はてなキーワード: エマニュエル・レヴィナスとは
nippon.com版の方が先に書かれたので、nippon.com版→内田ブログ版の順に掲載。
適宜改行等を加えた。
nippon.com版
https://www.nippon.com/ja/in-depth/d01018/
http://blog.tatsuru.com/2024/07/12_0846.html
(01)
nippon.com版
今回の都知事選では、「選挙は民主主義の根幹をなす営みである」という認識が崩れてしまったという印象を受けた。選挙というのは有権者が自分たちの立場を代表する公人を、法を制定する場に送り込む貴重な機会であるという基本的な認識が今の日本からは失われつつあるようだ。
今回の都知事選では、選挙は民主主義の根幹を為す営みであるという認識がかなり深刻な崩れ方をしているという印象を受けた。選挙というのは有権者が自分たちの立場を代表する代議員を選ぶ貴重な機会であるという認識が日本からは失われつつあるようだ。
(02)
nippon.com版
知事選の当選者は1人に限られるのに「NHKから国民を守る党(NHK党)」が関連団体を含め24人の候補を擁立した。そして24人分の掲示板の枠に同一のポスターを貼るなど“掲示板ジャック”をした。NHK党は、一定額を寄付した人にポスターを張る権利を譲渡する行為にも及んだ。掲示板には選挙と関係ない人物や動物の写真、サイトに誘導する2次元バーコードなども張り出された。NHK党以外の候補も「表現の自由への規制はやめろ」と書いたわいせつな写真入りポスターを張り出すなど、目を疑うような行為があった。政見放送も含め、注目を集めて動画サイトなどのフォロワーにつなげるなど、選挙を単なる売名や金もうけに利用しようとする候補者が多数登場した。
(無し)
(03)
nippon.com版
(無し)
投票する人たちは「自分たちに利益をもたらす政策を実現してくれる人」を選ぶのではなく、「自分と同じ部族の属する人」に投票しているように私には見えた。自分と「ケミストリー」が似ている人間であるなら、その幼児性や性格の歪みも「込み」で受け入れようとしている。だから、仮に投票の結果、自分の生活が苦しくなっても、世の中がより住みにくくなっても、それは「自分の属する部族」が政治権力を行使したことの帰結だから、別に文句はない。
自分自身にとってこの社会がより住みよくなることよりも「自分のような人間たちから成る部族」が権力や財貨を得ることの方が優先する。これが「アイデンティティー・ポリティクス」の実態である。
自分が幼児的で、利己的で、偏狭で、攻撃的な人間だと思ったら、かつてならそれは「成熟」へのインセンティブになった。「もっとちゃんとした大人になろう」と思った。でも、今は違う。今は「そういう自分がけっこう好き」だとカミングアウトすることの方が人間的で、端的に「よいこと」だとされる時代なのだ。
正直言って、私には意味がわからない。この人たちはそんなに自分が好きなのか。そんなに同じ自分のままでいたいのか。私は同じ人間のままでいるなんてまっぴらである。息苦しいし、不自由だし、何より退屈で仕方がない。「自分自身に釘付けにされていること」をエマニュエル・レヴィナスは考えられる限り最も苦痛な体験だと書いていた。私もまったくそうだと思う。そもそも「自分が自分でしかあり得ないことの不快」を推力として、生物はここまで進化してきたのではないのだろうか。単細胞生物が単細胞生物であることに自足していたら話はそこで「おしまい」である。だから、アイデンティティーに固執する人たちを見ていると、私は奇妙な生き物を見ているような気になる。なぜ「そんなに自分自身でいたい」のか。自分であることにうんざりすることがないのだろうか?いや、ほんとに。率直にそう訊きたいのだ。
選挙の話をしているところだった。
今回の都知事選では、選挙を単なる売名や金儲けに利用しようとする候補者が多数登場した。
(04)
nippon.com版
公職選挙法に限らず、私たちの社会の制度の多くは「性善説」あるいは「市民は総じて常識的に振る舞うはずだ」という仮定の下に設計・運営されている。でも、「性善説」の制度は隙間だらけである。その隙を「ハック」すれば、簡単に自己利益を確保できる。候補者にさまざまな特権が保証されている選挙という機会を利用しても、私利私欲を追求したり、代議制民主主義そのものを嘲弄(ちょうろう)したりすることは可能である。そのことを今回の選挙は明らかにした。もう「性善説」は立ち行かなくなったらしい。
公選法に限らず、私たちの社会の制度の多くは「性善説」あるいは「市民は総じて常識的にふるまうはずだ」という仮定のもとに設計・運営されている。でも、「性善説」の制度は隙間だらけである。その隙を「ハック」すれば、目端のきいた人間なら誰でも簡単に自己利益を確保できる。候補者にさまざまな特権が保証されている選挙という機会を利用しても、私利私欲を追求したり、代議制民主主義そのものを嘲弄することは可能である。そのことを今回の選挙は明らかにした。もう「性善説」は立ち行かなくなったらしい。
(05)
nippon.com版
だが、選挙がこれだけ軽視されるに至ったのは2012年以後の安倍晋三氏、菅義偉氏、岸田文雄氏の3代の首相による自民党政権の立法府軽視が原因であると私は考えている。
だが、選挙がこれだけ軽視されるに至ったのは2012年以後の安倍、菅、岸田三代の自民党政権の立法府軽視が一因だと私は考えている。
(06)
nippon.com版
日本国憲法では立法府が「国権の最高機関」とされているが、安倍政権以来、自民党政権は行政府を立法府より上位に置くことにひとかたならぬ努力をしてきた。その結果、国政の根幹にかかわる重要な事案がしばしば国会審議を経ずに閣議だけで決定され、野党が激しく反対する法案は強行採決された。国会審議は実質的には意味を持たない「形式的なセレモニー」であるように見せかけることに自民党政権は極めて熱心だった。
日本国憲法では立法府が「国権の最高機関」とされているが、安倍政権以来、行政府を立法府より上位に置くことに自民党政権はひとかたならぬ努力をしてきた。その結果、国政の根幹にかかわる重要な事案がしばしば国会審議を経ずに閣議だけで決定され、野党がはげしく反対する法案は強行採決された。国会審議は実質的には意味を持たない「形式的なセレモニー」であるように見せかけることに自民党政権はきわめて熱心だった。
(07)
nippon.com版
安倍元首相は「私は立法府の長である」という言い間違いを繰り返し口にした。これはおそらく「議席の過半数を占める政党の総裁は自由に立法ができる」という彼自身の実感を洩(も)らしたものであろう。だが、法律を制定する立法府の長が、法律を執行する行政府の長を兼ねる政体のことを「独裁制」と呼ぶのである。つまり、彼は「私は独裁者だ」という民主主義の精神を全否定する言明を繰り返していたことになる。
安倍元首相は「私は立法府の長である」という言い間違いを繰り返し口にした。これはおそらく「議席の過半数を占める政党の総裁は自由に立法ができる」という彼自身の実感を洩らしたものであろう。だが、法律を制定する立法府の長が、法律を執行する行政府の長を兼ねる政体のことを「独裁制」と呼ぶのである。つまり、彼は「私は独裁者だ」という民主主義の精神を全否定する言明を繰り返していたことになる。
(08)
nippon.com版
現行憲法下で独裁制を実現するために、差し当たり最も有効なのは「立法府の威信を低下させること」である。有権者の多くが「国会は機能していない」「国会審議は無内容なセレモニーにすぎない」「国会議員は選良ではなく、私利私欲を優先する人間だ」という印象を抱けば、民主政は事実上終わる。
現行憲法下で独裁制を実現するために、さしあたり最も有効なのは「立法府の威信を低下させること」である。有権者の多くが「国会は機能していない」「国会審議は無内容なセレモニーに過ぎない」「国会議員は選良ではなく、私利私欲を優先する人間だ」という印象を抱けば、民主政は事実上終わる。
(09)
nippon.com版
だからこそ、自民党はこの12年間、国会議員は(自党の議員を含めて)知性的にも倫理的にも「普通の市民以下かも知れない」という印象を扶植することに並々ならぬ努力をしてきたのである。そして、それに成功した。知性においても徳性においても「平均以下」の議員たちを大量に生み出すことで、自民党は政党としては使い物にならなくなったが、その代償に立法府の威信を踏みにじることには見事な成功を収めた。
だからこそ、自民党はこの12年間、国会議員は(自党の議員を含めて)知性的にも倫理的にも「ふつうの市民以下かも知れない」という印象を扶植することになみなみならぬ努力をしてきたのである。そして、それに成功した。知性においても徳性においても「平均以下」の議員たちを大量に生み出すことで、自民党は政党としては使い物にならなくなったが、その代償に立法府の威信を踏みにじることにはみごとな成功を収めた。
(10)
nippon.com版
その帰結が、「代議制民主主義を嘲弄する」人々が選挙に立候補し、彼らに投票する多くの有権者が少なからず存在するという今の選挙の現実である。
その帰結が、「代議制民主主義を嘲弄する」人々が選挙に立候補し、彼らに投票する多くの有権者が少なからず存在するという今の選挙の現実である。
(11)
nippon.com版
NHK党は、暴露系ユーチューバーで有罪判決を受けたガーシー(本名・東谷義和)元参院議員を国会に送り込むなど、国会の威信、国会議員の権威を下げることにきわめて熱心であったが、これは彼らの独創ではない。自民党が始めたゲームを加速しただけである。
(無し)
(12)
nippon.com版
今回の都知事選で2位につけた石丸伸二氏も前職の広島県安芸高田市長時代に市議会と繰り返し対決し、市議会が機能していないことを訴え続けてネット上の注目を集めた。これも「立法者」と「行政者」は対立関係にあり、「行政者」が上位にあるべきだという、安倍元首相が体現してきた「独裁志向」路線を忠実に踏まえている。
今回の都知事選で二位につけた石丸伸二候補は安芸高田市長時代に市議会と繰り返し対決し、市議会が機能していないことを訴え続けてネット上の注目を集めた。「立法者」と「行政者」は対立関係にあり、「行政者」が上位にあるべきだという、安倍元首相が体現してきた「独裁志向」路線を彼は忠実に踏まえている。
(13)
nippon.com版
日本維新の会も「独裁志向」では変わらない。「議員の数を減らせ」という提言は「無駄なコストをカットする」合理的な政策のように聞こえるが、実際には「さまざまな政治的立場の代表者が議会で議論するのは時間の無駄だ。首長に全権委任しろ」という意味でしかない。
維新の会も「独裁志向」では変わらない。「議員の数を減らせ」という提言は「無駄なコストをカットする」合理的な政策のように聞こえるが、実際には「さまざまな政治的立場の代表者が議会で議論するのは時間の無駄だ。首長に全権委任しろ」という意味でしかない。
(14)
nippon.com版
自民党派閥の裏金問題は、国会議員たちがその地位を利用して平然と法律を破っている事実を白日の下にさらした。この事件は「国会議員はろくな人間ではない」という民主主義を空洞化するメッセージと、「政権に近い議員であれば、法律を犯しても処罰されない」という法の支配を空洞化するメッセージを二つ同時に発信していた。
自民党の裏金問題は、国会議員たちがその地位を利用して平然と法律を破っている事実を白日の下にさらした。この事件は「国会議員はろくな人間ではない」という民主主義を空洞化するメッセージと、「政権に近い議員であれば、法律を犯しても処罰されない」という法の支配を空洞化するメッセージを二つ同時に発信していた。
(15)
nippon.com版
このメッセージを「警告」として受けとった人は「今のままではいけない」と思って政治改革を目指すだろうが、このメッセージを「現状報告」として受けとった人は「民主政は終わった」という虚無感に蝕(むしば)まれてへたり込んでしまうだろう。そして、どうやら日本人の相当数は、この事件のニュースを「世の中とはそういうものだ」という諦念と共に受け止めたように見える。
このメッセージを「警告」として受けとった人は「今のままではいけない」と思って政治改革をめざすだろうが、このメッセージを「現状報告」として受けとった人は「民主政は終わった」という虚無感に蝕まれるだけだろう。そして、日本人の相当数は、このニュースを「世の中とはそういうものだ」という諦念と共に受け止めたように私には見える。
(16)
nippon.com版
英国の首相チャーチルはかつて「民主政は最悪の政治形態だ。ただし、過去の他のすべての政治形態を除いては」と語った。なぜ民主政は「最悪」なのか。それは運用が極めて困難な政体だからである。民主政は「合理的に思考する市民」が多く存在することを前提にした制度である。有権者の多数が「まともな大人」でないと、民主政は簡単に衆愚政に堕す。だから、民主政は人々に向かって「お願いだから大人になってくれ」と懇請する。市民に向かって政治的成熟を求める政体は民主政の他にはない。
英国の首相チャーチルはかつて「民主政は最悪の政治形態だ。ただし、過去の他のすべての政治形態を除いては」と語った。なぜ民主政は「最悪」なのか。それは運用がきわめて困難な政体だからである。民主政は「合理的に思考する市民」が多く存在することを前提にした制度である。 Permalink | 記事への反応(1) | 18:42
きっとちがうよ
だって私は わたしが生きるために あの人に生きて欲しかったんだから
それはきっとちがうんだよ ちがったんだよ
それはきっと あいなんかじゃないよォ…
某所より気になった感想を抽出し、思いついたことを書いていく試み
171 ななしのよっしん
2018/09/30(日) 13:48:11 ID: f8xlQvMm3b
あさひもしょうこも(てかこの作品のほぼ全員)私が生きるためにあの人に生きてほしいを地でいくキャラだったからあの結末は残念でもないし当然
あさひはこれからのこと考えると可哀想だがしょうこは裏切ったうえに盗撮までして友達の私を信頼してはほんと無理だったから死んでよかったよ
173 ななしのよっしん
2018/09/30(日) 15:30:33 ID: 6m5ZAUyP0F
友人思いのあつかましさや正義感が仇になってさとうを裏切り殺されたしょうこ
大人の女性からセクハラを受けまくって気が狂いしおからも見捨てられて廃人化した太陽
元からの変態性に加えさとうを詮索してやり込めようとして失敗し逮捕された先生
DVを受けていたとはいえしおを拒絶して全ての元凶になった母親
絵のモデルとしてさとうを招きしおに対するさとうの気持ちを察するや自分の望むさとうでなくなることに怒り、手を挙げて殺された部屋の主
さとうと愛の形で対立しつつも結局最後までさとう達に協力して逮捕された叔母さん
必死に妹を思い自分と自分の母親の元で幸せに生きさせようとしたが、最後にはしおの心を完全に奪われたあさひ
愛の形を証明し心中を受け入れるも、結局しおを生きながらえさせて、しおを自分の愛の結晶としてこの世に残すことに成功したさとう
幼児退行や記憶障害は治ったが、さとうの愛に完全に共鳴して強い意志を持って傾倒する狂人となったしお
全登場人物で本当の幸せを掴んだのは実はさとうだけかもしれない、しおは客観的に見ると環境が災いして人格を塗り替えられた不幸な子だと思った
182 ななしのよっしん
2018/10/01(月) 05:10:48 ID: CEiFINjjYU
一見人魚姫みたいで綺麗な終わり方だけど冷静に見ると、さとうがおばさんにされて嫌だった「愛ってこういうものだよ、とても素晴らしいよ」の押し付けを結局しおにも繰り返してるだけっていうのがなんか考えさせられる
表面は綺麗だけど、しおもかつてのさとうみたいに歪んだ愛の価値観に縛り付けられて生きると思うと…
185 ななしのよっしん
2018/10/01(月) 11:23:57 ID: VrrOXonf2W
しおはさとうの愛で満たされてるけど
190 3543
2018/10/02(火) 09:27:55 ID: PTz4syDQ1u
こういう話は因果応報とは無縁の話だと思ったら、しお以外は因果応報の形になったのが意外。だが単純に法とか、一般的な善悪道徳を元にした勧善懲悪の因果応報じゃないのがミソだな。
だから、普通なら報いを受けそうにない立場のしょうこも、勝手な「ごく真っ当な価値観」のままさとうに迫り、信じると言いながら結局目を逸らしてしまったことが、致命的な罪となって、その裏切りの報いとして死んだ。
単に犯罪したからだけじゃなく、自分の価値観を押しつけ続けて相手を碌に見なかったり、何より愛に真摯じゃないキャラは報いを受けた訳だ。
しおに関しては、さとうと限りなく噛み合っていたが、共犯者の面もあるし、最後に庇ったさとうの愛が本当の愛なのかしおへの裏切りなのか、あの結末が救いなのか呪いなのかわからんのはいい感じだと思う。
206 ななしのよっしん
2018/10/15(月) 17:02:35 ID: MYkV3cCihu
さとうはあらん限りの意志の力によって、
ある意味、恋の夢である「愛する人とひとつになる」を実現してしまった
人間の精神が分割できないindividual(個人)という見方は社会的な事務上のフィクションで、
内面には複数の「分人」がいるわけで、その一つとしてミニさとうがしおの人格にインストールされた
だが本当に恋の夢が実現されたとしてそれは本当にいいものなのか?と思わされる
意志の強烈な輝きと同時に、それがもたらす災厄も描かれてる
強い意志というのは、結局高確率で目的を果たす魔力はあるけど、被害も生むことを示してる
214
2018/11/14(水) 00:15:54 ID: DvW+BJx4zX
この作品、ほぼ同時期に映像化(向こうは実写化だけど)された監禁モノ作品と決定的に違う所がある
これこれこういう可哀想な目にあったから容認すべき・同情すべき、という風な作品のトーンにしてない。あの純真そうなしおちゃんも含め、出てくるキャラが(一部以外)殆ど全員自分のエゴの為だけに動いてる。
さて、感想
「わたしが生きるために あの人に生きて欲しかったんだから」という叫びで自らと登場人物すべての罪を糾弾したこの言葉
では、いったい何が愛だったのか、どうすれば愛だったのか、愛は何故減るのだろうか(ニヒリズム)
「お互いの事を思いあい、助け合い、真に理解しあう」が、「プロレスは本気で戦っている」と同様のお約束であることは肯ずるところだろう
富めるときも貧しきも、病める時も健やかなる時も、死がふたりを分かつまで、愛し慈しみ貞節を守ることをここに誓います。
本作でも繰り返し述べられる誓いの言葉だが、やはり難しい
貧すれば鈍する、衣食足りて礼節を知る
満たされない人間が愛についての理想を掲げ、存在しないものを追い求める様は悲喜劇的である
残念ながら、愛というのは幻想入りしている
では何が存在するのか、現実・日常に耐えられるだけの実在性を担保できるのか
逆説的だが、まさにそれこそが愛、つまり個々人の中にしか存在しない幻想だと思われる
「相手は分かってくれくれるかも知れない」「自分を救ってくれる誰かがいるかもしれない、そんな時が来るかもしれない」「これこそが愛の本質なのかもしれない」という期待、幻想、思い込み
それに従って相手を志向し、期待し、求め、望み――そして、拒絶され、断罪され、絶望する
その果てに関係性を何度でも再構築し、自分自身の幻想・信念ですら変えていく
自分に合わせて現実を変えるのではなく、圧倒的な実在性(=他者性)のある「現実世界」に打ちのめされ、変わらされていく
他者論という観点から見れば、「誰にも否定されない絶対的な真理」を作り出すことは不可能である。一方で「他者」は、単に真理への到達を妨害する忌むべき存在というわけではなく、「私」を自己完結の孤独から救い出す、「無限の可能性」でもある。いかなる哲学、科学、数学を作り出しても、必ずその外部から「違う」と叫び叩き潰してくる、理解不能で残酷な「他者」が現れる。「他者」が現れるからこそ、自己は自己完結して停滞することなく、無限に問いかけ続けることができる。
然し、真理といふものは実在しない。即ち真理は、常にたゞ探されるものです。人は永遠に真理を探すが、真理は永遠に実在しない。探されることによつて実在するけれども、実在することによつて実在することのない代物です。真理が地上に実在し、真理が地上に行はれる時には、人間はすでに人間ではないですよ。人間は人間の形をした豚ですよ。真理が人間にエサをやり、人間はそれを食べる単なる豚です。
(中略)
もとより、私は、こはれる。私は、たゞ、探してゐるだけ。汝、なぜ、探すか。探さずにゐられるほど、偉くないからだよ。面倒くさいと云つて飯も食はずに永眠するほど偉くないです。
私は探す。そして、ともかく、つくるのだ。自分の精いつぱいの物を。然し、必ず、こはれるものを。然し、私だけは、私の力ではこはし得ないギリ/\の物を。それより外に仕方がない。
――坂口安吾「余は弁明ス」
「人間の精神が分割できないindividual(個人)という見方は社会的な事務上のフィクションで」
という言葉が正鵠を射ているように、人間はそれ単体で存在し得ない
人のすむところ。世の中。世間。人が生きている人と人の関係の世界。またそうした人間社会の中で脆くはかないさまを概念的に表すことば。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。
永遠に求めるが手にし得ないものを、その霊台方寸のカメラにおいて捉える故に、他者を必要とし、そしてそれに打ち倒される
揺るがない物理的存在としての肉体がその繰り返しを支え、人を生き長らえさせている
今日、愛の不在を叫んだ神戸しおも、その10年後には同じ気持ちでいるかは分からない
「十で神童十五で才子二十過ぎれば只の人」は、決して絶望の言葉ではないのだ
BPDの症状が年齢経過で落ち着いてくるということと似ており、時はすべてを均してくれる
凡人に身をやつすことは、救いでもあるのだ
「理解の出来ない他者」としての親、そして「愛情」という名の甘やかな「支配」について
他者論という観点から見れば、「誰にも否定されない絶対的な真理」を作り出すことは不可能である。一方で「他者」は、単に真理への到達を妨害する忌むべき存在というわけではなく、「私」を自己完結の孤独から救い出す、「無限の可能性」でもある。いかなる哲学、科学、数学を作り出しても、必ずその外部から「違う」と叫び叩き潰してくる、理解不能で残酷な「他者」が現れる。「他者」が現れるからこそ、自己は自己完 結して停滞することなく、無限に問いかけ続けることができる。
レヴィナスによると、「他者」は「理解されえない、言い換えれば包括されることが不可能なものである」とされ、「所有を、私のさまざまな権能を拒む」とされている。すなわち「他者」は、「私」(自己)の内面を切り崩し、空にし、「私」として安住することを辞めさせ、「私」を超えたものを求めざるを得なくさせる。
最後に、くり返しになってしまうがまとめておこう。他者はいつでも私にとっては「理解できぬ不気味な存在」でありえる。その不気味さが同じチームのなかで突然浮かび上がることがあるし、理解という手法でそれを解決することはできない。むしろ、その「理解できなさ」こそが、一種の救いなのだ。他人の心に踏み込んでいったり、他人と自分を同じ存在だと思ってしまったりすると、正常な距離は失われることになってしまう。
だから、互いに「理解できない不気味な他者」として関わり、そしてそれゆえに「共にいる」こと。わたしたちはそうした関係に満足しているべきだし、そうした関係にこそ価値がある。
――ティッシュ専用ゴミ箱2 「女児向けアニメで描かれる「他者の理解できなさ」について。あるいは、女児向けアニメは家族の問題とどのように向き合ってきたか。-『プリティーリズム』『プリパラ』を一例にして」
友田は、折々に「ブライアン氏」が「真空」、すなわち、独りの状態になる必要があると言及していることに着目しました。対するセラピストは、その度に、中立または否定的に、これに応じています。セラピストは理論上は、非指示的であり続けましたが、一般の西欧のセラピストと同様、孤独な状態もしくは真空の状態の治療効果について非常に熱心だったわけではないようです。
友田の見解では、「人間というものの真の飛躍もしくは成長は、完全に一人ぼっちであるときに生起する。個人の飛躍もしくは成長を確かなものにするのは、何らかの人間関係においてか、もしくは現実の世の中においてである。がしかし、真の成長がおこるのは、現実の人間関係においてでもなければ現実の世の中においてでもない」
友田はさらに、「このことはまた、禅の真理である。(中略)カウンセリングに関して言えば、ロジャーズ派の技術の真義は、それらの技術がクライエントを援けて完全に一人ぼっちである状態になるようにすることである。」と続けます。
―中略―
母性的尽力的配慮は相手を甘やかしたり、子ども扱いするものですし、父性的訓育的配慮は相手を支配したり、奴隷化するものでしかないわけです。第三自我形成期(第三反抗期)を超えてレベルⅢの人格に到達することは、本人にとっても周りの人々にとっても、大変難しい困難なことでもあります。
理不尽な強制としてこの世に生を受けた幼子は、若者となり、己の意志でもう一度生誕を決意する。
自分が何者であるかを胸に刻み、望んでこの世界に生まれた二度目の赤子として自分自身の人生を歩み出すのだ。それは神聖なる契約であり、人はそうして連なってきた。それが人をいままで繋いできた。
にゃん太はそれを守るためならば、我が身を灰にしても構わないと思った。ロンダークがそれを知ってくれるのならば、どんなことでもしてやりたいと思った。
世界、つまり親による絶対的かつ暴力的な侮辱によって、人は育っていく
愛情という名の「自己犠牲」、それと表裏一体の過干渉という、そのさらに裏にある「自己憐憫・自己満足」は人を根腐れさせる
あなたと私は違う
だから、あなたは世界からの期待に応えなくても良いし、応えても善い
あなたの両の目が見て、耳で聞いて、触れ、脳内で像を結んだものだけが「世界」に過ぎない
それ故に、あなたが何と対峙するかすらもあなた自身の問題である
@Gesu_Masuda
死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。
言葉にしてしまうと平凡だが、そのときの僕はそれを言葉としてではなく、ひとつの空気のかたまりとして身のうちに感じたのだ。文鎮の中にも、ビリヤード台の上に並んだ赤と白の四個のボールの中にも死は存在していた。そして我々はそれをまるで細かいちりみたいに肺の中に吸いこみながら生きているのだ。
死とは何であろうか、という根源的な問いに対して答えようとした哲学者は多数いる。
例えばハイデガーがそうである。私はハイデガーの著作を簡単に理解できるほどの頭を持った人間ではないが、ハイデガーは人間存在をして、"Sein zum Tode"、つまり「“死”へと向かう存在」であるとして捉えている。
死は我々にとってあまりにも大きな存在であり、時に我々の在り方は“死”そのものによって規定される。
無論、そういう言い方はあまりにも“死”というものを大きく捉えすぎている、という反論もあるだろう。“死”というものはあくまで実体を把握できない彼岸にある存在で、我々にとって死とは多くの現象の一つに過ぎないか、あるいは文化として我々の前にあるものの一つに過ぎないと言うこともできるだろう。
その中で、村上春樹は“死”というものを「万物がその内側に抱え込み、育てているもの」とした。
彼はその存在について「何かぼんやりとした空気のかたまり」と称してもいる。
空気、というのは一つのキーワードでもある。スピリット、という言葉の語源は“空気”という言葉と根を共にしている。というのは、聖書の上で泥の人形だった我々に魂を注いだのは、まさしく神の息吹だったからである。
“死”とは一体何であろうか。
我々とって死とは、村上春樹の言う通り、「内側で腫れていく存在」と言えるのであろうか。
結論から言ってしまおう、それは、“死”というものの一側面に過ぎないのではないだろうか。
“死”とは確かに我々の内側にも存在している。しかし、それは同時に彼岸にも存在するものでもある。
彼岸に存在する死は、常々我々から遠ざけられている。日常において“死”を意識する瞬間はほとんどない。あるいは、葬儀などの機会に出くわしたとしても、その存在を具体的にはっきりと捉えることはないのである。
しかし、それでも我々は死に常々触れている。“死”は彼岸にありながら、確かに我々のすぐ傍に寄り添っているものでもある。
我々が様々なものを認識するときにもまた、死は我々のすぐ近くに存在している。
例えば、我々が何かに触れようとする時、その皮膚と対象との間のすぐ近くに、死は存在している。
我々は、例えば人の手に触れる。その時に、我々にとって相手のてのひらと自身のてのひらとの間に、死は存在しているのである。
死とは、我々のすぐ傍にあり、そして我々との間に境界線を形作るものでもある。死は、我々が何かと触れ合おうとする度に、その介添人として、我々の手を取り、そしてその対象と我々を結びつけるものなのである。
これがどういうことかお分かりであろうか。つまり、死は常に我々と触れ合っており、その死と我々との間にできた境界線と呼ぶべきものが、我々の触れている一切のものとの間にできた境界線に関わっているのである。
フランスの哲学者、エマニュエル・レヴィナスは次のように言っている。
しかし、私はそうは思わない。死は我々のすぐ傍にある。だからこそ、我々の存在、そして我々を縁取っている境界線と呼ぶべきものは、はっきりとした形で我々の認識に晒されるのだ、と。
確かに、我々は死を内側に含んでいる。
それはまるで胎児のように、あるいは生命の萌芽のようにして含まれている。そして我々はその死を育み、時にその死を拒もうとするものである。
しかし、時にその死こそが我々の境界線を規定している。死こそが、我々とその外部の世界とを結びつけ、我々と世界の間に境界を生み出し、そして我々のうつろいゆく認識というものの介添人となっているのである。
死とは、彼岸にあるものでもある。それは、我々の内側で腫れていき、今ぞ誕生の時を願っているところの(あるいは死産の恐怖に怯えるところの)胎児の存在にも喩えられる。
しかし、死とはそれと同時に、我々と世界との間に、あるいは、我々の手のひらと手のひらとの間に、芽生え、我々の関係を取り持ち、我々と世界の全てとの変化を結びつける介添人でもあるのである。