はてなキーワード: メディア論とは
正直、このトラバで改めて『能力の問題』とアニメ・マンガ・ゲーム界隈で起こりがちな地獄みを感じている
まぁワイは、元増田の作文含めて配慮なく思うがままに書き綴ってるのでお互い様ではあるのだけれど、無礼な投げかけには遠慮のない無礼な返事が返ってくるよと
覚えておくといいかもしれない
ねぇねぇ、アニメとかマンガ、ゲームって超すごくない?誰でも楽しめるのが最高の魅力なんだよね!例えばクラシック音楽とか美術館の絵とかって、ちょっと知識がないと難しいじゃん?でもアニメとかは、そんな予備知識なくても「わぁ、おもしろい!」って思えるんだよね。
これってマジやばくない?例えば『スパイダーバース』。子どもからおじいちゃんおばあちゃんまで、世界中の人が「すげぇ...」ってなれる作品でしょ?マイルスの成長物語に、誰もが自分を重ねられるし、あのぶち上がった映像美と音楽!「誰でもヒーローになれる」っていうメッセージが心に響くよね。
あ、そういえばスラムダンクの話!これ読んでバスケ始める人めっちゃ多いんだよ。「俺も湘北高校の選手みたいになりてぇ!」みたいな(笑)マジで人生変わった人多いよね。
実はドラゴンボールも面白いよね。アメリカのラッパーとかが「ドラゴンボールは俺たち黒人の生き様そのものだ」って言ってたりするの知ってる?悟空みたいに諦めずに強くなっていく姿に勇気をもらったって。スパイダーバースのマイルスも同じように、いろんな人に希望を与えてるんだよね!
スーパーマリオとかもそう。最初は「ジャンプでコイン取るだけ」の簡単なゲームなのに、やればやるほど「おっ、ここにこんな裏技あったの!?」みたいな発見があるでしょ?
要するに、アニメ・マンガ・ゲームってさ、「誰でも入れる」のに「めっちゃ深い」んだよね。「にわかはダメ!」みたいな意見もあるけど、それって違くない?だって、みんなが楽しめるってことが一番大事じゃん!
体調悪い時でも、言葉わかんなくても、年齢関係なく楽しめるって、むしろすごいことじゃない?そこからどんどん深掘りしていける。それってまさに現代のエンタメの理想形かもしれないね!
だからさ、アニメとかマンガ、ゲームが「わかりやすい」っていうのは、全然マイナスじゃないんだ。むしろ、それこそが最高の芸術なのかもね。スパイダーバースみたいに、最先端の表現方法使いながらも、誰もが心から楽しめる作品こそ、これからのエンタメの理想だと思わない?
近年、これらのメディアの「わかりやすさ」を否定的に捉える言説が一部で散見されます。しかし、このような主張には認知科学的、メディア論的な観点から、いくつかの本質的な誤認が含まれていると考えられます。
優れたビジュアルナラティブは、複雑な情報や感情を直感的に伝達する高度な表現技術を要します。例えば、宮崎駿作品における視覚的メタファーや空間表現は、言語的説明を超えた普遍的なコミュニケーションを実現しています。これは決して「単純」な表現ではなく、むしろ高度に洗練された情報設計の成果と評価できます。
アニメ・マンガ・ゲームは、マルチモーダルな情報伝達システムとして機能します。視覚・聴覚・インタラクティブ性を統合した表現は、受容者の認知負荷を最適化しながら、複層的な意味伝達を可能にします。これは現代メディア論における「効果的なコミュニケーション」の典型例といえます。
情報工学の視点からみると、高度な内容を広く伝達可能にすることは、むしろ最も困難な技術的課題の一つです。『スーパーマリオ』シリーズにおけるUI/UXデザインや、『鬼滅の刃』のビジュアル・ストーリーテリングは、この課題に対する革新的なソリューションを提示しているといえます。
芸術社会学の文脈において、文化的価値を「理解の困難さ」と結びつける思考は、しばしば批判的に検討されてきました。現代のメディア環境において重要なのは、むしろ「複雑性の中の明晰さ」を実現する表現技術です。
心理学的観点からみると、メディアの価値を「理解の困難さ」に求める傾向は、しばしば確証バイアスや認知的不協和の現れとして解釈できます。これは作品の本質的価値の客観的評価を妨げる要因となりかねません。
アニメ・マンガ・ゲームにおける「わかりやすさ」は、決して表現の未熟さや単純さを意味するものではありません。それは以下の要素を高度に統合した結果として実現される特質です:
これらのメディアの真の理解者であれば、その「わかりやすさ」の背後にある技術的・芸術的達成を適切に評価できるはずです。それはまた、現代のメディア環境における重要な価値創造の一つとして位置づけられるべきものでしょう。
したがって、「わかりやすさ」を否定する言説は、メディアの本質的特性や現代的価値への理解を欠いた、表層的な判断であると言わざるを得ません。
神道に対してそこそこ信仰の厚い人間として、落合陽一神社関連について感想を書いてみる。
神道に対して信仰が厚い状態って曖昧だから定義すべきだと思うけど、いろいろ面倒なので省く。神様好きなんやなーぐらいで思っといてくれ。
一番良く見る反応がこれかな?宗教について平均的な感覚の人がこう反応しがちだと思う。
でも個人的にはあまり何とも思わなかった。そもそも日本ではあらゆる信仰はバカにされるか、無いものとされるからだ。良いことではないと思うけど慣れている。
日常生活に宗教的な要素はたくさんあるけど、明示的に信仰がある人間の存在は全くと言っていいほど想定されていない。増田の信心は無害な神道に向いてるけど、それでもびっくりされるんだよね。
なので、「普通の日本人」の感覚にそれなりの資本が合体すると、まあ落合陽一神社みたいなものになるのは不思議じゃない。
前段とも重なる話でありながら少し違うのがこれ。
メジャー宗教の儀式をマイナーチェンジするのは新興宗教あるあるなので、神道のお作法を変えつつ神道由来の「神社」の用語を使うこと自体は、あー新興宗教やってんな。という感じだ。神職の人は怒るかもだけど。
落合神社のがっかりポイントは、ぐちゃぐちゃ様式に大した意味がないところだ。
何らかの意図を持って変えたならそれは「変更」になる。新興宗教はだいたい教義をこねくり回したり、演出意図を持ったりして「変更」をおこなう。でも意図のない変更はただの「間違い」だ。落合神社はこれをやった。
もはや神道は関係ないのだが、落合陽一って雑に言えば理系で頭良くて、じゃあ理系一辺倒かというとそんなこともなく、メディア論あたりにも触れている人間だ。そんな人が意気揚々と「間違い」をお出ししてきた。それはさすがにダサい。
これが、例えばひ〇っしーがやったことなら増田もここまで言わなかったし、適当なお題目をつけて装束をヨウジヤマモトあたりに変えてきたらおもしれーと思った。ヨウジヤマモト着た神職とかちょっと見たいだろ。
でも落合神社の惨状は、「間違い」とか、調査不足とかやっつけ仕事とか、そういった言葉で表現せざるをえない。もう信心とか以前の話で、それなりの地位がある人が適当な仕事してんのがダサい。がっかりした。
落合陽一神社について、個人的には宗教面であまり不快に思わなかった。でも地位知名度のある社会人かつ研究者がやることとしては、めちゃくちゃダサいと思う。
5ちゃんやFacebookの主な利用者が中高年層であることは有名だし、
新しいメディアプラットフォームも若者の参入から始まって徐々に高齢化して最後には高齢者に乗っ取られるという経緯を辿ることが知られている
この現象を一般的なメディア論では新しいメディアに開放的で頭が柔軟な若者が時代の最先端を切り開き
鈍感で偏屈なくせに若者と絡みたがるうざい年寄りが寄ってきて若者を追い出す現象として説明しているが
これは間違っている
体力や見た目の魅力といった能力に比べて知力を最大限に使いこなせる時期は遥かに遅い
10代や20代にピークがくる他の能力と違って、知力のピークは30代以降が一般的でかつかなり晩年まで能力が劣化しない
人類の歴史を見ても、現代に近づくにつれて知力偏重社会になってきているが、これは人類の平均寿命の伸びとも関連している
平均寿命が短くてさっさと死んでいた時代は早熟型のパワータイプがブイブイ言わせる時代だった
早死にする時代では知能タイプは潜在能力を発揮する前に死んでいたので肩身が狭かったのだ
インターネットも基本的には知能系の戦場なので、知能が発達していない若者はあんまり面白くない戦場である
これどうすんの?
https://webronza.asahi.com/science/articles/2021052700002.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E8%97%A4%E9%9D%96
須藤 靖 (すとう やすし、1958年 - )は、日本の物理学者。専門は理論宇宙物理学。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻教授。理学博士。
>2021年5月29日、菅総理大臣が新型コロナウイルスのワクチン接種について「1日100万人の接種を行う」と述べたことに対して、朝日新聞のWebメディア論座にてフェルミ推定を用いて「実現しない」と断じた[3]。実際には10日で実現した。
インターネットが交流する前は、そもそも「情報」にアクセスできる人間が少なかったし、情報の扱いに慣れた人間も多くはいなかった。報道機関は、スタンスとともにそれにそれに沿った報道をなしていれば、あとは思想の近い人間がそれを読み、近しい人間の間で広めるだけであった。
インターネットが広まるにつれて、情報を扱える人が増えていった。報道機関でなくとも、情報を広めることができる人も増えたり、情報に触れる機会が増えるにつれて、その読み方にこなれた人間も増えていった。
SNS全盛に当たっては、そもそもが皆が発信側に回ったと言っていい。もちろん、皆が発信をしているわけではないし、発信している人間がみなうまく発信しているわけではないけれど。
しかしながら、90年代の前半―インターネットが登場する前―と今では、そもそも情報の総量が違うし、人一人あたりが扱える情報の量も変わってきた。
既存メディアは、特に大手のテレビ局や新聞社は、それに気づいているだろうが、やり方が変わったとは思えない。せいぜい新しいチャンネルとしてインターネット・SNSを使うことはあっても、その使い方は既存の使い方―思想が近い人が読んだり、あるいは思想を近くさせるためのもの―である。
もちろん、各社の間にも情報の扱いの上手下手はある。いくつかの軸があると思うが、私が思う二つをあげてみたい。一つは「主張の強さ」である。
たとえば顕著なのは、文春と新潮ではないかなと思っていたりする。「文春報」と呼ばれるような比較的大きなうねりを生むような報道には、インターネットでの拡散が大きな役割を負っているように見える。これは文春の編集部が、インターネットにフィットした情報発信の仕方で、インターネット受けのする情報を発信しているからだ。
一方で、新潮はそこが弱い。スタンスを強く持ちすぎているように見える。特にコロナに当たっての報道などはその傾向が強く、西浦先生に対して強く当たってみたり、いまいち受けの悪そうな人の主張を拾ってきてはインターネット(の一部)を失望させている。
正直な話、文春の報道には、主張が見られない(もちろんすべてに対してではない)。彼らは淡々としているのだ。淡々と受けるものを発信しているのだ。いや、彼らなりにあるのはわかるが、それを周到に隠して見せている。これが、彼らのインターネットでウケるためのテクニックなのだ。
もう一つ軸として思うことは、「ソースへのアクセスが可能か否か」だ。
ニュースには情報源を秘匿しなければいけないような報道も多いが、そういうものはここでは含めない。たとえば、画期的な論文が発表された、あるいはなんらかの組織からの調査結果が出た、といったものには、明示可能なソースがあるはずで、そういったものについての報道である。
最近では、論文を元にした報道については、そのソースへのリンクを貼る新聞社のサイトも増えてきたように思う。一方で、どこの調査かわからない表現で、なんらかの調査結果について報道している記事もまだまだ大量にある。
そもそも、ラジオやTVなどは、そういったものについてのソースを明示しようと思っても、なかなか難しい。この点、媒体としてインターネット時代には合いにくい部分はあるのではないかと思う。
みたいなことを適当に書いていたのですが、この文章にソースはないという。それに私自身、別にメディア論とか勉強したりしたことがあるわけではないので、参考になる書物などがあれば、教えていただきたいです。現場からは以上です。
鮫島浩
@SamejimaH
ツイッター屈指のリベラル派インフルエンサーであるDr.ナイフさんがついに朝日新聞言論サイト「論座」に登場。明晰な頭脳で政治を鋭利に切り取り華麗に解析するツイートは政治記者を凌駕する。ツイッター界の貴公子が大手メディア論壇にどう斬り込むのか。この先が楽しみだ。
https://twitter.com/SamejimaH/status/1287344834865373184
鮫島浩
@SamejimaH
ジャーナリスト。 2013年度新聞協会賞受賞。政治部デスクや特別報道部デスクを歴任。現在…。テレビ朝日、AbemaTV、ABCラジオなど出演多数。政治やマスコミに聖域なく斬り込みます❗
これ本物の記者?やべーな
「蹴鞠おじさん」騒動あたりから勘違いしてるなって感じだったし、
炎上してはてブの信者が手のひら返し始めるのも時間の問題だなと思ってた。
あの騒動の時にヨッピーはマクルーハンっていうメディア論の基礎の基礎も知らないってことがわかったじゃん。
彼は「なんか自分が面白いってことやってそれを面白がってみんながバズればOKっしょ?」というぐらいの考えでやってることが露呈した。
かつWELQのような劣悪キュレーションが簡単に蔓延っちゃう脆さのある今のWEBで、
webライティングを牽引していくかもしれない人物の言動としてあれじゃ拙すぎるんじゃないかと思った。
それ以前に自分や自分と近しい人物が、知らない・理解し難いものを「旧来俄然として変革を妨げる悪」とし、
解ろうと努めることを放棄したり拒絶することを正当化するスタンスに幻滅だった。
そんなヨッピーを「高慢でインテリぶった業界人の鼻を折るヨッピーさん痺れる憧れる〜」と褒めそやす信者たちにも違和感を抱いた。
話は変わるけど、PR記事中心に活動をシフトしてからも自前のブログやツイッターをコンスタントに更新してたでしょあの人。
有名人がああいう個人的なメディア持っちゃうときな臭いトラブルに巻き込まれやすいんだから、
削除するまで出ないにせよ、更新は告知程度に留めておくべきなんだよ。
それが更新やめないどころか、特定の個人を揶揄するようなトーンでブログ論とかそういうのを増やしちゃうんだからさあ。
はてブは信者がたむろってるから確認できなかったけど、僕はここ最近になってアンチも結構増えてきたんじゃないかと感じてたわ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/yoppymodel.hatenablog.com/entry/2016/11/10/111014
はてなブックマーク - テクノロジー - ネイティブ広告ハンドブックと広告業界の「蹴鞠おじさん」について - ヨッピーのブログ
マーシャルマクルーハンは「メディアはメッセージである」「人間の拡張」「メディアの法則」といった今日に至るメディア論の基礎となる理論を提唱した批評家、そして英文学者である。
彼の著作である「人間拡張の原理」「メディアの法則」は、ヴァルターベンヤミンの「複製技術時代の芸術」やウォルターリップマンの「世論」とならぶメディア論の重要文献であり、彼らはメディア研究に関する学部に所属する学生がまず初めに名前を拝見することとなる人物である。
知らずにメディアを語るのは恥ずかしいが知っていても決して自慢にはならない、マクルーハンはそんな存在である。
メディアというと僕らはついマスメディアを連想してしまうが、ここでいうメディアは「媒体」である。
マクルーハンのメディア論は媒体、つまり直接関係のない複数の事物を繋いで作用させるもの全般に関する論理なのだ。
それまでメディアは運送用ダンボールのようなものでそれ自体に意味はないとされていた。
メディアという容れ物に収められた内容にばかり注目していたのである。
しかしマクルーハンはメディアそのものから人は情報を読み取ることを指摘した。
中に入っているものが同じでもAmazonのダンボールかみかん箱かで印象が変わるように、
同じメッセージでも発信元が違えば意味合いが変わってきたりするということだ。
ざっくりいうと人間の五感や認知や運動の能力がメディアの力によって拡張されるということ。
例えば新幹線という交通媒体を使えば3時間半で東京から大阪まで移動できるし、
こうしてwebや増田を使えば駄文をとてつもない数の人々に晒すことができる。
それもこれも生身の人間だけでは不可能なことであり、メディアによって拡張されているからこそ為せる技なのだ。
しかし拡張をすれば元々使っていた身体機能が活動に関与する度合いが低くなり終いには身体機能を切断(抑圧)つまり麻痺させてしまうという所までがマクルーハンの持論。
拡充
そのメディアは、社会や人間の生活のどの側面を促進したり拡充するのか。
衰退
そのメディアの出現前に支持されていた(あるいは傑出していた)どの側面をかげらしたり衰退させたりするのか。
回復
そのメディアは何を衰退の影から回復させたり再び脚光を当てたりするのか。
逆転
メールボックス漁ったらコール来てて、見てみたらブクマけっこう付いてた。全然意図が伝わってなかったので意見を述べる。
難民侮辱イラストを描いた漫画家はすみとしこ「シリア難民問題に関する最悪の7人」に選出される | BUZZAP!(バザップ!)
http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/268764398/comment/Gakkuri-Kanabun_09
アイドルのアンチのコメントをわざわざ拡散したり、アイドル本人に知らせたりするファンやマネージャーはおらん。
ISISの処刑映像をわざわざ拡散したり、遺族に見せようとする奴らはISISの協力者とすら思う。
しかし今回の騒動では、差別的であるから問題だという風刺画を、FaceBookが削除しないからといって、
圧力をかけるために世界中に拡散する人が居て、深く傷つくかもしれない関係者に報告までしたという。
なんと狂っていることか!
本当に混乱させられて、かなりきつく皮肉めいたことを書かずにはいられなかった。
ドイツは海岸に流れ着いた子供の亡骸が報道されたことで、一気に世論の流れが変わり難民受け入れをすることになったんだけど、
そういう世論の熱狂に流されて重大な政策を進めるのって危険だし、まさしく戦後日本が恐れてきた空気って奴だと思う。
なので、いかにも同情を惹き、社会を扇動しそうな画像を、あえて空気を読まないでおちょくるってのは、
民主主義を大切に思うなら基本的には、強い自制心を持って意識的に賞賛しなければならない表現だ。
もっと言えば、画像をおちょくる風刺画を見て「悲しいけど、そういう意見もあるか。」と受け止めるのではなく、
「可哀想な少女を悪人として描いている!許せない!世界中から同調者を集めて圧力かけよう!」となったのであれば、
反差別を信条とする人でも空気に飲まれ軽率な行動に走ったり、同調圧力を発する側になる。
普通と言えば普通だが、それを見せつけてくれたことが風刺画の最大の成果だと個人的に思っている。
とにかく、問題の風刺画にはそういう批判的精神を見出すこともできる。
でもそれは、「マスコミの扇動には乗らないぞ!」っていう意識や文脈を共有していないと分からないことであり、
文脈の外では良くてただの嫌味な絵、最悪の場合には憎悪や暴力を誘発する絵になってしまう。
よくある難民支援への協力を求めるお涙ちょうだいの少女の画像に対する皮肉あるいは、
ドイツの難民受け入れ決定への批判やドイツにならおうとする国内の勢力への警告
という意味合いが強かっただろうと推測できる。難民の全部が全部、金をせびりに来た者だと作者も思ってなかろう。
では、風刺画を世界中に拡散して難民本人が見るようになったとき、風刺画の意味合いはどう変わるだろうか?
上で述べたようなメディア論や政策論的な意味合いは消え失せてしまい、難民個人を中傷する要素が強くなってしまう。
少なくとも難民受け入れ国で難民に対して見せつけて喧嘩にならない表現ではないだろう。
誰が風刺画を中傷画にしたのだろうか?誰が難民に対して酷い表現を投げつけたのだろうか?
拡散という行為がどういう結果をもたらすのか少し考えてほしい。
難民や少女とその関係者を大切に思うなら、今回の風刺画騒動は日本国内で決着をつけなければならなかった。
適当に書いた作品が世界レベルで拡散されるとは誰も思うまい。その点は同情する。
しかし、熟慮して書かれたものではないのに、見た人の思慮深さを試す内容になっている。
無礼だと思う。
本発表ではライトノベルの著者近影を一〇〇〇枚以上取集した調査の結果を報告すると共に、その変遷の意味を論じる。
著者近影は読者に対し著者をいかに提示するのか、という点において大きな役割を果たしている。
我々は漱石や太宰といった作家達の顔を簡単に思い浮かべることが出来る。
著者近影は近代文学においては作家主義を補強する機能を果たしてきた。
しかし、ライトノベルの著者近影は現在、近代文学のそれとはかけ離れたものとなっている。
その変遷には作品と作家、読者との関係がいかに変化していったのかが表れている。
収集したサンプルは以下の通りに分類した。
1、顔が鮮明に映っている。
4、イラストを使用している。
これらを年代順に並べることによりライトノベルの著者近影がどのような変遷を辿ってきたかが明らかになる。
一九九二年以前は、ライトノベルの著者近影も近代文学と同じように著者の顔をはっきりと映していた。
けれど、一九九三年、神坂一が著者近影にイラストを使用したのを一つの契機として、同様の例が増え始める。
その後、二〇〇〇年に時雨沢恵一がモノの写真を使用したことから、身近なモノの写真が著者近影に使用されるようになる。
現在ではライトノベルの著者近影はイラストかモノの写真にほぼ大別される。
メディア論の重要な批評家であるヴァルター・ベンヤミンは肖像写真と接する時、人々は唯一性、一回性ばかりに注目してしまうと論じている。
近代文学はそのような写真の力に依拠し、著者近影によって作家性を強調していた。
しかし、ライトノベルの著者近影はイラスト、あるいは身近なモノの写真へと移り変わった。
私は大昔に美術大学グラフィックデザイン科を卒業し、デジタル以前から現在まで、デザインで飯を食ってきたが、
いつの時代でもデザイナーというのは(就業人口の少なさという意味で)マイナーなので、
一般からは業務の実際を知られていないなあと思う。
オリンピックのエンブレム問題から派生した諸問題に、周囲のデザイナー界隈は今、みんなウンザリしている。
そんな中で、とある記事のブコメに典型的な「普通の人」の意見を見つけ、
ああ、残念だなあと思った。
曰く、「デザインという感性の世界の作品に、コンペで優劣を付けることが可能か?」
私の答えは「はい。優劣の評価は可能です。点数を付けることだってできます。
ただし、一定の得点を越えると”感性”の差ではなく、一種の”政治的判断”で得点が変わります。」となる。
デザイン=感性みたいなふわっとした物言いに、とても違和感がある。
「感性」とは置き換えればカッコイイ・美しい・訴求力があるものの選択能力だが、
商業デザインのプロは、それらを理論化・数値化・データ化して考えるものなんだ。
上記のブコメのような質問は、プロフェッショナル否定論につながる。
デザインを構築する要素の大部分は、実は厳密な理論や、歴史から学んだハック、
わりと理系寄りな教養とトレーニングの積み重ねがないとプロになれない。
また、そうでなければ、安定した職業として成り立たない。
例えば、話題の多摩美術大学の、2014年度履修科目の中から『共通基礎教育科目』を見てみるといい。
絵ばっかり描いているわけじゃないのだ。
一部抜き出すと、
心理学/芸術心理学/造形心理学/歴史学/日本文化史論/文学/美学概論/美学/考古学/文化人類学/民俗学/芸術と科学/図学/日本美術史概論/東洋美術史概論/西洋美術史概論/宗教学/人間工学/色彩論/芸術材料学/近代デザイン史/染織史/文様史/写真論/社会心理学/マスコミ心理学/映像メディア論/情報論/情報工学演習(コンピュータ基礎、情報機器の操作、3DCG)/総合講座デザイン論/現代工芸論/服飾文化論
基礎学問を学んだ上で、自分の手を動かして作品を作る実践授業を受ける。
(特に「造形心理学」「色彩論」あたりは、自分が学んだ頃よりずっと進化している学問分野だろう。)
すると、おのずと他人の作品を見て、「こういう背景をふまえて、こういう意図で作ったな」という
「プロなら分かる」って、どこの分野でも同じだろう。
プログラマならコードを見ればわかる。八百屋なら野菜を見ればわかる。
でも「何をどうわかってるか」を他人に伝えるには、膨大な説明が必要になる。
しかもいざ説明しようとすると「長い、3行で」となって聞いてくれない。
多くのデザイン関係者が今でも「オリンピックのエンブレムは盗作に当たらない」と断じているのは
まさに上記のような、職業人としての訓練の結果(及び法的手続きの結果)だが、
本人がブログで謝罪したようです。
http://gudachan.hatenablog.com/entry/2013/07/01/220257
個人的に今までの書き込みを読む限りではこの程度のぺらぺらな謝罪で何かが変わるとも思えません。
北日本の人々や韓国に対するヘイトスピーチについての言及が謝罪文にないこと。
それらについては「魔が差した」とか「含みのある表現」というレベルを超えていること。
この増田が書かれた後にも何回もヘイトをツイートし、ツイッターIDをコロコロ変更したりブログを非公開にしたことを考えれば、反省しているとは到底思えないので。
生物と無生物のあいだ (講談社現代新書) 福岡 伸一
不機嫌な職場 (講談社現代新書) 河合 太介、高橋 克徳、永田 稔、渡部 幹
臆病者のための株入門 (文春新書) 橘 玲
日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか (PHP新書) 竹田 恒泰
わかったつもり (光文社新書) 西林 克彦
いつまでもデブと思うなよ (新潮新書) 岡田 斗司夫
ツイてる! (角川oneテーマ21) 斎藤 一人
日本を貶めた10人の売国政治家 (幻冬舎新書) 小林 よしのり
脳が冴える15の習慣 (生活人新書) 築山 節
「世界征服」は可能か? (ちくまプリマー新書) 岡田 斗司夫
世にも美しい数学入門 (ちくまプリマー新書) 藤原 正彦、 小川 洋子
TPPが日本を壊す (扶桑社新書) 廣宮 孝信、 青木 文鷹
ネトウヨについて僕が考えていることを書こうと思う。
この文章は割と長い。これはネトウヨに読んでもらうためにはあきらかにマイナスだ。
(1)長い文章が読めない→(2)見出しだけで内容を判断する→(3)的外れなコメントをする
ネトウヨの大部分は長い文章を読めない。
いや、正確には、長い文章を読めない者がネトウヨになる割合が多いのだ。
その理由は、この文章を最後まで読んでもらえばわかると思いたい。
では、なぜ僕は読まれないのに長い文章を書くのか。
それも、最後まで読んでもらえればわかると思う。
とりあえず、文章が長いというクレームは受け付けない。
最初に、「ネトウヨ」という呼称を使う理由について説明したい。
ここでは主に、ネット上にて
・反韓デモを扇動したり在日差別を行うやたらと排他主義的な人物
・自分は国にろくな貢献もしていないくせにやたら無根拠に自国を誇るエセ愛国者
といった人物を指してネトウヨとしている。また、これらの人物の特徴としては
・自分の主張を正当化させたり他人の正論を貶めるためには平気でデマを流す
・無知ゆえに存在しない陰謀と戦っており、自分のみが真実を得ていると思い込んでいる
などがある。
こういった人々は基本的にネトウヨと呼ばれるのを嫌う。なぜ嫌うのかはよくわからない。
もしかしたらバカにされていることに薄々感づいているのかもしれない。
でも、この文章の中ではネトウヨと呼ばせてもらう。
決してネトウヨを怒らせたいからでなく、ただ他の呼称で適当なものがみつからないからだ。
では、まず説明したいのは、ネトウヨがいかに情報に踊らされているかということだ。
ネトウヨは言う。「メディアは韓国や電通や民主党にコントロールされている」と。
まあ、当然だが現実にそんなことはない。
そういうことを言うバカがいて、ネトウヨは簡単にそいつらに踊らされる。
メディアについて、専門家が正しく解説している文章はネット上にいくらでもあるが、ネトウヨはそういう自分たちに都合の悪いものはまず読まない。
そして、家から出たこともないような引きこもりが想像で書いた落書きや、自称事情通の友人が書いた落書きだけを「真実だ」と信じ込む。
でも、残念だけど、陰謀論というのは無知な人間の間からしか発生しない。無知な人間の浅い想像とルサンチマンが、くだらない陰謀論を生む。
例えば、だれか国際金融のマーケットに立つ一流のトレーダーで、ロスチャイルド家が世界経済をコントロールしているなんて陰謀論を信じている奴が一人でもいるだろうか。
一方で、「少年ジャンプの印刷部数は集英社がコントロールしている」という事実は、集英社の社長に聞いても、大日本印刷の社長に聞いても間違いないだろう。
ある事象が陰謀論か事実なのかは、十分な知識をもった専門家がどのように考えているかを調べれば簡単にわかる。
もちろん、大勢の言うことがいつも正しいというわけではない。しかし、大勢の専門家が言うことは大抵の場合正しい。
これまでの歴史を振り返ってみて決して例外がないわけではないが、やはり大抵の場合は専門家の意見が正しい。
それを違うと思うなら、素人の想像のストーリーを鵜呑みにするのではなく、まずは自分の頭で考えることだ。
でも、大抵の人間はそれができない。ネトウヨになんてできるわけがない。
真実だと言い張る、嘘で耳になじみの良い、自分たちだけしか知らない(と思い込んだ)、バカみたいな情報に騙される。
だから、それなら専門家の言うことを信じていた方が無難だよとアドバイスしてやりたい。
専門家並みの知見を得られないのなら、専門家の言うことをだまって信じていればよいのだ。
では、話が戻ってメディアコントロールの話だが、これはありえないとメディア業界が長い僕が断言する。
そして、業界のまともな人間なら、みんながみんな、「特定の団体がメディアをコントロールするなんてありえない」と言うだろう。
でも、そんな現場ではだれもが知っていることが、噂話による想像でしか状況を思い描けないネトウヨには理解できないらしい。
仮の話だが、ここ5年、販売される同人誌をすべて分析してみた結果、登場するキャラクターの巨乳率が有意に大型化していることを発見したとしよう。
2006年は平均Cカップ弱程度だったのに、07年にはCカップ、09年にはDカップ、11年においては平均がなんとEカップものサイズになっていた。
この事実を、コミケのことを詳しく知らない人物が分析し、理由づけしたところ、
「婚期を逃した女性たちが結託して、ロリコンを撲滅し、豊満な肉体を持つ熟女の魅力を刷りこむために行っている、つまり犯人は2chの喪女だ(喪女犯人説)」
という結論に達したとする。
くだらないので例は書かないが、いくら反論されても論理的に説明できるだろう。
いざとなれば1番胸の大きい同人誌を書いている女性を連れて来たら、そんなものを書いている女性の多くは喪女だろうから、簡単に証明成功だ。
もちろん、その1番胸の大きい同人誌を書いているの女性が既婚なら、2番でも3番でもいい。
でも、そんな喪女犯人説がナンセンスなのはコミケに参加したことがある人ならだれでもわかるはずだ。
もしも同人誌の絵の胸が年々大きくなっているとすれば、それはそういう絵が流行りで、そういう絵が求められているからだ。
熟女の魅力を刷りこむなんて無駄な努力のために、全作家に巨乳を書くように頼んでまわるバカなんているわけがない。
仮に存在したとしても、作家がそんなことに協力するわけがない。この陰謀論はまったくもってバカらしい。
どうやって全メディアに偏った報道をするように頼んでまわれるというのだ。
もちろんネトウヨは可能だと言うだろう。だが、喪女犯人説だって同様に可能なのだ。
あらゆる可能性は存在するが、だからといってあらゆる真実が存在するわけではない。
喪女犯人説と同様に、現代日本でメディアコントロール説は明らかにナンセンスだと断言できる。
メディアが偏っていると憤慨しているやつは、コミケの話で言えば貧乳派だ。
だから文句を言いたいし、自分の周りはみんな貧乳派だから、巨乳派が多数だなんて認められない。
でも、コミケで年々胸が大きくなるのが流行りだったように、その報道の偏りも、いわばただの流行りなのだ。
「麻生が字を間違えたことばかりあんなに大きく報道したのに、民主党の○○はまったく報道されていない」
なんて言うやつがいるが、たんに麻生が字を間違えたことを多くの視聴者は見たがった。ただそれだけだ。
いや、見たくなかったなんて言うやつもいるかもしれないが、そういうやつこそ苦々しい顔をして繰り返し見ているものなのだ。
「私が見ていないから、みんなが見たくないはずだ」なんて思うのはばかげてる。
「私の周りはみんな見ていないから、ほとんどの人が見ていないはずだ」なんてのはナンセンスの極みだ。
ご存じのとおり、日本のメディアはそのほとんどが営利企業だ。最大多数の人が求めるものを最優先で提供するのだ。
日本のメディアがコントロールできるなら、確実に政府与党によってコントロールされているはずである。
可能ならば、以前なら自民党、今は民主党が自分たちの都合の良いようにコントロールしているはずである。
しかし現実では、今のテレビや新聞が民主党の悪口だらけなのは言うまでもない。
結局のところ、メディアが偏っていると騒ぐやつらは、自分たちの望むように偏らせたいと願うやつらなのだ。
自分たちが大切だと思うニュースを、大多数が見たいニュースより目立たせろと言うバカなのだ。
重要かどうかを決めるのはお前たちではないのだ。それぞれのメディアに専門家がいて、その責を持った者が決めるのだ。
「あのデモを取り上げなかった」「あの失言を取り上げなかった」
それを取り上げたとすれば、それこそが一般的には偏向報道なのだ。
それが、狭い世界にいて、自分だけがすべて、ネットにいる仲間たちだけがすべてだったら、理解することができないのだ。。
貧乳派が貧乳派だけで集まり、必然的に情報は偏り、制限される。
ネットの貧乳派のコミュニティを覗いて、貧乳派の声が圧倒的に大きいと感じる。
だから自分たちは正義だと思い、巨乳が増加するコミケを批判し、原因をねつ造する。
正確にはどっかのバカが想像で書いたフィクションを真実なのだと信じ込む。今やっているのはつまり、そういうことなのだ。
つまり、世の中の大多数にとって、そのデモはどうでもいいのだ。そのデモの記事なんて読みたくないのだ。
メディアの中の人間は、それがよくわかっているから、この結果になるのだ。
それが情報の制限されたネトウヨには理解できないからこそ、ネトウヨは真実にたどりつくことが決してないのだ。
と、ここまで勢いよく書いたが、上記に一点だけ付け加えたい。
メディアをコントロールできる唯一のものとして、そのメディア自身がある。つまり、「自社に直接関係する事件」はかなりの割合がなんらかの形でコントロールされる。
もちろん、自社に関係するといっても、報道媒体が「スポンサーが」なんて言うことは仕組み的にありえない。社員逮捕とか、自社の粉飾決算とか、そういう話だ。
しかし、それは民間企業として当たり前である。当事者性の観点からも、裁判が終わり事実が確定するまで自社では報道すべきではないともいえる。
そして、日本ではまったく別資本のメディアが無数にあるので、これを陰謀論の根拠とすることは不可能だ。
ちなみに、新聞社同士、テレビ局同士は仲間ではなくライバルだ。足を引っ張れるなら引っ張りたいとお互いに思いあっている関係だ。互いに擁護することなんてまずないだろう。
以上は蛇足だったとは思うが、僕は正直者なので念のため。
次に、なぜネトウヨはやたら無根拠に自国を誇るエセ愛国者なのかについて考察したい。
何かをなしとげたわけでもなく、だれかに認められた経験もない。
つまり、ネトウヨとは、自らのアイデンティティを確立することに失敗した人間たちではないかと僕は考えている。
そういった実績や経験は年を重ねて初めて身につけられることが多い。例えば、小学生で明らかな実績や経験を誇れる人間は一握りだろう。大多数の子どもは何ももっていない。
だからなのだ。
小学生から中学生の頃、親が社長だとか、親戚が芸能人だとか、自分が得たものではなく与えられたものについて、やたらと自慢する鼻つまみ者が存在したのは。
自分自身が何者でもないなら、自分自身以外から自分のアイデンティティを証明するものを持ってくるしかない。
もちろん、他所から持ってきた「自分が特別(他の人とは違う)だという証明」は、自分自身で積み重ねたものに劣る。
だから、ほとんどの人は年を重ねるにつれ、自分自身のアイデンティティを、自ら積み重ねたもので証明するようになる。
それは学校名だったり、職場名だったり、能力だったり、経験だったりするわけだ。
しかし、ネトウヨは何も持たない。正確には、何も持たないと自分で思っている者がネトウヨになりやすい。
ネトウヨは自分自身を卑下している。彼らにとって胸を張って他人に対して誇れる自分の「証明」が存在しないのだ。
そんなどうしようもない人物が、唯一手にすることができるのが「日本人」だということなのだ。
彼らはおそらくこう思っている。日本人は西洋人には劣るが、他のアジア人よりは優秀だと。西洋人には劣ると考えているため、西洋人に認められることをすごく喜ぶ。
親日的な西洋人のネタは2chのまとめブログでも人気の記事だ。一方で、アジア人(特に中国・韓国人)のことを見下しているため、アジア人に対してはまずバカにしてかかる。
しかし、残念ながら本来人種に優劣などないので、人口と土地の広い中国には必然的に抜かれそうになる。
その他新興国だって、遅れながらも成長をはじめ、先行した日本の地位を脅かし始める。
まあ社会が成長する過程において当然のことだし、まっとうな日本人なら、今の日本の発展を維持するか、今以上に成長させる方法を考える。
しかしネトウヨはそんなことは考えられない。そもそもそんなことを考える立場にもいない。それなのに、今のアジア人を見下す立場だけは死守したい。
それだけが自分の存在価値であり、人生において人を見下せる唯一の武器だからだ。
そうなると必然的にネトウヨはアジア人を叩く。とくに国際的な立場が日本に迫りつつある中国人と韓国人を叩く。自分たち自身を伸ばせないなら叩くしかない。
もちろんネトウヨがいくらわめいたところで現実は何も変わらない。でも、ネトウヨはそれしかできないからそうするしかない。
ネトウヨはアジア各国は劣っていると思いたい。日本はすばらしい優秀な国だと思いたい。
しかし、本当の愛国者は、自分の国が優秀だから愛するのではない。自分の生まれ育った国だから愛するのだ。
自分の国が優秀だから愛するのが愛国者なら、失敗国家に愛国者などいるはずがない。
愛国とは、親を愛する、子を愛するのと同じなのだ。ダメな親でも、ダメな子でも愛するように、愛国者は自分の国を愛するものなのだ。
親の悪口を言うことも、子の愚痴を言うことがあっても親子は愛し合うように、自分の国に対し批判的な意見を言っても愛国者だということは十分にありうるのだ。
ネトウヨはなぜ違うか。なぜ自分の国が優秀だと言い張り、日本の行動や歴史を批判する日本人がいれば必要以上に叩くのか。
それはネトウヨが日本を愛しているからではなく、ネトウヨにとって日本は自分のアイデンティティを証明するための道具にすぎないからだ。
道具の価値を下げられそうになれば抵抗する。それはネトウヨの気持ちになれば確かに理解できる行動だ。ただし、それが健全な行動だとは言い難い。そんなものが新の愛国者なはずがない。
どんな漫画でも映画でも小説でもなんでもよいのだが、今最も売れている漫画として、とりあえずワンピースを例にあげる。
ワンピースでは、主人公ルフィの血のつながらない兄として「エース」がいる。エースは大犯罪者の息子だ。そのために物心ついたころから差別されて育ってきた。生まれて来なければよかったと言われ、多くの人に憎まれた。
物語が進み、エースは白ひげという海賊に出会う。エースを憎むスクアードという海賊に白ひげは言う。
「親の罪を子に晴らすなんて滑稽だ。エースがお前に何をした?仲良くやんな、みんなおれの家族だぜ」
で、ここで多くの人が感動したと思う。
ワンピースは差別問題を積極的に扱っている。その差別問題のエピソードで打ち出されるメッセージはいつも「差別はよくない」だ。
よく思い出してほしい。差別されていじめられる子が登場する物語を。いつもその物語から打ち出されるメッセージは「差別はよくない」だったはずだ。
まあ、「差別しようぜ」というメッセージはかなりとがった媒体でもないと表現できないという理由もある。
しかし、それ以上に「差別はよくない」というのが僕らのモラル、そして常識と合致するからだ。だから多くの人が感動するのだ。
差別された悲劇に涙し、差別に打ち勝った勇気に打ち震えるのだ。それなのにネトウヨはアジア人を差別する。
では、彼らはワンピースに感動しないのだろうか。
いや、そんなことはない。もちろんネトウヨも人の子だ。ワンピースはともかく、なんらかの差別問題を扱ったストーリーに感銘を覚えた経験はあるはずだ。
少なくとも、ネトウヨに差別を肯定的にとらえているほど積極的に思考している人間は少ないだろう。
差別はいけないことであり、差別を克服する物語に感動するのに、なぜ彼らはアジア人を差別するのかということだ。
まず、単純だが愚かな反論として、「差別ではなく劣っているから指摘しているだけだ」というのがある。
まあ、「それが差別だ」との一言でおわる反論だが、あえて詳しく説明しよう。
・エースは大犯罪者の血をひいているだけあり、かなりの暴れ者だった。
それでも親の罪を子に晴らすなんて滑稽だし、黒人を犯罪者予備軍扱いしてはならないし、女性が学びの道に進むことを阻害してはならないのだ。
なぜなら、人には人権があり、差別されず正当に生きる権利があるからだ。一部のアジア人が不正をおかしたからといって、「あんな国は亡びればいい」だとか「あいつらは劣等民族だ」なんて言うことは明らかに誤りである。
2chのネトウヨが跋扈しているスレッドでは、目を覆うような罵詈雑言が「すべての」中国人や韓国人に投げつけられている。
彼らはワンピースに感動し、差別はよくないとうなずきながら、その手は差別用語を打ち続けるのだ。どうしてそのようなことがおこるのか。
続く→
ネトウヨについて僕が考えていることを書こうと思う。
この文章は割と長い。これはネトウヨに読んでもらうためにはあきらかにマイナスだ。
(1)長い文章が読めない→(2)見出しだけで内容を判断する→(3)的外れなコメントをする
ネトウヨの大部分は長い文章を読めない。
いや、正確には、長い文章を読めない者がネトウヨになる割合が多いのだ。
その理由は、この文章を最後まで読んでもらえばわかると思いたい。
では、なぜ僕は読まれないのに長い文章を書くのか。
それも、最後まで読んでもらえればわかると思う。
とりあえず、文章が長いというクレームは受け付けない。
最初に、「ネトウヨ」という呼称を使う理由について説明したい。
ここでは主に、ネット上にて
・反韓デモを扇動したり在日差別を行うやたらと排他主義的な人物
・自分は国にろくな貢献もしていないくせにやたら無根拠に自国を誇るエセ愛国者
といった人物を指してネトウヨとしている。また、これらの人物の特徴としては
・自分の主張を正当化させたり他人の正論を貶めるためには平気でデマを流す
・無知ゆえに存在しない陰謀と戦っており、自分のみが真実を得ていると思い込んでいる
などがある。
こういった人々は基本的にネトウヨと呼ばれるのを嫌う。なぜ嫌うのかはよくわからない。
もしかしたらバカにされていることに薄々感づいているのかもしれない。
でも、この文章の中ではネトウヨと呼ばせてもらう。
決してネトウヨを怒らせたいからでなく、ただ他の呼称で適当なものがみつからないからだ。
では、まず説明したいのは、ネトウヨがいかに情報に踊らされているかということだ。
ネトウヨは言う。「メディアは韓国や電通や民主党にコントロールされている」と。
まあ、当然だが現実にそんなことはない。
そういうことを言うバカがいて、ネトウヨは簡単にそいつらに踊らされる。
メディアについて、専門家が正しく解説している文章はネット上にいくらでもあるが、ネトウヨはそういう自分たちに都合の悪いものはまず読まない。
そして、家から出たこともないような引きこもりが想像で書いた落書きや、自称事情通の友人が書いた落書きだけを「真実だ」と信じ込む。
でも、残念だけど、陰謀論というのは無知な人間の間からしか発生しない。無知な人間の浅い想像とルサンチマンが、くだらない陰謀論を生む。
例えば、だれか国際金融のマーケットに立つ一流のトレーダーで、ロスチャイルド家が世界経済をコントロールしているなんて陰謀論を信じている奴が一人でもいるだろうか。
一方で、「少年ジャンプの印刷部数は集英社がコントロールしている」という事実は、集英社の社長に聞いても、大日本印刷の社長に聞いても間違いないだろう。
ある事象が陰謀論か事実なのかは、十分な知識をもった専門家がどのように考えているかを調べれば簡単にわかる。
もちろん、大勢の言うことがいつも正しいというわけではない。しかし、大勢の専門家が言うことは大抵の場合正しい。
これまでの歴史を振り返ってみて決して例外がないわけではないが、やはり大抵の場合は専門家の意見が正しい。
それを違うと思うなら、素人の想像のストーリーを鵜呑みにするのではなく、まずは自分の頭で考えることだ。
でも、大抵の人間はそれができない。ネトウヨになんてできるわけがない。
真実だと言い張る、嘘で耳になじみの良い、自分たちだけしか知らない(と思い込んだ)、バカみたいな情報に騙される。
だから、それなら専門家の言うことを信じていた方が無難だよとアドバイスしてやりたい。
専門家並みの知見を得られないのなら、専門家の言うことをだまって信じていればよいのだ。
では、話が戻ってメディアコントロールの話だが、これはありえないとメディア業界が長い僕が断言する。
そして、業界のまともな人間なら、みんながみんな、「特定の団体がメディアをコントロールするなんてありえない」と言うだろう。
でも、そんな現場ではだれもが知っていることが、噂話による想像でしか状況を思い描けないネトウヨには理解できないらしい。
仮の話だが、ここ5年、販売される同人誌をすべて分析してみた結果、登場するキャラクターの巨乳率が有意に大型化していることを発見したとしよう。
2006年は平均Cカップ弱程度だったのに、07年にはCカップ、09年にはDカップ、11年においては平均がなんとEカップものサイズになっていた。
この事実を、コミケのことを詳しく知らない人物が分析し、理由づけしたところ、
「婚期を逃した女性たちが結託して、ロリコンを撲滅し、豊満な肉体を持つ熟女の魅力を刷りこむために行っている、つまり犯人は2chの喪女だ(喪女犯人説)」
という結論に達したとする。
くだらないので例は書かないが、いくら反論されても論理的に説明できるだろう。
いざとなれば1番胸の大きい同人誌を書いている女性を連れて来たら、そんなものを書いている女性の多くは喪女だろうから、簡単に証明成功だ。
もちろん、その1番胸の大きい同人誌を書いているの女性が既婚なら、2番でも3番でもいい。
でも、そんな喪女犯人説がナンセンスなのはコミケに参加したことがある人ならだれでもわかるはずだ。
もしも同人誌の絵の胸が年々大きくなっているとすれば、それはそういう絵が流行りで、そういう絵が求められているからだ。
熟女の魅力を刷りこむなんて無駄な努力のために、全作家に巨乳を書くように頼んでまわるバカなんているわけがない。
仮に存在したとしても、作家がそんなことに協力するわけがない。この陰謀論はまったくもってバカらしい。
どうやって全メディアに偏った報道をするように頼んでまわれるというのだ。
もちろんネトウヨは可能だと言うだろう。だが、喪女犯人説だって同様に可能なのだ。
あらゆる可能性は存在するが、だからといってあらゆる真実が存在するわけではない。
喪女犯人説と同様に、現代日本でメディアコントロール説は明らかにナンセンスだと断言できる。
メディアが偏っていると憤慨しているやつは、コミケの話で言えば貧乳派だ。
だから文句を言いたいし、自分の周りはみんな貧乳派だから、巨乳派が多数だなんて認められない。
でも、コミケで年々胸が大きくなるのが流行りだったように、その報道の偏りも、いわばただの流行りなのだ。
「麻生が字を間違えたことばかりあんなに大きく報道したのに、民主党の○○はまったく報道されていない」
なんて言うやつがいるが、たんに麻生が字を間違えたことを多くの視聴者は見たがった。ただそれだけだ。
いや、見たくなかったなんて言うやつもいるかもしれないが、そういうやつこそ苦々しい顔をして繰り返し見ているものなのだ。
「私が見ていないから、みんなが見たくないはずだ」なんて思うのはばかげてる。
「私の周りはみんな見ていないから、ほとんどの人が見ていないはずだ」なんてのはナンセンスの極みだ。
ご存じのとおり、日本のメディアはそのほとんどが営利企業だ。最大多数の人が求めるものを最優先で提供するのだ。
日本のメディアがコントロールできるなら、確実に政府与党によってコントロールされているはずである。
可能ならば、以前なら自民党、今は民主党が自分たちの都合の良いようにコントロールしているはずである。
しかし現実では、今のテレビや新聞が民主党の悪口だらけなのは言うまでもない。
結局のところ、メディアが偏っていると騒ぐやつらは、自分たちの望むように偏らせたいと願うやつらなのだ。
自分たちが大切だと思うニュースを、大多数が見たいニュースより目立たせろと言うバカなのだ。
重要かどうかを決めるのはお前たちではないのだ。それぞれのメディアに専門家がいて、その責を持った者が決めるのだ。
「あのデモを取り上げなかった」「あの失言を取り上げなかった」
それを取り上げたとすれば、それこそが一般的には偏向報道なのだ。
それが、狭い世界にいて、自分だけがすべて、ネットにいる仲間たちだけがすべてだったら、理解することができないのだ。。
貧乳派が貧乳派だけで集まり、必然的に情報は偏り、制限される。
ネットの貧乳派のコミュニティを覗いて、貧乳派の声が圧倒的に大きいと感じる。
だから自分たちは正義だと思い、巨乳が増加するコミケを批判し、原因をねつ造する。
正確にはどっかのバカが想像で書いたフィクションを真実なのだと信じ込む。今やっているのはつまり、そういうことなのだ。
つまり、世の中の大多数にとって、そのデモはどうでもいいのだ。そのデモの記事なんて読みたくないのだ。
メディアの中の人間は、それがよくわかっているから、この結果になるのだ。
それが情報の制限されたネトウヨには理解できないからこそ、ネトウヨは真実にたどりつくことが決してないのだ。
と、ここまで勢いよく書いたが、上記に一点だけ付け加えたい。
メディアをコントロールできる唯一のものとして、そのメディア自身がある。つまり、「自社に直接関係する事件」はかなりの割合がなんらかの形でコントロールされる。
もちろん、自社に関係するといっても、報道媒体が「スポンサーが」なんて言うことは仕組み的にありえない。社員逮捕とか、自社の粉飾決算とか、そういう話だ。
しかし、それは民間企業として当たり前である。当事者性の観点からも、裁判が終わり事実が確定するまで自社では報道すべきではないともいえる。
そして、日本ではまったく別資本のメディアが無数にあるので、これを陰謀論の根拠とすることは不可能だ。
ちなみに、新聞社同士、テレビ局同士は仲間ではなくライバルだ。足を引っ張れるなら引っ張りたいとお互いに思いあっている関係だ。互いに擁護することなんてまずないだろう。
以上は蛇足だったとは思うが、僕は正直者なので念のため。
次に、なぜネトウヨはやたら無根拠に自国を誇るエセ愛国者なのかについて考察したい。
何かをなしとげたわけでもなく、だれかに認められた経験もない。
つまり、ネトウヨとは、自らのアイデンティティを確立することに失敗した人間たちではないかと僕は考えている。
そういった実績や経験は年を重ねて初めて身につけられることが多い。例えば、小学生で明らかな実績や経験を誇れる人間は一握りだろう。大多数の子どもは何ももっていない。
だからなのだ。
小学生から中学生の頃、親が社長だとか、親戚が芸能人だとか、自分が得たものではなく与えられたものについて、やたらと自慢する鼻つまみ者が存在したのは。
自分自身が何者でもないなら、自分自身以外から自分のアイデンティティを証明するものを持ってくるしかない。
もちろん、他所から持ってきた「自分が特別(他の人とは違う)だという証明」は、自分自身で積み重ねたものに劣る。
だから、ほとんどの人は年を重ねるにつれ、自分自身のアイデンティティを、自ら積み重ねたもので証明するようになる。
それは学校名だったり、職場名だったり、能力だったり、経験だったりするわけだ。
しかし、ネトウヨは何も持たない。正確には、何も持たないと自分で思っている者がネトウヨになりやすい。
ネトウヨは自分自身を卑下している。彼らにとって胸を張って他人に対して誇れる自分の「証明」が存在しないのだ。
そんなどうしようもない人物が、唯一手にすることができるのが「日本人」だということなのだ。
彼らはおそらくこう思っている。日本人は西洋人には劣るが、他のアジア人よりは優秀だと。西洋人には劣ると考えているため、西洋人に認められることをすごく喜ぶ。
親日的な西洋人のネタは2chのまとめブログでも人気の記事だ。一方で、アジア人(特に中国・韓国人)のことを見下しているため、アジア人に対してはまずバカにしてかかる。
しかし、残念ながら本来人種に優劣などないので、人口と土地の広い中国には必然的に抜かれそうになる。
その他新興国だって、遅れながらも成長をはじめ、先行した日本の地位を脅かし始める。
まあ社会が成長する過程において当然のことだし、まっとうな日本人なら、今の日本の発展を維持するか、今以上に成長させる方法を考える。
しかしネトウヨはそんなことは考えられない。そもそもそんなことを考える立場にもいない。それなのに、今のアジア人を見下す立場だけは死守したい。
それだけが自分の存在価値であり、人生において人を見下せる唯一の武器だからだ。
そうなると必然的にネトウヨはアジア人を叩く。とくに国際的な立場が日本に迫りつつある中国人と韓国人を叩く。自分たち自身を伸ばせないなら叩くしかない。
もちろんネトウヨがいくらわめいたところで現実は何も変わらない。でも、ネトウヨはそれしかできないからそうするしかない。
ネトウヨはアジア各国は劣っていると思いたい。日本はすばらしい優秀な国だと思いたい。
しかし、本当の愛国者は、自分の国が優秀だから愛するのではない。自分の生まれ育った国だから愛するのだ。
自分の国が優秀だから愛するのが愛国者なら、失敗国家に愛国者などいるはずがない。
愛国とは、親を愛する、子を愛するのと同じなのだ。ダメな親でも、ダメな子でも愛するように、愛国者は自分の国を愛するものなのだ。
親の悪口を言うことも、子の愚痴を言うことがあっても親子は愛し合うように、自分の国に対し批判的な意見を言っても愛国者だということは十分にありうるのだ。
ネトウヨはなぜ違うか。なぜ自分の国が優秀だと言い張り、日本の行動や歴史を批判する日本人がいれば必要以上に叩くのか。
それはネトウヨが日本を愛しているからではなく、ネトウヨにとって日本は自分のアイデンティティを証明するための道具にすぎないからだ。
道具の価値を下げられそうになれば抵抗する。それはネトウヨの気持ちになれば確かに理解できる行動だ。ただし、それが健全な行動だとは言い難い。そんなものが新の愛国者なはずがない。
どんな漫画でも映画でも小説でもなんでもよいのだが、今最も売れている漫画として、とりあえずワンピースを例にあげる。
ワンピースでは、主人公ルフィの血のつながらない兄として「エース」がいる。エースは大犯罪者の息子だ。そのために物心ついたころから差別されて育ってきた。生まれて来なければよかったと言われ、多くの人に憎まれた。
物語が進み、エースは白ひげという海賊に出会う。エースを憎むスクアードという海賊に白ひげは言う。
「親の罪を子に晴らすなんて滑稽だ。エースがお前に何をした?仲良くやんな、みんなおれの家族だぜ」
で、ここで多くの人が感動したと思う。
ワンピースは差別問題を積極的に扱っている。その差別問題のエピソードで打ち出されるメッセージはいつも「差別はよくない」だ。
よく思い出してほしい。差別されていじめられる子が登場する物語を。いつもその物語から打ち出されるメッセージは「差別はよくない」だったはずだ。
まあ、「差別しようぜ」というメッセージはかなりとがった媒体でもないと表現できないという理由もある。
しかし、それ以上に「差別はよくない」というのが僕らのモラル、そして常識と合致するからだ。だから多くの人が感動するのだ。
差別された悲劇に涙し、差別に打ち勝った勇気に打ち震えるのだ。それなのにネトウヨはアジア人を差別する。
では、彼らはワンピースに感動しないのだろうか。
いや、そんなことはない。もちろんネトウヨも人の子だ。ワンピースはともかく、なんらかの差別問題を扱ったストーリーに感銘を覚えた経験はあるはずだ。
少なくとも、ネトウヨに差別を肯定的にとらえているほど積極的に思考している人間は少ないだろう。
差別はいけないことであり、差別を克服する物語に感動するのに、なぜ彼らはアジア人を差別するのかということだ。
まず、単純だが愚かな反論として、「差別ではなく劣っているから指摘しているだけだ」というのがある。
まあ、「それが差別だ」との一言でおわる反論だが、あえて詳しく説明しよう。
・エースは大犯罪者の血をひいているだけあり、かなりの暴れ者だった。
それでも親の罪を子に晴らすなんて滑稽だし、黒人を犯罪者予備軍扱いしてはならないし、女性が学びの道に進むことを阻害してはならないのだ。
なぜなら、人には人権があり、差別されず正当に生きる権利があるからだ。一部のアジア人が不正をおかしたからといって、「あんな国は亡びればいい」だとか「あいつらは劣等民族だ」なんて言うことは明らかに誤りである。
2chのネトウヨが跋扈しているスレッドでは、目を覆うような罵詈雑言が「すべての」中国人や韓国人に投げつけられている。
彼らはワンピースに感動し、差別はよくないとうなずきながら、その手は差別用語を打ち続けるのだ。どうしてそのようなことがおこるのか。
続く→