はてなキーワード: フリードリヒ・ハイエクとは
先祖返りか
https://en.wikipedia.org/wiki/Social_liberalism
社会的自由主義[は、社会正義、社会サービス、混合経済、公民権と政治的権利の拡大を支持する政治哲学であり、自由主義の一種であり、限定的な政府と全体的に自由放任主義的な統治スタイルを支持する古典的自由主義とは対照的である。
どちらも個人の自由を重視しているが、社会的自由主義は、社会的不平等に対処し、公共の福祉を確保する政府の役割をより重視している。
■衰退
1960年代と1970年代の経済問題を受けて、自由主義思想はいくつかの変化を遂げた。
ケインズ派の財政運営は自由市場を妨害しているとして批判された。
同時に、増税で賄われた福祉支出の増加は、投資の減少、消費者支出の減少、そして「依存文化」の創出への懸念を引き起こした。
労働組合はしばしば高賃金と産業の混乱を引き起こし、総雇用は持続不可能であると考えられた。
フリードリヒ・ハイエクの影響を受けたミルトン・フリードマンやサミュエル・ブリッタンなどの作家は、社会自由主義の逆転を主張した。
彼らの政策(しばしば新自由主義と呼ばれる)は、西側諸国の政治、特にイギリスのマーガレット・サッチャー首相とアメリカのロナルド・レーガン大統領の政府に大きな影響を与えた。
彼らは経済の規制緩和と社会サービスへの支出削減の政策を追求した。
社会自由主義連合が崩壊した理由の1つは、1960年代と1970年代に国家政府から独立して活動できる金融利害関係者からの挑戦だった。
関連する理由としては、フランクリン・D・ルーズベルトなどの政治家が提唱した社会主義医療などのアイデアが、赤狩りの最中に保守派、特に前述のレーガンによって批判され、社会主義的とみなされたことが挙げられる。
もう1つの原因は、連合の一部を形成していた労働組合の衰退であり、労働組合は自由主義のコンセンサスに挑戦する左翼イデオロギーの支持でもあった。
これに関連して、労働者階級意識の没落と中流階級の成長があった。
社会自由主義を最も受け入れていなかった米国と英国による貿易自由化の推進は、支持をさらに弱めた。
20世紀末から、社会的自由主義は政治的影響力を失いつつあったが、ジョン・ロールズ(政治哲学)、アマルティア・セン(哲学と経済学)、ロナルド・ドゥオルキン(法哲学)、マーサ・ヌスバウム(哲学)、ブルース・アッカーマン(憲法)など、多くの著名な著者の登場により知的復興を遂げた。
って書いてあるけど?
と書いていてなんだが、実のところ、完全競争市場において資源配分計画を行う主体が情報を十分に持っていて合理的ならば
共産主義経済のパフォーマンスと市場主義経済のパフォーマンスは同じ。
これは1920年代から1940年代で「経済計算論争」というのが行われて、その中でオスカル・ランゲって人が証明してしまったものなのです
(数学的に完全な説明がついたとされるのは別の人たちの登場を待つけど)。市場経済こそが最高の効率だっていう所に、共産主義も同じだよ?っていわれたときの衝撃は、
ガンダムでいうなら、ダカール演説でクワトロ・バジーナことジオン・ダイクンの遺児であるシャア・アズナブルがアンチ地球連邦政府だけど
地球人類を粛清しようとは思っていないと知らされた時の地球人の衝撃みたいなものかと思われる(どちらも、ま、そうだよね派もいたかと思うけど)。
ということでこの衝撃は、市場を重視する経済学者達の思想を根底から揺さぶったんだけど、これについて有効な反論を行ったのが
池田信夫大先生でおなじみのフリードリヒ・ハイエク。彼は「資源配分計画を行う主体が情報を十分に持っている」という点があり得ないと述べ、
分権的なメカニズムである市場でなければ効率的な資源配分が行えないと述べた。ハイエクは、そのような情報を一握にしようとする組織は文明をも破壊する
と述べるんだけど、アムロもダカール演説を知って、あ、このキャスバル、地球に隕石落とすに違いないと思ったはずなのと似ている(そんな描写ありません)。
さて、この論争どう決着がついたかというと、新訳版にダカール演説が消えたようになかったことになりました。結局、ランゲはこの後、どうやって情報を集めるかってことに
力を入れ、ハイエクは30年くらい冬眠させられる。戦後の2~30年主流となるのは第三の道である介入型市場経済を掲げるケインズ経済学で、それも冬眠からさめた
ハイエクに批判されるのはご存じのとおり。やっぱり重要な論点は政府は情報を集約しきれないところにある。
総括すると、共産主義が駄目な経済理論的な理由は計算不可能性に帰せられ、常識的にはやはり駄目そうということになる。
とはいえ、じゃ、計算できるようになればいいんじゃねと夢を膨らませることは可能である。うん、けど、情報処理能力を高めるのは無理そう。
じゃ情報処理量を抑えればいいんじゃね?人も資源もさ!なら、隕石落とせば…
追記
トラバついたこと、また、トラバついている最中に書き直した点があるので返信します。
まず、十分な情報という点を数学的にという点ですが、残念ながらこの論争はそこまで深い話に行きませんでした。
というより、私の書き方がまずく、数学的証明というのは完全競争市場においてすべての財の受給を一致させるある価格が存在するという
一般均衡の存在が数学的に証明されたことを指しています(角谷の不動点定理とかおなじみの奴ですね。院レベルの話は下段で)。
これが証明されることは、すなわちランゲの主張するように計画主体がすべての財の受給を一致させるある価格を決めることが出来るのであれば
完全競争市場で実現されるような財の配分が共産主義経済にても実現されることを指しました。
さて、本来であれば、その価格決めにおいて計画者と市場どちらがロスが少なく決められるかの論争が行われるべきでした。
しかし、上記のごとく、ランゲはその価格決めの調整過程の研究に入りましたが市場との比較を行うことはありませんでした。
また、アメリカの経済学では(同じように!?)市場で一般均衡解が決まるまでの動学的過程への関心が1970年代以降強まりますが、
調整方法が市場であるか計画であるか言及する人はいませんでした。そうしている間に、1991年ソ連は崩壊し、経済学もアメリカの経済学に収斂します。
残ったのは市場経済と動学的一般均衡モデル。もはや、計画者と市場という論点は消滅しました。
ということでトラバの方には、学部上級レベルの齊藤先生には飽き足らずもっと深い(己の数学的才能のなさに絶望する多分一番経済学の分野でできつい)世界へ進んでもらいたいと思います。