はてなキーワード: チクセントミハイとは
日本で始球式をすることも決まっている、話題のサンデル教授の本『これからの「正義」の話をしよう』を読んだ。
シリアスゲーム的な考え方だと思った。押し付けがましくなく、それでいて熱意がある。
ダン・アリエリーの「予想通りに不合理」では、行動経済学として人々の社会規範と市場規範に焦点を当て、さまざまな実験を通して規範の適用の仕方を検証している。
サンデル教授はこれまで社会規範の適用されてきた社会に市場規範を適用するという最近の風潮を危惧している。
それは、アメリカのみならず、諸先進国においても同様だろう。GDPでは幸福は測れないということだ。
そうした現状で、公正な正義を一人一人が認識しようとすることは社会の幸福への試金石になるかもしれない。
宮台真司の推薦文にもある通り、サンデル教授はコミュニタリアン(共同体主義者)だそうだが、一部のコミュニタリアンにとっては違和感のある呼ばれ方だそうで、その原因は「正義は個々のコミュニティが好き勝手に定義したものに過ぎないという相対主義的見方を表しているように思える」からだそうだ。
つまり、コミュニタリアンと呼ぶ側(功利主義、自由主義)がコミュタリアンの物語の探求という考え方を見落としているということだ。
NHKの白熱教室を観た方はわかると思うけれど、サンデル教授は功利主義、自由主義、そして共同体主義を実際に起きた問題や思考実験によって人の正義と自由、正義と権利、自由と権利といった問題を焦点に繰り返し問題提議、検証していく。
5章以降のカントの示した人生観やロールズの考える自由は、より具体的で、わかりやすく、刺激的だ。
人生観で特に印象的だったのは、マッキンタイアの「物語の探求としての人生を生きる」という考え方だ。
自由を追い求める考え方は目的論を独善的とみなす。しかし、現実的には人々は人生という物語を解釈している。
自由に選択できることが真の意志の尊重とするが、
物語の探求という生き方は、アドベンチャーゲーム、ロールプレイングゲームのようにマルチエンディングのような、または、SF的な多世界解釈に近いと思う。
そして、それは強烈だ。これからの諸問題との対峙する時、コミュニタリアンの正義に対する捉え方は安易な自由や平等主義よりも解決への熱意を持っている。
サンデル教授は功利主義、自由主義、共同体主義という選択肢を検証し、最終的にトゥルールートとでもいうように納得させる形で共同体主義への道筋を示した。
心理学者のミハイ・チクセントミハイによって提唱されたフロー体験というものがある。
フロー(英語:Flow )とは、人間がそのときしていることに、完全に浸り、精力的に集中している感覚に特徴づけられ、完全にのめり込んでいて、その過程が活発さにおいて成功しているような活動における、精神的な状態をいう。ZONE、ピークエクスペリエンスとも呼ばれる。その概念は、あらゆる分野に渡って広く論及されている。
チクセントミハイが見たところによれば、明確に列挙することができるフロー体験の構成要素が存在する。彼は8つ挙げている。
2. 専念と集中、注意力の限定された分野への高度な集中。(活動に従事する人が、それに深く集中し探求する機会を持つ)
4. 時間感覚のゆがみ - 時間への我々の主体的な経験の変更
5. 直接的で即座な反応(活動の過程における成功と失敗が明確で、行動が必要に応じて調節される)
6. 能力の水準と難易度とのバランス(活動が易しすぎず、難しすぎない)
フローを経験するためにこれら要素のすべてが必要というわけではない。
(フロー:wikipedia [ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC ])
目的論的な解釈や考え方はフロー体験を促しやすいのではないだろうか。
自己実現理論(じこじつげんりろん)とは心理学者・アブラハム・マズローが、「人間は自己実現に向かって絶えず成長する生きものである」と仮定し、人間の欲求を5段階の階層で理論化したものである。又、これは、「マズローの欲求段階説」とも称される。
2. 安全の欲求(safety need)
3. 所属と愛の欲求(social need/love and belonging)
4. 承認の欲求(esteem)
5. 自己実現の欲求(self actualization)
の5段階に分類した。
自己超越
マズローは晩年、5段階の欲求階層の上に、さらにもう一つの段階があると発表した。それが、「自己超越」(self-transcendence)の段階である。 自己超越者(transcenders)の特徴は
1. 「在ること」(Being)の世界について、よく知っている
5. 深い洞察を得た経験が、今までにある
6. 他者の不幸に罪悪感を抱く
9. 聡明である
10. 多視点的な思考ができる
11. 外見は普通である(very normal on the outside)
マズローによると、このレベルに達している人は人口の2%ほどであり、子供でこの段階に達することは不可能である。 マズローは、自身が超越者だと考えた12人について調査し、この研究を深めた。
(自己実現理論 :wikipedia [ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96 ])
フロー体験や自己超越といった段階は、ただ安易な自由や平等を考える以上に、個々人が社会で生きる目的を認識することが重要であることを示しているように思える。
「あるロッククライミングの上級選抜試験で、試験官は偽の頂上に待機し、受験者たちが一通り登頂し終えたところで、ここが偽の頂上であり、本当の頂上は別のところにあると告げた。試験官は受験者たちの表情を観察し、落胆の表情を浮かべた者には上級クラスへの進級を断り、さらに登頂が続くと興奮した者を合格とした。
チクセントミハイ教授によれば。ほとんどの最適経験(持続するタイプの快楽)はこのようなテレオロジカルな行為によってもたらされる。テレオロジカルな行為とは、結果に関わらずそれ自体から充足感が得られる行為だ。自分が格好よく見えるに違いない、あるいはきっとお金になるに違いないと信じているからではなく、それをすることが好きで仕方がないという理由で行動する時、最適経験に入る可能性は高まる」(ポール・マッケンナ)
以上をふまえ、2980円のジーンズと59800円のジーンズのどこが違うのかを説明しよう。それは考えなくてもいいことではなく、それを考えることこそが楽しいんだ。
まず、59800円のジーンズがプラダやグッチではなく、1952年製造のリーバイスのジーンズが状態のいい古着として残っているものに付いた価格だと仮定する。(新品だとその3倍はすると思って欲しい)
どうしてそんな値段がつくのか?
それは現在売っているジーンズがジーンズに似ている別のものだからなんだ。
ジーンズは労働着として誕生したが、その設計思想は「高価だが、妥協なく丈夫なもの」ということだった。だから「ジーンズなんか労働着だから適当な服なんだよ」と言う者もいるが、実は当時から高価で、買えない者は多かったという点を知らないことが多い。その代わり当時の水準では非常に長持ちをする。各部にある鋲(リベット)は丈夫さの象徴でもある。安価なニセモノも多数売られていた。
60年代後半から70年代にかけ、ジーンズはなぜか若者の流行になり、メーカーは需要に対応するために大量生産を開始する。
この際、作り方を1から10まで変えてしまい(いっぺんにではなく徐々にだけど)、「ジーンズに似てる別のモノ」ができあがることになる。
綿100%糸を交合糸にし、力織機を革新織機にし、打ち抜きリベットを打ち抜かないリベットにし、隠しリベットをなくし、染め回数を減らし、原反の端は使われなくなった。
谷村新司が最近ラジオで「ジーパンてさ、日本で最初に飛びついたのはおれらフォーク仲間だったと思うんだけど、あのときジーパンて高かったよね?」と違和感を表明した通り、その後ジーンズ(に似た別のモノ)は安価に、そしてより一般的になっていく。
80年代後半から90年代前半にかけ、ある人たちが、どこを探しても本来のジーンズが存在しなくなっていることに気がついた。そして、過去のジーンズを求め出したのだ。
これがジーンズが59800円の理由である。ビンテージジーンズというジャンルの誕生でもある。
一方、すでに本来のジーンズが存在しないのであれば、自分たちで作ってしまえばいいという一群があらわれ、彼らは過去の力織機を、ユニオンスペシャルを、綿糸を、手に入れ、ビンテージを分解し、過去の文献を研究し、お互いに切磋琢磨しながらビンテージ以上のビンテージを作り上げた。これがレプリカジーンズであり、90年代後半に一部ではブームとなる。
このブームは海外にも広がり、「日本のジーンズはすごい」という定評を得ることになる。
そのとき、ユニクロというその流れと全く関わりのないブランドが、突如「ユニクロのジーンズは日本生産、日本のジーンズは世界一」という広告を大々的に打ち、確かに日本製であろうがモノとしては「ジーンズに似た別のモノ」としか言えないもの(コスト的ノウハウ的ににも仕方ないのであるが)を、他人の功績を横から奪う形で売り出したのである。
多くの者は宣伝文句を意識し、安価でもいいものはあるとばかりに購入し、2980円のジーンズ(風)は市民権を得るのであった。これが2980円の歴史である。
ね、おもしろいっしょ。ガンダムの宇宙世紀の歴史みたいっしょ。
なんかぶくまがいっぱい付いてるので追記
http://pds.exblog.jp/pds/1/200904/12/96/f0203796_112585.jpg
↑このムックは干支が一回りするくらい昔に発売された奴だけど、8割がたここに書いてあることを書いただけです。この当時、他にもこの手の雑誌はたくさん出てて、読みまくったもんで。
追記の追記
# nekora 履くのが短足東洋人って時点でもう、歴史もオリジナルもレプリカもA級もB級もマシンナリィも何もかも物悲しい。 2009/04/29 CommentsAdd Star
# lakehill lakehill fashion 別にまがいものでもきちんと着こなせるならそれでよくねえ? 2009/04/29 CommentsAdd Star
この辺の人らがロッククライミングの下りを全く読んでないか、読んでも理解できないかのどちらかだということはわかった。
もう一度引用しておく。
「テレオロジカルな行為とは、結果に関わらずそれ自体から充足感が得られる行為だ。自分が格好よく見えるに違いない、あるいはきっとお金になるに違いないと信じているからではなく、それをすることが好きで仕方がないという理由で行動する時、最適経験に入る可能性は高まる」
やっとわかった。そんなものは技術者の驕りだと。
だから、哲学とか社会科学とかには人を幸せにする方法が長年考えられてきていて、それをうまく使えば面白いものができると思った。
いろいろ漁ってみた。社会システムとか精神分析とか確かにいろいろ考えられていて面白いけど、いま一つ触れることのできない何かがあるような気がした。
たぶん、やっぱりそれは心なんだろう。
20世紀に爆発的に発展してきた科学によって、いろんな意味で豊かになったけど、幸せになった人が増えたかはどうだろう。科学が発展する前から幸せな人はいるし、幸せじゃない人もいた。そして、科学の発展とともにその割り合いが増えたか減ったかは正直わからないところだと思う。そして、日本の金持ちがアフリカの子供より幸せだなんていいきれない。
どんなに議論しても、人の心は十人十色。その人が幸せだと思わない限り幸せではなく、技術がとかサービスがどうこうというのは違う。生活を豊かにはできても幸せにする方法なんてない、技術力で世界中の人を人を幸せにするなんて幻想だと。
例えば、はてなで結果的に幸せにな人もいれば、そうでない人もいる。でも、これはサービスのやり方というよりは、使った人やネット上でかかわった人の考え方一つでしかないと思う。だから、サービスや技術の作り手としては、一人でも楽しんでもらえるようにするようにすればいいと思った。
幸せにするなんてのは、目の届く範囲でがんばって、あとはネットをつかって広くアプローチできるのだから、楽しんでもらえるものを作って自分も楽しめばよいと。
とりあえず、そういう方向でがんばろうと思う。
#そんなにいろんな分野を網羅したわけではないけど、一番影響を受けたのはチクセントミハイです。