はてなキーワード: グラフィックデザインとは
グラフィックデザインがメインの会社で社内でたったひとりのWebデザイナーなんだけど、今やってるWeb制作の案件がちょうどこんな感じ。
ホームページビルダーで更新できるように、レスポンシブで、記事なんかを色々と書きたいということで静的サイト50ページほどを作成。
明らかにWordpressなり使ったほうがお互いラクだと思うんだけど、それは断固拒否された。ホームページ・ビルダーでできないからだそうだ。
サイトマップ、リンクの導線も全部ド素人のクライアントから完全指定。迷路みたいなサイトで、作っている自分でもどこにどのページがあるのか未だに覚えられない。
そして今9割ほど出来てるんだけど、とにかく修正が多い。修正というより変更。
Tableタグ内で、このセルのみ左揃えにして欲しい。やっぱり右。やっぱりフォント少しだけ小さく。だとか
あっ ここのサイトっぽくしてください。ここのサイトとここのサイト混ぜたような感じで。だとか
普通のWebサイトのセオリー・デザインのセオリーを全て無視したクライアントの意見を尊重しないといけないので、インターネット上に漂うゴミをひたすら捏ねている気分。
デザインの4大原則? もう跡形もない。 分かりやすい導線? 作ってる自分でさえテキストエディタのツリー見てURL入力しないと各ページにたどり着けない。
そもそも悪いのはこんな案件を安易に受けてきた営業さん。CMSナシで記事をどんどんホームページ・ビルダーで更新してかつレスポンシブ?
静的サイトでどうやって? アーカイブとか過去記事とか全部手入力するの? Jekyllとかの静的サイトジェネレーターの使い方でもクライアントに教える? それならWordPressの方がずっとマシだ。
今までクライアントから届いた修正のPDFの量は100をとうに越えている。1つのPDFにつき5ページくらいだから500ページ分?
細かい文言の変更、ウィンドウサイズは人それぞれなのでである程度は仕方ないと伝えているのに改行がおかしいだとか。グラフィックデザインと勘違いしていらっしゃる。
何が悲しいかってこんなことがもう半年続いているということと、くだらない修正をしても何のスキル向上にもならないということ。
ヘイトがすごい溜まっている。
lorem ipsum(ロレム・イプサム、略してリプサム lipsum ともいう)とは、出版、ウェブデザイン、グラフィックデザインなどの諸分野において使用されている典型的なダミーテキスト。書籍やウェブページや広告などのデザインのプロトタイプを制作したり顧客にプレゼンテーションしたりする際に、まだ正式な文章の出来上がっていないテキスト部分の書体(フォント)、タイポグラフィ、レイアウトなどといった視覚的なデザインを調整したりわかりやすく見せるために用いられる。
「lorem ipsum」は様々なバリエーションがあるが、もっとも一般的なテキストは以下の通りである。
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「無料公開」によって市場が崩壊する理由を解説したイラストが話題に ソシャゲー、ユニクロ、web漫画、いらすとや、ダンピングによって壊れる日本
https://togetter.com/li/1072368
■記事をまとめると
そんなことをする企業は悪だ。
この記事内での「低価格でサービスを提供している企業が」という風潮に違和感を感じました。
「政治は国民を映す鏡」という言葉があるが、「企業は消費者を写す鏡」であると私は思います。
大きな企業が消費者のニーズを満たすのではなく、消費者のニーズを満たした企業が大きく成長します。決して逆ではありません。
「低価格サービスを提供する企業はけしからん」と言いながら、ユニクロやしまむらで服を着て、IKEYAの家具を使い、ディスカウントストアで買い物をし、メルカリで古着を探し、LCCで旅行をする。
矛盾しているのではないでしょうか。いつだって選択権は消費者にあり、選択を行っているのは私たち自身なのですから。
ピークを迎えた産業が次に待ち受けるのは、激しい生存競争です。
様々な差別化や価格競争で生き残ろうと、企業や店舗・個人がしのぎを削り合います。
「行き過ぎた競争が産業の寿命を縮める」というのも事実かもしれないません。
しかしながら、遅かれ早かれ寿命はいつか尽きます。結局のところ「〇〇が業界を壊す」と言うのは淘汰される側の言い分でしかない様に感じます。
最近、アニメ業界やデザイン業界のいわゆる中の人の「悲鳴」が取り上げられています。
これらの業界は、少し調べたら分かるほど「悲惨」としか言いようがありません。
しかし「不当な評価」「搾取」という言い分は、はたして本当にそうなのでしょうか?
http://j-net21.smrj.go.jp/establish/columninterview/column/gyokai/20130108.html
この資料によるとデザイン市場は四半期で140億 その内約半数がグラフィックデザイン市場。
つまり70億*4=280億が年間グラフィックデザインの市場規模だと考えられます。
グラフィックデザイナーの人口ってどれくらい?
https://www.d3d.jp/info/archives/531
正確なグラフィックデザイナー人口は算出されておらず、推測の域を出ないのですが、
今回は記事内の書かれていた
・予想人数10万人
つまり1人当たりの年間の売上は
就業人数が32,000なら、84万円
100,000人なら、たった27万円です。
気付かれたと思いますが、市場規模に対して就業人数が多すぎます。
イラストレーターを苦しめるのは、イラストレーター自身ではないでしょうか。
グラフィックデザインに進む男性は少ないんだろう。
好きなこと、興味があるところに正直に突き進む女性と、
一応一生稼ぐことを考えないといけない男性の差があるのだと思う。
そうじゃないと説明できないくらい、若い人に男性がいないから。
さて、そういうわけで、
あなたは貴重な男性グラフィックデザイナーだ。
大仰な看板を求めなければ、働き口はそんなに苦労せずとも見つかると思う。
だから、「体力がある」というそれだけで、女性より本当はアドバンテージがある。
二日の徹夜があれば、体力の差は歴然。
それをどうにかしようとしている人は多いけど、
事実としてそれは日常茶飯事で、それでないと飯は食えないので、
やはりそれに付いて来れる体力のある人は必要だ。
そこで是非、ひとまず安売りでもなんでもして、
積める経験を積んでほしい。積み重ねてほしい。
ライバルは、美大に通わせてもらえるようなお嬢様たちばかりだ。
そりゃ中にはそういう浮き世を知らないことが生む才能もあるけど、
そんな一握りの人たちは放っておけばいい。
学歴で言えば適わないような底からそれでもやるんだとやってきた人たちで、
技術を積み重ねた人間の信頼感がある。肥やしてきた引き出しが違う。
そういう人を目指してほしい。
それを信じて、それに応えるべく積めるものを積んで、
是非「グラフィックデザイナー」として歩んでほしい。
何がしたいのか。
なんでもやりたい。何にでも挑戦していきたい。webに関わること全てに。グラフィックデザイン、映像、プログラミング、アプリ。けど、一つずつ潰していこう。
まずは何をする?
html、css、javascript。これらの基礎や拡張言語から。
目標を立てる。小さな目標で良い。ミニマムに達成を積み重ねていく。自分には成功体験が少ない。
褒めてもらうのを一度考えない。あわよくば、で良い。小さな目標を成し得たら、自分が褒めてあげる。それで良い。
他人を意識しない。意識しない、というのは、他人と比べない。自分と他人を比較しない。比較は無意味、自分を追い詰めるだけ。
ただし、目標となる人物像を立てるのは良い。憧れの人を持ち続ける。尊敬する人は何人もいても良いけど、真似する人は1人くらいに絞ったほうが良い。
いままでは運で乗り切ってきたことを認識する。偶然、たまたまここまでやってこれた。
運に頼るべきではない。実力がついて初めて運もついてくる。
ただし、自信は捨てない。根拠のない自信を持て。何事も自信から始まる。
大丈夫、君はまだやれる。
「○年後、○○という業種はコンピュータ(or ロボット)に取って変わられる」という記事を最近よく見かける。
単純労働はそうだろうけどデザインなどのアートの領域に近いものは無理ではないか、と考える人も多そうな話だが、実は自分は割と真っ先に取って代わられるジャンルじゃないかと思っている。
グラフィックデザインはファインアートと違ってかなりの部分を「お約束」、暗黙の約束事に沿った作り方をすることが多いからだ。
例えば自分が仕事でパンフレット・Webなどの仕事を請けた場合、まず行うことは「お手本探し」。
Web検索か画像検索を使い、クライアントの同業者のパンフレット・サイトなどをかなりの数見る。
そしてレイアウトやメニュー構成、配色などの共通要素を考えた上で、クライアントのコーポレートカラーなどに沿って「再構成」していくような流れになる。
つまり、クリエイティビティを求められる部分は実はあまりない。どちらかと言えば技術的な仕事。
大量のサンプルを収集して共通点を割り出し、内容を自動解析するというのはまさに最近のAIが得意とするジャンルだ。
現在は、複数台のカメラで撮った映像を人の判断によってカット割りしている。
でもこれは、発言者が誰かさえはっきりしていれば、顔認識技術と組み合わせて自動化出来てしまうはずだ。
納品する動画がDVD画質で、撮影した動画の画質がフルHDや4Kだった場合、デジタルズームでも画質は荒れない。
発言者の周辺を自動でフレーミングすることすらきっと出来るだろう。
つまり、撮影は「全体を大まかに」取ればいい。カメラもほとんど動かす必要はない。
必要なカメラワークはAIにやらせればいい。そのほうが手ブレも防げる。そんな未来。
「AIが撮影対象物を認識するようになった」というのはそれぐらいとんでもない技術で、これと音声認識を組み合わせれば「人物部分を避けて自動でバラエティ番組的なテロップをつける(声の解析から適切な書体・配色を判断する)」ということも出来てしまうのではないだろうか。
そうなるともう、人間がやることは「AIへの適切な指示」以外に何もない。
一部の(芸術作品に近い)ハイエンドのデザイン以外、デザイナーといえど自動化の流れにきっとは逆らえない。
自分たちが出来ることはせめて「使いこなすこと」だろうなあ、と思う。
ちゃんとしたグラフィックデザインの歴史なんて百年やそこらだけれど、毎年何万人っていう人間が何作品作ってきたと思ってるんだ。それ以前には人類が始まってから人間は創作活動してきた。
「他のなににも似ていないデザインを作れ」なんて無理だよ。あほか、くそが。
佐野氏の五輪ロゴの話でいえば、モジュール化という今回のコンセプトをグラフィックに落とし込んでいれば問題ない、極端な話、佐野氏がベルギーのロゴを知ってたとしても問題ないというのがデザイン業界では雰囲気な気がする。結局どれだけ、それらしい能書きが作れて、それをグラフィックとして落とし込めているか、なんだよ。そして、すくなくとも佐野氏は、デザイン業界言語では、ベルギーと差別化できるくらいの論理武装は出来ていて、それがデザイン業界にいる人なら「ああ、こうしたかったのね」というのがコンセプト文なしで大体伝わるものが作れていた。だから、佐野氏案は採用された。仮に審査中にベルギーのロゴが出てきていたとしても、審査員は「よいデザイン」と判断していたんじゃないかな、と思う。
けど、それが市民と乖離してるんだとしたら、どっちかがすり寄るしかない。ただし、もしデザイン業界側がすり寄ることになったら、それはデザイナーは何も作れなくなる。ほんとに。だって手を動かした瞬間、その手の軌跡は人類数千年の歴史のうちの誰かが動かした手の軌跡に似てしまう。どうしても似てしまう。ちょっと考えれば分かることだろ。
似てることが罪なら、もう本当になにも作れなくなる。
そんなこと言っていると、いやそうじゃない「態度」が市民に受け入れられなかったんだという反論になっていない反論がくる。それ気持ちは分かるけど、それならそれで徹底的に「態度」に対して批判を加えるべきで、「ロゴの類似性」を責めるべきではない。能書きぐだぐだ書いて剽窃だ、だから佐野氏は駄目だ、と言ったところで、佐野氏態度がむかつくんだったらその能書きは「ごまかし」だろ。素直にお前の態度がむかつく、って言えば済む話じゃないか。
それならそれで佐野氏も「ごめんぴー、調子載ってたよ」って謝って済むじゃない。それで手打ちだよ。トートバッグとか展開例の写真のみそぎは別にまた必要だけれど。
いまはデザインの話だけだけど、根源的には音楽にも絵画にも彫刻にもマンガにもアニメにも小説にも料理にも何にでも言えちゃうよ。そんな息苦しい世界は私は嫌だよ。
http://twinavi.jp/topics/news/55ed5ffc-0a30-4ffc-a057-3b8eac133a21
これを読んで、あと、これのブコメを読んで。思ったことを書きなぐりました。
http://www.amazon.co.jp/review/R33VQYXB3J6P7P/ref=cm_cr_rdp_perm?ie=UTF8&ASIN=4838725833
ネットで叩かれているようですが、事態はもっと深刻だとおもいます。
何より、「グラフィックデザイン」という仕事自体への信頼を落とした罪は、とてつもなく大きいと思います。
擁護していた人間が、信じられない。「仕事」あってのデザイナーです。「彼はいい人」?ふざけるな、です。
真の人柄とは、「デザインの仕事」にこそ、出るものなはず、です。
全てのデザイナーが、こんなパクリ、というか、「雑な仕事」をしているわけではありません。
精一杯、ギリギリの低予算と日夜の仕事の上にちょびっとだけ花が咲くような「地味」な仕事です。
この「パクリ」は、むしろ「佐野研二郎」さん、「森本千絵」さん、「長嶋りかこ」さんら、
大手代理店の実質・専属デザイナーだからこそ、必然的に起こりえました。(まだまだ他にもいますよ)
彼等は、零細のフリーランスや個人のデザイナーと違って、大手広告代理店・電通や博報堂とのパイプがあるため、黙ってても、とんでもない「大きな仕事」が降ってきます。サントリー、資生堂、TOYOTA、HONDA…そんな大企業はデンパクにしかできませんからね。
それをチャチャっと、イメージソースを見つけ出し、Macでコピー&ペースト。下っ端のほぼアルバイトに近い低賃金アシスタントに、徹夜でとてつもない量の「アイデア」を出させ、その「手柄」を横領します。
「横領」と「電通・博報堂・多摩美ムサビ」を中心とする「これがオシャレなんだぜ」という「自己顕示」が、彼等のいう「クリエイティブ」の正体です。
彼等に創造性は一ミクロンもありません。「芸能人」に好かれているから、成り立っていただけです。
「ま、素人だしな、センスねえ・一般人なら、わかんねーだろ。」これが、彼等のいう「デザイナー感覚」なのでしょうか?
違います。真のデザイン感覚とは、「一般の人」にこそ、パッと「見るだけでわかるもの」だと私は思います。
ちょっと心あるデザイナーたちは、みなこの人たちの「センス」の源泉・ソース元が「パクリ」であることにとっくに気付いていました。ただ、一般の人の目と耳に届かなかっただけなのです。
彼等は「デザイナー」というより、「中間搾取業者」さんという方が適切なのです。
デザインに、本当はプロもアマもありません。だからこそ、デザインは過酷な仕事なんです。
かえって、「素人」だからこそ、曇りのない目だからこそ、デザインの本当の良さがわかるし、ウソもバレるのです。
国民の祭典である「オリンピック」に、あんな葬式か、安っぽいブランドのロゴのようなデザインを出してくるセンス。
それに疑いもしないセンス。これが「プロのデザイナーの仕事」なのですかね?
こんな「雑な仕事」が、止まることなく、まかり通ったのも、彼等を批判することが「タブー」だったからです。テレビ・新聞・ラジオという「メディア」の一番の資金源である「広告」を「美しく」作る方(パクリですけど…)なのですから。
まるで、一連の騒動も、「頭の悪いネット民」の批判だから、などと、彼等側の人間は、主張するでしょう。
いえ、今回ばかりは、発見したのはネットの方々かもしれませんが、日夜真面目に働く「デザイナーたち」こそ、一番の被害者です。
こんなズサンな人々と一緒にされたくない、とほとんどの方は主張するでしょう。そして、デザイナーこそ、こういう愚劣なクソデザイナーに怒りを感じるはずです。
和田誠さん、田中一光さん、亀倉雄策さん、横尾忠則さん等、デザイナーがスターだった時代は、手と情熱とで、素晴らしく美しいデザインをつくっていました。いちいち鉛筆で線を引き、イラストレーターと一緒にアイデアを考えていました。
デザイナーという仕事は「広告屋」「看板屋」などと低く見られ、軽蔑されていました。
何が「ミスター・デザイン」じゃ!!その「ネーミング」の恥ずかしさに、言葉も出ません。
最高に笑えないギャグですよ。口に出してみて下さい。「ミスター・デザイン」?。
オレは偉いんだぜ、ってことでしょ。自己顕示欲の塊なんですよ。ちょっと心あるデザイナーなら、誰でも気付いていたことです。
これを機に、「デザイン」という仕事から、足を洗って頂ければ、幸いです。
後記:多くの方に反響を頂きまして嬉しいです。
少なくとも、サントリーのパクリの件は、専門学生の1・2年レベルの課題でも今時するか?という初歩的な「画像のまんまパクリ」です。フリー素材か、写真を取ればよかっただけのことです。
デザイナーとして、本当に、ありえないレベルのミスです。こんな仕事の仕方は、佐野研二郎氏の事務所だけでしょう、と信じたい…。
しかし、それでもまだ擁護する「デザイン村」の人達にはつくづく情けない…。
理研の小保方氏、音楽クラシック村の佐村河内とホントーに、まったく同じ構図じゃないですか!
デザイナーたちも、仕事に響くので、黙っている方がほとんどだと思いますが、勇気を出して、声を上げて下さい。
呆れるほどボロボロとずさんな情報が出てきてしまいます。「思考をクリア化」しすぎた結果だと思います。
この本を読んで、「そもそものデザインのやり方」への「違和感」を感じて、すぐに某本屋へ、売りましたが、まさかあのときに感じた違和感が、これほどまでに実現化されるとは思いませんでした。
でも、いかに佐野氏が、「手抜き体質」かが、出ていると思いますよ。
なんと…驚愕の事実が発覚しました(2015年8月30日)。「ペンギンブックス」という、日本人には馴染みが薄いですが、
有名なペーパーブックのシリーズの名タイポデザイナー「ヤン・チヒョルト」のパクリであることが発覚しました。
私も、GGGでの展示に行って、感銘を受けました。本当に許せない。チヒョルトは、ハッキリ言って、
作風は地味です。しかし、心に残るデザインをする私も心から敬愛する、「巨匠」です。
しかし、そのチヒョルトの「表面」のデザイン部分だけをペーストして、パクる姿勢。
本当に許せません。
「スポーツの世界」のヤツラにならば、わからないだろう、という魂胆でもあったのでしょうか?
本当にふざけてる。デザイナーとしても、最低です。許せません。
(コメントに追記)>>広告代理店のデザイナーの仕事はプレゼンが主なので細部まで検討して作りに作り込んだファイナルプロダクツを作成することはありません。ファイナルプロダクツは下請けの専門家に任せます。だから”これとこれをくっつけて~”みたいに30%ぐらいの力で仕事を仕上げるのが”デザインする”ことだと思っちゃってるデザイナーになってしまうんです。しかも代理店にいたというプライドだけは高いから、始末に負えない。
そうなんですよ。彼等のいう「クリエイティブ」は、日本語訳の「創造すること」や「発想すること」じゃないんですよ。
いかにして、「自慢するか」なんですよ。
で、CMの世界では相手のクライアントが、「企業」ですから、世に漏れなかった。会議室の中だけでの世界でした。
しかし、「オリンピック」という晴れの世界で、「Mr.デザイン」こと「佐野研二郎氏」は同じように、惰性でやってしまった。彼にとっては、こういう仕事の仕方が、「普通」なんです。
もちろん、考える力も発想のノウハウも、強さもないから、最終的な「アウトプット」は「何かに似せる形」になります。何かに似せる、しかも雰囲気だけ…ぐらいなら、いいんです。
「何かに似せる努力」すらやめて、「そもそも画像をそのままネットからパクっていいじゃん!」
「フォトグラファーを使う」「イラストレーター(絵描き)を使う」「タレントを使う」のにも、何をするにも、
それを解消するには、タダで「アウトプット」を創り出すには、いくつかのアイデアがあります。
しかし、最も単純明解に、クリアに、ボールドに、全ての制作費が浮く方法があります。
一番安く、早く、タダで済ませられる唯一のデザイン。
一体なんでしょう。
それは「搾取」です(「パクリ」という言葉は、何となく、「万引き」に似た甘やかしの言葉だと思います。そんなレベルではないですよ、コレは。明らかに「システム」として、「自分の仕事」として、やっています。でなければ、こんなに出てくるはずはないです。)。
デザイナーたるもの、誰でも一度は、パクることはあります。学生時代に、一からオリジナルを創り出せる人間など、いないし、天才でもムリでしょう。「習作の時代」はあります。
「自分の周りへのヒト・カネ」がメインであって、「モノ」(仕事)は、どうでもいいのです。軽蔑された結果なのだと思います。
はっきりと、誰かの作ったものを「奪って、人に提出する仕事」に甘んじてたのだと思います。原宿の事務所のMacintoshの中では、イラストレーターが書いたパンも、誰かのブログのパンも、「一緒」です。
ならば、タダな方がいい。
とすら、考える頭もよぎりません。
まったく自然に「ミスター・デザイン」は、搾取します。無限に仕事がつくれ、永久にカネが入ってくる仕組み…。
思考は確かに「クリア」かもしれませんが、その精神は「ドロドロ」です。
クリエイティヴ・ディレクター、アートディレクターという「肩書き」は、「搾取指示人」なのでしょうか。
「クソ・デザイナー」というカテゴライズで、はっきりと「普通のデザイナー」とは一線を画す社会にしたいものです。
全てのデザイナーこそ、今こそ怒りを上げるべきです。
2015年9月1日、ついに、ようやく、取り下げました。が、凄まじいシロモノの反省文を掲示しました。
ここまで「ひどい謝り方」をできる人間が、いたでしょうか。
帰って来た返事は、「被害者」気取り、でした。
やはり、闇は深い、と確信するばかりです。
もうこれは確実に、しれっとして、またヒョロっと、5年後、五輪のバックで「名前の出ない形」で関わってきますよ。1000%。
絶対に、です。「今を乗りきれば、大丈夫」と思っているはずです。
もちろん、いわれのない誹謗中傷もあるでしょう。それはお察しします。
しかし、博報堂の「営業」の人間は、そういうことで強くなるんですよ。何にも言われないのは、クーラーの効いた部屋で、パソコンと戯れるクソデザイナーだけなのです。
自分の大好きなお仲間たちと、カネをバンバン出してくれるクライアントと、ドラゴンボールやドラえもんを使われても、何も言えないそっちのヒトたちの複雑な気持ち、アニメーター、漫画家、アーティスト、イラストレーターを、笑顔でほがらかに踏みにじってきたわけですからね。アートディレクターって、一体何なのでしょう。
博報堂では、こんなに「謝る」ということは「罪悪」なのでしょうか。
卑怯なのは、「テキスト」ではなく「画像」で謝るということも、そうなんですが、
「リュウミン」を使って、この際も「キレイに、クリエイティヴに、素敵なタイポグラフィ」で謝ろうとするクソみたいなデザイン根性です。
「ニッポンは、世界中から尊敬されている映画監督の出身国だった。お忘れなく。」のあの「ドヤ感」の「薄汚さ」が、本当に蘇ってきました。その「キタナさ」が何一つ変わっていない、どのメッセージでも。
これが、逆にいえば、彼のデザイナーとしての唯一の「統一性」なのかもしれません。
ただ、「ドヤ感満載」のデザイナーだと、仕事になりません。本来ならば…。
こういう場合、「真摯なデザイナー」は、実は、普通の、どこにでもある「そっけない」明朝体を使います。
リュウミンだと、あまりに「美しい書体」すぎて、ほぼ「ウソっぽく」聞こえるからです。
そんな「文字への美的感覚」すらないんでしょうね。表面的に、「キレイ」なら、何でもいい。佐野研二郎。
そもそも本当にデザインを学んできたのでしょうか?疑わしくなってきました…。
皆様が5年後忘れていても、私は「佐野研二郎」という、愚劣な「デザイナー」という肩書きをした「搾取者」の名前を永遠に忘れません。
今は、「炎上」し、「祭り」状態かもしれません。
しかし、私は、もっともっと持続的に追求していかなければならない問題だと思います。
この多くの批判が消え、静寂になり、命を吹き返した頃に、
また愚劣な身内自慢とともに、高らかな搾取とクソデザインのオンパレードが、そっと始まる(reborn)ように思います。
絶対に許してはなりません。本当に。
佐野研二郎氏盗作疑惑について(学生個人の意見です/2015年8月23日時点)。
彼はご存知の通り多摩美術大学のグラフィックデザイン学科を卒業し、現在はアートディレクターをやりながら多摩美術大学統合デザイン学科の教授も務めています。
実際には、まだこの学科自体設立から2年目で、佐野教授自身が講義を行うことは今までにほとんどありませんでした(というか、私はまだ彼の講義を一回しか受けていません)
統合デザイン学科は、多摩美の本キャンパスとは別の上野毛キャンパス(世田谷区)にあります。
学科長はプロダクトデザイナーの深澤直人教授で、そのほかに、ウェブデザイナー・インターフェイスデザイナーの中村勇吾教授、HAKUHODO DESIGNの永井一史教授、そしてアートディレクターの佐野研二郎教授の4人と統合デザイン学科専任の講師や先生で構成されています。
現状、学校によくいらっしゃるのは深澤直人教授(統合デザイン論)と中村勇吾教授(メディア技術概論)で、あとのお二人は統合デザイン論に前期で一度講義をしたぐらいです。3,4年から講義が「プロジェクト」という形態に変わり、そこで教授別にクラスが再度編成され、たぶんそこからお二人もがっつり学校にいらっしゃるようになるはず。
世間的に言えば「つぶしのきく」学科だと思われがちなのですが、実際には「デザイン・ベーシック」つまりデザインの基礎を最初の2年間で徹底的に教わり、そのベースを生かして次の2年間で社会的にローンチできるプロジェクトのデザインを学んでいきます。具体的には現在、グラフィック・プロダクト・インターフェイス・描写などの必修と、そのほか選択を受けています。教授の顔ぶれをみてわかる通り、細分化されたデザインをあらためて"統合"することで、「これからのデザイン」に特化した人材を育成する学科です。現在、デザインそのものが非常に広い意味をもつようになり、そんな時代において「グラフィック」や「プロダクト」などに特化しているだけでなく広い知識と経験を持った人材が必要とされています。一見デザインとは直接関係のないようなこと(たとえば佐々木正人さんによる『アフォーダンス』の講義)や、表面的なグラフィックの造形技法からCADを利用した立体物、Webやメディアアート作品などに応用されるプログラミングなどいろいろな技術を学ぶことと同時に、それに付随する感覚みたいなものも学習しているように感じます。実際、そういった感覚みたいなぼわっとしたものが現場で役立つこともあり、領域の垣根を越えることでみえてくることや繋がることもたくさんあります。
(武蔵美の基礎デザインとどう違うのか、と聞かれることがあるのですが、基礎デとは根本的に近いはずです。学科長は原研哉さんで、そもそも深澤教授は基礎デザイン学科の教授だった)
(とにかくやることが多いので、課題の量は半端ないです。たまに自分がなにやってるのかわからなくなります。あと先生たちもまだどのくらいの量の課題を出したら学生達の生存に関わるのかをよくわかってないっぽい。勘弁して欲しい。)
先ほども言った通り、まだ学科が生まれてから2年しか経っていないので、3,4年を経験した学生はいませんし、卒業生もいません。だから、就職先のデータもなく、倍率はそこまで高くないのですが、統合デザイン学科特有のコンセプトに魅力を感じて、たとえば多摩グラ受かったのに蹴ってこっちに入学したり、試験内容が東京藝大のデザイン学科に似ているところがあるので(平面構成)そこを目指す人たちが受けたりすることもあるみたいです。
〜〜
ざっと学科についてはこんな感じです。詳しくは学科のサイトをみたり、各教授のNHKプロフェッショナルとか本をみたりしてみてください。デザインに興味のない人でも、おもしろいと感じる点はきっとあると思います。
さて、たぶんこれを読んでるみなさんが一番興味があるのは佐野研二郎さんについてだと思うので彼の話題に。
関係ない話ですがエンブレム発表の前日に佐野教授と現場の手伝いに行った視デの友人曰く、めちゃくちゃ笑顔だったようです。彼自身、亀倉雄策さんのオリンピックエンブレムがかなり好きで、それを(いい意味で)引用して新しいエンブレムを作り出し、それが選考で選ばれたんだから、嬉しくない理由がわかりません。
最初に自分があのエンブレムをみたとき、直感的にかっこいいと思いました。シックで、いままでのオリンピックエンブレムとは一線を画すような新しいデザイン、新しい東京のイメージを担ってくれるような力強いものに感じました。そしてそれと同時に、あ、きっとこれ佐野さんのデザインだ!と思いました。たぶんそう思った要因の一つに、中央の「黒」の棒の部分があります。完全な黒ではありませんが、こういったエンブレムで無彩色の黒を使うのは一般的にはわりと暴力的で結構批判もきそうだなと思ったのですが、そもそも佐野教授自身黒色を多く用いることで有名なので納得がいきます。たとえば、「統合デザイン学科」のロゴやその周辺のデザインはすべて白と黒で形成され、学科の、現状では異端であるもののそれがこれからのベーシックになっていくはず、という考えや、力強い勢いを感じられ、学科の学生の多くはこのデザインを気に入っています。他にも東京国際映画祭のロゴをはじめ黒を多用したものは多く、今回のエンブレムに関して喪章だなんだと言われていますが、まあそういうネガティブなイメージで彼がデザインしたということはないかと思います。
造形的にベルギーのデザイナーのエンブレムと似ているということで炎上していますが、擁護派の皆さんが言っている通り、ああいった幾何学図形を利用したロゴマークである限り、なにか他のデザインと似てしまうのはしょうがないことです。というか、そもそもロゴの本とかをみると似ているもので種類分けされているぐらいです。造形的に似ているからといって、そのなかにあるコンセプトは異なります。造形的な点のみで「パクリ」だと決めつけてしまうのは、あまりにも強引なのではないでしょうか。今回のエンブレムは、エンブレムとしてのオリジナリティよりもその拡張性や普遍性を追求した、シンプルで力強いものだと感じています。
さらに、ベルギーのデザイナーはそのロゴを商標登録していないとのことです。となると、エンブレム側にまったく問題がないと言っても大丈夫なのではないでしょうか。
記者会見で佐野教授が感情的だったという話がありますが、もともと彼は自分自身でも「おれはキレキャラだ」とおっしゃっていたり、講義中に実際にキレてくれたりするので、まあ無理はないかなと思います。余談ですが彼は最近藤子・F・不二雄関係の仕事が多く(映画やTOYOTAの広告の成功から)、ドラえもんミュージアムにあるレストランで新聞広告用の写真を撮りに行った際「ジャイ子の“ハット”シュッドビーフ」がもう販売中止ということを聞いて、レストランの方に無理を言ってその場で作ってもらい、その写真を新聞広告に載せメニューを復活させたという逸話があります。好きなものに対してのオシは誰よりも強く、普段から感情的にはなりやすいような人なのだと思います。 http://fujiko-museum.com/blog/?p=18605/
このエンブレムに唯一問題があるとすれば、なんとなく「高揚感」が感じられないところです。ただ、それは佐野教授に問題があるのではなく、それはこのデザインをたくさんの候補の中から選んだ選考委員に問題があるのです。他に、もっと「オリンピックらしさ」があって、高揚感の感じられるデザイン案なんていくらでもあったはずです。
その選考が一般的な選考会の方式をとっているのであれば、いまいわれている佐野さんのデザインだから特別に選んだということ憶測もありえないのではないでしょうか。基本的に選考は名前を伏せるはずだし、原研哉さんや葛西薫さんをはじめ他にも応募した有名デザイナーはたくさんいらっしゃいます(応募基準も厳しい http://www.fashionsnap.com/news/2014-09-19/olympic-tokyo-emblem/)。
これについては、一人のデザイナーとしても、いち仕事人としてもありえない行為だと私は思います。まったく擁護できません。佐野教授の下の人がやったとしても、「佐野研二郎デザイン」と書いてしまったからにはそれなりに彼にも大きな責任が生じるし、そもそも画像からまるごとトレース(というよりコピペ)するのはまさに「パクリ」で間違いないと思います。いかに制作環境が劣悪だったかがわかります。一般的なデザイナーであれば、なにかをトレースする際、そういう素材の揃ったサイトに月額とかでお金を払って利用したりしていることがほとんどかと。こんなやっつけ仕事でお金がもらえるなんて、純粋に「いいなー」と思いました。バレてよかったですね(今後のMR_DESIGNのためにも)。
ネット上では、佐野教授周辺の関係図みたいなものが話題となっています。審査委員が同じだとか、広告代理店が牛耳っているだとか、いろんな話があります。つまり、デザイン業界は身内のなかで行われているということです。残念ながら、それは確かにあると思います。業界内で評価するシステムというのは確かにあるし、長嶋りかこは彼の直属の後輩です。
自分の話になりますが、私は実はまったくデザイナーになりたいと思っていませんでした。多摩美の、統合デザインに入りたいと思ったのは、まさにそのコンセプトに魅力を感じたからです。深澤教授のおっしゃっていた「いいものを触った時、『これがほしかったんだよね』と人は言う。本当に欲しい物のかたちは、すでに決まっている。」この言葉が、デザインのみならず広い意味で今後の「デザイン」に応用できると思ったのです。だからいまでもグラフィックやプロダクトをやりつつもそれが最終地点ではなく、デザインという思想や考え方をあらゆる事柄に応用していきたいと考えています。そういうことを学ぶには、ぴったりな学科です。そして受験勉強をするために、予備校に通い始めました。そこの授業ではあらゆる有名デザイナーの作品が取りあえげられるのですが、その中にはどうしても理解できないものもありとても悩んだこともありました。もしかしたら、そういったもののなかには現在問題視されているような業界内評価システムの土壌でうまれたものもあるのかもしれません。
一般人に受け入れられにくいデザインは、果たして優れたデザインと言えるのでしょうか。なにをもって、ただのデザインは優れたデザインになりうるのでしょうか。その答えはまだ私にはわかりません。
いま、どんどん新しい「パクリ疑惑」のデザインがネットユーザーによって見つけられてきていますが、デザインの歴史が深くなり文脈が形成されていくと、そこには明らかな引用や模倣も増えていきます。それはどんな文化でも同じで、音楽なんかもそうです。デザインもスタイルであり、継承されていくものなのです。だから、造形的な面でなんでもかんでも「パクリ」と決めつけられてしまうと、デザインの歴史が続いていくことそれ自体を否定することと同じになってしまいます。なにかから影響を受け、文脈が形成されていくことを「パクリ」の一言で否定しないでください。
今回の件で佐野教授に問題があったことも明確になりましたが、一方で、彼の講義を受けていたからかもしれませんが、とてもじゃないけどオリンピックのエンブレムにおいて彼は雑な仕事をするとは思えません。
亀倉雄策の仕事で一番好きなのは1964年の東京オリンピックのエンブレムだ。シンプルで力強く、唯一無二のデザイン。いつの日かこのようなシンプルで骨太な仕事がしてみてみたい、と思うようになった。ニッポンを、世界を、あっといわせる仕事。一生に一度でいいからそういうデザインをしてみたい。シンプルであること。明快であること。太くあること。Simple. Clear. Bold. ある日から僕のデザインの指針となった。デザインとはなんだ。デザインにはなにができる。そういう自問自答を繰り返した。(中略)目の前の画面は世界に確実につながっている。デザインはシンプルで深い。考え、それを超えるべく手を動かし、また考え、また手を動かす。邪念はいらない。デザインは思想だ。簡単に。深く。明快に。太く。でも簡単に。ストレスはある。でもいつも朗らかである。そういうデザイナーでありたい。デザインの道はまだまだ続くのだ。負けない。僕には亀がついている。亀はゆっくり、確実にやってくる。
エンブレムの問題とトートバックの問題は根本的にまったく異なるものです。そこを一緒にしてしまうことが、今後のデザインを殺すことにつながりかねません。
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・エンブレムについて、おそらく審査員も彼の作品だと見ただけで分かる人もいたかと。黒を使用したこと、そしてあのTOKYO 2020のフォント。あれは東京国際映画祭のロゴでもおそらく使用していましたし、彼のデザインだと一目でわかる点でもあります。正直、あのフォントが幾何学図形を用いたあのデザインにとって最も理想的なフォントであったとは思いません。
・学生じゃないだろみたいな意見をみて「いや学生ですけど・・・」と匿名なりに思ったりしたしそれを証明できないのもなかなか悔しいのですが、多摩美術大学統合デザイン学科の学生です。「業界の端っこにいるみたいな気分になってる時点でこの界隈の闇を感じた」美大って、セミプロみたいな人が集まるんだと思います。それは、一般大学とは別の特殊な試験内容が課せられるからで、それをクリアするために誰しもある程度のレベルの状態で入学してきます。そういった意味で、業界の端っこみたいな感覚は私自身拭えない点です。生意気だと思われてしまったら、申し訳ないですが・・・。
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・ベルギー側が商標登録していないためエンブレム盗用疑惑について私は「まったく」問題がないと書きました。著作権がある、ということだけでエンブレムとの類似性を訴えられるのであれば、本当にどんなデザインでも訴えられてしまいます。商標というシステムは、そういう意味でも機能している。ただ、自分自身勉強不足でもあるのでもっと調べてみます。 http://ipfbiz.com/archives/olympiclogo.html たださっき調べたら、東京オリンピックのエンブレムもまだ商標登録が済んでいないとのことで・・・w
・佐野教授への評価は、私自身、下がりました。学生ごときが評価とかなにを偉そうにと言われるかもしれませんが。こんな仕事をするひとにはなりたくないな、と純粋に思いました。トートバックのような小さな仕事でも、しっかりと制作しなければ、大きな仕事、つまりオリンピックエンブレムのような仕事もダメになるというか、結局ものをつくるときの姿勢ってそのひとの評価やデザインにもちゃんと反映されるんですね。この一件はデザイナーや関係者、それを学ぶ学生、もしくはいままでデザインの外部にいたとされていた人たちにとって、デザインとはなんなのか、パクリや模倣とはなんなのか、そういったことを知り考えるきっかけとしては良い機会になったと思うのです。だからこそ、そこで歪んだ考え方や間違った見解が社会に浸透していくことは、できるだけあってはならないことだと思います。なにが正しくて、なにが間違っているのかすらよくわからない時代ではありますが。
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・多摩美情デに関する批判は完全に話題から脱線している内容であり、改めて読んでも全く的を得ていないものです。訂正しお詫びします。大変申し訳ありませんでした。
・ご指摘の通り「在日」や「売国」などに関しては一部のネットユーザーが根拠のない事実を拡散しているだけだと認識しています。この一件を複雑化させるだけだと感じたので訂正しました。
ちなみに私は佐野さんとは全く関わりがないし、デザイナーでもない。
前者に関して、たぶん明確な要件などなくて、そこをクリアに明文化するだけでも正直相当骨がおれる作業だと思うのでパス。誰か書いてくれ。
後者に関して、基本的にこういうほとんど金のでない仕事は自分のためにやるものだ。
「作品として」というのは、デザインの歴史に対する作業だ、ということだ。
今現在の視点から歴史を丁寧に編んで、なんらかの判断を加えたものを形にしたのが作品だ。
なのでデザインの歴史を知らないやつが文句を言っても意味がないし、
未だ言語化されていない違和感を感覚して指摘する訓練を積んでいないやつが文句を言っても意味がない。
グラフィックデザインとしてのポテンシャルや位置づけに関する議論は審査委員会である程度尽くされているはずだ。
一般的に、プロは素人が考えるようなことは大抵全部考えてきてるので、おとなしくプロに任せよう。
長くなったのでこの上に書いてあることを要約すると、この件に関して素人の趣味判断には価値がない。
あれは当たり屋みたいなものなので、気にするだけで無駄な気がする。
これはアートディレクターとしては監督不行き届きでアウトだけど、今回のロゴとは全く無関係の話。
だいたいデザイナーが外から素材をパクったかどうかなんて(誰が考えたって当然ダメなので)アートディレクターは確認しないし、暇じゃないんだから現実的にできないだろう。
実作業してたデザイナーをNDA結んでクビにして、再発しないように仕事環境改善するしかない気がする。
なんか文句言っている人多いけど、正直ないと回らないと思う。
別に日本の特殊な制度というわけではなく、効率的なので一般的に取られる分業体制の一つ。
これも無関係。
事務所の対応が企業として不味すぎただけで、別にエンブレムとは関係ない。
これは余談だけど、国の仕事の報酬は指名される人クラスの標準的な報酬からすると大概ゴミみたいな額で、基本的には受けた側はだいたい損してやっている。
そして国から指名されるような人たちは文句言ってるやつらの社会サービスのために税金を大量に払っている側だ。
ちなみに今回の公募に関して「評価」が報酬だというかもしれないが、応募資格は世の99%のデザイナーがパスできないものなので、応募できる人はすでにめちゃくちゃ評価されている。
国民の税金を使っているから、俺たちにも文句言う権利があるみたいなやつは1円やるから黙れ。
グラフィックデザインの文脈でよく語られるデザイン史は、バウハウスから始まって、グーテンベルクの活版印刷、雑誌時代のエディトリアルデザイン、広告コミュニケーション、テクノロジーとの融合というものだ。また別軸で、グラフィックデザイナーの職能として、工業化社会における機械製品の美学的側面を整えるという歴史があった。まさにテクノロジーの隆盛と歩んできたデザインである。生活を便利にする機械製品(電話や洗濯機など)は生まれ、パーソナルコンピューターは普及した。そして、グラフィックデザインをするためのツールや思想は世の中に溢れ、誰でもグラフィックデザインの勉強ができ、誰でもデザインを作れ、誰でもそういう成果物に対して口出しできるようになった。
いつからか、総合的な計画であるはずのデザイン行為の中から「美学的側面」のみが取り出されて、それに対しての褒賞制度が整えられたのだ。日本で言えば、たとえばJAGDAの褒賞制度。特にグラフィックデザイン業界におけるそれら褒賞制度は、そのほとんどが美学的側面の評価しかしていないので、それがビジネスを支えるツールとして、実際的に機能的であるかどうか定量的に計測されていないだろうし、主催者も応募者もそういう側面でしか見てなくて、内輪で楽しく賞を送り合っている構図がよく想像される。その外に居る人がどれだけ社会に対してインパクトのある仕事(例えば新しいムーブメントを起こしたり、技術や生活基盤を進歩させたりなど)をしても評価はされないのだ。格好良くないという一言で、彼らのコミュニティから排除される。いつまでもはびこる師弟制度、ごますりが必要なコミュニティ入会の現状。
デザイナーではない人はそもそも「上位の概念としてのデザイン」に対するリテラシーがないので、デザイン=格好良くてお洒落な見た目をつくること、という短絡的な思考でしかデザインを評価できない。つまり、受賞した人間はいいものを作っていると。しかし褒賞制度がそもそも歪んでいるので、受賞者がビジネスや社会のライフサイクル的な側面に目を向けられる人間かどうかという評価の視点が抜け落ちてしまっている。僕はこういったデザイナー達を「グラフィックアーティスト」と呼んでいる。決して「デザイナー」ではない。
本来的にビジネスと協調すべきデザイン活動が、それを無視した褒賞制度によって、奇抜なことをするデザイナーこそ優秀であるという歪んだ理解が社会に溢れてしまった。そういうデザイナーたちがつくり上げるものには、機能的側面が欠落してしまうことが多いと思う。デザインの機能的側面が考慮されないデザインは、はたしてデザインと呼べるのか。社会をより進歩させ得る力があるのだろうか。
また別の観点では、現在多くの美術教育の現場にも問題があると思う。教育者自体が、旧来的なグラフィックデザインの文脈で育っているので、そのような視点でしかデザインを捉えておらず、結果的に美学的側面を整えることに教育の主眼が置かれてしまっている。デザインという手法が社会のコミュニケーションを活性化させ、より良い文化システムを構築し、ビジネスにおける利潤獲得のための手法であることが教育されていない。そうして、再び無能なグラフィックアーティストが量産されてゆくのだ。若いデザイナーの元で育ったほうが、明らかに的を射た考え方を獲得できるとおもう。
ここ数年、自分の生業であるグラフィックデザインはそろそろ終わるんじゃないかなと思ってる。コミュニティの思考が高齢化しているし、かと言って新しい考え方を積極的に取り込んで体質の健全化に取り組もうとしない。デザインをもっと価値のあるものにするためのデザイン領域を俺は見つけたからいいんだけど、変化せず進歩のないコミュニティに未来はないとだけは言っておきたい。
美しくあることは大事だと思う。美しいことは心を豊かにしてくれる。しかし、それ以外のもっと大事なことにも一緒に目を向けてほしいと思うのだ。
パクリ云々言われているが、デザイン業界の端くれにいる身として、
佐野研二郎氏は、グラフィックデザイン界の最高の名誉とも言える、亀倉雄策賞を受賞している。
それでもこの騒ぎ。
で、同じように亀倉雄策賞を受賞した植原亮輔氏。
彼は昔、シアタープロダクツの一連のグラフィックでこの賞を受賞している。
特にロゴに関しては、私はかっこいいな、やっぱすげえなと思っていた。
でも。。
シアタープロダクツのロゴって、ドイツの食器メーカーのLINDNER KUEPS BAVARIAのロゴとそっくりなんですけど。。
参照↓
http://www.theatreproducts.co.jp/
LINDNER KUEPS BAVARIAのロゴ
http://www.marksandlibrary.com/marks/ceramics/mark-6435_lindner-kueps-bavaria-sun
なんか。。結構みんなパクっているのか?
その中で飛び交う「駄サイクル」というワードは考えさせられる。
今の美大生は本当にアニメ・漫画で育った層ばかり。デザイナーや画家の名前を全然知らない子の方が多い。
知っている子は大抵裕福な家庭に育った教養ある子(美大に入るだけでも裕福だけれど……)
入ってから学べばいいのだけれど、昔以上に美大生も時間に追われて悠長に時間が作れない現状。
ここで、アニメ・漫画を卑下するのは違うと思う。それは一昔前にされつくしたし、
批判の矛先は、美術・デザインに関する日本の教育のずさんさに対してではないだろうか。
裕福で教養ある子だけで、デザイナー・作家にもてはやされてたら、そりゃ駄サイクルになる。
戦後のグラフィックデザインは、一時日本が世界をリードしていたくらい力があったみたいだけれど、
これを知っている若い子は美大に入った子でも僅か。世間一般では本当に極々一部だと思う。
決してデザイン・美術を"高尚な側"に置きたくはないのだけれど、
(漫画・アニメの知識だけで漫画・アニメを作ってしまう内々のサイクル。もちろん全てがそうではない)
に対して美術・デザイン教育を見直す事が、デザイン・美術業界ないしはサブのカルチャーである
クールジャパン戦略も、このくらい包括的に計画して実行して欲しい。
でも、国や学校教育が柔軟に対応するという、絶望的な可能性にかけるよりは
美術教育を受けた人間が、お高いところ(実は高くない)から降りてきて、噛み砕いて啓蒙するのが一番ではないか。
私は大昔に美術大学グラフィックデザイン科を卒業し、デジタル以前から現在まで、デザインで飯を食ってきたが、
いつの時代でもデザイナーというのは(就業人口の少なさという意味で)マイナーなので、
一般からは業務の実際を知られていないなあと思う。
オリンピックのエンブレム問題から派生した諸問題に、周囲のデザイナー界隈は今、みんなウンザリしている。
そんな中で、とある記事のブコメに典型的な「普通の人」の意見を見つけ、
ああ、残念だなあと思った。
曰く、「デザインという感性の世界の作品に、コンペで優劣を付けることが可能か?」
私の答えは「はい。優劣の評価は可能です。点数を付けることだってできます。
ただし、一定の得点を越えると”感性”の差ではなく、一種の”政治的判断”で得点が変わります。」となる。
デザイン=感性みたいなふわっとした物言いに、とても違和感がある。
「感性」とは置き換えればカッコイイ・美しい・訴求力があるものの選択能力だが、
商業デザインのプロは、それらを理論化・数値化・データ化して考えるものなんだ。
上記のブコメのような質問は、プロフェッショナル否定論につながる。
デザインを構築する要素の大部分は、実は厳密な理論や、歴史から学んだハック、
わりと理系寄りな教養とトレーニングの積み重ねがないとプロになれない。
また、そうでなければ、安定した職業として成り立たない。
例えば、話題の多摩美術大学の、2014年度履修科目の中から『共通基礎教育科目』を見てみるといい。
絵ばっかり描いているわけじゃないのだ。
一部抜き出すと、
心理学/芸術心理学/造形心理学/歴史学/日本文化史論/文学/美学概論/美学/考古学/文化人類学/民俗学/芸術と科学/図学/日本美術史概論/東洋美術史概論/西洋美術史概論/宗教学/人間工学/色彩論/芸術材料学/近代デザイン史/染織史/文様史/写真論/社会心理学/マスコミ心理学/映像メディア論/情報論/情報工学演習(コンピュータ基礎、情報機器の操作、3DCG)/総合講座デザイン論/現代工芸論/服飾文化論
基礎学問を学んだ上で、自分の手を動かして作品を作る実践授業を受ける。
(特に「造形心理学」「色彩論」あたりは、自分が学んだ頃よりずっと進化している学問分野だろう。)
すると、おのずと他人の作品を見て、「こういう背景をふまえて、こういう意図で作ったな」という
「プロなら分かる」って、どこの分野でも同じだろう。
プログラマならコードを見ればわかる。八百屋なら野菜を見ればわかる。
でも「何をどうわかってるか」を他人に伝えるには、膨大な説明が必要になる。
しかもいざ説明しようとすると「長い、3行で」となって聞いてくれない。
多くのデザイン関係者が今でも「オリンピックのエンブレムは盗作に当たらない」と断じているのは
まさに上記のような、職業人としての訓練の結果(及び法的手続きの結果)だが、
もうすぐ25歳。
専門でてアパレル会社のグラフィックデザイナーとして5年も働いてる。
本当はグラフィックデザインなんて興味なかった。
その前は、イラストレーターになりたいと言っていた。
私はうまい漫画を描く漫画家には、なれないだろうと思っていたので、
でも絵はうまいから、イラストレーターにならなれるだろうと思った。
色んな人に、きみはなれると言われたが、一人暮らしをはじめてからあまり絵を描かなくなった。
そしたら、うまく描けなくなって、描く事もつまらなくなった。
いつか忘れられると思ってた。
地元を出て、服に夢中になって、綺麗になったねと言われて、
女としての幸を手に入れれば、そしたら私は夢なんて忘れられると思ってた。
ひさしぶりに絵を描くと、絵を描くのは好きだった。
全国の300万人のおなじような女の子たちよ。
あまったれなりに、私は夢と向き合うよ。
あまったれでごめんね。
大して面白くもない話ですが、わたしの片思いの話を聞いて下さい
彼女と初めて出会ったのは、わたしが担当していたグラフィックデザイン部署の立ち上げで行なった採用面接でした
当時はまだわたしのいる業界にはデザインという概念がなく、あっても実に画一的なステロタイプのつまらないものばかりでした
そのため採用はできるだけ業界の知識や経験がない人材を選ぼうとはじめから決めていたのです
そんな中あらわれた彼女は服装こそ普通だったものの、色白な顔に細く釣り上がった眉と濃いめのアイラインに囲まれた意志の強さを感じさせる瞳を覗かせ、サイドを少し長くして輪郭を隠すようしたショートカットの妙な黒さが印象的でした
当時で21歳だった彼女はデザインの実務経験があったわけではなかったのですが、用意しておいたデザインに対する質問に最も的確に答えられたということから採用が決まりました
なぜデザインの知識を持っているのかという質問に対しては、学校で専攻していたことと、とあるロックバンドのファンで友人とステッカーやポスターなどを自作しているといった返答が返ってきたと記憶しています
その瞳がもつ印象の通り、彼女はこちらからの質問に対して一切の淀みを見せることなく最低限の言葉だけで返答を返してきました
仕事に私情を挟むものではありませんので選考理由は当然その能力にありますが、わたしの心のうちはとてもざわついていました
身長はわたしと同じくらいでしょうか
いわゆる男性の平均的体型であるわたしと比べれば彼女は女性として高い部類に入るのではないでしょうか
それに比べて顔は小さく手足はすらりと細く長く感じられ、体重で言うとわたしよりも20kg以上は少なかったかもしれません
面接中には、書類の上を軽快に走る触れれば砕けてしまいそうな筆をもつ透き通った指に思わず目を奪われていました
座っている時も終わって席を立つときも、凛とした背筋が美しく、実に奥ゆかしくわずかな膨らみを見せる胸が彼女がもつであろう潔さを一層強調しているようでした
そうして次々に姿を見せる彼女がもつ身体のパーツやそれらから繰り出される仕草は、どれもがわたしが理想としている女性に抱くそれと重なっていくことがわかりました
これほどまでに自分の理想と一致する女性がこの世に存在していることの驚きは、むしろ恐怖に近かったかもしれません
彼女との年の違いは7つ
今になってみればそんなルールが何の抑止力を持っていたのかも分かりませんが、これから新たな部署を立ち上げて会社を盛り上げようと先頭に立っていた自分にしてみれば、足並みが崩れてしまうことが怖いと思えてしまいました
それ以上に、彼女に自分を好きになってもらえるかどうかを考えることが怖かったのかもしれません
彼女の髪の黒さを妙に感じた理由は彼女の初出勤の時に明らかになりました
初めてスタッフとして勤務先に現れた彼女の髪は、お世辞にも綺麗とは言えない根本や毛先に黒の混じる金色をしていました
聞けば、面接の時は印象を良くしようと一時的に黒く染めていたとのことで、遅かれ早かれ発覚するならばと初日から隠すことなく出勤したとのことでした
そうした格好をする理由は、実のところロックバンドのファンにとどまらず熱狂的な追っかけであるために不可欠だとのことでした
わたしは採用した責任と彼女のデザイン能力に不安を抱く一方で、その金色の頭髪にも稚拙ながらも潔い行動にも、自分の心がつよく引き込まれていくことがわかりました
まるで蟻地獄に落ちていくアリのように、二度と這い上がることのできない運命を背負ってしまったような感覚に襲われて背中にひんやりとした何かがまとわりついてくるのを感じていました
意志の強さを感じさせる瞳は太めの縁とレンズの奥へと隠れてしまいましたが、わたしにはそのことで彼女のもつ美しさがより完成に近づいたのだと感じられました
もともとの感性が異なるのか、広告としての機能を満たしながらもどこか奇抜でいて尚且つ人を選ばないデザインが次々に生み出されていきました
それらは社の内外問わず高い評価を受け、わたしと彼女とで立ち上げたデザイン部署は見る間に会社にとって無くてはならない存在へと成長していきました
その忙しさは、同時にわたしから余計な考えを起こさないようにと時間を奪ってくれていました
仕事に関することでも彼女と話をするときには緊張を隠すことに慣れませんでしたが、わたしはそれでも彼女から嫌われるでも好かれるでもない距離を保ち続けることが出来ました
その間にもデザインスタッフの拡充を行なっていましたが、今まで営業本隊に所属する形だったデザイン部署がいよいよ単独の部署として独立することが決まったのです
今までは本隊と両立する形で管理に参加していたわたしは、新たに新規事業開拓のための部署立ち上げのメインメンバーとして抜擢され、彼女はメインデザイナーとしてそのままデザイン部署に残ることが決まりました
わたしにとっては栄転ですが、自分が同じビルではありながら彼女とは異なるフロアに行ってしまうことがわかると、それが何故か急に不安に感じられました
付かず離れずの関係を維持できていたと思っていたのが、離れてしまうことがわかった途端にじつは彼女が自分にとっての拠り所になっていたことが分かってしまったのです
どれだけ顧客にバカにされようと仕事でミスをして上司に叱られようとも、部屋に戻れば彼女が背を向けて座っていました
でも、彼女が黙って座っている凛とした背中がそこにあるということだけで、わたしは幸せを感じられていたのです
相変わらず濃いめのアイラインに囲まれた意志の強さを感じさせる瞳がメガネの奥に隠されていると想像するだけで、わたしは幸せを感じられていたのです
それからというもの、わたしは彼女を思うだけで胸が締め付けられるように苦しくなりました
以前にもまして触れてみたいという衝動にかられ、彼女が他の男性と話をしている姿を見ているだけで胸の奥に湧き上がる何かを感じました
しかし、だからといってわたしには何かするべきことが見つけられたわけではありませんでした
思いを伝えるには時間がかかり過ぎていたのです
目の前にただ完成された美が存在していたとして、ほんの僅かでも触れてしまうことでその美しさは失われてしまうかもしれない
わたしの中で、彼女を得ることよりも彼女を失ってしまうことの不安のほうがはるかに大きく育ってしまっていたのです
考えてみると彼女と二人だけで話をした最も長い機会は採用面接の時だったかもしれません
もとよりわたしは彼女との会話そのものを楽しんだことはなく、いつも仕事の話かその時に少しだけ世間話を交わすくらいの会話しかしたことがなかったことに今さらながら気がづきました
そのことに気づいてしまったと同時に、止めどない涙がわたしを襲いました
自分でも全く予測できなかったあまりにも突然のことで、どうしてよいかわからずとにかくトイレに逃げ込みました
わたしは自分の情けなさに涙し、自分の人を好きになるという気持ちの身勝手さに涙しました
それから数日、相変わらず彼女を思うと痛みを思い出す胸を抱えたまま新しい部署での生活がスタートしました
自分の情けない部分をまざまざと見せつけられてしまったわたしは、仕事に対する自信も失っていました
大した結果もだせないでいたちょうどその頃、突然母親から見合い話が舞い込んできました
どこかこのままではいけないと思っていたわたしは特別に断る理由もなく受けてみることにしたのでした
お相手の女性は、デザイナーの彼女とは正反対のような実に快活とした健康的な女性でした
偶然にも共通の趣味の話で盛り上がり、その後も断る理由が見つからないまま数回の食事を共にしました
彼女はよく笑うとても魅力的な女性で何事も前向きに捉えられる明るい性格をしていました
そうして結局断る理由が見つからないまま、お見合いから半年後に結婚式を挙げることになりました
どこかで、もしかしたらこれで彼女のことを忘れられるかもしれない、本当に理想とする人はお見合いで出会ったこの女性なのかもしれないと考えていたかもしれません
会社での結婚の発表は部署ごとに部屋を訪れてまとめて行いました
たった半年で結婚を決めたことから突然のことに驚きを隠せないという言葉やお祝いの言葉が多数投げかけられましたが、そのほとんどはわたしには届いていませんでした
なぜなら、次に訪れるデザイン部署にいる彼女のことばかりを考えていたからです
考えてみればこれは片思いです
彼女にわたしの気持ちを伝えたこともなければ、彼女がわたしに好意を持っているだなんてことも聞いたことがありません
今さら思い悩んだところで何も解決しないしそもそも思い悩む事自体が無意味なのです
そうして自分に言い聞かせながらいよいよ彼女のいる部屋の扉に手をかけました
扉の向こうからわたしの目に飛び込んできたのは相変わらず凛とした美しい彼女の背中でした
わたしはその美しさに見惚れてしばらく声を出せないでいたかもしれません
最もシンプルに結婚の報告の言葉を並べることだけがそのときのわたしにできた精一杯でした
ただ、結婚という言葉が響いた時に彼女の背中が少し反応したかのようにも見えました
わたしが反応してほしいと願っていただけかもしれません
でも、いつも見惚れていた背中だからこそ他の誰一人として気がつかないような小さな変化を見つけられたのだと信じることにしました
それから数年がたち、今では二人のこどもに恵まれることができました
妻のことは愛しています
一人の女性としてももちろんですが、それ以上にもう家族として失うことのできない大切な存在です
だけど、未だにあの凛とした美しい背中はわたしの理想の背中であるし、触れれば砕けてしまいそうな透き通った指も、実に奥ゆかしくわずかな膨らみを見せる胸も、色白な顔に細く釣り上がった眉と濃いめのアイラインに囲まれた意志の強さを感じさせる瞳も、それを奥ゆかしくも引き立たせるメガネも、相変わらずわたしのもっとも理想とするままであることも事実です
それは10年が経って尚、より美しさを増していくようでも有ります
もしあの時、自分の気持ちを彼女に伝えていたらこの背中は美しいままだったのだろうか
もしあの時、彼女を採用しなければこんなにも思い悩むことはなかったのではないだろうか
もしあの時、わずかに反応した背中の理由を彼女に聞くことができたら何かがかわっていたのではないだろうか
人から見れば仕事も順調で結婚もして子宝にも恵まれてまさに順風満帆な人生かもしれませんし、本当にその通りなのだと思います
相変わらず焦がれる胸を抱えては、デザイン部署を訪れるたまの機会に凛と美しい彼女の背中に目を奪われています
わたしはついぞ片思いをおわらせられずにいました
ちっぽけなアリでは登り切ることの出来ない砂の坂を落ちることも登り切ることも許されないまま、ただひたすらに命が尽きるまでもがき続ける運命を背負ったままの毎日が続くのです
でもそれは苦しみではありません
今はもう話をする機会すら失ってしまった美しい背中のその向こうで、濃いめのアイラインに囲まれた意志の強さを感じさせる瞳がメガネの奥に隠されていると想像することだけが、今のわたしに許された最も幸せを感じられる瞬間なのです
ところが最近になって、この苦しみから逃れられる方法を見つけることが出来たかもしれません
きっかけは2ヶ月ほど前にわたくしを襲った衝撃的な出来事でした
もしこれが実現できれば、彼女も妻も傷つけることなくわたくしは最高の幸せを手に入れることが出来るかもしれないのです
グラフィックデザイン、イラスト、漫画の界隈で雇用する側の人間だから1つだけアドバイス。
絵以外にも経験した方がいい。ここ数年、絵にしか携わってない人が集まってくるんだけど
そういう人達は視野が狭すぎるから感受性も低くて絵に味も魅力もない。
嘘みたいに聞こえるかもしれないけど、いろいろな経験をしないと絵に反映されないんだよ。
人から嫌われることに怯えないで積極的に遊んで仕事を経験してほしい。
そして大好きな絵から離れないでほしい。いろんな経験を経ながら絵を描き続けてほしい。
本当は、注意喚起としてより就活生の目に触れやすい場所に書きたかったのですが、各種就職情報サイトでは企業のマイナスイメージに繋がる投稿は真実であってもすぐに削除されてしまうようで、この場を借りて書くことにしました。
実際私がこの面接を受けたのはかなり前で、当時は「私の受け答えや態度に何か至らない点があったのであんなことを言われたのかもしれない」と思っていましたが、どうやら同じ会社から同じ様に不適切な質問をされ辛い思いをした学生の方が他にも大勢いるようだと最近知り、どうしても黙っていられませんでした。
港区赤坂にあるCM制作(最近はグラフィックデザインやWeb制作も始めた様です)を主とする株式会社Tでのこと。
一次・二次面接は人事、プロデューサー、マネージャー等計10人ほどの方々との面接で、いずれも和やかに終わりアットホームな会社という印象を受けました。
問題があったのはF社長・人事の方との二対一の最終面接の折でした。
まず挨拶も無視して対面して開口一番に「いかにも根暗っぽい。何とかした方が良い」と外見に対する侮辱。
服装、髪型については大学のキャリアセンターから指導を受けて臨んでいたので面食らいました。
さらに事前に提出した履歴書を一瞥し、素っ気ない態度で「頭が良いようですね」と言われたので「いえ、そんなことは...」
言い終わらない内に「いや、頭でっかちって言ってるんだよ」と返されました。
これが音に聞く圧迫面接か、もしかして既に入社する人は決まっておりこれは落とすだけの面接なのかも...と思いつつなるべく当たり障り無く受け答えを続けたのですが、次には「恋人はいるの」というセクハラ質問が。
当時恋人はいましたが、私はバイでその時の相手は同性だったので、正直に答えると相手の気分を害してしまうかもと思い「おりません」と答えた所、F社長は「性格に問題があるからじゃないか」「一時期男女別学校にいたせいだろう」とそれを切り口に私の人格や経歴をけなし始めました。
その後さらに、
・両親の職業と年齢
・血液型
・(資格欄に書いていた賞/資格類について)「これって書いていいの?っていうか書くほどのことなの?」
初対面のおっさんになぜいきなり自分の生い立ちを開示しないといけないのか意味不明ですし、入社したい気もすっかり失せたのでなるべく当たり障り無い返事を続けると、
面接の最後に二次面接まで誠実な対応だった人事の方から「紋切り型でつまらない人間ですね」と吐き捨てられました。
この時点でそれまでの面接の雰囲気との落差に驚き、イメージを裏切られがっかりしたことを良く覚えています。
今思えばなぜ途中で履歴書を引っ掴んで退席しなかったのか、当時の自分の忍耐強さに脱帽です。
後日結果が郵送されてきましたが読む前に破り捨てました。
それ以降、面接の際は必ず録音し記録をとる様にしています(その後T社のような対応に遭うことはありませんでしたが)。
面接官の方はキャリアやそれに見合った苦労を経験し、自信をもっておられるのかもしれませんが、だからといって何をやっても許される訳ではありません。
志望者が将来顧客になる可能性だってあるのですから、自身の将来のことを考えて採用活動を行うのならばそれに応じた節度と品格ある対応をとるべきです。
企業にとっては毎年何十人といる志望者のたったひとりなのでしょうが、精神的被害を受けた志望者はそのことを一生忘れません。
なぜそんな簡単なことさえ想像できないのでしょうか。
私は今でもその企業がCMを手がけた商品など手に取る気も起きませんし、ひいては業界全体にマイナスイメージを持つ様になりました。
グッド・サイクルが聞いてあきれます。
採用者と志望者という立場を利用した不当な人権侵害は断固として許されることではありません。
私は、就活が終わった後でも自分に悪い所があったからではないかとしばらく自分を責め続けていました。
しかし最近知り合いも昔T社で同じ対応を受けたと知り、その考えを改めることができました。
就職掲示板を探して見てみた所、どうやらF社長は本年度までずっと学生の方に上記の様な質問を繰り返している様で、最早あきれてものも言えません。
ともあれ、今現在は他業界で一社会人としてそこそこ恵まれた環境でやりたい仕事ができているので幸いです。
就活生、転職者のみなさんはもし運悪くこの類いの企業に出くわしたら、迷わず辞退してください。
間違って入社でもした暁にはさらに悲惨な仕打ちが待っていると思われます。
世間には面接で不当な対応を受けて、泣き寝入りしている学生・転職者が方々が大勢いらっしゃると思います。
私の様な思いをされたことのある方は、表立った場所でなくとも内輪の中だけでも構わないのでどうか企業の実情を積極的に公表してください。
このような弊習を放置すれば、次に精神的被害を受けるのはあなたの友人や家族かもしれません。
たくさんのブコメ、トラックバックありがとうございます。
(トラックバックにて別企業での圧迫面接について書かれた方、私同様さぞ悔しい思いをされたことと思います。声を上げて下さってありがとうございます)
トップがあのような態度をとるような会社ではおおよそコンプライアンスはぐちゃぐちゃに決まっていますから、今はただ回避できて良かったと思うようにしています。
労基に訴えてみてはとのことですが、残念ながら直近の話でないこと、明確な証拠が残っていないこと、そして何より雇用関係に無い状況で起こったことなので、具体的な対策は打てないかもしれないとの解答でした。
今後学内生がT社を受けることがないように注意すると仰って下さいましたが、全ての学生がキャリアセンターを通して就活をしている訳ではないことを鑑みると、効果の程はわかりません。
また、東京都に相談してみるというのは思いつきませんでした。ありがとうございます。
本当なら進行形で被害に遭った就活生に声を上げて欲しい所なのですが、しかるべき相談所が無い、身元が割れれば同じ業界で働けなくなるかもしれないといった懸念、授業や論文など卒業前の余裕の無い時期であるといったことからなかなか表に出せないのが現状だと思います。
しかし、いざ入社したらブラックだったという場合と違い、不当な圧迫面接については事前の情報さえ出回っていれば回避することができます。
今回はもしこの文章が消えてもブコメさえ残って検索に引っかかれば、今後の被害が抑えられるかもしれないとの思いで増田に書かせて頂きました。
今後私の様な思いをする就活生や志望者が出ない様、願ってやみません。
議論元エントリーはこちら。
毎度のことながら、MacとWindowsの論争を見るともんにょりしますね。人類から戦争が途絶えぬ縮図が、ここに。(´ω`)
しかし、最近パソコンをはじめたユーザや、元エントリの増田のような人にとっては、信者の言葉ってワケわかめだと思うんですよ。
そんなわけでMacとWindowsの歴史を、なるべく平易に書いてみました。(´∀`)
歴史を見返して、WindowsとMacの強み弱みを把握すれば、宗教戦争の理解が深まり、自分にピッタリのパソコンが分かるかもしれません。
たぶん。
元増田のエントリーがWindows寄りの結論になっているので、
だれかWindows寄りや、Linux寄りの視点を加筆して下さいな。当エントリの補足・指摘も歓迎します。
既存のUNIX環境向けに制作された、膨大な数のソフトウェアを扱えるのはプログラマにとっては大きな恩恵です。
たとえばWindowsではCygwinを導入する事でC言語開発環境を手に入れる事ができます。ただし、インストールは非常に煩雑で、動作速度も雲泥の差です。
MacはPOSIX互換であり、プログラミング環境のインストール等が簡単です。
FreeBSDやUNIXを過去に使用していた熟練プログラマは、Macに乗り換える事で、過去の資産を有効活用する事ができます。
シェル環境とは、よく映画で、暗い部屋の中、天才プログラマーが真っ黒な画面に流れる奇っ怪な文字列を眺めてる、アレです。
ひらたくいうと、あの文字列ひとつひとつが、コンピュータ内部で行われる処理や通信を意味しています。
LinuxやMacではターミナル、Windowsではコマンドプロンプトなどと呼ばれます。
Windowsには非搭載だが、Linux/UNIX/Macでは標準サポートされているコマンドが多数ありました。
とはいえ、これは過去の話です。現在はWindowsのシェル環境も、だいぶ充実したので、普通に使うには大きな差はありません。
が、歴史的経緯や文献量を比較すると、どうしてもWindowsのシェル環境はUNIX/Macに劣ると考えられています。
四六時中プログラマが目にするのは、文字です。ですからプログラマーは醜いフォントが許せません。
Windowsのフォントレンダリング環境は2014年3月現在も貧弱です。
WindowsVista登場時にメイリオフォントが登場し、ある程度の改善が図られましたが、Macの画面と比較すると大きな差です。
これはMacとWindowsのフォントレンダリングやアンチエイリアスの技術の違いによるものです。
WindowsでもMacTypeなどのソフトウェアを使用して、強制的にフォントのアンチエイリアスを変更する事が可能ですが、残念ながらMacに遠く及びません。
Anti-Grain Geometry - Texts Rasterization Exposures
Xcodeは、非常に優秀なIDEです。特筆すべき利点は、動作が割と軽快で、初期設定の状態でもある程度使い物になる点です。
インストールもAppStoreからワンクリックな為、簡便です。XcodeはMacのみで使用できるソフトウェアです。以前は有料のソフトウェアでしたが、ここ数年は無料で提供されています。
またiOSのソフトウェア開発では、XcodeとMacは必須です。iOSアプリの開発には、Xcodeとそれに付随するシミュレータソフト、そして開発者用アカウントが必要なのです。
Xcodeの弱点は、バージョンアップ時にインターフェースが突如として大幅変更がされる事。またここ数年は英語のみしかサポートされておらず、日本語話者にとっては使いづらいという2点です。
2014年現在は楽曲制作にMacとWindowsの差はありません。しかし、過去にはDTM=Macという暗黙の了解がありました。
特に1980年代、プロユースの音楽制作ソフトの多くがMacintosh対応でした。理由は複数ありますが、そのひとつがPCM音源の発音問題でした。
Macintosh 128K以降すべての機種でPCM音源をサポートしています。これにより同時発音数が多く、Mac向けのDTMソフトウェアが多く開発されました。
それに対してWindowsは16ビット/48KHzのPCM1チャンネルのみで、性能はCPUの能力に依存します。昔のPCはCPUの実行速度は低かった為、音声出力の機能が貧弱でした。
Mac標準搭載のGarageBandと、有料のDTMツールLogicは有名なDTMソフトウェアです。
この2つのソフトはAppStoreから購入できます。互換性もあるため、GarageBandで作曲を覚えた初心者ユーザが、Logicを購入し上級者になるという、非常にスムーズな導線が構築されています。
またLogicは数あるDTMソフトウェアの中でも安価で高機能です。iPadとの連携機能においても、他のツールより頭一つ秀でています。
MacはCoreAudioという、MIDI入出力環境を搭載しています。大変高速に動作する為、追加投資の必要がなく、DTMクリエイターに重宝されています。
Windowsの場合、オーディオドライバを別途用意する必要がある為、投資が必要です。
主に海外製のプラグインではありますが、明らかにMacよりWindowsの方が充実しています。お金をかけずにエフェクトに凝りたい人にとっては、MacよりWindowsの方が良いと言えます。
MacBookProRetinaモデルは、グラフィックデザインの仕事をする者にとっては、福音でした。
特にAdobeInDesign使用時の効果は凄まじいと感じます。紙とディスプレイの1to1の制作環境が構築可能な時代がやってきたと感じます。
さらに当時、MacはPostScriptというAdobeが開発した印刷用言語をサポートしていました。高解像度の印刷を行うには、Macしか選択肢がなかったのです。
その頃の印刷所やデザイン事務所はおのずとMacを導入しました。その歴史がある為、現在もMacの使用が続いています。
スティーブ・ジョブスが学生時代にカリグラフィーを学んだ逸話は有名です。その経験から彼はMacのフォント環境に心血を注ぎました。
現在でもAppleは高いライセンス料を支払い、各種製品にフォントを多数搭載しています。
オーソドックスで美しいセリフ体のTimes、流麗なZapfino、日本語フォントではヒラギノなど、様々な良質フォントが搭載されています。フォントを買い足さなくても、ある程度のグラフィックデザイン制作が可能です。
反面、2014年3月現在Windowsで安定して使えるフォントは、字游工房の2書体のみです。メイリオは画面表示時に使うフォントなので、DTPでは活用されにくいです。
2005年頃、出版業界はQuarkXPressからAdobeIndesignに乗り換えました。しかし、それ以前は出版用ソフトウェアはQuarkXPressが業界標準でした。
このソフトは、Macでしか対応していませんでした。QuarkXPressは、64bit対応やOSX対応が遅れため急速にシェアを落としました。
現在はAdobeIndesignが業界標準で、これはMacもWindowsも両方で使用可能です。
しかし、QuarkXPress時代から活動しているブックデザイナーやエディトリアルデザイナーにとっては、Macの方が慣れ親しんでいるでしょう。
1980年代のパソコンは、表示できる色数に制限がありました。Macintoshは安価な割に発色の性能に優れた時代がありました。
コンピュータ・グラフィックは数多のPCメーカが多額の資金を費やし研究開発した歴史があります。
一時代だけを抜き取って「Macのグラフィックが優れていた」なんて書くと、多くのツッコミが入ると思います。
とはいえ、Macは早くからキャリブレーションの機能を充実させてきた為、色管理の強さという点において、多くのデザイナーやイラストレータから支持を受けた事は、特筆に値すると思います。
問答無用で、Windows一択。PC改造を続け、最新のグラフィックを追い求めたゲームマニアは、10年前に比べると少なくなりました。
しかし、彼らのPCがMacである事など、ありえません。
最近はAdobeFlashが盛り返しを見せていますが、ブラウザゲーム市場を除けばMacを使用するメリットは薄いと考えられます。
一方、Linuxベースのメディア配信サービスSteamOSの今後の発展に期待したいところです。Steamではアマチュアからプロまで幅広いゲームクリエイターが自作のゲームを販売しています。
Windows圧勝。MicrosoftOfficeをはじめ、Windowsの方が対応ソフトが多いです。
特に会計ソフト類は、Macは壊滅的であります。また、言わずもがなですが、BtoBの業務系ソフトウェアはWindows特化のものが大半です。
とはいえ、LibreOfficeやOpenOffice.orgを使用して業務を進める団体もあります。福島県会津若松市とか、滋賀県甲賀市などがそうです。(LibreOffice採用事例)
そういえばVer4.2でCalcを大手術したLibreOffice。もうそろそろC++完全移管が完了します。
高速化が施され、今以上にチューニングされれば、Windowsの牙城に一矢報いるかもしれません。
ちなみに私は、ChromeOSとGoogleDriveが搭載されたChromeBookが、MicrosoftOffice一強状態を打ち崩すと予測しています。
あとJustSystemの一太郎も頑張ってほしい。Just do it!!
以上、チラ裏でした。
現実問題、iOSとiTunesの同期はWindowsでも可能です。しかし「持ってる携帯電話がiPhoneだから」と言う理由でMac買う人は多いです。
そりゃiTunesとiTunesStoreを使っているなら、Macに毒されてしまいますよね。
そういえばWindowsMediaPlayderが残念だった時代に、シェアを伸ばしたのがiTunesでした。音楽を愛するユーザの支持を集めた時代があった。と言っても過言ではないと思います。
使い勝手に優れます。これが理由でMacを使う人もいます。WindowsやLinux環境で、同様の使い勝手を得られるマウス・ガジェットは、2014年3月現在存在しません。
MacProではThunderboltを大量に備えています。これは今後普及する4K映像制作において活躍すると考えられます。ただ、普通に使うぶんにはThunderboltは恩恵を受けにくいと考えられますが。
これはMacに搭載された自動バックアップ機能です。Windows8にも同様の機能があるが、インターフェースの使いやすさと、設定の簡易さではMacが勝ります。
Macはクリーンインストール後に、自分のAppleIDを認証すると、最新版まで自動アップグレードを行います。
クリーンインストール後、1回の再起動で、ほぼすべてのアップデータが揃った状態になります。
WindowsUpdateの何回も繰り返さざるを得ない面倒アップデート作業に比べると、Macは楽ちんです。
ネットワークにつながった状態でリカバリを行った際、HDDが論理的に破損していても、自動で復元してくれます。というか、いつ切り替わったのか分からないレベルの自然さで勝手に復元を始めます。そう、Macならね!!
Appleの修理は迅速な印象があります。今まで5回修理に出しましたが、いつも4日程度で返送されてきます。あとまぁ、Appleサポートはごねると得をする事が多い……ような感じがします。(一個人の印象です)
Windows8タッチパネル型は画面が揺れるので、使いづらい機種が散見される(2014年3月現在)。画面を固定しながら操作できる補助道具や、ロック式のヒンジが必要だと思うのですが、まだ普及していません。
あと、SurfacePro2が店頭で買えない状況が数ヶ月続いているので、そりゃあMacに流れるのでは。(なんか、今日のニュースで久々にSurfaceが入荷されたらしいです)
スペック対価格を比較すると、CPUやメモリやらのコストパフォーマンスが悪くない、と思います。
10年前は「Macは高くつく」という印象だったものが、ここ5年で「Macって割安」という印象に変換したと記憶しています。
一昔前に比べ、自作PCの価格的メリットが薄れたから、そのように感じるんですかね。
美品なら、「だいたいこの値段で売れる」という土壌が形成されている。大幅な値崩れも少ない。新製品発表ごとに旧機種を売って、新機種に乗り換えても、損した感が少ない。
要するに、値崩れしにくい。ポジティブに受け取ると、欲しいと思った時が買い時。
SurfaceRTのように意味の分からない価格暴落が起きる心配がないですね。人によっては、安心と言えるかもしれません。
何をもって"無駄"と判断するか、非常に難しい論点ではありますが。
へんてこなアザラシのマスコットがデスクトップを泳ぎ出したり、なんとも言えないモッサリ感の明るさ調整ソフトが突如画面に出現したり。なんて事はありません。
ある時期、ある特定の界隈にて、「Macが優れる」とか「いや、Windowsがコスパが高い」なり「Linuxが一番」とか、
マァ、乱暴な言い方をすると、それぞれのムラの中で熱狂と共にコミュニティが形成されて、宗教と信者ができあがると思うんですよ。
しかし進化の早いIT業界では、一昔前の利点が追い抜かされるなんて、日常茶飯事。
だから今から見ると、信者の言葉や、その感動が伝わらない。なんて事、よくあると思います。
ジョブスも、死んだし。
とはいえ、日常生活の中で、目を輝かせてOSのすごさを語る信者とか、逆に必要以上に貶す反信者を目にしたら、
生暖かい目で「ああ、このオジサンが若い頃、こういうのが流行ったんだナァ」とか
「ああ、昔、あのOSに苦労したんだネェ」などと、受け流してあげるのが正解だと思います。
そういう時代が、あったんだ。……と。
しつこい宗教や信者は、裏返せば、その人が感動した記憶なのでしょう。
このエントリを読んだあなたが、何かの道具に感激し、愛すべきツールを誇り、誰かにしつこく薦めるようになるのを、楽しみにしています。
ツッコミ、指摘、Welcome。
だれかWindows寄りや、Linux寄りの視点を加筆して下さいな。
記事執筆時点リリースされている最新のOSバージョンはWindows8.1、Mac10.9Mavericks、LinuxKernel3.13です。
最近、まとまった形式でWindowsとMacの優劣や、歴史を比較したエントリーって少ない印象があります。
だいたいがTwitterやまとめブログで、薄っすい単文コメント……(´・ω・`)
がっつり読み応えのある論評にお目にかかりたいものです。
最後になりますが、ちなみに私はLinuxユーザです。(・∀・)
ではみなさま、どうか、ご安全に。( ̄人 ̄)ノ
ここに署名する我々は,グラフィックデザイナー,写真家,そして学生である。我々は広告技術・機構こそがもっとも有利で,効率的・魅力的な我々の手腕の活かし方だとされる世界に育った。キャットフード,胃薬,合成洗剤,毛生え薬,縞模様のついた歯磨き粉,髭剃り後ローション,髭剃り前ローション,痩せる食品,太る食品,におい消し,ソーダ水,タバコ,伸縮下着,ゴム入りズボン,スリッポン。こんなようなものを売るために技能と想像力を売り飛ばす人々を賞賛し,広告こそが正しいと主張する出版物に我々は責め立てられてきた。このような,この国の将来にほとんどないしはまったく貢献しないどうでもいい目的のために,広告産業に従事する人々の途方もない時間と労力が無駄になっている。
市民社会の拡大とともに我々はある飽和点に達しており,もはや押し寄せる消費者向けの販売攻勢は騒音以上のなにものでもない。我々は我々の技能と経験を活かすより価値のある仕事があると考える。例えば道路標識,看板,書籍,定期刊行物,カタログ,取扱説明書,工業写真,教育補助のためのツール,映画,テレビ番組,科学・工業出版物,我々の産業・教育・文化,そして世界の人々の意識に貢献するすべてのメディアがそうだ。
我々は消費者向けの激しい広告を廃止せよと主張しているのではない。そんなことは不可能だ。楽しい仕事がしたいというのでもない。より有用で持続的なコミュニケーションのために優先順位の反転を提案しているのだ。我々は販売のためのギミックやセールスマン,悪辣な隠し広告,そういったものに人々が辟易とし,そして我々の技能が有用な目的のために活用されることを希望する。この考えの下,我々は我々の経験と考えを共有し,関心を持つ仲間や学生等に供することを提案する。
簡単な解説:この宣言はイギリスのグラフィックデザイナ-,ケン・ガーランドによって63年11月29日に起草され,翌年4月,22人の署名とともに発表された。発表後400人以上のグラフィックデザイナーやアーティストが支持を表明し,デザイン雑誌を中心とした多くのメディアに掲載された。また,共感した英国議員トニー・ベンによってThe Guardian紙にも掲載された。当時,グラフィックデザインは経済成長に後押しされた広告産業の拡大によって急速にその主とした職域を広告産業へと移行しており,その形態・質が大きく変化しつつあった。ガーランドを始めとする一部のデザイナーはこの変化に危機感を持っており,ある種のバランスのとれた世界を目指した。この宣言は「グラフィックデザインは伝達されるメッセージに対して常に中立的であるべきなのか。あるいは中立的であることが可能なのか」という今日まで続く議論を引き起こした。後にこの宣言はカナダのAdbusters誌に再度掲載され,2000年に改訂版が各主要デザイン誌上で発表された。
っていう所にWebデザイナーとして応募した。
ホームページはしっかりしてたし、代表オレ!みたいな写真ものっけてたし。
ちゃんとしたとこだろーなー、なんて思ってた。
仕事が欲しいってわけじゃなく、いや欲しいけど。
Webに携わるいろんな人がいるなら何か面白いサービスとかできるかも?
って思って軽く応募してみた。
やけに多い誓約書?これは守ってね!っていうメールがきたので「同意します」って送った。
内容は普通のことだった。やたら項目が多いけど。
これだけ多くの項目を「守ってね!」
っていうくらいだから凄い人かも、とちょっぴり思った。
そして面倒くさい人かもって、ものすごく思った。
そしたら早速何件か仕事がきた。
何よりまずは一緒に仕事してみようっと思った。
ディレクターは応募先の人。
“フリーランス集団です。なんかいろいろ募集”のホームページで写真のっけてるひと。
営業出身で、会社やめて、グラフィックデザインの学校入って独立した人。
「なる早で!」と連発する人。
期間は?どんなレイアウトで、色は?
「こんな感じで”僕は”考えてます」
え?
「いや時間ないんで、これで」
いいのですか?
「はい」
「いやなる早なんで、急ぎなんで、こんな感じで」
ちなみに私はクライアントの連絡先は知らない。
ディレクターがクライアントにデータ渡してちゃんと確認もらって、次の工程に進んでる、
と思ってた。
ついでにだけど
「ごめんなさい」
がお金に絡むこと以外は言えない人なんだな、とも思ってた。
間違ったら誤るでしょ。
「勘違いしてました。でもそれでOKです」
ん??
で、WPテーマ化が終わったとこ、つまりデザインもコーディングもOKもらった時点で、
ん?????
ttp://ozpa-h4.com/2011/12/28/wordpress_how_to_make_original_theme_matome/
さて、自宅のMacにWordPress環境を導入するなどしてWordPressのテーマカスタマイズをしようしようと目論んでいるのですが、なかなかどうしてこれが進まない。
まぁなんていうか私にCSSやHTMLの知識がないのと、いまだに「M」と「W」の見分けがつかないのが主な原因なのですが、それでもコツコツと頑張ってはいるのです。
この記事を読んでいて、凄く驚いた。え、この人のデザインはオリジナルじゃないの?と。
shortcut icon" href="http://ozpa-h4.com/wp-content/themes/mystique/favicon.ico
ってある。つまり、テンプレート名が「mystique」に相当する。
http://wordpress.org/extend/themes/mystique
そして、リンク先には以下が貼られている。
http://wordpress.org/extend/themes/mystique
でも、ttp://ozpa-h4.com/ のフッターにはそんな痕跡が見られない。
「間違って消しちゃいました」と言えば済むと思っているんだろうけれど、
この方、グラフィックデザイナーでしょう?
制作者および制作物に関して、少しはリスペクトの気持ちはないのだろうか、と
同じくグラフィックデザインを生業にする者として不思議に思う。