はてなキーワード: 威信とは
政治家が刺身ちょっと食って見せたり、サーフィンして見せたりして「安全ですよ」アピールすんのは、もう2周も3周も時代遅れだよなー
どっかカネと勢いのあるテレビ屋さん、水ダウでも、最近のフジのバラエティでも、もしくはネトフリだかアマプラだかで世界に配信でもいーんだけどw こういうのやってくんねーかな?
1980 年代、心理学者のリチャード E. ペティとジョン T. カシオッポは、説得がどのように機能するかを説明する「精緻化尤度モデル」を開発した。ここでの「精緻化」とは、その情報をどれだけ注意深く考えるかという意味である。人々に注意深く考える意欲と能力がある場合、「推敲の可能性」は高くなる。これは、人々が関連情報に注意を払い、メッセージの議論の利点に基づいて結論を導き出す可能性が高いことを意味する。
他人を説得するには少なくとも2つの方法がある。最初の方法は「中央」ルートと呼ばれ、聞くメッセージを注意深く熟考することから生まれる。中央ルートが関与している場合、提示された情報を積極的に評価し、それが真実かどうかを見極めようとする。一方で「周辺」ルートが関与している場合、実際の情報やメッセージの内容以外の手がかりにさらに注意を払う。たとえば、誰かのメッセージの実際のメリットを考慮せずに、その人の魅力や教育を受けた場所に基づいてその人の主張を評価する可能性がある。
周辺ルートを通じてメッセージを受け入れる場合、中央ルートを通じてメッセージを受け入れる場合よりも受動的になる傾向がある。
有名な心理学者のスーザン・フィスクとシェリー・テイラーは、人間を「認知的守銭奴」と特徴付けている。彼らは「人間の情報処理能力には限界があるため、できる限り近道をするのです。」と書いている。
動機や議論を処理する能力が低下するにつれて、説得には周辺的な手がかりがより重要になってくる。
議論(中心ルート)の実際の利点を比較検討して信念を更新すると、周辺処理を通じて信念を更新する場合と比較して、更新された信念は持続する傾向があり、反論に対してより堅牢になる。慎重かつ思慮深い検討を通じて何かを信じるようになると、その信念は変化しやすくなる。
つまり、周辺ルートを通じてより簡単に操作される可能性がある。周辺ルートを通じて何かを確信している場合、操作者は周辺ルートをもう一度使用して最初の信念を変えることに成功する。
心理学者のレオン・フェスティンガーは、社会的比較プロセスに関する影響力のある理論の中で、人は自分の意見を他人の意見と比較することによってその意見の「正しさ」を評価すると示唆した。他の人が自分と同じ信念を持っているのを見ると、その信念に対する自信が高まる。
これらの考えを総合すると、人間の心の中には何らかのメカニズムがあることが示唆される。たとえそれが真実であっても、自分の地位を下げるようなことを言わないようにする。そして、たとえそれが嘘であっても、自分の地位を高めるようなことを言うように彼らを駆り立てる。
さらに、自身の評判がどうなるかという考慮が私たちの信念を導き、私たちの社会的地位を維持または強化するための一般的な見解を採用するように導くこともよくある。暗黙のうちに「この信念を保持すること(または保持しないこと)が社会にどのような影響をもたらすだろうか?」と自問する。
説得の周辺ルートに戻ると、多くの人がそれを信じている場合だけでなく、その信念の提唱者が権威ある人物である場合にも、何かを信じるかどうかを決定する。
オックスフォードの心理学者セシリア・ヘイズは、著書『認知ガジェット』の中で次のように書いている。彼らは、同じ年齢と性別の同じくらい身近な人よりも、大人が社会的地位が高いと考えるモデル、たとえば学校の校長を模倣する可能性が高い。
それでも、私たちが高い地位を持つ他人を真似するのは、彼らを模倣することで自分の地位が向上することを期待しているからだけではない。権威ある人ほど有能であると信じがちであるが、プロミネンスはスキルのヒューリスティックである。
研究者のアンヘル・V・ヒメネス氏とアレックス・メソウディ氏は、威信に基づく社会学習に関する最近の論文で、能力を直接評価することは「騒がしくコストがかかる可能性がある」と書いている。代わりに、社会的学習者は、モデルの外観、性格、物質的な所有物などから推測することによって、ショートカットを使用できる。
ここで、次のような疑問が生じる。周辺的説得による操作の影響を最も受けやすいのは誰か? 教育を受けていない人々のほうが操作されやすいと信じるのは直感的に思えるかもしれないが、研究によると、これは真実ではない可能性がある。
心理学教授のキース・スタノビッチは、「マイサイド・バイアス」に関する自身の研究について論じ、次のように書いている。「あなたはそれに属しているのは、それらはあなたの気質と生来の心理的傾向に適合しているからです。」
一流大学の学生や卒業生は、自分側の偏見に陥りやすい。彼らは「自分自身の以前の信念、意見、態度に偏った方法で証拠を評価し、証拠を生成し、仮説を検証する」可能性が高くなる。
アメリカのジャーナリストであり、『第三帝国の興亡』の著者であるウィリアム・シャイラーは、ナチスドイツの従軍記者としての自身の経験をこう語った。シャイラーは次のように書いている。「ドイツの自宅やオフィスで、あるいは時にはレストラン、ビアホール、カフェで見知らぬ人と何気ない会話をしているときに、一見教養があり知性のある人たちの突飛な主張に出会うことがあった。彼らがラジオで聞いたり新聞で読んだりしたナンセンスをオウム返ししているのは明らかでした。時には同じことを言いたくなることもあったが、まるで全能者を冒涜しているかのような不信感を抱かれた。」
同様に、ソ連崩壊に関する研究では、大学教育を受けた人々は高卒者よりも共産党を支持する可能性が2〜3倍高いことが研究者らによって判明した。ホワイトカラーの専門労働者も同様に、肉体労働者に比べて共産主義イデオロギーを支持していた。
今日の米国内のパターンはそのような調査結果と一致している。政治アナリストのデビッド・ショールは、「高学歴の人々は、労働者階級の人々よりもイデオロギー的に一貫した極端な見解を持つ傾向がある」と述べている。これは、問題に関する世論調査やイデオロギー的な自己認識にも見られる。大卒の有権者は穏健派であると自認する可能性がはるかに低い。
この理由の 1 つは、時間や場所に関係なく、社会の富裕層の方が地位を維持したり、地位をさらに獲得したりするために正しいことを言う可能性が高いためであると考えられる。
カリフォルニア大学バークレー校のキャメロン・アンダーソンが主導した最近の一連の研究では、社会階級が社会的地位への欲求と積極的に関連していることが判明した。より多くの教育を受け、お金を持っている人は、「他人の意思決定に影響を与えることを楽しんでいます」や「名声や社会的地位を得られたら嬉しいです」などの発言に同意する可能性が高かった。
ケイトー研究所がYouGovと協力して行った調査では、全米を代表する2,000人のアメリカ人サンプルを対象に自己検閲についての質問を行った。
その結果、高校教育以下の学歴を持つ人の25%が、政治的見解のせいで解雇されたり、雇用の見通しが損なわれることを恐れているのに対し、大学院卒の学歴を持つ人の割合は44%であることが判明した。
政治学者のジェームズ・L・ギブソンとジョセフ・L・サザーランドによる「口を閉ざす:米国における自己検閲のスパイラル化」と題された最近の論文の結果は、Cato/YouGovの調査結果と一致している。彼らは、自己検閲が急増していることに気づいた。マッカーシズムの絶頂期だった1950年代には、アメリカ人の13.4パーセントが「以前よりも自分の意見を自由に言えなくなったと感じている」と報告した。2019年までに、アメリカ人の40%が自分の意見を気軽に言えないと回答。ギブソンとサザーランドは、「自分の意見を言うことを心配している民主党員の割合は、自己検閲を行う共和党員の割合とほぼ同じで、それぞれ39%と40%である」と報告している。
この増加は特に教育を受けた層の間で顕著である。研究者らは次のように報告している。「自己検閲に従事する人々が限られた政治的資源を持った人々ではないことも注目に値し、おそらく予想外である…自己検閲は最高レベルの教育を受けた人々の間で最も一般的である…この発見は、以下のことを示唆している。社会学習のプロセスであり、教育を受けた人ほど、自分の意見の表現を妨げる社会規範をよりよく認識している。」
興味深いことに、教育が自分の権力意識とマイナスに関連していることを示す示唆的な証拠がある。つまり、教育を受けていればいるほど、「自分が意見を表明しても、自分の意見はほとんど揺るがない」「自分の考えや意見は無視されることが多い」といった意見に同意する可能性が高くなる。
ミュンスター大学のリチャード・ラウ氏が率いる「他者の最良または最悪の見方:一般化された他者認識の尺度」というタイトルの論文を考えてみる。
研究者らは参加者に、ソーシャルメディアのプロフィールや動画に登場する人物を評価するよう依頼した。参加者は、「この人が好き」「この人は冷淡だ」などの発言にどの程度同意するかを尋ねた。その後、参加者は自分自身についてのさまざまな質問に答えた。
高等教育は一貫して、人々に対するあまり肯定的な見方に関係していなかった。この論文は、「人々の感情、行動、社会的関係を理解するには、彼らが他者に対してどのような一般的な見方を持っているかを知ることが非常に重要です…人々がより良い教育を受ければ受けるほど、他者に対する認識は肯定的ではなくなります。」と結論付けている。
したがって、裕福な人々はステータスを最も気にし、自分にはほとんど力がないと信じており、仕事や評判を失うことを恐れており、他人に対してあまり好意的な見方をしていない。
つまり、意見は、その真理値に関係なく、ステータスを与えることができる。そして、自分の地位を維持したり高めたりするために特定の意見を表明する可能性が最も高い人は、すでに社会のはしごの上位にいる人でもある。
男を騙るテキストの特徴
まず最初に言いたいんだけど
俺は何かを騙るとか逆にそういうのを見抜くとかに関してならはてなの誰よりもぶっちぎりで上手い。
勝手にそう言ってるんじゃなくて、
俺が増田にあらゆるプロフィールで書いた七色の作り話において、本気でやった時に見破られたことは全くない。
わざとヒントを残しておくとたまーにポソッと見抜いてる人がいるけど誰にも注目されてない。
そもそもネット草創期にはそういう騙りとか看破とか荒らしとかの技術が滅茶苦茶発達した後に滅びたんだけど、
俺はその道の才能があったうえにガキの頃から好き好んで努力した。掲示板を荒らすのだけでも10年くらいやったから。
ネームバリューとか専門知識とかに頼らず純粋に文字で扇動するとかに関してなら
ひろゆきや切り込み隊長(なんでこのセットなのかというとそう言うところが発祥の技術だから)よりは俺の方が技術がある。
女が男を騙る時に暴力的な表現を採用するってのはそんなに多くない。そんなにって言うかまず無い。
なんでかまでは知らんけど、沢山観察してりゃこれはわかる。
女は男を騙る時に暴力とか露悪を採用することはほぼないし、それは賢明。
ちなみに男でも暴力表現は結構その人物が分かっちゃうところで、
喧嘩とかどれぐらいしたことあるか、いま肉体的な活動をどれぐらいしてるか、結構わかる。
喧嘩も運動もしたことないモヤシくんはちゃんとそうだとわかる。
だからそこで騙ろうとするのは相当愚かだし、女はそれはほぼやらない。
あと「はっ倒す」も流行りとしては結構古い言葉遣いで、俺の親父が好きなビートたけしの語彙を俺が気に入ってわざと現代まで使ってるのよ。
その相当変な語彙を、女が男を騙る時に採用するかあ?
俺なら「まずないな」って思うね。
妙に古くて気になる。ノリが昔のテキストサイトっぽい。
つーか、君は本当に答え合わせ付きでその手法で女の騙りを見抜いたことあるか?
無いと思うんだよな。
それ以前にさして日頃からそういうことに神経向けて文を読んだりしてないと思う。
「露悪的だから女だ」っていうの、いま思いついたんじゃね?
基地外じゃねーかこのまま喋ってたら。
俺の文章は普通の男のリズムとは違うと思うけど(だって書いてる量が100倍1000倍違う)
それは女だと言える根拠には全くならないだろ。
また口語のリズムなんて年齢や社会階層やクラスタや地域で全然違うからもっと広くいろんな人間の輪に入れ。
つーか君は本当に答え合わせ付きでその手法で女の騙りを見抜(略)
いやむしろ君の並べた中ではこれが一番強い。最もマシ。
他のは正直滅茶苦茶だけど、これはちょっと傾向としてはある。
君のプロファイリング法で加点がつくのはここ。
まず文中にも書いてるように俺にいまいち確信が無いから「みんなの意見はどう?」って聞きたいからなのと、
何よりこんな内容で実例として画像挙げてるわけだから、作者2人に対して悪いじゃん?
俺は俺の感想は自由な論評だと思ってるから別に引け目も反省もねーんだけど
別に各作品を攻撃したいとか各作者に嫌な思いさせたいわけじゃねーわけよ。
「これこれこういう理由で俺にとってnot for meで、こうなってる理由は①②③かと推理するけどどう?」
っていうのをただ提唱して人の意見を聞きたかっただけだけども、
その為には実例挙げるのは不可避だから画像は引用させてもらったわけ。
俺俺使いすぎ
あの文章で俺が俺がって強調してるのは「俺のお気持ちは」「俺の感じたところでは」だからだよ。
そこをあくまで「俺が」と断らないと実例に上げた作品自体がダサキモいみたいな主張になっていくだろ。
この文章でも俺の考えだよってわざわざ何度も断る意味でオレオレって言ってる。
「それはお前の感想だろ!」っていう意味不明な”反論”すげー来るんだぜ。今でも。
想像できないと思うけど男の一人称問題は大なり小なりデリケートな問題で実際もうちょい扱いが慎重になる。使い方が雑なので違和感がある。
えー
こんな文章では毎回変えるわ。
そろそろリアルとネットの区別をつけてほしいというか、君はあまりネットに慣れていないのか?
もっと偉そうなこと言えば、俺ははてな民みんなから賛同を受ける文なんか幾らでも書けるわけよ。
彼等の観念のちょい上の洞察を提示しながら漫画を否定するだけ。出来る出来る。簡単簡単。
でもこの場合にそれをやって満場一致で「そうだな!この漫画キモい!」ってなったらそれこそ作者に対して酷いだろ。
俺のほうも別の脳による考察や反論が欲しくて書いてんだから同調されても書いた意味がなくなる。
だからもうはっきり言っちゃうと、不同意や反論を誘うような書き方をしてんの。
ねっ?ねっ?そうだよね?って。
曖昧な根拠の怪しい主張をこれぐらいのプッシュ度で書くと沢山反論がもらえるんだよ。
反論沢山きたろ?
おれにはマジでキモいとしか思えないあの男(どのエピソード見ても仕草や表情や思考の一つ一つが俺には癇に障る)が
あどけない可愛さだと言ってるブクマカが結構いて、それもどうも女ブクマカに多い。なお作者もたぶん女。
「うえー、マジかー」って思ったけどこういうコメント貰えたから書いた甲斐があるわけ。
自分に同意してるブコメより不同意のブコメと会話する方が楽しいだろ。
俺のそういう配慮の結果のこの弱弱しいふにゃふにゃした書き方を
「同意を求めている!女だー!」っていうのはまー弱くね?
君の根拠の中では一番強いけども。
ただ女はリアルでは同意を求めてくる傾向あるけど文章だと必ずしもそうでもない。
そもそもなんか君は付き合いのある男の階層というか学歴というか何かが偏っているというか
相当狭い「常識」「相場」を築き上げてしまっているように見える。
俺もインターネット戦士時代に身に着けた「相場」観は持ってるけど
それは君の何百倍も観察して努力して培っているしそんな直観だけで何か看破するってことはしない。
君のはなんらかの分析や洞察ではなく「僕の付き合いのある狭い範囲の男のリアルの振る舞いと違う」と言ってるだけ。
ぶっちゃけ俺が漫画の感想をボケ―っと書くと「女だ」って言われることすげー多い。
コンテンツを見る場面においては心が女なのかもしれん。
漫画も女作家のものの方が好きなんだよね。それははっきり自覚ある。
だってラブコメとかもさあ、男性作家が書いてるともう考えてること全部わかるのよ。
もうここまで来たら遠慮せずに具体例まで書かせてもらっちゃうけど、
山本崇一朗の漫画全て、絵は可愛いけどキャラは全く面白くないわけ。俺には。
全部わかるし意外性皆無だし、なんなら自分で描いた話を自分で読んでるレベルのつまんなさがある。
そこへ行くと女性作家が描いてる恋愛とか女キャラは、どうしても俺の発想や感性の外だなって部分が出てくる。
それが面白い。踏み込んだ言い方をすればリアルの恋愛に似てる。
異質感や他者感。
男が描いてる女キャラは俺には見え透いちゃうから面白くねーのよな。
で少女漫画は本物のマニアと比べれば全然読んでないけど、まあ読んでる。
「うるわしの宵の月」は絵の良さの方が大きいけど、男キャラも女キャラも女が描いてるものの方が俺には面白い。
(で、俺が男を騙ってる女なら、「うるわしの宵の月」の話なんかすると思う?
よほど不用心なマヌケじゃなきゃ出さないだろこんなタイトルを。つか少女漫画全般を。)
ブコメに出てきた「君に届け」は風早君がそこまで理想的じゃないダサいところのある高校生男子って趣向だったと思うけど
「直で告白してこない女はNG」とかのあいつの心の狭さが俺には嫌だった。
どうでもいいことで相手の心を否定的に深掘りして道義的な大減点ポイントとして裁いて気持ちよくなる心理。
男にもそういう奴いねーとは言わないけどやや女に多い。
どっちにしろ断る癖にそういう風に相手を責めるようなこと言い出す風早嫌なやつやなーってすげーカチンときた。
それぐらいのことは鷹揚に受け止めるのが男であって、
風早があんなコセコセしたやつなのはキツい。俺もうとにかくあいつ嫌い。
正直「君に届け」は面白いとこまで限定でもそこまで名作とは思えねーわ。
俺の得意分野だから「その見抜き方はちょっとどうかと思う」ってことを説明したくてグチャグチャ書いたけど
俺の書いたものに色んな反論してくれたり、人物像まで推理してくれてちゃんと文にして主張してくれたり、
そういうの全部歓迎だし有難いと思ってるよ。
俺むかーし特定作品を褒めたらガバガバ根拠で「これは作者だ」とか言うクソ推理を披露されたことあって
んなわけねーのがわかるような文を書いたうえでギタギタにバカにして罵った記憶があるけど
俺が男だとか女だとかは誰の迷惑にもなんねーもんな。
あと余談だけど
作者の性別を気にするとすぐ「偏見だ」「性差別だ」「そんなこと気にするな」みたいなこと言ってくる奴いるんだけど
いや女性作家の作品の方が面白い可能性高いんだから俺にとって作者の性別は重要なのよ。
実際性別が違えば見てきたものも思考も違うんだから、それは作品に影響するに決まってんじゃんな。
性別が影響しないとか言ってる方がどうかしてるというか、建前主義が行き過ぎてると思う。
増田での釣りは、よほどあからさまなものでない限り成功するので、増田での成功体験はあまり自慢にならないと思う
2023/08/19
2点あるんだけど
まず俺はそんなのとは質も量も全く違う。
もう一つとして
作り話でブクマ300~500取るのは俺には簡単でもこの人や☆つけてる人に簡単かは別の話だよ。
できらあ!って本気で思ってるなら10回ぐらいやってごらんよと思う。
俺は「出来る」とか「簡単」とか豪語することについては何度とない実践と実績があってそう言ってる。
この人もたくさんそういうことを実践した上で「自慢にならない」と豪語してるならまだいいけど、やったことなくてこんなこと言ってるなら人生に臨むうえでの悪い癖だと思う。
araikacang 匿名の書き込みと書いた人物のリアルな属性を、傾向を知るのに充分な数で確認したことあるやつなんていないだろ。本人が見破られた事ないのも、他人の手法を知ってることにはならないからなぁ…。
2023/08/19
属性がわかってる文章をたくさん集めて読む、写経する、その書き方で延々何かを書く、と言う修行をするから。
もちろん収集物の中に騙りが混ざってる可能性はゼロではないけどそれは沢山やってりゃ問題にならなくなる。
俺からすれば殆どの人について思うのはやってる量が足りないってこと。
ysksy “俺が増田にあらゆるプロフィールで書いた七色の作り話において、本気でやった時に見破られたことは全くない。” コピペにマジレス全開な増田でそれ誇られても…
2023/08/19 リンク
そんな一回や二回じゃないから。
10回やってみなって言うのはそういう話で、
何の分野でもそうだけど「それはこうやれば簡単」と豪語する未経験者は10回やってみるといい。
たぶん1回目で躓いて全然思ったように出来ない。
3回なんか全然できない。
みんな10回にトライする前に投げ出すんだけど
一握りの投げ出さずにやり切った人間はやる前とは別人になってるし考えも変わる。
これ何言ってるかわかんないとすれば何ごとも10回やったことがない人。
parrying 大きな嘘をつくと小さい方の嘘は見逃してもらえるメソッドあるよね
2023/08/19 リンク
それは小手先の技としてはあるけど、
結局作り話はディテールに始まりディテールに終わると俺は思ってる。構成や流れで押し切るのは美しくない。
narukami 主観に主観をぶつけられてもいずれも等しく読むに値しないというか……いやまあここはお前の日記帳だから好きにしたらいいんですけども…… 増田
2023/08/19
俺を女だと主張した増田は当人なりの看破のメソッドや論理を披露している。
だから俺も「ここはおかしくない?」「ここは違うと思うよ」と具体的な反論が出来るわけ。
俺の反論も主観ではわからない・書けないことを結構披露している。
別にどっちを信じてもどっちも信じなくてもいいんだけど
これが主観と主観のぶつかり合いに見える人はそもそも主観の意味を分かってないと思う。
ていうかここまで読んできても俺が女に見えてる人が居ればそれは
直観が相当頓珍漢って言うのに加えて「一度持った着想を捨てられない」という性格があると思う。
これは結構よくある性格で推理とか勝負とかを大きく誤るのは大体これ。
ニュースでも何でも自分が直観持ったこと書き留めておいて後で必ず答え合わせをする。
これを地道にやってれば自分の直観の的中率がどの程度かとかどういう偏見があるかとか自覚するようになる。
これをやってないと殆どの人は都合悪い結果を忘れて自分の直観の的中率を過大評価する。
"俺は何かを騙るとか逆にそういうのを見抜くとかに関してならはてなの誰よりもぶっちぎりで上手い" ここでこっちが恥ずかしくなってきて先を読めなかった…背中がむず痒い。こういうのは小学生の頃に卒業してくれ…
2023/08/19
いやそこは譲れないっていうか俺は十一人の筆頭だし実質的に増田の王だから。
もしも獲得ビューとかブコメ数とか出したらぶっちぎりだし、あれもこれも全部俺だぞ俺。
そもそもモノの価値がわからない殆どの人はこの騙りや看破を子供じみたアホみたいな遊びだと思ってるんだろうけど、
令和5年でも全く時代遅れになってもいないし、
表向き伝承者が途絶えてるだけで今でもこれはバリバリに有用な技術だよ。
俺は殆ど大量の作り話して遊ぶことに使ってるけど、
逆にそれを潰すとかが出来る。
気に入らないネット論客()の威信やメンツをペッタンコにするなんてことは問題なく出来る。
noteを売って盛んに感想をRTしてるようなタイプは特にそれがやりやすい。
近づきやすいし反応を確かめながら何に反応した何に喜んだ何にオヤという反応をした、って情報収集できるから。
いい加減な文を書いてnoteにして稼ぐとかはいくらでも出来る。
まあこう説明してもその価値すらピンと来ない人が99%だから俺も誰にも伝承したことがないんだけど。
スジのいい人間で教えてくれって来たら喜んで全部教えるんだけどまあ来ないだろう。
本当に重要な技術はただで教えるといっても興味持たないのが人間よな。
たぶんいろんな世界で同じことありそうな気がする。
嬉しい反応があった。
これ元のラブコメ増田とは別人の釣りだね。ラブコメ増田に比べて文章が達者過ぎる。
これぐらいわかってくれると嬉しいんだよな。
よく見ている。
そうだよなかなか難しいんだよ。でも俺だ。
反論が沢山欲しかったのがひとつ、実例として使った2作者への配慮がひとつ。
あとどういう文が「反応されやすいか」については総合的な状況で全然変わる。
それにしても君はよく見ることが出来てる。
SとBの素晴らしく、深く情熱的で、真に博学な本書の深い意義は、ポストモダニズムの代表的な理論家たちの偽物の宝石に本物の光を当てることで、クリステヴァのような知的策略が生き方になってしまった人物の影響下で、この30年間に人文学の学問に何が起こったのかを示したことである。これは重要な道徳的行為であるが、SとBはこのような僭越な行為とは距離を置くだろう。大衆映画の新しいラカン的読解を提供することで、西欧文明の権力構造を破壊していると信じている人たちだけに許されるべきだと判断しているのだろう。
ともあれSとBは、ジェームズ・ドレイクが指摘したように、人文科学における不正行為がどの程度制度化されているかを明らかにするという、気の滅入るような作業に決定的な貢献をした。科学の不正はニュースになるほど珍しいものだが、人文科学の不正はエピソード的なものではなく構造的なものであるため、ニュースになることはない。ソーカルの有名なデマ(本書の付録)の秀逸な点は、パロディにした作品がまさに詐欺的であった点である。ソーシャル・テキスト』誌の編集者たちがひどい仕打ちを受けたと感じたのも無理はない。自分たちを学界の笑いものにしたこの論文は、何十もの同じような雑誌に毎月毎月掲載された何百もの同じようなゴミの塊と何ら変わりはなかったのだ。グローバルな主張、事実証拠の欠如、支離滅裂な論理、科学利用の誤り、真の知識や理解に裏打ちされない表面的な博識--これらはすべて、ポストモダンのアカデミズムの世界では常態化している。そして、殺人罪から逃れるのはとても簡単だ。カタ・ポリット(SとBより引用)が述べているように、「ソーカル事件の滑稽さは、ポストモダニストたちでさえ、互いの文章を本当に理解しておらず、ユリ根を伝って濁った池を飛び移るカエルのように、馴染みのある名前や概念を次から次へと移動させながらテキストを読み進めていることを示唆している」(p.194)のである。
SとBのエピローグには、ポストモダン理論によって自然科学が収奪されようとしている悲惨な試みについての、興味深く重要な考察が数多く含まれている。SとBは、「なぜこのようなことになったのか」と考えている。(a)経験的なものの軽視、(b)社会科学における科学主義、(c)これと相関する自然科学の威信、(d)社会科学の「自然な」相対主義、(e)科学的テキストを扱うのに不向きな伝統的な哲学や文学の訓練。最も有益なのは、「学際性が今日の秩序」であることを認識し、科学を人文科学に取り入れることで得られるかもしれない利点を認めた上で、彼らの調査から引き出されるかもしれない教訓のいくつかを挙げていることである。ポストモダン理論が教えられ、クリステヴァのような人物を崇拝する人文学部の壁には必ず貼っておくべきだろう:
1.自分が何を話しているのかを知るのは良い考えだ。
2.曖昧なことが必ずしも深いとは限らない。
自分自身にも他人にも嘘をつかないこと、あるいは学生や仲間、読者、そして知的コミュニティ全体の信頼を裏切らないこと。文化批評や人文科学の分野では、生徒や仲間を欺くことは非常に容易であり、学際的研究の分野ではさらに容易である。
SとBの後、学際的人文学のポストモダン理論家を続けようとする学者たちは、まず『知的詐欺』を読み、世の中の混乱と不真実の量を増やすことが、命の賜物の良い使い方なのか、あるいは生計を立てる倫理的な方法なのかを自問すべきである。『SとB』の後では、ポストモダン理論の創始者であるペテン師の後を追って築かれる華やかな人生には、あまり心地よさを感じないかもしれない。あるいは、私の友人であるロジャーに続いて、不動産仲介業に就くかもしれない--ただし、そのような職業に就く道徳的な厳しさに耐えられるかどうかは、事前に確認しておくべきだが。いずれにせよ、今後数年間はポストモダニストでいるよりも、不動産業者の方が少しは快適かもしれない。というのも、『SとB』の後には、「セオリー」の提唱者たちを悩ませる亡霊が現れるからだ。ポストモダン理論の巨人たちが、あれほどまでに牙を剥いた哀れな真実。それはカムバックを果たそうとしている。だから気をつけろ。
子供の頃、私は数軒隣に住む若者と仲良くしていた。一緒に自転車に乗ったり、荒れ地で銃撃戦をしたり、火をつけたり、スクラッチクリケットをしたりしたものだ。しかし、互いの興味が異なる方向に発展したため、別れることになった。恨みはなかったし、実際、多くの善意が残っていた。ロジャー(彼の家族のために伏せておくが、これは彼の本名ではない)は、私自身の発展途上の知的興味をまったく共有しなかったし、私は彼のヨットに対する愛情をまったく感じなかった。ある晩、母が『リバプール・エコー』紙に掲載されたロジャーのインタビュー記事で、彼が本当に情熱を注いでいるのは「サイバネティクス」だと語っているのを目にしたとき、私は驚いた。私は彼を誤解していたのだと思い、結局のところ、私たちは思っていた以上に共通点があるのだろうかと思った。次にロジャーに会ったとき、私は彼にサイバネティックスへの関心について尋ねた。私の無知は思い込みではなく、本物だった。恥ずかしながら、ロジャーもサイバネティクスの本質について無知であることがわかった。彼にとっては、サイバネティクスは単なる言葉だった。サイバネティクスは科学技術や未来に関係するもので、当時は華やかで話題になっていた。明らかに地方紙の読者を感心させるためのものだった。私はそのことを追及せず、その後、ほとんど会うことはなかった。最後に聞いたのは、彼が不動産業者としてうまくやっているということだった。かわいそうなロジャーは、自分の「サイバーネティックス」についてのコメントが、『リバプール・エコー』紙の読者に取り上げられる(「尋問される」、「問題視される」)とは思ってもみなかっただろう。これは不運だった。さらに不運なことに、彼はサイバネティクスへの言及を理由に人文科学のテニュアトラック・ポストを与えられることもなく、パリ大学の思想システムの講座も与えられなかった。
アラン・ソーカルとジャン・ブリクモン(以後SとB)の『知的詐欺』を読んで、私はロジャーを思い出した。ロジェと同じように、ジュリア・クリステヴァ、ジャック・ラカン、ジャン・ボードリヤール、ジル・ドゥルーズは、感受性豊かな人々に感銘を与えるために、微塵も理解していない用語を使う癖がある。ロジャーとは違って、彼らはそこから抜け出せず、またロジャーとは違って、無名ではなく、国際的な名声と世界中の一見知的な学者たちからの憧れで報われた。
長い間、ラカン、デリダ、クリステヴァらは、自分たちの思想と学問の名声、実に全知全能の名声を支え るために彼らが収奪した知識領域について、読者がほんのわずかしか知らないと確信して、殺人を犯して 逃れてきたのである。ミシェル・フーコーの風変わりな時代考証に注目する真の歴史家は、いたとしてもほとん どいなかった。分析哲学者たちは、たった一人の例外を除いて、デリダをJ.L.オースティンと言 語行為論の現代的意義について議論を交わすべき人物だとは考えなかった。
やがてポストモダンの理論家たちは、彼らが迷い込んだ分野の専門家たちの注目を集めるようになった。言語学者たちは彼らの言語学を見て、初歩的な誤りが散見されることに気づいた。例えば、デリダは記号全体とシニフィエを繰り返し混同し、何十万人もの従順な弟子たちもそうであった。この誤りは、デリダの研究の根幹のひとつである。他の言語学者たちは、デリディアンたちがソシュール以外の言語学について無知であることを面白がっていた。歴史学者たちは、フーコーの思想史に関するひどいバージョンを検証し、彼の広範な理論の土台となっている極小かつ風変わりな経験的基盤でさえ、文献的証拠と大きく食い違っていることを発見した。彼の時代区分--西洋史と「最近の発明」としての人間についての彼のビジョンにとって極めて重要--は、ほんの一例を挙げれば、正しいエピステーメーに適合させるためには、デカルトが死んだ後のある時期に生きていたことを要求することになる。実際、フーコーのエピステーメーとそれを隔てるいわゆるエピステーモロギーの断絶--彼に国際的な名声をもたらした本(『言葉と物』)の中心的な概念--が、いかなる歴史的現実にも対応していないことを示すのに、大した学者である必要はない。彼の時代の一つに当てはまるはずの名前が、他の時代ではぎこちなく活躍し、彼の時代を超越した学問領域は、彼が考えていた以上に数多く存在することが判明した。(彼が生きている間に、このことを指摘しようとした人は一人か二人いたが、コレージュ・ド・フランスの思想史教授に何を言っても無駄だろう)。おそらくフーコーは、言説を「われわれが物事に加える暴力」と表現したとき、自伝的に語っていたのだろう。いずれにせよ、ポストモダニズムの理論家たちが、その理論が偶発的に事実に汚染されたとき、いかに頻繁に事実を取り違えているかが印象的である(このことは、「経験的なもの」に対する党派的な侮蔑では説明しきれないほど頻繁に起こっているのだが、事実を理論に合わせて曲げようとする断固とした努力の結果であるに違いない)。(事実蔑視が証拠捏造の傾向と密接に関係しているのは興味深い。おそらく、真実--そして真実という概念そのもの--を憎むことと、誤りを愛することを結びつけることには、ある種の一貫性があるのだろう)。ポストモダンの理論家たちによる哲学思想や哲学思想史の誤った表現については、最も詳細な批判的検証が行われている。プラトン、デカルト、フッサール、パイスといった主要な人物について、ポストモダニストたちが自説を支持するために述べていることを検証してみると、主要な人物の孤立したコメントが「西洋思想」の巨大な塊を意味するように仕立て上げられていることが少なくない。
それなら、このゲームはとっくに終わっているはずだ。これは、テリー・イーグルトンによって示唆されている。最近、ポストモダニズム理論に敵対心を抱いたことから判断するに、彼は、巧妙な資金が動いていること、そして今こそ、仲間との旅行や協力から抵抗に切り替える時かもしれないことを察知したのだろう。(とはいえ、無批判だが儲かる『文学論』から手を引いたわけではない)。ポストモダニズムの「思想」を支える哲学的前提のいくつかに対するM.J.デヴァニーの壊滅的な批評(Since at least Plato ... and other Postmodernist Myths)に対する好意的な批評の中で、彼は批評家たちが何も知らない分野に「飛び込む」ことの危険性について皮肉交じりにコメントしている。批評家が「哲学に立ち入る」場合、次のようなことがある、と彼は指摘した。
パーティーで死海写本についてのちょっとした知識を披露して相手を感心させようとしても、後でその人が新約聖書の学者であることが判明するようなものである。(タイムズ・リテラリー・サプリメント1998年1月2日号2頁)
そして、M.J.デヴィーニーについて、「彼女はポストモダン思想の側面に、ポストモダニズムに対する哲学史の知識という著しく不公平な利点をもたらしている」と付け加えている。ポストモダン理論で(経済的にもそうでなくても)大成功を収めた人物に、労を惜しまない皮肉は似合わない。いずれにせよ、『リバプール・エコー』紙の読者から「サイバネティクスとは何か」と尋ねられたり、「サイバネティクスについて語る資格があるのか」と訝しがられたりするリスクが常にあるのは事実である。
では、勝負はついたのだろうか?ポストモダンの理論家たちの無能ぶりが暴露されても、主要人物や業界そのものにはほとんどダメージがない、というのが恐ろしい現実だ。イーグルトン自身が言っているように、ポストモダニズム産業には精神的・物質的資本が投下されているため、その重役たちは耳を傾ける余裕がないのである。リベラルアーツの学生で理論に出会わない者はほとんどいないだろうし、文学を学ぶ学生などその多くは、理論がカリキュラム全体を覆い隠している。どうしてこんなことが可能なのだろうか?
セオリーとその系列校の網の目のように張り巡らされた、セオリーを批判から守るためのプロテクトは実に厚い。何十万人もの英語科の1年生が、教師から「ロゴセントリック」な西洋哲学の概説を聞かされても、ほとんどの場合、プラトンもデカルトもハイデガーも1ページも読んだことはないだろう。また、彼らの教師や彼らを教えた教師が、プラトンやデカルトやハイデガーを読んだことがないことも少なくない。ポストモダニズムの哲学史を支持するために出される書誌は、プラトンやデカルト、ハイデガーの著作を除外していることが多い。デリダ、ラカン、フーコーなど、あるいは、デリダ、ラカン、フーコーなどの大衆化、そして彼らの知的子孫の著作がリストアップされるのである。言い換えれば、教師もテキストも、ポストモダニストの世界的な理解体系に取り込まれた思想家たちの思考を、生徒たちが信頼して受け入れなければならないような、その思想家たちとの関わりや知識、考察から、数段離れたところにいることになる。プラトンを読んだ学生一人につき一万人が、デリダが「西洋哲学のすべてを支配するパターン」としての論理中心主義についての有名な理論を打ち立てた『パイドロス』についての、間違いにまみれた説明を受けていることになる。
ポストモダン理論の事実誤認、経験的不備、論理的矛盾、説明の失敗を実証すれば、カード城を瓦解させるのに十分だろうと想像していた人々(私もその中に含まれる)は、理論家たちがこのように何重にも絶縁していることを考慮していなかった。われわれは、ソンムの戦いの前にハイグ将軍が、1週間にわたる砲撃と100万発の砲弾を浴びせ続けた後、ドイツ軍がイギリス兵に戦線の上を歩くことだけを許すだろうと予想したときと同じ過ちを犯した。そして、ヘイグの歩兵と同じように、私たちも無人の地で、60ポンドの荷物に事実や議論など役に立たないものを満載し、10フィートの高さの有刺鉄線の絡まり合いの向こうで、無傷の機関銃に向かってライフルを振っていた。ドイツ軍はソンムの戦いの前に2年間しか塹壕を掘っていなかったが、ポストモダンの理論家たちは30年も前から塹壕やトンネルや地下壕を造っていたのだ。また、沈黙というもうひとつの戦術も想定していなかった。反論に必要な宣伝を拒否することで、有効な反対意見の影響を最小限に抑えることができる。あるいは、第三の戦術として、他の者が欄干の上から頭を出すのを躊躇させるような獰猛な反論もある。セオリーを批判する者は、診断され、分類され、ステレオタイプ化され、嘲笑され、傷のなめあいに追いやられた。デリダがジョン・サールを侮蔑的に扱ったのは、デリダの軽率な火術の核心がいかにオースティンの単純な誤読にあったかを示すものであった。彼はサールの名前に注目し、「サール」と嘲笑することで、人格攻撃論法をさらに一歩進めた。この闘争的なアプローチの利点は、議論がスキャンダルの煙幕に覆われて見えなくなってしまうことだった。続く暗闇の中では、良い議論も悪い議論もすべて同じように見え、革命派と保守派、あるいは老いぼれたトルコ人と若いトルコ人の殴り合いとして全体を見せることができた。デリダがソシュールを使うことに疑問を呈する本1冊につき、何百冊もの本がそれを当然視し、学年末のテストで生き残るためには流暢なテオローア語を話せるようにならなければならない学生にとって重要であることを説いている。デリダは1000ものカリキュラムに載っているが、彼の作品に対する批判的な試問はほんの一握りにも及ばない。セオリーを教える者は、セオリーに対する批評に注意を向けるほど愚かではない。真に批判的な思考と真理の無関心な追求に熱心な学者(このカテゴリは超高齢のカテゴリである)だけが、反対意見に注意を向けることで自らの足を撃つような愚かなことをするのである。
これらの理由から、『Intellectual Impostures』の出版は、人文科学の未来にとって第一に重要な出来事である。その本質的な利点が非常に大きいことは別として、『ソーカル・ハックス』という素晴らしい著作が出版されたことで、学術界内外で大きな反響を呼んでいる。さらに、SとBはポストモダン理論の批評に新たな基準を打ち立て、「不真実の城」がついに攻め落とされるかもしれないという新たな希望をもたらしている。知的失政の領主(と淑女)たちに対する批判が、これほど徹底的に、これほど堂々と行われたことはかつてなかった。SとBは冒頭で、ポストモダン理論全体を貶めるふりをしているわけではないこと、あるいはその創始者たちの全作品を否定しているわけではないことを注意深く述べている。しかし、彼らの忍耐強く、静かな考察は、その具体的な使命をはるかに超えた意味を持ち、またその影響をもたらすだろう。学生たちが、理論に屈服した教師たちのドグマから外れた言説の世界をようやく認識し、反対意見にも公平な耳を傾けるようになり、本当の意味で勝負がつくようになるかもしれないのだ。
SとBは、ポストモダニズムを「啓蒙主義の合理主義的伝統の多かれ少なかれ明白な拒絶、いかなる経験的検証からも切り離された理論的言説、そして科学を「物語」「神話」「社会的構築物」以外の何ものでもないとみなす認知的・文化的相対主義によって特徴づけられる知的潮流」と定義している。SとBは、ラカン、イリガライ、クリステヴァ、ラトゥール、ボードリヤール、ドゥルーズ、ガタリ、ヴィリリオなどが数学、物理科学、テクノロジーについて語ったこと、とりわけ彼らが言語、文学、人間の精神、フェミニズム、現代文化などについての著作の中で数学や物理科学から借用した概念を用いたことについて、細心の注意を払って調査している。SとBは、これらの著名人が男女を問わずロジャーズであることを発見した。彼らの著作には、彼らが微塵も理解していない用語や概念が散見され、彼らの主張の見かけ上の力強さは、それに大きく依存している。彼らの読者は『リバプール・エコー』紙の読者よりも若干洗練されている(騙されやすさは変わらないが)ので、彼らが借りる用語は「サイバーネティックス」よりももっとリッチなものでなければならない。クリステヴァは数理論理学や集合論から、ラカンは数理論理学や位相幾何学から、イリガライは固体力学や流体力学から、ドゥルーズとガタリは微分積分学や量子力学から、ボードリヤールはユークリッド幾何学や非ユークリッド幾何学から、といった具合だ。しかし、博識に見えるのはまったくの欺瞞である。
例えば、ジュリア・クリステヴァの名声を確立したプロジェクト--詩的言語を構成するものは何かについての彼女の調査--を考えてみよう:
私たちにとって詩的言語とは、他の言語を包含するコードではなく、言語コードの無限性を表す関数phi(x1...xn)と同じ力を持つクラスAであり(存在定理参照、p.189参照)、すべての「他の言語」(「通常の」言語、「メタ言語」など)は、より限定された範囲におけるAの商である(たとえば、形式論理学の基礎である主語-述語構文の規則によって限定される)。例えば、形式論理の基礎 Permalink | 記事への反応(2) | 20:18
何かに噛みついてそれをボロカスに貶すことで成り上がってきたから
噛みつく先を常に探して、無ければデマでも根拠にして無理矢理どこかに噛みつき続けるのがホントに哀れでみっともない。
立ち上げた噛みつき芸人も、公式的には党から離れた今でも噛みつき芸から脱却できずに方々に噛みつき続けてるのが哀れ。
それで成り上がってきたから、それ以外に存在感を示す方法知らんのだろうなぁ。
「維新はようやっとる」の原動力は「皆の敵に噛みついて打破した」ということに尽きるので、今後もなりふり構わず噛みつく先を探し続けるのだろうし、どんなみっともない真似しても近畿圏に実害をもたらさない限り「維新はようやっとる」は続くのだろう。
梅村議員の件でどれだけ恥をさらしても近畿圏に何ら実害をもたらしたわけではなく、ただ維新の威信を自ら貶めてるだけだからな。
ゼレンスキーが、ウクライナが、「お国」(笑)のために戦ってると勘違いしてるその前提がまず間違いなんだよ。
ロックをわかってるなら、「自由」のために戦ってるのがなぜわからないのか?
「お国」の威信(笑)みたいなのにこだわってるのはロシアの側なんだが。
だからロシア側はウクライナの土地を自分の土地だと主張して侵略するが、ウクライナ側はあくまで専守防衛でありロシア側に攻めて行ったりしていない。
日本の過去のアジア侵略と、アメリカの過去の原爆投下を、真に反省するなら、世界のどこの国にも同じ過ちを繰り返させないと誓うべきなんだよ。
だからロシアを非難するのは過去に戦争犯罪をした国の人間としての責務なんだよ。
それを「自分の国も同じ事したんだからロシアを批判する資格はない」とか言ってたら永遠に戦争は無くならないんだが?
結局リベサヨって「日本とアメリカが嫌い」なだけで「戦争そのものが悪い」とは全く思ってないんだよな?
だから日本とアメリカがやった戦争は絶対的に悪いがロシアが戦争やるのは「仕方ない」とか言って擁護すんのな?
なにが「アメリカの犬」なんだよ?
アメリカの犬だと思われるのが嫌ならアメリカより先にウクライナ支援しろよ。
冷戦を終結させ核戦争の恐怖から逃れた人類が祝砲とともに迎えた21世紀が、よもや侵略戦争とそれに伴う核戦争の懸念に飲み込まれるとは誰が予想したであろうか。ここに至る経緯は長く複雑であって一冊の書物にさえ収まりきらないものではあるが、それが世に出るころには世間の関心は賞味期限切れを起こしていると思われるので、ここにその一部を記そうと思う。
そもそも、ウラジーミル・プーチンがウクライナの併合をもくろむようになったのはいつのことだろうか。すなわち、民族的ロシア人の保護というロシア社会における要求に甘んじず、かつてのロシア帝国的な全スラブ民族の庇護者というアイデンティティを確立し、ウクライナをロシアの範疇とするべく模索を始めたのはいつのことだろうか。これは遅くとも2019年にはその転換は生まれていると考えられる。冷戦の勝者であったはずのアメリカはトランプ政権の下で国際的な威信を低下させ、アラブの春以降に生まれた膨大な中東難民はヨーロッパ社会を疲弊させた。東に目を向ければ2008年の中露国境問題の解決をもって後顧の憂いを絶ち、和平条約こそ結べないもののクリミア危機をもってしてもなお対露宥和政策を維持する日本を見る限り不安要因とはなりえない状況であった。そして、ウクライナにおいてさえ、2019年の大統領選挙では対露強硬派のポロシェンコが敗退し、政治的には素人のコメディアン出身でウクライナ語さえ満足に話せないゼレンスキーが対露宥和政策を掲げて当選するに至ったのである。むしろこの時にこそ、プーチンがミンスク合意を超えたウクライナの併合という天啓を得たとしてもおかしくはない。彼の帝国に、およそ実現不可能な侵略戦争の妄執を諫める官衙が無かったことが、世界の悲劇であった。
ロシア軍の当初の作戦は様々な面で事前の調査検討が不十分なものであった。もとより実現可能性も実効性もない目標を大真面目に検討しろと言う方が無理であろう。とはいえ、杜撰な侵略作戦はいかにして作られたのだろうか。これにはおよそ二つの側面がある。一つは、計画立案の手間を惜しんで集団安全保障条約(CSTO)加盟国内で政変が起きた際の介入計画を下敷きにしている面。もう一つは、プーチン個人が気に入るであろう要素を加えることで、彼個人が満足するように作られている面である。このため、作戦計画はもとより無理のある要求に非現実的な企画で回答するという悪循環の産物と化しており、2022年2月の史上稀に見る大失敗に至るのは当然のことであった。
プーチンはこれまでに2回、親露派内閣の救援に失敗している。ブルドーザー革命で当時ユーゴスラヴィア大統領であったミロシェビッチを保護できず、またマイダン革命でもヤヌコヴィッチ内閣を支え切れなかった。これを踏まえ、CSTO加盟国内で政変が起きた際の対応計画は、かなり真面目に練られていた。そのうちの一つが開戦劈頭のアントノフ空港攻略作戦の原型になっている。原型となった計画では、クーデターなどによって親露派政府が打倒されそうになった場合、ロシア空挺軍部隊が首都近郊の空港を制圧して先行する特殊部隊とともに政府首脳部を保護し、これを空挺堡として首都や周辺の主要都市と軍事拠点を順次制圧していくという展開を想定している。
実際、ウクライナ侵攻の直前に起きたカザフスタン政変ではトカエフの要請を受けてロシア空挺軍によるアルマトイ国際空港を中心とした展開が行われており、一方の権力を奪われたナザルバエフは隣国キルギスに脱出し、カント空軍基地でプーチンが政権奪還を支援してくれるものと待ちわびていた。権力闘争の結果は周知のとおりだが、仮にトカエフがより反露的な人物であれば結果は違っていたかもしれない。
ウクライナ侵攻計画においても、親露派大統領に対するNATO とりわけアメリカ主導のクーデターが発生した際の対応計画を元に、少数の特殊部隊と大規模な空挺軍を利用したアントノフ空港の制圧とこれを拠点としたキエフ制圧計画が立案されていた。この作戦の致命的な欠陥として、クーデターであれば存在していたはずのウクライナ国内の親露派有力者、とりわけウクライナ軍部隊やウクライナ保安庁内の協力者からの援護が十分に期待できない点が挙げられる。計画上は確かに彼らが侵攻開始と同時に蜂起する想定になっていたのだが、ウクライナ国内の親露派の多くはロシア軍の本格侵攻を信じてはおらず、投下された膨大な準備資金は個人的な利益に帰してしまった。さらに、開戦直前に至るまでアメリカによる情報公開攻勢が行われたため、ウクライナ国内の親露派との連絡調整を職掌に収めていたロシアFSB第五局は情報漏洩を恐れて正確な開戦日時を伝達せず、結果的に2月24日は(開戦日は教えてもらえると思い込んでいた)親露派に対する奇襲となってしまった。この、事前連絡のない開戦とロシアによる一方的な協力への期待は、数字としては出ていないが、民族的ロシア人あるいは経済的恩恵といったものを背景とした親露派の翻意を大いに促し、以後のロシア軍を大いに苦しめることとなる。
また、本来であれば、制空権の確保と空挺堡の構築、地上部隊の侵攻は十分に連携の取れたものでなければならない。しかし、ロシア政府内では侵攻作戦がプーチンの「お戯れ」であるとみなされていたため、作戦計画の内プーチンが喜びそうな内容、具体的には前述のアントノフ空港への奇襲といった派手な作戦やウクライナ全土制圧後のロシアへの併合宣言といったハイライトのみが詳細に検討され、それ以外の点については何ら考えられてこなかった。例えば、アントノフ空港を制圧した空挺軍部隊と合流するためにベラルーシから地上侵攻を行う必要があるが、チェルノブイリ原発周辺の森林地帯を通過する際の計画は東部軍管区のある若手士官に図上演習の課題として丸投げされ、提出された素案を元に別の将校が大規模演習の名目で具体的な計画に起こしていたことがわかっている。想定された場所以外では戦闘や妨害が起こらず、また演習名目であったために部隊の移動は迅速に進むという前提で計画が確定してしまったことが、キエフの戦いにおいて裏目に出てしまった。同様にロシア海空軍も、地上軍との連携が乏しく長期の作戦計画が立案されていないなど、全面戦争を想定したものとは到底言いがたい状況であったのには、このような背景があったのだと見られている。
開戦前年にもロシア軍はクリミア半島などにおいて大規模な動員訓練を行っていたが、プーチンが本気であると知らない者には、これら人員物資の集積はあくまでウクライナおよびNATO に対する威嚇として理解されていた。事情を知る者は当初計画があまりに楽観的であることに懸念を示していたものの、FSB第5局の人員の多くは親露派ウクライナ人の協力が当然あるとして疑わなかったし、またある者はプーチンが本気でウクライナ侵攻を計画していると認識していなかった。何より、プーチン本人が自分に気に入られるべく作られた即興の作戦計画を「狙い通りに」気に入ってしまった。平たく言うと、ロシア軍としては侵攻計画の前提となる環境整備は対外諜報活動を所管するFSB が行うことが大前提であり、しかしFSBはその軍事侵攻に十全な準備をできていなかったのである。本来なされるべき長期的な見通しの欠如は、未だにロシア軍を苦しめている。
もう一方のウクライナ側の防衛計画についてはどのようなものだったろうか。戦前、ウクライナ政府および軍が想定していたロシア軍の侵攻計画は以下のようなものであった。まず、ドネツク・ルガンスク両人民共和国(D/LNR)との停戦ラインにおいて大規模な衝突を起こす。これを受けてロシア政府はウクライナ政府に即時の停戦と撤退を要求する。ウクライナ政府が拒否した場合「ウクライナ軍による民族浄化作戦からのロシア系住民の保護」を名目にロシア軍による大規模な空爆を行う。空爆によってウクライナ政府が降伏しない場合、地上軍による侵攻を行い、かつてノヴォロシアと呼ばれていた民族的ロシア人の多い地域を制圧する。これらの地域はD/LNR と同様にウクライナ国内の(EU やNATOへの加盟を拒否できる)自治州として温存し、長期的にはこれらを通じてウクライナを間接的に支配する。このプロットは明らかにコソボ紛争における欧米の介入の経過をなぞったものだが、ウクライナ軍はプーチンの個人的な欲求からNATOに対する当てつけとしてこのような展開を望むと考えていた。ロシアが率先してウクライナに侵攻するのではなくD/LNR が優位な戦況を作り支配地域を広げる体裁をとることが国際的な批判を回避する方策であるため、国際社会による仲裁を拒否し民族浄化を続けるウクライナへの懲罰的攻撃という方便を生み出すよう布石を打っていくのである。前提として、ウクライナ国内でクーデターのような政変が無く、ロシア側からエスカレートを仕掛ける場合を想定すると、このような順で進むと想定するのは合理的である。
問題はこれがどの程度のスピードで進むかであるが、ウクライナ軍の想定ではコソボ空爆と同様に開戦から地上侵攻まで最大3か月程度の時間的猶予があると考えていたようである。今を思えばのんびりした想定であるが、ロシア陸軍の各部隊は徴集兵を少なからず含んでおり、これらは法律上ウクライナへ派兵できないため、全面的な戦争を始めるには予備役の招集と訓練が必要であると見られていた。したがって部隊の充足率を高めるのに必要な時間がある程度は期待できたのである。このタイムラグの間は空爆とドネツク・ルガンスク両州が主な戦場となる。そこで、ウクライナ軍としては東部に陸軍の主力を集中させてD/LNRとの停戦ラインを堅持することで大きな損害を与え、ロシア軍本体が参戦するまでに東部戦線を安定化、あわよくば地上侵攻を思いとどまらせるという方針が定まっていた。また、この時、クリミア半島やベルゴロド州からロシア軍が侵攻してくることが考えられたが、ここは動員した予備役や領土防衛隊で国境線を維持することとされた。長期的な見通しはさておき、ウクライナ軍にとって主眼はあくまで東部戦線であり、停戦ラインから20km の範囲で多数の陣地構築を行っている。隣接するヘルソン、ザポリージャ、ハリコフの各州での陣地構築は開戦後住民の避難と並行して行う予定であったと考えられる。
もし、開戦に先立ちウクライナ軍が上述の想定の元東部戦線への戦力の集中を行っていた場合、図らずもがら空きのキエフへロシア空挺軍が殺到していたことになる。では、ウクライナ軍はどこで引き返したのか。最も有力な説は2月21日のロシアによるD/LNRの独立承認の直後であろうというものである。前述のような経過をたどるには、D/LNR がウクライナの一部という立場のままロシアがミンスク合意の履行を強制する状況になければならない。両地域の独立を承認してしまった場合、D/LNR や民族的ロシア人が優位な支配地域を中心とした間接的なウクライナ支配という筋書きと整合しなくなる。また、東部戦線におけるD/LNR の攻勢が想定よりもだいぶ弱く、ロシア軍が両地域へ展開している部隊数も想定をかなり下回っていることから、ウクライナ軍では当初想定とは異なる侵攻計画がある可能性を認めざるを得なくなった。この時、米国からの情報によればロシア軍の侵攻計画は長大な国境線での一斉攻撃であった。残念ながら、ロシア軍が主体的に全面侵攻を仕掛けるという情報をウクライナ軍は信じることができず、さりとて東部戦線へ部隊を急派する必要もない状況を踏まえ、ウクライナ軍は部隊移動を取りやめ、部隊位置を秘匿したうえで数日待機、すなわち様子見することとした模様である。結果的に、キエフ周辺には開戦直後のホストメリ空港を一時的にせよ防衛するのに十分な戦力が残っており、第一機甲旅団はチェルニゴフ州でドニエプル川左岸を防衛することができた。一方で、南部においては部隊移動が混乱をきたしてしまい、クリミア半島との境界に当たるペレコープ地峡からメリトポリ付近に至る広い範囲で守備部隊のいない状況となってしまった。もしこの地域を担任する部隊が移動前であったならば、事前準備の不徹底なロシア軍の南部からの攻勢すら頓挫していた可能性がある。
元東京地検特捜部副部長の若狭勝弁護士は今後の焦点について、「4人のうち、1人でもいいので話をしてくれる人間が確保できるかが、今後の捜査の鍵になる。こうした組織犯罪のケースでは、1人が話すことで展開が変わることがある。別の容疑者が『あいつが話したら、俺の罪は重くなるじゃないか』と疑心暗鬼に陥る可能性があるからだ。口裏合わせは念入りでないとぼろが出るし、逆に微に入り過ぎてもほころびが出る。決して崩せない壁ではなく、警察は威信にかけて捜査に全力を挙げるはずだ」と指摘した。
https://twitter.com/7QAJlk4GwYbw9NI/status/1618205072013553665?s=20&t=mSe2GXvlwerdBVFSpY7YfA
今回は5年前から毎日追わせていただいている明石六郎先生の最新コミカライズ「絶対に勝てない魔王と戦うとかやってられないので、一緒に召喚されたクラスメイトを皆殺しにすることにした」のPRツイート(上のURL)がかなり拡散されていて、これがめっちゃ嬉しいので明石六郎先生のオススメ作品を紹介していくぞ。
まずは明石六郎先生を知らない人が大多数だろうからプロフィールから紹介していく。
代表作は「地味な剣聖はそれでも最強です」「絶対に勝てない魔王と戦うとかやってられないので、一緒に召喚されたクラスメイトを皆殺しにすることにした」のコミカライズがある。
多くの作品の特徴としては、ファンタジーをファンタジーで終わらせない、異世界であってもそこに住む人々の性格や行動規範にリアルを追求、そして納得できる展開で常に読者の予想を上回り続けてくるのでめちゃめちゃ面白い
まずは処女作である「勇者を切実なほど必要としている世界」から。
この作品は、異世界召喚された一人の少年が王様から平和を乱す魔王を討ってほしいと頼まれる作品だ。
第1話から、「これは日本の健全な男子中学生への、敵国の王への殺害依頼、殺人教唆である」というリアルを読者に突き付けてくる。
普通、王様に魔王を討ってくれと言われて「これは殺人教唆だ!」と思うだろうか。言われてみて初めて「確かにそうだな」と増田は思った。
続いて第2話では魔王を倒す勇者を支える4人のヒロインが出てくる。
彼女たちの登場シーンも痛烈だ。
「ひゅるるるるるる……」
「ここここ」
「ぬぅううううう」
「あああああああああ!」
そこに並んでいた四人の乙女。彼女たちは皆、明らかに火属性やら水属性やらの気配を漂わせているが、そんなことは些細なことだった。全員が身長2m以上、体重が100Kg以上ありそうな筋骨隆々の肉体。女神の加護云々を抜きにしても、熊ぐらいなら首をもぎそうである。
勇者を守り、世界を救うために、彼女たちはいかにして国家に鍛えられたのか、具体的には洗脳付き拘束具とドーピングで最大まで強化されたヒロインたちが出てくる。
世界存亡の前では個人の人権など尊重されないだろうという嫌なリアルが描かれている。
さて第3話ではついに魔王が出てくる。
具体的には、国家によって人体実験されまくって原型をほとんど留めていない魔王が出てくる。
社会のために、世界のために、庶民のために、それらを理由に異世界の勇者へ迷惑をかけないために、彼らはその威信をかけて魔王を滅ぼすか、封じるか、試行錯誤を繰り替えした。
ちなみにこの話のタイトルは「勇者を切実なほど必要としている魔王」である。
残り2話あるけど作品のオチに関わるのでぜひ自分の目で確かめてほしい、5話しかないからすぐ読み終わるし。
明石六郎先生の代表作ともいえるだろう。現在493話で連載ストップ中だけどいつか再開されるらしい、僕は10年でも20年でも待ってます。
あらすじは、「日本の学生だった主人公が神様のミスで死んでしまい異世界へ転移。最強になりたいということで神様から仙人への紹介状をもらって、そこで五百年間の修行を受けた」というなろう異世界系作品にありがちな導入となっている。
なんでも切れる剣を持つ者が最強か?
殺しても死なない者が最強か?
この作品は全てを否定する、493話とかなり長いがどうかご賞味あれ。
今回コミカライズされた作品「絶対に勝てない魔王と戦うとかやってられないので、一緒に召喚されたクラスメイトを皆殺しにすることにした」ももちろんお勧めできる。
この作品は1クラス30人ごと異世界召喚された中で主人公一人だけが魔王に忠誠を誓い、クラスメイト全員を殺していく物語だ。
第一章では、主人公がクラスメイトを殺すためにひたすら魔王に鍛えらえる。
恐らく魔王は主人公を簡単にパワーアップさせられるだろうが、主人公が苦しんだうえでクラスメイトと殺しあう姿を見たいために努力パートが挟まれている。
最初はただ死にたくなかっただけだった主人公は、なぜ苦しんでまで生きるのかを考えることになる。
彼が最終的に見つけたクラスメイトを殺すに足る理由はひどく凡百なものであるが、覚悟を決めるまでの過程はきっと心を動かしてくれる、話数もそんなに多くないのでぜひ読んでほしい。
タイトルは「虎の威を借る狐太郎~パラダイスから来た最弱一般人、モンスターの力『だけ』でAランクハンターに~」
今作の主人公は、モンスターパラダイスというゲームの世界に飛ばされてしまった悲しい一般人だ。
ゲームの世界は非常に過酷であり、簡単に主人公は死にそうになる。具体的に言えば仲間のモンスターたちが敵と戦った余波で心臓の鼓動が止まる。
そんな主人公は最弱でありながら異世界最大国家の英雄として出世していく、本人にとってははた迷惑なことに。
なぜ彼は最弱のまま英雄として祭り上げられるのか。彼の英雄性を象徴するセリフの中で特に好きなものを紹介しよう。
「……俺達は何もしてない。いいや、俺は何もしてない。だったらまあ……命を賭けるぐらいはしよう」
「俺達は怖いし、命を賭けている。でもあそこで戦っている人たちは、怖くて命がけで、しかも疲れて苦しくて痛いんだ。だったら、せめて怖い思いは一緒にしよう」
虎の群れの中にあって、主として居ることを認められた狐。
彼の生きざまをぜひ追ってほしい。