「ポニョ」を含む日記 RSS

はてなキーワード: ポニョとは

2021-10-31

anond:20211031020551

オリエンタルスピリチュアルでゼン・マインドを感じさせる映像音楽欧米人にウケがいいんだよ。魑魅魍魎百鬼夜行感が彼らのセンスオブワンダーを刺激するんだろうな。

もののけ姫はその点で地味だよな。「大自然」を担当するのがタタラ神とシシ神様でどちらも人格がない「現象」のようなものとして描かれていて、そこにスピリットを感じ取るには日本的文化コンテキストに対するそれなりの理解必要で大多数の欧米人にはそこが難しかったと思う。ポニョとかもそう。

まあ全部1度しか観てないうろ覚えなんだけど。

2021-10-20

家系

家庭で食べるタイプラーメンじゃないのは何でだ。

何で家系って言うんだ?調べないけど。

マルちゃんとかのスーパー冷蔵のとこにあるやつでいいよね。

具材ハムネギタマゴ。

ポニョで一躍ブームになったようなラーメン

家系チャーハンは作り方で議論を呼ぶのでAI自動的に削除。

家系餃子は例の冷凍が至高とされるが、

上手に焼くテクニックが流布された事でチルド品も復権果たしている。

コロナ禍において家系は見直されるべきではないか

はい

会社行ってきます

行きたくないけど。

家系会社員より。

2021-07-21

kuzumimizuku 「正解」というと「ひとつだけ」「それ以外は間違い」感も出てしまうけど、ルックバックが受け手によって様々な正解がある作品であることは既に話題性から明らかで、正解がひとつなら万人には刺さらないとは思う。

ちょっとだけ疑問に思ったので。

正解がある話の場合基本的に作者の神経が行き渡っていて、それを読ませる伏線と読者の文脈一般的国語能力があれば誰でも答えにたどり着けると考えている。さらに言えば作中に正解があるからこそ一定の答えにたどり着けもする。

この人が言うところの万人受けについて考えてみたいが、いわゆる一つの要素につき多義解釈可能からルックバックは正解の多様性を生んだと考えているのだろうか? はたまた、クエスチョンがいくつも用意されていて平たく面として序列的に解析可能と考えるだろうか? いずれでも実は正しく、そしてもしかすれば間違っているように思えてならない。

第一に、ルックバックは一つのシチュエーションから多義解釈可能で、例えば殺人事件一つとっても藤野心証をただ単に害した事件という表層的なもののみかたから、藤野の旅立ちの一歩への断絶とも読めるし、京本との断絶から藤野未来マンガへとつながったという一つのシュチュエーションにも読める。そして、京都アニメーション放火事件ともかけてある。平行世界の二人が橋渡しされて、今に帰ると読んでいる人もいる。少なくともこのどれもが作者の意図範疇内にあるように個人的には感じている。したがって一要素が多義であるがゆえに万人受けする作品である、という言い方は正しい。一方でこうした出来事網羅的に表記して見比べることで全体像を浮き彫りにすることも可能で、それぞれの要素をすべてカバーしているから万人に受けたと言いかえることもできる。例えば先程の皮相的な悲しみがそれに当たるし、単純に京本藤野ライバル作家メタといった、表面上のわかりやすいところだけをさらう層にも刺さったという見方可能だ。この作り方は宮崎駿で言うところのポニョ千と千尋に等しい。表面的なところだけ見てもファンタジック作品として通用するが、反面深堀りすればいくらでも見えてくる、という重層的な作品ととなっている。この重層的という一言を前述では「多義」と「箇条書き・ベタ面」として表現した。

箇条書きにできる能力があれば多義性も特定できるし、表層面も見ることができる。そしてそれは紛れもない「正解」だ。分解すれば誰にでもわかる二面の正解が用意されているがゆえに、物語には正解がある、という立場を取りたい。

2021-06-16

anond:20210616003344

反撃の愚民

のワの

.  ノ ̄\____ 
ノ / /::::::ヽ  
ヽ | |;///Vヘ|  
 )L、  (・)  (・)  
 --(__へ__。_ノ 
  ヽ(´・ω・)ノ  ポニョ 
    |  /     ぶつけんぞ 
    UU

https://twitter.com/ascii_art140/status/1402722041850216448 より

2021-01-18

なぜ私は聖地巡礼をするのか(の話をかくはずだったが)

聖地巡礼とは中世ヨーロッパ封建社会においてキリスト教徒あいだで流行した、キリスト教聖地であるエルサレムを訪れる宗教的行動である

転じて、現代においてはアニメ映画などの熱心なファンが、創作物キャラクター縁の地を訪ね歩く行為を指す言葉として使用されるに至った。

私も昨年度から今をときめくアイドルグループ乃木坂46好きが高じて、(暇を持て余していたことも手伝い)彼女たちが番組ロケで訪れたり雑誌メディアで紹介したりしていた場所を巡ることが退屈な日常を彩る楽しみの一つとなっている。

大塚天祖神社バッティングセンター千歳船橋喫茶店ぱおーん、五反田デニーズ……

思い起こしてみたがそれほど多くはなかった。

それはさておき、この日記(?)で私が考えたいのは「人はなぜ聖地巡礼をするのか」その理由だ。

聖地巡礼には楽しさがある。

思えば私は日本史世界史も好きなので、歴史上の史跡を巡ることが旅行に行く際の主目的の一つだったりする。映画ロケ地を訪れることもある。

(前提として書き加えておくが、行ったことがない土地を訪れるのが好きな方であると思う。「まだこのへん歩いたことがないから」という理由で6時間ぐらい散歩することがざらにある)

今も『世界史をつくった海賊』(竹田いさみ著)なる本を読んでいて、大航海時代マゼランに続いて史上二度目の世界一周航海を達成した海賊フランシス・ドレーク(ワンピースのドレークのモデル)に関する記述を読んで、「彼の航路を船で辿ってみたいなあ」などと空想に耽っていた。

そう、私はフランシス・ドレーク足跡を辿りたいのである

乃木坂メンバーが参詣した神社自分も赴きたいし、バットを振るったバッティングセンターで、彼女らがそうしたように、自分バットを振るいたいのだ。

そして、「ここに彼らも、自分と同じように立っていたんだ」などと感じたいのである

この衝動はなんなのだろう。何故、こんなことをしたいと思うのか。

バッティングセンターで行ったバッティングは、それ自体として面白かった。乃木坂のことがなければ、私はバッティングセンターに行きはしなかっただろうが、バッティング最中乃木坂のことは忘れて純粋ボールバットで的確に打ち返すことに集中していたし、それが成功することに喜びを覚えていた。

しかし、やはりその一連の行為には、「メンバーも同じ場所で同じことをした」という事実認識によって特別意味を付加され、それが私の心に満足感をもたらしている。

私の記憶には、明らかに「ただのバッティング」以上の色が付いて、この思い出が保存されているのだ。

この違いは何に由来するのか。

まず一つ、見逃せない重要な点は「私は乃木坂が好きである」という事実だろう。これは明らかに聖地巡礼動機に深く関わっている。

私は何も藤田ニコル西野亮廣の訪れた場所に行きたいとは微塵も思わない。ニコるんはどちらかと言えば好きだが、出演番組をチェックするほどではない。西野に至ってはどちらかと言えば好きではないし、好きではない人間の縁の地を訪ねたい、その足跡自分足跡を重ねたいとは思わない。

フランシス・ドレークのことも、まあ好きになりつつある。(暇があれば伝記を読んでもいいかなと思うぐらいには)

では、好きな人なら誰でも聖地巡礼したくなるのかと言えばそんなことはない。身近な友人のことは好きだが、彼らの足跡を辿りたいとは思わない。

これは極めて重要着眼点である

恐らくは、その人物との関係性および距離感聖地巡礼に向かわせしめる大きな引鉄の一つなのだ

想像するに乃木坂メンバーでさえ、もし私が直接的に関係性を構築してしまえば、聖地巡礼したいという衝動はなくなるだろう。

同じ場所を訪れて、同じことをしたいという気持ちの裏にあるのは、「近付きたいが手の届かない者の存在」を少しでも身近に感じたいという欲求なのだ

友人という生々しい関係は、最早相手をそういう「聖なる存在」にしておかない。

ただし、友人との関係が何らかの理由で解消され、手の届かない存在になった場合はその限りではない。その最も単純な例は「死別である。死が二人を分かてば、当たり前な存在は当たり前でなくなり、会いたいのに会えない、焦がれ求める対象になる。

「手の届かない特別存在を思うこと」が聖地巡礼の肝なのだ

そしてその感慨は、対象と同じ空間的座標に立つこと、そこで同じ行為追体験することで増幅される。ただ、家でスマホをいじりながらその人のことを考えているだけの時間よりも、その人に少し近付けたような気になる。

その対象は人に限らない、作品、ひいてはその世界観全体も対象になりうる。

私は宮崎駿監督映画が大好きで、監督ハウルを撮り終えた後に数ヶ月間療養し、次回作の『崖の上のポニョ』の構想に繋がった広島県鞆の浦や、『耳をすませば』の舞台となった聖蹟桜ヶ丘も訪ねているが、ポニョや雫個人をそこまで好きかといえばそんなことはない。

フランシス・ドレークのことは好きになりつつあると言ったが、やはり人物に対しての好意それだけというよりは、世界史的な偉業であるという点の魅力が大きいように思う。俗な言い方をすれば世界一周ロマンを感じるし、楽しそうである(実際は辛いことの連続だろうが)。

しかし、ドレークな先立って世界一周航海を達成したマゼラン足跡を辿りたいと考えたことはないことを踏まえれば、やはりドレークには読書を通して僅かながら彼の功績やエピソードに触れたことにより、マゼランに感じる以上の魅力を感じていること、それが巡礼への衝動を後押ししていることは間違いない。マゼランのことは何も知らない。何も知らないので魅力も感じなければ、より深く知りたいという動機も起こらない。

(どうやら相手のことを「知りたい」と思うには、まず相手のことを知ることが必要らしい。少なくとも私にとっては。難儀なことだ。)

「手の届かない「聖なる存在である対象をその足跡を辿り行為をお手軽に追体験することで、少しでも身近に感じること」が聖地巡礼の意義であると一旦結論付けてみる。

ここで唐突に「お手軽に」という制限を付け加えたのは、私はバッティングセンターバッティングをする程度の追体験はしたいが、乃木坂メンバーが日々の研鑽を重ねたダンスレッスン場で一年間同じレッスンを受けたいかといえば真っ平御免だなということに思い至った。

一年彼女たちが受けたレッスンと同様のレッスンを受けることは、彼女たちの辛さや頑張りをよりリアル追体験することになる。追体験としての質は高い。だが時間がかかりすぎる。ダンスよりもやりたいことがあるし、辛そうなので、暇潰しに週二程度通うならチャンスがあればやらなくもないが、それはもう追体験としての価値は薄れて、一年間におよぶダンスレッスンそのものが持つ価値が問われている。(追記そもそもこれ、巡礼ではなくダンスでは?)そういう意味で1000円分のバッティングには十分その価値があったし、世界一周航海も同様である。(追記:これも巡礼と言えるのか?場所を訪ねる行為限定するべきだったかもしれない)

聖地巡礼はお手軽でなければならない。言い換えるなら、その行為自体を楽しめないのならやりたくはない。滝行は楽しそうなのでやりたいが、例えば彼女らが受けていた辛い仕打ち自分も受けたいかというと難しい。

例えばメンバーの誰かが過去イジメを受けていたとして、それと同様のイジメを受けたいか。これに関しては少し受けたい。マゾヒスティックな願望ではなく、多少なりとも彼女らの苦労を追体験することは彼女らを理解することにつながるからだ。

しかし、紛い物のそれはやはり本当のイジメ体験とは辛さの質が大きく異なるし、よりリアルに状況を再現するために半年継続してイジメを受けてくださいと言われればお断りする。あくまでもその一部を、私が本当には辛くならない程度に体験することで、辛さに思いを馳せたい、という程度に存在への接近願望は留まる。

キリスト教徒だってエルサレムには行きたくても、ゴルゴダの丘の上で十字架に磔にされたいかと言えばそんなことはないだろう。ごっこ程度にはやってみたいが、それはごっこ遊び自体が楽しさを持つからである。高所に磔にされて「こえ~」などと言ってるのは楽しいが、手足を本当に釘で打ち付けられるのはたまったものではない。(追記:これも巡礼の話ではなくなっている気がするが、でも巡礼先で対象が何かしてたら同じことやりたいよなあ。(追追記:でもやらなくても巡礼は成立するからやっぱりおかしいねはい。))

体験総体として楽しくないならやりたくない。少なくとも私は。この「楽しく」は何も笑顔になったり、興奮したりするといった類の楽しさである必要はない。

心地よい感情が動きがあればよい。

郷愁に浸るとか、感慨に耽けるとか、今風に言えばエモさがあってもよい。「泣く」ことによる感情の発露も、人間にとっては快感であるので、ここで述べる「楽しさ」に含まれる。

いや、違うな。

上に述べたエモさは体験のものに由来する(既出の例をとればバッティング行為によって引き起こされた)感情ではなく、「行為追体験している」という事実に付随する感情の動きだ。そこは切り分けるべきだろう。

例えば「同じ場所に立つ」ことも、聖地巡礼に伴う追体験行為の一形態だが「立つ行為のもの」には特に何の楽しみもない。(立っているだけで楽しい場所もあるが、必ずしもその必要はない)(追記:この例の方が純粋巡礼っぽい)

先例のイジメのように行為自体許容範囲であれば不快であっても構わない。これは個人差があるし、対象に対する思い入れの深さによっても許容範囲が変わってきそうだが。

追体験行為包含する巡礼行為」が総体として満足感をもたらす体験であればよい。(追記:「巡礼追体験包含する」よりも「巡礼追体験が付随する(ことがある)」が正しい)

距離重要な要素だ。ここで言及する距離とは、対象との関係性としての距離ではなく、その聖地との物理距離感である

遠ければ遠いほど、巡礼を達成した際の体験価値は高い。エルサレムが近所の公園にあったら巡礼の有難みも霞むだろう。

「ここまで来た」という感覚聖地巡礼には必要である

私は電車移動含めて一時間もあれば十分であるしかし、ここまで書いて想像してみたが、家の隣にあった昔馴染みのなんでもない祠が実は家康が足繁く通った祠であったと発覚すれば、そこにはそれなりの感慨が生まれるように思える。巡礼と呼ぶにはあまりにも短距離だし、巡礼としての価値希薄化するものの、完全に失われることはない。いや、とはいえやはり価値の減少は免れないな。

遠ければ遠いほどいい、というものでもない気がするが。例えば、乃木坂メンバーが訪れた場所比較として、私の現在地から大塚バッティングセンターパリ街角にあるカフェとの物理距離には圧倒的な差があるが(もちろんパリの方が遠い)、パリカフェを訪れた際の感慨がバッティングセンターに比べてそれほど深いかといえば、あまり変わらないような気がする。

これは、「パリ旅行のついで」にカフェを訪れるのか、「乃木坂メンバーが訪れたカフェを主目的に」パリを訪れるのか、物理距離を越えんとする直接的な動機がどちらにあるのかによっても異なりそうだが、メンバーが通った小学校とか、生まれ育った地域ぐらいの重要地ならともかく、たかだかロケで立ち寄っただけのカフェ目的渡仏する気にはならない。

いや前者でも渡仏する気にはならないが、(追記:というかメンバーの母校って言うほど感慨深いか?その頃のメンバーが好きな訳ではないし……)するにしてもそれはやはりそもそもパリ自体が好きで巡礼を抜きにしてもパリに行きたいからであって、パリの一地域を訪ね歩く行為のもの乃木坂とは無関係に楽しみを見出している。その意味巡礼行為は「ついで感」が否めない。(追記:「むしろ行きたくない場所への巡礼」を考えてみようと思ったが、思いつかなかった。(追追記日焼けと車酔いに弱いのでそれらが伴う場所には積極的行きたくない。苦労した分、到達時の達成感はありそうだが、それは聖地が持つ意味とはやはり無関係目的地に至る行程に由来する価値を抜きにした純粋巡礼価値は何によって決まるのか。))

これはもしかしたら聖地巡礼も、エルサレム旅行のものに少なから体験としての楽しみが含まれていた可能性もあるが、中世を生きる農民の長旅の過酷さや宗教に対する敬虔さはとても無知蒙昧な私の想像のおよぶところではないので、お叱りを受ける前にこの説は引っ込めておく。

でも伊勢参りとかは楽しそうだよね。明日(もはや夜が明けたので今日なんだが)近所のブックオフ聖地巡礼事情に関する本でも漁ってみよう。

眠いし目も疲れたので「過去自分への巡礼」とかまだ考えたいことはあったが、このへんにしておく。

おやすみなさい。

2020-12-10

ゆうても千と千尋ハウルポニョ、ついでにもののけ辺りも同じ話じゃんあれ

2020-08-13

【持論】いい物語と間違った物語は厳然としてある 1

https://b.hatena.ne.jp/entry/4689518360501577570/comment/brightsoda

返信

賛否両論とされる作品は実際のところ単なる失敗作であることが多いって話をしようと思う

例えば物語道徳的観点批判する人がいる

https://togetter.com/li/1443974

(類似まとめがあったはずだが見つからない…)

このまとめのツイ主は「ポニョキャラスピード違反をしていたかポニョが好きじゃない」と言う人を見たそうだ

これに対し「その程度の犯罪が許せないなら赤ちゃん用の絵本でも読んでろよw」みたいな超的外れ煽りをする人がわらわらいる(このまとめのコメ欄にはあまりいないが類似まとめの方にはたくさんいた気がする)

また、「そうだよね、因果応報大事だよね」というのは実は足りない

例えば物語現実と違う点を嫌がる人がいる じゃがいも警察と呼ばれる人などだ

それに対して「そんな細かいこと言うなよww歴史書でも読んでろ」とか言う人は絶対に許さない 理由は2で

また、「そうだよね、大きな嘘はいいけど小さな嘘はよくないね」というのは惜しい、大きさはたいてい関係あるが擬似相関にすぎない

じゃあ何なのか

答えはリアリティラインなどと呼ばれている…しかしこの言葉意味ふわふわしており人によって捉え方が違う、だから私がここではっきり定める

ア:作者が現実世界物語世界世界観の距離を把握しているように見える

イ:作者が物語世界世界観と物語中の個別出来事距離を把握しているように見える

(作者の本当の気持ちなどわかるはずがないのでそれらしく見えればいい)

この2つの項目はほとんど連動するから分けなくてもいいようなものだけど一応分けておく

これを守れば良作になるわけではなく最低条件にすぎない

今まで見た中で不快と言われる作品や大量のアンチ意味不明な信者を生む作品はすべてそれらの客観的距離と作者の想定していると思わしき距離が食い違っていた(反例熱烈待望)

話がめちゃくちゃ過ぎて客観的距離もわからないのは愛すべきクソなどと呼ばれ、不快とは言われない傾向がある

(愛されるクソと嫌われるクソをこんなに明快に区分けした人間初めてなんじゃないか…?)

私は人々がこの2つの基準を重視する理由を知らない

ただそういう傾向があると言うことしかできない

わかりにくいのでまず項目を満たす例を挙げる

北斗の拳世界客観的に見て暴力に溢れている

そして冒頭で「この世界は恐ろしい世界だ」ということをはっきり示している

これは作者が平和現実世界と恐ろしい北斗世界の隔たりを把握していそうだということを示すので項目アを満たす

名探偵コナン世界現代日本とあまり離れていない社会のようだ

そして犯罪を犯した人は警察に追われ、見つかり次第逮捕される

これは作者が平和コナン世界と恐ろしい犯罪者の隔たりを把握していそうだということを示すので項目イを満たす

現実世界世界観は時代により変わるので、それとともに物語世界との距離も移り変わっていく

すると作者が想定している(作者の時代の)現実物語間の距離と読者の感じる(読者の時代の)現実物語間の距離が食い違って項目アを満たさなくなってしま

古い物語などで「時代的に差別的描写があります」と注意書きがあるのはそれを防ぐためだ

(余談だけどメクラ→視覚障害者にするような修正はどちらかというと現代語訳に近いと思う)

項目アとイを満たさな物語典型例がキャラ贔屓

キャラへの執着の結果として距離把握の目が濁る

具体例としてはサムライ8と妹の姉を挙げておこう

サムライ8は

主人公ほかメインキャラ達は義(現実世界ではクズとみなされるような精神)を持っている限り体がバラバラになっても死なない、という悪趣味さとグロさを併せ持った設定を作者が爽快王道バトルものだと思い込んでいるっぽいことが項目アに反している

妹の姉は

作者は「現在日本社会と似たような物語世界/物語世界基準普通の姉や他の人々/物語世界基準から距離のある妹」という設定で「普通だった姉が妹に影響されて姉も物語世界基準から離れていく」という姉妹関係性の話にしたかったんだろうと思われるが

こちからは「現在日本社会とかなり違う物語世界(現代日本ヌードモデル同意を得ずに描いてはいけない。妹が姉に許可を取っていないことが分かった時点であの絵は取り下げられて妹は注意されるはず)/物語世界基準普通の妹や他の人々/嫌がってる姉」という設定に見える

ここで項目アとイに反しているせいで読者の認識が狂い「普通だった姉がひどい目に遭って変な世界必死迎合する」というかわいそうな話に見えてしまうのだ

この2つの項目を見れば「そうだよね、因果応報大事だよね」と言う人がいる理由がわかる…物語世界基準で良いことをしたキャラ幸せになり悪いことをしたキャラに罰が下るのは、物語世界世界観とそのキャラ言動距離を作者が把握していることを示し項目イを満たすための定番効果の高い方法

ただしあくま方法の1つに過ぎず本質ではないので批評としては足りない

「そうだよね、大きな嘘はいいけど小さな嘘はよくないね」というがこれは惜しい

作者が物語を組み上げるために注意して工夫して作った嘘=現実との距離は大きいことが多いが

単なる勘違いや手抜きで生まれた、作者の把握してないような嘘は小さくてしょぼいことが多いって話 だから擬似相関

「その程度の犯罪が許せないなら赤ちゃん用の絵本でも読んでろよw」などというのが超的外れなのは現実世界物語中の個別出来事距離の長さという項目アともイとも無関係なことについて喋ってるから

これ作品評価とはあまり関係ないくせにわかやすいのでこういう輩に使われやすくて困る

「どうしてもグロが見られない」「子供動物死ぬのは嫌だ」と言ってそういう作品を嫌がる人はいるが、そういう人はあくまで苦手だと言ってすっと離れていくことが多くて、嫌いだと本気で怒ることは少ないんだなーこれが

私が縦笛なめなめVRについて「まぁいいかな」と言ったのは「軽度の性的コンテンツ」とゲーム説明に明記してあるから

こういう表示には2種類の効果がある

1つ目は子供に触らせないこと

2つ目は「作者はこれを過激表現だとわかっている」というアピール

この2つ目によって項目アの条件を満たしているので別に構わないと思った

https://b.hatena.ne.jp/entry/4689518360501577570/comment/junglejungle

犯罪描写される場合には、汚らわしく卑劣行為として描かれるべきである

っていう条文があったのか

これは現実世界作品世界倫理観ゼロ距離でなくてはならないという規範のようだな

実際には項目アとイを満たしていれば距離が離れていても大した問題にはならないんだがこの条文はそこを見落としていたらしい

【持論】いい物語と間違った物語は厳然としてある リアリティラインと呼ばれるものについてきっちりと定義して

https://b.hatena.ne.jp/entry/4689518360501577570/comment/brightsoda

返信

賛否両論とされる作品は実際のところ単なる失敗作であることが多いって話をしようと思う

例えば物語道徳的観点批判する人がいる

https://togetter.com/li/1443974

(類似まとめがあったはずだが見つからない…)

このまとめのツイ主は「ポニョキャラスピード違反をしていたかポニョが好きじゃない」と言う人を見たそうだ

これに対し「その程度の犯罪が許せないなら赤ちゃん用の絵本でも読んでろよw」みたいな超的外れ煽りをする人がわらわらいる(このまとめのコメ欄にはあまりいないが類似まとめの方にはたくさんいた気がする)

また、「そうだよね、因果応報大事だよね」というのは実は足りない

例えば物語現実と違う点を嫌がる人がいる じゃがいも警察と呼ばれる人などだ

それに対して「そんな細かいこと言うなよww歴史書でも読んでろ」とか言う人は絶対に許さない 理由は後ほど

また、「そうだよね、大きな嘘はいいけど小さな嘘はよくないね」というのは惜しい、大きさはたいてい関係あるが擬似相関にすぎない

じゃあ何なのか

答えはリアリティラインなどと呼ばれている…しかしこの言葉意味ふわふわしており人によって捉え方が違う、だから私がここではっきり定める

ア:作者が現実世界物語世界世界観の距離を把握しているように見える

イ:作者が物語世界世界観と物語中の個別出来事距離を把握しているように見える

(作者の本当の気持ちなどわかるはずがないのでそれらしく見えればいい)

この2つの項目はほとんど連動するから分けなくてもいいようなものだけど一応分けておく

これを守れば良作になるわけではなく最低条件にすぎない

今まで見た中で不快と言われる作品や大量のアンチ意味不明な信者を生む作品はすべてそれらの客観的距離と作者の想定していると思わしき距離が食い違っていた(反例熱烈待望)

話がめちゃくちゃ過ぎて客観的距離もわからないのは愛すべきクソなどと呼ばれ、不快とは言われない傾向がある

(愛されるクソと嫌われるクソをこんなに明快に区分けした人間初めてなんじゃないか…?)

私は人々がこの2つの基準を重視する理由を知らない

ただそういう傾向があると言うことしかできない

わかりにくいのでまず項目を満たす例を挙げる

北斗の拳世界客観的に見て暴力に溢れている

そして冒頭で「この世界は恐ろしい世界だ」ということをはっきり示している

これは作者が平和現実世界と恐ろしい北斗世界の隔たりを把握していそうだということを示すので項目アを満たす

名探偵コナン世界現代日本とあまり離れていない社会のようだ

そして犯罪を犯した人は警察に追われ、見つかり次第逮捕される

これは作者が平和コナン世界と恐ろしい犯罪者の隔たりを把握していそうだということを示すので項目イを満たす

現実世界世界観は時代により変わるので、それとともに物語世界との距離も移り変わっていく

すると作者が想定している(作者の時代の)現実物語間の距離と読者の感じる(読者の時代の)現実物語間の距離が食い違って項目アを満たさなくなってしま

古い物語などで「時代的に差別的描写があります」と注意書きがあるのはそれを防ぐためだ

(余談だけどメクラ→視覚障害者にするような修正はどちらかというと現代語訳に近いと思う)

項目アとイを満たさな物語典型例がキャラ贔屓

キャラへの執着の結果として距離把握の目が濁る

具体例としてはサムライ8と妹の姉を挙げておこう

サムライ8は

主人公ほかメインキャラ達は義(現実世界ではクズとみなされるような精神)を持っている限り体がバラバラになっても死なない、という悪趣味さとグロさを併せ持った設定を作者が爽快王道バトルものだと思い込んでいるっぽいことが項目アに反している

妹の姉は

作者は「現在日本社会と似たような物語世界/物語世界基準普通の姉や他の人々/物語世界基準から距離のある妹」という設定で「普通だった姉が妹に影響されて姉も物語世界基準から離れていく」という姉妹関係性の話にしたかったんだろうと思われるが

こちからは「現在日本社会とかなり違う物語世界(現代日本ヌードモデル同意を得ずに描いてはいけない。妹が姉に許可を取っていないことが分かった時点であの絵は取り下げられて妹は注意されるはず)/物語世界基準普通の妹や他の人々/嫌がってる姉」という設定に見える

ここで項目アとイに反しているせいで読者の認識が狂い「普通だった姉がひどい目に遭って変な世界必死迎合する」というかわいそうな話に見えてしまうのだ

この2つの項目を見れば「そうだよね、因果応報大事だよね」と言う人がいる理由がわかる…物語世界基準で良いことをしたキャラ幸せになり悪いことをしたキャラに罰が下るのは、物語世界世界観とそのキャラ言動距離を作者が把握していることを示し項目イを満たすための定番効果の高い方法

ただしあくま方法の1つに過ぎず本質ではないので批評としては足りない

「そうだよね、大きな嘘はいいけど小さな嘘はよくないね」というがこれは惜しい

作者が物語を組み上げるために注意して工夫して作った嘘=現実との距離は大きいことが多いが

単なる勘違いや手抜きで生まれた、作者の把握してないような嘘は小さくてしょぼいことが多いって話 だから擬似相関

「その程度の犯罪が許せないなら赤ちゃん用の絵本でも読んでろよw」などというのが超的外れなのは現実世界物語中の個別出来事距離の長さという項目アともイとも無関係なことについて喋ってるから

これ作品評価とはあまり関係ないくせにわかやすいのでこういう輩に使われやすくて困る

「どうしてもグロが見られない」「子供動物死ぬのは嫌だ」と言ってそういう作品を嫌がる人はいるが、そういう人はあくまで苦手だと言ってすっと離れていくことが多くて、嫌いだと本気で怒ることは少ないんだなーこれが

私が縦笛なめなめVRについて「まぁいいかな」と言ったのは「軽度の性的コンテンツ」とゲーム説明に明記してあるから

こういう表示には2種類の効果がある

1つ目は子供に触らせないこと

2つ目は「作者はこれを過激表現だとわかっている」というアピール

この2つ目によって項目アの条件を満たしているので別に構わないと思った

https://b.hatena.ne.jp/entry/4689518360501577570/comment/junglejungle

犯罪描写される場合には、汚らわしく卑劣行為として描かれるべきである

っていう条文があったのか

これは現実世界作品世界倫理観ゼロ距離でなくてはならないという規範のようだな

実際には項目アとイを満たしていれば距離が離れていても大した問題にはならないんだがこの条文はそこを見落としていたらしい

2020-08-04

anond:20200804102807

東方場合作者も有名だが作者の手から離れた部分が大きいので、相対的に作者の力が弱まる。

映画化なんかは顕著だ。ブレードランナー電気羊とは別解釈スピンオフとして通用している。

作者と二次メディア距離が遠ければ遠いほど作者の発言権はなくなってゆく。

攻殻機動隊で有名なのは押井守神山健治であって、士郎正宗ではないのと一緒。

特に攻殻ブレードランナーは作者と別レイヤー公式がある。

読み手書き手問題について。

作者が有名なら深読み勢が出てくる。

無名場合正しく読まずにフラットに読み飛ばし怪文書扱いする人も多い。

そもそも読み込みが苦手な人もいる。

彼らに合わせて全てを平らかに表現してしまうのが正解かどうかは疑問が残る。

プロ場合言うまでもなく表現は適切であるから、読めない多勢には問題があるといっても言い過ぎではない。

例えば『ポニョ』における、手塚ディズニーを乗り越えて宮崎ポニョがいるという表現部分。

読めない人たちは恣意的解釈だと攻撃した。彼らには明確なメタ表現すら読みとれない。

創作において難読化が最適解かどうかはスタイルによる。

表の平易な部分と深読みできる裏を作ってゆく宮崎スタイル

安直な層も無理やり謎世界にぶち込む庵野スタイル

何れにせよ公式意図ぴったりに読んでくれる人はいない。

2020-07-20

anond:20200720174430

たぶんあの人が一番言いたいこと言ってるのはハウル

やりたいことを好き放題やらかしたのがポニョ

自己陶酔風立ちぬ

もののけ姫はまとまってると思う。

あれはあの人の自然歴史への感銘が形になったもんかと思ってる。

2020-07-01

anond:20200701005951

そういう層は今でも残ってるけど、元増田の言うところの「ハリウッドに追いつけない」話とは別件でしょ。

しろそういう作品群はハリウッドでもドンパチやって世界救って終わり、みたいなものに分類されてるだろうし。

どの世界でもジャンルとしてはあるよね。一般受けしか狙わない作りって。

高畑勲に関してはパトレイバービバップと同じ枠で語るべきなの?

少なくともジブリはもともとコア層狙ってないから俺が言ってることとも違うし。

まあその割にポニョはわかりにくいとかそういうのはあるけど。

2020-06-02

anond:20200602045742

わかる。おれもポニョの妹たちを捕まえて軍艦巻きにして生のまま食べたい。

2019-12-18

指示待ち人間が、どうしてそうなったか自覚した話

ある小説レビューで『罪を犯したのに代償がないのが許せない』という理由で最低評価になってて驚いた→更なる驚きが待っていた

https://togetter.com/li/1443974

指示待ち人間は細かいところが気になることがあまりなく

話を見て、「そういうものか」と勝手自己完結して納得する。

そう、私のことだ。

ポニョを真水に入れる時、「あれ、海から来たのに真水なんだ」と疑問に思ったけれど

「ま、ファンタジーだし人間にもなるから水でも良いよな」と自己完結した。

ルパンやその他の物語であっても「そういう世界だしありうるかも」とポジティブ解釈をする。

現実に基づいて深堀しようとも思わないし、深く疑問に思うこともない。

なので仕事上「わからないことが、わからない」ということになってしまう。

今まで深刻なことになったこともないけれど、時々困るんだよね。

もっと周囲に疑問を持って生きていかなきゃ。

「Aという資料を処理する作業」を教えてもらったとき

「Aはどこから来たんだ?」とか「Aが来なかったらどうするんだ?」とか毎回考えられてないし。

「Aは来るものだ」と自己完結しちゃってるからね。よくないよくない。

もっと背景を感じなきゃ。そして自分説明するときには背景まで説明できるように頑張ろう。

2019-12-02

体調でオートチェンジする鼻歌セットリスト

いつも家事とかしながら鼻歌を歌っていて、ここ最近流行りはRADWIMPSの「スパークル」と、あいみょんの「生きていたんだよな」で、延々とどちらかのメロディを口ずさみ続けたりしてるんだけど、今日最近の気温の変化についていけず風邪のひきはじめの症状になってしまって体調悪くなり、そんな中で口をついて出てきたのは、「崖の上のポニョ」の主題歌globeの「FACE」のメロディだった。

5周くらいリピートした後で、(あれ?今日RADWIMPSあいみょんじゃないぞ?)と気付いて、ほとんど無意識ポニョglobeを歌ってたと分かったんだけど、どうしてなのか気になって、試しに「スパークル」と「生きていたんだよな」を鼻歌してみたら、メロディに合わせて頭の中の前の方がズキズキと痛みだして歌うのが非常にキツくて最後まで歌えなかった。

このことから、どうやら自分にとって「スパークル」と「生きていたんだよな」は体調悪い時に歌えない曲だと判明したのだが、自分脳みそ意識しなくてもそれを自然理解していて、風邪を引いた時には鼻歌からそれらの曲が出てこないようにシステム化されていたようだ。

ということは逆に鼻歌ポニョglobeが出てきた時は、自分の体調が悪い時だということで、体調管理鼻歌セットリストが使えるというのが、本日得た知見であった。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん