はてなキーワード: イマヌエル・カントとは
「権利の主張は、通常の愛のある結婚の文脈では、ほとんど演じるべき役目を持つべきではない。もし一方のパートナーが婚姻条の権利の否定や撤回について他方のパートナーに対して不平を言っているのを耳にするなら、パートナー間の欲望と愛情の相互作用がどこかすでにおかしくなっているとわかるのだ。」 ージェレミー・ウォルドロン 『リベラルな権利』372ー
件のスウェーデンの記事のブックマークコメントを見ていると、賛否いずれの立場に立つかによって、同意の捉え方が違うことが読み取れるように思う。
賛成側は、「単に一言確認するだけだ」と表現し、反対側は「同意書に押印でもさせるのか」と表現する。この表現の違いは賛成反対双方が実のところこの「同意」が何を問題にしているかを理解していることによるのだとう思う。
詰まるところこの問題は「信頼」や「愛情」の場に「権利」や「法」を持ち込むことに対する見解の対立なのだろう。賛成側は同意を取ることになんのデメリットもないはずだという。
私はそうは思わない。どちらから同意の確認を持ち出すにせよ、双方が背景に法的な要求があることを知っているならば、相手に完全な信頼をおいていないことを伝えるに等しいからだ
(もちろん同意をとる場合でも、同意を後で翻さないという「信用」は双方に必要である。信用すらないなら性交などできない)。
反対側が「同意をとる」を「同意書にサインさせる」と拡大解釈するのはまさしくこの点を大きく見せたいからだろう。
口頭ではなく書面という形式に置き換えることで一層契約や権利に基づく関係であり、信頼や愛情に基づく関係から乖離していることを強調する手法だ。
イマヌエル・カントは結婚を「性的機能の、生涯続く相互所有」のための契約だとした。婚姻は契約であるからして、このような側面を完全に否定することは難しい。
しかしこの定義が婚姻のすべてであると主張することもまた難しいだろう。
性交時に同意をとることで守られるものはある。他方で毀損されるものもある。
その点については賛否とも明確にする必要があると考え投稿した次第である。
最後に私としては導入するならかなり要件を明確にした、事後的に検証可能な形で同意をとることを希望したい(書面のみでは一部ブックマークコメントにあるように強制の問題が避けられないと思う。)
古代の学習環境が全く整ってなかった頃と今とでは全く意味が違うと思う。
もともと全ては「コレはなにか」的な事を考える事が原理で
全ては哲学だった。
古代ギリシャの哲学は、三通りの学に分かれていた。すなわち――物理学、倫理学および論理学である。この区分は、哲学というものの本性にかんがみてしごく適切であり、これに区分の原理を付け加えさえすれば、かくべつ訂正すべき点はないと言ってよい。
増田の言う「数学」はこの中では物理学及び論理学の一部となろう。
つまりはそれらは「哲学」と言ってしまっても決して過言ではない。
現在における「哲学」というのは上とは少し離れて、まず、物理(科学)など検証されるような事柄は省いている。
論理学と言っても記号論理学の様な体系付けられた様な物も省かれている。
倫理、についても法律など、人間が直接決めてきた倫理については直接はあまり対象にしない(一部ではなるが)
そして、残った「曖昧な物」を考えるのが現在の哲学、と言った感じになっている。