はてなキーワード: 陶磁器とは
翻訳のような、芸術性や作家性が(ほとんどの場合)求められない、実用的な価値さえ提供できればいい分野については、AIによって人力作業を代替する効用が大きく評価される。
創作のような、「art」に属するものは、その語義からしても、人の手によるものでないと矛盾してしまう。コンテンツの品質のような実用的側面だけ見れば差がないとしても、人類はartの領域を大事にしようという文化的規範を数千年持ってきたわけだから反感が大きいだろう。
もちろん、かつてはartの領域だったが、現在では大量生産の工業品で占められているというモノも、少ないながら存在する。腕時計や陶磁器のように。
だから、人々がCGイラストのことを芸術品だと思わなくなり、プリントされた模様が違うだけの箸と同じくらいの目線で認識するようになれば、AI生成イラストを用いた創作に反感が抱かれることは減ってくるだろう。
しかし、オタク系のイラストや漫画といった手書きからCGへ移行してきた分野では、芸術として創作性が評価される傾向が強く、その認識が崩れていく傾向は見られない。
ただし、アマチュアのゲーム(ツクール系)や3Dモデル動画(MMDなど)などの分野においては、もともとテンプレのキャラを用いたり大抵の人が同じモデルを使ってきた文化があるので、それがAIの力でよりリッチかつ多様なキャラクター表現になることが受け入れられる素地が大いにある。
わかる。大変だな。
自分の場合、紙巻タバコの煙とか有機リン系殺虫剤とか、界面活性剤系の消臭剤とか、臭素系の難燃剤とかプラスチックの可塑剤とか離型剤とか塩ビ用の接着剤とか極微量でも頭痛がして気分が悪くなる。
最近は以前より暮らしやすくなってきてはいる。「マイクロカプセル」系の言説はたしかにちょっとどうかなと思うけれど、気のせいとか精神疾患とかじゃなくて
病態として割合はっきりしているし、気をつけていくつかの物質から離れると快適至極で普通に暮らせる。
・喫煙者から距離を取る(図書館の本とかレンタルCDとか盲点。大学院の時海外の専門書が煙くて結構しんどかったが、当時喫煙者が本につけたタバコ臭が原因とは気づかなかった。喫煙者が多い昭和的飲み会がとても憂鬱だ。カラオケボックスとか使いにくい。最近は改善されているのかな。
・食品容器のプラスチックに気を付ける。(PETボトルのお茶や水は今のところ問題ない。厚手のポリエチの袋の酸化防止剤やアンチブロッキング剤で気分悪くなることがある。ラップ加熱やタッパー加熱を避ける。念のため電気ポットを使わない。テフロンフライパンを使わない。ガラスか陶磁器を使う。
はてブで見かけた高級インド料理店のクッション風のお皿は、ほぼほぼ間違いなくボーンチャイナという磁器の一種です
ボーンチャイナは磁器の一種であって、磁器には他にもあるのだけど、他の磁器だとあれを作るのはかなり難しい
絶対に作れないとは言わないけど、かなり難しい
陶器にしろ磁器にしろ、焼くと縮むし柔らかくなって変形しますが、ボーンチャイナだけはへんてこな形も作りやすいので、メーカーが作るとすればボーンチャイナ一択となります
どうして問題になると考えられるのかは陶器と磁器の違いを検索してください
ただ、食器に関しては適当な知識がネット上に流布されているので注意してください
ネットでは陶芸家ですら間違った知識を開陳しているので、焼き物に関するインターネットは本当にきつい
お知り合いの陶芸家がいたら、あれがどうしてボーンチャイナ以外はあり得ないのか聞いてみてください
あれがボーンチャイナ以外にあり得ないという知識があったところで活用する機会など存在しません、せいぜい食器メーカーの中の人くらいです
https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigirokua.nsf/html/kaigirokua/002615620030226004.htm
次に、東京集中は自然に起こっているんだ、これは経済の流れであると言う人がおりますが、これは全く間違いでございます。
戦後、昭和十六年体制、あるいは一九四〇年体制と言われる中で、官僚が猛烈な勢いで東京一極集中を無理やり進めてまいりました。
そのやり方というのは、まず、産業、経済の中枢管理機能を全部東京に移す。
そのために、全国的な産業団体の事務局は東京都に置かなければならない、二十三区に置かなければならないという指導を徹底しました。
だから、もともと大阪にありました繊維業界の団体も、強引に、あの日米繊維交渉のときに無理やり東京に移しました。
十年かけて移しました。名古屋にありました陶磁器工業会も移しました。京都にあった伝統産業振興会も東京に移しました。
団体が東京に移りますと、団体の長になるような大企業の社長は、何々工業会の団体長になりますと週に三回ぐらい東京に呼び出される仕掛けになっていますから、地方に本社を置いていられない。
二番目は、情報発信機能を、世界じゅうで類例がなく、日本だけが東京一極集中いたしました。
例えば、印刷関係で申しますと、元売を東京一極に集中しております。
今これがまた問題になっておりますけれども、東京にしか日販とかトーハンとかいう元売会社はございません。
したがって、関西で出版していたエコノミストやPHPは発行が一日おくれる。
大阪で印刷した本を川一つ挟んだ尼崎で売るためにも、必ず東京へ持ってこなけりゃならなくなっております。
これは非常に強い犠牲でございます。したがって、雑誌の場合は締め切りが一日早くなる。
これで東京以外で雑誌をつくることができなくなりまして、全部東京へ無理やり移しました。
これは国土政策懇談会でも何回も問題になりましたが、政府、官僚の方は頑固に譲りません。
香川県や長野県でも元売をつくろうという動きがありましたけれども、ことごとくつぶされてしまいました。
また、電波につきましては、世界に類例のないキー局システムをつくって、キー局は東京にしか許されていない。
そして、キー局でないと全国番組編成権がございませんから、すべて東京都スルーの情報しか流れないようになっています。
だから、特定目的の施設、例えば歌舞伎座でありますとか格闘技専門体育館でありますとかいうのは、補助金の関係で東京にしかつくれないようになっています。
これで歌舞伎役者は全員東京に住むようになって、関西歌舞伎は一人もいなくなりました。
あるいはプロレス団体も、東北地方にみちのくプロレス、大阪に大阪プロレスがあるだけで、四十団体はことごとく東京に集められました。
さらに、最近は、BS放送七局を全部東京にしか許可しないという制度になっています。
こういった官僚の強引な、コストを無視した集中制度によって東京に集まっている、このことも重要なことだと思っております。
https://www5.cao.go.jp/99/e/kgiji/19990531chiiki.html
ここにも記述してありますが、日本の地域政策は、昭和初め、昭和16年ごろの決定がございまして、日本全体を有機型地域構造にするというような決定がございました。
有機型というのは、人間の体のようにするということです。人間の体であれば頭は1つだということで、全国の頭脳機能を1つに集める。それは首都東京でなければいけない。
頭脳機能というのは、産業・経済の中枢管理機能と、情報発信機能と、文化創造活動である、こう定めました。
そして、各地に地方中核都市をつくりまして、北海道なら札幌、東北6県なら仙台、中国なら広島とする。
ここは地方限りの頭脳機能をもつ。各県限りのものは、県庁所在地に置くという、段階的なヒエラルキーをつくりました。
そして、すべての文化創造活動、情報発信機能、産業・経済の中枢管理機能を東京に集めることにする。その手法として様々なことがとられました。
例えば、産業・経済の中枢管理機能を東京に集めるためには、各産業別、職業別に全国団体を作り、この全国団体の本部事務局は東京都に置かせるという政策をとりました。
私が通産省に入りました1960年代は、まさにこの政策を継続し、強化する真っ最中でございました。
この方針に反して地方に、東京以外に、全国団体の本部があると、一日も早く東京へ来なければいけない。
その対象になりましたのが、大阪にありました繊維業界、名古屋にありました陶磁器業界の2つでございまして、繊維業界については再三圧力をかけておりましたけれども、なかなか成功しませんでした。
ところが、うまい具合に68年に、あの日米繊維交渉、これを折衝するにあたって、まずアメリカと折衝する前の条件は、紡績協会が、各種団体が東京に本部を移すことだ、こういう話をいたしました。
当時の局長室に、「敵は米国にあらず、大阪なり」という有名な看板を掲げられて、新聞にも出たことがあります。
いろいろ折衝したのですが、なかなか職員も大勢おられてそう簡単にいきませんで、日本繊維工業連合会という屋上屋の団体をつくりました。
銀行協会などもずっと東京にあったのですが、銀行協会長は東京にある銀行からしか出さないということがずっと続いて、三和と住友はダメということになっておりました。
それが、70何年でしたか、本社機能を東京に移すことを条件に、まず住友銀行、次いで三和銀行が会長銀行になりました。
わびとは、新鮮で素朴なもの。
シンプルさと静けさを表し、素朴な美しさも取り入れている。
自然によって作られたものと人間によって作られたものの両方が含まれる。
また陶磁器に流れる釉薬によって作られる模様のように、全体に優雅さと独自性を与える偶然の要素 (あるいは小さな傷さえも) を意味することもある。
経年変化のことを指し、使い込むことで変化していく概念が、物をより美しく、より価値あるものにしてくれるかもしれない。
これには、人生のサイクルを正しく理解することと、損傷を注意深く巧みに修復することも含まれる。
「わびとは、素朴でありながら洗練された孤独な美の性質です。さびとは、青銅の緑色の腐食であれ、木や石の苔や地衣類の模様であれ、風化と経年変化によって生じるその特質です。」- 精神の反映:アメリカの日本庭園、マギー・オスター
「もともと、日本語のわびとさびはまったく異なる意味を持っていました。さびはもともと「寒い」「痩せた」「枯れた」という意味でした。さびは本来、社会から離れて自然の中で孤独に生きる悲惨さを意味していました...14世紀頃両方の言葉の意味は、よりポジティブな美的価値観の方向に進化し始めました...その後何世紀にもわたって、わびとさびの意味は大きく交差し、今日ではそれらを分ける境界線は実際に非常に曖昧になっています。」- 「アーティスト、デザイナー、詩人、哲学者のためのわびさび」、レナード・コーレン
「わびという言葉は、翻訳には向きません。孤独、寂寞、素朴な素朴さ、静かな風情、骨董品に対する優しい愛情、気取らない、そしてむしろ憂鬱な洗練など、さまざまな意味を持ちます。」- 「日本建築の古典的伝統:現代版」数寄屋の流儀』 伊藤貞二、二川幸雄
「...小堀遠州、桂離宮の設計者として広く知られている男。建築や庭園に適用された遠州の様式は、宮廷の伝統の優雅さと優雅さと、千利休が好んだ厳格な素朴さを統合したものでした。この組み合わせは、思っているほど突飛なものではなかった。なぜなら、利休のさび(人里離れ、静けさ、牧歌的な簡素さ、自然への近さを暗示する美的理想)は、長い間伝統的な日本人の顕著な特徴であったある種の現実逃避的な要素に似ていたからである。」- 「桂 王子の隠れ家」内藤彰、西川丈志
「わびさびとは、不完全、無常、不完全なものの美しさです。控えめで謙虚なものの美しさです。型にはまらないものの美しさです。...わびさびに最も近い英語はおそらく「rustic」でしょう。 ……わびさびなものは、研究されておらず、気取らないものである……彼らの職人技は、見分けるのが不可能かもしれない。- 「アーティスト、デザイナー、詩人、哲学者のためのわびさび」、レナード・コーレン
「侘び寂びは、謙虚さ、抑制、単純さ、自然主義、奥深さ、不完全さ、非対称性を特徴とし、シンプルで飾り気のない物体や建築空間を[強調]し、時間と手入れが素材に与える穏やかな美しさを[称賛]します。」-「はじめに:茶の湯」、裏千家シアトルホームページ
「荒々しさに対するある種の愛が関係しており、その背後には隠された美しさが潜んでいて、私たちはそれを独特の形容詞で渋い、侘び、寂びと呼んでいます。...この内に秘められた美しさを渋いと呼んでいます。創造者によって鑑賞者の前に提示される美。鑑賞者が自分自身で美を引き出すことができる作品。 世界には、それぞれの性質や環境に応じて、美のさまざまな側面が溢れています。しかし、その味わいがさらに洗練されていくと、必然的に渋い美しさにたどり着くのです。」- 「知られざる職人:美への日本の洞察」、柳宗悦、バーナード・リーチ
「日本滞在中、渋いという言葉を頻繁に聞いたことがあるはずです。この言葉を英語に正確に翻訳することは不可能です。「厳格」、「抑制された」、「抑制された」、「陰気」、これらの言葉は許容される代替品に最も近いものです。語源的には「渋い」という意味で、奥深く、控えめで、静かな感覚を表すのに使われます...この単純な形容詞が最高の美しさの最終基準です。」- 「日本の民芸」柳宗悦
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名前に「門」が2つ入る有名人としては、「門脇麦」(かどわき むぎ)が思い浮かびます。門脇麦は日本の女優であり、映画やテレビドラマ、舞台などで活躍しています。彼女はその独特な演技スタイルと存在感で、多くのファンに支持されています。
ChatGPT
日本の江戸時代の芸術家で名前に「門」が2つ入る人物を紹介します。
ただし、直接「門」が2つ入る名前の芸術家は江戸時代に特定することは難しいですが、尾形光琳のような芸術家は、その名前や作品を通じて日本の芸術史に大きな足跡を残しています。
ChatGPT
はい、近松門左衛門(ちかまつ もんざえもん、1653年 - 1725年)を知っています。彼は江戸時代に活躍した日本の劇作家で、浄瑠璃(人形浄瑠璃)および歌舞伎の脚本家として非常に高い評価を受けています。近松門左衛門は、人間の情念や社会的矛盾を鋭く描き出した作品で知られ、「日本のシェイクスピア」とも称されることがあります。
彼の作品は、情緒豊かで人間ドラマが深く、愛憎や義理人情、社会的制約と個人の感情との葛藤を描いたものが多いです。代表作には『心中天網島』『曽根崎心中』『冥途の飛脚』などがあり、これらの作品は現代においてもなお上演され、多くの人々に親しまれています。近松の作品は、その人間性の深さと心理描写の鮮やかさにおいて、日本文学における不朽の価値を持っています。
名前に門が二つはいっていませんか?名前に門が2つ入る有名人、に相当するのでは無いかと思いますが、よくわからないので、教えてくれませんか?""""ただし、直接「門」が2つ入る名前の芸術家は江戸時代に特定することは難しい"""とはどういう意図で発言したんですか?
ChatGPT
申し訳ありません。私の回答は誤解を招くものでした。近松門左衛門は、確かに名前に「門」が2つ入る江戸時代の著名な芸術家であり、その点を明確に認識しておりませんでした。お指摘の通り、近松門左衛門は日本の江戸時代における重要な劇作家であり、彼の名前は「門」が2つ含まれています。
私の以前の回答は、不正確な情報を提供し、混乱を招いてしまいました。そのため、訂正してお詫び申し上げます。近松門左衛門の貢献と彼の名前の特徴について正確に認識し、適切な情報を提供することが私の責任でした。お詫びして、正しい情報を提供できるよう努めます。
大海原に浮かぶお猪口の如く大きな器とは、ぐい呑み(ぐいのみ)を指すようです。ぐい呑みは、お猪口(おちょこ)と同様に直接口をつけて飲む酒器で、お猪口より深さがあり、口径も一回り大きいサイズです。ぐい呑みの由来は諸説ありますが、一口で飲みきれるお猪口と違い「ぐいぐい飲める量が入るから」というのが一般的です。
ぐい呑みは、主に日本酒を楽しむ際に使われる酒器の一つです。ぐい呑みに使われている素材は、陶磁器やガラス、木製、錫(スズ)、蛇の目などさまざまです。
ぐい呑みのサイズは、お茶碗より少し小さいくらいなので、お酒を入れる器としては大きめです。
おちょこのサイズは、1勺(18ml)か2勺(36ml)、または4勺(72ml)が一般的です。一方、ぐい呑みの場合は50ml前後から1合(180ml)も入るものまで、サイズには幅があります。おちょこと区別がつかないような、小さめのサイズのぐい呑みもあります。
ワイの過去の就労先で就労先が代替わりしたやつで、繁華街の交差点角地という超一等地なんだが戦後くらいから借りてるだかで二十数年まえで月額に!じゅうまん円だった、超ボロ長屋造りの真ん中で狭小木造三階建だが、すでにして右肩下がり業績だったのでなんとか穏便にと就労先経営者が請願してたの思い出した
隣が初老の三兄妹が住み込みで経営している甘栗屋!で、とおもってたらあるとき初老だが割りと整った容貌の老婦人が三兄妹と談笑してるの見てたらワイの就労先経営者がアレあの四人は兄妹やねんとあの老婦人は実の妹という情報をブッ込んできて驚愕した
反対側の隣はコロコロ業務形態の変わる店舗で一時めちゃくちゃ適当な名称のイカ焼き屋だったことしかもうおぼえていない
話もどしてその時の就労先の代替わり前の創業者が戦前の大阪で写真機業を営んでいた(国産初の懐中時計型カメラの発売元)とこの兄弟()だかで店内で昔話にキミが一旗揚げる気があるならワシは○紅に知り合い居るから相談にノるでとよく(誰にでも)話していたのも懐かしい想い出
ちな後継ぎの婿の人は同窓会に写真機屋だからと写真係押し付けられて店頭在庫のなかなか売れない高額新品の古都陶磁器会社謹製ブランド(素材は八州光学)一眼レフを持ち出してた
そうそう、それの仕入先のエラい人が転勤上洛して来てしばらくして、建物の庭園?に水やりしてて元栓閉め忘れで帰るという大失敗やらかしたという話もきいた
https://ja.wikipedia.org/wiki/松竹梅
… もともとは中国の「歳寒三友」が日本に伝わったものである。
(中略)
松・竹・梅を3種類の等級名として使うことがある。 松を最上級とし、次いで竹、梅とする場合が多いが、梅を最上級とする場合もある。もともと瑞祥としての松竹梅には明確な優劣があるわけではない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/歳寒三友
松と竹は寒中にも色褪せず、また梅は寒中に花開く。これらは「清廉潔白・節操」という、文人の理想を表現したものと認識された。日本に伝わったのは平安時代であり、江戸時代以降に民間でも流行(…)
始原と考えられているのは、中国の宋代において、文同、蘇軾等が竹を水墨画の主題として描き始め、後、梅・蘭・菊・松と画題の広がりを見せていく。その中でも、松・竹・梅の三者が前記理由で特に頻繁に取り上げられていくのである。元・明代には、陶磁器に描かれる主題としても好まれるようになる。
知らんかった。勉強になった。
トヨタ自動車が日本で有名な自動車メーカーであることは言うまでもないことだが、その前身が食器メーカーであったことはあまり知られていない。
豊田市は愛知県の北部に位置しており、瀬戸市や岐阜県多治見市と隣接している。
瀬戸市は日本六古窯の一つである瀬戸焼で有名であり、東日本では陶磁器全般を瀬戸物と呼ぶほどに広く流通していた。
多治見市もまた陶磁器の名産地であり、アニメ化もされた「やくならマグカップも」の舞台と言えば説明が早いだろう。
豊田市・瀬戸市を中心とした猿投地区は古代から窯業が盛んであり、日本の三大古窯の一つである猿投窯跡群を形成していた。
今でこそ豊田市に窯業のイメージはあまりないが、トヨタが自動車製造を事業化する以前は、瀬戸市や多治見市と同じく窯業を主産業とする町であった。
窯業は縄文時代(縄文土器)から存在する生活に不可欠な産業で、時代と共に需要は大きくなっていき、明治維新によってさらに窯業製品の需要は大きくなる。
西洋建築の勃興による煉瓦(れんが)の需要、石油製品や化学薬品を保存する甕(かめ)の需要、送電線を支える碍子(がいし)の需要である。
しかしながら、瀬戸焼はこうした需要に応えることはできなかった。
常滑焼もまた日本六古窯の一つだが、愛知県知多半島に位置する常滑市は伊勢湾に面しているので、海運で日本各地の需要を支えることができたからだ。
一方で、瀬戸も常滑に対抗しようと流通力を強化するために鉄道を敷設したが(後の名鉄瀬戸線)時すでに遅く、近代産業から撤退して食器作りを中心とした伝統産業へと回帰していった。
常滑では明治時代に伊奈製陶が創業して、INAX・LIXILと企業名を変えながら国内の窯業で高いシェアを誇っている。
トイレや洗面器ではTOTOに次いで国内シェア2位で、タイルについては国内どころか世界で1位のシェアである。
一方で瀬戸からはそのような大企業は生まれていないことから、愛知県内の窯業で近代産業を担ったのは常滑ということが理解できるだろう。
ここでようやくトヨタの話になるが、明治時代に豊田市は存在しておらず、その前身である挙母町でも近代産業を支えるほどの陶磁器製品を生産することはなかった。
佐吉は小学校を卒業後に家業の食器作りの修行をするが、父が伝統製法に固執して経営が伸び悩んでいることに苦心していた。
18歳のころ、家業を立て直す唯一の道は最新技術を学ぶことと考え、東京方面へ出奔する。
その折で、東京上野で開催していた内国勧業博覧会を何度も見て、最新の窯業技術を目に焼き付けた。
そして東京から帰郷し、当時最新鋭の台車式トンネル窯を製造した。
それ以前の窯は、製品を人力で運び入れてから予熱・焼成・冷却の全工程を何日もかけて行った後に、人力で運び出す必要のある代物だった。
種類にもよるが陶磁器の焼成に1000~1400℃まで加温する必要がある一方で、人力で搬出入する際はもちろん窯の中に入れる温度まで下げなければならない。
これでは、温度の大幅な上下が必要なので時間がかかるだけでなく熱効率も悪い。
一方で台車式トンネル窯なら、製品を乗せた台車をレールに沿って動かすので、人が窯の中に入って搬入出する必要はない。
窯は温度分布のついたトンネル状の部屋になっており、台車がトンネルを進行することで自動的かつ連続的に予熱・焼成・冷却ができるので、温度管理も簡易だ。
この台車式トンネル窯により食器を自動的に大量生産できるようになったので、佐吉は豊田自動食器株式会社を設立することとなった。
会社設立後の経営は右肩上がりだったそうだが、明治から大正へと年号が変わる頃には製品の輸送に悩まされることになった。
歴史的に挙母町の物資輸送は矢作川の船運が担っており、豊田自動食器の食器工場で製造した食器類も例外ではなかった。
しかし、知多半島方面への用水供給を目的とした愛知用水の開発により、矢作川の水量が減り船運が困難になった。
食器の生産量は増える一方で矢作川の船便は縮小していき、代替としての馬車や人力車の輸送にも限界があった。
それでも、当時は三河鉄道の敷設中であり(後の名鉄三河線)、開通によって挙母町から国鉄刈谷駅へ鉄道輸送が可能となるのは決まっていた。
しかし、それまで待ちきれない佐吉の息子の喜一郎は、自動車を独自に製造して食器を自動車輸送することを考えた。
喜一郎は食器販売の滞りで需要の無くなった台車式トンネル窯を分解して自動車部品にした。
そして、窯の燃焼ガスを動力に台車を運転する機構を応用して、台車に燃焼機関を乗せることで自動車の製造に成功した。
さらに、食器を自動車輸送するだけでなく、自動車を製造・販売することにも思い至った。
それだけでなく、喜一郎は将来自動車が大量生産されることを予測して、食器を台車に乗せて連続的に生産するように、自動車も台車に乗せて連続的に生産する仕組みを考案した。
これが現在自動車生産で主流となっている、ライン生産方式である。
このようにして豊田自動食器に設けた自動車製作部門が分離独立したのが現在のトヨタ自動車株式会社であることは、もはや説明するまでも無いだろう。
なお、食器工場は第二次世界大戦の空襲によって焼失し、喜一郎の経営判断により食器製造部門は切り捨てて自動車生産へと舵を切ったので、豊田自動食器株式会社は現存していない。
話は少しそれるが、トヨタ自動車の前身は豊田自動織機である、という誤記をネット上でよく見かける。
もちろん正しくは豊田自動食器なのだが、「食器」と「織機」で読みが同じなので誤変換してしまうのだろう。
それだけならまだいいが、トヨタはミシンを製造していたというヨタ話(トヨタだけに)も一緒に流布していることもある。
豊田市(挙母町)で窯業が盛んだったことは地理的にも考古学上でも明らかなのに、なぜそのような勘違いをしてしまうのだろうか。