はてなキーワード: 徳川家とは
1 戦国時代終了
15 江戸幕府終了
→その他
の順だと思うんだが、学校の授業だと家茂の暗殺はサラっと触れて終わりで、その代わりに家光・綱吉・吉宗をやたらクローズアップするから違和感すごいわ。
政策にしたって日本の政治経済史として重要な事柄について中身の解説もせず「生類憐れみの令」とかを名前だけ覚えさせてキャッキャッしとるやん?
理科や数学の授業で習ったことについては限られた枠の中で詰め込むならベストの内容だったと思うんだが、日本史に関しては無駄な寄り道する割には大事なこと教えて無くねと思ってしまう。
丸暗記の受験勉強に教科書まで乗っかって、丸っと暗記科目に成り下がっていた印象が強い。
それでも意味のある部分をひたすら覚えさせて真剣に学ぼうとしたときの足がかりにするつもりなら分かるんだが、「歴史を好きになって欲しい」みたいな助平心からかおもしろエピソード必死に紹介してたのがアホっぽいなと。
人類が少しずつ人間らしくなっていく過程を追うのが面白さじゃん。
神が皇帝を定め、皇帝が己の人民となるを認め、皇帝は神に祈りを捧げることを仕事にするクソバカの時代から少しずつ科学的で文化的で人道的に変わっていくのをマイルストーンを辿って追うのが面白いわけじゃんか。
他の科目は頑張ってた。
今川義元→家康を教育していた、泰平の世のベースはここでできた
鵜殿長照→元康殿とは戦いたくなかった… The武士として誉高く散った
田鶴→The武士として誉高く散った
三河一向一揆衆→悪かったのは年貢取った俺だ…民を苦しめてごめん…
浅井長政→いい人
武田信玄→ただただ強い
武田勝頼→有能だったが親の呪詛「お前は俺にできなかったことをやれ」に縛られたことで自滅(家康を裏切ったということでは嫌な奴だが、ただ嫌な奴ではなく呪詛に縛られていたから仕方ない感)
水野のおっさん→振り返ってみたらなんだかんだ家康のために動いてくれてはいた
瀬名→有村架純ならみんな好きになるわ…悪女になることで家康を守り、家康に泰平の世のビジョンを授ける
織田信長→家康に戦国で生き抜く術を教えた。てかとにかく家康が好き、でもお父さんのせいで伝え方がわからないの(瀬名に勝てなかった準ヒロイン)
アナ雪→裏切り者ではなく瀬名の意志を継ぐ家康のために身代わりになったとっても良い人
ここからは予想
豊臣秀吉→百姓が幸せになる世の中は武士には作れねぇから俺が天下を取った!検地もめちゃくちゃな年貢を要求されないためにやった!→(瀬名のビジョンを秀吉に明かす)家康なら百姓も幸せになる世を作れる!秀頼を頼んだ
石田三成→義の男、いい人、家康も好き(今相関図に書いてる紹介文的にそんな感じ)
確かに立場が変われば正義は変わるから勧善懲悪のような悪者がいないのはわかる
とはいえあまりに(家康にとって)優しい世界過ぎないか?てか愛されすぎやろ
こんな恵まれた世界で辛い辛い言ってたらマルチバース(過去の大河)の家康から怒られそう
今のところ悪い奴は明智だけだし
ただ、みんなが家康に優しい世界だと秀吉が死んでからの悪い奴は家康になっちゃうのでラスボスは出てきそうな気がする
淀殿かな?
「うーん。どちらかといえば面白くない」だ。
それでも記録に残しておく。
光るところが少しあるからだ。
疾走感が見事だった。
よくこんなに走れるものだ。
基本的に全場面走る。
ずっと走ってる。
走るのを見るための映画だった。
マニア向け。
ここから下は読まなくてもいい。
殿様が配下の者たちに体を鍛える遠足(とおあし。マラソン大会)を開催するとお触れを出した。
という構成になっている。
早とちりして安中が謀反を企てるとして粛清するよう手紙を出してしまう。
安中に情があるのでこれを止めようと奔走する。
遠足の一着には殿様が望みをかなえる。
この三人がそれぞれの思惑を胸に遠足に参加する。
それぞれの望みは叶うのか。
・一番足は速いが位が低くて八百長依頼される侍
誰もが認める俊足。
しかし位が低いため勝つことを許されない。
勝つのか、負けるのか。
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要素だけを抜き出すとかなり面白そうだった。
ジジイ小僧姫の三者にはちょっと興味が湧いたが見せ場の作り方が地味だった。
全体的に地味。
歴史上、「生まれながらの勇者」と呼べる人物は数多く存在しますが、その定義や評価は時代や文化によって異なるため、一概に評価することはできません。また、一部の人物は伝説や神話の中で、そのように扱われることもあります。
例えば、古代ギリシャの英雄アキレウスやトロイの王プリアモス、中世ヨーロッパのキング・アーサー、日本の源義経や立花道雪などは、その生まれや才能によって「勇者」として語り継がれています。また、現代でも、国際的な平和や人権の推進に尽力し、その功績が認められた人々も「勇者」と呼ばれることがあります。
ただし、「生まれながらの勇者」という言葉が意味するところが具体的に何かについては、解釈が分かれるところであり、それが現代の政治家や徳川家を含む人物には当てはまらない理由の一つでもあります。
徳川家が長子相続を徹底したのは、そうしないと世継ぎ争いで派閥が出来て荒れるから
戦国時代は有能な人間に継がせないと家が亡びるから無能な実長子より有能な養子が優先されたけど
安定した後は世継ぎ争い回避の方が優先だったってだけ
蒼天航路で、劉備が馬車で逃走中、荷を軽くするため自分の子供を投げ捨てるシーンがある
確かあのときは趙雲が「儒教の論理からすれば間違っていない」と評しつつも感情的に受け入れられないように描写されてた
論理的には血のつながった子供を軽視するのはありえるといえても、普通は受け入れられないというのが、人類のどの時代でも一般的な回答なんじゃないかな
あと、血のつながりを重視しないなら、徳川家の血統を軽視して将軍職を維持していいとなるが、そうはならないよね
つまり江戸時代であっても法的、経済的事情で養子需要が高いけど、血統の優先順位は(一族の内部での順位付けは変わるけど)普通に高いんじゃないですかね
66歳にして16人目の子どもである市姫(いちひめ)をもうけたけど質問ある?
顔はノッブほど精悍じゃないけど家臣や女中たちからは好かれてたよ
瀬名姫はツンツンしてたけどワイに会うときは晴れ着を用意するとかかわいげがあったな
今でいうツンデレじゃな
近頃ときたら気軽に女にされたり、転生させられたりするから困る
まさに幻のようなもんよな
ノッブ殿も転生されたのか!ご壮健そうで何よりでござる。
ジョブスどのは親友でござるからiPhone50くらいまでは知っておる。
そそのかしてはおらぬが、雪斎殿が導いてくれたのじゃよ。
100歳まで生きたというのはそういうことじゃな。
駿府城公園に入ってきた謎のぶよぶよした生き物の記録があるらしいけどそれがなんだったのか知りたいです。
肉人か?
あれは今でいう宇宙人じゃ。
たまたま駿府城に教養のある細川どのが来訪してての、「あれは中国の封じゃ」とゆったもんだから気味が悪いから追い払わせたぞ。
幽才どのがおらぬかったら静岡おでんにして食ってたかもしれんのう。
実は影武者?
それは創作じゃな。わしは影武者はもちろんおったが、あまり必要ではなかった。
わしが鯛の天ぷらで病に臥せった3か月のテキパキとした引継ぎを見ても、影武者にできるレベルの実務ではないことはわかるじゃろ?
武田信玄とやりあったときにうんこもらしたはすだけど、そのときの馬の様子を聞きたい
うんち漏らし達の聖地である増田に投稿したわけど、大先輩としてどんな気持ち?
実際の所、うんこ漏らしたの?漏らしてないの?
せ、戦国武将ならだれでも味噌玉を腰に巻いてたんだからねっ!(震え声)
馬はぶひひーんってゆってたゾ
てかお前らうんち好きすぎ
まあ三河武士が「知行などいりませんから徳川家のために!」という武士の鑑じゃったからのう。
豊臣ヒッデが気前よく大名に知行を与えまくって(例:加賀百万石)自爆したからのう。
大名はせいぜい50万石以下におさえて、天領(直轄地)は500万石になった。
三河は京都に近いが、駿府のほうが江戸と京都どっちにも移動しやすかったからの。
駿府でも三河の麦飯と八丁味噌をわざわざ取り寄せて食しておったぞ。
白米好きな侍女たちは半ばあきれておったがの。
66歳にして16人目の子どもである市姫(いちひめ)をもうけたときは、
「なんじゃ、ワシもまだまだ現役じゃん!」って自信がついたぞ!
静岡おでんを食いたくなったら久能山のほうに行くときもあるが、基本はそのときの気分次第じゃな。
うむ。民政家でゆうと二宮尊徳、藩政でゆうと上杉鷹山。幕政だと吉宗じゃな。
やつらは立派に儂の考えを理解して実行していたぞ。こっちに来たときは大いにほめてつかわした。
手紙とかでおじさん構文とか使うの?
わしはそれほど筆まめではなかったのじゃ。
ノッブ殿や信玄どのは教養があったから文章がうまかったようじゃの。
どちらかというと部下に任せることが多かった。
とくにラブレター系は苦手じゃった。
じゃから側室を口説くときは経験豊富な人妻をメインに攻めたぞ。
とりあえず鯛の天ぷらでもどうぞ
天ぷらの食べ過ぎに気をつけてね
結局天ぷらは何食うたん?
そなたらの気遣い痛み入る。
大坂の陣のあとの鷹狩で、シェフに「うまい天ぷらの具はあるか」って聞いたら鯛がうまいってことで、しばらくハマってしまったのじゃ。
油がよくなかったのかもしれんな。
良い質問じゃな。関ケ原が終わってもまだまだ不安定だったのじゃ。
あのときにキッヨとクロを島津征伐に送ってたら、寝返ったかもしれんからの。
井伊直政がうまくとりなしてくれて事なきを得たぞ。
寵愛していたナッオが関ケ原の鉄砲傷で亡くなったのは悲しかったのう。
衆道は以降きっぱりやめたぞ。
八味地黄丸じゃな。けっこう今の時代でも売ってるようじゃぞ。
66歳でもバリバリ現役じゃ!
大政奉還どう思う?
時代の流れじゃの。詳しくは晴天をつくの大河ドラマで北大路さんの演技で察してくれ。
儂は基本的に軍略も政治も信玄公と同じことをやったが、ワシは20年長生きしたから、
武田家の御親類衆VS勝頼どの側近、の対立構図にならなかった。
わしが早世してたら同じことになってたかもしれんのう。信康もおらんかったしな。
ここに詳細あったわ
参考になる
下山殿を側室に迎えてからしばらくしてのこと、元忠が屋敷に女を囲っていると徳川家臣の間で話題になります。それがどうも、家康が狙っていた馬場の娘らしい・・・。もしそうなら、元忠は家康の命令を無視しているではないか・・・家康は他の家臣にこっそりと調査させると、やはり噂通り馬場信房の娘を屋敷に住まわせているどころか、既に××まで進んでいることが判明。元忠が信房の娘を見つけても彼女は一歩も引かず毅然としてふるまいました。死線を潜り抜けてきた元忠、やっていることは人さらいなのでさも信濃の人々にとっては恐ろしく見えたことでしょうが、流石そこは馬場美濃守が娘、気丈な彼女に元忠は惚れ込み己が妻にしてしまうのでした。なお連れて帰ってからの2人の動向はしばらく不明。そこは妄想がはかどらないからちゃんと記録に残しておけよ元忠。
元忠にお目当ての娘を奪われた家康。ですが怒り出すようなことはせずむしろワハハと笑いながら「流石、彦右衛門めちゃっかりしておるわ。婚姻を祝う準備しておくから正室を一緒に見せに来いと伝えておけ」と正式に元忠の妻であると公表するのでした。
その後、元忠と彼女の間には3男1女に恵まれます。関ヶ原を前にして夫・元忠が伏見城に留守居していた時、彼女は夫が籠っている伏見城の図面を見て
「松の丸が守りに非常に弱い構造となっている。落ちるとするならばまず松の丸が原因になるでしょう」
と元忠から留守を任された家臣たちに言っています。事実、伏見城の戦いでは松の丸が最初に落とされ、そこから雪崩式に伏見城は落城してしまいました。流石は築城名人馬場美濃守の娘、血は争えぬと人々は大いに驚嘆したとのことです。
「企業内システム担当者(SEでもプログラマでもない人)が、何かあったら外注のせいにして責任を逃れられる」
って書かれてて、なるほどなあと思った。
で、これを考察すると、これって江戸時代の武士の支配をしていたメンタルそのものなんだよな。
例えば徳川家の旗を間違えて燃やしちゃったり、雑巾にしちゃったりする。
そしたら領地減らされるとか、最悪は改易(飛ばされる)とか、遠島流刑。
こういう「1%のミスを許さない」っていう精神って、徳川家康が設計したものなんだよね。
家康は将軍を引退してからも実権を握ってたのが13年くらいあって、
息子の秀忠が馬鹿真面目だったってこともあって、「ならぬものはならぬ」みたいな上意下達な文化を作ったんだと思う。
大奥とかの文化も非常にクローズドでがんじがらめで、今の日本に近い文化だよね。
それが260年以上続いた。
江戸以前の戦国時代はその逆で、「勇敢な行動の末のミスであれば武士としてあっぱれである」
みたいな文化だったんだよね。もちろん「勝手な行動は死罪」というのは軍においてはそうであったけど、
基本的にスピードと結果が全ての世界だったから、許されることも多かった。
何より信長や秀吉が好んだのは「臨機応変さ」「勇敢さ」であって、企業でいうベンチャーマインドに通じると思う。
秀吉は朝鮮出兵などで自爆してしまったけど、信長がもし織田政権を長期化させていたら、
楽市楽座とか、重商主義なところも、石高社会の当時の日本としては画期的だったからね。
まあ、家康は偉大ではあるけれども、日本人を停滞させた側面はあっただろうね。
何パーセントかは信長・秀吉のベンチャーマインドが許容される国であっても良かったと思う。
日本人の責任を取りたくない、悪い意味での臆病さが、外注という甘えを生みだして、
で、その臆病さの源泉は何かっていうと、終身雇用にあるんだよね。
アメリカみたいにスキルアップして飽和したら、数年おきにステップアップ転職する、っていう文化がないからね。
一生面倒を見てもらうわけで、ちょっとミスしたら一生居心地が悪くなってしまう。
そんな気持ちが見て取れるよね。
村八分されたくないから、村の外から工事人工を雇うってことなんだろうね。
で、話は戻るけど、多重下請けスキームにおけるエンドユーザー企業にいる、
エンジニアでもない「システム担当者」って結局なんなの?とも思う。
イメージ的には、江戸時代の城の中の座敷で座ってる人って感じ。
めっちゃ座り方が型にはまってる感じの。
「殿中まかりこしまし早漏」とか言ってそうな人(知らんけど)。
何ができるかっつーと何もできないけど、殿中まかりこしまし早漏の言い方はうまい(笑)。
座敷おっさん「うむ!節々のこといっさい任せたぞ!」みたいな。
あとは500人で済む工事を1000人で見積もらせる、金への執着、欲望の深さも大事な素養である。
ちなみに信長は二条城の改修を驚くべき短期間と完成度で仕上げたそうだが、
その時には自分も粗末な服を着て、身分の低い人工たちと身分の差なく語り合い、
トップダウンで進めたという記録が、フロイスによって残されている。
よく考えれば城が立派に早く完成すればいいわけで、
「工事の計画文書、第100版を作りまかりこしもうした」って毎日やるのが目的じゃないものな。
まかりこしもうしたやってる間に城郭を強化したり街道を整備してる。
これは現代でも同じ。最終目的がわかってるのがアメリカの強さ(=信長の強さ)なんだろうな。
だから日本がExcelポチポチやってる間に、AWSやAzureを作ってしまった。
とはいえ公正取引委員会とかIPAやデジタル庁が、問題を認識して動いているから、風向きは変わっていくかと。
https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/mag/nc/18/020800017/072600752/
家康の苦労はたくさんあるが、最大のものは奥さんと長男を斬った話だろう。
築山殿が晴れ着を着て待っていた話などは心苦しいエピソードである。
天正7(1579)年。失意の中で自分を責め続けた男(38歳)が一人。というのも、これまでの、そしてこれからの人生の中で、一番辛い出来事が、彼の身に起こったからだ。それは、子と妻を一気に亡くすという悲劇。想像以上の痛手。トラウマさえ残るほどの苦行。これだけでも辛いのに、皮肉にも、その原因を作ったのは自分。自らが「彼らの死」を命じなければならなかった。誰を恨んでいいのか。人生の矛盾に答えなどないと気付く。
当時、織田信長と同盟関係にあった家康は、窮地に立たされていた。原因は、長男・信康(のぶやす)の妻、徳姫の手紙である。徳姫は信長の娘で、家康の正室・築山殿と嫁姑関係がこじれている真っ最中の状況。そのせいもあり、徳姫は父・信長に対して、夫である信康の愚痴や、夫と姑が武田方に内通していると、手紙で訴える。これを受けて信長は即刻、罪状認否を行い、信康の切腹を言い渡す。
徳川家康像
織田信長の決定に、徳川家中での反発は大きかった。しかし、当時の家康はまだまだ力不足。選択肢などなかったのである。一時の感情で動いて信長に敵対するなど、家の存続を考えればできぬこと。已む無く、長男・信康と正室の築山殿を見捨てる決断を下す。
天正7(1579)年8月に築山殿殺害、9月に幽閉されていた信康は切腹。
残された文書に、築山殿が殺害された当時の状況が記されている。「今日は岡崎から夫に会える」と築山殿は極上の晴れ着を身に着けていたのだとか。少しでも綺麗な姿で家康に会いたかったのだろう。報告を受けた家康は、一説には、なんとか築山殿を逃がせなかったのかと、介錯人を責めたとも。地獄を見たとは、まさに当時の家康のコトなのかもしれない。
そして、同年。
天正7(1579)年のこと。『神尾氏旧記』と『当院古記』の資料によれば、「阿茶局(あちゃのつぼね)」が徳川家康に側室として召し出されたのが、この年だとか。人生最悪の時期に、家康は阿茶局と出会ったのである。どのような経緯で、家康の目に留まったのかは不明。ただ、彼女が心の琴線に触れたのは確かだろう。ある意味、家康は阿茶局との出会いで、人生を救われたともいえるのだ。