はてなキーワード: 意識とは
街コンに行くと、いつも何を話すべきか迷う。
人が集まる場だし、みんな軽い話題で盛り上がってるんだろうけど、俺はいつも違う。
女性たちは不思議そうな顔をしていたけど、そんなのはお構いなしだ。
だって、これは美の根本に関わる話なんだから。誰でも分かるだろう。いや、分からなきゃおかしい。
「たとえば、ピタゴラスの定理。a² + b² = c² なんて、中学生でも知ってるでしょ?でも、あの定理が持つ幾何学的な美しさ、理解してます?ただの数式じゃないんですよ、これは宇宙の秩序そのものを象徴してるんです。直角三角形の辺の比が、どうしてあんなに完璧に収まるのか、その背後にあるシンメトリーとバランス、これはただの計算じゃ説明できないんです。幾何学は、自然界に隠された美を可視化する手段なんです。あなたの顔のすべてのパーツはそれを示しています。もしかしてお気づきになっていませんか?」
女性たちは相変わらずポカンとしていたが、そんなことは全く気にしない。
「それに、円と黄金比ですよ。黄金比の美しさって聞いたことありますよね? φ(ファイ)という無理数、1:1.618...っていうあの比率は、自然界でも至るところに現れるんです。貝殻の螺旋や、ヒマワリの種の配置、果てはギリシャのパルテノン神殿まで。これらすべてが、幾何学的な美しさの証明なんですよ。建築家や芸術家たちは、何千年も前からこの黄金比に魅せられてきたんです。それが美の基準なんです。たとえば、あなたが好きな絵画も、おそらく黄金比に従って構図が決まっているはずですよ。あなたのお顔もまさにそのとおりで、僕はあなたが数学的に美しいことを証明できます。」
ここまで来ると、女性の一人が「えぇ〜?本当ですかぁ〜?」と、曖昧な笑みを浮かべているのが目に入る。
だが、その目に理解の色はない。いや、むしろ遠ざかっているかもしれない。
それでも俺は一歩も引かない。だって、幾何学は俺の人生そのものなのだから。
「次はもっと複雑な話をしましょうか?ユークリッドの『原論』はご存知ですか?あれは古代ギリシャで書かれた数学書で、数千年の間、数学の基礎として使われてきたんです。『原論』の最初の定義は、点は幅を持たないもの、線は幅を持たず長さを持つもの。これをもとに、無限に広がる空間の中で幾何学的な図形を描くんです。そして、その空間の中に、あらゆる美が存在するんです。アポロニウスの円錐曲線における楕円の美しさなんか、誰でも感動するはずです。見てください!ほらあなたの腕はアポロニウスと言えるし、あなたの全身は原論の誕生にすら資するべき存在と言えるでしょう」
彼女たちは完全に引いていたが、そんなことはもう気にしない。
「俺にとって幾何学は、ただの学問じゃないんです。これは美を追求する哲学であり、生き方なんです。人々がモナ・リザやアフロディーテ像に美を見出すように、俺はピタゴラスやユークリッドにその美を見出しているんです」
幾何学の美しさを語り終えた頃、ようやくふと我に返り、周囲の反応を確認してみた。
皆、頬に赤みを浮かべているが、目は明らかに遠く、何か別の世界に意識を飛ばしているかのようだった。
ひとりは下半身をチラッと確認し、もうひとりは、首元の鎖骨の付け根あたりをいじっている。
こちらを見ている女性もいたが、彼女の表情はどう見ても「本当にこの人何を言っているの…」という困惑そのものだった。
「ええ、そうですね……幾何学って、すごいですね……」と、一人がようやく口を開いたが、その声には熱意も、理解も、ましてや感銘など微塵も感じられない。
表面的に場を繋ごうとするその言葉は、俺が夢中で語っていた美の真髄が、まるで真空の中に吸い込まれたかのように、何も響いていないのをはっきりと感じさせた。
もう一人が、さらに微妙な笑みを浮かべ、「あ、そうなんですか……それで、その定理って、なんでしたっけ……?」と、曖昧に質問してくる。
しかし、それは好奇心ではなく、ただ適当に話を引き延ばすための、無理やりな興味に過ぎないことは明白だった。
俺はその瞬間、すべてを理解した。
ああ、やっぱりこうなるのか、と。彼女たちの心を動かすことは簡単でも、幾何学的美しさを彼女たちに理解してもらうことはできないんだと。
俺の語るピタゴラスの定理も、黄金比の神秘も、彼女たちにとってはただの退屈な講義に過ぎない。
彼女たちは、たぶん俺の年収や、俺の背景、俺の地位の話を楽しみにしていたのだろう。それが街コンで求められる「会話」なのだ。
「まあ、こういう話、ちょっと難しいですかね……」と自分から話を切り上げるが、内心、虚しさと諦念がこみ上げてくる。
俺は分かっているんだ。結局、幾何学の美を理解できる人間は、ここにはいない。
諦めが胸に染み渡り、俺はふと目の前のグラスを手に取る。
冷たい水が喉を通り、ほんの一瞬だけ現実感を取り戻すが、同時に心の中でつぶやいた。
俺は幾何学を愛している。それだけで十分だ。理解されなくてもいい。これが俺の誇りなのだから。
女性たちがどれだけ俺に興味を持ったかなんて、もうどうでもよかった。
最終的に、女性たちがどれだけ幾何学に興味を持ったかは知らない。
だが、俺の中では確信がある。
幾何学こそが、真の美であり、それを理解しない者は本当の美を知らないのだと。
彼女たちには理解できない美が、俺の中にある。それだけで、俺は満たされているんだ。
俺は腰を振りながらそう思った。
ワイは就活サボりすぎて公務員くらいしかなれるものがなく仕方なく…という感じで公務員になったし、公務員なんてみんなそんな意識低いやつばっかだろと思って入庁したのでむしろ、「社会(自分の住む街)を良くしたい!」という意識の高いことを本気でおもっている人間がそこそこいることにびっくりした。
社会を良くしたいというモチベが本当に全く理解できないので、素晴らしい心がけだなあと思いつつ、不思議な生き物を見る目で彼らを眺めている。
経緯を書く以上、特定のジャンル名を誤魔化しきれないので明言します。話の流れでそのジャンルの2.5を悪く言ってしまう事を先に謝ります。
関係者の方々やその2.5を好きな方、本当にごめんなさい。
私は2.5次元、いわゆる漫画やゲーム等の舞台やミュージカル化が苦手だった。舞台化という存在を初めて知ったのが約10年くらい前でその時からコンテンツの新展開に大して期待感より困惑が強かった。
舞台化
こんな感じの認識だった。
その時の私が声(声優)が好きなオタクでもあったせいもあると思う。ゲームであれは原作からついている声。私はビジュアルに声優の声まで含めて1つのキャラクターだと認識していた。だから違和感が凄かった。
絶妙にキャラクターに似ているような、角度によってはそうでもないような人が自分のイメージの中と全く違う声で話していること自体にゾワッとしてしまった。
こんなの私の好きな○○じゃない、と宣伝の数十秒の動画で拒否反応が出てしまった。
結局初めて舞台化の存在を知ったコンテンツはそのまま好きでいることをやめた。そこまで舞台化が嫌だったわけじゃなくて、その頃のTwitterなんかで繋がっていたコンテンツを好きな人同士の集まりの中で自分だけが舞台を好きになれず、ついていけない気持ちが強くなったからやめた。楽しめない自分が嫌で嫌いだった。
その後も新たに好きなコンテンツができて舞台化する度に毎回界隈を卒業してきた。今回こそはと思って毎度舞台の宣伝動画は見るようにしていたけれど全て無理だった。私と好きなキャラクターとは違う何かが本人かのように振舞っているのにどうしても耐えられなかった。
そういうオタクで生きて、初めての2.5次元に触れてから約5年後。隠しきれないので言ってしまうと刀剣乱舞の新キャラに推しができてしまった。
その推しは追加キャラであり、好きになった時には既にコンテンツに舞台もミュージカルも存在していた。もちろん既に界隈が2.5次元を楽しむ人が多いのを理解していたけれど、どうしてもその推しが好きで好きで絵を描いたりもしたくなってTwitterにアカウントをつくった。2.5が苦手というだけで壁打ちにするつもりまではなかったから当然交流もした。新キャラだったから2.5のメディアミックスがあっても未登場だったからしばらくの間はなんの問題もなかった。
少しして舞台に推しが出ることになった。今回ばかりは分かってて界隈に足を突っ込んだ手前、いい加減本編をちゃんと見ずに毛嫌いして食わず嫌いするのはやめようと思って配信を見ることにした。
これだけ公演を重ねているジャンルの舞台ならイケるかもと思って決めた。
刀剣乱舞のゲームにはメインシナリオというものは存在しないため、舞台やミュージカルは完全オリジナルになる。私はその台本の話に拒否感を覚えてしまった。
一応身の回りの同じキャラクターが好きな人で2.5をよく見る人でも素直に喜んでいない感想もあったから台本に関しては一概に私の好みの問題だけではなかったんだと思う。でももちろん受け入れる人は受け入れる。新しく舞台が始まって私の推しが何度か出た後には、あの初登場の舞台は悪夢だったんだと言わんばかりに受け入れられていった。苦手意識を持ったままの私もそれ自体はとても喜ばしいことだと思った。
そして交流を持っていた私のタイムラインに舞台のレポ画像が多く流れるようになっていった。その絵を見ているのは楽しかった。だってそれは原作と同じビジュアルに描いた二次創作イラストだから。
だが次第に舞台での演者のアドリブがレポではなくまるで原作からの公式であるかのようにキャラクターに語らせる二次創作が増えてきた。
それが決定打になって界隈を抜けた。
舞台化してもキャラクターが好きだから、刀剣乱舞特有の「私の本丸」と「舞台の本丸」の認識でしのいでいた何かが限界になってしまった。同じキャラクターを好きでいる人同士で集まれたはずなのに私だけキャラクターの認識がズレている感覚。違う何かを見ているんじゃないかとすら思えた。
逆輸入がとか侵食だとかそういうのじゃなくて自分だけが好きなものを全て好きでいられないことが辛くなった。初めて舞台化を知った時と同じだった。
2.5次元が嫌いで楽しめない自分を直視したくなかったから界隈を抜けた。メディアミックスが多い公式だから周年の企画でも求められてる消費者じゃないなって気付いたのも大きかった。
それからまた数年経って、私はまた新しいジャンルにハマった。始まってから時間はそんなに経っていないものの舞台化は1回していたジャンルだった。
だから誰とも交流せず、学生時代の友人との話題にするくらいで舞台には触れずに楽しんだ。
ハマってから数ヵ月後に2回目の舞台の公演がある事を知った。私は怖いもの見たさで配信チケットを買っていた。
その方が私は私のオタク人生が楽しくなるんじゃないかと思ったからだ。
配信で見たものは前に見た舞台とは完全に別物だった。原作があったから原作通りの台詞を言う。知っている流れで好きだった場面が三次元に具現化していることに喜びを感じた。初めての感覚だった。
・原作絵がキャラクターよりはリアルに近い方の画風だったため引きのカメラであれば思っていたより違和感がなかった
・原作通りの舞台展開でキャラクター性と齟齬が出るような台詞がない
だと思う。
2.5の舞台も見ている友人と話をしたらそもそも原作なしの完全オリジナル台本でやっている舞台の方が少ないらしい。そりゃそうか。
刀の舞台で苦手意識を無くそうと苦手な台本の公演以外のものも配信を見てみたりした事が間違いだったのかもしれないことに気付いた。
人気だから、これだけ公演やってて映画もやるくらいだからきっと良いもので好きなれるはずという思い込みだった。
おかげで舞台化したからといって界隈を抜けるようなオタクではなくなった。今でも1番酷かった頃の1〜2割は違和感があるけれど舞台やミュージカルを楽しんでいるタイムラインを見ても辛くなくなったのは大きい。むしろおすすめで流れてきた某ラップの女性オンリー舞台の動画を見て舞台からコンテンツに興味を持つようにすらなった。
例えば、株式投資なんかは、株で増やそうと考えてると、少し上がって有頂天になって買い増して、少し下がったら弱気になって売り払ってを繰り返し、結局増えない。
金なんて失ってもいいと思ってるときに買うと、右往左往しないので結局増える。これは本当に調査されてて、一番リターンが高い人の共通項は、買ったことを忘れてただそうだ。
恋愛も同じだ。心に余裕がないと、恋愛に臆病になる。拒絶されることを恐れて、最初から行動しない。勝ち負けじゃないし、拒絶されたからといってなにがあるでもないのに。
もし自己肯定感がないなら、キャバクラでも風俗でもいいから、金で買ってでも自己肯定感をチャージするべきだ。自分の機嫌を自分で取れないなら、金で買うしかない。モテないのは社会が悪いと憎むよりずっとマシである。
たまに匿名ダイアリーにでる、国立大学出なのにモテないとか、院卒なのにモテないとか、年収600万なのにモテないとか、そもそもそういう発想が病んでるし、犯罪者予備軍だと思う。
part1 https://anond.hatelabo.jp/20240914181511
part2 https://anond.hatelabo.jp/20240914181619
2007年に三井倉庫でGWのバイトの労災事故が発生。だがこのバイトは三井倉庫に派遣されたのではなくて、東和リースに派遣されたものだった。しかも三井倉庫は東和リースとは契約していなかった。横浜の港湾会社、笹田組に依頼していたのだ。つまり、三井→笹田組→東和リース→GW社と三重派遣状態だった。笹田組は名前から察しが付くように沖仲仕の組だったところが法人成りして事業を変化させてきた会社だ。つまりは港湾業務へ派遣したことになる。しかも禁止されている二重、三重派遣。その上での労災事故。
そもそも東和リースは港湾かどうかなど考えなしに派遣を行っており、こういう事になるのは時間の問題だった。
港湾の近くの倉庫が港湾業務にあたるか?という時点でも行政の胸先三寸であるのに、港湾業経由で派遣してたら言い逃れ出来まい。
そんな訳で、2008年には営業免許を取り消されて倒産した。直接の処分理由は同労災事故で港湾どころか船に入って仕事しているのがバレ、それに割増し手当を払っていたので故意が明白となって社員が逮捕された為だが、きっかけは上記労災である。
2007年にはGW子会社のコムスンの行政処分もあって、折口氏は米国に逃げてしまった。潮の流れが己の逮捕に向かっていると察しての事だろう。
創業当初のGW社は違法状態であった。だが時代が味方をして規制緩和で合法状態となった。それで莫大な融資を受けて業績を急拡大した。
一方、00年代中ほどからワーキングプア生産装置としての派遣業の拡大が社会的に問題になってきた。戦後労働行政の労働者保護と規制のコア業態に関しては派遣自由化をさせなかったのにそれを甘く見ていた。このコア二業種については社会保険や労災保険について勉強すると必ず出てくる。
この二業種の一つ土建への派遣で労災事故があり、コンプラを意識せざるを得なくなり失業する常駐労働者の就職斡旋まで行った。コンプラが利益になる局面が来たのだ。
だがそれに至らず、もう一つの規制業種の港湾での派遣で事故が起こり、社員の逮捕にも至り倒産した。コンプラが利益になる局面なのに東和リースがヤバい事をしていると炙りだし切れなかった訳だ。
でも東和リースがやってる事自体は買収以前からの社員も派遣されたバイトも知っていた。それが違法性が高いという事が判らなかったのだ。
一方、本社ではコンプラが大事だという意識にはなったが、契約先のどこに問題があるかを掴めなかった。
それは何故か?
まず、買収した会社の客だったからだ。己で開拓した客じゃないので客先が実際にどういう事をしているかという事をチェック出来ていない。
次に元から違法操業で、違法操業の会社を買収した。コンプラ意識がある社員が適切に配置されていない。
更にバイトを支店長に昇格させた。「やる気」と「のし上がり」だけを鼓舞して社員教育が出来ていないからいきなりコンプラ大事になっても、事業内容から「東和はヤバい」と報告したり契約解除を進言したりする者が居ない。
土建でNGが出たから港湾もアウト、という事を社員に説明して理解させていない。それには戦後労働行政の基礎を教えなきゃならないし、それ以前に行政の裁量の広さなどを教養として教えておくべきであった。
行政の裁量で黙視はOKじゃなくて胸先三寸という事の理解が足りなかった。政府が規制緩和を進めている最中なら認められているように見えるが、一旦逆ハン切り始めたら甘い見立ては全て裏切られる。
全員の顔を見る支店長会議をして意思疎通が出来ていると思っていた。そんなやり方じゃなくて脳から神経を伝って指先が動くような社内ネットワークを築く必要があった。何しろ東和リースの事を知っている者は沢山居たのにそれがヤバいと認識する者が誰もいないというのは異常な組織だ。こんな誤解をしてしまうくらいなら全員会議なんてすべきではない。トップが満足して社員も一体感を感じるだけの堕落を生ぜしめたと言っても過言ではない。
いずれにしても、東和リースの問題を炙り出せれば倒産は回避できたのに、買収した会社の開拓した客で、実際はどの会社のどの場所に派遣されてるかが派遣された人間に全部聞かないと判らない、途中に港湾業が入っていても契約書にも作業伝票にもどこにも出て来ないという難問であった。
それなのに会社組織の作り方に失敗し、違法操業から出発しているのでコンプラとか言っても念仏としてしか機能せず難問は解けなかったのだ。
カカチャンネルなどの人気シリーズ【しくじり企業】では、GWの倒産を法令遵守に興味がない経営のせい、と結論付けている。
https://youtu.be/QviiLg8rQ48?si=DxamXjc0OxUuDPwg
勧善懲悪的だが、上記を読んだらこれが間違いだと判るかと思う。何故って、他の会社も全て違法操業だったのだ。その中でGWだけが急成長して倒産に至ったのだ。会社が大きくなったらやるべき事をやっていなかったのだな。
更に途中でコンプラを意識しないと潰れるという意識が上層部には生まれたのに、それを下まで周知出来なかった為に倒産したのである。そんな教育をしておらず、そんな事を知る人間を適切に配置していなかった。
また、コンプラと言っても闇雲な全域での遵法が必要という訳じゃなくて、戦後労働行政のコア業務二種を知り、そこを重点的に守れば他は行政指導などで済んだのに、ポイントを外していた。
この土建、港湾の特別扱いの事は、労災や社会保険の事を勉強すると出てくる常識的な事で、労働者の権利や労働法に強い弁護士とかよりも、会社の総務部などに近い知識だ。だから「会社」に成り切れてなかったんじゃないか、ということも出来る。
で、最後に兵庫県知事に戻ると「知事の炎上もGWの倒産も港湾利権の闇」なんかじゃない。その構造は過去帳入りしている。しかし労働行政は前例主義で沖仲仕の保護と派遣禁止の立場をとり続けていて、時代と時の政府にちやほやされた考えの甘い問題企業がそのシマでシノギやってるのを目で追い、風向きが変わった辺りでぶっぱなしたのだ。
part1はこちら https://anond.hatelabo.jp/20240914181511
GWを興した折口雅博はジュリアナ東京とベルファーレを興した有名人物。防大卒で、任官拒否して日商岩井に就職、同社在籍中にイギリスのディスコ、ジュリアナのライセンスと経営元の出資を受けて芝浦にジュリアナ東京を開店し、社会現象ともなった。次いで六本木にベルファーレをオープンするが、共同出資者のAVEXにクーデターを起こされ社長を解任されてしまう。
AVEXは元はダンス系の輸入レコード卸で、ディスコ用レコードというのは六本木の坂下のウイナーズレコード、六本木WAVEくらいしか扱わず、スモール商売だったが、英国でダンス音楽がメジャー化してきて市場が大きくなって来ていた。そこでAVEXも自社レーベルを作り、更にダンスユニットタレントを売り出すなど商売を大きくしている最中であった。日商岩井を退職して同社とのスジが切れた折口のカリスマの下で商売するつもりはなくなっていた。
労働基準法では人材派遣は基本禁止である。だが1985年に派遣法が施行されると事務職のうち技能職、ガイド、受付係など一部の職種のみが解禁され、終身メンバーシップ型組織に属さない自由な働き方と持て囃された。
だがその一方で、建築現場や工場、引越し、事務所移転、物流など、許されていない業務への違法派遣が増えて行った。これらは業務請負の形を取っていた。偽装請負と呼ばれる。
そもそも禁止業務への派遣だから、ブルーオーシャンである。ノウハウ蓄積も資本も資材も必要なく、口八丁だけで営業可能だ。
最初のGW社もこれら取るに足らない違法零細偽装請負の一つでしかなかった。
だがGW社が違うのは、折口氏が経営者であった事だ。経済誌によくインタビューが載った名物経営者の新ビジネス、という事で、リクルートなどが度々インタビューを掲載した。
折口氏のもう一つの特長が、日商岩井時代に築いた銀行とのコネ、信用である。1997年、介護保険のスタートを受けて、介護事業者のコムスンを買収。ただの偽装請負会社に買収資金を出してくれる銀行はない。折口氏のコネとカリスマがあってのものであろう。
1999年に派遣法が改正され基本自由化、ネガティブリスト方式になる。禁止業務は港湾、建設、警備、医療、製造。製造は後の2004年に自由化。このうち警備は警察の監督事業で、やはりヤクザの企業舎弟排除の歴史と立法趣旨がある。
偽装請負だった業務も一般派遣業として運営できるわけで、ここでGW社は急激に事業を拡大している。
その方法はやはり事業買収で、既存の偽装請負事業者を買収しまくり、従業員と設備、事務所の賃貸物件ごと吸収している。
次に2000年にオープンした六本木ヒルズの1フロアを契約(賃料1000万円/月)。
CMを打ちまくり、携帯電話だけで短期バイトが出来る「モバイト」として労働者を大量募集した。
支店をオープンしまくったらその店長が大量に必要だ。その店長は、買収した業者のバイトで正社員希望の者を募ってあてがった。オープンしたては営業してないから仕事も無いしバイトも来ない。
仕事は買収した業者の既存支店から回して貰う事にして、バイトも増えて仕事が回るようにるまでは店長ワンオペとした。朝6時から22時くらいの勤務となるのでずっと泊まり込みとなるが、ブラック企業ではそれ以上の会社も多いし正社員をエサにしたらそれくらいの激務で音を上げる者は居なかった。
この事業資金は銀行から借りていて、その金額は400億だという。
90年代から銀行は中小零細や個人経営商店と取引しなくなっていて、それらの法人客には子会社のノンバンクを紹介していた。夜間金庫も撤去。最近、小銭の両替料を取る様になったのも同じ理由で、小さい会社は客ではないのだ。客として有用に考えていれば両替は商売に必要だからコストは銀行が持ちにする。偽装請負だった日雇いや短期バイト派遣事業に400億とはべらぼうな話で、零細経営者だったら頭にくる話である。
例えば買収された業者の一つには「ラインナップ」社がある。ここは都内城西城北地区で事業をしていた。基本、偽装請負なのでイベントの設営、引越し、事務所移転、内装など色々な業種へバイトを派遣するのだが、勤務歴が長いフリーターが多いので半職人化して、作業内容を説明したら放ったらかしで養生などの準備から始めて、他の業者との作業のカチ合いを調整、作業完遂、片付けまで出来たり、内装では工具を持参して図面を見て指示通りに工事をしたりと、請負業務に近い事が出来る。
ここの買収額は10億であった。工具や台車、養生材など資材込みの値段だが、元が偽装請負の結構いい加減な会社に10億出すのが適当か、そもそも値段がつく業態なのか、という気がする。
この会社の社長は今でいうFIREして悠々とした生活をしていたそうである。
こういう業者は他にも多く、客先には「モバイトじゃない方です」と案内していた。モバイトは急募されたノンスキルのバイトなのでいちいち説明が必要だが、そうじゃない半職人で指示と監督が最低限の方です、との意だ。
バイトから昇格させた支店長を含め、買収でGW社員となった支店長の意識age、意思疎通の為に月に一度六本木ヒルズ本社に少なくとも関東の支店長を全て集め、店長会議を行っていた。人数が多いので実際は経営方針の訓告や目標の訓告が中心であった。
これで顔を会わせて意思疎通が出来ていた…と思っていた事が後の悲劇を生む。
急成長していたが、元が偽装請負の違法業務でありその構造や客先などはそのままだった。派遣が自由化されて業態を一般派遣業にした為に融資を受けたのだが、禁止業務だった建築、港湾への派遣はそのまま行われていた。しかも建築はその数が非常に多い。
また労働契約は日雇いとしてその日で労使関係が清算されるのだが、その場合、労災事故が起きた時の休業補償をどうするかというのは決めていなかった。事故が起きない事を前提にして経営していたのだ。
そこに2005か2006年頃に、建築現場で事故が起きる。製品名からロングスパンとかピアットとか呼ばれる現場用エレベータが墜落し、載せていた貨物の下敷きになって派遣のバイトが死亡した。
現場用エレベータはラック(平歯車)にモーターで駆動されるピニオンギアが噛んで登っていくという簡単な仕組みで、暴走時の安全装置がない。組むのもエレベータ会社の職工ではなくて鳶職がやる。これに大量に貨物を載せて荷揚げしている時に落下し死亡に至った。
禁止業態である土建に派遣して事故に至ったのでGW本社は立入検査を受け、一部営業禁止処分が下された。
一般的に派遣会社は客先からの引き抜きを警戒し、「毎日来てるから打ちで直接働かない?」といった事を言われたら直ぐに会社に伝えろと労働者に厳しく言うものである。
だがこの時のGW社は、土建業客先常駐のようなバイトをその派遣先の会社で社員として直接雇用出来るように尽力している。
土建業への派遣はもう出来ないのでそのバイトは他の仕事に移るか辞めるかなのだが、だったら派遣先で雇ってもらえないかと話を付けて無償で職業斡旋していたのだ。
この辺から風向きが向かい風になって、世間良しを意識せざるを得なくなったようだ。
この時点で全土建現場への派遣は廃止。ヘルメットや安全帯装備が必要な現場は全て断り、常駐のようなバイトが居たら上記のように就職斡旋をした。
遵法を意識するようになったのだが、見落としによってこの先に決定的なミスをするのだった。
東和リース社はその名の通り、リース会社であった。ローラーコンベアなどの物流用、荷役用機械をリースしていたが、一番需要が多いのはフォークリフトである。倉庫業必須だ。
ところで、フォークというのは操作するのに免許が必要だ。フォークオペの免許持ちを常に確保しておくのは結構難しい。
そこで、同社はオペレータ込みのリースをしていた。これはちょっとグレーな派遣だが、これをやっているリース業というのは多い。
フォークオペが必要な会社では流動的な需要に対する人も必要なことが多い。季節により貨物数が増減して必要な仕分け人の数も増減する。海コンが到着する日にはバン出し(コンテナからバラで出してパレットに積む事)の人数も必要だが、コンテナが来ない日には要らない。
そこで、それらの人間も調達しますよ、という営業をするようになった。最初は自社でバイトを募集していたのかもしれない。だがそのうちに他の派遣会社に派遣を取るようになった。つまりは二重派遣である。
当初、同社の仕事を取ったのは先例に出したラインナップ社だったと思われる。客はそのまま受け継いだのでGW社に変わってもそのまま二重派遣は続いていた。
作業終了後、作業伝票をきって貰うが、実派遣先の会社は東和リースからの派遣と思っている。その伝票で二重派遣がバレるといけないので、伝票の社名(GW社)の部分をハサミで切っておくという姑息な事をしていた。
美味しいのを食べたことがない
カフェランチは意識高いカレーなんて凝り固まったステレオタイプの脳死でメニューに入れているならオーガニックなんて背伸びしなければいいのに
人間が生物である以上その最大目標は子孫を残すことであるから、だから父は私を作った。が、私は、生物以前に私でありたいと思う。
そもそも他者の存在すら不確かなこの不可解な世界で生物としての自己を認識できない。生物としての意識はわかないむしろ子孫を残さないという非生物的な選択によって人間としての感覚を強めたい。だからとっとと自殺したい。しかしそうできない。私は母が好きだからだ。
大学に行くのも、就職について考えるのも、誰かを刺さないのも、全て母がそう望むからだ。落胆させたくないからだ。
母に支配されているとは思わない。
私は母の一部であった過去がありだから彼女は世界中のあらゆる他者よりも強い関係にある他者だ。私は母の大切な娘を殺してはいけないからで、私という存在は私の自由意志でどうこうして良い対象では無い。と、私は私の意思で考えている。
だから、私はこの生を母の望む形で完遂する。就職をして、結婚をして、股から可哀想な人間を出してその人に残りの人生を捧げなければいけない。
とはいえ現状の私はそういう人生設計に抵抗がある。私は子供でいたい。母の子でありたい。だから、この体はいやだ、この扱われ方は嫌だ、結局全部母に帰る。しかし私の身体は母になれる、そう望まれる、それが耐え難い苦痛だ。
若いから、思春期だから、まだそういう愛せる人に出会っていないから、というのは言葉を否定したくない。私の手が私のものになって腕が目が背中が私のもとに帰ってきて、社会と肉体と精神を正しい形にはめ込める日を待っている。待ち続けている。だが、私はもう私の体で20年いきている。スカートを履きたかった時などなかった。誰々君誰々ちゃんと付き合いたいと思ったことはなかった。私の体で誰々君誰々ちゃんと性交渉したいと思ったことは無かった。
別に男になりたいとは思わない。もちろん殴って強い方が、面白い方が、飾らない方が、たくさん食べる方が、羨ましいこともある。だが、子孫を残すかどうかという究極の選択が己の手にあるというただ一点で女でもいいと思う。心に性別などないとおもっているから、自分の体が女であるというそれだけを認識している。
私は、男になりたいのでは無い。ずっと女になりたいと考えている。今もそう考えている。
性的なものはなべて気持ち悪い。性交渉という常軌を逸した行いが社会の根幹を支えるのは何故か。何をどうしたら好きな人間に素っ裸で抱きつきたいと思うのか。耳に小さな穴を開けることも怖いだの痛いだのいう人間が何故股に異物を突っ込める?ゴキブリも触れないのに粘膜接触をロマンチックにカウントする?
大体人を作り出す行為が何の規制もなされないで人を殺すことが最大の禁忌であるそのアンバランスがどうして有史以来続くのか。
何もかも理解ができなくてその不可解な構造に自分が組み込まれることが恐ろしい。だから私は性的な冗談を繰り返す。記号化された性を手玉に取って自分から切り離そうとする。見苦しい足掻きで人を不快にさせる。
私を恋愛対象として見るな。
私はネクラだからネクラとしか話せないがそれを簡単に勘違いするのは私が悪いのか?私が女の身体で女の一般的な格好をしているからいけないのか?体を傷つけたり飾り立てることで、おのが身体を支配している気持ちになる。それに後者に関しては綺麗でいることで随分真人間に見えてくる。私はこんな性格だから、それを取り繕うことも出来ないから、見た目を社会に迎合させないと関係の浅い他者と関わることが難しい。
好意の発露を恐れないその自信が理解できない。自分が愛される対象であるとその足で立てる姿が羨ましくて仕方ない。私は興味のある人間のことは全て調べ尽くすがその過程を飛ばして簡単に他者に近づく人間が大嫌いだ。けれど私は私が嫌いだから私のことが好きな人間のことは嫌いだ、とも言えない。だって私の相手をしてくれる人は優しいから。
と、うだうだと己をこねあげたところで私の体の曲線は直線にはならない。
みながそれぞれ敵としての体を生きる中で私はどうか殺さずにありたい。
なので、非モテを叩くつもりなんかないので、冷静に聞いてほしい。
「ソープに行け」これはセックスがしたいならば、ソープに行けと言う意味ではない。
ソープで童貞を捨てたのは、26歳の頃だった。それまではというと、オナニーで十分だった。風俗を知らずに二十代後半まで過ごした。
童貞を捨てたのは、知人が自殺して、葬式に出るために地方都市に出かけた時のことだ。なんとなく、このタイミングで経験しとこうと思った。その年は、2人も知人が死んだ。
オナニーで十分と書いたとおり、それほどこだわりはなかったのだけど、人間はいつ死ぬかわからないものだし、高いもんじゃないから経験しておくかという軽い気持ちだった。
今思えば、思わせぶりな態度に舞い上がっただけだ。
SEXを知るまでは、SEXをなんか意識したことなかったのに、たいしたもんじゃないSEXさえできなかったということが、すごく惨めに思えた。
そこで、立ち直るために使ったのも風俗だった。SEXにドラマなんかない。金で買えるサービスってことを再認識するために風俗にいった。それから、嫌なことがあると、風俗にいくようになった。
大金持ちの遊びだって、結局は高い酒と女に行き着く。底辺でも大金持ちでも変わらない。いくら美味い酒って言っても、100倍の値段で満足度が100倍になるわけじゃない。
みんなが羨む場所で、みんなが羨む酒を飲むことが楽しいだけでだ。
コンビニのつまみと缶ビールで満足できないのは、ビールの質のせいじゃなく、心の問題でしかない。目の前のビールに感謝すれば、四畳半和室で飲むビールだって美味いのだ。幸せになれるかどうかは、何を食べる、何をするじゃなく、幸せを感じる自分の問題。
酒だとわかりにくいかもしれない。講釈を垂れる俺が六本木や銀座で飲んだことがないので酸っぱい葡萄みたいだし。例えを変えよう。
グリコのパピコは、氷菓なのに驚くほど食感滑らかで、チョココーヒーのフレーバーも絶妙。設計されつくした味だと思う。一方で、スターバックスコーヒーのフラペチーノはパピコと4倍くらいの価格差があるが、氷は粗く、生クリームのヌルヌルと氷のジャリジャリが喧嘩してる。でも、人々はスターバックスコーヒーでフラペチーノを求める。
考えをかえれば、パピコで満足できるということ。SEXはSEXでしかない。
金で買ったSEXも金のやり取りがないSEXも、美人とのSEXも不美人とのSEXも、気持ちよさとは関係ない。好きな人と心を通わせることが人生の喜びでその証がSEX、と思っていたら、そんな考えは捨てていい。
存在しないものに憧れて盲目になってるから、道端に咲く花もコンビニのパピコも自分を想ってくれる異性も目に入らないんだ。
童貞を捨ててから17年、ソープ、デリヘル、出会い系、あれからいろんなところで女を買った。金で買う関係が初体験だったけど、ひょんなことで普通の彼女を作れたし、なぜか
何人の女性とSEXして、通算何回SEXしたのか、今となっては覚えていない。
記憶に残るSEXは、数えるほどしかない。しかも、美人とのSEXでも好きな人とのSEXでもない。
SEXなんかそんなもんでしかない。嘘だと思うなら、ソープに行ってくるといい。好きな相手じゃなくても勃起できて、射精できるはずだ。それて、感動は別にない。
愛というのは、過程なのだと思う。愛してるからこれこれする、プレゼントをする、優しい言葉をかける、労わる、デートに誘う、SEXする、結婚するというのは虚構。
相手に優しい言葉をかけた、助けた、愚痴を聞いてあげた、そういう行為を後から振り返って、名前をつけた時に愛と呼ぶだけだ。愛してるから行動するということだと、先に愛がないといけないし、愛が生まれるためには相手に先になにかを与えて貰わなければならない。エサを待つ雛みたいにしてるうちは、愛なんて与えてもらえないし、そもそも愛なんて虚構。
大恋愛をして結婚しても離婚するときは離婚するし、好きでもない相手と結婚しても一生添い遂げること大半。愛は動機じゃなくて、与えるものであり、行動の過程を未来から過去に振り返って名づけるもの。行動しているときに愛はない。
なので、他人に優しくすることに理由なんかいらないのと同じように、デートに誘うことに恋愛感情なんかいらない。匂いに誘われてラーメン屋に入るように、一緒にいたかったらデートに誘う。そのくらい気楽に行動するといいと思う。そういう雰囲気になればSEXすることもある。
話は逸れるが、他人に優しくすることに理由は要らないと言ったものの、いい人戦略はやめなさい。いつか自分の良さがわかってもらえる的な話はドラマのなかだけだから。人として、親切であれというだけの話。いいなと思ったらデートに誘うこと。
そういうわけで、ソープに行け。
高齢童貞には、なんでもいいから経験しろと書いたものの、高齢処女は適当に捨てるのはやめたほうがいいと思う。
こんなことをいうと叩かれるけど、最初に関係を結ぶまでは女性からぐいぐい来ることはないけど、2度目からは女性のほうが積極的だ。女性は好きな相手とSEXするのではなく、SEXした相手を好きになる仕組みがあるらしい。処女だってセカンドバージンだってあっという間にSEXの虜になった。恋愛経験がないままのめり込むと、ろくでもない男に惚れ込む可能性がある。
どうしても、付き合った先のSEXに拘るなら、マッチングアプリとかでもいいんじゃないかな。
彼女は俺を好いてくれたのか?俺の収入をみて結婚相手として狙われただけなのか?みたいなことを悩んで二の足を踏むのだろうけど、自意識の問題でしかないよ。
既婚女性と一回、同性と一回、付き合った経験がある。いうまでもなく、結婚の可能性はゼロで、その2回は最初からバッドエンドしかないことがわかりきってた。
もしも、「俺の収入や社会的な地位や学歴じゃなく、ありのままの俺自身を愛してほしい」と願うなら、既婚女性や同性と付き合うといい。苦しいだけだよ。
幼馴染の女と久しぶりに会った時の話を聞いてほしい。
自分もその女も北陸のクソど田舎出身で、2歳の時から知っている。
そいつはいわゆる名家の出身で、クソど田舎のクソでかい家に住んでいて、よく自分を呼んでご馳走してくれたりもした。家族はみんなクソど田舎にしては品の良い感じで、多分地主だからお金はあったんだと思う。
そんなんだからクソど田舎にあっても、そいつはクソど田舎にしては垢抜けた感じもあって、思い返してみると、ちょっと気取っていてクソど田舎における特権意識みたいなものが透けて、ちょっと嫌なやつだったかもしれないけど、子供だからよくわからず遊んでいた。
高校卒業してから互いに都内の大学に進学したが、彼女は女子大でとっつきにくかったし、互いの近況などはSNSで把握はしていたが、会うことは一度もなかった。
自分はそれから紆余曲折を経て大学を中退し、いくつか東京の零細プロダクションでカメラマンの真似事のようなことをしていたが、数年でそんな暮らしに限界を感じて、今はクソど田舎に出戻り、実家に寄生しながら地元で働いている。
前置きが長くなったが、先日の盆に彼女が地元に帰るというので高校卒業以来久しぶりに会ったのだが、何一つ面白い話が無かった上にちょくちょくイラッとしてなんとも言えないモヤモヤを抱えることとなったので、その気持ちを吐き出すために書いている。
・その理由が将来ラグジュアリーホテルの設計をやるために建築士の資格を取りたいのだと
・高校時代は勉強してこなかったが、本当は医者になりたかったらしい。
・でも宅建は3点足りずに落ちた
・恋愛は長続きせず、最長5ヶ月くらい
・でも男には困っていないらしい
・直近は医者と付き合った。でもすぐに振られた。でもすぐに次は見つかったらしい
その他色々と香ばしい話ががあったような気がするが、総じてクソど田舎で培った特権意識をそのまま東京に持ち込んだが、現実とのギャップを埋められないまま、ブランド品と男の力で自意識を肥大化させ続けている感じがモロに伝わってきて痛々しかった。
努力しているとは言っていたが、おそらく努力している気分に酔っているだけで実際のところそんなにしていない気がする。建築士も無理だと思う。てか本気でラグジュアリーホテルの設計やりたかったら、いま中途半端に派遣で働いている場合じゃないと思う。
今は若いというだけで医者から遊んでもらえることもあるだろうけど、この先こいつは本当にこのままで大丈夫なのかと思ってしまった。現実と折り合いをつけられずに自意識を肥大化させ続けた結果、この先こいつが着陸できる場所はあるんだろうか。
東京で限界がきてクソど田舎に戻ったとて、もはや肥大化した自意識と特権意識は動かし難い。地元からも相手にされず、婚期を逃し、厄介ババアとして疎まれながら余生を過ごすのだろうか。あるいは東京で宗教とかネットワークビジネスとかに絡め取られて東京の沼に沈んでいくんだろか、と。
君の発言は一見すると非論理的に思えるかもしれないが、実は興味深い仮説だ。
量子力学の多世界解釈によれば、無限の平行宇宙が存在する可能性がある。その中で、全ての知事が同一人物である宇宙が存在しても不思議ではない。
さらに、時間旅行の概念を考慮すると、単一の個人が異なる時代に知事として存在することも理論上は可能だ。タイムトラベルによって過去や未来の自分と会話できる可能性すらある。
また、高度な遺伝子工学技術を用いれば、同一のDNAを持つクローンを大量生産し、各地の知事に就任させることも想像できる。これは倫理的には問題があるかもしれないが、科学的には十分に考えられるシナリオだ。
最後に、全知事が実は高度なAIによって制御されたアンドロイドである可能性も否定できない。そのAIが単一の意識を持っているなら、全ての知事が同一人物と言えるかもしれない。
犬が死ぬとか病気で死ぬとかに感動ポルノって言うのは少数派の使い方で普及して意味が薄れたあとの批判用レッテルって感じだなあ。
そもそもどっちにしてもポルノ性がなくて、もともと「ポルノ=悪いモノ」って意識をくっつけてコンテンツも悪いものと導きたいだけに思える
企業に関しては個人情報の取り扱いについて明確なコンプラを設けたりしてるとこは多いと思うが、まだまだフワっとしたままなとこも多いし、また職場以外の場でも曖昧になってる場面は多いと感じる。
写真については許容範囲やリテラシーに個人差があると思っていて、けっこうモヤる事が多い。よくある状況で整理してみる。
基本的に撮った写真を共有するのも比較的クローズドな環境が多そう(グループラインなど)なので、まあありかなと思える。
SNSに思い切り顔出し写真上げちゃう人もいたりするが、そのへんは似たような価値観で集まってる率が高いし、そもそもの拡散性の低さからまあいいかとか、友達関係なら「気になるから上げないで」で終わる話なので特に問題はなさそう。
主役がはっきりしていて他はモブ化しやすいし、晴れの場ということで一般的に許容されるものかなと思う。
さすがに誰かの結婚式で「いや写真撮らないで」とか思う人はあまりいないだろう。
この辺から怪しくなってくる。個人的には今の時代すでに「誰かの顔出しの写真をSNSやオープンなとこに上げるには確認は必要だよね」だと思ってるんだが、
単なる趣味友の集まりとかだとみんなで写真撮るってとこに明確なルールを設けるケースは稀だと思うので、たまたま写真撮りまくる人とかいた時に困るなあって思う人とかは出てきそう。
こういう場面が一番微妙な空気を生みやすいとこだと思ってる。ベンチャーとかIT系とかだと年齢層が若めだったり、ネット上含めて認知をより求める性質とかがあってゆるい感じだったりするが、
世代ギャップも大きかったりする会社なんかだと、飲み会の最中にやたら写真撮りまくる人って1人か2人はいたりして内心(え、やめてほしいなあ)って思ってても言いづらいという人は潜在的にけっこういるのではないかと思ってる。
いろんなTPOはあるのだけど、結局最後の職場での集まりの場が一番問題になりやすそうって感じてる。
いちいちみんな写真大丈夫?とか聞くのもなんだし、そもそもイヤですとは言いづらいと思う。
そもそもなぜこういうことを思ったかと言うと自分の職場でハッキリそうとは言わないけど明らかに写真は撮られたくないなって思っているであろう女性がそれなりにいると肌感で感じるからだ。
うちの会社の場合はコンプラ的に広報写真やメディアなどで例えばフロア内の写真だとか社員の顔が出るようなものに関してはしっかり本人の了承を得るというのは周知されている。
けど社内で展開するとか(例:こないだの~会の写真アップしましたとか)だとさすがにわざわざ各人に了承得るってのはしてなくて、曖昧になっていたりもする。
だけど今って他人に撮られる写真についての意識が昔とは明らかに変わっていて、それは自撮り文化がかなり浸透してる部分も大きいと考えていて。
自撮りであればどんな表情にするか、角度など含めて完全に自分の撮りたいように撮るのが当たり前になってるので、意識してない自然な表情を勝手に他人に撮られてるっていうのに抵抗感がある人が特に若い女性に多くなってると思う。
例えば付き合ってる恋人が撮る写真なら嬉しいかもしれないが、会社の飲み会でわいわい楽しくやってるとこを撮られるのは、なんかちょっとイヤだなあと思う人がかなりの率で増えてるんじゃないだろうか。
難しいのは一方でそんな細かいことどうでもいいだろ誰も見ないよ、社会人としてもっとオープンなマインドであるべきみたいな考え方がポジティブに捉えられやすい空気というのもあって、それがまた撮られたくない層の言いづらさを生んでる気もする。
個人的にはあんまりフォーカスして撮られたくはないけど、場の空気として写真撮ろうよみたいなのはわかるしそういう写真を残しておくのはいいなと思ってる。でも内気な子とかが顔出ししたくないなあという気持ちも理解できるから、基本的に自分から勝手に撮るということはしない。引きで全体を撮った時もエアドロなどでその場でのシェアはするがそれ以上の拡散はしない。
いやいや写真ごときでなにを細かいこと言ってんだ?という意見もあるだろうと思うが、こういう時ってより言い出せない側に気持ちを寄せたほうがいいんじゃないかって思っているのだ。
また職場の話なら会社側でコンプラ明確にしとけばいいんじゃないって話でもあるんだが、対外的(社外、ネットなど)へのコンプラは明確に基準を設けることはできても、社内に関してそこまで徹底するのはやり過ぎ感も出てしまいそうだから、結局雰囲気に合わせて常識の範囲でいきましょうってことになりやすい。
前述の通り肌感で社内の若い女の子なんかがそれをイヤだなと思ってる率高そうに感じるので、社会的にもこの辺の意識アップデートしていけたらいいんだけどなあなんて思う。
ちょっと前、所属していた趣味のコミュニティがとある前菜さんが加入したことでゆっくりと活動にブレーキが掛かり、ついに事実上の解散状態になった。
その顛末については本人に伝わると良くないので書かない。
そういう内容を期待しているひとはこれ以上読む必要はない。
ただ前菜さんを間近で目撃して、なんとか活動を盛り返せないかと色々努力してコミュニケーションをとってみた(無駄だったけど…)経験から、前菜さんの行動原理が何となく分かってきたので書いておこうと思う。
行動原理は単純で「前菜さんは常に満腹の危機を感じている人間である」ということ。
この前提が分かっていれば、いろいろな行動に説明が付く。
満腹の危険に瀕した人間、例えばビュッフェで遭難した人間が仲間の皿を食べる、あるいは奪って食べることは罪ではあるが理解はできると思う。
満腹の危機を感じている人間が、公平性や遵法性をいったん棚上げして利己的に行動することはごく自然なことだ。
前菜でない人間は満腹の危機を感じていないので、他人の行動にどの程度干渉するかは多少の個人差はあってもある種のフェアネスに基づいて判断している。
多少自分が不快であっても、客観的に見て相手の行動に自分が干渉するのは不適切であると判断すれば、その不快は受け入れる。
しかし前菜さんとは常に口元にフォークを突きつけられて生活している人間なので、その不快を少しでも受け入れればそれは即ち満腹を意味する。
そのため公平性を踏み越えてでも自分の不快を排除しようとする。というか、そうせざるを得ない。
最初、まだ行動原理を理解していなかったころは前菜さんのことを大食いな人間だと思っていた。
でもどうやらそうではなく、満腹との距離が近いひとなんだということが分かった。
また、前菜さんは自らが食べ残しであるという強い信念を持っている。
当然だ。常にフォークを口元に突き付けられているのだから、主観的には、それはそれは圧倒的な食べ残しだろう。
大した上下関係もない緩いグルメコミュニティの中であっても、その意識は変わらない。
圧倒的食べ残しなのだから、調理されなければ生きてはいけない。
調理されることは特別扱いなのではなく、生存のための大前提なのだ。
だから常に調理されている「べき」で、それが無いということは放置されているのと同義である。
この意識にも最初は戸惑った。何しろ向こうはメインディッシュでもなければこちらもシェフでやってる訳ではないのに、当然のように特別扱いを要求されるのだ。
そして前菜さんは生存のための武器として、盛り付けや間接的な香りで他人をコントロールする術に長けている。
その技術は彼、彼女が唯一持ちうる武器であり、命綱であり、消化をするようにほとんど無意識に使っている手足でもある。
前菜さんのコミュニケーションは常に前提として「食べ残しの自分」が置かれており、そのため、相対した人間を自由自在に大食漢に変えることが出来る。
そして何より厄介なことに、このような行動に「相手を太らせよう」だとか「自分がメインディッシュに立とう」という意識は、一切無い。
上記で説明した通り、これらの行動は生存のための命綱に過ぎないので、罪の意識も無ければ、相手の食欲を奪っているということに気付くこともない。
前菜さんからしたら自分が食べ残しであり、相手が大食漢であることは決定事項であり、覆ることのない真実なのだ。
例え、客観的に見て言いがかりだとしても、目の前の人間から大食漢扱いされて平気な人間はあまりいない。
まして、そんな思いをしてまでグルメコミュニティを維持しようと思う人もいない。
前菜さんを除いてこっそり再結成すればいいと思われるかもしれないが、万が一そのことが相手に知られたらと思うと、胃が重い。
我々はもうすでに、あの人が食欲をそそるようになっている。
先祖返りか
https://en.wikipedia.org/wiki/Social_liberalism
社会的自由主義[は、社会正義、社会サービス、混合経済、公民権と政治的権利の拡大を支持する政治哲学であり、自由主義の一種であり、限定的な政府と全体的に自由放任主義的な統治スタイルを支持する古典的自由主義とは対照的である。
どちらも個人の自由を重視しているが、社会的自由主義は、社会的不平等に対処し、公共の福祉を確保する政府の役割をより重視している。
■衰退
1960年代と1970年代の経済問題を受けて、自由主義思想はいくつかの変化を遂げた。
ケインズ派の財政運営は自由市場を妨害しているとして批判された。
同時に、増税で賄われた福祉支出の増加は、投資の減少、消費者支出の減少、そして「依存文化」の創出への懸念を引き起こした。
労働組合はしばしば高賃金と産業の混乱を引き起こし、総雇用は持続不可能であると考えられた。
フリードリヒ・ハイエクの影響を受けたミルトン・フリードマンやサミュエル・ブリッタンなどの作家は、社会自由主義の逆転を主張した。
彼らの政策(しばしば新自由主義と呼ばれる)は、西側諸国の政治、特にイギリスのマーガレット・サッチャー首相とアメリカのロナルド・レーガン大統領の政府に大きな影響を与えた。
彼らは経済の規制緩和と社会サービスへの支出削減の政策を追求した。
社会自由主義連合が崩壊した理由の1つは、1960年代と1970年代に国家政府から独立して活動できる金融利害関係者からの挑戦だった。
関連する理由としては、フランクリン・D・ルーズベルトなどの政治家が提唱した社会主義医療などのアイデアが、赤狩りの最中に保守派、特に前述のレーガンによって批判され、社会主義的とみなされたことが挙げられる。
もう1つの原因は、連合の一部を形成していた労働組合の衰退であり、労働組合は自由主義のコンセンサスに挑戦する左翼イデオロギーの支持でもあった。
これに関連して、労働者階級意識の没落と中流階級の成長があった。
社会自由主義を最も受け入れていなかった米国と英国による貿易自由化の推進は、支持をさらに弱めた。
20世紀末から、社会的自由主義は政治的影響力を失いつつあったが、ジョン・ロールズ(政治哲学)、アマルティア・セン(哲学と経済学)、ロナルド・ドゥオルキン(法哲学)、マーサ・ヌスバウム(哲学)、ブルース・アッカーマン(憲法)など、多くの著名な著者の登場により知的復興を遂げた。
って書いてあるけど?
街コンに行くと、いつも何を話すべきか迷う。
人が集まる場だし、みんな軽い話題で盛り上がってるんだろうけど、俺はいつも違う。
女性たちは不思議そうな顔をしていたけど、そんなのはお構いなしだ。
だって、これは美の根本に関わる話なんだから。誰でも分かるだろう。いや、分からなきゃおかしい。
「たとえば、ピタゴラスの定理。a² + b² = c² なんて、中学生でも知ってるでしょ?でも、あの定理が持つ幾何学的な美しさ、理解してます?ただの数式じゃないんですよ、これは宇宙の秩序そのものを象徴してるんです。直角三角形の辺の比が、どうしてあんなに完璧に収まるのか、その背後にあるシンメトリーとバランス、これはただの計算じゃ説明できないんです。幾何学は、自然界に隠された美を可視化する手段なんです」
女性たちは相変わらずポカンとしていたが、そんなことは全く気にしない。
「それに、円と黄金比ですよ。黄金比の美しさって聞いたことありますよね? φ(ファイ)という無理数、1:1.618...っていうあの比率は、自然界でも至るところに現れるんです。貝殻の螺旋や、ヒマワリの種の配置、果てはギリシャのパルテノン神殿まで。これらすべてが、幾何学的な美しさの証明なんですよ。建築家や芸術家たちは、何千年も前からこの黄金比に魅せられてきたんです。それが美の基準なんです。たとえば、あなたが好きな絵画も、おそらく黄金比に従って構図が決まっているはずですよ」
ここまで来ると、女性の一人が「へぇ〜、すごいですね…」と、曖昧な笑みを浮かべているのが目に入る。
だが、その目に理解の色はない。いや、むしろ遠ざかっているかもしれない。
それでも俺は一歩も引かない。だって、幾何学は俺の人生そのものなのだから。
「次はもっと複雑な話をしましょうか?ユークリッドの『原論』はご存知ですか?あれは古代ギリシャで書かれた数学書で、数千年の間、数学の基礎として使われてきたんです。『原論』の最初の定義は、点は幅を持たないもの、線は幅を持たず長さを持つもの。これをもとに、無限に広がる空間の中で幾何学的な図形を描くんです。そして、その空間の中に、あらゆる美が存在するんです。アポロニウスの円錐曲線における楕円の美しさなんか、誰でも感動するはずです」
彼女たちは完全に引いていたが、そんなことはもう気にしない。
「俺にとって幾何学は、ただの学問じゃないんです。これは美を追求する哲学であり、生き方なんです。人々がモナ・リザやアフロディーテ像に美を見出すように、俺はピタゴラスやユークリッドにその美を見出しているんです」
幾何学の美しさを語り終えた頃、ようやくふと我に返り、周囲の反応を確認してみた。
皆、頬に作り笑いを浮かべているが、目は明らかに遠く、何か別の世界に意識を飛ばしているかのようだった。
ひとりはスマホをチラッと確認し、もうひとりは、手元のグラスに注がれた水をいじっている。
こちらを見ている女性もいたが、彼女の表情はどう見ても「本当にこの人何を言っているの?」という困惑そのものだった。
「ええ、そうですね……幾何学って、すごいですね……」と、一人がようやく口を開いたが、その声には熱意も、理解も、ましてや感銘など微塵も感じられない。
表面的に場を繋ごうとするその言葉は、俺が夢中で語っていた美の真髄が、まるで真空の中に吸い込まれたかのように、何も響いていないのをはっきりと感じさせた。
もう一人が、さらに微妙な笑みを浮かべ、「あ、そうなんですか……それで、その定理って、なんでしたっけ……?」と、曖昧に質問してくる。
しかし、それは好奇心ではなく、ただ適当に話を引き延ばすための、無理やりな興味に過ぎないことは明白だった。
俺はその瞬間、すべてを理解した。
ああ、やっぱりこうなるのか、と。幾何学的美しさを解くことで、彼女たちの心を動かすことはできないんだと。
俺の語るピタゴラスの定理も、黄金比の神秘も、彼女たちにとってはただの退屈な講義に過ぎない。
彼女たちは、たぶん映画の話や、食べ物、旅行の話を楽しみにしていたのだろう。それが街コンで求められる「会話」なのだ。
「まあ、こういう話、ちょっと難しいですかね……」と自分から話を切り上げるが、内心、虚しさと諦念がこみ上げてくる。
俺は分かっているんだ。結局、幾何学の美を理解できる人間は、ここにはいない。
諦めが胸に染み渡り、俺はふと目の前のグラスを手に取る。
冷たい水が喉を通り、ほんの一瞬だけ現実感を取り戻すが、同時に心の中でつぶやいた。
俺は幾何学を愛している。それだけで十分だ。理解されなくてもいい。これが俺の誇りなのだから。
女性たちがどれだけ俺に興味を持ったかなんて、もうどうでもよかった。
最終的に、女性たちがどれだけ幾何学に興味を持ったかは知らない。
だが、俺の中では確信がある。
図書館司書の非正規問題について昨今取り沙汰されているのを見る。
ざっと見た感じの問題点は、優秀な専門職が安月給で酷使されているということと、技術の継承が行われないということ。
私は先日、正規の図書館司書職を退職した。理由は、専門的な業務に従事したいという当初の動機と実際の現場が異なっていたところ。つまり、現場職員の専門性の低さに絶望して辞めた。
・30代
「優秀な専門職」と言うのは、何も知らない外野か自分たちを大きく見せたい現職だけ。図書館司書なんて単位を取ったら誰でも資格を取れるので、その資格一つで医師や教員のような実務実習を伴う国家資格と並べると思っているのが恥ずかしい。(課程の図書館実習は任意なことが多いし、たかだか一週間程度で比較にならない)
そして、専門職の専門性が発揮できる分野としてレファレンスが挙げられるが、これはレファレンスの難易度による。例えば、地域の「◯◯という地名の由来が知りたい」というレファレンスを受けたとして、まず地名辞典を見る。地名辞典になければ地方が発行してる地誌を見る。どちらかにはだいたい載っている。これの何が専門性だというのか。こういう定型化されたレファレンス対応について、口を大きくして専門性だの専門職だの言っていることが多い。逆に、人名辞典に載ってない郷土の人物などを、辞典や地誌など基本的な資料以外から、記憶や所蔵資料目録などをヒントに見つけることが専門的なレファレンスだと思う。このような真の専門的なレファレンスをできる人物がどれほどいるのか。私が勤務していたところでは、非正規職員は誰もできなかった。正規職員も半分以上できてない。
能力によって給与が異なるのはどの世界でも一緒で、非正規職員が非正規の待遇であるのは相対的な能力不足から当たり前のことであると思う。正規職員でもできてないのだから、そんな大きな声で「専門職の待遇改善をー!」なんて言える状況じゃない。そして、優秀な人間、例えば某国立図書館では正当な待遇が与えられていると思うし(ちなみに某国立図書館の応募資格に司書資格は必要ない。この点から司書資格の不安定さが伺える)、地方の優秀な人間は現状に見切りをつけて出て行く。
何度も職員の意識を変えようとしたけど凝り固まった40代後半以上の頭は変わらないし、上司層が変わらなければどれだけ下から頑張っても現場は変われないし、疲れた。非正規職員も、正規職員ですらも、基本的なコミュニケーションすらできない人がいるし(聞かれたことに答えられない、処理能力が低いなど)、現状維持ばかりで新しいことはせず、ただ自分の世代が円満に終わることばかりを考えている。こんなの一般企業の事務職ですら無能扱いだろう。一般企業で使い物にならないレベルの職員でも、一度公務員になってしまったら解雇はできない。そんな人たちがただの肩書きだけで「専門職ー!」と叫んでると思うと悲しいものがある。図書館司書の知識は年々新しいことが増え司書課程の内容も更新されていくが、大昔に司書資格をとった現状維持ばかりのおじさんおばさんたちは自分の頭を更新しようとしないので、なおさら「専門資格とは?」と思う。
図書館司書の世界では、募集の少なさもしばしば取り上げられる。募集もたくさんあるし、優秀な人は普通に就職できる。(気になる人はJLAの採用情報ページを見てみてね)40歳まで受けられるところも多く、年齢制限がないところもあり、他の公務員よりだいぶ応募資格が緩くなっている。それで若手をとろうが経験豊富な人材をとろうが、それはその館の方針によるので知ったことではない。挑戦し続けて正規職員に合格する人もたくさんいる。つまり、機会は開かれているのに挑戦しないことに問題があるし、たくさんチャレンジして受からないのであれば本人の能力の問題であろう。能力が足りなくて受からないなんてことは他の業種でも同じで、何も図書館司書に限った話ではない。それを何でそんなに特別に大々的にアピールできるの?と思う。他の業種でも、能力が足りないけど続けたいなら待遇を落とすしかないし、諦めて他の業種に行くだろう。それと同じ。
思いつくまま殴り書きしたので読みにくくてすみません。私が言いたいことは、周りが言うほど図書館の専門職に価値はないこと、専門職の中でも専門性にグラデーションがあること、能力に応じて待遇が変わるのはどの世界でも当たり前で現状に違和感はないこと(非正規職員のこと)、待遇を変えたところで職員あるいは職員の意識を変えないと半永久的な技術の継承は不可能なこと、です。40代後半以上の人たちを見て、ここにいたらこうなってしまうと思って辞めた。
こんなに読んでもらえるなんて思ってなかった。たくさんの反応ありがとうございました。いろんな意見があって面白かった。
◯タイトルと内容が違う。非正規職員の雇い止め等はどうなのか。正規職員にとって非正規職員はどうでもいいように見える。
どうでもいいです。非正規待遇が嫌なら正規になればいいし辞めたらいい。いわゆる氷河期世代など新卒時の社会状況に言及する人もいるが、正規職員の多くは中途採用(非正規職員経験者)です。社会のせいじゃない。昨今の非正規図書館員の話題を見てると、現状を変える気力や能力がないくせに空っぽの「専門性」を笠に着て「かわいそうな私たち」を演出しているだけのように思う。元職場でも組合から非正規雇用の待遇改善の署名がよく回ってきてたけど、バカだなって思ってたし一回も署名してない。私が見ていた世界では、前述の通り非正規職員の専門性なんていうのはまったくなかったので、辞めても職場や社会にとって問題ないと感じた。
私の元職場の管理職や上司は、個人の能力如何ではなく「図書館司書資格があること」を重要視し、「図書館司書資格保有者の職員数を確保すること」に専心していた。無能でも資格さえあればいいみたいな。私は資格なんていらないから優秀な人間と働きたかった。今は転職して、求めていた環境に身を置けて嬉しい。
タイトルと内容は少し違っていたかもしれません。すみません。私が図書館司書の非正規問題に触れる時、その前提にある専門性の具体的な話が出てこないように見えたので、こういう話になりました。
郷土資料は必要で、各地域の図書館が郷土資料を収集することで全国的に郷土資料を収集保存できる仕組みがある。それは大事だなと思う。場所や予算は限られているのでその限られた状況でどういう資料を収集するかといった選書にも、職員の専門性が不可欠。専門性はほとんどが属人化するから、それを半永久的に継承していくべき。実際に働いてみて、この辺はロボットやAIには難しいと感じた。
郷土資料を含む図書館資料の必要性で言えば、例えば陰謀論とか根拠のない噂話が力を持った時など、正しい情報や情報の比較検討に役立つ。図書館では全ての人がその機会を得られる。ググれば簡単な情報は出てくるけど、やっぱり紙の資料の量や質とは比にならない。少しでも調査研究をしたことがある人はわかると思うけど。
図書館は国民、県民、市民がユーザーなので、ユーザーから「図書館なんて必要ない、AIやロボットでいい」と言わしめてるこの状況を、図書館司書や図書館制度が変えていかなければいけないと思う。
私は前述のような現実に辟易していたので、一部の優秀な人間のみ残して専門性を保持し、あとの無能な正規職員と全ての非正規職員は指定管理に変えたらいいと思ってる。元職場でも一部指定管理が入っていたが、図書館業務のほとんどを占める定型化された業務なんて誰がやっても同じだし、むしろ公務員的な頭のかたさがなく新しい視点で物事を考えられるところはこれからの図書館運営に必要なのではと思った。無能は切り捨てられそうだし。図書館正規職員(公務員)の働かないおじさんおばさんや無能も切り捨てられたらいいのに。そしたら現場のモチベーションも上がるし優秀な人間も集まるかもね。
◯都道府県立図書館と市町村立図書館では非正規職員の職務が違う。(=後者では正規職員と同じような仕事をしている。)
市町村立図書館ならなおのこと、誰でもできる仕事ばかりです。図書館のあり方に関われるのは多くが館長レベルで、日常的な貸出、返却、選書(都道府県立と違って保存より利用を重視した選書)、目録(市町村ではほとんどがTRC流用)など、逆にどこに専門性があるか教えてほしい。
現職の人はこんなチラ裏に青筋を立ててないで、「図書館なんかいらない」って言わせないように頑張ってください。図書館や司書の存在意義を評価するのは仲間内じゃなくてユーザーですよ。内輪でヨシヨシしあってても意味ない。
◯コメントより抜粋「図書館司書は今の情報化社会に負けないよう専門性や職域を高めないと相対的に価値は低くなる」「専門性を定量化し、カテゴライズやレベリングを行うのは、業界のスキルアップだけでなく、権威づけや地位向上に必要」
私は図書館司書の専門性のなさと図々しさに嘆いてたばかりだけど、本当にその通りだと思った。現状に即してよりよくする方向に考えられるのがすごいと思った。
私 = 40代。付き合い始めて10年近い。彼女は美人だし、稼ぎも良い。共通の趣味も多い。
しかし、以下の3点において結婚するかどうかをずっと迷っている。
仲は良好なのだが、彼女がとにかく人間関係に上下を付けたがることがずっと気になってる。
もちろん彼女は「自分が上」じゃないと気が済まないので、そのためには平然と嘘や出まかせを言う。
おまけにコミュニケーションにおいて、彼女は、常に相手がマウントを取ってきてるのかどうかを気にしてる。
「ああ、俺も〇〇しちゃったことあるよ〜」みたいなことを言おうもんなら、「なぜマウントを取ってくるのか?」みたいな指摘が入る。
彼女が知らない知識を開陳した場合や、機械の操作を教えるときにうっかり彼女が知らない単語を喋った時も、機嫌が悪いと烈火の如く怒り始める。
マウントだと思われないような会話の運びや、相手の発言が嘘や出まかせなのかどうか…みたいなことを常に考えなければいけないので、10年近く付き合ってるのにも関わらずコミュニケーションコストが天井に張り付いている。
正直、もう喋るのが面倒くさい。
彼女は性交痛があり、挿入を試みると痛がるので、付き合い始めてしばらくしたらすぐセックスレスになった。添い寝だけがスキンシップだ。
挿入時の痛みは「潤い」が原因のことが多い(し、実際彼女は他の人よりは濡れづらいと感じる)ので、潤滑ゼリーなどを勧めてみたものの拒否された。
おまけに彼女はセックスについては常に受け身で、そんなに好きでもなさそうなので、結婚してもおそらくセックスはしないだろう。ここ5, 6年は「彼女とセックスしたい」という気持ちもない。
人生に面倒ごとを増やしたくない + 性病が怖いので、外での処理はしない。
とはいえ、私自身は1日3, 4回は射精できるくらい性欲が強めなので、当然の如くフラストレーションが高止まりしている。
1.の問題とも通底していると思うのだが、彼女には加害性がある。
私に対してだけだと思うが「気持ち悪い顔」とか「ハゲ」とか、冗談めかしつつも普通の人であれば傷つくようなことを言う。
寝ている私の性器を全体重で踏み抜いてこようとしたり、手のひらで耳を覆い隠して空気を抜いてから、思い切り引っ張って鼓膜を破ろうとしたりする。
本人は冗談のつもりなのかもしれないが、20~30年後くらいのことを想像すると、老いてDVされている未来が見えて怖い。
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上に挙げた要素以外には悪い子ではないのだが、逆にいえば(自分よりは)若くて、顔が良いだけとも言える。
彼女はよく結婚のことを口にするし、意識はしているのだと思うが、私はあまり乗り気ではない。
とはいえ、私も40代。昔は相応にモテたものの、今後良い人が見つかる可能性のことも考えると、「ここで一旦妥協するか」という気持ちも頭をもたげる。