「スクールウォーズ」を含む日記 RSS

はてなキーワード: スクールウォーズとは

2022-08-03

anond:20220803172140

この条件でその言葉を使うのは「教員をやるなら金八先生スクールウォーズは見てないと駄目でしょ」と言ってるも同然だが、自覚はあるか?

2021-10-04

anond:20211004005624

だいじょぶだいじょぶ

一生懸命なところは伝わってるよ

自分子供を信じるんだ

もしも不良になったら家庭内スクールウォーズしよう

2021-01-23

anond:20210122182719

「不良少女」とか「スクールウォーズ」とか「ビーバップ」とか、そんなので埋めつくされてたあの頃の中高生を取り巻く雰囲気偏見が凄く息苦しくて馴染めなくて、ヤツの歌も理解できず共感してこなかった。

・・・死去の直前の90年代には、新曲を出しても過去からファンからは今でいう『ちょっとスベってね?』て見方をされてて、それが突然の死報道から、主にその時の若いミュージシャン連中から、とてもピュアナイーヴな心境を紡いでた作者、て支持が続々と表明され出してたなぁ。

2020-12-21

ブルマー起源障害者スポーツブルマー

ブルマーは紺色とは限らない!

先週はブルマーの紺色の起源について調べた。ブルマーアメリカでも紺系統の色だったが、現在の色になる過程日本の伝統色の影響を受けた可能性について検討した。本記事では、臙脂色小豆色・赤色ブルマーがいつごろから存在しているかについて調査する。また、他の色のブルマーについての情報があった場合はそこにも触れる。

調査方法

主として https://www.buruma-joho.com/という個人サイト掲載された、映画ドラマに出てくるブルマーの色について調査し、おおよそ何年までさかのぼれるかを検証する。ただし、あまりにも近い年代のものは省いた。すべてを引用しても年代特定の役には立たないし、2000年以降のブルマーはほぼファンタジーに属するからだ。ブルマーにまつわる映画作品を網羅したい方は、ぜひ上記サイトをと参照していただきたい。どうして個人の記録ではなく映像作品確認するのかといえば、ブルマー日常的に存在していた当時の映像作品には、コスプレ的で奇抜なブルマーは出てこないと考えられるからである。また、個人サイトツイートは消える可能性があり、文字による証言だけだと正確さが担保できないためである。また、盗撮画像を使うわけにはいかないのはもちろんだ。

なお、バレー部ブルマーとそのほかの学生ブルマーについては、分けて考えたい。

加えて、プロバレー選手映像は多くなるので、赤ブルマーについては泣く泣く割愛した。

ブルマー情報

「美しきチャレンジャー1971年

ビートたけし学問ノススメ」1984年

台風クラブ1985年

スケバン刑事1985年

「もしも、学校・・・!?」1985年

「オシャレ泥棒1989年 https://www.youtube.com/watch?v=COpUgdGuoLE

ブルマー情報部活編)

「としごろ」1973年 https://www.youtube.com/watch?v=zRDoJFgS_wA

青春の構図1976年女子大生乳房露出があるので直リンはしていない。各自で探してください)

燃えろアタック1979年 https://www.youtube.com/watch?v=qHFnZx0LT6Q

時をかける少女1983年

スクールウォーズ1984年

「転校少女Y」1984年 https://www.youtube.com/watch?v=li46Tlzuz_w&list=PLVxbaLcthhB1CAwMgrZhIykFQHl4rya9-&index=37

赤い衝撃1976年陸上選手という設定)

和っこの金メダル1989年

そのほかの色

「挑戦」1963年 https://www.youtube.com/watch?v=krbJ1MBYXTo&list=PLVxbaLcthhB1CAwMgrZhIykFQHl4rya9-&index=5赤、青、緑三色ブルマー

「典子は今」1981年 https://www.youtube.com/watch?v=Eh-8MVOJ6Ig濃緑で、芋ジャージの緑とは違う。障害者社会参加を訴えたドキュメンタリー

「蘇れ魔女1980年バレー選手)。Youtube動画はあるが緑ブルマー確認できず。

オレンジ

「われら青春!」1974年バレー部

あさひが丘大統領1979年

生徒諸君!1980年バレー部

ビートたけし学問ノススメ」1984年バレー部

白(!)

時をかける少女1983年 ttp://wainn.jugem.jp/?eid=1364

まとめると

ブルマーは、90年代よりもずっと前から存在している。

障害者スポーツブルマー

ところで、先ほど両腕のない女性映画を紹介したので、せっかくだから話そうと思う。以前NHKで「アニ×パラ」と称して https://sports.nhk.or.jp/paralympic/video/81d717ec76b544d8922c17f10889dee6/ 車いす少女陸上選手になるショートムービーを放映していた。また、警視庁か何かのポスターでも、ブルマー姿の義足選手被写体として用いられていた。義足陸上選手を扱ったポスターイラストも実写も検索すればいっぱいあるし、中西麻耶選手セミヌード披露している。

僕は素直に美しいと思ったし、義足機能美にも魅力を感じた。義足は隠すべきもの障害隠蔽すべきもの、そうした空気がなくなっていくのを感じるのは、僕としても嬉しい。しかし、そこに難しさがないわけではない。美しいと思うこと、セクシーだと思うこと、障害者に対する態度、こうした扱いの難しい問題がぎゅっと凝縮されているからだ。障害のある選手自分身体努力を誇りに思う気持ちと、そうした選手に憧れ、称賛すると同時にどうしてもブルマー姿に萌えしま自分の率直な気持ちとの間に、どのように折り合いをつけていくか。あるいは、特にアスリートではない障害者に対してどうふるまっていくか。特段「美しい」わけではない多くの障害者にどんな態度を取るか。様々な障害を抱えた人々と関わりながら生きていくうえで、考え続けばければならない問題だ。麻痺した身体公共の場で堂々と見せた、とある活動家のことを思い出す。特段「美しい」わけでなく、それどころか「痛ましい」という印象すら与えてしま身体。痛ましいと思うのはこちらの上から目線だが、スポーツ称揚される「美しい」身体とは別の身体が、隠蔽されてはいないだろうか。

今の職場身体障害聴覚障害のある人、あるいは精神障害のある人と働く機会があり、毎日が学ぶことの連続である。意外と「普通」だなと思ったり、逆に思いがけないところにつまずきポイントがあったりで、どうやったら一緒に働けるかは調整の連続だ。でも、いろんな人と働ける機会があると、気づかなかった偏見から自由になれる機会も多く、ダイバーシティってそのためのものなんじゃないかって思う。みんな仲良く、というきれいごとよりも、もめたり話し合ったりして、どうやったら一緒にやっていけるかを考えるのがきっと大事だ。そうしたら、道ですれ違った障害のある人により上手に配慮できるんじゃなかろうか。

本当のバリアフリーとは、障害があっても普通に隣で働くことだけでなく、ブルマー義足の組み合わせに何の屈託もなく素直に萌えことなのか。茶化したような問いだが、パラリンピックにおける障害のある身体宣伝的な側面も含め、真剣に考えたい。パラリンピックに出ることのない、大多数の障害者パラリンピックをどう感じているのだろう?

結論、今後の発展

前回の記事では、スク水ハイレグ化した90年代(ttps://www.footmark.co.jp/about/id001575.html)に臙脂ブルマーが生まれたのではないかと推測していた。だが、実際にはそれ以前に臙脂ブルマー存在していたことが確認できた。その後、バレーボール選手ブルマー学生ブルマーに影響を与えたのか、さらブルマーの色が自由になる雰囲気があり、それが同時にスク水ハイレグ化を生んだのか。おそらく前者は正しいと推測されるが、後者確証はない。そして、ファンタジーだと思っていた白ブルマー存在確認した。

今後は、同じ赤色でもどのような幅があったかについて調べたい。臙脂、赤、小豆色は少しずつ色が違う。現に、個人アップロードした写真には、蛍光色に近い青・赤・緑のブルマー確認できるものがあり、上記映像作品には登場しない色のブルマー一定範囲分布していた可能性が検討できる。また、企業公式情報新聞紙などの証言から上記内容を補足し、フィクションからデータだけに頼らない、実際の臙脂ブルマー誕生した年代についても調べたい。新聞は白黒が多く、苦労しそうではあるが。

さらに、イギリスなど諸外国には赤ブルマーがなかったか調査せねばなるまい。

加えて、身体障害憐れみ対象スティグマではなくなっていく過程についても気にかかるところである。美しかろうがそうでなかろうが、「健康」であろうがそうでなかろうが、そして「猥褻であるかどうかにもかかわらず、自分身体を見せる権利を改めて問い直したい。

また、上記サイト管理人及び編集者各位に感謝を。

メリークリスマス

2019-08-12

現代スクールウォーズ

熱血教師「今から俺はお前たちを殴る!」

ピンポーン

警察暴行現行犯逮捕します」

2018-05-24

理不尽

不惑間近のおっさんなんだけどね、中学生の時に美術教師に平手打ちされたことを思い出して増田意見を聞きたいなと思って書いてみる。

美術の授業で詳細は忘れたが何か古くなったタオルとか、何かボロ布を用意してきてくれってのがあったんだよ。

で、俺は二枚持って行ったんだよね。で、友人は忘れた。

から「あげるよ」って言ったんだけど、友人は「タダで貰うのは悪いから」って言って¥100くれたんだよ。

当時は中学生だけどさ、小学生ではないから、何かのお礼とかにジュース1 本奢ってもらったり逆にあげたりとかは普通にあったんで、その延長で普通に貰った。

そしたら、誰がチクったのかは知らんけど、そのことが職員会議の議題になったりしたそうだ。

それで、俺と友人は美術教師に呼び出されて二人とも平手打ちをくらった。

別に怪我をする程のではないんだけど、その美術教師は泣きながら情けないだとかなんだとかそんなことを言っていた気がする。

上記に述べたようなことは説明したし、俺と友人はいじめたりいじめられたりの仲ではなかった、というが二人ともどちらかというとスクールカースト底辺だった。そんなことは教師もわかっていたんじゃないかと思うし、わかっていなかったならそれもまた問題だし…

当時、両親にこのことの何が問題なのか聞いたけれども、明確な答えは得られなかったし、お前は別に悪くないけど世の中は理不尽なもんだ的なことを言われたように思う。

ただ、今になって思うのは、その美術教師一人の暴走ならわからんでもないんだけど、職員会議大人が多数で議論して俺たちは悪いってことになったってことなんだよな?と思うと疑問が大きい。

僕らの人間関係は全く把握できてなくて、カツアゲ的な方向で問題になったんかな?

でもさ、カツアゲするような関係なら布を¥100の対価として渡すか?普通に考えておかしいだろ?

この件をいまだに忘れられないのは、自分が全くの善意で行ったことに対して、圧倒的な権力を持つ立場教師自分にとっては意味不明感情を高ぶらせて暴力をふるってきて、彼女の中での正義が全く理解できないからなんだと思う。

スクールウォーズ鉄拳制裁は、問題意識の共有があってこそのもんだと思うのよね。まぁそもそも体罰ダメだっていう意見もあるだろうけどさ。

まぁ、だからさ、俺は子供たちを叱るときは、彼らと問題意識を共有できているか気をつけていきたいなと思うよね。

教師とか管理職の人はさ、そういうところって大事なんだぜっていうのを理解してほしいよね。

ちなみに、俺は仕事上で部下に反省を求めたことは一度もない。ただ、同じ失敗を繰り返さないための具体的な対策を出させるだけ。

反省なんて非生産的意味いからな。

2016-02-22

時代

団塊の世代は言う

俺らの若いころはいっぱしだった。

団塊ジュニアは思う

時代が違うよ

バブル世代は言う

それより俺ら年金もらえるかな

ゆとり世代は思う

そもそも俺ら貰えないし。

戦時中まれは言う

そもそも気合いだ

ビーバップ世代は思う

そもそも俺ら家では戦時中まれの親たちに殴る蹴るされ育てられて

校内暴力反対とか金八スクールウォーズドラマ漫画のせいで学校では先生に当たり前のように殴られてたし全く持って軍隊形式学校教育だったわけだが

そのうえ社会に出ればバブルははじけていて上司である団塊の世代に騙されてお前らも俺らぐらいになれば給料があがるとかおだてられて残業当たり前で

先輩たちにパワハラ当たり前どこの会社も今でいうブラック企業体質だったわけで

下の世代団塊の世代に育てられた甘ちゃんばかりで使えずゆとりを庇ってやっても感謝もされず

男女雇用機会均等法の影響もありお給料が上がらず

家に帰れば嫁に罵られ家族に疎まれ

それでも頑張って働けど働けどの石川啄木状態

年金だってそもそもたくさん払っきたのにもらえそうな時期まで長生きできるかより

糖尿病自殺とかで社会日本全体に殺されそうな勢いなんだが

俺なに世代だと思う?

2014-07-03

http://anond.hatelabo.jp/20140702235452

スクールウォーズ滝沢先生みたいに泣きながら喝を入れるといいんだと思う。

空港で出迎えの客がみんな泣きながら「お前らは悔しくないのか!」っていう。

2009-03-07

公立中学で丸坊主強制なのは理解できないが、部活動強制入部なのも全く理解できない。

鹿児島県奄美群島の公立中学校男子生徒に頭髪の丸刈りを強制する校則は「生徒の人権侵害」というニュースをみた。

自分は20年ぐらい前に関東圏の田舎町の中学卒業したけど、くだんのニュースと同じく入学時に丸刈り強制だった。

卒業後何年かして、細川政権時代の大臣が「男子生徒が皆丸刈りであるのをみると、戦争時代のようでゾッとする」というような発言がきっかけで

丸刈りを改めたと記憶している。

(追記:在学中は生徒会が中心となって丸刈り廃止運動があったが受け入れられずにいた。あまりハデにやると内申書に響くと皆思ってたのかもしれない)

時が過ぎて自分にも子供ができ、再来年には中学になる。

学区制が撤廃されなければ、さいたま市内にある某公立中学への進学となるが、

さすがに丸刈り強制はないだろうなぁなんて思っていたらびっくり仰天、

何かしら部活動に入部しなければいけない校則がある中学のようだ。

自分中学時代も、丸坊主と共に何かしら部活動に入部しなければならなかった。

しかし運動部が殆どで、文化部といったら吹奏楽部で女子しか居ない。

仕方なく入部した部活ではスクールウォーズよろしくの荒れ様。

今でいうDQNからの暴力イジメはあたりまえで、

先輩や体育会系顧問からの理不尽な要求に否応なく従わされられる、

朝練休日の練習、近隣中学との試合に多くの時間を割かれてしまう。

前向きにとらえれば、練習するのだからキツいのは当然で、

チームメイトとともに試合で勝つことを目標

様々な活動によって心身の鍛練になると…

決して悪いことではないだろう。

しかし、それは自分で選んだ道であればこそ意義のあるもので、

やる気も無いのに無理矢理参加させられ、意味もなく顧問から怒鳴られて結局は凹むだけ。

中学クラスメイトと仲が良かったから登校拒否になるほどではかかったけれど、

こと強制参加させられた部活動に於いては良い思い出が全くといっていいほど無かった。

(それでも前向きに3年間の部活をこなせられたのは親のサポートもあったから)

家を買うときそのあたりを詳しく調べなかった自分を悔いている。なんてことだろう。

そして自分の血を受け継いだのか、子供部活動の強制参加には否定的だ(苦笑)。

小学校中学年の時に始めたお稽古事に没頭したいと言っているし自分もそうさせたい。

やる気の無い人を強制的に部活動に参加させていったい何の意義があるのだろう。

親としては、そういう場に参加してこそのプラス面を説得させるべきだろうか。

長い人生の中で高々3年間の短い修行みたいなものと思わせれば良いだろうか。

「やる気が無いのだったら行く(参加する)必要もない」と、ローカルルールを無視させて結果的に孤立させてしまうわけにもいかないとも思っている。

制度が変わらなければ結局はそこに馴染むしか無いだろうと今は思っているが、

当然、納得などしてない(子供の前でそういう態度はとってないにしても)。

こんなこと書くとモンスターペアレンツだと、私立でも通わせろと、違う地域でも引っ越せばよいだろうと非難されるかもしれないが、

経済的に私立には行かせられないし、違う地域への引っ越しも今の環境下では現実的でない。

この地域では政令指定都市といえども、都心のように自由に学区を選べる状態でない。

ただ、根本的なところで、なぜ部活動が強制参加なのか、合理的理由が分からぬままでいるので、

その中学教育委員会に問い合わせるつもりでいる。

追記:たくさんのブックマークありがとうございます。

子供が通うであろう中学HPを閲覧する限りでは、文化部には吹奏楽美術部などなどいくつかあるようです。

帰宅部への逃げ道としてそういったものがある、という実情だとしたら強制参加の意味が皆無だと思います。

また、どうも部活強制参加の校則は、市内ではそこの中学だけのようです。謎です。

2008-03-27

http://anond.hatelabo.jp/20080327000103

いつの時代もそういうのはあるね。全共闘とか新人類とかゆとりとか。

学生運動といえば機動隊に火炎瓶投げるとか、スクールウォーズといえばバイクに乗って校舎を走り回るとか、ゆとりといえば……なんだっけ。

てか、こんなのあった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E4%BB%A3

2008-03-10

ゆとり教育について哲学する。

 教育基本法の第一条には【教育目的】として「教育は、人格の完成を目指し、平和民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康国民の育成を期して行われなければならない。」とある。この文面からわかることは、教育の目指すものは人格の完成であること、そしてかなり包括的なプロセスであることの2点だ。

 人格の完成においては知識の伸張(知育)だけでは教育とはいえない。頭でっかち人間をつくることは教育目的ではなく、道徳の伸張(徳育)、身体の伸長(体育)を包括的に行うことが、教育の真の目的だ。それらを兼ね備えて始めて人格は完成する。彼らは必要な資質をもった理想的な「社会の形成者」となり、社会を理想の方向へと進めて行く。

 すなわち、教育とは理想の社会と構成員を作り出すプロセスなのだ。そしてそのプロセス社会から教育へ、教育から社会への順に、無限ループを繰り返す。「理想の人格者によって構成された社会こそが理想の社会だ」という考え方。これがその無限ループに与えられた、たった一つの命題である。

 問題は、「理想の社会」と「理想の人格」が変化するということだ。そしてその変化と同時に、教育プロセスカウンターをもって方向転換(あるいは反転)する。以下にその例を挙げる。

 1970 年代までの慢性的に教師不足な社会が「でもしか先生」をうみ(社会から教育へ)、その弊害として校内暴力が多発した(教育から社会へ)。指導能力の低い教師たちには、生徒の暴走を食い止めることは不可能だったからである。この時期は、生徒のそのパワーを身体の伸長(体育)に向ける方法が多くとられ、その中で道徳の伸張(徳育)、知識の伸張(知育)を行うというプロセスが行われていた(例:スクールウォーズ)。

 その後1980 年代に入り、「荒れた学校」へのカウンターとして、もしくは均一で効率的な労働力を求める社会の要請で、管理教育が再徹底された(社会から教育へ)。その後、管理教育の弊害として、はみ出すことを嫌う没個性社会、管理教育に伴う知識の詰め込み、学歴偏重社会が形作られた(教育から社会へ)。知識の伸張(知育)に特化したこの教育は、道徳の伸張(徳育)、身体の伸長(体育)をないがしろにした。この時期、社会では小学生の体力低下や犯罪の低年齢化といった社会問題が話題となった。

 それに対して、文部省(現文部科学省)がはなったカウンターが「ゆとり教育」である(社会から教育へ)。知識偏重を見直し、多様性、主体性をもつ豊かな人間性とたくましさ、すなわち「生きる力」を育むことを目的とした。しかし結果は周知の通り、利己主義社会学力低下が起きた(教育から社会へ)。主体性を自己主張、わがままと履き違えてしまい、道徳の伸張(徳育)が不完全にしか行われなかったことに原因がある。しかし学力低下については、学力偏重教育を批判して方向転換したのだから、知識の低下を嘆くのはおかしい。もともとが社会の要請によって行われたものである。授業科目を減らせば学力が低下するのは至極当たり前の結果であって、単純に批判することは出来ない。

 ゆとり教育の失敗は、知識の伸張(知育)を犠牲にはしたが、その対価となる道徳の伸張(徳育)、身体の伸長(体育)政策を徹底できなかったことだ。生徒達は週休2 日制によって、学校のなかで社会性を学ぶチャンスを毎週一日分捨ててきた。その結果得たものはなんだろうか。「見た目はいいが機能性は低い」まるで国会議員のような、まるで週休2日制のような人間だけであった。理想の人格者になるために足りないものは、道徳の伸張(徳育)、身体の伸長(体育)だったはすが、知識の伸張(知育)まで足りなくなってしまった。それゆえ現在教育のための包括的なプロセスは不完全にしか機能していない。愛国心についての議論もよい。しかし、今やらなければならないことは、教育目的の再確認と今現在足りないものについての議論なのだ。

教育方針が時代によって変わるのは仕方のないことなのかも知れない。それをここまで書いてきた。しかし、私にはどうしても許せないことがある。

 私の妹はど真ん中の「ゆとり教育」世代である。彼女はたまにつぶやく。

「わたしゆとり世代やねん。あほばっかりの世代やねん。」

ただ普通に生きていただけなのに、社会からは「理想的な社会の形成者」たりえない、失敗した世代だとレッテルを貼られてしまった。そんな彼女言葉に潜む絶望がわかるか?彼女が失ったプライドゆとり世代劣等感をどうしてくれるのだ。

 教育目的は、知育・徳育・体育の伸張による人格の完成にあると最初に述べた。ゆとり馬鹿だと蔑む奴等。彼ら彼女らの劣等感煽り、踏みにじって笑う奴等に言いたい。ゆとり世代だって立派な「社会の形成者」だ。馬鹿にするな。困っている子がいれば助けてあげる。泣いている子がいれば慰めてあげる。そう習ったはずだ。彼らの絶望に気付けないお前たちこそ、「徳育の足りない不完全な社会の形成者」だ。

 完璧人間はいない。ゆとり世代は不完全かもしれない。しかし、それをあざ笑う奴等だって、所詮は不完全なのだ。「ゆとり世代」。キャッチーキーワードのせいで浮き上がってしまった世代。彼らを見下すことなんて、本当に下らないことなのだと気付いてほしいと思う。

 
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