp0
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9485336
そのピアノで仕上げたインストゥルメンタル曲もちょくちょく作られています
これがまたいい曲、素敵なBGMになる旋律が多くオススメです。
初の実写PVを採用!曲調も逆に珍しい普通のJ-POPを意識した一曲
◆anemone
http://www.youtube.com/watch?v=11TcH-abToU
http://www.nicovideo.jp/watch/sm12896656
ライブ会場の作成やらPVの作成やらジャケットのデザインやらと、
音楽以外もやたらと光るところのある2人です。
ニコ動でニコニコインディーズのアルバム企画「&」に参加!
http://www.youtube.com/watch?v=HY3K1pedtmM
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14044276
果たしてchouchouはニコニコインディーズなのか?といったものはさておき、
企画のお陰もあってニコ動ではこの曲が1番人気となりました。
突如現れたハイセンスな一曲(PV含む)に度肝を抜かれた人が多かったようです。
もともとニコ動でも投稿してましたが、なかなか公に陽の目を見ることはありませんでした。
曲調としてはダークでクールな一曲。これまでとはまた一味違うchouchouを見ることができました。
◆LUNARIA
http://www.youtube.com/watch?v=jW4txpRbDKs
http://www.nicovideo.jp/watch/sm20694938
つい先日発表されたばかり、4/25日リリースの新曲です。
新しすぎてまだiTunesには並んでませんが、PVと一緒に楽しんでください。
連続リリースと言うことで来週には新たな曲がニコ生及びUstreamで公開されるようです。
ニコ生 http://com.nicovideo.jp/community/co233568
Ustream http://www.ustream.tv/channel/channel-chouchou
様々なスタイルの曲を紹介するという趣旨から曲紹介以上となりますが、省いた名曲数しれず。
TRICKERとかSign 0とかAve Mariaとかetc…
気に入ったらぜひいろいろ聞いてみてください。
原点から見て多様に変化しつつセンスにさらに磨きをかけていたことに驚き、衝動的に増田りました。
知らない人が圧倒的大多数でしょう。
それじゃもったいない!と思いました。
もっとたくさんの人にこの音楽を知って欲しく書きなぐりました。
◆Mement Mori
http://www.youtube.com/watch?v=lLhwstdPbNQ
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10951724
chouchouの真骨頂、自分たちの世界観を仮想世界で表現したPVです。
流石に大掛かりなので仲間の手も借りて作りますが、ベースとなるデザインは歌い手のjulietさんが手掛けます。
「コンプガチャ」規制の次は通常の「ガチャ」の確率表示の流れになるだろう。
業界側が自主的にそういう施策をとるのが好ましいがぶっちゃけ期待できないので、行政サイドが既存の法律や条令をどうにかこうにかこねくり回して対応していくことになると思われる。
傍から見ればたったそれだけと思われるだろうけれども、おそらく確率表示が実質義務化された時点でソーシャルバブルは弾けると思う。
これは最大手某社の社長が取材で堂々と明言していたことだが、「ガチャ」の確率は一定ではない。
というか、ユーザーのパーソナリティや行動パターンを元に(継続的で高額な課金を誘導するために)最適化された確率を算出するアルゴリズムこそが日本の「ソーシャル」の真骨頂である。
そのため確率表示が義務化されれば、確率自体を常時一定値に固定せざるを得なくなる。
もし変動する確率を馬鹿正直にそのまま表示してしまえば、ユーザーからしてみれば同じ「ガチャ」なのに、状況やタイミングによって確率が上下するのは理不尽以外の何物でもないだろうし、不満を覚えないユーザーも、少しでも確率が上がる行動パターンを故意にとろうするだろうから、虎の子のアルゴリズムの精度が破綻してしまう。
たとえば1回100円のガチャに「○○の出現確率は10%です」と表示されていれば、おそらく10回(1,000円)で入手できるだろうと「あたり」がつけられてしまう。
それで10回以内に出現すればよいが、11回目、12回目と伸びていけば、その客は高い確率で離れてしまうだろう。
それを回避する為には「○○の確率は10%ですが、10回引いても当たらない場合は無条件でプレゼントします」といった変則的なルールを採用するしかなくなる。そうなると、収益の多くを占める、ごくわずかな高額課金者が消滅してしまう。