はてなキーワード: イエイヌとは
イエイヌのお茶を辞退したのは直前にカラカルと喧嘩して気持ちが塞いでいたからだ。
その様子はちゃんと描写されている。警告を無視して突っ込むのはそれだけ気が急いていたため。
村に残ったイエイヌが持つ危険物——キュルルちゃんの絵は金庫に入れているとはいえ、セルリアンに取り込まれれば確かに危険だ。イエイヌの飼い主的な立場の人はおそらく永遠に帰ってこない。
でもその状況は現在のキュルルちゃん本人には知りようもないので責任は当然ない。
キュルルちゃんを助けたイエイヌが取り立てて省みられないのは残念ではあるものの、キュルルちゃんの見た目の年齢からは致し方ないことに思える。それを問題視しておいてケムリクサの初回で体を張る わかば が省みられないのを気にしない態度はダブルスタンダードだ。俺はそっちはウワッきついわ… ってなった。でもあとから振り返ると致し方なし、だとわかる。
俺が覚えている限り、9話以前に感想の方向性は決していたように思う。
コメント欄はこのアニメをこれからどうやって嘲るかを競っていた。
悪意を持って否定するのを前提に作品を見れば、あらゆるポイントがヘイトに変わる。
ビーストを見殺しにした? ビーストが死んだ描写はどこにある? ホテル近くに浮くボートまで一瞬で距離を詰められるビーストの膂力で脱出できないと考える方が不自然だし、助けに行こうとすれば逆に足手まといになるだろう。
けものフレンズ2 にデリカシーは欠けていたか… 確かに欠けていた。
当時の俺の感想は、大人気のまま 9話に突入すれば、刺さる、悲劇として記憶に刻まれる、だった。
でも実際には、監督を放逐した憎しみは視聴者に蔓延して好んでヘイトを探し回る化け物に変貌させていた。そんな最中に出てきたあの話には、デリカシーが欠けていたと言っていいと思う。
だけどそんな盤外戦のことは製作中に知る由もない。製作に責任を問うのはおかしいでしょう?
前監督が一言でも「二期を楽しんでね」って言ってれば、あるいは委員会が彼の功績を評価して自分たち側をドラスティックに変えることを厭わなければ、作品の評価はまったく変わっていただろう。
利権で諍いが起こるのはビジネスである以上仕方のないことだし、様子のわからない部外者が口をはさむ道理はない。だけど…
誰かを、アニメを、嘲笑するために、わざわざ時間をとって視聴する。思い通りにヘイトを溜める。
好意的な感想を持った人を、人の気持ちが慮れない、サイコパス、などと言い「あの作品はなかったんだ」
本当にバカげている。
言いすぎな面はあるし、制作陣の軋轢までいくと眉唾だが、イエイヌの扱いに憤慨するのは別におかしくないだろ。
主人公変更後もメインキャラとして扱わないといけないという事情が垣間見えるサーバルの扱いより、
物語の根幹を成すキャラであるイエイヌ(と、アムールトラ)の扱いがクソ過ぎたのが2の不満が噴出したポイントじゃん。
旅に連れて行かなかった件についても、そこに至るまでのイエイヌの扱いと設定面の齟齬が問題になっているんだよ。
視聴者からは好意的に見えるキャラの出した飲食物に手を付けないとか、
警告を無視して危険に無策で飛び込むとか、助けられるも省みないとかヘイト貰う行動しかしていないよあの回のキュルル。
更に「おうちに帰る」理由にしても、後に明かされた設定面から考えると永遠に達成されない未来に危険物と共に置き去りにされているわけで、
正直2は皆仲良し路線だった1と比べて「ビースト」って明確なのけ者が生まれちゃった事はどうかと思うし
成長したかばんちゃんを出した事で1の後でサーバルと何か悲劇的な別れが起きたんだなって察せられる所は1のファンに怒られても仕方ないと思うけど
主人の帰りを待つイエイヌを旅に連れて行かなかった云々が叩くためのネタになってるのは何で…?ってなってる
今だと魔女の旅々なんかもそうだけど一度荒れるともう何が何でも叩くぞって奴らが描写の一つ一つにケチを付けて叩く流れにするから不愉快だ
ジャンプの漫画とかもし連載してたのがジャンプじゃなかったら絶対ここまで叩いてなかっただろって作品まで作者を人格否定する所まで叩くから気持ち悪い
フェミはポリコレは社会学者は漫画やアニメを自分の価値観で叩きまくってる!許されない!嫌なら見るな!→それけもフレ2の時にオタクは散々やってたじゃん。ファンまで袋叩きにして。
漫画やアニメに対して「ほら、こうした方がいいだろ」と押し付けるとか何様のつもりだ!→けもフレ2の時に散々やってたじゃん。イエイヌ救済とか。
不快だからとポリコレを持ち出して漫画やアニメを叩くな!→ビースト生き埋めや髪の毛引っ張る展開を叩くのはポリコレではないと。
けもフレ2は自分もクソアニメだと思うが、表現の自由とか言ってるオタクの本性を暴いてくれて制作陣にはありがとうと言いたい。
https://togetter.com/li/1574875
上の絵の方が上手いと思ったんだけど
というかアニメの宇崎ちゃんのキャラデザ可愛く無さすぎるしアニメ絵としてもバランス崩れすぎでは?と思う
目の大きさを上手にイラストとして落とし込めてないし、大学生というのもわからない感じになってるし
その辺どうなんだろうか
可愛くないショートカットじゃん
だけど宇崎はラノベの主人公みたいな、なよなよした男が女みたいになってるパターンのショートじゃん
髪の色も汚いし、前髪越しの眉にも嫌悪感ある
全く可愛くないし小汚いクソガキみたいな雰囲気あって嫌いなんだが
原作は、イラスト的表現だと言われればまあ受け入れられる範囲だが胸の大きさの問題でなく身体の構造ぶっ壊れてるかはけして絵が上手いとはいえないと思う。内容はよくあるキャラ萌え量産型エロギャグですねとしか。炎上しなきゃ対して話題にも残らなかったろうし、間違いなく漫画史にもアニメ史に残るような名作ではないのは確かだ。手近な消耗品に近いだろう。ワンクール消費型オナホ嫁系というやつか。
作画のペラペラ具合、可愛くなさは亜人ちゃんは語りたいのアニメを思い起こさせる。あれはキャラデザこれじゃないと叩かれてたのに、なぜ宇崎は許されたかわからん。原作の宇崎の雰囲気殺されてるのに。
アニメ化、キャラデザクソだなと正直に言えなくなってるんじゃないか?普段クソアニメ叩いてる層がフェミ憎しで援護に回ってるんだろうか。いやでも作画ほんと悪いじゃん。可愛くない。萌えアニメとして致命的だろ。ゴミを別のゴミ叩くためにゴミじゃないと言い張るのは嫌いだ。ゴミはゴミだ。
いつも思うんだが、フェミ叩くためだけのアニメに成り果ててるの、ファンは嫌じゃないのか?けもふれがあたおか信者が角川叩く棒に成り果てたときみたいだ。そういえばイエイヌがキュルル叩くための棒として使われるのも不愉快だった。2はクソアニメなのは認めるがそれは違うだろ。何かを叩くために好きなものを使うって嫌だわ。アニメをフェミ用弾丸扱いするのってオタクとしてどうなんだ。宇崎に関しては作者もそういう人ということで許されてるんだろうか。
というかそもそも、宇崎はちょっと当たった程度の規模の作品で、話題にしてるのも野次馬しかいないような気もする。フェミさんの反応が気になるところ、みたいな感想ばっか流れてくる。ファンアート質低いし少ない。エロ同人は盛り上がるのかもしれないが、今のところはなんとも。
大体宇崎がうざいという話なのに、宇崎を叩くことがご法度になってるのキツすぎるわ。宇崎こそ女体でデカい態度に許しを得ている系のクソアマだろ。フェミが「本来のフェミニズムから外れて女性を弱者とみなし加護や特権を求めている」という言説にのっとれば、宇崎こそクソフェミの同類だ。腹パン生贄御用達キャラじゃないか。コンテンツと「キャラクター:宇崎」を混同し、宇崎をフェミから守るとか言い出したときにおかしくなった。
別に鵜呑みにしなくても良いのですが、「初見で面白さがわからないものを何度も見返す人が少数派」という点について、個人的には確認するまでもないことだと思ってました。「つまらないと思った作品を、何度も見返して、伏線を捜したりするか」を周りの友人に聞いてみたらいかがでしょう。
ミステリにも大きな幅があると思います。真相そのものは順当でも周りの論理に不明点があるとか。しかし真相についても二転三転は確かにありました。具体的にはペパプ登場とイエイヌ再登場で俺の推理は二度変わっています。それで結局ラストシーンまで当てられなかった…
真相そのものは順当でも論理が変わる、でも、もちろん良いですよ。問題は、ストーリーと結びついた進展がないことです。ちなみにイエイヌの最終回で、パークが機能してた頃のスケブの絵を描いてたことって、冷凍睡眠を否定する根拠になるんでしょうか? よく考えたら別にならないような……。
やりとりも長くなってきたので、そろそろ切り上げさせてください。俺は基本的にはエンタメ技法論については貴方の意見を信用しています。提出した疑問点に対して「こうすればいい」といってサラリとプロットがでてくる業前には感服しました。ただそれでも「〜なんですよ」の一言を鵜呑みにする訳にはいかない。説得力を感じるか主観に行き着くまでは議論しなくちゃ面白くないわけです。例えば「データは取られてると思いますよ」ではそのデータを出していただかなくては意味ないわけです。でも理屈パワーだけでも良い。お互いのいくつかの仮説は説得する理屈のみで、証明も反証も不可能ですが、先に上げたやつは反証ができるということです。反証された時点で「ふむふむこの可能性はなくなった、残るは無能説か悪意説...」のように削っていけます。
わかばの理由は最大の謎の一つでしたが… ううう〜む、コレは自分で気づきたかった。でも否定できそうな理屈もあるし、もう少し研究してみます。
ミステリにも大きな幅があると思います。真相そのものは順当でも周りの論理に不明点があるとか。しかし真相についても二転三転は確かにありました。具体的にはペパプ登場とイエイヌ再登場で俺の推理は二度変わっています。それで結局ラストシーンまで当てられなかった…
提示だけして居心地を悪くすることは、作品に悪印象を残すことになり、悪い印象の作品から何かを学ぼうとすることは人間はあまりしないので、負の効果があるでしょう。それを超える正の効果がある、とする根拠はないように思われます。
作品全体が好評価になるのを見越してこの手法をとったのでは。悪印象を挽回できるほど全体が良ければこの手法は機能するわけですよね。
この件については反証する方法があります。制作サイドの人間の”動物ファースト”的でない行動・言動が確認できたなら、作品に善意を載せた可能性を否定できるでしょう。
「危険で、恐ろしいビーストから逃げず、敢えて解り合おうとする」ことをやりたいのかもしれませんが、暴れまくるビーストをどうやって船に乗せて連れてきたか、なぜみんな無事なのか
「動くものは何でも襲ってくるぞ!」とゴリラが言っています。キュルルちゃん(とかばんさん)はボート上でそれに気づき、動かなかったんでしょう。皆さん言ってらっしゃる「セルリアンに、けしかける」ですが、けしかけたと取れるシーンは実はありませんよね。ホテルに飛び移るビーストを二人の力では止められないでしょう。探さなかったのはビーストはボートまで跳躍できる膂力があったので、ホテルからも逃げられると踏んだのもあるのでは。
全体の平均を取ると、「初見で面白くないと感じる作品の、考察は、されにくく、されても特に人気に繋がらない」ことになります。
データを取ってはいないでしょう?... いえ、ご経験を理由としているのはわかります。
視聴者の多くというか「ざまあ」と言った人の多くは、ですね。まぁ視聴者の多くは、イエイヌに対するキュルルちゃんの行動・言動に問題があったと判断しているでしょう。
ただただ悲しい派・このような扱いにした制作を許せない派 もいらっしゃいました。集計をとったわけではないので比率がどうかは不明です。「他のキャラなりに、うながさせるとか方法はいくらでもあるのです。」なるほど。カラカルに「ほら、この子にお礼言いなさいよ」とか言わせたら、確かに印象はずっと良くなりますね… ただ俺はキュルルちゃんの落下のためにああでなければの立場ですので。
たとえばケムリクサで、わかばが水槽に転送されたり、橋のヌシに出くわしたり、多くのイベントは偶然じゃないですか。フィクションなので気にならないわけですが、キュルルちゃんの「大好きだー」を必然的にするイベントを追加してもその発生は偶然によるものになるのでは。イベントを廃した結果、自分で振り絞っているような描写になって脱フィクション化がなされた。いえもちろん、偶然によらないイベントを用意したり他の流れと同じ原因から始まる必然的結果にするのは不可能ではないでしょう。その意味でリソースが潤沢にあれば、と申しました。
量より質ですね。
売り言葉に買い言葉になってしまいますが… けもフレ1の最終戦でのフレンズ同士の交流はそれほど高質でしたか。主人公勢以外での話です。けもフレ2で多かったのはそちらなので。
オオミミギツネさんのシーンはそれに該当していますが、ギャグ的な魅せ方で俺は流されてしまいました。初見では。
ご意見を尊重します。覚悟したかどうかも今後のスタッフの様子からおそらく判断できるでしょう。
最初からフレンズに親切ですし、特に「自分がフレンズを好きだと気づいていない」ようにも見えないので、「自分がフレンズを好きだということに気づいた」と言われても、盛り上がりがないんですよ。
「最初からフレンズ」ですが、必ずしもそうだとは言い切れないと思います。ジャングルでは及び腰だったし、荒野では面倒事に巻き込まれないように逃げようとしていました。当時基本的にはおうちを探すことを優先していました。その割に車掌ラッキーさんに振り返ってお礼を言ったり、リョコウバトに絵を描くために夜を徹したりします。まあ確かに「なんでこんなに気を使ってるのかわからない」的な描写があれば更に盛り上がったでしょうね...
キュルルの正体って、一話のキュルルが出てきたところに、サンドスターがあって、ラストで、パークが無事な時からいたことがわかるから、キュルル自身のフレンズだろうという話ですか?
厳密には一話の施設の様子などに、当時の様子が推理できる判断材料がありますが、概ねそうです。サンドスターにコールドスリープさせる機能が描かれていないし、記憶を失っているのもフレンズ化と合致します。パークの客ならばパークの外におうちがあったんでしょう。
「よくご存じですね。委員会の人ですか?」そういう言い方をされるのは腹立たしいです。俺のほうが何か不当な振る舞いを先にしていてたなら教えてください。もちろん一般的にネットで関係者ではないという証明はできません。直接当人じゃなくても家族かもしれないし、恩人かもしれない。だから信じていただくしかないです。唯のファンです。
なるほど。いや「その可能性に委員会は賭けたんです」と断言されてたので、何か委員会に関する情報があるのかなと。
それはそうです。提示して、居心地の悪さを与えてそこで止めた。この手法にどれだけの効果があるかは未だわかりませんが、印象を残せたとは言えるのでは。
提示だけして居心地を悪くすることは、作品に悪印象を残すことになり、悪い印象の作品から何かを学ぼうとすることは人間はあまりしないので、負の効果があるでしょう。それを超える正の効果がある、とする根拠はないように思われます。
SNSなどでの行動が必ずしも売上につながらないだろうとの説明を以前いただきましたが、それには説得力を感じました。商業的な基準で動いていない部分はたしかにあります。「だとすると」で対象を限定するのは論理的でないと思います。先に善意が合理的でありうる理屈を付けましたが、一期ファンへの悪意が合理的、という理屈はまだ与えられていません。
商業性を捨てた善意に合理性を見るなら、商業性を捨てた悪意にも同程度の合理性は出てきます。まぁ悪意はさておくとして、商業性を捨てた善意を追求している、という過程は、かなり蓋然性が低い、とはいえるかと。
個人的には逃走を促されたときに「このまま行こう」としたのが、解り合おうとした、に入ると思うのですが、充分ではないと感じていらっしゃるのですね。
「危険で、恐ろしいビーストから逃げず、敢えて解り合おうとする」ことをやりたいのかもしれませんが、暴れまくるビーストをどうやって船に乗せて連れてきたか、なぜみんな無事なのか、等がわからないので、危険さも、それを乗り越えようとする意志や行動も見当たらないのです。
キュルルちゃんは気にかけていた、と思います。パークの他のメンバーは全くそうでないので相対的に浮き立っているのでは。消えたビーストに気づいておらず、ビースト自身は神出鬼没なので探さなくても薄情というほどではないと感じました。
「セルリアンに、けしかける」は相手のことを思った行為でもなんでもないですよね。ビーストを自分の都合で利用するだけして、その後も、何も気にしてない。キュルルちゃんにはキュルルちゃんで考えてることがあるのかもしれませんが、それが示されてないので、薄情にしか見えないのですよ。
世の中には色々な人がいて、一人一人異なる意見を持ってます。それのどれが正しい、間違いというわけではないですが、全体の平均を取ると、「初見で面白くないと感じる作品の、考察は、されにくく、されても特に人気に繋がらない」ことになります。もちろん例外はありますが、例外には例外の理由があるわけです。
仮にそうだとすると、海に落ちたときに「ざまあ」と言われたのは、視聴者の多くがキュルルちゃんの行動にはイエイヌに対して責任があったと判断した根拠になりますね。俺が彼女の行動を責められないと思う理由は既に述べました。
視聴者の多くというか「ざまあ」と言った人の多くは、ですね。まぁ視聴者の多くは、イエイヌに対するキュルルちゃんの行動・言動に問題があったと判断しているでしょう。あなたから見てキュルルちゃんが責められないとして、制作者は、それをきちんとわかりやすく示すべきです。キュルルが、とっさにイエイヌにお礼を言うことを思いつかなかったのなら、他のキャラなりに、うながさせるとか方法はいくらでもあるのです。
いいえ、フィンクション的でない書き方を目指したのではと申しています。ドラマ的にすると全体の流れは合理的でも各イベントはどうしても発生を偶然に頼るところがあります。もちろんそれでも潤沢にリソースがあれば両立できるでしょう。
すいません、よく意味がわかりません。ドラマ的にすると、各イベントの発生を偶然に頼るというのは、どういうことでしょうか?
量より質ですね。
ヒト型セルリアンに吸収されそうになったフレンズは描かれていません。必死さが必要なほどは恐ろしくはなかったと判断しています。緊張しているからこそ笑いは活きるのでは。
気を抜くとヒト型セルリアンに吸収される危険な状況であることは変わりません。そんな状況で、のほほんとしてると、セルリアンの存在、危険自体が茶番に見えてしまって、リアリティを失うのです。
緊張してる時にこそ笑いが生きる場合がありますが、それは、危険な状況の中で、敢えて、笑おうとする場合の話です。キャラクターが、危険を理解したそぶりもなく、漫才めいた会話をやってることではありません。
文学作品というか純文学? その辺りのものは内容が予め示されないでしょう。書き逃してしまったのですが、実際にはけもフレ2はカレーでもエンタメ小説でも文学作品でもありません。どのようなものと捉えるか、どれほどを期待するか。これは許容範囲の問題です。
エンタメ的な価値観でない、文学的な価値観からの評価は可能でしょう。ただエンタメ商業作品の次回作で、エンタメでない純文を目指したら、そりゃ客は低い評価を下します。それも覚悟で作ったのなら、それでいいでしょうし、そういう覚悟がなかったなら、アホだなぁと思います。でまぁ、別に、エンタメを否定した純文を作りたかったわけではないと私は思います。
同意できません。最後の一ページの行方とキュルルちゃんの正体が最後のたったワンカットで解決されるのはエレガントでしょう。”おうち自体の位置”は眼目でないと思います。一行はおうちの手がかりを追って旅したのであって、おうちの場所は一度も問題にされていません。
おうちを捜してたんだから、おうちに着かなくてもいいけど、おうちが何だったかを明らかにしてください。
蛇足かもしれませんが、ミステリ的観点についてもう少し説明させてください。個人的には「フレンズのみんなが大好きだからここをおうちと決める」のは合理的だと思っていますが、そもそも「大好きなんだーっ」に至る理由が足りてないとは思っていました。作中全体のドラマでキュルルちゃんがフレンズを好きになったという話が見当たらない。発想を転換して、キュルルちゃんはもともとフレンズを好きだった、だが気づいていなかったと捉えるのはどうでしょう。「フレンズを好きだということに気づいていく」というお話だったんです。フウチョウとのやり取りで、「これはもともとおうちを探すために描いたんじゃないから」と言ってました。そこで初めてスケッチブックの絵の理由に思い当たった。最終話EDでこれ見よがしにスケッチブックの絵が流されます。けもフレ1ではフレンズの影と旅した風景でした。EDの表現はヒントだったのではないでしょうか。今まで絵は散発的に出てきましたが、まとめて並べられたことはなかった。あれを見せられた観客はスケッチブックの絵にはほとんどフレンズの姿がないことに気づくわけです。ゴリラは後ろ姿だし、ペパプはいるけど荒野のはなんかわからない影だし。キュルルちゃんが描いてきた絵はすべてフレンズが楽しそうにしている。そういうものフレンズに渡してきた。スケッチブックにはそんな画風のがなぜ無いのか。要するに全部フレンズにあげてしまったからです。イエイヌの持っていた最後の一枚は当時描かれた絵の行方を示していました。昔も今と同じようにフレンズを好きだった。視聴者は最後のカットでそれを発見するんです。
キュルルは(イエイヌとかビーストの件を除くと)最初からフレンズに親切ですし、特に「自分がフレンズを好きだと気づいていない」ようにも見えないので、「自分がフレンズを好きだということに気づいた」と言われても、盛り上がりがないんですよ。
ちなみに、キュルルの正体って、一話のキュルルが出てきたところに、サンドスターがあって、ラストで、パークが無事な時からいたことがわかるから、キュルル自身のフレンズだろうという話ですか?
「よくご存じですね。委員会の人ですか?」そういう言い方をされるのは腹立たしいです。俺のほうが何か不当な振る舞いを先にしていてたなら教えてください。もちろん一般的にネットで関係者ではないという証明はできません。直接当人じゃなくても家族かもしれないし、恩人かもしれない。だから信じていただくしかないです。唯のファンです。
それはそうです。提示して、居心地の悪さを与えてそこで止めた。この手法にどれだけの効果があるかは未だわかりませんが、印象を残せたとは言えるのでは。
もし、けもフレ2スタッフが商業以外の目的のために、エンタメの基本的な面白さ、そこから来る売り上げを捨ててるというのなら、彼等は要するに、商業的な基準で動いてないわけです。だとすると、彼らが一期および一期ファンへの悪意で作ってるという推測も同程度に合理的ということになります。
SNSなどでの行動が必ずしも売上につながらないだろうとの説明を以前いただきましたが、それには説得力を感じました。商業的な基準で動いていない部分はたしかにあります。「だとすると」で対象を限定するのは論理的でないと思います。先に善意が合理的でありうる理屈を付けましたが、一期ファンへの悪意が合理的、という理屈はまだ与えられていません。
「解りあえなかったとしても、解ろうとするのは別にいいじゃん」から来てるのに、全然解り合おうとする様子も、解り合った様子もないところが、まず肩すかしです。
個人的には逃走を促されたときに「このまま行こう」としたのが、解り合おうとした、に入ると思うのですが、充分ではないと感じていらっしゃるのですね。
キュルルちゃんは気にかけていた、と思います。パークの他のメンバーは全くそうでないので相対的に浮き立っているのでは。消えたビーストに気づいておらず、ビースト自身は神出鬼没なので探さなくても薄情というほどではないと感じました。
そいつに全く責任がなくても、あまりにも疫病神なキャラに対して「酷い目に遭ってほしい」と思う場合もありますが、そういう場合は、そのキャラ自体が嫌いになっています。
足引っ張り系ヒロインみたいなやつですね。
仮にそうだとすると、海に落ちたときに「ざまあ」と言われたのは、視聴者の多くがキュルルちゃんの行動にはイエイヌに対して責任があったと判断した根拠になりますね。俺が彼女の行動を責められないと思う理由は既に述べました。
わざわざ伏線を放棄してつまらないと思わせる必要はないのです。現実の厳しさを描くからといって、面白い作品を作ろうと思えば作れるのに、わざわざ、つまらない作品を制作者が目指した、というのは、私から見て悪意のある解釈です。
いいえ、フィンクション的でない書き方を目指したのではと申しています。ドラマ的にすると全体の流れは合理的でも各イベントはどうしても発生を偶然に頼るところがあります。もちろんそれでも潤沢にリソースがあれば両立できるでしょう。
もっと全く違う印象のものにしたほうが良いでしょうが、さておいて「これはけもフレ1とは違う作品で、違う切り口で作っているんだな」と視聴者に心構えをさせ、けもフレ1と違っても、単なるミスではなくて、何か意図があるのかなと考えさせる効果があります。つまり、けもフレ2をけもフレ2として評価しやすくします。
うーん、個人的にはけもフレ2の事前の印象は異なっていると見えていてギスギスは十分許容範囲なのですが、一般論としては理にかなっていると思います。どこかのコメントでもナンバリングタイトルにしない方が良かったと言ってる方はいました。
けもフレ1でも、これまでのフレンズが、これまでのかばんちゃんとの思い出を生かす形で大勢出てきますし、フレンズとの交流を絡めることと、緊張感を保つことは両立します。
ヒト型セルリアンに吸収されそうになったフレンズは描かれていません。必死さが必要なほどは恐ろしくはなかったと判断しています。緊張しているからこそ笑いは活きるのでは。
文学作品というか純文学? その辺りのものは内容が予め示されないでしょう。書き逃してしまったのですが、実際にはけもフレ2はカレーでもエンタメ小説でも文学作品でもありません。どのようなものと捉えるか、どれほどを期待するか。これは許容範囲の問題です。
ミステリなら、「謎の存在であるキュルルが、スケッチブックという手がかりを追って、おうちを捜す」という話で、キュルルの正体もおうちも見当たらない時点で、零点です。
同意できません。最後の一ページの行方とキュルルちゃんの正体が最後のたったワンカットで解決されるのはエレガントでしょう。”おうち自体の位置”は眼目でないと思います。一行はおうちの手がかりを追って旅したのであって、おうちの場所は一度も問題にされていません。
蛇足かもしれませんが、ミステリ的観点についてもう少し説明させてください。個人的には「フレンズのみんなが大好きだからここをおうちと決める」のは合理的だと思っていますが、そもそも「大好きなんだーっ」に至る理由が足りてないとは思っていました。作中全体のドラマでキュルルちゃんがフレンズを好きになったという話が見当たらない。発想を転換して、キュルルちゃんはもともとフレンズを好きだった、だが気づいていなかったと捉えるのはどうでしょう。「フレンズを好きだということに気づいていく」というお話だったんです。フウチョウとのやり取りで、「これはもともとおうちを探すために描いたんじゃないから」と言ってました。そこで初めてスケッチブックの絵の理由に思い当たった。最終話EDでこれ見よがしにスケッチブックの絵が流されます。けもフレ1ではフレンズの影と旅した風景でした。EDの表現はヒントだったのではないでしょうか。今まで絵は散発的に出てきましたが、まとめて並べられたことはなかった。あれを見せられた観客はスケッチブックの絵にはほとんどフレンズの姿がないことに気づくわけです。ゴリラは後ろ姿だし、ペパプはいるけど荒野のはなんかわからない影だし。キュルルちゃんが描いてきた絵はすべてフレンズが楽しそうにしている。そういうものフレンズに渡してきた。スケッチブックにはそんな画風のがなぜ無いのか。要するに全部フレンズにあげてしまったからです。イエイヌの持っていた最後の一枚は当時描かれた絵の行方を示していました。昔も今と同じようにフレンズを好きだった。視聴者は最後のカットでそれを発見するんです。
よくご存じですね。委員会の人ですか?
医者に出来ないことはありますが、医者行くのやめたら健康になる可能性に賭ける、という主張に合理性はありません。
よくできたアニメ、よくできた物語は、ある程度人の心を動かす力があります。それで足りないと思うなら、それ以外の方法論を捜すことはできますが、「単にテーマ追求をやめる」ことには意味がないです。
作品のゴールが、売上やエンタメ作劇論でいう面白さ以外にあるとしたら、けもフレ2が失敗だったのかさえまだ判断できないでしょう。
私は前に「商業作品なのだから、ファンへの悪意で作品を作るわけはないだろう」と主張しました。
もし、けもフレ2スタッフが商業以外の目的のために、エンタメの基本的な面白さ、そこから来る売り上げを捨ててるというのなら、彼等は要するに、商業的な基準で動いてないわけです。だとすると、彼らが一期および一期ファンへの悪意で作ってるという推測も同程度に合理的ということになります。
他の目的もあるけど、商業的な目的も重視してる、というのなら、商業的な面では失敗ですね。
すいません。アイデアの語を選んだのが誤解を招きました。「一般的な作劇として...そこに意味を持たせるわけです。キュルルが人類の罪深さを知って、それを贖罪しようとするとか」について言ったつもりです。
「とか」と書いた通り、キュルルが贖罪する必要はないのです。意味を持たせろと言っています。
なるほど。それはそれとして、ビーストの生死を隠す作劇のために、キュルルを薄情に見せたら、作品の評価が下がるという点は変わりません。
お話の流れ的にはキュルルの「解りあえなかったとしても、解ろうとするのは別にいいじゃん」から来てるのに、全然解り合おうとする様子も、解り合った様子もないところが、まず肩すかしです。
次に怪獣に人格がない場合は、「家族を怪獣のせいで失って復讐鬼となった男」とか「怪獣によって故郷を失った人々」とか、そういった感情移入要素を起きます。ビーストの場合、特に何とも誰とも繋がってないので、感情移入が、ほとんど、できません。
”必要がある”とまで言える理由がありますか。俺のようなネット考察班が表立って声を上げにくいのは、養護即悪の空気があるからです。
「必要」と書いたのは書きすぎかもしれませんね。初見で面白くないと感じる作品の、考察は、されにくく、されても特に人気に繋がらない、と、訂正します。
違います。「酷い目にあって当然だ、と、思えるキャラが酷い目に遭う」のが気持ちいいのです。「酷い目に遭って当然だ」と思えるのは、悪いやつ、嫌いなやつだったり、悪いことに対して責任があるキャラクターです。
不快感を与える行動をしたとしても、そいつに責任がないと同情できるキャラは、酷い目にあってほしくありません。
より細かい話をすると、そいつに全く責任がなくても、あまりにも疫病神なキャラに対して「酷い目に遭ってほしい」と思う場合もありますが、そういう場合は、そのキャラ自体が嫌いになっています。
ところでキュルルちゃんの評価下落はある程度は、けものフレンズ全体として問題ないのではないでしょうか。売りたいのはサーバル・カラカル・ペパプといった動物の擬人化キャラクターでしょう。人気アンケートをやったらけもフレ2が生み出したイエイヌは、かばんちゃん・サーバルと二位を争えるレベルの人気になるのでは。
前にも述べましたが、主人公キャラに不快感を感じると、作品全体の評価が下がるんですよ。またイエイヌは相対的に人気が出たでしょうが、「イエイヌは好きだが、けもフレ2という作品は嫌い」という人は、イエイヌグッズとかを買う可能性が低いので、ダメです。
区別がつかないのはそのとおりだと思います。しかしもともとのお話は”悪意”かもしれないが”無能で説明がつく”だったでしょう。どちらでもあり得るわけです。「いい加減な脚本ではない」と説得はできませんが、「現実的な厳しさを描いた」で説明可能と申し上げています。視聴者の悪意説を推していますが、確かに、退屈だったから説にも説得力を感じました。実態は両方なのかもしれません。
ですから「現実の厳しさを描く」ために、わざわざ伏線を放棄してつまらないと思わせる必要はないのです。
現実の厳しさを描くからといって、面白い作品を作ろうと思えば作れるのに、わざわざ、つまらない作品を制作者が目指した、というのは、私から見て悪意のある解釈です。
「また会おうね」「約束だよ、かばんちゃん」。これは通常のドラマであればどちらかが旅立つときに言うセリフではないでしょうか。でもこの後は両者ともパーク内に留まるわけで、これは作劇的にはおかしいといえるのでは。「遊びに来てね」「行くよ… 絶対」などのほうがふさわしいように思います。素人でも秒で思いつき、しかも尺も取らず演出も変わらない。制作の無能では説明するのは厳しくないですか。
そのセリフについて制作者が無能だと言ってるわけでも、現実の厳しさを目指すのが悪いと言ってるわけでもないです。単に、現実の厳しさを目指しながら、伏線を処理して、面白い物語を作れるでしょうという話です。
ポスター的な告知絵(なんていうんでしたっけ?ああいうの)は楽しそうにしてるサーバルとカラカルですが、あれを例えばカラカルに腕組みさせるとか… そのような感じでしょうか。でもそれはどれほど効果があるのでしょう。
もっと全く違う印象のものにしたほうが良いでしょうが、さておいて「これはけもフレ1とは違う作品で、違う切り口で作っているんだな」と視聴者に心構えをさせ、けもフレ1と違っても、単なるミスではなくて、何か意図があるのかなと考えさせる効果があります。つまり、けもフレ2をけもフレ2として評価しやすくします。
アンチするやつはするでしょうが、そういう層の数や説得力が減るでしょう。
けもフレ1の最終戦闘は、感情的にも、アクション作画的にも非常に盛り上がるところであり、かなりリピートされてるかと思います。
そのため前期では戦闘の期間を一話くらいに短く収めた。今期では長くして多くのフレンズの交流を絡めた代わりに、緊張感を抑えたのでは。ホテルでのパンダの振る舞いやペパプへの妄想など、戦闘中にさえ気を抜ける掛け合い漫才が入ってきます。
けもフレ1でも、これまでのフレンズが、これまでのかばんちゃんとの思い出を生かす形で大勢出てきますし、フレンズとの交流を絡めることと、緊張感を保つことは両立します。
戦闘中に長い掛け合いや、ほのぼのとしたコントはやりにくいですが、戦闘中にやらなきゃいいだけの話です。
エンタメドラマ的には失敗。そのご意見には納得できました。これはエンタメドラマではなく… ミステリを目指したと考えるのはどうでしょう。バラエティ的漫才とミステリの間の子です。視聴者のタイプを A.漫才で和む B.ドラマを楽しむ C.考察する の3つに分けて考えて、A,C を重視したためにBへのフォローが疎かになってしまったのでは。
ミステリなら、「謎の存在であるキュルルが、スケッチブックという手がかりを追って、おうちを捜す」という話で、キュルルの正体もおうちも見当たらない時点で、零点です。
漫才で和むのはいいんですが、「恐ろしい敵との生死を賭けた戦闘中に、緊張感のない漫才をやる」は、両者の良いところを打ち消しあってます。
皆アニメを料理に例えるのに躊躇はないけど、それぞれで想像しているものが違う。これを面白いと思いました。でも看板にハッキリ”優しい世界”ですと書かれてはいなかった。観客側の受け入れられる間口が狭すぎるのが問題かと申し上げています(その狭さを作った責任が観客にないとしても)。
観客に問題があるとしても「商品内容をはっきりさせて誤解させない」ことは商売の原則、倫理であり、そっちはそっちで問題だというだけの話です。
テーマに絡めることを諦めて、中途半端なエピソードにしておけば「人間が歪めた動物について考え」るかというと、そういうものではありません。
そうでない理由はないでしょう。その可能性に委員会は賭けたんです。アプリ版ノータッチでアニメのみのファンなのですが、これが”動物ファースト”の理念だったりするのでは? あるいは実際は制作が高尚な態度を持っていなかったとしても、視聴者にそれを示そうとしたとか。作品のゴールが、売上やエンタメ作劇論でいう面白さ以外にあるとしたら、けもフレ2が失敗だったのかさえまだ判断できないでしょう。
すいません。アイデアの語を選んだのが誤解を招きました。「一般的な作劇として...そこに意味を持たせるわけです。キュルルが人類の罪深さを知って、それを贖罪しようとするとか」について言ったつもりです。
俺も生死は問題視していません。けもフレ2作劇の方向性がみてとれる判断材料として取り上げたつもりです。
それでビーストが大暴れするので気持ちいいわけです。 → ビースト側の考えや動機、意志が全く見えないので、ビーストに感情移入しようがなく、大暴れが気持ちよくもない
そうでしょうか。意思のない怪獣が大暴れするとか… 観念的な代理役がアクションを行う作品はあると思います。
初見で面白いと思ったからこそ、見返して伏線を捜すわけで、つまらない作品を、わざわざ見直して伏線を捜したりする人は少数派です。
”必要がある”とまで言える理由がありますか。俺のようなネット考察班が表立って声を上げにくいのは、養護即悪の空気があるからです。
仮にキュルルが、悲劇のトリガーではあっても、本人に無責任・悪意はなく、年相応と理解されるのであれば、そんなキャラクターが海に落ちても、爽快感は生みませんので、それはそれで作劇として失敗です。
海に落とすことで爽快感を引き出したいのなら、キュルルが酷いやつと感じられる必要があります(そして主人公が酷いやつと思われたら、作品への好感度が下がります)。
同意できないです。倫理的責任と描写の不快さは別の概念です。悪意を持って暴虐を奮ったにもかかわらず、視聴者に不快感を与えない描き方はありえるとおもいます。図書館来館時の博士の蹴りがその例で、あそこで引っかかる観客はあまりいないでしょう。不快感を与える行動をしたヤツが酷い目に遭うのが気持ちいいわけです。ところでキュルルちゃんの評価下落はある程度は、けものフレンズ全体として問題ないのではないでしょうか。売りたいのはサーバル・カラカル・ペパプといった動物の擬人化キャラクターでしょう。人気アンケートをやったらけもフレ2が生み出したイエイヌは、かばんちゃん・サーバルと二位を争えるレベルの人気になるのでは。
フレンズ軍団との戦闘とはいえ、前回の戦闘とは作中の時間も離れているし共通するギミックなどもないです。前回を経験したかばんちゃんや博士などの振る舞いを見て「おお、前回の教訓を活かして戦っている!」と観るのはあり得るでしょうが、演出上の共通性を積極的に探す理由はないでしょう。
けもフレ2では現実的な厳しさを書いたのではないでしょうか。→「伏線的な設定が明らかにならないことで現実的な厳しさを描いた作品」は「伏線処理に失敗した、いいかげんな脚本」と区別がつかないんですよ。
区別がつかないのはそのとおりだと思います。しかしもともとのお話は”悪意”かもしれないが”無能で説明がつく”だったでしょう。どちらでもあり得るわけです。「いい加減な脚本ではない」と説得はできませんが、「現実的な厳しさを描いた」で説明可能と申し上げています。視聴者の悪意説を推していますが、確かに、退屈だったから説にも説得力を感じました。実態は両方なのかもしれません。
「また会おうね」「約束だよ、かばんちゃん」。これは通常のドラマであればどちらかが旅立つときに言うセリフではないでしょうか。でもこの後は両者ともパーク内に留まるわけで、これは作劇的にはおかしいといえるのでは。「遊びに来てね」「行くよ… 絶対」などのほうがふさわしいように思います。素人でも秒で思いつき、しかも尺も取らず演出も変わらない。制作の無能では説明するのは厳しくないですか。けれども現実世界をみてみると、友達同士で時間距離が一時間とかでも億劫になってしまってずっと疎遠。これは多々あるわけです。パーク内でもパトロールの仕事もあるし研究あるしキノコも集めなきゃだし、会えなかもしれない現実がありうる。けもフレ2ではフィクションを離れてパークの現実を描きたかった。
けもフレ2も最初からギスギスしていたわけでなく、センちゃんアルマーさんの実態やジャングルメンバーなど、段階を追っての開示になっているとは思います → 段階を追って開示するのではなくて、一番最初から「今回のけもフレ2は、前回と違うぜ、ギスギスだぜ」ってやらないといけないんですよ。途中からギスギスしたらかえって混乱します。
ポスター的な告知絵(なんていうんでしたっけ?ああいうの)は楽しそうにしてるサーバルとカラカルですが、あれを例えばカラカルに腕組みさせるとか… そのような感じでしょうか。でもそれはどれほど効果があるのでしょう。
クライマックスの戦闘を、わざわざテンション抑えて緊張感が高まらないようにして退屈に仕上げたら、それは「優しい世界」ではなくて「盛り上がりにかけたつまらない作品」です。意図的なものではなく、制作側の技術やリソースが足りなかっただけでしょう。
そうでしょうか。けもフレ1の最終戦をリピートする視聴者はそんなに多いと思わないです。そのため前期では戦闘の期間を一話くらいに短く収めた。今期では長くして多くのフレンズの交流を絡めた代わりに、緊張感を抑えたのでは。ホテルでのパンダの振る舞いやペパプへの妄想など、戦闘中にさえ気を抜ける掛け合い漫才が入ってきます。
エンタメドラマ的には失敗。そのご意見には納得できました。これはエンタメドラマではなく… ミステリを目指したと考えるのはどうでしょう。バラエティ的漫才とミステリの間の子です。視聴者のタイプを A.漫才で和む B.ドラマを楽しむ C.考察する の3つに分けて考えて、A,C を重視したためにBへのフォローが疎かになってしまったのでは。各話と全体の両方の流れをカバーしているのも難度を上げた原因でしょう。リソースが潤沢にあれば、あるいはすべてのタイプを救う事ができたかもしれません。
皆アニメを料理に例えるのに躊躇はないけど、それぞれで想像しているものが違う。これを面白いと思いました。でも看板にハッキリ”優しい世界”ですと書かれてはいなかった。観客側の受け入れられる間口が狭すぎるのが問題かと申し上げています(その狭さを作った責任が観客にないとしても)。
でもそうやってパクリパクリと騒いでも何も変わらなかった。(オレンジレンジがテレビに出なくはなったが急遽活動中止や謝罪がなかったと意味)
それ以降、炎上を見ると「結局なにもかわんねーよ」って思ってた。だから、もう「騒動」だとか「祭り」だとかで何も変わらないなと思って、そういう事にクビを突っ込んで、自分が望む結果が得られないのは十分わかった。
俺はけものフレンズ1は見たが、2は最初みて「あ、違うな。これは見てて自分が嫌な気持ちになるやつだ。」って思って見るのをやめて、それ以降けものフレンズ2についてなにか言うことをやめて、存在を消した。つまり「艦これアニメ」のような「なかった」扱いだ。今までそうだったし、これからもそうでいい。
それがけものフレンズ2の炎上が大きくなって見ないようにしている俺にもエッセンス程度に見えるようになった。
俺に視聴を決定させる「榊遊矢に勝てるかもしれない」を見た。
アークV自体は自分は楽しく見ていた。主人公は確かになにかあるたびスマイルワールドに縋るし、他人を小馬鹿にすることも多かったが、「遊戯王的演出」をみるのならまだ全然楽しかった。
そのアークVが平成最後のクソアニメじゃなくなる可能性がある…。俺はニコニコ生放送で1~11話放送を見た。
でも、なんか、正直、嫌な気持ちじゃなかった。怒りなんてのも湧いてこない。ただただ楽しかった。コメントの空気感が。
OPの電話音をクレーム電話として表現した顔文字弾幕、コメントの一体感を眺めてるのが楽しかった。イエイヌのお家にお帰りは確かにひどいと思った。
オレンジレンジパクリ騒動のときに感じた熱いもの…そう、これが一体感ってやつなんだろう。
けものフレンズ1期と2期の楽しみ方、自分は変わってなかった。けものフレンズ1期の「たつきを信じろ」とかジャパリパークへようこその弾幕とか、そういうのを楽しんでいたんだ。
12話をニコ生でみた。みんなの一体感が素晴らしかった。だから俺は「1」を押した。アークVにはなかった、一体感を感じて。
たつきにどうしてほしいとか、吉崎観音にどうしてほしいなんて一切ない。
みんなが同じ方向を向ける作品を作ってくれて本当に良かったな、というのが自分の感想。
だから、けものフレンズ2制作スタッフに絡んでいってる奴らはちょっとおかしいとはおもうけど、みんながいってる炎上ってそっちなのね。
物語に過大な期待をしすぎです。どんな集団にも過激な人はいるし、けもフレファンの集団でも同じです。けもフレを見た過激な人が急に全員優しくなるようなことがあったら、それはもはや洗脳です。
だからといって、テーマに絡めることを諦めて、中途半端なエピソードにしておけば「人間が歪めた動物について考え」るかというと、そういうものではありません。
おっしゃったアイデアにあったようにキュルルちゃんが人類の罪を贖罪してしまえば、見ている方はスッキリした気分になってしまって何か教訓を得ることはないということです。
キュルルちゃんが人類の罪を贖罪するプロットを書いたつもりはないのですが、ともあれ、やりたいことが「人間が歪めた動物について視聴者を考えさせること」なら、それにそってテーマを展開してプロットを作れば良いかと。テーマに絡めることを諦めても、その点は改善しません。
最終的に死んでるか死んでないかは、別に、どうでもいいんですよ。問題はキュルルが、「自分が呼んだビーストの無事を確かめもせず、喜んでる薄情極まりないキャラ」として描かれていることです。
「キュルルが身の危険を顧みずにビーストを説得してわかった」みたいなシーンが別になく、暴れるビーストが、素直に船に乗って(?)キュルルについてきたのか、さっぱり分からないので、特に盛り上がりません。
ビースト側の考えや動機、意志が全く見えないので、ビーストに感情移入しようがなく、大暴れが気持ちよくもないし、死んでも、さほど悲しくもないです。
一話の最後でスケッチブックをめくり千切られたページを目にするシーンがあります。状況的にあそこでは手がかりを見つけるために捲っていたのであのページが最後になることはキュルルちゃんは判っていたと思います。ホテルでリョコウバトに集合絵を渡すときに、観覧車の次のページに集合絵を描いていて、その次が白紙であることが一瞬見えます。
なるほど、ありがとうございます。
俺はけもフレ1・2・ケムリクサすべてで、伏線や回収、世界観の開示などを目を皿のようにしてさがし、それに理屈をつけるような見方をしています。それで楽しめています
それは一つの楽しみ方ですし、尊重しますが、たいていの人は初見の感想で判断します。初見で面白いと思ったからこそ、見返して伏線を捜すわけで、つまらない作品を、わざわざ見直して伏線を捜したりする人は少数派です。
もし制作者がネットの考察班を動かしたいのなら「初見でわかる範囲で面白い」と感じさせる必要があります。けもフレ2は、それに失敗しているのです。
キュルルちゃんの立場から見て、イエイヌの価値観を尊重してああ言ってあげる、というのは悲劇のトリガーには観念的にはなっていますが、無責任・悪意のある行動には思えないです。カラカルが介抱していて危機的状況から開放されて安心しているという状況です。みため年齢的に見ても致し方ないかと。キュルルちゃんは魅力的なキャラクターとして描かれていてそれは成功していると思っています。この扱いで好感度が下がる合理的な理由はないでしょう。
仮にキュルルが、悲劇のトリガーではあっても、本人に無責任・悪意はなく、年相応と理解されるのであれば、そんなキャラクターが海に落ちても、爽快感は生みませんので、それはそれで作劇として失敗です。
海に落とすことで爽快感を引き出したいのなら、キュルルが酷いやつと感じられる必要があります(そして主人公が酷いやつと思われたら、作品への好感度が下がります)。
しかし確かにセルリアンとの戦闘はけもフレ2全体で退屈な仕上がりになっている印象は否めないです。制作なりに「優しい世界」を目指した結果ではと考えています。戦闘はけもフレ1に比してもピンチ感は少なくなりました。見返したときに緊張感が高くならないようにあえて戦闘はテンションを抑えたということです。
クライマックスの戦闘を、わざわざテンション抑えて緊張感が高まらないようにして退屈に仕上げたら、それは「優しい世界」ではなくて「盛り上がりにかけたつまらない作品」です。意図的なものではなく、制作側の技術やリソースが足りなかっただけでしょう。
セルリアン集合シーンはけもフレ1の名シーンほどの決めカットではないです。先に申し上げたとおり、あの状況ではああいう絵にしざるを得ない、共通性を見出すのは無理矢理のこじつけですよ。
わざわざ似せようとしなくても自然と似るであろうというのは、その通りです。その上で、1,2で共通する「フレンズ軍団対セルリアン」シーンである以上、視聴者は共通性を捜します。そういうシーンであることを踏まえる必要があるのです。
「伏線的な設定が明らかにならないことで現実的な厳しさを描いた作品」は「伏線処理に失敗した、いいかげんな脚本」と区別がつかないんですよ。
別にビーストやイエイヌが救われなくても、キュルルがおうちを見つけられなくても、いいんですが、このままだと単に「破綻した脚本」にしか見えないんですよ。伏線をきちんと解消してもビターエンドはできます。
いえ、今はまだ固まっていない段階です。その正体をつかめない段階で用語の意味を固定してしまうと先へ進むことができなくなるでしょう。必要なときにその都度「この作品のこの部分は優しい世界か?」「優しい世界とはなんだ?」を繰り返して意味を掘り進めていくべきです。
それについてはお任せします。私は「優しい世界」という用語に特に興味がないので、これ以上は控えます。
私は絵柄は前作を踏襲したもので、さほど大きくは変わってないと思います。少なくとも、ギスギスさを予感させる変化ではないですね。キービジュアルも仲良しフレンズで、交代した監督も「 前シリーズをリスペクトし、面白いと思ったところは全部入れてます」と言っている。
けもフレ2も最初からギスギスしていたわけでなく、センちゃんアルマーさんの実態やジャングルメンバーなど、段階を追っての開示になっているとは思います
段階を追って開示するのではなくて、一番最初から「今回のけもフレ2は、前回と違うぜ、ギスギスだぜ」ってやらないといけないんですよ。途中からギスギスしたらかえって混乱します。
スパイスの効いた辛旨なカレーで有名になったお店が、【店長とスタッフが変わって】、でも看板はそのままだった。それでも気になってお店に入ってみたら、全然違う甘々な、しかも不味いカレーを出された
辛旨カレーだった店が、看板そのままで甘口カレーを出したら来た客は混乱しますわな。店主が替わったのは知ってても、店の名前が変わってなくて、特に告知がなければ、同じような味を期待するでしょう。カレーの味を変えるのはいいんですが、辛口カレーの中でバリエーションが変化した、とかではなく、甘口カレー、ハヤシライス、ビーフシチューなりに変えるなら、看板に大きく「甘口カレーetcの店になりました」と書いておくべきでしょう。それは、客がどうすべきであったか、悪質な客がいたかどうか、とは全く別の話です。
人間が動物に迷惑をかける点ですが、フウチョウたちが「確かにヒトのおかげで助かったケモノもいるが、ヒトが不用意に近づいたばかりに、迷惑するケモノもいたかもしれんぞ」と明確に問いかけてるんですよね。これに対するアンサーは必要であり「テーマとして昇華していない程度の示唆」で終わらせるのは無理があります。
たしかに。フレンズの選定や居心地の悪さ、フウチョウの問いかけも含めると、制作の意図があったのは反論しようがないです。ならば、それをテーマに絡めることを諦めたというのはどうでしょう。ここ最近の界隈の雰囲気を見ると、けもフレ1でさえ信者とまで言われるほどの熱心なファンに「へーきへーきフレンズで得意なこと違うから」「のけものはいない」のような世界観を教える事はできなかったわけじゃないですか。結果論ですが、船長のワカバが休んでれば赤い木の騒動なんて起こらなかったのに、それを作ってるたつき監督自身が過労気味なわけじゃないですか。物語を使って視聴者に特定の行動を促すというのは実は無理なのではないでしょうか。おっしゃったアイデアにあったようにキュルルちゃんが人類の罪を贖罪してしまえば、見ている方はスッキリした気分になってしまって何か教訓を得ることはないということです。制作サイドに人間が歪めた動物について考えてほしいという善意があって、それをエンタメの物語に乗せて実現させるための方法として、示唆で止めておく手段を選んだ。いかがでしょう。
俺は、ビーストは死んでないと思います。そこにけもフレ2の作劇の方針がみてとれる気がするのです。個人的にはビースト周りのドラマはなかなかに心揺すられました。パークの重鎮のかばんさんさえ”アイツ”よわばりする厄介者、イエイヌを追い詰めサーバルに撃退されたけど、スケッチブックの集合絵に入れてあげた。「解りあえなかったとしても、解ろうとするのは別にいいじゃん」、ボートに現れたビーストから逃げることを促されてもこのまま行くと言い切る。キュルルちゃんの思いが言葉だけじゃなく行動になるまでに固まる。それでビーストが大暴れするので気持ちいいわけです。このドラマを普通に決着させようとすると、うーんたとえば、瓦礫の中にビーストを探したが見つからず、足跡がパークに続いてくのを見て「いつかまた会おう」とひとりごちる、とかになるでしょうか。でもそうせずに瓦礫に埋もれて消える描写にした。ホテルメンバーの救済のために尺が足らなかったのかもしれませんが、俺は刮目してみていたので気づいていました。ホテル屋上のあの位置は頭上に障害物はなく、瓦礫に埋もれたのはカメラのほうだと。つまり誤解させる演出になっているわけです。多くの視聴者は初見で、ああビースト死んだのか可愛そうやな、とおもってSNSに悲鳴を流します。それで解析班が動いて「ビースト死んでなかった!」という記事がホットになる。木村監督は交代時に、けもフレ1の魅力は散りばめられた伏線、のようなことをおっしゃってたと思います。ネットの考察版が動くことを期待して放映後に爆発する仕掛けを組んだというわけです。エンタメ作劇的には王道ではないでしょうが、このような狙いがあったのでは。
俺はけもフレ1・2・ケムリクサすべてで、伏線や回収、世界観の開示などを目を皿のようにしてさがし、それに理屈をつけるような見方をしています。それで楽しめています。けもフレ2では話の途中に掛け合い漫才みたいなのが頻繁に入ってくるので、その部分もニコニコしながら見ていました。確かに、ドラマとして登場人物の紆余曲折が一つのテーマに収束していく様はあまりけもフレ2にはないですが、その部分に多くを期待しない鑑賞スタイルには合っているような気がします。
何話か見返したのですが「キュルルの手がかりの絵が尽きた」ことが描かれたシーン
一話の最後でスケッチブックをめくり千切られたページを目にするシーンがあります。状況的にあそこでは手がかりを見つけるために捲っていたのであのページが最後になることはキュルルちゃんは判っていたと思います。ホテルでリョコウバトに集合絵を渡すときに、観覧車の次のページに集合絵を描いていて、その次が白紙であることが一瞬見えます。
キュルルちゃんの立場から見て、イエイヌの価値観を尊重してああ言ってあげる、というのは悲劇のトリガーには観念的にはなっていますが、無責任・悪意のある行動には思えないです。カラカルが介抱していて危機的状況から開放されて安心しているという状況です。みため年齢的に見ても致し方ないかと。キュルルちゃんは魅力的なキャラクターとして描かれていてそれは成功していると思っています。この扱いで好感度が下がる合理的な理由はないでしょう。
強敵との戦いをどう盛り上げるか、逆転を、どう印象づけるかの工夫があります。フレンズ型セルリアンとの戦いは、あまりそうした工夫がなく、盛り上がらなかったです。それなら誰かが「野生解放!」と叫んだほうがわかりやすいでしょう。
けもフレ1では仲間に呼びかけるために、野生解放を宣言しています。けもフレ2の該当の戦闘ではそのタイミングで一対一だったので言う必要がなかったのもあると思います。突然漫画風演出になるのはリアリティが下がって興ざめするので、盛り上がるためだけに叫ぶのは良い方針ではないと存じます。しかし確かにセルリアンとの戦闘はけもフレ2全体で退屈な仕上がりになっている印象は否めないです。制作なりに「優しい世界」を目指した結果ではと考えています。戦闘はけもフレ1に比してもピンチ感は少なくなりました。見返したときに緊張感が高くならないようにあえて戦闘はテンションを抑えたということです。最終戦での野生解放が叫ばれなかったのを考えていたんですが、する必要がなかったというのが答えだと思います。ホテルメンバーが囲まれたのがおそらく最大の危機的状況ですが、そのときにおいてもホテルに現れるペパプを妄想していました。いよいよとなれば解放する気だったのでしょうが、ペパプ本物が登場して救われる流れになります。
最終話の評価は、それまでの1~11話の評価と切り離せないものですので。視聴者に信用されるために、制作者側は信用を積み重ねる必要がありますが、そこがうまくいってないわけです。
セルリアン集合シーンはけもフレ1の名シーンほどの決めカットではないです。先に申し上げたとおり、あの状況ではああいう絵にしざるを得ない、共通性を見出すのは無理矢理のこじつけですよ。信用がないと言うより、悪意があると信用されていた、というほうが実態に近いと思います。監督交代騒動のツケを支払わせるために問題表現を探したというこです。たしかに結果的には新体制が信頼を積み上げることに失敗した、というのは同意します。しかしその責任が制作側にあったとまでは言い切れないです。ところで、けもフレ1でたつき監督が序盤で信頼を積み上げるような何かをしていたか、というのはずっと考えていました。一話で退屈と断じて切り捨てたという視聴者はよくいるし、伏線-回収のループを重ねていけば意味のあるシーンを作れる作家だとわからせることができるけど、そういうのってしてましたっけ?
キュルルのおうちが、見付からなかったことに、消化不良があります。次に、キュルルが「おうち」を諦めるに至る過程が曖昧なので、ドラマが盛り上がりません。
けもフレ2では現実的な厳しさを書いたのではないでしょうか。けもフレ1へのアンチテーゼというか、ご都合主義的ではない、よりリアルな世界観でフレンズ同士の親切心を浮き立たせたかった。一話を見てパーク内にキュルルちゃんのおうちがあるような気はしないわけです。家族の元に帰ってENDは想定しにくい。案の定見つからない。イエイヌは救われない。ビーストはどうしようもない。でもそれぞれに現実的な進展が与えられるわけです。エンタメ文法でみるとドラマとしては盛り上がりに欠けるでしょうが、スッキリとしない視聴感がビターな感じはあると思います。ケムリクサでの最終話EDの、りりが救われた風の描写は俺に、感動したけどこれ結局お話に過ぎなかったんだな、という思いを与え、肩透かしでした。
ところで、けもフレ1のテーマは何だったのでしょう。かばんちゃんの成長物語と捉えると、1話では彼女は頼りないですが、11・12話で存在感を見せつけたという感じであまり変化がない。ミライさんのフレンズが生存の理由になったり細かい伏線の繋がりは合ったのはわかります。それぞれの話でドラマが見事だったのも異論ないです。でも全体としてのドラマはどうでしょう。ケムリクサは逆に全体としての物語性が強いです。けもフレ2は両方のフレーバーを持っている。その話での起承転結と「おうちテーマ」のための全体の流れが合わせて練られている。イエイヌが”おうちにお帰り”といって拒絶されるのは全体のために必要だけど、イエイヌ回単体ではキュルルちゃんとサーバル・カラカルの在り方を見せられて自分との違いを見て挫折して去る、くらいでよいわけです。ただ各話においてフワッと見ているだけではドラマとして盛り上がりに欠ける、というのは改善の余地は合ったかもしれませんね。
いえ、今はまだ固まっていない段階です。その正体をつかめない段階で用語の意味を固定してしまうと先へ進むことができなくなるでしょう。必要なときにその都度「この作品のこの部分は優しい世界か?」「優しい世界とはなんだ?」を繰り返して意味を掘り進めていくべきです。
ギスギスを狙ったのなら、作品の出来とは別に、マーケティングのミスです。そういうのは事前に告知して心の準備をさせるのが良いかと。
絵柄が大きく変わっていることは初見でわかります。SNSで憤慨しているファンも監督交代騒動は耳にしていたはずです。ファンが必要以上にセンシティブになり、前と寸分違わず同じものを要求した、そのように見ています。けもフレ2も最初からギスギスしていたわけでなく、センちゃんアルマーさんの実態やジャングルメンバーなど、段階を追っての開示になっているとは思います(話がずれるかもしれませんが、「危険きわまりない溝ができています!」は、好き嫌い分かれるネタを初っ端から突っ込んできたな、と思いました)。
(付録)
ギスギスした作品はギスギスした作品で楽しめる人も、癒やし系作品の続編として出されると「思ったのと違う」ってなりますよね。ラーメン屋いったらサンドイッチが出てきたみたいなもんで。
面白いので http://blog.livedoor.jp/fukukan2009/archives/52307013.html 及びその次の記事より引用します。
別の場所のコメントでは「カレーを頼んだのにXXXが出てきた」といっている人もいました。俺は「カレー・ハヤシライス・ビーフシチュー」くらいの印象です。