はてなキーワード: 農民とは
もう2ヶ月以上続くインドの農民デモ。今までは最低価格保証がされていたが新法では価格保証が明記されず自由化で生活が苦しくなるとして政府に抗議。地方から首都に出向いて道路を占拠したりしている。
インドで農産物取引の自由化などを促す「農業新法」が成立したことに対し、約13億人の人口の半数以上を占めるといわれる農民の抗議が広がっている。
スウェーデンの環境活動家のグレタ・トゥーンベリさんも農民支持をTwitterで表明。
ところがデモに関して農民支援のレクチャーを受けたと見られる資料を誤爆ツイートして「グレタの背後に怪しいやつがいる」とインドの与党支持者や反グレタの間で反発広がり一騒動。インド警察も「背後」を調査したという。
その「背後」でデモ支援資料を作成してたというのがカナダの親カリスタン運動団体だとか。
'Preliminary enquiry has revealed that the toolkit in question appears to have been created by a pro-Khalistani Organisation 'Poetic Justice Foundation',
Furious Indians burn posters of the eco-campaigner after she wades into farmer protests dispute | Daily Mail Online
カリスタン運動とはシク教徒によるインドからの分離独立運動のこと。シク教とは信者数が世界で5番目に多い宗教で、歴史的経緯からインドのパンジャブ州に多く住む。
パンジャブ州は 1947年の印パ分離独立の際に,パキスタンからの難民であった多くのシク住民が移り住んだ。インド政府は同州をパキスタンとの戦略上の観点から農業州として固定化する方針を打出し,工業投資は控えてきた。 1960年代から米や麦の生産は向上したもののこの政府の一方的な方針に対してシク教徒の不満は次第に増大し,富裕なジャート系シク教徒の反政府運動へと発展,80年代には暴力行為が横行した。一方,このころ一部の海外移住シク教徒の間でもカリスタン運動が提起され,これがパンジャブ州での動きに相乗作用した。
今回のデモもパンジャブ州の農民が首都ニューデリーにトラクターで抗議に訪れている。
インド政府やヒンドゥー教の与党支持者は単なる農民デモとしてだけでなくカリスタン運動にも警戒しグレタさんに対しても「テロリスト支援だ」と批判している。
1月26日に警察との衝突で農民側に死者が出た。デモ参加者に少数派シーク教徒が含まれていたことから、政府やヒンズー至上主義の与党インド人民党(BJP)は、デモがシーク教徒の分離独立運動に結び付いていると主張し、世論の批判をかわそうとした。
緊急の行動
1. 2021年2月4日と5日のTwitterStorm-UTC午前11時から午後2時(簡単なドキュメントとズームリンク)
2.連帯写真/ビデオメッセージを電子メールでscrapfarmacts@gmail.comに共有します。できれば、2月5日までに、遅くとも2月6日までに共有します(デリー国境の農民への連帯メッセージ)。
3.インドの環境活動家や専門家との地域の状況を理解するために組織されたセッションをご希望の場合は、scrapfarmacts @ gmail.comまでご連絡ください。
4.政府の代表者に電話/メールで連絡し、行動を起こし、オンライン請願書に署名し、アダニアンバニのような独占者や寡占者から撤退するよう行動を起こします。
5.最寄りのインド大使館、メディアハウス、または地元の政府の近くでの行動を計画します。 2020年2月13日にオフィス。そして共有
>結婚して子孫を残すというのはどちらかいえば身分や階層の高い者に限られていて、本家ではない傍系の親族や使用人などの隷属農民たちは生涯未婚で過ごした人が多かったのだとか。たとえば、1675年の信濃国湯舟沢村の記録によれば、男の未婚率は全体で46%であるのに対して、傍系親族は62%、隷属農民は67%が未婚でした。
理解ある彼くん現象とは、精神疾患や引きこもり等の女性が『女性の生きづらさ』『困窮した状況から立ち直った方法』をテーマに描いたコラムや漫画の中で『理解ある彼氏』が最終ページ辺りに唐突に登場し、男性パートナーの経済的・精神的な支えによっていきなりすべての問題がなんとかなってしまうというある意味デウス・エクス・マキナ的な超展開パターンがあまりにも多いため、皮肉や嫉妬を込めて『理解ある彼くん現象』とか『そ理彼(そんな私にも理解ある彼くんがいますの略)』などと言われるようになったネットスラングである。
逆に障害者や引きこもり男性の人生にこのような『理解ある彼女』が登場し経済的・精神的に支えられ人生におけるセーフティネットとして機能するケースはそ理彼に比べると極めて稀で(健常男性だったパートナーが結婚後に鬱病を発症したケースや数十年前の国民皆婚時代の話であれば例外的にないこともないが)、自由恋愛化した現代日本においての生まれながらの性的価値の差による男女の非対称性の象徴としてよく扱われている。
また、男性の自殺率などを持ち出し『男性と女性どちらが本当の弱者であるか』というテーマの議論でもよく議題に上がる内容だ。
ちなみにこれは『無能の世界』の男女の対比の話であって、例えばそこそこ良い大学を卒業していたりコミュニケーション能力が高かったりと男だろうと女だろうと現代社会で就業や恋愛や結婚に特に困ることのないような五体満足の男女とは全く別次元の社会問題であることは予め頭に入れておいてほしい。
解説するが、理解ある彼くんの正体とは『一応定職にはついているが健常者の女性に相手にされなかった冴えない非モテ男性』のことである。
恋愛競争に敗北したチー牛顔の彼らは『無職や障害者のメンヘラ女性を養う』という戦略を取ることでギリギリの境界で恋愛競争に振り落とされないように必死にしがみついているのだ。
男としての性的魅力は低いが『優しい』『メンヘラ相手でも面倒を見れる』『嫁を養えるレベルにはまともな経済力』という属性がたまたま彼女らのセーフティネットとしてマッチングし、双方の妥協と打算の歪な結果生まれたのがあの物語なのだ。
しかし、この構図は同時に、後世の男性に対する重大な加害行為ではないだろうか?
この漫画で描かれる多くの『性を売ることでしか生きていけない無能な女性』というのは、言い換えるともし彼女がたまたま男であれば生きていけない人間だったということだ。
この『性を売る』というのは売春行為だけでなく当然恋愛での優位性を利用して婚姻等の社会制度の中で『理解ある彼くんに面倒を見てもらう』ことも含まれる。
男性パートナーに依存して生きていくということは、大人として成熟していけば結婚、出産などのイベントからは多くの場合逃れられないだろう。
そして、精神疾患や発達障害などは高確率で子供に遺伝してしまう。
私が『理解ある彼くんに支えてもらいか弱い女性が幸せになったお話』を見たときに一番違和感を感じるのは、彼女らの間に生まれるかもしれない男の子、つまりは不幸の再生産による後世の男性に対する加害行為があまりにも見て見ぬ振りされすぎではないだろうか?という点だ。
生活や承認のために様々なものに目をつぶって『ただ女だから生きていけた無能な女性』が『男だというだけでは生きていけない無能な男性』をこの世界に生み出すことはあまりにも残酷ではないか?
生き方が多様化した現代社会、中には「私は理解ある彼くんと無能な女性の間に生まれた性的弱者の無能な男性であるが、それでも趣味や宗教に打ち込むことによって幸せな人生を送ることができた。」というような男性も、ミクロレベルにはいるのかもしれない、だがそんなレアケースが生まれることを期待して恋愛や生殖のような生物としての根源とも言える選択肢を生まれながらにして当人の意思とは関係なく奪われた弱者を生み出すことは果たして人道的であろうか?
Twitterなどで男女論で議論しているフェミニストやこのような論説に異を唱えているアカウントを追っていると、(勿論漫画化などされていない)暗数も含め『無能な女性が理解ある彼くんと結ばれることで不幸な人生を歩むであろう男の子を生産する』パターンはかなり多いように見える。
現代の発達障害者の男女の生涯未婚率などを比較すると、統計としてもより顕著になるだろう。
もしかすると、この歪な関係の男女の間に生まれてくるのが運良く女児である可能性もある、その場合、その娘は母親と同じように将来『理解ある彼くん』を生やすことで幸福や承認を掴むことは可能なのかもしれない。
しかし、結局は彼女らの子孫から男の子が生まれてしまうまで問題を先送りするだけのことだ。
弱い男性が恋愛や人間関係の中で淘汰され苦しまざるを得ない現代の構造は誰が悪いという話ではない。
それが自然の摂理、といえばそれまでだし、ほぼ全国民が見合い結婚をしていた数十年前の方が生物としてはおかしかったのかもしれない。
これは黒人の奴隷制や昭和時代の女性蔑視な法体制のように国家による責任でも、ましてや『彼らを選ばなかった女性』の責任でもないだろう。
国民に自由を与えた結果、たまたま彼らは選ばれなかっただけだ。
LGBTや黒人のように歴史的な道徳的優位性もなければ、彼らは被害者ですらないだろう。
しかし、そんな歴史の都合は本人達の苦しみとは何一つ関係ない。
100年前であれば、現代では考えられないような碌でなしの男ですら皆何も考えず結婚できていたのだろう。 労働者階級が農民中心の時代では、現代では無能扱いされる彼らも無能ではなかったのかもしれない。
もっと昔の狩猟時代であれば、生きることに必死でこんなことは考えすらしなかったのだろう。
たまたま時代と自己の存在がミスマッチしてしまった不幸な存在が現代の無能な男性なのである。
社会は自動化が進み労働環境は複雑化し続け、教育費は高騰。経済格差は今後も広がり続ける。
無能な社員を雇い続け海外からは『日本式経営』と揶揄される現代の終身雇用形態も合理性のもといつ終焉を迎えるのか誰にもわからない。
きっと無能男性に対して厳しい社会は今後も長い間続いていくのだろう。
社会が形を変え、自殺率や幸福度が更に悲惨な状態になり、無能な世界の男女格差がどれだけ広がっても、きっと彼らは被差別階級にすらなれないのだろう。
情報化によって無能な男がどんな惨めな末路を辿るのか、現代はこんなにもはっきりと知ることができてしまう。
今の世界は、無能な男が笑って胸を張って生きていけるほどまだ優しいものではない。
政治的な正しさなんて概念も、そこまで万能ではない。 『多様性』なんて甘い言葉にきっと苦しむ彼らの存在は含まれていない。
現代における政治的な正しさにおいては「どんな人間であれ恋愛や生殖の権利はあるし、か弱い彼女らがパートナーに救済され子供を持つことは何一つ間違っていない」という主張の方が圧倒的に正しいのだろう。
しかし、どんなに取り繕っても現代の自由経済・自由恋愛社会というものは性淘汰と優生思想の理のもとに機能していて、結局は彼女らの救済の物語とは性淘汰の苦しみを後世の男性にすべて押し付けているだけではないだろうか?
実の子供というのは親にとっては可愛いものだ。 それは多分、種としては出来損ないの息子であったとしてもだ。
理解ある彼くんと無能な女子との間に生まれてきた子供の存在意義を無理やりこじつけるとすれば、それはきっと弱い女性と冴えない男の人生に多少の彩りを与える愛玩動物なのであろう。
彼らの存在は、さしずめカップルが寂しさを紛らわすためにペットショップから貰ってきた去勢済みのポメラニアンと何も変わらないのだ。
悲しいことに、愛玩動物として生を全うするには人類は幾分賢すぎる。
もし今後このような物語を見たとき、少しでも思い出してほしい。
か弱い女性が『理解彼くん』に救われた明るい物語の陰には、その皺寄せにより生涯苦しみ抜かねばならない後世の男性がいるかもしれないことを。
徳川家康は関ケ原で討ち死に。徳川秀忠は切腹。両者の首は一条戻橋に晒される。徳川家は結城秀康が引き継ぐも実質滅亡。
その後関東には何人か大名が移り住んだが誰も定着せず荒れ野のまま。
関東なんて今もほとんど人が住んでいないド田舎の話は誰も興味がないと思うので話を元に戻す。
関ケ原の戦い後、小早川秀秋が関白になるも5年で病死。その後は豊臣秀頼が関白になる。日本は上杉、宇喜多、毛利、島津などが各地域を100年ほど分割支配し、相互監督をはたらかせていたが、戦争が起こらず、外国との交易も進み商業が発展していったので時代遅れな武士は次第に消えていった。その代わりに交易で利益を上げた大名が豊臣を中心に貴族化していく。というわけでこちらの歴史の授業ではいちいち武将の名前なんて覚えない。そちらではやたらと武士がもてはやされているらしいが、こちらでは武士は鎌倉幕府まではともかく、室町幕府以降はの混乱を引き起こした元凶で、野蛮で恥ずかしい存在でしかない。交易で経済が発展しているので、日本のせまーい土地で米なんてものを作らせて税金を徴収するなんてバカなことは関ケ原の戦いの50年後にはなくなった。18世紀に入ると各地域の農民や労働者が蜂起して自治権が漸次的に認められるようになっていく。そちらとは違って武士の強権的な支配がないのでゆるやかにリベラル化していく素地があった。キリスト教も新旧両派が認められ、仏教と二大勢力になっている。その後、ユダヤ教やイスラム教を信じる人も増えていく。武士がいなくなっていくにつれて神道や儒教は消えていった。後述のように、近隣のアジア諸国でも儒教は消えていった。今でも神社の残骸のようなものは残っているが参拝する人は誰もいない。
19世紀になると大名が支配していた地域で労働者や農民の代表者からなる議会と豊臣を首班とする貴族からなる議会が設置されていく。いわゆる列強とも条約を締結したが、そちらの江戸幕府とかいうものが結んだような不平等条約ではない。もちろん条約は議会が承認する。19世紀の半ばにはアメリカやヨーロッパの思想が日本語に翻訳され、誰でも読めるようになっているが、モンテスキューやロックの思想は自分たちのやっていることと大して変わらないということで学校で議論する程度。そちらの学校では武士の強権的な支配によって作られたせいで自由に議論することは認められてないらしいけど、こちらは子どもたちが自由に議論して学ぶのがメイン。この教育をきっかけに貴族の力は次第に失われていく。19世紀半ば以降は欧米列強に対抗するため、近隣諸国と連合国家を形成する構想が何度も浮かぶ。アジア大陸では日本と同様、仏教とキリスト教がメイン。儒教は非合理的なので衰退。ここでは一致できるのだが、しかし、ヨーロッパ発の社会主義思想の影響もありうまくいかない。結局最初は2~3か国の同盟から連合が始まる。19世紀終盤にはアジア圏と欧米列強との間で大きな戦争が起きる。武士のような強権的で野蛮な人間が早い時期にいなくなり、無駄な戦争はしなくなっていったこともあり、1年ちょっとで早々に講和条約を締結。20世紀を迎える。
20世紀に入ると漸次的にアジア太平洋連合国家(APS)が形成されていく。APSはそれぞれの構成国で温度差はあるものの民主的な憲法を国民が制定した国家からなる。日本列島地域は力を失った貴族が政治的な実権を失い、国民代表からなる議会と各地域の代表者からなる元老院、APS議会に派遣される議員が存在している。ヨーロッパで発生したファシズムと戦う第二次世界大戦はこちらの世界でも勃発する。しかし、日本地域に強権的で野蛮な武士が存在しないこちらの世界では他国に侵略を行うようなことはない。APS含む連合国がイタリアのファシストとナチスドイツを倒して戦争は2年半で終結。その後、APSと共産圏、欧米諸国との間でイタリアとドイツを再建。アジア大陸では中国共産党とAPSの戦いが続くが、1964年に休戦。中華人民共和国はそちらの世界よりも規模がかなり小さく(朝鮮半島の付け根北部地域のみ)、影響力もあまりない。APSは中東諸国に対する共産圏やアメリカの侵略からの防衛にあたり、友好関係を現在に至るまで結び、勢力圏を拡大。意地でも共産主義を譲らないソ連と意地でも資本主義を手放さないアメリカは1980年代になると衰退していく。インドや中東諸国が加入したことでAPSはアジア太平洋連邦共和国(FRAP)へと改組される。FRAPと欧州連合がアメリカとソ連の再建の中心となる。
21世紀に入ると世界はFRAP、欧州連合、北米連合、南米連合、アフリカ連合の連邦国家で構成されていく。返す返すも、そっちの世界のように東日本の野蛮な武士が支配権を握らなくてよかったと思ってる。
聖地巡礼とは中世ヨーロッパの封建社会においてキリスト教徒のあいだで流行した、キリスト教の聖地であるエルサレムを訪れる宗教的行動である。
転じて、現代においてはアニメや映画などの熱心なファンが、創作物やキャラクター縁の地を訪ね歩く行為を指す言葉として使用されるに至った。
私も昨年度から今をときめくアイドルグループ乃木坂46好きが高じて、(暇を持て余していたことも手伝い)彼女たちが番組のロケで訪れたり雑誌等メディアで紹介したりしていた場所を巡ることが退屈な日常を彩る楽しみの一つとなっている。
大塚の天祖神社やバッティングセンター、千歳船橋の喫茶店ぱおーん、五反田のデニーズ……
思い起こしてみたがそれほど多くはなかった。
それはさておき、この日記(?)で私が考えたいのは「人はなぜ聖地巡礼をするのか」その理由だ。
聖地巡礼には楽しさがある。
思えば私は日本史と世界史も好きなので、歴史上の史跡を巡ることが旅行に行く際の主目的の一つだったりする。映画のロケ地を訪れることもある。
(前提として書き加えておくが、行ったことがない土地を訪れるのが好きな方であると思う。「まだこのへん歩いたことがないから」という理由で6時間ぐらい散歩することがざらにある)
今も『世界史をつくった海賊』(竹田いさみ著)なる本を読んでいて、大航海時代にマゼランに続いて史上二度目の世界一周航海を達成した海賊、フランシス・ドレーク(ワンピースのドレークのモデル)に関する記述を読んで、「彼の航路を船で辿ってみたいなあ」などと空想に耽っていた。
そう、私はフランシス・ドレークの足跡を辿りたいのである。
乃木坂のメンバーが参詣した神社に自分も赴きたいし、バットを振るったバッティングセンターで、彼女らがそうしたように、自分もバットを振るいたいのだ。
そして、「ここに彼らも、自分と同じように立っていたんだ」などと感じたいのである。
この衝動はなんなのだろう。何故、こんなことをしたいと思うのか。
バッティングセンターで行ったバッティングは、それ自体として面白かった。乃木坂のことがなければ、私はバッティングセンターに行きはしなかっただろうが、バッティングの最中は乃木坂のことは忘れて純粋にボールをバットで的確に打ち返すことに集中していたし、それが成功することに喜びを覚えていた。
しかし、やはりその一連の行為には、「メンバーも同じ場所で同じことをした」という事実認識によって特別な意味を付加され、それが私の心に満足感をもたらしている。
私の記憶には、明らかに「ただのバッティング」以上の色が付いて、この思い出が保存されているのだ。
この違いは何に由来するのか。
まず一つ、見逃せない重要な点は「私は乃木坂が好きである」という事実だろう。これは明らかに聖地巡礼の動機に深く関わっている。
私は何も藤田ニコルや西野亮廣の訪れた場所に行きたいとは微塵も思わない。ニコるんはどちらかと言えば好きだが、出演番組をチェックするほどではない。西野に至ってはどちらかと言えば好きではないし、好きではない人間の縁の地を訪ねたい、その足跡に自分の足跡を重ねたいとは思わない。
フランシス・ドレークのことも、まあ好きになりつつある。(暇があれば伝記を読んでもいいかなと思うぐらいには)
では、好きな人なら誰でも聖地巡礼したくなるのかと言えばそんなことはない。身近な友人のことは好きだが、彼らの足跡を辿りたいとは思わない。
恐らくは、その人物との関係性および距離感が聖地巡礼に向かわせしめる大きな引鉄の一つなのだ。
想像するに乃木坂のメンバーでさえ、もし私が直接的に関係性を構築してしまえば、聖地を巡礼したいという衝動はなくなるだろう。
同じ場所を訪れて、同じことをしたいという気持ちの裏にあるのは、「近付きたいが手の届かない者の存在」を少しでも身近に感じたいという欲求なのだ。
友人という生々しい関係は、最早相手をそういう「聖なる存在」にしておかない。
ただし、友人との関係が何らかの理由で解消され、手の届かない存在になった場合はその限りではない。その最も単純な例は「死別」である。死が二人を分かてば、当たり前な存在は当たり前でなくなり、会いたいのに会えない、焦がれ求める対象になる。
そしてその感慨は、対象と同じ空間的座標に立つこと、そこで同じ行為を追体験することで増幅される。ただ、家でスマホをいじりながらその人のことを考えているだけの時間よりも、その人に少し近付けたような気になる。
その対象は人に限らない、作品、ひいてはその世界観全体も対象になりうる。
私は宮崎駿監督の映画が大好きで、監督がハウルを撮り終えた後に数ヶ月間療養し、次回作の『崖の上のポニョ』の構想に繋がった広島県の鞆の浦や、『耳をすませば』の舞台となった聖蹟桜ヶ丘も訪ねているが、ポニョや雫個人をそこまで好きかといえばそんなことはない。
フランシス・ドレークのことは好きになりつつあると言ったが、やはり人物に対しての好意それだけというよりは、世界史的な偉業であるという点の魅力が大きいように思う。俗な言い方をすれば世界一周にロマンを感じるし、楽しそうである(実際は辛いことの連続だろうが)。
しかし、ドレークな先立って世界一周航海を達成したマゼランの足跡を辿りたいと考えたことはないことを踏まえれば、やはりドレークには読書を通して僅かながら彼の功績やエピソードに触れたことにより、マゼランに感じる以上の魅力を感じていること、それが巡礼への衝動を後押ししていることは間違いない。マゼランのことは何も知らない。何も知らないので魅力も感じなければ、より深く知りたいという動機も起こらない。
(どうやら相手のことを「知りたい」と思うには、まず相手のことを知ることが必要らしい。少なくとも私にとっては。難儀なことだ。)
「手の届かない「聖なる存在」である対象をその足跡を辿り行為をお手軽に追体験することで、少しでも身近に感じること」が聖地巡礼の意義であると一旦結論付けてみる。
ここで唐突に「お手軽に」という制限を付け加えたのは、私はバッティングセンターでバッティングをする程度の追体験はしたいが、乃木坂のメンバーが日々の研鑽を重ねたダンスレッスン場で一年間同じレッスンを受けたいかといえば真っ平御免だなということに思い至った。
一年間彼女たちが受けたレッスンと同様のレッスンを受けることは、彼女たちの辛さや頑張りをよりリアルに追体験することになる。追体験としての質は高い。だが時間がかかりすぎる。ダンスよりもやりたいことがあるし、辛そうなので、暇潰しに週二程度通うならチャンスがあればやらなくもないが、それはもう追体験としての価値は薄れて、一年間におよぶダンスレッスンそのものが持つ価値が問われている。(追記:そもそもこれ、巡礼ではなくダンスでは?)そういう意味で1000円分のバッティングには十分その価値があったし、世界一周航海も同様である。(追記:これも巡礼と言えるのか?場所を訪ねる行為に限定するべきだったかもしれない)
聖地巡礼はお手軽でなければならない。言い換えるなら、その行為自体を楽しめないのならやりたくはない。滝行は楽しそうなのでやりたいが、例えば彼女らが受けていた辛い仕打ちを自分も受けたいかというと難しい。
例えばメンバーの誰かが過去にイジメを受けていたとして、それと同様のイジメを受けたいか。これに関しては少し受けたい。マゾヒスティックな願望ではなく、多少なりとも彼女らの苦労を追体験することは彼女らを理解することにつながるからだ。
しかし、紛い物のそれはやはり本当のイジメ体験とは辛さの質が大きく異なるし、よりリアルに状況を再現するために半年間継続してイジメを受けてくださいと言われればお断りする。あくまでもその一部を、私が本当には辛くならない程度に体験することで、辛さに思いを馳せたい、という程度に存在への接近願望は留まる。
キリスト教徒だってエルサレムには行きたくても、ゴルゴダの丘の上で十字架に磔にされたいかと言えばそんなことはないだろう。ごっこ程度にはやってみたいが、それはごっこ遊び自体が楽しさを持つからである。高所に磔にされて「こえ~」などと言ってるのは楽しいが、手足を本当に釘で打ち付けられるのはたまったものではない。(追記:これも巡礼の話ではなくなっている気がするが、でも巡礼先で対象が何かしてたら同じことやりたいよなあ。(追追記:でもやらなくても巡礼は成立するからやっぱりおかしいね。はい。))
体験の総体として楽しくないならやりたくない。少なくとも私は。この「楽しく」は何も笑顔になったり、興奮したりするといった類の楽しさである必要はない。
心地よい感情が動きがあればよい。
郷愁に浸るとか、感慨に耽けるとか、今風に言えばエモさがあってもよい。「泣く」ことによる感情の発露も、人間にとっては快感であるので、ここで述べる「楽しさ」に含まれる。
いや、違うな。
上に述べたエモさは体験そのものに由来する(既出の例をとればバッティング行為によって引き起こされた)感情ではなく、「行為を追体験している」という事実に付随する感情の動きだ。そこは切り分けるべきだろう。
例えば「同じ場所に立つ」ことも、聖地巡礼に伴う追体験行為の一形態だが「立つ行為そのもの」には特に何の楽しみもない。(立っているだけで楽しい場所もあるが、必ずしもその必要はない)(追記:この例の方が純粋な巡礼っぽい)
先例のイジメのように行為自体は許容範囲であれば不快であっても構わない。これは個人差があるし、対象に対する思い入れの深さによっても許容範囲が変わってきそうだが。
「追体験行為を包含する巡礼行為」が総体として満足感をもたらす体験であればよい。(追記:「巡礼が追体験を包含する」よりも「巡礼に追体験が付随する(ことがある)」が正しい)
距離も重要な要素だ。ここで言及する距離とは、対象との関係性としての距離ではなく、その聖地との物理的距離感である。
遠ければ遠いほど、巡礼を達成した際の体験価値は高い。エルサレムが近所の公園にあったら巡礼の有難みも霞むだろう。
私は電車移動含めて一時間もあれば十分である。しかし、ここまで書いて想像してみたが、家の隣にあった昔馴染みのなんでもない祠が実は家康が足繁く通った祠であったと発覚すれば、そこにはそれなりの感慨が生まれるように思える。巡礼と呼ぶにはあまりにも短距離だし、巡礼としての価値は希薄化するものの、完全に失われることはない。いや、とはいえやはり価値の減少は免れないな。
遠ければ遠いほどいい、というものでもない気がするが。例えば、乃木坂のメンバーが訪れた場所の比較として、私の現在地から大塚のバッティングセンターとパリの街角にあるカフェとの物理的距離には圧倒的な差があるが(もちろんパリの方が遠い)、パリのカフェを訪れた際の感慨がバッティングセンターに比べてそれほど深いかといえば、あまり変わらないような気がする。
これは、「パリ旅行のついで」にカフェを訪れるのか、「乃木坂のメンバーが訪れたカフェを主目的に」パリを訪れるのか、物理的距離を越えんとする直接的な動機がどちらにあるのかによっても異なりそうだが、メンバーが通った小学校とか、生まれ育った地域ぐらいの重要地ならともかく、たかだかロケで立ち寄っただけのカフェを目的に渡仏する気にはならない。
いや前者でも渡仏する気にはならないが、(追記:というかメンバーの母校って言うほど感慨深いか?その頃のメンバーが好きな訳ではないし……)するにしてもそれはやはりそもそもパリ自体が好きで巡礼を抜きにしてもパリに行きたいからであって、パリの一地域を訪ね歩く行為そのものに乃木坂とは無関係に楽しみを見出している。その意味で巡礼行為は「ついで感」が否めない。(追記:「むしろ行きたくない場所への巡礼」を考えてみようと思ったが、思いつかなかった。(追追記:日焼けと車酔いに弱いのでそれらが伴う場所には積極的に行きたくない。苦労した分、到達時の達成感はありそうだが、それは聖地が持つ意味とはやはり無関係。目的地に至る行程に由来する価値を抜きにした純粋な巡礼価値は何によって決まるのか。))
これはもしかしたら聖地巡礼も、エルサレム旅行そのものに少なからず体験としての楽しみが含まれていた可能性もあるが、中世を生きる農民の長旅の過酷さや宗教に対する敬虔さはとても無知蒙昧な私の想像のおよぶところではないので、お叱りを受ける前にこの説は引っ込めておく。
でも伊勢参りとかは楽しそうだよね。明日(もはや夜が明けたので今日なんだが)近所のブックオフで聖地巡礼事情に関する本でも漁ってみよう。
眠いし目も疲れたので「過去の自分への巡礼」とかまだ考えたいことはあったが、このへんにしておく。
おやすみなさい。
マルクス主義社会学者、橋本健二は著書『アンダークラス』で現代日本の貧困層の分析を行い、今の政党が彼らの代弁者たり得ないことを述べた。
貧困層は、政治的な右左はばらばらなものの、再配分には多くが肯定的である。
経済的な再配分を第一党是とし、その他の政策はイデオロギーにとらわれることなく、柔軟に対応する政党を作れば、貧困層の支持を得る可能性が高く、またそういう政党が存在しなければ、貧困層を救えない。
現在日本の「左派」政党においては、再配分は「定食に出てくるおかずのひとつ」に過ぎず、その他の左派的政策・主張の方に力点がある。
参議院議員だった山本太郎は2019年の4月1日に「れいわ新選組」を旗揚げする。
れいわの主張の根本は、再配分であり、貧困者の経済的充足である。
山本は自分を財務大臣にするなら自民党とも手を組む、と冗談交じりに言った。
それを批判したツイッターリベラルは多かったが、山本はおそらく橋本のこの本を読んでおり、貧困者への経済的利益を第一に代弁するならば、その他の政策は妥協しうる、下層民を代表する政党、という橋本の構想を取り入れたのだろう。
参議院選挙でも都知事選でも、積極財政による、貧困者への経済的充足を第一に訴えた。
参議院選挙が始まるころになると、リベラルにふだん批判的な池田信夫ですら、山本の「貧困層を取りに行く」政党について、大きな支持を得るだろうと予想した。
だが、それまでだった。
山本の訴えに共感するような人たちは、たとえ貧困層であっても、「意識が高い人」たちであり、「学はあってもお金がない」人だ。
でもそんな人の数は限られている。
圧倒的多数の、「学も金もない」アンダークラスには届かなかった。
日本にはアンダークラスを代弁する政党がない、そこを目指せば、ブルーオーシャンだ、そう思っていた人も、
じつは、それがレッドオーシャンだったことがあらためて分かった。
従来どおり、高学歴リベラルの価値観で組まれた政策「定食」のおかずのひとつに貧困対策を置いたほうが、票は取れるのだ。
このような失敗は、昔からあり、ロシア革命の時も、革命勢力は農民を説得して回ったが、結局、農民は体制を支持し、革命には参加しなかった。
【主張】コロナと店名公表 私刑誘発の姑息な悪手だ - 産経ニュース
https://www.sankei.com/column/news/210111/clm2101110002-n1.html
これはまあ正論なんだけどさ。
でもねえ、日本社会の悪い所兼良い所って
「他人様に迷惑をかけない」「みんなが我慢してるのを破って迷惑かけたやつ村八分」というモラルであり相互牽制じゃん?
何故そんなもんが生まれたかって、この社会規範がまさにケガレとか伝染病とか色んな災厄を食い止めるからだよ。
「自分が良ければいいんだ」「やりたいことをやらせろ」っていう奴は安全で安定性の高い社会では新しい駆動力になることもあるけど
危機に瀕した場面では自分の感情だけで勝手にバリケード壊してセーフゾーンにゾンビを招き入れる定番の迷惑バカと同じ。
そういう奴を出した家ごと村の外に放り出して殺すぞ。
それが嫌なら周りに迷惑かけないように家族でちゃんと注意し合え。
周囲と相互に貸し借りを絶やさないようにしながら一蓮托生の意識を確認し合え。
村のみんなの川の水を独り占めしようとするなら生きていけなくしてやる。
一人一人がその独特の息苦しさで嫌な思いをすることはあっても
助かる人命は絶対増えてる。
豊かさや安全性が高まってきたらその息苦しさがただの不合理性になって
あーこんな田舎嫌だ都会に出るーって感じになってきてそれも合理性なんだけどさ。
いまこそ日本人の強みである村社会根性を発動するタイミングなんじゃねーの?
たとえば変異株持って帰ってきて隔離中に知人2人と会食してばっちり移したっていう奴。
もちろん公式発表とかは現代日本で難しいので、裏口からのリークだ。
そいつは仕事を失うし実家も引っ越しをしてさまよう羽目になるし会食相手の友達まで巻き込まれる。
じゃああいつも。こいつも。
民間の便乗含めて10人ぐらい特にケシカラン感染者や会食マンが晒されて私刑をくらう。
それぐらいやってみなよ。
あ、これ今はそういうフェーズなんだ。
みんなで足並みをそろえる時なんだ。
万が一隔離違反やクラスターかましたような奴がいたら全力で私刑しよう。
そういう空気が出来上がってみなよ。
「コロナ予防意識が甘い=みんなに迷惑かける悪」が世間の空気になった時の日本人は
元からそういう意味では強靭な方の社会だったけど、そろそろはっきり引き締め直す必要がある。
モラルって言うのは本質的にやべーものだけど、もっとやべーものが蔓延してる危険な環境では抵抗力になるんだよ。
我々はアベやスガに従ってるんじゃなくて世間の空気に従う国民だから。
はてなのリベラルだってコロナに感染しながらスーパー銭湯行っていいですか?とかほざく自分のことしか考えない愚民はモラルの下にリンチしたくてうずうずしてる。
ウヨもサヨも団結して頑張れるのは潜在DNAを刺激して村社会モラルを発動した時だよ。
こういうのはもちろん近代の自由主義の流れと完全に逆行するしそういう抵抗感はあると思う。
でも人の命がかかってるんだからさ。
これから増えるコロナ死者に「ポリティカリーにコレクトであることと引き換えにあなたは死んでください」なんて言える?
今一度村社会根性に戻って晒しと私刑を始めれば救える命があるんですよ。
どっちの悪を選んで何を掴むのか。
村社会の悪を選んで人命を掴むべきなのでは?
晒しと私刑は近代の社会にも普通に組み込まれている効率的メソッドなんですよ。
例えば大型脱税者の名前がマスメディアで報道されるのも国税局が裏口からリークしてるからだからな。
「一匹殺して吊っておく」を国税庁がやっているの。
韓国なんかは日本より危急時の法律が強いから不用意な感染者の晒しを公的にやれるらしいけど
日本はそんな法律なくたって世界1レベルにモラリスティックな遺伝子を眠らせているから。
でもあらためて要点を強調するための「バカな生徒の質問」として百点満点だから使わせてもらう。
我々日本人は政府やトップが主体性のある指導してくださる時より
世間の空気に従う時にこそ強い自制心を発動する民族だと言ってるんだ。
お前も日本人なら自分が自然に服するのはどっちか考えてみたらいい。
アベやスガの求心力なのか、世間の空気と「人に迷惑かけるな」という躾けなのか。
アメリカ人なんかはプレジデントのカリスマ性にうっとりして従うのが好きだ。オバマもトランプもうおおおお!!!ってなる国民が大勢いる。
日本ではあんな熱狂的な支持を受ける首相は保守にも革新にも表れないだろう。
自分が目立ちながら責任感ある演説ぶつことではなく、裏から手を回してケシカラン奴何名か吊って晒すことだ。
生きづらいぞなんて俺がはっきり書いてるだろ!
「息苦しくても近代の価値観に逆行してても人命の方が大事だよな?」って言ってんだ。
お前はほんとに国語0点ですげーよ。
今回は利用価値あったからいいけど、そこまで日本語読めないなら生意気にレスなんかしなくていいぞ。賛成反対以前じゃん。
閉じたコミュニティの掟や制限を受けるのは理解しても、公にして個人の人生を奪うのは下品の極み。そういう感性は理解できない。
後進的な悪のソリューションだと言ってんじゃん。
でも人の命がかかってるんですよ?
「あんたは品性のために死んでくれ」と言い渡すガッツでそれ言ってんの?
「弊害があるから」って選ばず検討せずなにもしないでタイミング流していくのも人殺しだからな。
そういう奴が一番多いんだけどさ。それで何らかの手を打った奴に対してこんなに弊害があるぞって批判だけ元気一杯やるんだよな。
私刑をなんだと思ってんだ?
語彙をまともに整備してください。
非常識ってのはつまり語彙がちゃんと揃ってないor精度が出てないやつのことです。
いや、本当にビックリするわ。
一匹殺して吊っておくカラスは極論無罪の濡れ衣でもいいだろうが。
こいつも話をまるっきり!理解してないよね。
3000人ちょっとでおさめてるのも我々の村根性DNAのおかげだろ。個人の権利だ自由だという意識より人様に迷惑かけんなという意識がガッチリ強い後進的国民性のおかげだ。
これ以上強く人命優先せんでもいいわってことならもちろんDNAブーストなしもオプションだな。
別にどっちの悪を優先しろとか特定方向へ説得する話する気はねーよ。
お前らだってお前やお前の家族が野放図に広まるコロナで死ぬ可能性考えてないんだから同じだろそれは。
それをやった太平洋戦争がどうなったか小学校で習ったことがないのかな。社会の価値観を単一に染めると別の脆弱性が生まれてどうなるか色々実例があるから調べてごらん
太平洋戦争が挫折したのはアメリカが日本より強かったからだよ。
今言ってるのは「総力戦で力を絞り出すときに村社会性より効率的なソリューションがあったのか」という話だ。
日本が限界まで効率を高めたって敵がそれより強けりゃ負けるが、それは効率を否定できる話か?
どうもあんたは妊娠後期くらいから思考力が弱りっぱなしのように見えるぞ。
誰が刑罰の話をしてんだよ。
法律や刑罰なんか関係ないところに国民性というものはあるぞと言ってんだ。
他にも何人かいるドヤ顔で憲法31条!とか言ってる奴らは、俺が近代的な人権精神尊重前提に同意してるように見えるのか?
頭が悪いとはまさにお前達のような奴のこと。
話の前提がわからない、相手がどういう奴かわからない、会話に当たってのフレキシビリティゼロで、どんな場面でも自分の覚え込んだ念仏唱えればタスク解決だと思ってる。
ほとんどの仕事や遊びで絶望的に使いでのない脳みそだろうそれ。
何を考えてどういうチューニングを加えながら生きてきてそんな絶望的な仕上がりの脳になったんだお前等は。
いやぁ、人間ってさらに愚かで残酷だから、ここで踏みとどまりたいなぁ私は。七人の侍を見直したくなった
わ。
自分の家が防衛線の外だと知った農民数世帯が村全体の防衛から抜けて自分達の家のみ守ろうと(守れるわけないんだけど)するんだけど、そこで普段穏和な勘兵衛が刀抜いて追いかけるだろ。
そんで腰抜かした農民に
「己のことばかり考える奴は、己をも滅ぼす奴だ!
今後勝手なことを言う奴は···!(軍規にかけてぶった斬る)」つって竹槍拾わせて列に戻らせる。
そのソリューションに合ってるのはハンセン氏病みたいなのだよな。
もう一歩進んでHIVくらいの感染力とキャリア数なら皆殺しでも追い付くかもしれない。
その程度のもん未読な訳ねーだろ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/285eeb4b994a31904dd5dbbe0da5bc2815265751
これ見て思ったが、けっきょく政治って私欲による椅子取りゲームだと思う
その根源は、軍事力となんら変わらない、暴力・威力の誇示なのである
信長は偉人だが、信長は天下統一直前に亡くなってしまったから評価ができないとされる
人間をプロフェッショナルにして、経済的に自由にしようという思想があったと思われる
血で血を洗う戦国時代を終わらせようとした人間であり、そこには私欲というものは見られない
もし私欲を重視していたら、さっさと織田幕府を開いていただろうし、それ以前に
今川義元に服従して桶狭間で道をゆずって小大名で生涯を終えていただろう
二宮尊徳はすぐれた農本政策をもって数多くの貧窮した農村を救ったが、その源泉に私欲はまったくなかった
小田原藩の財政復興大臣に任命される直前に、利権を重んじた名もない家老たちに止められた
彼らは自分たちの欲望を重視した結果、もちろん歴史に名を遺してはいない
おもうに人間は権力欲にとりつかれた状態というのは、一種の悪霊や病気の類ではないかと思う
たとえば最近夫婦でワイロをばらまいて逮捕された法務大臣(名前忘れた)がいたけど、
彼は数年前のインタビューで「政治のポリシーは善良と誠実さです」みたいに言っていた
その二律背反と陳腐な精神はまさに私欲という名の悪霊にとりつかれているとしか思えない
権力ゲームに身を乗り出した時点で、そこから逃れることは難しいのである
そういえばこんな優秀そうな若手サラリーマンの書き込みがあったが、
https://anond.hatelabo.jp/20201230034745
仕事にまい進してきた一定期間を超えると、権力やカネへの固執の萌芽がみられることが確認できる
どんな人間でも、成長のベクトルを私欲や利権に切り替えてしまうポイントがあるのである
自身の権力基盤である観光業の利権のため、GoToトラベルで国民を引っ掻き回しウイルスを蔓延させ、
そろそろ、どのギルド職員のねーちゃんがどの作品だか分からなくなってきた。
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どうしても根本のゲーム性として単調になりがちなので、作業ゲーが苦手な人は向いてないと思う。農作業で能力を高める→ダンジョン探索する、という流れを繰り返す。
ダンジョン探索部分は羽衣を使ったワイヤーアクションや敵をぶつけて吹っ飛ばすアクションなんかは楽しい。技のカスタマイズやコンボ繋げる部分とかも結構凝って作られている。ただしインフレが激しくて、相手の能力値が高いとまるでダメージが通らないし自分の能力が高いとほとんど一撃で倒せるような調整になっている。この大味なバランスを雑にどっかーんってできて楽しいと捉えるか実力が混ざる要素が減ってつまらないと捉えるかは微妙なところ。個人的には(後述のように)稲作を適当にやってれば適当に強くなれる仕様との噛み合わせはよくないよなあと思う。
米を収穫するたびにサクナの能力が上がるハクスラ要素。かなり細かく作られている。雑に肥料をガンガン与えて栄養を増やすだけではよくないらしい(トライフォース農法という言葉が有名になった)。土壌の様子を見ながら肥料に気を使ったり欲しいステータスに応じて稲作の方針を変えたり、本気でいい米を作ろうとするとなかなか沼の世界になる。肥料を最低限に抑えて雑草を減らすとか、農薬をドバドバ入れるとか、わざと防虫のパラメータをマイナスにして蜘蛛を養殖するとか、手段も様々。ストーリーを進めるごとに設備が整い、どんどん便利になっていくのも牧場系ゲームの定番って感じで快適。
ただ、ぶっちゃけ年数を重ねる方が大事。どんなに雑に稲作してもステータスは増えていくし、マイナスになることはない。ほどほどにこなして収穫するだけでかなりのステータス上昇になるし、十分に気を使って稲作した場合と上昇幅に大差がない。じゃあ適当にこなして回数を重ねればいいよねってなってしまう。食事効果なんかもあるんだけど、凝った料理を作ろうと思うと素材管理が大変なのとやっぱり稲作の上昇幅にはかなわないという都合上、どんどん雑な扱いになってくる。
ここもまた捉え方次第だと思う。余計に難易度が高くても大変だし、農作業の雰囲気だけでも楽しいし。稲作難易度(!?)の設定を変えればまた違った感想になるかも。
とてもよかった。稲作してハクスラするゲームねハイハイ、って思ってたところから異常なまでに濃い世界観と胸熱なストーリーに魅せられた。
3~4分ほどの長時間、"サクナたちが歌いながら田植えするだけ"という異常なムービーシーンがある。そこに至るまでの過程もある。なぜ農民は歌うのか?文化は、信仰はどのように作られるのか?"文化としての稲作"というものまで正面から向かい合った作品であることを象徴するシーンだった。
新鮮さも薄れてきて、延々と死んだ目で稲作とダンジョン探索を繰り返す作業ゲーの先を乗り越えた頃。ゲーム終盤に入る頃。
農作業を繰り返して心まで農民に染まりきったプレイヤーに、ラスボスの登場によって(以下ネタバレにつき反転)
という衝撃の鬱展開が襲う。
それに伴ってサクナの力も失われ、全てがなくなり、絶望を味わうことになる。
それでも立ち上がって一つ一つ取り戻していく。その過程が本当涙腺に来た。農民は負けないのだ。プレイヤーも負けないぞ。作業ゲー?そんなもん知るか、俺は稲作に忙しいんだ。さあ今日も仕事だ。
「また美味い米を作るぞー!!」
全てが終わり、サクナが歩いて家に帰るところでスタッフロール。今まで費やしてきた思いと映るヒノエ島の風景が合わさり、心に残るエンディングになった。
・適当な稲作を回数繰り返してステータスを上げる以外の選択肢がないバランス。明らかな格上の敵相手にプレイングスキルで勝つことはほぼできない(ダメージが通らない)し、稲作に気を使っても大してステータスは変わらないのでひたすら繰り返すしかない。
・ラスボス戦で唐突に別ゲーを強いられる。今までの快適アクションはどこに!?
・一部ダンジョンの探索条件が鬼畜。宝のために隠し通路なんかを探す作業は割と好きだけど、ランダム素材を集めることが条件になっていたりすると苦行になる。ちなみにダンジョンの探索条件はゲーム攻略の間接的なヒントになってたりして、弱点属性を教えてくれたり食事効果の大切さを教えてくれたりする部分もある。
とてもいいゲームでした。