はてなキーワード: メディア論とは
鮫島浩
@SamejimaH
ツイッター屈指のリベラル派インフルエンサーであるDr.ナイフさんがついに朝日新聞言論サイト「論座」に登場。明晰な頭脳で政治を鋭利に切り取り華麗に解析するツイートは政治記者を凌駕する。ツイッター界の貴公子が大手メディア論壇にどう斬り込むのか。この先が楽しみだ。
https://twitter.com/SamejimaH/status/1287344834865373184
鮫島浩
@SamejimaH
ジャーナリスト。 2013年度新聞協会賞受賞。政治部デスクや特別報道部デスクを歴任。現在…。テレビ朝日、AbemaTV、ABCラジオなど出演多数。政治やマスコミに聖域なく斬り込みます❗
これ本物の記者?やべーな
「蹴鞠おじさん」騒動あたりから勘違いしてるなって感じだったし、
炎上してはてブの信者が手のひら返し始めるのも時間の問題だなと思ってた。
あの騒動の時にヨッピーはマクルーハンっていうメディア論の基礎の基礎も知らないってことがわかったじゃん。
彼は「なんか自分が面白いってことやってそれを面白がってみんながバズればOKっしょ?」というぐらいの考えでやってることが露呈した。
かつWELQのような劣悪キュレーションが簡単に蔓延っちゃう脆さのある今のWEBで、
webライティングを牽引していくかもしれない人物の言動としてあれじゃ拙すぎるんじゃないかと思った。
それ以前に自分や自分と近しい人物が、知らない・理解し難いものを「旧来俄然として変革を妨げる悪」とし、
解ろうと努めることを放棄したり拒絶することを正当化するスタンスに幻滅だった。
そんなヨッピーを「高慢でインテリぶった業界人の鼻を折るヨッピーさん痺れる憧れる〜」と褒めそやす信者たちにも違和感を抱いた。
話は変わるけど、PR記事中心に活動をシフトしてからも自前のブログやツイッターをコンスタントに更新してたでしょあの人。
有名人がああいう個人的なメディア持っちゃうときな臭いトラブルに巻き込まれやすいんだから、
削除するまで出ないにせよ、更新は告知程度に留めておくべきなんだよ。
それが更新やめないどころか、特定の個人を揶揄するようなトーンでブログ論とかそういうのを増やしちゃうんだからさあ。
はてブは信者がたむろってるから確認できなかったけど、僕はここ最近になってアンチも結構増えてきたんじゃないかと感じてたわ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/yoppymodel.hatenablog.com/entry/2016/11/10/111014
はてなブックマーク - テクノロジー - ネイティブ広告ハンドブックと広告業界の「蹴鞠おじさん」について - ヨッピーのブログ
マーシャルマクルーハンは「メディアはメッセージである」「人間の拡張」「メディアの法則」といった今日に至るメディア論の基礎となる理論を提唱した批評家、そして英文学者である。
彼の著作である「人間拡張の原理」「メディアの法則」は、ヴァルターベンヤミンの「複製技術時代の芸術」やウォルターリップマンの「世論」とならぶメディア論の重要文献であり、彼らはメディア研究に関する学部に所属する学生がまず初めに名前を拝見することとなる人物である。
知らずにメディアを語るのは恥ずかしいが知っていても決して自慢にはならない、マクルーハンはそんな存在である。
メディアというと僕らはついマスメディアを連想してしまうが、ここでいうメディアは「媒体」である。
マクルーハンのメディア論は媒体、つまり直接関係のない複数の事物を繋いで作用させるもの全般に関する論理なのだ。
それまでメディアは運送用ダンボールのようなものでそれ自体に意味はないとされていた。
メディアという容れ物に収められた内容にばかり注目していたのである。
しかしマクルーハンはメディアそのものから人は情報を読み取ることを指摘した。
中に入っているものが同じでもAmazonのダンボールかみかん箱かで印象が変わるように、
同じメッセージでも発信元が違えば意味合いが変わってきたりするということだ。
ざっくりいうと人間の五感や認知や運動の能力がメディアの力によって拡張されるということ。
例えば新幹線という交通媒体を使えば3時間半で東京から大阪まで移動できるし、
こうしてwebや増田を使えば駄文をとてつもない数の人々に晒すことができる。
それもこれも生身の人間だけでは不可能なことであり、メディアによって拡張されているからこそ為せる技なのだ。
しかし拡張をすれば元々使っていた身体機能が活動に関与する度合いが低くなり終いには身体機能を切断(抑圧)つまり麻痺させてしまうという所までがマクルーハンの持論。
拡充
そのメディアは、社会や人間の生活のどの側面を促進したり拡充するのか。
衰退
そのメディアの出現前に支持されていた(あるいは傑出していた)どの側面をかげらしたり衰退させたりするのか。
回復
そのメディアは何を衰退の影から回復させたり再び脚光を当てたりするのか。
逆転
メールボックス漁ったらコール来てて、見てみたらブクマけっこう付いてた。全然意図が伝わってなかったので意見を述べる。
難民侮辱イラストを描いた漫画家はすみとしこ「シリア難民問題に関する最悪の7人」に選出される | BUZZAP!(バザップ!)
http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/268764398/comment/Gakkuri-Kanabun_09
アイドルのアンチのコメントをわざわざ拡散したり、アイドル本人に知らせたりするファンやマネージャーはおらん。
ISISの処刑映像をわざわざ拡散したり、遺族に見せようとする奴らはISISの協力者とすら思う。
しかし今回の騒動では、差別的であるから問題だという風刺画を、FaceBookが削除しないからといって、
圧力をかけるために世界中に拡散する人が居て、深く傷つくかもしれない関係者に報告までしたという。
なんと狂っていることか!
本当に混乱させられて、かなりきつく皮肉めいたことを書かずにはいられなかった。
ドイツは海岸に流れ着いた子供の亡骸が報道されたことで、一気に世論の流れが変わり難民受け入れをすることになったんだけど、
そういう世論の熱狂に流されて重大な政策を進めるのって危険だし、まさしく戦後日本が恐れてきた空気って奴だと思う。
なので、いかにも同情を惹き、社会を扇動しそうな画像を、あえて空気を読まないでおちょくるってのは、
民主主義を大切に思うなら基本的には、強い自制心を持って意識的に賞賛しなければならない表現だ。
もっと言えば、画像をおちょくる風刺画を見て「悲しいけど、そういう意見もあるか。」と受け止めるのではなく、
「可哀想な少女を悪人として描いている!許せない!世界中から同調者を集めて圧力かけよう!」となったのであれば、
反差別を信条とする人でも空気に飲まれ軽率な行動に走ったり、同調圧力を発する側になる。
普通と言えば普通だが、それを見せつけてくれたことが風刺画の最大の成果だと個人的に思っている。
とにかく、問題の風刺画にはそういう批判的精神を見出すこともできる。
でもそれは、「マスコミの扇動には乗らないぞ!」っていう意識や文脈を共有していないと分からないことであり、
文脈の外では良くてただの嫌味な絵、最悪の場合には憎悪や暴力を誘発する絵になってしまう。
よくある難民支援への協力を求めるお涙ちょうだいの少女の画像に対する皮肉あるいは、
ドイツの難民受け入れ決定への批判やドイツにならおうとする国内の勢力への警告
という意味合いが強かっただろうと推測できる。難民の全部が全部、金をせびりに来た者だと作者も思ってなかろう。
では、風刺画を世界中に拡散して難民本人が見るようになったとき、風刺画の意味合いはどう変わるだろうか?
上で述べたようなメディア論や政策論的な意味合いは消え失せてしまい、難民個人を中傷する要素が強くなってしまう。
少なくとも難民受け入れ国で難民に対して見せつけて喧嘩にならない表現ではないだろう。
誰が風刺画を中傷画にしたのだろうか?誰が難民に対して酷い表現を投げつけたのだろうか?
拡散という行為がどういう結果をもたらすのか少し考えてほしい。
難民や少女とその関係者を大切に思うなら、今回の風刺画騒動は日本国内で決着をつけなければならなかった。
適当に書いた作品が世界レベルで拡散されるとは誰も思うまい。その点は同情する。
しかし、熟慮して書かれたものではないのに、見た人の思慮深さを試す内容になっている。
無礼だと思う。
本発表ではライトノベルの著者近影を一〇〇〇枚以上取集した調査の結果を報告すると共に、その変遷の意味を論じる。
著者近影は読者に対し著者をいかに提示するのか、という点において大きな役割を果たしている。
我々は漱石や太宰といった作家達の顔を簡単に思い浮かべることが出来る。
著者近影は近代文学においては作家主義を補強する機能を果たしてきた。
しかし、ライトノベルの著者近影は現在、近代文学のそれとはかけ離れたものとなっている。
その変遷には作品と作家、読者との関係がいかに変化していったのかが表れている。
収集したサンプルは以下の通りに分類した。
1、顔が鮮明に映っている。
4、イラストを使用している。
これらを年代順に並べることによりライトノベルの著者近影がどのような変遷を辿ってきたかが明らかになる。
一九九二年以前は、ライトノベルの著者近影も近代文学と同じように著者の顔をはっきりと映していた。
けれど、一九九三年、神坂一が著者近影にイラストを使用したのを一つの契機として、同様の例が増え始める。
その後、二〇〇〇年に時雨沢恵一がモノの写真を使用したことから、身近なモノの写真が著者近影に使用されるようになる。
現在ではライトノベルの著者近影はイラストかモノの写真にほぼ大別される。
メディア論の重要な批評家であるヴァルター・ベンヤミンは肖像写真と接する時、人々は唯一性、一回性ばかりに注目してしまうと論じている。
近代文学はそのような写真の力に依拠し、著者近影によって作家性を強調していた。
しかし、ライトノベルの著者近影はイラスト、あるいは身近なモノの写真へと移り変わった。
私は大昔に美術大学グラフィックデザイン科を卒業し、デジタル以前から現在まで、デザインで飯を食ってきたが、
いつの時代でもデザイナーというのは(就業人口の少なさという意味で)マイナーなので、
一般からは業務の実際を知られていないなあと思う。
オリンピックのエンブレム問題から派生した諸問題に、周囲のデザイナー界隈は今、みんなウンザリしている。
そんな中で、とある記事のブコメに典型的な「普通の人」の意見を見つけ、
ああ、残念だなあと思った。
曰く、「デザインという感性の世界の作品に、コンペで優劣を付けることが可能か?」
私の答えは「はい。優劣の評価は可能です。点数を付けることだってできます。
ただし、一定の得点を越えると”感性”の差ではなく、一種の”政治的判断”で得点が変わります。」となる。
デザイン=感性みたいなふわっとした物言いに、とても違和感がある。
「感性」とは置き換えればカッコイイ・美しい・訴求力があるものの選択能力だが、
商業デザインのプロは、それらを理論化・数値化・データ化して考えるものなんだ。
上記のブコメのような質問は、プロフェッショナル否定論につながる。
デザインを構築する要素の大部分は、実は厳密な理論や、歴史から学んだハック、
わりと理系寄りな教養とトレーニングの積み重ねがないとプロになれない。
また、そうでなければ、安定した職業として成り立たない。
例えば、話題の多摩美術大学の、2014年度履修科目の中から『共通基礎教育科目』を見てみるといい。
絵ばっかり描いているわけじゃないのだ。
一部抜き出すと、
心理学/芸術心理学/造形心理学/歴史学/日本文化史論/文学/美学概論/美学/考古学/文化人類学/民俗学/芸術と科学/図学/日本美術史概論/東洋美術史概論/西洋美術史概論/宗教学/人間工学/色彩論/芸術材料学/近代デザイン史/染織史/文様史/写真論/社会心理学/マスコミ心理学/映像メディア論/情報論/情報工学演習(コンピュータ基礎、情報機器の操作、3DCG)/総合講座デザイン論/現代工芸論/服飾文化論
基礎学問を学んだ上で、自分の手を動かして作品を作る実践授業を受ける。
(特に「造形心理学」「色彩論」あたりは、自分が学んだ頃よりずっと進化している学問分野だろう。)
すると、おのずと他人の作品を見て、「こういう背景をふまえて、こういう意図で作ったな」という
「プロなら分かる」って、どこの分野でも同じだろう。
プログラマならコードを見ればわかる。八百屋なら野菜を見ればわかる。
でも「何をどうわかってるか」を他人に伝えるには、膨大な説明が必要になる。
しかもいざ説明しようとすると「長い、3行で」となって聞いてくれない。
多くのデザイン関係者が今でも「オリンピックのエンブレムは盗作に当たらない」と断じているのは
まさに上記のような、職業人としての訓練の結果(及び法的手続きの結果)だが、
本人がブログで謝罪したようです。
http://gudachan.hatenablog.com/entry/2013/07/01/220257
個人的に今までの書き込みを読む限りではこの程度のぺらぺらな謝罪で何かが変わるとも思えません。
北日本の人々や韓国に対するヘイトスピーチについての言及が謝罪文にないこと。
それらについては「魔が差した」とか「含みのある表現」というレベルを超えていること。
この増田が書かれた後にも何回もヘイトをツイートし、ツイッターIDをコロコロ変更したりブログを非公開にしたことを考えれば、反省しているとは到底思えないので。
生物と無生物のあいだ (講談社現代新書) 福岡 伸一
不機嫌な職場 (講談社現代新書) 河合 太介、高橋 克徳、永田 稔、渡部 幹
臆病者のための株入門 (文春新書) 橘 玲
日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか (PHP新書) 竹田 恒泰
わかったつもり (光文社新書) 西林 克彦
いつまでもデブと思うなよ (新潮新書) 岡田 斗司夫
ツイてる! (角川oneテーマ21) 斎藤 一人
日本を貶めた10人の売国政治家 (幻冬舎新書) 小林 よしのり
脳が冴える15の習慣 (生活人新書) 築山 節
「世界征服」は可能か? (ちくまプリマー新書) 岡田 斗司夫
世にも美しい数学入門 (ちくまプリマー新書) 藤原 正彦、 小川 洋子
TPPが日本を壊す (扶桑社新書) 廣宮 孝信、 青木 文鷹
ネトウヨについて僕が考えていることを書こうと思う。
この文章は割と長い。これはネトウヨに読んでもらうためにはあきらかにマイナスだ。
(1)長い文章が読めない→(2)見出しだけで内容を判断する→(3)的外れなコメントをする
ネトウヨの大部分は長い文章を読めない。
いや、正確には、長い文章を読めない者がネトウヨになる割合が多いのだ。
その理由は、この文章を最後まで読んでもらえばわかると思いたい。
では、なぜ僕は読まれないのに長い文章を書くのか。
それも、最後まで読んでもらえればわかると思う。
とりあえず、文章が長いというクレームは受け付けない。
最初に、「ネトウヨ」という呼称を使う理由について説明したい。
ここでは主に、ネット上にて
・反韓デモを扇動したり在日差別を行うやたらと排他主義的な人物
・自分は国にろくな貢献もしていないくせにやたら無根拠に自国を誇るエセ愛国者
といった人物を指してネトウヨとしている。また、これらの人物の特徴としては
・自分の主張を正当化させたり他人の正論を貶めるためには平気でデマを流す
・無知ゆえに存在しない陰謀と戦っており、自分のみが真実を得ていると思い込んでいる
などがある。
こういった人々は基本的にネトウヨと呼ばれるのを嫌う。なぜ嫌うのかはよくわからない。
もしかしたらバカにされていることに薄々感づいているのかもしれない。
でも、この文章の中ではネトウヨと呼ばせてもらう。
決してネトウヨを怒らせたいからでなく、ただ他の呼称で適当なものがみつからないからだ。
では、まず説明したいのは、ネトウヨがいかに情報に踊らされているかということだ。
ネトウヨは言う。「メディアは韓国や電通や民主党にコントロールされている」と。
まあ、当然だが現実にそんなことはない。
そういうことを言うバカがいて、ネトウヨは簡単にそいつらに踊らされる。
メディアについて、専門家が正しく解説している文章はネット上にいくらでもあるが、ネトウヨはそういう自分たちに都合の悪いものはまず読まない。
そして、家から出たこともないような引きこもりが想像で書いた落書きや、自称事情通の友人が書いた落書きだけを「真実だ」と信じ込む。
でも、残念だけど、陰謀論というのは無知な人間の間からしか発生しない。無知な人間の浅い想像とルサンチマンが、くだらない陰謀論を生む。
例えば、だれか国際金融のマーケットに立つ一流のトレーダーで、ロスチャイルド家が世界経済をコントロールしているなんて陰謀論を信じている奴が一人でもいるだろうか。
一方で、「少年ジャンプの印刷部数は集英社がコントロールしている」という事実は、集英社の社長に聞いても、大日本印刷の社長に聞いても間違いないだろう。
ある事象が陰謀論か事実なのかは、十分な知識をもった専門家がどのように考えているかを調べれば簡単にわかる。
もちろん、大勢の言うことがいつも正しいというわけではない。しかし、大勢の専門家が言うことは大抵の場合正しい。
これまでの歴史を振り返ってみて決して例外がないわけではないが、やはり大抵の場合は専門家の意見が正しい。
それを違うと思うなら、素人の想像のストーリーを鵜呑みにするのではなく、まずは自分の頭で考えることだ。
でも、大抵の人間はそれができない。ネトウヨになんてできるわけがない。
真実だと言い張る、嘘で耳になじみの良い、自分たちだけしか知らない(と思い込んだ)、バカみたいな情報に騙される。
だから、それなら専門家の言うことを信じていた方が無難だよとアドバイスしてやりたい。
専門家並みの知見を得られないのなら、専門家の言うことをだまって信じていればよいのだ。
では、話が戻ってメディアコントロールの話だが、これはありえないとメディア業界が長い僕が断言する。
そして、業界のまともな人間なら、みんながみんな、「特定の団体がメディアをコントロールするなんてありえない」と言うだろう。
でも、そんな現場ではだれもが知っていることが、噂話による想像でしか状況を思い描けないネトウヨには理解できないらしい。
仮の話だが、ここ5年、販売される同人誌をすべて分析してみた結果、登場するキャラクターの巨乳率が有意に大型化していることを発見したとしよう。
2006年は平均Cカップ弱程度だったのに、07年にはCカップ、09年にはDカップ、11年においては平均がなんとEカップものサイズになっていた。
この事実を、コミケのことを詳しく知らない人物が分析し、理由づけしたところ、
「婚期を逃した女性たちが結託して、ロリコンを撲滅し、豊満な肉体を持つ熟女の魅力を刷りこむために行っている、つまり犯人は2chの喪女だ(喪女犯人説)」
という結論に達したとする。
くだらないので例は書かないが、いくら反論されても論理的に説明できるだろう。
いざとなれば1番胸の大きい同人誌を書いている女性を連れて来たら、そんなものを書いている女性の多くは喪女だろうから、簡単に証明成功だ。
もちろん、その1番胸の大きい同人誌を書いているの女性が既婚なら、2番でも3番でもいい。
でも、そんな喪女犯人説がナンセンスなのはコミケに参加したことがある人ならだれでもわかるはずだ。
もしも同人誌の絵の胸が年々大きくなっているとすれば、それはそういう絵が流行りで、そういう絵が求められているからだ。
熟女の魅力を刷りこむなんて無駄な努力のために、全作家に巨乳を書くように頼んでまわるバカなんているわけがない。
仮に存在したとしても、作家がそんなことに協力するわけがない。この陰謀論はまったくもってバカらしい。
どうやって全メディアに偏った報道をするように頼んでまわれるというのだ。
もちろんネトウヨは可能だと言うだろう。だが、喪女犯人説だって同様に可能なのだ。
あらゆる可能性は存在するが、だからといってあらゆる真実が存在するわけではない。
喪女犯人説と同様に、現代日本でメディアコントロール説は明らかにナンセンスだと断言できる。
メディアが偏っていると憤慨しているやつは、コミケの話で言えば貧乳派だ。
だから文句を言いたいし、自分の周りはみんな貧乳派だから、巨乳派が多数だなんて認められない。
でも、コミケで年々胸が大きくなるのが流行りだったように、その報道の偏りも、いわばただの流行りなのだ。
「麻生が字を間違えたことばかりあんなに大きく報道したのに、民主党の○○はまったく報道されていない」
なんて言うやつがいるが、たんに麻生が字を間違えたことを多くの視聴者は見たがった。ただそれだけだ。
いや、見たくなかったなんて言うやつもいるかもしれないが、そういうやつこそ苦々しい顔をして繰り返し見ているものなのだ。
「私が見ていないから、みんなが見たくないはずだ」なんて思うのはばかげてる。
「私の周りはみんな見ていないから、ほとんどの人が見ていないはずだ」なんてのはナンセンスの極みだ。
ご存じのとおり、日本のメディアはそのほとんどが営利企業だ。最大多数の人が求めるものを最優先で提供するのだ。
日本のメディアがコントロールできるなら、確実に政府与党によってコントロールされているはずである。
可能ならば、以前なら自民党、今は民主党が自分たちの都合の良いようにコントロールしているはずである。
しかし現実では、今のテレビや新聞が民主党の悪口だらけなのは言うまでもない。
結局のところ、メディアが偏っていると騒ぐやつらは、自分たちの望むように偏らせたいと願うやつらなのだ。
自分たちが大切だと思うニュースを、大多数が見たいニュースより目立たせろと言うバカなのだ。
重要かどうかを決めるのはお前たちではないのだ。それぞれのメディアに専門家がいて、その責を持った者が決めるのだ。
「あのデモを取り上げなかった」「あの失言を取り上げなかった」
それを取り上げたとすれば、それこそが一般的には偏向報道なのだ。
それが、狭い世界にいて、自分だけがすべて、ネットにいる仲間たちだけがすべてだったら、理解することができないのだ。。
貧乳派が貧乳派だけで集まり、必然的に情報は偏り、制限される。
ネットの貧乳派のコミュニティを覗いて、貧乳派の声が圧倒的に大きいと感じる。
だから自分たちは正義だと思い、巨乳が増加するコミケを批判し、原因をねつ造する。
正確にはどっかのバカが想像で書いたフィクションを真実なのだと信じ込む。今やっているのはつまり、そういうことなのだ。
つまり、世の中の大多数にとって、そのデモはどうでもいいのだ。そのデモの記事なんて読みたくないのだ。
メディアの中の人間は、それがよくわかっているから、この結果になるのだ。
それが情報の制限されたネトウヨには理解できないからこそ、ネトウヨは真実にたどりつくことが決してないのだ。
と、ここまで勢いよく書いたが、上記に一点だけ付け加えたい。
メディアをコントロールできる唯一のものとして、そのメディア自身がある。つまり、「自社に直接関係する事件」はかなりの割合がなんらかの形でコントロールされる。
もちろん、自社に関係するといっても、報道媒体が「スポンサーが」なんて言うことは仕組み的にありえない。社員逮捕とか、自社の粉飾決算とか、そういう話だ。
しかし、それは民間企業として当たり前である。当事者性の観点からも、裁判が終わり事実が確定するまで自社では報道すべきではないともいえる。
そして、日本ではまったく別資本のメディアが無数にあるので、これを陰謀論の根拠とすることは不可能だ。
ちなみに、新聞社同士、テレビ局同士は仲間ではなくライバルだ。足を引っ張れるなら引っ張りたいとお互いに思いあっている関係だ。互いに擁護することなんてまずないだろう。
以上は蛇足だったとは思うが、僕は正直者なので念のため。
次に、なぜネトウヨはやたら無根拠に自国を誇るエセ愛国者なのかについて考察したい。
何かをなしとげたわけでもなく、だれかに認められた経験もない。
つまり、ネトウヨとは、自らのアイデンティティを確立することに失敗した人間たちではないかと僕は考えている。
そういった実績や経験は年を重ねて初めて身につけられることが多い。例えば、小学生で明らかな実績や経験を誇れる人間は一握りだろう。大多数の子どもは何ももっていない。
だからなのだ。
小学生から中学生の頃、親が社長だとか、親戚が芸能人だとか、自分が得たものではなく与えられたものについて、やたらと自慢する鼻つまみ者が存在したのは。
自分自身が何者でもないなら、自分自身以外から自分のアイデンティティを証明するものを持ってくるしかない。
もちろん、他所から持ってきた「自分が特別(他の人とは違う)だという証明」は、自分自身で積み重ねたものに劣る。
だから、ほとんどの人は年を重ねるにつれ、自分自身のアイデンティティを、自ら積み重ねたもので証明するようになる。
それは学校名だったり、職場名だったり、能力だったり、経験だったりするわけだ。
しかし、ネトウヨは何も持たない。正確には、何も持たないと自分で思っている者がネトウヨになりやすい。
ネトウヨは自分自身を卑下している。彼らにとって胸を張って他人に対して誇れる自分の「証明」が存在しないのだ。
そんなどうしようもない人物が、唯一手にすることができるのが「日本人」だということなのだ。
彼らはおそらくこう思っている。日本人は西洋人には劣るが、他のアジア人よりは優秀だと。西洋人には劣ると考えているため、西洋人に認められることをすごく喜ぶ。
親日的な西洋人のネタは2chのまとめブログでも人気の記事だ。一方で、アジア人(特に中国・韓国人)のことを見下しているため、アジア人に対してはまずバカにしてかかる。
しかし、残念ながら本来人種に優劣などないので、人口と土地の広い中国には必然的に抜かれそうになる。
その他新興国だって、遅れながらも成長をはじめ、先行した日本の地位を脅かし始める。
まあ社会が成長する過程において当然のことだし、まっとうな日本人なら、今の日本の発展を維持するか、今以上に成長させる方法を考える。
しかしネトウヨはそんなことは考えられない。そもそもそんなことを考える立場にもいない。それなのに、今のアジア人を見下す立場だけは死守したい。
それだけが自分の存在価値であり、人生において人を見下せる唯一の武器だからだ。
そうなると必然的にネトウヨはアジア人を叩く。とくに国際的な立場が日本に迫りつつある中国人と韓国人を叩く。自分たち自身を伸ばせないなら叩くしかない。
もちろんネトウヨがいくらわめいたところで現実は何も変わらない。でも、ネトウヨはそれしかできないからそうするしかない。
ネトウヨはアジア各国は劣っていると思いたい。日本はすばらしい優秀な国だと思いたい。
しかし、本当の愛国者は、自分の国が優秀だから愛するのではない。自分の生まれ育った国だから愛するのだ。
自分の国が優秀だから愛するのが愛国者なら、失敗国家に愛国者などいるはずがない。
愛国とは、親を愛する、子を愛するのと同じなのだ。ダメな親でも、ダメな子でも愛するように、愛国者は自分の国を愛するものなのだ。
親の悪口を言うことも、子の愚痴を言うことがあっても親子は愛し合うように、自分の国に対し批判的な意見を言っても愛国者だということは十分にありうるのだ。
ネトウヨはなぜ違うか。なぜ自分の国が優秀だと言い張り、日本の行動や歴史を批判する日本人がいれば必要以上に叩くのか。
それはネトウヨが日本を愛しているからではなく、ネトウヨにとって日本は自分のアイデンティティを証明するための道具にすぎないからだ。
道具の価値を下げられそうになれば抵抗する。それはネトウヨの気持ちになれば確かに理解できる行動だ。ただし、それが健全な行動だとは言い難い。そんなものが新の愛国者なはずがない。
どんな漫画でも映画でも小説でもなんでもよいのだが、今最も売れている漫画として、とりあえずワンピースを例にあげる。
ワンピースでは、主人公ルフィの血のつながらない兄として「エース」がいる。エースは大犯罪者の息子だ。そのために物心ついたころから差別されて育ってきた。生まれて来なければよかったと言われ、多くの人に憎まれた。
物語が進み、エースは白ひげという海賊に出会う。エースを憎むスクアードという海賊に白ひげは言う。
「親の罪を子に晴らすなんて滑稽だ。エースがお前に何をした?仲良くやんな、みんなおれの家族だぜ」
で、ここで多くの人が感動したと思う。
ワンピースは差別問題を積極的に扱っている。その差別問題のエピソードで打ち出されるメッセージはいつも「差別はよくない」だ。
よく思い出してほしい。差別されていじめられる子が登場する物語を。いつもその物語から打ち出されるメッセージは「差別はよくない」だったはずだ。
まあ、「差別しようぜ」というメッセージはかなりとがった媒体でもないと表現できないという理由もある。
しかし、それ以上に「差別はよくない」というのが僕らのモラル、そして常識と合致するからだ。だから多くの人が感動するのだ。
差別された悲劇に涙し、差別に打ち勝った勇気に打ち震えるのだ。それなのにネトウヨはアジア人を差別する。
では、彼らはワンピースに感動しないのだろうか。
いや、そんなことはない。もちろんネトウヨも人の子だ。ワンピースはともかく、なんらかの差別問題を扱ったストーリーに感銘を覚えた経験はあるはずだ。
少なくとも、ネトウヨに差別を肯定的にとらえているほど積極的に思考している人間は少ないだろう。
差別はいけないことであり、差別を克服する物語に感動するのに、なぜ彼らはアジア人を差別するのかということだ。
まず、単純だが愚かな反論として、「差別ではなく劣っているから指摘しているだけだ」というのがある。
まあ、「それが差別だ」との一言でおわる反論だが、あえて詳しく説明しよう。
・エースは大犯罪者の血をひいているだけあり、かなりの暴れ者だった。
それでも親の罪を子に晴らすなんて滑稽だし、黒人を犯罪者予備軍扱いしてはならないし、女性が学びの道に進むことを阻害してはならないのだ。
なぜなら、人には人権があり、差別されず正当に生きる権利があるからだ。一部のアジア人が不正をおかしたからといって、「あんな国は亡びればいい」だとか「あいつらは劣等民族だ」なんて言うことは明らかに誤りである。
2chのネトウヨが跋扈しているスレッドでは、目を覆うような罵詈雑言が「すべての」中国人や韓国人に投げつけられている。
彼らはワンピースに感動し、差別はよくないとうなずきながら、その手は差別用語を打ち続けるのだ。どうしてそのようなことがおこるのか。
続く→
ネトウヨについて僕が考えていることを書こうと思う。
この文章は割と長い。これはネトウヨに読んでもらうためにはあきらかにマイナスだ。
(1)長い文章が読めない→(2)見出しだけで内容を判断する→(3)的外れなコメントをする
ネトウヨの大部分は長い文章を読めない。
いや、正確には、長い文章を読めない者がネトウヨになる割合が多いのだ。
その理由は、この文章を最後まで読んでもらえばわかると思いたい。
では、なぜ僕は読まれないのに長い文章を書くのか。
それも、最後まで読んでもらえればわかると思う。
とりあえず、文章が長いというクレームは受け付けない。
最初に、「ネトウヨ」という呼称を使う理由について説明したい。
ここでは主に、ネット上にて
・反韓デモを扇動したり在日差別を行うやたらと排他主義的な人物
・自分は国にろくな貢献もしていないくせにやたら無根拠に自国を誇るエセ愛国者
といった人物を指してネトウヨとしている。また、これらの人物の特徴としては
・自分の主張を正当化させたり他人の正論を貶めるためには平気でデマを流す
・無知ゆえに存在しない陰謀と戦っており、自分のみが真実を得ていると思い込んでいる
などがある。
こういった人々は基本的にネトウヨと呼ばれるのを嫌う。なぜ嫌うのかはよくわからない。
もしかしたらバカにされていることに薄々感づいているのかもしれない。
でも、この文章の中ではネトウヨと呼ばせてもらう。
決してネトウヨを怒らせたいからでなく、ただ他の呼称で適当なものがみつからないからだ。
では、まず説明したいのは、ネトウヨがいかに情報に踊らされているかということだ。
ネトウヨは言う。「メディアは韓国や電通や民主党にコントロールされている」と。
まあ、当然だが現実にそんなことはない。
そういうことを言うバカがいて、ネトウヨは簡単にそいつらに踊らされる。
メディアについて、専門家が正しく解説している文章はネット上にいくらでもあるが、ネトウヨはそういう自分たちに都合の悪いものはまず読まない。
そして、家から出たこともないような引きこもりが想像で書いた落書きや、自称事情通の友人が書いた落書きだけを「真実だ」と信じ込む。
でも、残念だけど、陰謀論というのは無知な人間の間からしか発生しない。無知な人間の浅い想像とルサンチマンが、くだらない陰謀論を生む。
例えば、だれか国際金融のマーケットに立つ一流のトレーダーで、ロスチャイルド家が世界経済をコントロールしているなんて陰謀論を信じている奴が一人でもいるだろうか。
一方で、「少年ジャンプの印刷部数は集英社がコントロールしている」という事実は、集英社の社長に聞いても、大日本印刷の社長に聞いても間違いないだろう。
ある事象が陰謀論か事実なのかは、十分な知識をもった専門家がどのように考えているかを調べれば簡単にわかる。
もちろん、大勢の言うことがいつも正しいというわけではない。しかし、大勢の専門家が言うことは大抵の場合正しい。
これまでの歴史を振り返ってみて決して例外がないわけではないが、やはり大抵の場合は専門家の意見が正しい。
それを違うと思うなら、素人の想像のストーリーを鵜呑みにするのではなく、まずは自分の頭で考えることだ。
でも、大抵の人間はそれができない。ネトウヨになんてできるわけがない。
真実だと言い張る、嘘で耳になじみの良い、自分たちだけしか知らない(と思い込んだ)、バカみたいな情報に騙される。
だから、それなら専門家の言うことを信じていた方が無難だよとアドバイスしてやりたい。
専門家並みの知見を得られないのなら、専門家の言うことをだまって信じていればよいのだ。
では、話が戻ってメディアコントロールの話だが、これはありえないとメディア業界が長い僕が断言する。
そして、業界のまともな人間なら、みんながみんな、「特定の団体がメディアをコントロールするなんてありえない」と言うだろう。
でも、そんな現場ではだれもが知っていることが、噂話による想像でしか状況を思い描けないネトウヨには理解できないらしい。
仮の話だが、ここ5年、販売される同人誌をすべて分析してみた結果、登場するキャラクターの巨乳率が有意に大型化していることを発見したとしよう。
2006年は平均Cカップ弱程度だったのに、07年にはCカップ、09年にはDカップ、11年においては平均がなんとEカップものサイズになっていた。
この事実を、コミケのことを詳しく知らない人物が分析し、理由づけしたところ、
「婚期を逃した女性たちが結託して、ロリコンを撲滅し、豊満な肉体を持つ熟女の魅力を刷りこむために行っている、つまり犯人は2chの喪女だ(喪女犯人説)」
という結論に達したとする。
くだらないので例は書かないが、いくら反論されても論理的に説明できるだろう。
いざとなれば1番胸の大きい同人誌を書いている女性を連れて来たら、そんなものを書いている女性の多くは喪女だろうから、簡単に証明成功だ。
もちろん、その1番胸の大きい同人誌を書いているの女性が既婚なら、2番でも3番でもいい。
でも、そんな喪女犯人説がナンセンスなのはコミケに参加したことがある人ならだれでもわかるはずだ。
もしも同人誌の絵の胸が年々大きくなっているとすれば、それはそういう絵が流行りで、そういう絵が求められているからだ。
熟女の魅力を刷りこむなんて無駄な努力のために、全作家に巨乳を書くように頼んでまわるバカなんているわけがない。
仮に存在したとしても、作家がそんなことに協力するわけがない。この陰謀論はまったくもってバカらしい。
どうやって全メディアに偏った報道をするように頼んでまわれるというのだ。
もちろんネトウヨは可能だと言うだろう。だが、喪女犯人説だって同様に可能なのだ。
あらゆる可能性は存在するが、だからといってあらゆる真実が存在するわけではない。
喪女犯人説と同様に、現代日本でメディアコントロール説は明らかにナンセンスだと断言できる。
メディアが偏っていると憤慨しているやつは、コミケの話で言えば貧乳派だ。
だから文句を言いたいし、自分の周りはみんな貧乳派だから、巨乳派が多数だなんて認められない。
でも、コミケで年々胸が大きくなるのが流行りだったように、その報道の偏りも、いわばただの流行りなのだ。
「麻生が字を間違えたことばかりあんなに大きく報道したのに、民主党の○○はまったく報道されていない」
なんて言うやつがいるが、たんに麻生が字を間違えたことを多くの視聴者は見たがった。ただそれだけだ。
いや、見たくなかったなんて言うやつもいるかもしれないが、そういうやつこそ苦々しい顔をして繰り返し見ているものなのだ。
「私が見ていないから、みんなが見たくないはずだ」なんて思うのはばかげてる。
「私の周りはみんな見ていないから、ほとんどの人が見ていないはずだ」なんてのはナンセンスの極みだ。
ご存じのとおり、日本のメディアはそのほとんどが営利企業だ。最大多数の人が求めるものを最優先で提供するのだ。
日本のメディアがコントロールできるなら、確実に政府与党によってコントロールされているはずである。
可能ならば、以前なら自民党、今は民主党が自分たちの都合の良いようにコントロールしているはずである。
しかし現実では、今のテレビや新聞が民主党の悪口だらけなのは言うまでもない。
結局のところ、メディアが偏っていると騒ぐやつらは、自分たちの望むように偏らせたいと願うやつらなのだ。
自分たちが大切だと思うニュースを、大多数が見たいニュースより目立たせろと言うバカなのだ。
重要かどうかを決めるのはお前たちではないのだ。それぞれのメディアに専門家がいて、その責を持った者が決めるのだ。
「あのデモを取り上げなかった」「あの失言を取り上げなかった」
それを取り上げたとすれば、それこそが一般的には偏向報道なのだ。
それが、狭い世界にいて、自分だけがすべて、ネットにいる仲間たちだけがすべてだったら、理解することができないのだ。。
貧乳派が貧乳派だけで集まり、必然的に情報は偏り、制限される。
ネットの貧乳派のコミュニティを覗いて、貧乳派の声が圧倒的に大きいと感じる。
だから自分たちは正義だと思い、巨乳が増加するコミケを批判し、原因をねつ造する。
正確にはどっかのバカが想像で書いたフィクションを真実なのだと信じ込む。今やっているのはつまり、そういうことなのだ。
つまり、世の中の大多数にとって、そのデモはどうでもいいのだ。そのデモの記事なんて読みたくないのだ。
メディアの中の人間は、それがよくわかっているから、この結果になるのだ。
それが情報の制限されたネトウヨには理解できないからこそ、ネトウヨは真実にたどりつくことが決してないのだ。
と、ここまで勢いよく書いたが、上記に一点だけ付け加えたい。
メディアをコントロールできる唯一のものとして、そのメディア自身がある。つまり、「自社に直接関係する事件」はかなりの割合がなんらかの形でコントロールされる。
もちろん、自社に関係するといっても、報道媒体が「スポンサーが」なんて言うことは仕組み的にありえない。社員逮捕とか、自社の粉飾決算とか、そういう話だ。
しかし、それは民間企業として当たり前である。当事者性の観点からも、裁判が終わり事実が確定するまで自社では報道すべきではないともいえる。
そして、日本ではまったく別資本のメディアが無数にあるので、これを陰謀論の根拠とすることは不可能だ。
ちなみに、新聞社同士、テレビ局同士は仲間ではなくライバルだ。足を引っ張れるなら引っ張りたいとお互いに思いあっている関係だ。互いに擁護することなんてまずないだろう。
以上は蛇足だったとは思うが、僕は正直者なので念のため。
次に、なぜネトウヨはやたら無根拠に自国を誇るエセ愛国者なのかについて考察したい。
何かをなしとげたわけでもなく、だれかに認められた経験もない。
つまり、ネトウヨとは、自らのアイデンティティを確立することに失敗した人間たちではないかと僕は考えている。
そういった実績や経験は年を重ねて初めて身につけられることが多い。例えば、小学生で明らかな実績や経験を誇れる人間は一握りだろう。大多数の子どもは何ももっていない。
だからなのだ。
小学生から中学生の頃、親が社長だとか、親戚が芸能人だとか、自分が得たものではなく与えられたものについて、やたらと自慢する鼻つまみ者が存在したのは。
自分自身が何者でもないなら、自分自身以外から自分のアイデンティティを証明するものを持ってくるしかない。
もちろん、他所から持ってきた「自分が特別(他の人とは違う)だという証明」は、自分自身で積み重ねたものに劣る。
だから、ほとんどの人は年を重ねるにつれ、自分自身のアイデンティティを、自ら積み重ねたもので証明するようになる。
それは学校名だったり、職場名だったり、能力だったり、経験だったりするわけだ。
しかし、ネトウヨは何も持たない。正確には、何も持たないと自分で思っている者がネトウヨになりやすい。
ネトウヨは自分自身を卑下している。彼らにとって胸を張って他人に対して誇れる自分の「証明」が存在しないのだ。
そんなどうしようもない人物が、唯一手にすることができるのが「日本人」だということなのだ。
彼らはおそらくこう思っている。日本人は西洋人には劣るが、他のアジア人よりは優秀だと。西洋人には劣ると考えているため、西洋人に認められることをすごく喜ぶ。
親日的な西洋人のネタは2chのまとめブログでも人気の記事だ。一方で、アジア人(特に中国・韓国人)のことを見下しているため、アジア人に対してはまずバカにしてかかる。
しかし、残念ながら本来人種に優劣などないので、人口と土地の広い中国には必然的に抜かれそうになる。
その他新興国だって、遅れながらも成長をはじめ、先行した日本の地位を脅かし始める。
まあ社会が成長する過程において当然のことだし、まっとうな日本人なら、今の日本の発展を維持するか、今以上に成長させる方法を考える。
しかしネトウヨはそんなことは考えられない。そもそもそんなことを考える立場にもいない。それなのに、今のアジア人を見下す立場だけは死守したい。
それだけが自分の存在価値であり、人生において人を見下せる唯一の武器だからだ。
そうなると必然的にネトウヨはアジア人を叩く。とくに国際的な立場が日本に迫りつつある中国人と韓国人を叩く。自分たち自身を伸ばせないなら叩くしかない。
もちろんネトウヨがいくらわめいたところで現実は何も変わらない。でも、ネトウヨはそれしかできないからそうするしかない。
ネトウヨはアジア各国は劣っていると思いたい。日本はすばらしい優秀な国だと思いたい。
しかし、本当の愛国者は、自分の国が優秀だから愛するのではない。自分の生まれ育った国だから愛するのだ。
自分の国が優秀だから愛するのが愛国者なら、失敗国家に愛国者などいるはずがない。
愛国とは、親を愛する、子を愛するのと同じなのだ。ダメな親でも、ダメな子でも愛するように、愛国者は自分の国を愛するものなのだ。
親の悪口を言うことも、子の愚痴を言うことがあっても親子は愛し合うように、自分の国に対し批判的な意見を言っても愛国者だということは十分にありうるのだ。
ネトウヨはなぜ違うか。なぜ自分の国が優秀だと言い張り、日本の行動や歴史を批判する日本人がいれば必要以上に叩くのか。
それはネトウヨが日本を愛しているからではなく、ネトウヨにとって日本は自分のアイデンティティを証明するための道具にすぎないからだ。
道具の価値を下げられそうになれば抵抗する。それはネトウヨの気持ちになれば確かに理解できる行動だ。ただし、それが健全な行動だとは言い難い。そんなものが新の愛国者なはずがない。
どんな漫画でも映画でも小説でもなんでもよいのだが、今最も売れている漫画として、とりあえずワンピースを例にあげる。
ワンピースでは、主人公ルフィの血のつながらない兄として「エース」がいる。エースは大犯罪者の息子だ。そのために物心ついたころから差別されて育ってきた。生まれて来なければよかったと言われ、多くの人に憎まれた。
物語が進み、エースは白ひげという海賊に出会う。エースを憎むスクアードという海賊に白ひげは言う。
「親の罪を子に晴らすなんて滑稽だ。エースがお前に何をした?仲良くやんな、みんなおれの家族だぜ」
で、ここで多くの人が感動したと思う。
ワンピースは差別問題を積極的に扱っている。その差別問題のエピソードで打ち出されるメッセージはいつも「差別はよくない」だ。
よく思い出してほしい。差別されていじめられる子が登場する物語を。いつもその物語から打ち出されるメッセージは「差別はよくない」だったはずだ。
まあ、「差別しようぜ」というメッセージはかなりとがった媒体でもないと表現できないという理由もある。
しかし、それ以上に「差別はよくない」というのが僕らのモラル、そして常識と合致するからだ。だから多くの人が感動するのだ。
差別された悲劇に涙し、差別に打ち勝った勇気に打ち震えるのだ。それなのにネトウヨはアジア人を差別する。
では、彼らはワンピースに感動しないのだろうか。
いや、そんなことはない。もちろんネトウヨも人の子だ。ワンピースはともかく、なんらかの差別問題を扱ったストーリーに感銘を覚えた経験はあるはずだ。
少なくとも、ネトウヨに差別を肯定的にとらえているほど積極的に思考している人間は少ないだろう。
差別はいけないことであり、差別を克服する物語に感動するのに、なぜ彼らはアジア人を差別するのかということだ。
まず、単純だが愚かな反論として、「差別ではなく劣っているから指摘しているだけだ」というのがある。
まあ、「それが差別だ」との一言でおわる反論だが、あえて詳しく説明しよう。
・エースは大犯罪者の血をひいているだけあり、かなりの暴れ者だった。
それでも親の罪を子に晴らすなんて滑稽だし、黒人を犯罪者予備軍扱いしてはならないし、女性が学びの道に進むことを阻害してはならないのだ。
なぜなら、人には人権があり、差別されず正当に生きる権利があるからだ。一部のアジア人が不正をおかしたからといって、「あんな国は亡びればいい」だとか「あいつらは劣等民族だ」なんて言うことは明らかに誤りである。
2chのネトウヨが跋扈しているスレッドでは、目を覆うような罵詈雑言が「すべての」中国人や韓国人に投げつけられている。
彼らはワンピースに感動し、差別はよくないとうなずきながら、その手は差別用語を打ち続けるのだ。どうしてそのようなことがおこるのか。
続く→
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
初音ミクLAライブについて、各所で話題になっていたマサチューセッツ工科大サイトの感想も翻訳してみた。初音ミク現象を基に、情報を巡る様々な活動の基盤となるメディア・プラットフォームのあり方について考えたもので、書き手はミクが市民主導のメディア作りをするうえで参考になると考えているようだ。残念ながら一ヶ所、fro-ducerなる意味の分からない用語があったのでそこは翻訳していない。意味を知っている人がいたらご教授願いたい。
urlは以下の通り。
http://civic.mit.edu/blog/condry/miku-japans-virtual-idol-and-media-platform
7月2日土曜日、私は普通じゃないライブショー、日本から来たヴァーチャル・アイドルの米国デビューを見に行った。彼女は市民メディアについて私たちに何かを伝えられる存在だと思う。
初音ミクはアニメ・エキスポにおける催しの一つとして、ロサンゼルスのノキア・シアターで公演した。完売したコンサートには、多くがコスチュームに身を包んだ4000人を超えるファンが訪れ、ステージ上で生の演奏家の横に投影された「人間サイズ」の映像であるミクが床からせり出してくると、彼らは叫びケミカルライトを振った。
ミクは甘く歌い、幅20フィートある放物線状の鏡に沿って跳びはね、大半は熱狂的なテクノダンス・ポップな曲目を駆け抜ける間、決して汗をかかなかった。ステージの脇には彼女と他のバンドメンバーをクローズアップした映像がスクリーンに映し出されていた。彼女はちょっとしたおしゃべりもした。「はじめまして、初音ミクです」。そしてバンド(ギター、ベース、キーボード、ドラム)と6人の弦楽器奏者たちを紹介した。私たちは彼女に拍手を送り続けた。
「あたしたちは歴史を作っているのよ」と、私の隣に座った若い女性が友達に話しかけていた。たしかにそんな気がした。そして政治とポピュラー音楽について私が知っていると考えていることについて、改めて考え直した。
誰もが喝采しているが、何に対して? ステージ上、私たちの注目が集まる場所には誰もいない。単に仮想アバターが存在するだけだ。何のアバター? 一体誰の? それは私たちの。
大衆文化は政治と同様、しばしばステージ上の(あるいはスクリーンに映された)リーダーを前提としているように見えるが、その影響力や、しばしば創造性そのものが、どう転んでもより幅広い分散型の集団行動から生まれてくることを、ミクは示している。ミクは未開拓の可能性を孕む世界、クラウドソースな動員モデル、そして一部はソフト技術(ボーカロイド)、一部は文化的なアイデア(ミクというキャラ)からなるメディア・プラットフォームに関する有益な事例について、言外にほのめかしているのだ。
ミクはYAMAHAが開発し2004年から販売を始めたボーカロイドと呼ばれる音楽合成ソフトウエア・パッケージの声として作られた。ボーカロイドはガレージバンド[音楽制作ソフト]同様、演奏用の道具として音楽を作ることができるが、その際にメロディーと同じく歌詞を書けるという特徴も持っている。別の企業、クリプトン・フューチャー・エンターテインメント[ママ]が2007年、漫画風の画像と経歴設定(16歳、身長、体重、その他)と一緒に、追加音声であるミクを発売した。
http://www.crypton.co.jp/mp/pages/prod/vocaloid/cv01_us.jsp
重要なことに、クリプトンは画像に対する著作権を強く主張しない方針を定め、キャラクターが彼女自身の生命、より正確に言えば私たち自身の生命を持てるよう制限を解いた。いわば私たち誰もがレディー・ガガのために音楽を作り、それを彼女が私たちのために演じてくれるようなものだ。ミクがリアルじゃないってことが問題だって? それじゃレディー・ガガはどのくらい「リアル」なんだい?
ファンはそれにこたえ、さまざまな共通の服装及び像(たとえばネギ)を共有しながら数百数千の音楽ビデオをオンライン投稿した。以来、日本の動画シェアサイト、ニコニコ動画への投稿及びコメントを通じて増幅されたファンの取り組みのおかげで、ミクはスターの座へ駆け上がった。いわゆる「Nicodo」[ニコ動]はユーチューブと似ているが、動画を見ていると利用者のコメントがスクロールしていくところが違っており、それによって参加者の視点というレイヤーが追加されている。
今日ではミクのP(『プロデューサー』)は彼らの作品をオンラインで販売し、日本のカラオケスポットでは好きなミクの歌をダウンロードして歌うことができる。クリプトンは、彼ら曰くクリエイティブ・コモンズの模倣であるPiaproというオンライン・サイトを持ち、連携促進とライセンス供与をするシステムを作っている。ファンの作品は他の販売経路を通じても売られている。2010年11月、東京・池袋で開かれ私を含めた7000人の参加者を集めた完売のファン・コンベンションでは、集められた500のファングループがボーカロイド関連の音楽、ポスター、DVD、イラスト本、テレビゲーム、装飾品その他を販売した。
こうしたファンの興奮ぶりを踏まえると、ビッグ・ビジネスが仲間に加わろうとするのも不思議はない。2009年以来、SEGAはProject Divaというタイトル名でミクの携帯機及びアーケード向けゲームを作成している。トヨタも今や広告シリーズでミクを使っており、彼らはミクのロサンゼルス・デビューの前にCMを公開したほどだ(いくらかの非難も浴びたが、おそらくは善意に基づいて作られていた)。とはいえ究極のところミクはファンの取り組みによって命を吹き込まれており、ミクが商業主義の世界に足を踏み入れるのを見るのが興味深いのもそれこそが理由だろう。
ミクは、以前から知られていた市民メディアのための教訓のいくつかを補強する存在だ。人々が参加するには本当の開放性が感じられることが必要であり、共有と対話がコミュニティー形成のカギになる。管理された知的財産権システムよりも自由な文化の方がより何かを生み出す力があり、新規参入と商業主義化は、特に人気が高まった場合は常にリスクとなる。
だがミクは分散型の創造性について、ウィキペディアとも人間のセレブとも異なる特殊な図式を提示している。ミクにはバックグラウンドが欠けている。彼女には予め定められた人格はない。彼女は唯一の完成した空想世界に存在しているのではない。このウィキ=セレブは、将来がプラットフォームに在る時代において、昔ながらの人間のセレブを白物家電のように見せてしまう。
この事実は民主主義と参加についての考え方にも別の道筋を提供するのだろうか? 行動と人気を生み出すのがリーダーたち以外の社会的現実だとしたら、メディアに関する問いは表現される内容よりも、プラットフォームのあり方、それがどれほど開放的であり、それが許す創造性の形式がどんなものであるかに振り向けられるだろう。
クリプトン社長の伊藤博之は2011年10月、ミクと計画されている英語版を含む関連プロジェクトについて議論するため[MITの]比較メディア論を訪れる。彼はこの現象を、エンターテインメント産業について再考する機会だとみている。「これは普通ではない形の創造性です」と、コンサート前にLAで短時間出会った際に彼は言った。「私たちはコンテンツを作成する過程を作り変えているのです」。ミクが機能するのは分散型のファン=製作者グループの関与があるからだ。おそらくこれはプロ=シューマー[生産消費者]の終焉であり、fro-ducer[残念ながら意味不明]の台頭なのだ。
大衆文化は、市民メディアを分析・設計する際に利用できる社会的力学を照らし出すものだ、と私は信じている。大衆文化は政治的参加のための媒体になり得るのみならず、特に人々に行動を促すという観点からどのようにアイデアが流れ影響をもたらすかについて把握するモデルも提供してくれる。
アニメに関する研究において、私は仮想のキャラクターがそれ独自で生成力のある創造性のプラットフォームになっているとの結論に達した。そこからより多くの種類のプラットフォームが出てきそうであり、創造され、築かれ、共有され、分配され、リミックスされ拡張されるのを待っていることを、ミクは明白に示した。ミクについて考えることで、私たちが未来において行動するコミュニティーを創造するための新たなアプローチについて思い描けるようになること、それが私の望みだ。
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
初音ミクLAライブ、外国人感想その2「再生の約束」フリーダム訳
http://anond.hatelabo.jp/20110708223459
初音ミクLAライブ、外国人感想その3「ミクノポリスのボカレタリアートたちよ、団結せよ!」
http://anond.hatelabo.jp/20110709211718
初音ミクLAライブ、外国人感想その4「仮想の歌姫:初音ミクの人気と未来の音色」
http://anond.hatelabo.jp/20110710234300
初音ミクLAライブ、外国人感想その5「オレはAXには行ってないけど、まあとにかく……」
http://anond.hatelabo.jp/20110711212701
初音ミクLAライブ、外国人感想その6「ミクノポリス:7月のクリスマスと世界征服」
http://anond.hatelabo.jp/20110712205546
初音ミクLAライブ、外国人感想その7「AX11:ミクノポリスの印象」
http://anond.hatelabo.jp/20110713211501
初音ミクLAライブ、外国人感想その8「ミクノポリス:コンサート・リポート」
http://anond.hatelabo.jp/20110714210122
初音ミクLAライブ、外国人感想その9「アニメ・エキスポ:初音ミク」
http://anond.hatelabo.jp/20110715222900
初音ミクLAライブ、外国人感想その10「アニメ・エキスポ2011(抄訳)」
http://anond.hatelabo.jp/20110716194029
初音ミクLAライブ、外国人感想その11「世界は彼女のもの:初音ミクはいかにして全てを変えたのか」
http://anond.hatelabo.jp/20110717201147
初音ミクLAライブ、外国人感想その12「アニメ・エキスポ2011でのボーカロイド体験」
ツイッターで石原当選に不満を漏らす有名人たち:【2ch】ニュー速VIPブログ(`・ω・´)
マンガやゲームの業界では有名な人もこんな発言をしているようだし…
インターネット上で見られる反石原の言論というと、青少年条例、新銀行東京、築地移転、オリンピック招致、天罰発言ばかりが目に付いた。とくに青少年条例。
私も青少年条例は間違っていると思う。以前から反対のメールを出したり、メディア論の本を読んだりした。というか、つい先月までマンガ大好きのteenagerだった。だからこそ、父権温情主義的な青少年条例は大嫌いだ。
けれども、都知事を選ぶに際して「青少年条例」のただ一点だけを基準とするのはばかげている。都の将来の財政は決して明るいものではない。都民の4人に1人が高齢者、という時代も目前。国もお金がないから「都の財布に手を突っ込む」ようなことが今後もあるかもしれない。
俺も「メディアの影響」と断言する切り口には賛同しないし、そもそもイデオロギーの管理をメディアに託せと
主張する元増田の主張には全く賛同出来ないんだけど。(それ、めっちゃ危ないし)
だからこの文章は議論のための議論、お遊び。だからネタ元は申し訳ないけどググって欲しい。
でも、UFOに関しては実はそれ結構有名な研究素材だったりする。
えーと、誰だったかな。昔、UFOっていう存在が生まれてくる前、「UFO」的な存在ってのは
「空を行く船」だったんですよ。「俺んちの上を船がギコギコとんでったんだよー」って目撃証言が結構ある。
ドイツの新型爆撃機だったり、あるいは日本の新兵器だと言われたりした。
そしてその次に来たのが、ケネス・アーノルド事件。空飛ぶ円盤の誕生となった事件。
これの面白いのは、ケネスはUFOの「飛び方」を表現するために、フライング・ソーサーという言葉を使ったんだよね。
決して、物体の「形状」を表現するために使ったんじゃない。
でも、この時代のメディアで「空飛ぶ円盤」と表現されたため、一気に「円盤」の目撃例がこの後増えるわけです。
恐らく元増田はロズウェル事件とケネス・アーノルド事件を混同してるんだろうけれど、
メディアがある種のものをイデオロギー化して蔓延させるって面ではケネス・アーノルド事件ほどわかりやすいサンプルはないでしょう。
まるで、UFOの如く表れまるで実在論的な存在として日本社会に居ついた「恋愛」のようにね。
日本の「恋愛」はツルゲーネフの影響が地味に大きかったりもする、何故なら日本に「恋愛」を持ち込んだ奴らの聖書がこれだったから。
そーいうわけで、ケネス事件ってのはある種のイデオロギーがメディアによって実在化するっていうのの例示として、
割りと有名なモノだったりする。これ、専門書も一杯出てるから読んでみると面白い。「恋愛」と非常に似通う。
そして、「家制度の解体」のような社会の変化とメディアが一体化したって面でも一致が見られて、
この時代UFOは「冷戦」を背景にその存在をより実在的なものとして現したわけなんですよ。ソ連の秘密兵器だー、って。
その辺はもうこの辺りの議論として使い古された定型なので、そんなに厳密にデータ出させる必要はないかな、と思う。
そして、「犯罪率」
これに関しては、一時サカキバラ事件のあたりに「若者の犯罪率がヤベエ!」みたいなデータが出てきたときのもの。
これ、確かに一時「キレる若者」とあいまって、非常に社会に浸透した。
それはもちろん五年スパンで見れば確かに上昇してたんだけど、30年スパンで見ると半分以下に減っていた、っていう
「最近の若者は」論に対するカウンターとして、現在では有名になっている。
「正しい統計を使って嘘をつく方法」としても有名。
現在でも、インチキ統計議論に関して非常に頻出するイシューだったり。ただ、これに関しては
インターネット・メディアの逆襲もあって「一番犯罪率高いの団塊じゃねえかwww」って結論が
でも、この二つに関しては理論語の定義をしなくても、ある種のメディア理論として定型化してるので
十分議論の俎上に上げられるかなぁ。社会背景との複合性も含めて、「決め付けによる印象論」とは
切り捨てられない論題にまで熟成しちゃってると思う。だって、ちょいと検索すれば全部出るもの。
まぁ、ロズウェルとケネスを混同するのは良くないけど。(ロズウェルはケネスほど、明らかに「メディアの影響」と腑分けできない。ケネスは、「円盤」っていうのがあったからメディア論の格好の素材になったわけで)
「冷戦」の社会背景は「戦後」になるし、突然現れて「実在する真実」みたいな色合いを持った点も共通するし。
するってーと、やっぱそのコンテクストの集合点になっている「恋愛」が、メディアの流布したものだって点は
やっぱり見逃せないんじゃないかと思うなぁ。俺は元増田のように、「恋愛ドラマ」が原因だとは思わないけど。
どう考えてもツルゲーネフを持ち込んだ奴らが悪いと思うw
http://anond.hatelabo.jp/20091011164125
これを読んで、思ったことをつらつらと。
まず、池田先生のネットに対する姿勢がよく表れている、この記事を引用させていただく。
ひろゆきは「賠償金を取る方法はない」と高をくくっているようだが、バブルの処理のときは、同様に開き直る不動産業者を警察は「競売妨害」などの罪で大量に投獄した。要は「あいつは悪い奴だ」というコンセンサスができるかどうかが問題で、そういう「国策」があれば犯罪は(よしあしはともかく)いくらでもつくれるのだ。ライブドアやWinnyには擁護論が高まったが、2ちゃんねるが閉鎖されても同情する人はほとんどいないだろう。
前にも書いたように、排泄物を見れば健康状態がわかるという意味では、2ちゃんねるにもいくらかの意味はあるかもしれません。異様な匿名志向の強さは、「表」の生活で彼らが強く抑圧されて「本音」を押し殺していることを示しています。ふだんはおとなしくて礼儀正しい日本人の「裏」の顔が、実はこんなにおどろおどろしいというのは、まぁ他では知ることのできない貴重な情報でしょう。
端的に言わせていただく。池田先生は、下品である。
刑事犯でもない人間を犯罪者がごとく扱い、呼び捨てにする。亀井大臣を、「亀」などといった明らかに侮蔑をこめた呼称で呼び、「あいつはヤクザとつるんでいる」などと公の場で言う(仮に事実だとしても、確たる証拠もないのに言うのはちと問題。ちなみに私だって亀井大臣の政策は大反対だし、正直早々に辞めてほしいとは思っている。その上で言っている)。公の場で人をクズ呼ばわりする。twitterで罵倒してきた人間をわざわざ晒し、わざわざ「こいつをブロックしてやった」と宣言する。2chを排泄物に例えるなど、あまり上品とは言えない例を平気で出す(「便所の落書き」というのは自嘲ネタであって、外部の者がそれを踏まえて揶揄するにしては、いささか下品すぎる)。
2chの経験もまったくない人のために少し基礎的すぎることから話すけれども、2chのヘビーユーザーはIEやFirefoxといったwebブラウザで閲覧・書き込みをすることはめったになく、Jane Doe Style(余談だがJane Doeとは「山田花子」的なありふれた名前、つまり事実上の「名無しの権兵衛」を指す。2chの名無し文化を象徴しているセンスのあるソフト名である)などといった「専用ブラウザ」を用いている。これが非常に便利で、自分が好かない言葉を表示させないようにしたり、気に食わない人間のIDを指定してその日の彼(彼女)の発言をすべて抹殺することができる。これを「あぼ~ん」というのだが、世の中にはいちいち「てめぇなんてあぼんしてやったからwwww」とばかりに対象のレスが消えた状態を相手に見せつけてくる趣味の悪い輩がいる。
これと、池田先生の「twitterブロック宣言」(参照1)(参照2)(参照3)(参照4)は同じなのだ。いわゆるネット弁慶のねらーとやっていることは大して変わらない。私は池田先生のそういった幼稚なところが一人の人間として大嫌いなのだ。本質的には池田先生と彼の発言をいちいち取り上げて「ネットいじめ」に近いことをしている連中は、同じ穴の狢なのである。
ここで、「名無し」と実名でやってる学者を対等に語るなという批判はもちろんある。さきほど挙げたブログにも、コメント欄にこんな氏の発言がある。
2ちゃんねるに対する評価は、そこに書かれる可能性のある(名前の知られた)人とそうでない人とでは、まったく違うと思います。事実無根の悪口を書かれる不快感は、そういう経験のない人にはわからない。他人に対する想像力もない人が「お前はわかってない」などと説教するのはやめてほしいものです。
なるほどなるほど、正論、と私は思う。
そもそも何故匿名が叩かれるのかといえば、攻撃の一方向性にあるのだと私は考えている。反論する場所を与えられていないのは、苦痛だ。言われっぱなしはつらい。学校や職場における1対多数のいじめが何故いけないのかというのも、ここにある。殴り返す相手もいないまま、自分だけボロボロになっていく。これは卑怯だ。事実私も、はてブのホッテントリに池田先生の自転車云々の発言が載っていたのを見て、ドン引きした。これはひどいよなと思った。これ以上アクセス数を伸ばすことに加担するのはよくないと思ったので、ブコメは読んだものの私は登録しなかった(したらますます上に上がるから)。
話が散漫になってきたので、改めて私が一人の人間として池田先生を好かない理由を述べる。
それは、下品で甘ったれた世間知らずの幼稚なオヤジだからである。ひとつじゃない?言語化するとそうかもね。でも「こういう人間」だというのに形容詞がいくつも必要だっただけだ。ていうかまぁ、ぶっちゃけるとタイトルは切れ味がいい方がいいじゃん。
匿名の集団による叩きは卑怯である。じゃあ実名は正義か。そんなわけないだろう。
池田先生の発言は公ですべきものとはとてもじゃないが言えない。2chの煽りに「お前、じゃあそれ俺と面と向かっても言えるんだな?」と返している人をたまに見かけるが、それに対し「ああ、言えるさ」と平然と答える人間は私は軽蔑する。反撃される覚悟を以てして言ってるからいいのだ。そんなわけないだろう。路上で一方的に殴っていようが殴り合っていようがおまわりさんが見かけたら怒られるに決まってる。一方通行の煽りは、卑怯だ。でも双方向ならいいかっていうと、それは違うでしょ。
そして、暴露してしまうと、実は池田先生は正々堂々としているかというと、そうでもないのである。
何故なら罵倒してきた人間をクズ呼ばわりして、公衆の面前に晒しておいて、そこで「あぼん」をしたからである。「あぼん」された側は以降池田先生に反論ができない。クズ呼ばわりされた弁解もできない。一方通行の罵倒で終了である。本来、ブロックにせよあぼんにせよ黙って各自が勝手にするのがスマートというか、マナーだとは思う。捨て台詞吐いてフタを閉めてるようじゃ、2chの卑怯者とやらとなんら変わらない。
私は以前からそれを池田先生に対し実名アカウント等で直接本人に何度も言ってきた。無論、反応はない。先生は多忙なのだからそれに対しては文句は言わない。一人の人間としてそれはどうかと思ったから、一人の人間として抗議というか忠言というか、そういうのをしたまでだ。学者先生とか、そういう肩書の問題じゃあない。メディア論を語る人として、ネットの言論を引っ張っていくアルファブロガーとして、そういったレベルぐらいはちゃんとしようよ、ということだ。私から言わせれば先生、あなたの罵詈雑言こそがネットのノイズなんだよ。そういうことなんですよ。
というわけで実名でも匿名でもネット空間を活用してる一小市民の私が、池田先生に対する反感を代弁してみた。多分、いわゆるネットイナゴ的な動機で騒いでいる人だって多いだろう。ただ、私のように「てめぇだって卑怯じゃねぇか」と思った上で抗議している人間が存在することも池田先生は分かってほしい。
ちなみに今回は、増田が「匿名」でしたので、私も「匿名」でトラバを送らせていただいております。繰り返すけど実名でも抗議はしてますけどね。
そこそこの反響があったので、追記。ブコメで「なげぇよ」といったのがあったので、上の論点もまとめとく。
・一方通行で殴るのは卑怯
・だから匿名は卑怯
・でも実名でも罵倒しておいてその後にブロックしたら双方向性がないよね
別に私自身匿名でも実名でもそんなにお上品ではないんですけどね。実況板で「見えたっ!」とか言ってるアホですしね。でもまぁ、事実無根の中傷とか、本当の意味で下劣なことは好かないんですよね。本当に何度も繰り返しちゃうけど、S/N比が高まることを望むなら、イナゴが沸かないような言葉回しを覚えることも必要だと思うんですね。池田先生の著書は一般向けに面白く書かれているものもあるし、アゴラといった活動も応援しています。だからこそ「ネット上での私語は、居酒屋でオヤジとやってる時の私語ほどフリーダムであってはならない」ということを自覚してほしい。聞いてる人の数が問題なんですよと言えばいいのかな。
正直に相手にしてくれないことが悔しいと書け
嫌う必要がない。嫉妬では?
こういうのを読むとなんだかなぁ、と思う。一方向性と双方向性について書いて、「前者は卑怯だ、でも後者でも品はよくないよね、しかも池田先生って前者を否定してる割には実は双方向性がないよね」と説いてみたわけなんだが、私の書き方が悪かったのかしら。「みんながみんなノリで騒いでるわけじゃないんだよ」ということを知ってほしかったから書いたまでであって、タイトルが示す通りこれは価値の問題です。結局、正誤は問えん。嫉妬なのかなぁと一応まじめにしばし考えたけれど、そういう感情はないな。
池田信夫の場合は最初から、自分が傲慢に振舞うことを恐れていない。
だから考えながら読む必要があまり無い。言葉の裏を読む労を閲覧者に強いていない分、やさしいよ。
だから読者が多いんだと思うよ。
人と仲が悪くなることを恐れて書くブログって、すげーつまんないから。
これは同意かな。mixiで昔はすっげーはっちゃけた日記書いてた人がいたんだけど、知名度あがったら「ライブやります☆」みたいな宣伝日記とか「ファンの皆さんに感謝です♪」とかなんの面白みもない言葉しか書けなくなった人がいて、あれは残念だった。池田先生もキレがあるから池田先生なのかもしれない。でも、やっぱり、さきに述べたようなことは少しは改善してほしいな。
匿名側は、三振したら別人を装って直後に打席に立つことが出来てしまい、ホームランを打ったときだけ、その記録(例えば、はてブなど)が残せてしまう。やっぱり、アンフェアだよ。
そうね、これも同意。双方向性に欠けるだけじゃなく、発言の蓄積がない者が急に正論めいたことを言ってもな、というのはある。属人的な考えだけど、否定はできないな。
気になったのは
Jcastみたいなメディアが取りあげたのが悪い。私は個人だから勝手に妄想で書いてるだけで悪くない
32歳のSEならそのへんわかれよ。mixiの馬鹿学生かよおまえは
ブログもメディアである以上、対等に語られるべきだし、責任も等しくあるべきなんだよね
人気のないブログだから何言っても赦されるなんてこと無いわけで
それがインターネットの力であり怖いところ。でも文明ってそういうもんだろ。
いつまで旧来型のメディア論で片付けようとしてるんだろう
はてブもこの人に同情的で、そのくせ悪いのはJカスだ、ロキノンだ、とか言ってて
はてなユーザーもこの程度かとガッカリした。
id:magician-of-posthumanが仕掛けた罠とは何だったのかについて一考した。
http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090224/1235439131
id:gerlingは、何の技も会得せずに、「メディア論」という一つの学問分野に対して「道場破り」を挑んできた。しかし学術の道場では、何の技も会得していない雑魚と同じ「土俵」に立つような真似はしない。雑魚は「門前払い」だ。しかしながら、メディア論の道場では、「門前払い」になった雑魚を<踏み台>にすることによって、より高き土俵を造ることが可能なのである。
どういうことか?今id:gerlingが陥っているパラドクスは、自らの反論が何ら相手にされずに、反論対象を好都合にしてしまっているというパラドクスなのである。id:gerlingがメディア論に反論しても、メディア論の必要性を助長させてしまうのだ。
増田的には注目度は低かった「科学的な議論」ではあったが、この議論は最初から茶番だった。
id:gerlingの反論が非科学的な反論(笑)であったために、
id:magician-of-posthumanはそれを都合よく「利用」したってことだ。
id:gerlingは、最初から手のひらの上だったのだろう。
議論の流れはこうなる。
1.id:gerlingは、id:magician-of-posthumanの「メディア論」を「ミクロ権力論」と混同して反論(笑)した。
2.だが、id:magician-of-posthumanは、「メディア論」がシステム理論の「コミュニケーションメディア論」と
フランクフルト学派の「メディア論」的転回に関係し、「ミクロ権力論」とは全く違うと言う事を説明した。
http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090218/1234955798
客観的に第三者視点からみても、この時点でid:gerlingの敗北は決定的。
3.id:gerlingの本来の説明責任は、id:magician-of-posthumanが主張する「メディア論」と「ミクロ権力論」が
同じであると言う事を「コミュニケーションメディア論」とフランクフルト学派の「メディア論」的転回に触れながら
証明する事にあったが、id:gerlingは「論旨のずらし」によって不当に応戦した。
4.id:gerlingは、システム理論の「コミュニケーションメディア論」を完全スルーしたまま、
システム理論を「観念論・形而上学・精神分析学」だと決め付けてかかった。
5.だがid:magician-of-posthumanは、形式とメディアの理論やオートポイエーシス・システム論を説明し、
システム理論が「観念論・形而上学・精神分析学」とは全く別物である事を完璧に論証した。
6.id:gerlingの本来の説明責任は、id:magician-of-posthumanが主張する「メディア論」と「ミクロ権力論」が
同じであると言う事を「コミュニケーションメディア論」とフランクフルト学派の「メディア論」的転回に触れながら
証明する事にあり、
かつ、システム理論が「観念論・形而上学・精神分析学」と同じだと言う事を
形式とメディアの理論とオートポイエーシス論に触れながら証明する事にあったが、
id:gerlingはまた「論旨のずらし」によって不当に応戦した。
7.http://anond.hatelabo.jp/20090222172805の増田が言っていたが、
id:gerlingは、「コミュニケーションを人間的な単位に還元する事は不可能」だという
「メディア論はガキくさい」から「id:magician-of-posthumanはガキくさい」へと
「論旨のずらし」を行った。
8.だがid:gerlingのこの「論旨のずらし」だと、
http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090218/1234955798を全く言い負かす事も
できないまま主張してしまうために、全く全然具の骨頂な「論旨のずらし」になってしまった。
9.id:magician-of-posthumanは、追い討ちをかけるかのごとく、
id:gerlingの「孫引き」=他者が引用した文章をそのまま引用する不正行為を行っている事、
id:gerlingがルーマンの文献を読まずにルーマン理論に反論している事の調査不足さ、
id:gerlingがボルツの文献を読まずにボルツを馬鹿呼ばわりしている事を指摘した。
10.id:gerlingは、このid:magician-of-posthumanの追い討ちを受けて、
id:magician-of-posthumanのシステム理論が誤読だと反論した。
実はこの誤読だという反論も、客観的に見れば「論旨のずらし」だとわかる。
id:gerlingの本来の説明責任は、id:magician-of-posthumanが主張する「メディア論」と「ミクロ権力論」が
同じであると言う事を「コミュニケーションメディア論」とフランクフルト学派の「メディア論」的転回に触れながら
証明する事にあり、
かつ、システム理論が「観念論・形而上学・精神分析学」と同じだと言う事を
形式とメディアの理論とオートポイエーシス論に触れながら証明する事にあったが、
id:gerlingはこれらの説明責任の論旨を「id:magician-of-posthumanのシステム理論」へと
ずらす事で、id:magician-of-posthumanの波状攻撃になんとか対応しようとしたって事だ。
11.しかしid:magician-of-posthumanは、id:gerlingが罠に落ちたと言う。
id:magician-of-posthumanは、id:gerlingの
「id:magician-of-posthumanのシステム理論は誤読だ」という主張を、
これまた正確に反証している。
id:gerlingは、ルーマン理論が神経や意識を「一度も」説明していないというが、
id:gerlingが読んだ事のあるルーマン本は、「一冊だけ」だった。
id:magician-of-posthumanはこれに向かって、
神経や意識を取り上げているルーマン本を数十冊取り上げ、その頁数まで正確に記載して、
id:gerlingの「知ったかぶり」を説明した。
12.さらにid:magician-of-posthumanは、id:gerlingこそがシステム理論を誤読していると説明する。
形式とメディアの理論、オートポイエーシス、自己言及と外部言及、システムと環境の差異、構成主義的認識論、
コミュニケーションメディア論、間テクスト性、パラドクス化と脱パラドクス化。
id:gerlingが自分自身の「調査不足」の責任を相手の「説明不足」へと転嫁していると説明する。
13.1-12までのながれをみると、どうも客観的な立場の第三者からみると、
id:magician-of-posthumanがid:gerlingの相手をする理由がないように思えてくるのは気のせいだろうか?
id:magician-of-posthumanが言うように、id:gerlingは議論の入り口に立ててない。
14.しかしid:magician-of-posthumanは、「メディア論」に反論(笑)してくるid:gerlingを
最初から相手にならない無害な素人と見做し、「メディア論」の必要性を高める為に、
好都合に利用していたのである。
詰まり、id:gerlingの「メディア論」批判が「メディア論」に栄養を与えていたってことになる。
15.id:magician-of-posthumanは、id:gerlingの「孫引き」が知のデザインだという。
。「孫引き」を行なったid:gerlingは、これらの引用記事を読んではいない。読んだ上で言及するならば、最初から正確に引用であることを記したはずだからだ。したがってid:gerlingは、引用記事を読まずに「孫引き」した上で、引用されている記事のバックグラウンドに無学なまま反論(笑)を成し遂げていたと言うことになる。
http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090224/1235439131
16.id:magician-of-posthumanは、id:gerlingの「論旨のずらし」も知のデザインだという。
増田が批判していたが、magician-of-posthumanは肯定的に取り入れているっという事になる。
「論旨のずらし」は、今現在顕在化している論旨では到底勝つことができないという惨めな気持ちを埋め合わせるために形式化されているのである。言うなれば、「論旨のずらし」とは、既存の論旨に反論したいけれども反論(笑)になってしまうというパラドクスを、別様の「形式」と「メディア」の区別を構成することによって、脱パラドクス化しているのである。つまり、「論旨のずらし」とは現状無害化による問題の隠蔽なのだ。しかし脱パラドクス化はそれ自体がパラドクシカルである。パラドクスの隠蔽はパラドクスの発見を伴わせる。だからこそ今現在id:gerlingは、稚拙なバックグラウンドのままメディア論に反論(笑)することが、逆にメディア論の必要性を助長するというパラドクスに向き合わざるを得ないのだ。
17.id:magician-of-posthumanは、id:gerlingがルーマンの文献を読むように誘導していた。
案の定id:gerlingは、ルーマンの本を「一冊だけ」(←ここポイント)読み、誤読し、自爆した。
誘導していたid:magician-of-posthumanにとって、ここまで計算どおりだったってことなのである。
id:magician-of-posthumanは、id:gerlingがルーマンを付け焼き刃で論じても、100%誤読すると
確信していたんだろう。
id:magician-of-posthumanは、システム理論を完璧に説明し、id:gerlingのルーマン読解を完璧に反証して、
と言っていた。確信犯以外の何者でもない。
こうしてid:gerlingは、id:magician-of-posthumanの手のひらの上で転がされていたんだ。
とくに、id:magician-of-posthumanがわざと「id:gerlingがルーマンの本を読むように誘導」し、「案の定誤読した」ところを
知のデザインの要素として好都合に動員したあたりは、実にしたたか。
今までトニオは周囲から煙たがれるだけの存在だったが、これほど真正面から「利用」されてしまったのは
おそらく初めてではないだろうか?
だが僕らには、id:magician-of-posthumanのしたたかさにネガコメを突きつける資格があるのだろうか?
実際問題、id:gerlingの「メディア論」批判が十分な調査不足と正確な反証だったなら、
こんな事は起こらなかっただろう。「メディア論」の必要性を助長させてしまう「メディア論」への反論(笑)を
書いて、付け焼き刃の知識と「論旨のずらし」や「孫引き」を繰り返して非科学的な反論をしてしまった
id:gerlingにも、問題はあっただろう。
たぶん僕らが教訓として言えるのは、
普段から努力をサボってる奴には、努力した者だけが参加できるハイレベルな議論に
参加する事が許されないってことなんだろう。サボりは悪い。
トニオとポマえもんの議論からスゴイ事発見しちゃった増田が通りますよ
http://d.hatena.ne.jp/gerling/20090217/p1
http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090218/1234955798
http://d.hatena.ne.jp/gerling/20090221/p1
http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090221/1235173303
議論を一通り読んで疑問に思ったんだが
「コミュニケーションを人間的な単位に還元して説明することはできない」というのが
ポマえもんのシステム論的な主張のひとつなんだよな?(そういえば宮台も言ってた気がする
で、反論する立場のid:gerlingは、
システム論の文献をひとつも読解しないまま
知ったか → 孫引き → 論旨のずらし
を繰り返す事で反論(笑)していたんだろ。
その反論(笑)の内容が
「メディア論はミクロ権力論・観念論・形而上学と同じでガキ臭いから止めてしまえ」だったんだろ?
でもポマえもんはシステム論のコミュニケーションメディア理論と
ポマえもんの「メディア論」が「ミクロ権力論・観念論・形而上学」とは全然違うと
説明したんだろ?
id:gerlingはトニオ戦法(知ったか → 孫引き → 論旨のずらし)しかできないから
反論する事ができないでいたんだろ?
要するにこの時
「メディア論はミクロ権力論・観念論・形而上学と同じでガキ臭いから止めてしまえ」と反論する立場の
id:gerlingは、トニオだし、
もう議論の敗者になったってことだ。
「コミュニケーションを人間的な単位に還元して説明することはできない」という
システム論的な分析も、当然反論できてないよな?
じゃあなんでid:gerlingは
ポマえもん自身をガキ臭いって反論(笑)してんだ?
論旨をずらすのはトニオ戦法なんだしもう見慣れていたけど
「コミュニケーションを人間的な単位に還元して説明することはできない」
という主張を反論できないからといって
「メディア論はガキ臭い」 → 「ポマえもんはガキ臭い」という
トニオお得意の論旨のずらしは通用しないんじゃないのか?
なぜなら、この論旨のずらしは
id:gerlingを敗北者にした議論というコミュニケーションを
つまりid:gerlingが「メディア論はガキ臭い」という論旨を
「ポマえもんはガキ臭い」という論旨にずらしたいならば
まず「コミュニケーションを人間的な単位に還元して説明することはできない」を
完璧に反論して間違っている事を証明しないとならない。
id:gerlingは
「コミュニケーションを人間的な単位に還元して説明することはできない」
という主張を反論できないからこそ「ポマえもんはガキ臭い」という論旨へとずらそうと
しているんだろうが、
その論旨へとずらすためには、まずid:gerlingがどうしても反論できていない
「コミュニケーションを人間的な単位に還元して説明することはできない」というポマえもんの主張を
反論しなければならない。
なにこの一人堂々巡りw
論旨をずらして反論(笑)すると、勝手に一人堂々巡りにハマッテしまうんだなww
(追伸)
待てよ、これがポマえもんが仕掛けた魔術なのか?www