はてなキーワード: 芋ジャーとは
私は貴方と一緒。
できるだけ娘には「女の生きづらさ」をインストールしたくないんですよ…………。
娘の受験の日に、受験の電車は痴漢が狙ってくるから気をつけた方がいい、とアドバイスした。
受験は問題なく上手くいったからいいものの、車内では終始ビクビクしていたらしい。
この国では、まだまだ女性は生きづらい。
甘やかされる一方で、女たちがツケを負う。
元のツリーの方が言及されてる通り、多くのまともな男性は、性加害なんて犯さない。
……だったら避けるしかないじゃんね。
先週はブルマーの紺色の起源について調べた。ブルマーはアメリカでも紺系統の色だったが、現在の色になる過程で日本の伝統色の影響を受けた可能性について検討した。本記事では、臙脂色・小豆色・赤色のブルマーがいつごろから存在しているかについて調査する。また、他の色のブルマーについての情報があった場合はそこにも触れる。
主として https://www.buruma-joho.com/という個人サイトに掲載された、映画やドラマに出てくるブルマーの色について調査し、おおよそ何年までさかのぼれるかを検証する。ただし、あまりにも近い年代のものは省いた。すべてを引用しても年代の特定の役には立たないし、2000年以降のブルマーはほぼファンタジーに属するからだ。ブルマーにまつわる映画作品を網羅したい方は、ぜひ上記サイトをと参照していただきたい。どうして個人の記録ではなく映像作品で確認するのかといえば、ブルマーが日常的に存在していた当時の映像作品には、コスプレ的で奇抜なブルマーは出てこないと考えられるからである。また、個人のサイトやツイートは消える可能性があり、文字による証言だけだと正確さが担保できないためである。また、盗撮画像を使うわけにはいかないのはもちろんだ。
なお、バレー部のブルマーとそのほかの学生のブルマーについては、分けて考えたい。
加えて、プロのバレー選手の映像は多くなるので、赤ブルマーについては泣く泣く割愛した。
「オシャレ泥棒」1989年 https://www.youtube.com/watch?v=COpUgdGuoLE
「としごろ」1973年 https://www.youtube.com/watch?v=zRDoJFgS_wA
「青春の構図」1976年(女子大生。乳房の露出があるので直リンはしていない。各自で探してください)
「燃えろアタック」1979年 https://www.youtube.com/watch?v=qHFnZx0LT6Q
「転校少女Y」1984年 https://www.youtube.com/watch?v=li46Tlzuz_w&list=PLVxbaLcthhB1CAwMgrZhIykFQHl4rya9-&index=37
「挑戦」1963年 https://www.youtube.com/watch?v=krbJ1MBYXTo&list=PLVxbaLcthhB1CAwMgrZhIykFQHl4rya9-&index=5赤、青、緑三色のブルマー。
「典子は今」1981年 https://www.youtube.com/watch?v=Eh-8MVOJ6Ig濃緑で、芋ジャージの緑とは違う。障害者の社会参加を訴えたドキュメンタリー。
「蘇れ魔女」1980年(バレー選手)。Youtubeに動画はあるが緑ブルマーは確認できず。
「時をかける少女」1983年 ttp://wainn.jugem.jp/?eid=1364
ところで、先ほど両腕のない女性の映画を紹介したので、せっかくだから話そうと思う。以前NHKで「アニ×パラ」と称して https://sports.nhk.or.jp/paralympic/video/81d717ec76b544d8922c17f10889dee6/ 車いすの少女が陸上選手になるショートムービーを放映していた。また、警視庁か何かのポスターでも、ブルマー姿の義足の選手が被写体として用いられていた。義足の陸上選手を扱ったポスターはイラストも実写も検索すればいっぱいあるし、中西麻耶選手はセミヌードも披露している。
僕は素直に美しいと思ったし、義足の機能美にも魅力を感じた。義足は隠すべきもの、障害は隠蔽すべきもの、そうした空気がなくなっていくのを感じるのは、僕としても嬉しい。しかし、そこに難しさがないわけではない。美しいと思うこと、セクシーだと思うこと、障害者に対する態度、こうした扱いの難しい問題がぎゅっと凝縮されているからだ。障害のある選手が自分の身体や努力を誇りに思う気持ちと、そうした選手に憧れ、称賛すると同時にどうしてもブルマー姿に萌えてしまう自分の率直な気持ちとの間に、どのように折り合いをつけていくか。あるいは、特にアスリートではない障害者に対してどうふるまっていくか。特段「美しい」わけではない多くの障害者にどんな態度を取るか。様々な障害を抱えた人々と関わりながら生きていくうえで、考え続けばければならない問題だ。麻痺した身体を公共の場で堂々と見せた、とある活動家のことを思い出す。特段「美しい」わけでなく、それどころか「痛ましい」という印象すら与えてしまう身体。痛ましいと思うのはこちらの上から目線だが、スポーツで称揚される「美しい」身体とは別の身体が、隠蔽されてはいないだろうか。
今の職場は身体障害や聴覚障害のある人、あるいは精神障害のある人と働く機会があり、毎日が学ぶことの連続である。意外と「普通」だなと思ったり、逆に思いがけないところにつまずきポイントがあったりで、どうやったら一緒に働けるかは調整の連続だ。でも、いろんな人と働ける機会があると、気づかなかった偏見から自由になれる機会も多く、ダイバーシティってそのためのものなんじゃないかって思う。みんな仲良く、というきれいごとよりも、もめたり話し合ったりして、どうやったら一緒にやっていけるかを考えるのがきっと大事だ。そうしたら、道ですれ違った障害のある人により上手に配慮できるんじゃなかろうか。
本当のバリアフリーとは、障害があっても普通に隣で働くことだけでなく、ブルマーと義足の組み合わせに何の屈託もなく素直に萌えることなのか。茶化したような問いだが、パラリンピックにおける障害のある身体の宣伝的な側面も含め、真剣に考えたい。パラリンピックに出ることのない、大多数の障害者はパラリンピックをどう感じているのだろう?
前回の記事では、スク水がハイレグ化した90年代(ttps://www.footmark.co.jp/about/id001575.html)に臙脂ブルマーが生まれたのではないかと推測していた。だが、実際にはそれ以前に臙脂ブルマーは存在していたことが確認できた。その後、バレーボール選手のブルマーが学生のブルマーに影響を与えたのか、さらにブルマーの色が自由になる雰囲気があり、それが同時にスク水のハイレグ化を生んだのか。おそらく前者は正しいと推測されるが、後者の確証はない。そして、ファンタジーだと思っていた白ブルマーの存在も確認した。
今後は、同じ赤色でもどのような幅があったかについて調べたい。臙脂、赤、小豆色は少しずつ色が違う。現に、個人がアップロードした写真には、蛍光色に近い青・赤・緑のブルマーが確認できるものがあり、上記映像作品には登場しない色のブルマーが一定の範囲で分布していた可能性が検討できる。また、企業の公式情報や新聞紙などの証言から上記内容を補足し、フィクションからのデータだけに頼らない、実際の臙脂ブルマーが誕生した年代についても調べたい。新聞は白黒が多く、苦労しそうではあるが。
さらに、イギリスなど諸外国には赤ブルマーがなかったかも調査せねばなるまい。
加えて、身体障害が憐れみの対象やスティグマではなくなっていく過程についても気にかかるところである。美しかろうがそうでなかろうが、「健康」であろうがそうでなかろうが、そして「猥褻」であるかどうかにもかかわらず、自分の身体を見せる権利を改めて問い直したい。
女の敵は女とか馬鹿にされるとかキチガイって言われるとかは、それを言った奴が悪いのであってそのことを責めるべきではないと考えます。
芋ジャージを着て電車に乗って痴漢されたら、そんな格好してるから痴漢にあうんだ、って言いますか?
痴漢もアンチフェミも人間なんだからそれぞれに責任能力をもった意識主体です。
彼らを尊重する意味でも、責任を奪ったりはしないであげてください。
言及した二件については俺も追ってたんですけど、足引っ張りフェミ含めて全体のリテラシーは期待してるほど高くないな、と感じました。最新の上司に迫られるフィクションの矛盾~の話でも、何が矛盾なのか全く読めていない人が多かった。
読解能力や思考を整理する能力は所詮スキルにすぎなくて、逆上がりができるとかバタフライができるとかそういうものと同じだと思います。それでも市民フェミニストには個々に得意な分野があって時々活躍して、それが全体を前に進めるエネルギーになっている。多様なフェミニストを包摂していくべきだ。と個人的に思います。
思ったんですけど、いささかマッチョイズム的で申し訳ないんですが、元増田が積極的に旗を振るってのはいかがでしょう。
お書きになったクレームには問題を切り分ける鋭さとハッキリした方向性を感じました。主張の芯とはどういうものか、まともなフェミニストとはどういうものか、それを行動で示すのです。
そもそも女性が生きやすい世界というのは「胸は出しても出さなくても別に誰もそんなに気にしないよ〜」という、胸に対して無関心な社会である。
胸が性的アイコンとして特別さを増せば増すほど、男性は女性の胸に注目する。そうなると女性は男性の目線から胸を隠さなくてはならなくなる。
ブルカなんかはその極端な例で、「女体のほぼ全てが性的」と社会に認識されてしまったからほぼ全てを隠さなくてはならなくなった例。
だから「巨乳絵を抑圧するといずれブルカになるぞ」というのは実際は全く逆の現象。言ってる意味わかる?
男による女体のエロ消費が常態化しすぎたせいで、女性保護をせざるを得なくなった状況。だからそうなる前に「女は消費物ではなく、感情を持った人間である」ということを繰り返し訴えていく必要があるわけ。
実際ジェンダー論が進んでいる北米の女は、胸の谷間出して平然と歩いてるだろ。
女性には好きな服を着る権利があるし、ボディラインを綺麗に見せたいときはそう見える服を着る自由がある。理想的には。
ただし、それが日本で実現されない大きな理由を作っているのは、蔓延する「おっぱい イコール エロいもの」という刷り込み、およびおっぱいへの過剰な執着、注目。
「二次元の巨乳を否定することは現実の巨乳の人を傷つけてる!!!」って主張する人達が一部にいるけど、別に巨乳自体を否定してるのではなく、それを「性的なもの」としてえがくイコール性的なものであるというメッセージを何度も何度も繰り返し見せつけることで、胸とエロが過剰に結びついてしまうことが良くないことなんだよ。
想像してみるといいけど、町ですれ違う知らねー奴らから「おっ、巨乳エロい」って思われない世の中の方が、現実の巨乳の人にとっては遥かに息がしやすい世の中だと思わん?
周囲が無関心になればなるほど、女は本当に自分の好きなずっと服が着られる訳で、ボディラインを出してもいいし、すっぴん芋ジャーで闊歩してもいい。
「今でもすればいいじゃん」と思う人はいるだろうが、電車に乗れば谷間をジロジロ見られたり、飲みに行けば初対面の他人から胸がどうこう言われたり、性犯罪に逢えば「そんな服着てるから誘ってると思った」「服で自衛してないから自己責任」などと言われる世の中では難しいってことがわかると思う。つまり自衛なんだ。自衛のために女は好きな服が着られていないわけ。ブコメによく現れる「女ももっと奔放になっていいんだよ〜性欲を否定するなおじさん」はこの根本の部分を勘違いしている。おじさんの求めているのはただのエロエロな世界であって、その世界は女が命の危険を感じずに暮らせる社会ではない。
男からすると「胸は性的なものではない」とか言われても、性的に見ちゃうし、困るという気持ちもわかるんだが、せめてなんでもネタにしてしまう小学生の目に触れる公の場所に置いたり、ネットで息を吸うように他人の胸のサイズを揶揄るのはやめないかって話。
下着の広告はいいのか!ブーブー!という話に関して、本当に無自覚だったら怖いと思うんだけど、当然イラストは「過剰に巨乳にすることが可能」な媒体なわけじゃん?そういった描き手の意思ってのは見る側も当然感じ取るし、仮にあれが実写であっても、公の場に貼る下着メーカーのポスターに、Pカップのモデルは使わないと思うんだよな。
閉じられた場所でやる分には好きにすれば(それが「表現の自由」の範囲)って感じだけど、