はてなキーワード: 「正義の味方」とは
1年前に書いてもらったのと同じ設定。前と違って普通に面白そうになった。
ハリーが3年次にルーピン教授に噛まれて人狼になるという設定で「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」のIF小説のプロットを立ててください。 ドラマチックなストーリーにしてください。 シリウス・ブラック、ピーター・ペティグリュー、セブルス・スネイプを登場させてください。脱狼薬に触れてください。
物語の流れは原作に沿いつつも、最も大きな違いが発生するのはシリウス・ブラックとピーター・ペティグリューを追い詰めた後のシーンです。 ルーピンが狼人間に変身した際、彼は自らを制御できず、ハリーを誤って噛んでしまいます。 ハリーは重傷を負いながらも、一命を取り留めますが、その体内に狼人間の呪いが宿ることに気づきません。
時間が経つにつれて、ハリーは自分の中に異常を感じ始めます。 夜になると異常に鋭くなる感覚、満月の前の数日間に感じる体の重さとイライラ。 彼はすぐに自分が狼人間になったことを知りますが、友人たちに告げる勇気がなく、恐怖と不安の中で一人苦しみます。
ルーピンは自らの行動を深く後悔し、彼の責任としてハリーを守ろうと決心します。 ルーピンは、ハリーに狼人間の呪いを抑制する「ウルフズベイン・ポーション」を飲ませるために、スネイプに協力を頼みます。 しかし、この薬には副作用があり、長期的には狼人間の苦しみを増す可能性があることが判明します。 この「脱狼薬問題」は物語の鍵となり、ハリーの身体的・精神的な苦悩が深まっていきます。
スネイプ教授は、表面上はハリーを嫌悪し続けますが、内心では彼をひそかに守ろうとしています。 スネイプはウルフズベイン・ポーションを調合する際に、ハリーの体に危害を加えることなく、彼を守るための最善策を探りますが、自らの感情と過去の憎しみに縛られているため、冷静な判断が揺らぎます。
スネイプはハリーの父ジェームズとの確執から抜け出せず、彼がジェームズの息子を救うことにためらいを感じる一方、ダンブルドアからの信頼や「命の借り」というスネイプ自身の強い倫理観が彼を葛藤させます。 この一連の過程で、スネイプはポーションに関して危険な選択肢を考え始めます。
ハリーは満月の夜、初めて狼人間に変身します。 彼はウルフズベイン・ポーションのおかげである程度の理性を保っていますが、内なる狼の本能が彼の意志を蝕み、凶暴化する寸前の状態に陥ります。 この時、ピーター・ペティグリューが現れ、ハリーをヴォルデモート側に引き入れようとします。 彼は「お前はすでに怪物だ。闇の力こそがお前に自由を与える」と誘惑します。
ハリーは自分の内なる闇と向き合わなければならなくなり、自分が父親と同じように「正義の味方」になれるかどうかに疑念を抱きます。 彼は狼人間である自分を受け入れることができず、自己嫌悪に苦しみます。 友人たちからも徐々に距離を置くようになり、孤立感を深めていきます。
ついに、シリウス、ルーピン、そしてハリーはピーター・ペティグリューとの最終対決に挑みます。 ペティグリューは、狼人間としてのハリーの力を暴走させ、彼を操ろうとしますが、ハリーは内なる狼と対峙し、「怪物」である自分を受け入れることで、強さと理性を取り戻します。 彼は自らの力を使ってペティグリューに立ち向かい、正義の側に立つことを選びます。
この戦いの中で、スネイプも現れ、最終的に彼の知識と技術がハリーを救う鍵となります。 スネイプは自らの過去の感情を乗り越え、ハリーの命を救うために重要な役割を果たします。 彼はハリーを守るために決断を下し、ウルフズベイン・ポーションの改良版を完成させ、ハリーが狼人間の呪いを制御できるようにします。
物語の最後、ハリーは狼人間としての運命を受け入れつつ、今後も正しい道を歩む決意を固めます。 彼は「自分がどんな力を持っていても、それをどう使うかが重要だ」と悟り、自らの意志で闇に屈することなく、前に進む道を選びます。
スネイプは依然として冷徹でありながらも、ハリーとの間に隠れた信頼感が生まれ、今後の物語の中で二人の関係がより複雑に発展していくことが暗示されます。
・月姫の琥珀編→『姑獲鳥の夏』+『絡新婦の理』+『狂骨の夢』※盗作レベル
・月姫→『痕』→夢の中で殺人起こして、目覚めたら本当に事件が起きており、主人公は自分がやったと錯覚する。
しかし実際は、殺人鬼と自分は、意識が共有するリンク能力を共に持っていたため、
自分が相手に意識をリンクしていたように、殺人鬼もまた自分の視点を盗み見ていた。
殺人鬼が身内を狙っていることに気が付き、主人公は犯人を止めようとする。
・シエル、ネロ・カオス→『HELLSING』アンデルセン、アーカード
・空の境界→『ブギーポップは笑わない』+『異邦の騎士』
・Fate/stay night→『仮面ライダー龍騎』+『魔界転生』
・士郎→『ブギーポップは笑わない』霧間凪→他が死んで自分だけ生き残ってしまった結果のメサイアコンプレックス
自分の命を救った故人の夢を継いで「正義の味方」を目指して戦う。
・アーチャー→『少女革命ウテナ』鳳暁生→理想を求め多くの人を救おうとして自己を犠牲にしてきた結果
白髪で色黒で紅い服の体躯のいい男になっている、心象風景は無数の剣。
・空想具現化、固有時制御→混淆世界ボルドーから造語をそのまま引用。
・HF→『少女革命ウテナ』→憎悪を受け続けて育ち愛する人に依存し暗黒面に堕ちて魔女となったヒロインと
まぁ私自身が不安になっているから無意識にそういう情報を取りに行ってしまっているのかもしれません。
その時は対岸の火事としてしか認識していなかったロックダウン(都市封鎖)でしたが、
3/10のイタリア北部封鎖を皮切りに、既にこれだけの国で発令されていることをご存知でしょうか。
※参考:https://matome.naver.jp/odai/2158476602341958301
※すべて調べきれているわけではありません。
統計上何故か優位に低い日本の感染率など様々な情報はありますが、連日報道される首相や首長の会見映像を見ると、既に緊急事態の空気感を感じます。
こんな空気感の中、心配なことは、一人ひとりが自分勝手になっていることです。
Twitterで、マスクやトイレットペーパーを買い漁る高齢者の話を読みます。
花見を我慢できずに、公園に出向いてしまった若者の話も読みます。
無くなるはずのないトイレットペーパーですら買い漁らないと不安を感じる高齢者の
「私だけは助かりたい」という気持ち。
学校閉鎖が解かれ、束の間でも平時に戻れるのでは、という油断を持った若者の
それらを執拗に叩く人たちの
これらは既に、不安というウイルスに毒された、心のロックダウンが起こっているということだと思います。
私だけが助かりたい、という価値観では、戦いが避けられません。
こんなタイミングだからこそ、「私だけでも生き残るためには?」という方向から、「私達皆が生き残るためには?」という方向に価値観に変えていくチャンスでは無いでしょうか。
皆に物資が行き渡るために、一人で色んなものを買い漁らない「カッコいい買い方」
他者への感染拡大を防ぐために、自宅にいて出歩かない「正義の味方」
不満を拡散するのではなく、良い影響を与えるものを拡散する「サポーター」
日常であれば当たり前かもしれない。でも緊急時にはそれを皆でちゃんと褒めあえる。
歳を重ねるのが怖い。わたしはそのうち「おっさん」になる。もうなっているかもしれない。そうなったら、社会の向ける目は敵視に変わるだろう。
わたしは正義の味方が嫌いだ。正義を振りかざすのは検察官だけにしてほしい。
自分はいいことをしている、と思えば何でもできる。例えば悪そうな人を非難したり、殴ったり、馬鹿にして悦に浸ったり。そして相手が悪者だと社会的に認知されれば、加害行為は免責されてしまう。
自分が正義で、相手が悪なら、嘘をついてもいいし、社会的に殺してもいい。それがこの社会の正義の味方だ。
この社会は「強きを挫き、弱きを助ける」いい社会だ。社会的弱者、例えばご老人や女性に対する保護は手厚い。そして益々手厚くなっていくだろう。一方で社会的強者に対する目はどんどん厳しくなっていく。儲けているもの、体格の大きいもの、とにかく強そうなもの。彼らを取り締まる目は日に日に厳しくなっていく。
30歳男性、年収は平均くらい、学歴もある。そして肩幅が広くて背も高い。学生時代ラグビー部からの勧誘がしつこかった。なんの不自由もなさそうに見える。強いて言えばキモメンであることくらいだろう。
しかしわたしは通勤電車で優先席に座る。内部疾患を抱えているからだ。混んだ車内で何十分棒立ちは耐えられない。
それでも「ヘルプマーク」があれば周りは何かを察してくれる。これは別に席を譲れマークではない。私は一度路上で意識を喪ったことがあるが、これのおかげで適切な処置を取ってもらえた。本来的な意味はそれだとしても、電車内では察してくれマークになってしまう。
そしてある日、私はその察してくれマークを忘れた。
大きな商談があり、かばんを変えたときに察してくれマークを付け忘れたのだ。
そんなことに気づかず電車で眠りに落ちる。薬が残っていると乗車駅までたどり着くのがやっとで、座ったらもう眠りこけてしまうのが日常だ。
徐々に電車が混んできたころ、誰かに起こされた。意識が朦朧とする中、おばあさんに声をかけられたらしいということだけはわかった。
「杖をついている人がいるから、席を代わりなさい」
おばあさんはそういった。ままあることだ。仕方ない、さて立ち上がるかと思ったが、身体が動かない。体中の筋肉が弛緩し、急に声を掛けられても立ち上がることはできない。
もたもたしていると、足に痛みを覚えた。見るとおじいさんが杖で足を殴っている。
「そこに妊婦さんがいるじゃないか。どこに目をつけているんだ」
たいそうお怒りのようだった。妊婦さんのほうは「いえいえ大丈夫です」と丁寧に遠慮されていた。
老人2名に詰られつつ席を立とうとすると、隣の若い女性がさっと席を立った。それに対してご老人二人は「え、いいんですか!」と素っ頓狂な声を上げて、結局妊婦さんが座った。
私はやっと立てるようになって、気まずさが勝ったので降りるには随分早い駅で降りた。
去り際に「ささ、席が空きましたよ」というおばあさんの声が聞こえた。
見た目上健康そうで体格のいい男性が優先席に座ることは、この社会では杖で殴ることを免責するほどの悪であることはわかった。
だとしたらこうしよう。これからは席に座らず、耐えきれなくて意識を喪って緊急停止ボタンを毎朝押してもらうというのはどうだろう。いい取引だと思うが。
実のところ席に座る譲るは割とどうでもいい。
ヒトは自分が正義の側にあるとなれば、警察でもやらないような暴力を振るうようになる。
「体格のいい男性が優先席に座っている」から「けしからん殺せ」となるのがいまの正義の味方だ。
「なにかおかしい、彼には事情があるはずだ」とはならない。自分の正義を疑わないから。
こんな調子だと「男」であるだけで強者、ないし加害側扱いをされるこの社会で歳を重ねることが怖くなってくる。
「おっさん」はセクハラ痴漢の加害者予備軍、稼いで養っても稼げず養わなくても非難され、その他様々な理由により「加害側にあるから害をなす」として正義の味方が敵と見做す存在だ。
結局正義の味方が「弱者」と認めるのは自分が可哀想だと思った相手だけだ。きっとおっさんが弱者として認定される日はない。なにもしてなくても、いくら所得税社会保険料を支払っても、おっさんは社会の敵で正義の味方が攻撃する的として生きていく。
こんな社会でおっさんになるのは耐えられない。10年以内に「正義の味方」が少しでも少なくなるように闘っていきたい。
この社会は「強きを挫き、相手が弱いかどうか確認しない」とてもいい社会だ。 <h3>o- **</h3>
誰も読んでないだろうけど追記。
Q.具合が悪いことは伝えたのか
A.意識が朦朧としていた上に完全に責められる格好だったので伝えられる状態ではありませんでしたし、そのような状況をみても猶「なにか事情があるはずだ」とは考えなかったようです。
Q.通勤困難なのに平均年収もらってるなら保護されてる側では?
A.そうだと思います。だったら尚更杖で殴られたりおばあさんに詰られたりする謂れはないです。ただ、見た目だけは健康そのものなのが問題です。
Comment:弱者マウントを試みる人は杖で殴る側だと思います。
Q.一瞬でおっさんになるほうがこわいだろ!
タイムラインが闇堕ちする仕組み
深津さんのこのエントリ、非常によくまとめられていてわかりやすく、個人的にも高く評価したいのだけれど、インターネットと共に育ってきた身(現在30代)としては欠けてる視点があるなと気付く。
先ず1つ目の欠けてる視点として例えば「2ちゃんねるではディスコミュニケーションを前提とする掲示板もしくはスレッドでしかディスコミュニケーションがほとんど発生していなかった」という点。
この「ほとんど」という部分が重要で、人間がいっぱい居れば口論が発生してしまうことは往々にしてあるので「絶対に発生しなかったわけじゃない」のは当たり前の話。
ディスコミュニケーションを前提とした掲示板って今でも一部で悪名の高い『生き物嫌い板』とかだよね(※動物愛護者はググらない方が精神衛生上良い。これは本当に心からの善意と博愛精神を持って全力強力に要請したい。ググるな知るな見るな)。
そして更に欠けている視点と言えば、これたぶん現在の40代以上にはまったく知らないか、もしくは知っていても下らなすぎて一切関わりを持とうとせず内容を知らないユーザが多いと思うんだ。
それが何かと言えば「過去のインターネットには『喧嘩板』と呼ばれるディスコミュニケーションを前提としたディスコミュニティが存在した」って点。
この喧嘩板はlivedoorしたらば掲示板へ各々のコミュニティに所属するユーザが好き勝手に設置していったもので2ちゃんねるには存在しなかった。
その喧嘩板の黎明期は各コミュニティで口論が発生した際にそのコミュニティの雰囲気を破壊しすぎないようにユーザが各々に自浄作用として「オイちょっと体育館裏に来いやクソボケ!」的に設置するものだった。
まあつまり端的に言えば「口論をするため2ちゃんねるの外に設置された掲示板」ってわけだ。
しかし次第にその当初の目的は薄れていって(ストレス解消のためか)本当にどうでも良い理由で口論することが目的の2ちゃんねるの外の掲示板になっていったんだ。
悪ノリが過ぎる2ちゃんねる運営ですらここまでストレートに口論するためだけが目的の掲示板は設置していなくて、そのためか深津さんは「コミュニティ自浄のためのコミュニティ設立」「ディスコミュニケーションをするためのディスコミュニティ」を認識できていないんだよね。
こういうコミュニティの面白いところは現在のみんなは理解できるだろうけど「現在、喧嘩板は廃れている」ということだね。
現在、2ちゃんねるユーザ数が減っているとはいえ、完全にコミュニティが崩壊したのか?といえばそうではないとみんなは知っているはず。
少なくとも一定の需要があった喧嘩板が廃れ、2ちゃんねるのコミュニティが存続しているという事実は深津さんのエントリでは説明が付かない。
2ちゃんねるが存続している理由、これはおそらくきっと「喧嘩板は口論のたびに設置されることが多く、設置目的からして喧嘩板の寿命は非常に短かった」というのが関係していると思われる。
喧嘩板は2ちゃんねるのコミュニティが崩壊しないよう、まるでアポトーシスのように2ちゃんねるの代わりに早々その役目を終える運命だったんだ。むしろその短命こそが目的だったとも言える。
改めて2ちゃんねるのディスコミュニティ化を防ぐやり方を振り返る良いタイミングなのかもしれない。
つまり2ちゃんねるでは問題が起きるたび枝分かれのように分岐してディスコミュニティ化を防いできたんだ。
ただこれは2ちゃんねるのみで起きたことではない。実は現代(平成終期)のTwitterでも確認している。
それは何かと言えば、Twitterがディスコミュニティ化したと捉えた一部のユーザが分散SNSのMastodonへ移住した件だ。
分散SNSはその大半がオープンソースで提供され、各自が自由に設置できるSNSだ。大小の規模を問わず分散SNS同士が相互接続することでコミュニティを形成している。
その流れの中で生まれたのが「テーマ系サーバ」と呼ばれる分散SNSサーバで、分散SNSを設置する際に音楽テーマやイラストテーマなどお題目を掲げ、ゆるく話題を絞るという試みが起きた(このテーマは絶対基準でなくテーマに合っていない雑談をしても叱られることはない一応のお題目だ)。
2ちゃんのる的に言えば「専門板」に該当し、ゆるく話題を絞ることによって大幅な「板違い」を防ぐことが狙い。あまりにも自由だと怪訝な表情を浮かべざる得ない発言が目立ってしまう可能性があるからだ。
分散SNSは「自由」に関してばかり着目されることが多く「ユーザの自由を縛る中央集権や、ユーザの発言の価値観を中央が判断することへ対してのアンチテーゼである」ということが注目されやすいが、実はそればかりでない。
Twitterを例にすると、Twitter運営やTwitterでなければならずTwitterを愛するユーザは決して認めないだろうが、分散SNSユーザはすでに「Twitterはディスコミュニティである」と見做している。
Twitterを愛する者からすると多くの反論があるだろう。しかし現実として分散SNSへ移住したユーザを代表格として一部のユーザはTwitterというコミュニティを見限っている。
Twitterは喧嘩板のような口論をし他者を罵るディスコミュニティだと烙印を捺したのだ。自身のルールを押し付け合い、自身のルールに反した悪とみなせば徹底的に追い詰める。それがTwitterだと分散SNSユーザは言う。
突然、話は変わるが現在の若者に人気のサブカルチャーコンテンツに「Fateシリーズ」という作品がある。
ゲーム、小説、漫画、アニメと幅広くメディアミックスを展開する作品であり高い評価を若者から受け人気だ。
そのFateシリーズに「アーチャー」と呼ばれる登場人物が居る。
詳細は省くが、アーチャーはもともと正義の味方へ憧れる少年であり、いつまでもその心を待ち続け、いつしか少年は成長し多くの人々を救ったことで正義の味方の代名詞である英雄と称されるようになった。
そんな正義の味方アーチャーが登場するFateシリーズだが、長期シリーズでは付きものの登場人物がどんどん増えていくという長期シリーズの悪習を踏襲している。
そんな中で「オルタ化」と呼ばれる既存の登場人物を再定義する設定が追加された。つまり同一人物ではあるが設定の違う二人目が現れたのだ。
もちろん既存登場人物の「アーチャー」にもオルタ化は適用された。ここでは「アーチャー・オルタ」と呼ぶことにしよう。
アーチャー・オルタはアーチャーの正義の味方たる魂が反転した存在という設定だ。なんだつまり悪役になったのか?と考えるのは誤りだ。
アーチャー・オルタは悪を倒す。それも徹底的に追い詰め手段を問わず悪を殺戮する。悪を倒す正義の味方が反転した存在、アーチャー・オルタは「悪の敵」である。
日本のサブカルチャー界は2000年以降、これまで掘り下げられてきた「正義の味方」というテーマを非常に強く掘り下げてきた。もうそろそろ20年に到達する一大テーマだ。
「ブギーポップは笑わない」「涼宮ハルヒの憂鬱」「とある魔術の禁書目録」「金色のガッシュベル!!」「機動戦士ガンダムSEED」「テラフォーマーズ」「僕のヒーローアカデミア」etc...挙げればキリがないほど様々な正義の味方が考察され描かれてきた。昨今の日本で流行のアメコミもその流れの一環だろう。
そんな正義の味方の考察の中で対比として描かれたのが悪の敵アーチャー・オルタなんだ。
正義に反する者を悪と断じ、正義の味方に反する悪の敵が徹底的に追い詰める。
Twitterはそんな悪の敵が蔓延るディスコミュニティだと分散SNSへと一部のユーザは逃避した。
2ちゃんのるの頃とは逆に喧嘩板を設置するのではなく、Twitterが喧嘩板になってしまったからこそTwitterは最早手遅れだと自らがそんなディスコミュニティではないSNSを立ち上げていった。
しかしnoteは2ちゃんねるやSNSのように分岐してディスコミュニティのアポトーシスができない。可能な方法と言えば中央集権SNSと同様に運営が物事の可否を判断することだ。
我々はそろそろ勇気を持って認めるべきだと思う。
Twitterと利用する多くのユーザは公正、平等、自由、博愛、倫理、法治、人権、平和etc...健全を重視して運営・コミュニケーションしようと模索し続けており、その結果がディスコミュニティ化してしまった現状であると。
これらを訴えるアナタたちは決して悪ではない。しかしアナタたちは正義の味方か?
少年少女の時分で胸に秘めた正義の味方であるアンパンマン、仮面ライダー、ウルトラマン、戦隊レンジャー、セーラームーン、プリキュア、魔法少女が今アナタのような言動を取るか?
そして愛を唱え、自由を訴え、平和を願う者たちをWebサービスはどうやってコントロールすると言うのか。中央集権たるnoteにはそれができるというのか。
ディスコミュニティは悪が蔓延って生まれるばかりでない。ディスコミュニティは悪の敵が蔓延っても生まれるのだ。
この視点が欠けている限り絶対に上手く行かないと警告すると共に、noteが今後見せてくれるであろうイノベーションに強く期待したい。
既に多くの人が増田(記事)を書いているが、6月24日の晩に福岡で増田(はてな匿名ダイアリ)ユーザーの一人であるHagex氏が、
同じく増田(はてな匿名ダイアリ)ユーザーの一人である低能先生に刺殺された。
この事件が発生するまでの経緯や、明かされた詳細を見ていて、私は心情的には低能先生支持な立場だ。
私にも、刺し殺したい奴がいる。
そいつは、Hagexと行動が似ている。
そいつは一言で言えば…。
ヒーローと言う名のクズだ。
今から10年ほど前、私はあるローカルヒーローを運営する団体とトラブルになった事が有る。
皆はローカルヒーローと言うのを知っているだろうか?言葉で説明するのは難しい。
Wikipediaから説明を引用すると
日本においてテレビ番組や映画、漫画、ゲームなどを踏襲し、有志の個人や団体、企業が独自に企画制作して生まれた地方資本のキャラクターのこと。ご当地ヒーロー(ごとうちヒーロー)とも呼ばれる。
と書かれているが…。
何のことは無い。円谷がウルトラマンというヒーローを作り、東映が戦隊や仮面ライダーというヒーローを作り、
それらのキャラクターを使ったヒーローショーというものが日本各地で行われる様になっていく中で
「キャラクターを借りてヒーローショーを行うのは権利料等のコストがかかるから」
と、そうしたヒーローショーを行っていた団体によって考え出された権利料削減のための案から生まれたのがローカルヒーローだ。
10年程前、私はあるローカルヒーローのファンだった。
そのローカルヒーローは、主となる活動地域で時折ショーを行いグッズ販売をしていた。
同じローカルヒーローのファンでグッズ購入で大量に札束を注ぎ込む女性が居た。
この女性をAさんとしましょう。
私はAさん比べたらグッズにかける金額は少なかった。
Aさんが一回のグッズ購入に注ぎ込む金額が1万円だとすれば、私が注ぎ込む額は3000円ほどだった。
Aさんは、そのローカルヒーローのファン達の間で、羽振りが良い事で人気が出て、ファングループの代表の様な存在になっていった。
Aさんが、グッズ販売をしているスタッフと仲良さそうに話している所を何度か見た事が有る。
ローカルヒーローのファンの皆から「Aさんは××(ローカルヒーローの名前)に対する愛が凄いですよね~。」とちやほやされていた。
ある時、そのローカルヒーローのファンでイベント後に食事をして行こうという話になった。
私は、多分世間でいう所の陰キャの部類に入るのだろう。あんまり他のファンの人と話したことは無かったけれど、その食事に行く際に声をかけられた。
食事の席では、皆がAさんをおだてていた。
「Aさんは××に対する愛が深いですよね~。」「Aさんはスタッフの人達とも仲良いですよね~。」等々。煽て(おだて)られて悪い気がしないのか
Aさんは自慢を始める。
場の片隅でポツンとして、誰からも声をかけられない私。
「かけたお金の額が愛の深さなんでしょうか?」私がポソリと言った一言がその場に居た人達全員に不快だったみたいだった。
次のイベント以降、私は他のファンの人達から無視され、そこに存在しないものの様に扱われた。
それでも、私はそのローカルヒーローが好きなので、イベントに行き続けた。
ローカルヒーローのイベントの中にはグリーティングというのがある。
グリーティング、つまり、一人一人のファンと話をしたり写真を撮ったり等の交流を行う時間。
グリーティングで私と一緒に写真を撮りながら、そのローカルヒーローが言った。
「君、Aさん達の悪口を色んな所で言って回ってるらしいね。」
身に覚えがない。
Aさん達がそのローカルヒーローにそういう風に吹き込んだのだろう。
「悪口なんて言ってません。」
と私は言ったが…、「でも、Aさん達数人から聞いてるんだよね。」「そういう事をする人には僕のイベントには来て欲しく無いんだよね」と、そのローカルヒーローは言った。
私は、そのローカルヒーローのイベントに行くのを止めた。
ローカルヒーロー…仮にもヒーローを名乗る人が、片方の言い分だけを鵜呑みにしてもう片方を排除する…それがヒーローの正義なんだろうか?
片方の言い分だけを鵜呑みにしてもう片方を排除するのがヒーローであり正義だと言うのなら、私は、そんなの「ヒーローという名のクズ」だと思う。
知っている人同士が争っていたら両方の言い分を聞いて両方の悪い所を指摘するのがヒーローであり正義なんじゃないのか?
私は、そういう思いを抱えながらそれから数年を生きて来た。
5年ぐらい前、私がトラブルになったローカルヒーロー団体とは別の団体とトラブルになった人数名と縁ができ、話を聞く事が出来た。
トラブルを経験し、他の団体のトラブルの話も聞いたから言える。
ローカルヒーローが全部そういう物だとは言わないが、ローカルヒーローの中にろくでもないのが少なくない事は事実だ。
多分そうしたトラブルの被害者の話をまとめれば「ローカルヒーローの被害者」というタイトルの本の一冊や二冊作れるのではないかと思う。
どのトラブルにも言える事だが、「ヒーローという名のクズ」達の行為は、何処か今回刺殺されたHagex氏と似ている。
大抵の「ヒーローという名のクズ」の手順は
・ローカル"ヒーロー"という肩書を利用してもっともらしい事を言い、"正義"を演じ
・自分達にとって利になるファンを集めてコミュニティを作り
・コミュニティ内で諍いが起これば、諍いの当事者の内、利にならない方をコミュニティの力で攻撃する
と、私も第二の低能先生かもしれない。自戒を込めて。で書かれているいじめっこのパターンと同じ事をする。
「正義の味方」の正義の定義が「正義=自分に利益をもたらすもの」という事なのだろう。
自分語りですまない。
今の日本にはヒーローを名乗りながら弱い者虐めをするクズが多すぎる。
彼らにとっては虐められる者、弱い者が悪なのだろう。
Hagexのやっていた事は「ヒーローという名のクズ」達のやっていた事同じだ。
だからこそ、Hagex氏を刺殺した低能先生が私には、"自分達を虐める正義"に立ち向かったヒーローの様に見えて勇気付けられた。
検索用:Hagex,低能先生,ローカルヒーロー
追記(2018.06.27 13:30)
件のローカルヒーローもといヒーローという名のクズが
なんかもう既に色んな所で吹き上がってて、下手すりゃ大部分の学校で頭髪の色とかそういうのの自由が
解禁されそうな勢いなんだけどさ、これ学校で解禁されたからって彼らが最終的に就職する企業では
解禁されてないからな。
ほんともう何で学校で頭髪のこととか厳しくなるかって言えば、学校に躾を任す親と生徒の卒業後の事が
あるからってのも事実なわけで、まずそういうところを変えねえと意味ねえんだよ。
学校では自由だったから!って強弁したところで就職できない奴らを大量に生み出して、今吹き上がってる
「正義の味方」様たちゃその頃にゃ新しい話題にかぶりついててほったらかしになるのが目に見てるんだよ。
あと、大企業は〜とかいい出したバカも居るけど、世の中の大半の人は大企業に行かねえんだよ!
地元の中小企業に就職するの!大企業がそうなったからっていって、地元の中小がそうなるのなんて
一体どれだけの期間あると思ってるんだ!
今学校にクレーム〜とか言ってる奴らは、「生徒の為を思って!私正義の味方!」とか思ってんのかもしんねえけど
実際にやってることは生徒の事を顧みないって点では、髪を強制的に染める学校と変わらんからな。
むしろ、まだいびつとは言え、生徒の未来に多少でもマシでる可能性がかなりある髪染めをさせない学校のほうが
よっぽど生徒の方を向いてるかもしれんのだぜ。