はてなキーワード: 青春とは
業務時間中の暇潰しに増田でもやってみるかと思い立ったのが2020年2月中旬
「ブコメって何?」という状況からスタートしてほぼ1年経過したので、書いたやつの中からお気に入りを自選して自分で解説する
ttps://anond.hatelabo.jp/20200303074729
初めてブクマがついたエントリ オチから逆算して作った典型的なやつ
増田を書くときにオチありきで考えるのが習性になってしまっている気がする
ttps://anond.hatelabo.jp/20200416170021
ttps://anond.hatelabo.jp/20200420103142
曹操ネタだと気づいた人とただの女性蔑視ネタだと思った人でブコメの反応が真っ二つに割れてたのが面白かった
ttps://anond.hatelabo.jp/20200522140236
ttps://anond.hatelabo.jp/20200617093201
自分はBL知識はほぼないので「攻め=男役、受け=女役」なんだろうと思い「上司が受けなのかよ」と書いたところトラバでBL議論が始まってしまいドン引き
「攻めフェラNG」とか生きていくうえで一生役に立たなそうな知識を得られましたよ、ええ
ttps://anond.hatelabo.jp/20200714081644
あまりブクマは伸びなかったけど個人的に好きなエントリ のちの「とんち嫁」の原型みたいな感じ
ttps://anond.hatelabo.jp/20200803171613
仕事柄毎朝東証の適時開示をチェックしてるので、その中で面白そうな調査報告書をピックアップして読むのが日課
創作ネタの宝庫でもあるので、時間があるときに是非読んで頂きたい
ttps://anond.hatelabo.jp/20200826164820
当初は別のラストだったんだけどあまりに暗い終わり方で救いが無いしそもそもオチが無い増田は如何なものかという気がしてきたので一生懸命考えて最後のオチを無理やりくっつけて完成
「義兄業務妨害って言うためだけにこんな長文書いたのかよ」との指摘が多数あったがそんな暇人いるわけねーだろ
ttps://anond.hatelabo.jp/20200902104134
みんなブコメで韻を踏みまくってて笑った ブクマカは意外と優しいよね
ttps://anond.hatelabo.jp/20200908135711
「ANA兄弟」と言うためだけに全文書いた このときは暇だったんだな多分
ちなみにほぼ創作ベースだけど槍田さんはモデルとなった実在人物が居ます 槍ちゃん社内でやりまくりだったからなあ…
ttps://anond.hatelabo.jp/20201002170746
「毎回オチから逆算したネタでは作風の幅が広がらない」「一人前の増田になるためには色々なジャンルを書かないと」という反省から、正統派増田文学に挑戦してみたやつ
「今回はダジャレも入れてないしおもしろ要素は皆無 不器用な若者たちの青春群像が描けたぞ 我ながら良い出来だ」と思ってたんだけどそう受け止めてくれた人はごくごく僅か
大半の人には不条理ギャグだと認識されたっぽい 自分の表現力不足が原因なのかブクマカの読解力不足が原因なのか…
このエントリが入試に出題されたとして、「主人公である増田が彼女に本当に伝えたかったことは何か 本文中の表現を使って述べよ」って問いがあったら
答えは当然「がんばれ!がんばれ!」なんだけど、下手すると半数くらいのブクマカが「孕むと負けよ~アッぷるぷる」って誤答してしまうのではないかと不安になった
ttps://anond.hatelabo.jp/20201022091003
前回同様に新たな作風にチャレンジするため、これまで書いたことがない光属性ものに挑戦
「闇無効」の耐性持ちのはてなーたちが溶け去ってしまうくらいの光属性ものを書いてやろうと挑んだものの出来上がったのはなぞなぞ嫁というかただの面倒くさいとんち嫁でした
ttps://anond.hatelabo.jp/20201028172038
毎回悲惨な目にあうんだけどそれでも最後くだらない駄洒落を言うことで「こんなひどい目にあったけど駄洒落を言うくらいの元気はあるぞ まだまだ人生諦めないよ」
という救いを表現しようとしてるんだけど誰にも伝わってないようで何より
ttps://anond.hatelabo.jp/20201105153515
朝から晩までアツギのタイツネタでフェミさんが大暴れしててはてなが殺伐としていたのでとりあえず何か笑いを供給しなければと思い急いで適当に書いたやつ
ttps://anond.hatelabo.jp/20201118170546
いつも真面目な金融経済ネタを書いてるのにも関わらず、なぜか毎回「おもしろ」やら「世の中」カテゴリに分類される自分のエントリ
「はてなのカテゴリ分類はぶっ壊れてるんじゃないの!」と腹が立ったので、なんとしてでも「政治と経済」カテゴリに分類させてやろうと思い書いたやつ
とりあえずオチをダジャレにしたり、デリヘルを呼んだりしなければ「政治と経済」カテゴリに分類されるということが分かりました
ちなみにこれを書くために、仕事をサボってネットカフェで「なぜか笑介」「だから笑介」を全巻読み返した
ttps://anond.hatelabo.jp/20201210171619
仕事柄取引先の倒産事例を嫌というほど目にしているので倒産ネタとか粉飾決算ネタとかには事欠かない
最後にデリヘルを呼ぶのはちょっと安易だったかなと反省している
(追加)
ttps://anond.hatelabo.jp/20201229162144
脳内で全体の構成は出来上がっていたので「正月休み明けの暇な時間つかって職場で書き起こそう」と思っていたのだが
年末あまりにやることがなくて暇だったのでついつい書き上げてしまった
色々な太陽光発電プロジェクトに携わらせてもらったけど、あの界隈は怪しい人物が多すぎて本当にやばい
これまでの増田は多少ぼやかしながらノンフィクション形式で書いてきたけど、太陽光案件でそれをやると特定されて
太陽光パネルの架台の下に人柱として埋められてしまう危険性があるので、やむなくぐりぐらフォーマットに致しました
以上です
先週はブルマーの紺色の起源について調べた。ブルマーはアメリカでも紺系統の色だったが、現在の色になる過程で日本の伝統色の影響を受けた可能性について検討した。本記事では、臙脂色・小豆色・赤色のブルマーがいつごろから存在しているかについて調査する。また、他の色のブルマーについての情報があった場合はそこにも触れる。
主として https://www.buruma-joho.com/という個人サイトに掲載された、映画やドラマに出てくるブルマーの色について調査し、おおよそ何年までさかのぼれるかを検証する。ただし、あまりにも近い年代のものは省いた。すべてを引用しても年代の特定の役には立たないし、2000年以降のブルマーはほぼファンタジーに属するからだ。ブルマーにまつわる映画作品を網羅したい方は、ぜひ上記サイトをと参照していただきたい。どうして個人の記録ではなく映像作品で確認するのかといえば、ブルマーが日常的に存在していた当時の映像作品には、コスプレ的で奇抜なブルマーは出てこないと考えられるからである。また、個人のサイトやツイートは消える可能性があり、文字による証言だけだと正確さが担保できないためである。また、盗撮画像を使うわけにはいかないのはもちろんだ。
なお、バレー部のブルマーとそのほかの学生のブルマーについては、分けて考えたい。
加えて、プロのバレー選手の映像は多くなるので、赤ブルマーについては泣く泣く割愛した。
「オシャレ泥棒」1989年 https://www.youtube.com/watch?v=COpUgdGuoLE
「としごろ」1973年 https://www.youtube.com/watch?v=zRDoJFgS_wA
「青春の構図」1976年(女子大生。乳房の露出があるので直リンはしていない。各自で探してください)
「燃えろアタック」1979年 https://www.youtube.com/watch?v=qHFnZx0LT6Q
「転校少女Y」1984年 https://www.youtube.com/watch?v=li46Tlzuz_w&list=PLVxbaLcthhB1CAwMgrZhIykFQHl4rya9-&index=37
「挑戦」1963年 https://www.youtube.com/watch?v=krbJ1MBYXTo&list=PLVxbaLcthhB1CAwMgrZhIykFQHl4rya9-&index=5赤、青、緑三色のブルマー。
「典子は今」1981年 https://www.youtube.com/watch?v=Eh-8MVOJ6Ig濃緑で、芋ジャージの緑とは違う。障害者の社会参加を訴えたドキュメンタリー。
「蘇れ魔女」1980年(バレー選手)。Youtubeに動画はあるが緑ブルマーは確認できず。
「時をかける少女」1983年 ttp://wainn.jugem.jp/?eid=1364
ところで、先ほど両腕のない女性の映画を紹介したので、せっかくだから話そうと思う。以前NHKで「アニ×パラ」と称して https://sports.nhk.or.jp/paralympic/video/81d717ec76b544d8922c17f10889dee6/ 車いすの少女が陸上選手になるショートムービーを放映していた。また、警視庁か何かのポスターでも、ブルマー姿の義足の選手が被写体として用いられていた。義足の陸上選手を扱ったポスターはイラストも実写も検索すればいっぱいあるし、中西麻耶選手はセミヌードも披露している。
僕は素直に美しいと思ったし、義足の機能美にも魅力を感じた。義足は隠すべきもの、障害は隠蔽すべきもの、そうした空気がなくなっていくのを感じるのは、僕としても嬉しい。しかし、そこに難しさがないわけではない。美しいと思うこと、セクシーだと思うこと、障害者に対する態度、こうした扱いの難しい問題がぎゅっと凝縮されているからだ。障害のある選手が自分の身体や努力を誇りに思う気持ちと、そうした選手に憧れ、称賛すると同時にどうしてもブルマー姿に萌えてしまう自分の率直な気持ちとの間に、どのように折り合いをつけていくか。あるいは、特にアスリートではない障害者に対してどうふるまっていくか。特段「美しい」わけではない多くの障害者にどんな態度を取るか。様々な障害を抱えた人々と関わりながら生きていくうえで、考え続けばければならない問題だ。麻痺した身体を公共の場で堂々と見せた、とある活動家のことを思い出す。特段「美しい」わけでなく、それどころか「痛ましい」という印象すら与えてしまう身体。痛ましいと思うのはこちらの上から目線だが、スポーツで称揚される「美しい」身体とは別の身体が、隠蔽されてはいないだろうか。
今の職場は身体障害や聴覚障害のある人、あるいは精神障害のある人と働く機会があり、毎日が学ぶことの連続である。意外と「普通」だなと思ったり、逆に思いがけないところにつまずきポイントがあったりで、どうやったら一緒に働けるかは調整の連続だ。でも、いろんな人と働ける機会があると、気づかなかった偏見から自由になれる機会も多く、ダイバーシティってそのためのものなんじゃないかって思う。みんな仲良く、というきれいごとよりも、もめたり話し合ったりして、どうやったら一緒にやっていけるかを考えるのがきっと大事だ。そうしたら、道ですれ違った障害のある人により上手に配慮できるんじゃなかろうか。
本当のバリアフリーとは、障害があっても普通に隣で働くことだけでなく、ブルマーと義足の組み合わせに何の屈託もなく素直に萌えることなのか。茶化したような問いだが、パラリンピックにおける障害のある身体の宣伝的な側面も含め、真剣に考えたい。パラリンピックに出ることのない、大多数の障害者はパラリンピックをどう感じているのだろう?
前回の記事では、スク水がハイレグ化した90年代(ttps://www.footmark.co.jp/about/id001575.html)に臙脂ブルマーが生まれたのではないかと推測していた。だが、実際にはそれ以前に臙脂ブルマーは存在していたことが確認できた。その後、バレーボール選手のブルマーが学生のブルマーに影響を与えたのか、さらにブルマーの色が自由になる雰囲気があり、それが同時にスク水のハイレグ化を生んだのか。おそらく前者は正しいと推測されるが、後者の確証はない。そして、ファンタジーだと思っていた白ブルマーの存在も確認した。
今後は、同じ赤色でもどのような幅があったかについて調べたい。臙脂、赤、小豆色は少しずつ色が違う。現に、個人がアップロードした写真には、蛍光色に近い青・赤・緑のブルマーが確認できるものがあり、上記映像作品には登場しない色のブルマーが一定の範囲で分布していた可能性が検討できる。また、企業の公式情報や新聞紙などの証言から上記内容を補足し、フィクションからのデータだけに頼らない、実際の臙脂ブルマーが誕生した年代についても調べたい。新聞は白黒が多く、苦労しそうではあるが。
さらに、イギリスなど諸外国には赤ブルマーがなかったかも調査せねばなるまい。
加えて、身体障害が憐れみの対象やスティグマではなくなっていく過程についても気にかかるところである。美しかろうがそうでなかろうが、「健康」であろうがそうでなかろうが、そして「猥褻」であるかどうかにもかかわらず、自分の身体を見せる権利を改めて問い直したい。
読んでないんでTogetterだけ眺めて書くが、若者はコロナなんか気にせず青春しろ労働しろ、とか描かれても、
雇い止めとか遊園地入れないとか本人の意志はまったく関係ないんだが
じゃあ、雇う側が若者ではなくオッサンや老人なのだからオッサンや老人のせいかというとそうでもないわけで、
別にオッサンや老人のせいで原油価格がマイナスになったり、EVよりガソリン車に需要が回帰してるわけではないんだが
じゃあ、作者が言うように強迫神経症だとしても、世界中が強迫神経症だということになるわけだが、
だったら、小林氏ご自身が世界中の首脳陣に説得して回ればいいのではないだろうか
まあ、トランプはコロナにかかってもコロナ論には同意してくれそうだけど
そう思いつつ、自分も今の世の中はおかしいと思っているので、コロナ論のような考え方を寧ろ推し進めて医療崩壊とか世の中をもっとおかしくした方がいいのではないだろうか
新サクラ大戦が発売されてから一年が経った。発売日に買ったゲームのパッケージは、封を切られることなく本棚の中で埃を被っている。
私は15年近くサクラ大戦のファンを続けている。いや、続けて「いた」と言っていいかもしれない。2006年にPSPで発売されたサクラ大戦1&2にドはまりし、ドリキャスとPS2を買って3,4,5をプレイした。一日の受験勉強を終えた後、深夜0時~3時までドリキャスを起動し、3時間だけ睡眠を取って学校と塾へ行き、帰ってからまたサクラをやる。大学受験という過酷な生活の中で、サクラだけが生きがいであった。
ゲームをプレイした自分は次々に派生作品へと手を伸ばしていった。OVAと旧アニメ、活動写真を鑑賞し、小説と漫画を買い漁り、CDを聞いて武道館ライブにも足を運んだ。あらゆる公式作品では飽き足らずに、ネットに転がっている二次小説を片っ端からガラケーで読んだ。サクラにはまって宝塚も鑑賞した。私にとってサクラとは、自分の青春を賭けたコンテンツであったのだ。
サクラに熱を挙げていた私とは裏腹に、サクラ自体にはほとんど進展がなかった。Vの発売以降も定期的なショウは開かれていたものの、公式的な動きはパチンコや他ゲーとのコラボ程度であり、ジャンルを前進させるコンテンツ――本編の続編は止まっていたに等しかった。1年、また1年と歳月が流れるにつれ、私も他のジャンルに手を広げていく。サクラは依然として好きであったが、あくまで懐かしい思い出の中の1つという立ち位置になっていった。
しかし、2018年4月のセガフェスでついにその瞬間が訪れる。
「新サクラ大戦始動」――太正29年の帝都東京を舞台に新しい花組が復活する。Vから13年経ってのナンバリング続編が満を持して発表されたのだ。
あの瞬間の興奮を今でも覚えている。アパートを着の身着のまま飛び出し、家の前の川沿いを下流のほうへ歩いては折り返し上流のほうへ歩いてはまた折り返し、何度も何度もあてどなく歩き続けた。頭の中に溢れて来る激情が身体をじっとさせてくれなかった。
私がサクラ大戦を初めてプレイした時は、すでに当時のシリーズ最終作であったVが発売されていた。私にとってサクラ大戦は出会った瞬間から最終回であり、ずっとナンバリングの続編を望まれながらも、決して叶うことはない幻のゲームであった。
それが、ついに、叶う。サクラの続編を遊べる日が来るなんて、本当に夢だと思った。忘れかけていた青春時代の熱狂と興奮が心をかき乱す。たまらずに開いたTwitterのタイムラインは狂乱の渦に包まれていた。
2019年3月末、セガフェスにてサクラ大戦の続報が発表される。メインキャラクターデザインを久保帯人氏が、ストーリーをイシイジロウ氏が、そして音楽を田中公平氏が手掛ける。檄帝にコーラス等のアレンジを加えたメインテーマは、今までのイメージを踏襲しながらも新しい風を吹き込もうとしている。私の心は歓喜と期待に溢れていた。Twitterでは友人がPVを見て考察を巡らせていた。発売日は2019年12月12日――もう一度あの世界が味わえると思うと自然と気持ちが昂った。
同年の6月から、「帝劇宣伝部通信」というコーナーがセガのyoutubeチャンネルで始まった。公式が新規情報を発売日まで随時公開していく番組である。プレイ動画、キャラクター、世界各地の華撃団の紹介、グッズとメディア展開など、様々な情報が発信されていく。
私はそれらを欠かさずにチェックしていった。しかしながら、一か月、また一か月とカレンダーをめくるにつれ、自分の心の中には言い知れない不安のような影がよぎっていった。
「果たしてセガは、サクラ大戦を未来へと続く作品にできるのだろうか?」
今の時代、美少女たちと触れ合えるゲームはそこらに無料で溢れている。歌う少女も戦う乙女も、20年前とは比べ物にならないほど多くなった。群雄割拠のゲーム業界でサクラというジャンルは生き残ることができるのだろうか?
サクラ大戦は時代とともにあった。当時のアドベンチャーゲーム、ありていに言えばギャルゲーの中で、サクラは独特の地位を占めていた。歌劇とスチームパンクの融合、セガサターンという機種だからこそできた恋愛ゲームの一般向け展開――あの頃のサクラを不動の地位に置いていたものと言えば、新規性と物珍しさによって時代を先取りしたコンテンツ力であったことは疑いない。
しかし、時代は変わった。ゲームは何でもアリになった。アイドル物のゲームが世間一般にまで浸透するとともに、きちんと遊べるゲーム性を核としてギャルゲーさながらの恋愛要素を取り入れる作品はいくつもリリースされている。
サクラ大戦は初代から24年の歳月を経た。その年月は時代性という重りになってサクラ大戦にのしかかっている。
気づけばそう問いかけていた。プレイ映像が公開されていくにしたがって、自分の中の情熱が冷静なものに変わっていくのが分かった。
そして2019年12月12日、私のもとにAmazonからパッケージが届いた。そのときは仕事が忙しく、届いてから3日ほどやる時間が取れなかった。
極力ネタバレは控えていたものの、つい気になってTwitterを覗いてしまった。
そこには、「熱」がなかった。
新作発表、主題歌公開のときに賑わいのあったタイムラインは嘘のように静かであった。ストーリーに言及するどころか、面白さやつまらなさを語る人もいない。ぽつぽつと流れる呟きは、まるで腫物に触るような言葉の数々であった。
好きの反対は嫌いではなく無関心である。本当に面白いコンテンツであれば、人々は誰に先導されるでもなく自然と語り始める。それはネタバレであれ考察であれ妄想であれ、大きな熱となりジャンルを強く後押ししていく。しかし今は、その熱がどこにも見えなかった。栄華を極めたかつてのコンテンツを前にして、友人たちは出来の是非を問うこともなく、ただ当たり障りのないことを呟くばかりであった。
――ああ、そういうことなんだ――
その様子を見た私の心の中に、言い知れないほどの寂しさが襲った。それは悲しみや怒りといったハートを揺れ動かす激情ではなく、まるで亡くなった親友を前にした時のような、涙も出ない喪失感であった。
私はそれを見て、新サクラ大戦を遊ぶことを止めた。プレイしたらそこで終わりになってしまう。20年以上続いたシリーズの行く末を見届けてしまえば、「いつか続編が発売されたらいいなあ」と心を躍らせることもできなくなってしまう。
「ああ、こんなもんだったよなあ」という気持ちで終わらせることが嫌だった。ゲームの面白さに興奮することも出来の悪さに嘆くこともなく、ただただ現状を受け入れて観念することがたまらないぐらい恐ろしく感じた。
こうして私は、サクラ大戦というシリーズを思い出のまま取って置こうと決めた。私にとってサクラ大戦は、続編を望まれながらも決して作られない希望のゲームである。あのころのノスタルジーを終わらせもせず続かせもせず、優しい思い出のままそっとしておこうと心に決意した。
そんな私とは対照的に、漫画、テレビアニメ、舞台と、次々にメディア展開が進められていく。ユーザーとの熱量の違いは目に見えており、ゲームの中古価格がそれを如実に表していた。
そして2020年12月15日、新サクラ大戦から約1年後、ゲームアプリ「サクラ革命」がリリースされた。開発はソシャゲ業界最大手のFGOを手掛けるディライトワークス。リリース初日にも関わらず、タイムラインでは話題にすら挙がっていない。PVを見て考察を巡らせていた友人は、FGOのカルナサンタに熱を上げていた。
もう、誰もいなくなっていた。
そして私はまだ、「新サクラ大戦」をプレイできていない。15年前の思い出にずっと閉じこもり、夢の続きを見ることを拒否しているのだ。
中高と女子校で喪女青春真っ盛りの時の私の世界には、男は父親か先生か電車内のオッサンか、BLで掛け合わせるお人形しかいなかった
大学で服買って化粧して何とか容姿が人並みになって恋愛市場に乗った期間、BL趣味はその一時期だけ鳴りを潜めた
この時期食い散らかしていたので性欲と恋愛脳は人より強めだと思う
就職してストレス過多になった時にあるゲームにハマり二次創作に戻った
その後出会った理解のある彼くんと遠距離恋愛を経てなんとか結婚
妊娠中はBLもNLも他のエロ作品も一切受け付けなかったが、子供が産まれた直後にある深夜アニメが腐女子の間で大きなブームになり、夜間授乳で起こされるついでに視聴して無事覇権CP沼にハマった
理解のある旦那くんに子供を預けて冬コミとオンリーに参戦できたのは良い思い出だ
理解のある旦那くんの事は愛してるし結構な頻度でセックスもするけどBLへの投資は経済的余裕ができた分学生時代より激しくなった
高校三年の夏、僕のバットは空気を切り裂いて、放られたボールはキャッチャーミットに吸い込まれた。
ストライクのちぎれるようなアンパイアの声とともに蝉の音が滲んだ。僕への代打は見送られた結果だ。
イーロン・マスクという男がいる。
彼は何度となくテスト飛行を繰り返して、スペースXプロジェクトにて火星への夢を見上げる訓練をしていた。
そんな言い方は君たちを混乱させるだけかもしれないね。
見えない草の匂い、球場の太鼓の音、きっと小さい粒になって眼差しを向ける彼女だった人。
イーロンのロケットが墜落した。
2020年12月のことだ。ロケットはバットに当たるわけじゃない。空振りもない。
だけどもロケットは大きな成層圏に拒否されておずおずと地球に舞い戻って消えてしまった。
イーロンはそれを大きな一歩と称賛した。
僕が土を持って帰った夏が今乗るロケットの窓に重なる。
甲子園、土はどこまでも黒く、絶望の彼岸へと続いているように見えた。
僕の首は重たく、空を見あげることができなかった。
フォークと判断した指先からの白い楕円は、吸い込まれるように拾われて運ばれてしまった。
その後気落ちした僕は彼女の声も耳に入らず、疎遠になり別れてしまった。
全てが灰色になってゆく中でごく普通に就職した。コンビニで惣菜を買うようにだ。
痛みも和らぎ始めた頃、何かを始めようと笑顔で前を向く男を見た。
時代はインターネット全盛期だった。僕らの味わった暗闇もスマートフォンで見ることができる。
くたびれた僕の中で若芽が透き通る空に伸びてゆくように感じた。
JAXAに勢いで電話し、メールも打った。僕の人生がここから変わってゆくような気がした。
周囲の人間はお前の歳で宇宙を目指すのは自殺行為だとか、何も達成したことがないのだろうとか、成功するやつは若くして成功してる、イーロンだってそうだろう、とたしなめてきた。
全てが耳に入らなかった。僕はあのときの打球を思い描いていた。
こんなに努力できたんだと思い、自信がついてくる。
気づけばイーロンに肩を抱きしめられていた。ロケットの前でだ!
この窓の外に見える小さな蜘蛛の渦や大きなアフリカ大陸や、僕の青春が詰まった島国や、全てが蒼いんだ。
ロケットの噴砂音が聞こえなくなった。管制塔の通信が耳元に響いてくる。
管制塔から拍手と歓声が聞こえる。そして緊張した声で彼らの仕事が再開される。
僕の夢は宇宙間を飛んだんだ。
宇宙間を、飛んだんだ。
了
高校時代、間違いなく灰色ではあったんだけど、なんかいい思い出もないだろうか?
学校の入り口に渚像と呼ばれているブロンズ?像があったが、べつに貝殻があしらわれているでもなく、波のような躍動も感じられず、渚の要素は全然なかった OBだという古株の先生にアレなんで渚なんですか?と聞いてみたところ、かつては近くに池があったらしいとのことで、全体的にどうでもよかった
コッペパンに鶏の竜田揚げとレタス、ひときれのレモンが挟まったサンドが購買で売られていて、それがすごくうまかった 絶対・普遍的なうまさとしては多分せいぜい偏差値57とかなんだけど、俺の好みにはドンピシャだった 数が少ないし他のパンがおおむねカスなのもあって売り切れるのは早く、たまに弁当なしで登校した時はあのチキンサンドを手に入れようとかなり頑張っていた記憶がある 4限の終わりごろには机の下で財布を用意して、授業終了とともに駆け出していた
2年生になって2日めくらいの登校日、ボーっと歩いてたら一年の頃の教室にたどり着いていた なんなら中に入ったし、自分の席だったところまで歩いた 周りに全然知ってる人がいないこと、あきらかにヘンな目で見られていることに気がついて顔を真っ赤にして逃げた
話したことがないどころか顔すら知らない人だが、それまでピンピンしていた一つ下の子が突然病死するという事件があった 事故でも自殺でもなく、ほぼ予期不可能な発作のようなものということで、なんというかやるせなさが強かった 同世代の同じ学舎にいた人間の死ということで、面識はないなりに衝撃的だったし、それは他の人にとってもそうだったみたいで一日中異様な空気だった 掃除の時間にペアだった奴と「今日の空気ヤバすぎるだろ」みたいな話をした記憶がある
4〜5時間とかかけて24キロを走らされるクソみたいな大会があって、めちゃくちゃ嫌だった 幸い時間制限は緩めでほとんど歩いても失格にはならなかったが、そんなギリギリを攻める気にもなれなくてわりと走った(といっても最下位グループだけど) 友達2人と走ってたら最後あたりで全員同時に足攣ってメチャ面白かった ひとりが攣って「僕は置いて先に行ってて」みたいなカッコいいことを言った直後にもう一人も攣り、まあじゃあいっかって感じで歩いてゴールした その過程で俺も攣った
通学路のかなり行きやすいところにゲオがあって、よく寄ってた 外れて5分くらい歩いたところにツタヤがあって、気分の良い日には寄ってた
俺と後ろ姿がクリソツの男がいて、ときどき取り違えられて話題になっていた なんでもヤツはクソ真面目な数学教師に「おい増田(俺の苗字)!」と何度も声をかけられ、自分とは思わず無視していたら肩を掴まれて、「無視するな」なんて言われてビックリしながら振り返ったら、教師の方もビックリ、「スマン」とかモゴモゴ言いながら去っていったらしい
マジでなんで涙が頬を伝ったのかは分からないけど、そのことに気づいた瞬間にマジで泣いてた。
まずは内容についてざっくり比較
ダダダダーン | ブルーピリオド |
主人公は勉強が出来る(努力の天才だから) | 主人公は勉強ができる(効率追求が好きだから) |
勉強をしていた理由は親に言われたから | 勉強していたのはゲーム感覚 |
勉強ばかりしていたから暗黒の青春 | 友達付き合いも効率プレイのチャラ男 |
ある日天才ピアノ少女の演奏を聞き感動 | ある日美術の課題を通して表現の持つ力に魅入られる |
努力の天才だからピアノが凄い勢いで上手くなる | 繊細な感受性と衝動が覚醒する |
今まで学校で勉強してきたことを応用する | 言葉で説明しきれなかった感覚を何とか伝えようとする |
勉強をやれといい続けてきた父親に感謝する | 自分の伝えたかったことが伝わったことに感動する |
ブルーピリオドは一応1・2話がコミックDAYSで読める https://comic-days.com/episode/13932016480029559862
読めるって確定してるならそれから投稿してもいいけど、もしジャンプ+に来なかったらこの増田はお蔵入りだから投稿しちまえ。
気になるなら名前覚えといてくれ
やってる事自体は「勉強がめっちゃ出来るハイティーンがある日芸術に出会ってその世界に入り込む」なんだけど、そのクオリティが10段階ぐらい違う。
結局ジャンプのダダダダーンはいわゆる「腹減った~~~」系の力自慢のSTRをINTに振り直しただけでしかない。
あくまで漫画用の記号の集合体にしか感じられなくて、ブルーピリオドのようなリアリティがない。
それがどう影響するかって言うと、主人公が感動したり傷ついたりするのを見て自分の中にある琴線を震わせる機能が全く変わる。
自分は最高にいいと思ってるけど他の人にはイマイチ響かないもの、言葉でどうやっても説明しきれないもの、自分の頭の中にだけあったクオリア、それを他人の頭に流し込むことが出来るのが美術の持つ力なんだってこと、そしてそれに出会っちまった天才の世界が崩れる音とか、人生のピースが嵌っていく感覚とかが流れくんだよ。
単に凄い主人公が凄いことして認められたってだけなんだよ。
腹減った~~が口癖の孫悟空が悪い奴らをぶっとました。はい終わり。なんだよ。
読み終わってマジで何も残らねえんだ。
ピアノってどうやって弾くもののなのか、演奏するってどういう感覚なのか、それすら分からねえまま終わるんだ。
なんのリアリティもない上っ面だけの虚構だけが広がってるんだ。
いわゆる「テンプラ(衣だけでかくて中身が空洞の意)」なんだよ。
同じような題材やストーリーラインでこうまで差が出るのかってビビったよ……。
そんな作品がさ、「勉強してきたことが俺の中で活かされてる」って主人公に言わせんだよ。
いやいや作者よお前は何を勉強した結果この作品を生んだんだよっていうね。
ピアノを弾くってどういう感覚なんだ?お前はそれを人に伝えられるレベルで調べたのか?全く調べてねえだろ?それでよくそれをキャラに言わせたな。
本当に辛かったよ……だって俺、この作者の側だもん……。
何もねえくせにさも何かあるように語るんだよ。
今だってブルーピリオドっていうすげー作品を利用して他の作品ボコボコ殴ってるけど、俺自身には何もねえんだ……。
凄い作品の凄さを下手くそな言葉で必死に伝えて、それでそれが出来ない普通の駄作を偉そうに殴ってんだ……。
俺こそがテンプラなんだよ。
それが一瞬で頭の中駆け巡ってな、ほら、また泣いちまったよ。
涙の理由は分かった。
でもどうしようもねえ……俺は勉強もできねえし……同じように勉強してねえ奴同士で傷をなめ合うこともせず他人の褌で殴り倒しにかかるカスなんだ……。
俺は本当にどうしたらいいんだろうな?
泣くしかねえのかな……。
おかしいだろ。
漫画を最低限読み解く程度の頭とか感受性があって、その上でこんななんだぞ?
そういうのが無いなら勉強すりゃあワンチャン真人間になれるかもしれねえけど、そういうのある程度身につけた上でそうってことは、もっと別の所でカスなんじゃん。
何かを学ぶとかより、まずは考え方そのものが歪んでることを考えるべきってことだよ。
たとえば「生まれ変わる」って言葉があるけど、生まれ変わるってのは「一度死んで別物として生まれる」ってことだぜ?
プロセスに分解すれば「死ぬ」「別物に変わる」「生まれる」だぜ?
「生まれ変われ」って安易に言うやつは単に「生まれる」だけにフォーカスしてんだろうけど、お前その前に「死ね」「今のテメエはカスだ」と言ってんだからな?
いやマジでよ、人間死んだら終わりって考えれば「生まれ変われ」≒「死ね」だからな?
そもそも魂なんて実在して無くて、俺達の人格は全部脳の電気信号が絡まりあって生まれた影絵みたいな代物なんだからな。
無数のセンサーの集合体が無造作に集まって相互干渉を繰り返した結果生まれたリバイアサンでしかねえ。
まず先に巨大なリバイアサンがいてそこから無数の人間にボコボコ分離したわけじゃねえんだよ。
俺たちが人格だと呼んでるものなんてものには核だとか原型なんてねえんだよ。
つまり失われたらもう戻らねえんだ。
心は変えることは出来るさ、遺伝子に振り回されるままの肉体が人生と名付けたものの方向性を変えるだけだ。
だって俺たちは昨日の自分の雑なコピーの繰り返しな鰻のタレなんだぜ?
10年前の自分がどうだったかなんて黒歴史だけが漠然とよぎるだけで、実際には同じような性格に戻ることなんて100%無理だ。
そんなものを一度変えたら、もう戻れねえ。
今の自分は、消える。
生まれ変わるというアクションを起こせば死んだやつは蘇られねえ。
毎秒死んでは生まれ変わるスワンプマンに過ぎねえ俺たちの電気信号が、昨日と殆ど変わらずいられるのは、今までの状態を維持しようとするからだ。
悍ましいだろ?
そんなことが出来るのか?
自分に?
俺は無理だ?
ジャンプの読切漫画が、自分の知ってる他の漫画にちょっと似てるけど、クオリティで完全に負けていると勝手に決めつけて、勝手に自分の人生を蔑んで泣いた。
日記を書こうと思った。
日記を書くのは何年振りだろう。
まずはあまり畏まらず、文体も飾らず、思いつくままに自然体で文章を綴っていこうと思う。
どうせ誰かに見られているわけでもないのだ。
格好つける必要もない。
思えば(思ってばかりだ)、人の目ばかり気にして生きているような気がする。
喋る時、声の大きさや口調、あるいは内容、大学にいるとき、他人の視線、年齢を気にしている。外を歩いているとき、他人の服装、無意識に目がいってアレコレあの人はどうだと批評したくなるのは自分が他人からどう見られてるか気にしていることの裏返しのような気がする(また、気がしてしまった)。
正直、疲れる。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
だから、誰もいない特に馴染みのない住宅街なんかを散歩しているととても心が落ち着く。
神経症と言ってもよさそうだ。
過剰に他者の視線を気にしているし、不意に暮らしの中で誰かに自分の人生を否定されやしないかと、ビクビク怯えながら過ごしている。身を強ばらせて、責められたときのために理論武装をして。
実際にそういう機会に出くわすことはほとんどないのだが、何気ない日常会話のなかのふとした発言に、弱り切った心を傷つけられたり、同じような体験をした人の恐怖心にSNSで共感してしまったりするのを繰り返しているうちに、なんだか外を歩けば蔑まれるんじゃないかと思うようになってしまった。
難儀なことだ。
なまじ人生途中まで順調に見えたがために、プライドだけは人一倍高くて、困る。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
今、これを母校の一角で書いている。
思えば(また思った)、mixiで日記を書いて友達と見せあっていたときもこの学校に通っていた。
今はコロナで対面授業は実施されていないのか、学生の姿は疎らにしか見えない。
私の青春を彩ったこの学び舎は、少し角張ってピカピカしたいけすかない講義棟が増えたことを除いて、概ね往時のぬくもりを残して私を迎え入れてくれた。
このキャンパスに舞い戻って呼吸を取り戻したようで「ああ、今まで苦しかったんだな」とようやく気付けた。
実家もかつての家も失って、未来もなく、現在も灰色の私にとって、本当に数少ない、幸せだった頃の感覚を身体に思い出させてくれる場所。
いつまでもこのまま変わらないでいてほしい。
代謝がいいことは健康の必要条件であって十分条件ではないのだ。
私は故郷に変化を望んでなどいない。
願わくば……
https://anond.hatelabo.jp/20200910150220
しかし自力ではなかなかイケず、本日はイメクラ嬢の助けを借りて乳首イキに挑戦。乳首だけで3回もイッてしまいました。
強烈なドライ・オーガズムの連続に思わず大声が出そうになり、声を押し殺すのに苦労しました。
人生も折り返しを過ぎ、ここのところテレワークで物思いにふける時間ができたせいもあって、「あのとき、ああすればよかった」という思いがふつふつと湧いてきます。
結局交際には至らず、高校生活は童貞のまま終わりましたが、あの頃の憧れやときめきと思春期の鬱屈した思いが混ざった澱(おり)のようなものを、ロールプレイで「ありえたかもしれない青春」を疑似体験することで、童貞供養をしたいと思ったのです。
イメクラ嬢に「高校時代に片思いだった後輩に告白したかった」と伝えたところ、頭の回転が速く利発な彼女はすぐに私の意図を察してくれて、ごく自然にイメージプレイの世界へと誘導してくれました。
放課後の誰もいない教室で待ち合わせて、彼女に私から「ずっと前から好きだった」と告白。
ベタな展開でも、プレイだとわかっていても、心の奥からなにかせつなく懐かしい感情がこみあげてきて、泣きそうになってしまいました。
その後は、かわいらしさと聡明さをかねそなえ、かつ床上手というなにもかも申し分ない彼女との閨房術の応酬。
前述の乳首オーガズムのおかげで性感が高まっていたこともあいまって、心を満たすあたたかい多幸感と下半身か押し寄せてくる激しい快感に包まれて、ビッグバンのごとき大団円を迎えることができました。
目を閉じると花火が昇天していくようなサイケデリックなイメージが脳裏をかけめぐり、高校時代に悶々としていた私の童貞ルサンチマンは、この日、見事に成仏したのでした。
なぜ2人打ちなのか、深く追求してはならない
大三元に四暗刻に国士無双に字一色、本来めったに目にすることのないはずの役満になぜか親しみがあった
ところで、まったく関係のない話題だが、わしはセガサターンというゲーム機が大好きだった
47π
就職でなんとなく日立市に流れ着いて永住することになりそうな身として、淡々と生活の感想を書いてみる。
中核市でも農村でもない、日本中に沢山ある人口20万人弱の地方都市の一生活者の記録です。
3年ほど前に建売4LDKを購入。
働き方改革が始まる数年前までは残業して帰る時間に空いている店も少なく、娯楽が少ない環境で、他に使い道もなかったので、20代で新築する夫婦は同期の中で珍しいほうはなかった。
掛け捨てのアパート代よりマシぐらいの気持ちで35年ローンを組む。
マンション…はJR駅の近くに新築分譲マンションが1棟ぐらい出ていたが、駅の近くに何もない街並みなので、価格ほどの魅力は感じなかった。
でも某H社の関係で転勤族や単身赴任の人も多いので、マンションは主にそういう方に需要があるのだと思う。
客間が在宅勤務の仕事部屋になり、将来の子ども部屋は物置部屋になっている。
もともと私は物を増やす性質で、夫は物持ちが良くあまりものを増やさないので、ほとんど私の荷物で占領しているのはいちおう申し訳なく思っている。
アパート暮らしのときは電子書籍一択だったのが、紙の本を買えるようになって嬉しい(ほとんど漫画だが)
徒歩5分圏内には、コンビニと24時間営業のチェーン系飲食店が1件。
決して充実はしていないが、孤独を感じるほど何もないわけではないのが良いなあと思っている。
10分歩くと砂浜。
生まれ育ったところは海まで2~3時間の盆地だったので、移住したての頃はどこまでも続く水平線に結構感動した。
今ではすっかり見慣れてしまい、インドア人間なので夏でもいちいち海に行ったりはしないが、それでも晴れの日は通勤中に海が見えるとちょっと爽快な気持ちになる。
オーシャンビューな感じのカフェにもたまに行く。
国道沿いにはスーパーとかホームセンターとかニトリとかチェーン系のファミレスが一通り揃っているので、日常的な買い出しはそこに車で行く。
たしかに車がないとかなり不便。
うちは夫婦ともバス通勤なので、車は1台で充分なんだけど、うちも含めて周辺の物件には3~4台の駐車スペースが確保されている。
私は元々かなり運転に苦手意識があったのだけれど、前職を辞めて1年ほど在宅パート生活をしていた期間があり、時間に余裕があって必要にも迫られていたので、生活に困らない程度には運転できるようになった。
あと、夜でも気兼ねなく出かけられるのは、特に女性にとってはかなり大きなメリットなんじゃないかと思っている。
市内に娯楽施設らしいものはないが、最近話題の公立動物園はなかなか立派なものがあり、子どもが出来たら連れて行ってあげたいと思う。
今にも逃げだしそうなゆるい囲いのカピバラと近距離で触れ合えるのと、珍しいヘビとトカゲがいっぱいいる。
週末何してるかというと、夫はゲームかラズパイ開発か資格の勉強してるし、私はネットか漫画か知り合いのサイト開発などしていて、自宅を謳歌している。
たまには30分ほど海沿いを運転して隣の市のショッピングモール(withシネコン)に行く。
あと、土曜の夜は隔週で、やっぱり30分ほど運転して絵画教室に通っている。
先生が昼は喫茶店のマスターをしている気軽な教室で、デッサンも楽しいが、半分くらいは先生と高校生たちの明るい雑談を聞きに行っている気分。
数年前、インドア人間のくせに、思い立ってSUP(スタンドアップ・パドルボード)に行ったことがあった。
独身時代に住んでいたアパートの近くに、体験プランをやっているショップがあったのだ
ちょうど今くらいの季節で、めちゃくちゃ寒かった。
そのときは海じゃなく流れが穏やかな川で、インストラクターに促されてボードの上に仰向けに寝そべってみると、川の上に寝ている感じが心地よかった。
川で獲れた(?)という鮭のイクラ載せ放題の昼食と、1日SUP体験合わせて5千円。
かなり満足度の高い体験だったが、当時は趣味に投入する色々な(主に精神的な)リソースが足りていなくて、続けるには至らなかった。
でもまあ、その気になればそういうウォータースポーツができる環境もあるし、釣り好きな人には最高の環境だと思われる。
車に乗れない人や学生は遊ぶところがなくて寂しさを感じるかもしれない。
私はこの町で青春を過ごしておらず、余計なお世話ではあるのだが、そのあたりの寂寥感は日立市出身の人気ラノベ作家ヤマグチノボル氏(ゼロの使い魔で有名)の著作からも伺えた。
若くして亡くなった氏の作品には衰退しつつある故郷への愛が込められていて、よそ者の私が後から読んでも、何というか非常にしんみりしてしまうものであった。
これも隣のひたちなか市だけど、邦楽好きとしてROCK IN JAPANに気軽に行けるのは最高。
ネモフィラとコキアも良いのだけど、最近は人気で人が多すぎてあまり行っていない。
某H社様のおかげで市内の同業種求人はいつも需要が供給を上回っている印象。
全部歩いても45分くらいなので、気が向いたら音楽を聴きながら歩いて帰る。
バスは、2005年に廃線になった日立電鉄の線路跡をバス専用道路にしたBRTというものが開通して、かなり便利になった。渋滞に巻き込まれないバスは良いものだ。
(ローカル線好きとしては、電鉄に残ってて欲しかった気もするが)
BRTは自動運転の試験運行も始まったりしていて、ちょっとワクワクしている。
雇用がある町は強いなと思う。私は地元がかなり好きだけど、就きたい仕事の枠が無くて地元を出たので。
正直最初に越してきた頃は、工業都市特有の無機質な景観と沿岸部らしい雨風の強さに冷たい印象も受けたのだけど、ここは働くための町なんだと思う。おかげで図書館とか病院とかも新しくて綺麗。
子どもの興味と合致したら将来は茨城大か茨城高専か筑波大に行ってくれたら経済的には嬉しいかな、ぐらいには思っている。
東京に出たとしても、週末気軽に行き来できる距離なのは良い。特急で片道1時間半、高速バスで片道2時間半。
■はじめに
・筆者は28の男で、普段はあまり本読まない→有名作品多めかも
・最近晴れて無職になったので時間ができてちょいちょい読んでいる
・なんとなく読んだ感想を共有したい&自分の日記を見て読みたいと思う人がいたら嬉しい
・ネタバレはしないけど、あらすじと魅力だと思ったところは内容に触れる
あらすじ:グレた女子高生が賢くてませた男子小学生と組んでエロチャットでネカマする話。
たぶん中学生ぶりに読んだ。
当時読書感想文のネタとして適当に買ったのに題材が題材だけに作文に困ったのを覚えている。
インターネット黎明期の話なので、その頃の文化に興味があるorあった人は懐かしく読めるかもしれない。
それを差し引いて、今読んで面白いかといわれると微妙かもしれない。
あらすじ:不倫相手の子供を盗みだし、我が子として育てながら逃げ続ける話。
主人公である母の心情が細かく描写されているので、子育ての経験がない男でも話に入りこめた。
「母子二人でおくる、小さな生活」は「いつ終わりが来るかわからない逃亡生活」でもある、という二重性が切なく苦しい。
話の内容は重く暗いが、子育ての舞台となる島の情景描写が結構心に残った。
精神科で入院中に友達に勧められて読んだが、こんなん読んでたらそりゃ病むわ、と思った。
あらすじ:不治の病を持つ少女(陽キャ)と自分の平穏のため他者との関わりを避ける青年(陰キャ)の不思議な関係性と青春を綴った話。
今更ながら読んだ有名作品。
個人的に主人公の青年に対する共感が全くできなかったので最初のほうはあまり面白く感じなかったが、
物語の展開がドラマチックで、はっとさせられることも多いので後半は一気に読み進めた。
人気作品だけあってややベタな展開だけど、登場人物のキャラ付けも分かりやすいし読みやすい。
分かりやすいだけかというとそうでもなく、「他者の捉え方」「自己の在り方」について考えさせられる一冊。
少女が青年を呼ぶ際の描写にちょっとしたギミックがあり、心に響く。
この描写は活字でしかできないので、原作を読んでおいてよかったと思った。
■桜木紫乃「砂上」
あらすじ:作家を目指す主人公が、夜の街で生きた母と、歳の離れた妹とを素材に渾身の一作『砂上』を書くために奮闘する話。
エッセイではなくあくまでも「自分自身をネタにした小説」を書く話なので、主人公は自分の経験を虚実入り混じった状態で綴ることになる。
主人公が「『砂上』を書く」ということが考え方や行動に影響を及ぼしていき、それを素材にまた「書く」。
ちょっとは反省したかと思ったら悔しくなってお里の知れるチェリーピッキングしてんのなww
おまえ3年くらいネットで誰とも話さず自分の内面や身近な人々と向き合ったほうがええぞw
そもそも理性と科学と対話の民であるべき左派・リベラル信奉者が身内の総括や自己批判に疲れて離脱と先鋭化した結果の成れの果てだろ?
なあ、半世紀以上経つのにお前ら一体何やってたんだよwまったくもって前進しておらず科学的じゃないよなw
50年もあれば身内の先鋭化した連中を嗜める方法や、軋轢や疲弊を産まない自己批判の技術を生み出してくれよほんとに。ほんとにがっかりだ。
今になって暴れてんのは今際の際に立って忘れかけた青春のひと花を咲かせたいだけの年寄連中と、世代を超えてアジに引っかかったバカしかいないからお前ら連中はそういうことになるんだぞ
「秋元康案件ばっかりかよ!」と言われるかもしれないけど、結果的にはこうなってしまった。
自分が見つけきれていない曲やMVもあると思うので、個人的な推しで良いので(そもそもそういう企画だ)教えてくれると嬉しい(意外と年末のこの時期に発表された曲も多くて追いかけきれない)。
部門はさらに追加するかも(細かく部門を追加すると各グループ1曲ずつは選びそうなのでとりあえず厳選してみた)。
【企画賞】
「世界中の隣人よ」
コロナ禍の重い空気の中でアーティストがメッセージや楽曲を発信する特別企画は沢山あったが「現役メンバーだけでなく一部卒業メンバーも歌唱および映像参加」という特別感はアイドル企画の中でも群を抜いていた。
「各自が自宅で素材を撮影」という要素も含めて、この状況だからこそ生まれた奇跡。
【タイアップ賞】
タイアップ前提の楽曲は、基本的にタイアップする企業や商品のメッセージが優先され、アーティストサイドの色や個性は薄れがちであるが、本作はFPSゲームとのタイアップで、結果としてタイアップのイメージを最大限に尊重しつつ、最近のBiSH楽曲の中ではもっともBiSHらしさが出たのでは、と思える傑作。
【MV賞】
日向坂46
「アザトカワイイ」
楽曲のコンセプトだけを考えれば、MV冒頭や随所で挿入されるシリアスな表情(笑顔ではない)のシーンは一見不要なようにも思えるが、日向坂46がひらがなけやき(けやき坂46)だった時代の楽曲「期待していない自分」のMVでは笑顔を封印したシリアスな表情だったこととの対比、その時以来、久しぶりに(日向坂46としては初めて)佐々木美玲がセンター復帰という物語として捉えると、エモい。
MVの制作チームは違うので、狙ったものかどうか真相は不明だが、その物語を連想させた時点で勝ちである。
【大賞】
「君のことをまだ何にも知らない」
発表やライブ披露は2019年末から行われていたが、発売は2020年1月なので2020年にノミネート。
今年これを超える女性アイドル曲は出てくるのだろうか……とずっと思ったまま、結局1年が経過してしまった。
番組内での楽曲の仮歌による音源発表時にNGT48の中井りかが悔しがっていたように、アイドル曲としてあまりにも完成度が高すぎて嫉妬したアイドルや「推しのアイドルグループにほしい!」と思ったアイドルファンも多いのではないだろうか。
青春時代のせつない片思いの物語を描く歌詞だけでなく、それを支えるせつなさ全開のメロディ、ただせつないだけでなく、イントロやサビ前、コーラス(ボイス)など、随所にライブでの盛り上がりを期待させるアイドル曲らしい味付けが丁寧に加えられている。
さらにラストの落ちサビからラストサビは、メロディの盛り上がりと共に楽曲の中の物語の進展を連想させる仕掛けになっており、最後まで完璧。
いわゆるアイドル曲としてはベタ中のベタだが、丁寧な仕事をするとベタも傑作になるという良い見本だと思う。
しかし、青春高校3年C組、テレビ東京ローカルからスタートした番組企画ゆえか(現在は5局ネット)、MV含めたYouTubeの再生数が他のメジャーアイドルと比較すると明らかに少ない。
巷で話題の萌えアニメのオタクは害悪だと主張する記事を読んだ感想である。
私は萌えアニメからいわゆる硬派と呼ばれるアニメまで広く嗜む、アニメ視聴歴20年くらいのしがないアラサー男だ。
ジャンプやサンデーと言ったお馴染みの週刊誌で人気の原作アニメが、テレ東のゴールデンタイムで毎日のように放送されていた頃に、箸で摘んだ夕食のコロッケをテーブルの上に落としブラウン管にかじりつく少年期を過ごし、最近新刊が発売された『涼宮ハルヒの憂鬱』をきっかけにいわゆる深夜アニメの世界に足を踏み入れて、今日に至ると言った経歴(他に言葉が思いつかなかった)を持っている。
視聴作品数は、履歴書に書けば人間性を理由に採用確率が30%減になるくらいあっただろうか。と言っても熱中度でいえば大したモノではなく、どんなに気に入った作品でも円盤を買ったり、グッズ等を買う程度だった。興奮が抑えられず感想をブログに載せたり、二次創作に勤しんだりするくらいならニコニコ動画で他の作品の視聴課金をし始めるくらいには職人気質は持ち合わせておらず、人によってはカステラの茶色の表皮だけをすくって人工甘味料(無いかも)の鋭く刺すような舌触りだけで満足するような、奇怪な楽しみかたをダラダラ続けていただけに見えるかもしれない。
簡潔に何が言いたいのか知りたい方は、途中全く大したこと書いてないので、最後だけを読んでほしい。
以降は今の俺以上に暇だと宣言できる、大変人間強度に優れた人だけが読み進めて欲しい。
主に作品ごとのアニメーションが持つ性質、役割の違いについて横道に外れながら綴っていきたいと思う。
過去に色々な作品を目にしてきている者ならばご理解いただけると思うが、「好きなアニメは? どういうところが好きなの?」と質問を受けたとき、瞬時に心動かされた場面(シーン)が頭の中を駆け巡り、「さてどれから話せばよいものか……」と、全身が幾分高揚している自分がいることに気づくだろう。
それらはキャラクタたちと共にストーリーを辿ることで得られた感覚につけられた名前のようなものだと私は考える。そしてそれらは言葉では表せないが、私たちに中で一種の『共通言語』的な役割を担い、機能しているのだ。
例えば以下のシーンを目を瞑って思い浮かべてもらいたい。
『氷属性をもつ冷徹残忍な魔女が、手に持った杖を振るった。その瞬間空間の四方から無数の鋭利な菱形をした氷の刃が出現し、彼女の透明感のある艶やかな唇で結ばれる「さようなら」の言葉を合図に一斉に襲いかかってきた』
数々の映像作品を見たことがある人なら、無の空間からパキパキと音を立てながら蒼白い形作られ、魔女の妖艶な笑顔が映った次の瞬間に鋭い氷の塊が視界の中心に集まってくる2、3カットくらいの映像が容易に頭の中に流れたことだろう。
これは性格によるのかもしれないが、私は基本的には物語の進行上は「それ」でOKと考えるのだ。
「それ」とは、視聴者の頭の中で出来上がった薄ぼんやりとした2、3カットのことであり、重要なのは「それ」を我々視聴者に想起させ、作品を補完させることだと考えている。
例えば先のシーンで「魔女がどんな容姿でどんな服装服をまとい、どんな体勢なのか」とか、「魔女と言うくらいなら箒に乗っているのか」とか、「どんな服を身に纏っていたのか」とか、「どれくらい勢いで杖を振ったのか、杖の先はどこを向いているのか」とか、「氷の軌道は直線的なのか最初に外側に弧を描くなどトリッキーな動きをしているのか、時間差のある多段階攻撃なのか」などの質問されたら、スラスラと答えられるだろうか。(……私だけができないのなら怖い。ショックのあまり寝込む)
おそらくだが「いやそんな細かいところまでは……」のレベルの話だと思っている。多分これができる人はきっと絵が上手いはずだ。私は私を含め絵がど下手くその人がこの世にいることを知っている。
ぶちゃけた話、そこの解像度が高くなくても我々には多分『伝わってる』のである。
むしろ、それでどれくらい負傷するのかとか、実力差はどれくらいなのか、どうやって勝つのか負けるのかなどの次の展開に興味が移っていないだろうか。さらに言えば、この魔女の性格はどんな感じなのか? 冷徹なのだから口調は厳しいのかとか、魔女は主人公のこと気に入ったりするのか、追々仲間になる展開なのか、と言った、キャラクタの心情の移り変わる様子すら、この段階で期待してそれを軸に妄想を膨らませる人もいるだろう。
さらにここに、
『氷の魔女と呼ばれる彼女は、実は地球に住む人間の種を手に入れようと狙ってやってきた宇宙人であった。侵略活動しやすいよう周りの空気を自分たちの住む星の大気温度まで下げるため、彼女が腰掛けているステンレス製の巨大三角柱からは温度を奪う冷気的な何かを放出していて、空気中の水蒸気が氷結してできた塊を利用し相手を冷凍保存しようとしている』
と言ったストーリーの上欠かせない設定が加わった瞬間、魔女の攻撃の一連の動きがどれくらい迫力があるのかよりも、物語の展開的な動きの方が気になってこないだろうか。アニメーション上の緻密な動作よりも、ギャグ調を出すためにSDなキャラデザや画面効果といった要素の方が卓越してきそうなモノである。
要はその作品がどんなジャンルでどんなテーマなのか、その中でアニメーションをどう位置付けているかで、表現は千差万別の答えを持っていると考えている。立体的な動きとか力の伝わり方を見て取れるようなリアリティを重視するよりも、もっと感情移入して欲しいからキャラクタの魅力を全面に出す方針があるのであれば、背景のモブと呼ばれる方々まで生き生きと動いていればその画面の映え様に感動するけど、そこに力入れるなら止め絵でも良いからキャラ造形やカラーグラデーションに力が入ってて欲しいよねって意見も当然あると思う。
この時萌え絵かどうかはあんまり本質的な問題ではなくて、視聴者各々の共通言語とどれほどマッチしていて違和感があるかないかの話に過ぎないと考える。
これより先は趣味指向やトレンドとしか言えない領域に突入してしまう気がしてならない。そこは表現の自由が担保されている以上、善悪の判断軸が及ばない空間である。
もしそれに対して「過去多くの作品で萌え絵が使われていて、時間をかけて大衆になじんでしまったことで不当にも市民権的なモノを得てしまったからだ!」などと主張してしまっては、もはや時代(トレンド)に対する憎悪でしかなく、いつまでも見えない相手との戦いを余儀なくされることになるだろう。
ひと昔前にギャルゲーを原作としたアニメが多く生み出される時期があった。のちにラノベ原作のアニメが多く輩出される時代が訪れることになるのだが、当時としてはニコニコ動画を始めとした他メディアで取り沙汰され、言わば萌えアニメの本流とも言える地位を築いていたと思う。
ではそのどれもが、彼がいうところの『強度』なるものを有してたかというと、……なんとも言えないところはあるかも知れない。
当然のことだが何千枚という数の原画に対して、その全て原作独特の繊細な塗りを再現するのは時間的にも経済的にも叶わず、立ち絵と差分とスチルと効果のみで表現されていた絵に対して、話の展開にマッチするようにかつゼロから動きを盛り込むのはやはり至難の技のようで、結果的に作品の持つ強みを生かしきれないまま終わってしまったものが多くあった印象がある。
その原因は、アニメに萌え絵が向いていないというよりは、テキスト……特にキャラクタの心情面に比重が大きい作品は、初めからアニメーションを十二分に活かせるだけの舞台が比較的狭いように思える。キャラクタ同士のウィットに富んだ掛け合いを楽しむだけなら、それこそゲームのように会話と場面移動、要所要所で叙情性の窺える背景描写のカットの繰り返しで事足りてしまい、ともすれば動作は間を持たせるためのツールになってしまう可能性すらあるのだ。身もふたもない話だが。
つまりなんとも言えない感じになるのは萌え絵のせいではなく、作品のコンセプトにいかにアニメーションを上手絡めることができるかによるのだ。そしてそれは当然、作品のジャンルがアクション主体なのかコメディ主体なのかリアルな恋愛が主体となるのかでアニメーションの寄与度の上限が決まってくるので、表現手法の一つである「動き」単体で評価した時、ジャンルによる偏りがどうしても出てしまうモノなのだ。画面映えする動きがなくても『十二人の怒れる男』(実写映画だけど)のような名作は生まれる。
実際のギャルゲー原作の作品には、画面映えを飽きさせないようなさまざまなアイデアが盛り込まれていたけど、いよいよ話の筋から外れてしまうから割愛したい。
画面を縦横無尽に駆け巡るアニメーションは、突き詰めればただの動きであり、結局は表現手法の一つでしかなく、ストーリーとの直接的な関係がなければ、ストーリーへの直接的に干渉することはできない別レイヤーの存在にすぎないとも言える。
絵コンテ等の段階でスクリーン上の動きに込めた意図に気づける目の肥えた人にとっては、「動かし屋さん」の実力が垣間見れる瞬間であり、味の決め手のような作品の価値を決定づける重要ポイントなのかも知れない。
だがストーリーの展開に目が向いてしまう人々にとっては「面白い動きだな、他作品ではあんまり見ないカットを入れてるな」くらいに止まっていて、やっぱりキャラ同士の会話やその時に垣間見れる感情に自分がリーチできるかどうかに関心が向いてしまうものだ。
昨日NHKの某番組で紹介されていたが、殆どの人間は1秒間に4,5枚の絵しか見れないらしい。一枚絵のカットの切り替え表現の繰り返しは、程度にもよるのだろうが、予算や工程など諸々の事情を鑑みた時、大変妥当な表現だと個人的には思う。
昨今のは様々な形が出てきたとはいえ、まだまだ異世界転生モノアニメのブームが続いているように見える。
少ないリソースで最大効果を期待する戦略としては非常に合理的だと思っている。
ストーリー上の役割が小さい場面では「異世界転生モノあるある」やその根底にある「子供の頃に慣れ親しんだRPGの思い出」という共通言語を利用して絞り、作品オリジナルの強みにピボットを置き部分的に「動き」のリソースを割くことで相対的な画面と展開のギャップを生み出し、差別化と人気を獲得するにあたり大変都合が良いのかなと思っている。
この潮流について個人的にどうと言うつもりはない。むしろ当然の流れだと思う。個人的には長らく続いてきた「高校生部活青春ドラマ」がようやく落ち着いてきて、代わりに台頭してきたくらいの感覚だ。時代とともに変遷する価値観や需要を端的に示していると思ってる。
ところで『リトルウィッチアカデミア』というアニメ作品をご存知だろうか。
2017年に株式会社トリガーから出されたオリジナル作品で、ヒロインの少女アッコが憧れの魔女シャイニィシャリオにのようになろうと魔法学校に入学し、仲間達と共に成長を遂げていくというお話である。当時OP映像を見てその作り込まれた世界観引き込まれ、全話リアルタイムで追っていた。
ご存知の通りトリガーといえば他にも『キルラキル』や『SSSS.GRIDMAN』を始めとする数々の名作アニメを世に生み出した有名なアニメ製作会社だ。
社名に違わず弾丸が飛び交うような激しいアクションシーンが特徴的で、およそ10年にわたり多くのアニメファンを魅了し続けてきた。
何の因果か、つい先日株式会社トリガーが手がけるのアニメオリジナル放送前となる『リトルウィッチアカデミア』の短編映画の原画を制作する新人アニメーターたちの様子を追ったドキュメンタリー動画を、失礼ながらもしゃちく☆まっしぐらしていたリアタイ当時の自分の状況と重ねながら観ていた。
今回この拙文を書こうと思ったのも、その動画を触れたあとの余韻がそうさせたのだと思う。
端的に言うと、彼らが手がける他作品と一線を画す豪快な「動き」に込められた感動を生み出すもののの正体はアニメーターたちの寿命そのものだ。
そこまで心血注がなくたって、既に共通言語を獲得している我々にはその半分以下の動きであったとしてもおそらく『伝わっている』のである。だが彼らはそんな事眼中にはなさそうだ。彼ら自身が観たいものを描いているだけなのだろう。シャイニィシャリオがクルクルと回りながら杖を振り動物たちの花火の魔法を出すまでのたった数秒の「動き」に、何週間も終わりの見えない苦悩を重ね続けるなんて、それこそ描くこと動かすことが大大大好きでもなければやれるはずがない。私のような観ているだけの人間には理解できない世界がそこにはあった。
間違いなく時代やトレンドに関係なく後世に伝わってほしい作品の一つだし、アニメ好きの私は一つでも多くそう言った作品が世に出てくることを願ってやまないものの一人ではある。
だがそれがアニメの全てだとかあるべき姿だとかそういう指向性に囚われるような話でもないと思う。
だが、予算や制作期間と人員の消耗等のあらゆるのリスクを考えるのであれば、それらアニメーターの生命と血が滴る作品を世に出すことは、何十人何百人の人生をかけた大勝負であり、そんなものを定期的に見せておくれよなんて烏滸がましいことを言えるほど私は偉い人間ではない。
製作陣の戦いの姿の一端を見ただけで、シャリオが振う杖の軌跡一つとっても、数年に一度しか拝めない奇跡の奇蹟と言われても納得できるし、胸の内から熱く込み上げてくるものを心地よく感じることができる。
コロナの影響ですっかり荒廃しきった今の時代、人との関わりがすっかり乏しくなってしまった(俺だけかもしれないけど)独身を生きる俺に、自然と「頑張って作ってくれてありがとう」の気持ちと、明日を頑張れる活力を授けてくれた魔法だった。
もっと色々な魔法を、『傑作』を見てみたい! その想いの強さが故にアニメ業界の現状に、文句の声の一つくらい出してみたい気持ちもわかる。
けれど、
あの世界は、我々視聴者同士が視聴者層の絵の嗜好がどうとかで文句を言い合っているレベルで語れるのものではないのだと私は思う。
私が円盤や関連グッズを購入すると言った金銭的な応援以外にできることは、アニメーターの方々が1秒でも長くアニメを大大大好きでいていただきたいと願うだけである。
巷で話題の萌えアニメのオタクは害悪だと主張する記事を読んだ感想である。
私は萌えアニメからいわゆる硬派と呼ばれるアニメまで広く嗜む、アニメ視聴歴20年くらいのしがないアラサー男だ。
ジャンプやサンデーと言ったお馴染みの週刊誌で人気の原作アニメが、テレ東のゴールデンタイムで毎日のように放送されていた頃に、箸で摘んだ夕食のコロッケをテーブルの上に落としブラウン管にかじりつく少年期を過ごし、最近新刊が発売された『涼宮ハルヒの憂鬱』をきっかけにいわゆる深夜アニメの世界に足を踏み入れて、今日に至ると言った経歴(他に言葉が思いつかなかった)を持っている。
視聴作品数は、履歴書に書けば人間性を理由に採用確率が30%減になるくらいあっただろうか。と言っても熱中度でいえば大したモノではなく、どんなに気に入った作品でも円盤を買ったり、グッズ等を買う程度だった。興奮が抑えられず感想をブログに載せたり、二次創作に勤しんだりするくらいならニコニコ動画で他の作品の視聴課金をし始めるくらいには職人気質は持ち合わせておらず、人によってはカステラの茶色の表皮だけをすくって人工甘味料(無いかも)の鋭く刺すような舌触りだけで満足するような、奇怪な楽しみかたをダラダラ続けていただけに見えるかもしれない。
簡潔に何が言いたいのか知りたい方は、途中全く大したこと書いてないので、最後だけを読んでほしい。
以降は今の俺以上に暇だと宣言できる、大変人間強度に優れた人だけが読み進めて欲しい。
主に作品ごとのアニメーションが持つ性質、役割の違いについて横道に外れながら綴っていきたいと思う。
過去に色々な作品を目にしてきている者ならばご理解いただけると思うが、「好きなアニメは? どういうところが好きなの?」と質問を受けたとき、瞬時に心動かされた場面(シーン)が頭の中を駆け巡り、「さてどれから話せばよいものか……」と、全身が幾分高揚している自分がいることに気づくだろう。
それらはキャラクタたちと共にストーリーを辿ることで得られた感覚につけられた名前のようなものだと私は考える。そしてそれらは言葉では表せないが、私たちに中で一種の『共通言語』的な役割を担い、機能しているのだ。
アニメーション、画面上の動きの一つに、こうした共通言語や構図の時間的変化から読み取れる言語で感じて欲しい叙情性に補完を入れたいのか。
例えば以下のシーンを目を瞑って思い浮かべてもらいたい。
『氷属性をもつ冷徹残忍な魔女が、手に持った杖を振るった。その瞬間空間の四方から無数の鋭利な菱形をした氷の刃が出現し、彼女の透明感のある艶やかな唇で結ばれる「さようなら」の言葉を合図に一斉に襲いかかってきた』
数々の映像作品を見たことがある人なら、無の空間からパキパキと音を立てながら蒼白い形作られ、魔女の妖艶な笑顔が映った次の瞬間に鋭い氷の塊が視界の中心に集まってくる2、3カットくらいの映像が容易に頭の中に流れたことだろう。
これは性格によるのかもしれないが、私は基本的には物語の進行上は「それ」でOKと考えるのだ。
「それ」とは、視聴者の頭の中で出来上がった薄ぼんやりとした2、3カットのことであり、重要なのは「それ」を我々視聴者に想起させ、作品を補完させることだと考えている。
例えば先のシーンで「魔女がどんな容姿でどんな服装服をまとい、どんな体勢なのか」とか、「魔女と言うくらいなら箒に乗っているのか」とか、「どんな服を身に纏っていたのか」とか、「どれくらい勢いで杖を振ったのか、杖の先はどこを向いているのか」とか、「氷の軌道は直線的なのか最初に外側に弧を描くなどトリッキーな動きをしているのか、時間差のある多段階攻撃なのか」などの質問されたら、スラスラと答えられるだろうか。(……私だけができないのなら怖い。ショックのあまり寝込む)
おそらくだが「いやそんな細かいところまでは……」のレベルの話だと思っている。多分これができる人はきっと絵が上手いはずだ。私は私を含め絵がど下手くその人がこの世にいることを知っている。
ぶちゃけた話、そこの解像度が高くなくても我々には多分『伝わってる』のである。
むしろ、それでどれくらい負傷するのかとか、実力差はどれくらいなのか、どうやって勝つのか負けるのかなどの次の展開に興味が移っていないだろうか。さらに言えば、この魔女の性格はどんな感じなのか? 冷徹なのだから口調は厳しいのかとか、魔女は主人公のこと気に入ったりするのか、追々仲間になる展開なのか、と言った、キャラクタの心情の移り変わる様子すら、この段階で期待してそれを軸に妄想を膨らませる人もいるだろう。
さらにここに、
『氷の魔女と呼ばれる彼女は、実は地球に住む人間の種を手に入れようと狙ってやってきた宇宙人であった。侵略活動しやすいよう周りの空気を自分たちの住む星の大気温度まで下げるため、彼女が腰掛けているステンレス製の巨大三角柱からは温度を奪う冷気的な何かを放出していて、空気中の水蒸気が氷結してできた塊を利用し相手を冷凍保存しようとしている』
と言ったストーリーの上欠かせない設定が加わった瞬間、魔女の攻撃の一連の動きがどれくらい迫力があるのかよりも、物語の展開的な動きの方が気になってこないだろうか。アニメーション上の緻密な動作よりも、ギャグ調を出すためにSDなキャラデザや画面効果といった要素の方が卓越してきそうなモノである。
要はその作品がどんなジャンルでどんなテーマなのか、その中でアニメーションをどう位置付けているかで、表現は千差万別の答えを持っていると考えている。立体的な動きとか力の伝わり方を見て取れるようなリアリティを重視するよりも、もっと感情移入して欲しいからキャラクタの魅力を全面に出す方針があるのであれば、背景のモブと呼ばれる方々まで生き生きと動いていればその画面の映え様に感動するけど、そこに力入れるなら止め絵でも良いからキャラ造形やカラーグラデーションに力が入ってて欲しいよねって意見も当然あると思う。
この時萌え絵かどうかはあんまり本質的な問題ではなくて、視聴者各々の共通言語とどれほどマッチしていて違和感があるかないかの話に過ぎないと考える。
これより先は趣味指向やトレンドとしか言えない領域に突入してしまう気がしてならない。そこは表現の自由が担保されている以上、善悪の判断軸が及ばない空間である。
もしそれに対して「過去多くの作品で萌え絵が使われていて、時間をかけて大衆になじんでしまったことで不当にも市民権的なモノを得てしまったからだ!」などと主張してしまっては、もはや時代(トレンド)に対する憎悪でしかなく、いつまでも見えない相手との戦いを余儀なくされることになるだろう。
ひと昔前にギャルゲーを原作としたアニメが多く生み出される時期があった。のちにラノベ原作のアニメが多く輩出される時代が訪れることになるのだが、当時としてはニコニコ動画を始めとした他メディアで取り沙汰され、言わば萌えアニメの本流とも言える地位を築いていたと思う。
ではそのどれもが、彼がいうところの『強度』なるものを有してたかというと、……なんとも言えないところはあるかも知れない。
当然のことだが何千枚という数の原画に対して、その全て原作独特の繊細な塗りを再現するのは時間的にも経済的にも叶わず、立ち絵と差分とスチルと効果のみで表現されていた絵に対して、話の展開にマッチするようにかつゼロから動きを盛り込むのはやはり至難の技のようで、結果的に作品の持つ強みを生かしきれないまま終わってしまったものが多くあった印象がある。
その原因は、アニメに萌え絵が向いていないというよりは、テキスト……特にキャラクタの心情面に比重が大きい作品は、初めからアニメーションを十二分に活かせるだけの舞台が比較的狭いように思える。キャラクタ同士のウィットに富んだ掛け合いを楽しむだけなら、それこそゲームのように会話と場面移動、要所要所で叙情性の窺える背景描写のカットの繰り返しで事足りてしまい、ともすれば動作は間を持たせるためのツールになってしまう可能性すらあるのだ。身もふたもない話だが。
つまりなんとも言えない感じになるのは萌え絵のせいではなく、作品のコンセプトにいかにアニメーションを上手絡めることができるかによるのだ。そしてそれは当然、作品のジャンルがアクション主体なのかコメディ主体なのかリアルな恋愛が主体となるのかでアニメーションの寄与度の上限が決まってくるので、表現手法の一つである「動き」単体で評価した時、ジャンルによる偏りがどうしても出てしまうモノなのだ。画面映えする動きがなくても『十二人の怒れる男』(実写映画だけど)のような名作は生まれる。
実際のギャルゲー原作の作品には、画面映えを飽きさせないようなさまざまなアイデアが盛り込まれていたけど、いよいよ話の筋から外れてしまうから割愛したい。
画面を縦横無尽に駆け巡るアニメーションは、突き詰めればただの動きであり、結局は表現手法の一つでしかなく、ストーリーとの直接的な関係がなければ、ストーリーへの直接的に干渉することはできない別レイヤーの存在にすぎないとも言える。
絵コンテ等の段階でスクリーン上の動きに込めた意図に気づける目の肥えた人にとっては、「動かし屋さん」の実力が垣間見れる瞬間であり、味の決め手のような作品の価値を決定づける重要ポイントなのかも知れない。
だがストーリーの展開に目が向いてしまう人々にとっては「面白い動きだな、他作品ではあんまり見ないカットを入れてるな」くらいに止まっていて、やっぱりキャラ同士の会話やその時に垣間見れる感情に自分がリーチできるかどうかに関心が向いてしまうものだ。
昨日NHKの某番組で紹介されていたが、殆どの人間は1秒間に4,5枚の絵しか見れないらしい。一枚絵のカットの切り替え表現の繰り返しは、程度にもよるのだろうが、予算や工程など諸々の事情を鑑みた時、大変妥当な表現だと個人的には思う。
昨今のは様々な形が出てきたとはいえ、まだまだ異世界転生モノアニメのブームが続いているように見える。
少ないリソースで最大効果を期待する戦略としては非常に合理的だと思っている。
ストーリー上の役割が小さい場面では「異世界転生モノあるある」やその根底にある「子供の頃に慣れ親しんだRPGの思い出」という共通言語を利用して絞り、作品オリジナルの強みにピボットを置き部分的に「動き」のリソースを割くことで相対的な画面と展開のギャップを生み出し、差別化と人気を獲得するにあたり大変都合が良いのかなと思っている。
この潮流について個人的にどうと言うつもりはない。むしろ当然の流れだと思う。個人的には長らく続いてきた「高校生部活青春ドラマ」がようやく落ち着いてきて、代わりに台頭してきたくらいの感覚だ。時代とともに変遷する価値観や需要を端的に示していると思ってる。
ところで『リトルウィッチアカデミア』というアニメ作品をご存知だろうか。
2017年に株式会社トリガーから出されたオリジナル作品で、ヒロインの少女アッコが憧れの魔女シャイニィシャリオにのようになろうと魔法学校に入学し、仲間達と共に成長を遂げていくというお話である。当時OP映像を見てその作り込まれた世界観引き込まれ、全話リアルタイムで追っていた。
ご存知の通りトリガーといえば他にも『キルラキル』や『SSSS.GRIDMAN』を始めとする数々の名作アニメを世に生み出した有名なアニメ製作会社だ。
社名に違わず弾丸が飛び交うような激しいアクションシーンが特徴的で、およそ10年にわたり多くのアニメファンを魅了し続けてきた。
何の因果か、つい先日株式会社トリガーが手がけるのアニメオリジナル放送前となる『リトルウィッチアカデミア』の短編映画の原画を制作する新人アニメーターたちの様子を追ったドキュメンタリー動画を、失礼ながらもしゃちく☆まっしぐらしていたリアタイ当時の自分の状況と重ねながら観ていた。
今回この拙文を書こうと思ったのも、その動画を触れたあとの余韻がそうさせたのだと思う。
端的に言うと、彼らが手がける他作品と一線を画す豪快な「動き」に込められた感動を生み出すもののの正体はアニメーターたちの寿命そのものだ。
そこまで心血注がなくたって、既に共通言語を獲得している我々にはその半分以下の動きであったとしてもおそらく『伝わっている』のである。だが彼らはそんな事眼中にはなさそうだ。彼ら自身が観たいものを描いているだけなのだろう。シャイニィシャリオがクルクルと回りながら杖を振り動物たちの花火の魔法を出すまでのたった数秒の「動き」に、何週間も終わりの見えない苦悩を重ね続けるなんて、それこそ描くこと動かすことが大大大好きでもなければやれるはずがない。私のような観ているだけの人間には理解できない世界がそこにはあった。
間違いなく時代やトレンドに関係なく後世に伝わってほしい作品の一つだし、アニメ好きの私は一つでも多くそう言った作品が世に出てくることを願ってやまないものの一人ではある。
だがそれがアニメの全てだとかあるべき姿だとかそういう指向性に囚われるような話でもないと思う。
だが、予算や制作期間と人員の消耗等のあらゆるのリスクを考えるのであれば、それらアニメーターの生命と血が滴る作品を世に出すことは、何十人何百人の人生をかけた大勝負であり、そんなものを定期的に見せておくれよなんて烏滸がましいことを言えるほど私は偉い人間ではない。
製作陣の戦いの姿の一端を見ただけで、シャリオが振う杖の軌跡一つとっても、数年に一度しか拝めない奇跡の奇蹟と言われても納得できるし、胸の内から熱く込み上げてくるものを心地よく感じることができる。
コロナの影響ですっかり荒廃しきった今の時代、人との関わりがすっかり乏しくなってしまった(俺だけかもしれないけど)独身を生きる俺に、自然と「頑張って作ってくれてありがとう」の気持ちと、明日を頑張れる活力を授けてくれた魔法だった。
もっと色々な魔法を、『傑作』を見てみたい! その想いの強さが故にアニメ業界の現状に、文句の声の一つくらい出してみたい気持ちもわかる。
けれど、
あの世界は、我々視聴者同士が視聴者層の絵の嗜好がどうとかで文句を言い合っているレベルで語れるのものではないのだと私は思う。
私が円盤や関連グッズを購入すると言った金銭的な応援以外にできることは、アニメーターの方々が1秒でも長くアニメを大大大好きでいていただきたいと願うだけである。
夏は南っぽいし、冬は北っぽい、日が昇る東は春で、沈む西は秋
私はどちらかというと痩せていたほうだが、
成長期が完全に終わりシワができるようになって後悔している。
何故かというと
「「「「「成長期に痩せていた人は胸が小さい」」」」」
これに気づいてしまった。
そりゃ当然だよね、胸って脂肪だし。
今はどうだろう。みんな巨乳。
外見磨いて恋愛したほうがいいさ。
男の人って女に柔らかさを求めてること多いから
多少肉がついててもいいのよ。
むしろご馳走。
それでも周りの目が気になるなら、
性的魅力(胸の大きさ)を気にする頃にはほぼ手遅れです。
豆乳も効かなかったよ。
育乳グッズ、高いよ。効果でないし。
太ってて諦める服もあれば、
胸が小さいせいで諦めなきゃいけない服もあるよ。