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はてなキーワード: ポニョとは

2023-01-24

anond:20230124093048

同類とかキモイとかエモいとかもうなんでもいいけどその言葉で言うのはOKなのかどうかって話なんだけど

なんとても言ってイイよ

好きな単語を使うといい

ただ使うといいってだけしか言ってないからね

人にむけて言っちゃだめ使っちゃダメから

おなじ「使う」じゃん人にむけようがつぶやこうが同じでしょとか言うじゃん?

うから

使ってるコト自体は同じでもその話をしてるわけじゃないのは解るよね

わかんないならお話おしまい

口で説明してわからないのだからそれ以外で説明するしかないんだもん

包丁で刺してもいい?」ってもちろん刺してもいいよ

そうでなきゃ刺身はつくれない

だけど「あなたにむけて」刺してもいいかっていわれたらそりゃだめでしょ

「同じ刺すなのに?」ってはっきりいってもう口で説明しても無理ってわかるじゃん

いい意味でとか悪い意味でとかってのを小出しにあとから「もとは同じですよね」で上乗せしていくのは「もとが同じ」ではないか

出発点が同じなだけでおなじ場所から出発して目的地にたどりつく速さを競ったらみんな同時に着くと思う?

思わないよね

キモイとかエモいとかピチョいとかポニョいとかグロいとかテロいとかなんとでも好きな表現でその気持ちの高ぶりを表していいよ

それ表現するってことは「だれかにその意図を伝えるため」にしてるわけだよね

絶対それ通じてないヤツ表現したあとに自分解説するよね

その解説の内容によるってコト

伝えたい内容はどんなのかってことが問題でその情報自分の中だけにとどめておかずに他の人に伝達することの目的とか意義とかが問題だってこと

その単語が他の人がどう受け取るかだいたい予想しながら使ってるわけでしょ

どういう印象をもつか考えながらほかの人の印象を操作しようとおもって通常らしからぬ形容表現にして自分独自思考方法をたどらせようとしてるわけでしょ

たとえばね

「箱からカエルが跳び出してきて」という状況があったら

「びっくりする」わけじゃん

どこにも疑問がなくその状況を完結に説明しうるよね

それが

死ぬほどびっくりした」っておまえしぬんかーいみたいなのとか

キモすぎヤバかった」ってカエルか状況か動きかそういう偶然性について自分のその瞬間が通常でない比喩になる特別性を持たせたわけじゃん

箱もカエルも跳び出すも関係くその状況にある自分についてのみ語り始めてるわけじゃん

そんなの事実でもなんでもないよね

説明しただけでもない

自分という特別性を世界に発信したいって欲だけしかないよね

その自分も含めて当然にあるべき通常の普通特別にするために「特別ヤバい」とか「特別キモい」とか対照的に落とすか自分を神だと高めるかくらいしかできないよね

みんな何かに似てるとしたり描写を具象にしたり文学みたいなのはそういう手段を学んできたわけだけど

そんなまどろっこしくておくゆかしいものよりガツンとダイレクトインパクトがほしいんだよね

自分が最高だって高めるのはぜんぜんいいよ

運動したり美容をしたり勉強したりずっと続けていたりして努力して唯一無二になった視野淡々と語るだけでも特別になるよ

そうじゃない場合はほかの何かが唯一無二の特別性をもった「酷い・悪い・程度が低い・迷惑・残念・キモい・エグい」なんて貶めてその横にいる自分普通なのに「比べればすごい」と引き上げる方法よろしくないよね

自分の中だけで考える分には問題ないよ

その基準を公にしてみんなにシェアして印象を変化させる結果になる言動でその欲を他人からうけて満たそうとしてはいけないってコトだよ

自分の中だけで「全員バカでサイテー。クズキモいか自分は最高で素敵」と思う分には問題ないよ

それを口にだしてシェアして「あなたは最高ですね」といわれたいがために他のだれかを最低であるとする根拠をもってこようとするのはダメってコト

ただの真実を言ってるだけとかいう手をつかって自分の中だけにある自分独自基準シェアしようとするのもダメってこと

そこで

馬みたいに足がはやいですねっていうのはアリですか?って質問したとするじゃん

「アリです」っていわれたとするじゃん

「じゃあ豚みたいにかわいいですね」って言うのもアリですよねってつづけようとする人がいたとするじゃん

それはダメだよ

「え?だって先の例と同じですよね」って同じじゃないか

馬と豚はちがうよね

同じだと思ってるのはどこか壊れてるんじゃないか

同じに見える?同じじゃないよね?

そしたら「そういう意味じゃない」って言うよね

じゃあどういう意味なの?

その意味付けをしている自分視点を共有しようとしてきてるよね

違うっていってるのに同じに見える視野から見ろって言ってきてるわけだよね

そうじゃないしそうはならないって言ってるのに

馬と豚が同じに見える視点は持ってていいよ

ただそれを人にむけたりするのはよくないってコト

人にむけちゃいけない価値観バランス思考みたいなのをだれしも持ってるって理解をするのが大事だよね

その上でみんな違うし同じなところもあるだろうし状況とかタイミングでもかわるかもしれない

それを知るためにはまず最低限同じ基準で違いを理解する必要があるんじゃない?

いきなりキモいとかエグいとかスゴいとか使っていいかってコトより先にそれがどういう意味とか方向性で使われるかって前提をおいてから共有しないとトラブルの元だよね

ふつうにありえないつながりで表現してるからみんなそれを珍しいと感じてそれがどういう事なのか理解しようと注目するけどその注目ほしさにおかしな行動することあるじゃん?

いわゆるギャグとかそういうのやとんちとかユニークさとかそういうの

「おいしすぎて頭がエグれてブチぎれそうにハッピーでクソ最高」とか通常ではありえない言葉をつなぐわけじゃん

その状況が通常ではないから通常どおりの理解をしようとするためにはそれに付帯する情報を得ようとするわけだよね

いわゆる注目を浴びてるような状況

羨望だろうが蔑みだろうが冷たかろうが暑かろうが「注目」にはかわらないよねっていうのが炎上商法だったりするとこあるよね

その意味わかんないビジネスマナーとか社会人知識とかで注目を得ようとしてるのってけっこう見るよね

そうあんなの

ローンチって言うとかソリューションだとかエモーショナルとかストラテジーとか言うのもそんなかんじ

意味からせないようにして注目されようとしてる時点で説明に魅力がないのバレちゃう

音の感じとかなんとなく他の印象につられるように名前をつけたり形容したりしてるよね

なので何々と同じとかそういう表現するのは自由だよ

でもそれは、それを共有できる仲間とだけだよ

自分と誰か、その誰かがいないのなら自分の中だけだよ

前提をしらない他人にいきなりそれを知らせるのはダメだよ

まず前提として自分比喩しようとしてるそれらについての印象とか見解を話した上で理解されてから印象の比較をだして、並べた理由はその先に話がつながるために必要だったのなら使うのは問題ないよ

まず前提がない状態特別なとりあわせを提示して、そこに説明必要になる状況においた上で自分説明を語らせる自分語りの導入のために不明表現理解度の高くない相手にいきなりすべきではないよ

ぶっころすとか

おまえはあいつと同類かとか

キモいとか

それが伝わる人間に使うのは問題ないけど

組み合わせだけで自分語りの導入のためにインパクトを持たせる目的学校でならってないような表現を出すのはよろしくないよってことだよ

2022-12-27

宮崎駿作品見てもなるほどー(虚勢)て感じだぜ

アニメとか何も知らんやつが、適当漕いてる文章なんで。お前はそう思っとけ、ッて言う感じの落書きです。真に受けないでね♡

もともと子供とか十代の頃に見たせいってのもあるのかもしらんけど、駿作品なんか変じゃない?

変て言うと不確かかな?エンタメとして作られて無いのがわかるって感じかな

エンタメとして売り出してて最低限その体裁は整えてはいるけど、エンタメにゲージは40%くらいで視聴者がぎり怒らないレベルにおさえてて

それ以外のこだわりポイントとかを作り込んでるって感じかな?まぁそういう作品があってもいいけど、面白いって言われると、面白くはなくはなくないか

流石にクソ映画とは比べ物にならんほどクオリティは高いんだけども

ナウシカとかラピュタあたりは完全にエンタメ優先で作られてて、面白いことこそが前提で、思想とか監督趣味はその後。っていう空気がまだよめるんだけど

もののけ姫とか千と千尋あたりから?は?どういうこと?これ見て考察しろってこと?考察しないと面白さがわからんってこと?

みたいなのが多くなってきてて、「エンタメ」としての力みたいなのは明らかに落ちてるんだよな。落ちてると言うか創作サイドとか駿先生もわかっててわざとやってるんだろうけど、視聴者に対する信頼感といえば聞こえはいいけど、投げっぱなしとか、甘えが見えて透けるっていうのかな。

いいすぎかもしれんけども。トトロはこどもの俺が見てもめちゃ面白かったし、面白かったし、多分おっさんの俺が今見ても面白いだろう。

でも、中学生の俺はもののけ姫千と千尋意味わからんくて、はぁ?って感じだったしな

宮崎駿作品視聴者に甘えてるのは確かだと思う。そのせいでエンタメとしての力は下がってると思う。

から国民新海誠とかの新しいアニメ映画を求めたんじゃないのかな。ジブリ巨匠になってしまって、敷居が高い専門家が見る作品になってしまった。

専門家以外は見ても意味わからんからな。普通の人は見なくなる。

駿先生アニメ力が神レベルに到達してしまってて、一般人の俺には、何を見せられてるんだ……。ってなることが増えたんかなぁ。

格ゲーとかも90年代後半は無理だろっていうコマンドとかコンボ前提の仕様になってて素人お断りになってたけど、ジブリアニメ素人お断り感が感じる。

ポニョ見てねーから知らんし、そんな視聴体験をしたせいでポニョはいいやっていう気持ちになってるのですのよね。

そんなお気持ち。みたいな気持ち

好きなジブリ作品ラピュタ猫の恩返し。好きなディズニー作品ファイアボールズートピアです。

2022-12-16

君たちはどう生きるか

魔女とかポニョみたいな取ってつけたような活劇シーンさえなくて、退屈そう。

2022-10-13

anond:20221012212502

気持ち悪さが宮崎駿本質だよ。宮崎さんが大好きなのはラナだよ。同じ声優さんフィオリーナ性癖出てたよね。あの人はああいうのが好きなの。なのでソフィや千尋は嘘くさいんだよ。ポニョギャグだね。本性隠して取り繕ってるようにしか見えなかった。

2022-09-06

anond:20220905184838

さかなのこーといえばポニョという牙城は残念ながら10年後も崩せないよ

2022-05-07

ポニョを歌ってた大橋のぞみさんの10年前の動画に、

未だに50代以上と思われるおじさんたちが日記のようにコメントを残しているのがキモい🤢

2021-12-10

anond:20211209113751

入れ歯ヒロインハウルとかポニョで出なかったっけ?

それもいいけど、自閉症を伴う重度知的障害プリンセスが登場して欲しい。

2021-10-31

anond:20211031020551

オリエンタルスピリチュアルでゼン・マインドを感じさせる映像音楽欧米人にウケがいいんだよ。魑魅魍魎百鬼夜行感が彼らのセンスオブワンダーを刺激するんだろうな。

もののけ姫はその点で地味だよな。「大自然」を担当するのがタタラ神とシシ神様でどちらも人格がない「現象」のようなものとして描かれていて、そこにスピリットを感じ取るには日本的文化コンテキストに対するそれなりの理解必要で大多数の欧米人にはそこが難しかったと思う。ポニョとかもそう。

まあ全部1度しか観てないうろ覚えなんだけど。

2021-10-20

家系

家庭で食べるタイプラーメンじゃないのは何でだ。

何で家系って言うんだ?調べないけど。

マルちゃんとかのスーパー冷蔵のとこにあるやつでいいよね。

具材ハムネギタマゴ。

ポニョで一躍ブームになったようなラーメン

家系チャーハンは作り方で議論を呼ぶのでAI自動的に削除。

家系餃子は例の冷凍が至高とされるが、

上手に焼くテクニックが流布された事でチルド品も復権果たしている。

コロナ禍において家系は見直されるべきではないか

はい

会社行ってきます

行きたくないけど。

家系会社員より。

2021-07-21

kuzumimizuku 「正解」というと「ひとつだけ」「それ以外は間違い」感も出てしまうけど、ルックバックが受け手によって様々な正解がある作品であることは既に話題性から明らかで、正解がひとつなら万人には刺さらないとは思う。

ちょっとだけ疑問に思ったので。

正解がある話の場合基本的に作者の神経が行き渡っていて、それを読ませる伏線と読者の文脈一般的国語能力があれば誰でも答えにたどり着けると考えている。さらに言えば作中に正解があるからこそ一定の答えにたどり着けもする。

この人が言うところの万人受けについて考えてみたいが、いわゆる一つの要素につき多義解釈可能からルックバックは正解の多様性を生んだと考えているのだろうか? はたまた、クエスチョンがいくつも用意されていて平たく面として序列的に解析可能と考えるだろうか? いずれでも実は正しく、そしてもしかすれば間違っているように思えてならない。

第一に、ルックバックは一つのシチュエーションから多義解釈可能で、例えば殺人事件一つとっても藤野心証をただ単に害した事件という表層的なもののみかたから、藤野の旅立ちの一歩への断絶とも読めるし、京本との断絶から藤野未来マンガへとつながったという一つのシュチュエーションにも読める。そして、京都アニメーション放火事件ともかけてある。平行世界の二人が橋渡しされて、今に帰ると読んでいる人もいる。少なくともこのどれもが作者の意図範疇内にあるように個人的には感じている。したがって一要素が多義であるがゆえに万人受けする作品である、という言い方は正しい。一方でこうした出来事網羅的に表記して見比べることで全体像を浮き彫りにすることも可能で、それぞれの要素をすべてカバーしているから万人に受けたと言いかえることもできる。例えば先程の皮相的な悲しみがそれに当たるし、単純に京本藤野ライバル作家メタといった、表面上のわかりやすいところだけをさらう層にも刺さったという見方可能だ。この作り方は宮崎駿で言うところのポニョ千と千尋に等しい。表面的なところだけ見てもファンタジック作品として通用するが、反面深堀りすればいくらでも見えてくる、という重層的な作品ととなっている。この重層的という一言を前述では「多義」と「箇条書き・ベタ面」として表現した。

箇条書きにできる能力があれば多義性も特定できるし、表層面も見ることができる。そしてそれは紛れもない「正解」だ。分解すれば誰にでもわかる二面の正解が用意されているがゆえに、物語には正解がある、という立場を取りたい。

2021-06-16

anond:20210616003344

反撃の愚民

のワの

.  ノ ̄\____ 
ノ / /::::::ヽ  
ヽ | |;///Vヘ|  
 )L、  (・)  (・)  
 --(__へ__。_ノ 
  ヽ(´・ω・)ノ  ポニョ 
    |  /     ぶつけんぞ 
    UU

https://twitter.com/ascii_art140/status/1402722041850216448 より

2021-01-18

なぜ私は聖地巡礼をするのか(の話をかくはずだったが)

聖地巡礼とは中世ヨーロッパ封建社会においてキリスト教徒あいだで流行した、キリスト教聖地であるエルサレムを訪れる宗教的行動である

転じて、現代においてはアニメ映画などの熱心なファンが、創作物キャラクター縁の地を訪ね歩く行為を指す言葉として使用されるに至った。

私も昨年度から今をときめくアイドルグループ乃木坂46好きが高じて、(暇を持て余していたことも手伝い)彼女たちが番組ロケで訪れたり雑誌メディアで紹介したりしていた場所を巡ることが退屈な日常を彩る楽しみの一つとなっている。

大塚天祖神社バッティングセンター千歳船橋喫茶店ぱおーん、五反田デニーズ……

思い起こしてみたがそれほど多くはなかった。

それはさておき、この日記(?)で私が考えたいのは「人はなぜ聖地巡礼をするのか」その理由だ。

聖地巡礼には楽しさがある。

思えば私は日本史世界史も好きなので、歴史上の史跡を巡ることが旅行に行く際の主目的の一つだったりする。映画ロケ地を訪れることもある。

(前提として書き加えておくが、行ったことがない土地を訪れるのが好きな方であると思う。「まだこのへん歩いたことがないから」という理由で6時間ぐらい散歩することがざらにある)

今も『世界史をつくった海賊』(竹田いさみ著)なる本を読んでいて、大航海時代マゼランに続いて史上二度目の世界一周航海を達成した海賊フランシス・ドレーク(ワンピースのドレークのモデル)に関する記述を読んで、「彼の航路を船で辿ってみたいなあ」などと空想に耽っていた。

そう、私はフランシス・ドレーク足跡を辿りたいのである

乃木坂メンバーが参詣した神社自分も赴きたいし、バットを振るったバッティングセンターで、彼女らがそうしたように、自分バットを振るいたいのだ。

そして、「ここに彼らも、自分と同じように立っていたんだ」などと感じたいのである

この衝動はなんなのだろう。何故、こんなことをしたいと思うのか。

バッティングセンターで行ったバッティングは、それ自体として面白かった。乃木坂のことがなければ、私はバッティングセンターに行きはしなかっただろうが、バッティング最中乃木坂のことは忘れて純粋ボールバットで的確に打ち返すことに集中していたし、それが成功することに喜びを覚えていた。

しかし、やはりその一連の行為には、「メンバーも同じ場所で同じことをした」という事実認識によって特別意味を付加され、それが私の心に満足感をもたらしている。

私の記憶には、明らかに「ただのバッティング」以上の色が付いて、この思い出が保存されているのだ。

この違いは何に由来するのか。

まず一つ、見逃せない重要な点は「私は乃木坂が好きである」という事実だろう。これは明らかに聖地巡礼動機に深く関わっている。

私は何も藤田ニコル西野亮廣の訪れた場所に行きたいとは微塵も思わない。ニコるんはどちらかと言えば好きだが、出演番組をチェックするほどではない。西野に至ってはどちらかと言えば好きではないし、好きではない人間の縁の地を訪ねたい、その足跡自分足跡を重ねたいとは思わない。

フランシス・ドレークのことも、まあ好きになりつつある。(暇があれば伝記を読んでもいいかなと思うぐらいには)

では、好きな人なら誰でも聖地巡礼したくなるのかと言えばそんなことはない。身近な友人のことは好きだが、彼らの足跡を辿りたいとは思わない。

これは極めて重要着眼点である

恐らくは、その人物との関係性および距離感聖地巡礼に向かわせしめる大きな引鉄の一つなのだ

想像するに乃木坂メンバーでさえ、もし私が直接的に関係性を構築してしまえば、聖地巡礼したいという衝動はなくなるだろう。

同じ場所を訪れて、同じことをしたいという気持ちの裏にあるのは、「近付きたいが手の届かない者の存在」を少しでも身近に感じたいという欲求なのだ

友人という生々しい関係は、最早相手をそういう「聖なる存在」にしておかない。

ただし、友人との関係が何らかの理由で解消され、手の届かない存在になった場合はその限りではない。その最も単純な例は「死別である。死が二人を分かてば、当たり前な存在は当たり前でなくなり、会いたいのに会えない、焦がれ求める対象になる。

「手の届かない特別存在を思うこと」が聖地巡礼の肝なのだ

そしてその感慨は、対象と同じ空間的座標に立つこと、そこで同じ行為追体験することで増幅される。ただ、家でスマホをいじりながらその人のことを考えているだけの時間よりも、その人に少し近付けたような気になる。

その対象は人に限らない、作品、ひいてはその世界観全体も対象になりうる。

私は宮崎駿監督映画が大好きで、監督ハウルを撮り終えた後に数ヶ月間療養し、次回作の『崖の上のポニョ』の構想に繋がった広島県鞆の浦や、『耳をすませば』の舞台となった聖蹟桜ヶ丘も訪ねているが、ポニョや雫個人をそこまで好きかといえばそんなことはない。

フランシス・ドレークのことは好きになりつつあると言ったが、やはり人物に対しての好意それだけというよりは、世界史的な偉業であるという点の魅力が大きいように思う。俗な言い方をすれば世界一周ロマンを感じるし、楽しそうである(実際は辛いことの連続だろうが)。

しかし、ドレークな先立って世界一周航海を達成したマゼラン足跡を辿りたいと考えたことはないことを踏まえれば、やはりドレークには読書を通して僅かながら彼の功績やエピソードに触れたことにより、マゼランに感じる以上の魅力を感じていること、それが巡礼への衝動を後押ししていることは間違いない。マゼランのことは何も知らない。何も知らないので魅力も感じなければ、より深く知りたいという動機も起こらない。

(どうやら相手のことを「知りたい」と思うには、まず相手のことを知ることが必要らしい。少なくとも私にとっては。難儀なことだ。)

「手の届かない「聖なる存在である対象をその足跡を辿り行為をお手軽に追体験することで、少しでも身近に感じること」が聖地巡礼の意義であると一旦結論付けてみる。

ここで唐突に「お手軽に」という制限を付け加えたのは、私はバッティングセンターバッティングをする程度の追体験はしたいが、乃木坂メンバーが日々の研鑽を重ねたダンスレッスン場で一年間同じレッスンを受けたいかといえば真っ平御免だなということに思い至った。

一年彼女たちが受けたレッスンと同様のレッスンを受けることは、彼女たちの辛さや頑張りをよりリアル追体験することになる。追体験としての質は高い。だが時間がかかりすぎる。ダンスよりもやりたいことがあるし、辛そうなので、暇潰しに週二程度通うならチャンスがあればやらなくもないが、それはもう追体験としての価値は薄れて、一年間におよぶダンスレッスンそのものが持つ価値が問われている。(追記そもそもこれ、巡礼ではなくダンスでは?)そういう意味で1000円分のバッティングには十分その価値があったし、世界一周航海も同様である。(追記:これも巡礼と言えるのか?場所を訪ねる行為限定するべきだったかもしれない)

聖地巡礼はお手軽でなければならない。言い換えるなら、その行為自体を楽しめないのならやりたくはない。滝行は楽しそうなのでやりたいが、例えば彼女らが受けていた辛い仕打ち自分も受けたいかというと難しい。

例えばメンバーの誰かが過去イジメを受けていたとして、それと同様のイジメを受けたいか。これに関しては少し受けたい。マゾヒスティックな願望ではなく、多少なりとも彼女らの苦労を追体験することは彼女らを理解することにつながるからだ。

しかし、紛い物のそれはやはり本当のイジメ体験とは辛さの質が大きく異なるし、よりリアルに状況を再現するために半年継続してイジメを受けてくださいと言われればお断りする。あくまでもその一部を、私が本当には辛くならない程度に体験することで、辛さに思いを馳せたい、という程度に存在への接近願望は留まる。

キリスト教徒だってエルサレムには行きたくても、ゴルゴダの丘の上で十字架に磔にされたいかと言えばそんなことはないだろう。ごっこ程度にはやってみたいが、それはごっこ遊び自体が楽しさを持つからである。高所に磔にされて「こえ~」などと言ってるのは楽しいが、手足を本当に釘で打ち付けられるのはたまったものではない。(追記:これも巡礼の話ではなくなっている気がするが、でも巡礼先で対象が何かしてたら同じことやりたいよなあ。(追追記:でもやらなくても巡礼は成立するからやっぱりおかしいねはい。))

体験総体として楽しくないならやりたくない。少なくとも私は。この「楽しく」は何も笑顔になったり、興奮したりするといった類の楽しさである必要はない。

心地よい感情が動きがあればよい。

郷愁に浸るとか、感慨に耽けるとか、今風に言えばエモさがあってもよい。「泣く」ことによる感情の発露も、人間にとっては快感であるので、ここで述べる「楽しさ」に含まれる。

いや、違うな。

上に述べたエモさは体験のものに由来する(既出の例をとればバッティング行為によって引き起こされた)感情ではなく、「行為追体験している」という事実に付随する感情の動きだ。そこは切り分けるべきだろう。

例えば「同じ場所に立つ」ことも、聖地巡礼に伴う追体験行為の一形態だが「立つ行為のもの」には特に何の楽しみもない。(立っているだけで楽しい場所もあるが、必ずしもその必要はない)(追記:この例の方が純粋巡礼っぽい)

先例のイジメのように行為自体許容範囲であれば不快であっても構わない。これは個人差があるし、対象に対する思い入れの深さによっても許容範囲が変わってきそうだが。

追体験行為包含する巡礼行為」が総体として満足感をもたらす体験であればよい。(追記:「巡礼追体験包含する」よりも「巡礼追体験が付随する(ことがある)」が正しい)

距離重要な要素だ。ここで言及する距離とは、対象との関係性としての距離ではなく、その聖地との物理距離感である

遠ければ遠いほど、巡礼を達成した際の体験価値は高い。エルサレムが近所の公園にあったら巡礼の有難みも霞むだろう。

「ここまで来た」という感覚聖地巡礼には必要である

私は電車移動含めて一時間もあれば十分であるしかし、ここまで書いて想像してみたが、家の隣にあった昔馴染みのなんでもない祠が実は家康が足繁く通った祠であったと発覚すれば、そこにはそれなりの感慨が生まれるように思える。巡礼と呼ぶにはあまりにも短距離だし、巡礼としての価値希薄化するものの、完全に失われることはない。いや、とはいえやはり価値の減少は免れないな。

遠ければ遠いほどいい、というものでもない気がするが。例えば、乃木坂メンバーが訪れた場所比較として、私の現在地から大塚バッティングセンターパリ街角にあるカフェとの物理距離には圧倒的な差があるが(もちろんパリの方が遠い)、パリカフェを訪れた際の感慨がバッティングセンターに比べてそれほど深いかといえば、あまり変わらないような気がする。

これは、「パリ旅行のついで」にカフェを訪れるのか、「乃木坂メンバーが訪れたカフェを主目的に」パリを訪れるのか、物理距離を越えんとする直接的な動機がどちらにあるのかによっても異なりそうだが、メンバーが通った小学校とか、生まれ育った地域ぐらいの重要地ならともかく、たかだかロケで立ち寄っただけのカフェ目的渡仏する気にはならない。

いや前者でも渡仏する気にはならないが、(追記:というかメンバーの母校って言うほど感慨深いか?その頃のメンバーが好きな訳ではないし……)するにしてもそれはやはりそもそもパリ自体が好きで巡礼を抜きにしてもパリに行きたいからであって、パリの一地域を訪ね歩く行為のもの乃木坂とは無関係に楽しみを見出している。その意味巡礼行為は「ついで感」が否めない。(追記:「むしろ行きたくない場所への巡礼」を考えてみようと思ったが、思いつかなかった。(追追記日焼けと車酔いに弱いのでそれらが伴う場所には積極的行きたくない。苦労した分、到達時の達成感はありそうだが、それは聖地が持つ意味とはやはり無関係目的地に至る行程に由来する価値を抜きにした純粋巡礼価値は何によって決まるのか。))

これはもしかしたら聖地巡礼も、エルサレム旅行のものに少なから体験としての楽しみが含まれていた可能性もあるが、中世を生きる農民の長旅の過酷さや宗教に対する敬虔さはとても無知蒙昧な私の想像のおよぶところではないので、お叱りを受ける前にこの説は引っ込めておく。

でも伊勢参りとかは楽しそうだよね。明日(もはや夜が明けたので今日なんだが)近所のブックオフ聖地巡礼事情に関する本でも漁ってみよう。

眠いし目も疲れたので「過去自分への巡礼」とかまだ考えたいことはあったが、このへんにしておく。

おやすみなさい。

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