はてなキーワード: アドヴァンテージとは
最寄り駅(がある時点でど田舎ではない?)まで自転車で坂道を2キロ、行きはずっと下りだからラクチンだが、帰りがあまりにキツいので、必然的に休日は引きこもって暮らした
当然、博物館とか美術館とか、大学で都会に出るまではほぼ行かなかった
高校がある街の駅前のショボい書店で本買うくらいが、俺の「文化」の限界だった
でも、正直、俺はヘタな東京生まれ東京育ち人間より教養があると思う
まあ、はてなにいるような奴にはたぶん概ね負けるんだけど、多くの人間はそもそもインターネットに「居ない」からな
オンライン対戦型早押しクイズアプリをやれば、スッと上位層にいける ランカーにはなれずとも、養分にはならない
音楽や映画の話をするときは、どちらかというと気を遣う これ言っても多分通じないな、と思って話を引っ込めることが多い
美術……には正直あまり強くないが、まあ、基礎教養みたいなところはひととおり押さえているので、アホには勝てる
東京人、恐るるに足らねえよ
ガチで田舎しか知らなかった高校生時代でも、東京人の半分には勝てたと思う
なーにが文化資本じゃ
図書館あってもどうせ行かねえだろ
でけーショッピング・モールにばっか行って、そん中でもお気に入りのブランドの店にしか入らねえような層と、山暮らしの俺の間に、そう大きな違いはねえ
テレビで紹介されてる店に行って、ふわふわスフレパンケーキを食ったところで、人間的にはほとんど成長しねえよ
俺はその間に郷土料理「とんこつ」なんかを作る 東京のカスがスフレパンケーキの食感を体験として学ぶ間に、俺は豚の豚骨を柔らかくするために何時間煮込めばいいかを体験として知る
東京人がなんだ
かかってきやがれ 返り討ちにしてくれる
スマホのちっちぇえ画面で見ようと、立派な映画館のバカデケエ画面で見ようと、おんなじ映画ならおんなじ体験だ……ってことは流石にないが、感想を語る際にはその差はそんなに効いてこねえ
音響がすごかった、映像がすごかった! そら結構 でもその体験はあくまで「体験」であって、教養バトルにおけるカードにはなりえねえ
東京モンがヤマノテ線で映画館に行って映画見てる隙に、俺はGEOで借りた映画を3本見る 3倍だぞ3倍 完全に僕の勝ちだ
上野動物園でパンダ見てハシャいでる間に、インターネットでおもしろフラッシュを見る これに関してはノーコメントかも
昔ならとにかく、デジタル・ネイティブのインドア人間にとって、いまの東京のアドヴァンテージなんて大したことねー
俺は都会からまた田舎に戻ってきたが(失意!w)、想像以上に何も変わらなくてびっくりしてるぜ
東京、思った以上にショボいよ
多少便利、だがそれだけだ
近所にある貧民向けのしみったれたスーパーに行ったら、植物性ホイップがひとパック99円で売られていた
おおかたクリスマス用に仕入れたのが余って、年末までに売れなきゃ廃棄になるもんだから投げ売りしてんだろう 浅はかな話だ
せっかくだから俺はそのアドヴァンテージをテイクさせてもらった ホイップを2個、得体の知れんメーカーが作ってる苺ジャム、ゼラチンを買った
ムースが作れるって寸法だ
帰宅してちょっと調べてみると、どのレシピにもレモン汁がいると書いてある しかし、俺は勇猛にもそんなもんいらんやろと判断した
食器棚に眠らせていたらガチで蜘蛛の巣が張っていた泡立て器を取り出し、ホイップクリームを混ぜることにする
分量はもうわからん 全部適当にやってやろうという気持ちになったので全部適当にやった
クリームひとパックに砂糖をひと匙入れて混ぜ、イイ感じに泡立ったところでレンチンしてとかしたゼラチンとジャム適量を入れる 冷やす
ほとんどヤケになって作ったわりに、食ってみると案外うまかった
ムースというよりは安いケーキに乗ってる苺味のクリームって感じの味だが、量もあるし値段も安い
年の瀬、いい買い物をしたぜ
ーー
なんか胸焼けしてきてワロタ
やっぱ生クリームがいいよ……
村上春樹の『色彩を持たない〜』より。本編は読んでないんだけどこの本を罵倒しまくってるAmazonレビューが話題になってたことがあって、その中であげつらわれていたセリフ。キモすぎる
映画『グッドウィル・ハンティング』でブチ切れた主人公(マット・デイモン)が叫ぶセリフ。Don’t bullshit meって二回小さめに言ったあとでかい声でファッキン付きがくるのでポップステップジャンプ的な気持ち良さがある。bullshitに動詞の用法があるというのを知れたという点でも思い出深い名台詞。
ちなみに検索すると該当シーンの切り抜きがYouTubeにある
アニメ映画『ストレンヂア』のラストバトル前にラスボス的存在が言うセリフ。この後の「いらん。痛みがあった方が、生きている気がする」→「(中国語?)いいな、すごくいい。ますますお前が好きになった…」も名台詞。
ゲーム『ファイナルファンタジータクティクスA2』のサブイベントで出てくるセリフ。「推し量る」を命令形でいうのがなんかすごい良くて覚えてる。
ゲーム『デモンズソウル』のヒロイン(?)、黒衣の火防女がレベルアップをしてくれるときに詠唱する呪文。全文多分覚えてるのは密かな自慢!
Soul of the mind, the key to life’s ether. Soul of the lost, withdrawn from its vessel.
Let the strength be granted, so the world might be mended. so the world, might be mended…
火防女さんは全体に古英語っぽい喋り方をするのがマジでいいし、声も好き。”Art thou done?”とかクソいい!
映画『50回目のファーストキス』のラストあたりで主人公が叫ぶセリフ。ワラナスホー!みたいな発音で、直後の青い海をバックにビーチボーイズの歌をヤケクソで歌うシーンの良さも相まって良く覚えている。日本リメイク版もネットフリックスでちょっと見たけどあのシーンがなかったのでダメ。ホンマにクソ!!
映画『おくりびと』で葬儀社の社長がフグの白子を食いながらいうセリフ。異常にうまそうなのと植物園みたいな部屋の内装、七輪の雰囲気などが相まってマジでいいシーンなんすよ……
ここまで変な奴が次から次へと押し寄せてくるのは、本人のせいでもあるんだろうけれど、それ以上に「こいつは適当に扱っても良い」という変なコンセンサスが出来上がり始めてる兆候だとしか思えない。
自衛のためにも青二才は、自分が臨まぬ話題を降ってくる奴に対しては会話せずにブロックしていく、で良いと思うぞ。
現在と未来の青二才こと三沢文也さんへ - 私は流行、あなたは世間
こうやってちょっと見知った程度で知ったような口調で自分語りを初めて、その経験を相手に押し付けようとするのって何なの。善意のつもりなの?余計なお世話。ちょっと検索すれば青二才が散々ネットの振る舞いのおかしさから自己愛性人格障害だの境界性人格障害だのなんだのと言われて苦しんで、そのあとナースの手引で専門医の診断を受けて発達障害および躁うつ病だという診断をうけたことくらいわかる。長々とした記事を書く暇があったらまずちゃんと調べろ。
そういう手間を惜しんでる時点で、誠意が感じられないんだよ。
@filmstar75 専門知識もなく人格障害呼ばわりする人は僕が躁うつ病という診断結果をもらう以前からいっぱいいましたが、それはあたってません。差別的にそういった見解を振りかざされることに大変迷惑しています。— 三沢文也@2級世捨て人男子 (@tm2501) 2015, 6月 21
@tm2501 ああ、有難うございます。エントリ読まれたのですね。非常に失礼な質問をしますので、お気に障ったならブロックして下さい。「あたってません」と断言される根拠はどこにおありですか? あと確かに「人格障害」という言葉は「差別的」な響きがするので、私自身実は使いたくないのです— Filmstar(めぼし影星) (@filmstar75) 2015, 6月 21
これだけ不愉快な思いを率直に伝えてるのに迷惑だったらブロックしてくださいねと言いながらも話しかける図々しさがまず理解できない。
@tm2501 そうなんですね。私も実は境界性人格障害ではないかという疑いを抱いていて、医師や知人からは「いや発達障碍であってそのケはないよ」と言われたのですよ。ですが、自分は境界性人格障害だと考えた方が生きやすいのです。ひとつの尺度として、そんな視点も取り入れた方がいいかと……— Filmstar(めぼし影星) (@filmstar75) 2015, 6月 21
@tm2501 有難うございます。まあ、三沢さんがそれで生きていけるというのであればいいのですが(定型発達者であっても心の何処かは病んでいる、という極論も成り立ちますし)、私からしてみれば今の三沢さんはかなり苦しい立場に追い込まれているように思われたので、お節介を焼いたという……— Filmstar(めぼし影星) (@filmstar75) 2015, 6月 21
@filmstar75 多くフォロワーを抱え、人気のブログを運営するということはこうした窮地はつきものだと思ってます。もちろん、私自身の最近のマイナス思考・卑屈さが彼らに付け入る隙を与えたのは認めますが、基本的には「ネットにいれば、抱えうるトラブル」と言う認識です。— 三沢文也@2級世捨て人男子 (@tm2501) 2015, 6月 21
あまり言いたくないけど、僕が失言をしたというよりも、僕が書いたことに対して、自分と言うバイアスを掛けていいの悪いのと騒いでるだけの人が多すぎる。もしくは連綿と書き連ねたはずのものから1ツイートだけを抜き出して叩く流れがね— 三沢文也@2級世捨て人男子 (@tm2501) 2015, 6月 21
@filmstar75 本物川氏は悪く無いといった口ぶりなら私はもう話すことはありません。いかがでしょうか?— 三沢文也@2級世捨て人男子 (@tm2501) 2015, 6月 21
@filmstar75 では、今の私が聞けぬのは私が未熟ゆえと…そう仰りたいのでしょうか— 三沢文也@2級世捨て人男子 (@tm2501) 2015, 6月 21
@tm2501 @filmstar75 10;横から失礼します10;本人にも周囲にも多大な被害を与える典型的なBPDは少数派で、むしろ、診断上微妙なラインでマイルドなBPD的要素を持っている、というタイプの方が多いそうです10;いずれにしても、自覚出来るかが一番の予後改善因子だと思いますよ— Hilenn@充電期間 (@Hilenn) 2015, 6月 21
@Hilenn @filmstar75 傾向ぐらいならまだ認めないでもないですが、今回の場合、いきなり朝っぱらからネットで言及したのなんのと書いてきたと思ったら、ヤれお前は人格障害だ、ヤれ今の君にはわからない、ヤれ未来の君に語ってるですからね…怒らせる気でしてるとしか思えません— 三沢文也@2級世捨て人男子 (@tm2501) 2015, 6月 21
@filmstar75 痛みなど客観視こともできないので、言い張るだけ無意味でしょうが自分の人生があきらめと敗戦処理だと感じるほどの相当な痛い目に遭ってますけどね…。それで「君は痛い目を見てないからわからない。未熟だ」とおっしゃるわけですから人に物を話す態度ではないでしょう— 三沢文也@2級世捨て人男子 (@tm2501) 2015, 6月 21
正しいか間違ってるかの問題じゃないと僕に説教がましく炎上してるさいに行ってきたのに、炎上した後にやってきた人がこれが正しいのだ。言い方はどうでもいいんだと言う態度でやってくることにいつもいつも「あ、この人僕と同じかそれ以上に自分が見えてないんだ」と感じる次第— 三沢文也@2級世捨て人男子 (@tm2501) 2015, 6月 21
私に言わせれば、資質も論理も言い回しも全部「お前が気に食わない」というためだけにやってる人をいっぱいみかける。だから、そういったものに対する信用がないし、そういったものに騙されて私の旗色次第で「アイツは抜けたやつだった」と後出しジャンケンしたりする人がいて信用ならない(実際いた— 三沢文也@2級世捨て人男子 (@tm2501) 2015, 6月 21
@tm2501 いや「痛い目を『全く』見てない」とは言いませんよ。三沢さんの生きづらさに関しては、私も繰り返しますが発達障碍者なので共感するところも大です。応援したいとも思ってますよ。ただ、今の三沢さんの生きづらさを客観視しラクになる中に「人格障害」という目指しを組み入れては、と— Filmstar(めぼし影星) (@filmstar75) 2015, 6月 21
@Hilenn @tm2501 ああ、有難うございます。そういうものなんですね。リプライが後手に回ってしまって申し訳ありません。私の場合マイルドなのかなあ……(あくまで「私の場合」)。ネットで本当に炎上を繰り返して来た痛い過去があるので、この年齢になってもその自覚は消えないですね— Filmstar(めぼし影星) (@filmstar75) 2015, 6月 21
@filmstar75 私の母はあなたのためと言いながら、発達障害の人間が最も嫌がることを25年間繰り返し、高校時代にはもうすでに抑うつ傾向にあって精神が壊れそうだった体験をし、そこから5年、地面を這うように生きてきましたが再び病みました。それが私の答えです— 三沢文也@2級世捨て人男子 (@tm2501) 2015, 6月 21
@tm2501 私は三十三歳という、人生をやり直すには遅過ぎる年齢で「発達障碍」だと自覚しました。今でも底辺を這いずり回っています。事情通なら三沢さんに向けて申し上げていることは全て「お前が言うな」で片づけられることなんだろうと思うんです。ですのでアドヴァンテージは全然ありません— Filmstar(めぼし影星) (@filmstar75) 2015, 6月 21
医者がそういった記事を書いてる事をリンクを張った事について読まなかったのか…。この人にかぎらず、こういった書き込みが多いから「あんたら、本当にこっちが書いたものを読んでるのか?」感。 https://t.co/cNqfPA1Vx3— 三沢文也@2級世捨て人男子 (@tm2501) 2015, 6月 21
君みたいな反応をする奴がいるからこの記事は書いてから公開しようか1ヶ月ぐらい保留にしてたんだわ…。で、保留にしてた時に「1ヶ月のうちに治すだろ」と思って予約投稿設定にしてたら出たわけでして…あ、返事とかいらないからミュートにするわ https://t.co/8VzWIjjFzA— 三沢文也@2級世捨て人男子 (@tm2501) 2015, 6月 21
君のような人に悪口を書くことしかできぬような人格的なクズがネットの居心地を悪くしてるのに、クズに怯えろとクズの存在を正当化しないでいただきたい。まぁ、クズであることを貫いている点いかにもそれらしい発言だが https://t.co/6qOsIrhUwY— 三沢文也@2級世捨て人男子 (@tm2501) 2015, 6月 21
「凡人から優しさを取ったら何が残る」と述べたmebaeさんは優しい人だ。だって、僕と違って優しさが人から取り除けるプラスの何かだと考えてる。根本的にズレてる人が優しさだ、あなたのためだということの迷惑さにmebaeさんは触れてないからね。優しさなんて性質でしかないと思う人と違って— 三沢文也@2級世捨て人男子 (@tm2501) 2015, 6月 21
私は今回の体験でもっと積極的に人払いしないといけないと思ったから、ガンガン人払いしていく。話の取っ掛かりからして「これは駄目だ」と思えば、話すだけ話すけど聞かないし、私につきまとうしかない人についてはブロックかミュートにしていく。必要なことだ— 三沢文也@2級世捨て人男子 (@tm2501) 2015, 6月 21
というわけで一本何か書いてみようという安易な意識からキーボードを叩き始めました。名も無きはてな民です。よろしく。
さて、今回は巷でネット民の熱い羨望を浴びながら、同時にドス黒い憎悪と嫉妬とを育み続ける孤高のネットライター、ドリー氏の行う書評について、何か適当に書いていこうと思います。正直言って資料を用いながらの適確で分析的な記事とかは書く気がしないんで、フィーリングで書いていくことにします。
さて、ドリー氏については説明不要だと思います。あの村上春樹の新作『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』をamazonレビューにてけちょんけちょんに叩き、その軽快でユーモラスな批評において人気を博した、ネットの出身の新鋭ライター・ブロガーでございます。あ、ちなみにこんな風に書くとまるで私自身がドリー氏のモグリか何かのように見えるでしょうが、その心配には及びません。この記事は売名を目的にしてはおりません。
ドリーさんには、今回のamazonレビューを切掛にして、何と出版社からのライターとしての依頼が飛び込んできたようです。何ともまあ、驚くべきことです。ネットからの躍進というものが、こんなに身近な部分で行われているなんて……と、些かめまいのようなものを覚えてしまう塩梅でございます。そんなこんなで、今更になってドリーさんの名前を広める為に誰かが努力をしたりステマをしたりする必要は、今の時点ではおよそ皆無だと言えるでしょう。何たって既にその名前が広がっていく余地が取られているわけですからね。
さてまず、彼の批評について述べる上で、彼の書く批評文においては幾つかのポイントがあるわけですが、それについて紹介していきたいと思います。
自分をアッパークラスならぬダウナークラスに位置付け、そしてそのような低きからの視点において、批判対象(アッパーな雰囲気を纏うものや、ハイソな雰囲気を纏う書物)を叩いていく、というのがドリーさんの基本スタイルとなっております。
こういう風な「ダメ人間」としてのキャラ付けで文章を書くのは、ドリーさんの特徴でもあります。ちなみに、これまで「ダメ人間」としてのキャラでエッセイを書いてきた著名な作家を挙げるとすれば、例えば滝本竜彦とか、あるいは穂村弘などが該当するんではないでしょうか。ともかく彼のレビューは低い視点から行われます。そして必然、そのような視点が読者からの親しみを呼んだり、あるいは共感にまでこぎつけることも当然起こります。こういったことで、ドリー氏はネット層のナイーヴで、どちらかと言えばハイ・カルチャーには属していない人々の人気を勝ち取ってきたというわけです。
ドリー氏がamazonにて村上春樹を批評した手段はまだはてな民の皆さんには記憶に新しいと思うのですが、ドリーさんの真骨頂は、この「形而下ツッコミ」にあります。
ときに、今年の四月中旬に発売された、『色彩を持たない~~』という小説。これは村上春樹の発売した新作なのですが、この小説にはこれまで村上春樹が取り組んできた様々なエッセンスというものが生かされており、また、その他にも新奇な取り組み、挑戦的なメッセージなどが込められた作品でありました。
そのような『色彩を持たない~~』ですが、特にこの作品に込められたメッセージの中で重要なものを上げるとすれば、それは次のようなものになると思います。つまり、「我々の見る〈夢〉と、現実に起きている様々な事象の間には、ある種の相関関係があり、そして我々は夢というものを通じて現実の事象における幾らかのレスポンシビリティー(責任)を共有している」というものです、こうやって一文に纏めると分かりにくいんですが、もう少し分り易くまとめると、要するに「我々は社会的責任や個人としての責任というものを、夢という通路を介して確認することになる」、ということです。このようなメッセージは、恐らく村上春樹氏がこれまで取り組んできた、ユング研究者との間のやりとりや、あるいは彼の人生経験というものを基立ちにして書かれているものだと思われます。そのような点において、村上春樹の主張している文学性というものが光っているのです。
ドリー氏の批評のやり方は、そういった〈文学性〉。いわば、〈形而上学的〉な分野においては、全くタッチしないという、そういう方法論を使ったものだったのです。
これは、私が主観的な立場において評している事柄ではありません。
というのは、こういう「形而下的ツッコミ」とか、あるいは別名「表層ツッコミ」という言葉は、誰でもない、他ならぬドリー氏自身によって発された言葉であるからです。正に彼自身が、彼のレビューのやり方を評して、「表層ツッコミ」。あるいは、「形而下的ツッコミ」と呼び習わしていたのです。
つまり、彼の特徴を一言で述べるならば、その作品の奥深さというものに関してはできるだけ発言を控える。というものなのです。そして、そういった「奥深さ」に関しての発言よりも、もっと身近で物質的な、そういった部分に関して照明を当てる、というのが、ドリー氏の批評術なのでした。
アレ、ちょっと待てよ? という意見が、そろそろ出てきてもいいのではないでしょうか。
というか、若干キレ気味な方というのが、現れてきてもいいんじゃないか、という風に僕は思ってます。なんなんだそれは! と声を荒げてもおかしくない方法論じゃないのかこれは? と、むしろ僕自身がそんな風に思ってきているところです。
ドリーさんのやり方は、例えば以下のようなものです。
『色彩を持たない~~』にて、以下、主人公とその友人「アカ」とのやりとり。
アカは笑った。「嘘偽りはない。あのままだ。しかしもちろんいちばん大事な部分は書かれていない。それはここの中にしかない」、アカは自分のこめかみを指先でとんとんと叩いた。「シェフと同じだ。肝心なところはレシピには書かない」
「あるいはそういうこともあるかもしれない」とアカは言った。それから愉快そうに笑って、指をぱちんと鳴らした。「するどいサーブだ。多崎つくるくんにアドヴァンテージ」
アカは言った。「俺は思うんだが、事実というのは砂に埋もれた都市のようなものだ・・・」
こういった、ちょっとオサレというか、まあそれらしい描写に関して、ドリーさんは以下のように述べています。
なるほど……。と思えるようなツッコミです。確かに、アカの言い方からは、極普通の社会生活を営んでいる方々から見れば、少し苦笑いをしてしまうような、あるいは軽く眉を顰めてしまうような、そういう素振りが端々から匂わされています。
これが、いわゆる「形而下ツッコミ」というものなのです。読者にとって、距離の近い何か、つまり、作中の人間における特徴的な発言とか、あるいは、そのキャラクターが行なっているファッション、あるいはスタイルというもの、そういった身近な位置に存在するものに関して、一つ一つツッコミを入れていく、という技術。これが、ドリーさんが主に自称しているところの、「表層ツッコミ」という技術なのでございます。確かに、このツッコミは面白い(笑)
ぶっちゃけ僕も何度か読み直して笑ったくらいのものです。それくらいに、この「形而下ツッコミ」には効果があります。
しかしです。
実際に、この『色彩を持たない~~』を読み込んでいくと、このようなツッコミに果たして正当性を認めてよいものなのだろうか? というようなメッセージが改めて浮かび上がってきています。
と言いますのは、まず、このアカという人物。なんと、未読の方にはネタバレになってしまうのですが――
――ですから、この先の部分に関しては未読の方は注意して読んで下さい、お願いします――
――同性愛者なのです。しかも、そのような事実に関して、何と自身が女性と結婚関係を持ち、暫くしてから気付いてしまった、というかなり不幸な人物でもあるのです。彼は、結婚後自分の性癖について自覚してしまい、かなりの苦悩を感じていた模様です。
その辺りは、『色彩を持たない~~』本編においてかなり描写が尽くされております。
ところで、ここで、「アレ?」と思われる方はいらっしゃいませんでしょうか?
つまり、ドリーさんのツッコミの内容が、果たして本当に妥当なものなのだろうか? という感想を抱いた方が、ここまでの文章を読んでいて幾らかいるんじゃないかということなのです。
ドリーさんのツッコミの内容は、以下の通りでした。
「『アカ』の臭わせている『自分大好き』臭がひどい、彼の自己陶酔的な態度がヤバい」
しかし、上のような本文の描写を読む限りで、そのようなツッコミはぶっちゃけ間違っていることが、明らかになっています。つまり、むしろ「アカ」の根底には、「自分大好き臭」などではなく、徹底的な自己嫌悪が存在しているということなのです。
付け加えるならば
この「アカ」は、その父親が何と名古屋大学の経済学部で教授職を務めている人物であったりするのですが、そのような父親に対してアカは名状しがたい反感のようなものを抱えて青年時代以降を生きてきていた、ということが本文にて言われています。しかし、多崎つくるが生きている現代の世界、彼が36歳になっている時点において、アカは一般企業向けのサラリーマン育成サービス会社の代表を務めているのですが、何と彼は、自分が忌み嫌っていた父のような、尊大で狭量な振る舞いを、そっくりそのままその会社経営やスピーチにおいて行なってしまっているのを作中で嘆いているのです。つまり、繰り返すように彼の中にあるのは、「自己嫌悪」というべき以上の何物でもない感情なのです。そしてそれを無視したまま、ドリーさんは「自分大好き臭がすごい」、などなどと形而下的ツッコミに終始してしまっているということなのです。
ドリー氏は他にも、レビュー中で多崎つくるのファッションについて言及しており、彼の終盤におけるファッション、「オリーブ・グリーンのバスローブ」について批判しております。
曰く、その色は「クソ緑」とのこと(笑) なんともまあユーモラスな表現ではありませんか。
しかしです。このような緑の色、というのは、西洋においてはいわば「嫉妬」というものを表す象徴的な色でもまたあるのでした。
主人公の多崎つくるは、本編の終盤において、交際相手の女性の浮気現場を目撃してしまい、そのことで苦悩します。そして本作は、作中において何か特定のスタイルや生き方、つまり「色彩」を持てなかった彼が、最終的に嫉妬の感情を表す「オリーブ・グリーン」のバスローブを着込む、ということを最後に、幕が降りることになります。結局のところ、この『色彩を持たない~~』という物語は、多崎つくるというプレーンで如才ない特徴の無かった男が、嫉妬という、これまで無色だった彼にとってあまりにも大きすぎる感情を背負うことになってしまうという作品なのです。そんなテーマが描かれた小説なのでした。
しかし、ドリー氏はこの「オリーブ・グリーン」の比喩に関して、「クソ緑」とただ一言切り捨てたのみなのです。それ以上の言及を、彼は避けております。
これが、いわゆる「形而下ツッコミ」の正体なのです。その、暗喩や文学的比喩といった奥深さに関しては常に除外し、表面的な部分にのみ視点をおいて俗っぽい言葉によって吐き捨てる、というのが、結局のところドリー氏の行っている批評の正体と言えるでしょう。
ドリー氏は、これは個人的な意見になってしまうのですが、はっきり言ってそういった「奥深い部分」に対する想像力、というものを発揮しない(あるいは表立って発言しない)といった批評のやり口に、あまりにも慣れきってしまっている感があります。何というか、そういった相手の表現したい奥深い分野については言及せず、大体において「表層的」あるいは「形而下的」な部分に対してのツッコミだけを行う、というのが彼のスタイルになってしまっているのです。
さて、ここまで長々と書いてきて、結論としては、ドリーさんの批評(クリティーク)においては、あまりにも想像力や文学的表現に対する理解というものが欠けてしまっている、ということが言いたいわけなのです。そんなこんなで、ドリーさんの書籍批評に関しては、以下の言葉でまとめることができるでしょう。やはり、ドリーさんの書籍批評はまちがっている、と
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2011/feb/01/egypt-tunisia-revoltを和訳しました。
チュニジアとエジプトにおける叛乱では、イスラム原理主義の姿をまったく見かけない。これは注目すべきことだ。民主主義というもっとも非宗教的な伝統にのっとって、エジプトの民衆は、抑圧的な体制や体制の腐敗、そして貧困に対して叛乱をおこしたのだ。そして、自由と経済的な見通しを求めたのである。「アラブ諸国にあっては真の民主主義的センスは少数のリベラルなエリートのみに存在し、それ以外の膨大な数の大衆は、宗教的原理主義か、さもなければナショナリズムによって動員されるだけである」という西洋のリベラル派が持つシニカルな知見は間違っていると証明されたのだ。しかし、大きな疑問は残る。次に何がおこるのか?政治的な勝利者として、誰が登場するのか?
チュニスにおいて臨時政府が成立したとき、臨時政府はイスラム主義者と急進派左翼を排除した。これに対する独善的リベラルの反応はこうだ。「よくやった。奴らは基本的に同類なんだよ」。同類、すなわち両者とも極端な全体主義者だということだ。しかし、それほど単純なものだろうか?イスラム主義者と左翼との間には長年にわたる反目が存在しているが、それは存在しなかったとでも言うのか?もし仮にイスラム主義者と左翼が体制に対抗して一時的にせよ団結したとすれば、彼らはひとまず勝利するだろう。しかしその団結はすぐに元通りに分裂し、彼らは死闘に身を投じて、より残虐に振舞うのだ。
去年のイラン大統領選で、我々は今回のような戦いを目の当たりにしなかっただろうか?ムサーヴィーを支持して立ち上がった何十万の人々は、自由と正義を掲げたホメイニ革命はまだ継続中であるという人々の夢を表していたのだ。たとえその夢が非現実的なものであったとしても、それは政治的・社会的構想力の息をのむような爆発や経験の組織化、そして学生と一般市民との間の討論を導いたのだ。こうした社会を変容せしめる法外な力の解放のはじまりは、体制派のイスラム主義者が統治権を奪ったことで、次第に抑えつけられていった。
原理主義者による運動だと明らかな場合でも、その運動の社会的構成を見落とさないように注意すべきだ。タリバンは普通、テロにより支配を押し付ける原理主義的イスラム主義者の集団だと表現される。しかし、2009年の春、タリバンがパキスタンのスワット渓谷を占領していたころ、ニューヨーク・タイムズはタリバンが「富めるわずかな地主とその小作人たちとの間に広がる深い亀裂につけ込んだ階級闘争」を工作したと報じた。タリバンは、農家の困窮という「アドヴァンテージを得て」、ニューヨーク・タイムズが言うように「広範にわたる封建制を温存するパキスタンに対し危機を警告した」のかもしれない。もしそうだとするのなら、パキスタンやアメリカのリベラル民主主義者が同じように困窮という「アドヴァンテージを得て」、小作農を助けようとしないのはなぜなのだろうか?パキスタンにおける封建的勢力こそが、リベラルデモクラシーにうってつけの同盟相手ということなのだろうか?
これらから導かれる当然の結論は、次のようなものだ。すなわち、急進派イスラム主義者の台頭は、イスラム教国における世俗的左翼の消滅と常に関係がある。アフガニスタンは今は強固なイスラム原理主義の国と考えられている。しかし、40年前のアフガニスタンは強固な非宗教的伝統に則った国だったのであり、ソ連とは無関係に、独自に共産党が力を持っていたのだということを、誰か憶えているだろうか?そして、こうした非宗教的伝統はどこへ行ってしまったのだろうか?
こうした背景をふまえたうえで、チュニジアやエジプト(そしてイエメン、さらにはきっとサウジアラビアでも)で進行中の出来事を読み解くことが重要だ。もし現在の状況が、旧体制にリベラル風の彩りを付け加えるだけに終わり、結局は旧体制を生き残らせ、安定させてしまうとしたら、原理主義者による逃げ場のない反撃を生み出すことになるだろう。リベラルという遺産を生き残らせるためには、リベラル派は急進派左翼からの支援を必要とするのである。話をエジプトにもどすと、今回の件で最も破廉恥かつ危険なまでに日和見主義的な反応を見せたのは、CNNの中継放送に登場したトニー・ブレアだった。「変化は必要です。しかし、それは着実な変化であるべきなのです」。今日のエジプトにおいて、着実な変化とは、政府中枢の人数枠をわずかに増やすという目的にもとづいて、ムバラク勢力との妥協を図るということを意味するだけなのだ。このようなわけで、エジプトの平和的推移という語りは、鼻持ちならないのである。敵対者を押しつぶすことによって、ムバラクは自身に敵対することを不可能にする。抵抗する市民に対してムバラクが軍隊を派遣して以降、選択肢は明確になった。ほとんど何の変化もない中でのわずかな変化という見掛け倒しの変化か、真の破壊か。
ここが正念場なのだ。10年前のアルジェリアでは、自由選挙の容認によって権力がイスラム原理主義勢力へも平等に分配されたが、今回もそうなるというわけではない。もしムバラクが去った場合、体制を引き継ぐことができる組織的な政治勢力が存在しない、というのが、リベラルの一方の心配の種だ。もちろん、そんな政治勢力は存在しない。ムバラクは、つまらないことに対する反対意見であっても、反対意見であればすべてを却下することを通して、そうした政治勢力を始末してきたのだ。その結末は、アガサ・クリスティの著名な小説のタイトル、「そして誰もいなくなった」を思わせる。ムバラク自身やその混沌とした政治をめぐる議論は、ムバラクに敵対する議論なのだ。
西洋のリベラル派の偽善には仰天させられる。彼らは公然と民主主義を支援してきたのだが、宗教のためではなく、非宗教的な自由と正義のために人々が暴君に対し叛乱をおこすと、彼らは深く懸念を示したのだ。なぜ懸念するのか。なぜこの自由のチャンスが与えられたことを喜ばないのだろうか?今日、これまで以上に毛沢東の古きモットーが適切だ。「天の下に混沌、絶好の機会」(訳注)。
さて、ムバラクはどこへ向かうべきか。答えは明白だ。ハーグへ向かうがよい。ハーグの国際司法裁判所に着席するにふさわしい人物がいるとしたら、それはムバラクその人なのだ。
訳注:毛沢東のモットーについてはhttp://bit.ly/eSBrn9を参照。
いや違う。これは「全面的」こそがキモだ。動物に対するサディズムはよくないという社会的合意が日本にあるのは明らかだから、苦痛の低減が「部分的」には「罪」を減殺するという意識があるのは間違いない。ただ、その「部分的」の比重が問題だ。少なくとも日本では「気休め」程度以上に受け取られることはまずあるまい。
それは果たしてどうでしょ?「人道的な屠殺」などが偽善と反発される文脈は、肉食や捕鯨についての現行のあり方が批判された場合の反発などが主だと思うよ。逆に現行のやり方と比べて残虐と見なされる振る舞いであった場合には、容易に激しいバッシングが起こるよ、日本でもね。
つまり、日本で「気休め」以上に受け止められると単純に言うことはできない。整合的な理論として「気休め」に過ぎないって信念を持っているわけではない。
意味がわからん。あんたこそ「反証が必要」だろうが。こちらは「根拠がない」と言ってるのに、ないことを証明できるか、そんなもん。
動物の苦痛の低減が倫理的意味を持つことは、認められているものとしてこの議論は進んでいると認識している。
もちろん、この前提を疑うことは可能だし、疑う議論も実は多いし、そういった議論にも、個人的には面白いと思ってますが
今、私たちがやっているやりとりの範囲内では、この前提自体はどちらも否定していない、と理解していますし、それが一般的価値観であることも合意されている。
一方、「業の自覚」の倫理的価値についてはあなたの側しか認めていない。
つまり、「動物の苦痛の低減」には、一歩のアドヴァンテージがあるわけよね。
だから、あなたが行うべきは、以下の二つになる。
2.「業の自覚」の価値が主張。この罪悪感は、実際の動物への配慮につながるから価値があるのではなく(むしろそれは偽善として非難される)、頭の中と口先だけで完結するだけであっても、現実の動物の苦痛を低減することに匹敵するだけの価値があることの擁護。
ちなみにあなたが1を選択した場合、こっちはアニマル・ライツの人たちの代弁で議論するか、もうちょっと別の方向でゲームを続けるかちょっと悩んでいる。アニマル・ライツの議論の流用の方が頭使わなくてすむから楽だし、文脈にも合ってるけどね。
こっちが「日本はアニマル・ライツが徹底された国だった」と主張しているものとして、それに反論しているの?それこそ藁人形だよ。
ああそうか、すまなかった、では何を言いたかったか説明してくれ。
あなたが、”動物への配慮”を重視するものと考える西洋的発想のアンチテーゼ的世界として持ち出してきた東洋像への反論。アンチテーゼとして成り立たないことさえ、示せればそれで議論としては十分。
「何の倫理的問題もない」とはこの議論の中では誰も言ってないと思うのだが、この議論の外にはそういう考え方をする人もいるので、
彼らには彼らのロジックがあるのですよ、とだけ言っておきます。知ってた上で言ってるのかもしれませんが。
私がイラつくのは罪悪感を感じることや「感謝の気持ちは大切だよね」的感性それ自体じゃなくて、それで「菜食主義者」や「アニマル・ライツ」みたいな非論理的な連中を論破できると自信満々な連中なので、論理的整合性の外側での実践やおしゃべりはどうでもいいです。
ついでにいうと、「アニマル・ライツ」が肉食主義を論理的に完全に論破できるとも思ってないです。
だから、「業」論者がアニマル・ライツを超えるもっともらしい論理大系を示してくれれば、それで十分。
要するに君が理解できるか理解できないか、が基準なのか?
したがって、これにはその通り。
一般的な原理主義研究では、原理主義の特徴はその選択性にあるといわれていると思いますが(たとえば、近代的なものに対する反対物として、伝統の中から選択的にその”本質”を選び出す、とか)。
広義で大雑把な欧米の動物愛護的精神を指すのであれば、”西洋”の文化的土壌の一部であるのは論理的に自明でしょう。なぜならそれは西洋の文化の一部だからです。
そのあとに「それを指摘することに特段の意味はない」と書いたのを繰り返します。そこに意味はない。グリーンピースでも何でも日本にもいるんだから、日本の文化の一部でもある。
なんでそんなに話を拡げたがるんだかさっぱりだ。
え、私が広げたの?元増田の時点で、論理的に論破してやったぜ!な人なんだからそこが起点なんだけど。
それを否定するとなるとタリバンを否定する根拠がなくなるわけだが、そんなものを当人以外の誰が認めるというんだ?理屈のための理屈はよせ。
「普遍でないものを拒否する権利」がタリバンにあり、タリバンの存在がタリバンを批判する価値観の普遍性を否定している。よってタリバンはタリバン批判を拒否する権利がある。って話?
当人ってのは私のこと?