はてなキーワード: 機会平等とは
うーんとね、人が付いてくるかどうかっていうのは問題じゃないんだわ
今親ガチャやら教育格差やら文化資本の差を問題視されるのは「産まれたときから不平等」だからなんだよね。
その不平等は緩和ではなくゼロにしていくのが人道的観点から求められるんだわ
なぜ求められるかといえば、これを解消しないということは産まれてから成人するまでの間の約20年の格差を認めるということに等しい
これは機会平等だけでは解消しない。世の中の仕組みを根本的に見直す必要があるんだよ。
産まれてきた子どもたちを同じ条件で育てる。起きた問題はみんなで解決する。今まで以上に教育という並列化を密に進めて全員を高い水準に持っていく。そうして育った子どもたちは日本の将来を、ひいては世界の問題を解決する高い能力を備えていくだろう。
これを否定するということは20年に及ぶ間親の所有物として都合の良い使われ方をし、無駄な差を産み、分かちがたい溝を作る羽目になる。場合によっては所有者の都合で望まぬ労働を強いられることにもなるだろう。こういった省みられることのない不幸もなくすことができる。
フツーの人じゃとても住めない地域(カリフォルニア州サンノゼとか。年収12万ドルくらいだととても厳しい)で
これまた上級労働者レベルじゃとても買えない大豪邸に住んでる人らが心配していることが、
強盗で、強盗対策にプロテクションドッグが欲しいってなんだそれ・・・
確かに泥棒は金ない庶民のところではなく、金持ちのところに入れよとは思ってはいたが、要らないんだよなぁそういう機会平等は・・・
フツーの人が住めないエリアの大豪邸買ってもまだ勝ちではなく、24/365でSPおけるようになって、ようやく勝ちか・・・
日本が生きづらいらしい金持ち様はドンドン米国へ移住してくれて構わないぞ
あと大豪邸まではいかずとも、やっぱフツーの人が住めないエリアの戸建てに住んでる勝ち組のジジババじゃない人の死因が、
日本でジジババや基礎疾患がある人を除いて、ある一定以上の生活水準の人が肺炎で死ぬってまず無いんだよなぁ・・・
さすが機会平等のアメリカさん、経済的に厳しい人・生活水準が低い人だけでなく、すべての階層の人に平等にDeathチャンスだぜ・・・
自分の健康・丈夫具合には自信あったけどちょっと自信無くなったわ。生き残れるかこれ?
ニュースを見ても、SNSを見ても、「女性はこんなに差別されている!!」という意見ばっかりだ。
だから、女性がそれに同調してないってだけで、俺の中では評価が爆上がりする。
例えばだけど、女性が
「女に生まれて大変だったこともあるけど、男より色々と得してきた部分もある」
「今日では機会平等が達成されたのだから、アファーマティブ・アクションはあまり必要ない」
「女が社会進出できないのは、女自身が決めてきた選択の結果だ。女たちは夫が外で働いて稼いできてくれることに甘えている」
「女子が理系に行きたがらないのは、抑圧・差別というより、数学・物理を嫌いな子が多いからだろう」
「たわわ広告は許容範囲だ。職場のポスター掲示とは違って、あれは新聞広告なんだから閉じれば見なくてすむ」
みたいなことを言っているだけで、まともな人だなと思ってしまう。
この10年くらいずっと感じているのは、反差別と反貧困は非常に相性が悪い、もしくはジレンマの関係にあるということ。自分用にメモ。
差別に憤り、差別解消に強い関心のある人たちは、「男性」「日本人」を「強者」「既得権益者」と位置付ける。そのため必然的に、「男性」「日本人」の中にいる貧困や社会的排除(引きこもりなど)に対する関心や同情心は、相対的に弱くなってしまう。そうした問題は大したことではないと言っているわけではもちろんないが、怒りの熱量は差別問題とは開きがあることは否定できない。そのため、反差別の社会運動が盛り上がり、人々の関心や視線がそちらのほうに向けば向くほど、反貧困は相対的に関心が弱まってしまう。
反差別運動は、差別解消の手段として競争的業績主義には基本的に肯定的である。反差別運動が推進してきたアファーマーティブアクションは、まさに機会平等の保証と競争的業績主義の徹底化を目指すものである。しかし競争的業績主義は、他方では経済格差の正当化や貧困自己責任論などの言説を生み出す源にもなっている。なので反差別運動が盛り上がるほど、業績主義がもたらす格差や貧困への問題意識は弱まってしまうことになる。
『サンデーモーニング』に出演している安田菜津紀というジャーナリストをご存知だろうか。良心的な反差別運動の人で、非常に尊敬できる人だと思っているが、兄を過労で亡くすという不幸を経験しているにも関わらず、最近は反差別への熱量に比べて、労働の問題への言及が非常に少なくなっていることが気になっている。この事実に象徴的されているのは、差別の問題への怒りや関心が強くなるほど、労働や貧困の問題一般への関心が相対的に弱まってしまうという構造があることである。
逆に、反貧困・労働運動の側が差別に対する関心があるのかと言えば、はっきり言って弱いと言わざるを得ない。反貧困・労働運動の最前線にいる人のほとんどが暑苦しいほど「男性日本人」であることにも、それは象徴されている。
・親が社長やってるって生徒が全然いない。個人事業主の括りだと、医者や歯科医や税理士や1級建築士ばかり。多分、慶応普通部とか暁星とか賢くて社会的ステータス抜群の学校にはうじゃうじゃいたのだろう
・肥満体型の母親がマジで居ない。入学間もなく1回だけあった授業参観のとき気づいた。多分、食費に金かける余裕ある家しかないからだろう。
・専業主婦家庭かつ2人以上兄弟、って家の子が異様に多かった。一人っ子や共働きが全然いなかった。すでに共働き当たり前の時代だったのに、大半の奴が母ちゃん専業主婦だった。あと三人兄弟率がやたら高かった。そして自分だけじゃなくて兄弟も中学から私立ってパターンが大半。
・親が地元県庁や政令市とかの地方公務員やってる家の奴が皆無に近かった。国家公務員や国税もいなかった。大学教授も全然おらず。このへんは逆に公立トップ校とか私立御三家とかに多いのかもしれない。
・大半がサラリーマン1馬力家庭だけど、電通とか三菱地所とか全日空のパイロットとか、お前の父ちゃんよくそんな凄い会社入れたなみたいな家の奴ばっか。
・平均年収1000万円くらいと推定。中学のとき公民の先生が授業中に
「みんなは親御さんがほとんど年収1000万円以上はあるから、自分もそれだけ稼げると思ってるだろうけど、
この教室の1割……だから3~4人しかそれだけ稼げるようにならないからね。親くらい稼げるのが当たり前だと勘違いしてるなら将来ショック受けるから」
とか言ってたのと、変わらぬ顔ぶれの同級生たちと何年も付き合っていくうちに本当にみんなの家は年収1000万軽く超えてるんだろうなと思った。
・別荘持ちがどのクラスにも3人くらいいる。ただし、仲間がその恩恵にあずかれるのは大学入学以降というパターンがほとんど。
・その資本力をもってしても現役であれ浪人であれ早慶以上の大学にいける生徒は学年の3割程度。親が金持ちならよっぽどの低知能でない限りはほぼほぼ早慶以上確とか絶対ウソ。
・その早慶未満の私立大学に行った同級生の大半が東大生でもめったに内定貰えない一流企業(三井物産とか朝日新聞とか日本郵船とかデュポンとか)に平気で内定していく。
こういうレベルの企業って家柄を推定して採用するようなことやってるんじゃないかと内心で疑ってる。
中学3年くらいの頃、社会の授業で機会平等・実質的平等のくだりで先生が雑談がてら
「今世の中で、例えば中卒の人とかが就職試験の応募資格すらない会社が物凄く多いんだよね。
それから、病気とかが原因で生活保護を受給してる人が大変な経済的不自由を強いられたりもしてる。
みんなはこのことについてどう思う?」
ってみんなに問いかけた時に、
跳ねっ返りでもなく、性格悪くもなく、普通に友達多い爽やかな陽キャの同級生たちが口々に
とか
「そんなになるまで不健康になるのは本人がだらしないからしょうがないと思う」
とか
マジで澄んだ目で意見飛ばして先生が「いや、ちょっと待って…この人たちは何もみんながみんな自分のせいでそうなったわけじゃなくて」とか慌てふためいてたのが忘れられない。
LIVE HAUS店長のスガナミユウ氏が「誰が踏みつけられているか」と題するnoteを公開した。
https://note.com/yusuganami/n/n78c9b96cb4be
https://medium.com/@sos.yu.lh?p=8926b83122e
私は彼の所属するインディミュージシャンコミュニティとでもいうべき界隈に属しているが、周囲の反応は絶賛の嵐といって良い状況だ。noteのリンクを張ったツイートには大量のいいねとリツイートがあり、批判らしき反応はほとんど見受けられない。これはかなりマズイよなーと感じてこの文章を書いている。
まず、前置きとして、このnoteに対する私のスタンスを書く。ちょっと長いので興味がない方は適宜とばしていただけるとありがたい。なお、文中の”リベラル”とか”アンチリベラル”といった記載は一般的にリベラルっぽい仕草・アンチリベラルっぽい仕草と受け取られがちなものとでも思ってほしい。
「誰が踏みつけられているか」はスガナミユウ氏が選挙中の市民運動を通して感じたことを書いている。その内容の主題は、日本にはまだまだ差別や不平等(特に男女差別に着目している)が残置していること、そして特権的な立場にいるスガナミユウ氏をはじめとした「おじさん(大人のシスジェンダー男性)」への自省を求める内容である。スガナミユウ氏はこのnoteを「知り合いのすべての男性に読んで頂きたい」という文章を添えて公開した。もっと言えば、(男女間等において)日本に差別や不平等がないと主張する男性、あるいは女性やLGBTなどの差別のみがピックアップされることに不満を感じている男性を説得しようとする文章であるだろう。 何がマズいと感じたかって、このnoteはスガナミユウ氏の周囲に多い所謂”リベラル”思想に親和的な層には受けても、本来のターゲットであろう”アンチリベラル”な層からは反発しか生まないような内容になっていたからだ。スガナミさんとは親しくこそないものの何度か会話したことはあり、政治思想の差異こそあれど、頭が良く一定のバランス感覚がある人物だと思っている。彼は社会を良くしようと考え、実際に行動に移してきた尊敬すべき人物だ。そんな彼がこんな内側にしか向かないバランス感覚に欠けたnoteを書き、それが大絶賛されている状況は本当に良くない。近年勢力を増した過激なラディカルフェミニズムは強烈なバックラッシュを生み、ミソジニストを増やす原因となったと考えているが、このnoteはそんな流れの延長線上にあると感じる。
わたしは男女平等の実現を望む一人として、このnoteの内容を批判したいと思う。私たちは完璧でないがゆえに、時に差別的であったり配慮に欠ける言動をしてしまうが、個別のそれに対して苛烈な批判を浴びせるのは適切でない。なにより問題なのは、その問題がある発言を周囲が容認してしまうことだ。スガナミユウ氏個人を非難することにあまり意味はないが、このnoteを無批判に受容してしまうコミュニティは大変問題があると感じたのがこの文章を書くにあたった経緯である。
まず、なにより批判したいポイントは、氏の主語の広さである。冒頭で過去のツイートで『おじさん』や『女性』と太字でまとめたことを指して、配慮に欠けたと反省しながら、結局のところこのnoteは「おじさん(大人のシスジェンダー男性)」を特権的な存在として雑にくくってしまっている。
大前提として現代の日本社会は男性が有利な傾向にあることは私も同意する(特に経済的な側面において)。しかしそれはあくまで傾向の話である。割合は適当だが、例えば7割の大人のシスジェンダー男性は平均的なその他のジェンダーよりも恵まれているかもしれない。しかし残りの3割はより不遇な立場にあるだろう。傾向の話だけでも、シスジェンダー男性の平均が不利な傾向にある場面も多々存在する。死亡率の高い労働は男性比率が圧倒的に高いし、自殺率もホームレスの数も男性が上だ。職業的な話でも、例えば保育士になるハードルは男性のほうが圧倒的に高いだろう。当たり前ではあるが、切り口はジェンダーだけだはない。年齢・健康・容姿・性格・能力・人種、なんでも良いが差別や不平等を生む原因は無数にある。これらの意見は典型的な”アンチリベラル”の物言いだと感じるかもしれない。しかし彼らを説得したいのであれば当然このような主張に対する応答は必要なはずだ。なにより”アンチリベラル”が怒っているのは、”リベラル”が特定の差別や不平等だけに着目し、それ以外を矮小化・無効化しようとする態度だろう。ここを無視して「おじさん」は特権的な立場にあるとだけ言っても当然反発を生む。典型的に”リベラル”には受けるが”アンチリベラル”には説得的でない主張となってしまっている。ある側面における男性優遇を批判するにしても、それは慎重に対象を選ぶ必要があるはずだ。
次に批判したいポイントはバズワードになりがちな「平等」という語句をどのような意味で使っているかが何ら書かれていない点である。性差別に関する論争でよくあるのが、”リベラル”は(結果平等を指して)「日本社会において男女は不平等である」と言っているのに対し”アンチリベラル”が(機会平等を指して)「日本社会において男女は既に平等である」と言い合い、すり合わせもないまま不毛な罵倒合戦をやるパターンだ。氏は文中において、差別・不平等が残置されている例として選択的夫婦別姓・同性婚・LGBT平等法が実現されていないことを挙げているあたり、結果平等を念頭に置いてこの文章を書いているのだろうが、”アンチリベラル”の多くの反応は「法律的にはどれも男女間で差異が無いのに何を言っているんだ?」というものになるだろう。細かいことをあげつらっているように感じるかもしれないが、やはり対抗論者の考えを想定していない内向きの文章になってしまっている。そもそも例として挙げられている選択的夫婦別姓・同性婚・LGBT平等法をジャンダー感の不平等という文脈で扱うことに個人的にかなり違和感があるが・・・・・(ジェンダー間の問題もあるだろうが、それ以外のイデオロギーの違いによるものがよほど大きいのではないか)。
最後の批判として、氏が「おじさん」に対する差別に無批判な点である。私が気になったのは『みんなの未来を選ぶためのチェックリスト』の記者会見において町田彩夏氏が受けたマンスプレイニングに関して言及している箇所だ。記者のマンスプレイニングに対して町田彩夏氏が返した「あらためてこの場において、特定の、所謂、ある年代以上のおじさんたちが司っている”国会”というのは日本社会に重なるものなんだなということを実感いたしました。ありがとうございました」という発言はマンスプレイニングを行った記者個人の言動を広げて「ある年代以上のおじさんたち」一般に拡大した差別的な発言である。大前提として、私は町田彩夏氏を非難する気は毛頭ない。記者のマンスプレイニングは本当に酷いものであるし、その反論が皮肉交じりになって問題のある表現が含まれてしまうのは理解できる。氏の毅然とした対応にむしろ好感を持っている。前置きでも書いたが、私たちは完璧でなく、時に差別的であったり配慮に欠ける言動をしてしまう。個別のそれを非難しても建設的ではないし、重要なのは周囲でありコミュニティがそれを容認しないことだと私は考えている。このnoteがジェンダーの不平等を訴える内容である以上、この町田彩夏氏の発言に対しスガナミユウ氏が言及しないのは不誠実ではないだろうか。少なくともその非対称な振る舞いは”アンチリベラル”が反発する最もたるものだと感じる。
ここまで読んでいただけるとわかると思うが、「誰が踏みつけられているか」はとにかく説得対象である”アンチリベラル”的な考えを持った対抗論者の思考をトレースできていないと感じる。そして自分と同じ”リベラル”的な思想だけを考慮したこのnoteは”リベラル”内でだけ盛り上がり、”アンチリベラル”には反発され、結局のところ分断だけを生むものとなってしまっているのではないか。誰かを説得したい時には、賛否はともあれまず相手の主張を理解するところから始めるべきだろう。この「対抗論者の考えをトレースするのが絶望的にできていない」点は近年のリベラル勢力に多い典型的な欠点だ。上記の私の批判にも多々問題はあるだろうが、少なくともこのnote「誰が踏みつけられているか」が無邪気に賛同一色となるコミュニティは絶対に健全でないと思うのだ。なんだかんだと書いたが、私自身はどちらかと言えば”リベラル”に親和的な考えを持っている。スガナミさんの主張に賛同するところは非常に多いし、全体的に見て日本社会は男性優遇の傾向にあると考えている。しかし社会は多面的で、一概に男性、女性、LGBTとくくってしまえるような問題はほとんど無いはずだ。いまいちど”リベラル”は自分自身の思想を俯瞰して考えられるようにならないと、本当にマズイ。
・それらを女性に押し付けておいて子宮から産まれてくる男性は絶対の加害者
・それらの帳尻と過去に積み上げた罪の精算のために人類最後の日まで男性は奴隷であるべき
・女尊男尊を目指す
・それらの存在を認めた上で出来うる限りの機会平等のために男女がともに考える
・とりあえず男も育休とって育児やれ
・真なる平等
・あらゆる差別の根絶の手段が人類の絶滅だと結論が出たのならそれさえ受け入れろ