はてなキーワード: ニコるとは
原因をよくよく考えてみると、ニートたちが遊べるサイトやコンテンツがなくなったからだ。
具体的にニートたちが遊べるというのは次のようなことをいう。
④社会に参画している気分になれる。
ここで挙げたい例は2ちゃんねる、ニコニコ動画、あとはここはてな匿名ダイアリーなどだろうか。
①について、2ちゃんやはてなは匿名だから社会的地位にこだわっても無意味だし、ニコニコの時代は動画投稿者は素性をあまり明かさなかった。
②2ちゃん、はてなは文字を打つだけなので特別な技能は必要ない。たまに画像を上げて祭りになることもあるが所詮素人レベル。
ニコニコは動画投稿のスキルも今のyoutubeより低いし、コメントだけでも参加している気分になれる。(「ニコる」とかで評価された)
④一方的な受け身ではなく参加している気分になれること。2ちゃんの祭りなんかは実際に社会を動かしている実感があった。
一方今はやりのネットカルチャーは無能なニートたちには厳しいものとなっている。
youtubeは莫大な資本を持った企業勢や有名人がビジネスをする場になった。
Twitterは肩書が大事で発言力は元来の知名度に依存するようになった。
Steamもネットフリックスも金を払ってコンテンツを買うだけだから論外。
youtubeでvtuberに投げ銭をして、v活動に参加している気分になる人や
匿名でTwitterやはてなで政治を語って社会に参画した気分になっている人はよく見かける。
本当はお金を投げて応援するんじゃなくて、自分が発信した気持ちを多くの人に受け止めてほしいだけなんじゃない?
政治にイライラするよりも、仲間と世の中を少しでも面白い方向に変えるような行動を起こしてみたいんじゃないの?
何も持たない無能のニートは今、いったいどこで楽しんでいるのだろうか?楽しめばいいんだろうか?
「利益も生み出さない社会悪のニートは黙ってろ」と社会派増田に言われそうだから少し自分語り。
私は学生時代に2ちゃんやニコニコの文化を浴びて、今は何にも心が動かない社会人です。
vtuberの配信は確かに面白いけど、テレビと同じですごい人が一方的に話しているだけに感じてしらけてしまう。
社会人になればもっと金銭的にも行動的にも自由になれる気がしたけど、
自由を夢見たインターネットは資本にがんじがらめでチェーン店が立ち並ぶ街並みのようにつまらなくなってしまった。
あの本当に自由だったインターネットは誰でも、キモくて無能なニートでも参加して活躍できるものだった。
聖地巡礼とは中世ヨーロッパの封建社会においてキリスト教徒のあいだで流行した、キリスト教の聖地であるエルサレムを訪れる宗教的行動である。
転じて、現代においてはアニメや映画などの熱心なファンが、創作物やキャラクター縁の地を訪ね歩く行為を指す言葉として使用されるに至った。
私も昨年度から今をときめくアイドルグループ乃木坂46好きが高じて、(暇を持て余していたことも手伝い)彼女たちが番組のロケで訪れたり雑誌等メディアで紹介したりしていた場所を巡ることが退屈な日常を彩る楽しみの一つとなっている。
大塚の天祖神社やバッティングセンター、千歳船橋の喫茶店ぱおーん、五反田のデニーズ……
思い起こしてみたがそれほど多くはなかった。
それはさておき、この日記(?)で私が考えたいのは「人はなぜ聖地巡礼をするのか」その理由だ。
聖地巡礼には楽しさがある。
思えば私は日本史と世界史も好きなので、歴史上の史跡を巡ることが旅行に行く際の主目的の一つだったりする。映画のロケ地を訪れることもある。
(前提として書き加えておくが、行ったことがない土地を訪れるのが好きな方であると思う。「まだこのへん歩いたことがないから」という理由で6時間ぐらい散歩することがざらにある)
今も『世界史をつくった海賊』(竹田いさみ著)なる本を読んでいて、大航海時代にマゼランに続いて史上二度目の世界一周航海を達成した海賊、フランシス・ドレーク(ワンピースのドレークのモデル)に関する記述を読んで、「彼の航路を船で辿ってみたいなあ」などと空想に耽っていた。
そう、私はフランシス・ドレークの足跡を辿りたいのである。
乃木坂のメンバーが参詣した神社に自分も赴きたいし、バットを振るったバッティングセンターで、彼女らがそうしたように、自分もバットを振るいたいのだ。
そして、「ここに彼らも、自分と同じように立っていたんだ」などと感じたいのである。
この衝動はなんなのだろう。何故、こんなことをしたいと思うのか。
バッティングセンターで行ったバッティングは、それ自体として面白かった。乃木坂のことがなければ、私はバッティングセンターに行きはしなかっただろうが、バッティングの最中は乃木坂のことは忘れて純粋にボールをバットで的確に打ち返すことに集中していたし、それが成功することに喜びを覚えていた。
しかし、やはりその一連の行為には、「メンバーも同じ場所で同じことをした」という事実認識によって特別な意味を付加され、それが私の心に満足感をもたらしている。
私の記憶には、明らかに「ただのバッティング」以上の色が付いて、この思い出が保存されているのだ。
この違いは何に由来するのか。
まず一つ、見逃せない重要な点は「私は乃木坂が好きである」という事実だろう。これは明らかに聖地巡礼の動機に深く関わっている。
私は何も藤田ニコルや西野亮廣の訪れた場所に行きたいとは微塵も思わない。ニコるんはどちらかと言えば好きだが、出演番組をチェックするほどではない。西野に至ってはどちらかと言えば好きではないし、好きではない人間の縁の地を訪ねたい、その足跡に自分の足跡を重ねたいとは思わない。
フランシス・ドレークのことも、まあ好きになりつつある。(暇があれば伝記を読んでもいいかなと思うぐらいには)
では、好きな人なら誰でも聖地巡礼したくなるのかと言えばそんなことはない。身近な友人のことは好きだが、彼らの足跡を辿りたいとは思わない。
恐らくは、その人物との関係性および距離感が聖地巡礼に向かわせしめる大きな引鉄の一つなのだ。
想像するに乃木坂のメンバーでさえ、もし私が直接的に関係性を構築してしまえば、聖地を巡礼したいという衝動はなくなるだろう。
同じ場所を訪れて、同じことをしたいという気持ちの裏にあるのは、「近付きたいが手の届かない者の存在」を少しでも身近に感じたいという欲求なのだ。
友人という生々しい関係は、最早相手をそういう「聖なる存在」にしておかない。
ただし、友人との関係が何らかの理由で解消され、手の届かない存在になった場合はその限りではない。その最も単純な例は「死別」である。死が二人を分かてば、当たり前な存在は当たり前でなくなり、会いたいのに会えない、焦がれ求める対象になる。
そしてその感慨は、対象と同じ空間的座標に立つこと、そこで同じ行為を追体験することで増幅される。ただ、家でスマホをいじりながらその人のことを考えているだけの時間よりも、その人に少し近付けたような気になる。
その対象は人に限らない、作品、ひいてはその世界観全体も対象になりうる。
私は宮崎駿監督の映画が大好きで、監督がハウルを撮り終えた後に数ヶ月間療養し、次回作の『崖の上のポニョ』の構想に繋がった広島県の鞆の浦や、『耳をすませば』の舞台となった聖蹟桜ヶ丘も訪ねているが、ポニョや雫個人をそこまで好きかといえばそんなことはない。
フランシス・ドレークのことは好きになりつつあると言ったが、やはり人物に対しての好意それだけというよりは、世界史的な偉業であるという点の魅力が大きいように思う。俗な言い方をすれば世界一周にロマンを感じるし、楽しそうである(実際は辛いことの連続だろうが)。
しかし、ドレークな先立って世界一周航海を達成したマゼランの足跡を辿りたいと考えたことはないことを踏まえれば、やはりドレークには読書を通して僅かながら彼の功績やエピソードに触れたことにより、マゼランに感じる以上の魅力を感じていること、それが巡礼への衝動を後押ししていることは間違いない。マゼランのことは何も知らない。何も知らないので魅力も感じなければ、より深く知りたいという動機も起こらない。
(どうやら相手のことを「知りたい」と思うには、まず相手のことを知ることが必要らしい。少なくとも私にとっては。難儀なことだ。)
「手の届かない「聖なる存在」である対象をその足跡を辿り行為をお手軽に追体験することで、少しでも身近に感じること」が聖地巡礼の意義であると一旦結論付けてみる。
ここで唐突に「お手軽に」という制限を付け加えたのは、私はバッティングセンターでバッティングをする程度の追体験はしたいが、乃木坂のメンバーが日々の研鑽を重ねたダンスレッスン場で一年間同じレッスンを受けたいかといえば真っ平御免だなということに思い至った。
一年間彼女たちが受けたレッスンと同様のレッスンを受けることは、彼女たちの辛さや頑張りをよりリアルに追体験することになる。追体験としての質は高い。だが時間がかかりすぎる。ダンスよりもやりたいことがあるし、辛そうなので、暇潰しに週二程度通うならチャンスがあればやらなくもないが、それはもう追体験としての価値は薄れて、一年間におよぶダンスレッスンそのものが持つ価値が問われている。(追記:そもそもこれ、巡礼ではなくダンスでは?)そういう意味で1000円分のバッティングには十分その価値があったし、世界一周航海も同様である。(追記:これも巡礼と言えるのか?場所を訪ねる行為に限定するべきだったかもしれない)
聖地巡礼はお手軽でなければならない。言い換えるなら、その行為自体を楽しめないのならやりたくはない。滝行は楽しそうなのでやりたいが、例えば彼女らが受けていた辛い仕打ちを自分も受けたいかというと難しい。
例えばメンバーの誰かが過去にイジメを受けていたとして、それと同様のイジメを受けたいか。これに関しては少し受けたい。マゾヒスティックな願望ではなく、多少なりとも彼女らの苦労を追体験することは彼女らを理解することにつながるからだ。
しかし、紛い物のそれはやはり本当のイジメ体験とは辛さの質が大きく異なるし、よりリアルに状況を再現するために半年間継続してイジメを受けてくださいと言われればお断りする。あくまでもその一部を、私が本当には辛くならない程度に体験することで、辛さに思いを馳せたい、という程度に存在への接近願望は留まる。
キリスト教徒だってエルサレムには行きたくても、ゴルゴダの丘の上で十字架に磔にされたいかと言えばそんなことはないだろう。ごっこ程度にはやってみたいが、それはごっこ遊び自体が楽しさを持つからである。高所に磔にされて「こえ~」などと言ってるのは楽しいが、手足を本当に釘で打ち付けられるのはたまったものではない。(追記:これも巡礼の話ではなくなっている気がするが、でも巡礼先で対象が何かしてたら同じことやりたいよなあ。(追追記:でもやらなくても巡礼は成立するからやっぱりおかしいね。はい。))
体験の総体として楽しくないならやりたくない。少なくとも私は。この「楽しく」は何も笑顔になったり、興奮したりするといった類の楽しさである必要はない。
心地よい感情が動きがあればよい。
郷愁に浸るとか、感慨に耽けるとか、今風に言えばエモさがあってもよい。「泣く」ことによる感情の発露も、人間にとっては快感であるので、ここで述べる「楽しさ」に含まれる。
いや、違うな。
上に述べたエモさは体験そのものに由来する(既出の例をとればバッティング行為によって引き起こされた)感情ではなく、「行為を追体験している」という事実に付随する感情の動きだ。そこは切り分けるべきだろう。
例えば「同じ場所に立つ」ことも、聖地巡礼に伴う追体験行為の一形態だが「立つ行為そのもの」には特に何の楽しみもない。(立っているだけで楽しい場所もあるが、必ずしもその必要はない)(追記:この例の方が純粋な巡礼っぽい)
先例のイジメのように行為自体は許容範囲であれば不快であっても構わない。これは個人差があるし、対象に対する思い入れの深さによっても許容範囲が変わってきそうだが。
「追体験行為を包含する巡礼行為」が総体として満足感をもたらす体験であればよい。(追記:「巡礼が追体験を包含する」よりも「巡礼に追体験が付随する(ことがある)」が正しい)
距離も重要な要素だ。ここで言及する距離とは、対象との関係性としての距離ではなく、その聖地との物理的距離感である。
遠ければ遠いほど、巡礼を達成した際の体験価値は高い。エルサレムが近所の公園にあったら巡礼の有難みも霞むだろう。
私は電車移動含めて一時間もあれば十分である。しかし、ここまで書いて想像してみたが、家の隣にあった昔馴染みのなんでもない祠が実は家康が足繁く通った祠であったと発覚すれば、そこにはそれなりの感慨が生まれるように思える。巡礼と呼ぶにはあまりにも短距離だし、巡礼としての価値は希薄化するものの、完全に失われることはない。いや、とはいえやはり価値の減少は免れないな。
遠ければ遠いほどいい、というものでもない気がするが。例えば、乃木坂のメンバーが訪れた場所の比較として、私の現在地から大塚のバッティングセンターとパリの街角にあるカフェとの物理的距離には圧倒的な差があるが(もちろんパリの方が遠い)、パリのカフェを訪れた際の感慨がバッティングセンターに比べてそれほど深いかといえば、あまり変わらないような気がする。
これは、「パリ旅行のついで」にカフェを訪れるのか、「乃木坂のメンバーが訪れたカフェを主目的に」パリを訪れるのか、物理的距離を越えんとする直接的な動機がどちらにあるのかによっても異なりそうだが、メンバーが通った小学校とか、生まれ育った地域ぐらいの重要地ならともかく、たかだかロケで立ち寄っただけのカフェを目的に渡仏する気にはならない。
いや前者でも渡仏する気にはならないが、(追記:というかメンバーの母校って言うほど感慨深いか?その頃のメンバーが好きな訳ではないし……)するにしてもそれはやはりそもそもパリ自体が好きで巡礼を抜きにしてもパリに行きたいからであって、パリの一地域を訪ね歩く行為そのものに乃木坂とは無関係に楽しみを見出している。その意味で巡礼行為は「ついで感」が否めない。(追記:「むしろ行きたくない場所への巡礼」を考えてみようと思ったが、思いつかなかった。(追追記:日焼けと車酔いに弱いのでそれらが伴う場所には積極的に行きたくない。苦労した分、到達時の達成感はありそうだが、それは聖地が持つ意味とはやはり無関係。目的地に至る行程に由来する価値を抜きにした純粋な巡礼価値は何によって決まるのか。))
これはもしかしたら聖地巡礼も、エルサレム旅行そのものに少なからず体験としての楽しみが含まれていた可能性もあるが、中世を生きる農民の長旅の過酷さや宗教に対する敬虔さはとても無知蒙昧な私の想像のおよぶところではないので、お叱りを受ける前にこの説は引っ込めておく。
でも伊勢参りとかは楽しそうだよね。明日(もはや夜が明けたので今日なんだが)近所のブックオフで聖地巡礼事情に関する本でも漁ってみよう。
眠いし目も疲れたので「過去の自分への巡礼」とかまだ考えたいことはあったが、このへんにしておく。
おやすみなさい。
動画の種類
Youtube・・・成金がひたすら金持ち自慢してるだけ 注目あつめるためだけの嘘サムネ 詐欺タイトルデカ文字 テレビの真似事
ニコニコ・・・今となっては陳腐でも、 MMD杯やMADなどその当時なりに最先端の映像技術や面白さを追求していた 映像技術では比べるべくもない
動画の種類
Youtube・・・5分10分の動画だけ 商品レビューが大半 子供が喜ぶので派手な効果音をいれまくって変顔()をしまくりましょう
ニコニコ・・・教養系や考察系など普通に30分の文字動画をいくつでも見てられる 商品レビュー() なんてなかったし あってもだれも見ない
Youtube・・・テキスト垂れ流しニュース動画が数万数十万再生される
ニコニコ・・・そんなもの見向きもされない 再生ゼロコメントゼロで終わり
Youtube・・・なにもなし 注目あつめるために犯罪やいたずらしたりとかのクズが増えただけ
ニコニコ・・・・淫夢などのネットミームの遊びのプラットフォームとして機能 数々のスラングや名言が生まれる
youtube・・・ゴミ糞 ただひたすら糞 タグに意味ない なにかを検索すると「似たような文字列を含む再生の多い動画」が表示されるゴミカス
ニコニコ・・・・事細かく設定できる、がタグで見たい種類の動画だけをピンポイントに見続けられる というかタグで巡回するだけ 文字検索なんてしない
youtube・・・検索機能が実質的に存在しない為、初投稿者やビギナーの動画は存在しないのと同じ 本田翼とか芸能人はニュースやプレスリリースで視聴者をリンク誘導してから参入
ニコニコ・・・・登録者数なんて概念がない 誰が投稿したかなんて見ないし気にもしない 誰が投稿したから伸びるとかもない 動画の面白さそれ自体しか見られない 初投稿する奴とベテランが同じ土俵で評価される 先述のタグ機能で
Youtube・・・ただひたすら無差別目的に動画を再生させてCMを再生させて金を稼ぐのが目的 動画の質よりも動画を投稿する頻度のほうが大事
ニコニコ・・・先述のタグで 自分の動画を見たい層に見せるのが目的 それ以外の層に再生されるコメントされる必要がない カネは一切絡んでないし、絡んだやつが人気になったり注目されることもない
Youtube・・・企業の宣伝、ステマ、それから報酬もらったYoutuberなどが大半 なにかを宣伝する、なにかを売る、どこまでいってもただひたすらそれだけ 人気とされる投稿者は全てそう
ニコニコ・・・なんの利害もないアマチュアが、自分の動画を、見たい層に見せるのが目的 ただそれだけ それで面白い
Youtube・・・コメントにlike/dislikeがあるが、有名人がコメントしたらlikeが多いとかそんなもの likeが多いと上に表示される 「here is an english comment your are looking for」とかいう意味不明なのに使われたりする
ニコニコ・・・ニコるというコメントを評価する機能があった 誰が言ったかなんてまったくどうでもよく コメントとしての面白さだけが追求されていた
youtube・・・投稿者が自由に設定できる 数秒きざみにCM設置して1分の動画見るのに1分以上のCM見させたりとかも可能
ニコニコ・・・・youtubeほど多くない 最初と最後にちょっとあるだけ
総括
2015年あたりまでは日本国内では圧倒的にニコニコのほうが勝っていた
Youtubeに比べてよく動画の重さシークできなさが引き合いにだされたが、それらを補って余りある魅力によって
Youtubeがタダで使えるにもかかわらず、年間6000円払う有料会員を250万人も擁する世界最大の課金動画サービスだった
特にオタク界隈ではニコニコ発のネタが殆どでYoutuberなんて空気でただのロダ扱いだった
Youtubeでニコニコの転載動画が再生数万数十万いくことはあっても
ニコニコでYoutubeの転載動画が注目集めたり話題になることはなかった
見ての通り最初に技術者が作ったサイト自体の機能性でYoutubeを突き放して何年間も人気だった
はじめてますだに投稿するけど、なんだか吐き出したくて仕方ない。
文才がないことだけははじめに伝えておく。
お付き合いして2年だったけど、残り1年は中身ある付き合いとは言い切れない。
おれは今まで亭主関白なところがあって、自分の考えを押し付けるところがあり相手の聞く耳をもつことがなかった。
これじゃまずいと思って、次付き合う人は「相手を立てて、その人を尊重しよう」って思い意識を変えた。
それが元婚約者だ。
はじめの1年はとにかく楽しかった。お互いケンカもなく、笑い合いながら楽しんだ。
1年たった後、元婚約者に異変が起きた。会社内で元婚約者を批判する投書が上司に知れ渡り状況が一変した。
おれは彼女を支えるべく、ずっと励ましをして彼女の言いたいことを常に優先してきた。
結果として彼女は精神を病み、おれ自身もうつ病になって、結婚どころじゃなかった。
会社のカウンセラーからは「お互いの心が正常に戻った時に話し合って前に進めたらいい」と助言を受け、オレはそれに従った。
半年が経ち、元婚約者からは「好きな人ができた」と告げられた。
おれはどうしようもない絶望感に襲われて、今までおれはなにをしてきたのか訳が分からなくなった。
これが2年かかった。長いのか短いのか分からないけど、オレにはどうしようもない怒りと悲しみに襲われていた。
最終的には和解という形にはなったが、実質勝訴みたいなものだ。
すべてを終えたおれは心が軽くなり、久々に1人の時間を満喫するようになった。
元婚約者と過ごした2年+裁判で2年、失われた時間を埋めるかのようにとにかく動きまくった。
その子はとにかく恋愛体質が強く、自分を好きになってくれる人を好きになるタイプ。
しかし重い。
相手のことを思いすぎて、オレの時間など気にせずLINEをしまくってくる。
オレは元婚約者との関係は異質なものと観ていたので、自分の時間を大事にしたいし、相手も相手で自分を大事にしてほしかった。
これじゃ未来を描くことはできないと思い、オレから別れを告げた。
今その元カノは別の男性とできちゃった婚をしたと風のウワサで聞いた。
その人はバツイチだったので、特に後腐れもないと思っていたが、一回身体の関係をもつと面倒なことになった。
焦っているのかどうか分からないが、とにかくオレへのアピールがすごすぎる。
その気がないことが伝わるまでかなりの時間を要したが、今では普通に接している。
ただハッキリ言えるのは同じ会社の人と恋愛または関係を持つのはコレっきりにしようと決めた。
2016年の春
会社に新卒の女の子が入社してきた。高卒の18歳。その子は藤田ニコルみたいなので「ニコるん」とする。
若い子はまるっきり興味はなかったんだけど、ニコるんは余り積極的に自分から話すことはなく、こちらから声をかけていくうちに気になり始めた。
あぁ〜おじさんがキャバクラにのめり込む心理が分かったような気がする。
おれの話を屈託のない笑顔で応えてくれるんだよ。そう自分が肯定されている錯覚に陥る感覚。
15歳も離れている子を気になり始めるって、自分でも信じられなかった。
その子に恋をするってのはある意味で面倒だし、ましてや同じ会社。
じゃあ同じ恋をするなら、年が近くて別の世界に属している人がいいんじゃね?って思い、出会い系を使うことにした。
出会い系はいわゆるペアーズやomiaiなどのアプリを利用した。
プロフ作成とかメッセージのやりとりは正直面倒だったが、きちんと出会えた。
はじめは3つ下のバツイチ。同じ読書趣味で盛り上がってとても楽しかった。
けど2回目のデートのとき日帰り旅行で南紀白浜に行ったんだけど、どうも相手は楽しくなかったみたい。
相手曰く「コミュニケーションがちゃんと成り立っていない」「わたしには時間がないのでここで切りたい」
そう言われて落ち込んだ自分がいた。
とても虚しい気持ちになり、ついニコるんにLINEをした。ただ話し相手になってほしくて呼んだに過ぎない。
ニコるんは何事もなくオレに接してくれて、会社の話や趣味の話などをして少しずつ気持ちが少し落ち着いてきた。
同時に出会い系出会った女のことも話し、なんとか笑い話になった。
その時、ニコるんはオレのことを恋愛対象として観てるかはわからん。
本人は15歳離れても全然OKだとさ。それ聞くと意識はせざるを得ないけど、社交辞令として受け取った。
オレから観るニコるんはいつも妹中心に考えていて、男は二の次という印象。
なので、ニコるんの心にオレは入ることないだろうなって思った。
最初の出会い系を使って2ヶ月後、別の女性と出会い系で知り合った。
最初のデートはカフェで楽しくおしゃべりしていたけど、2回目からはぐいぐいビールを飲む。
その点は気にしないようにして、いつしか身体の関係をもつようになった。
女として見れないと思い、連絡は減らすようにフェードアウト。
結婚を意識した上での恋愛をしていたつもりなんだけど、相性が合わないと結婚生活は上手く送れない。
そんな信念で恋愛をしていた。
この店を通うようになってから、他の常連客とも仲良くなりとても楽しいひとときを過ごすようになった。
ちなみにその女将は既婚者で、恋をするとか全く考えていない。
ただシンプルに自分に癒やされる空間で美味しいお酒と食事をすることを堪能した。
小料理屋に通い始めて3ヶ月後
同時期に女性3人と付き合い始めた。
こうやって聞くと3股なんだけど、ただオレは相手の話を聞いて頷いて女性を立てていたにすぎない。
1人目
そいつとは高校の時に色々あったけど、年を取った今、大人の会話ができている。
経験値というのだろうか、話が意外にも合う。共通の趣味とはないけど、腐れ縁的なところもあるな。
流れにのってヤッてしまった部分はあるけど、まあ大人の関係だ。それ以上もそれ以下もない。
シンプルに言えば、セフレみたいなんだけど時々飲みに行く間柄である。
2人目
会社の元同僚。2つ上で既婚者子なし。
最初は趣味友という関係で意識も何もしなかったんだけど、9月になぜか二人っきりで旅行行くことになった。
ただ野球観戦をするだけのためにすべて相手にホテルの手配や飛行機の予約を任せていたんだけど、部屋は別室と思っていたら同室。
どう考えても不倫になるので、自分の中では「ダメ」だと思いつつも好奇心旺盛が強く、流れでヤッてしまった。
旅行自体は楽しかったんだけど、終わった後の罪悪感なものを感じてとても気持ちが複雑になっていた。
3人目
事の始めは相手の恋愛相談から始まったんだけど、結局ダメになった。
なぜか話しの流れで「私達付き合わない?」と言われ正直戸惑った。
おれは結婚を前提に恋愛するつもりでいたんだけど、付き合っていくうちに気持ちが変わるかもしれないと思い、
一応付き合い始めた。
しかし、4ヶ月経ったのに身体の関係がなく、ただいつもどおりの友人関係。
オレが考える恋愛とは全く違う。
3人同時進行は、オレの中で初めての経験で自分でもモテてることに意外に思えた。
この流れは後にも先にもないだろうと思い、死ぬまでにはしてみたいことだったので前向きに捉えるようにした。
もちろん3人にはオレが3股であることは伝えていない。
まず1人目。
こいつについては、まあ来年も関係は続くだろうけど結婚はまずないだろう。
何よりもオレ中心ではなく自分中心で生きたいというスタンスなので、コレ以上も何もない。
気心知れているけど、恋愛対象としてないオレがいる。
2人目
お互い不倫という負い目があるからなのか、あれ以来音沙汰なし。
先のことを考えたら、お互いのためにも会わない方がいいかもしれない。
3人目
つい2週間前、ヤッた。
1回目はゴム付きでやったんだけど、ホテルの中のゴムは1個しか無いので、2回戦は不可。
しかし相手が誘ってきたので、生でやった。もちろん合意の上で。
つい気持ちよくなってつい相手の中に出したんだけど、ここで事件が起こる。
「なんで中に出したのよ!!!!!」
めちゃスゴイ剣幕で怒りが込み上がっている様子の中、オレは出した直後なので果てている。
何が起きたのか訳がわからない。
外で出してほしかったみたいだけど、生でヤッた時点でいつできてもおかしくないんだ。
確率上、中のほうが高いのは言うまでもないけど、ラブラブムードが一気に吹き飛んだ。
4ヶ月間楽しくデートもして友人関係のままだったけど、この日に初めてヤッて気持ちよかったのに。
たった1回のセックスでおれはこの瞬間、「この女と切りたい」という気持ちになった。
しばらくしてお互い落ち着いて、少し話す機会を設けたところ
言われなくてもオレもそのつもりだった。
こんな感じで3人の女のとの関係が終わった。
ここでおれのゲスなところを伝えておく。
11月、たまたまニコるんと出張へ行くことになり、急接近し始めた。
出張帰りにデザートを買ったり、一緒に食事にいくようになった。
恋愛として対象に観ていたかどうかと言われたら、難しいけど恋しているんだろう。
そう彼女は二十歳になっていた。
成人している年齢なので気軽にお酒を誘えるようになった。
なんでこんなオッサンについてくるのか疑問だったけど、気分は悪くない。
けど妹のことになれば、おれのことはどうでも良くなる。
そんな子だ。
おれは3人の女との関係を持ちつつも、ニコるんのことは片隅にあった。
いや男としてなんだろうな。
先週、おれはニコるんにあるお願いをした。
「来週の土日、引越し先のために車を使いたいから買い物に付き合ってほしい」
ニコるんは笑顔で「いいですよ〜!車はアルファードがいいですか?!」
こんな風に快諾してくれてオレは嬉しい気持ちになった。
そして昨日、待ちに待った約束の日。
ニコるんから「すいません!妹がインフルエンザにかかったみたいで」
おれは「いいよ〜気にするな。また明日あるしな。妹さんお大事に〜」
かなりガッカリしたけど、気にしないようにした。
けど尾を引いた。やっぱ妹優先なんだろうな。
未読のままだ。
何かあっただろうと思いつつも、きっと妹のことを優先しているんだな。
不相応に同年代の方がいいんだろうか。
何にでもはっちゃけすぎた。
そう思うようにしとこう。
こうやって、ますだを書いてる最中にニコるんからやっと連絡きた。
「いつもお世話になっています。ニコるんの妹です。姉が昨夜緊急入院して今も目が覚めておりません。こうやって予定を合わせられなくて申し分ないです」
そもそもニコるんの携帯は指紋認証がついてるiPhone8だ。
妹が勝手に使ってるって邪推してしまう。予定の埋め合わせができなくてこうやって嘘のストーリーを作ってるんかな?
あれこれ考えてしまうけど、どうでも良くなってきた。
冷静に考えてたかが15下の小娘だ。子どもに踊らされてるオレがアホなだけと思っとこう。
ニコるんの妹への返信は、そのまま額面どおりに受け取ってフォローしておこう。
そして極力かかわらないでいこう。
そのほうがいいな。
それからVoc@loidM@sterやMAD系の動画を見て、xboxのゲームを買い、本格的にのめりこんでいきました。
ゲームをプレイしてキャラをつかんだ後はノベマス、架空戦記などのストーリー物を読み漁りました。
架空戦記が盛り上がり、アイドルが過去に行ったり未来に行ったり異世界に行ったり……
「765プロならよくあること」を見るのが本当に好きでしたし、自分で動画を作ったりもしました。
ゲームはその後、SP、DS、2、SF、OFA、PSとつづき、12月には最新作のステラステージが発売されます。
思えば山あり谷ありでした。
SPでの美希Pの嘆き、DSでの男の娘の参入、2での9.18騒動、PSのサイコロ等々……トラブルも少なくありませんでした。
その間にシンデレラ、ミリオン、sideM、KRの参入もありましたし、アニメ化もされ、なかなか大きなコンテンツへと育ちました。
そしてその間ニコニコはアイマスにとって公私ともによきパートナーでありました。
これを書くにあたりニコニコのマイリストを見たのですが最古のブックマークが 2009/02/26 でした。
登録が古い順にサムネをみるとここ十年近くの歴史が思い起こされるようであり、ところどころに削除された動画があって物悲しいようでもあり……
そして、今回の騒動で思ったのが、ニコニコも永遠ではないのだということです。
ミリオンライブもGREE版も更新終了のお知らせがあり、サービス終了に向かっています。
有志が保存活動をしていますが、カード画像が3176枚と相当量のテキストにボイス等で、サイズは個人のPCに収まる程度となるでしょう。
しかし、ニコニコは動画であり(静止画もありますが)、アイドルマスタータグだけで36万件超あります。
コメントも含めると保存なんてとてもできません。
(動画1件10MBと仮定すると全部で3.5TBくらいになるから案外いけるかも?)
過去形で語らざるを得ないのは本当に残念ですし、ニコマスについても今では往時の活気を失っています。
これから以前の活気を取り戻すことはおそらくないでしょう。
それでも!それでも、いつか来るニコニコのサービス終了時に後悔が少なくなるように、そしてその日を一日でも未来へ先延ばしするために、私はプレミアム会員だけは絶対にやめません。
たかだか月500円でどうなるとも思えませんが、一ユーザとしてできることはしておきたいのです。
5chでもTwitterでもはてなでも「まだプレミアムやめてないの?」といった発言を見ました。
そして、過去がなかったことになってしまうのを厭う気持ちで課金している人もいるのです。
この発言をした人に対して私の気持ちを宣言したくてこれを書きました。
最後に。
ニコニコに対して改善要望は既に出尽くしていますが、私からも一つだけ。
「ニコる」の復活はよ!
有料会員は、2017年11月に発表したデータによると、前年同期の256万人から28万人減少。
まるで、シャッター街と化した賑わいをなくした商店街のように、客と店が閑散とし、それが負のスパイラルとなって更に客と店が逃げていくような状況に陥っている。
思い返してみれば、2009年から2013年頃は配信者も、リスナーも勢いがあり、ニコ生には熱があった。
しかし、その熱は徐々に失われ、人々の感情を動かす熱情は冷めつつある。
もちろん、一部例外はある。七原くんや、加藤純一のように、未だニコ生を楽しんで盛り上げている人もいる。ここで指摘しているのは、サイト全体の空気感の話だ。
しかし現状は、Twitterを眺めても、ニコ生を愛し、毎日のように生主の話題で埋め尽くしていた重度のニコ生愛好者のアカウントの多くが、ニコ生のことをつぶやくのをやめてしまっている。自分が2年前に作った、情報収集用のヘビーリスナーを放り込んだリストの3~4割が休止状態だ。
先の見えない、絶望感漂う現状に、ニコ生にしがみついている(過去の盛り上がりを忘れられない)人々は、再びニコ生の隆盛を、最後の希望をニコニコ(く)に託していた。
しかし、期待はやっぱりと言うべきか裏切られた。
この発表で、乾坤一擲、人々の希望を与えられるような内容があれば、まだニコ生は数年持ったかもしれない。だが、ニコニコ(く)の発表内容は、サーバーが重い、閲覧がプツプツ止まる、とにかく見づらいという、一番利用者が望み、改善を期待していたところすら手がつかず、子供だましのようなお茶を濁した機能追加のオンパレードで、我々利用者の最後の希望を打ち砕いた。
もう、ニコ生に期待することはないと思うので、その死に水を取るキモチで、ニコ生が衰退した原因を考察しつつ、何故ニコニコ(く)がダメなのかを書いていきたい。
ニコ生が衰退した原因は、一体何だったのだろうか?
そう問われた時、その人の立場により、多様な回答が出てくると思われる。
外部サイトの隆盛、稚拙な運営、逃げた配信者、通報厨、リスナーの変化、支援者…。
それらは、複合的に絡み合い、単純ではない。これらを少しでも払拭するような内容であったならと、慚愧に堪えない。
2013年頃までは、競合サイトと比較してニコ生の優位点が多く、ニコ生1強の時代が4年ほど続いていたように思える。石川典行や渋谷のキングなどの有力な荒らし配信者(当時)を外部に放逐しても、隆盛を保っていた。しかし、現状は違う。YouTubeLiveやLINE Live、Instagram Storiesなどの、巨大SNSを基盤とした巨大な競合サイトの台頭が顕著になり、その他独立系のツイキャス、ふわっち、showroom、OPENRECなどがニコ生の牙城を日々切り崩し、今や見る影もない。マクロミルが2017年7月に行った調査によると、これから配信をはじめる10代の視聴しているライブ配信サービスのトップはYouTubeLive、2位がニコニコ生放送。配信しているトップがInstagram Storiesで、ニコ生はツイキャス、YouTube Live、InstagramLiveなどの後塵を拝し、LINE Liveと同率の6位となっている。
実感としても、配信者やリスナーの外部流出が著しく、1強を誇っていた数年前と比べるべくもなく、シャッター街となった商店街の様相を呈しており、寂れた印象を与えている。外部に人が流出した上で、新規が競合サイトに吸われたため、サイトとしての熱や勢いを失ってしまったのだ。
若年層のインターネット利用の主流がスマホに移りつつあった2013年頃から、競合サイトであるツイキャスはそのニーズを捉え、低帯域でも閲覧が可能な高性能なスマホ閲覧アプリを提供していた。一方で、ニコ生は未だにバックグラウンド再生もできず、低帯域での再生は断続的な切断によるストレスが多く、基本機能であるアンケートにも参加できないなどのチープなスマホ対応しか行ってこなかった。
利用者の利用環境の変化に対応できなかったことにより、より使いやすいツイキャスなどの競合サイトに新規ユーザー獲得負けてしまった。
ニコ生のサービス開始2009年から8年。8年という歳月は、中学1年生が成人するほどの環境の変化をもたらす。
配信者、リスナーともにライフスタイルの変化により、閲覧を辞めることもあるだろう。
それに加え、ライブ配信自体の認知が広がり、よりライト層が閲覧を始めたことにより、2chの文化を引き継いだ、垢抜けないニコ生のギーク感(おたくっぽさ)は忌避され、よりスマートなツイキャスやLINE Live、Instagramなどに流れていった。(ここは、他サイトの利用者の意見を拾ったわけではないので、根拠に薄く、想像が含まれる。異論があれば教えて欲しい)
ニコ生のシステムは今年実装された「新配信」になるまで、ここ5年ほど、ほとんど改善が加えられていない。
それは、無計画に増改築を繰り返した上、低待遇の技術者が大量に退職した結果、システム改修がほぼできなくなってしまったことに起因する。
参考URL:http://hiroki-uemura.hateblo.jp/entry/2015/09/01/230611
結果、超会議や町会議などの「イベント」を繰り返すことにより、利用者の不満をかわす方針を取ったドワンゴ。不満は見事抑えられたが、上記の外部環境の変化についていけず、緩やかに競争力を失っていった。
しかし、ツイキャスの台頭に危機感を覚えたドワンゴは、ツイキャスのパクリのような「ニコキャス」をローンチするも、あまりのできの悪さに3日で閉鎖に追い込まれてしまった。
それから2年、2017年にシステムの大幅な刷新を予告しているが、大幅な後手に回ってしまった感が否めない。
加えて、マネタイズ(収益化)が競合よりも上手くいっていたことが、結果的に変化に対応するリスクを取ることができなくなったという面も考えられる。
ニコ生では、リスナーが「広告」を打つことにより、配信時間を延長できるチケットを配信者にプレゼントできるシステムがある。これ、運営は収益を上げることができ、配信者は延長料500円を払わずに延長でき、リスナーは目立つ形で広告を売って、配信者に名前を覚えてもらったり感謝してもらえるなど、「三方良し」の理想的なシステムだった。
しかし、競合サイトに投げ銭システムが一般的となった今、一部配信者は「自分の懐に入らない投げ銭(広告)」に不満を感じ、上記のWin-Winの構造が崩れてしまっている。
技術的な問題と、成功体験による現状維持が原因となり、外部環境の変化に対応できず、ずるずると現状を維持し続けたことで、結果的に競争力を失ってしまった。
ニコ生は、同時閲覧数がある一定数を超えると「満員」状態になって配信をみることができなくなる。
それはシステム上の問題なのだが、ここで「プレミアム会員なら優先入場!」的なボタンが出てきて、プレミアム会員への入会が促される。渋々入会して「優先入場」ボタンを押すも、画面が1瞬切り替わって同じ画面に戻される。プレミアム会員にはいっても入場できない状態が続いているのに「こちらが入り口です」と入れない入り口への誘導が繰り返される。このような、利用者視点がまったくない操作性の悪さがサイト内に山ほど散見され、利用者にストレスを与える作りになっている。ストレスを抱えた利用者は、このような稚拙なサイトを再度利用したいと思うだろうか?ユーザー体験(UX)が全く配慮されていないのだ。
ニコ生のトップページをみると、他サイトと大きく違う点が1つある。
それは、他の配信サイトの多くが、盛り上がっている配信や、新規配信者をトップページで紹介しているのに対し、ニコ生は企業配信の紹介が大きく割かれているのだ。これにより、新規の配信者が配信をはじめても、ふらっと立ち寄るリスナーの数が減り、いつまで経っても過疎から脱せない停滞感が生まれる。
過去においては、ある程度の閲覧数を稼げば、ちくらん上位に掲載されてリスナーを獲得することが出来たり、ミラー大手のこざまミラーが新規配信者を「発掘」してリスナーを獲得する機会があった。
また、ランダムでいろいろな配信を見せる「ニコ生クルーズ」や、配信者のコンテスト「ナマケット」などで配信者が発掘されることもあったが、今や殆ど機能していない。
現状においては、新規リスナーがただでさえ減っているのにもかかわらず、初見が最も訪れやすいニコ生トップページは企業配信と大手のチャンネル配信に埋め尽くされ、過疎配信者は日の目を見ることもなく、ただ根絶されていっている。
ニコニコのサービス追加は、これまで良い意味でも悪い意味でも、ノリと思いつきで行われてきた。
スタンプなど、ユーザーのモチベーション維持に役立ったものもあったが、これらの機能追加は、裏を返すとシステムの複雑化を招き、システム改善の難易度を高めていった。ニコニコ(く)において、ニコ生とニコキャスが並行して運用されるのも、複雑化した現状を整理できなかった苦肉の策だろう。
しかし、それらを今回の改定で、整理し、川上社長は、あるべきコミュニケーション像を、ビジョンを提示すべきだった。
それらのビジョンなく、枝葉のどうでもいい機能追加に終始し、抜本的な根治を目指さなかったことが、今回のニコニコ(く)の失敗だと思う。
新規配信者の参入が困難な現状も相まって、リスナーは大手配信者に固定化し、一部の大手はその座にあぐらをかいて惰性で続けている。それは、いつまでも「安泰」な地位が約束されている、新規が伸びてきにくい環境だからこそ、古参の大手の既得権益が守られ、切磋琢磨が生まれにくい環境にある為だ。
しかし、ニコ生全体の熱が失われた今、先を考えている配信者の多くはニコ生に見切りをつけ、配信環境が整い、収入源としても有望な競合サイトに流れていっている。
過去と同じことを見ていても、再放送のような気分になり、楽しみを見いだせなくなる。
しかし、配信を一度見るのを辞めると、「流れ」がわからなくなり、取り残されたキモチになる。
結果、面白くもないのに、飽きた配信者の配信をずっと閲覧することもなり、不満を抱えながら配信を見続ける。その中の歪んだリスナーは、楽しみを通報などの妨害行為に見出すようになったり、特定をして配信者を潰すなどの犯罪スレスレの好意に手を染めるものも居る。
リスナーの流動性がある程度あれば、このような弊害は生まれにくいが、リスナーが固定化された環境下では、このような現状になってしまうのも自明の理かもしれない。
これは簡単な話だ。
上記で掲げられた課題を殆どこなすことができず、既存利用者の失望を招き、期待感を生むことができなかったことにある。
期待感さえあれば、様々なニュースサイトに露出し、SNSで拡散され、人々の話題に上がって熱が戻ってくるきっかけになったかもしれない。加えて、一度外に出た配信者やリスナーが「古巣」を見に来ることも会ったかもしれないし、その流れで他サイトのリスナーがやってきた「かも」しれない。
現在、日本語がメインのインスタンスはmstdn.jp(ユーザ数85k、個人運営→ドワンゴ入社)、pawoo.net(ユーザ数78k、pixiv運営)、friends.nico(ユーザ数10k、ドワンゴ運営)、の3つが主な勢力となっている。
「マストドンは分散型SNSなんだからどこのインスタンスにいようと同じだろ」と思うかもしれないが、それは正しくない。というのも、「マストドンをどう使っていいのか」が、現状ではまだ誰にもわからないからだ。少なくとも現在は「ローカルタイムラインを使用したチャットツール」としての使われ方をしているため、どのインスタンスに所属するかで、かなり印象が違ってくる。
たとえばpawoo.netはハイレベルな変態の集会所となっている。昨日の深夜、男の娘ママについて熱く語り合っていたのを見たときは、「人類は衰退しました」で妖精さんが数日にして文明を作り上げたシーンを思い出した。
friends.nicoは'90年代からインターネットにどっぷりだったようなおっさんの寄合所となっている。年齢層が高めのためか治安がよく、ローカルタイムラインも話題を追えるギリギリの速度のためコミュニケーションを取りやすく、少なくとも筆者は現状で一番居心地がいい。
mstdn.jpはローカルタイムラインを追いきれないので見ていない。筆者はこの「ローカルタイムラインの速度」というのが今後のマストドンの進化において重要な要素になってくるのではないかと思っている。
いまさらだが説明しておくと、マストドンにはホーム、ローカルタイムライン、連合タイムラインという概念があり、それぞれ違う役割を持っている。
ホームは自分の発言、フォローした人の発言等が表示される。Twitterと同じような使い方をするならここがメインになるだろう。
ローカルタイムラインは所属するインスタンス内の公開発言がすべて流れる。現在のfriends.nicoのユーザ数が1万人で、ギリギリ話題を追える速度なので、このあたりが閾値になりそうだ。
連合タイムラインはそのインスタンスが連携しているインスタンスの公開発言が流れる。これはとてつもないスピードでタイムラインが流れていくのでとうてい追い切れるものではない。しかもそれぞれのインスタンスで文化圏が違うので話題もバラバラだし、それぞれのインスタンスの独自用語・独自実装があるので、他のインスタンスから見ると意味がわからないことも多々ある。
たとえばfriends.nicoで「〇〇さんの発言ニコりました!:nicoru:」と発言したとき、friends.nico内では「ニコる→お気に入り」という前提があり、:nicoru:が独自実装でニコニコマークに置換されるため、ちゃんと伝わるのだが、他のインスタンスからしてみれば、まず「ニコる」という用語がわからないし、:nicoru:マークも置換されないのである。
このように、連合タイムラインはその超スピードもあいまって正直あまり意味がないものになってしまっているのだが、筆者はこれはこれで必要な機能だと思っている。ローカルタイムラインだけを見ているとその文化圏・言語圏に閉じてしまいがちになるが、ふとした瞬間に連合タイムラインに切り替えると、そこにはいろんな文化圏があり、いろんな言語圏があることを思い知る。そのタイムラインをすべて追うことはできなくても、その人たちと直接コミュニケーションを取ることはなくても、たしかにそこにいる。たしかにどこかでつながっている。そういう感覚が常にある。ニュースグループやIRC、ICQやSkype、掲示板やSNSでも似たような感覚はあったが、それとも少し違う妙な感覚だ。
もちろん現状の「ローカルタイムラインを使用したチャットツール」という使われ方は長続きするものではない。mstdn.jpを見てわかるように、ユーザ数が増加するとタイムラインの速度も急激になり、会話が成立しなくなるからだ。今後はTwitterよろしくフォロー・フォロワーの関係性が重要になり、ホームのタイムラインがメインになっていくかもしれない。その場合はローカルタイムラインが現在の連合タイムラインの役割を果たすだろう。または何か違う別の方法でスケールできるようになるかもしれない。その仕様がどのようなものかはわからないが、この唐突にあらわれた風雲児がどのような成長を果たすのか、しばらくは見守っていきたいと思う。
ニコニコ動画はよく「つまらない」「つまらなくなった」といわれる、今回はその理由を考えてみた
よくニコニコ動画の質の低下を嘆く人々の間では「今の実況者は面白くない」「最近のニコニコはつまらない動画ばかりになった」などと言われるが、実はこれは間違いだ
「今のニコニコの動画」と「昔のニコニコの動画」を両方開いて見比べて欲しいのだが、動画内容自体に大きな変化はない
やってることもほとんど変わらなければ、トークの内容も大差はないようにみえる。つまり、動画そのものの質は(さほど)低下していない
ずばり、コメントの質だろう
今のニコニコでは「ワロタwwwwwwww」「8888888888」「おおおおおおおおおおお」「レトさんかわいい」などといった毒にも薬にもならない、はっきり言えばクソつまらないコメントばかりになった
みてのとおり、このようなコメント群を見ていても面白くもなんともない
(ぶっちゃけ)ニコニコの面白さはかなりの部分がコメントの面白さによって担保されているところがあったので、これは致命傷だ
上に記した通り、ニコニコがつまらなくなった理由はコメントがつまらなくなったからである
ここで考えるべきなのは、「なぜニコニコのコメントはつまらないのだろうか?」ということだ
答えは簡単で、今の視聴者には面白いコメントを書く気がまったくないからだ。
(少しでも面白いコメントを書くつもりがあるのであれば「wwwwww」「888888」などというコメントはできあがらないだろう)
面白いコメントを書く気がないのであれば、面白くないコメントばかりが量産されるのは当然だ
ここで更に、「なぜ面白いコメントを書く気がないのだろうか?」という問題が浮かび上がってくる
たとえば、TwitterやFacebookなどで面白い・ユニークな発言をするといいねが貰えたり、RTされたり、フォロワー数が増えたりする。承認欲求が満たされ気持ちがいい。
現在のニコニコ動画(のコメント)ではこのような仕組みが存在しない
頑張って面白いコメントを考えて書き込んでもなにもいいことがない、褒められるわけでもなければなにを貰えるわけでもない
せいぜい自身のコメントのあとに「←ワロタw」などと付く程度ですが、これも後で動画を見直さなければ気付くこともできない
面白いコメントをしても全く見返るところがない、これがニコニコのコメントがつまらなくなった原因ではないだろうか
「コメントを評価する仕組み」が今のニコニコ動画に必要だと私は考えます
そういえば昔ニコるっていうのがあったんですけどぉ……
我が愛するニコニコ動画を壊すからだ。衰退させるからだ。ついに滅亡せしめるからだ。
一般的な説明として「真夏の夜の淫夢」とは何であるかについて、ASCII.jpによる説明を引用する。
本文での「淫夢」とはこのゲイ向けポルノビデオを元として改変した動画群を投稿し、再生し、コメントを付け楽しむユーザーの総称だ。
最近ニコニコ動画を利用したことがある人ならば、いや、近年では2ちゃんねるやそのまとめやtwitterやはてななど、
オープンなインターネットコミュニティを利用する人ならば、彼らの独特の言葉を一度は目にしたことがあるだろう。
「あのさぁ……」「関係ないだろ!いい加減にしろ!」「(迫真)」
淫夢は独特の定型文を共有し、頻繁にこれを使う。全く関係のない動画であろうと、
少しでもこの言葉を使えそうなタイミングがあれば大挙してこの書き込みを行い、
自分たちだけが分かる世界を展開し悦に入り、理解できないユーザーを混乱に陥れる。
この行動によって、初心者がニコニコ動画に参入することを大きく阻害する害悪となっている。
淫夢は非常に活発で能動的であり、例えばニコニコ動画に新しく用意された玩具をいち早く見つけ、
それがどんなものであれ最大限利用しようとする。
今やニコニコ動画で最も能動的なコミュニティは淫夢であるため、ニコニコ動画が新しく何かを始めようとすると、
必ず淫夢の玩具になり初心者には使いにくいものとなるのは皮肉なことだ。
このシリーズは、まず退屈な製品の製造工程や、文化解説のビデオに「ホモと学ぶ〜」という目印になるタイトルを着けて無断転載を行う。
次にそのタイトルを目印に淫夢が集結し、思う存分前述の独特の言葉を付けて遊ぶというものだ。
その様子を見るに、動画の内容はほとんど関係がなく自らの定型文遊びだけが彼らの目的であり、
動画は動画として必要とされず、定型文遊びの媒介としてのみ使われる存在に成り下がっている。
このシリーズは典型的な例だが、概ね淫夢は本質的に動画を必要としていない。
そのため、高品質な動画を作ろうとするクリエイターと対立する存在であり、淫夢は今以上のニコニコ動画の発展を阻害している。
BBという文化がある。BBとはブルーバックのことであり動画編集ソフトで切り抜き合成をしやすいように素材化された動画のことだ。
しかし淫夢におけるこのBBシリーズはおよそ素材としては使いにくい部分ばかりが投稿される。
彼らはニコニコ動画の特徴的な文化であるMAD文化や2次創作文化を理解した上で、
それをまともには取り合わず「素材として使いにくい素材を作る」「その使いにくい素材を使って実際に動画を作る」という一種無駄な努力を楽しみ、
この例の他にも、概ね淫夢は色々なコンテンツや文化をよく理解しており、
その上にそれ自体を揶揄しパロディ化したコンテンツを生み出す傾向にある。
新しい楽しみ方を模索しているとも言えるが、この行動によって、コンテンツ文化はさらに複雑化し、理解されにくいものとなってしまう。
独特の定型文による一体感を楽しみ、完成された動画を必要としない。
非常に活発に活動する。
あらゆるコンテンツ文化を理解し、その上に成り立つ新しい楽しみ方を模索する。
そうだ。その通りだ。 知っている。私達は彼らを知っている。
私達は彼らが何者なのかを知っている。
独特の定型文による一体感を楽しみ、完成された動画を必要としない。
非常に活発に活動する。
あらゆるコンテンツ文化を理解し、その上に成り立つ新しい楽しみ方を模索し続ける。
その通りだ。ニコニコ動画だ。
実際のところ、淫夢は淫夢さえ必要としていない。淫夢が淫夢であるためには、淫夢が必要というわけではないのだ。
その証拠に、少し前、淫夢は淫夢ではなかった。少し前には、淫夢は淫夢ではなく、ビリー・へリントンであった。
問題は、なぜ彼らはビリー・へリントンをやめ淫夢になってしまったのかだ。
それは簡単だ。
ニコニコ動画がビリー・へリントンを認めたからだ。ビリー・へリントンをビリー・へリントンとして定義し、表舞台に上げたからだ。
すでに小野ほりでいが喝破しているように、その心性とは「理解されることを嫌う」ということだ。
彼らは、理解されるぐらいならば消えたほうがましだと考えている。
それは、特別でいたいという気持ちと、馬鹿に自分を理解できるわけが無いという上から目線が同居した気持ちである。
ビリー・へリントンが表舞台に立ったとき、彼らは彼らがビリー・へリントンであるまま理解されずに済むことは難しいと考え、
その瞬間から彼らはビリー・へリントンをやめ淫夢になったのだ。
同時に重要なことはこの「理解されることを嫌う」心性が、既存の価値を否定し新しい価値を生み出しやすいニコニコ動画のアーキテクチャーと
彼らは理解されることを避けるために、新しい価値を生み出している。
そして理解されることを避けるならば、最初から理解されていないもの、理解される可能性が低いものを題材に選んだほうが効率が良い。
だからこそ彼らはセクシャルマイノリティや、政治的タブーなどアンタッチャブルな題材を選び、
理解を巧みに避けながら安全にニコニコ動画を楽しんでいる。淫夢はそのような彼らにとって、安息の地であり約束の地なのだ。
しかし、淫夢はニコニコ動画であっても、ニコニコ動画は淫夢であるわけではない。
ニコニコ動画がニコニコ動画であるかぎり、容易に淫夢的なものに支配されうることは確かだが、それは淫夢を淫夢たらしめている性質からしても、衰退の道に繋がることは明らかである。
新しい価値を生むことで理解を避けるニコニコ動画がある一方、新しい価値を生み、その上でその理解を渇望するニコニコ動画もあるはずだ。
我々はそういうニコニコ動画を知っている。
彼らはニコニコ動画でありながら、ニコニコ動画を壊し、衰退させ、ついに滅亡せしめる存在だからだ。
ASCII.jp:ある意味とてもニコ動らしい淫夢動画の世界 (1/3)|myrmecoleonの「グラフで見るニコニコ動画」
http://ascii.jp/elem/000/000/873/873619/
淫夢語録とは (インムゴロクとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
http://dic.nicovideo.jp/a/%E6%B7%AB%E5%A4%A2%E8%AA%9E%E9%8C%B2
ニコる(淫夢)とは (ニコルとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%82%8B(%E6%B7%AB%E5%A4%A2)
ホモと学ぶシリーズとは (ホモトマナブシリーズとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
BB先輩シリーズとは (ブルーバックセンパイシリーズとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
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