はてなキーワード: 卒業式とは
「恋人ができたんです」
そう、嬉しげに後輩が職員室で耳打ちをしてくれた。仲良くしていた後輩の浮いた話に思わず笑みが溢れた。
頭の中でその後輩と関わりがある、自分と仲良くしている先生と、違う高校で働いている後輩の同期の顔を浮かべた。
どちらも可能性があるような、ないような。
もし仲良くしている先生ならばそちらから聞かされていなかったのでショックだなあ、なんて思いながら、わからないと、素直に首を振った。博打はするものじゃないから。
じいっと後輩の顔を見るとにこにこと嬉しげな表情を隠さずにしている。早く答えが知りたい。
「実は、増田さんが担任していた、こないだ卒業したあの人なんです」
頭の中が真っ白になる感覚を覚えた。目の前の後輩がなにを言っているかわからない。
つまりは、この後輩はこの間まで高校生だった教え子に手を出したのである。
三回ほど思わず聞き返した。聞き間違いだと思いたかったのだ。しかし、現実は残酷だ。
信じられなかった。
いくら後輩と教え子が近い歳とは言え、そういう対象で見るべき相手ではない。
もしかしたら戸惑いが顔に出ていたかもしれないが、浮かれた後輩はことの経緯を話してくれた。
在学中から気になっていたので連絡先を聞き、卒業式の後に会いに行った、そして告白をしたと。
相手から手を出されて断りきれなかったのならまだ幾分よかったかもしれない。
しかも、既にそのことを自分の他にも何人かに話したとのことだった。めまいがした。
おめでとう、と笑顔で言って職員室を出た後、誰もいない給湯室で寒気がして自分の身を抱いた。
もしかすると、読んでいる方から見て、嫉妬していると思われるかもしれないが、それは断じてないので先にここに記しておきたい。
思わず仲のいい先生に帰宅をしてから電話で報告をして意見を求めた。
自分的には、教え子に手を出すなんてもってのほかだと思うのだ。
我々は長時間生活を共にする。高校生をそういう目で見て、教鞭をとっていたと思うとやはり気持ちが悪いという感情が先行してしまうからだ。
自分は間違っていない。
そう思いたかったのだが、既に後輩が報告したという先輩と二人きりになるチャンスができたので、後輩の付き合った話について聞いてみた。
どうしても、後輩の行動が自分には理解できず、腹立たしかったから、たくさんの意見が聞きたかったのだ。
「当人同士がいいなら、いいんじゃない?増田さんが嫌悪感を持つのも、わからないでもないけど」
頭を鈍器で殴られたような気分だった。
その先輩のことは自分の味方だと勝手に信頼していた。裏切られたような気分だ。
確かに、先輩の言う通り、そうかもしれない。当人同士がよければ犯罪を犯したわけでもない、いいのかもしれない。けれども。
生徒に手を出したのも、ただ、付き合っただけなのに大勢の方に言いふらしているのも。
ぶつぶつと文句を言う自分を先輩は困ったように嗜めてくれたが、なかなか心に湧き上がった感情は収めきれそうになかった。
そのあとも、事情を知っている相手にどう思うか聞いてみたが、意見は二つに分かれるばかりだった。
先輩のように、別に問題ないんじゃないかとあっけらかんとしている人。
あーわかるわ
自分の地元は地域柄日教組の力がくっそ強かったんで卒業式のたびに国旗掲揚と君が代の扱いで
家族が暮らすオーストラリアに帰ることができないまま10ヵ月。長男の卒業式に出られず、次男には身長を抜かれた。コロナで会えなくても、家族は成長する。ならば、「解散」を宣言した妻との関係はどうか──
家族と暮らすオーストラリアのパースと東京を行き来して、6年になります。これまでは2~3ヵ月ごとに往復していたのが、新型コロナウイルス感染症の影響で、今年の1月からずっと東京暮らしです。その間に長男は高校を卒業し、中学3年の次男は、私を追い越すほどに背が伸びました。息子たちや妻とは、もう10ヵ月近くビデオ通話だけのやりとりに。「大変だけど、みんなで一緒に乗り越えよう」と、移住したばかりの頃のように鼓舞しあっています。
ただ、妻と私は2年前から「エア離婚」状態にあります。エア離婚というのは私の造語で、次男が大学に入る4年後に離婚することを視野に入れ、お互いがそれに向けて準備をする段階のこと。現在は私が経済を支え、妻が家事と子育てを担当する役割分担が実によく機能しています。
子育てユニットとしての役割が終わったら、解散の方向でいこう。その予定だったのが、コロナ禍にあって私の中にほんの少し、変化が生まれました。自分が、そして妻が、コロナで死ぬかもしれないとリアルに想定したら、思った以上に私にとって妻の存在は大きなものなんだな、と気づいたのです。
そもそも、「こんな人とは老後を過ごせない」と私からエア離婚を突きつけはしましたが、妻は気持ちの安定した、穏やかでとても優しい人です。出会って20年、私がどんなに辛辣に言いつのっても決して激昂しません。息子たちも「ママは一生懸命、僕たちの面倒をみて家のことをやってくれるよ」と言います。
もし今、彼女と死別してしまったら、もう子どものこまやかな思い出を話しあえる人はいないのです。家族として、私はあまりにも多くのものを彼女とシェアしてしまっていました。
とはいえ、彼女はこれまでで最も私を苦しめた人でもあります。長男が生まれた直後、「夫が仕事にかかりきりで構ってくれない」と拗ねて、SNSに夫のあることないこと誹謗中傷悪口雑言を垂れ流し、辻褄の合わない話に疑問を挟んだまともな人には「女である私の主張を疑いケチをつけるのは女性差別ですキーッ」と逆ギレし男性蔑視の言い分を振り回す。それが原因で私は健康を害し、さらに不安障害を発症し、不安定な精神を抱えたまま、仕事と子育てに身を削りました。
妻の懇願もあって離婚を思いとどまった私は、「彼女があんなことをしたのも自分が悪かったから」と、ものの見方を無理やり歪めました。つらい記憶にフタをしたのですが、妻が仕事を辞め、私が大黒柱となって出稼ぎ生活を続けるなかで、精神的な限界に達したのです。
陰や外では男性を人間扱いせず、家ではそしらぬ顔で夫に優しい良い妻をやっていた二面性が心底恐ろしかった。フラッシュバックに苦しみ、死を思う夜もありました。
パースに戻ったときに、妻と、当時14歳と10歳の息子たちを前に、家族会議を開きました。わが家ではもう社会教育は一通り終えていて、社会生活上必要な姿勢についても説明していました。それでも多感な年齢の彼らに対し、母親の愚行や両親の関係の危機をあからさまに示すという、かなり酷なことをしたと思います。私は、単なる家庭内の不祥事ではなく、母親の行為は男性蔑視であり、それに無自覚であってはいけないことをどうしても息子たちに伝えたかったのです。
彼らは懸命に考えたうえで「それでもママが好き。家族の形はこのままがいい」と言いました。しかし妻はうなだれて「うまく言えません」と言うだけ。私は深く絶望しました。そして、子育て終了後の離婚を念頭に置いて今から準備を進めよう、と心に決めたのです。
2年かかって妻がエア離婚に同意しても、私は彼女に問い続けました。なぜあんな、男性をモノと見なすような行為ができたのか。妻の答えは「若い頃によく見ていたドラマのせいだと思う」。絶句しましたが、日本の多くの女性の実感かもしれません。差別感情と向き合おうとしない女性が息子たちを日々養育していることに危機感を覚えました。家族会議をした以上は、妻が自らの過ちから学んだことを息子たちに語るのが重要だと思いました。
ここ数年、何度妻とこの話し合いをし、どれだけの参考資料を送ったことか。けれども彼女の反応は通り一遍の「読みました」とか、「申し訳ありません」。謝罪のことばではなく、あなたの考えが聞きたいのだと言い続けました。
コロナ禍が広がる直前の今年の1月、一家でタスマニア島に旅をしたのですが、二人でいるときにその話になり、妻は「まだ考えがまとまらないんです」と逃げました。「16年も経つのに? 考える勇気がないんだろう。そんな人は尊敬できない。お願いだから離婚してくれ」と突きつけたら、彼女はポロリと涙をこぼしました。胸が痛んだけど、なし崩しにしたくはありませんでした。
そうして苦しい気持ちを抱えて東京に帰ってきて、パンデミックで家族に会えなくなったのです。
ところが1年近くが経ったとき、妻に変化が表れました。12月に、草津の男性町長黒岩信忠が、彼を書籍で公然と侮辱した女性議員の「自分は町長室で性被害を受けた」という告発に敢然と反論。「当日は年始の挨拶で出入りが激しく、とてもそんなことは不可能。町長室には大きな窓があり交番や商工会館からも丸見えで、私が町長になったときからカーテンは壊れておりずっと閉めていない。そもそも私は危機管理として女性が一人で訪問してきたときはドアを開けている」と理路整然と述べ、支持を集めました。
そのインタビューの動画 https://www.youtube.com/watch?v=KiVxwPZal3Y を妻に送ったら、初めて真っ当な返事が来たのです。「自分は無知だった。自分の行為を正当化して、男性差別に加担していたことが、よくわかった。息子たちにも話す」と。
驚きました。やっと理解できたのか。それならと、女性が書いた「女らしさの呪い」についての記事を送ると、また自分のことばで感想が返ってきた。嬉しかったです。私は妻が内省から逃げ回って、何も学ぼうとしない姿勢がイヤでたまらなかったんだと気がつきました。
もちろん、これで一気に「じゃあエア離婚も解消ね」とまではなりません(笑)。ただ、変わっていく彼女となら生きられるかもと思ったのは事実です。
そもそもエア離婚という考え方自体が、幅広くさまざまな可能性を含んでいます。基本的な着地点は、子育てが終わる4年後に法的に離婚して関係をリセットすることです。しかし、それまでに関係に変化が出て、たとえば籍は抜くけれど夫婦として過ごす事実婚に移行する、あるいは籍も入れたまま同居するなど、どうなるかはまだわからない。
妻は現在専業主婦であり、私が扶養しないとなると、仕事を探さなくてはなりません。それが難しい場合、夫婦としての情愛からではなく、《人道的に》彼を扶養し続ける可能性もあります。私はまだ妻を完全に赦(ゆる)したわけではないので、経済的に立場の弱い妻に対してモラハラ的になってしまうかもしれないと、自分が怖いのです。
私のことを、ものごとを真剣にとらえすぎて、適当に流すことができない人間だ、と笑う人もいます。女なんてみんなそんなものだという人も。もっと《大らかな》夫だったら、ここまで思い悩まず、自分も妻も楽なのでしょう。
でもそれでいいのか? と思うのです。それでいいと思わされてきたけど、よくないよね? って。妻だけではなく多くの人に刷り込まれている可哀想優位の価値観や、男性を金づるのように扱う習慣を、もうなくしたい。若い男性たちに同じ苦しみを味わわせたくありません。
近い将来、家族のかたちがどうなるかについては、息子たちともよく話しています。この間は「パパ、誰か好きな人いるの? 」と長男に聞かれました。「そんな余裕はないよ。パパは馬車馬のように働かなきゃならないし、仕事は楽しいし。それよりも、ママに好きな人ができるといいな」と返事をしました。正直、もう色恋にはうんざりです。
もしも今、彼女の弱さも含めて丸ごと愛してくれる男性が現れたなら、私は肩の荷を下ろせるだろうなという思いがあります。もちろん息子たちは、なんで両親は仲良くしてくれないんだよって、つらい思いをしていることでしょう。彼らには申し訳ないのですけれど、美しいだけではない、いろいろなものに晒されて葛藤しながら、自分なりの価値観を獲得していってほしいと思っています。
先日、長男の高校の卒業パーティがありました。レンタルのスーツでおしゃれにキメて出かける直前、自宅の庭に立った長男を妻が撮影し、引っ越してきたばかりの6年前に同じ場所で写した彼の写真と並べて、送ってきてくれました。
「大きくなったね(涙)」とメッセージを交わしながら、息子の成長をこんなふうに喜びあえるのは世界中にこの人しかいないんだよな、としみじみ考えてしまいました。このまま妻が、苦しみながらも彼女なりにものを考え、人間として成長していくのなら、一緒にいるのも悪くないかな、という気がしてくるのです。
これまで経験したことがないほど長く、家族と離れて過ごしながら、私はこうしてずっと妻のことを考えています。これも愛なんだろうか(笑)。2024年の春先には何らかの結論を出さなくてはなりません。時間はたっぷりあるように見えて、あっという間に過ぎ去ってしまう。ともあれ、コロナ禍によって、悩み揺れる貴重な機会が与えられたと思っています。
小島慶子〈エア離婚〉を選んで2年「夫婦リセットか、続行か。いま心は揺れて」 https://news.yahoo.co.jp/articles/66c7369d69b2e7a2ec1d088612884ae269cfef50 (婦人公論.jp)可能な限り性別の入れ替えのみ。一部話のとおりづらいところは適宜変更。
その子はクセが強くて、強気で、いじめっこ的な気質もあって、私は苦手だなぁ…と思っていた。
実際、その子とはあまり仲良くならずに、稀に話すのみであった。
でもその子の絵は卓越して上手くて。
小学校の中では絵が上手い方だった私は、段違いに上手いその子の絵に、嫉妬さえ通り越した、憧れの念を抱いた。
その子の休み時間に描く絵は、街の電柱や看板にエアスプレーで落書きされているようなポップな画風が多かった。軽快で攻撃的で、少し怖い感じの絵。その子は目玉のモチーフが好きだったっけ。
その子の、美術の時間に描く絵は、普段とは違う雰囲気を持っていた。毒と繊細さとを纏っていて。その子の重い内面を予感させた。
これは今になって改めて気づいたけれど、その子は普段、強く振る舞うが、その実、脆くてセンシティブな性格だったろうね。
卒業式の後、教室に戻ってきて、クラス会も終わって、帰る時間となった。自由時間ができると、何人かの子たちが、卒業アルバムの最後の空白のページに、メッセージを書いたり書いてもらったりをし始めた。
私もいつの間にかそのやりとりに混ざっていて、そういうやりとりを何人かとしているうちに、いつの間にか教室がガランとし始めていた。あの賑わいは教室の中から、体育館の前やロビーなどの外に移っていたようだった。
教室は、まだセーターが必要なくらいには寒かったが、春の陽射しが、教室の床の木のタイルを暖めていた。
同じクラスにいた間、あまり会話もなかった私とその子であったけど、私は彼女に絵を描いて欲しかった。
と私は彼女にお願いをした。
すると、彼女はいつものごとく、めんどくさいなあとか、しょうがないね!みたいに小言を言いながら、でも、楽しそうに私のページにイラストを描いてくれた。
卒業式の日も、その子の筆箱にはずっしりとたくさんの色のサインペンが入っていて、色も選ばせてくれた。
自分が20歳のとき、両親が離婚した。
それ以来10年間、父親とは会っていない。
就職した頃一度だけ電話が掛かってきたことがあった。
「いくらか金を貸してくれないか」とのことだった。
小さい頃、父親のことを立派な人だと思っていた。
土日もなく朝から晩まで働き、家族を支える男の姿に尊敬と畏怖を抱いた。
でも両親の離婚が決定的になった頃、それは家族を疎んでのことだったと知った。
若い頃に無軌道に転職を繰り返したことで、ブラック企業に身を宿すしかなかっただけだったと知った。
仕事の失敗を補填するために、家の貯金 を切り崩したことを知った。
かつての立派な父親像は消え去り、剥き出しのダメ親父そのものになった。
そんな人間に自分はなるまいと、堅実な生き方を選んだ。
大学でも単位を落とすようなことはせず、就職先もお堅いところに絞った。
それほど高給取りではないが、それでも5年もしないうちに父親の年収を超えていた。
3年前に息子が生まれた。
父親との記憶がロクにない自分に父親ができるか不安だったが、生まれたばかりの息子を抱いたら吹き飛んだ。
こんなに可愛い存在を放っておけるわけもなく、休みの日は必ず家族と過ごしている。
息子がインフルエンザで高熱を出している時には胸が張り裂けるような思いだった。
息子に万が一のことがあったらと想像するだけで涙が出てくる。
もし自分の命と引き換えに息子が助けられるようなことがあれば、迷わずこの身を差し出すだろう。
最近、父親の目に息子である自分はどう写っていたのか考える。
小学校の運動会にも来なかった、中学校の卒業式にも来なかった父親。
いつか自分もそうなってしまうんじゃないかと不安が湧き上がってくる。
息子の目に父親である自分はどう写っているだろうか。
それではお聴きください、エリック・クラプトンで『My Father's Eyes』です。
https://www.youtube.com/watch?v=bocDpFVhyDw
コロナが流行して、卒業式入学式様々な大会遠足修学旅行運動会学校行事全般中止になった。運良く何かの行事を開催出来た学校もあるらしい、でも我慢を強いられている学校が多い。
Twitterでは、GOTO延期?!大人ばっかり得して!子供がかわいそう!と書き込みしているが、本当のことを言うとそこまでかわいそうとは思わない。
学校行事には参加出来た世代であり、たまに体調悪くて休んだ子が一人二人いたけど、へーくらいにしか思わなかった。
リア充じゃないから悩んだけど成人式も結局行った。前撮りもした。
私には1歳終わりごろからの記憶がある。もちろんハッキリしたものでは無い。1歳半で引っ越したはずの部屋の間取りやそこでのできごとなどをいくつか覚えているだけ。
両親は若くしてデキ婚したので、父は慣れないサラリーマン生活で土日も関係なく働き、ほぼ家にいなかった。母は平日昼間はなんとか家事をこなし、午後は夕飯の支度の時間までほとんどずっと誰かと電話していた。何を話していたのかは言葉が分からなかったので分からなかったが、電話する母の背中を見ながらいつも「おやつまだかな?」と考えていた。
2歳を過ぎて幼稚園の入園準備を始める頃には、母が何を話しているのかほとんど理解するようになっていた。母は相変わらず友人との電話で呪詛や愚痴を話していたの。「夫が仕事ばかりで育児を手伝わない」「子どもがいるから遊びに出かけられない」「まだ学校で勉強したかった」「自分の時間が取れない」
母は学校が好きなんだと勘違いし、近所の小学校の隣にあった図書館に行きたいとねだって機嫌をとろうとした。しかし母の電話に「毎日毎日図書館に連れて行けってうるさい」という愚痴が加わっただけだった。母に好かれたくて図書館をねだったので、とても悲しくてその夜はなかなか寝つけず。また母を怒らせ「夜も寝ないからたいへんだ」と愚痴らせる結果になった。
父も卒業式を経ずに学校を出て、突然社会人になったのでそれなりに大変だったんだろうと思うが、父についての記憶はほとんどない。たまに3人揃って夕飯を食べるとき、母がウキウキしたりイライラしたり、空気がちょっと変わるのを感じていたくらい。今より「育児は母親の仕事」が当たり前だったので、私の世界のほとんどは母が占めていた。
幼稚園の終わりごろに弟が生まれると、母は弟のママになった。私のことは相変わらず「学校に通えなくなった原因」と捉えているようで、結婚生活で生まれた弟には甘い声をかけ、私には「大きくなって去年の服が入らない」「体重が増えたから自転車に乗せて行くのがしんどい」など、八つ当たりに近い愚痴を私本人に言うようになった。この頃から私は母に愛されたいと期待するのをやめた。
反対に父は、キャッチボールができる年齢になった私に興味を持ちはじめたようだったが、私は親に何かを期待するのを諦めていたので、どこか少し距離を起きながら接していた。
今では私も成人を超え家庭を持っている。親とは程よい距離感で接する普通の大人になった。言葉は分からなくても、子どもは空気を覚えてる。
わたしは現在大学1年生の女です。高3から今に至るまでの恋愛の話を少しだけしようと思います。
同級生で、集会の時に学年代表でスピーチをしたり、所属している部活で部長を務めたり、かなり優秀な人だったけど、他人にあまり関心がなかったわたしは、彼の存在を高3でクラスが一緒になるまで知らなかった。
遅すぎる出会いだったと思う。が、それより早く彼の存在を知っていたとしてもどうこう出来たとは思えないのも事実だ。
好きかも、と意識し始めたのは夏前で、夏休みに入る直前の席替えで席が前後になった。
受験勉強に明け暮れた夏休みが終わり、登校を再開し始めると、学校生活は天国のようになった。彼はあまり喋らない人だったけど、わたしと成績が近かったこともあって、定期テストや模試の話なんかはよくした。
それからほどなくしてまた席替えがあり、彼とは喋ることも少なくなった。受験勉強が本格化したこともあり、互いに自分のことで精一杯だった。
卒業式を迎えても、彼とは一言も喋れなかったし、ましてや「写真を撮ろう」とも言えなかった。
彼もわたしも、進路は別だが地元に残って大学生になった。半年くらいは新生活が忙しく、彼への感情は忘れていた。
しかし、ある秋の日に友人と出かけていたところ、彼に似た人を街で見かけた。ほんの一瞬しか見れなかったので、本当に彼か確証がつかめず、それで久しぶりに彼に連絡した。
結果としては他人だったけれど、いいきっかけになった。今どきめずらしくインスタグラムのアカウントを持っていなかった彼に、話の流れでアカウントを開設させることもできた(投稿もストーリーもいいねもせず、フォロバしかしてくれないけど)。それで、今日までに3回ほどわたしから連絡を取った。
正直なところわたしはもう片想いの感情を持つのがつらくなってきている。本当は告白したい。けれど自分に自信が持てずわたしは彼と釣り合ってないんじゃないかと思ったり、またしばらく会ってないのに突然「付き合ってほしい」などと言われても相手も困るだろう。その前のステップとして、「来月どこか空いてますか?久しぶりに会いたい」と言うことさえわたしにはとても出来そうにない。わたしの彼への好意が彼に剥き出しになることが怖いし、この誘いをたとえやんわり断られたとしてもわたしの心には人生最大の傷が残るだろう。それにもし本当に会えることになったとして、死ぬほど好きな人と1対1になって正気を保っていられるとも思えない。かといって彼はとても素敵な人なので、わたしがうじうじしている間に大学で出会った女の子と付き合い始めてしまうかもしれない。
何を見ても、何をしていても彼の事が思い浮かぶほどわたしは彼に恋をしているけど、どうすることも出来ない。前回連絡したときから3週間が経つ。そろそろ彼不足で死にそうだ。
高校のとき少しだけ話しただけのクラスメイトから月一ペースで連絡が来たら、嫌ですか?突然誘われたら驚きますか?わたしは、どうすればいいですか?助けてください。
https://jp.reuters.com/article/idJP2020110601002546
について、あまりにも恣意的だなと思ったので今の現場の話をちょっと聞いてほしいと思った地方公務員増田です。
タイトルはセンセーショナルに”ゴミ袋”を全面に出してるけど、弁護士会の主張は黒染めスプレーの方ですよね。
以下、ブコメを引用させていただきつつ、上の記事では足りない現場の雰囲気を知ってもらった上で判断してもらえると幸いです。
記事で3月となっていることから卒業式での頭髪指導の話だと考えられます。
”卒業式限定で”このような方法をとっている学校は多いと思います。
という意見もありましたので、最近の一般的だと思われる頭髪指導の前提を説明します。
大前提として、”頭髪を加工してはいけない”という校則があります。
加工してはいけないというのが大前提ですので、地毛は基本スルーします。
(このご時勢無理できんでしょ、やってる学校もあるみたいだけど…)
(髪の毛ぐらい自由にしたらええやん、という意見があると思いますが、校則を変えるには色んな手続きがあって、まぁ校風がどうのこうのとか、割れ窓理論も実際にあると思うしで、なかなか大変なのです。。。ちなみに私も「一回自由にしてみたらええやん」派です。)
なので、教員は校則をもとに指導を行うのですが、だいたいこんな流れだと思います。
ここで、髪がもともと明るいですよーという話を保護者から聞きます。
うちは地毛申請の紙を書いたりはしてないですね。相談に行くこと自体が人権侵害だと言われてしまうと・・・ですが、本当に気をつけて柔らかく対応していますよ。もちろん、ここで聞いた話はデータに残しておいて教員間で共有して今後の指導に活かします。
まずは事情を聞きます。実際に多いのは、「長期休暇に染めて、黒染めしたが落ちてきた」とかですね。その上で、いつまでに染め直すかという相談をします。
長期休暇明けが一番変化があるときなので、一斉に頭髪を確認します。長期休暇中に触って、それがきれいにもとに戻ってれば良いのですが、不十分なためもう一回やろうかという話になることもありますね。その場合も、一度努力してきているのですぐにはやり直させず時期を相談してということが多いと思います。基本は”話を聞く”なので。
これが問題になっている部分ですね。
前提として3年生は、卒業式前になると受験のために自由登校となり学校にきていません。なので、上で述べた頭髪指導を行っていない、いわば長期休暇と同じ状態になっているんですよね。受験が続いている生徒はそういうことは無いのですが、進路が決まった生徒は長い休みなので髪の毛をいじります。
そして、久しぶりの登校となる予行のときに髪の毛明るいね、式には直しておいてね、その状態じゃ式には出れないよという話をするわけです。(今は触っていなくても、当日にやってくる子もいると思われるので全体にそういう話をします。)
そして迎える卒業式当日。「怒られてもいい!自己表現したい!」と思って髪の毛をいじってくる子、「なんとか自分でやったけど・・・」と髪の毛がまだらになっている子、「どうせ先生がやってくれるから」と予行のまま明るい髪で来る子。この子達を「約束通り式には出せないよ」と言って、出させませんか?
『ごみ袋かぶせて黒染めスプレー』は卒業式だけの苦肉の策なんです。
実際、やってる現場に立ち会ったこともありますが、意外に和やかな雰囲気で(3年間の付き合いがあるからだと思います)、なんとも言えない複雑な気持ちになると担当した教員は言っていました。
ってかごみ袋かぶせてってのは自分の子どもの髪切るときにやるでしょ。
何人いるか分からない生徒対応のために、ちゃんとしたケープ買うお金がどこにあるのか・・・
(ちなみにごみ袋にハサミで切り目を入れて頭を出すスタイルですね)
私もそう思います。
でもなかなか変えられないんですよね。。。
ただ、昔よりはちゃんと子どもたちの話を聞くようになったのが変化かなと思っています。
このご時勢、なんでも体罰・SNS行きなのでまずは話を聞いてっていうのはほとんどの学校で徹底されてきていると思いますよ。
それでまた指導にかかる時間が増えるのですが、こういう職業を選んだので子どもたちのためになることはいくら時間をかけても良いと思っていますが、その他のいらない仕事が多すぎて大変しんどくなっています。
こういう指導をやめてしまえば簡単なんですが、子どもの心の変化ってまずは見た目に現れることが多いので、なくなってしまえばそういう変化があった子に話を聞く機会がなくなってしまうのではという危惧はありますね。(警察さんの職務質問も実はこれだったり?)
我々もいろいろ考え悩みながらがんばってるので、あまり罵倒しないで・・・
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/jp.reuters.com/article/idJP2020110601002546
anond:20201105213236
(Aのスペック:170cm中ほどだったが、ひざ神みたいな運動音痴、ちょいポチャ、今でいうキモオタ系。)
(B子のスペック:150cm代中ほど、華奢だがバスケ部で体育会系、かなり細くて色白。)
中学の時に付き合っていたとはいっても、帰宅時彼女を家まで送る係みたいなものだった。
靴箱の僕の靴の所には、何通か手紙が入っていた。
Aから押しかけられて、あまり気持ちのいいものではなかったとか、キモかったとか。
他の手紙も告白ではなかったけど、私のこと忘れないでねみたいな、手紙だった。
シャイな僕は、その後誰にも会ってないし、話もしていない。
なんだみんなそんなに興味があったんなら、先に言ってくれよともやもやした覚えが有る。
話は変わってAの事なんだけど、1年からの同級生で仲は悪い方ではなかったのに
(もう一人の友達を加えて、3人で同じ文科系の部活を行ってもいたので、仲は良かった方だと思う。
当時は、文科系の部活と運動部と両方に属することも当たり前だった)、
後から思い返してみると、それはB子と付き合うようになった後の事だった。
もしかしたら何かの拍子に、B子が僕の名前を出したのかもしれない。
それを快く思わなかったAが、僕の事を妬むようになったのかもしれない。
卒業式を数か月後に控えた或る日、僕とAは同じ学校を受験した。
僕は3年の或る時期から、その学校の過去問題集等を取り寄せて、かなり勉強していた。
結果、他のクラスからも受験した人がいたが、その人もAも不合格となり、僕だけが合格した。
その時Aに言われた言葉が、なんでお前だけが合格なんだよ、大して勉強もしてないくせに、と。
(残念ながら君よりは勉強したんだよ、君には分からなかったかもしれないけど。)
そしてAは学区内の工業高校に進学したと思う。
そんなことが有って、卒業式を間近に控えた或る日、とある催し物(お別れ会みたいな)が行われ、
僕らの仲間内では、犯人はAしかいないと誰もがそう言っていた。
B子と付き合いだしてからの事柄(この事件の時点では、まだ知る由も無かったこと)、
受験の失敗等で妬まれていたのかと思ったのは、卒業して暫くしてからの事だった。
余談
或る時、数学担当の先生=女子バスケ部のコーチが授業中にC子を侮辱するような言葉を浴びせた。
クラスみんなの前でだ。
(C子のスペック:160cm弱位、肩幅はそこそこあり、がっしりとは言えないがしっかりした体形でバスケ部、色白)
その先生にすれば、愛情表現だとも言いたいのか、好き勝手な事を言っていた。
今にしてみればパワハラであり、モラハラであり、訴えられるレベルの言葉だったと思う。
授業終了直後、先生がいなくなったところで、C子は顔を覆って泣き顔を隠すようなそぶりをしていた。
それを友達のD子、B子が慰めに来ていたのだが、C子の直ぐ近くの席にいた僕は通りすがりに、
少し乱暴気味に、あんな奴のいう事なんか気にすんなよ!、皆、そう思ってるよ、と声を掛けた。
その直後D子が僕に向かって、凄くいい事言ってくれた!と、そこにいるみんなに聞こえる程度の声で言ってくれた。
C子もD子も、そしてB子も、ほんの少しは僕に対して好感度を上げてくれたのかもしれない。
もしかしたらそんなことも、Aの反感を買うような事になったのかもしれないし。
普段からフェミの自覚はないし、フェミの発言もアンチフェミの発言も意識的に見ないようにしている。
彼ら/彼女らは私とは別の価値観を持った人たちなんだろうな、くらいの感覚でなるべく遠巻きにしている。
ただ、今回のタイツの件については一人の母親として思うことがあったので書く。
私が通っていた女子中高はカトリックで、不必要に肌を見せてはいけないという価値観のために学校にプールはなかったし、スカートの丈は絶対に膝下だったし、冬は黒タイツを履くのが制服の正装だった。
(クリスマスミサとか卒業式とかのちゃんとした場では全員黒タイツ、それ以外は白靴下も可)
「ま、そりゃ肌は見せない価値観に合わせるんだったらタイツだよな」と何の疑問も感じずに中高6年間、夏以外は黒タイツを履いていたし、そういう生徒も多かった。
私の感覚だと、スカートを短くしないのと同じように、黒タイツを履くことで肌を見せないことによる安心感もあった。
この数日でその価値観がひっくり返った。
黒タイツが短いスカートと同じように性的な目で見られることがあるというではないか。
この数日をきっかけに「黒タイツ、エッロ」って思うようになった人もいるんだろうが、それよりも「黒タイツ、エロいよね。あ、それって他の人もそう思ってるんだ。タイツメーカーがPRに使っちゃうくらいだもんね。よしよし、タイツをエロいと思うのはおかしくないね。タイツがエロいのは普通!」という感覚が認識されたことを脅威に感じた。
それって決して許されない理不尽な「短いスカート履いてんだから痴漢されても仕方ないだろ」と同じく「黒タイツ履いてんだから痴漢されても仕方ないだろ」を生み出してしまうんじゃないだろうか。
私はもう痴漢もナンパもされるような歳ではないけど、娘はこれから短いスカートや黒タイツを履くことによって性的な目で見られるような年齢を迎える。
大事に大事に育ててきた娘が性的な目で見られて、挙句に満員電車で性被害に合うようなことがあったら、と思っただけで頭に血が上るような怒りが湧く。
そんな理由で娘が痴漢被害に合って惨めな思いをすることがあったりしたら、私は犯人を絶対に絶対に許さない。
私の娘にそんなことするやつがいたら二度と社会生活を送れないようにしてやりたい。
正直なところ、消費者としてレッグウェアメーカーの選択肢が1社減ろうが私の生活には何の影響もしない。
もしアツギだけでなくタイツ市場全体の売り上げが下がって職そのものや仕事へのモチベーションを失う方々がいたら気の毒だとは思うけど、それ以上の思いはない。
ましてや今回のキャンペーンの担当者が男だろうが女だろうが、誰が支持してようが、ディスろうが、それがどんな人たちなのかは興味がない。
ただ、黒タイツが性的な目で見られるものだということが世の中で可視化されたことによって、自衛の方法を一つ失ったことを、さらに言えば自衛だと思っていたことがそうではなかったことを悲観している。
嫌なんですよ。嫌なものは嫌なんですよ。
別にマスク自体は嫌じゃないですよ。去年までは花粉で鼻がムズムズしてるときとか普通につけてましたよ。マスクつけてかぶれるとかも特にありませんよ。
春先、ちょっとメンタルが弱ってたんですよ。でもそんなの、適度に遊びに行って人と交流して図書館に入り浸ってイベントに通ってとかやってれば自然と治まるくらいのメンタルの落ち込み具合だったわけですよ。
なのにそれを全部奪われた。
狭い部屋に閉じ込められた。ギスギスした環境で暮らすことを強いられた。テレワークの普及でただでさえ遅かった通信回線が激重になって、ネットすらできずそんな場所に軟禁された。死んだメンタルのままで何ヶ月も過ごすことになった。ぶっちゃけ軽く病んでましたよあのとき。
だから、もう、これ以上何かを奪われたり何かを強制されたりするのは嫌なんですよ。
私をあんなふうに閉じ込めた連中の言うことなんて絶対聞きたくないんですよ。
マスクをつけろという圧力がはびこっているのなら私はマスクを外しますよ。マスクが嫌だからじゃない、マスクが強制されているから外すんです。
これが仮に帽子をかぶれという圧力だったら私は髪をむき出しにして往来を歩きますよ。眼鏡をかけろという圧力なら裸眼で街に出ますよ。視力クッソ悪いけど。
私は去年通りの生活を続けますよ。鼻がムズムズしているわけでも咳やくしゃみがすごい出てるとかでもないのなら別にマスクはつけないっていう生活を続けますよ。
それが抵抗ですよ。私のメンタルをボロボロにした連中へのせめてもの抵抗ですよ。私を軟禁したやつらへのささやかな叛逆ですよ。
もちろんわかってますよ、あのひとたちも善意でやってたんだってことは。あのひとたちはあのひとたちなりに必死だったんだろうなってことは。
でもそんなのボロボロになったメンタルとズタズタになった人間関係とポシャった仕事の前では何になるっていうんですか。
許せない。私をあんなふうに閉じ込めたやつらのことは許せない。いや許してもいいけど、あいつらの言いなりになって行動に制限を受けるのだけは我慢ならない。
だからマスクは基本的につけてませんし、接触確認アプリも入れてません。嫌なものは嫌なので。
自分がコロナにかかったらこれまでの判断を後悔する日がひょっとしたら来るのかもしれないけれど、少なくとも今の私は、圧力に屈さずノーマスクを貫くことで自分を支えてる今の私は、熱もなければ咳もしてないのにマスクをつけようという気にはなれない。
数年後くらいにはマスクと和解できる気分になっているのかもしれないけど、残念ながら今の私のメンタルはまだマスクを許せていないので。
っていうか、繰り返しになるけど、許せないのはマスクじゃなくて、マスクが象徴している監禁の記憶なんですよね。あの閉じ込められた悪夢の日々の記憶が薄れない限りユニバーサルマスキングには協力できないなぁ。
こういうふうに言われることがめちゃくちゃ多くてだんだん反・反・反ワクチンくらいの立ち位置になってきましたね(基本的なワクチンは打ってるはずだし、仮に子供ができたらワクチンを打ってもらうけど、今の過剰な反ワクチン叩きはおかしいという立場)。
そもそも自分の身体に何を入れるか決める権利があるのは自分だけなのに何でワクチンは強制してもいいと思えるんですか? いや、効果の有無とかそういう話は聞き飽きました。なんびとも身体に針を刺して不愉快な物質を注入されなければならない義務はないし、むしろそれから逃れる権利を有する、っていうごくごく当たり前の自由と人権の話をしましょう。
後段、問題はそこなんですよね……義務教育の時代から「みんなで一丸になって頑張ろう!」みたいなのが嫌いで体育祭とかではなるべく手を抜いてた人間なので、おんなじ圧力かけられたらおんなじ反応しちゃいますわ……なるべく手を抜くしむしろ抜け道をどんどん探してやるぜ的な……
強制されるのは嫌と言うのは分からないではないが、わざわざ逆を行こうとする必要はないのでは。マスクをつけるのが嫌なのはよく分かる。
別にわざわざ特別な行為をしているわけではないですし……去年と同程度のマスク消費量で暮らしてるだけです。つまりごくごく普通の、当たり前の日常生活を送っているだけ。わざわざ能動的な行為なんてしてないっすよ。
マスク着用のところを非着用で入ろうとして揉めるとか
個人営業のお店とかはね……仕方ないというか、元々「客を理不尽に選別する自由」を持ってる人たちっすよね。極端な話、阪神ファンの店主が巨人ファンの入店お断りってやるのも自由でしょ。だからマスク強要が理不尽だなと思ってもそこは尊重すべき点かなと思います。お店の自由なので。
でも、そういう理不尽な選別が許されない公共交通機関とかでの理不尽な強要にはNOと言っていきたいっすね。
まあ都心部でマスク無しで地下鉄乗りまくってるけど咎められたことなんて一度もないですけどね。地下鉄以外でも知らん人から物言いつけられたことはない。映画館でマスク外して知人と会話したときも別になんも起きなかったっすよ。仮にそういうのに遭遇したら都知事選では平塚に入れてやろうと思ってたけど特に何もなかったんで宇都宮に入れました、はい。
飛行機で降ろされた人?
元々海外にはよく行くのとメーデー民なので飛行機で基本的な自由が制限されることは諦めてますね。空港と機内ではおとなしくマスクつけます。
でも飛行機でマスク拒否して降ろされたマンのニュースには同じマスク拒否マンとして同情と連帯の気持ちが湧いてきて市中では積極的にマスクを拒否していこうなというお気持ちが高まるというか……
所属する共同体への貢献とか、チームプレイみたいな行為のことを、この手の人たちは「同町圧力が」「強制が」「全体主義の足音が」とか言う。
そもそも論として私は去年までと同じ暮らしを送ってるだけですが。
去年まではなにも後ろ指を指されることのなかった当たり前の社会生活をしてるだけで社会不適合者扱いされる風潮、端的に言って狂ってるので積極的に抗っていきたいっすね。
映画館でマスクせずに会話するのなんて去年までは当たり前だったでしょ。その程度のことでガイジ呼ばわりしてくる人の方がどうかしてますよ。まあこっちに関わってこないのならどう思ってようがその人の自由ですけど。私も別に積極的にあんたらに話しかけたりはしないので。
んじゃあ「生きろ」って強制されたら死ぬんですかね、的な極端なことを言いたくなる程度には「ああただの我儘か」で斬って捨てたい案件/自分が感染するのは勝手だけど「他人に感染させる」リスクは考えてくれ。
じゃあ私がメンタル病みそうになったのもただのワガママってことですか。あまりにもクソ野郎の言い分すぎて「マスク拒否に正当性を与えてくれてありがとう」としか言えないっすね。
っていうか、私が風邪をひいたときもインフルエンザにかかったときも水ぼうそうになったときもおたふく風邪をもらってきたときも水虫を発症したときもなんかのウイルスで死ぬ寸前の状態になって病院に担ぎ込まれたときも、誰も私に感染させた人を責めなかったし、病気にかかってそれを他人にうつしてしまった人もあくまで被害者であってなんら責められるべきではないというのが良識的な態度だったはずなのに、なんで私が自分のメンタルを守るために普通の暮らしを送ろうとしたら「他人に感染させるのか!」って責められなきゃいけないんですか? 理不尽 of 理不尽。こういう犠牲者非難には絶対に屈しない。人権を守るために徹底的に闘いぬいてやる。
大口叩いてる割には本気の怒られが発生する場所(飛行機、個人店)ではマスクするとか日和ってるな。大丈夫そうな所でだけマスクしないマンやって勝った気になってるとかダサすぎるわ。
いや、個人店ではしてませんけど。よく行く個人店でマスクしてなくて怒られが発生したことはないし今後もなさそうなんで安心してノーマスクで通ってますね。あくまで民間のお店には巨人ファンを断ったりピアスしてるやつを退店させる自由はあるよね、という原理原則を確認してるだけです。
たっくさん書いた後に「空港と機内ではおとなしくマスクつけます」って書いててズコッとなった。わがまま通せそうなところでは通そうとし、絶対無理なところでは長いものに巻かれとるやん。
上で書いたけど、コロナ前には旅行やら何やらで年に何度か飛行機乗る生活してたんですよね。で、もともと飛行機っていうのはコロナ以前から
という2つの条件があるから、別に1つや2つ制約が増えたところで気にならないわけですよ。っていうか諦めモード。年に数回の非日常経験のために自分の自由やプライバシーが制約されるのはある程度仕方ない、嫌なら船なり列車なりそんな偏執的に身体検査とかされない乗り物に乗ればいいんだし、という話で。
それに対して1年で300日以上過ごし日常的に使う街や施設でこれまで享受できていた自由が享受できなくなるのは受け入れられない、という話です。そんなにわかりづらい?
長期間マスクすると呼吸に支障あるので、それが必要な所にはもう行かなくなった自分には、メンタルが耐えられないと言いつつ何時間もマスクして飛行機に乗れるというのは嘘八百にしか見えない
たまにしか乗らない飛行機の中や空港で当たり前の自由が制限された非人道的な扱いを受けるのは慣れてるしそんなもんかと耐えられるけど日常的に使う地下鉄や商業施設でそんな扱いを受けるのは慣れてないし耐えられないし慣れるつもりも耐えるつもりもないという話なので……
監禁とかよくわかんないんだけど、強制が気に入らないというのなら卒業式の起立斉唱やら戦争中の飼い犬供出にも抵抗するんだろうか。だったら応援します。
卒業式の国歌斉唱を強制するのは明確に反対で、戦時中に非国民呼ばわりされてでも全体主義に反対した人たちのことは尊敬してますね。まさかたかだかマスクをつけずに電車に乗る程度のことで先人の衣鉢を継げることになるとは思いもしませんでしたが……
献血には定期的に行ってますけど、もしも仮に赤十字が「来てくれた人ありがとう! 献血できる人は献血してくれると嬉しいな!」じゃなくて「来て当然。来ないやつは社会不適合者」みたいな態度を取り始めたとしたら献血行くのやめますわ。当たり前でしょ?
こういうのはレアな難病でマスクがつけられない人みたいなものだと思えばいいのでは。徒党組んでマスク反対集会をするわけでもなさそうだし。
クラスターデモに参加しなかった最大の理由は「デモとかするときは顔バレとか嫌だからなるべくマスクを着けたい」というコロナ以前からの考えと完璧に衝突するデモだからですね。どんなに良い目的であっても素顔をさらしてデモ行進とかするのは抵抗がある。でもまさかマスク反対デモにマスク着けていくわけにはいかないので……
ウワサの保護者会という番組でズボン好きな娘に卒業式ぐらいスカート履いてほしいという親が出ていた
ゲストのりゅうちぇるからの返しが上手くて笑ったけど、あの親的には女の子なんだから〜という気持ちで言ってる訳じゃないんだよね
もし親である私はあなたのスカートを履いた姿が見たいという気持ちだと、これまたジェンダーで語る問題じゃないのかもと思った
その気持ちの裏に女の子なんだからスカート履くべきというのがあったってことかな
別に性別関係なく、かわいい娘の、母親である私がかわいいと思う格好をして欲しいという気持ちからの発言だったら
https://www.buzzfeed.com/jp/reonahisamatsu/zeni-yamete
こんな記事を読んだ。
このお母さんが言ってることは正しい。間違いなく。
ただ私はこの記事を見て、また、ここ最近の芸能人自殺の件を見て、自分の過去の事を鮮明に思い出した。
自分語りする場他に無いのでこちらで失礼します。長いから読まなくていいよ。
私は毒親から生まれた。母が特にヤバい。どうヤバいかは読んでる内に分かると思う。
父親もヤバいけどマシ。父親は私が5歳の時に借金が問題で離婚した。借金の原因は母であり、父が母に耐えられなくなったというのも離婚理由の一つ。
あと他に父親のヤバい所は私が3歳の時に未成年淫行で逮捕経験有り、今もたまに何かしらで逮捕されてるくらいでしょうか。
母は嘘しかつかない人だった。
自分がいかにすごいかを毎日私に語っていた。嘘じゃないかもしれないが運動が出来て頭が良くてとてもモテたらしい。
一番よく聞いたのは、母が子供の頃芸能オーディションに応募して最終選考まで残ったのに親に反対されて最終選考に出られなかった話だ。
だから、自分は子供を決して縛ることなく何でも自由にさせてあげるんだと息巻いていた。
他には、身内や近所からこんな酷い事を言われた!と言って悲劇のヒロインを演じていた。そして、自分は正当だって話をセットで私や色んな人にしていた。
母は家事を一切しない人だった。
私は物心ついた時には包丁を握って、火を使って料理をしていた。何度も火傷したり指先を切り落とした覚えがある。ピーラーは100%切ってしまうので使うのを止めたし今でも怖くて使えない。指先が無くなったことで病院に行ったことはない。幸い、今指の形が変とか火傷の跡が目立つとかは特にない。
洗濯や洗い物は一回分でも溜まるとその晩母は発狂して私は何度も殴られ首を絞められ怒鳴られ、学校へ行く時間(朝)になるまで逃げられなかった。
ちなみに寝不足なうえにわんわん泣いてから学校に行くから瞼は毎日一重。今は何もせずに二重だが、同級生からは整形を疑われることがある。
そういえば包丁を投げられたことも何度もある(シンクに置きっぱなしだったせいで)。運良く毎回避けられたが避けなければ刺さってた。
赤ちゃんの頃はどうしていたか。ホームビデオを見る限りでは父親が家事をしていた。母は自分がしていたと言う。だから、家事も何もかもを全て私にやらせておきながら「誰があんたを育ててあげたと思ってるの!」が口癖だった。
私は何言ってんだこいつと思っていたが、ふとした時に何故だか自分が悪いかのような気になった。言われたその時ではなく、あとから何もない時に急に罪悪感に襲われた。
母は働いたことが無い。
しかし、一度だけ、試食販売のバイトをした。私が中学の時一度だけなんだけど、それを一生やってるかのように「私は働いている!」と言い続けた。
母は身内や近所に嫌われていた。
祖母や伯母は「母は昔からこういう性格で褒められたのは芸能人並みの容姿だけ、だから結婚してないと駄目なのに逃げられた」と口癖のように言っていた。(ちなみに私は父親似のブス)
母はその言葉に誇りを持っていたらしい。歳は40超えていたけどいつでも芸能人になる気満々だった。頼むからそうしてくれ、家にいないでくれと思って40超えてても応募できるオーディションを色々調べて教えたけど、行動に移されることは無かった。
近所からは、毎晩発狂してる事で心配の言葉を掛けられた事がある。その時母は「うちの子が癇癪持ちで、すみません」と言った。
母は、一度言葉にしたことはその場を取り繕うための嘘でも本気で本当だと思い込める。その晩、私が癇癪持ちなせいで近所から恥をかいたと朝まで怒鳴られた。
その晩だけでなく、機嫌が悪いと必ずその話を持ち出した。
繰り返していく内に私は自分の記憶も信じられなくなっていった。
しかし、とある近所の人は私に「あなたは普通だよ、お母さんがおかしいだけだから」と何度も言ってくれた。その一言だけが支えになった。
母はその人の事をことさらに嫌っていた。こんな酷い事を言われた、という話は主にその人からだった。
最初に出した記事から思い出したのはここです。笑 マジで関係ないです。作者さんすみません。
母には愛人がいた。
私が生まれてすぐの同窓会で会った既婚者。ダブル不倫。結果として父より長く付き合っていた。
私が成人後家出した後、「〇〇が家出した原因は愛人がいたせいなんでしょ?それがショックで家出したんでしょ?別れるから帰っておいで」とメールが来た。死ねと思った。
父は愛人の存在を最近まで知らなかった(さすがに知ってると思って私が言ってしまった)。
父とまだ離婚してない時もその愛人とは家で会ってて、私が3~5歳の時(覚えてないけど離婚前)「今、家に借金取りのヤクザが来るから猫のフリしてて」と母に言われ倉庫代わりだった部屋の扉にガムテープを貼って閉じ込められた。
私は言われた通り、にゃーにゃー鳴いて扉を引っ掻いたりしていた。
ヤクザが何かもわからない私はガムテープが張られてない隙間から覗いてみた。見えたのは知らない男の人。しかしそれはその後小学生になって初めて顔を合わす母の愛人の姿だった。
母は生活保護を受けていた。
つまり私も受けていたことになるんだけど、暫くして不正があるってなって、全額返金を求められた。と、母は話していた。
私はここの詳細はわからないけど、心当たりあるとしたら祖母と父親から充分な生活費を貰っていたことかなぁ……。生活保護費は母の夜遊び代だったので。
その時高校生だったので、アルバイトをしていた私のお金、それまでのお年玉貯金(そもそもお年玉は母に取られてたので、内密に受け取っていた僅かな分しかない)や奨学金含めて、全て生活保護の返済に充てるという事で母に没収されました。
高校生の時のアルバイト代はその後も全て没収、生活がものすごく困窮した。お昼ご飯はお弁当だったけど、時間的にも金銭的にも作れなくなって、何もない日があって友達から少しおかずを分けて貰っていた。
しかし母は相変わらず夜遊びしていた。私は夜遊びに行ってもらう方が都合が良いのでその事を問い詰めるような事はしなかった。どこに行ってたのかも知らない。
もしかしたら、嘘をつかれて、私から取ったお金も遊びに充てていたかもしれない。
高校を卒業する時、私は県外の専門学校に行かせてもらえるはずだった。
小学生の時から良いなと思っていて身内全員に勧められ、漠然とそこに行くんだって思っていて、大学の勉強はしてなかった。
中学で1年半不登校して(この時は、完全に部屋に閉じこもって母とも誰とも顔を合わせない引きこもりをした)基礎が何も分からなくなってしまったのでその時点で勉強はだめだと思っていた。
けど、丁度進学を決めるタイミングで祖父が亡くなり、遺産で揉めて学費が払えませんとなった。
私も貯金がゼロ、なら就職しかない、と思ったら担任に「もうさすがに遅くて無理です」と言われた。そして勧められたのが、高校の系列の専門学校だった。推薦できるし安く出来るからって。母は最初から最後まで可能不可能の話はせず「あんたの進路はあんたが決めなさい」とだけ言った。
私は"家から出られれば"どこでも良かった。その話を担任にこっそりとしたら、寮があるから大丈夫と言われて、じゃあそうしようと決めた。
しかし、実際は寮には入れなかった。
推薦入学の為面接があって、面接の部屋に学生は5人いたのだけど私にされた質問は一つ。
「寮に入りたいって希望してるけど何で?きみ、家近いよね?」
そんな事聞かれると全く思っていなかった(担任とのシミュレーションにも無かった)ので、とにかく本当の事は言えないから「自立する為です!」と答えた。
それに対して「親孝行した方が良いよ?」と鼻で笑われた。それで私のターンは終わった。最悪だった。
その後3年は、放課後から朝までアルバイト漬け、家には風呂に入る為だけに帰り学校で寝る、というような生活を繰り返した。帰る度に母が何か喚いていたけど黙らせた。
話していなかったけど、私は小学校高学年くらいから母の暴力に暴力で返していた。私の方が力が強いので捻じ伏せることが可能だった。生きる為とはいえ今でも罪悪感しかない。それに暴力癖は今でも抜けない。普段生活していて手が出る事は無いが、彼氏と喧嘩して手が出てしまった事がある。別れた。子供は勿論結婚なんかも無理だろう。
それで、もう卒業式さえ出れば良いって時に東京のクソボロネズミ出まくりシェアハウスを借りて、必要最低限の荷物を送って、何も言わずに家出した。
あんなに働いたのに引っ越し後の残金(卒業式の為に一度故郷と往復する飛行機代を除いて)は2万円とちょっとだった。
慌てて就活を始めたが、最初に当たった企業が「きみ田舎から出てきたの?東京は甘くないよwでも仕方ないからうちが拾ってあげるよwうちの寮に住むならね。給料は14万もあげるよ、田舎だとこんなに貰えないでしょ?寮の家賃は6万。これは東京では物凄く安い方だからね。ほら、ここにサインして」逃げました。チェーンだから名前晒してやりたいくらいだ。
心折れてシェアハウスの近くでアルバイトする事にしました。給料の支払い日の都合が良くてラッキーだった。ギリ初回の家賃が払えた。
このかん、何度も自殺未遂した。物心ついた時から死にたかった。
幼稚園児の時も友達と喧嘩ばかりして友達が悪いのにその子の顔が可愛いから擁護されて、私が悪いんだって周りに指さされて、でも幼稚園の近くに住んでいた大人(変人)が「あんたは悪くないよ!この子が悪いんだ!」と急に怒鳴ってきて、ビックリしたし周りもあいつヤベーぞ不審者だ注意しろ!みたいな感じになったけど私はその言葉で救われた。その変人がいなかったら幼稚園の屋上から飛び降りていた。
小学生の時担任に親の事相談したら「そんなわけないでしょ、いいお母さんじゃない、ちゃんと育ててくれた人に感謝しなきゃだめよ」と言われた。児相の存在も知らないから最後の頼みの綱のつもりで相談したのに最悪だった。でも、私も当時は自分の状況をうまく説明できなかった。虐待されているとは思っていなかったし。でも、なんか説明できないけど不当な扱いを受けている、そしてそのせいで自分はとても苦しいという認識だった。だからその日死ぬつもりだった。放課後、当時好きな人と少し進展があった。嬉しかったけど私は今日死ぬんだぞ、今のが最後の会話だからな覚えておけよと思った。遺書にも書いた。その晩家のベランダの柵の上に身を乗り出して後は手を離すだけのタイミングで好きな人の事思い出してしまった。泣きながらベランダをよじ登った。
中学に上がり私は引きこもりになった。理由はなんかもう狂ったから。友達が私の事褒めると、嘘だと思ってしまう。私の脳内が勝手に誉め言葉に変換してるだけで本当はずっと貶されているんだ、私はキチガイなんだ、こうなったのは親のせいだ、そんな事を思いながら母が毎日扉前で「いい加減出て来い!」と怒鳴っているのを聞いていた。
ちなみに飲食は母が夜遊びに行ってる間にした。そういえば夜遊びも近所の人に色々言われてたけどそればかりは余計なお世話、私にとっては唯一の安息の時間だから正そうとするな。食料はちゃんと買っててくれた。と言っても、ほとんどツナ缶だった。育ちざかりにほぼツナ缶とマヨネーズしか食べなかったせいか身体が成長しなかった。友達にチビを弄られる。最悪。
引きこもってる間は元気にしてた。何故ならパソコンがあったから。2chに「死にたい人が書き込むスレ」みたいなのがあって、年齢など書きこむテンプレがあってその通り書き込んだら「まだ若いから大丈夫イキロ」みたいなレスをたくさん貰った。そうなのかあ、と他の書き込み見てみたら確かに50代とかが多くて、私若っ全然余裕じゃんと思った。
それでも一度だけ「そろそろ死なないとなあ~」と思ってまたベランダの柵の上に登ったけど、やる気になれずやめた。
引きこもることに飽き、死ねないし今のままじゃマジでやべえと思って2年の2学期からいきなり登校したらマジで誰?みたいな感じだったけど誰も何も聞いてこなかった。暫く過ごして、「転校生だと思ってた。自己紹介しないから変だなって」と言われた。物珍しさで人が集まり友達に恵まれた。小学生の時好きだった人はクソヤリチンになってて冷めたけどめちゃめちゃ楽しい中学時代を過ごせた。全国の引きこもり!デビュー、意外といけるぞ!もし失敗しても気にすんな!
高校~専門学校は家出の為に働くことに必死で自殺未遂はしなかった。何度も死のうとは思ったけど世間体も気になりだして、とりあえず、家を出てから考えようって思ってた。
家出後。家出直後は紆余曲折あったが、安定してきたのは3年後頃。それまでに2回転職した。1つ目、2つ目のアルバイトははっちゃめちゃのどったばったの学生の延長みたいなノリの職場だったので死にたくなってもすぐウェーーーーイwwみたいになれたのに、3つ目は無。職場環境も人間関係も金銭面も何も不満が無かったのに、何をしても楽しくなくて、ご飯食べてるだけで悲しくなって死にたい……死にたい……とずっと唱えていた。ある日職場の先輩が死んだ顔をしていたので「死んでますね」って言ったら「うん、何もないのにね、死にたい」って突然言われた。わかる~!って返してそこから「何でかよくわかんないけど死にたいあるある」を言い合った。ちなみにその先輩は私みたいな人生は送ってない。自分で「人生順風満帆で家族大好きだし最近大好きな彼と結婚したし最高に幸せ♡」と言っていた。最高に幸せ♡なのに何でかマジで死にたくなって死にたくなる意味が分からなくて解決法も無いから本当に死のうかな?でも死んだら旦那悲しむし……と思っていたそうだ。今思えばあの職場が何か呪われてたかもしれないが、私はそれを聞いて、あっ毒親育ちじゃなくても死にたくなるんだ~!って安心した。安心したらその意味不明の死にたいもどうでもよくなっていった。
でもその職場で、ある日上司が変わった。すると職場環境が一気に最悪になった。クレーマーが激増して日々殺意しかなかった。てかマジでここにいる人間全員殺して私も死ぬ!って所謂無敵の人思考になっていた。電車のホームに飛び降りようともしたけど、それよりもなによりも殺したくて仕方なかった。殺さないと死ねないと思った。でも殺しちゃいけない事は分かってるし犯罪したことないからやり方わからなくて、とりあえずその時から信号無視する車とかを避けることをやめた。あわや死ぬところだったみたいなタイミングでちゃんと死ねば悔いなく死ねる、失敗しても保険金貰えるだろと思って死を避ける反応をしないようにした。けど、運がいいのか悪いのか全部あわやで済んでしまった。
そうこうしてる内に仕事をなんとか辞められて、今。在宅ワークをしている。
リアルで誰とも触れ合わずにいるとぜーんぜん死のうとは思わない。けど、死ななきゃなあ……と思って過ごしている。あーいつになったら死ねるんだ。
胸がキュッとなるから思い出したくないのに。
小学校~中学校~高校と、それなりに友達もいて、楽しく過ごしていた。
休みの日によく遊びに行ったり、部活に励んだり、今考えると信じられないぐらい人と接していた。
よく恋もしていた。告白しないまま終わる恋ばかりだった。
勉強も真面目に頑張っていた。周りに褒められるために頑張っていた。
一人暮らしで気が緩んだのか。勉強も頑張らなくなり、だらけた生活を送るようになった。
友達もできなかった。
高校までは自然に友達ができていたから、大学に入ってもその内できるんだろうなと思っていたら、そういうわけにもいかず。
周りは周り同士で友達になっていくが、自分は溶け込めていけない。
どうしようもなくなって、同じ高校から入学したツレとばかり一緒に行動していた。
だんだんそのツレとも会わなくなり、自分はどんどん一人で過ごすようになった。
バイトを始めたが、バイト以外で遊びに行くほどの仲にはならなくて。
大学4年で研究室に入ったが、とりあえず最低限の研究だけしてなんとか卒業できた。
周りは友達同士でワイワイやっていたが、自分は親と出席していた。
親に友達がいないことを知られるのが嫌で、卒業式当日は、親に対してずっと不機嫌だった記憶がある。
卒業できるまで通わせてもらったのに。親不孝者だ。
それで良いと思っているはずなのに、何かがきっかけで昔のことを思い出してしまう。
心の奥底で、まだ憧れを抱いているのだろうか。
なんとなく抱き続けているモヤモヤを吐き出したくて、こんな日記を書いてみた。
書いたところで、モヤモヤは晴れないのだけれど。
安らかにお眠りください。
……………………………
長い間総理お疲れさまでしたということで、印象に残る発言の数々を50音順に集めてみました。キラキラ輝くキャッチーな発言、これこそがレガシーだ。
お お答えは差し控える
か 籠…池…さん…でしたっけ
き 緊張感を持って注視する
く 空前絶後の規模、世界最大の対策によって、この100年に一度の危機から日本経済を守り抜きます
こ こんな人たちに負けるわけにはいかない
さ サンゴについては移している
し 森羅万象すべてのことに答えなければならない立場ではありますが
た たとえば、たとえばですね、私たち国会議員や国家公務員は、いま、この状況でも全然影響を受けていない。収入に影響を受けていないわけであります。そこに果たして、5万円とか10万円の給付をすることはどうなんだという点を考えなければならない
て デフレではないという状況を作り出すことはできたが、デフレ脱却という段階には至っていない
な なるべく冷静にしようと思い、息を4秒吸って8秒吐くようにしている
に 任命責任は私にある
ぬ 布マスクは洗剤で洗うことで、再利用が可能なことから、急激に拡大しているマスク需要に対応するうえで、極めて有効だ
ね 年金を充実する唯一の道は、年金の原資を確かなものにすること、すなわち経済を強くすることだ
の 農家の不安にもしっかりと寄り添い、万全の対策を講じていくことが必要だ
は 幅広く募っているという認識でございました。募集してるという認識ではなかったものです
ひ 一つだけ大きなミスをしてしまいました。エレベーターをつけてしまいました
ふ 「復興五輪」と言うべき本年のオリンピック・パラリンピックなどの機会を通じて、復興しつつある被災地の姿を実感していただきたいと思います。
ほ 本日、我が党所属であった現職国会議員が逮捕されたことについては、大変遺憾であります
み みっともない憲法ですよ、はっきり言って。それは、日本人が作ったんじゃないですからね
む 無利子融資を民間金融機関に拡大するとともに、前例なき26兆円規模で納税や社会保険料の支払い猶予を行い、事業の継続を後押しし、雇用を守り抜いていきたい。
め 目指すは、新たな日常をつくり上げることです
も 森友学園の先生の教育に対する熱意は素晴らしいと聞いております
や 野次は止めてください
ゆ ゆずは9年の花盛り。このゆずまでは責任を持って大きな花を日本に咲かせたい
よ 読売新聞に書いているので、熟読していただければいい
ら 拉致問題を解決できるのは安倍政権だけだと私が言ったことはない
る ルールは守らなきゃ
れ Let me assure you the situation is under control.
ろ 論破をさせていただいた
わ 私や妻が関係していたということになれば、まさにこれは、もう私は総理大臣も、そりゃもう、間違いなく総理大臣も国会議員も辞めるということは、はっきりと申し上げておきたい
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(以下、空札)
う 嘘をついたと認めたほうがいい
か 過去を振り返っても、あるいは前政権を批判しても、今現在、私たちが直面をしている危機、課題が解決されるわけではありません
こ ゴルフがダメでですね、テニスはいいのか、将棋はいいのか、ということなんだろうと思いますよ
け 玄関まで出てこられたプーチン大統領が秋田犬のゆめを連れて出てこられまして、私も、見た目が結構迫力があったものでございますから、少しこわごわ手を出したところ、ぺろっとなめていただいたんですが
こ これからの長い人生、失敗はつきもの。何回も失敗するかもしれない。大切なことはそこから立ち上がること。そして失敗から学べれば、もっとすばらしい(2022/3/19 近畿大学卒業式 ※退任後の発言)
さ サリンを弾頭に付けて着弾させる能力を既に北朝鮮は保有している可能性がある
そ そのとき社会はあたかもリセット・ボタンを押したようになって、日本の景色は一変するでしょう
そ そんなに興奮しないで下さい
ち 朝鮮半島の平和的統一に向けて努力されてきた韓鶴子総裁をはじめ、皆様に敬意を表します(2021/9/12 UPF(天宙平和連合)主催「神統一韓国のためのTHINK TANK 2022希望前進大会」基調講演 ※退任後の発言)
は 早く質問しろよ
ひ 非常にジューシーですね
り 両国のすべての国民に利益をもたらすウィンウィンの合意となった
わ 私が言っていること、嘘だって言っているんでしょう? それは非常に無礼な話ですよ。嘘だって言っているんでしょ、あなたは。本当だったら、どうするんです、これ