はてなキーワード: もののあはれとは
俺も最近、似たようなことがあったから自戒を込めて言うんだけどね。「はてサの言動がひどい」と批判する文脈で、あなた自身もまあいろんな言葉を使ってるよね。
「吐き気がするほど醜悪。」「幼稚な言い訳」「クズ反論」「バカの戯言」「恥を知れや、ウスラトンカチが。」「日頃の憂さ晴らしに叩ける的を探してるウジ虫だよ。」「全員まとめて火山口にでも落ちてくれれば」…etc。聞きたいけど、君、リアルでこういう言葉、一つでも他人に対して投げつけるかね? おそらくしないだろう? してるとしたら、相当社会的に問題があると思う。「ネットの言動が目に余るほどひどい」という内容で、他者を批判しているという文脈で、あなた自身がこうなってしまっている、そのわけを、やっぱり少し考えてみるべきだと思う。
2chが生んだ(2ch「を」生んだ?)匿名世界における「一種乱暴な言葉遣い」は、虚礼を廃し議論を簡潔に進めるという意味で、役割のある、意味ある振る舞いだった。このことは一応指摘しておきたいと思う。
たとえば、今回のこの書き込み、普段よりも自分の「日常口調」にあえて寄せて書いている。読む人にいろいろ気を遣ってね。仕事の知り合いに見られてもいいくらいのレベルで。ていねいに見えるだろ? でも、それほど中身は無いんだ。こういう話し方、ネットだととても字数を食い可読性が低い。ネットに関わる人が少なかった時代には、こういう振る舞いの非合理性がとても嫌われたんだ。掲示板で議論するなら現実世界のような「立場」とか「配慮」とかをなるべく廃して実質優先で議論をしよう、と。そういう合意の下に、相手を平気で罵る文化が発達したんだ。
たとえば、あまり意味のない議論を延々と繰り返す人に対して、①「○○さんの仰ることはとてもよく分かります。たとえば、~や~ということについては、確かにあてはまる部分も少なくないと思いますし、私自身~というときには、そういう考え方をするかもしれません。しかし~」みたいな(現実社会のような)対応をしていると、実質的な議論はひとつも進まない。実際、言いたいことは②「あなたの発言はズレています。」というだけのことなのだけど、ズレている理由まで説明しなくてはならなくなると、もう多分誰もついていけなくなってしまう。結果、うんざりした「正しい人」たちがその場を離れ、粘着する「愚かな人」たちだけが残る、悪貨が良貨を駆逐する、そういうことが発生する。そこで出てきたのが③「~年ROMってろ」といった言い回しだ。「黙れ/お前の話は場違いになっている/しっかり話の流れを追え/流れをよくつかんだ上で書き込みせよ」…一見厳しいようだけど、「○年ROMれ」は相手の問題点を指摘し解決の方向性を示唆している。さらに言えば「こういう言い回しに傷つくようなら、ネットでのやりとりには向いていないからそもそも見るな」という意味合いも含んでいるという意味では、ネットとの向き合い方の指導までしていた、実に至れり尽くせりの「優しさ」に満ちていたとも言えるんだ。
そういう合意が成立している下では、ある時期まで罵倒語によるやり取りは効率的に機能していた。ただ、そういう「暗黙の合意」というのは残念ながら、ずっと保てるわけではない。あるいは、初期のような発想で罵倒語を使い続けている人もいまだにいるのかもしれないが、残念ながら「普通の社会」がネットと地続きになった時点で、そういう振る舞いが「世間的な」「政治的に正しい」立場からの批判にさらされることが避けがたくなってしまった。罵倒は罵倒でしかないし、実際「醜悪」だ。
古い人にとって、はてなはまだある程度「暗黙の合意」が通用する場に見えているのだろう。(実際、3~4年ほど前まではまだいくらかそういう風であったようにも思う。)だが、増田の書き込みが国会質問に晒された辺りから、はてなもまた完全に「社会と地続き」な風の吹く場所になってきた。そのギャップが、今回のような問題提起になっているのだとすると、その責を「左派」だけに向けるのはやや酷であるようにも感じるのだが、どうだろう。
……というような内容を、まとめて(あまりにも懐かしい)一言で言い表せた(そして通じることが期待できた)時代がもう帰ってこないと思うと、しみじみもののあはれの感にも打たれるね。すなわち
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( ´∀`)< オマエモナー
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http://anond.hatelabo.jp/20160804171358
自称「中二病を脱した23歳増田」に乗っかる感じでシンゴジラ批判エントリーを書きたくなったおっさんです。
(あたしも10年前の20代の頃はてなのサブカルおじさんが怖かったからねw)
シン・ゴジラは「日本の実写映画」にとってエポックメイキングになりうる最高に素晴らしい作品だと思うが
この大絶賛の嵐に怖くなってきました。左側からのまっとうな批判が見られない。
まずはじめに私の感想とすると「シン・ゴジラ」は素晴らしい映画なのは確かです。
「日本の実写アクションエンタメ映画」でまともな人間ドラマを描けるでしょうか?
民族やイデオロギー宗教対立のない日本。殺人を含む強烈なDISの激突による止揚や
「個人のエゴがイノベーションを起こす」ことを良しとしないし信じない日本社会では
欧米式の人間ドラマなどは描けないのです。大抵は「もののあはれ」みたいなものに落ち着きます。
そこで庵野監督です。庵野監督は人間ドラマが描けません。人間個人に興味が無いのです。
「電子回路、ニューロンのように情報が錯綜し、通電し、組織が機能する」という
(例えばオネアミスのロケット発射の「手続き」や、エヴァ発進の「手続き」、
さまざまな人間が連携して大きなことを成し遂げる瞬間のカタルシス、岡本喜八の沖縄決戦→ネルフ壊滅なら大組織の壮大な敗北
というものに執着している感じです。そして庵野監督はその演出で他を圧倒してきたのです。
通常は連携を2、3回で終わらせるところを、
7、8、9とどんどん数を増やし、しも連携のスピードを高速化する、
それが今回は最高に上手く行ったと思います。無駄な人間ドラマを省き、人の群れを
通常それでは作劇できませんが、ゴジラという巨大な災厄を扱うことによって可能になったのですね。
とまあ、褒めるのはこんな感じで。みんな褒めてるし。在来線爆弾最高です。
ここからは批判というか危惧を書いていきます。(ネタバレ含む)
「シン・ゴジラ」はゴジラを描くとともに、明らかに3・11の震災、
そして福島第一原発(フクイチ)のメルトダウンをなぞって描かれています。
原爆の子であることことからしてそれは避けられないことでありました。
・「想定外」という言葉が何度もでてくるシンゴジラとフクイチ(フクイチ)
・そしてその放射能を測定した市民から憶測が飛び交うシンゴジラとフクイチ
・自体の収集のため米軍が介入してくるシンゴジラ、事態の収集のため米軍が介入しようとするフクイチ
・シンゴジラにホースを突っ込んで冷却材を流すため特攻する自衛隊、
「自衛隊がゴジラを冷やすために特攻して死んでしまっている」ということなんです。
これは3・11の日本政府はやらなかった。フクイチに自衛隊を特攻させれば
「自衛隊員の命」と「福島の土地の数十年の汚染」を引き換えにはできないという判断です。
そこをシンゴジラはやった。映画的には、作劇的には正しいです。
自己犠牲の魅力に惹かれるところもあるんです。
正直「自衛隊がフクイチに特攻して冷却に成功していた」ら、私も絶賛したでしょう。
その特攻を庵野監督はやった。しかも恐ろしいことにあっさりと。
(1番隊が全滅したら「日本映画のよくあるパターンのように感傷にひたる」
ことなくあっさりと2番隊がすぐさま繰り出された。
おそろしいですよ。でもこれがかっこいいんですよ。/
この冷徹な決断力、かっこよさを恐ろしいと思わないとヤヴァイんですよ。
こんなことできるのはスターリンですよ。スターリンのかっこよさに酔うんですか?)
特攻した自衛隊のように、3、11のフクイチでも自衛隊を特攻させるべきだった。」
実際の日本政府はどうでしょうか?フクイチの凍結に成功してますでしょうか?
私からすると今回のシンゴジラ、演出のエポックメイキングであるとともに、
「3・11の災厄に勝利した日本」の「仮想戦記」にみえてしまうんです。
(昔よくあった「第2次大戦で日本軍が勝つシミュレーション小説」の3・11バージョンですね。)
このシンゴジラを見て「日本はまだやれるんだ」と思った人がたくさんいたと聞きます。
いや、やれてなかったでしょ。と言いたい。3・11で負けたでしょ。無残に。情けなく。
仮想戦記で「日本はまだやれる」って酔ってたらだめでしょ。反省しないと。
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↑というような批判が欲しかったのに全く無くて困ってたので自分で書いてみた。
実際庵野監督はどうなんでしょう。「政治的意志表明」と書きましたが
彼らは恐らく数々の素晴らしい女性と付き合ってきたことだろう。
性格がいい女、料理が上手な女、会話が合う女、金持ちの女、頭のいい女。
男としてのトップに属する彼らは、いわば選び放題な訳だ。
そんな彼らが最終的に選んだのが巨乳な訳だ。
もちろん、吹石一恵も倉科カナも、性格がよく会話が合い料理もうまい頭のいい女なのかもしれない。
でも、貧乳でも彼らが結婚を選んだとはどうしても考えられない。
今回の結婚の反応を見ても「なぜ吹石一恵?」「なぜ倉科カナ?」と言うのはほとんど女性だったように見受けられる。
ほとんどの男はニュースを聞いて驚いた後に「まぁ分かるよ」とほのめかす言動をしていた。内心「おっぱいうらやましい」と思ったからだ。
結局、人間は本能に操られたちょっとだけ賢いサルなのだと思う。
そんなことは分かっていたけど、福山雅治や竹野内豊のような全てを手に入れた男が巨乳を最終的に選んだことに、もののあはれを感じてならない。
人は苦しむ
そして、その解決策を探す
どこかに自分を納得させる魔法のようなセオリーがあって、それを見つけて理解する事で自分自身が救われるのだと
そして、今は自分の怠慢や能力不足のためにそれが見つけられていないから辛いのだと信じている
しかし、"本当にそのような魔法のセオリーが存在するのか?"という問いには答えられない
むろん、それは"カラスはすべて黒いのか?"という命題に等しく、証明困難な悪魔の証明だ
しかし、直感としてそれをどこまで信じられるか、主観的な視座において論拠があるように感じられるかについては別であろう
すなわち、可能性として"世界のどこにも、自分を納得させる様な魔法のセオリーなど存在しない"という命題が成り立つ可能性について想定できているかという事だ
「 私は、たゞ一個の不安定だ。私はたゞ探してゐる。女でも、真理でも、なんでも、よろしい。御想像にお任せする。私はただ、たしかに探してゐるのだ。
然し、真理といふものは実在しない。即ち真理は、常にたゞ探されるものです。人は永遠に真理を探すが、真理は永遠に実在しない。探されることによつて実在するけれども、実在することによつて実在することのない代物です。真理が地上に実在し、真理が地上に行はれる時には、人間はすでに人間ではないですよ。人間は人間の形をした豚ですよ。真理が人間にエサをやり、人間はそれを食べる単なる豚です。 私は日本伝統の精神をヤッツケ、もののあはれ、さび幽玄の精神などを否定した。然し、私の言つてゐることは、真理でも何でもない。たゞ時代的な意味があるだけだ。ヤッツケた私は、ヤッツケた言葉のために、偽瞞を見破られ、論破される。私の否定の上に於て、再び、もののあはれは成り立つものです。ベンショウホウなどと言ふ必要はない。たゞ、あたりまへの話だ。人は死ぬ。物はこはれる。方丈記の先生の仰有る通り、こはれない物はない。 もとより、私は、こはれる。私は、たゞ、探してゐるだけ。汝、なぜ、探すか。探さずにゐられるほど、偉くないからだよ。面倒くさいと云つて飯も食はずに永眠するほど偉くないです。 私は探す。そして、ともかく、つくるのだ。自分の精いつぱいの物を。然し、必ず、こはれるものを。然し、私だけは、私の力ではこはし得ないギリ/\の物を。それより外に仕方がない。それが世のジュンプウ良俗に反するカドによつて裁かれるなら、私はジュンプウ良俗に裁かれることを意としない。私が、私自身に裁かれさへしなければ。たぶん、「人間」も私を裁くことはないだらう。」
坂口安吾のこの節における真理を、"自分を納得させる魔法のセオリー"として置き換えて考える事が出来る
人間はどこまでも自分を救う究極の理論や答え、真理というものが存在すると信じている
そして、それを得る事で自分は納得し、辛さや苦しみにに一定の決着がつき、心持が安らかになると信じている
しかし、その実存について(何度も繰り返すが、それが存在するかどうか)は真剣に議論されないように思う
現実的に考えれば、たかが理論や事実などで苦しさや辛さが綺麗さっぱり無くなるとは考えがたい
人は論理や思想や思念だけで生きているのではないので、理屈や真実を突き付けられただけで楽にはならないのだ
しかし、人は真理を探そうとする
そして、時にそれはある種の成功を収め、人生観や世界観や哲学としてその人の認知的な枠組みとして機能し始める
つまり、ある一定の(その人固有の)論理構成や理屈付けの仕方が、その人自身の救いになる、指針になる
そして、それはその人自身には壊せない程度に堅牢であるだろう、思考錯誤の結果だからだ
しかし、やはりそれは部分的なものであって、生物的・生理・社会的な制約(例えば神経伝達物質の異常や個人が変容不可能な環境の要因など)をうけるので、"すべてを救い、納得と平穏をもたらす様な魔法のセオリー"足り得ない
萌えとエロの境界線が薄れている気がする(http://tm2501.hatenablog.com/entry/2013/07/05/214058)
空想することなのでフェティッシュを喚起するアイテムとして絵やテキストが用いられる。
もののあはれにフェチを感じる人もいればバタ臭い乳袋を萌えという人もいる。
ただ「萌えとはこれのこと」と大多数が同意する概念はすでにできていて、
ライトノベルは、大多数が受け入れやすい「同じフェチ」を大量生産しました。
その結果のライトノベルブームであり、ラノベアニメ化の波による萌えの均一化です。
製作コストがバカ高いノベルゲームをもっと手軽に商品にしたいという理由でできたのがラノベです。それが全てとはいいませんが。
初期のラノベは作家もイラストレーターもほとんどがエロゲ制作を知っている人です。
一般にも受け入れやすい萌え要素を「唯一の萌え」と規定して萌えアニメ化した。
これが昨今の萌えの正体なので、エロゲをタブーと見る大多数の人か嫌悪しないよう、
境界線があるように振る舞うのが萌えアニメの処世術だったわけです。
エロは日陰者でなければならない。
そうでなければ犯罪の温床だとかなんだとか規制派がぞろ騒ぎ出す。
日本人が特別だからではなく、日本のコンテンツ規制が緩いからです。
ワンピースのサンジが米国のコミックではタバコではなくロリポップを咥えているのは、
米国のコンテンツ規制が緩ければ、少年ジャンプがアメリカで生まれていたっておかしくはないのです。
エロゲのことなんかはやく忘れて、萌えとエロにはばっちり境界線があったことにして、萌えアニメを楽しんでいたほうが世界のためです。
前年は http://anond.hatelabo.jp/20141220135149、翌年は http://anond.hatelabo.jp/20141218222354 です。
年上の熟女美人のAとは、引き続き月に一回の安定した付き合い。セックスに面白みはないけど、さっぱりした性格だし、仕事の悩みなどでも腹を割って話せる、希有なセフレだ。
同い年のBは、裸にするとお腹の肉が割とあるのが弱点だったが、美人で感度もいいしエッチだし、いろんなことしてくれる。途中からピルも飲みだしてくれた。彼女とも毎月一回ペースで年の前半まで続いていた。真面目に付き合ってくれそうな男ができたと相談を受けて、それなら幸せになって!と離れた。彼女は子持ちのバツイチだから。
4つ下のCは、春にドライブとキスだけして、翌月に朝から午後までホテルで過ごした。恥ずかしがり屋だったけど、しっかりクンニリングスしてあげる条件だよと剃毛を命じたら、自分で剃ってきて僕のもとにおとずれた。素敵なからだと脚と感度に魅了されたが、それから毎日とどくケータイメールにお付き合いしきれなくて、そのうち寂しがって離れていった。専業主婦さんに合わせるのは、会う時間もメールも難しい。
3つ下の専業主婦のD, 大学4年のE, 20下のニートのF, 1つ上のIT系事務員のGとは、デートしたりご飯食べたりしただけで、空振り。
1つ下の保育園の先生Hは、子なしのバツイチで、脱がせてみたら感度とボリュームが凄かった。責めながら頭を撫でてあげるだけで何度もいった。セックスは数年ぶりだったらしく、受け入れているインパクトだけでホルモンバランスが狂ってしまったといい、そのせいだという不正出血で、シーツが赤い海になった。さらに、Mだと告白し、ちょっと書きづらいようなことまで望んできたこのひととはその後二度と会うことはなかった。
ぎりぎり二十代のIは、性格もさっぱりしていて、感度もよくてエッチで、最初からいいセックス関係だった。ただ彼女のものは小さくて、痛がらないよう気を使った。お互いに次に会ってベッドを共にするのをすごく楽しみにしていたのだけれど、不思議なことにそこでばったり終わった。お互いにさっぱりしすぎていたのかもしれない。彼女のさっぱりの奥には何かしらの寂しさが漂っているような気もしたけど、そこまでは深入りはしない。
1つ下のJは、地方都市に住む専業主婦。ネットで話すうち、ずっとレスで秘めてきた思いや欲望をこれ以上溜め込むだけでは壊れてしまうという彼女に、何も起きなかった夏になってしまったら後悔するはず、と会う約束を結んだ。経験人数が非常に少ないまま、地方都市の保守的な暮らしを我慢しつづけてきた彼女の求めはホテルの一室で次第に広がり、道具や、縛りや、アナル開発を受け入れた。お互いの現実に戻ったはずのその後も、あの日の何を思い出してどうオナニーしたかを僕に毎晩報告しないと眠れないと訴えるようになった。そして数週間後、このままではもうだめになると、彼女から連絡を絶った。
2つ違いの企画系女性K。仕事が夜遅いことも多く、夫とは時間も生活もすれ違い。それが寂しくて、すこしやさぐれ。食事したりドライブしたり、そして車で軽いエッチまではしたが、やさぐれた気持ちが一気に僕を求める気持ちに変化してきている気配がするので、慎重に距離を置いている。
12下の既婚女性Lは、ビッチな振りをしてセフレ探しをしていたが、実は大人しく真面目な性格で、そんな彼女とは文化や趣味の話でも相性がよかった。複数回食事などしたあと、定期的にセックスする関係になった。経験はいろいろあると話す彼女だが、そうは全く開発されておらず、徐々に彼女のからだの新しい世界がどんどん開いていくのがわかる。が、性感と一緒に、彼女の気持ちも実ってきてしまっているのも感じる。頭のいい子だから余計に、悲しくさせないようにしないといけない。
ツイッターに悩みを書いたり、そこにエッチなリプをもらったりすると癒されて持ち直す女子大生のMは19。以前から話に付き合ったり悩みに乗ったりしていたが、セフレさんと会う予定がキャンセルになっちゃったという雨の日に代わりに僕が車で登場し、家まで送る途中にホテルへ。少し悲しげな顔をしていたが、しっかり感じさせた彼女のなかから垂れだした液体は白濁レベルだった。もののあはれ。
かなり素敵な感じの同い年のバツイチ看護師さんN。まだ食事したりなど、種まき中。
今年も宜しくお願いします。
そもそも、花を見て「きれいだ」と感じる子どもなんて、いるかな。
いるかも知れないが、それは、大人が感じる「きれい」とは、かなり違うだろうね。
だいたい「きれい」とは何のことだろう。
大人の世界では、「花はきれいだ」ということになっている。
それぞれの咲き乱れる様はきれいなものだと、一般的に言えそうな気がする。
しかし、ラフレシアあたりはどうかというと、あやしい、と思う。
東南アジアの人は、もしかしたら、きれいだと感じるのかも知れない。わからない。
ばぁーっと咲いて、ばぁーっと散る、そういう花じゃないとダメなのだろうか。
だが、ラフレシアが、ばぁーっと咲き乱れるのも、ちょっといただけない。
一輪の花が美しいということもある。
いや、ラフレシアでなくてもいい。向日葵なんかを間近でみたら、アレはきれいなものだろうか。
しかし、個人的にはどう思っても、向日葵には、「きれい」と誰もが認めるような一般的認識が、ある。
誰もが認めるような、一般的認識。
「きれい」を支えているのは、あくまでそういったものだ。
一般的に「きれい」とされるものを知ることによって、
で、一般的認識に即して言えば、「(ある種の)花はきれい」なのだ。
「この花はきれいだとされている」と子どもに教える際に、
「子どもが『この花はきれいだ』と思っていない」とガッカリする人がいますか。
もし「花はきれいだ」という感性を育てたいのであれば、
花がどうきれいなのか、ということを子どもにも伝わるように頑張って教えてやるしかない。
まあ、実際に伝えるのは、とてもむずかしいでしょうが、
それは「この花を見て……」と質問するよりも、よほど教育的なことだと思う。
ただ、そうした内実とは別に、とりあえず「この花はきれいだ」という決まりを覚えることも、役に立つ。
「よくわからないが、この世の中では、この花はきれいだということになってるらしい。」
そう思って、それで文章が読め、話が聞けるようになれば、まあマシじゃないか。