はてなキーワード: コミュニタリアニズムとは
無思想の対として浮かんでくるのがネトウヨやネトフェミなのか?それはドン引きだわ。
普通はコミュニタリアニズムだとか、リバタリアニズムだとか、リベラリズムだとか、功利主義だとか、老荘思想、儒教思想、禅――そういうのを学者の名前や著書の内容と共に思い出すもんだよ。
それらをみな、自分なりに噛み砕いて、現代の身の回りの環境に合うよう変形させた上で持っているもんだよ。自覚していないし、言葉にしないだけで。
君が思想だと思っているネトウヨやネトフェミなどという集団は、カルト宗教と原理的に同じで、思想の体現ではない。
不満を鬱積させる市民のうち無学な人たちが、思想めいたものにかこつけて一体感と規模の力を得るための寄り集まったものでしかない。
思想哲学のように、政治や経済と繋がってより良い「道」を追求・研究することを主眼にしているわけではない。いわば対案を持たないデモ行進のようなものだ。
もしそういうのを「思想」だと思って、そんなのになるくらいなら無思想の方がいいとなる人がいるとしたら、そうやって特段悪い部分だけ見ることで考えを改めないようにする思考の癖を直すべきだと俺は思う。
反証が現実的に困難であることと反証可能性がないことを一緒にされても……
しかし、である。オカルトが科学ではないのはいいのですが、すべての科学が反証可能性を持っているかというと怪しい。化学や物理学の最先端の研究だと、現状そこの施設(しかも営利企業だったりする)でしか検証できない実験結果がネイチャーとかに載ってたりする。あれはいいのか、という話になる。「いずれ反証できる『可能性』があるからいいのだ」という人がいるかもしれないが、いまこの瞬間はまだ反証可能性が無いのにネイチャーとかに載っちゃうのはどうなのそれは本当に科学なのということはまだ言える。
現実的に反証が困難でも反証可能性はあります.当たり前のことでしょ.
たとえば「シリウスには惑星があってその惑星には高度な文明を有したシリウス人が住んでいる」という主張は,究極的にはシリウス星系まで行かないと検証できず,かつ現在の人類には恒星間航行の技術がないので反証不能か? そんな馬鹿な.シリウスに行けば反証できるんだから反証可能に決まってる.
「現在の地球人類には反証するすべがない」と「反証可能性がない」は全然違う.
というかそれでやばいことになった事例もあるわけで(ヘンドリック・シェーン、STAP細胞など)。まあ「可能性がある(実際先の2つは実際反証されたやろ[STAP細胞が無いと証明した人が居ないのに反証されたと言っていいのかとか問題もあるのだが省略!])」というところでそこは押し切るとしても、更に根本的な問題がある。
「小保方さんの書いてたやり方で作ってみたけどSTAP細胞はできなかったよ?」で反証は成立です.小保方さんが論文に書いた方法ではSTAP細胞は再現されなかった=小保方さんの論文に書かれた手法が正しいという主張が反証された,でFA.
ひょっとしたらSTAP細胞は存在するかもしれないけど,その存在を証明する責任は小保方さんが負っていて,彼女はそれに失敗したわけで.どこも反証可能性に問題はありません.反証可能性がある主張が反証された結果間違いであるとわかったというだけです.
否定されたのはあくまで「小保方さんの論文に従って得られるSTAP細胞の実在」に過ぎない.もちろん厳密にはSTAP細胞の存在そのものが直接的に否定されたわけではないけれど,STAP細胞なるものが余人に観測されておらず小保方さんの提唱した概念である以上まあそれは実在を否定されたってことでいいんじゃないですかね(他の人も見てるなら「小保方さんの論文はおかしいけどどうもこの細胞は本当にあるっぽいぞ,別の論文で実在を証明しよう」という話になったかもしれないけど,ゴッドハンドしてたんじゃ救いようがないよなぁ).というかマジで反証可能性を何だと思ってるんだ……
というかそれそもそも研究不正の事例であって反証可能性関係なくね? シェーンさんの研究にも小保方さんの研究にも反証可能性はあったよ.反証可能性以前の問題で連中はインチキしてたわけだけど.
ちなみに元増田についたブクマで雑な文系叩きをしている連中に対しては,俺も人文系の研究者じゃボケと言っておくことにします.
反証可能性がないことそれ自体はなにも悪くないのだけれど(たとえば,哲学や法学に反証可能性を求めるのは無意味だろう.自由主義とコミュニタリアニズムのどちらが正しいか? 住居侵入罪は住居の平穏を保護しているのか,それとも管理者の自由意志を保護しているのか? どちらも反証可能性なんてないがそれでも学問として成り立っている),反証可能性が厳密に求められる分野に対して雑な反証可能性理解で殴り込みをかけるのはやめような.
「存在からしてシステムに組み込まれている」というのは違うんじゃないかな。
そうなのかなあ。社会性と言う名のシステムと、人間という分類って切り離せいないものであるように思うから、後天的とか、学習の結果とか示されても納得しがたいなあ。
あ、でも狼に育てられた少年とか、保護された時の様子の記録を見るに、人間らしさは身体的な特徴ぐらいにしか見られないわけだから、なるほど社会性というシステムは後天的に学習されたものなのかもしれないなあ。
世代交代を繰り返して、システムはこれからどんな状態になっていくんだろう。
世代交代が大きな社会性を否定しているように見えるから、見当もつかないや。
あるいは、システムそのものが変化するのかもしれない。倫理やモラル、善や良心から解き放たれた、ロジカルで記号的な価値基準、精神構造へと人間は変化するのかもしれない。
その過渡期にあって、コミュニタリアニズムが脚光を浴びたのかもしんない。難しいことはわからんけども。
昨年放送されていた、マイケル・サンデルのNHK白熱教室は非常に面白かった。そんな折、NHKの白熱教室番組で解説をされていた小林正弥氏が、「サンデルの政治哲学」という新書を出されていたことを知った。早速読んでみたところ、あまり理解が及ばなかったカントの部分であるとか、サンデルより他のコミュニタリアンと呼ばれる思想家たちのことも書いてあり、とても勉強になった。
そのうちにサンデルよりも氏がどのような研究をされているのか興味が出てきて、他に書かれているものを大学の図書館で調べてみた。小林氏はどうやら「公共哲学」というものを日本に根づかせようとされているらしい。堅苦しい哲学というよりも、実践を本分とする「公共哲学」にも興味を持った。そこで、昨年出版された「アクセス公共学」という本を図書館で借り、小林正弥氏の論文を読んでみた。「日本政治の公共学」という興味をそそるタイトルである。
だが読み進めていくと・・・
そこには驚くべきことが書いてあった。
少なくとも、以下に引用する文章(それは論文の最終節にあたる)が、サンデルのjusticeを解説されていた人の書くものとは到底私には思えなかった。私には以下の論文のjusticeがよくわからないし、これが日本の公共哲学なのであればそのようなものは・・・とも思わないでもない。少々長くなるが、はてなユーザーの賢明なるみなさんに、ご意見を賜りたい所存である。
この民主党中心の連立政権(社民党と国民新党との連立)は、脱官僚と政治主導、そして地方主権を主張し、対等な日米同盟を公約に掲げた。また、成立した鳩山政権は「友愛」と「新しい公共」を理念として掲げて、地球温暖化問題についてCO2排出量の25%削減(1990年比)という鳩山ビジョンを提起して世界の喝采を浴びるとともに、東アジア共同体のビジョンも提起した。
これらの政策公約の多くは、自民党政治、特に55年体制におけ二重十恩顧主義政治体制や家産官僚制の問題を摘出し、その抜本的改革を企てるものである。鳩山首相は「友愛」の理念を掲げていたから、それは「友愛公共革命」への期待を生んだ(小林2010)。そして、その所信表明演説や施政方針演説は、「友愛」と「新しい公共」の理念を掲げる拡張高いものであり、いわば政権の公共哲学を宣明したものだった。これは、理念が政治を動かすという可能性を示したという点において戦後日本政治においてほとんど初めての出来事であった。政治において、「善」に関わる理念が明示されたという点において、この公共哲学は、マイケル・サンデルが主張するような意味において、コミュニタリアニズム的な性格を持っていた。
(中略)
さらに、日米関係においても、新政権は総選挙のマニフェストで「緊密な日米関係」を掲げていた。鳩山政権は、普天間の基地移設問題について、自民党政権が合意していた沖縄県内の辺野古移設案を変更して、鳩山首相は可能な限り県外・国外移転の可能性を探った。これは、永年にわたる日米恩顧主義における対米追従外交に代わって、沖縄の負担を軽減するために主体性を持った政策を提起しようという試みだった。
(中略)
しかし、鳩山政権は首相自らが設定した2010年5月という期限までにそれを実現することができなかった。県外移設の可能性を追求したもののアメリカに拒まれて、結局は辺野古案に回帰して日米合意を行い、反発した社民党の連立離脱を契機にして、発足後8ヶ月余りという短期間で崩壊したのである。その主因は鳩山首相と小沢幹事長をめぐる「政治とカネ」の問題と、普天間基地問題をめぐる混迷だった。しかし、普天間問題において外務省や防衛省は、いわば米官連携に即して、県外移設案の追求に対して非協力的だった。ここにも現れているように、鳩山内閣においては「政治≒公共」に対する「国家≒官≒公」の反発や抵抗があったということができる。残念ながら、こうして「公共的公」は確立せず、「公共」的な政権は「官」の抵抗に遮られて崩解してしまったのである。