はてなキーワード: 朱夏とは
大学を卒業して就職したのが15年前、同じ頃にデビューした作家がまあ当然いるわけだがソイツらへの嫉妬が止まらない。
とにかく就活を成功させて、生活を安定させることを求めながら俺が就活をして、卒論を書いて、ストレスはマスかきで解消していた頃に奴らは代わりにシコシコ作品をしたためて応募していたのだ。
酷い裏切りだ。
だけど実家が細いから、頭もよくないしコミュ障だから、とにかく社会から一度ドロップアウトしたら再合流できる自信がなくてひたすら就活を目指して生きていた。
就活を目指してバイトをし、就活を目指してサークルに入り、バイトと勉強のバランスを待ちがえて単位が不足してバイトを辞め、サークルで人間関係を築けなくてサークルを辞め、最後に残ったのはボロボロでギリギリな単位とゴミのような卒論、それにふさわしい就職先。
いつだって脳内では「いつか作家になって辞めてやる」と思っていた。
一発勝負で一気に突き抜けるしかないと思い込んだ俺のペンは強張り何も作れなくなっていた。
心のなかではいつだって、自分が就活で苦しんでいた頃に実家の太さに甘えて小説を書いては応募して「◯歳の天才!新たなる才能!平成の!令和の!新時代の!」と褒め称えられた同級生作家達への憎しみばかりが渦巻いていた。
そんな中で彼らに負けずに活躍している自分を妄想し続けるうちに、俺は遂に星雲賞 長編・短編同時受賞を3年連続で果たすのだった。
このままでは来年も俺が星雲賞を取ってしまい他のSF作家が腐ると危惧し私は星雲賞震災委員会と競技して自分を星雲賞殿堂入り作家として受賞対象から除外するように決めた。
何を言っているだ俺は……。
ちなみに俺の作家としての必殺スタイルは「序盤必殺<ブリーチング・ロケッティア>」「終盤滅殺<クロスファイア・チェーホフ>」「竜頭龍尾(ダブルドラグーン)」だ。
恐ろしいだろ……俺はもう社会人15年目だ。
何をしてきたんだろうか俺は……。
俺はこの人生を一体どうしたいんだ。
もう若くもない。
青春を歩めず、朱夏もあらず、白秋も望めず、黒冬にたどり着くこともなく死ぬ。
無限に続く土用の狭間、人生の季節は唯一つ永遠のモラトリアム。
助けてくれ……
決して人生を舐めていたわけではないが常に私は風の吹く方向、水の行く方向へとただ流されるように、受動的に生きてきた。高校も大学も就職も、ただ落ちた繰り返しの果てに拾って貰えただけだ。
日本の教育機関は手厚い。中学も2年の頃には将来のことを考えさせ、受験を意識させてくれる(実際に本気で考えるかは別問題)。高校も同じだ。大学だとご丁寧に就職セミナーを開き、また支援センターが微力ながら協力してくれる。ただ受動的に生きるだけの人間にも、次に何をすれば良いかの指針を示してくれる。
次に降りるべき駅と向かう方向を知ることで、私は安心できた。ランクの上下はあれど、その線路を走ることができたなら安泰な"人並みの人生"という車窓が見えるのだと思っていた。
しかしどれほど手厚い教育機関でも、教えてくれないことが一つだけあったのだ。それは広い意味でいえば友達の作り方、狭い意味でいえば恋人の作り方。社会に横たわる人間関係の力学に関しては、教育機関は集団生活を営む上での最低レベルの支援までしかしない。それ以上はプライベートの範疇として個々人が解決すべき課題とされ、ここに最初の格差が生じてしまう。
無論誰もが薔薇色の青春時代を謳歌できる訳では無いが、ただ与えられたことのみを為すことしかできない受動的な人間にとってこのハンデはあまりにも大きい。色気付いた頃合いに「彼女が欲しい」と思えるのは能動的な人間であり、受動的な人間は半ば本気で「よくわからないが、いつか多分そういう時期が来たら勝手に結婚するんだろう」と思考停止、或いは思考放棄している。そんなことはあるはずが無いのに、その程度の摂理にすら気付けないほど瞳を曇らせていた。
そして僅かばかりの知り合いや職場の同僚が、みな結婚し子を産み育てていることを認識してようやく気付くのだ。ただ希っていた、安泰で"人並みの人生"というレールから自分が外れていたことに。そしてその先に待つのが孤独と絶望しかないことに。
人生も朱夏を越えれば、染みついた性格、行動様式を変えるのは難しい。なにせ今まで何一つとして、能動的に行動を起こしたことのない人間だ。やれ婚活だ何だと行動できる能力と度胸があるなら、もっと早くに気付き無駄に人生を燻らせる事も無かっただろう。
何かの間違いで、本気で活動したらまた何か違う結果に至ることもあるのかも知れないが、それ以上に未知に対する不信と不安が足を留まらせる。常に受動的で、他人とは上っ面でしか付き合わず、本気で誰かを慮ったことのない人間が今から人間関係の力学を学ぶのは重く、またその練習をさせられる人はさぞ不幸だろう。やはり私は、流されるようにしか生きていけないのだと思う。
生活保護というものがあるが、あれは最低限度の文化的な生活を保証してくれるらしい。私はそんなものよりも、最低限度の"人並みの人生"を保証してくれる人生保護が欲しかった。特別になんてなる気は無い。自分を産み育ててくれた両親のように、ただ"人並みの人生"というものを送りたかっただけだった。
受動的に生きてきた人間の最期もまた、受動的なものなのだろう。せめて、誰かの朝食を不味くするような死に方だけはしないことを願っている。