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2021-05-01

anond:20210430194935

わざわざ連れて行かなきゃずっとイエイヌだったのにそれをつれてったんだから、寂しそうに見えたとかは勝手思い込みだろ

実際はドヤ顔だよ 

2020-10-28

anond:20201028154905

イエイヌお茶を辞退したのは直前にカラカル喧嘩して気持ちが塞いでいたからだ。

その様子はちゃん描写されている。警告を無視して突っ込むのはそれだけ気が急いていたため。

村に残ったイエイヌが持つ危険物——キュルルちゃんの絵は金庫に入れているとはいえセルリアンに取り込まれれば確かに危険だ。イエイヌの飼い主的な立場の人はおそらく永遠に帰ってこない。

でもその状況は現在のキュルルちゃん本人には知りようもないので責任は当然ない。

架空責任好感度を下げるのは意味がわからない。

キュルルちゃんを助けたイエイヌが取り立てて省みられないのは残念ではあるものの、キュルルちゃんの見た目の年齢からは致し方ないことに思える。それを問題視しておいてケムリクサの初回で体を張る わかば が省みられないのを気にしない態度はダブルスタンダードだ。俺はそっちはウワッきついわ… ってなった。でもあとから振り返ると致し方なし、だとわかる。

俺が覚えている限り、9話以前に感想方向性は決していたように思う。

コメント欄はこのアニメをこれからどうやって嘲るかを競っていた。

悪意を持って否定するのを前提に作品を見れば、あらゆるポイントヘイトに変わる。

ビーストを見殺しにした? ビーストが死んだ描写はどこにある? ホテル近くに浮くボートまで一瞬で距離を詰められるビーストの膂力で脱出できないと考える方が不自然だし、助けに行こうとすれば逆に足手まといになるだろう。

けものフレンズ2 にデリカシーは欠けていたか… 確かに欠けていた。

当時の俺の感想は、大人気のまま 9話に突入すれば、刺さる、悲劇として記憶に刻まれる、だった。

でも実際には、監督を放逐した憎しみは視聴者蔓延して好んでヘイトを探し回る化け物に変貌させていた。そんな最中に出てきたあの話には、デリカシーが欠けていたと言っていいと思う。

だけどそんな盤外戦のことは製作中に知る由もない。製作責任を問うのはおかしいでしょう?

監督一言でも「二期を楽しんでね」って言ってれば、あるいは委員会が彼の功績を評価して自分たち側をドラスティックに変えることを厭わなければ、作品評価はまったく変わっていただろう。

利権で諍いが起こるのはビジネスである以上仕方のないことだし、様子のわからない部外者が口をはさむ道理はない。だけど…

誰かを、アニメを、嘲笑するために、わざわざ時間をとって視聴する。思い通りにヘイトを溜める。

好意的感想を持った人を、人の気持ちが慮れない、サイコパス、などと言い「あの作品はなかったんだ」

本当にバカげている。

anond:20201028151315

言いすぎな面はあるし、制作陣の軋轢までいくと眉唾だが、イエイヌの扱いに憤慨するのは別におかしくないだろ。

主人公変更後もメインキャラとして扱わないといけないという事情垣間見えるサーバルの扱いより、

物語の根幹を成すキャラであるイエイヌ(と、アムールトラ)の扱いがクソ過ぎたのが2の不満が噴出したポイントじゃん。

  

旅に連れて行かなかった件についても、そこに至るまでのイエイヌの扱いと設定面の齟齬問題になっているんだよ。

視聴者から好意的に見えるキャラの出した飲食物に手を付けないとか、

警告を無視して危険に無策で飛び込むとか、助けられるも省みないとかヘイト貰う行動しかしていないよあの回のキュルル。

更に「おうちに帰る」理由にしても、後に明かされた設定面から考えると永遠に達成されない未来危険物と共に置き去りにされているわけで、

これが問題視されないと思うのはちょっと人の気持ちを慮れないにも程があるよ。

anond:20201028083802

正直2は皆仲良し路線だった1と比べて「ビースト」って明確なのけ者が生まれちゃった事はどうかと思うし

成長したかばんちゃんを出した事で1の後でサーバルと何か悲劇的な別れが起きたんだなって察せられる所は1のファンに怒られても仕方ないと思うけど

主人の帰りを待つイエイヌを旅に連れて行かなかった云々が叩くためのネタになってるのは何で…?ってなってる

今だと魔女の旅々なんかもそうだけど一度荒れるともう何が何でも叩くぞって奴らが描写の一つ一つにケチを付けて叩く流れにするから不愉快

ジャンプ漫画とかもし連載してたのがジャンプじゃなかったら絶対ここまで叩いてなかっただろって作品まで作者を人格否定する所まで叩くから気持ち悪い

2020-09-20

表現弾圧オタクけもフレ2にやってたくせに

フェミポリコレ社会学者漫画アニメ自分価値観で叩きまくってる!許されない!嫌なら見るな!→それけもフレ2の時にオタクは散々やってたじゃん。ファンまで袋叩きにして。

漫画アニメに対して「ほら、こうした方がいいだろ」と押し付けるとか何様のつもりだ!→けもフレ2の時に散々やってたじゃん。イエイヌ救済とか。

不快からポリコレを持ち出して漫画アニメを叩くな!→ビースト生き埋めや髪の毛引っ張る展開を叩くのはポリコレではないと。

けもフレ2は自分もクソアニメだと思うが、表現の自由とか言ってるオタクの本性を暴いてくれて制作陣にはありがとうと言いたい。

2020-08-15

アニメ宇崎の作画

https://togetter.com/li/1574875

上の絵の方が上手いと思ったんだけど

というかアニメの宇崎ちゃんキャラデザ可愛く無さすぎるしアニメ絵としてもバランス崩れすぎでは?と思う

目の大きさを上手にイラストとして落とし込めてないし、大学生というのもわからない感じになってるし

その辺どうなんだろうか

作画クソだと思うんだけど同意見の人あんまりいない

いやほんとにキャラデザクソだし作画もアレじゃん

髪型とか微妙にブスにリデザされてるじゃん

可愛くないショートカットじゃん

がっこうぐらしの僕っ子はかわいいショートじゃん

女の子が男に近づくボーイッシュじゃん

だけど宇崎はラノベ主人公みたいな、なよなよした男が女みたいになってるパターンショートじゃん

髪の色も汚いし、前髪越しの眉にも嫌悪感ある

髪質ギザギザで汚い。美少女感がゼロ

全く可愛くないし小汚いクソガキみたいな雰囲気あって嫌いなんだが

原作は、イラスト表現だと言われればまあ受け入れられる範囲だが胸の大きさの問題でなく身体構造ぶっ壊れてるかはけして絵が上手いとはいえないと思う。内容はよくあるキャラ萌え量産型エロギャグですねとしか炎上しなきゃ対して話題にも残らなかったろうし、間違いなく漫画史にもアニメ史に残るような名作ではないのは確かだ。手近な消耗品に近いだろう。ワンクール消費型オナホ嫁系というやつか。

作画ペラペラ具合、可愛くなさは亜人ちゃんは語りたいアニメを思い起こさせる。あれはキャラデザこれじゃないと叩かれてたのに、なぜ宇崎は許されたかわからん原作の宇崎の雰囲気殺されてるのに。

アニメ化、キャラデザクソだなと正直に言えなくなってるんじゃないか普段クソアニメ叩いてる層がフェミ憎しで援護に回ってるんだろうか。いやでも作画ほんと悪いじゃん。可愛くない。萌えアニメとして致命的だろ。ゴミを別のゴミ叩くためにゴミじゃないと言い張るのは嫌いだ。ゴミゴミだ。

いつも思うんだが、フェミ叩くためだけのアニメに成り果ててるの、ファンは嫌じゃないのか?けもふれがあたおか信者が角川叩く棒に成り果てたときみたいだ。そういえばイエイヌがキュルル叩くための棒として使われるのも不愉快だった。2はクソアニメなのは認めるがそれは違うだろ。何かを叩くために好きなものを使うって嫌だわ。アニメフェミ弾丸扱いするのってオタクとしてどうなんだ。宇崎に関しては作者もそういう人ということで許されてるんだろうか。

というかそもそも、宇崎はちょっと当たった程度の規模の作品で、話題にしてるのも野次馬しかいないような気もする。フェミさんの反応が気になるところ、みたいな感想ばっか流れてくる。ファンアート質低いし少ない。エロ同人は盛り上がるのかもしれないが、今のところはなんとも。

クソアニメなのに叩くとフェミ扱いなのが息苦しい。

大体宇崎がうざいという話なのに、宇崎を叩くことがご法度になってるのキツすぎるわ。宇崎こそ女体でデカい態度に許しを得ている系のクソアマだろ。フェミが「本来フェミニズムから外れて女性弱者とみなし加護特権を求めている」という言説にのっとれば、宇崎こそクソフェミ同類だ。腹パン生贄御用達キャラじゃないかコンテンツと「キャラクター:宇崎」を混同し、宇崎をフェミから守るとか言い出したときおかしくなった。

2019-08-27

水戸黄門Look my anus (見て肛門)」

Look my anus」(ルックイエイヌス)を七音として、五・七・五の句ができた。

しかし、下の句(七・七)が思いつかないので誰か書いてくれ。

2019-05-18

サーバルちゃんだったら

サーバルちゃんだったらけもの2の制作陣の事も叩かなかったと思うんだ。「フレンズによって得意なこと違うからー」って言って無能制作陣も「アニメを作るのが苦手なフレンズなんだね」って許すと思うし。サイコパス主人公の事も、トキの歌を聴いた時みたいにちょっと困った顔して、でも優しく察するだろうし、奴がイエイヌを見捨てようとしたら「どうしてそんな事いうの!ひどいよ」って言って、それからイエイヌフォロー入れるだろうし。きっとたつき世界ならキュルルも改心してくれるだろう。

から俺も2のことは許す事にした。

俺はこれからもサーかばを描き続けるよ。

2019-04-11

anond:20190411011259

別に鵜呑みにしなくても良いのですが、「初見面白さがわからないものを何度も見返す人が少数派」という点について、個人的には確認するまでもないことだと思ってました。「つまらないと思った作品を、何度も見返して、伏線を捜したりするか」を周りの友人に聞いてみたらいかがでしょう。

ミステリにも大きな幅があると思います真相のものは順当でも周りの論理不明点があるとか。しか真相についても二転三転は確かにありました。具体的にはペパプ登場とイエイヌ再登場で俺の推理は二度変わっています。それで結局ラストシーンまで当てられなかった…

真相のものは順当でも論理が変わる、でも、もちろん良いですよ。問題は、ストーリーと結びついた進展がないことです。ちなみにイエイヌ最終回で、パークが機能してた頃のスケブの絵を描いてたことって、冷凍睡眠否定する根拠になるんでしょうか? よく考えたら別にならないような……。

anond:20190411003813

やりとりも長くなってきたので、そろそろ切り上げさせてください。俺は基本的にはエンタメ技法論については貴方意見を信用しています。提出した疑問点に対して「こうすればいい」といってサラリとプロットがでてくる業前には感服しました。ただそれでも「〜なんですよ」の一言鵜呑みにする訳にはいかない。説得力を感じるか主観に行き着くまでは議論しなくちゃ面白くないわけです。例えば「データは取られてると思いますよ」ではそのデータを出していただかなくては意味ないわけです。でも理屈パワーだけでも良い。お互いのいくつかの仮説は説得する理屈のみで、証明反証不可能ですが、先に上げたやつは反証ができるということです。反証された時点で「ふむふむこの可能性はなくなった、残るは無能説か悪意説...」のように削っていけます

わかば理由は最大の謎の一つでしたが… ううう〜む、コレは自分気づきたかった。でも否定できそうな理屈もあるし、もう少し研究してみます

ミステリにも大きな幅があると思います真相のものは順当でも周りの論理不明点があるとか。しか真相についても二転三転は確かにありました。具体的にはペパプ登場とイエイヌ再登場で俺の推理は二度変わっています。それで結局ラストシーンまで当てられなかった…

2019-04-10

anond:20190410223420

提示だけして居心地を悪くすることは、作品に悪印象を残すことになり、悪い印象の作品から何かを学ぼうとすることは人間はあまりしないので、負の効果があるでしょう。それを超える正の効果がある、とする根拠はないように思われます

作品全体が好評価になるのを見越してこの手法をとったのでは。悪印象を挽回できるほど全体が良ければこの手法機能するわけですよね。

商業性を捨てた善意を追求している、という過程は、かなり蓋然性が低い、とはいえるかと。

この件については反証する方法があります制作サイドの人間の”動物ファースト”的でない行動・言動確認できたなら、作品善意を載せた可能性を否定できるでしょう。

危険で、恐ろしいビーストから逃げず、敢えて解り合おうとする」ことをやりたいのかもしれませんが、暴れまくるビーストをどうやって船に乗せて連れてきたか、なぜみんな無事なのか

「動くものは何でも襲ってくるぞ!」とゴリラが言っています。キュルルちゃん(とかばんさん)はボート上でそれに気づき、動かなかったんでしょう。皆さん言ってらっしゃるセルリアンに、けしかける」ですが、けしかけたと取れるシーンは実はありませんよね。ホテルに飛び移るビーストを二人の力では止められないでしょう。探さなかったのはビーストボートまで跳躍できる膂力があったので、ホテルからも逃げられると踏んだのもあるのでは。

全体の平均を取ると、「初見面白くないと感じる作品の、考察は、されにくく、されても特に人気に繋がらない」ことになります

データを取ってはいないでしょう?... いえ、ご経験理由としているのはわかります

視聴者の多くというか「ざまあ」と言った人の多くは、ですね。まぁ視聴者の多くは、イエイヌに対するキュルルちゃんの行動・言動問題があったと判断しているでしょう。

ただただ悲しい派・このような扱いにした制作を許せない派 もいらっしゃいました。集計をとったわけではないので比率がどうかは不明です。「他のキャラなりに、うながさせるとか方法はいくらでもあるのです。」なるほど。カラカルに「ほら、この子にお礼言いなさいよ」とか言わせたら、確かに印象はずっと良くなりますね… ただ俺はキュルルちゃんの落下のためにああでなければの立場ですので。

ドラマ的にすると、各イベントの発生を偶然に頼るというのは、どういうことでしょうか?

たとえばケムリクサで、わかば水槽転送されたり、橋のヌシに出くわしたり、多くのイベントは偶然じゃないですか。フィクションなので気にならないわけですが、キュルルちゃんの「大好きだー」を必然的にするイベントを追加してもその発生は偶然によるものになるのでは。イベントを廃した結果、自分で振り絞っているような描写になって脱フィクション化がなされた。いえもちろん、偶然によらないイベントを用意したり他の流れと同じ原因から始まる必然的結果にするのは不可能ではないでしょう。その意味リソースが潤沢にあれば、と申しました。

量より質ですね。

売り言葉に買い言葉になってしまますが… けもフレ1の最終戦でのフレンズ同士の交流はそれほど高質でしたか主人公勢以外での話です。けもフレ2で多かったのはそちらなので。

そんな状況で、のほほんとしてると、セルリアンの存在危険自体茶番に見えてしまって

オオミミギツネさんのシーンはそれに該当していますが、ギャグ的な魅せ方で俺は流されてしまいました。初見では。

エンタメ否定した純文を作りたかったわけではないと私は思います

意見尊重します。覚悟たかどうかも今後のスタッフの様子からおそらく判断できるでしょう。

最初からフレンズに親切ですし、特に自分フレンズを好きだと気づいていない」ようにも見えないので、「自分フレンズを好きだということに気づいた」と言われても、盛り上がりがないんですよ。

最初からフレンズ」ですが、必ずしもそうだとは言い切れないと思いますジャングルでは及び腰だったし、荒野では面倒事に巻き込まれないように逃げようとしていました。当時基本的にはおうちを探すことを優先していました。その割に車掌ラッキーさんに振り返ってお礼を言ったり、リョコウバトに絵を描くために夜を徹したりします。まあ確かに「なんでこんなに気を使ってるのかわからない」的な描写があれば更に盛り上がったでしょうね...

キュルルの正体って、一話のキュルルが出てきたところに、サンドスターがあって、ラストで、パークが無事な時からいたことがわかるから、キュルル自身フレンズだろうという話ですか?

厳密には一話の施設の様子などに、当時の様子が推理できる判断材料がありますが、概ねそうです。サンドスターコールドスリープさせる機能が描かれていないし、記憶を失っているのもフレンズ化と合致します。パークの客ならばパークの外におうちがあったんでしょう。

anond:20190410214219

「よくご存じですね。委員会の人ですか?」そういう言い方をされるのは腹立たしいです。俺のほうが何か不当な振る舞いを先にしていてたなら教えてください。もちろん一般的ネット関係者ではないという証明はできません。直接当人じゃなくても家族かもしれないし、恩人かもしれない。だから信じていただくしかないです。唯のファンです。

なるほど。いや「その可能性に委員会は賭けたんです」と断言されてたので、何か委員会に関する情報があるのかなと。

それはそうです。提示して、居心地の悪さを与えてそこで止めた。この手法にどれだけの効果があるかは未だわかりませんが、印象を残せたとは言えるのでは。

提示だけして居心地を悪くすることは、作品に悪印象を残すことになり、悪い印象の作品から何かを学ぼうとすることは人間はあまりしないので、負の効果があるでしょう。それを超える正の効果がある、とする根拠はないように思われます

SNSなどでの行動が必ずしも売上につながらないだろうとの説明を以前いただきましたが、それには説得力を感じました。商業的な基準で動いていない部分はたしかにあります。「だとすると」で対象限定するのは論理的でないと思います。先に善意合理的でありうる理屈を付けましたが、一期ファンへの悪意が合理的、という理屈はまだ与えられていません。

商業性を捨てた善意合理性を見るなら、商業性を捨てた悪意にも同程度の合理性は出てきます。まぁ悪意はさておくとして、商業性を捨てた善意を追求している、という過程は、かなり蓋然性が低い、とはいえるかと。

個人的には逃走を促されたときに「このまま行こう」としたのが、解り合おうとした、に入ると思うのですが、充分ではないと感じていらっしゃるのですね。

危険で、恐ろしいビーストから逃げず、敢えて解り合おうとする」ことをやりたいのかもしれませんが、暴れまくるビーストをどうやって船に乗せて連れてきたか、なぜみんな無事なのか、等がわからないので、危険さも、それを乗り越えようとする意志や行動も見当たらないのです。

キュルルちゃんは気にかけていた、と思います。パークの他のメンバーは全くそうでないので相対的に浮き立っているのでは。消えたビーストに気づいておらず、ビースト自身は神出鬼没なので探さなくても薄情というほどではないと感じました。

セルリアンに、けしかける」は相手のことを思った行為でもなんでもないですよね。ビースト自分の都合で利用するだけして、その後も、何も気にしてない。キュルルちゃんにはキュルルちゃんで考えてることがあるのかもしれませんが、それが示されてないので、薄情にしか見えないのですよ。

承服できませんが、反論する材料の持ち合わせもありません。

世の中には色々な人がいて、一人一人異なる意見を持ってます。それのどれが正しい、間違いというわけではないですが、全体の平均を取ると、「初見面白くないと感じる作品の、考察は、されにくく、されても特に人気に繋がらない」ことになります。もちろん例外はありますが、例外には例外理由があるわけです。

仮にそうだとすると、海に落ちたときに「ざまあ」と言われたのは、視聴者の多くがキュルルちゃんの行動にはイエイヌに対して責任があったと判断した根拠になりますね。俺が彼女の行動を責められないと思う理由は既に述べました。

視聴者の多くというか「ざまあ」と言った人の多くは、ですね。まぁ視聴者の多くは、イエイヌに対するキュルルちゃんの行動・言動問題があったと判断しているでしょう。あなたから見てキュルルちゃんが責められないとして、制作者は、それをきちんとわかりやすく示すべきです。キュルルが、とっさにイエイヌにお礼を言うことを思いつかなかったのなら、他のキャラなりに、うながさせるとか方法はいくらでもあるのです。

いいえ、フィンクション的でない書き方を目指したのではと申していますドラマ的にすると全体の流れは合理的でも各イベントはどうしても発生を偶然に頼るところがあります。もちろんそれでも潤沢にリソースがあれば両立できるでしょう。

すいません、よく意味がわかりません。ドラマ的にすると、各イベントの発生を偶然に頼るというのは、どういうことでしょうか?

けもフレ2の方がフレンズ同士の会話量は多かったと思います

量より質ですね。

ヒト型セルリアンに吸収されそうになったフレンズは描かれていません。必死さが必要なほどは恐ろしくはなかったと判断しています。緊張しているからこそ笑いは活きるのでは。

気を抜くとヒト型セルリアンに吸収される危険な状況であることは変わりません。そんな状況で、のほほんとしてると、セルリアンの存在危険自体茶番に見えてしまって、リアリティを失うのです。

緊張してる時にこそ笑いが生きる場合がありますが、それは、危険な状況の中で、敢えて、笑おうとする場合の話です。キャラクターが、危険理解したそぶりもなく、漫才めいた会話をやってることではありません。

文学作品というか純文学? その辺りのものは内容が予め示されないでしょう。書き逃してしまったのですが、実際にはけもフレ2はカレーでもエンタメ小説でも文学作品でもありません。どのようなものと捉えるか、どれほどを期待するか。これは許容範囲問題です。

エンタメ的な価値観でない、文学的価値観から評価可能でしょう。ただエンタメ商業作品次回作で、エンタメでない純文を目指したら、そりゃ客は低い評価を下します。それも覚悟で作ったのなら、それでいいでしょうし、そういう覚悟がなかったなら、アホだなぁと思います。でまぁ、別にエンタメ否定した純文を作りたかったわけではないと私は思います

同意できません。最後の一ページの行方とキュルルちゃんの正体が最後のたったワンカット解決されるのはエレガントでしょう。”おうち自体位置”は眼目でないと思います。一行はおうちの手がかりを追って旅したのであって、おうちの場所は一度も問題にされていません。

おうちを捜してたんだから、おうちに着かなくてもいいけど、おうちが何だったかを明らかにしてください。

蛇足かもしれませんが、ミステリ観点についてもう少し説明させてください。個人的には「フレンズのみんなが大好きだからここをおうちと決める」のは合理的だと思っていますが、そもそも「大好きなんだーっ」に至る理由が足りてないとは思っていました。作中全体のドラマでキュルルちゃんフレンズを好きになったという話が見当たらない。発想を転換して、キュルルちゃんはもともとフレンズを好きだった、だが気づいていなかったと捉えるのはどうでしょう。「フレンズを好きだということに気づいていく」というお話だったんです。フウチョウとのやり取りで、「これはもともとおうちを探すために描いたんじゃないから」と言ってました。そこで初めてスケッチブックの絵の理由に思い当たった。最終話EDでこれ見よがしにスケッチブックの絵が流されますけもフレ1ではフレンズの影と旅した風景でした。ED表現はヒントだったのではないでしょうか。今まで絵は散発的に出てきましたが、まとめて並べられたことはなかった。あれを見せられた観客はスケッチブックの絵にはほとんどフレンズの姿がないことに気づくわけです。ゴリラは後ろ姿だし、ペパプはいるけど荒野のはなんかわからない影だし。キュルルちゃんが描いてきた絵はすべてフレンズが楽しそうにしている。そういうものフレンズに渡してきた。スケッチブックにはそんな画風のがなぜ無いのか。要するに全部フレンズにあげてしまたからです。イエイヌの持っていた最後の一枚は当時描かれた絵の行方を示していました。昔も今と同じようにフレンズを好きだった。視聴者最後カットでそれを発見するんです。

キュルルは(イエイヌとかビーストの件を除くと)最初からフレンズに親切ですし、特に自分フレンズを好きだと気づいていない」ようにも見えないので、「自分フレンズを好きだということに気づいた」と言われても、盛り上がりがないんですよ。

ちなみに、キュルルの正体って、一話のキュルルが出てきたところに、サンドスターがあって、ラストで、パークが無事な時からいたことがわかるから、キュルル自身フレンズだろうという話ですか?

anond:20190410195734

「よくご存じですね。委員会の人ですか?」そういう言い方をされるのは腹立たしいです。俺のほうが何か不当な振る舞いを先にしていてたなら教えてください。もちろん一般的ネット関係者ではないという証明はできません。直接当人じゃなくても家族かもしれないし、恩人かもしれない。だから信じていただくしかないです。唯のファンです。

「単にテーマ追求をやめる」ことには意味がないです。

それはそうです。提示して、居心地の悪さを与えてそこで止めた。この手法にどれだけの効果があるかは未だわかりませんが、印象を残せたとは言えるのでは。

もし、けもフレスタッフ商業以外の目的のために、エンタメ基本的面白さ、そこから来る売り上げを捨ててるというのなら、彼等は要するに、商業的な基準で動いてないわけです。だとすると、彼らが一期および一期ファンへの悪意で作ってるという推測も同程度に合理的ということになります

SNSなどでの行動が必ずしも売上につながらないだろうとの説明を以前いただきましたが、それには説得力を感じました。商業的な基準で動いていない部分はたしかにあります。「だとすると」で対象限定するのは論理的でないと思います。先に善意合理的でありうる理屈を付けましたが、一期ファンへの悪意が合理的、という理屈はまだ与えられていません。

「解りあえなかったとしても、解ろうとするのは別にいいじゃん」から来てるのに、全然解り合おうとする様子も、解り合った様子もないところが、まず肩すかしです。

個人的には逃走を促されたときに「このまま行こう」としたのが、解り合おうとした、に入ると思うのですが、充分ではないと感じていらっしゃるのですね。

ビースト場合特に何とも誰とも繋がってない

キュルルちゃんは気にかけていた、と思います。パークの他のメンバーは全くそうでないので相対的に浮き立っているのでは。消えたビーストに気づいておらず、ビースト自身は神出鬼没なので探さなくても薄情というほどではないと感じました。

初見面白くないと感じる作品の、考察は、されにくく、されても特に人気に繋がらない

承服できませんが、反論する材料の持ち合わせもありません。

そいつに全く責任がなくても、あまりにも疫病神キャラに対して「酷い目に遭ってほしい」と思う場合もありますが、そういう場合は、そのキャラ自体が嫌いになっています

足引っ張り系ヒロインみたいなやつですね。

不快感を与える行動をしたとしても、そいつ責任がないと同情できるキャラは、酷い目にあってほしくありません。

仮にそうだとすると、海に落ちたときに「ざまあ」と言われたのは、視聴者の多くがキュルルちゃんの行動にはイエイヌに対して責任があったと判断した根拠になりますね。俺が彼女の行動を責められないと思う理由は既に述べました。

主人公キャラ不快感を感じると、作品全体の評価が下がるんですよ。

必ずしもそうでないと思いますが、これも反論できません。

わざわざ伏線放棄してつまらないと思わせる必要はないのです。現実の厳しさを描くからといって、面白作品を作ろうと思えば作れるのに、わざわざ、つまらない作品制作者が目指した、というのは、私から見て悪意のある解釈です。

いいえ、フィンクション的でない書き方を目指したのではと申していますドラマ的にすると全体の流れは合理的でも各イベントはどうしても発生を偶然に頼るところがあります。もちろんそれでも潤沢にリソースがあれば両立できるでしょう。

もっと全く違う印象のものにしたほうが良いでしょうが、さておいて「これはけもフレ1とは違う作品で、違う切り口で作っているんだな」と視聴者に心構えをさせ、けもフレ1と違っても、単なるミスではなくて、何か意図があるのかなと考えさせる効果があります。つまりけもフレ2をけもフレ2として評価やすします。

うーん、個人的にはけもフレ2の事前の印象は異なっていると見えていてギスギスは十分許容範囲なのですが、一般論としては理にかなっていると思います。どこかのコメントでもナンバリングタイトルにしない方が良かったと言ってる方はいました。

けもフレ1でも、これまでのフレンズが、これまでのかばちゃんとの思い出を生かす形で大勢出てきますし、フレンズとの交流を絡めることと、緊張感を保つことは両立します。

けもフレ2の方がフレンズ同士の会話量は多かったと思います

「恐ろしい敵との生死を賭けた戦闘中に、緊張感のない漫才をやる」は、両者の良いところを打ち消しあってます

ヒト型セルリアンに吸収されそうになったフレンズは描かれていません。必死さが必要なほどは恐ろしくはなかったと判断しています。緊張しているからこそ笑いは活きるのでは。

商品内容をはっきりさせて誤解させない」ことは商売原則倫理であり

文学作品というか純文学? その辺りのものは内容が予め示されないでしょう。書き逃してしまったのですが、実際にはけもフレ2はカレーでもエンタメ小説でも文学作品でもありません。どのようなものと捉えるか、どれほどを期待するか。これは許容範囲問題です。

ミステリなら、「謎の存在であるキュルルが、スケッチブックという手がかりを追って、おうちを捜す」という話で、キュルルの正体もおうちも見当たらない時点で、零点です。

同意できません。最後の一ページの行方とキュルルちゃんの正体が最後のたったワンカット解決されるのはエレガントでしょう。”おうち自体位置”は眼目でないと思います。一行はおうちの手がかりを追って旅したのであって、おうちの場所は一度も問題にされていません。

蛇足かもしれませんが、ミステリ的観点についてもう少し説明させてください。個人的には「フレンズのみんなが大好きだからここをおうちと決める」のは合理的だと思っていますが、そもそも「大好きなんだーっ」に至る理由が足りてないとは思っていました。作中全体のドラマでキュルルちゃんフレンズを好きになったという話が見当たらない。発想を転換して、キュルルちゃんはもともとフレンズを好きだった、だが気づいていなかったと捉えるのはどうでしょう。「フレンズを好きだということに気づいていく」というお話だったんです。フウチョウとのやり取りで、「これはもともとおうちを探すために描いたんじゃないから」と言ってました。そこで初めてスケッチブックの絵の理由に思い当たった。最終話EDでこれ見よがしにスケッチブックの絵が流されますけもフレ1ではフレンズの影と旅した風景でした。ED表現はヒントだったのではないでしょうか。今まで絵は散発的に出てきましたが、まとめて並べられたことはなかった。あれを見せられた観客はスケッチブックの絵にはほとんどフレンズの姿がないことに気づくわけです。ゴリラは後ろ姿だし、ペパプはいるけど荒野のはなんかわからない影だし。キュルルちゃんが描いてきた絵はすべてフレンズが楽しそうにしている。そういうものフレンズに渡してきた。スケッチブックにはそんな画風のがなぜ無いのか。要するに全部フレンズにあげてしまたからです。イエイヌの持っていた最後の一枚は当時描かれた絵の行方を示していました。昔も今と同じようにフレンズを好きだった。視聴者最後カットでそれを発見するんです。

anond:20190410171528

そうでない理由はないでしょう。その可能性に委員会は賭けたんです。

よくご存じですね。委員会の人ですか?

医者に出来ないことはありますが、医者行くのやめたら健康になる可能性に賭ける、という主張に合理性はありません。

よくできたアニメ、よくできた物語は、ある程度人の心を動かす力があります。それで足りないと思うなら、それ以外の方法論を捜すことはできますが、「単にテーマ追求をやめる」ことには意味がないです。

作品のゴールが、売上やエンタメ作劇論でいう面白さ以外にあるとしたら、けもフレ2が失敗だったのかさえまだ判断できないでしょう。

私は前に「商業作品なのだからファンへの悪意で作品を作るわけはないだろう」と主張しました。

もし、けもフレスタッフ商業以外の目的のために、エンタメ基本的面白さ、そこから来る売り上げを捨ててるというのなら、彼等は要するに、商業的な基準で動いてないわけです。だとすると、彼らが一期および一期ファンへの悪意で作ってるという推測も同程度に合理的ということになります

他の目的もあるけど、商業的な目的も重視してる、というのなら、商業的な面では失敗ですね。

すいません。アイデアの語を選んだのが誤解を招きました。「一般的な作劇として...そこに意味を持たせるわけです。キュルルが人類の罪深さを知って、それを贖罪しようとするとか」について言ったつもりです。

「とか」と書いた通り、キュルルが贖罪する必要はないのです。意味を持たせろと言っています

俺も生死は問題視していません。けもフレ2作劇の方向性がみてとれる判断材料として取り上げたつもりです。

なるほど。それはそれとして、ビーストの生死を隠す作劇のために、キュルルを薄情に見せたら、作品評価が下がるという点は変わりません。

そうでしょうか。意思のない怪獣が大暴れするとか… 観念的な代理役がアクションを行う作品はあると思います

お話の流れ的にはキュルルの「解りあえなかったとしても、解ろうとするのは別にいいじゃん」から来てるのに、全然解り合おうとする様子も、解り合った様子もないところが、まず肩すかしです。

次に怪獣人格がない場合は、「家族怪獣のせいで失って復讐鬼となった男」とか「怪獣によって故郷を失った人々」とか、そういった感情移入要素を起きますビースト場合特に何とも誰とも繋がってないので、感情移入が、ほとんど、できません。

必要がある”とまで言える理由がありますか。俺のようなネット考察班が表立って声を上げにくいのは、養護即悪の空気があるからです。

必要」と書いたのは書きすぎかもしれませんね。初見面白くないと感じる作品の、考察は、されにくく、されても特に人気に繋がらない、と、訂正します。

不快感を与える行動をしたヤツが酷い目に遭うのが気持ちいいわけです。

違います。「酷い目にあって当然だ、と、思えるキャラが酷い目に遭う」のが気持ちいいのです。「酷い目に遭って当然だ」と思えるのは、悪いやつ、嫌いなやつだったり、悪いことに対して責任があるキャラクターです。

不快感を与える行動をしたとしても、そいつ責任がないと同情できるキャラは、酷い目にあってほしくありません。

より細かい話をすると、そいつに全く責任がなくても、あまりにも疫病神キャラに対して「酷い目に遭ってほしい」と思う場合もありますが、そういう場合は、そのキャラ自体が嫌いになっています

ところでキュルルちゃん評価下落はある程度は、けものフレンズ全体として問題ないのではないでしょうか。売りたいのはサーバルカラカル・ペパプといった動物擬人化キャラクターでしょう。人気アンケートをやったらけもフレ2が生み出したイエイヌは、かばちゃんサーバルと二位を争えるレベルの人気になるのでは。

前にも述べましたが、主人公キャラ不快感を感じると、作品全体の評価が下がるんですよ。またイエイヌ相対的に人気が出たでしょうが、「イエイヌは好きだが、けもフレ2という作品は嫌い」という人は、イエイヌグッズとかを買う可能性が低いので、ダメです。

区別がつかないのはそのとおりだと思いますしかしもともとのお話は”悪意”かもしれないが”無能説明がつく”だったでしょう。どちらでもあり得るわけです。「いい加減な脚本ではない」と説得はできませんが、「現実的な厳しさを描いた」で説明可能と申し上げています視聴者の悪意説を推していますが、確かに、退屈だったから説にも説得力を感じました。実態は両方なのかもしれません。

ですから現実の厳しさを描く」ために、わざわざ伏線放棄してつまらないと思わせる必要はないのです。

現実の厳しさを描くからといって、面白作品を作ろうと思えば作れるのに、わざわざ、つまらない作品制作者が目指した、というのは、私から見て悪意のある解釈です。

「また会おうね」「約束だよ、かばちゃん」。これは通常のドラマであればどちらかが旅立つときに言うセリフではないでしょうか。でもこの後は両者ともパーク内に留まるわけで、これは作劇的にはおかしいといえるのでは。「遊びに来てね」「行くよ… 絶対」などのほうがふさわしいように思います素人でも秒で思いつき、しかも尺も取らず演出も変わらない。制作無能では説明するのは厳しくないですか。

そのセリフについて制作者が無能だと言ってるわけでも、現実の厳しさを目指すのが悪いと言ってるわけでもないです。単に、現実の厳しさを目指しながら、伏線を処理して、面白物語を作れるでしょうという話です。

ポスター的な告知絵(なんていうんでしたっけ?ああいうの)は楽しそうにしてるサーバルカラカルですが、あれを例えばカラカル腕組みさせるとか… そのような感じでしょうか。でもそれはどれほど効果があるのでしょう。

もっと全く違う印象のものにしたほうが良いでしょうが、さておいて「これはけもフレ1とは違う作品で、違う切り口で作っているんだな」と視聴者に心構えをさせ、けもフレ1と違っても、単なるミスではなくて、何か意図があるのかなと考えさせる効果があります。つまりけもフレ2をけもフレ2として評価やすします。

アンチするやつはするでしょうが、そういう層の数や説得力が減るでしょう。

そうでしょうか。けもフレ1の最終戦リピートする視聴者はそんなに多いと思わないです。

けもフレ1の最終戦闘は、感情的にも、アクション作画的にも非常に盛り上がるところであり、かなりリピートされてるかと思います

そのため前期では戦闘の期間を一話くらいに短く収めた。今期では長くして多くのフレンズ交流を絡めた代わりに、緊張感を抑えたのでは。ホテルでのパンダの振る舞いやペパプへの妄想など、戦闘中にさえ気を抜ける掛け合い漫才が入ってきます

けもフレ1でも、これまでのフレンズが、これまでのかばちゃんとの思い出を生かす形で大勢出てきますし、フレンズとの交流を絡めることと、緊張感を保つことは両立します。

戦闘中に長い掛け合いや、ほのぼのとしたコントはやりにくいですが、戦闘中にやらなきゃいいだけの話です。

エンタメドラマ的には失敗。そのご意見には納得できました。これはエンタメドラマではなく… ミステリを目指したと考えるのはどうでしょうバラエティ漫才ミステリの間の子です。視聴者タイプを A.漫才で和む B.ドラマを楽しむ C.考察する の3つに分けて考えて、A,C を重視したためにBへのフォローが疎かになってしまったのでは。

ミステリなら、「謎の存在であるキュルルが、スケッチブックという手がかりを追って、おうちを捜す」という話で、キュルルの正体もおうちも見当たらない時点で、零点です。

漫才で和むのはいいんですが、「恐ろしい敵との生死を賭けた戦闘中に、緊張感のない漫才をやる」は、両者の良いところを打ち消しあってます

Bだけがおろそかなのではなくて、AもCもダメなんですよ。

アニメ料理に例えるのに躊躇はないけど、それぞれで想像しているものが違う。これを面白いと思いました。でも看板にハッキリ”優しい世界”ですと書かれてはいなかった。観客側の受け入れられる間口が狭すぎるのが問題かと申し上げています(その狭さを作った責任が観客にないとしても)。

観客に問題があるとしても「商品内容をはっきりさせて誤解させない」ことは商売原則倫理であり、そっちはそっちで問題だというだけの話です。

anond:20190410005437

テーマに絡めることを諦めて、中途半端エピソードにしておけば「人間が歪めた動物について考え」るかというと、そういうものではありません。

そうでない理由はないでしょう。その可能性に委員会は賭けたんです。アプリノータッチアニメのみのファンなのですが、これが”動物ファースト”の理念だったりするのでは? あるいは実際は制作が高尚な態度を持っていなかったとしても、視聴者にそれを示そうとしたとか。作品のゴールが、売上やエンタメ作劇論でいう面白さ以外にあるとしたら、けもフレ2が失敗だったのかさえまだ判断できないでしょう。

キュルルちゃん人類の罪を贖罪するプロットを書いたつもりはないのですが

すいません。アイデアの語を選んだのが誤解を招きました。「一般的な作劇として...そこに意味を持たせるわけです。キュルルが人類の罪深さを知って、それを贖罪しようとするとか」について言ったつもりです。

俺は、ビーストは死んでないと思います。 → 最終的に死んでるか死んでないかは、別に、どうでもいいんですよ。

俺も生死は問題視していません。けもフレ2作劇の方向性がみてとれる判断材料として取り上げたつもりです。

それでビーストが大暴れするので気持ちいいわけです。 → ビースト側の考えや動機意志が全く見えないので、ビースト感情移入しようがなく、大暴れが気持ちよくもない

そうでしょうか。意思のない怪獣が大暴れするとか… 観念的な代理役がアクションを行う作品はあると思います

初見面白いと思ったからこそ、見返して伏線を捜すわけで、つまらない作品を、わざわざ見直し伏線を捜したりする人は少数派です。

もし制作者がネット考察班を動かしたいのなら「初見でわかる範囲面白い」と感じさせる必要があります

必要がある”とまで言える理由がありますか。俺のようなネット考察班が表立って声を上げにくいのは、養護即悪の空気があるからです。

仮にキュルルが、悲劇トリガーではあっても、本人に無責任・悪意はなく、年相応と理解されるのであれば、そんなキャラクターが海に落ちても、爽快感は生みませんので、それはそれで作劇として失敗です。

海に落とすことで爽快感を引き出したいのなら、キュルルが酷いやつと感じられる必要があります(そして主人公が酷いやつと思われたら、作品への好感度が下がります)。

同意できないです。倫理的責任描写不快さは別の概念です。悪意を持って暴虐を奮ったにもかかわらず、視聴者不快感を与えない描き方はありえるとおもいます図書館来館時の博士の蹴りがその例で、あそこで引っかかる観客はあまりいないでしょう。不快感を与える行動をしたヤツが酷い目に遭うのが気持ちいいわけです。ところでキュルルちゃん評価下落はある程度は、けものフレンズ全体として問題ないのではないでしょうか。売りたいのはサーバルカラカル・ペパプといった動物擬人化キャラクターでしょう。人気アンケートをやったらけもフレ2が生み出したイエイヌは、かばちゃんサーバルと二位を争えるレベルの人気になるのでは。

1,2で共通する「フレンズ軍団セルリアン」シーンである以上、視聴者共通性を捜しま

フレンズ軍団との戦闘とはいえ、前回の戦闘とは作中の時間も離れているし共通するギミックなどもないです。前回を経験たかばんちゃん博士などの振る舞いを見て「おお、前回の教訓を活かして戦っている!」と観るのはあり得るでしょうが演出上の共通性を積極的に探す理由はないでしょう。

けもフレ2では現実的な厳しさを書いたのではないでしょうか。→「伏線的な設定が明らかにならないことで現実的な厳しさを描いた作品」は「伏線処理に失敗した、いいかげんな脚本」と区別がつかないんですよ。

区別がつかないのはそのとおりだと思いますしかしもともとのお話は”悪意”かもしれないが”無能説明がつく”だったでしょう。どちらでもあり得るわけです。「いい加減な脚本ではない」と説得はできませんが、「現実的な厳しさを描いた」で説明可能と申し上げています視聴者の悪意説を推していますが、確かに、退屈だったから説にも説得力を感じました。実態は両方なのかもしれません。

「また会おうね」「約束だよ、かばちゃん」。これは通常のドラマであればどちらかが旅立つときに言うセリフではないでしょうか。でもこの後は両者ともパーク内に留まるわけで、これは作劇的にはおかしいといえるのでは。「遊びに来てね」「行くよ… 絶対」などのほうがふさわしいように思います素人でも秒で思いつき、しかも尺も取らず演出も変わらない。制作無能では説明するのは厳しくないですか。けれども現実世界をみてみると、友達同士で時間距離が一時間とかでも億劫になってしまってずっと疎遠。これは多々あるわけです。パーク内でもパトロール仕事もあるし研究あるしキノコも集めなきゃだし、会えなかもしれない現実がありうる。けもフレ2ではフィクションを離れてパークの現実を描きたかった。

けもフレ2も最初からスギスしていたわけでなく、センちゃんアルマーさんの実態ジャングルメンバーなど、段階を追っての開示になっているとは思います → 段階を追って開示するのではなくて、一番最初から「今回のけもフレ2は、前回と違うぜ、ギスギスだぜ」ってやらないといけないんですよ。途中からスギスしたらかえって混乱します。

ポスター的な告知絵(なんていうんでしたっけ?ああいうの)は楽しそうにしてるサーバルカラカルですが、あれを例えばカラカル腕組みさせるとか… そのような感じでしょうか。でもそれはどれほど効果があるのでしょう。

クライマックス戦闘を、わざわざテンション抑えて緊張感が高まらないようにして退屈に仕上げたら、それは「優しい世界」ではなくて「盛り上がりにかけたつまらない作品」です。意図的ものではなく、制作側の技術リソースが足りなかっただけでしょう。

そうでしょうか。けもフレ1の最終戦リピートする視聴者はそんなに多いと思わないです。そのため前期では戦闘の期間を一話くらいに短く収めた。今期では長くして多くのフレンズ交流を絡めた代わりに、緊張感を抑えたのでは。ホテルでのパンダの振る舞いやペパプへの妄想など、戦闘中にさえ気を抜ける掛け合い漫才が入ってきます

エンタメドラマ的には失敗。そのご意見には納得できました。これはエンタメドラマではなく… ミステリを目指したと考えるのはどうでしょうバラエティ漫才ミステリの間の子です。視聴者タイプを A.漫才で和む B.ドラマを楽しむ C.考察する の3つに分けて考えて、A,C を重視したためにBへのフォローが疎かになってしまったのでは。各話と全体の両方の流れをカバーしているのも難度を上げた原因でしょう。リソースが潤沢にあれば、あるいはすべてのタイプを救う事ができたかもしれません。

辛旨カレーだった店が、看板そのままで甘口カレーを出したら来た客は混乱しますわな。

アニメ料理に例えるのに躊躇はないけど、それぞれで想像しているものが違う。これを面白いと思いました。でも看板にハッキリ”優しい世界”ですと書かれてはいなかった。観客側の受け入れられる間口が狭すぎるのが問題かと申し上げています(その狭さを作った責任が観客にないとしても)。

炎上に参加すると気持ちがいい

俺がそう思ったのはのオレンジレンジパクリ騒動ときだった。

でもそうやってパクリパクリと騒いでも何も変わらなかった。(オレンジレンジテレビに出なくはなったが急遽活動中止や謝罪がなかったと意味

それ以降、炎上を見ると「結局なにもかわんねーよ」って思ってた。だから、もう「騒動」だとか「祭り」だとかで何も変わらないなと思って、そういう事にクビを突っ込んで、自分が望む結果が得られないのは十分わかった。

 

けものフレンズ2が燃えた。

俺はけものフレンズ1は見たが、2は最初みて「あ、違うな。これは見てて自分が嫌な気持ちになるやつだ。」って思って見るのをやめて、それ以降けものフレンズ2についてなにか言うことをやめて、存在を消した。つまり艦これアニメ」のような「なかった」扱いだ。今までそうだったし、これからもそうでいい。

 

それがけものフレンズ2の炎上が大きくなって見ないようにしている俺にもエッセンス程度に見えるようになった。

俺に視聴を決定させる「榊遊矢に勝てるかもしれない」を見た。

アークV自体自分は楽しく見ていた。主人公は確かになにかあるたびスマイルワールドに縋るし、他人小馬鹿にすることも多かったが、「遊戯王演出」をみるのならまだ全然しかった。

そのアークVが平成最後のクソアニメじゃなくなる可能性がある…。俺はニコニコ生放送で1~11放送を見た。

でも、なんか、正直、嫌な気持ちじゃなかった。怒りなんてのも湧いてこない。ただただ楽しかった。コメント空気感が。

OP電話音をクレーム電話として表現した顔文字弾幕コメントの一体感を眺めてるのが楽しかった。イエイヌのお家にお帰りは確かにひどいと思った。

オレンジレンジパクリ騒動ときに感じた熱いもの…そう、これが一体感ってやつなんだろう。

けものフレンズ1期と2期の楽しみ方、自分は変わってなかった。けものフレンズ1期の「たつき信じろ」とかジャパリパークへようこその弾幕とか、そういうのを楽しんでいたんだ。

12話をニコ生でみた。みんなの一体感が素晴らしかった。だから俺は「1」を押した。アークVにはなかった、一体感を感じて。

 

たつきにどうしてほしいとか、吉崎観音にどうしてほしいなんて一切ない。

みんなが同じ方向を向ける作品を作ってくれて本当に良かったな、というのが自分感想

からけものフレンズ制作スタッフに絡んでいってる奴らはちょっとおかしいとはおもうけど、みんながいってる炎上ってそっちなのね。

anond:20190409151933

物語を使って視聴者特定の行動を促すというのは実は無理なのではないでしょうか。

物語に過大な期待をしすぎです。どんな集団にも過激な人はいるし、けもフレファン集団でも同じです。けもフレを見た過激な人が急に全員優しくなるようなことがあったら、それはもはや洗脳です。

からといって、テーマに絡めることを諦めて、中途半端エピソードにしておけば「人間が歪めた動物について考え」るかというと、そういうものではありません。

おっしゃったアイデアにあったようにキュルルちゃん人類の罪を贖罪してしまえば、見ている方はスッキリした気分になってしまって何か教訓を得ることはないということです。

キュルルちゃん人類の罪を贖罪するプロットを書いたつもりはないのですが、ともあれ、やりたいことが「人間が歪めた動物について視聴者を考えさせること」なら、それにそってテーマを展開してプロットを作れば良いかと。テーマに絡めることを諦めても、その点は改善しません。

俺は、ビーストは死んでないと思います

最終的に死んでるか死んでないかは、別に、どうでもいいんですよ。問題はキュルルが、「自分が呼んだビーストの無事を確かめもせず、喜んでる薄情極まりないキャラ」として描かれていることです。

キュルルちゃんの思いが言葉だけじゃなく行動になるまでに固まる。

「キュルルが身の危険を顧みずにビーストを説得してわかった」みたいなシーンが別になく、暴れるビーストが、素直に船に乗って(?)キュルルについてきたのか、さっぱり分からないので、特に盛り上がりません。

それでビーストが大暴れするので気持ちいいわけです。

ビースト側の考えや動機意志が全く見えないので、ビースト感情移入しようがなく、大暴れが気持ちよくもないし、死んでも、さほど悲しくもないです。

一話の最後スケッチブックをめくり千切られたページを目にするシーンがあります。状況的にあそこでは手がかりを見つけるために捲っていたのであのページが最後になることはキュルルちゃんは判っていたと思いますホテルでリョコウバトに集合絵を渡すときに、観覧車の次のページに集合絵を描いていて、その次が白紙であることが一瞬見えます

なるほど、ありがとうございます

俺はけもフレ1・2・ケムリクサすべてで、伏線や回収、世界観の開示などを目を皿のようにしてさがし、それに理屈をつけるような見方をしています。それで楽しめています

それは一つの楽しみ方ですし、尊重しますが、たいていの人は初見感想判断します。初見面白いと思ったからこそ、見返して伏線を捜すわけで、つまらない作品を、わざわざ見直し伏線を捜したりする人は少数派です。

もし制作者がネット考察班を動かしたいのなら「初見でわかる範囲面白い」と感じさせる必要がありますけもフレ2は、それに失敗しているのです。

キュルルちゃん立場から見て、イエイヌ価値観尊重してああ言ってあげる、というのは悲劇トリガーには観念的にはなっていますが、無責任・悪意のある行動には思えないです。カラカルが介抱していて危機的状況から開放されて安心しているという状況です。みため年齢的に見ても致し方ないかと。キュルルちゃんは魅力的なキャラクターとして描かれていてそれは成功していると思っています。この扱いで好感度が下がる合理的理由はないでしょう。

仮にキュルルが、悲劇トリガーではあっても、本人に無責任・悪意はなく、年相応と理解されるのであれば、そんなキャラクターが海に落ちても、爽快感は生みませんので、それはそれで作劇として失敗です。

海に落とすことで爽快感を引き出したいのなら、キュルルが酷いやつと感じられる必要があります(そして主人公が酷いやつと思われたら、作品への好感度が下がります)。

しかし確かにセルリアンとの戦闘けもフレ2全体で退屈な仕上がりになっている印象は否めないです。制作なりに「優しい世界」を目指した結果ではと考えています戦闘けもフレ1に比してもピンチ感は少なくなりました。見返したときに緊張感が高くならないようにあえて戦闘テンションを抑えたということです。

クライマックス戦闘を、わざわざテンション抑えて緊張感が高まらないようにして退屈に仕上げたら、それは「優しい世界」ではなくて「盛り上がりにかけたつまらない作品」です。意図的ものではなく、制作側の技術リソースが足りなかっただけでしょう。

セルリアン集合シーンはけもフレ1の名シーンほどの決めカットではないです。先に申し上げたとおり、あの状況ではああいう絵にしざるを得ない、共通性を見出すのは無理矢理のこじつけですよ。

わざわざ似せようとしなくても自然と似るであろうというのは、その通りです。その上で、1,2で共通する「フレンズ軍団セルリアン」シーンである以上、視聴者共通性を捜します。そういうシーンであることを踏まえる必要があるのです。

けもフレ2では現実的な厳しさを書いたのではないでしょうか。

伏線的な設定が明らかにならないことで現実的な厳しさを描いた作品」は「伏線処理に失敗した、いいかげんな脚本」と区別がつかないんですよ。

別にビーストイエイヌが救われなくても、キュルルがおうちを見つけられなくても、いいんですが、このままだと単に「破綻した脚本」にしか見えないんですよ。伏線をきちんと解消してもビターエンドはできます

いえ、今はまだ固まっていない段階です。その正体をつかめない段階で用語意味を固定してしまうと先へ進むことができなくなるでしょう。必要ときにその都度「この作品のこの部分は優しい世界か?」「優しい世界とはなんだ?」を繰り返して意味を掘り進めていくべきです。

それについてはお任せします。私は「優しい世界」という用語特に興味がないので、これ以上は控えます

絵柄が大きく変わっていることは初見でわかりますSNSで憤慨しているファン監督交代騒動は耳にしていたはずです。

私は絵柄は前作を踏襲したもので、さほど大きくは変わってないと思います。少なくとも、ギスギスさを予感させる変化ではないですね。キービジュアルも仲良しフレンズで、交代した監督も「 前シリーズリスペクトし、面白いと思ったところは全部入れてます」と言っている。

総じて、ギスギス、ダークを予感させるものでは全くないです。

けもフレ2も最初からスギスしていたわけでなく、センちゃんアルマーさんの実態ジャングルメンバーなど、段階を追っての開示になっているとは思います

段階を追って開示するのではなくて、一番最初から「今回のけもフレ2は、前回と違うぜ、ギスギスだぜ」ってやらないといけないんですよ。途中からスギスしたらかえって混乱します。

スパイスの効いた辛旨なカレーで有名になったお店が、【店長スタッフが変わって】、でも看板はそのままだった。それでも気になってお店に入ってみたら、全然違う甘々な、しかも不味いカレーを出された

辛旨カレーだった店が、看板そのままで甘口カレーを出したら来た客は混乱しますわな。店主が替わったのは知ってても、店の名前が変わってなくて、特に告知がなければ、同じような味を期待するでしょう。カレーの味を変えるのはいいんですが、辛口カレーの中でバリエーションが変化した、とかではなく、甘口カレーハヤシライスビーフシチューなりに変えるなら、看板に大きく「甘口カレーetcの店になりました」と書いておくべきでしょう。それは、客がどうすべきであったか、悪質な客がいたかどうか、とは全く別の話です。

2019-04-09

anond:20190409045845

人間動物迷惑をかける点ですが、フウチョウたちが「確かにヒトのおかげで助かったケモノもいるが、ヒトが不用意に近づいたばかりに、迷惑するケモノもいたかもしれんぞ」と明確に問いかけてるんですよね。これに対するアンサーは必要であり「テーマとして昇華していない程度の示唆」で終わらせるのは無理があります

しかに。フレンズの選定や居心地の悪さ、フウチョウの問いかけも含めると、制作意図があったのは反論しようがないです。ならば、それをテーマに絡めることを諦めたというのはどうでしょう。ここ最近の界隈の雰囲気を見ると、けもフレ1でさえ信者とまで言われるほどの熱心なファンに「へーきへーきフレンズで得意なこと違うから」「のけものはいない」のような世界観を教える事はできなかったわけじゃないですか。結果論ですが、船長ワカバが休んでれば赤い木の騒動なんて起こらなかったのに、それを作ってるたつき監督自身が過労気味なわけじゃないですか。物語を使って視聴者特定の行動を促すというのは実は無理なのではないでしょうか。おっしゃったアイデアにあったようにキュルルちゃん人類の罪を贖罪してしまえば、見ている方はスッキリした気分になってしまって何か教訓を得ることはないということです。制作サイドに人間が歪めた動物について考えてほしいという善意があって、それをエンタメ物語に乗せて実現させるための方法として、示唆で止めておく手段を選んだ。いかがでしょう。

俺は、ビーストは死んでないと思います。そこにけもフレ2の作劇の方針がみてとれる気がするのです。個人的にはビースト周りのドラマはなかなかに心揺すられました。パークの重鎮のかばんさんさえ”アイツ”よわばりする厄介者イエイヌを追い詰めサーバル撃退されたけど、スケッチブックの集合絵に入れてあげた。「解りあえなかったとしても、解ろうとするのは別にいいじゃん」、ボートに現れたビーストから逃げることを促されてもこのまま行くと言い切る。キュルルちゃんの思いが言葉だけじゃなく行動になるまでに固まる。それでビーストが大暴れするので気持ちいいわけです。このドラマ普通に決着させようとすると、うーんたとえば、瓦礫の中にビーストを探したが見つからず、足跡がパークに続いてくのを見て「いつかまた会おう」とひとりごちる、とかになるでしょうか。でもそうせずに瓦礫に埋もれて消える描写にした。ホテルメンバーの救済のために尺が足らなかったのかもしれませんが、俺は刮目してみていたので気づいていました。ホテル屋上のあの位置は頭上に障害物はなく、瓦礫に埋もれたのはカメラのほうだと。つまり誤解させる演出になっているわけです。多くの視聴者初見で、ああビースト死んだのか可愛そうやな、とおもってSNS悲鳴を流します。それで解析班が動いて「ビースト死んでなかった!」という記事ホットになる。木村監督は交代時に、けもフレ1の魅力は散りばめられた伏線、のようなことをおっしゃってたと思いますネット考察版が動くことを期待して放映後に爆発する仕掛けを組んだというわけです。エンタメ作劇的には王道ではないでしょうが、このような狙いがあったのでは。

俺はけもフレ1・2・ケムリクサすべてで、伏線や回収、世界観の開示などを目を皿のようにしてさがし、それに理屈をつけるような見方をしています。それで楽しめていますけもフレ2では話の途中に掛け合い漫才みたいなのが頻繁に入ってくるので、その部分もニコニコながら見ていました。確かにドラマとして登場人物紆余曲折が一つのテーマ収束していく様はあまりけもフレ2にはないですが、その部分に多くを期待しない鑑賞スタイルには合っているような気がします。

何話か見返したのですが「キュルルの手がかりの絵が尽きた」ことが描かれたシーン

一話の最後スケッチブックをめくり千切られたページを目にするシーンがあります。状況的にあそこでは手がかりを見つけるために捲っていたのであのページが最後になることはキュルルちゃんは判っていたと思いますホテルでリョコウバトに集合絵を渡すときに、観覧車の次のページに集合絵を描いていて、その次が白紙であることが一瞬見えます

キュルル自体の魅力が損なわれ、作品自体への評価が下がります

キュルルちゃん立場から見て、イエイヌ価値観尊重してああ言ってあげる、というのは悲劇トリガーには観念的にはなっていますが、無責任・悪意のある行動には思えないです。カラカルが介抱していて危機的状況から開放されて安心しているという状況です。みため年齢的に見ても致し方ないかと。キュルルちゃんは魅力的なキャラクターとして描かれていてそれは成功していると思っています。この扱いで好感度が下がる合理的理由はないでしょう。

強敵との戦いをどう盛り上げるか、逆転を、どう印象づけるかの工夫がありますフレンズセルリアンとの戦いは、あまりそうした工夫がなく、盛り上がらなかったです。それなら誰かが「野生解放!」と叫んだほうがわかりやすいでしょう。

けもフレ1では仲間に呼びかけるために、野生解放宣言していますけもフレ2の該当の戦闘ではそのタイミングで一対一だったので言う必要がなかったのもあると思います。突然漫画演出になるのはリアリティが下がって興ざめするので、盛り上がるためだけに叫ぶのは良い方針ではないと存じますしかし確かにセルリアンとの戦闘けもフレ2全体で退屈な仕上がりになっている印象は否めないです。制作なりに「優しい世界」を目指した結果ではと考えています戦闘けもフレ1に比してもピンチ感は少なくなりました。見返したときに緊張感が高くならないようにあえて戦闘テンションを抑えたということです。最終戦での野生解放が叫ばれなかったのを考えていたんですが、する必要がなかったというのが答えだと思いますホテルメンバーが囲まれたのがおそらく最大の危機的状況ですが、そのときにおいてもホテルに現れるペパプを妄想していました。いよいよとなれば解放する気だったのでしょうが、ペパプ本物が登場して救われる流れになります

最終話評価は、それまでの1~11話の評価と切り離せないものですので。視聴者に信用されるために、制作者側は信用を積み重ねる必要がありますが、そこがうまくいってないわけです。

セルリアン集合シーンはけもフレ1の名シーンほどの決めカットではないです。先に申し上げたとおり、あの状況ではああいう絵にしざるを得ない、共通性を見出すのは無理矢理のこじつけですよ。信用がないと言うより、悪意があると信用されていた、というほうが実態に近いと思います監督交代騒動のツケを支払わせるために問題表現を探したというこです。たしか結果的には新体制が信頼を積み上げることに失敗した、というのは同意します。しかしその責任制作側にあったとまでは言い切れないです。ところで、けもフレ1でたつき監督が序盤で信頼を積み上げるような何かをしていたか、というのはずっと考えていました。一話で退屈と断じて切り捨てたという視聴者はよくいるし、伏線-回収のループを重ねていけば意味のあるシーンを作れる作家だとわからせることができるけど、そういうのってしてましたっけ?

キュルルのおうちが、見付からなかったことに、消化不良があります。次に、キュルルが「おうち」を諦めるに至る過程曖昧なので、ドラマが盛り上がりません。

けもフレ2では現実的な厳しさを書いたのではないでしょうか。けもフレ1へのアンチテーゼというか、ご都合主義的ではない、よりリアル世界観フレンズ同士の親切心を浮き立たせたかった。一話を見てパーク内にキュルルちゃんのおうちがあるような気はしないわけです。家族の元に帰ってENDは想定しにくい。案の定見つからない。イエイヌは救われない。ビーストはどうしようもない。でもそれぞれに現実的な進展が与えられるわけです。エンタメ文法でみるとドラマとしては盛り上がりに欠けるでしょうがスッキリとしない視聴感がビターな感じはあると思いますケムリクサでの最終話EDの、りりが救われた風の描写は俺に、感動したけどこれ結局お話に過ぎなかったんだな、という思いを与え、肩透かしでした。

ところで、けもフレ1のテーマは何だったのでしょう。かばちゃん成長物語と捉えると、1話では彼女は頼りないですが、11・12話で存在感を見せつけたという感じであまり変化がない。ミライさんのフレンズ生存理由になったり細かい伏線の繋がりは合ったのはわかります。それぞれの話でドラマが見事だったのも異論ないです。でも全体としてのドラマどうでしょうケムリクサは逆に全体としての物語性が強いです。けもフレ2は両方のフレーバーを持っている。その話での起承転結と「おうちテーマ」のための全体の流れが合わせて練られている。イエイヌが”おうちにお帰り”といって拒絶されるのは全体のために必要だけど、イエイヌ回単体ではキュルルちゃんサーバルカラカルの在り方を見せられて自分との違いを見て挫折して去る、くらいでよいわけです。ただ各話においてフワッと見ているだけではドラマとして盛り上がりに欠ける、というのは改善余地は合ったかもしれませんね。

批評として使うなら、定義必要になるでしょう。

いえ、今はまだ固まっていない段階です。その正体をつかめない段階で用語意味を固定してしまうと先へ進むことができなくなるでしょう。必要ときにその都度「この作品のこの部分は優しい世界か?」「優しい世界とはなんだ?」を繰り返して意味を掘り進めていくべきです。

スギスを狙ったのなら、作品の出来とは別にマーケティングミスです。そういうのは事前に告知して心の準備をさせるのが良いかと。

絵柄が大きく変わっていることは初見でわかりますSNSで憤慨しているファン監督交代騒動は耳にしていたはずです。ファン必要以上にセンシティブになり、前と寸分違わず同じもの要求した、そのように見ていますけもフレ2も最初からスギスしていたわけでなく、センちゃんアルマーさんの実態ジャングルメンバーなど、段階を追っての開示になっているとは思います(話がずれるかもしれませんが、「危険きわまりない溝ができています!」は、好き嫌い分かれるネタを初っ端から突っ込んできたな、と思いました)。

付録

スギスした作品はギスギスした作品で楽しめる人も、癒やし系作品の続編として出されると「思ったのと違う」ってなりますよね。ラーメン屋いったらサンドイッチが出てきたみたいなもんで。

面白いので http://blog.livedoor.jp/fukukan2009/archives/52307013.html 及びその次の記事より引用します。

別の場所コメントでは「カレーを頼んだのにXXXが出てきた」といっている人もいました。俺は「カレーハヤシライスビーフシチュー」くらいの印象です。

anond:20190408230305

人が動物の上に立つモチーフイルカアシカイエイヌが、けもフレ1以後の「人間がいなくなってる世界」でそれを強調されることが視聴者にとって不快で、それを書くなら悲劇性や罪悪感も書くべきだ、との主張でしたね。誤解していました。失礼しました。そうするとリョコウバトは構わないのでは。けもフレ1でもトキ絶滅していますが、人が上に立っているわけではないので問題ない。リョコウバトも同じ扱いでいいのではと思います

けもフレ2における、人間動物迷惑をかける点ですが、フウチョウたちが「確かにヒトのおかげで助かったケモノもいるが、ヒトが不用意に近づいたばかりに、迷惑するケモノもいたかもしれんぞ」と明確に問いかけてるんですよね。これに対するアンサーは必要であり「テーマとして昇華していない程度の示唆」で終わらせるのは無理があります

リョコウバトとトキ比較ですが、けもフレ1のトキ場合絶滅危惧動物であること、人間によって傷つけられたことに関する言及はないわけです。一方、リョコウバトの場合絶滅を暗示する演出がいくつもあり、先のフウチョウの問いかけもあったわけです。

イルカアシカについてですが、ネットを眺めた体感では、そこまで気にされてないように思うので、これが気になるのは俺自身問題であって、そこまで気にしなくても良いかもしれません。

ただし、フウチョウの問いかけにある通り、全体的に人間動物関係性の負の面に掘り下げるならば、イルカアシカも一緒に掘り下げたほうが脚本の完成度が上がるでしょう。

イエイヌについては、あれは監督交代のいざこざ抜きでも、居心地悪いかと。

詳しくないのですがハリウッドヒーロー物では技名宣言は少ないのではないでしょうか。国内で閉じるローカルルールに縛られずによりリアル表現模索したのでしょう。

マーベルやDC映画場合叫び声でパワーアップはしないわけですが、強敵との戦いをどう盛り上げるか、逆転を、どう印象づけるかの工夫がありますフレンズセルリアンとの戦いは、あまりそうした工夫がなく、盛り上がらなかったです。それなら誰かが「野生解放!」と叫んだほうがわかりやすいでしょう。

まあファンタジー蔑称ということもないのでしょうが、多くをノリで処理すべき寓話世界観というほどには、けもフレ2は堕していないと思います

まず私の立場は「多分、脚本の穴だろうが、寓話世界観と取れないこともない」というものです。ラストバトル前の葛藤(フウチョウ)と、ラストバトル勝利ギミックビースト)という重要な部分の両方が、ファンタジーな流れで解決されるので、その印象が非常に強いんですよ。

しかし、たつき監督けもフレ2をやっていたらそのカット問題にならないわけでしょう。監督が代わるごとに構図被りに難癖つけられるなら、正解は作らない一択ですよ。俺は野生解放こそ失念していましたが、かの名シーンの存在は覚えていて、でもその被りには気づきませんでした。観客が悪意を持ってアラ捜ししていることまで計算に入れて作っていかなきゃならないなら、アニメ制作者が家に帰らない期間は年単位で増えていくでしょう。観ると決めたら、ある程度製作者を信用することは視聴者側の責任だと考えています

点が三つあると人の顔に見える、と言う話がありますが、人間は、基本的意味のないところにも意味を捜す生き物です。現実には意味のないことは幾らでもあるのですが、作劇でそういう部分を作ると、視聴者は無理矢理意味を見いだそうとし、結果、制作者にとって不本意な受け取り方をされることがある。それを避けるためには、意味・印象が散漫なシーンを作らないことです。

結局、セルリアン型フレンズにあまり意味がなく、戦闘も盛り上がっていないのが、あら探しされやすい大きな原因だと思いますフレンズ型になった意味もさほどなく、あまり怖い印象もなく、なんとなく倒されていくという(このへんは脚本だけでなくアクションシーンの問題でもあります)。

けもフレ1の集合シーンは、ここからフレンズが、それぞれの個性を生かした連係攻撃を開始するわけです。例えば、それを踏まえて、セルリアンが巧みな連携を仕掛けてきて、「これまでのセルリアンと違う! なんて強いんだ!」とすれば、そこには一つ意味が生まれます

そういった点をクリアしても、ケチつけられる可能性は否定しません。結局、最終話評価は、それまでの1~11話の評価と切り離せないものですので。視聴者に信用されるために、制作者側は信用を積み重ねる必要がありますが、そこがうまくいってないわけです。

この先奇跡的にけもフレ2の人気が反転して評価が逆転したら繰り上がって「優しい世界」になるのでしょうか。だとすると「優しい世界」は「感じが良くて人気だった」くらいの概念になってしまうでしょう。

「優しい世界」に込める意味は、人それぞれで、深く考えてない人も多いでしょう。なので、最大公約数を取れば、まさしく「感じが良くて人気だった」くらいの意味になると思います批評として使うなら、定義必要になるでしょう。

私自身が「優しい世界」という言葉を使ったのは、「素直なキャラ面白いドラマを作ること」くらいの意味です。

けもフレ2でギスギスが解禁されたことで、G・ロードランナーやフウチョウ、イエイヌなど、けもフレ1に収まりきらなかっただろうフレンズへの間口が開かれました。

スギスした作品はギスギスした作品で楽しめる人も、癒やし系作品の続編として出されると「思ったのと違う」ってなりますよね。ラーメン屋いったらサンドイッチが出てきたみたいなもんで。ギスギスを狙ったのなら、作品の出来とは別にマーケティングミスです。そういうのは事前に告知して心の準備をさせるのが良いかと。

逆に言うと、ここまでギスギスな作品だと受け取られる、とは制作側は思ってなかったんでしょうね。

論理同意できません。自由意思はどちらの選択をとっても自由ときにのみ現れるものです。

そこはおっしゃるとおりですね。書いたことに矛盾があったので書き直します。

まず、1話からのヒキである、キュルルのおうちが、見付からなかったことに、消化不良があります。次に、キュルルが「おうち」を諦めるに至る過程曖昧なので、ドラマが盛り上がりません。

キュルルが「おうち」を捜す動機として、フウチョウに対して、「そこには、僕にとって大事な、なんかすごく大切なものがあった……気がする……」と言ってるんですよね。この「大事な大切なもの」が不明なまま、おうちより仲間と言われても、とってつけた感が出ます

それがパークのどこにもなく手がかりの絵も尽きて絶望したことが示されているので

何話か見返したのですが「キュルルの手がかりの絵が尽きた」ことが描かれたシーンが見当たりませんでした。教えていただけると幸いです。

でもそうするとセンちゃんアルマーさんを入れる尺がなくなりませんか。誤解させるための設定も用意しなくちゃならない。というかイエイヌちゃん完全に救われちゃってますよね。

思いつきプロットですので、詳細まで詰めてないのはご容赦ください。作劇において、尺やバランス問題は常につきまとうので、やりたいことの優先順位を決めて整理すれば良いかと。

優先すべきものイエイヌとキュルルの関係なら、他のキャラの出番を減らして調整しますよね。逆にカラカルとキュルルが仲直りして関係性を深めるほうがメインなら、プロットが重くなりやすイエイヌでなくて、別の困ったフレンズにしたほうが、すっきりするかもしれません。

キュルルちゃんホテルで海に落下させるためにイエイヌ回で下げたのではないでしょうか。落ちたときニコニコ動画では「ざまああwwww」が連発されましたが、あれは制作の狙いだったと考えています。そして必然的落下からのフウチョウ説教・海底火山紹介に自然につながります

通常、主人公とは「こいつがどうなるか見届けたい」と視聴者に思わせて、物語ドライブする存在です。そのためには視聴者を引きつける魅力が必要になります。魅力がないと、作品を見続けるモチベーションが湧かない=つまらないとなるわけです。魅力としては「いいやつ」から「かっこいい悪」「人間欠点があるが、どこか憎めないボンクラ」まで様々です。

さてキュルルは、別に「かっこいい悪」や「憎めないボンクラキャラではなく、概ね、フレンズを助ける心優しいキャラとして描かれてたわけで、それをこういう下げ方したら、キュルル自体の魅力が損なわれ、作品自体への評価が下がります。さすがに制作者が意図してそういう風には描かないと思います

キュルルが落っこちた回でニコ動アンケートちょっと上がったのは知ってますが、主人公がそこまで嫌われてる時点で、作品としては末期症状でしょう。

しろ話の流れのメインだったのは”スケッチブック最後のページの行方”だったと思います。すべてのドラマスケッチブックに沿って展開され、最後の絵は破られていたことは最初の話で既に明らかにされていて、ホテル海上で悩むキュルルちゃんは千切られたページの跡を見つめていました。

長い時を生きてミライさん時代からパークを見守ってきたイエイヌに対してキュルルちゃんが「おうちにお帰り」を言い、逆にイエイヌ彼女から送られた絵をみて(観念的に)おかえりを言うわけです(実際に口にはしてないけど、まあ立場的に)。キュルルちゃんはそのシーンを持って本当におうちに帰った、受け入れられた。それを最後のワンカットで示すのが強い、と思うのですがいかがでしょう。

この解釈は私が気づかなかったもので、なるほど、と、思いました。

ただ、「スケッチブック最後のページの行方」がメインだったとすると、エピローグ的な部分で登場しても、もうその時点では、セルリアンは倒され、キュルルのおうち探しも終わっており、ドラマとして盛り上がらないかと。

イエイヌの「おうちへおかえり」と、キュルルの「おかえり」を重ねて、メインテーマに結末をつけたいのであれば、もうちょっとそこに重点を置いた作劇にしないと視聴者に伝わらないと思います

一般的エンタメの作劇上のセオリー評価できないというのはわかりましたが、しかしそのセオリーに従わなければいけない強い理由があるのですか。

作品の出来、不出来は、究極的には個人の好みになります。その上で、「多くの人が好む/嫌う最大公約数」というものもあります。それをまとめたのが、エンタメセオリーと呼ばれるものです。

けもフレ2の一般的評価が低い論拠として、そうしたセオリーを守れてないから、という点を指摘しているわけです。

もちろん、セオリーをぶっちぎって、面白い作品はあります。私から見る範囲で、けもフレ2に、セオリー無視したが故に面白くなってる点は見当たりませんでした。ただこれは私の意見なので、「そうではない。ここが面白い」という意見は拝聴します。

2019-04-08

anond:20190408180028

人が動物の上に立つモチーフイルカアシカイエイヌが、けもフレ1以後の「人間がいなくなってる世界」でそれを強調されることが視聴者にとって不快で、それを書くなら悲劇性や罪悪感も書くべきだ、との主張でしたね。誤解していました。失礼しました。そうするとリョコウバトは構わないのでは。けもフレ1でもトキ絶滅していますが、人が上に立っているわけではないので問題ない。リョコウバトも同じ扱いでいいのではと思いますしかけもフレ1でカフェを訪れるフレンズは別の鳥でも良かったわけで、トキ選択されたのは何らかの意図があるでしょう。以前に書いたような「テーマとして昇華していない程度の示唆」でとどめても善いのではと思います不快になるまで強調されるならドラマに絡めて決着を付けるべきだということですね。ならばイルカアシカイエイヌでそこまで不快になるということ自体製作者の想定外なのではないでしょうか。俺もグロテスクさは感じましたが話が入ってこないほどは気にならなかったです。「そこに居心地の悪さを感じるのは当たり前」とおっしゃいましたが、監督交代のいざこざ抜きでもそう言えると断言できますか。

ヒーローがなんか技名叫んでパワーアップ」は、戦隊ものでもプリキュアでもアンパンマンでもあるので、そうそう引っかからない

これまでそういう表現が主流だったというだけです。戦闘ときに技名を叫ぶのはフィクション的です。攻撃タイミングがバレてしまうし、叫びに使うエネルギーを拳の乗せろよ、です。詳しくないのですがハリウッドヒーロー物では技名宣言は少ないのではないでしょうか。国内で閉じるローカルルールに縛られずによりリアル表現模索したのでしょう。「サーバルの目が光ると、ビーストも同じように目が光るカットがあるので、『同じ系統のパワー』に見えるんですよね。」とのことですが、同じ系統でよいと思います。常時強制的に野生部分が開放されているのがビーストだと俺は捉えてます

私の意見は「内面世界の外への進出自体は、多くの作品共通する、いわゆる「盛り上がる」部分です。ただ、その進出の仕方に、世界現実の仕組みに矛盾しない理屈がある場合と、理屈なしでイメージが直結する場合がある。ケムリクサは前者で、けもフレ2は、後者のように見えるという話です。

俺はケムリクサの最終話での細かいつじつま合わせに納得していません。「盛り上がり」とはリンが赤い木に対峙するシーンからですよね。ケムリクサでは草周りが特に緻密に組んであるので引っかかっているのかもしれませんが、矛盾していてノリで処理するの範疇に入っていますけもフレ2でのキュルルちゃん葛藤は「盛り上がる」部分ということでいいですね。とすると問題はフウチョウよりむしろ吹っ切れた後にタイミングよく飛んでくるビーストのような気がしますが… ただそこに至るまでに作品評価は決してしまっていたし、葛藤をフウチョウという便利な舞台装置で処理したところで全体がファンタジーということにはならないのでは。むしろケムリクサは柔軟性のあるギミックやしがらみのないプレーン舞台を用意していることで矛盾をでなくしているように思います。まあファンタジー蔑称ということもないのでしょうが、多くをノリで処理すべき寓話世界観というほどには、けもフレ2は堕していないと思います

1と2の共通するクライマックス部分で、似た構図の印象的なカットを出して、共通性を感じないわけがないです。そこは制作者は気づくべきです。

しかし、たつき監督けもフレ2をやっていたらそのカット問題にならないわけでしょう。監督が代わるごとに構図被りに難癖つけられるなら、正解は作らない一択ですよ。俺は野生解放こそ失念していましたが、かの名シーンの存在は覚えていて、でもその被りには気づきませんでした。観客が悪意を持ってアラ捜ししていることまで計算に入れて作っていかなきゃならないなら、アニメ制作者が家に帰らない期間は年単位で増えていくでしょう。観ると決めたら、ある程度製作者を信用することは視聴者側の責任だと考えています

視聴者視点では行動が横暴に見える」のであれば、それは「優しい世界」「癒やしとしての芸術表現」として失敗してるのではないかと思います。...(中略)...「優しい世界」というのは、面白かった作品への誉め言葉として使われているように思えます

この先奇跡的にけもフレ2の人気が反転して評価が逆転したら繰り上がって「優しい世界」になるのでしょうか。だとすると「優しい世界」は「感じが良くて人気だった」くらいの概念になってしまうでしょう。批評文脈でそのようなものを論じるのは意味がないのでは。作品制作において(俺は関係ないですが)、優しい世界を目指すというのは単に売れるよう頑張る以上のものであって、今のところは曖昧ですが、これから更に研究していく必要があるほど奥の深い領域だと考えていますけもフレ2でギスギスが解禁されたことで、G・ロードランナーやフウチョウ、イエイヌなど、けもフレ1に収まりきらなかっただろうフレンズへの間口が開かれました。そこはメリットだったのですが他方優しい世界性は減じてしまったということです。スピリットは二作品継承されましたが、休日リピートして癒やされるのはやっぱり一期ですよね。

話が前後して申し訳ないのですが、作劇論について…

ドラマとして盛り上がる重要ポイントで誤解を与えてはいけない

なるほどこれまで俺は不備を、設定の矛盾のようなものに絞っていましたが、重く捉えてらっしゃるのはプロット上の未消化や演出上の目論見の失敗、などですね。この方面は完全に素人なのですが、胸をお借りするつもりで議論に足を踏み込ませていただきます

「おうち探し」がテーマで、「仲間と一緒のここがおうちだった」に落とすためには、通常、「おうちは見つかったが、その上で、仲間と一緒にいることを選ぶ」というプロットします。そうしたほうが「自分意志で選んだ」感が出るからです。「おうち」が見付かったけど、廃墟だったとか、「おうち」側から同胞と認められなかったとかでショックを受けて、その後、決心するとかが基本パターンですね。そこが全くないので響かないんですよね。

論理同意できません。自由意思はどちらの選択をとっても自由ときにのみ現れるものです。事実上その選択しかないのにそれを選ぶのを決心するのは意思ではなくて屈服ですよ。敗北したのではなく自分で選んだと言い聞かせるために自分発破をかけているわけでしょう。けもフレ2のキュルルちゃんは諦める必要がないときに諦めの決断をしているので、そこに確かに彼女自由意志があると判るはずです。響くか響かないかは決意の重さを事前に示しているかでしょう。リリの「会えないのはもっと嫌だ!」は赤い木を生み出した(観念的な)責任彼女にあるし、あそこで「好きに生きて」などいわれて逃されて、わかりました楽しく生きますは納得感が全く無いので、戦線復帰が可能だとわかった時点で行動は一択なわけです。でもワカバとの日々でお化けになることを怖がったり、ワカバが倒れるのを心配したりしていたので、彼女自身が消えることの怖ろしさは十分に示されてる。それでも積極的に行くところに決意の強さが見て取れるわけですよね。キュルルちゃんはそれまで三人でおうちを探して旅をしてきて最後に、それがパークのどこにもなく手がかりの絵も尽きて絶望したことが示されているので、諦めるということがそれなりに重い決定であることは判っているわけです。それで充分だとは思いますが、まあ死ぬほどの重みではない。先々週にリリの決断をみているのでそこからすると見劣るのは否定できないです。

増田さんのプロット案は面白いですね… そっちのバリエーションも観たかたかも(実はプロの人なの?)。

最初イエイヌが、キュルルを、去って行った飼い主と完全に誤解している。キュルルや他のフレンズの助けで、イエイヌが元の飼い主のことをきちんと思い出す。その時、元の飼い主がイエイヌと別れた時に、安易に捨てたわけではなかったことがわかる。キュルルはイエイヌの寂しさを受け止めつつも、今の自分に出来ることはないので、別れる。一人のイエイヌの家に、他のフレンズが遊びに来る、などとします。

でもそうするとセンちゃんアルマーさんを入れる尺がなくなりませんか。誤解させるための設定も用意しなくちゃならない。というかイエイヌちゃん完全に救われちゃってますよね。このときのキュルルちゃんが横暴に見える、とまでは俺は思っていませんが、視聴者の多くはそう捉えたようです。おかしいと思わない人はサイコパスとまで言われていました。素人考えなんですけど、あそこでキュルルちゃんが(観点的な)非道を働いてしまうことには狙いがあったのではと思いますお話の上でキャラクターが何らかのミス悪事を働いて被害を作ってしまった場合、それに悪意がなくても、天災的な事故観念的な罰を受ける。視聴者の溜飲を下ろすためなのか、そういう処遇はよくあると思います。でないと消えざるを得なかったリリ・ワカバがただひたすら不遇ということになってしまう。キュルルちゃんホテルで海に落下させるためにイエイヌ回で下げたのではないでしょうか。落ちたときニコニコ動画では「ざまああwwww」が連発されましたが、あれは制作の狙いだったと考えています。そして必然的落下からのフウチョウ説教・海底火山紹介に自然につながります

肩すかしなのは、キュルルちゃん出自と、最終話に至るドラマキャラ動機等が、特に関連しなかったからです。キュルルちゃんがキュルルちゃん本人のフレンズで、疑似不老不死だったことを眼目とするなら、それが何かと絡む必要があります

キュルルちゃん疑似不老不死説は俺の自説で、そこまでの確証はないことは一応留意してください。むしろ話の流れのメインだったのは”スケッチブック最後のページの行方”だったと思います。すべてのドラマスケッチブックに沿って展開され、最後の絵は破られていたことは最初の話で既に明らかにされていて、ホテル海上で悩むキュルルちゃんは千切られたページの跡を見つめていました。長い時を生きてミライさん時代からパークを見守ってきたイエイヌに対してキュルルちゃんが「おうちにお帰り」を言い、逆にイエイヌ彼女から送られた絵をみて(観念的に)おかえりを言うわけです(実際に口にはしてないけど、まあ立場的に)。キュルルちゃんはそのシーンを持って本当におうちに帰った、受け入れられた。それを最後のワンカットで示すのが強い、と思うのですがいかがでしょう。

通常、作品における伏線・回収は、プロット重要なメインの部分についてやるものだと思います

一般的エンタメの作劇上のセオリー評価できないというのはわかりましたが、しかしそのセオリーに従わなければいけない強い理由があるのですか。不勉強ながら俺はそれを知らなかったし、多くのファンも同じではないでしょうか。視聴者には考察班的に楽しむ人もいるし、癒やし目的カジュアルに流し見る人もいるでしょう。教科書的な表現から逸脱することで芸術進歩してきたのではないですか。

anond:20190408152438

けもフレ2のメインテーマは「おうち探し」だと思ってました。

おうち探しの結論が「大好きなフレンズと一緒のここがおうち」であるなら、「人間フレンズにひどいことした」は、避けて通れないかと。

イルカアシカは芸のネタを与えてあげる、イエイヌは(他人ではなく)飼い主が戻ってくるのを待たせる、リョコウバトには「ひとりじゃないみんなが仲間」ということを教える

元々の話は、人間動物ねじ曲げてしまたことの悲劇、罪悪感、グロテスクサが表現されてるか、でしたよね。それらは一つの責任の取り方かもしれませんが、そうしたニュアンスは、存在しないかと。リョコウバトの場合、「君の家族は全員死んだけど他にも仲間はいるよ。殺したの俺の仲間だけど」というのが「責任」かと言われると、ちょっと。もちろん、絶滅動物に対して人間が償うべきなのか、どう償うのかは、大きなテーマであり、けもフレ2内の1エピソードとして処理するのは限りなく無理です。しかし、だったら最初からリョコウバトを出さなければ良いかと思うわけです。そのあたりが深く考えてないという話です。

余談ですが「おうち探し」がテーマで、「仲間と一緒のここがおうちだった」に落とすためには、通常、「おうちは見つかったが、その上で、仲間と一緒にいることを選ぶ」というプロットします。そうしたほうが「自分意志で選んだ」感が出るからです。「おうち」が見付かったけど、廃墟だったとか、「おうち」側から同胞と認められなかったとかでショックを受けて、その後、決心するとかが基本パターンですね。そこが全くないので響かないんですよね。

イエイヌ不憫感のある結末でしたが、あそこでキュルルちゃんが代わりの飼い主になってしまえば、視聴者は「ああ犬を捨てても誰かが拾えばいいんだ」と受け取ってしまいかねない、飼うことの責任を結果の悲しさを見せることで匂わせた、そういう意図だったのではと思います

キュルルが、イエイヌ孤独、寂しさを理解しつつも、「飼い主の責任」のために去って行く、と、取れる描写があればよかったですね。また飼い主の責任の話を強調するなら、イエイヌが「ヒトなら誰でもよい」と言ってしまってるのがダメでしょう。イヌは「ヒトなら誰でもよい」生き物ではないわけで、そっちのほうが誤解が大きいし、「イヌは人なら誰でもいいんだから、他の人に、あげればいいじゃん」という無責任に繋がりかねません。

私なら、最初イエイヌが、キュルルを、去って行った飼い主と完全に誤解している。キュルルや他のフレンズの助けで、イエイヌが元の飼い主のことをきちんと思い出す。その時、元の飼い主がイエイヌと別れた時に、安易に捨てたわけではなかったことがわかる。キュルルはイエイヌの寂しさを受け止めつつも、今の自分に出来ることはないので、別れる。一人のイエイヌの家に、他のフレンズが遊びに来る、などとします。

野生解放を明言しないの目的が引っかからないようにするため。

何歳くらいを対象に考えてるのかわかりませんが、「ヒーローがなんか技名叫んでパワーアップ」は、戦隊ものでもプリキュアでもアンパンマンでもあるので、そうそう引っかからないと思います

サーバルは対ビースト戦でも野生解放を使っているので、視聴者最終話のシーンでは引っかからないだろう、と考えたのでしょう。

あの時、サーバルの目が光ると、ビーストも同じように目が光るカットがあるので、「同じ系統のパワー」に見えるんですよね。一期の野生解放と同じものか、ちょっと混乱する。

内面世界の外への進出、この観点で二作品の差を論評するのはいささか無理があるのではないでしょうか。

念のために確認しますが、私の意見は「内面世界の外への進出自体は、多くの作品共通する、いわゆる「盛り上がる」部分です。ただ、その進出の仕方に、世界現実の仕組みに矛盾しない理屈がある場合と、理屈なしでイメージが直結する場合がある。ケムリクサは前者で、けもフレ2は、後者のように見えるという話です。

けもフレ1にくらべてもケムリクサは、伏線-回収のプロセスがかなり表面に出ており、しかも草や姉妹の周りで深く・複雑に織り込まれています。流し見していると、在りし日の姉達の思い出や、草の種類など、設定開示が多すぎて雑音が多い視聴感になると思うのですが、すべてに筋を通すべく没頭してみれば、極めて大きいS/N比を持っていることが判る。

通常、作品における伏線・回収は、プロット重要なメインの部分についてやるものだと思います。一つの作品で、画面に映ったこと全部に完璧説明をつけようとすると、かえって面白くなくなるので。それを理解した上で「すべてに筋を通すべく没頭」するのは一つの楽しみ方ですが、作品単体にそれを要求する必要はない。わからないことがあることを含めて楽しめば良いかと。もちろん、楽しめないほど大きな矛盾があれば別ですが、私はそれは感じませんでした。

他方けもフレ2では、けもフレ1の設定との整合意識しなくてはならなくて、キャラクターかぶらないようにしなければならない。ヘラジカプロングホーンは性格はごくごく微妙に違っています舞台装置の融通がケムリクサほどには効かない。遅いジャパリトラクターと海の二人のスピードの差、ホテル位置時代を重ねた末のキャラクター同士の関係性の変化。そういうことで破綻がないようにしなければならなかったわけです。

続編作品のほうが様々な制約があり、オリジナル新作ほど融通が利かないのはその通りだと思います現場の方々は整合性を取ろうとしたのだと思いますけもフレ2で、派手でない部分で、筋、整合性を通してる部分があるのも、もちろんだと思います

その上で、重要な部分で、フウチョウが出てきたりするあたりはファンタジーであるなと。「記憶ケムリクサが不自然に発動したこと」にご都合性がないとは言いませんが、「幻想だか現実だかもよくわからないフウチョウコンビが、どこにでも現れて説教する」は、後者のほうがファンタジー度が高いでしょう。

キュルルちゃん出自も明示的には解決されませんでしたが、一話中心にためつすがめつしてよく見直すと推測の材料が仕込んであり、最終話Cパートですべてが繋がるわけです。

肩すかしなのは、キュルルちゃん出自と、最終話に至るドラマキャラ動機等が、特に関連しなかったからです。キュルルちゃんがキュルルちゃん本人のフレンズで、疑似不老不死だったことを眼目とするなら、それが何かと絡む必要がありますベタなのは、それによってセルリアンを倒す助けになるとかですね。そうでなくても構いませんが、そういうのが必要です。けもフレ1で、かばちゃんミライフレンズ化だったというのは、「セルリアンに食べられたかばんちゃんが復活した理由」というドラマと結びついてるから意味があるわけです。

ワカバ場合ワカバリン関係性、ケムリクサの赤い霧の世界がなぜ生まれたか姉妹達とはなんだったのか、という、キャラ動機起源世界の成り立ちが解かれて、それが最終決戦の盛り上がりに繋がるところに意味があるわけです。ワカバが、宇宙人なのか、天使なのかの細部は、想像に任せるで良いのです。

牽強付会ですよ。囲まれた敵に立ち向かう描写は自ずとあのようなカットか、あるいは上空から俯瞰のような見せ方になると思います。まさに悪意をもって粗をさがそう、好意的にすべてを伏線ととろう、そのような態度の差が、けもフレ2とケムリクサの評価を分けた一因なのでは。

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それを仰るなら、けもフレ2も優しい世界になるでしょう。センちゃんアルマーさんもペパプに暴行を働いたりキュルルちゃん誘拐したことはあったけど、基本的には裏表はなく素直で親切心が高く、イエイヌに貢献できたことを「善いことをしたね」と振り返る。ただその在り方がひたすらにストレートなので、視聴者視点では行動が横暴に見える。けもフレ2のジャングルメンバーは互いに本気で諍いしていますが、キュルルちゃんの仲立ちもあってか最終話ではツンデレ仲良し感を醸し出しています。”キャラ基本的な優しさ”や裏表のなさを実現するのは、恐れながら申し上げますが、難しくないでしょう。人数を絞ればキャラも立たせやすいのでは。そのうえで悪役を自意識のないモンスターにしてしまえばよいわけです。その程度で「優しい世界」とみなせるならそれこそ監督なんて誰でも良くてもできるでしょう。たつき監督が立ち上げた「優しい世界概念スピリットは、けもフレ2にもケムリクサにも息づいていますが、しかし全く道半ばだと思いますけもフレ1でも博士サーバル図書館来館時に背後から頭に蹴りを加えていますし(フクロウ能力表現としても蹴るまでは不要だった)、アニサマコラボ動画では大量のフレンズ酷使して、かばちゃんを、りょうり要員として使役しています視聴者全面的エンパワメントするというか、癒やしとしての芸術表現はここからもっと発展していくべきでしょう。監督名に自動的にくっついてくるラベルにしておくのはもったいない

視聴者視点では行動が横暴に見える」のであれば、それは「優しい世界」「癒やしとしての芸術表現」として失敗してるのではないかと思います

そして「”キャラ基本的な優しさ”や裏表のなさを実現するのは、恐れながら申し上げますが、難しくないでしょう。人数を絞ればキャラも立たせやすいのでは。そのうえで悪役を自意識のないモンスターにしてしま」うこと自体簡単かもしれませんが、その結果、出来上がった作品面白くなるか、評価されるかというと、それはまた別問題ですよね。「優しい世界」というのは、面白かった作品への誉め言葉として使われているように思えます

一般的エンタメ作劇論では低評価するしかない、というのは、納得できました。しかし不備があるというならそれを示していただけませんか。広義の悪意について考えたのですが「対抗心さえ悪意」のように考えると、あらゆる創作に悪意は入り込みます問題なのは「悪意が前に出すぎてて、作品として楽しみづらい」ことですよね。作品問題なのか・楽しめない理由が俺たち視聴者にあるか、判別するためには議論を重ねるしかないと思うのです(追記とはいえ、やり取りも長くなったので先は後進に託すとしましょうか?)。

不備について、いくつかは、これまでにも書いたと思います。この記事だと、イエイヌ周りとか、キュルルちゃんの「おうち」「正体」周りですね。

細かな不備はさておき、大きく重要なのは、おっしゃっていた「視聴者視点では行動が横暴に見える。」という点が、印象に残る点だと思います。作り手の意図として「視聴者に対して、キュルルを横暴に見せたい」と思っていたわけではないでしょう。だとするのなら、意図に対して演出脚本が失敗しているわけです。

初見ではわからいかもしれないが、よく考えるとわかる」部分があるのは作品に深みを増しますが、それは細部にやる話で、ドラマとして盛り上がる重要ポイントで誤解を与えてはいけない、というのが普通の作劇かと。

anond:20190408014023

広い意味調和し、繋がる必要はあります。さもないと単に、とっちらかった話になってしまます

けもフレ2の場合、キュルルが「みんなのことが~大好きなんだー!」と叫び、これが多分メインテーマなわけで、だとすると、「リョコウバトを絶滅させ、イルカアシカにショーをさせ、イエイヌ人間なしには生きられなくした人間の業」はメインテーマと真っ向からぶつかるアンチテーゼなわけで、その業とどう向かい合うかは、避けて通れない話でしょう。軽く触れるだけで終わらせるのは構成的に不備があります

けもフレ2のメインテーマは「おうち探し」だと思ってました。そうだとするとヒトの業はアンチテーゼとしては機能しないです。ただ、テーマについて、議論を受けて改めて考えなおしてみたのですが、それぞれ責任の取り方を示唆する決着にはなってたと思いますイルカアシカは芸のネタを与えてあげる、イエイヌは(他人ではなく)飼い主が戻ってくるのを待たせる、リョコウバトには「ひとりじゃないみんなが仲間」ということを教える。イエイヌ不憫感のある結末でしたが、あそこでキュルルちゃんが代わりの飼い主になってしまえば、視聴者は「ああ犬を捨てても誰かが拾えばいいんだ」と受け取ってしまいかねない、飼うことの責任を結果の悲しさを見せることで匂わせた、そういう意図だったのではと思います木村監督仕事受けたあとインタビューで「娯楽なので、ぶっちゃけ監督なんて誰でもいいんですよ」とお話したそうです。この言葉謙遜、およびプロとしての矜持だった、道具に徹するという意志の現れだったのでしょうが騒動で傷ついていたファンには「たつき監督への侮辱か」と受け取られてしまったようで、残念なことです。作劇のプロとしての基準がどのようなものか存じませんが、一般的エンタメ方法論の尺度では、(見得を切った割には)十分な水準に達していなかったということでしょうか。俺としてはとっちらかっているとまでは思えなかったです。

「野生解放と言わずに野生解放で急に強くなる」は、わかりやすさ優先ではなく、むしろ、わかりにくくなっています

野生解放を明言しないの目的が引っかからないようにするため。性格自己申告の目的がわかりやすくするため、と申しました。サーバルは対ビースト戦でも野生解放を使っているので、視聴者最終話のシーンでは引っかからないだろう、と考えたのでしょう。むしろ俺は貴方レベルでそれを見落としたことに驚いています。すくなくとも演出の目論見は失敗したと言っていいでしょうね。

ミドリケムリクサ自体回復できるのに、なぜ、赤を回復してしまわないか、は、複数の葉を重ねて作られた赤を「治す」ことで、元に戻してるのかもしれません。

いただいた他の論はあまり説得力を感じませんでしたが、この解釈は的を射ていると思います考察によって筋を通すことができる、それに耐えられる作品になっている。そういう信頼がたつき監督にはあり、木村監督には無かったのでしょう。見返しておられるとのことで詳しくは控えますが、あらゆるポイント伏線と回収があります。りんが記憶の草を触られて居心地悪くしているシーンは流し見るとなんかエッチ雰囲気に見えてしまますが、きちんと意味のある描写です。内面世界の外への進出、この観点で二作品の差を論評するのはいささか無理があるのではないでしょうか。俺はけもフレ2もSFアドベンチャーとして設定を考察していますしかし先に触れてらっしゃいますが、全体的な伏線-回収のスタイルには2つの作品は確かに大きく異なっています

「さぁとっとと野生解放するのです」… かの名言を忘れているとは。おっしゃる通りで返す言葉もないです。やれやれ咀嚼が足りてないですね。噛めば噛むほど味が出る、これがたつき監督けもフレ1以後の作品凄さでした。個人的には、けもフレ2もそのスピリットを色濃く受け継いでいるように思えます

ただケムリクサという作品は、全体を通して様々な伏線があり、矛盾意味不明に思えた描写が「なるほど、こういうことだったのか!」と思う瞬間が何度もありました。だからこそ、矛盾と思える部分についても「もしかして、これはこうなのでは」と考えたくなりますけもフレ2は、そういう作品ではないので、

これには異を唱えておきますけもフレ1にくらべてもケムリクサは、伏線-回収のプロセスがかなり表面に出ており、しかも草や姉妹の周りで深く・複雑に織り込まれています。流し見していると、在りし日の姉達の思い出や、草の種類など、設定開示が多すぎて雑音が多い視聴感になると思うのですが、すべてに筋を通すべく没頭してみれば、極めて大きいS/N比を持っていることが判る。他方けもフレ2では、けもフレ1の設定との整合意識しなくてはならなくて、キャラクターかぶらないようにしなければならない。ヘラジカプロングホーンは性格はごくごく微妙に違っています舞台装置の融通がケムリクサほどには効かない。遅いジャパリトラクターと海の二人のスピードの差、ホテル位置時代を重ねた末のキャラクター同士の関係性の変化。そういうことで破綻がないようにしなければならなかったわけです。ボスウォッチでキュルルちゃんを探すことができてしまうと、けもフレ1で海に落ちたボスラッキービーストは探せなかったのと矛盾が出る。伏線だけでなく視聴者の印象にも配慮しなくてはならない。最終話唐突ボートが出てくると、あれ? けもフレ1のかばちゃん出立でバスを使ったのはなぜだよ、というショックを与える可能性があるので、うみのフレンズ回で予め出しておく。”うみのごきげん”はそのタイミングで合わせて出す。パーク内でのボスウォッチの在り方は、けもフレ1では”脳みそソコについてんのか!?”というビックリ要素でしか無かったですが、バスハンドルディスプレイウォッチをかざせというようなGUIがあるところからみて、ウォッチボス形態の一つだったと考えられます。そして引き出しに大量の異型筐体のボスウォッチ。「コレを持っていって」っと手渡す。様々な疑問に筋を通す解釈を俺は見つけることができました。見逃してしまうような設定開示を考察で結ぶことができる、これはたつき監督お家芸だったはずですが、継いだ最初仕事再現できる手腕には舌を巻きます

このようにけもフレ2では設定が矛盾しないように、しかもそれを前面に押し出さず(制作が苦労している感が出ないように)背後で処理している。考察を進めると考える上でヒントになる(あるいは制限になる)情報があちこちにあるわけです。視聴時の情報の引っかからなさが、けもフレ2の優れたポイントです。キュルルちゃん出自も明示的には解決されませんでしたが、一話中心にためつすがめつしてよく見直すと推測の材料が仕込んであり、最終話Cパートですべてが繋がるわけです。キュルルちゃんがキュルルちゃん本人のフレンズなら、コレは擬似的に不老不死を実現していることになる。そうすると、けもフレ1の山頂の戦闘機にも理屈がつけられるような気がしませんか。よくある批判に、キュルルちゃんの正体が最終的には謎じゃないか、というものがありますがそれを言うと、わかばの正体も最終的には謎でした。俺から見ると、どちらも読み解くのが… とても楽しい貴方ほどのレベル視聴者にこの作品メルヘン扱いされているのは、勿体無いことこのうえないです。”義憤”や”同調圧力”などがそうさせてるとしたら… ううむ、最初の諍いのとき制作プライドを曲げてでも頭を下げて、互いに許し合うべきだった。残念です。

あのシーン(引用者注けもフレ1の全員集合シーン)を、フレンズセルリアンで再現した、けもフレ2は本当に何をしたかったのだろう……。

牽強付会ですよ。囲まれた敵に立ち向かう描写は自ずとあのようなカットか、あるいは上空から俯瞰のような見せ方になると思います。まさに悪意をもって粗をさがそう、好意的にすべてを伏線ととろう、そのような態度の差が、けもフレ2とケムリクサの評価を分けた一因なのでは。

「優しい世界」と呼ぶかは意見が分かれるかもしれません。ただ、ここで書いたようにキャラ基本的な優しさ、裏表のなさなど、けもフレ1とも共通してる作家性があり、だからこそ、全体として、けもフレファンの人にも人気が出た、くらいは言えると思います

それを仰るなら、けもフレ2も優しい世界になるでしょう。センちゃんアルマーさんもペパプに暴行を働いたりキュルルちゃん誘拐したことはあったけど、基本的には裏表はなく素直で親切心が高く、イエイヌに貢献できたことを「善いことをしたね」と振り返る。ただその在り方がひたすらにストレートなので、視聴者視点では行動が横暴に見える。けもフレ2のジャングルメンバーは互いに本気で諍いしていますが、キュルルちゃんの仲立ちもあってか最終話ではツンデレ仲良し感を醸し出しています。”キャラ基本的な優しさ”や裏表のなさを実現するのは、恐れながら申し上げますが、難しくないでしょう。人数を絞ればキャラも立たせやすいのでは。そのうえで悪役を自意識のないモンスターにしてしまえばよいわけです。その程度で「優しい世界」とみなせるならそれこそ監督なんて誰でも良くてもできるでしょう。たつき監督が立ち上げた「優しい世界概念スピリットは、けもフレ2にもケムリクサにも息づいていますが、しかし全く道半ばだと思いますけもフレ1でも博士サーバル図書館来館時に背後から頭に蹴りを加えていますし(フクロウ能力表現としても蹴るまでは不要だった)、アニサマコラボ動画では大量のフレンズ酷使して、かばちゃんを、りょうり要員として使役しています視聴者全面的エンパワメントするというか、癒やしとしての芸術表現はここからもっと発展していくべきでしょう。監督名に自動的にくっついてくるラベルにしておくのはもったいない

その上で、けもフレ2の設定や伏線に不備がない、とまでは私は言えません。

一般的エンタメ作劇論では低評価するしかない、というのは、納得できました。しかし不備があるというならそれを示していただけませんか。広義の悪意について考えたのですが「対抗心さえ悪意」のように考えると、あらゆる創作に悪意は入り込みます問題なのは「悪意が前に出すぎてて、作品として楽しみづらい」ことですよね。作品問題なのか・楽しめない理由が俺たち視聴者にあるか、判別するためには議論を重ねるしかないと思うのです(追記とはいえ、やり取りも長くなったので先は後進に託すとしましょうか?)。

anond:20190407225535

まり関心を持ったことのないポイントなので、勉強になります僭越ながら、グロテスクさが感じられうる示唆的なシーンが、人物の行動の結果などに繋がって作品としてのテーマになるまで昇華されていなかったとしても、芸術的意味はありうるのでは、と考えています。例示していただいたアイデアのように正面からこれをテーマに据えてしまうと、作品自体目的が”説教”になってしまうので避けたが、示唆したいことは確かにあった、という可能性です。別の方の増田引用します。

芸術というものは非常に幅広い概念であり、故に、善し悪しを語るのは、非常に難しくなります。話が拡散しすぎてもしょうがないので、ここでは、いわゆる一般的エンタメ(これ自体もかなり広い概念ですが)の方法論に沿った評価します。

あるモチーフをメインテーマに直接繋げると説教臭くなる場合は確かにあります。メインテーマ一本調子にならないように「Aの正しさ」を中心に描きつつ、「A以外の正しさ」にも軽く触れるといった構成はよくありますね。ただ、その場合でも広い意味調和し、繋がる必要はあります。さもないと単に、とっちらかった話になってしまます

けもフレ2の場合、キュルルが「みんなのことが~大好きなんだー!」と叫び、これが多分メインテーマなわけで、だとすると、「リョコウバトを絶滅させ、イルカアシカにショーをさせ、イエイヌ人間なしには生きられなくした人間の業」はメインテーマと真っ向からぶつかるアンチテーゼなわけで、その業とどう向かい合うかは、避けて通れない話でしょう。軽く触れるだけで終わらせるのは構成的に不備があります

私は、それを「深く考えないで出した」と考えますが、「示唆したいものがあったが描ききれなかった」と考えることもできるでしょう。意図はわかりませんね。

それを仰るなら、けもフレ1の黒いセルリアンとの戦闘でも多くのフレンズは野生解放していないです。

「さぁとっとと野生解放するのです」「我々の群れとしての強さを見せるのです」からの、闇に光る数々の目、は名シーンであったと思います。あれを見ると、「ここが正念なのだから、野生解放できるフレンズは全員した」という流れが伝わるかと。

それはそうと、あのシーンを、フレンズセルリアンで再現した、けもフレ2は本当に何をしたかったのだろう……。

ところで「野生解放を言わない」ということには、けもフレ制作陣の明確な狙いがあると思いますけもフレ2では他にも「ちほー」や「フレンズ」といったタームがほとんど言われません。推測ですが、これは一般受けを狙うために途中から入ったりぼーっと観てる視聴者キッズが引っかからないように配慮したものだと思われます。逆に明確に説明するようになったものもありますキャラクター性格です。「私、体が丈夫なだけじゃなくて記憶力もいいので」「私は用心深いから」… などなど、けもフレ2ではキャラクター自分性格自己申告します。作劇技術的な難度という点ではこのような表現はおそらくレベルが低く、エレガントでもないのでしょう。しかしそれが直ちに作品として悪い、ということにはならないでしょう。解りやすいというメリットは確実にあります。あざといくらいハッキリ言うので、おそらくここを起点に自分でも動物性質を調べてほしい、という願いも込められているのかもしれません。

全体としてキッズ向けのノリで、わかりやすくする意図はあったかもしれません。それはそれで一つの方向性ですよね。ただ「野生解放と言わずに野生解放で急に強くなる」は、わかりやすさ優先ではなく、むしろ、わかりにくくなっています子供なのだから、そのへんの脈絡を気にしない……と仮に制作者が思っているとしたら、それはそれで、子供馬鹿にした話です。子供向けにわかやすくするというのは、そういうことではないでしょう。

ケムリクサ周りは、まだまだ見返して伏線を捜しているので、勘違いしてる点もあるかもしれないことを先に述べて起きます

おっしゃる点、それぞれについて、説明はできると思います。例えば、ミドリケムリクサ自体回復できるのに、なぜ、赤を回復してしまわないか、は、複数の葉を重ねて作られた赤を「治す」ことで、元に戻してるのかもしれません。あるいは、ワカバが苗床になった時に、ミドリに赤に対する抵抗力を与えたのかもしれません。リンの中に、リリの記憶漏れていることは、わかばロックを解除して、そのまま開けっぱなしの状態だったのかもしれません。光については、木を倒して、残った全部の力を、わかば治療に使った描写に思えました。

このへん、贔屓の引き倒しというか、脚本ミスの部分を無理矢理、好意的に見てるものは混じっているかもしれません。好意的に見れば、けもフレ2の矛盾点とおぼしき部分も説明をつけることができるとは思います

ただケムリクサという作品は、全体を通して様々な伏線があり、矛盾意味不明に思えた描写が「なるほど、こういうことだったのか!」と思う瞬間が何度もありました。だからこそ、矛盾と思える部分についても「もしかして、これはこうなのでは」と考えたくなりますけもフレ2は、そういう作品ではないので、その点は一緒にできないなと。

しかし「優しい世界」では全然ないでしょうということは主張しておきます(でもりつ姉はオアシス)。

ケムリクサは、けものフレンズ1に比べて全体的にダークなわけで、それを「優しい世界」と呼ぶかは意見が分かれるかもしれません。ただ、ここで書いたようにキャラ基本的な優しさ、裏表のなさなど、けもフレ1とも共通してる作家性があり、だからこそ、全体として、けもフレファンの人にも人気が出た、くらいは言えると思います

設定や伏線において、けもフレ2に不備があるように思えるのは錯覚で、実態作品の狙いと得意な表現範囲の違い「へーきへーきフレンズで得意なこと違うから」、で済むレベルなのではと考えているのです。

作品の狙い、得意な表現分野の違いにすぎない点が、1との比較で、不当に欠点とされてる部分は多いと思います。その一端は、一連の記事で書いています

その上で、けもフレ2の設定や伏線に不備がない、とまでは私は言えません。もちろん、どんな作品にも瑕疵はあるわけで、減点法だけで評価するのも、考え物です。どこを重視するかの違いかもしれません。

2019-04-07

anond:20190407105941

当初イエイヌはヒトであれば誰でも良いということを言っていました。結果的には「別れた大切な人を待ち続ける」ことになるのですが、ヒトであればよいと思っているという設定は、不憫さを誘うためものだった思いますイルカアシカについても芸の報酬をねだるのは(三人も引いていたし)どこかグロテスクさを感じました。ホテルぬいぐるみが売り切れる描写は、リョコウバトが孤独になっていくさまを強調したものでしょう。確かにドラマとして悲劇・罪悪感が押し出されているわけではないですが、全編に渡ってそういう表現がある点で、そこには何らかの狙いがあるように感じます。深く考えていないということはないと思います

このへんは、主観的な話にならざるを得ませんが、個人的にはイルカアシカエピソードに、自覚的グロテスクさは感じませんでした。リョコウバトのエピソード絶滅悲劇意識してるのは確かですが、そこがどこにも繋がっていません。

一般的な作劇として、不愉快イベントは、単体だと「単に不愉快なだけ」で終わるので、作品テーマ性として発展させ、そこに意味を持たせるわけです。キュルルが人類の罪深さを知って、それを贖罪しようとするとか、あるいは、キュルルの態度のほうが正しく、かばんさん的な人とフレンズ区別しない態度が偽善であることが示される、とかですね。

けもフレ2では、そういうテーマ性は見当たりませんでした。やろうとしてまとめきれなかった可能性もありますが、個人的には、そこまで深く考えていなかったようにも思えます。「シリアスエピソードを置くことで、作品に深みがでる」くらいのノリで置いて、それ以上は考えていないように思えたのです。

しかサーバルカラカルが急にパワーアップしたように見えるシーンは、最終回での戦闘だけだと思います

あれが野生解放なら、筋は通りますね。野生解放といえよ、とか、他のフレンズは野生解放しないのか、とかは、内面世界問題ではなく、脚本の不備の問題ですから

しかしそうすると、けもフレ2は全体としてはリアリティラインは低くはなかった、ということになりませんか。けもフレ1の紙飛行機石橋の下に落としたりは納得感が高かったのはわかりますが、けもフレ2での内面世界の漏出は最終盤で起こったということでしょう。

リアリティラインの高低に関わらず、作劇のセオリーとして、クライマックスでは、内面世界が強くシンクロします。

主人公絶望と、強大なセルリアンの登場、友情パワーの高まりと、主人公の復活、セルリアンの撃退、などです。

この時、けもフレ1は、内面世界を繋ぐ筋、理屈を、うまく作っていました。

けもフレ2は、そのへんがあまり機能しておらず、内面の高まりが、なし崩しに外面に出てしまったと考えます

これは、脚本の不備と捉えることもできますが、けもフレ2単体で見た場合、そこまで気にならない。ただ、けもフレ1と比べると、目立ってしまう、というわけです。

最初に、「ただ、けもフレ2は、全体的に伏線の回収がうまくいってないので、意図的リアリティラインを低めに保とうとしたというよりは、設定について深く考えてなかったり、伏線を消化しきれなかったりして、そうなってしまってると考えられる」と書いた感じです。

ところで、ケムリクサにおいてもリアリティラインは低くなっていったと考えていますケムリクサは”優しい世界”でもないです。視聴者は同監督ということで同様のものを期待したはずですが、ギャップが大きく評価を下げたという感じはありません。もちろん悪意を見出している人もいません。

ケムリクサに置いて、内面世界シンクロする際は、ケムリクサというギミックを使っており、SFとしての筋は通っていると考えています。ここでいうリアリティラインは高めです。また生存が厳しいという意味では優しくないですが、悪意のあるキャラがいない、という点では「優しい世界」を継承しているでしょう。りんがわかばを警戒するのは自然なことですし、それ以外は全員が素直で、また世界破壊の原因も優しさに起因し、わかりやすい「悪役」はいないわけです。

思うんですけど、そもそも「悪意をもって作られた創作」というもの過去あったのでしょうか。

人間創作には色々な気持ちを込めるので、「あいつに負けたくない」「あいつの作品が、ここがダメなのを暴いてやる!」といった対抗心を作品に入れ込む場合はあると思います。そういうのは悪意と呼べなくはないでしょう。そうした悪意を高いレベル昇華して、優れた作品になることはいくらでもあります。逆に言うと「悪意を持って作られた創作」と言われるものは、悪意が前に出すぎてて、作品として楽しみづらいものなわけです。普通、そういうのは商業では、否定されます。なので、おっしゃるとおり、「商業メリット以前に、悪意を想定する」のは常軌を逸した話であると思います

ただ商業メリットの話をしていくと、けもフレ2に関して「それ商業的に悪手じゃないの?」と考えられる部分は、作劇に限らず色々あるわけなので、それを正当化する理由として悪意を置くのは、あながち否定できない。なので、そうした悪意なしでも、けもフレ2という作品が生まれることは説明できる、という記事を書いたつもりです。その上で、もちろん、みんなちょっと落ち着いたらとは私も思います

そういえばtogetterで吉崎さんの出したプロットからたつき監督が「トゲ」を抜いた、というエピソードが紹介されていました。俺は結果をみて、なるほど! と思ったのですが、ああいうことを狙ってやっていくのは唯の視聴者が思う以上に難しいのでしょう。

難しいと思います。単に優しくするだけでなく、優しくした上で、キャラを立てないといけないわけです。

例えば一期のメインキャラが、十数人として、それが全員、根が素直で優しいとするなら、「根が素直で優しいキャラを十数体、キャラを立てて描き分ける」ことになるわけで、えらいことです。もちろん、素直なやつばっかりじゃないですが、それにしても想像すると怖くなりませんか。

anond:20190407054347

当初イエイヌはヒトであれば誰でも良いということを言っていました。結果的には「別れた大切な人を待ち続ける」ことになるのですが、ヒトであればよいと思っているという設定は、不憫さを誘うためものだった思いますイルカアシカについても芸の報酬をねだるのは(三人も引いていたし)どこかグロテスクさを感じました。ホテルぬいぐるみが売り切れる描写は、リョコウバトが孤独になっていくさまを強調したものでしょう。確かにドラマとして悲劇・罪悪感が押し出されているわけではないですが、全編に渡ってそういう表現がある点で、そこには何らかの狙いがあるように感じます。深く考えていないということはないと思います

リアリティラインが低い

これは誤読していました。単にご都合主義的ということではなく、内面世界の反映を問題としているのですね。しかサーバルカラカルが急にパワーアップしたように見えるシーンは、最終回での戦闘だけだと思いますカラカルが「本気だすわよ」といってサーバルが”野生解放”をする。”野生解放”はけもフレ1でセルリアンハンターらが行っていますが、「最初から野生解放で行くぞ」の言い方から察するに、疲れる・コントロールできないなど常時その状態はいられない事情があると考えられます戦闘も終盤で2対2になったので解放したというのは筋の通る展開ではないでしょうか。他方、フウチョウについてはおっしゃるとおりで、異論はありません。加えて最後でのかばちゃん告白も、いままでサーバルとの関係が積み重なっているようには見えないので、強い思いが伝わりあの反応を引き出した、という見方をするしかなく、貴方の論に叶うものでしょう。しかしそうすると、けもフレ2は全体としてはリアリティラインは低くはなかった、ということになりませんか。けもフレ1の紙飛行機石橋の下に落としたりは納得感が高かったのはわかりますが、けもフレ2での内面世界の漏出は最終盤で起こったということでしょう。ところで、ケムリクサにおいてもリアリティラインは低くなっていったと考えていますケムリクサは”優しい世界”でもないです。視聴者は同監督ということで同様のものを期待したはずですが、ギャップが大きく評価を下げたという感じはありません。もちろん悪意を見出している人もいません。

思うんですけど、そもそも「悪意をもって作られた創作」というもの過去あったのでしょうか。いえ差別的ヘイト創作はもちろんありますが、それは攻撃するターゲットが他にいるケースであって、今回は視聴者キャラクター攻撃する意図を疑われているわけでしょう。商業メリット以前に、悪意を想定する時点でもう、どこか常軌を逸しているように思えます。俺は実は監督交代の顛末に明るくなくてツイッターのTLにもその関連は流れてこないのですが、一連の感想ブログなどを追っていくなかで、俺にはなにか見えていないエネルギーがあるのではと思うようになりました。一般視聴者の間で凄まじい義憤が渦巻いていて、極めて高い同調圧力が生み出されていて、それが感想批評論理さえ捻じ曲げている。ナイーブな仮説ですが、そんな疑念を持っています

たつき監督の作劇は、たつき監督技術によって成り立ってるので、監督が抜けると再現が難しくなる、というのが考えられます

よく言われる、たつき監督の「優しい世界」ですが、これは脚本技術的に高度なものです。ドラマを作る時に、普通の作劇では対立構造や誤解などを利用します。逆に言うと、たつき的な、悪意がなく素直なキャラだけで、面白いドラマを作るのは、高い作劇技術必要になります

この論点は目ウロコでした。そういえばtogetterで吉崎さんの出したプロットからたつき監督が「トゲ」を抜いた、というエピソードが紹介されていました。俺は結果をみて、なるほど! と思ったのですが、ああいうことを狙ってやっていくのは唯の視聴者が思う以上に難しいのでしょう。けもフレ1ではサーバルかばちゃんの表情を覗き込むシーンが多かったように思いますけもフレ2になってキャラクターの造形は表情豊かになりましたが、キュルルちゃん探偵二人が誘拐した騒動で、キャラクターを体ごと大きく動くのが難しかったのでしょう、ギクシャクした感じが出てしまっていました。たつき監督しかできない演出は確かにあったと感じています。作劇においてもそれがあって、避けるために得意な方向性に変えた(結果、戻った)という説は納得できそうです。(追記たつき監督の「素直なキャラだけで面白いドラマ」を作る作劇技術、というトピックはとてもおもしろそうです。優しい世界説はメジャーですが、けもフレ1の作劇技術解説した記事は見たことがありません。いつか語ってくれないかな〜〜という図々しいオネダリ

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