2015-08-15

グラフィックデザイン業界の所感

グラフィックデザイン文脈でよく語られるデザイン史は、バウハウスから始まって、グーテンベルク活版印刷雑誌時代エディトリアルデザイン広告コミュニケーションテクノロジーとの融合というものだ。また別軸で、グラフィックデザイナー職能として、工業化社会における機械製品美学的側面を整えるという歴史があった。まさにテクノロジーの隆盛と歩んできたデザインである生活を便利にする機械製品電話洗濯機など)は生まれパーソナルコンピューターは普及した。そして、グラフィックデザインをするためのツール思想は世の中に溢れ、誰でもグラフィックデザイン勉強ができ、誰でもデザインを作れ、誰でもそういう成果物に対して口出しできるようになった。

いつからか、総合的な計画であるはずのデザイン行為の中から美学的側面」のみが取り出されて、それに対しての褒賞制度が整えられたのだ。日本で言えば、たとえばJAGDAの褒賞制度特にグラフィックデザイン業界におけるそれら褒賞制度は、そのほとんどが美学的側面の評価しかしていないので、それがビジネスを支えるツールとして、実際的に機能であるかどうか定量的に計測されていないだろうし、主催者も応募者もそういう側面でしか見てなくて、内輪で楽しく賞を送り合っている構図がよく想像される。その外に居る人がどれだけ社会に対してインパクトのある仕事(例えば新しいムーブメントを起こしたり、技術生活基盤を進歩させたりなど)をしても評価はされないのだ。格好良くないという一言で、彼らのコミュニティから排除される。いつまでもはびこる師弟制度ごますりが必要コミュニティ入会の現状。

デザイナーではない人はそもそも「上位の概念としてのデザイン」に対するリテラシーがないので、デザイン=格好良くてお洒落な見た目をつくること、という短絡的な思考しかデザイン評価できない。つまり、受賞した人間はいものを作っていると。しかし褒賞制度がそもそも歪んでいるので、受賞者がビジネス社会ライフサイクル的な側面に目を向けられる人間かどうかという評価視点が抜け落ちてしまっている。僕はこういったデザイナー達を「グラフィックアーティスト」と呼んでいる。決して「デザイナー」ではない。

本来的にビジネス協調すべきデザイン活動が、それを無視した褒賞制度によって、奇抜なことをするデザイナーこそ優秀であるという歪んだ理解社会に溢れてしまった。そういうデザイナーたちがつくり上げるものには、機能的側面が欠落してしまうことが多いと思う。デザイン機能的側面が考慮されないデザインは、はたしてデザインと呼べるのか。社会をより進歩させ得る力があるのだろうか。

また別の観点では、現在多くの美術教育現場にも問題があると思う。教育者自体が、旧来的なグラフィックデザイン文脈で育っているので、そのような視点しかデザインを捉えておらず、結果的美学的側面を整えることに教育の主眼が置かれてしまっている。デザインという手法社会コミュニケーション活性化させ、より良い文化システムを構築し、ビジネスにおける利潤獲得のための手法であることが教育されていない。そうして、再び無能グラフィックアーティストが量産されてゆくのだ。若いデザイナーの元で育ったほうが、明らかに的を射た考え方を獲得できるとおもう。

ここ数年、自分生業であるグラフィックデザインはそろそろ終わるんじゃないかなと思ってる。コミュニティ思考高齢化しているし、かと言って新しい考え方を積極的に取り込んで体質の健全化に取り組もうとしない。デザインもっと価値のあるものにするためのデザイン領域を俺は見つけたからいいんだけど、変化せず進歩のないコミュニティ未来はないとだけは言っておきたい。

美しくあることは大事だと思う。美しいことは心を豊かにしてくれる。しかし、それ以外のもっと大事なことにも一緒に目を向けてほしいと思うのだ。

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