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はてなキーワード: 卒業式とは

2020-09-10

学校貧乏認定されるといじめられる

とか見たけど、貧乏な方がカッコいいという風潮の学校はなかったか

卒業式和装やらランドセルやら制服の質に金をかけないといじめられるというのにどうしても違和感がある

俺の出身小学校中学校ではランドセルは本革などでお高くて質が良く、6年生になってもピカピカなやつほどダサいとされていた

ランドセルは合皮が剥がれてボロボロになり、原型を留めないほどペチャンコになるのが強そうでイケてるとされていたので、俺は自分ランドセル必死に踏んで潰そうとした

卒業式時代的にだろうけど和装なんて1人もいなかったし、中学に入ると制服ジャージ兄弟や親戚のお下がりボロボロであるほど上級生の後ろ盾があることを示せて強そうでイケてるとされていた

特に自学年では仕様変更されている部分が旧仕様だったり、学年カラーが違っていたりすると最強だった

ジャージの袖のゴムが全て抜けてしまって萌え袖になっているのがトレンドだった

俺は授業中シャーペンで新品のジャージの袖のゴム必死に抜いた

基本的所謂貧乏人の方が強かった

なぜなら家が貧乏なやつほど兄弟が多く兄や姉が現役の不良で、親も元ヤンであることが多かったか

家が貧乏ではない俺の親は元ヤンではないので俺の通う治安最低公立校トレンドに疎く、兄弟もいないので上級生の後ろ盾もなく、それでも舐められないように必死貧乏ぶっていた

なので貧乏認定されるといじめられるというのはそれはそれで地獄だが、金がある方が強い風潮の学校があるならそっちに行ってた方が楽だったと思った

2020-09-04

国家を歌わない教師を信用していなかった

大坂なおみテニス大会棄権しようとしたことに関してこのような批判がされていた。

スポーツ選手の行動は子どもへの影響が大きく『主義主張があれば競技棄権してもいい』と思わせてはいけないと考えます

これを見て国歌斉唱拒否する教師に対しての不信感を思い出した。

個人的な心情を言うなら私は君が代など歌う必要などはないと思っているし、そもそも当の私が君が代を1フレーズも歌えない。

学校では習わなかったし(音楽教師はご丁寧に君が代が載っている教科書のページにプリントを貼るよう指導してくれた)日本代表試合なども見ないため君が代という曲をろくに聞かず歌わず現在に至る。

逆に世間の人々はどういうタイミングであの曲を歌えるようになったのか少し気になるぐらいだ。あのリズム音程などは普通に聴いてるだけでは歌えるようにならないと思うのだが…

なのでたとえ日本代表選手君が代を歌わなくても私は何も思わないであろう。

しかし、教師が歌わないとなると話は別である

なぜなら教師というのは生徒に規則押し付け存在からだ。

我々が学生時代の頃など普段の授業などはともかくとして集まりたくもない夏の校庭や冬の体育館などに無理やり集められ、歌いたくもない校歌を歌わさせられたものである

学校にそういう規則があること自体は仕方ない。

もし規則がなければ夜の校舎の窓は割られバイクは盗まれ走りだし猫は炬燵で丸くなる。若者集団とはそのようなものだ。

しかである

その規則押し付ける側が思想良心の自由を御旗に掲げ、国歌斉唱拒否するのはどうなのか。

もし自分が「自分がこの学校校歌を歌いたくありません」などと主張すればどうなったか

おそらく私の内申点は地に落ち、音楽の成績は見る影もなかったであろう。(どちらも元々大したものじゃなかったが)

そうやって生徒に対し圧倒的な強権を持ち多くのことを強制してきた教師がいざ自分たちが何かを強制させられる立場になると憲法を持ち出して規則から逃れようとする。

その姿に私は大変理不尽ものを感じたものだ。

教師だって一人の人間だしそりゃやりたくないことや従いたくないことの一つや二つや200はあるだろう。

ただ私としては自分主義主張を優先して、卒業式など生徒のための式典を円滑に進行することすらできない者に規則だのルールだのを押し付けられたくないなと思った次第である

2020-09-01

ブックスマートをみた

ブックスマート女子生徒二人の友情を新しい価値観で描いた映画ということで、公開前からtwitterで高評価レビューが流れていた。

レディバードハーフオブイットと並べて賞賛されてるツイートやその他の絶賛ツイートを見てワクワクで公開してすぐ観に行った

ネタバレ注意かもしれない

あらすじ

成績優秀な優等生であることを誇っていた親友同士のエイミー(ケイトリン・デヴァー)とモリー(ビーニー・フェルドスタイン)。しかし、卒業前夜、遊んでばかりいたはずの同級生ハイレベルな進路を歩むことを知り自信喪失。二人は失った時間を取り戻すべく卒業パーティーに乗り込むことを決意する。果たして、二人を待ち受ける怒涛の一夜の冒険とは?そして、無事に卒業式を迎えることができるのだろうか!?

よかった点

主人公モリーは太っていて美人ではないし、主人公親友エイミーはレズビアンであるが、作中でモリー容姿についてからかわれることはないし、エイミーが女性が好きであるということも「ロン毛の男性が好き」「マッチョタイプ」とかと変わらない感じで、特別扱いされることはない。ルッキズムがなくLGBT個性の一つとして当たり前に受け入れられている新しい時代価値観表現が下手かも)が描かれている。

主人公たちがフェミニズムなどをポリコレ賛成サイドからジョークにしていて目新しかった

いいと思わなかった点

舞台カルフォルニア上級ハイスクールで、登場人物は全てある程度裕福で先進的というかリベラルな人たちで、貧乏だったりバカの人たちは出てこない。主人公たちは、これまでのハイスクール物だと「分かり合えない嫌なやつ」だったチャラチャラした人たちがハイレベル大学内定していることにショックを受けて彼ら内面個性に目を向けるわけだが、これは裏を返せば、ハイレベル大学内定していなかったら理解なんてする価値もないと言っている様なものではないのかと思った。登場人物ヒスパニックアジア系がいたり、主人公が恋する相手の見た目がステレオタイプでないことで「多様性が描けてる」というのは短絡的ではないか?この映画には金持ちで有能な人しか出てこないのに

ちなみに主人公女の子二人は白人である白人特権の話は?

・大喧嘩するシーンを除いて、主人公コンビは互いに全肯定しまくる。これが私には、よく言われがちな「女性同士って裏では嫉妬しあったりしてるんでしょ?」みたいな話の裏返しでやってる様な、ポリコレ映画やるんだから女の子同士は全肯定し合わなきゃね!みたいな感じがしてうーん…. 

音楽、ダサすぎ。演出も。レディバードと並べないでほしい。あと単純にストーリー面白くない。新しい価値観のもとで新しい物語が始まるのを期待してたんだけど、ポリコレだけの映画だった。


まとめると、期待してたほどではなかった。netflixオリジナル映画だったらまぁ観るかな、って感じ。

この映画世界は、あらゆる差別のない理想郷!みたいな感想の人が多いけど、本当に?って思う。

2020-08-30

普通になれない子ども

子どもを殺したい」の記事に触発されて書きます

わが子は軽度のADHDで、いま高校2年生です。

中学受験をしたころまでは、ちょっと育てにくいところがあるかなあ、程度でした。

ただ、中2の12月ころから学校に行かなくなり、そこそこ名の知れた中高一貫校中学卒業

公立のやや特殊な子を集めた緩い学校に通いはじめます

しかし、そこも今年7月ごろから通わなくなります

緩い学校なので、通わなくても課題を提出すれば卒業可能ですが、現状、先送り中。

ちなみに中2で登校できなくなったときは、朝、起きれないという睡眠障害が主因です。

いろいろ思い当たる節があり、発達障害専門医受診したところ、「軽度のADHDに伴う睡眠障害」という診断が出ました。

特徴としては、とにかく自分のやりたいことしかやらない。意に沿わないことは、何度言っても絶対にやらない。

幼児のころからこの傾向はありましたが、それがどんどん強くなる一方。

から普通に宿題をやるとか、試験勉強をやるとか、そもそも学校に行くとか、片付けをちゃんとするとか、普通のことは一切やらない。

声を荒らげても、殴る寸前までいってもやらない。

私より短気な妻は、何度「死ね」という言葉をぶつけていたことか。

ただ、好きなことは永遠にやり続ける。絵を描く、お風呂に入る、髪を整える、お化粧する、

読書マンガを含む)、ゲーム(実況を見ることを含む)、YouTuber/VTuber鑑賞などなど・・・・・・

ひきこもりではなく、バイトは好きで、朝8時から1週間連続で入ったりする(コンサータを使ったり、使わなかったり)、

今はないけど地下アイドルコンサートマメに足を運び、一緒にチェキを撮る・・・・・・

ちなみに、不登校の時期も、学園祭を手伝いに行ったり、卒業式は出たりしていました。

友達とは連絡を取り続けているし、一緒に遊びに行くし、本人曰く、学校は好きだそうです。よくわからん・・・・・・

とにかく、親のやってほしい普通のことは一切やらない。本人は「大学に行く」と言うけれど、勉強はやらない。

中学受験時には、偏差値60近くあったので、受験的な頭は悪くないと思うけれど、このままでは大学は無理。

そもそも課題を出さないと、高校卒業できない状況です。

実は発達障害先生のところも、病院が怖いという理由で、最初の一回しか行っていません。あとは親がずっと通っています

学校を含め、行きたくないときは起きてきません。ゆすってもウンともスンとも言わない。昔は何時間もゆすり続けたことがあったな・・・・・・

ただ、今では、この子特性として、仕方ないかなと諦めています

無理にやらせることはできないし、逆に力づくで無理にやらせたら、百パーセント虐待になってしまます

夫婦そろって苦しい思い、辛い思いもいっぱいしましたが(現在進行形)、子どもは好きだし可愛いところも多々ある。

本人も家は好きだと言います

今でもたまに怒ってしまうことはあるけれど(人間から)、この特殊な子と、できるだけ楽しく前向きに暮らしていくしかないのかなと。

両親がいなくなったあとは心配だけどね。

はてブという極左集会場 その2

文字数制限の都合でその1のつづき

Twitter

とりあえず安倍この投稿リプライいいね順に見ていく。

世界中リーダーから絶大な信頼を寄せられ、また日本人にこれほど愛された総理大臣過去に類を見ないと思います総理を辞されても、政治家安倍晋三として国内外に良い影響を与える存在で居て頂きたく存じます。まずはお身体をご自愛頂きゆっくり休み下さいませ。誠にお疲れ様でございました。(9782いいね)

色々言われ続けながらも日本支え続けた総理感謝する

最初何とも思って無かったけど

硫黄島英霊に敬意と感謝土下座拉致被害者に寄り添うあんたを見てすげーと思った

ゆっくり休んでくれい(9232いいね)

これが何のイデオロギーもなくテレビ煽動されてる訳でもない真っ白な若者感想です

安倍さん今までありがとうございました

元ツイは固定の方にございます(7800いいね)

(ここにTikTokコメントスクショが4つ貼ってある)

安倍総理、心より感謝申し上げます安倍総理日本の最高のリーダーです。総理は辞任しても、これまで通り、リーダーである事は変わりません。まずはどうかゆっくりご静養なさって下さい。長い間本当にありがとうございました。(6976いいね)

長い間、大勢売国奴相手に8年間もありがとうございました。

今こそ転換期だと自分は考えています

一般国民の皆様。日本日本人のためだけの国にするため国民一同、偏向報道ミスリードに騙されず総理の器であろう人に投票していきましょう。(5549いいね)

親愛なる安倍晋三さん、私たちインド人はみなさんの健康長寿をお祈りします。あなた公共サービスのためにすぐに戻ると確信しています。(3934いいね)

ヤフコメ

10551件のコメントがついた毎日新聞安倍首相、辞任の意向固める」の記事コメント欄おすすめ順(good-badが高い順?)に並んでいるものを上から示す。

これほんとなのかな。

本当ならばお疲れ様でした。ありがとうございました。

と言いたいけど、心配なのは次の人。

間違っても親中親韓の人は受け入れられないし、そのような人達言葉フラフラするような人も同じ。

日本のことを1番に考えてくれる人になってもらいたい。

そんな人今の自民党いるかからないけど。

いるとしても、期待できるのは河野さんだけかな。(69227good,12054bad)

功罪は後で検証するとして、兎に角お疲れ様でした。しっかり治療に専念して下さい。

ポスト安倍は相当難しいな。内政は勿論だが、今は安全保障に関する外交比重もかなり大きい。石破は絶対ダメだよ。(63504good,12718bad)

まずはお疲れ様でした。長期の総理仕事はかなり激務なんだろうね。ゆっくり休んでください。次はだれかな?個人的には河野さんだがどうなるか?石破と岸田だけは止めてくれ…(37021good,7412bad)

問題は後任。

昨日の麻生の動きからして、唯一前日に知らされていた感があるし、

臨時代理をしばらくはやるけど、

二階と会談重ねるのはどうなのか。

間違っても国益損ねる人物だけは勘弁。(14301good,912bad)

体調問題なら仕方がない。

次の総理には周辺国に厳しく対処できる人になってほしい。(15301good,1653bad)

もはや頼れるのは河野太郎しかいない。中韓に対して強気な態度をとれるのは河野しかおらん。石破や岸田や菅では「攻撃しないでください。その代わり沖縄をお譲りします。もしよければ、本州の一部もどうぞ」ってなるよ。習近平従順総理ではダメだ。 (13531good,1714bad)

自分潰瘍性大腸炎から良く分かるけど、きつい時期は本当にしんどいんです。。特にストレスで大きく症状が傾くので、限界が来たのでしょう。。自分は症状が重い時、この国のトップも同じ病気で苦しんでいるんだと思うと心強かったです。辞任はとても残念ですが、今はゆっくりと休んで頂きたいです。(15161good,2353bad)

安倍さんの功績は、中韓との決別。

同時に親日国との国交を広げた事。

その路線を貫けば良かったのに。

半端に中国と仲を戻そうとし、習近平国賓待遇で招待しようとするから以後、コロナでも後手後手になったケチがついた。

ポリシーは一貫して貫かないと(21869good,4686bad)

安倍ちゃんのことは結構あっさりしていて、ポスト安倍に関して懸念している人が結構いる感じ。

Youtube

58万回ほど再生されたTBS NEWSの「安倍首相が会見 辞任決断理由は(2020年8月28日)」という動画。1429件のコメントが書かれていて、いいね数順に並び替えたが、ちゃんソートされないのでもしかしたら見落としがあるかもしれない。

どんな人が総理になっても日本人は叩き続けるんだろうな。

次の総理でそれが分かると思うよ。(203いいね)

7年半も日本のために身を削って総理をやっていたんだから記者は「ご苦労様でした」とか労いの言葉ぐらいないのかい

ロボットみたいに質の悪い質問しててどうすんだ。(156いいね)

この報道を受けて喜んでいるのが中国韓国北朝鮮だと言う事を皆さん忘れないように。欧州や他のアジアの国々、南米などなど、皆等しくネガティブ報道なのにだ。日本にいる安倍総理辞任を喜ぶ連中が何者か、これで良く分かったはず。日本人絶対安倍総理は何と戦っていたのか、誰と戦っていたのか、忘れるな。 (101いいね)

お疲れ様でした。なんだかんだ言って安倍さんしかかたん!

体を大事にしてほしいです。

あと、目元とかすごい疲れてる・・・(108いいね)

泣いてしまった。

人が去るときくらいさ、ありがとうって言えないのかな?

安倍総理万歳(102いいね)

総理に対して「お疲れ様でした」の一言でも言った記者は数人、病気での辞任を責任逃れ呼ばわり、そりゃ日本からブラック企業も無くなりませんわ。 (86いいね)

他にも安倍辞任の会見動画は多数あって、THE PAGEの「【ノーカット安倍首相が辞意を表明 持病再発「総理地位にあり続けるべきでない」(2020年8月28日)」という動画は78万再生ほどあり、TBSのものよりも再生数が多い。ただ、337コメントしかなく100いいねを超えるコメント結構スクロールしたけどなかったので、2番目に再生数が多いTBS NEWS動画コメント欄を調べた。

ブクマカ

翻ってブクマカはどうか。「安倍首相 辞任の意向固める 持病が悪化したことなど理由に | 安倍首相 辞任へ | NHKニュース」についたブコメの人気コメント見てみよう。

辞めるのはええけどオータニの明細は出せよ(1013スター)

本当に「最長記録」狙いだったようにしか見えなくてウケる/まあでも病気は大変だしなあという気持ちと「病気等で国政に携わることが困難である時どうすればいいか」みたいな話は別途に必要なんではと思う。(500スター)

(称賛や批判はいったん脇に置いておいて) 長い間お疲れ様でした(436スター)

内田樹先生予定稿が読めるじゃん!(240スター)

取り巻き嘘つきすぎやろ…。(293スター)

"最長記録"更新たからね(476スター)

やっぱり具合悪かったのか。これでいいと思う、体調が優れないときストレスのかかる仕事なんぞするもんじゃあない…庶民感覚で語っていい仕事かどうかは置いておいて。(178スター)

いやーぶん投げたね(247スター)

なんやこの大本営発表ブコメも気色悪いのいっぱい(142スター)

記録更新ゴール。(68スター)

……うーんこの

結論

はてブ極左集会場と揶揄されても仕方ないって感じるわな。前に安倍ちゃんを休ませて欲しいといった甘利の発言に対して、ブクマカブラック上司メンタリティ罵倒ブコメしまくっていた[4]というのがあったけど、ブクマカ世間とズレすぎ。SNS世間全てとは言わんけど、ほとんどが匿名で利用できて本音を言いやす環境で、嫌味みたいなことしているのはてブだけだぞ。はてブ以外がランサーズかに制圧されているとはとても考えられんし……逆にはてブの方に何か変な介入がされちゃっているんじゃないか心配になるよ。

そういえば、はてブの皆さんは陰キャだらけで[5]きっと教室の隅っこが定位置だったと思うけど、これ見る限りだとインターネットでも隅っこの方みたいだね。

出典

[1]小山晃弘のツイートTikTokの「安倍総理タグ動画コメント欄を見る限り、どうもマジで10代の若者安倍のこと支持してるっぽいんだが、なんなんだこれは、いや統計とかでそういう傾向があることは知ってたけど、「生の声」を見るとTwitter論壇とのあまり差異唖然となる。。

[2]なぜ若者は、それでも「安倍晋三」を支持するのか

[3]「JKより上手い」「お役所感がない」首相官邸インスタが話題 “中の人”の正体に迫る

[4]ブクマカはこれだから世間からずれている

[5]「今どきの卒業式はこんなに進化している!『教室アルバム』が超楽しそうでグッとくる」のブコメ

2020-08-29

コロナでの大学研究のやりかた

コロナ人生が変わってしまった人は多いと思う。私も仕事雰囲気が変わり始めている。

私は運がいいことに、やりたいこと興味のあることを比較的できる研究者を某旧帝大でやれる機会に恵まれている。専門は化学。だが、それも音をたてて変わり始めている。

もともと将来の仕事を何にしようと明確に描いたことはなかった。幼少期に育った地域比較英才教育とは程遠い地域であり、貧困家庭も多かった。友人の家に行くと昼間からおじさんがゲームをしていたり、パチンコや酒に明け暮れている、そんな地域である小学校でありながらも学級崩壊に近いことが起きており、義務教育の内容をきっちりと終えることができなかったと記憶している。そんな状況を深く考えることはなく、私は周りの事象に対して疑問を持ち、調べるのが好きだった。なぜ水は雨として降ってきて、山を流れて、コンクリートの隙間から流れていくか。そんなことが気づいたときには不思議だったと思う。幸いにして先生にも恵まれた。疑問をもち、それを自分のペースで解決するのが好きであり、校庭のはじっこで疑問点などを書き出していたとき理科若い先生理科室に誘ってくれた。そこには違う世界があり、好きなだけ実験していいと言われてのめり込んだ。ガスバーナーをつけてよくわからない化合物を熱して色が変わる、気体がでる。一つ一つが楽しくてしょうがなかった。だが先生がある日突然学校に来なくなってしまい、程なくして全校集会が開かれた。持病の喘息でなくなったらしい。どうしたらいいのかよくわからいくらい、悲しかった。狭い実験室の僅かな道具から世界の広さをあれ程教えてくれた先生がこの世からいなくなってしまったのが悲しかった。学問世界を広げてくれるというのを肌で教えてもらえたと実感している。

当時はショックだったが、中学校から親の転職関係引っ越し比較普通地域引っ越ししまった。小学校ときにはサワガニを追ったり、カエルを捕まえて、ビーダマンからでてくるビー玉の平均距離などをひたすら数える子供であったが、引っ越し地域では勉強熱心な地域であり、誰も放課後には遊んでいる子供はいなかった。塾に行くとのはなしだったが、恥ずかしながら塾という単語を知らなかった。動物を捕まえた数よりも試験の点数を重視する地域であり、ひどく狼狽したのを覚えている。小学校での経験があってか理科数学が楽しくて仕方がなかったが、何故か閉塞感があった。あくま中学高校でのお勉強というのは与えられた範囲でやる学びであり、そこに自由度は少なかった。結果的勉強はできたのでとにかく自由を求めていた。高校には入ったが、倫理先生哲学議論ばかりしていた。こう考えると私は先生に恵まれているのだが、先生に学びの自由を求められる場所はと聞いたとき日本には殆どないと言われてしまった。あ、そういえばといって、それがきっかけとなり京都にある大学に行くことになった。

大学自由であった。毎年謎に作られる像やコスプレ卒業式で有名な大学であるが、学生多様性がまったくもって違っていた。そこでも縛られるのが苦手な私は大学で授業に行けなかった。ただ、大学図書館にはホコリを被っていながらもたまらなく刺激的な書籍が非常に多くあり、図書館毎日通った。楽しくて楽しくて仕方がなかった。たぶんそれは小学生の時に一人で課題を設定して、問題解決をする。そういうプロセスであっただろう。数式、活字が踊っているようにすら感じた。一般教養の授業でもムラ社会議論する授業や、紙飛行機を飛ばす授業など色々あり、不思議な授業であったと思う。ただ相変わらず大学の専門の授業は指定教科書から逸脱していなく、面白くなかった。ある意味授業に関しては圧倒的に劣等生であったが、たまたま行った授業のときに言われた印象的な言葉がある。「結婚は何回でもできるが、研究室選びは一度しかできない。」人生パートナー何度でも選べるが、人生の専門となる研究室は一度しか選べないとのことだった。へそ曲がりな私は研究室で変わったことがやりたいと思い、研究室を巡ったが、どれもこれも古臭いホコリを被った図書館で聞いたことがあるような内容だった。日本最高学府学問として理解できてしまうということが非常に悲しかった。ただ、たまたま非常に尖った研究室があり、そこで私を拾ってもらえた。やはり私は先生に恵まれていた。研究室は今思えば世界的に有名で先駆的な研究室であり、そこで自由研究を行う機会に恵まれた。朝から晩まで先輩後輩教員ディスカッションしながら、自由自在に研究をすることができる。研究費も潤沢であり、装置も多くあるために闇実験自分の考えるすべての実験ができてしまった。卒論テーマ自分でかってにテーマ設定をして卒論発表までさせてもらえた。今思えばあんなことに、というテーマであったが、当時は楽しくて仕方がなかった。卒論が終わった当日、テーマの変更を推奨された。初めて方向性提示されたが、一言であった。ここには恩師の力があったと思う。結果的に与えられたテーマとは関係なく、M1勝手実験をして修士論文を3本書いた。楽しくて仕方がなく、博士課程に進学した。博士では論文12本書いた。ちょっとした自慢である

博士資格名刺の角に書くことができる運転免許のようなものであるというのはよく言ったもので、単なる認定試験である。友人が大学ポジション公募に出す中、私は自分学問を切り開くのだと思い、博士研究員をすることに決めた。なんとなく海外日本より風通しが良いだろうと思い、日本研究から支援をうけて、海外に2年間いけることになり、それまでに一切したことがない分野に飛び込んだ。将来学問を切り開くためには甘んじて先達のいる学問をすすめるよりも、開拓者であるべきという精神である。ただ現実は厳しかった。言った先の研究室では私は初めての外国人であり、装置の使い方、実験の仕方、単語すらわかっていなかった。学部生に単語意味から教えてもらいながら、教科書を端から端まで読んで、理解した。論文は2年間で3000報くらい読んだ。めちゃくちゃ勉強し、1日の睡眠時間は3時間程度だった。結果的に分野での最高峰論文誌に数報報告することができて、ライフワークが見つかったと思った。ただこの辺りから研究に対する見え方が変わってきたと思う。日本人会でいつも飲んだくれている友人がいた。大学では見たことがないが日本人の友人を探しているようだった。何が楽しくて研究をしに海外に来ているのかというふうに聞くと彼は出身研究室に戻るので1年間遊びに来ていると話していた。悪い冗談かと思っていたが、実際に彼は日本出身研究室で職を得て戻っていった。不思議ものである

当時の海外での受け入れ研究室教員にぜひともこの国で残って研究をすすめるべきだと言われた。日本講座制の影響もあり若い研究者活躍しにくいということを聞きつけていてくれていたらしい。ただそのときに今まで私を支えてくれた恩師たちの姿が頭をよぎり、日本に恩返しをするべきではないかと思った。施されたら施し返すという精神である日本に戻るためには公募書類を出さないと行けないのだが、不思議と通らない。面接にすら呼ばれない。それまでに分析していなかった私が悪かったのだが、どうやら日本ではコネというのが幅を効かせているらしく、面接にすら呼ばれない。それとずっと付き合っていた婚約者との結婚もあり、フットワークの軽い私はならば日本に帰ろうと、日本に帰り、講演ツアーを行った。幸いにしてその一つが目に止まり研究プロジェクトの一環で雇ってもらえた。そこでも好きに研究をしていいと言われ、論文を好きに書いた。楽しかった。研究だけしてたまに論文を書けばいいというのは至極楽しかった。ただ、学生研究ができないのがとてつもなく寂しく、コネはなかったが、海外の訳のわからない研究室研究をしているよりも経験つん日本研究している私は魅力的に見えたのか、公募に通った。めぐり合わせというのは不思議ものである

こうしてやっとただの研究者から大学教員になることができた。恒久的に研究ができるというのは非常に幸せであり、研究以外も楽しんだ。毎週の授業というのはライブである。そのへんのストリートミュージシャンよりも自分の一つ一つの発言学生に聞いてもらえることができ、研究に対するスタンスなど伝えることもできる。学問というのは積み重ねの学問である。積み重ねがあるから新しさがわかる。ひとつひとつ丁寧に教えていき、学問の楽しさを伝えたが、やたらと聞かれるのは単位がとれるかかどうかであった。研究室でも熱意をもって新しい実験の仕方や、研究分野の掘り下げのための論文読み込みを学生と一緒に行った。ただ、学生から文句が出てそんなに頑張りたくないとも言われてしまった。悲しい。私はそんなに魅力がないのだろうか。大学教員というのは研究以外の思った以上の雑用があり、それに追われていた。ただ、そのたびに今まで知的教育享受してき立場からそれを授与できる立場にならねばと思い、一所懸命に振る舞った。その結果ここでの学問結果をなんとかして論文にすることができた。これからすべてが軌道に乗る、そう思っていた。

そんな先のコロナである実験を専門としている私は当然大学に来なければ研究をすすめることができない。だが、緊急事態宣言あおりをくらい、研究室での研究活動オンライン中心になり、さらに愛妻は妊娠中であったために下手な行動はできない。研究が中心であった私の生活は転換を余儀なくされた。学生と最新の実験成果を共有できない、授業はオンラインとなりzoomの先では、全く授業を聞いていない学生いるかも知れないという状況で苦しかった。価値観も変わらざるを得ない矢先に子供が生まれた。福音であった。

学問というのは先んじてその場で役に立つものではないが積み重ねだと思っている。子供も同じで、毎日毎日状況が日進月歩である。首を動かすことがしんどそうだった子供が、今では自分の力で首を動かし、光の導く先を必死に見ようとしている。大学で学びをしている学生一時的にやる気を失っている子もかつては私の子供と同様日々ひとつひとつできていくということが楽しかったのだろう。相変わらず大学での研究活動制限されている。以前ほどの自由担保されておらず、どうしても何かしらを管理する必要がある。その一つ一つの行為が私には苦しい。ニュートンスペイン風邪タイミングで新たな学問をみつけた。私にはそれほど頑張ることはできるかわからないが、研究を行い、学生希望や考え方を論理的に教えるというのが現在の職での義務であろう。間違いなく私の研究生産性は下がったが、価値を下げず上げることが義務であると思い、日々努力している。

2020-08-19

成人式の思い出

成人式は狭いホールで行われる予定だったが、そのホールに入る前から着物やらスーツやらを着た新成人でごった返していた。中にはキャバ嬢のような派手な着物を着た女性や、逆立てた金髪と袴を合わせた男性などもいて、中学時代卒業式を思い出して懐かしい気持ちになった。

成人式中学校の区分で分けられているはずだったが、ホールの外ではほとんど同級生は見かけなかった。しかし、一旦ホールに入ると中学校の名前が書いた看板が立てられていて、なるほど、一つの中学だけじゃないんだと気づいた。看板が示す区分けのほうに行くと、必然的に見覚えのある顔がなんだか増えてきた。

見覚えのある顔と言っても中学校は定期的に引きこもっていておそらく2/3くらいしか行ってない。だからあんまり感慨は無かった。ホールの中は人がごった返していたので、そんな感慨よりも人混みから早く逃れたいと言う気持ちと、後悔するだけなのになぜ参加したんだろうと言う気持ちが強くなってきた。

幸いな事に各中学区分けには椅子が設置されており、式が一旦始まるとそれなりにスペースを確保する事が出来た。そのおかげで一息つく事ができた。

式には自分を半ば無理やり学校に連れ出した当時の担当が現れた。普通はこういう時ありがたいと思うのだろうかと思って「ありがたいぞ、これはありがたい事なんだぞ」と自己暗示を試してみたが、ありがたさは全く湧いてこなかった。スペースを確保してくれる椅子のほうがずっとありがたいとすら感じた。

式が終わると一斉に人群れが動き始めた。椅子に座って動きが落ち着くのも待っても良かったが、一人椅子に座っていて目をつけられても嫌だった。人波に乗ることにしたが、式が始まるよりも激しい人波から早く逃れたいと言う気持ちが俄然強くなっただけだった。

人波に揉まれているとどこからか「増田くん!」と言う声がした。振り返ると中学校の頃に良くしてくれた学級委員長のAさんだった。多少は恩を感じていた分、無視するのも悪い気がしたので、Aさんの方に近づいた。Aさんはぼんやり記憶の中にある姿と思ったよりも変わっていなくて、少し嬉しかった。

同窓会があって、今、出席する人を集めてるの。増田くんは出席する?」とAさんが聞くので、なるほど学級委員長は5年たっても学級委員長なのだなと妙な感心をした。「行くよ」と返事したが人混みの喧騒に紛れて聞こえたかは分からない。

そうこうしているうちにAさんは別の同級生同窓会に誘いに行った。取り残された僕は人波にもまれているうちに早くここから離れなければと言う気が強くなった。多少の抵抗したが、人波に流されるだけだったが、なんとかホールから出る事が出来た。ホールから出ると記念撮影をしてる人がまばらにいた。当然、僕には記念撮影をする相手なんて誰もいない。

どこにも属する事が出来ずにぶらぶらしていると、B君に合った。B君とは中学時代よく遊んでいて親は僕とBくんが友人だと思っているのだが、半ば手下のような扱いをされたので僕はあんまり友人とは思ってない。そんな微妙関係のBくんとはさしあたりのない話を少しした。Bくんは同窓会がある事を知らないのか、知ってて断ったのかは定かではないが、完全にもう帰るつもりらしかった。中学の時と同様に僕も流されて完全に帰る気になってしまった。

家に帰ると親から同窓会はどうだった?」と聞かれた。人混みに疲れた、とだけ言うともう何も言ってこなかった。

その日のうちに大学下宿に帰った。電車の中で、Aさんに返事が聞こえていても、誰の連絡先も知らないし誰も僕の連絡先を知らないな、と気づいた。

成人式から5年たった今でも誰の連絡先も知らない。だから同窓会がどうなったのかは分からない。

けれど、こうして時々、Aさんは元気にしてると良いなと思う。

anond:20200819110146

そっか、自分学校6月頭まで試験とかしてたけど場所によっては5月中に卒業式まで終えるところもあるかもね

2020-08-16

学歴が高い人の実家金持ちが多いってのはまじ

・みんな2-3万/月くらいしか稼いでない。(バイトって103万ギリギリまで稼ぐものだと思っていた)

・みんな月に1-2着1万円を超える服買ってる(3980円超える服は年数回しか買わないし、1万超える服成人式後のパーティーで着るドレスしか買ったことない)

・毎年の分厚い教科書をみんな定価で買う(理系の専門書は全部揃えると数万円して高すぎるのでわたしメルカリや先輩を使いまくってた)

・全部デパコスで揃えてる(ポイントメイクは全部プチプラで十分だと思ってた)

・値段気にせず留学先を決めてた(わたしは全額奨学金で行ける留学を探して、夢のオーストラリアヨーロッパは諦め東南アジアサバイバル生活してきた)

卒業式レンタル袴、下は5万から上は10万まであったけど、みんな当たり前のように10万円のブースを見る(どうせ借りれないから5.6万のブースしか見なかったけどそれでも高かった…)

そもそもみんな家族カード普通に買い物していた(わたし家族カードかい存在途中まで知らなかった)

わたしも塾に通わせてもらってたし、学費も払ってもらってたし、自分の家は特別お金持ちじゃないけど、普通以上だと思っていた。だけど、大学生活通してもしかして貧乏なのか?って思うほど周りが凄すぎた。というか周りが普通自分の家が貧乏だと錯覚していた。(そのせいで親には何回か嫌なことを言ってしまいとても反省している)

今は社会人になって、ようやく金銭感覚があの頃の友人に追いついた。でもそれは手取りを全部自分のために使えるから結婚して子供産んだ上で、その子供に今の私と同じ金銭感覚で困らせない実家、やっぱり裕福だわ。

ちなみに勉強が嫌いであまり偏差値が高くない大学に通ってる妹に聞くと、わたしの周りにいるような人はいないらしいのでやはり表題のことは事実…かも?

2020-08-15

anond:20200815233918

大学卒業式に一緒に出た同級生とかがタレこむよ。

公務員コンビニで飯買ってただけでも近所住民がタレこむし。

壁に耳と目あり障子に耳と目あり。

頭も尻も、もっと大事なところも隠せず。

夏の懺悔

終戦の日は、Y君の命日です。

高校時代同級生Y君とは、それほど親しくありませんでした。同級生とは言っても、三年間で同じクラスだったのは一年生の時だけでした。その後は、時折廊下などで会った時に軽く話をし、稀にメールをする程度の仲でした。

Y君は、予備校の友人と二人で海水浴場に行って事故に遭ったそうです。酷く天気の悪い日で、彼らの他に誰も泳いでいなかったと伝え聴いています。それ以上Y君の死の理由は誰も話しません。みな察しがついているからです。

しかし、僕は彼の死の理由と向き合う必要があります。悼むだけでは足りないほどの仕打ちを、僕は彼にしてきました。

Y君と最初に話したのは、高校入学初日です。僕らの高校は、マンモス私立高校で、大概は公立高校受験に失敗した人間が行く学校でした。お世辞にも賢い学校とは言えません。それでも、それなりの生徒を集めて、特進クラスが二クラス編成されます。僕らのクラスはその一つでした。

入学からしばらくは、みな口々にどこの高校に落ちてこの学校に来たのかを話していました。例によってY君も学区一番の難関公立高校に落ちたそうです。最も、僕らの高校の進学クラスの大半は、その高校か、県下トップ公立高校を落ちてきた人間でした。

はじめは出席番号の近い者同士で輪になるものです。彼と僕の出席番号は二番違いでした。ゴールデンウィークに入る頃には友情の再編成が済み、僕らは別々の交友グループに加わって行きました。

から見ていて、グループの中のY君の地位は極めて低かったと記憶しています。彼らのグループはみなテニス部でした。Y君はいつもいじられる役回りを演じていました。自分から話を切り出しても「調子乗るなよ」という言葉を掛けられている様子をよく見かけました。

入学式が終わってすぐに、実力試験を受けさせられます。Y君の試験結果がどうであったか僕は知りません。少なくとも、僕より上ではなかったことは確かです。学年トップ十人は公表され、僕は四位でした。

第一志望でこの高校に進んだ僕は、周囲から奇異の目で見られていました。ただ一人、Y君だけは、周囲と少し違う反応をしていたのでよく覚えています。Y君の同じ中学校で、学区トップ合格間違いなしと言われて落ちた二人を、僕は下しました。そのことをY君は自分のことのように喜んでいました。

「四位なのに、第一志望でこの学校にきたんだね。」

「こういう人も来るくらいの高校なんだから俺も勉強しよう」

その時の僕にはまだ、そんな理由勉強をはじめようと思う理由理解できませんでした。彼にとって高校はどのような意味をもった場なのかと怪訝に思いました。今になって思えば、不本意入学した学校について、明るく思える理由を見つけられた日だったのでしょう。

とは言っても、その後Y君が試験ライバルとなることはありませんでした。二年生からは、進学クラス文系理系とで別れてしまい、一緒になることはありませんでした。英語の授業だけは進学クラスクラス合同で、レベルごとの三グループに別れて開かれていたが、ついに一緒になることはありませんでした。二年間、Y君は成績下位クラスから上がって来ませんでした。

交友グループが完全に別れてからも、僕はたまにY君と話す機会がありました。というのも通学に使う電車の駅が同じだったのです。そうかと言って一緒に通う約束をするような仲でもありませんでした。遭えば多少話をするといった具合でした。Y君はよく話しかけてきましたが、僕から何か話しかけたという記憶はあまりありません。

彼の家はごく近所でしたが彼の家に遊びに行ったことはありません。詳細な場所も知らず、団地の名前で知っているだけでした。僕は中学卒業後にこの街引っ越してきたので、同じ中学校出身というわけでもありません。彼が普段通学路にしていた道が、僕の部屋の窓から見えますしかし、駅との直線距離上に住んでいる人と思っているだけでした。

Y君はテニス部に入部していました。中学から続けていたと聴いていますしかし、同じクラステニス部から伝え聞くかぎり、部の中での実力ははじめから下位だったそうです。Y君は小柄で、先も細く、よく中学生のようだとからかわれていました。

Y君と同じグループテニス部員は、高校二年にあがるまでに部活を辞めてしまいました。部員の層は厚くないものの、後輩にも実力で追い抜かれ、Y君は引退まで団体戦メンバーに入ることはなかったそうです。

とき一年生の頃にY君と同じ班だったM君は強豪のサッカー部員でした。髪を染めピアスをしていたM君は、Y君に対していつも高圧的な態度をとり、掃除当番を押し付けて、誰よりも早く部活練習に行き、後にレギュラーの座を得ていました。少なくともY君はそのような気概を持ち合わせてはいないように見えました。

僕らの通った高校には、進学クラスを中心とした三泊四日の受験勉強合宿がありました。合宿中は山のように課題を出されました。ホテルに着いて早々、会議室に籠ってひたすらに特別授業を聴かされました。それが終われば翌日までに解いてこいとプリントを大量に渡されました。まともに取り組んで解き切れる量ではなく、教師もその事を知った上で出していた節がありました。それでも僕らは、教師の鼻を明かしてやろうと思って夜を徹して問題を解いていました。

Y君は、ちょっと問題を解いては周りに話しかけていました。「どこまで進んだ?」「この問題どう解くの?」と。そして周囲が邪魔そうな顔をすると自虐的に謝った後、「よし、俺も集中する」と宣言して問題に取り組み、三十分と保たずに振り出しに戻るのでした。

高校二年の頃、しばしば僕はY君のクラスでごく親しい友人と受験勉強ノウハウや、進行状況について情報交換をしていました。そこに、部活休みになってY君が加わったことが何度かあります

Y君が、自分勉強について詳細を語ったことはありませんでした。自分より成績の良い人間発言には同意をし、自分と「同等程度以下」と思っている人間発言にはあまり信用していないような素振りをしていました。しかし、前者が後者発言賛同すると、途端に賛同し出す、風見鶏な態度で話に加わっていました。

僕らはみな自分に合わせて勉強スタイルを組み立てていました。Y君には、そのような節はなく、彼の尊敬する誰かの勉強の仕方を真似しているだけでした。正確には、真似している「つもり」なだけでした。

僕がセンター試験模試で九割をマークした時、Y君が英語勉強内容について尋ねてきました。その頃僕は学校で配られた基礎的な問題集で文法問題毎日大量にこなしていました。ケアレスミスを減らしつつ長文問題に十分な時間を確保するためでした。自宅学習英語の長文に充てられるよう、学校での細切れの時間文法勉強していた方が都合よかったのです。

そのような事情は告げず、学校で配られた問題集を解いているとだけ告げると、Y君は基礎的な問題集にずっと取り組んでいました。かなり後になってから知ったことですが、Y君は毎度の模試では長文問題で大量失点を繰り返していました。長文を読む訓練からはじめるべきだったのに、同じ文法問題集に何周も取り組み続けていたのです。その後も彼は模試の度に取り組んでいる問題集を尋ねに来ましたが、僕は同じ問題集だと答え続けていました。

時を同じくして学年上位の人間が「単語力が足りない。」と言ってハイレベル英単語帳に噛りつくと、Y君はそれを無条件に肯定し、同じ単語帳に取り組み出しました。

学年上位の彼女場合、元から基礎的な語彙力・単語力がしっかりあり、それに支えられて文法問題を解きこなし、身に付けた語彙・文法で長文を読み解き、総合的な英語力を身に着けた後に、日々取り組む実践問題の中で単語力の不足を感じていたのでした。Y君は、そのような事情を知る由もありません。

すべての教科の勉強がこのような具合で、Y君の受験勉強は日々、一貫しないものになっていきました。誰かが「基礎をしっかりしないといけない」と言えば同意をし、しばらく基礎的な勉強を繰り返し、また誰かが「基礎ばかりで実践レベル問題が解けない」と言えば、応用問題を解き始めました。Y君は、自分の実力を冷静にみて勉強する習慣がなかったのです。

試験が終わっても模試が終わっても、Y君はいつも「次で挽回する」とだけ言って答案用紙を二つ折りにして閉まってしまい、自分が何を間違えたのか何が不足しているのか反省をしているようには見えませんでした。僕らは答案を見せ合い、点数をひけらかし合い、同時に何を間違えたのかも見られ、ときには馬鹿にされ、それを恥じ、次には同じ過ちをしまいと心に誓ったのです。そして口々、「次の試験では負けない」と言い合うのでした。

Y君は、ただひたすらに成績上位の級友に勉強方法勉強内容を尋ね、それを真似してみるだけでした。あるいは、それで成績の落ちた級友に反省点を尋ねてみるだけでした。自分の頭を使って、自分必要勉強をして成績を上げようという姿勢が見られませんでした。

高校二年の秋頃から、学年トップ十人の常連の内で、制服に細工をするのが流行りました。理科実験から拝借してきた薬品で五円玉や五十円玉を磨き上げ、ブレザーの左胸にある校章の裏に挟むのです。すると鳥をあしらった校章が後光の差したように見えます。上位三人が五円玉を、残り七人が五十円玉をはさみ模試のたびに奪い合うのです。

事情を知らぬ者が見れば、何のこともない遊びです。どんなにかよく言っても「お洒落」程度のことです。何も知らないでY君がそれを真似して校章に五円玉を挟んでいたのを、僕らは影でクスクスと笑いました。自分の手で掴む喜びを知らないで、努力する苦しみを知らないで、努力した者の成果にだけ憧れるY君の態度を、僕らは気づき、そして内心侮蔑眼差しで見ていました。鈍い色の五円玉が、それを象徴しているように思えたのです。

勉強をしたかテストの結果が伴うのだという自信が、僕らの中にありました。また、勉強していないから全国模試で他校の人間に負けるのだと悔しがっていました。進学クラスの同志とともに学内順位一喜一憂するのは全国模試で泣くほど悔しい思いをした腹癒せであり、本懐はみな志望校への合格でした。

正直に言えば、僕は心底彼を見下していました。大した進学校でもない私立高校の成績上位だけを見て、「◯◯君、勉強できるもんね」と言えてしまうY君の姿勢を、僕は内心唾棄すべき存在だと思うようになっていました。

僕は、努力方向性を間違える人間愚か者だと思っていました。そして努力すらしようとしない人間軽蔑していました。他の何もかも投げ打って練習に取り組むわけでもなく実りのない部活動にただ漫然と時間を費やすY君の姿勢は、まさに軽蔑対象でした。「三年の夏に部活引退したら、本格的に受験勉強をする」というY君の弁に至っては、この時点でもう勝負はついていると僕は思いましたが、哀れな奴だと思うことにして黙っていました。

当時進学クラスの上位面々にしても、実際には大した学力は持ち合わせていませんでした。勉強すればするほど募る不安を振り払うべく、ビックマウスで自分鼓舞させ、歯を食いしばって受験勉強に打ち込んでいたのです。

みな手の内を知っているから言い合えた言葉がありました。「普通クラスの連中が努力して行くような大学から日東駒専は滑り止め」「明青立法中はセンター利用入試で一学部学部抑えて、あとは試験慣れ」「本命早慶国公立大学

Y君が目指したのも、早慶文系学部でした。折りに触れ志望学部を聞いた時に「受かったらいいなぁ」という言い方をしていたので、どこまで本気で受験していたのか分かりません。また彼が将来どういう職業に就きたくてその大学を目指したのかも知りません。いずれにしても、当時のY君の実力からすれば、合格絶望的なので記念受験だったと思います

日本で双璧をためす有名私立大学どころか、当時のY君は本気で日東駒専第一志望にして対策を組んで然るべき成績でした。それにも関わらず、十分な対策をしていなかったのでしょう。そのレベル大学を「滑り止め」として受験し、行き場がなく浪人が決まりました。

先にテニス部を辞めたある級友は、有名私立大学合格しました。Y君から学業面で「同等程度以下」と思われていましたが、彼は初めからY君より成績は良く、そして努力甲斐あって志望校合格しました。Y君が、センター利用試験で抑えるつもりだったレベル大学です。

高校卒業式で、Y君は自宅浪人をするつもりだと話していました。図書館勉強している方が集中できるからだと本人は話していました。それを聴いて、受験勉強のやり方を根本から間違えているのだから予備校に通わなければY君は同じ失敗するだろうと、僕は思っていました。

僕も浪人が決まっており、同じ境遇の友人らと、どこの予備校に行くか、予備校が始まるまでどう過ごすか情報交換をしていました。しかし、僕は、彼と同じ予備校に通うのは自分精神衛生に悪いと思い、誘いませんでした。

僕は気心が知れた戦友二人と予備校生活を送りました。定期的に他の予備校に通っている元同級生とも食事に繰り出し、情報交換とリフレッシュをしていました。時には勉強会を開き、時には悪い遊びに繰り出し、予備校生活を満喫しました。僕はY君に対して意図的に声をかけませんでした。

Y君が亡くなった後、彼がどのような浪人生活一年目を送ったのか、聴いて回っても誰も知りませんでした。分かっているのは結果だけです。一年後の再戦にY君は敗れました。彼が受かったのは、日東駒専文系学部一つでした。浪人してそんな大学行けないと、二浪することを決めたそうです。Y君と伴に最後までテニス部にいた普通クラス出身者が、予備校生活の後に地元国立大学教育学部合格したのも少なからず影響があったと思います

Y君の二浪目については、僅かながらに噂が流れていました。僕らが通った予備校とは別の大手予備校に通ったと聴いています。そしてそれはY君の両親の望みだったという話です。しかしそれ以上のことは誰も知りませんでした。

Y君は、限りなく記念受験に近いであろう第一志望の早稲田大学に落ちました。それでも、今度は明青立法レベル大学に手応えを感じていたそうです。高校時代担任教師の元には、今度は大丈夫そうだとメールが来たそうです。滑り止めに受けた日東駒専合格は決まっていました。

しかし受かった手応えを感じていた青山学院大学は、不合格だったそうです。その結果が判明した時、既に日東駒専手続き期日は過ぎていたそうです。二浪して予備校に通い、親に負担を掛けたくない気持ちが働いたのでしょう、Y君は日東駒専入学一時金を払わなかったそうです。

かくしてY君は三浪目が決まりました。その頃のことは、Y君の級友何人かが打ち明けられていました。「一浪二浪までは変換できるけど、三浪って、ケータイ変換できないんだね」Y君からある友人に宛てられた最後メールには、そう書かれていたそうです。

苦しさは後に喜びがあると知っているから耐えられるものです。喜びのために経験する苦しさと、苦しさの後にある喜びとは、価値が全く異なります。失敗の先に成功を掴んだ人間けが成功評価できますしか成功を掴めない人間には、そのような言葉は無力です。苦しさの中でも特に失敗は辛く、とても重ねていられるものではありません。

三浪目の夏、Y君は、予備校の友人と二人で海に行き、事故に遭ったことになっています。酷く天気の悪い日で、盆過ぎの海水浴場には彼らの他に誰もいなかったと伝え聴いています

同行したのが同じ予備校の友人であるのかは分かりません。しかしその新聞を調べてみると、天気予報では、県内は午前曇、午後から雨となっていました。海水浴に出かける天気ではありません。実際の天気を調べてみても、前日から曇り、実際に曇のち雨だったようです。

二人は遊泳禁止柵を超えて、外へ外へと泳いでいったそうです。友人はしばらくして怖くなり引き返し、Y君のことを警察通報したそうです。海上保安庁警察が捜索したものの、Y君が発見されたのはそれから二日後のことでした。

沖に流されて生還した人の体験談を、折りに触れ読んでみました。だんだんと手足の感覚が無くなって行き、全身が重く感じられ、乾きと苦しさと絶望のあまりに、自ら沈もうとしても身体は死を受け入れず、数時間に渡って浮かんでいると言います。その間、Y君は何を思ったのでしょう。

暗く塩辛海の底に引きずり込まれるまでの数時間、海に来たことを後悔するのでしょうか。自らの力の無さを恨むのでしょうか。早くから勉強しなかったことを悔やむのでしょうか。時代を恨むのでしょうか。日本社会を恨むのでしょうか。

人生の遠回りを許さな日本空気に、Y君は命を奪われました、一体誰が仇をとってくれるのでしょうか――僕はそう思うことで、Y君の死は、自分責任ではないと思い込もうとして来ました。そんな綺麗事では済みません。彼を死に追いやったのは僕らです。

彼の学業上の相談に乗らなかったのは、彼が気楽に、好きなことをしていたことに対する妬みです。彼が、僕の思う独善的な「努力」をしないことについて、快く思っていなかったからです。「努力」などと呼んでいいものではありません。自分の味わった苦しみを人も味わえばいいという意識は、酷い嫉妬心に過ぎません。

彼が学業面で悪循環に陥っていると知りながら、僕ら「成績上位者」を誤解していることと知りながら、僕らが手の内を明かさなかったのは不当な仕打ちです。Y君は、級友の受験勉強という、励まされる理由にも自信を持つ理由にもならないものを盲信していました。そして、僕らはそのことの具合の悪さに気づいていながら放置し、影で嘲笑っていました。僕らはY君の話を聞ける関係にあったのに、聞かずに見殺しにしました。

こうまで酷い仕打ちをして、どうして彼の死を受け止めて来られなかったのでしょう。

今なお、僕は「僕ら」でないと責任を背負えない弱い人間です。そんな僕にも毎年夏は訪れますしかし、今に自分一人、罪の念を免れたいがために記憶を上塗りし、忘れ去ってしまうことでしょう。あるいは、もうそれは始まっているのかも知れません。

実家にある、かつての僕の部屋からは、一車線しかない県道が望めます。Y君が三年間、高校に通うために歩いた道です。なんの変哲もなく、田んぼと林に囲まれ田舎風景です。僕が彼から奪ってしまったものの一つです。

今はまだ、入道雲青空に彩られたこ風景に罪の意識を覚えます

2020-08-13

中学卒業式のあと、ほかの小学校出身のやつらが母校訪問するのについて行って、初対面の先生に「僕もも中学卒業ですよ!先生僕のこと覚えてますか?」つってた記憶が突然蘇ってきた

あのときはまだ社交性があったのか?とも思うが、そういうハレの空気に水をさすようなキモい真似をするあたりすでに社交性は壊滅していたのかもしれないとも思う

2020-08-10

34歳の喪女

顔面気持ち悪さと性格の悪さで男女からばい菌扱い

クラスでも浮いていた存在

35歳の人も26歳の人も彼氏がいただけいい

告白されたこともない彼氏いたことない

高校の頃卒業式自分名前が呼ばれる時に

悪い意味で来た来たwwと言われ

影でヒソヒソ言われたこともある

学年のイケメンにも冷たく対応されたこともある

私が結婚どころか彼氏なんてありえない

私自身が気持ち悪い存在から彼氏デートして楽しく過ごすなんて考えただけでゾッとする

だって私自笑顔気持ちが悪いか

anond:20200809165750

広島日教組の力が強すぎて教育環境がとんでもなく糞だぞ

卒業式国旗を掲揚するしないで校長職員が揉めるのが恒例行事

民間から採用された校長が板挟みになって自殺したこともあった

2020-08-05

「育ちがよさそう」? はぁ? ふざけんな死ね

一応スペック

20代、女

東京出身、在住、実家戸建

父親教員母親専業主婦

中学お受験して大学までエスカレーター進学

・中高大の卒業式でそれぞれ成績上位者として表彰される

・受けた公務員試験に全通、新卒地元役所に勤務

・色白、黒髪ロング、細身、おっとり、おとなしい

お菓子作り、裁縫が上手そう

実態

アラサー喪女真正)、処女真正

実家から一度も出たことないパラサイトシングル(たぶん一生)

創価三世なので、父親仕事創価母親は一日中創価活動をしている

創価中学受験合格してしまったので、流れで大学まで通ってしま

・家庭環境学歴とは裏腹に信仰心がまったく育成されず、うわべだけ創価サラブレッドになってしまい後戻りができない状況

・生まれからずっと陰キャ腐女子に囲まれていたが、腐女子趣味がまったく理解できず完全に孤立

創価選挙活動をしたくなさすぎて公務員になったものの、周囲が高学歴陽キャしかおらず完全に孤立

過労死レベル残業まみれで倒れ、うつ休職を試みるも上司の圧でおじゃん

・色白、黒髪ロング、細身、コミュ障の芋ドブス

お菓子料理も作れない、裁縫ボタンつけもできない、家事生活力ゼロ

創価人間には「恵まれてる環境」で育ってる生まれながらの幸福人間扱いされてまじできもい。それ以外の人には苦労知らず世間知らずで人生なぁなぁでのしあがってきたゆとり女扱いされる。どっちも的外れすぎてうぜえ。

親死んだとか虐待されてたとか、いじめ不登校時代があったとか、わかりやすい不幸話がないだけで人生エアプ認定してくるやつ全員死ね。やっすい不幸あるあるマウントとってくるやつも死ね

2020-07-31

以前同じ部署に小言ばかりいってくる糞面倒くさいAさんという社員が居た

年次でいうと自分よりも3つ上だがさほど有能というわけでもない

初対面のときから感じ悪い人だなと思っていたが、仕事を進めていくと更に関係性は悪化した

自分作成した文書稟議書はAさんを経由して課長部長へと上がっていくのだが、Aさんのところでいつも無駄に止まっている

やっと作業をしてくれたかと思うとどうでもいい些末な点を挙げ足をとるように指摘してくるので、「そういうのはどうでもいいから早く回すことに専念してくださいよ」と言ってしまたこともあった

その後、2年ほどしてAさんは他の部署へ異動したのだが、異動後に自分案件について事務処理ミスや他部署からクレームが頻発するようになった

Aさんは事務処理にも精通していて、予めエラーが出そうなところは手当し、他部署からクレームが出そうな案件についても根回しを済ませたうえで稟議を回していたのだった

そんなことがあり落ち込んでいたところでAさんと社内で会う機会があったので、「前は色々と迷惑おかけして申し訳ありませんでした」と謝罪した

別にいいよ その分お前も後輩社員の面倒を見てやれよ」とでも言って済ませてくれるのではないか勝手に思い込んでいた面も無い訳ではなかった

そういうのを全てAさんには見抜かれていたのだと思う 

卒業式とか同窓会とかでイジメっ子がイジメていた奴に謝る的なアレ、自分がすっきりするために勝手に謝るやつみたいな感じなのだ

自分よりも年上の人間に対してあれだけ礼を失した態度とっておいて、申し訳ないの一言で済むと思ってる時点で頭がおかしい」

「根回ししていたのもお前のためじゃなく、自分評価を上げるため。お前みたいに自分の力で全部出来てると勘違いしてる若手を裏でフォローすると上はすごく評価してくれる」

普通ならその場でミスを指摘するんだろうけどお前の態度が気に食わなかったから全てお前に分からないように修正したり根回ししたりした

 だからどうすれば上手く案件を回せるかお前は全く分かってないだろう せいぜいこれからミスを連発してくれ」

「何かの間違いでお前とまた同じ部署になったとき、俺の職位が上になってたら出社拒否したくなるくらいまで徹底的に追い込んでやるから楽しみにしてろ」

と吐き捨てるように言われた

全て自分の撒いた種なんだから仕方ないよなあと思いながら、こちらに背を向けて歩き去るAさんに向けて鼻くそ丸め飛ばし

2020-07-26

ニキビ皮膚科

Twitter広告で何度も何度も違う作者の同じ内容の漫画で「ニキビに悩む学生が知り合いに勧められて皮膚科にかかって治ってハッピーニキビ皮膚科へ!」っていうのをみて急に思い出した奴のこと。

高校一年生の始めのころ、斜め前の席だった大人しそうな女の子で、同じ中学の奴ともつるまず一人で弁当食ってたの覚えてる。途中からは同じ部活の男女と食べてることもあったか友達がいない訳では無かったと思うけど、詳しいことは知らない。喋ったことも無かったし。

の子、いつからだったのかわからないけど、気がついたら顔中にニキビたくさんできて、どんどん悪化して、最後の方は頬もただれて真っ赤にしてた。

そのうち学校に来なくなって、しばらくしてから「皮膚移植することになって休学することになったから」と担任に言われて寄せ書きを書くことになった。仲良しクラスって訳でもなく、荒れてるクラスでもなく、って感じだったからみんな無難に「早く良くなると良いな」とか「元気になって早く学校に戻ってね」とか、まぁ当たり障りのないこと書いたと思う。

結局その年は復学しなくて、二年三年になれば一年の途中で休学した奴のことなんか普通に忘れてたんだけど、卒業式の時に一年の時の同じクラスの奴からメール回ってきて、「あいつあの後一年遅れて復学したけどすぐ退学しちゃって先月自殺したらしいよ」ってのを知って、へぇ…そんなことになってたんだ…と思った。治らなかったのか、一年下のクラスに馴染めなかったのか…こんな田舎でも自殺する高校生とかそんなこともあるんだな〜くらいで特に悲しいとかもなかったしすぐ忘れた。

Twitterで「まーた広告漫画かよ」って思ったら急に思い出した。べつに後悔とか懺悔とかなんらかの示唆とか何も無いんだけど、早く皮膚科行くのは大事だけど、皮膚科行ったら人生元通りかっていったらそうとは限らんのかな…と思ったから書いた。それだけ。

2020-07-22

うつ病休職して1ヶ月経つんうつになったきっかけとか書く①

6月頃に一回自殺未遂したけど死ねなかった女の話です。

したことは書いてないけど「へーこういう女もいるんだな」って思ってください。

休職中ずっと増田読み漁って色々な考えに触れたので、この記事も誰かの役に立てばいいな、と思います

クソ長い自語り、家庭環境諸々から書いてみる。ちょっとフェイク入れてるし人名は全部仮名です。


私について

北海道から上京してきた20代前半、上京してきて多分4年。学歴は専門卒、高校工業出身。今年始めて彼氏が出来た陰キャ

きしょいオタク文章書くのは割と好き。漫画アニメソシャゲ全部好き。乙女コンテンツに入り浸る典型的な女ヲタ

母(7人兄弟の次女:中卒)、弟2人の母子家庭。弟は今21(医療系の大学)、20(専門学校)。父親は小5の時に離婚した。

記憶にないけど死んだ妹がいる(私の1つ下だと思う、親に未だに聞けてない)

両親も親戚もみんなオタク父親ラムちゃんアイマスプロレス母親最近イケメンシリーズ、ボイフレ、アンジェと遥か、アトラスゲー。

弟2人はFPSとかモンハン兄弟二人ともゲーマーガチ世界ランク上位に入るレベル。一番下は格ゲーボドゲに目覚めた。

実家は村に近い山奥のドドドドド田舎同級生農家酪農やってる子がいっぱいいる。


小さい時

育ての親は母親の妹(3女:以下さっちゃん)。母親は働きに出てた。多分パートだったのかな?分からん

保育園に入ったのが5歳くらいだったんでそれまでは母方の祖母の家に預けられて育った。

イマジナリーフレンドが4人いた(らしい)、よく見えないお友達と遊んで親戚をビビらせた。ごめん。

ちなみにお婆ちゃんは私の見えないお友達存在しているもの扱いしてたらしい。とんでもねえばあちゃんだ……


物心ついたときには父方の祖母と両親、弟2人と一軒家に引っ越してた。

保育園に入った時にはもう住んでた。この頃から父方のおばあちゃん長男の弟かわいいで私に対して興味なかった。つーか嫌いだったのかも。

母親は土日関係ないサービス業なので、土日の食事祖母。弟たちの分はあっても私の分は無いとかザラだった。今思えば普通に虐待

ただご飯が無くてもゲームと本があれば全然平気だったのでお母さんは私がご飯を食べてないのを知らなかった。

後に私がさっちゃんに「お母さん(これは父方の祖母を指す、実母はママ)がごはんくれない」と遊びに来た時に漏らしたらしい。

当然ながら怒り狂う母とさっちゃん。父方の祖母は「お腹へったって言わないからいらないと思った」としれっとした顔で言ったのを見て目眩がしたらしい。そらそう……。

あとはさっちゃんが当時、父方の祖母の作ったご飯を食べてあまりの味の薄さに「これを毎日食べてて、ごはんも用意してもらえない日がある、食べた気しないんじゃ……」って思ったら私が不憫すぎて車で泣いたと聞いた。

かに味は薄かった。天ぷらだけはめちゃくちゃ美味しかったな。今狂ったように辛いものとしょっぱいものを食べてるのはその時も反動かもしれない。



小学生時代

全学年2クラス、2年ごとにクラス替えだった。2クラスしかないんで全員顔見知り状態

入学してからは超絶人見知りを発揮。保育園の頃に仲良くしてくれた子たちとだけ交流してた。毎日連絡帳に口数が少ないとか書かれてた。

家が近所のゆみちゃんと一緒に登下校してた。お互い何も言わなくても一緒に帰る仲だった。今は看護師やってるらしい。

教室でずっと本読んでた。徐々に色んな子と喋れるようになる。ぼっちに話しかけてくれたみほちゃんありがとう……

あとは算数が出来なくて宿題解けない……って泣いた記憶がある。ちなみに時計が読めなかった。


3年生ぐらいか普通に社交的になったと思う。クラス委員長とか誰もやらないなら…でやり始める。この時ちゃお読んでた。

この頃、休み時間教室以外にも図書室で本を読む女になってた。

同時期ぐらいに父親仕事をクビになってニート引きこもりになった。今で言うFXかな?やってたらしい。けど、あんま才能無かったのかも。

ただ、父親なりに色々と私も含めてかわいがってくれてたと思う。漫画とか全部父親が買ってくれてた。


高学年に上がってからは弟2人も一緒に学校に行くようになってたので、周りの親から評価めっちゃ高かった。

勉強ができて、運動もできて(足が速いだけ)、面倒見もいい女の子

実際、3年からは毎回クラス委員長だったし、同じクラスになったことない子も下の兄弟同級生同士で仲良し~とかあった。

ちなみにこの頃はちゃお少年Aジャンプ、母方の祖母の家でガンガンGファンタジー読んでた。


ただ両親がしょっちゅう家で喧嘩してた。祖母の部屋は1階、私達の部屋は2階。

多分祖母は病んでたのか、深夜に父親の部屋の前で名前を呼んでいるのを見た。めちゃくちゃ怖くて夜中トイレ行けなくなった。

祖母の私と弟への差別は益々酷くなっていて、私の家で友達と遊んでる時に「ごはんの準備しろ」「洗濯干してこい」とか言うようになる。

弟がなにか手伝おうものなら「あんたは長男からしなくていい」って言ったの聞いてなんで?と思ったけど、弟に手伝わせるのも可哀想だなと思って大丈夫って言ってた。


小5の夏、庭で土いじりしてる祖母に「倉庫からスコップ持ってきて(でかいやつ)」と言われてめんどくさいな~って思いながら取りに行った。

祖母に渡すために後ろに立った時、(あ、これ今殴れるな……殺してもいいんじゃない?)って思った。今思えばこの時には既に私ももう心を病んでいたのかもしれん。

その後、親が離婚して一軒家から団地引っ越した。離婚父親には一度も会ったことない。ただ、車で事故って半身不随になったのは聞いた。


これは高校に入ってから母親に聞いたけど、あの頃の祖母は枕の下に包丁を入れて寝てたらしい。こえーよ。病むっていうかキチだと思う。

母親はい祖母に殺されるか分からなくて毎日不眠の状態仕事に行ってたらしい。それでも授業参観運動会も学芸会絶対全部来てくれた。



中学生時代

田舎あるある小学校から生徒が全員持ち上がりなので知らない子はいない。お母さんがパソコン買ってくれたのもこの時じゃなかろうか。

半年間は平和だった。でも、中1の秋頃から毎日登下校をともにした仲良しのゆみちゃんいじめを受け始める。

ゆみちゃん堀北真希に似てる超絶美少女で、当時仲の良い男の子に数合わせでいいから、という理由野球部所属していた。私はゆみちゃんに「1人じゃ不安から……」と頼まれ野球部に入った。

まあよくある、男の集団に女がいるの気に入らないムキーッみたいなのが原因だったんだと思う。いじめてたのは女バスと女バドの5、6人。

私はゆみちゃんいじめを受けてるのも知ってた上で普通に仲良くしてた。ゆみちゃんの家も母子家庭で、当時は母親が家に彼氏を連れ込んで家に居にくいからってよく私の家で過ごしてた。

彼女の凄いところは毎日学校に行ってたところだと思う。私に泣きながら「リスカが止まらない」と相談してくれたこと、リスカ跡は今でも忘れない。


結局、ゆみちゃんは2年に上がるタイミングで転校した。その結果どうなったか

私がいじめを受け始める。いやなんでだよ。私は当時160cm80kgのデブだぞ。何が気に食わねえんだよ。と思ったけどいじめ相手が居なくなったから仲良かった私になった。

ただ、いじめられてることに気付いたのがゆみちゃんが転校してから2ヶ月後くらいだった。私は超鈍かった。周りは気付いてるけど自分だけ気付いてなかった。

なんでか自分ノートがないとか、教科書がないとか、下駄箱の上靴がないとか。そういう事が起こってから気付いた。

当時から仲良かった子に「あの頃めっちゃ陰口言われてたし、あんたと話したら次お前をいじめるとか言われたことあるで」って言われた。

そういえば当時はいじめを題材にしたドラマ流行ってたし、あれはいじめのお手本になってたなと思う。本当によくない。


中2の夏ぐらいだったかな。衣替えするかしないか、とかだった気もするから9月ぐらいかも。半年くらい我慢して学校に通ってた。

私は学校に行くのやめた。というか、行けなくなった、のほうが正しいかもしれない。制服を見ると気持ち悪くなって泣きそうになった。

休みたかったけど、母親は私が生理痛で辛い、と言えば痛み止め飲んででも学校に行け、サボるなと言う人だった。休むことはサボりだと言う人だった。

それでも母親には迷惑かけたくない、という一心で吐きそうになりながら学校に行くフリをしながらおばあちゃんの家に行った。

おばあちゃんは何も言わなかったし、おばあちゃんちの犬と遊ぶのが好きだった。おばあちゃんの膝が悪いから代わりに散歩に行ったのも覚えてる。

ただ、学校担任から「1週間ほど無断欠席が続いてるが大丈夫か」という連絡が家に入りバレてめちゃくちゃ怒られる。怒られた時に初めていじめられてると言えた。

母親はその日のうちに学校電話をして、学校側もいじめを知ってたけど本人が言わないから、とかそういう理由で何もしてなかったらしい。

後日、私は学校に行っていじめてきた女たちから「形だけのごめんなさい」を受ける。クソ無意味。謝られたからと言って事実は消えないわけだし。

どのみち私は学校に行っても教室に入れなかったし、教室に入れないなら授業も受けられない。だったら行く意味が無いな、と思って家に引きこもるようになる。

家に引きこもってる間も勉強は出来た。そう、みんな大好きTwitterです。当時高校生だったり大学生だったフォロワーたちが勉強を教えてくれた。スカイプ使って。


ネットが私の居場所だった。勉強ってどこでも出来るんだ、って思った。


そのフォロワーたちもいじめ経験した人たちで、私の学校に行けない、けど勉強はしたい、という気持ちに寄り添ってくれて教えてくれた。本当に頭が上がらない。

なので、テストがある日だけ学校に行った。テストは出席番号順で座るし、いじめっ子たちと真逆の席なのでその時だけは制服着て教室に入った。

クラスメイトたちは「久しぶり!」とか「テスト範囲大丈夫?」とか声かけてくれる子も結構居た。あの子達の勇気は今思うと凄い。

修学旅行は行ってない。何されるかわからないし。代わりに学校先生マンツーマン勉強した。凄い有意義時間の使い方だったなと思う。

卒業までテスト期間だけ登校する生徒をやった。家の近い子がテスト範囲プリントを持ってきてくれたし、フォロワーたちが勉強を教えてくれる日々が続いた。

高校は女で嫌な思いをしたので男子比率が高いし、比較的家から近い方(といってもバスで1時間)の工業を選んだ。仮に落ちたら通信制高校へ行く気でいた。

卒業式も出ていない。式が終わった次の日が高校合格発表で、無事に工業に受かったという報告と卒業証書アルバムをそこでもらった。アルバムはその日のうちに捨てたけどな。



高校時代

ぶっちゃけ担任がクソゴミだった。生徒の机を蹴って見せしめみたいに怒鳴り散らすタイプ体罰普通にあったし、クラスメイトの男子教室内でデカデカ万引を自慢するようなクラスだった。

担任はそれに対してもっとバレないようにやれとか、スリのほうが良いとか、教育者としてありえんことを言ってるのにドン引きして学校に行く気が失せた。

ラッキーなことに全日制の単位制だったので単位さえあれば進級できた。単位計算をして、単位分だけ出席した。常にギリギリ単位の女で普通科先生に「お前は出席点が足りない」と言われまくった。

後々、クラス男子に教科の単位を聞かれた。私と同じように単位しか出席しない人が増えたらしい。毎日の出席率は最悪だったと思う。まあ工業だしな。

担任露骨わたしを毛嫌いしてたし、私も嫌いだったのでお互い様だろと思ってた。高校ちゃんと授業に出たのは専門科目だけ。これだけは教科書読んでもどうにもならん。あとは実習。

他は中学の時と同じようにフォロワーを頼ったり、ネット検索したら大体答えの出し方があったので家で勉強してた。親は私が家に居ても何も言わなくなった。

学祭とか体育祭は出たことがない。強いて言うなら修学旅行東京だったので行った。お世話になったフォロワーたちに会いに行くという理由で。クラス女子は私含め7人で、うち1人は中学が一緒。

の子と出席番号が前後だったジャニヲタまなみちゃんと仲が良かった。ちなみにまなみちゃんまなみね、山田涼介くんのお嫁さんになるの!」と平然と教室でも言ってた強い女であるマジで強い。

ここまで書いてて思うけど本当に協調性のきの字もない女だな……。ちなみに進路相談も凄い適当で、適当AOで専門行くわ、と一方的に言って終わり。AO入試なんて軽い面談書類審査のみ。私は高3の夏休み中に進路が決まった。

この頃にハマってたのは黒子のバスケで私はほぼ毎日夢小説を書いて過ごしてた。あと支部BLも書いてた。当時黄黒を読んでた人はもしかしたら私の黄黒も読んだかもしれない。読んでくれた人が居たらありがとう

適当単位取って適当卒業した。これが私の高校時代の思い出である


専門学校は今までと比べたら楽しかった。ここでいろんな資格も取ったし、クラスメイトも普通に接してくれてた。唯一毎日学校に行けた時期だったと思う。ただ行事だけはゴミ

ここで就活頑張っとけばよかったんだよな~~~と思う。就活サボって適当に警備会社入社した。そしてこの後、地獄を見る。



2年間の社畜時代

前置きすると私より辛い人もいるとかそういうのはどうでもいい。私は私の辛いを話してるので。

上京してから半年横浜警備員をやってた。この半年はまだ良かった。残りの1年半は川崎地獄を見る。

警備は万年人手不足で月の休みは多くて4日、私が限界を迎える頃は3日だった。勤務時間は朝6時半~16時半の早番と13時半~23時半の遅番。あとは9時~22時までの中番。

入社時の条件は月8休みと言われてたのにマジで騙されたと思ってる。入社して半年は確かに8日間の休みがあった。でもその後から毎月3、4日の休み

休みの前日は絶対に夜間警備が入るため、帰宅は朝5時。当然、遅番か中番が終わった後に続勤。休みは実質半日しかない。寝て起きたら仕事に行く。

休めるわけねーだろバーーーーーーーーーーーーカ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

そりゃあ毎日寝ても寝ても眠いし、突然気分が落ち込むし、情緒があまりにも不安定にもなる。思えばもうこの時にはうつだったんじゃなかろうか。

心がしんどい……となり始めた頃、母親に「しごとつらい」といえば「社会なんてそんなもんだよ笑」と返ってきた。そして根拠のない「大丈夫!」「なんとかなるよ!」という返事。

私もそうだよね、なんとかなるよね、頑張るね、って返してた。これは絶対に良くなかったと思う。

そしてある日、体のほうが出社を拒否した。会社に行こうと思うのに涙が止まらない。手が震える。こりゃ今日出勤出来ねーわ、と思って職場電話を掛ければ「いや来てもらわなきゃ困る」。あっはい……。

無理に決まってんだろ、そう思いながら電話を切って母親電話した。泣きながら電話した母は、「偉い人に電話しなさい」と教えてくれて、私は本社に連絡を入れた。

元々寮で暮らしたこともあり、総務のとよく話をする事があったのでまずは総務に事情説明、そのまま直で警務部長から「休んで下さい」と言われた。

私は初めて、会社を休んだ。そしてそのまま退職した。

その時に初めてメンタル系の医者に行ったけど、まるで私がメンタル系にかかるの常習みたいな態度を取られるしいか自分が凄い医者なのかを言われた。あのクソジジイ一生許さねえ。



文字数制限引っかかったので適当に続き別の記事にでも書きます

2020-07-20

当時は学校休業不要とか言ってなかった?

https://www.tokyo-np.co.jp/article/43611

都立教員です。

思考停止」だとか「考える力のない人間教育を任せてる」だとか散々な言われようだが、現場感覚からすると、国旗国歌に関する決まり平時においてもその他の職務命令と比してアホかと思うくらい徹底して遵守を確認させられるので、通達があったらそりゃ従うだろうなと思ったのが最初感想

例えば、普通入学式卒業式の際にも国歌斉唱CDを流す場合なんかは、万が一CDが流れないと最悪は服務事故になりうるという認識があるため、担当教員ラジカセCDバックアップを用意しておいたりもする。そのくらい現場ビビってやってる。

そう。ビビってやってるだけ。まあ普通に考えればわかることだが、私の観測範囲では、嬉々として国旗に礼をして国歌を口ずさむ教員など見たことがない。皆「決まりから」「やらないと何言われるかわからいから」「評価に傷がついて次の異動先に希望が通らないかも知れないから」「ひょっとすると処罰であるかも知れないから」そうしているだけだ。

公立校教員基本的教育委員会の言いなりである。それを思考停止と言われればそれまでなのだが、言われた通りに動かないとそれはそれで市民は怒るじゃないですか。公務員のくせに、って。それでも思考して処罰されるのも厭わず通達に反した行動を起こせるのは、通達に従うことがそれなりに公共の福祉に反すると明らかなときだと思う。

しかし私は卒業式での国歌斉唱が、そうした事態に該当していたとは思わない。3月上旬といえば、学校休業によって生徒たちは街に溢れ、「学校休業は不要だったのではないか」という論調が幅をきかせていた頃だったと思う。むしろ、それでも殆ど都立校の卒業式では、出席者が卒業生教職員のみで、現在以上に生徒間の距離を確保しながら厳戒態勢で式を挙行していた。当時世の中で一番厳戒態勢を取っていた場所こそ学校だったのではないかとすら思うほどだ。当然、記事にある通り国歌斉唱も好ましくないという判断は各学校でもあっただろう。うちでも「大声では歌わないでください」という指示を出していたと記憶している。それこそ現場判断でやったことだった。

……とか言ってると正当化し過ぎと思われるかも知れないが、別に問題はなかった」と言いたいわけではない。今その判断を迫られれば、都立だって国歌斉唱などさせないだろう。そのくらいにはこの件には問題があった。しかし、3月前半の当時、世の中は斉唱をすることの危険性をそこまで明白に共有できていただろうか。この点を踏まえると、少し理不尽な叩かれ方だと感じる。

あと何より思うのは、国歌を歌えと言ってるのは国であり自治体であり教員は「歌わなくていいだろ」と言い続けた結果、公務員なんだからまりに従え!と言われて裁判負けて処罰されて今こうなってるわけで、別に「こんなこと」で処罰されないなら自分たち判断しますよと思うわけです。みんな「こんなこと」と思ってんだよね?なら強制しないで欲しいなって。

新型コロナウイルス感染大中の3月、東京都学校253校(当時)全ての卒業式で「君が代」が斉唱されていたことが、都教育委員会への取材で分かった。同月2日から全国一斉休校となり、飛沫感染懸念する学校もあったが、実施を求める都教委の指示に従っていた。専門家は「歌わない教職員処分が繰り返され、合理的判断ができなくなっている」と指摘する。

一番のリスクさらされたのは子供たちであるはずなのに、その点が何も触れられていない。

2020-07-17

別の理由でおもらしフェチをやめたい

私もおもらしフェチだが、やめたい理由増田とは違う。

私のオカズはおもらし小説女の子葛藤の末我慢我慢を重ね、決壊してしまう話が好きだ。

いうまでもなく、そういう話はバッドエンドが多い。おもらしは当人にとって不幸な事だからだ。

中には不登校になって引きこもってしまったり、友達に見捨てられてしまったり、その後どうなってしまうのだろう、自殺してしまうのでは、と思うような可哀想なバッドエンドを読んでしまったりする。

そんな時私はすごく沈み、不安で怖くて堪らなくなる。この子はその後どうなるのだろう。もう一生立ち直れないのではないか自殺してしまうのではないか…と。

不安で胸が痛くて頭から離れなくて、叫んだり頭を打ち付けたり指を噛んだりしてしまう。

自分で救われる続きを想像する?そんなの意味ない。所詮自分の都合の良い妄想に過ぎない。作者が本当に救ってくれなければ意味ない。

フィクションだと割り切る事はできない。だって、本当にありえることなのだ。

それに、本当の体験談を読むこともある。友達の多かった明るい子が、おもらしをきっかけに「もらし」と呼ばれる暗い子になって長年トラウマになってしまった…という話を読んだ。フォローしなかった友達が許せない。

こないだなど、本当に自殺してしまう話を読んだ。慟哭した。こんな救いのない物語はこの世に他に存在しない。

世間でバッドエンドとか鬱とかいわれる作品を私は普通に楽しめたりする。いくら人が死のうが平気だ。

だが、おもらしのバッドエンドだけは駄目なんだ。

この性癖である以上、何度も何度もこうして苦しむ。この性癖でなければもう少し楽に生きられたかもしれない。

ああ、入学式で新入生代表の読み上げの時に全校生徒の前でおもらしをしてしまった子は、その後どうなってしまうのだろう。

卒業式の壇上や転校早々に大を漏らしてしまった子は、その後どうなってしまうのだろう。

https://anond.hatelabo.jp/20200716202831

2020-07-15

パッヘルベルカノン最初にゆっくり演奏したのは誰なんだ?

カノンといって連想される卒業式かに似合うカノンパイヤールの演奏に似通ったもので、パッヘルベル編曲したまんまというわけではない。必ずしもゆっくり演奏するのが普通というわけではない。例えば現存する最古の録音と思われるアーサー・フィードラー1940年の録音はものすごく速く、とても卒業という感じではない。

ネット見てたらPachelbel's Canon, Schmidt-Isserstedt (パッヘルベルカノンジーグ ハンス・シュミット=イッセルシュテット) NDR Symphony Orchestra - https://www.youtube.com/watch?v=P4UmBPbqhVs というのを見つけてこれが1954年録音でとてもゆっくりネットで調べてもあまり知られてないのか詳細はでてこない。パイヤールよりも前にもゆっくり演奏するということはあったようだ。

2020-07-14

朝起きて、鏡を見て、死にたいと思う。

まれてこなければよかったと思う。

こんな醜い容姿に生まれてこなければこんな思いはせずに済んだ。

人は見た目じゃないなんて嘘だよ。

見た目がよければ生きやすいに決まっている。

容姿が醜い人間は一生後ろ指さされて笑われる。

中学生とき容姿理由いじめられた。

味方はいなかった。

教師いじめている側の肩を持った。あいつはそんなことするやつじゃないと思うけどな。一生その言葉を忘れることはない。

どうしてわたしの味方になってくれなかった?わたしが醜いから?醜いやつの言うことに信憑性はない?妬んでありもしない話をでっち上げたと思った?

毎朝鏡を見て、死にたいと思った。

まれてこなければよかったと思った。

何度席替えをしても、必ず机を離された。

汚物の扱いを受けた。顔が汚いから。

休み中、ずっと、トイレの個室で過ごした。教室に戻ろうとしたら、ドアを内側から押さえられて入れなかった。

みんな笑っていた。机を離した人たちも。わたしを汚い、という人たちも。それを聞いて一緒に笑っている人たちも。みんな同じ顔をしていた。

毎日マスクをするようになった。マスクがないと外に出られなくなった。卒業式マスクをしたまま出席した。マスクをしていない写真殆ど残っていないと思う。

高校生の間は、まあ陰でいろいろ言われていたかもしれないけれど、容姿理由いじめられなかったから生きやすかった。マスクを外した。外すことができた。

3年間だけは、中学生の頃ほど、そして今ほど卑屈ではない人間でいられた。

この地獄は一生続くわけじゃないんだと思えた。終わったのかもしれないなんて思った。

逃れられたのはその3年間だけだった。

浪人することになって、予備校に通い始めた。また、はじまった。結局、どこに行っても、いつまで経っても、わたしは一生逃れられない。この顔が原因なんだから普通に生きてたら顔なんて変わらないんだから、当たり前のことなのに、どうして気づかなかったんだろう。

今でも他人の笑い声が怖い。他人視線が怖い。電車に乗っていて、若い人たちが向かいに座って、笑っていると、わたしのことを笑ってるんじゃないかと思って消えていなくなりたいと思う。

うそろそろ卒業の時期だけれど、大学生になって、一人も友達はできなかった。卒業できるか分からないけれど、卒業式には行かない。高い金払って、ブスが袴を着て、写真に残すことに何の意味があるんだろう?

卒業アルバムの個人写真も撮りにいかなかった。卒業アルバムは小学校から高校のぶんまで、ぜんぶ、自分の顔を塗り潰した。実家帰省する度、飾られている七五三写真や昔の自分写真を努めて視界に入れないようにしていた。燃やしてしまたかった。

サークルもすぐに幽霊部員になった。誰も醜い容姿の卑屈な人間友達にはなりたくない。わたしだってわたしみたいな人間友達になりたくないと思う。

教室で、食堂で、誰もがわたしのことを笑ってるように見えた。

死にたいと思った。生まれてこなければよかったと思った。

時間が経てば治るよと言ってくれた人もいたけど、12か13の頃から汚い顔は、22になっても汚いままだ。夏になったら23になるけど、23になっても24になってもきっと汚いままだ。

いろんな治療を受けたし、いいと言われる基礎化粧品を片っ端から試したけど、鏡を見ると依然汚い顔が写っている。

こんなことな子供のうちに死んでおけばよかった。自分が醜いことを知る前に死んでおけばよかった。小さいうちはブスだろうがなんだろうが生きてるだけで可愛がられてそれなりに自己肯定感を保てる。そのまま死ねばよかった。

経済的に厳しいか家賃学費以外は無理と言われて、貸与型の奨学金を申し込んだことを後から知らされた。学費家賃の足しにするために申し込んだから、とわたしの元には振り込まれない。

生活するために扶養外れて社保に入る頻度でバイトをしている。

奨学金返済するのが大変だったら結婚して旦那に返済して貰え、と父親に言われた。

びっくりした。結婚できると思ってるのか。

醜い、卑屈で、自己肯定感の低い人間が、誰かと一緒になれると本気で思ってるんだろうか。

そもそも、この家庭で育って、家族や家庭というものに憧れると思ってるのがすごいよ。しあわせな家庭のかたちというものが分からない。

まれるかたちに生まれることが出来なかった。治らなかった。なれなかった。世間のしあわせに当てはまる未来は一生こない。いつか、なんてもの永遠にこない。ちゃんと分かっている。

自己肯定感が極端に低い。他のだれかのことを思える心の広さもない。誰かに優しくされても穿った見方しかできない。

本当に性格が悪い。

経済的に厳しいのも、ひとりなのも、ぜんぶ、ぜんぶぜんぶ、自分のせいだ。

お金に余裕がないと言っていたけれど、帰省したとき100万以上かけて壁の塗装をするんだと言っていた。どの色がいいと思う?なんて聞かれた。お金に余裕がないんじゃなくて、わたしお金をかけたくないだけだ。ショックだった。金銭的に負担をかけられないから、と終電逃すまで残業するようなバイトに耐え忍んで、土地柄客層が悪くて当たり散らされるのにも耐えてニコニコ接客して、全部アホだと思った。奨学金という借金を背負ったのも、大学に進学したのも間違いだったと思った。

240万の借金240万あったら、わたしはこの顔から逃れられたのに。

わたしが醜くなければ違った?かわいい娘だったら、自己肯定感を保てるように育ててくれた?

もしそうしてくれなかったとしても、醜くなければもっと稼ぐ方法はいくらでもあった。世の中顔だから容姿が優れている子がそうして稼いでるのをたくさん見てきたし今も見ている。

鏡を見る度死にたいと思う。生まれてこなければよかったと思う。

わたしわたしじゃなければ、望まれるかたちに生まれていたら、今頃こうなってはいなかった。

まともな人間関係を築けていたはずだった。

大学生になったら楽しいってみんな言うから期待していた、間違ってた。みんなはまともだからわたしは当てはまらないってちょっと考えたら分かったはずなのに。

まれてこなければよかったと思う。

まれてきて申し訳ないと思う。

はやく沈みたいと思う。もう終わりたいと思う。続けたところで同じことの繰り返し、もういい。どこまで遡れば変わるかなってときどき思うけど、どこからやり直しても結局こうなるんだからまれてこなければよかったと思う。ぜんぶ今更だ。手遅れだ。

もうなにもかも嫌だ、

一生惨めな負け犬だって分かってんのにどうしてまだ続けなきゃならない?

底辺クズの一生に価値なんてないよ。

鏡を見る度死にたいと思う。

こんな、こんなふうに、劣等感抱えて、誰に対しても何に対しても妬んで嫉んで、こんな生き方したくなかった。

醜い容姿に生まれ人間劣等感抱えて生きてくしかないんだよ。一生。ずうっと。ずっとだよ。どんな顔に産まれるかなんて選べないし金かけない限りどうにもならないのに。

わたしが生まれてくる前にわたし容姿提示されてたらわたしは生まれてくることを選ばなかった。

毎朝、毎晩、死にたいと思う。すべてが妬ましいと思う。はやく死んでくれと思う。

何もかも自分のせいならはやく死んだらいいのだと思う。

鏡を見る度死にたいと思う。

こんなことならと思う。

わたしは一生、親を許せないと思う。

こんな容姿に産み落としたことを許せないと思う。

母親は綺麗な顔をしている。彫りが深くて、幅広の二重で、鼻も団子鼻じゃなくて小さくて高くて、唇も薄くて、肌も汚くない。

何もかもわたし真逆だ。

小学生の頃からお母さん綺麗だねって言われる度に、言葉の裏にお母さん「は」綺麗なのに、ってのが透けてて嫌だった。

言葉の裏を邪推してしま自分の卑屈さが嫌だった。ほんとはそんな意味で言ったんじゃなかったとしてもそうとしか聞こえなかった。

母親あんな男と結婚して子供を産んだりしなければ今のわたしの苦しみはなかった。

10年前、肌が汚くなり始めたころ、あの男のクレーターだらけの汚い肌を見て、ああなりたくないと思った。歳を重ねる度にどんどん似ていく。死にたい。あの男に似ていると思う度に吐きそうになる。望んでもいない50%遺伝子はこうして醜い形で現れた。

親を憎むのはお門違いと言われても、親不孝と言われても何と言われても許せない。

彼氏はいないの?〇〇ちゃん結婚したんだって、悪気なく言っているんだろうけど、なんでそんなこと言うんだって思う。娘がどんな気持ちで生きてきて、生きていて、それを聞いているか分かんないんだろうね。憎い。生まれてこなければよかったと何度も、何度も何度も思って生きてきた人間気持ちは綺麗な顔のアンタには分からない。一生分からないよ。

もう十分だ、いつかは永遠にこない、

なにもかも嫌、ぜんぶ羨ましくて妬ましくていや

ブスは出生前に間引かれる世の中になればいいと思う。第二第三のわたしが生まれなければいいなと思う。こんな思いをしなくて済むならそのほうがいいに決まってる。

死にたい、生まれてこなければよかった

2020-07-09

anond:20200709103153

古参のためにオシャが開いてくれた卒業式だったからね、イツベリと合わせて3月19日で私達は!舞浜を!卒業します!(しないけど)

みたいなノリで全力ツッパしてたんだよ、よもや2月28日が卒業式になるなんて誰も思っていなかったし、コロナのせいで仕事も決まらないし貯金を取り崩して生きているけどその事には後悔はしてない

後悔しているのは暇を持て余して卒業してた増田に来ちゃったことだわ、番付卒業済みなん?ぐぐっても出てこないけどこの時間なら下方婚とか字下げとか流行ってた時代なんだけど誰も見ないねーみんなも卒業してるのか、よかったよかった、私も今日を限りにまた来ないようにしよう

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