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2019-04-16

anond:20190416114252

柳田理科雄に初めてでも気持ちよくなるにはどうすればいいか考察してもらおう

2019-04-15

自分が今まで評価されたことのある能力

興味を持った物事を「自分が納得するまで理解する」癖がある。単純な自分スペック普通だと思うが、若干偏執的なところがあるようで。興味を持っている限りとにかくしつこく考える。1から100まで自分言葉だけで物事説明できるまで理解しないと気が済まない。結果として正しいか間違っているか関係ない、自分が納得できるかどうかが問題だ。

そうやって1から考えた理屈他人説明すると、ちょくちょく「わかりやすい」「面白い」「新しい視点だ」などの評価を受ける。例えば勉強だとか。作品キャラ考察だとか。ゲーム戦略面の考え方だとか。ADHD傾向の人にはそういう能力があったりなかったりするとか聞いたような気がする。

その利点の分、見えている視界は狭いんだろうけど。

コードギアス 復活のルルーシュについて(ネタバレあり)

結論から言うと、ルルーシュに生きていて欲しいという、視聴者(集合無意識)の願い(ギアス)に、世界(スタッフ)がかかった結果が、復活のルルーシュだと思う。

まず、復活のルルーシュTVアニメ版の続編ではない。新しく編成された劇場版の続編である

なので、TVアニメ版の反逆のルルーシュは、もうあれから続編はなく視聴者想像をまかせて終わりというは、復活のルルーシュが放映された後でも変わらないと思う。

TVアニメ版と劇場版の大きな違いはシャーリーが生きているか生きていないか、他にも多分細かいところはあるけど、それだけでまったく違う物語であることが分かる。

自分はそれを、あえて変化させたと思っていて、当初はルルーシュ生存するためのファクターであって、そこが分岐点になるのかなーと思っていたけども、あまり明示的にそういうことは復活のルルーシュでは語らなかった。

しろシャーリーほとんど出てきておらず、シャーリーキーファクターではないことをあえて語ってるように受け取った。

復活のルルーシュを見ていたとき、この違和感はかなり大きく感じた。正直、復活のルルーシュは単体の作品としてはあまり綺麗ではないと感じたし、そもそも立ち向かう敵が弱すぎる。というかルルーシュ陣営が強すぎ、どういう相手が立ち向かっても恐らく物語にならなかったのだと思う。

から映画を見ているとき、なんでこんな物語が出来たのかを考えていた。

考えた結果が、一番始めに書いた結論であるコードギアス物語で、ルルーシュがあわよくば生きていないかという考察や、それに期待したりわくわくしたりする声は多かったのではないかと思う。個人的にも物語としてはルルーシュが死んで終わりというのが、綺麗ではあるがそれとは別にルルーシュには幸せに生きて欲しい。頑張った結果が報われて欲しいという思いがあった。そういう願いが実際に制作陣を動かし、ルルーシュが生きて幸せになる物語が生まれたのではないか。だから、全編撮り直しをしたし、だから若干の変化を仕込み、ルルーシュが生きていて幸せになっていい世界を作ったのだと思う。多分、シャーリーが死んでいたらルルーシュは再度やり直すことができなかったんだと思う。しょうがない…。

なんか、ルルーシュがC.C.に策を預けた理由とか、どうやってあのギアス攻略たかとか、ラクシャータの妹たち可愛すぎてたまらないとか書こうとしたけど、満足したので終わり。まぁみんなわかってるしいいよね。

底辺の字書きがpixivブクマを獲得する方法

ブクマが50も取れないっていう人向けです。

そもそも母数が少ない極小ニッチジャンルは除きます

比較的若年層を読者として想定してます

原作を読んで・観て、心が滾って、二次創作を漁る。

考察妄想が膨らんで、このアイデアを誰かと共有したいと思う。

書いて、ドキドキ、ちょっと時間を置いてブクマいいねの数を確認

それで自分の期待以下の数値だから、この記事を読んでいるのでしょう。

なんで、私の作品共感されない!

アイツより、あの作品より良いモノだと思うのに!

少なくともこれ位は数は稼げると思った!

…わかるよ、その気持ちは痛い程わかる。

でもね、君は何でもかんでもブクマするかいいいねをするかい

私はよっぽど後でじっくり読みなおしたいと思わないとしない。

中にはエンジェル投資家みたいな人がいて、ブクマいいねしてくれるけど。

まあ、これを読んでいる人はそういった人たち以外からも欲しいんだろう。

でもね、まず二次創作文字を読んでくれる人が少ないんだ。

だってライト層だった君もそうだろう?

ツイッターpixiv画像漫画検索して読んでなかったかい?

ハマってから文章を読んだだろう?

あと、自分に正直になって思い直してみてよ。

pixiv検索する時に「1000」とか「users」とか入れてたでしょ?

ブクマ数少ないから読まないで飛ばそ、って思ったことあるでしょう?

そういうことさ。

同じストーリーでも絵や漫画の方が読みやすい。

仮にダメストーリーでも「絵」として楽しめる。

あのコマの表情がいい……セリフが……ってなるでしょう。

それが小説では難しいんだな。

好きなCPブクマ数を稼げて、それでいて神たちと交流する。

できたらいいね、でも待ってほしい。

ミニマリズム万歳で多機能商品が増えたからそう思うのはしょうがないけど。

そういうことは大変レアことなんだよ。

好きな事で実は才能があって、生業とし成功している――レアケースだね。

運と才能と努力が全て満たされないと怒らない奇跡だ。

作品登場人物への萌えや想いと自分自己承認欲求を混ぜちゃだめだよ。

だってさ、それってキャラ作品自己肯定力の強化に利用していることじゃない?

結局、ちやほやされたいのは自分だろってなるんだけど。

わかるよ。でもさ、認められたいよね。

で、タイトルにある通りにある程度のことは教えてあげるよ。

私も二つの欲望を持ったことのある人間からね。

デカルトという人が「困難は分割せよ」って言ったんだ。

まずは分けてごらんよ、萌え自己承認欲求とを。

自己承認欲求を満たすためのノウハウを教えようじゃないか

言っておくけど、邪道だよ。

私も自己承認欲求を持て余していたんだ。

結論からいうと、満たされた。

別のジャンルに今はいるけど、すっごいマイナーなんだ。

usersタグなんて存在するの?っていう感じでね。

でも、書きたいし、書いたらコメントをくれたりブクマをくれる人が存在する。

本当に少ないんだ。身内のなれ合いかもしれない。

それこそエンジェル投資家なのかもしれないけど、別にいいや。

だって書きたいだけで認められたいっていう欲求はないからね。

さて、自分語りはこれくらいにしよう。

まず、ツイッターをやっているかい?

そこで交流してると「ご祝儀」と「ご挨拶」でブクマいいねを貰えるよ。

正直ね、お愛想笑いみたいなのなんだけど、やらざるを得ないよ。

え、私が求めているのはこんなものじゃないって?

あのね、全く無名で売れると思ったら大間違いよ。

サクラでもいいか口コミ必要なのよ。

良い商品から売れるんじゃない。売れるから良い商品なんだよ。

ブクマ数が欲しいんでしょ?

……ちゃん評価されたい?OK、待ってくれ。

「困難は分割せよ」だ。

ちゃん評価されるには、自分の実力や作品の内容が伴ってないと駄目。

なので、そういう人はちゃんとお勉強をしてください。

小説の書き方の講座はネットに沢山あるよ。

語彙力や自分感性を磨きなさいね

エモいとかバブみとか汎用性のある言語ご法度よ。

大体、販売されている商業小説日常的に読んでいますか?

読書感想文小論文を真面目に取り組んだことはありますか?

映画演劇を見たりする?展開などを考察する?

さて、ちゃんとお勉強するのも交流するのも面倒くさい人がいるよね。

私は交流が苦手でね、ツイッター全くやらなかったし。

商業小説映画演劇もそんなに読んだり見ない。

だけどね、1000users入りタグは手に入れることはできるんだよ。

君もそういったことを知りたいんだろ。

ダイエット本でさ、栄養バランスとか健康とはとか要らない人だろ。

手っ取り早く、簡単に早急に結果が欲しい人間だ。

長期的に見たら良くないと思うよ。

でも、まずは渇望する承認欲求を満たしてからでもいいよね。

条件として、他にブクマ高獲得作品ゴロゴロしている分野だとするよ。

極小ジャンル彗星のごとく現れて、ブクマをかき集めるようなメアリー・スーは諦めてね。

さて、これはpixivブクマツイッターいいねを獲得するための攻略法だ。

ツイッターをやってない、交流をいっさいしない。

ブクマいいねも一切誰にもしなかったアカウントでやったことだよ。

から普通の人ならもっともっとブクマを稼げると思うよ。

自己承認欲求マーケティングさ。

第一に、むやみやたらに長作を書くのはやめよう。

長い=素晴らしい、じゃないんだ。特に新参者にとってはね。

頑張っても5000~10000文字かな?20前後で読めるといいね

だって、そこまで書ける実力ないでしょう?

仮にそうでも分割しなよ。パート1と2みたいに。

連作の一話目はブクマ数が稼ぎやすいんだ。

その分、二話、三話とどんどん減っていくけどね。

いきなり得体のしれない人の超大作は読みたくないよ。

だって頭を使うし、体力も使うんだよ。

素晴らしい名作も疲れるけど、駄作駄作で疲れるんだ。

あと、自分に一番適している字数を把握するのも必要だよ。

もっと短く、お手頃だったらツイッター文庫風の物語を上げるのはどう?

リーで繋げればいいんじゃないかな。

Pixivで500文字作品とか読まれにくいけど、ツイッターなら別だよ。

あと、そういう文字数でブクマがある人は、その人がブランドなんだ。

ちゃんとしたものを書くって信頼されているんだよ。

あ、でも140字SS名刺鬼門だ。

俳句と一緒で文字数が制限されているが故に、センスと語彙力が求められる。

チャレンジしてもいいけど、気を付けてね。

結構アカウント名とプロ画を人は意外と覚えているよ。

あと字書きのツイートpixivキャプションは気を付けてね。

ある程度の知性は求められるんだ。はっちゃけすぎないで。

作品と作者の人格別にしてもらいたいけど、しょうがいね

今はブクマ数を考えるんだ。

個人のあるがままを受け入れて欲しいなら、「困難は分割せよ」だよ。

それは私には何もアドバイスできないんだ。すまないね

さて、君は空気を読めているかな?

活躍したいジャンルで「users」とか数字検索してみよう。

素晴らしい作品が厳選されているはずだよ。片っ端から読んでみよう。

どんな話が皆の心を掴むのかな。どんな雰囲気なのかな。

原作が重苦しくて希望の光さえ見えないのに、ナンセンスギャグの話があった?

評価であったとしたら、それは作者や作品に光るものがあったってことだ。

君には、少なくともこれを読んでいる限りは無縁の話さ。

真の実力とセンス磨きが必要からね。

さて、今度はブクマが極端に少ないものを読んでみよう。

駄目なポイントが見えてくるんじゃない?

人は自分のことは省みない癖に、他人の粗探しの達人なのさ。

良し悪しじゃないんだ。人気・不人気の違いが分かっただろう。

君のジャンルでは読者はこういうものが好きということが分かった。

パクらずに、似たような雰囲気のものを考えてごらん。

え、難しい?無理だって

原作世界観理解するのに自分の頭が追い付いていないだと?

んー、まあ、それは「キャラ萌え」なんじゃないですかね。

でも、それでもOKです。キャラ独立した存在として愛でてもOK

クロスオーバーカメオ出演というのはそういうものさ。

でもそうなったら、君は原作活躍する姿を描くには実力不足だ。

じゃあ、どうする?パロディですね。現パロでもいかがでしょう。

まれ意味は全く違いますが、ある人がこう言いました。

「語り得ぬことは沈黙せねばならない」と。

書けないものは書かない方が得策です。

書いてもいいですが、それで評価してもらおうとは思わないでくれ。

高校生パロはどうだろう?アルバイトしている光景はどうだろう?

詳しく書けるんじゃないかな?

その場に置かれた時の困難や葛藤が分かるでしょ?

さて、それ以外にブクマ数をブーストするパロディがあります

オ.メガバースとかセ.クピスパロとかね。他にもあるけど。

こういうのは予め世界観を作ってくれているから楽だよね。

自分表現力が足りなくても、読者がくみ取ってくれる。

そして、主題も関心も共有しやすいんだ。

え、私には書きたい主題がある?そういう俗っぽいのは嫌?

いか、ここはブクマを稼ぐための記事だ。

自分なりに温めていた大事主題喝采を浴びたいなら、

それこそ相応の実力を身に着けてから「機は熟した」と発表したまえ。

R18シーンがあるとブクマが増えやすいんだけどね。

これは相当の表現力が必要なんだ。全感覚を総動員させた文章必要

視覚、触覚、聴覚、そして愛情ね。それをノせないと駄目。

それ専用のお勉強必要なんだ。

あと100ブクマくらいなら、なくても達成できるよ。

そして、投稿するタイミングだ。

ジャンルの旬や盛り上げる時期というのも大事だよね。

これについてはコントロールできないから諦めてね。

平日の昼間に投稿するのと金曜日の夜に投稿するの、どっちが有利だと思う?

あと、目立たなきゃダメなんだ。印象付けないとだめなんだ。

イベントに向けて神や大手執筆に頑張っている時やイベント直後がいい。

投稿があってもサンプルだったりするから文字数少ないし、ブクマも少ないでしょ。

え、汚いだって?まあ、本心を言えばそれでも君のよりもサンプルの方が読まれているよ。

でも言っただろう!ここはブクマ数が全てだと!

全員が全員イベントに行く訳じゃなく、本を買う訳でもないんだ。

そういう時にこそ上げてみるんだ。

枯渇しているから、普段なら足蹴りするような作品を読むだろう?

マナー問題を指摘する人がいるかもしれないけど弱小の字書き程度なら大丈夫だよ。

ある程度認知されたなら止めようね。

あと、一気にブクマが増えると思ったらだめだよ。

最初作品は30、50、数作品後に100、300、そして500越え作品ができるんだ。

ジャンル活躍していてもいきなり500越えは難しいんじゃないかな。

例外ジャンル創設期であるけれども、その時期は飢えてるからブクマ率高いよね。

あと、ブクマって徐々に増えるんだ。

2年前の作品が知らぬ間にブクマ数が膨れていることもある。

映画化とか、アニメ化とかあるしね。

ここは当初の意気込みと矛盾するけど気長に行こうよ。

エゴ欲望を満たした後は、じっくり作品に取り掛かろうか。

資料を読み漁ったり、考察にふけたり、交流に励んだり。

いつかは本も出したくなるかもしれないね

最後まで読んでくれてありがとう

もうすぐ5000文字行くんだよね。よく読んでくれたね。

大事なことは、「困難は分割せよ」だよ。

ブクマ欲しいよね、それはしょうがないさ。

じゃあ、それに向けてやれる努力をしようよ。

もちろん、付け焼刃から本当の「実力」も伸ばしてね。

字書きは色々と面倒なんだ。変な劣等感があるし、そんで優越感もあるよね。

漫画や絵よりは読まれないよ。しょうがないよ。

ワンピースハードカバー小説本だったら今みたいに読まれてた?

まあ、小説もすごいよ。人格内面を深く描き出すよね。

響きと怒り』とか『アルジャーノンに花束を』の語り手の表現が凄いんだ。

まあ、読まなくてもいいけど。

でもさ、物語を書き始めるとそういったことに関心が向くと思うよ。

書き始めて「たのしー!」ってなってから「読んでみるか」でいいさ。

物語を書くのは簡単なんだ。

だって書けるけど、良いものや人に愛されるものは別なんだ。

拙いけど素晴らしい作品はあるけど発掘してもらえるかな?

まずは心安らかに楽しい!」って思ってもらえるように。

読んでもらえるものを書いてもいいんじゃないかな。

創作ができないオタクの悩み

私は、名もなき1人のオタクである最近ある悩みで苦しんでいるので、整理するためにここへ記そうと思う。長いぞ。

私は普段アニメイラスト漫画ノベルゲーム音楽動画、等など様々なオタクコンテンツを楽しんでいる。が、それらを自分で作ることが出来ないのだ。当たり前のことのように思うかもしれないが、私はそこに強いコンプレックスを感じている。

コンテンツには絶対に作り手がいる。そりゃそうだ。作る人がいなければ、何も生まれない。

さらに、オタク世界には「ファンアート(二次創作)」という文化がある。自分はこれが好きですよ、とハマっている作品キャラクターを描いたり、そのキャラの登場する小説を書いたり、動画を作ったりすることだ。オタクをしていると、それらを目にする機会がとても多い。上手い下手はともかく、全てのオタクが何らかの創作活動をしているのではないかと思ってしまう程度には多い。オタクは、オタクが生み出したものを目にする機会が途轍もなく多いのだ。

だが私は、絵も満足に描けなければ、小説も書けないし、音楽が作れるわけでもないし、何も生み出せない生産性のないオタクだ。

それの何が問題なのだろうか。

自分なりに考えてみた。

魅力的なコンテンツがあって、それを好きなオタクコミュニティがあって、そのコミュニティは大抵絵や小説が描/書ける人間構成されていた。少なくとも私の周りではそうだった。(オタク友達を求めて入った部活美術部や文芸部だったからね)

生産が出来なければ、オタクの輪にはまず入れない。友達ができない。

私もオタクであるはずなのに、何一つ生み出すことが出来ない。ただ消費するだけの存在。世の人々(私の目に映るオタクたち)が当たり前のようにやっていること(創作活動)が、私にはできない。技術力も、才能もない。今更頑張る勇気もない。

素晴らしいものを見て、聴いて、私も同じことが出来たらどんなに素敵だろうかと夢想するだけの日々だ。

絵を描いたり、小説を書いたり、音楽を作れたり、動画を作れたり、立体物を作れたり、作品考察を発表したり、そういう生産者側への憧れが非常に強く、消費するだけのオタク価値はないと本気で考えているのに、どこまで行っても結局消費者しかない不甲斐ない自分

最近ではどんなに良い創作物を見ても、罪悪感と劣等感ばかりが己の中に積もり、楽しめない。

コンテンツに深くハマっていくほどその裏にある作者の存在意識せざるを得なくなる。生産者の才能への嫉妬生産努力すらしようとしない自分への苛立ち。

だんだんと、オタクコンテンツを見ること自体がしんどくなる。しかし私の趣味はそれしかない。

幼い頃からパンピの持て囃す流行アーティストアイドルドラマスポーツetc…には唾を吐いて生きてきたのだ。今更手のひらを返して推すことはできない。

八方塞がりのような状態である

こんな私だが、創作的活動をしてみたいと手を出したことはある。

漫画を初めて読んだ小学3年生の頃から絵は描き続けているし、ライトノベルにハマった高学年の頃から数年間小説執筆トライもした。

ボカロ流行っていた中学時代楽曲制作に憧れてギターピアノを始めた。DTM勉強もそれなりにした。

MMD等のCG動画にハマった頃は動画作ってみたし、3Dキャラクターモデリングにも挑戦した。

拙いシステムとクソみたいなシナリオゴミのような立ち絵で、自作ゲームを作ったこだってあるのだ。

しかし何一つ、満足に完成させることはできなかった。自分で納得のできるものは作れなかった。納得ができるクオリティになるまで粘り強く努力をするだけの忍耐力もなかった。

軽率に何かに挑戦し、すぐに諦めるダメ自分。結局無産な凡人のまま。

才能のある人が羨ましいと喚きながら、努力をしない自分から目を背け続けている。

オタクとして生きていくのがつらい。でもオタク以外の生き方を知らない。オタクっぽくない話はできない。

絵描き絵描きしか相手にしないという話が一時期Twitter話題になったように、生産者でなければオタク友達はできないように思う。(大抵のオタク創作活動をしているという前提)(その前提が間違っている可能性には気がつかないふりをしている)

マジで人生詰んだなぁ〜!と思う。

この状況を打開できる策はまだ思いついていない。

なにもかも諦めて消費者として一生を終えるしかないんだろうか?

どうなんだろうね。

ちなみに今私はバーチャルYouTuberにハマっている。

好きになったものに軽々しく手を出す癖だけは治らないので、自分で描いた立ち絵を動かして、ボイチェンを使って美少女ライバーごっこをしようとしている。

でも途中で挫折ちゃうんだろうなぁ。

長くて読みにくい文になってしまったが、少し自分気持ちを見つめ直すことが出来たので良しとする。

2019-04-14

anond:20190413114026

元増田を読んだときは、上野批判的な人たちにはベタ罵倒で心地よさを、肯定的な人たちには「はてブ批判できる東大生」を提供するよくできた釣りだと思ったんだが、追記みるとそんなつもりもないのか

だとするとせっかく反響もあったんだし、もらった指摘について考えるのもいいと思う

上野氏の祝辞がバズった原因の考察として、東大生に対する批判ネット民は望んでいたのではないか、というものがあった

少々威勢がいい東大生批判できる、という意味元増田にも同じ構図があっただろう

ただ、文章を分断したうえで、文脈無視して批判するのは誰でもできる。今確認したら元増田にたいして、実際にそれを行っている増田もあった

しかしその結果、脇が甘く、難癖ともとれる批判を連発してしまうようではよくなかった。反応をみても、頭の悪いオタクみたいだとか、悲しくなるような読解力だとかいわれてしまっているけれど、これは不本意だと思う。

無理に全文にツッコミを入れる必要はない。論点を絞るべきだった

もしも追記が追加燃料だとしたら、失礼した

anond:20190413114026

女子学生の置かれている現実

その選抜試験が公正なものであることをあなたたちは疑っておられないと思います。もし不公正であれば、怒りが湧くでしょう。が、しかし、昨年、東京医科大不正入試問題が発覚し、女子学生浪人生差別があることが判明しました。文科省が全国81の医科大・医学部の全数調査実施したところ、女子学生の入りにくさ、すなわち女子学生合格率に対する男子学生合格率は平均1.2倍と出ました。問題の東医大は1.29、最高が順天堂大の1.67、上位には昭和大、日本大慶応大などの私学が並んでいます。1.0よりも低い、すなわち女子学生の方が入りやす大学には鳥取大、島根大、徳島大、弘前大などの地方国立大医学部が並んでいます。ちなみに東京大学理科3類は1.03、平均よりは低いですが1.0よりは高い、この数字をどう読み解けばよいでしょうか。
ソースはここhttp://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2018/09/10/1409128_002_1.pdfで、六年間の推移が1.17→0.76→1.31→0.95→1.04→1.04でその平均が1.03なので仮説検定をすれば有意でない、すなわち平等とわかる数値なんですが、なんでこんなに持って回った言い方するの?

↑ 「統計的有意でない」というのは「差がない(=平等)」という意味ではありません。

統計大事です、それをもとに考察が成り立つのですから
↑こっちのセリフだわ

意味不明

女子学生男子学生より合格しにくいのは、男子受験生の成績の方がよいからでしょうか?全国医学部調査結果を公表した文科省担当者が、こんなコメントを述べています。「男子優位の学部学科は他に見当たらず、理工系文系女子が優位な場合が多い」。ということは、医学部を除く他学部では、女子の入りにくさは1以下であること、医学部が1を越えていることには、なんらかの説明が要ることを意味します。
↑ここまでの話をまとめると、私立医学部ではどうやら不正入試が行われているが東大では医学部はじめ全ての科類で平等入試が行われている。ということなんですが、これはもはや私大医学部問題(もちろん背景にもっと大きな差別問題はあるのだろうが)で、東大入学式祝辞の一発目に持ってくる話題としては不適当では?

↑「医学部とそれ以外の学部女子の入りにくさに差があるというのには、何らかの原因があるのではないか」ということ。「背景にもっと大きな差別問題はある」からこそこの祝辞東大入学式にふさわしい。

事実、各種のデータが、
↑ここ統計データを示せよ。なんで女子差別されてる話は具体的な数字しまくったのに女子が優れている話は具体的な数字さないんだよ。

↑「女子男子より優れている」とは言っていない。「女子合格率が男子のそれより低いのは、女子男子より劣っているから」ではないと言っている。

女子受験生偏差値の方が男子受験生より高いことを証明しています。まず第1に女子学生浪人を避けるために余裕を持って受験先を決める傾向があります。第2に東京大学入学者の女性比率は長期にわたって「2割の壁」を越えません。今年度に至っては18.1%と前年度を下回りました。統計的には偏差値正規分布に男女差はありませんから
↑これどういう意味だよ。偏差値の平均は女子の方が上ってさっきお前が言ったんだろ。

↑ここは僕も意味がよくわからなかった。

男子学生以上に優秀な女子学生東大受験していることになります
↑まあ偏差値が高い順に受験していたらそうだよね。

↑そうですね。

第3に、4年制大学進学率そのもの性別によるギャップがあります2016年度の学校基本調査によれば4年制大学進学率は男子55.6%、女子48.2%と7ポイントもの差があります。この差は成績の差ではありません。「息子は大学まで、娘は短大まで」でよいと考える親の性差別の結果です。
↑なんで親の性差別って断言してるんだよ。統計どこ行ったんだよ。

↑確かにから調査結果を引用してほしかった。

↑並列された三つの主張から導き出される結論は何だよ。ちゃんと言えよ。
↑ここは僕も意味がよくわからなかった。
↑てか普通に考えたら 第一女子安全志向 第三:親が性差別している を要因として 第二:東京大学入学者の女性比率が二割以下 が発生してるって話になるだろ。なんで並列なんだよ<<
↑確かに
最近ノーベル平和賞受賞者のマララ・ユスフザイさんが日本を訪れて「女子教育」の必要性を訴えました。それはパキスタンにとっては重要だが、日本には無関係でしょうか。「どうせ女の子だし」「しょせん女の子から」と水をかけ、足を引っ張ることを、aspirationのcooling downすなわち意欲の冷却効果と言います。マララさんのお父さんは、「どうやって娘を育てたか」と訊かれて、「娘の翼を折らないようにしてきた」と答えました。そのとおり、多くの娘たちは、子どもなら誰でも持っている翼を折られてきたのです。
↑「娘の翼を折らないようにしてきた」という父親の事例を挙げて得られる結論がどうして「多くの娘たちは、子どもなら誰でも持っている翼を折られてきた」なんだよ。

↑「多くの娘たちは、子どもなら誰でも持っている翼を折られてきた」はつまり「翼を折られなければ羽ばたけたはずだった」ということ。

その一例としてマララさんとその父親教育方針を挙げた。

そうやって
↑どうやって?
東大に頑張って進学した男女学生を待っているのは、どんな環境でしょうか。他大学との合コン合同コンパ)で東大男子学生はもてます
↑突然男子学生を画一化したなお前。性差別って知ってるか?

↑突然も何も、祝辞最初から女子学生男子学生一般化して取り扱ってきたでしょう。
性差別批判する文脈では当然です。

とは言え「東大男子学生がもてる」という言い方も差別的だというのはそうだと思います。「イカ東」みたいな言葉もありましたし。

東大女子学生からはこんな話を聞きました。「キミ、どこの大学?」と訊かれたら、「東京、の、大学...」と答えるのだそうです。なぜかといえば「東大」といえば、退かれるから、だそうです。なぜ男子学生東大であることに誇りが持てるのに、
↑突然男子学生を画一化したなお前。性差別って知ってるか?

女子学生は答えに躊躇するのでしょうか。
↑突然女子学生を画一化したなお前。性差別って知ってるか?
なぜなら、男性価値と成績のよさは一致しているのに、
↑突然男子学生を画一化したなお前。性差別って知ってるか?
女性価値と成績のよさとのあいだには、ねじれがあるからです。
↑突然男子学生を画一化したなお前。性差別って知ってるか?
女子子どもときからかわいい」ことを期待されます。ところで「かわいい」とはどんな価値でしょうか?愛される、選ばれる、守ってもらえる価値には、相手絶対におびやかさないという保証が含まれています。だから女子は、自分が成績がいいことや、東大であることを隠そうとするのです。
↑突然女子学生を画一化したなお前。性差別って知ってるか?
東大工学部大学院の男子学生5人が、私大女子学生集団性的凌辱した事件がありました。加害者男子学生は3人が退学、2人が停学処分を受けました。この事件モデルにして姫野カオルコさんという作家が『彼女頭が悪いから』という小説を書き、昨年それをテーマ学内シンポジウムが開かれました。「彼女頭が悪いから」というのは、取り調べの過程で、実際に加害者男子学生が口にしたコトバだそうです。この作品を読めば、東大男子学生社会からどんな目で見られているかがわかります
↑どんな目で見られてるかちゃんと言えよ。マイナスイメージ持たれてることはわかるが、それが実情に反して不当ということなレイプ事件の話持ち出す意味がわからないし、そのイメージが正しいと言いたい(文脈的にこっち)ならそれは性への圧だろ。<<

東大男子学生は「他大の女は頭が悪い」と思っていそうってことでしょう。ここの部分で何を言いたいのかは僕もよくわかりませんでした。

東大には今でも東大女子実質的に入れず、他大学女子のみに参加を認める男子サークルがあると聞きました。
男子サークルって書き方からして完全に男子悪者にしてるけど他大学女子競争相手を減らすために東大女子を入れないようにしてる可能だってあるだろ。性差別か?お?

↑実情を知らないようですが、そんなことはありません。東大女子が入れないようにしているのは東大男子です。

わたし学生だった半世紀前にも同じようなサークルがありました。それが半世紀後の今日も続いているとは驚きです。この3月東京大学男女共同参画担当理事・副学長名で、女子学生排除は「東大憲章」が唱える平等理念に反すると警告を発しました。

これまであなたたちが過ごしてきた学校は、タテマエ平等社会でした。偏差値競争に男女別はありません。ですが、大学に入る時点ですでに隠れた性差別が始まっています社会に出れば、もっとからさまな性差別が横行しています東京大学もまた、残念ながらその例のひとつです。

学部においておよそ20%の女子学生比率は、大学院になると修士課程で25%、博士課程で30.7%になります。その先、研究職となると、助教女性比率は18.2、准教授11.6、教授職で7.8%と低下します。これは国会議員女性比率より低い数字です。女性学部長・研究科長は15人のうち1人、歴代総長には女性はいません。

↑その原因が東大内の性差別という意味?だったらこんな時代性が交絡するようなデータじゃだめだよね?

↑なぜ?差別とはすなわち時代性でしょう。

↑これを祝辞で喋る意図が明確になるように主張のギャップを埋めて欲しい。

東大オフィシャルな場で東大批判をするのがいいんでしょう。「東大合格おめでとう!東大万歳」なんて祝辞気持ち悪すぎます

女性学のパイオニアとして

こういうことを研究する学問が40年前に生まれました。女性学という学問です。のちにジェンダー研究と呼ばれるようになりました。私が学生だったころ、女性学という学問はこの世にありませんでした。なかったから、作りました女性学は大学の外で生まれて、大学の中に参入しました。4半世紀前、私が東京大学に赴任したとき、私は文学部で3人目の女性教員でした。そして女性学を教壇で教える立場に立ちました。女性学を始めてみたら、世の中は解かれていない謎だらけでした。どうして男は仕事で女は家事、って決まっているの?主婦ってなあに、何する人?ナプキンタンポンがなかった時代には、月経用品は何を使っていたの?
↑これ普通に気になるな

↑確かに

日本の歴史に同性愛はいたの?...誰も調べたことがなかったから、先行研究というものがありません。ですから何をやってもその分野のパイオニア、第1人者になれたのです。今日東京大学では、主婦研究でも、少女マンガ研究でもセクシュアリティ研究でも学位がとれますが、それは私たちが新しい分野に取り組んで、闘ってきたからです。
↑後述の話を先取りするけどお前のは恵まれ環境のおかげじゃなくて努力の成果なのかよ。

↑第1人者を自称しているんですから、そうなんじゃないですか?

そして私を突き動かしてきたのは、あくことな好奇心と、社会の不公正に対する怒りでした。

学問にもベンチャーがあります。衰退していく学問に対して、あたらしく勃興していく学問があります女性学はベンチャーでした。女性学にかぎらず、環境学、情報学障害学などさまざまな新しい分野が生まれました。時代の変化がそれを求めたからです。

変化と多様性に拓かれた大学

言っておきますが、東京大学は変化と多様性に拓かれた大学です。わたしのような者を採用し、この場に立たせたことがその証です。東大には、国立大学初の在日韓国人教授姜尚中さんもいましたし、国立大学初の高卒教授安藤忠雄さんもいました。また盲ろうあ三重障害者である教授福島智さんもいらっしゃいます

あなたたちは選抜されてここに来ました。東大生ひとりあたりにかかる国費負担は年間500万円と言われています。これから4年間すばらしい教育学習環境あなたたちを待っています。そのすばらしさは、ここで教えた経験のある私が請け合います

あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会あなたたちを待っています

↑冒頭で不正がある話したの私立医学部だけだろ。

私立医学部入試不正なんて差別の一例に過ぎないってことでしょう。

そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。
↑そこ断言するの流石に祝辞としてダメだろ。毒親から逃げて東大来たやついるけどそいつにこれ言えんの?

↑「がんばっただけでは報われなかった。まわりの人や環境感謝しましょう」ということでしょう。こういう趣旨祝辞わりとよく聞きませんか?

あと毒親から逃げてきた人もいるかもしれませんが、ごく少数でしょう。この祝辞最初から最後まで「大多数の」東大生に言及しています

あなたたちが今日「がんばったら報われる」思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。
↑これはまあそういう意見もあるよね。

↑そうですね。

世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます
↑だからなんだよ。ここから得られる教訓って何?

↑そういう人たちを助けてやれってことだよ!

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれ環境と恵まれ能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。
↑恵まれない人を助けることに繋がらない学問やっちゃいけないの?ブラックホール撮影しちゃだめ?ニュートリノ観測しちゃだめ?

↑そんなことは言ってないでしょう。ここでは「恵まれない人々を助けるための学問をやれ」ということではなく、どんな(分野に進もうとも)周りにいる恵まれない人々のことを慮る人間になれということです。たとえブラックホールニュートリノ研究しようとも。

そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。女性学を生んだのはフェミニズムという女性運動ですが、フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者強者になりたいという思想ではありません。フェミニズム弱者弱者のままで尊重されることを求める思想です。
↑「環境能力に恵まれ東大新入生はそれを恵まれない人々(=弱者)を助けるために使いましょう。」と述べた後で「弱さを認め生きましょう、フェミニズム弱者弱者のまま尊重されることを求めます。」と締めるの、結局東大生に弱者であって欲しいのか弱者を助ける存在であって欲しいのかが見えてこない。弱者を助ける存在もまた弱者で、だから他の弱者に助けてもらいましょう。ということなのかな?全員弱者なら女子受験生の話をした意味は?

東大生には弱者もいるし恵まれ人間もいるということでしょう。またある面では恵まれていても、別のある面では弱者ということでしょう。

↑まずこの Permalink | 記事への反応(1) | 15:59

東大入学式祝辞への反論を見て思うこと

https://anond.hatelabo.jp/20190413114026

ああ、俺はこういう論理的思考力が低すぎるからこの歳になっても大して仕事活躍できないのかなって思った。

どういう意味かと言うと、俺は元の祝辞の全文を読んで出てきた感想が「へーなんか良い感じのこと言ってる気がする。まあそういう学問研究者っぽいし若干思い込みを語ってる部分もあるのかもしれないけど、社会に出て仕事してたらやっぱり明らかに女性が少ないなって思うし少なくとも男尊女卑状態日本ではまだ当たり前で本気で是正するつもりなんて誰もなさそうに見えるから多分あと10年してもそこまで大きく変わらないんだろう。ただ、女性とかみたいな社会的に弱者としてなぜか位置付けられている人が本当に弱者なのかどうかっていう定義はこれから変わっていったりするのかもしれないな。そもそも弱者ってなんだよそれってただ今の社会の中で『沢山お金が貰える行為』ができることが強者っていう定義してない?それは強者とか弱者関係なんじゃなくてたまたま社会がそういう風な流れになってるだけの話でもし今この段階で全人類脳みそが一瞬で書き換えられて例えば『直接的な子育ては最高に偉いことで子供を作って世の中の流動性を増やすことこそがひいては将来的にも人類の為になるのだからその行為に対する貢献度によってお金が支払われるべきである。それ以外の行為無償で行われるべき。』みたいな、今と逆(今は子育てには金が発生せずそれ以外の社会を作る行為お金が払われてる)の定義になった瞬間に男性社会を回せるけどお金は貰えない弱者になって女性社会を回す立場に行きにくいけどお金が貰える強者になったりする訳なのか?もちろん今仕事に専念してるから子育てはできてないっていう男性大勢いるだろうけど何となく今の感じだと女性の方が直接的な子育ては上手そうな気がするよなあ。じゃあやっぱり今の社会弱者って位置付けられている人達は今の社会性とか現代の人の考え方ありきでたまたま弱者位置付けられてしまってるだけな訳だしそういう人たちも尊重されるような社会であって欲しいし事実自身大して仕事できねえけどお金を貰って生きていけてることに感謝するべきだし東大生紆余曲折あって東大入った人も含めて運が良かった訳だから全て自分努力からまれ努力だけで勝ち上がってきたんだっていう思い込みをもししてしまっているんだったらそれは多分あんまり良くないよな。とはいえ本人の努力自体は認められるべきだと思うけどそれは祝辞最後の方で言われてるみたいにこれから入学生達を待っている日本最高峰に充実していると思われる研究環境がある所に毎日通える時点で認められたも同然な気がするし、今はそんなことよりも『入るまでは大変で卒業簡単』とか言われてしま日本大学において入学当日から大人に褒められるんじゃなくてこれから自分の思うことを突き詰めるために頑張っていきましょうって言って貰える方が絶対将来のためになるだろうからそういう祝辞を用意できた東大ってマジスゲーよなあ」みたいな、なんというか元の文章かについて大して深く触れている訳でもなくて特に自分の主張が強く含まれている訳でも登場したデータとか事実かに対する考察とかも全然入ってなくてただただ頭の中でもやもやしていた言葉ぼんやりとした形になって脳内で流れただけで、これって全然論理的じゃあなくてこんなこと考えているだけじゃ現実世界は何も変わらないし誰かと有益議論が生まれるわけでもないのだから社会に対して何の意味も無い行為だなってことです。

そもそも上の文章自体にも矛盾した意味のない前提とか設定とか考え方が含まれているような気がするけどそんな細かいことはどうでも良いと思ってしまっているし、それよりも冒頭の反論を見て「ああこの人はちゃん事実とそうでないことを切り分けようとする意識があって、この人にもある程度の思い込み(もしくは何か意図した悪意かもしれないけど)があることを考慮した上でこれだけ他人発言に対して自分の納得できない所を並べて発言することができる時点で俺より社会に出てから活躍する人間になっていくんだろうな。自分の思っていることをちゃん言葉にして反論できるのであれば反論したことに対する間違いは恐らく身の回りの他の誰かが突っ込んでくれてそこから有益議論が始められる気がするし現時点で多少ブレてたり間違ってる箇所が仮にあったとしても大した問題じゃないな。まあ書いたのが現役東大生じゃなくて俺より年上のどこぞのおじさまおばさまかもしれないけどそんなことはどうでも良いや。どうせ増田として表に出た時点で裏の人間情報は切り捨てられて文字情報けが存在し得る訳だしな。」って思ったから書いた人は凄いなあって思う。

この文章自分で書いて気づいたことは俺は論理的思考っていうものが何か理解してないなっていうことと、自分で書いた文章見直すと自分でも色々つっこみたくなるなっていうことと、そういうつっこみを「この部分ってこうじゃない?」っていう事実に対する反論としても表現できるし「こんな考えを持っているこいつはこの程度の人間だ」っていう人間性に対する攻撃としても表現できてしまう世の中が怖いしだからこそ俺はこの文章自分名前と紐づかない増田しか投稿できないんだろうなっていうこととか、そういうことでした。

あと語彙力少ないけど文章書くのは好きかもしれない。もしかするとタイピングが好きなだけかもしれないけど俺にはその違いが分からない。

2019-04-13

超読解・上野千鶴子スピーチ男性差別とは真逆である

東大入学式祝辞で著名なフェミニストである上野千鶴子スピーチを行い、その内容についてインターネット上では賛否の声が上がっている。

https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html

個人的感想を端的に言うと、内容の正否以前にわかりづらい部分があって、ときおり彼女が何を主張しているのか理解できない部分があった(私だけだったらすいませんでした)。インターネットの皆さまは内容を理解した上で議論しているのだろうか?まあ実際のところはこのようなスピーチを真面目に読む人暇人なんぞは少数派だろうから雰囲気で流し読みしてあーだこーだと感想を言っているのだろう。それはいいとしても、このスピーチでは、いか東大生の頭がいいと言っても口頭ではロジック理解できずに混乱してしまったのではないだろかと心配になる。

女性学パイオニアとして」の章は著者の自分語りであるし、「変化と多様性に拓かれた大学」と「東京大学で学ぶ価値」の章は良い雰囲気一般論なのでこれらの章に特に理解が難しい点はない。問題なのは女性学差別にまつわる内容が記述されている「女子学生の置かれている現実」の章であり、その中でも特に理解が難しく、思わず男性差別的なのではないか脊髄反射してしまいそうなパートは、第3パラグラフである。以下では、同パラグラフの読解を行うので、私と同様に一読してわからなかった人、特に男性差別的に感じた人は読んでほしい。

事実、各種のデータが、女子受験生偏差値の方が男子受験生より高いことを証明しています。まず第1に女子学生浪人を避けるために余裕を持って受験先を決める傾向があります。第2に東京大学入学者の女性比率は長期にわたって「2割の壁」を越えません。今年度に至っては18.1%と前年度を下回りました。統計的には偏差値正規分布に男女差はありませんから男子学生以上に優秀な女子学生東大受験していることになります。第3に、4年制大学進学率そのもの性別によるギャップがあります2016年度の学校基本調査によれば4年制大学進学率は男子55.6%、女子48.2%と7ポイントもの差があります。この差は成績の差ではありません。「息子は大学まで、娘は短大まで」でよいと考える親の性差別の結果です。

このパラグラフはいきなり衝撃的なトピックセンテンス「事実、各種のデータが、女子受験生偏差値の方が男子受験生より高いことを証明しています。」で始まる。おまけにサポートセンテンスの中には「男子学生以上に優秀な女子学生東大受験している」という主張が入ってくるので、恐らくこれを口頭で聴いたら「上野千鶴子はとりあえず男が馬鹿だと言いたいのか?」と感じてしま可能性がある(実際にTwitter上ではそのようなリアクションが少なからずみられる)。さらに、冒頭で「女子受験生偏差値の方が男子受験生より高い」と言っておきながら、サポートセンテンスでは「統計的には偏差値正規分布に男女差はありません」と真逆のことを言われて、読者(聴衆)は混乱の極致に達する。しかし、このパラグラフの本意はそうではない。鍵は、この前にある第2パラグラフにある。

女子学生男子学生より合格しにくいのは、男子受験生の成績の方がよいからでしょうか?全国医学部調査結果を公表した文科省担当者が、こんなコメントを述べています。「男子優位の学部学科は他に見当たらず、理工系文系女子が優位な場合が多い」。ということは、医学部を除く他学部では、女子の入りにくさは1以下であること、医学部が1を越えていることには、なんらかの説明が要ることを意味します。

まり、著者はひとつ前の第2パラグラフで、「医学部以外の女子の入りにくさは1以下で、医学部が1以上であることの理由をこれから説明するよー」と宣言しているわけだが、実際に次の第3パラグラフ説明されるのは、前者の「なぜ女子合格率は(医学部以外において)高いのか」ということに対する理由だけだ。この宣言と実際のズレが、まずもって2パラと3パラの繋がりを分かりづらくしている。

それを踏まえて第3パラグラフトピックセンテンスである事実、各種のデータが、女子受験生偏差値の方が男子受験生より高い」を解釈すると、これは実はかなり曖昧で、「受験生全体としてみたとき女子の方が偏差値が高い」という解釈(A)と「ある大学受験プールをみたとき女子の方が偏差値が高い」という解釈(B)の両方が必要となる。このトピックセンテンスの意味曖昧さが、続くサポートセンテンスとの繋がりを不明瞭にすることで、このパラグラフの読解を困難にしている。しかしながら、これらはいずれも、「なぜ女子合格率は男子に比べて高いのか?」という第2パラグラフの問いに対する明確な解答となっている。

では、このトピックセンテンスの解釈(A)、(B)を前提として、そのあとに続く3つのサポートセンテンスの内容を読み解いていこう。

①「第1に、女子学生浪人を避けるために余裕を持って受験先を決める傾向があります。」⇒要は、女子は余裕を持って受かる大学を選ぶため、ある大学受験プールで見たとき女子の方が偏差値が高い、という話なので解釈(B)を支持する内容。

②「第2に、東京大学入学者の女性比率は長期にわたって「2割の壁」を越えません。(中略)統計的には偏差値正規分布に男女差はありませんから男子学生以上に優秀な女子学生東大受験していることになります。」⇒これも①と似たような話。男子の方が相対的に下方の学力学生まで東大受験するため、平均的にみれば女子東大受験生の方が偏差値が高いということ。解釈(B)を支持する。なお、ここでいう偏差値正規分布とは、「東大受験する/しない」「大学受験する/しない」という条件を一切つけない高校生全体の分布の話をしていることに注意しよう。一方でトピックセンテンスの「女子受験生偏差値の方が男子受験生より高い」は、これらの条件を付けたとき条件付き確率分布の話をしている。ここもわかりづらいポイント

③「第3に、4年制大学進学率そのもの性別によるギャップがあります。」⇒要は、学力順に大学受験をするとしたら大学進学率の高い男子の方が下方の学力学生まで大学受験をするため、平均的にみれば女子受験生の方が偏差値が高いということ。これは受験生全体の話なので解釈(A)を支持する内容。

以上の様な形で、一見意味不明みえる第3パラグラフも、落ち着いてよく読んでみればしっかりと論理的構成になっている。では、結局のところ上野千鶴子はこのパラグラフで何が言いたいのか?私の理解は次の通り。「女子学生は、性差別の抑圧の結果として、浪人リスクをとって上位校を目指したり、東大生になろうとすることが忌避され、その上そもそも大学進学率が低いことから結果的大学合格率が高くなっている(除く医学部)。」つまり女子受験生偏差値が高い(⇔合格率が高い)というのは性差別による抑圧の結果なので、上野千鶴子はそれをポジティブに捉えてはいないということになり、男性差別的な意図とは真逆であるということがわかる。


以上、誤読しそうな一章第3パラグラフの読解を、ややスピーチ擁護しながら行ったが、以下ではこのスピーチに対する批判的な私見も+αで少し書く。

まず1パラグラフ目について。

その選抜試験が公正なものであることをあなたたちは疑っておられないと思います。もし不公正であれば、怒りが湧くでしょう。が、しかし、昨年、東京医科大不正入試問題が発覚し、女子学生浪人生に差別があることが判明しました。文科省が全国81の医科大・医学部の全数調査実施したところ、女子学生の入りにくさ、すなわち女子学生合格率に対する男子学生合格率は平均1.2倍と出ました。問題の東医大は1.29、最高が順天堂大の1.67、上位には昭和大、日本大慶応大などの私学が並んでいます。1.0よりも低い、すなわち女子学生の方が入りやす大学には鳥取大、島根大、徳島大、弘前大などの地方国立大医学部が並んでいます。ちなみに東京大学理科3類は1.03、平均よりは低いですが1.0よりは高い、この数字をどう読み解けばよいでしょうか。統計大事です、それをもとに考察が成り立つのですから

しか東京医科大では女性差別的な入試不正が行われていたのは事実だし、ここに列挙されている私大についても不正をしている可能性はある。それ自体は何らかの形で是正されていくべき問題であることは同意。ただ、私はこのパラグラフで拭えない違和感を覚えてしまう。それは、東大理3にもこの議論敷衍している点と、「地方国立大医学部が並んでいます」という記述である

当たり前だが、どれだけ男女平等選抜してもこの男女合格比率は1を超えたり1を下回ったりしてフレる。奇しくも彼女自身記述している通り、「鳥取大、島根大、徳島大、弘前大」では1を下回って、女性有利の結果となっているのだが、これは単なるフレであると考えられるので、彼女は「これらの大学では男性差別されている」とは主張しないだろう。にもかかわらず上野千鶴子は、断言はしないものの、この比率が1.03しかない理3に入試不正の話をつなげる訳だが、これは誰しもが感じる通り、さすがに無理筋である。1.03という差はどれほどなのか考えてみよう。理3女子合格率が概ね25%だとすると、男子合格率は25.75%であり、わずか0.75%ポイントの差でしかない。つまり100人受けたときに1人未満の合否の差が発生するということであるが、これは統計的有意な差たりえるだろうか?もちろん私は実際の分布についての情報を持たないので統計検定は出来ないが、理3受験者数の少なさ(標本の少なさ=この比率のフレも大きい)まで含めて考えれば検定するまでもないと思う。こんな微妙な差を以って、東大理3の入試においても男女差別存在しうることを仄めかす様な物言いをするのはいかがなものか。

また、些末過ぎて私しか感じないかもしれないが、「地方国立大医学部が並んでいます」という記述にもなんとなく違和感というか、いやらしさを覚えた。彼女がわざわざ先ほどの4校を持ち出して、「地方国立大医学部が並んでいます」と記述した理由は何なのか。うがった見方をすれば、「女子地方のless prestigiousな大学に追いやられ、東大理3を含む首都圏のprestigiousな大学差別により入れない」という印象を明確にしたいがために、これらの地方国立大医学部を拾ってきて並べたように思える。しかしながら、もしも彼女がこの様な印象操作を図ったとすれば、それはやや牽強付会みえしまう。なぜなら、理由は2つあって、そもそも地方国立大の方が医学部が多いということと、加えて、(平成30年入試データではあるが)帝京大学北里大学東京医科歯科大学医学部医学科、東京女子医科大学(当然)、自治医科大(首都圏微妙だが)、など首都圏大学でも女性有利の結果となっている大学存在しているので、地方国立だけ取り出してみせるのはいささか正当性に欠けるように思えるてしまうからである。(ソースhttp://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2018/09/10/1409128_002_1.pdf

もう一つ、東大生によるレイプ事件言及した第6パラグラフをみてほしい。

東大工学部大学院の男子学生5人が、私大女子学生集団性的凌辱した事件がありました。加害者男子学生は3人が退学、2人が停学処分を受けました。この事件モデルにして姫野カオルコさんという作家が『彼女頭が悪いから』という小説を書き、昨年それをテーマ学内シンポジウムが開かれました。「彼女頭が悪いから」というのは、取り調べの過程で、実際に加害者男子学生が口にしたコトバだそうです。この作品を読めば、東大男子学生社会からどんな目で見られているかがわかります

具体的に「どんな目」でみられているか上野千鶴子言及しないが、文脈からいえば、「他大学女子頭が悪いからと見下していて、彼女らをレイプしてもいいと考えている異常な選民思想を持った人々」と解釈できるだろう(この解釈は行き過ぎだろうか?否、これが男女差別文脈スピーチのおいて、レイプ事件と関連した東大"男子"学生イメージとして語られた以上、性的加虐意味必然的に含まれている)。「彼女頭が悪いから」という作品はたった一冊のフィクション作品であり、しかモデルとなった事件もおよそ東大一般に当てはまるようなものとは思い難い。そこに描かれた東大男子像を持ってして、お前らはこう見られてるから自覚しろ、と彼らを脅迫する行為はいくらなんでも行き過ぎであろう。少なくとも私は普通東大男子たちが、もしかしたらうちに秘めたエリート意識ぐらいは持っているのかもしれないが、それを以ってレイプに及ぶ様な集団だとは思っていない。世間東大男子のことを選民思想レイパーだと思っている、と本当に言いたいなら、アンケート調査統計をとってみてはいかがだろう。統計大事です、それをもとに考察が成り立つのですから

現役東大生だが上野千鶴子祝辞ゴミだと思う

女子学生の置かれている現実

その選抜試験が公正なものであることをあなたたちは疑っておられないと思います。もし不公正であれば、怒りが湧くでしょう。が、しかし、昨年、東京医科大不正入試問題が発覚し、女子学生浪人生差別があることが判明しました。文科省が全国81の医科大・医学部の全数調査実施したところ、女子学生の入りにくさ、すなわち女子学生合格率に対する男子学生合格率は平均1.2倍と出ました。問題の東医大は1.29、最高が順天堂大の1.67、上位には昭和大、日本大慶応大などの私学が並んでいます。1.0よりも低い、すなわち女子学生の方が入りやす大学には鳥取大、島根大、徳島大、弘前大などの地方国立大医学部が並んでいます。ちなみに東京大学理科3類は1.03、平均よりは低いですが1.0よりは高い、この数字をどう読み解けばよいでしょうか。

ソースはここhttp://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2018/09/10/1409128_002_1.pdfで、六年間の推移が1.17→0.76→1.31→0.95→1.04→1.04でその平均が1.03なので仮説検定をすれば有意でない、すなわち平等とわかる数値なんですが、なんでこんなに持って回った言い方するの?

統計大事です、それをもとに考察が成り立つのですから

↑こっちのセリフだわ

女子学生男子学生より合格しにくいのは、男子受験生の成績の方がよいからでしょうか?全国医学部調査結果を公表した文科省担当者が、こんなコメントを述べています。「男子優位の学部学科は他に見当たらず、理工系文系女子が優位な場合が多い」。ということは、医学部を除く他学部では、女子の入りにくさは1以下であること、医学部が1を越えていることには、なんらかの説明が要ることを意味します。

↑ここまでの話をまとめると、私立医学部ではどうやら不正入試が行われているが東大では医学部はじめ全ての科類で平等入試が行われている。ということなんですが、これはもはや私大医学部問題(もちろん背景にもっと大きな差別問題はあるのだろうが)で、東大入学式祝辞の一発目に持ってくる話題としては不適当では?

事実、各種のデータが、

↑ここ統計データを示せよ。なんで女子差別されてる話は具体的な数字しまくったのに女子が優れている話は具体的な数字さないんだよ。

女子受験生偏差値の方が男子受験生より高いことを証明しています。まず第1に女子学生浪人を避けるために余裕を持って受験先を決める傾向があります。第2に東京大学入学者の女性比率は長期にわたって「2割の壁」を越えません。今年度に至っては18.1%と前年度を下回りました。統計的には偏差値正規分布に男女差はありませんから

↑これどういう意味だよ。偏差値の平均は女子の方が上ってさっきお前が言ったんだろ。

男子学生以上に優秀な女子学生東大受験していることになります

↑まあ偏差値が高い順に受験していたらそうだよね。

第3に、4年制大学進学率そのもの性別によるギャップがあります2016年度の学校基本調査によれば4年制大学進学率は男子55.6%、女子48.2%と7ポイントもの差があります。この差は成績の差ではありません。「息子は大学まで、娘は短大まで」でよいと考える親の性差別の結果です。

↑なんで親の性差別って断言してるんだよ。統計どこ行ったんだよ。

↑並列された三つの主張から導き出される結論は何だよ。ちゃんと言えよ。

↑てか普通に考えたら 第一女子安全志向 第三:親が性差別している を要因として 第二:東京大学入学者の女性比率が二割以下 が発生してるって話になるだろ。なんで並列なんだよ

最近ノーベル平和賞受賞者のマララ・ユスフザイさんが日本を訪れて「女子教育」の必要性を訴えました。それはパキスタンにとっては重要だが、日本には無関係でしょうか。「どうせ女の子だし」「しょせん女の子から」と水をかけ、足を引っ張ることを、aspirationのcooling downすなわち意欲の冷却効果と言います。マララさんのお父さんは、「どうやって娘を育てたか」と訊かれて、「娘の翼を折らないようにしてきた」と答えました。そのとおり、多くの娘たちは、子どもなら誰でも持っている翼を折られてきたのです。

↑「娘の翼を折らないようにしてきた」という父親の事例を挙げて得られる結論がどうして「多くの娘たちは、子どもなら誰でも持っている翼を折られてきた」なんだよ。

そうやって

↑どうやって?

東大に頑張って進学した男女学生を待っているのは、どんな環境でしょうか。他大学との合コン合同コンパ)で東大男子学生はもてます

↑突然男子学生を画一化したなお前。性差別って知ってるか?


東大女子学生からはこんな話を聞きました。「キミ、どこの大学?」と訊かれたら、「東京、の、大学...」と答えるのだそうです。なぜかといえば「東大」といえば、退かれるから、だそうです。なぜ男子学生東大であることに誇りが持てるのに、

↑突然男子学生を画一化したなお前。性差別って知ってるか?


女子学生は答えに躊躇するのでしょうか。

↑突然女子学生を画一化したなお前。性差別って知ってるか?

なぜなら、男性価値と成績のよさは一致しているのに、

↑突然男子学生を画一化したなお前。性差別って知ってるか?

女性価値と成績のよさとのあいだには、ねじれがあるからです。

↑突然男子学生を画一化したなお前。性差別って知ってるか?

女子子どもときからかわいい」ことを期待されます。ところで「かわいい」とはどんな価値でしょうか?愛される、選ばれる、守ってもらえる価値には、相手絶対におびやかさないという保証が含まれています。だから女子は、自分が成績がいいことや、東大であることを隠そうとするのです。

↑突然女子学生を画一化したなお前。性差別って知ってるか?

東大工学部大学院の男子学生5人が、私大女子学生集団性的凌辱した事件がありました。加害者男子学生は3人が退学、2人が停学処分を受けました。この事件モデルにして姫野カオルコさんという作家が『彼女頭が悪いから』という小説を書き、昨年それをテーマ学内シンポジウムが開かれました。「彼女頭が悪いから」というのは、取り調べの過程で、実際に加害者男子学生が口にしたコトバだそうです。この作品を読めば、東大男子学生社会からどんな目で見られているかがわかります

↑どんな目で見られてるかちゃんと言えよ。マイナスイメージ持たれてることはわかるが、それが実情に反して不当ということなレイプ事件の話持ち出す意味がわからないし、そのイメージが正しいと言いたい(文脈的にこっち)ならそれは性への圧だろ。

東大には今でも東大女子実質的に入れず、他大学女子のみに参加を認める男子サークルがあると聞きました。

男子サークルって書き方からして完全に男子悪者にしてるけど他大学女子競争相手を減らすために東大女子を入れないようにしてる可能だってあるだろ。性差別か?お?

わたし学生だった半世紀前にも同じようなサークルがありました。それが半世紀後の今日も続いているとは驚きです。この3月東京大学男女共同参画担当理事・副学長名で、女子学生排除は「東大憲章」が唱える平等理念に反すると警告を発しました。
これまであなたたちが過ごしてきた学校は、タテマエ平等社会でした。偏差値競争に男女別はありません。ですが、大学に入る時点ですでに隠れた性差別が始まっています社会に出れば、もっとからさまな性差別が横行しています東京大学もまた、残念ながらその例のひとつです。
学部においておよそ20%の女子学生比率は、大学院になると修士課程で25%、博士課程で30.7%になります。その先、研究職となると、助教女性比率は18.2、准教授11.6、教授職で7.8%と低下します。これは国会議員女性比率より低い数字です。女性学部長・研究科長は15人のうち1人、歴代総長には女性はいません。

↑その原因が東大内の性差別という意味?だったらこんな時代性が交絡するようなデータじゃだめだよね?

↑これを祝辞で喋る意図が明確になるように主張のギャップを埋めて欲しい。

女性学のパイオニアとして

こういうことを研究する学問が40年前に生まれました。女性学という学問です。のちにジェンダー研究と呼ばれるようになりました。私が学生だったころ、女性学という学問はこの世にありませんでした。なかったから、作りました女性学は大学の外で生まれて、大学の中に参入しました。4半世紀前、私が東京大学に赴任したとき、私は文学部で3人目の女性教員でした。そして女性学を教壇で教える立場に立ちました。女性学を始めてみたら、世の中は解かれていない謎だらけでした。どうして男は仕事で女は家事、って決まっているの?主婦ってなあに、何する人?ナプキンタンポンがなかった時代には、月経用品は何を使っていたの?

↑これ普通に気になるな

日本の歴史に同性愛はいたの?...誰も調べたことがなかったから、先行研究というものがありません。ですから何をやってもその分野のパイオニア、第1人者になれたのです。今日東京大学では、主婦研究でも、少女マンガ研究でもセクシュアリティ研究でも学位がとれますが、それは私たちが新しい分野に取り組んで、闘ってきたからです。

↑後述の話を先取りするけどお前のは恵まれ環境のおかげじゃなくて努力の成果なのかよ。

そして私を突き動かしてきたのは、あくことな好奇心と、社会の不公正に対する怒りでした。
学問にもベンチャーがあります。衰退していく学問に対して、あたらしく勃興していく学問があります女性学はベンチャーでした。女性学にかぎらず、環境学、情報学障害学などさまざまな新しい分野が生まれました。時代の変化がそれを求めたからです。

変化と多様性に拓かれた大学

言っておきますが、東京大学は変化と多様性に拓かれた大学です。わたしのような者を採用し、この場に立たせたことがその証です。東大には、国立大学初の在日韓国人教授姜尚中さんもいましたし、国立大学初の高卒教授安藤忠雄さんもいました。また盲ろうあ三重障害者である教授福島智さんもいらっしゃいます
あなたたちは選抜されてここに来ました。東大生ひとりあたりにかかる国費負担は年間500万円と言われています。これから4年間すばらしい教育学習環境あなたたちを待っています。そのすばらしさは、ここで教えた経験のある私が請け合います
あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会あなたたちを待っています

↑冒頭で不正がある話したの私立医学部だけだろ。

そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。

↑そこ断言するの流石に祝辞としてダメだろ。毒親から逃げて東大来たやついるけどそいつにこれ言えんの?

あなたたちが今日「がんばったら報われる」思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。

↑これはまあそういう意見もあるよね。

世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます

↑だからなんだよ。ここから得られる教訓って何?

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれ環境と恵まれ能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。

↑恵まれない人を助けることに繋がらない学問やっちゃいけないの?ブラックホール撮影しちゃだめ?ニュートリノ観測しちゃだめ?

そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。女性学を生んだのはフェミニズムという女性運動ですが、フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者強者になりたいという思想ではありません。フェミニズム弱者弱者のままで尊重されることを求める思想です。

↑「環境能力に恵まれ東大新入生はそれを恵まれない人々(=弱者)を助けるために使いましょう。」と述べた後で「弱さを認め生きましょう、フェミニズム弱者弱者のまま尊重されることを求めます。」と締めるの、結局東大生に弱者であって欲しいのか弱者を助ける存在であって欲しいのかが見えてこない。弱者を助ける存在もまた弱者で、だから他の弱者に助けてもらいましょう。ということなのかな?全員弱者なら女子受験生の話をした意味は?

↑まずこの弱者って特に女性を指してるの?だとすれば女性は謂れなき差別を受けていてそのために被害を受けているという話だったよね?てことは女性は謂れなき差別を受けたままで尊重されるべきってこと?意味不明じゃない?

東京大学で学ぶ価値

あなた方を待ち受けているのは、これまでのセオリーが当てはまらない、予測不可能な未知の世界です。これまであなた方は正解のある知を求めてきました。これからあなた方を待っているのは、正解のない問いに満ちた世界です。学内多様性がなぜ必要かと言えば、新しい価値とはシステムシステムあいだ、異文化が摩擦するところに生まれからです。学内にとどまる必要はありません。東大には海外留学国際交流国内地域課題解決に関わる活動サポートする仕組みもあります。未知を求めて、よその世界にも飛び出してください。異文化を怖れる必要はありません。人間が生きているところでなら、どこでも生きていけますあなた方には、東大ブランドがまったく通用しない世界でも、どんな環境でも、どんな世界でも、たとえ難民になってでも、生きていける知を身につけてもらいたい。大学で学ぶ価値とは、すでにある知を身につけることではなく、これまで誰も見たことのない知を生み出すための知を身に付けることだと、わたし確信しています。知を生み出す知を、メタ知識といいます。そのメタ知識学生に身につけてもらうことこそが、大学の使命です。ようこそ、東京大学へ。

最後はいいよね。

総評として、全称記号任意記号恣意的混同によってデータ自分の都合のいいように改変して使用する、統計学ひいては学問を完全に馬鹿にした祝辞であったように思える。思想としてのフェミニズムであればこのような「過激な」スピーチにより注目を集めるのも一つの作戦なのだろうが、この人は「学問としてフェミニズムを修めている人間」として「これから学問を修める3000人の東京大学新入生」にスピーチしたわけで、その内容としては甚だ不適当だと言わざるを得ない。

はっきり言って、こんなものを褒めそやす人間は、たとえそれがどれだけメタ的な視点から評価のつもりでも、科学世界を脅かすありふれた権威主義愚か者集団に含まれる一人にすぎないと言えよう。

追記

https://anond.hatelabo.jp/20190414151912

「...」でタイトルを省略するのはアリか

はてブトップ記事殆どが、タイトル長すぎで「...」と省略されている。

この省略自体は悪くないと思う。

省略された後に続くテキストの多くはその記事出版元だったりするし。

あと今のはてブ場合、各記事カード型のビューで表示しているので、全体の統一感を優先するという見方もある。


とは言え省略を良しとするなら、最低○文字以上は表示するというしきい値定義する必要がある。

最低限何が書かれているのか分かる程度に表示するために。

でもそれって一体何文字だ?ディスプレイの大きさによって変化するのか?



みたいなことを真面目に考察してる記事や本って無い?

anond:20190413013400

全国平均は1.2

私学は1.29、1.67

地方国立大は1より低い(0.XX)

東大は1.03

学力テストでは、女子偏差値は、男子学生偏差値よりも有意に高いのだから

学力テストの結果がそのまま入試結果に反映されるなら、どの大学も1より低くなるはず。

地方国立大けが低く、他の大学が1よりも高い(女子が入りにくい)のはなぜ?

この数字をどう読み解くか、どんな背景があるのか。

金銭的な問題地理的な要因、

しかしたら意図的操作があるのかもしれない。

それを考えるのが女性学であり、次世代を担うあなたたちの課題ですという問いかけ。

それこそが、新しい知を生み出すメタ認知

これを、大学4年間で身につけてほしいというメッセージ

解答をするのは祝辞を聞いた東大生であり、われわれであり、上野氏の考察不要

上野千鶴子祝辞を絶賛する流れがどうしても腑に落ちないので書いておく

彼女を呼んだ東大評価するのはわかる。祝辞の論旨もわかる。けれども全文を読むと、納得感よりもむしろ反感のほうが上回ってしまう。リアルタイムで聞いていたらよりそう思っただろう。

「ちなみに東京大学理科3類は1.03、平均よりは低いですが1.0よりは高い、この数字をどう読み解けばよいでしょうか。統計大事です、それをもとに考察が成り立つのですから。」全くそのとおりである。正確な統計や適切な文書管理を疎かにするような国や組織がもしもあるとすれば、その未来は決して明るくないだろうし、国家であれば到底現代先進国を名乗る資格はない。それではこの1.03という数字はどう判断すればよいだろうか。年間100人しか合格者のいない科類で0.03のずれは、直感的には大きくない。

数字根拠となるのは、文部科学省の行った「医学部医学科の入学選抜における公正確保等に係る緊急調査であるhttp://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2018/09/10/1409128_002_1.pdf これによれば、1.03という数字平成25年から平成30年までの6年間における男女別合格率の比であり、この期間の延べ合格者数/受験者数は、男性501/1935、女性101/400であった。この数字はどのくらい「歪んだ」ものだろうか?ちょっと計算すればわかるが、合格率がちょうど等しくなるのは、男が498.87人の場合だ。つまり現実と「理想」は、たった2人しか離れていないことになる。受験年度を無視して男女計2335名の受験から602名の合格者を選んだ場合男性合格者の数は、超幾何分布H(2335,1935,602)に従うはずであるが、この分布501までの累積確率密度は62.7%であり、敢えて合格率が等しいという「帰無仮説」を棄却しようと思えばp値0.4をとらねばならない。とてもではないが、男女の合格率に差があるという結論はでてこない。

彼女社会学を専門とする学者であり、当然ながら統計には詳しい。「統計大事です、それをもとに考察が成り立つのですから」とまで言った彼女がこの「有意差なし」という事実を知らなかったはずはない。とすれば「1を越えていることには、なんらかの説明が要ることを意味します。」という発言は、控えめに言っても、統計事実に対する誠実さを欠いた悪質な印象操作との誹りを免れないだろう。

東大、あるいは日本(そして人類社会の抱える男女格差の深刻さは否定し難い。けれども、祝辞の内容それ自体は、大学構成員の男女比や一部不適切勧誘を行うインカレサークル存在といった客観的事実に基づいた証拠のみでも十分根拠づけられたはずである。そして、全体の論旨が首肯できるものであるから個別の不当な印象操作容認せよというのは、「江戸しぐさ」に対してその内容が道徳的に好ましいか歴史捏造をしてもよいという態度と変わらない。真実善意に混ぜられた嘘はしばしば、嘘だけの嘘よりも性質が悪い。

さらに言えば「男子学生東大であることに誇りが持てる」「東大男子学生はもてます」「あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはず」といった発言乱暴に過ぎる。男女を問わず東大生や東大卒というだけで理不尽批判を受けたりや偏見の目で見られたりすることはある。「一応東大」という決まり文句存在し、テレビはしばしば東大生を無感情機械珍獣のように扱う。男でも東大であることを明かしたがらない人がいないなどとはとても言えない。合コンも男なら皆行くわけではなく、(少なくとも理工系では)相当数の学生恋愛とは無縁なのであって、合コンに行く東大生はもてるというのは「強者強者だ」というトートロジーにも聞こえる(もっとも、「もてる」こと自体価値を見出さな学生にしてみればどうでもよいことだが)。そして、大学受験というごく限られた世界に限っても、努力した人が全員合格しているわけではないということぐらい、大抵の新入生は見てきただろう。そもそも、初めて会った人間の内心について「はず」などという決めつけをするのは、単に相手意志もつ人間として見ていないということではないか

これらの発言彼女自身差別的バイアスによるものだと考えてしまうのは、果たして私のバイアスなのだろうか…… 今まさに暴力を振るってくる者への抗議ならば激情の滲むこともあるだろうが、相手は新入生なのである解決すべき課題があり、伝えるべき言葉があるのなら、まずするべきは数字に誠実に向き合い、語りかける相手リスペクトすることではないのか。

平成31年東京大学学部入学式祝辞は名文か

まず最初に。

私は上野千鶴子という人をさっきまで全く知らなかった。

今回の東大入学式祝辞に関するコメントの中に

「これまでの上野千鶴子言動に反感を持っている人は素直にこの祝辞の良さを受け取れない」

というようなものがあって、まぁそういう人達もいるのかもしれないが、

私はこの人に思うようなところがあるわけでは決してない。

さて、入学式祝辞に関してであるが、東大入学式では毎年とても素晴らしい祝辞が送られていると思う。

特に去年(平成30年度)のものは強く印象に残っていて、ふと内容を思い出すことがある。

しかし当時(そして今も)、これが話題になることは全くなかった。

まぁ世の中には名文があふれているので、全ての名文が必ずしも脚光を浴びることはないのは当然だが、

今年の祝辞に感動したと言っている人達は、去年の祝辞を読んでも同じようにこれ見よがしに賞賛してくれただろうか?

どうも当の新入生の中に、上野氏の祝辞文句を言っている人達がいたらしい。

私はただの部外者だが、確かに読んでいて多少イラついてしまった。

その理由言語化して置いておきたい。

1. 新入生は受験という枠組みに従って入学しただけであり、不正入試だの女子教育だの言われても、彼らにはどうしようもないではないか

 むしろ「じゃああなたがなんとかしてくださいよ」と感じてしまっても不思議ではない。

 なにせ言っているのはウィメンズ アクションネットワーク理事長なのだ

 もちろん、上野氏としては、氏一人で出来ることには限界があり若い世代意識を変えていくことで、

 より長期的な視点でも社会を良くしていきたいという気持ちがあったのだと思う。

 しかし新入生にそのような意図が伝わるような話の運び方だっただろうか。

 なにか「自分達にはどうしようもない事柄に関して責め立てられている」ようには感じなかっただろうか。

2. 上野氏は

あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。

 ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会あなたたちを待っています

 そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。」

 と述べている。

 私も同意である。正しいことを言っているように聞こえる。

 しかし、それは赤の他人から釘を刺すように言われなければならないことだったのだろうか。

 受験突破した本人が「環境のおかげでした」と自発的に思えるのならそれは良いことだが、なぜをそれを強要しようとしたのだろうか。

 新入生それぞれに彼らなりの「環境」がある。

 なかに努力が公正に報われない思いをした、またはしている人達もいるのではないか

 それらを知りもしないはずの上野氏に「環境のおかげだったこと忘れないようにしてください」などと言われる筋合いはないだろう。

3. 最後に、細かい違和感であるが、上野氏は

女子学生合格率に対する男子学生合格率は(中略)ちなみに東京大学理科3類は1.03、平均よりは低いですが1.0よりは高い、この数字をどう読み解けばよいでしょうか。

 統計大事です、それをもとに考察が成り立つのですから。」

 と述べており、私はこの部分を読んだ時、純粋に心の底から、その数字をどう読み解けばよいのかがわからなかった。

 そして上野氏は、それを読み解いてくれることも、考察することも結局なかった。

 あまりにも無責任ではないだろうか。

 「統計大事です」というのであればせめて「1.03」という数字統計的に有意なのかどうかだけでも言及してほしい。

 ちなみに調べてみると、理科3類の合格者数は毎年100人前後であるようだ。

 上野氏が「1.03」という数字をどこから引用しているのかは不明だが、これを「1.0よりは高い」と評価することにはたしてどれほどの読み解きがあるのだろうか。

入学式祝辞とは新入生に向けた言葉であるべきだと私は思っている。

しかし、今回の上野氏の言葉真摯に新入生のことを考えたものだとは私には受け取れなかった。

もちろん人によっては「何か」は得られたと思う。

しかしそれは「聴き手の意識次第ではどんなスピーチでも良い点を見つけられる」程度でしかない。

はじめの方に書いた通り、東大入学式祝辞はどれも見事であり、公開して残しておく価値のある言葉たちである

それら歴代の名文に比べると、上野氏の祝辞はるか駄文であったと言わざるを得ない。

2019-04-11

[]キャプテン・マーベル

キャプテン・マーベル』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向けですぞ

総評

ほどよく100点。点数の基準は「上映時間映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。ふむふむ満足であるぞ、と思いつつ帰路についた。とは言え、帰路において考察が止まらないとかはなく、色んな部分が程よく狙ったように及第点ではある。

MCU(マーベルヒーロー映画シリーズ程度のことだと思いねえ)ファン的にはくすりとわらえたり、ほろりと出来たりする要素はありつつ、全体としてのアクションCGバトルの派手さも有りつつ、脚本もウザくならないように欠点塞ぎつつ、いい感じというのが個人評価。大傑作じゃないけど程よく佳作。

ゆえに以上で感想終了である

ヒーロー内面資格

というわけで、ここからさきは感想じゃなくて感想風になる。

キャプテン・マーベル』は良かった。しかし、実はその良かった部分が自明じゃない。様々な要素が程よく及第点から全体合計で佳作なんだけど、何か突出した、訴えかけてくる部分が見つけづらい。

でもそれって無いわけじゃない。無かったら上映後もっと気持ちが尻すぼみになったと思う。だから良かった部分をちゃん言語化しておくほうが良いと思ってのメモだ。

いろいろ考えてたのだけど、『キャプテン・マーベル』は空っぽなところが良かった。その内面というか、背景が、他のヒーローに比べてポジティブに空白だ。そこが素晴らしく良かった。

ヒーローというのは超越的な存在で、それは能力的なものもそうなのだけど、内面的にもそうである必要がある。「信じられないほどの苦境や絶望に対して敢然と立ち向かう断固たる決意」みたいな部分だ。しかし一方で、ただ超越的であるだけではなく視聴者である凡人の僕らと地続きである必要もある。そうじゃないと視聴者ヒーロー感情移入することが出来なくて、彼らの苦悩や活躍他人事の白けた話だとしか思えなくなってしまうからだ。

アイアンマンキャプテン・アメリカというスーパーヒーローであっても、彼らの抱えた周囲から無理解へのいらだちや、内面孤独や、大切な人を失ってしま絶望という様々な苦難は、もちろん具体的な状況は違うのだけど、僕ら一般人生活を営む上で出会うそれらと変わりがない。ヒーローヒーローでありつつ僕らと同レベル人間存在であって、その同類が困難に向かって立ち上がるから胸が熱くなる。

マーベルというアメコミ企業は、扱ってる商品性質上、ヒーロー専門家であって、ヒーローについて多分毎日毎日めちゃくちゃ真剣に考えているから、そういうドラマの基本を十分に研究していてヒーローを生み出している。

その結果、例えば肉親を悪の襲撃や事故で失ったり、自分の将来の希望を奪われたり、社会からの拒絶で友を失ったり、両親との関係コンプレックスがあって取り戻せなかったり、愛を交わしたパートナーに去られたりする。……よくあるなー。

そういう内面的な危機を乗り越えた「から精神的に強いヒーローなのだー! ばりばりばりー! みたいなシナリオは本当に多い。でも、それってなんかこう……やりすぎて陳腐になったり、これみよがしな悲劇ドラマになったりもする。

言い方は悪いが「こんなにひどい目にあったんだから超絶能力を手に入れてもええやん?」みたいなエクスキューズにも見えてしまうのだ。ドクター・ストレンジお前の映画のことだゾ。

この「1)なんだかんだで凡人→2)内面的な困難や絶望の超克→3)不思議出来事が起きてヒーローパワー入手!(2と3は順不同)→4)乗り越えた主人公の爽快なアクション!→5)解決!」というドラマ構造はすごく強力なテンプレなのであらゆるメディアで見ることが出来る。

この構造において、ヒーロー内面的な資格は「不幸とその超克」だ。

でもたぶん、『キャプテン・マーベル』はそこに対して距離を取った。

ドラマを支えるために一応取ってつけたようにその構造はあるのだが、その部分には明らかに重心をおいていない。

主人公キャロルダンヴァース(キャプテン・マーベル)は、たしかにクリー人に洗脳されて傭兵扱いされてたわけで、そういう意味で裏切られていた(っていうか洗脳されてたって相当ひどい過去だよな。エリア88風間シンよりやべーだろ)わけだけど、じゃあそれが彼女内面悲劇であり彼女の中心か? というと別にそんなことはない。

リー指導者である超AIにたいしても自分を騙していた直接的な上官にたいしても、別段そこまで復讐意思はなさそうだ。現に上官のヨン・ロッグは叩きのめしたけれど宇宙船にわざわざ乗せてクリー星へ送り返している。

映画を見終わったあとに振り返ってみたけれど、彼女内面的な意味ヒーローになったきっかけというか契機となるイベントは実は本作のメインな時間軸中に存在しない。そのイベントの欠如は、従来の判断によればドラマ設計の失敗を意味するはずだ。でも、設計失敗の割にこの映画破綻してないしちゃんドライブされている。

これってどういうことなのか? 内面葛藤を経ていないキャロルは前述のヒーロー資格においては失格であるはずだ。しかし画面の中の彼女はさっそうとしてて格好いいし、見ていて気持ちいいし、応援も出来るしヒーローに見える。これってどういう設計なのだろう?

結論から言うと、その資格論にたいする本作の返答は「主人公キャロルダンヴァースは最初からヒーローだった」だったいうものだ。

この「最初から」というのは、文字通り子供の頃からという意味で。

作中でインサートされるように、キャロルは、子供時代記憶としてカートレース事故にあう。子供野球三振する。軍の教練において体力勝負で負けて周囲から笑われる。つまり、僕ら凡人がするような挫折を一通り普通にやっている。

そして彼女はなんだかんだ人生につきもの紆余曲折を経て、当時まだまだ女性に対しては門戸を閉ざしていた空軍パイロットエリート象徴でもある!)に実験部隊ということで潜り込んでテストパイロットになる。

その実験部隊トラブルが起きて、キャロルは恩師ウェンディローソン博士を助けるために飛行任務立候補し、その騒動の中であわや命を失うというところまで行くのだが、それはさておき。

その実験部隊で同僚でもありキャロル親友黒人女性パイロットマリアランボーセリフに「その時(恩師を助けるためにパイロット立候補したときの)のあんたはまさにヒーロー登場! って感じだったよ」というものがある。過去を回想する形で親友主人公を思い返した言葉だ。

この立候補ときキャロルスーパーヒーロー能力を持たない普通地球人だったわけだけど、にもかかわらず、「まさにヒーロー」だったわけである

能力のみならず、内面危機においても主人公キャロルはこの時点で、ヒーローにつきもの特別悲劇経験していない。恋人を謎の組織に殺されたりしてないし、四肢を切断されて生きる力を失ったりしてないし、故郷帝国に焼き尽くされたりしていない。

この作品は「それでもいいんだ」と言っている。そこが良かった。

まりカートレース事故から負けん気で立ち上がったとき子供野球三振したけど凹まずに再挑戦したとき、軍の訓練の綱登りで落下してもへこたれなかったとき、そのときキャロルダンヴァースはすでにしてヒーローであった。あらゆる困難に「なにくそ!」と立ち向かったとき、「すでにしてヒーロー資格を得ていた」わけだ。もちろんアクションバトル映画であるので、主人公キャロルヒーロー能力を得たあとにも虐げられたスクラル人を助けようとして銀河規模の争いに身を投じる訳だが、それはなにも特別なことではなくて、「眼の前の困難に対して意地や義侠心で立ち上がる」ことそのもの子供時代と変わらない。

あらゆる人のあらゆる人生につきものの、しかし本人にとっては重要な、日常の無数の挫折や失意から立ち上がること、諦めずにチャレンジするその姿勢、それこそがヒーローであると『キャプテン・マーベル』という作品は主張している。

それはつまり主人公キャロルだけではなく、広く開かれた一般凡人である視聴者への無言のメッセージでもあるのだ。「ヒーローになるにあたって特別巨大な悲劇喪失必要ない」。「この映画を見ている圧倒的多数普通の人々も十分ヒーロー足りうるよ!」と言っている。

これは脚本家が、従来のヒーロードラマに対してまだまだ満足せずに、ドラマ構造として一歩先に進もうとした野心の結実のように思える。

そのチャレンジがとても良かった。

ハリウッドアメリカロールモデル

アメリカ映画において、とくにハリウッド映画において、さら子供ターゲットに含めたヒーロー映画において、ロールモデルっていうのはすごく重要ポイントだ。ロールモデルっていうのはざっくり「目指すべき人物像」とでも言えると思う。「こういうのが良い人間です」という制作側の提案、という側面がハリウッド映画には確かにある。

日本ではちょっと馴染みのない考え方かもしれないけれど、要するに子供の頃に課題図書で読む偉人伝と同じような役割文化装置だ。二宮欣二とか野口英世とか夏目漱石とか聖徳太子とか。あのような人々の物語と同じようなジャンルとしてキャプテン・アメリカアイアンマンがいる。

人々は彼らに憧れるとともに、彼らを通して、正義や公や仁愛や克己を学ぶ。どういうモデルが「目指すべき人物像」になるかっていうのは、当然制作側/脚本側の提案によるんだけれど、その背景には当然制作当時の(主にアメリカの)世相が反映されている。

近場で言えば『アクアマン』では主人公アーサー・カリー が抱えた苦悩は、まさに「移民二世が抱えるアイデンティティ問題」「おれはどっちの子供なのよ?」であって、すごく現代的だった。

アントマン』においては「娘に愛されたい父親としての俺と、金を稼ぐ社会の中での俺のどっちを選べばいいの?」というこれまた現代的でヴェットな問題が提起されている。『インクレディブル・ファミリー』においては「あっれー。なんか嫁さんのほうが稼ぎ多くて俺ってばヒモみたいな生活になりつつあって、家庭内での俺の地位とか、俺のオトコとしてのプライドとか、どうすればええん?」という現代的な――なんか世知辛くてしょっぱい話になってきたなあ。

MCUにおける二大ヒーローキャプテン・アメリカアイアンマンは「能力を持つもの社会貢献」をめぐる物語対立する。世界を救う能力を持つヒーローは、なんで救う義務があるの? というわりと古典的で、でも正義をめぐる物語としては避けて通れぬ踏み絵のようなテーマだ。

その問答に『キャプテン・マーベル』は踏み込まない。主人公キャロルは行動するが、行動に前だつ問答はない。それこそが彼女提示したヒーロー像で「アメリカ人の目指すべきロールモデル」だ。

困難を前にしてくじけない。不撓不屈。弱者に対して自然に寄り添う慈愛と、押さえつけてくる不当な力に対する反発。しかしそれらは、そういう問題がなにか特別大きな悲劇から、滅すべき悪だから立ち上がるというわけではなく、ごく自然に「それが私だから」というスタンスで、重く扱われない。そこで重要なのがくだらないユーモアと友人と日常であって、災厄を目の前にしてもひょうひょうと立ち向かう。ただ、絶対にくじけない。破れても失敗しても「もう一度」チャレンジする。

主人公キャロルはその戦闘能力においてMCUのなかでもかなり最高峰位置すると思うのだけど、政府超人兵士計画で生まれキャプテン・アメリカよりも、悲劇を背負った社長発明家大富豪ちょいワルモテ親父のトニー・スタークよりも、その内面姿勢において一般的な視聴者に近い。「顔を上げて誇り高く自分らしく生きる」だけでヒーローとして立っている。

その軽さ、明るさ、が心地よい映画であったと思う。

2019-04-10

anond:20190410223420

提示だけして居心地を悪くすることは、作品に悪印象を残すことになり、悪い印象の作品から何かを学ぼうとすることは人間はあまりしないので、負の効果があるでしょう。それを超える正の効果がある、とする根拠はないように思われます

作品全体が好評価になるのを見越してこの手法をとったのでは。悪印象を挽回できるほど全体が良ければこの手法機能するわけですよね。

商業性を捨てた善意を追求している、という過程は、かなり蓋然性が低い、とはいえるかと。

この件については反証する方法があります制作サイドの人間の”動物ファースト”的でない行動・言動確認できたなら、作品善意を載せた可能性を否定できるでしょう。

危険で、恐ろしいビーストから逃げず、敢えて解り合おうとする」ことをやりたいのかもしれませんが、暴れまくるビーストをどうやって船に乗せて連れてきたか、なぜみんな無事なのか

「動くものは何でも襲ってくるぞ!」とゴリラが言っています。キュルルちゃん(とかばんさん)はボート上でそれに気づき、動かなかったんでしょう。皆さん言ってらっしゃるセルリアンに、けしかける」ですが、けしかけたと取れるシーンは実はありませんよね。ホテルに飛び移るビーストを二人の力では止められないでしょう。探さなかったのはビーストボートまで跳躍できる膂力があったので、ホテルからも逃げられると踏んだのもあるのでは。

全体の平均を取ると、「初見面白くないと感じる作品の、考察は、されにくく、されても特に人気に繋がらない」ことになります

データを取ってはいないでしょう?... いえ、ご経験理由としているのはわかります

視聴者の多くというか「ざまあ」と言った人の多くは、ですね。まぁ視聴者の多くは、イエイヌに対するキュルルちゃんの行動・言動問題があったと判断しているでしょう。

ただただ悲しい派・このような扱いにした制作を許せない派 もいらっしゃいました。集計をとったわけではないので比率がどうかは不明です。「他のキャラなりに、うながさせるとか方法はいくらでもあるのです。」なるほど。カラカルに「ほら、この子にお礼言いなさいよ」とか言わせたら、確かに印象はずっと良くなりますね… ただ俺はキュルルちゃんの落下のためにああでなければの立場ですので。

ドラマ的にすると、各イベントの発生を偶然に頼るというのは、どういうことでしょうか?

たとえばケムリクサで、わかば水槽転送されたり、橋のヌシに出くわしたり、多くのイベントは偶然じゃないですか。フィクションなので気にならないわけですが、キュルルちゃんの「大好きだー」を必然的にするイベントを追加してもその発生は偶然によるものになるのでは。イベントを廃した結果、自分で振り絞っているような描写になって脱フィクション化がなされた。いえもちろん、偶然によらないイベントを用意したり他の流れと同じ原因から始まる必然的結果にするのは不可能ではないでしょう。その意味リソースが潤沢にあれば、と申しました。

量より質ですね。

売り言葉に買い言葉になってしまますが… けもフレ1の最終戦でのフレンズ同士の交流はそれほど高質でしたか主人公勢以外での話です。けもフレ2で多かったのはそちらなので。

そんな状況で、のほほんとしてると、セルリアンの存在危険自体茶番に見えてしまって

オオミミギツネさんのシーンはそれに該当していますが、ギャグ的な魅せ方で俺は流されてしまいました。初見では。

エンタメ否定した純文を作りたかったわけではないと私は思います

意見尊重します。覚悟たかどうかも今後のスタッフの様子からおそらく判断できるでしょう。

最初からフレンズに親切ですし、特に自分フレンズを好きだと気づいていない」ようにも見えないので、「自分フレンズを好きだということに気づいた」と言われても、盛り上がりがないんですよ。

最初からフレンズ」ですが、必ずしもそうだとは言い切れないと思いますジャングルでは及び腰だったし、荒野では面倒事に巻き込まれないように逃げようとしていました。当時基本的にはおうちを探すことを優先していました。その割に車掌ラッキーさんに振り返ってお礼を言ったり、リョコウバトに絵を描くために夜を徹したりします。まあ確かに「なんでこんなに気を使ってるのかわからない」的な描写があれば更に盛り上がったでしょうね...

キュルルの正体って、一話のキュルルが出てきたところに、サンドスターがあって、ラストで、パークが無事な時からいたことがわかるから、キュルル自身フレンズだろうという話ですか?

厳密には一話の施設の様子などに、当時の様子が推理できる判断材料がありますが、概ねそうです。サンドスターコールドスリープさせる機能が描かれていないし、記憶を失っているのもフレンズ化と合致します。パークの客ならばパークの外におうちがあったんでしょう。

anond:20190410214219

「よくご存じですね。委員会の人ですか?」そういう言い方をされるのは腹立たしいです。俺のほうが何か不当な振る舞いを先にしていてたなら教えてください。もちろん一般的ネット関係者ではないという証明はできません。直接当人じゃなくても家族かもしれないし、恩人かもしれない。だから信じていただくしかないです。唯のファンです。

なるほど。いや「その可能性に委員会は賭けたんです」と断言されてたので、何か委員会に関する情報があるのかなと。

それはそうです。提示して、居心地の悪さを与えてそこで止めた。この手法にどれだけの効果があるかは未だわかりませんが、印象を残せたとは言えるのでは。

提示だけして居心地を悪くすることは、作品に悪印象を残すことになり、悪い印象の作品から何かを学ぼうとすることは人間はあまりしないので、負の効果があるでしょう。それを超える正の効果がある、とする根拠はないように思われます

SNSなどでの行動が必ずしも売上につながらないだろうとの説明を以前いただきましたが、それには説得力を感じました。商業的な基準で動いていない部分はたしかにあります。「だとすると」で対象限定するのは論理的でないと思います。先に善意合理的でありうる理屈を付けましたが、一期ファンへの悪意が合理的、という理屈はまだ与えられていません。

商業性を捨てた善意合理性を見るなら、商業性を捨てた悪意にも同程度の合理性は出てきます。まぁ悪意はさておくとして、商業性を捨てた善意を追求している、という過程は、かなり蓋然性が低い、とはいえるかと。

個人的には逃走を促されたときに「このまま行こう」としたのが、解り合おうとした、に入ると思うのですが、充分ではないと感じていらっしゃるのですね。

危険で、恐ろしいビーストから逃げず、敢えて解り合おうとする」ことをやりたいのかもしれませんが、暴れまくるビーストをどうやって船に乗せて連れてきたか、なぜみんな無事なのか、等がわからないので、危険さも、それを乗り越えようとする意志や行動も見当たらないのです。

キュルルちゃんは気にかけていた、と思います。パークの他のメンバーは全くそうでないので相対的に浮き立っているのでは。消えたビーストに気づいておらず、ビースト自身は神出鬼没なので探さなくても薄情というほどではないと感じました。

セルリアンに、けしかける」は相手のことを思った行為でもなんでもないですよね。ビースト自分の都合で利用するだけして、その後も、何も気にしてない。キュルルちゃんにはキュルルちゃんで考えてることがあるのかもしれませんが、それが示されてないので、薄情にしか見えないのですよ。

承服できませんが、反論する材料の持ち合わせもありません。

世の中には色々な人がいて、一人一人異なる意見を持ってます。それのどれが正しい、間違いというわけではないですが、全体の平均を取ると、「初見面白くないと感じる作品の、考察は、されにくく、されても特に人気に繋がらない」ことになります。もちろん例外はありますが、例外には例外理由があるわけです。

仮にそうだとすると、海に落ちたときに「ざまあ」と言われたのは、視聴者の多くがキュルルちゃんの行動にはイエイヌに対して責任があったと判断した根拠になりますね。俺が彼女の行動を責められないと思う理由は既に述べました。

視聴者の多くというか「ざまあ」と言った人の多くは、ですね。まぁ視聴者の多くは、イエイヌに対するキュルルちゃんの行動・言動問題があったと判断しているでしょう。あなたから見てキュルルちゃんが責められないとして、制作者は、それをきちんとわかりやすく示すべきです。キュルルが、とっさにイエイヌにお礼を言うことを思いつかなかったのなら、他のキャラなりに、うながさせるとか方法はいくらでもあるのです。

いいえ、フィンクション的でない書き方を目指したのではと申していますドラマ的にすると全体の流れは合理的でも各イベントはどうしても発生を偶然に頼るところがあります。もちろんそれでも潤沢にリソースがあれば両立できるでしょう。

すいません、よく意味がわかりません。ドラマ的にすると、各イベントの発生を偶然に頼るというのは、どういうことでしょうか?

けもフレ2の方がフレンズ同士の会話量は多かったと思います

量より質ですね。

ヒト型セルリアンに吸収されそうになったフレンズは描かれていません。必死さが必要なほどは恐ろしくはなかったと判断しています。緊張しているからこそ笑いは活きるのでは。

気を抜くとヒト型セルリアンに吸収される危険な状況であることは変わりません。そんな状況で、のほほんとしてると、セルリアンの存在危険自体茶番に見えてしまって、リアリティを失うのです。

緊張してる時にこそ笑いが生きる場合がありますが、それは、危険な状況の中で、敢えて、笑おうとする場合の話です。キャラクターが、危険理解したそぶりもなく、漫才めいた会話をやってることではありません。

文学作品というか純文学? その辺りのものは内容が予め示されないでしょう。書き逃してしまったのですが、実際にはけもフレ2はカレーでもエンタメ小説でも文学作品でもありません。どのようなものと捉えるか、どれほどを期待するか。これは許容範囲問題です。

エンタメ的な価値観でない、文学的価値観から評価可能でしょう。ただエンタメ商業作品次回作で、エンタメでない純文を目指したら、そりゃ客は低い評価を下します。それも覚悟で作ったのなら、それでいいでしょうし、そういう覚悟がなかったなら、アホだなぁと思います。でまぁ、別にエンタメ否定した純文を作りたかったわけではないと私は思います

同意できません。最後の一ページの行方とキュルルちゃんの正体が最後のたったワンカット解決されるのはエレガントでしょう。”おうち自体位置”は眼目でないと思います。一行はおうちの手がかりを追って旅したのであって、おうちの場所は一度も問題にされていません。

おうちを捜してたんだから、おうちに着かなくてもいいけど、おうちが何だったかを明らかにしてください。

蛇足かもしれませんが、ミステリ観点についてもう少し説明させてください。個人的には「フレンズのみんなが大好きだからここをおうちと決める」のは合理的だと思っていますが、そもそも「大好きなんだーっ」に至る理由が足りてないとは思っていました。作中全体のドラマでキュルルちゃんフレンズを好きになったという話が見当たらない。発想を転換して、キュルルちゃんはもともとフレンズを好きだった、だが気づいていなかったと捉えるのはどうでしょう。「フレンズを好きだということに気づいていく」というお話だったんです。フウチョウとのやり取りで、「これはもともとおうちを探すために描いたんじゃないから」と言ってました。そこで初めてスケッチブックの絵の理由に思い当たった。最終話EDでこれ見よがしにスケッチブックの絵が流されますけもフレ1ではフレンズの影と旅した風景でした。ED表現はヒントだったのではないでしょうか。今まで絵は散発的に出てきましたが、まとめて並べられたことはなかった。あれを見せられた観客はスケッチブックの絵にはほとんどフレンズの姿がないことに気づくわけです。ゴリラは後ろ姿だし、ペパプはいるけど荒野のはなんかわからない影だし。キュルルちゃんが描いてきた絵はすべてフレンズが楽しそうにしている。そういうものフレンズに渡してきた。スケッチブックにはそんな画風のがなぜ無いのか。要するに全部フレンズにあげてしまたからです。イエイヌの持っていた最後の一枚は当時描かれた絵の行方を示していました。昔も今と同じようにフレンズを好きだった。視聴者最後カットでそれを発見するんです。

キュルルは(イエイヌとかビーストの件を除くと)最初からフレンズに親切ですし、特に自分フレンズを好きだと気づいていない」ようにも見えないので、「自分フレンズを好きだということに気づいた」と言われても、盛り上がりがないんですよ。

ちなみに、キュルルの正体って、一話のキュルルが出てきたところに、サンドスターがあって、ラストで、パークが無事な時からいたことがわかるから、キュルル自身フレンズだろうという話ですか?

anond:20190410195734

「よくご存じですね。委員会の人ですか?」そういう言い方をされるのは腹立たしいです。俺のほうが何か不当な振る舞いを先にしていてたなら教えてください。もちろん一般的ネット関係者ではないという証明はできません。直接当人じゃなくても家族かもしれないし、恩人かもしれない。だから信じていただくしかないです。唯のファンです。

「単にテーマ追求をやめる」ことには意味がないです。

それはそうです。提示して、居心地の悪さを与えてそこで止めた。この手法にどれだけの効果があるかは未だわかりませんが、印象を残せたとは言えるのでは。

もし、けもフレスタッフ商業以外の目的のために、エンタメ基本的面白さ、そこから来る売り上げを捨ててるというのなら、彼等は要するに、商業的な基準で動いてないわけです。だとすると、彼らが一期および一期ファンへの悪意で作ってるという推測も同程度に合理的ということになります

SNSなどでの行動が必ずしも売上につながらないだろうとの説明を以前いただきましたが、それには説得力を感じました。商業的な基準で動いていない部分はたしかにあります。「だとすると」で対象限定するのは論理的でないと思います。先に善意合理的でありうる理屈を付けましたが、一期ファンへの悪意が合理的、という理屈はまだ与えられていません。

「解りあえなかったとしても、解ろうとするのは別にいいじゃん」から来てるのに、全然解り合おうとする様子も、解り合った様子もないところが、まず肩すかしです。

個人的には逃走を促されたときに「このまま行こう」としたのが、解り合おうとした、に入ると思うのですが、充分ではないと感じていらっしゃるのですね。

ビースト場合特に何とも誰とも繋がってない

キュルルちゃんは気にかけていた、と思います。パークの他のメンバーは全くそうでないので相対的に浮き立っているのでは。消えたビーストに気づいておらず、ビースト自身は神出鬼没なので探さなくても薄情というほどではないと感じました。

初見面白くないと感じる作品の、考察は、されにくく、されても特に人気に繋がらない

承服できませんが、反論する材料の持ち合わせもありません。

そいつに全く責任がなくても、あまりにも疫病神キャラに対して「酷い目に遭ってほしい」と思う場合もありますが、そういう場合は、そのキャラ自体が嫌いになっています

足引っ張り系ヒロインみたいなやつですね。

不快感を与える行動をしたとしても、そいつ責任がないと同情できるキャラは、酷い目にあってほしくありません。

仮にそうだとすると、海に落ちたときに「ざまあ」と言われたのは、視聴者の多くがキュルルちゃんの行動にはイエイヌに対して責任があったと判断した根拠になりますね。俺が彼女の行動を責められないと思う理由は既に述べました。

主人公キャラ不快感を感じると、作品全体の評価が下がるんですよ。

必ずしもそうでないと思いますが、これも反論できません。

わざわざ伏線放棄してつまらないと思わせる必要はないのです。現実の厳しさを描くからといって、面白作品を作ろうと思えば作れるのに、わざわざ、つまらない作品制作者が目指した、というのは、私から見て悪意のある解釈です。

いいえ、フィンクション的でない書き方を目指したのではと申していますドラマ的にすると全体の流れは合理的でも各イベントはどうしても発生を偶然に頼るところがあります。もちろんそれでも潤沢にリソースがあれば両立できるでしょう。

もっと全く違う印象のものにしたほうが良いでしょうが、さておいて「これはけもフレ1とは違う作品で、違う切り口で作っているんだな」と視聴者に心構えをさせ、けもフレ1と違っても、単なるミスではなくて、何か意図があるのかなと考えさせる効果があります。つまりけもフレ2をけもフレ2として評価やすします。

うーん、個人的にはけもフレ2の事前の印象は異なっていると見えていてギスギスは十分許容範囲なのですが、一般論としては理にかなっていると思います。どこかのコメントでもナンバリングタイトルにしない方が良かったと言ってる方はいました。

けもフレ1でも、これまでのフレンズが、これまでのかばちゃんとの思い出を生かす形で大勢出てきますし、フレンズとの交流を絡めることと、緊張感を保つことは両立します。

けもフレ2の方がフレンズ同士の会話量は多かったと思います

「恐ろしい敵との生死を賭けた戦闘中に、緊張感のない漫才をやる」は、両者の良いところを打ち消しあってます

ヒト型セルリアンに吸収されそうになったフレンズは描かれていません。必死さが必要なほどは恐ろしくはなかったと判断しています。緊張しているからこそ笑いは活きるのでは。

商品内容をはっきりさせて誤解させない」ことは商売原則倫理であり

文学作品というか純文学? その辺りのものは内容が予め示されないでしょう。書き逃してしまったのですが、実際にはけもフレ2はカレーでもエンタメ小説でも文学作品でもありません。どのようなものと捉えるか、どれほどを期待するか。これは許容範囲問題です。

ミステリなら、「謎の存在であるキュルルが、スケッチブックという手がかりを追って、おうちを捜す」という話で、キュルルの正体もおうちも見当たらない時点で、零点です。

同意できません。最後の一ページの行方とキュルルちゃんの正体が最後のたったワンカット解決されるのはエレガントでしょう。”おうち自体位置”は眼目でないと思います。一行はおうちの手がかりを追って旅したのであって、おうちの場所は一度も問題にされていません。

蛇足かもしれませんが、ミステリ的観点についてもう少し説明させてください。個人的には「フレンズのみんなが大好きだからここをおうちと決める」のは合理的だと思っていますが、そもそも「大好きなんだーっ」に至る理由が足りてないとは思っていました。作中全体のドラマでキュルルちゃんフレンズを好きになったという話が見当たらない。発想を転換して、キュルルちゃんはもともとフレンズを好きだった、だが気づいていなかったと捉えるのはどうでしょう。「フレンズを好きだということに気づいていく」というお話だったんです。フウチョウとのやり取りで、「これはもともとおうちを探すために描いたんじゃないから」と言ってました。そこで初めてスケッチブックの絵の理由に思い当たった。最終話EDでこれ見よがしにスケッチブックの絵が流されますけもフレ1ではフレンズの影と旅した風景でした。ED表現はヒントだったのではないでしょうか。今まで絵は散発的に出てきましたが、まとめて並べられたことはなかった。あれを見せられた観客はスケッチブックの絵にはほとんどフレンズの姿がないことに気づくわけです。ゴリラは後ろ姿だし、ペパプはいるけど荒野のはなんかわからない影だし。キュルルちゃんが描いてきた絵はすべてフレンズが楽しそうにしている。そういうものフレンズに渡してきた。スケッチブックにはそんな画風のがなぜ無いのか。要するに全部フレンズにあげてしまたからです。イエイヌの持っていた最後の一枚は当時描かれた絵の行方を示していました。昔も今と同じようにフレンズを好きだった。視聴者最後カットでそれを発見するんです。

anond:20190410171528

そうでない理由はないでしょう。その可能性に委員会は賭けたんです。

よくご存じですね。委員会の人ですか?

医者に出来ないことはありますが、医者行くのやめたら健康になる可能性に賭ける、という主張に合理性はありません。

よくできたアニメ、よくできた物語は、ある程度人の心を動かす力があります。それで足りないと思うなら、それ以外の方法論を捜すことはできますが、「単にテーマ追求をやめる」ことには意味がないです。

作品のゴールが、売上やエンタメ作劇論でいう面白さ以外にあるとしたら、けもフレ2が失敗だったのかさえまだ判断できないでしょう。

私は前に「商業作品なのだからファンへの悪意で作品を作るわけはないだろう」と主張しました。

もし、けもフレスタッフ商業以外の目的のために、エンタメ基本的面白さ、そこから来る売り上げを捨ててるというのなら、彼等は要するに、商業的な基準で動いてないわけです。だとすると、彼らが一期および一期ファンへの悪意で作ってるという推測も同程度に合理的ということになります

他の目的もあるけど、商業的な目的も重視してる、というのなら、商業的な面では失敗ですね。

すいません。アイデアの語を選んだのが誤解を招きました。「一般的な作劇として...そこに意味を持たせるわけです。キュルルが人類の罪深さを知って、それを贖罪しようとするとか」について言ったつもりです。

「とか」と書いた通り、キュルルが贖罪する必要はないのです。意味を持たせろと言っています

俺も生死は問題視していません。けもフレ2作劇の方向性がみてとれる判断材料として取り上げたつもりです。

なるほど。それはそれとして、ビーストの生死を隠す作劇のために、キュルルを薄情に見せたら、作品評価が下がるという点は変わりません。

そうでしょうか。意思のない怪獣が大暴れするとか… 観念的な代理役がアクションを行う作品はあると思います

お話の流れ的にはキュルルの「解りあえなかったとしても、解ろうとするのは別にいいじゃん」から来てるのに、全然解り合おうとする様子も、解り合った様子もないところが、まず肩すかしです。

次に怪獣人格がない場合は、「家族怪獣のせいで失って復讐鬼となった男」とか「怪獣によって故郷を失った人々」とか、そういった感情移入要素を起きますビースト場合特に何とも誰とも繋がってないので、感情移入が、ほとんど、できません。

必要がある”とまで言える理由がありますか。俺のようなネット考察班が表立って声を上げにくいのは、養護即悪の空気があるからです。

必要」と書いたのは書きすぎかもしれませんね。初見面白くないと感じる作品の、考察は、されにくく、されても特に人気に繋がらない、と、訂正します。

不快感を与える行動をしたヤツが酷い目に遭うのが気持ちいいわけです。

違います。「酷い目にあって当然だ、と、思えるキャラが酷い目に遭う」のが気持ちいいのです。「酷い目に遭って当然だ」と思えるのは、悪いやつ、嫌いなやつだったり、悪いことに対して責任があるキャラクターです。

不快感を与える行動をしたとしても、そいつ責任がないと同情できるキャラは、酷い目にあってほしくありません。

より細かい話をすると、そいつに全く責任がなくても、あまりにも疫病神キャラに対して「酷い目に遭ってほしい」と思う場合もありますが、そういう場合は、そのキャラ自体が嫌いになっています

ところでキュルルちゃん評価下落はある程度は、けものフレンズ全体として問題ないのではないでしょうか。売りたいのはサーバルカラカル・ペパプといった動物擬人化キャラクターでしょう。人気アンケートをやったらけもフレ2が生み出したイエイヌは、かばちゃんサーバルと二位を争えるレベルの人気になるのでは。

前にも述べましたが、主人公キャラ不快感を感じると、作品全体の評価が下がるんですよ。またイエイヌ相対的に人気が出たでしょうが、「イエイヌは好きだが、けもフレ2という作品は嫌い」という人は、イエイヌグッズとかを買う可能性が低いので、ダメです。

区別がつかないのはそのとおりだと思いますしかしもともとのお話は”悪意”かもしれないが”無能説明がつく”だったでしょう。どちらでもあり得るわけです。「いい加減な脚本ではない」と説得はできませんが、「現実的な厳しさを描いた」で説明可能と申し上げています視聴者の悪意説を推していますが、確かに、退屈だったから説にも説得力を感じました。実態は両方なのかもしれません。

ですから現実の厳しさを描く」ために、わざわざ伏線放棄してつまらないと思わせる必要はないのです。

現実の厳しさを描くからといって、面白作品を作ろうと思えば作れるのに、わざわざ、つまらない作品制作者が目指した、というのは、私から見て悪意のある解釈です。

「また会おうね」「約束だよ、かばちゃん」。これは通常のドラマであればどちらかが旅立つときに言うセリフではないでしょうか。でもこの後は両者ともパーク内に留まるわけで、これは作劇的にはおかしいといえるのでは。「遊びに来てね」「行くよ… 絶対」などのほうがふさわしいように思います素人でも秒で思いつき、しかも尺も取らず演出も変わらない。制作無能では説明するのは厳しくないですか。

そのセリフについて制作者が無能だと言ってるわけでも、現実の厳しさを目指すのが悪いと言ってるわけでもないです。単に、現実の厳しさを目指しながら、伏線を処理して、面白物語を作れるでしょうという話です。

ポスター的な告知絵(なんていうんでしたっけ?ああいうの)は楽しそうにしてるサーバルカラカルですが、あれを例えばカラカル腕組みさせるとか… そのような感じでしょうか。でもそれはどれほど効果があるのでしょう。

もっと全く違う印象のものにしたほうが良いでしょうが、さておいて「これはけもフレ1とは違う作品で、違う切り口で作っているんだな」と視聴者に心構えをさせ、けもフレ1と違っても、単なるミスではなくて、何か意図があるのかなと考えさせる効果があります。つまりけもフレ2をけもフレ2として評価やすします。

アンチするやつはするでしょうが、そういう層の数や説得力が減るでしょう。

そうでしょうか。けもフレ1の最終戦リピートする視聴者はそんなに多いと思わないです。

けもフレ1の最終戦闘は、感情的にも、アクション作画的にも非常に盛り上がるところであり、かなりリピートされてるかと思います

そのため前期では戦闘の期間を一話くらいに短く収めた。今期では長くして多くのフレンズ交流を絡めた代わりに、緊張感を抑えたのでは。ホテルでのパンダの振る舞いやペパプへの妄想など、戦闘中にさえ気を抜ける掛け合い漫才が入ってきます

けもフレ1でも、これまでのフレンズが、これまでのかばちゃんとの思い出を生かす形で大勢出てきますし、フレンズとの交流を絡めることと、緊張感を保つことは両立します。

戦闘中に長い掛け合いや、ほのぼのとしたコントはやりにくいですが、戦闘中にやらなきゃいいだけの話です。

エンタメドラマ的には失敗。そのご意見には納得できました。これはエンタメドラマではなく… ミステリを目指したと考えるのはどうでしょうバラエティ漫才ミステリの間の子です。視聴者タイプを A.漫才で和む B.ドラマを楽しむ C.考察する の3つに分けて考えて、A,C を重視したためにBへのフォローが疎かになってしまったのでは。

ミステリなら、「謎の存在であるキュルルが、スケッチブックという手がかりを追って、おうちを捜す」という話で、キュルルの正体もおうちも見当たらない時点で、零点です。

漫才で和むのはいいんですが、「恐ろしい敵との生死を賭けた戦闘中に、緊張感のない漫才をやる」は、両者の良いところを打ち消しあってます

Bだけがおろそかなのではなくて、AもCもダメなんですよ。

アニメ料理に例えるのに躊躇はないけど、それぞれで想像しているものが違う。これを面白いと思いました。でも看板にハッキリ”優しい世界”ですと書かれてはいなかった。観客側の受け入れられる間口が狭すぎるのが問題かと申し上げています(その狭さを作った責任が観客にないとしても)。

観客に問題があるとしても「商品内容をはっきりさせて誤解させない」ことは商売原則倫理であり、そっちはそっちで問題だというだけの話です。

anond:20190409182755

元増田です。

こういう考察をうかがえるきっかけになったので、増田に書いてよかったなと思います

実際住んでみて、注意深く観察してみたいと思います

ありがとうございました。

anond:20190410005437

テーマに絡めることを諦めて、中途半端エピソードにしておけば「人間が歪めた動物について考え」るかというと、そういうものではありません。

そうでない理由はないでしょう。その可能性に委員会は賭けたんです。アプリノータッチアニメのみのファンなのですが、これが”動物ファースト”の理念だったりするのでは? あるいは実際は制作が高尚な態度を持っていなかったとしても、視聴者にそれを示そうとしたとか。作品のゴールが、売上やエンタメ作劇論でいう面白さ以外にあるとしたら、けもフレ2が失敗だったのかさえまだ判断できないでしょう。

キュルルちゃん人類の罪を贖罪するプロットを書いたつもりはないのですが

すいません。アイデアの語を選んだのが誤解を招きました。「一般的な作劇として...そこに意味を持たせるわけです。キュルルが人類の罪深さを知って、それを贖罪しようとするとか」について言ったつもりです。

俺は、ビーストは死んでないと思います。 → 最終的に死んでるか死んでないかは、別に、どうでもいいんですよ。

俺も生死は問題視していません。けもフレ2作劇の方向性がみてとれる判断材料として取り上げたつもりです。

それでビーストが大暴れするので気持ちいいわけです。 → ビースト側の考えや動機意志が全く見えないので、ビースト感情移入しようがなく、大暴れが気持ちよくもない

そうでしょうか。意思のない怪獣が大暴れするとか… 観念的な代理役がアクションを行う作品はあると思います

初見面白いと思ったからこそ、見返して伏線を捜すわけで、つまらない作品を、わざわざ見直し伏線を捜したりする人は少数派です。

もし制作者がネット考察班を動かしたいのなら「初見でわかる範囲面白い」と感じさせる必要があります

必要がある”とまで言える理由がありますか。俺のようなネット考察班が表立って声を上げにくいのは、養護即悪の空気があるからです。

仮にキュルルが、悲劇トリガーではあっても、本人に無責任・悪意はなく、年相応と理解されるのであれば、そんなキャラクターが海に落ちても、爽快感は生みませんので、それはそれで作劇として失敗です。

海に落とすことで爽快感を引き出したいのなら、キュルルが酷いやつと感じられる必要があります(そして主人公が酷いやつと思われたら、作品への好感度が下がります)。

同意できないです。倫理的責任描写不快さは別の概念です。悪意を持って暴虐を奮ったにもかかわらず、視聴者不快感を与えない描き方はありえるとおもいます図書館来館時の博士の蹴りがその例で、あそこで引っかかる観客はあまりいないでしょう。不快感を与える行動をしたヤツが酷い目に遭うのが気持ちいいわけです。ところでキュルルちゃん評価下落はある程度は、けものフレンズ全体として問題ないのではないでしょうか。売りたいのはサーバルカラカル・ペパプといった動物擬人化キャラクターでしょう。人気アンケートをやったらけもフレ2が生み出したイエイヌは、かばちゃんサーバルと二位を争えるレベルの人気になるのでは。

1,2で共通する「フレンズ軍団セルリアン」シーンである以上、視聴者共通性を捜しま

フレンズ軍団との戦闘とはいえ、前回の戦闘とは作中の時間も離れているし共通するギミックなどもないです。前回を経験たかばんちゃん博士などの振る舞いを見て「おお、前回の教訓を活かして戦っている!」と観るのはあり得るでしょうが演出上の共通性を積極的に探す理由はないでしょう。

けもフレ2では現実的な厳しさを書いたのではないでしょうか。→「伏線的な設定が明らかにならないことで現実的な厳しさを描いた作品」は「伏線処理に失敗した、いいかげんな脚本」と区別がつかないんですよ。

区別がつかないのはそのとおりだと思いますしかしもともとのお話は”悪意”かもしれないが”無能説明がつく”だったでしょう。どちらでもあり得るわけです。「いい加減な脚本ではない」と説得はできませんが、「現実的な厳しさを描いた」で説明可能と申し上げています視聴者の悪意説を推していますが、確かに、退屈だったから説にも説得力を感じました。実態は両方なのかもしれません。

「また会おうね」「約束だよ、かばちゃん」。これは通常のドラマであればどちらかが旅立つときに言うセリフではないでしょうか。でもこの後は両者ともパーク内に留まるわけで、これは作劇的にはおかしいといえるのでは。「遊びに来てね」「行くよ… 絶対」などのほうがふさわしいように思います素人でも秒で思いつき、しかも尺も取らず演出も変わらない。制作無能では説明するのは厳しくないですか。けれども現実世界をみてみると、友達同士で時間距離が一時間とかでも億劫になってしまってずっと疎遠。これは多々あるわけです。パーク内でもパトロール仕事もあるし研究あるしキノコも集めなきゃだし、会えなかもしれない現実がありうる。けもフレ2ではフィクションを離れてパークの現実を描きたかった。

けもフレ2も最初からスギスしていたわけでなく、センちゃんアルマーさんの実態ジャングルメンバーなど、段階を追っての開示になっているとは思います → 段階を追って開示するのではなくて、一番最初から「今回のけもフレ2は、前回と違うぜ、ギスギスだぜ」ってやらないといけないんですよ。途中からスギスしたらかえって混乱します。

ポスター的な告知絵(なんていうんでしたっけ?ああいうの)は楽しそうにしてるサーバルカラカルですが、あれを例えばカラカル腕組みさせるとか… そのような感じでしょうか。でもそれはどれほど効果があるのでしょう。

クライマックス戦闘を、わざわざテンション抑えて緊張感が高まらないようにして退屈に仕上げたら、それは「優しい世界」ではなくて「盛り上がりにかけたつまらない作品」です。意図的ものではなく、制作側の技術リソースが足りなかっただけでしょう。

そうでしょうか。けもフレ1の最終戦リピートする視聴者はそんなに多いと思わないです。そのため前期では戦闘の期間を一話くらいに短く収めた。今期では長くして多くのフレンズ交流を絡めた代わりに、緊張感を抑えたのでは。ホテルでのパンダの振る舞いやペパプへの妄想など、戦闘中にさえ気を抜ける掛け合い漫才が入ってきます

エンタメドラマ的には失敗。そのご意見には納得できました。これはエンタメドラマではなく… ミステリを目指したと考えるのはどうでしょうバラエティ漫才ミステリの間の子です。視聴者タイプを A.漫才で和む B.ドラマを楽しむ C.考察する の3つに分けて考えて、A,C を重視したためにBへのフォローが疎かになってしまったのでは。各話と全体の両方の流れをカバーしているのも難度を上げた原因でしょう。リソースが潤沢にあれば、あるいはすべてのタイプを救う事ができたかもしれません。

辛旨カレーだった店が、看板そのままで甘口カレーを出したら来た客は混乱しますわな。

アニメ料理に例えるのに躊躇はないけど、それぞれで想像しているものが違う。これを面白いと思いました。でも看板にハッキリ”優しい世界”ですと書かれてはいなかった。観客側の受け入れられる間口が狭すぎるのが問題かと申し上げています(その狭さを作った責任が観客にないとしても)。

めぐりあい宇宙隊長ザク事件



結局演出家と作画演出オタクの敗北でしょ

演出家の意図とそれを理解できるオタク雑魚オタクの間の能力乖離が凄まじいんだよ

映像演出のまっとうな解釈とかじゃなくて、エヴァみたいな作品で行われている気持ち悪い考察みたいなのがオタクの間に蔓延って、ツイッター個人のご感想表明が容易になってきたからそれの真似事をしたがってトンチンカンなことを言い出すオタク可視化されてる

オタク馬鹿消費者のまま放置しておいた業界自己責任ですよ、今後こういうことは一生繰り返されるし、ツイッターでバズってしまったら馬鹿雑魚のご意見感想鵜呑みにしてそれが世間に定着していくでしょうね

anond:20190409151933

物語を使って視聴者特定の行動を促すというのは実は無理なのではないでしょうか。

物語に過大な期待をしすぎです。どんな集団にも過激な人はいるし、けもフレファン集団でも同じです。けもフレを見た過激な人が急に全員優しくなるようなことがあったら、それはもはや洗脳です。

からといって、テーマに絡めることを諦めて、中途半端エピソードにしておけば「人間が歪めた動物について考え」るかというと、そういうものではありません。

おっしゃったアイデアにあったようにキュルルちゃん人類の罪を贖罪してしまえば、見ている方はスッキリした気分になってしまって何か教訓を得ることはないということです。

キュルルちゃん人類の罪を贖罪するプロットを書いたつもりはないのですが、ともあれ、やりたいことが「人間が歪めた動物について視聴者を考えさせること」なら、それにそってテーマを展開してプロットを作れば良いかと。テーマに絡めることを諦めても、その点は改善しません。

俺は、ビーストは死んでないと思います

最終的に死んでるか死んでないかは、別に、どうでもいいんですよ。問題はキュルルが、「自分が呼んだビーストの無事を確かめもせず、喜んでる薄情極まりないキャラ」として描かれていることです。

キュルルちゃんの思いが言葉だけじゃなく行動になるまでに固まる。

「キュルルが身の危険を顧みずにビーストを説得してわかった」みたいなシーンが別になく、暴れるビーストが、素直に船に乗って(?)キュルルについてきたのか、さっぱり分からないので、特に盛り上がりません。

それでビーストが大暴れするので気持ちいいわけです。

ビースト側の考えや動機意志が全く見えないので、ビースト感情移入しようがなく、大暴れが気持ちよくもないし、死んでも、さほど悲しくもないです。

一話の最後スケッチブックをめくり千切られたページを目にするシーンがあります。状況的にあそこでは手がかりを見つけるために捲っていたのであのページが最後になることはキュルルちゃんは判っていたと思いますホテルでリョコウバトに集合絵を渡すときに、観覧車の次のページに集合絵を描いていて、その次が白紙であることが一瞬見えます

なるほど、ありがとうございます

俺はけもフレ1・2・ケムリクサすべてで、伏線や回収、世界観の開示などを目を皿のようにしてさがし、それに理屈をつけるような見方をしています。それで楽しめています

それは一つの楽しみ方ですし、尊重しますが、たいていの人は初見感想判断します。初見面白いと思ったからこそ、見返して伏線を捜すわけで、つまらない作品を、わざわざ見直し伏線を捜したりする人は少数派です。

もし制作者がネット考察班を動かしたいのなら「初見でわかる範囲面白い」と感じさせる必要がありますけもフレ2は、それに失敗しているのです。

キュルルちゃん立場から見て、イエイヌ価値観尊重してああ言ってあげる、というのは悲劇トリガーには観念的にはなっていますが、無責任・悪意のある行動には思えないです。カラカルが介抱していて危機的状況から開放されて安心しているという状況です。みため年齢的に見ても致し方ないかと。キュルルちゃんは魅力的なキャラクターとして描かれていてそれは成功していると思っています。この扱いで好感度が下がる合理的理由はないでしょう。

仮にキュルルが、悲劇トリガーではあっても、本人に無責任・悪意はなく、年相応と理解されるのであれば、そんなキャラクターが海に落ちても、爽快感は生みませんので、それはそれで作劇として失敗です。

海に落とすことで爽快感を引き出したいのなら、キュルルが酷いやつと感じられる必要があります(そして主人公が酷いやつと思われたら、作品への好感度が下がります)。

しかし確かにセルリアンとの戦闘けもフレ2全体で退屈な仕上がりになっている印象は否めないです。制作なりに「優しい世界」を目指した結果ではと考えています戦闘けもフレ1に比してもピンチ感は少なくなりました。見返したときに緊張感が高くならないようにあえて戦闘テンションを抑えたということです。

クライマックス戦闘を、わざわざテンション抑えて緊張感が高まらないようにして退屈に仕上げたら、それは「優しい世界」ではなくて「盛り上がりにかけたつまらない作品」です。意図的ものではなく、制作側の技術リソースが足りなかっただけでしょう。

セルリアン集合シーンはけもフレ1の名シーンほどの決めカットではないです。先に申し上げたとおり、あの状況ではああいう絵にしざるを得ない、共通性を見出すのは無理矢理のこじつけですよ。

わざわざ似せようとしなくても自然と似るであろうというのは、その通りです。その上で、1,2で共通する「フレンズ軍団セルリアン」シーンである以上、視聴者共通性を捜します。そういうシーンであることを踏まえる必要があるのです。

けもフレ2では現実的な厳しさを書いたのではないでしょうか。

伏線的な設定が明らかにならないことで現実的な厳しさを描いた作品」は「伏線処理に失敗した、いいかげんな脚本」と区別がつかないんですよ。

別にビーストイエイヌが救われなくても、キュルルがおうちを見つけられなくても、いいんですが、このままだと単に「破綻した脚本」にしか見えないんですよ。伏線をきちんと解消してもビターエンドはできます

いえ、今はまだ固まっていない段階です。その正体をつかめない段階で用語意味を固定してしまうと先へ進むことができなくなるでしょう。必要ときにその都度「この作品のこの部分は優しい世界か?」「優しい世界とはなんだ?」を繰り返して意味を掘り進めていくべきです。

それについてはお任せします。私は「優しい世界」という用語特に興味がないので、これ以上は控えます

絵柄が大きく変わっていることは初見でわかりますSNSで憤慨しているファン監督交代騒動は耳にしていたはずです。

私は絵柄は前作を踏襲したもので、さほど大きくは変わってないと思います。少なくとも、ギスギスさを予感させる変化ではないですね。キービジュアルも仲良しフレンズで、交代した監督も「 前シリーズリスペクトし、面白いと思ったところは全部入れてます」と言っている。

総じて、ギスギス、ダークを予感させるものでは全くないです。

けもフレ2も最初からスギスしていたわけでなく、センちゃんアルマーさんの実態ジャングルメンバーなど、段階を追っての開示になっているとは思います

段階を追って開示するのではなくて、一番最初から「今回のけもフレ2は、前回と違うぜ、ギスギスだぜ」ってやらないといけないんですよ。途中からスギスしたらかえって混乱します。

スパイスの効いた辛旨なカレーで有名になったお店が、【店長スタッフが変わって】、でも看板はそのままだった。それでも気になってお店に入ってみたら、全然違う甘々な、しかも不味いカレーを出された

辛旨カレーだった店が、看板そのままで甘口カレーを出したら来た客は混乱しますわな。店主が替わったのは知ってても、店の名前が変わってなくて、特に告知がなければ、同じような味を期待するでしょう。カレーの味を変えるのはいいんですが、辛口カレーの中でバリエーションが変化した、とかではなく、甘口カレーハヤシライスビーフシチューなりに変えるなら、看板に大きく「甘口カレーetcの店になりました」と書いておくべきでしょう。それは、客がどうすべきであったか、悪質な客がいたかどうか、とは全く別の話です。

2019-04-09

anond:20190409191116

特有の長文というのは考察とかじゃなくて人間関係愚痴かに言われてる印象。

anond:20190409045845

人間動物迷惑をかける点ですが、フウチョウたちが「確かにヒトのおかげで助かったケモノもいるが、ヒトが不用意に近づいたばかりに、迷惑するケモノもいたかもしれんぞ」と明確に問いかけてるんですよね。これに対するアンサーは必要であり「テーマとして昇華していない程度の示唆」で終わらせるのは無理があります

しかに。フレンズの選定や居心地の悪さ、フウチョウの問いかけも含めると、制作意図があったのは反論しようがないです。ならば、それをテーマに絡めることを諦めたというのはどうでしょう。ここ最近の界隈の雰囲気を見ると、けもフレ1でさえ信者とまで言われるほどの熱心なファンに「へーきへーきフレンズで得意なこと違うから」「のけものはいない」のような世界観を教える事はできなかったわけじゃないですか。結果論ですが、船長ワカバが休んでれば赤い木の騒動なんて起こらなかったのに、それを作ってるたつき監督自身が過労気味なわけじゃないですか。物語を使って視聴者特定の行動を促すというのは実は無理なのではないでしょうか。おっしゃったアイデアにあったようにキュルルちゃん人類の罪を贖罪してしまえば、見ている方はスッキリした気分になってしまって何か教訓を得ることはないということです。制作サイドに人間が歪めた動物について考えてほしいという善意があって、それをエンタメ物語に乗せて実現させるための方法として、示唆で止めておく手段を選んだ。いかがでしょう。

俺は、ビーストは死んでないと思います。そこにけもフレ2の作劇の方針がみてとれる気がするのです。個人的にはビースト周りのドラマはなかなかに心揺すられました。パークの重鎮のかばんさんさえ”アイツ”よわばりする厄介者イエイヌを追い詰めサーバル撃退されたけど、スケッチブックの集合絵に入れてあげた。「解りあえなかったとしても、解ろうとするのは別にいいじゃん」、ボートに現れたビーストから逃げることを促されてもこのまま行くと言い切る。キュルルちゃんの思いが言葉だけじゃなく行動になるまでに固まる。それでビーストが大暴れするので気持ちいいわけです。このドラマ普通に決着させようとすると、うーんたとえば、瓦礫の中にビーストを探したが見つからず、足跡がパークに続いてくのを見て「いつかまた会おう」とひとりごちる、とかになるでしょうか。でもそうせずに瓦礫に埋もれて消える描写にした。ホテルメンバーの救済のために尺が足らなかったのかもしれませんが、俺は刮目してみていたので気づいていました。ホテル屋上のあの位置は頭上に障害物はなく、瓦礫に埋もれたのはカメラのほうだと。つまり誤解させる演出になっているわけです。多くの視聴者初見で、ああビースト死んだのか可愛そうやな、とおもってSNS悲鳴を流します。それで解析班が動いて「ビースト死んでなかった!」という記事ホットになる。木村監督は交代時に、けもフレ1の魅力は散りばめられた伏線、のようなことをおっしゃってたと思いますネット考察版が動くことを期待して放映後に爆発する仕掛けを組んだというわけです。エンタメ作劇的には王道ではないでしょうが、このような狙いがあったのでは。

俺はけもフレ1・2・ケムリクサすべてで、伏線や回収、世界観の開示などを目を皿のようにしてさがし、それに理屈をつけるような見方をしています。それで楽しめていますけもフレ2では話の途中に掛け合い漫才みたいなのが頻繁に入ってくるので、その部分もニコニコながら見ていました。確かにドラマとして登場人物紆余曲折が一つのテーマ収束していく様はあまりけもフレ2にはないですが、その部分に多くを期待しない鑑賞スタイルには合っているような気がします。

何話か見返したのですが「キュルルの手がかりの絵が尽きた」ことが描かれたシーン

一話の最後スケッチブックをめくり千切られたページを目にするシーンがあります。状況的にあそこでは手がかりを見つけるために捲っていたのであのページが最後になることはキュルルちゃんは判っていたと思いますホテルでリョコウバトに集合絵を渡すときに、観覧車の次のページに集合絵を描いていて、その次が白紙であることが一瞬見えます

キュルル自体の魅力が損なわれ、作品自体への評価が下がります

キュルルちゃん立場から見て、イエイヌ価値観尊重してああ言ってあげる、というのは悲劇トリガーには観念的にはなっていますが、無責任・悪意のある行動には思えないです。カラカルが介抱していて危機的状況から開放されて安心しているという状況です。みため年齢的に見ても致し方ないかと。キュルルちゃんは魅力的なキャラクターとして描かれていてそれは成功していると思っています。この扱いで好感度が下がる合理的理由はないでしょう。

強敵との戦いをどう盛り上げるか、逆転を、どう印象づけるかの工夫がありますフレンズセルリアンとの戦いは、あまりそうした工夫がなく、盛り上がらなかったです。それなら誰かが「野生解放!」と叫んだほうがわかりやすいでしょう。

けもフレ1では仲間に呼びかけるために、野生解放宣言していますけもフレ2の該当の戦闘ではそのタイミングで一対一だったので言う必要がなかったのもあると思います。突然漫画演出になるのはリアリティが下がって興ざめするので、盛り上がるためだけに叫ぶのは良い方針ではないと存じますしかし確かにセルリアンとの戦闘けもフレ2全体で退屈な仕上がりになっている印象は否めないです。制作なりに「優しい世界」を目指した結果ではと考えています戦闘けもフレ1に比してもピンチ感は少なくなりました。見返したときに緊張感が高くならないようにあえて戦闘テンションを抑えたということです。最終戦での野生解放が叫ばれなかったのを考えていたんですが、する必要がなかったというのが答えだと思いますホテルメンバーが囲まれたのがおそらく最大の危機的状況ですが、そのときにおいてもホテルに現れるペパプを妄想していました。いよいよとなれば解放する気だったのでしょうが、ペパプ本物が登場して救われる流れになります

最終話評価は、それまでの1~11話の評価と切り離せないものですので。視聴者に信用されるために、制作者側は信用を積み重ねる必要がありますが、そこがうまくいってないわけです。

セルリアン集合シーンはけもフレ1の名シーンほどの決めカットではないです。先に申し上げたとおり、あの状況ではああいう絵にしざるを得ない、共通性を見出すのは無理矢理のこじつけですよ。信用がないと言うより、悪意があると信用されていた、というほうが実態に近いと思います監督交代騒動のツケを支払わせるために問題表現を探したというこです。たしか結果的には新体制が信頼を積み上げることに失敗した、というのは同意します。しかしその責任制作側にあったとまでは言い切れないです。ところで、けもフレ1でたつき監督が序盤で信頼を積み上げるような何かをしていたか、というのはずっと考えていました。一話で退屈と断じて切り捨てたという視聴者はよくいるし、伏線-回収のループを重ねていけば意味のあるシーンを作れる作家だとわからせることができるけど、そういうのってしてましたっけ?

キュルルのおうちが、見付からなかったことに、消化不良があります。次に、キュルルが「おうち」を諦めるに至る過程曖昧なので、ドラマが盛り上がりません。

けもフレ2では現実的な厳しさを書いたのではないでしょうか。けもフレ1へのアンチテーゼというか、ご都合主義的ではない、よりリアル世界観フレンズ同士の親切心を浮き立たせたかった。一話を見てパーク内にキュルルちゃんのおうちがあるような気はしないわけです。家族の元に帰ってENDは想定しにくい。案の定見つからない。イエイヌは救われない。ビーストはどうしようもない。でもそれぞれに現実的な進展が与えられるわけです。エンタメ文法でみるとドラマとしては盛り上がりに欠けるでしょうがスッキリとしない視聴感がビターな感じはあると思いますケムリクサでの最終話EDの、りりが救われた風の描写は俺に、感動したけどこれ結局お話に過ぎなかったんだな、という思いを与え、肩透かしでした。

ところで、けもフレ1のテーマは何だったのでしょう。かばちゃん成長物語と捉えると、1話では彼女は頼りないですが、11・12話で存在感を見せつけたという感じであまり変化がない。ミライさんのフレンズ生存理由になったり細かい伏線の繋がりは合ったのはわかります。それぞれの話でドラマが見事だったのも異論ないです。でも全体としてのドラマどうでしょうケムリクサは逆に全体としての物語性が強いです。けもフレ2は両方のフレーバーを持っている。その話での起承転結と「おうちテーマ」のための全体の流れが合わせて練られている。イエイヌが”おうちにお帰り”といって拒絶されるのは全体のために必要だけど、イエイヌ回単体ではキュルルちゃんサーバルカラカルの在り方を見せられて自分との違いを見て挫折して去る、くらいでよいわけです。ただ各話においてフワッと見ているだけではドラマとして盛り上がりに欠ける、というのは改善余地は合ったかもしれませんね。

批評として使うなら、定義必要になるでしょう。

いえ、今はまだ固まっていない段階です。その正体をつかめない段階で用語意味を固定してしまうと先へ進むことができなくなるでしょう。必要ときにその都度「この作品のこの部分は優しい世界か?」「優しい世界とはなんだ?」を繰り返して意味を掘り進めていくべきです。

スギスを狙ったのなら、作品の出来とは別にマーケティングミスです。そういうのは事前に告知して心の準備をさせるのが良いかと。

絵柄が大きく変わっていることは初見でわかりますSNSで憤慨しているファン監督交代騒動は耳にしていたはずです。ファン必要以上にセンシティブになり、前と寸分違わず同じもの要求した、そのように見ていますけもフレ2も最初からスギスしていたわけでなく、センちゃんアルマーさんの実態ジャングルメンバーなど、段階を追っての開示になっているとは思います(話がずれるかもしれませんが、「危険きわまりない溝ができています!」は、好き嫌い分かれるネタを初っ端から突っ込んできたな、と思いました)。

付録

スギスした作品はギスギスした作品で楽しめる人も、癒やし系作品の続編として出されると「思ったのと違う」ってなりますよね。ラーメン屋いったらサンドイッチが出てきたみたいなもんで。

面白いので http://blog.livedoor.jp/fukukan2009/archives/52307013.html 及びその次の記事より引用します。

別の場所コメントでは「カレーを頼んだのにXXXが出てきた」といっている人もいました。俺は「カレーハヤシライスビーフシチュー」くらいの印象です。

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