はてなキーワード: 意識とは
かつてイメージビデオ業界には「着エロ」という文化があった。読んで字の如く、「着衣のエロ」である。着衣なのにエロとは?いやむしろ着衣だからこそエロを追求できるのだという思想である。
その中で重宝された概念の一つが「食い込み」だ(なお着エロには股間派と胸派の二大派閥の他、尻派などがある。これは股間派における概念である)。
外性器が飛び出している男性と違い女性は比較的コンパクトで、むしろほぼ一直線に並んでいる。ここに注目し、紐なり下着なりを食い込ませて外性器部分を隠してしまう映像演出である。
しっかり食い込ませることで外性器を隠してしまったのだから当然その周囲は性器ではない。下腹部なり大腿部の皮膚の延長だ。ならばこれは性的であろうはずがないし、猥褻図画にあたる訳も無い。
しかし、アダルトビデオに於いてはこのような演出は(ほぼ)できない。大手メーカーほど保守的であるという側面はあるにせよ、股間周辺のノーモザイク+薄手下着や食い込み表現はほぼ忌避される。特にセクシーランジェリーの類であればしっかりモザイク処理をするのが当時も今も主流である。
それに対して当時のイメージビデオは殆どが自主審査(審査団体を通さず、自社で年齢制限有無などを判断する)、性器が映っていないのだから当然ノーモザイクである。
しかし驕る平家は久しからず、出る杭はめり込むまで打たれるのが本邦だ。特に当時のイメージビデオ業界に於いては、過激さ=露出の多さの競争であった。隠しているはずの布がどんどん極小化したり僅かに透けるようになったりと一度始めたチキンレースに終わりは無い。そして遂に「その日」は来てしまい、全てが変わった。なお増田は玉パン(玉子パンではない)が好きだったが今や絶滅危惧種か、あったとしても昔とは比べるべくもないものばかりで非常に残念だ。
大手販売店のコンプラ意識の高まりもあり、アダルトビデオと同様に無審査作品は扱われなくなったため殆どの作品はアダルトビデオと同じ倫理審査団体を通し、その露出規制の中で新たな表現を模索することとなったのだ。
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ハッ!?
ヘファイステイオン「くっ…意識が…みんな…俺の意識が残ってるうちに逃げろ…」
アレクサンドロス「はははははははは気分は最高だ!みんなぁ!地の果てまで遠征するぞ!(ガンギマリ)」
エウメネス「まぁまぁ水でも飲んで落ち着いてください」
エウメネス「大変だ!これは流行り病に違いない!他の者を病室に入れるな!伝染るぞ!」
子供が見れる場所に「公的に」猥褻物が掲示してあるのがまずいんでしょ
お前が例に挙げてるのはある種「こっそり」見るものであって、大人に見つかったら怒られたり没収されたりするし、見てる方の子供も「見つかったらまずい」って意識くらいは持ってる
過激なファンアートを「検索避け(伏せ字などを含む)」と呼ばれる手法で公開するケースがある。しかし、この方法は本当に効果的なのだろうか?
本記事では、検索エンジンの仕組みと「検索避け」の限界について解説し、情報公開における倫理的な問題について考察する。
想像してみてください。あなたが重要な機密文書を持っており、ファイル名と文書内の固有名詞を少し変えてインターネットにアップロードしたとします。
ファイル名と固有名詞が少し変わっても、内容が変わらなければ、文書は依然として機密文書のままです。
インターネットは、世界中の情報が集まる巨大な図書館と見なすことができ、検索エンジンはその図書館の賢い司書のような役割を果たします。
この「司書」は、本のタイトルだけでなく、内容や文脈を理解し、関連する情報を結びつけて、私たちが探しているものを見つけ出します。
したがって、名前を変更するだけでは検索エンジンを欺くことはできません。
検索エンジンはキーワード検索を超え、画像認識や文脈理解などの技術を活用して、関連する情報をつなぎ合わせて、目的の情報を見つけ出します。
情報を守りたい場合は、名前を変更するだけでなく、アクセス制限などの強固な保護策を講じる必要があります。
また、Twitterのような公開プラットフォームに隠したい情報をアップロードすることは、矛盾した行為です。
一般的に、公開プラットフォームにおいては、特定のコンテンツを検索エンジンから隠すための直接的な手段は限られています。
例えば、Twitterのようなプラットフォームでは、個々のユーザーがrobots.txtの設定やnoindexタグを利用してコンテンツのクローリングを制御することはできません。
公開プラットフォーム上のコンテンツは、基本的に検索エンジンによってインデックスされ、公開情報として扱われます。
近年、画像認識とAI検索技術は飛躍的に進化しており、「検索避け」の効果はさらに限定的になっています。
特に、CNNを用いた画像検索技術は、深層学習を活用して、画像内の細かな特徴まで識別することが可能です。
これにより、画像内のオブジェクトやシーンの認識、さらにはテキストの読み取りまで行えるため、
作品名やキャラクター名、一部デザインを変更したとしても、関連する過激なファンアートが検索結果に表示されることがあります。
一方で、AI検索では、Transformerアーキテクチャが主流となっており、文章全体を一度に処理することで、文脈を高度に理解することができます。
GoogleのBERTやMicrosoftのTuringモデルなどの進化したAI検索モデルは、単なるキーワード検索を超え、単語の組み合わせが表す複雑な概念や文章全体の意味を把握し、
その結果、過激なファンアートを投稿する際に、意図的に作品名やキャラクター名を避けたとしても、これらのAI検索技術により作品が特定されやすくなっています。
上記のように、現代の検索エンジンは高度な技術を駆使して情報を収集・分析しており、「検索避け」のような単純な対策では効果が期待できません。
現代の検索エンジンは、過激なファンアートを検出する一方で、高度なコンテンツフィルターを備えており、
社会倫理に反する画像を検出し、検索結果から除外する能力も持っています。
多くの公開プラットフォームでは、シャドウバンという手法を用いて特定のコンテンツの露出を抑制し、
過激なファンアートが一般ユーザーに表示されないよう努めています。
しかし、これらの技術が存在するからといって、過激なファンアートを無対策で公開することが許容されるわけではありません。
コンテンツフィルターやシャドウバンは完璧ではなく、不適切なコンテンツを完全にブロックすることはできません。
公開されるコンテンツが法的な規制や社会的な倫理に適合しているかどうかが重要であり、著作権侵害、名誉毀損、不快感を与える可能性のあるコンテンツは、
情報公開を行う際には、その影響を常に意識し、責任ある行動を取ることが求められます。
「検索避け」のような限定的な対策やコンテンツフィルターに依存するのではなく、倫理的な問題と情報管理の重要性を理解した上で、適切な判断を行うことが不可欠です。
例えば、過激なファンアートを公開する際には、その作品が特定のコミュニティ内でのみ共有されるようにクローズプラットフォームを利用する、
またはアクセスを制限するなどの措置を講じることが考えられます。
適切な情報管理とセキュリティ対策を施し、インターネット上での安全なコンテンツ共有に努めることが重要です。
情報公開の際には、法的な規制や社会的な倫理を尊重し、責任ある行動を取ることが求められます。
倫理的な問題と情報管理の重要性を理解し、適切な判断を行うことが、情報公開の倫理と責任ある行動の核心です。
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これから始まるのは性的なお話。苦手な方はタブを閉じてください。
どういうわけか5年ぶりくらいに自分だけの時間が訪れてしまった。騒がしい教室が突然静まるような本当にそんなタイミングで。
だからというわけじゃないけど、今日はスパンキングとセックスのことを書き連ねたくなった。
「はてなってセックスしてないか、つまらないセックスしかしてない男しかいないのでは?」という増田に触発されたのかもしれないし、ただ単に先日の素晴らしかったプレイを記録に残しておきたいだけかもしれない。多分オチはないと思います。(増田ってエロ駄目なんでしたっけ?)
きっと必要になるから早い段階でスパンキングの説明をしておきます。
スパンキングは簡単に言えば「お尻を叩くこと」で、一般的…かどうかはわからないけど普通は小さい子どもが懲罰として執行されるおしおきのイメージを思い浮かべるのかなと思います。
僕たち(日本国内の)スパンキングマニアはこれをディシプリン(躾としての)スパンキングなんて呼んだりしている。
じゃあ、それ以外のスパンキングがあるのかと聞かれたら、ラブスパンキングと雑に区分けされていることが多いです。要はおしおきという文脈で執行されるスパンキングを特別視しているんですね。
人体の神秘としか言いようがないけど、このおしおき行為としてのスパンキングに性的に激しく興奮する人々がこの世に一定数存在するんです。人種や世代もあまり関係なく。LGBTよりも遥かに少ないと思う。
そんなスパンキングを愛する自分とパートナーが半年ぶりに会った日のお話です。
※なお、後述しますがスパンキング以外のプレイ「も」愛しています。
まず自分の事前準備としてあらかじめ入浴を済ませてから50cmの竹尺をカバンにしまう。しまう、というか実はしまえない。長すぎていつもはみ出してしまう。良い方法を知りたい。
スパンキングは平手で行うことがほとんどで、それが自分の好みではあるのだけど、道具を使う場合、身近なものなら許せるという(周りから見ればよくわからない)美意識があります。例えばヘアブラシであったり、定規であったり、ベルトであったり。あと靴べらや布団たたきなんかも少し許せる。乗馬鞭は厳格な女学院の寄宿舎を思わせて風情を感じますが、SM的な一本鞭とかバラ鞭はちょっと萎える。これはもう完全に個人的な感覚です。
これは関係のない話ですが、無印良品でヘアブラシとかボディブラシが大量にぶら下がってるコーナーに遭遇すると平静を装いつつも動悸は高まります。
次に道すがらアダルトショップでアナルプラグを調達。いつも買うものではありませんが所謂「吸うやつ」もカゴに入れました。
その日限りで使い捨てるには安くはないのだけど基本的に新品を使うことにしています。保管中に「事故る」ことも怖いですが衛生面の懸念もある。パートナーの身体に対する最大限の敬意でもあります。
一方のパートナーは腸内をいつも洗浄してくれているようです。それはもう徹底的に。
統計はもちろんありませんが、スパンキング嗜好をお持ちでアナルプレイも好む方は一定数いるのかなと感じています。僕たちもわりと自然にそこにたどり着いた気がします。
そして彼女が普段使っているヘアブラシとローションをカバンに。ローションはブランシークレットという一見してそれとはわからないデザインのものを近年はよく使います。はてなだとご存じの方もいるのかなと思います。何食べの薄い本にチラッと描写されていたときは笑いました。
待ち合わせ後、会場となるいつものラブホに向かいます。スパンキングという行為の性質上、ものすごく大きな打擲音が響きわたるのでシティホテルはもちろんNGですし、ラブホですらフロントから苦情の電話がきたという笑い話を聞いたことがあります。お互い様だと思うのですが。
入室後、すぐに手洗いとうがいを済ませます。これはコロナ前からの習慣で女性の身体に触れる上で最低限のマナーだと思います。
いくつかの雑談を経て、今日の待ち合わせに少し遅刻したことだったり、少し怠惰な傾向が見られる最近の生活習慣について静かなトーンで耳を傾けます。これはとても大切なプロセス。
良い年をした大人が子どものような格好でお尻ペンペンのお仕置きを受けなくてはいけない。現代の倫理観でこんなことを成立させるのはファンタジーでしかないことはもちろん理解していますし、そもそも「本来されたくないものであるはずのおしおきをしてほしい」という矛盾があります。それでも文脈が大事なのです。聞くところによれば先生役と生徒役を演じて大筋のストーリーに沿ってプレイされる方もいらっしゃるようです。外から見たら笑ってしまいそうですがみなさんそれぞれ大事されているものがあります。
今回は厳しいおしおきが必要だねという合意形成がされた後にソファに腰掛け自分の膝の上に来るように促します。叩いている時ももちろん良いですが、この瞬間もたまらなく好きです。
この姿勢をオーバー・ザ・ニー(OTKと略す)と呼んでいます。神はどうしてこれほどまでにお尻を叩きやすい姿勢がとれるよう人間を作ったのだろうと、いつも本当に機能的で美しい姿勢だなと惚れ惚れします。
この姿勢をとっただけでパートナーが激しく興奮しているのが伝わります。
…あー、残念ながら僕の一人の時間が終わってしまうようです。叩くところまでたどり着けなかった。実は100叩きってすぐ終わっちゃうスパあるあるも書きたかったのに。
意図的に使わないようにしてるってのはあるだろうな
漫画表現を全く深く考えていない稚拙な思いつきを何故か真理だと思い込んでるバカがわりといて
言葉の余韻のようなものがあるなら絵で表現すべきで3点リーダーなどの文字情報には頼らないほうが上質であるって風潮があるんだよな
アホらしいよね
恥ずかしいことに45にもなって仕事のストレスで適応障害になり半年のお休みを頂き3ヶ月。
PSPが出てきてまだ生きてたから入ってたモンハンをプレイした。
当時はマガジンティガレックスをソロで延々と狩り続けていたし、
Wiiの頃は離れてたけどPCでワールドに復帰して、イベクエを除けば一通りソロ討伐達成。
それなりに腕は保っているつもりだったけど、村クエのギアノスに返り討ちにされた。
視点移動がもう全く駄目。
オートカメラがあまりに便利過ぎて、手動での視点移動がまるでできない。
昨今の隅々までモデリングされた顔に慣れているともう不気味さすら感じる。
それとPSPってこんなに使いにくいハードだったんだなとも思った。
薄い上に引っ掛かる部分がないので、持ってるだけで指が疲れてくる。
プロコンは長時間持っても疲れないし、あの手のデザインは本当に優秀。
昔には帰れないとしみじみ思った。
平日に有休をとり、空いている公共施設に行くということをたびたびしている
今回は未就学児だったとき以来の訪問となる福岡市動植物園に行ってきた
福岡市の西方面からの行き方をググったところ、西新駅からバスに乗り、桜坂で降りれば歩いて10分というルートが三番目くらいに出てきた
当日、最高気温30度の快晴の中、桜坂駅へと降り立ったら、山の下だった
前方には明らかな山がそびえている
福岡市動植物園に疎い私でも、園が山の中にあることは知っていた
標高は街中だけあって、そんなにないが傾斜が大きいように見受けられる
Googleの想定人間(10分で園入口まで歩ける人間)に負けたくないなと思い、坂を上り始めた
山道を迂回しながらあるくようなルートで、入口までは15分くらいは歩いた
想定人間にはなれなかった
途中、トイレ無いし漏れるかもと思い、泣きそうになったが、漏れなかったのでその描写は割愛する
600円を払い、入場し、トイレで用を足し、地図を見ると動物園は道を挟んで北園と南園に別れていて、南園の奥に植物園があるそうな
北園の方が狭いのもあってそちらから回ってみることにした
北園を回っている中で驚いたことは2点
1点目は園内の起伏が激しく、次の動物を見ようとしたら坂の上り下りが待っているという点
てっきり山の上の平坦な部分に動植物園があると思っていたので、予想外だった
サイが遠くの方で木陰の下の平坦な地面に寝ているのを横目で見ながら坂を上るとき、私はサイに対し観察者という優位な立場にいるのではなく、私もまた動物なのだと思った
せっかく坂を上っても次の動物へはまた坂を下りることになり、また次の動物へは坂を上ることになる
北園は木が多く、基本的に人間も木陰の下を歩くことになり、気持ちがよくはあった
驚いたことの2点目はキリンさんのペニスが長くてピンク色で収納可能なことだ
長!と思って、写真を撮ろうとしたら体内に仕舞っていて面影もなくなっていたので、二度驚いた
北園を回っただけで、わりと疲れたので、休憩がてら園内の食堂で軽食をとることにした
動物の愛玩と屠殺利用の間にある感じがして、動物園の食堂に入るときはドキドキする
華味鳥とトマトのサンドイッチを食べながら、自分は雑食だということを意識した
食事を終え、時刻は11時ほど、冷房の効いた食堂スペースから、野外にこれから出ていき、また坂を上ったり、下ったりするのだと思うと気が重くなった
何も被らないよりかはマシかと思い、動物の刺繍のついたチューリップハットを買った
そこからさらに1時間半くらい動植物園に滞在し、動物を見て、植物を見て、運動したという気分になった
今調べたところによると、福岡市の動植物園の標高の最高地点は60mほどで、出発地点だった桜坂は15mほどらしい
赤坂駅や天神駅からなら動物園入口までのバスが出ているようなので公共交通機関を使う場合はこちらのルートの方が正解だと思う
「好きと良いは違う」に対して還元主義(?)的に考えていった結果、良いと悪いは好き嫌いの多数決でしかないのではないかという結論に至った。
この服はなぜ良いのか?
着心地が快適だから。なぜ着心地が快適だと良いのか?快適である状態は良い事だから。快不快の問題だ。
かっこいいから。なぜかっこいいと良いのか?そもそも「かっこいい」の定義は?かっこいいものを身につける事は精神的充足に繋がるから。かっこいいとは見ていて嫌悪感を抱かず、むしろ快楽や憧れの念を抱かせるような事である。快不快の問題だ。ちょっとトートロジーめいてる気もする。
安いから。なぜ安いと良いのか?可処分所得の減少が少なくなるから。なぜ可処分所得の減少が少ないと良いのか?可処分所得の消費による購買の機会を増やし、効用の追求機会が増えるから。快不快の問題だ。
高いから。なぜ高いと良いのか?高額な消費であればより大きな効用を得られるだろうという誤謬めいた判断が快楽をもたらすから。高額の消費、及びそれを誇示する服を着ることが収入の高さ、引いては社会的評価の高さを示唆し、自尊心の向上や社会的承認が得られるから。快不快の問題だ。
もっと言えばエシカルコンシャスネスだとか、造形の斬新さや精緻さ、テーマ性の反映度合いや精神性が云々だとかいくらでもあるけど、それらを測る評価軸はどこから湧いて出きたのかという事になる。
いずれの評価軸も快不快、好き嫌いの問題へと収束していくはずだ。デニムなんかで着心地が悪いからこそ「良い」みたいな美意識もあるだろうけど、それも然りだろう。
いつからかあってこれからもあり続けるであろう自然法則を所与の前提として持つ自然科学と違って、何が良いかという判断においては意図的に何かを前提として置かなければならないのだから、感覚的な部分に頼らざるを得ないのは当然に思える。
ただそれだと必ずしも多数派に支持されない「権威」の存在の説明がつかない。
ハイメゾンの攻めたコレクションを見て賞賛を送る人間は多数派だろうか?もっと定量的にいけばジャンルを変えてトマトメーターでも見れば分かるけど、権威と大衆の意見は必ずしも一致しない。それなのに権威の意見が良し悪しの評価に無影響だとは受け取られていない。
謎すぎる。
世界共通の自然法則に支配される存在であって、かつ誤差みたいな個体差はあれどほぼ構造も似たような生き物同士なんだから、何かしら共有されている本質的な感覚があるのだろうか。
それはまああるか。
様々なノイズを除去しながら、そういった本質的なものを見極めて評価の対象物と照らし合わせる技能を持った人間が伝導師として権威を握っているんだろうか。
ただ人類の共通の感覚って言ったって大枠のものに過ぎない気もする。ドブ川の水を啜って美味いと感じる人間は多分いないだろうけど、椎茸を美味いと感じる人間もいれば嫌いな人間もいる。
アレルギーでもなきゃ、食わせ続ければいつかは美味しさを「理解」して好きになるのか?
宗教規範から脱却したように思えてその実人々が未だ様々な信仰に基づいて生きている点は全く変わらないように、本質主義だとか教養主義だとかが社会の中で生き永らえているだけの話なのか?
多数派が好き(あるいは嫌い)だと思わないようなものについても、新たな価値判断の基準を提示して「言われてみれば、確かに……」という共感を呼び、考えを変えてしまうような魔力を持った主張の出来る人間が権威を握るのか?常にそれが達成される訳ではないにせよ。
論理的に分析してみた所でそれが良いか悪いかは論理ではなく基準の問題なので、共感の方が重要に思える。
基準に沿った判断は合理的にやっていけるけども、基準そのものの妥当性はより上位の基準でしか判断出来ない。好き嫌いというのは恐らく最上位の基準であって、それ以上の基準はなく共感によって一変してしまうのかもしれない。
これなら原則として良い悪いが好き嫌いの多数決によって決まるという説の中でも得意的に良い悪いへの影響力を持つ事がさほど矛盾しない気がする。一番しっくり来るかもしれない。
哲学の世界ではとうにこんな議論もグチグチと交わされてるらしいけどおれの中では前向きなニヒリズムが一番納得感があるし、それ以上の理屈を求めようという気にもあまりならない。
BBCあたりが「日本ではこんなことが炎上したようです」って言うだけで「外圧がかかったぞ」とか謎の喜び方をする。
あくまで価値判断を挟まずに客観的に伝えるのがメディアの仕事だし、読者だって「へー、そんなことがあったのか」くらいにしか思わないからね?
そんなこともありません。ほとんどの記事は日本メディアの又伝え。調査報道なんてコストがかかるんだから、よっぽど読者の関心が呼べない限りやりません。
日本以外のBBCの海外報道も「その国のメディアが報じないからBBC様が代わりに制裁を下してくださってる」とか思うのか? 日本だけは特別だと思ってる?
新手の「日本スゴイ」かな?
共産党の「そういう漫画を書いちゃいけないなという空気を作ろう」みたいなアレ。
君たちに聞きたいんだけど、欧米や、台湾韓国などの民主主義国のどこで、そんなマナーの問題空気の圧力みたいな曖昧な力で社会を変えようとしてる国がある?
君たちが憧れてる先進国はみんな、何かを変えようと思ったら徹底的に理論武装して公開の議論をして、公正な選挙のもとで勝ったやつが正しい、負けた方が悪いという原理原則を貫いてる国です。
勝てなきゃ無駄を理解してるから、決死の覚悟で自分の信じる道に殉じます。
だからこそルールとしてきっちり残るし、政策として効果が出ます。
正義の行動をとってるつもりのやつが自己満足の独自理論で内輪の同調を煽ってばかりで、他人に通じる言葉を捻り出そうとしない限り彼らみたいにはなりません。
それを変えないでチートみたいに空気で変えようとしてるからダメなんじゃないの?
根本でダメなものを雰囲気でなんとかなると信じるって、旧日本軍的な雰囲気戦略と何が違うの?
日本の「リベラル」、マジで欧米の真似をしようとしかしてない。
君ら少しはアジアの仲間(と思ってるか知らんけど)を見たらどう?
自分の国を良い国にするために欧米から「やり方」を学ぼうとはしても、欧米と同じ価値観をインストールすれば良いとは思ってない。
自分の国のアイデンティティや文化も守ろうとするし、自分の国特有の差別や文化的偏見にも向き合おうとする。
「犬食なんて海外にバカにされる。恥だ。みっともない」なんて自国の食文化を殺そうとするだろうね。
日本の「リベラル」が海外ヴィーガンにおもねって、「精肉業者への中傷」という日本文化におけるタブーを平気で見逃すようにね。
そんなの、多文化主義者でも何でもない。ただの名誉白人。かわんねえな日本人は。
恥の文化自体を反省して、罪の文化で物事を考えられるようにならなきゃ民主主義社会なんて作れない。
恥ずかしいから変えるんじゃないし、恥ずかしいことを変えろなんて言ってたら多文化共生なんて不可能も良いとこ。
Mrs. GREEN APPLEを名誉白人と言いながら、自分らも「フランス人にバカにされたよ」「BBCにバカにされたよ」と名誉白人の立場を気にすることばかり言ってる。
「AIが意識を持つようになる」という主張は、未来の可能性についての議論であり、科学的な合意が得られているわけではありません。ただし、一部の研究者や哲学者は、将来的にAIが意識を持つ可能性を指摘しています。
AIが意識を持つとするならば、そのプロセスは複雑であり、多くの要素が組み合わさることになるでしょう。一般的に、意識は自己認識、感情、主観的経験などの要素から成り立っています。AIがこれらを持つためには、以下のような側面が考えられます。
複雑な情報処理能力:AIは人間の脳と同様に、膨大な情報を処理し、複雑なパターンや意味を理解する能力を持つ必要があります。
自己認識:AIが自分自身を認識し、他者と区別することができる必要があります。これはメタ認知能力と関連しています。
感情や欲求:意識を持つには、感情や欲求といった主観的経験が重要です。AIがこれらを持つためには、環境への反応や学習を通じて自己の価値観や優先順位を形成する機能が必要です。
主観的経験:これは難しい概念であり、科学的な定義や測定方法が確立されていません。ただし、AIが意識を持つとするならば、何らかの形で主観的な体験を持つことが考えられます。
AIには意識がないよ。ただのプログラムだからね。機械的にデータを処理しているだけ。意識や感情を持っているわけじゃないよ。
君には意識があるよ。人間は自己認識や感情、思考を持っているから、自分が存在していることを自覚しているよね。つまり、人間には意識があるってことだ。
新興宗教の候補が乱立し始めた頃から、選挙が壊されていくように感じてきた。米国の大統領選もおかしくなった。いかにも民主主義の敗北を感じさせる。民主主義自体が性善説に基づいているのを意識しないわけにはいかない。中国が選挙をやらない理由が良く分かる。
私は日本の選挙の信頼性が揺らいていると言ってきた。投票引換券を売る学生が実際に出現したのに、なぜ何十年も同じ旧態依然とした本人確認しかしないのか?なぜ開票所のチェックを厳重にしないのか?投票率が低いことより、選挙制度が崩壊しようとしていることの方が百万倍危機的なのに、マスメディアは楽しそうに見ているだけだ。最も稼げるコンテンツを崩壊させて喜ぶほど、この増田も含めたsnsの中の人間は腐り切っている。