はてなキーワード: 市民社会とは
自分は、同好の士以外の人の目に入るところにエロ(R18じゃないが、エロ表現の文脈で作られたものも含む)があるのは気まずくなるタイプなんだけど、オタクってそうじゃないの?
気まずいということでいうなら、俺は子どもの頃に友人の誕生日祝いで失敗したことがあるから、アニメとかで誕生日を祝うシーンがあると気まずいんだけど、アニメやドラマで誕生日回やるなって叩いていいの? 毎回絶妙に恥ずかしいけど、いちいちそれを叩いたとしたら頭おかしいやつでしょ。
表に出ているとなんか気まずい、と、表に出るべきではない、って全然違う話じゃん? なんでそれを混同しようとするの? 馬鹿だから? 自由な市民社会が嫌いだから?
https://anond.hatelabo.jp/20220503215621
言及する必要が無い。人権に敷衍してこの問題を考えれば、プロライフ派になりやすく、胎児の人権、人間規定の恣意性と言う重要な問題を孕むこの問題を、女権拡大の意味合いからそれらの問題をまるっきり無視しているのがプロチョイス派である。
宗教的な頑迷が問題になるのは、宗教的な教義や信条が、近代法の根底にある人権思想、人権原理を毀損する場合であって、そうではない場合からのクレームは、単に個々人の思想信条に過ぎない。善意からであろうが悪意からであろうが法理的に矛盾があるのであればそれは矛盾があるのであって、個々人の内面の思いにフォーカスするのは、それこそ宗教的な悪魔化である。内心のことは証明可能性が皆無であり、相手を悪魔視してリンチしてやろうと言う下種な自身の心情をまずは問うべきではないか。
プロライフ派とプロチョイス派の争いは人権派と女権派の争いである。近代法に適合している人権派が、自らの内心の潔白を証明するべき理由は何もない。
無視していない。女性の身体自由権と胎児の生存権を比較して胎児の生存権により重篤な公益を見出しているだけである。
すでに体制にビルトインしているので女性は意識しない傾向にあるが、男性に対する法的優遇措置は皆無であるが女性に対する法的行政的優遇措置は多数ある。女性専用車両についても、その経済的負担は身体労働からの転換物であるので、より寿命の短い男性たちに「女性の権益のために奴隷労働を課している」と言う面が多々あるが、それらは公益のためには正当化され得る受忍限度内の責務とされているのである。
中絶の件は、一方に乗せられているのが生存権と言う極めて最重要な権利であるため、通常一方的に保護される立場の女性が、公共の福祉において市民的な負荷を課せられるべきであるというだけのことである。
昨今、問題になっているトランスジェンダーの扱いの件、ハーグ条約関連の問題、重要人権案件のほぼすべてが女権と人権の対立周りにおいて生じている。これは女権が人権に根差しているのかどうか、女性が市民社会の構成員としての責務を果たす覚悟があるのかどうかが問われているのである。人権に根差さない女権は人権を毀損するのでナチズムそのものである。
遥かに寿命の短い男性に課せられている負荷は受忍限度内とみなされるのであれば中絶案件も受忍限度内である。子を産んだからと言ってマクロでは女性の寿命は1年も縮まない。そもそも子を産むかどうか、それに至る行為をするかどうかの選択肢を与えらていての話である。
私は女子大学の存在は性差別そのものでありとても問題があるとは考えているが、男性である私が支払った税金を女子大学に注がない選択肢はない。
徴兵制がアプリオリに人権侵害と見なされていないこと自体が問題なのである。徴兵制の根幹は、不可避性である。逃げられないと言うことだ。
徴兵で生じる給与はその不可避性を正当化しない。また、「ならば妊婦にも給与をくれ」と言う言い草がナンセンスなのはことことからも自明であるが、母体保護法やそれ以外の立法措置、行政支援において、既に給与相当分は得ているとも見なせる。逃げられないのは無関係の第三者だ。
もしこのアナロジーで男女対立を煽るのであれば、それは中絶の問題ではなく「産む性」としての保護優遇を女性が得ていること自体が問題視されるべきであろう。そして「負担をイーヴン」にするのであれば、産まなかった女性たちは、徴兵忌避者や脱走兵がそうされるように収監されたり銃殺されることを甘受すべきであろう。
それらの反論がまったく成り立っていないのは、そもそも不可避性を満たしていないからだ。
食べて働いて眠って、だけであれば絶対に妊娠しないのである。妊娠することをしない限りは絶対に妊娠しないのだ。
それでいうならば徴兵制は中絶禁止よりも「ひどい」と言うことになる。そして徴兵制のアナロジー自体は今も公式非公式に残っている。「男は女を守れ」と言う強制である。
『男性にも罰を与えよ』
与えればいいじゃないか、としか思わない。ただそれは妊娠した女性vs妊娠させた男の間で発生するものであって、どうぞ好きに民事裁判でも何でも起こしてください。現行法でも可能だ。
中絶のコンフリクトは妊婦と胎児との間で発生するので男は、胎児にとっては無関係、というだけのことである。
※元記事は間違いなく私が書いたものであるが、私は5/3には記事は書いていない。つまり現在ブクマされている元記事は赤の他人が私が書いた複数の記事をまとめて、再アップロードしたものである。
フェミニズムを巡る疑念、糾弾、齟齬の根幹は、結局はそれが「女権のみ拡張主義」であるのが普遍的な人権思想に根差しているのかによる。「○○のみ拡張主義」はナチズムが「アーリア人の権利のみ拡張主義」であったように最悪の結果をもたらすし、それによって公共が左右されることはファシズム以外の何物でもない。
この種のフェミナチたちは、誰かが対抗理屈(と言うか対抗屁理屈)を発明するとそれに群がって考えもせずに多用し始めるが、これが問題であるのは、「○○のみ拡張主義」で公共を左右しようとする試み自体がナチズム/ファシズムとして糾弾されるべきだからであって、常に公共への働きかけは普遍的な人権思想に基づく公共の福祉の調整でなければならないからである。
つまり普遍的な人権思想に根差して、公共の福祉の調整と言う観点に基づかない権利主張はすべてファシズムなのであって、他者に対する人権弾圧である。
これが「女権のみ拡張主義」「ならば男性は男性で自分たちで男権を主張してください」の人たちが言葉の正確な意味合いにおいて社会害悪であり、積極的に排除されなければならない根本的な理由だ。また、これが世界の主流派フェミニズムが急いで、ユニヴァーサリズムに方向転換しようとしている理由でもある。
ナチズム下においては、人権の定義が大きく制約されることになった。通常の殺人の範囲に含めないことでユダヤ人の大量虐殺は可能になったのである。
従って、アフターナチスの世界で求められるべき「人間」とは定義が恣意的な意図によって左右されない絶対性によって規定されるべきであろう。死刑廃止運動とはまさしくこの観点から為されている。死刑囚の人権擁護のためではなく、「人間」の不可侵性を守ろうとする思想である。死刑廃止運動においては、このことを理解しているリベラルが中絶の問題になれば、まったく態度を翻すのは理解しがたいことである。
人間の定義には政権やイデオロギーの恣意性に基づく冗長性があってはならないのであって、アプリオリに絶対的なものでなければならい。
現在は、胎児は「全身が母体から出てからが人であってそれ以前は物」と言う考えが主流であるが、これは恣意性そのものの定義である。例えば頭部のみが出ている段階で、赤ん坊をナイフで刺せば器物損壊罪で、1秒後に全身が出たところで刺せば殺人罪と言うのは科学的な説明がつかない。物体それ自体は同じだからである。栄養従属体であるかどうか、つまりは臍の緒でつながっているかどうかであれば、帝王切開をするかしないかでも他者による恣意性が入り込むことになる。
1秒前までは物、1秒後は人間、と言う科学的なアプリオリに基づかない恣意性から脱却するためには、結局のところ受精卵に人間性を求めるか、少なくとも胎盤への着床後にそれを求めるしかないのであって、理屈の方は中絶禁止派の方が科学的には通っている。
「女の体は女の物」
「私の体の決定権は私にある」
と言う人たちは、徴兵制によって徴兵されて死を強制されて来た男性兵士たちのことを考慮してみた方がいいと思う。彼らもまた、同じことを言いたかっただろう。現在、徴兵制があるかどうかは問題ではない。それがあり得る政策として現在も許容されているということが問題なのである。そしてこれは、同時に、「女性のみが男性のリソースに負担をかける形で体育成績で優遇されている」「女性のみが需給法則・雇用の自由に逆らって男性の機会リソースに負担をかける形で男女雇用機会均等法がある」「女性のみが男性の権利を侵害する形で女性専用列車がある」「女性のみが男性の税金雇用機会に負担をかける形で女性センターがある」等など数え上げればきりがないが、最終的には男性の身体性を毀損する形で、公共の福祉の観点から調整が図られているのだ。その結果が著しい性差が偏った寿命格差、幸福度の差、自殺率の差であっても、許認されているのである。
つまり、利害が対立する局面において、他方の損失が生存に負荷をかけるような重篤性がある場合は、「女性がこの社会により適合性を持たないのは男性のせいでは無いが」、公共の福祉の観点から調整が正当化されるのである。
それが市民社会なのであって、中絶問題はつまりは女性が、他者の利益のために公共の福祉を成立させる自己犠牲を受け入れられるかどうかが問われているのである。
女性の身体の自由性、女性の心身の健康もかなり人権的には重篤なレベルの権利ではあるが、それが胎児の生存権に優先され得るかどうかが問題になっているのだ。
「胎児だから人間ではないので胎児の人権それ自体が存在しない」
という主張は、既に見たようにアプリオリなものでも無ければ科学的根拠に基づくものでもない。恣意性に基づいていると言うこと自体、批判されるべきであるが、恣意性に基づいているのであれば別の恣意性によって動かし得るものなのである。そしてこれを免れ得ないので、中絶賛成派は、アプリオリな定義と科学に基づく議論には決して深入りをせずにただ相手をキチガイ呼ばわりしてそれでおしまいにするのだ。
女性の身体の不都合と胎児の生存権、どちらを優先するかは人権思想に基づくのであれば、後者とせざるを得ないのである。なぜならば私たちは二度とユダヤ人を人間の定義から外した恣意性に戻ってはならないからである。
フェミニズム主流派が言うように、フェミニズムがヒューマニズムの一形態であるのであれば、ここが女性が人権思想を本当に尊重し得るのか、市民社会のプレイヤーとして相応しいのかどうかが問われる試金石になるだろう。他者の生存権を尊重できないようであれば、フェミニズムはイコールの関係においてナチズムに他ならないのである。
丸山真男『日本の思想』を読んでいるのだが、海外比較としての日本人の思考様式や精神性の解釈が非常にしっくりと腑に落ちる。
この本の書かれた年代は古いが、現在のSNS政治トピックスにおける論戦の様相などにも適用できる程度には、日本人というものの精神性の核をとらえているように思える。
例えばこれ
(2)推論的解釈を拒否して「直接」対象に参入する態度(解釈の多義性に我慢ならず自己の直観的解釈を絶対化する結果となる)、
(3)手応えの確な感覚的日常経験にだけ明晰な世界をみとめる考え方、
(4)論敵のポーズあるいは言行不一致の摘発によって相手の理論の信憑性を引下げる批判様式、
(5)歴史における理性(規範あるいは法則)的なものを一括して「公式」゠牽強付会として反撥する思考、
1-5まで、スタンスの左右を問わず現代のtwitterやはてなブックマークでもよくみるような批判様式だと思いません?
これらの思考様式の背景にある要因もいくつか挙げられているが、私が面白いと思ったのはキリスト教圏との対比。
キリスト教圏では唯神論に対する反発(対立軸)として市民社会や思想が発展した背景から、思想それ自体を神格化して同じ轍を踏まないために、思想の形式的不備を市民が監視する構造が浸透している。
一方で日本においてはそういった背景がないため、「思想」それ自体を道具の一つのようにプラグマティックに取り扱う傾向がある。矛盾する思想でも状況に応じて使い分ければよい。思想の中身はさておき、その思想を適用すると何が便利なの?という発想である。思想それ自体の形式(建前の正当性)を重視するキリスト教圏との大きな違いがここにある。
なお中国は儒教の影響が支配的なのでまた別ということになっている。日本のこの柔軟性は神道がそういった特性であったことも背景として挙げられている。
日本人は「物分かりがよい」という表現もなかなか味わい深いと思った。
引用にあるような「感覚的な便益を重視し、抽象化・体系化や論理的整合性に価値を見ない」という評価と、「物分かりが良い」という評価は一見矛盾するようで、そうでもない。
道具として使える程度に理解することにおいては日本人は早い。なぜなら既存の価値観との整合性を気にしないから、(便利である限りにおいては)新しい考え方に対しても衝突したり反発したりせず、すぐにとり入れることができる。その際には、既存の価値観を拡大解釈する(へえ、外国人はこういう考え方をするのか、でも日本のこの考え方と一緒のものと解釈できるな)という様式が使われやすい。既存価値観と同一視するという輸入様式はまさに抽象化だと思うのだが、抽象化を自然に行うため逆説的にそれに価値を置かないという精神性が成立しているということだろうか。
一方で抽象化・一般化された思想体系を戴くことを嫌う。それは思想体系を一度決めてしまうと前述の拡大解釈による柔軟性が損なわれるからだろう。
日本人の精神性は「そういう考え方もあるよね〜」を地で行っており、その意味で非常に包摂力が高い。包摂力の高さを維持するために、統一基準を作ることを嫌う。イデオロギー嫌いがイデオロギーである、とも言えるか。とはいえ新たなイデオロギーから影響を受けないわけではなく、拡大解釈や意図的な誤訳によって、既存の価値観と同居させる形でイデオロギーを解体して取り込むのである。
個人主義やリベラリズムやフェミニズムなどが、日本になじまなさそうで、でもやっぱりなじみそうな(それらにまつわる論戦において、各論ごとに各人のスタンスが右派なのか左派なのかも判然としない)のは、それらの思想の各論での実利については認めており、慣習としては取り込んでよいと思いながらも、原理原則として戴くつもりはない、というイデオロギーが影響しているようにも思える。
例のハフポスト記事で「見たくない表現に触れない権利」を主張した専門家の方.実は,昨年の東京都の男女平等参画推進総合計画では,委員として逆に批判的な発言をしていた.
(背景)東京都は「公共空間において不快な表現に接しない自由」を東京都男女平等参画推進総合計画に盛り込もうとしていたが,パブコメで表現の自由の観点からの反対意見が多く寄せされた.そのため,事務局はお詫びし文言を削除することになった.以下はその報告がなされた部会の議事録である.
東京都男女平等参画審議会 第5回男女平等参画部会 議事録より,以下抜粋(強調は筆者).
https://www.seikatubunka.metro.tokyo.lg.jp/danjo/shingikai/files/0000001567/5danjyobukai.pdf
○治部委員 ありがとうございます。
私も是枝委員と同じ趣旨だったんですけれども、ちょっと一番分からなかったのは、なぜこういう文言が入ってきたのかという、その背景ですね。それは、今、事務局からのご説明いただいたので何となく理解はできました。
それで、基本的に、行政なり国だったりの機関が表現に対して介入をするというのは憲法21条でやってはいけないということを言われていることなので、これが残っていたということ自体について、これまでの過程で憲法違反ではないかという議論がなかったのかなというのが、ちょっとすごく不思議に思います。それで、パブコメを拝見していても、その表現に対しての規制の仕方がすごく曖昧な形でなされているというところも問題で、憲法、これ学部で1年生で習えば、そういうことをしてはいけないということは習っているはずなので、別に法律家でなくても私も法学部出身なので常識として知っているようなことです。
行政が様々な公共の福祉に資するために私権の制限ということをするのですが、その中でも経済的な権利に関しては比較的制限する、徴税とかがその最たるものだと思いますけれども、一方で、表現に関しての介入というのは、できるだけ基本はやらない、やってはいけないということは割と叩き込まれることなので、そこは、多分、行政側としても結構強く認識を持っておいたほうが今後いいのではないかなと思います。
もう一つ、私のほうでちょっと懸念というのかな、議論の流れで気になったことは、もちろん性暴力的な表現ないしは過度に性的な表現というものが、目的に対して適切ではなさそうな形で使われている例というものは見受けられることがあります。それはケース・バイ・ケースで、広告主等々が判断することだと思うんですけれども、表現と現実に起きる被害・加害というものの因果関係というものが、エビデンスがあるのか。私が少なくとも様々な報道とかを見ている限り、あまり立証されていないかなというふうに思うんですけれども、その辺のところが、このような表現がなされているから、例えばDVであったり性暴力が増えるというようなエビデンスがあって、こういう表現規制のような文言があったのか、なかったのかということは、ちょっとちゃんと振り返って議論すべきことかなというふうに思います。
例えば、世の中にはサスペンスドラマとか殺人を描いたような小説とか、映画とかドラマがいっぱいあるわけですけども、それを見たから人が殺人を犯すということでは基本的にはないと思うので、そのフィクションと現実との関連等々は、これはきちんと研究もされているはずなので、そういったことを踏まえて議論をしていく必要があるのではないかなということを思いました。
私も、こういった表現があることはきちんと気づくべきであったなということを改めて反省するとともに、この文言を、たくさん反論が来たから単に修正しました、終わりですというよりも、なぜこれが入ってきてしまったのかということはきちんと検証すべきでありますし、そういうことを怠ると、男女平等政策ということそのものが市民社会からの信頼を得られなくなってしまうということを、むしろ危惧するものであります。
以上です。
行政として「見たくない表現に触れない権利」を市民に強制するのはダメだが,新聞広告など民間領域では当然に認められるべきという立場なのだろうか?
また,性犯罪と表現規制の間にエビデンスがないことも指摘しているようだが,これも行政が立法する際にはエビデンスが必要だが,民間ではエビデンスなしに規制してOKということなのだろうか?
しかも新聞って言論の自由的にかなり重要な主体だと思うのだが,それでも行政じゃないからガンガン規制すべきということなのか?
原文
https://lb.ua/culture/2022/03/18/509953_cancel_russia_yak_instrument.html
ヴォロディミール・シェイコはウクライナ研究所(日本の国際交流基金にあたる)の長で、ウクライナの文化外交の責任者。訳者の感想は最後に。
ロシアの侵略開始からわずか数日後、ウクライナの文化関係者および団体は、国際社会に対してロシアに対する「文化的制裁」を実行し、プーチン政権やロシア資本から直接的・間接的に支援されている人物・団体に対する協力の停止を呼びかけるアピールを出した。
ウクライナ研究所は、国内・海外のパートナー団体や専門家のネットワークの代表500人以上に対してアピールを送って拡散することを依頼し、それとは別に欧米の学術団体や大学に対しても書簡を送ってみた。この「文化的制裁」に対する公開書簡には3800人以上のジャーナリスト・人権活動家・教育関係者・文化人たちが署名していて、在外のウクライナ人たちも同様のアピールを拡散している。
ウクライナの主張に反論することはできないだろう―――ロシアによって仕掛けられた戦争は、明らかに国際法に違反しており、罪のない人々を数千人も理由なく殺害し、歴史的建造物を意図的に破壊しているのだから。この状況で侵略者と文化的に協力することは戦争犯罪を正当化することであり、ロシアによる印象操作のために新たな場所を提供することに他ならない。ウクライナ研究所は声明の中で、ロシアが数十年もの期間にわたって文化を政治的プロパガンダの手段として利用して国際的評価を高めることで、世界の注目を他国への戦争犯罪から逸らしたり、人文学において帝国と植民地のヒエラルキー体制を確立してきたことを指弾した。このロシアの行為に高名な学者、キュレーター、美術史家、財団理事、美術館、フェスティバル、フィルハーモニーたちは加担してきた。彼らは2014年以降もロシアの政府機関に進んで協力してカネの出所を無視して見なかったことにしてきたし、そんなロシアの芸術的プロジェクトを通じて広められた有害で非科学的な主張に対して反論することもなかった。その象徴的な事例が、ニューヨークのMoMA、ロンドンの王立芸術院、パリのグラン・パレで十月革命百周年の2017年に開かれた「ロシア芸術」の豪奢な展覧会だろう。ロシアから「最恵国待遇」を受けてコレクションを借り出したキュレーターたちは、ロシアがウクライナその他の国の芸術を盗み出してきたことを見なかったことにしたし、その全体主義的な芸術を無批判に美化することを止めようとしなかった。
ウクライナに爆弾が落ちた2022年2月24日、「素晴らしいヒューマニズムのロシア芸術」というメタファーはようやく消し飛んだ。それでも、文化をプーチンの政治や戦争責任と切り離して考えることができるという信じている数百万の海外の人々にとって、トルストイ、ドストエフスキー、ショスタコーヴィチあるいは「ロシア・アヴァンギャルド」は心の中で生き続けているようだ。
全世界とウクライナとの連帯は過去に類を見ないほど広がっており、世界の文化界は言葉と行動によってウクライナに大きな支援を送っている。しかし「ロシアに対するキャンセルカルチャー」に対して西側が示した反応は、ウクライナの文化外交に課題を投げかけた。
メトロポリタン歌劇場、カーネギーホール、バイエルン歌劇場などの多くの団体は、指揮者であるゲルギエフや歌手のネトレプコとの契約を打ち切って、ロシアのアーティストと協力しないことを公表した。カンヌ映画祭はロシアの代表団と政府関係者の参加を拒否した。それとは裏腹に、ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスはウクライナの戦争を「人道危機」とした上、ロシアについては何も言及しないという恥さらしの声明を発表した。私たちがコンタクトを取った人々の多くは、ウクライナの難民を支援することを口約束する程度で、ロシアとの協力を停止する呼びかけには大した反応を見せなかった。思っていた通り、ポーランドとリトアニアの団体が最も毅然とした態度をとって、ドイツペンクラブは「真の敵はプーシキンではなくプーチンだ」という声明を出し、フランス人たちは沈黙した。
そして、西側の文化学術団体はウクライナとロシアの「和解」や「異文化交流」を推進する事業を始めたようだ。注目すべきは、彼らがどうやら戦争が始まって4週間でのウクライナにとっての「和解」の必要性への無関心だろう。ロシア人を「プーチン政権の犠牲者」と位置付けることで、戦争の犠牲者となっているウクライナ人と同じ「犠牲者」として等しくとして扱うような形で、ウクライナ人、ロシア人、ベラルーシ人を一緒くたにした沢山の事業が始まった。
こうして、23年もの長期にわたってプーチン政権が継続してきたことや、ウクライナでの起きている戦争や、ロシア社会の政治的受動性、あるいは市民の抵抗が失敗し敗北してきたことにに対して全てのロシア人の責任をなかったことにしたいのだろう。他にも図々しい連中はいる。フリードマンとカーンというロシアのオリガルヒによって資金提供を受けたことにより度し難い妥協的施設となったバビ・ヤールのホロコースト・メモリアル・センターの芸術監督イリヤ・フルジャノフスキーはプーチンの犯罪と戦うことを要求する書簡に署名した。これがウクライナ世論の怒りに火をつけたことは言うまでもないが、逆にブリュッセル、ワシントン、ベルリンでは歓迎されたようだ。
これは偶然そうなったわけではない。西側はウクライナとロシアの関係を完全に誤解してるし、ウクライナには独自の文化もアイデンティティもない軽視すべき存在だという考え方を持っているのだから。よって、国際社会にはロシアによる戦争が新たな植民地主義であることや、ウクライナが脱植民地を目指して何世紀にもわたって独立運動を繰り広げてきたということを理解してもらう必要がある。ロシアの帝国主義とウクライナの独立は絶対に両立しない。ウクライナは武器で遊んでいるのではなく自らの独立をかけて戦っているのである。だからこそ、軍事だけではなく文化も同様に重要な最前線なのだ。
ウクライナがロシアへのボイコットを呼びかけていることへの見下した反応や、侵略者とその犠牲者を「和解」させようとする一際魅力的な欲望は、西側が持つ植民地主義的な考え方を強く反映している。この考え方の根底にあるのはロシアが中心でウクライナが辺境であるという先入観で作られた世界観だ。これは権威あるロシアの文化は周辺の人々の生死よりも重要なことで、ロシアの言うことは聞くべきだが、周辺の人々の言うことに価値はないという考え方だろう。そのようなパラダイムの解体なくして「和解」や「対話」もあるべきではない。
ロシアとの和解は遠い遠い未来に始まる―――まずはロシアがドンバスとクリミアを含むウクライナの領土から完全に撤退し、国際法廷で戦争犯罪が裁かれ、ウクライナに賠償金を支払わなければならない。プーチン政権は打倒しなければならないし、その後に生まれる民主的な政府、市民社会、メディアはウクライナへの犯罪を認めて謝罪しなければならない。そのようなロシア社会の自己批判と深い反省があって、ようやくその時になって始まるのである。
もちろん、こんなバラ色のシナリオが待ち受けていることは分かっているが、だからといってウクライナが今日にでも妥協しなければならないということでもない。ロシアとの「和解」を急ぐことは危険なことだ。それは旧来の考え方に基づいたロシアによるウクライナの再植民地化が開始されることを意味している。要するに、ウクライナを再び文化的辺境へと押し戻し、ロシアが「スラブ」「ポスト・ソビエト」「ユーラシア」の中心であり続けるということだ。世界はロシアの帝国主義や植民地主義の知識人とさらに深く和解することを望むだろう。そうすれば、ウクライナは自分たちの意見を反映した和解のあり方を作るチャンスを失ってしまう。
「戦後のロシアをどうするか」は、ポストコロニアル研究には重い宿題となる。ロシアは脱植民地化の苦痛という歴史を経験しなかった不幸なほど時代遅れの国だが、なぜかは分からないが西側はそのことをよく理解していないらしい。この戦争はそんな西側の目を覚ます機会となるだろう。新しい視点、コミュニケーションや共存の新しい在り方を作っていく機会なのだ。それは理論だけではなく、より重要なのは法的、経済的、人道的な政策として具体化されるべきで、ウクライナはその創造者の一人とならなければいけない。
これが現在のウクライナの文化外交が目指すべき到達点だ。これは長期的な目標になるだろう。ロシアとの戦争という状況下においての文化外交は、対話や和解を促進するべきではなく、ロシアの文化的・言語的な支配という脅威に対して抑止力として機能することで、私たちのアイデンティティを守らなければならない。
訳は下訳を作って機械翻訳とも照らし合わせて作りましたが、あいにく初学者なので文責は持ちません。
ウクライナ研究所はそのブリティッシュ・カウンシルに範をとった機関として2017年に設立されました。ヴォロディミール・シェイコはブリティッシュ・カウンシルで働いた経歴のある人物ですが、日本語wikipediaで所長として示されている指揮者の人とは同姓同名の別人です。
lb.uaはそこそこウクライナでは有名なニュースサイトで、元々は週刊誌のweb版です。
で、このコラムは前半はアリキタリで面白くないんですが、後半からの西側批判は面白い部分かなと思います。特に文化界にありがちな既存のヒエラルキーを温存した形の「和解」を強要しようという流れを戒めているわけですな。
最近流行りのネオナチ問題に絡んでウクライナの右翼問題に言及しておきますと。
途中のバビ・ヤールについてですが、このメモリアルセンターは地元ウクライナのユダヤ人たちによって反対運動が起きたほど国内では評判の悪い施設です。要するにロシアによる情報操作の一環として「ウクライナが反ユダヤ主義的な国であるかのような展示」をするのではないかと考えられていたようで、ウクライナの情報機関SBUが「その証拠は今のところ存在しない」という文書を出すに至り、センターがその御墨付をWebページに掲載しているほどです。フルジャノフスキーもセルフプロモーション目的のクズ扱いされてました。まあドンバスで内戦やらせてる奴の身内連中が集まってきて虐殺を記念するセンターを作ろうなんてグロテスクな話ですわな。
それと、元からウクライナのユダヤ人というのはロシアはもちろんのことイスラエルを中心とした西側のユダヤ人社会とも折り合いが悪く、この反対運動の先頭に立っていたYosyf Ziselsなんかは西側でネオナチ扱いされているほど評判が悪いようです。なぜかといえば、このYosyf Ziselsを始めとしたウクライナのユダヤ人というのはソ連時代に反体制派の経歴を持つことも多く、独立以降はウクライナ人意識が強烈だったりするんで、平気でWW2時代の「ナチス協力者」を擁護しちゃったりするんですな。まあ自分たちユダヤ人が建国した国という意味ではイスラエルに負けてへんぞ!みたいな意識があるんでしょうな。
なのでウクライナ右翼の金主の一人であるコロモイスキーがユダヤ系だったりするのは、それほどおかしなことではありません。
よってウクライナの極右というのは、西側のネオナチよりも、日本の「任侠右翼」と類似しています。靖国神社とか橿原神宮に集まってる右翼のお兄ちゃんが数年後に民団の役員やってるのとかと同じで、思想的背景にはほとんど意味ありません。欧米の学者やジャーナリストは「犯罪的組織の公然部門としての右翼団体」みたいなものが理解できないので頓珍漢な「サッカーフーリガン起源説」を唱えるのですが、そんなものにコロモイスキーが金主になるわけもないし、戦闘力が高い説明がつかないでしょう。要するに軍事的経験のある右翼のアニキが愚連隊を抱えて作ったお国のための組織という説明で日本人ならすぐ分かると思うのですが、これが西側の人には理解できないようです。
鈴木智彦さんがちょっと笑い話みたいな形で織田絆誠のPMC構想をウクライナと絡めて話していましたが、ウクライナの極右グループは実際にチェチェンやグルジアで得た戦闘経験を元に国家機関までのし上がったわけで、割と笑い話にもできません。まあ日本の暴力団と同じで、なんだかんだお上には絶対に逆らえない性質があるので、ナチスの紋章がどうだとかは暴走族が旭日旗振り回してるのと同じだし、奇妙な儀式とかやってるのはヤクザの盃事みたいなものだと思って受け流せばよいと思います。
というわけで反乱の懸念もないどころか、国家親衛隊は普通の大隊の方がヤバい奴多いと思ってるんですよ。なんせ2014年には自腹でも戦争したいって連中が集まってたわけで、金目当てだの兄貴分に言われて参加しただのの方が理由としてはいくらかマシでしょう。ただまあ、いつか武装解除した時には犯罪者を野に放つようなものなので、単純に治安が悪化することを懸念してなくもないです。
この増田は下記ロシアサッカー選手への提言増田を、太平洋戦争開戦当時のアメリカ社会の日本人に対する感情を考慮しつつ、元増田に沿って日系人排斥の歴史的事実に基づき改変しました
https://anond.hatelabo.jp/20220302171738
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アメリカ議会が日系人を正式に市民社会から排除する法案を決定し、大統領も日系人をアメリカ社会から排除し収容所に入れる大統領令を発した。
このことは正しいのだろうか?それを問いたい。
イギリスでは、従前よりヒトラーと親交があったイギリスファシスト党指導者のオズワルド・モーズリーが、ドイツが始めた侵略戦争に対してどう考えるのか?を表明するように期日を設けて要求され、モーズリーはこれに対して恭順しイギリス軍と王室への忠誠と協力を呼びかけたが、
「敵国政府指導者と関係を持っている組織のメンバーを誰であろうとも裁判なしで無期限に投獄できるものとする」という防衛規則18Bにより裁判無しで刑務所に無期限収監となった。
このケースなどは、同指導者がヒトラー総統と同じ考えを持っていると考えられても仕方ないと言えるし、英国にとってのイメージ悪化を損害と考えるのであれば収監するのは正しい判断と言える。
であれば、日系人、日系人団体に対して日本が始めた侵略戦争に対しての批判と抵抗を求めてはどうだろう?
日本の侵略に強い反対を示させ、星条旗に敬意を払わせ、アメリカ軍に志願して日本の同盟国であるドイツと戦う意思を示した者のみアメリカ市民と認めて収容所から出したらどうだ?
とは言え、心情的には飲み込めない問題もある。既に報じられているように、パールハーバーの米軍人数百名が日本軍からの卑劣な騙し討ちによって命を失っている。
まだ生きている米国人の若者は徴兵令によって故国を守る防衛戦争に従事する為に、家にいることも家族と語らう事も出来ない。
このような状況で、侵略をしている最中の当事者である日系人がアメリカ市民として自由を謳歌出来る事に、心情的には許せない怒りを覚えるのは普通の人間だろう。
だが一方で、この日系人は直接戦闘を行っている兵士でもなければ、意思決定にかかわった政治家でもないということは言える。
侵略に賛成しているのであれば権利を奪われて当然だが、反対している日系人までが自由を奪われてしまっていいのか?とは考える余地があるだろう。
例えばだが、今後労働で得られる賃金やこれまで稼いできた財産などの全てを、合衆国政府に寄付させるのはどうだろうか?
日系人団体を含めて、彼らが働くのは本国のジャップへの仕送りや自分の利益の為ではなく、米国のためであればどうだろう?
仮に必死に働いても財産を得ず、稼ぎ全てを合衆国に譲るという労働のみの市民権にしてはどうだろう?
全ての日系人を罰していいのか?
日系人の中には侵略を正当化し賛成する者から、反対を表明し本国の親類が非国民認定された者までいる。
侵略に関与した者も、賛成する者も許されなくていいし、それは罪だ。日本人は、その存在すら許さなくていい。
だが反対するものから、アメリカ市民として米軍に志願する権利までを奪う事は、はたして適切なのか?とは考えてしまう。
とは言え、パールハーバーで殺された米軍人が今後合衆国に奉仕することすらできない時に、日系人が米軍に志願し合衆国へ貢献する栄誉を得る、それは酷い冒涜であるようにも思えるのは事実だ。
合衆国が尊ぶ民主主義的には、天皇制に反対して日本の民主化を訴えてきた日系人だけが志願出来るべきなんだろう。
天皇制に賛成し天皇を敬っている日系人がアメリカ軍人であることはパールハーバー犠牲者への酷い冒涜だと思うし、個人的にも人間として許せない思いも強い。
だから収容所にいる日系人にブーイングと石を投げつけたい気分ではあるのだが、それでも彼らは米軍に志願してもいいのではないかとも思うのだ。
皆さんはどう考えているだろうか?
江ノ電における炎上沙汰には、鉄オタやバスオタのように公共インフラの"消費"を許容するような社会の象徴と撮り鉄とロードバイク乗りの当事者である若者世代の貧困からくる異議申し立てのパフォーマンスの側面がうかがわれる。小田急線での刃物沙汰事件について加害者を称賛したり被害者を誹謗したり他人事扱いする人間が多いという現実にも、わたしたちの社会にあるインフラや若者を取り巻く社会問題の根深さが示されている。多くの人が関心を持ったであろうこの事件は、普段は不可視なこの問題を可視化し改めて考える契機になりうるはずであり、そこにはインターネット市民社会が果たせる役割があるはず。
じゃあ原因はなんですか?
それは「自分でそのスポーツをやったことがない」てことにつきる。
そういう基盤がそのスポーツにないと、スポーツ文化は廃れるし、「一方的な消費」て形になって すぐに「飽き」になる。
ドイツはなんとプロスポーツリーグが存在しない時代から、W杯で優勝してる。
なぜか、みんな街で市民サッカーチームを持ってたんだよ。市民みんながサッカーを「やる」ことに熱狂してた。
こういう土台のある「サッカー人気」「サッカー文化」は凄いよ。
日本がどうして日本代表にしか興味が持てないかが、なんとなくわかるでしょ?
「野球を子供時代にやりまくった中高年層」しか野球に興味もってないのもわかるだろ?
大人にそんな余暇もない、しかも市民社会も日本は存在しない、しかも、
https://kageki.hankyu.co.jp/sp/revue/2021/fortississimo/index.html
人並み以上にはクラシック音楽をやってた増田が、さらに結構気合を入れて改めて学習・整理して臨み、観劇した時に脳内で埋めた行間など記録。
公演開始後は一切情報を入れず(開始前も稽古場レポートは見ないようにした)、プログラムも買っていないので、場面のタイトル等の情報は記事を書くにあたりネットから拾った(ルサンク電子版だけ買っている。物理本は原則買わない主義。ルサンク以外も電子化希望)。場面の切れ目は感想の切れ目。起こしたセリフの文字遣いも脚本と違うだろう。
※ひょんなことからプログラムと紙版ルサンクが手元に。チラ見してそれぞれなるほどと思うことは多いが、今のところその内容には触れない方向でいく。ルサンクで脚本をしっかり見たの初めてだけど、面白いなあ。
(1808)
ケルビム「おつかれーさまー、じーんせーい」
これは、、タカラヅカ!しびれる
モーツァルト死去1791(35歳、ベートーヴェンの14歳上)
バッハ死去1750、ヘンデル(バッハと同い年)死去1759、テレマン(ヘンデルの4歳上)死去1767。ヘンデル30年以上、テレマンも20年以上審査待ち。
!
1793処刑
モーツァルトが亡くなる2年前にフランス革命。モーツァルトが6歳の頃アントワネット(モーツァルトの1歳上)にプロポーズしているエピソードを思い出して微笑ましいことこの上なし。そしてアントワネットは天国に行けるんだな。
資本主義…
智天使ケルブ「奢るな人間よ、ひとりの短い人生で決着のつく問題ではない。お前たちの後継者が、受け継いだ音楽をどうするか。神のお与えになった美しい音、その連なり、それを人間が何のために使うのか、最後まで見届けてから全員で連帯して裁かれるのだ」
大事な箇所なのでたくさん。
ケルブが話すときにBGMがチェンバロのバッハっぽい音楽に変わって清々しい。
偉人オンパレードすぎて大きく出たなと。市民社会創成期の芸術、自由主義という大きなテーマを持ってくるなと思っていた。(トップ娘役が謎の女であることはまだ謎。)
事前に配役を見たときに、音楽史やベートーヴェン(古典派〜ロマン派)との絡みという意味でも、
のエントリーは納得。古典派ハイドンはまだ生きているし(1809死去)。問題は、バロックからのもう1人のエントリーが、なぜバッハではなくテレマンなのかだった(しかも若手路線男役)。答えは、尊敬とか影響受けたとかじゃなかった。
しかしバッハは役としてはなくても、やっぱり名前は登場するよね!
そういえばテレマンが一番歳上(死んだ年齢も)なのに、なぜ縣さんだったんだろう。背の順?一般的なネームバリュー?
彼らももちろん配役にあり、しかも専科の重鎮。どのように絡んでくるのか、第九の歌詞に出てくるし、第九でも歌うんかな歌うまい子もいるし、と思っていた。ちがった。ケルブ様おこだった。
第九の歌詞「智天使ケルビムは神の前に立つ」。なおこの前にトートさまがいる「死の試練を受けた友」。どちらも予習時にスコア見ててたまたま見つけた。昔ドイツ語詞の下に英単語書いたりして学んでいた模様。
芸術史・音楽史の流れ、芸術という概念自体が最近のものであること。それ以前は芸術家は例えば大工と同じような職人という扱いであったこと。"art" は芸術ではなく技術を指していた。"fine art"になって芸術が誕生。アーティストではなく、アルチザンだった。
このあたりは美学史や風景画の講義で叩き込まれてきた。高校生の時に読んだ渡辺裕『聴衆の誕生』も。確か高校の国語の教科書に載ってた阿部謹也氏の文章もかな(ぐぐっても何だったかわからなかった)。暗い中椅子に座って静かーに聴くクラシックコンサートの今当たり前の風景は、ベートーヴェンよりも後、ワーグナーが始めたもの。
今回テレマンが引っかかって新たに電子書籍で購入して関係しそうな箇所だけさくっと読んでた片山杜秀『ベートーヴェンを聴けば世界史がわかる』も役に立った。
ピースがはまって大変に納得感のある第1場。
フランス革命が起こった年、ベートーヴェンは19歳(ナポレオン20歳、ゲーテ 40歳)。神から王侯貴族のものになった音楽を、彼はどうするのか(それはそのまま現在まで続いている)。それは如何にして起こったか。ケルブ様のご機嫌はなおるのか、テレマン・ヘンデル・モーツァルトは天国へ行けるのか。
市民社会すらない、民主化されてないところで権力を批判して権力者が交代しても土台が腐ってるんだから結局同じようなのが出てくるから意味ないだろ、土台を改める戦略の方が生産的だろ、ってことでしょたぶん
2009年半ばに,ヒトパピローマウイルス (HPV) ワクチン「実証プロジェクト」が,シアトルを拠点とする非政府組織であるProgram for Appropriate Technology in Health (PATH) により, Indian Council of Medical Research (ICMR) およびAndhra PradeshとGujaratの州政府と協力して実施された。これらのプロジェクトは、Bill and Melinda Gates Foundationから資金提供を受けている。使用したワクチン、ガーダシルとサーバリックスは製造会社からPATHに寄付されました。この例では、グラクソ・スミスクラインとメルクシャープとDohme (MSD) 。これらのHPVワクチンは、アンドラプラデシュ州のKhammam地区およびグジャラート州のVadodara地区の約23,000人の10歳から14歳の少女に投与された。
これらのプロジェクトは、七人の部族の少女が死亡し、プロジェクトの非倫理的な設計と実施に市民社会グループが強く反対したことを受けて、2010年に保健家族福祉省 (MoHFW) によって中断された。プロジェクトの実施における「不正疑惑」を調査するため、調査委員会が設置された。委員会の報告書 (1) は、参加者の権利と規制手続きにいくつかの違反があったという主張には同意したが、責任を負わなかった。また、そのような裁判の許可と実施に関与した者は罰せられるべきだという勧告についても、沈黙を守った。明らかな違反の証拠があったにもかかわらず、調査はプロジェクトに関与したすべての者の責任を免除した。
プロジェクトの手続き上および倫理上の欠陥を深刻な観点から捉え、第72回保健・家族福祉議会常任委員会は最近調査を実施し、「ヒトパピローマウイルス (HPV) ワクチンを用いた研究の実施における不正の疑い」 (2) に関する報告書を2013年8月30日にラジャ・サブハで発表した。この報告書(以下第72回報告書という) (2) は、インドにおけるHPVワクチン試験の違反に常に注意を喚起してきた多くの声とキャンペーンを明確かつ包括的に擁護するものである。第72回報告書は、2009年にPATHによって同国で実施されたHPVワクチン 「実証」 プロジェクトが非倫理的であることを認めている。
こういう主張って、「報復」と「正義の実現」のどっちがメインなの? すごい気になってる。
「ちょっとでも腐女子的な発言をするとバッシングされた」→腐女子への迫害はひどいよね。許してはいけないことだね。
「なのにバッシングしてきた連中は自分たちの嗜好をおおっぴらにしている」→ダブスタだね。よくないよね。
「嗜好をおおっぴらにするのは間違っている。周囲に配慮するべきだ」→??????
「私たちにあれだけ厳しいマナーを要求したお前らは当然そのマナーに従うべき」という話がしたいの?
それとも「検索避けなどの配慮は社会で当然のマナーなんだからお前らはマナーに従うべき」という話がしたいの?
どっち?
この2つの主張、結論が同じでもそこに至るまでの論理が違うからそこはハッキリさせといてほしい。
「日本人にクジラを食うなと言ってきた西洋人が豚や牛を食ってるのはおかしい」と「動物を虐げるのは間違っているので西洋人が豚や牛を食ってるのはおかしい」って全然別の話じゃん?
もし前者なら、
「確かに腐女子を迫害していた男オタクはいたが、俺はそんなことをしていないし、後続の世代にはそもそも罪が無いだろう。関係ないやつらの罪を背負えと言われても困る」
「そんな配慮は特に必要とは思わない。自由な市民社会で生きる上ではときに自分にとって不快な表現に遭遇することもありえるし、それは自由主義のコストとして甘受すべきだ」
と反論するけど。
最近、インターネット上のアレコレを見ていても思うことのほとんどが、人間はカスみてぇな精神しか持ちえないということに帰結してしまう。
人間のほとんどが、自らの欲望をしっかり見据えられていないし、自他区別がしっかりできていない。自由などの抽象概念の理解も出来ていない。
俺個人は、もともと近代市民社会をくそくらえと思っているが、それはひとえに人間が精神だけで存在しているわけではないし、そもそもそれは無意識という素晴らしい領域の発見を考慮していないと考えているからだ。
そうした俺個人の思想とは関係なしに見た時、所謂リベラルな先達は、そうした近代市民社会を理想として戦ってきたわけであるし、それはある程度まで効果を発揮してきたということは認めるべきことだ。
が、しかしだ。
インターネットの普及と啓蒙活動が組み合わさって出来たものが、今の醜い自称リベラルのカスどもなわけである。
彼らは、やれ人権を守れだのと言いながら、自らが嫌いだと思う思想の自由を認めない。これを差別主義者といわずして何と呼べばよいのか。
彼らは自分が嫌いだと思うものを嫌いだと言わずに、くそくだらねぇ整合性のかけらもない屁理屈をつけて排斥しようとするのだ。カスだな。
それもそのはず、彼らは社会の残酷さを減らそうとしているから、残酷さそのものである自らの嫌悪感情をそのままに表明できないのだ。性格がひねくれてる。
まぁ、近所の居酒屋で管を巻いてるなら別にいいよ。キモイ奴だなって周りの人間が離れて終わりだからな。
でもインターネット、特にSNSの発展のおかげさまで、キモイ奴がキモイ奴とめぐりあってしまったわけだ。そうなると自らの思想未満のゴミの矛盾さを人数で覆い隠すわけである。
彼らは、自分の好悪感情を善悪にすり替えているし、そのことに自覚的でない。さらには、彼らは自身の欲望もまた自覚できていない。
リベラルな先達が何よりも相手取ってきたのは抑圧だったはずなのに、彼らは抑圧を生み出さないためにと欺瞞して抑圧を欲望しているのだ。
だから、彼らは革命家になれない。彼らは根本的なところで自分と異なるものを認めない態度を保持しつづけている。表面だけをリベラル風に取り繕った差別主義者なのだ。
とはいえ、我々は皆総じてカスだ。人間精神なんてそんな上等なもんでも高機能でも、ましてや神の代わりともなることが出来ない。
ただ、周囲やネットに呼び掛けて集団的に不買を運動として行う事は、どうなのか?という疑問が有る
それも完全に自由な気もする。周囲に呼び掛けても同意する人だけ不買する訳だから、特に問題は無いのではないか
ただ、例えばフェミニストとして有名な人がCMに起用されて、同じような運動が起こった場合を具体的に想像してみると、感情的にはそれに対する反発がある
または、政権批判を行う人でもいい
不愉快であり批判されるべき、というのと、やる権利や自由はある、は違うでしょ……
たとえば、俺は去年の宇崎ちゃん献血ポスターへの批判にはめっちゃ怒ったし、あれ以来フェミ嫌いになったけど、それでも、フェミにはポスターを批判する自由があるし、一部のフェミが呼びかけていた献血ボイコット運動もやる権利自体はあると思うよ。
献血ボイコットに対して「そんな運動してはいけない」と主張する人が大勢いたけど、献血が自発的にやるものである以上、献血への非協力を公然と呼びかけるのは自由だ。少なくとも、直接日赤に抗議デモとかやるよりよっぽど穏当。だって別に義務ではなく行かなくても責められはしないものに行かないって意思表示するだけでしょ。当然、献血への非協力を呼びかける権利と自由はあると考えないと色々なことに齟齬をきたす。
そしてもちろん、献血ボイコット運動を批判するのも自由だし、ポスター批判に反論するのも自由だ。
フェミがCMに出ていたことを理由に不買運動されたとしたらフェミを支持する人にとっては不愉快かもしれないけど、それでも、不買運動をする権利と自由はある。そのうえで、その運動が気に食わなければ運動を批判すればいい。
あいちトリエンナーレと同じやね。たとえ多くの人を不愉快にさせるものであったとしても、天皇の写真を焼くアートを展示する自由はある。そのアートを批判する自由もある。これが健全な市民社会というものだろう。
健全な市民社会においては、三浦瑠麗に対する不買運動も、献血ボイコット運動も、フェミに対する不買運動も、反政府派に対する不買運動も、いずれも行う権利はある。それが脅迫などの手段を伴わずに有志への呼びかけに留まっている限りはご自由にどうぞ。そんな運動をできない社会の方が息苦しくて嫌だ。
その運動がけしからんと思うなら、運動を批判すればいい。運動をする権利もあれば批判する権利もある。存分に自由を行使して不買運動しよう。
それにしても、多くのフェミって自分が不買運動しかけられる可能性も考えずに不買運動やってたんだ。すげーな。このくらいの理屈は考えてやってるもんだと思ってたわ。