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2017-12-08

anond:20171208201629

異民族との戦争生存競争かな

農業っても1粒植えた麦が2粒になるなんて

ものすごい非効率農業だったか

あとエジプトはナイル近辺や、エルサレム近辺などは

穀物地帯で生きるのに必要だったか

ローマはこれに加えて世界を広げるのに熱心だったけど

 

奴隷制は何事にもマンパワー必須だったか

ちょっと違うけど今で言う派遣に近い部分も

あとは口減らしもあった

 

支配階級社会作ったか

船頭多くして船山に登る、の格言そのまま

あと世襲にして支配階級化しないと、皆がみんな口を揃えて

「今はアイツが王やってるけど、別に俺が王でもいいんじゃ?」 

と言い出すから権威とそれに対しての歴史による重み付けなどが必要だった

 

女性制限

制限というかやれなかったか

腕力がないからと体調を崩す意味で。

農民が9割の世界で、しかも米や麦を作る畑や水路

家や道具を作る木の伐採など仕事、そして戦争

もしやれるならやってもらってたはず

だって飢饉が頻繁に起きてる時代

餓死にしてでも女性の行動制限します!なんてこと誰もやらない

アラブ地域なんかだと上記に加えて交易が主な産業だったか

それに連れていけなかった(体力・体調に加えて対盗賊意味でも)

2017-09-26

[]

岐阜県現代陶芸美術館で開催中の「浦上父子コレクション引き継がれるコレクター魂」展に

行ってまいりましたわ。

観る順番を間違えて子のコレクションした北斎漫画を先に観てしまいました。

本来冊子の形式であるもの額縁に入れて展示しているので

一度にたくさんの作品を観ることができるそうですわ。

「鯨・鮫ほか」の絵が完全にクリーチャーで、むしろ獏の方が現実動物に見えました。

観察する機会の差なのでしょうか。

有名な「富嶽百景」では、「田面の不二」が物凄い構図で仰天しましたの。

ピンホール原理で障子に富士山が写った場面らしき版画もありました。

他の展示では前後の漢時代の銅鏡が興味深かったですわ。こちらも息子さんのコレクションです。

篆字で書かれた銘文がメーカー宣伝文章だったのですわ。

「新」時代の銅鏡のひとつだけはプロパガンダが書いてありました。

単于文字があっても居丈高異民族政策が失敗したことはおくびにも出していませんわ。

陶器関係では地中の緑釉陶器が白っぽく変色する現象のことを「銀化」と

呼ぶことを覚えましたわ。

同じ建物の下の階では「国際陶磁器美濃」が開催されていました。

白木千華氏作品が実にファンタジーしていましたわ。

同時開催の多治見工業高等学校専攻科の展示にも白木千華氏作品があって、

卒業制作以来、同じ作風を続けていることが分かりましたわ。

世界各国の方が出展されているのですが、

コンセプトの説明をされる方とされない方がいて興味深かったですの。

トルコの方はみんな無言で、韓国の方は説明してくださる傾向でしたわ。

セルビアの方が内戦経験を反映した作品が重かったです。

https://anond.hatelabo.jp/20170709000534

2017-07-09

日本永遠に人権後進国であり続ける

だって人権基準西欧から動かねえんだもん。

何を認めて何をシバいていいか、全部あいつら次第で決まるってことでしょ?

で、あいつらがある日突然ルールを変えたら、それに従わない奴はみんな人権後進国なんでしょ?

そしたら日本に限らず、西欧以外全部西欧の風下に立つしかなくなるじゃん。

だいたい、こないだまで異民族はぶち殺しLGBTもぶち殺しあとクジラとりまくってたの誰だよ。

それで今更迫害さなマンみたいなポーズ取られても正直困るわ。

その点、独自路線をはっきり取ってるイスラームは正しい。ついてけねえもん。

2017-06-11

続・白紙に戻せぬ遣唐使教科書の読み比べ)

http://anond.hatelabo.jp/20170611183038

これのつづき。今回も文字数制限にひっかかったので、分割します。

  

桐原書店新日本史B』(日B 011)

一方、インドの僧菩提、林邑(ベトナム中部)の仏哲、唐僧鑑真らの外国人も、遣唐使船に便乗して来朝し、インド西域東南アジア文化を伝えた。

遣唐使船は日本人が唐へ往来するためだけではなく、外国人日本に招くためにも使われていたのです。「遣唐使」「鑑真」というのは中学生レベル用語です。しかし、この2つを結びつけて説明できる人は案外少ないんじゃないでしょうか?

ちなみに、山川の『日本史B用語集』によると、菩提僊那、仏哲という用語を載せている教科書は、唯一これだけみたいです。しか桐原書店は彼らの業績を説明するための註を設けている徹底ぶりです。入試問題になったら難問だと思いますが、大切なのはこういう人名を丸暗記することじゃなくて、東大寺大仏開眼供養会はインドベトナム出身僧侶たちも参加していた国際色のあるイベントだった、それは遣唐使船がもたらしてくれたものだということでしょう。

  

日本がしばしば新羅従属国として扱おうとしたため、両国関係はしばしば緊張した。しかし、日本遣唐使が唐において新羅人に助けられることもあった。」

これもこの教科書に独特の記述です。遣唐使新羅人に助けられたというのは、円仁著作『入唐求法巡礼行記』のことを念頭に置いているんでしょうか?

また、上掲の講談社日本の歴史シリーズから引用すると、次のような話もあります

遣唐使派遣が間遠になり、日本の船が唐まで行かないなか、それでも求法の念止みがたいとなれば、来航する新羅船を利用するしかない。そしてまた新羅商人たちは、概して好意的に彼らを助けたのであった(坂上早魚『九世紀の日唐交通新羅人』)。こうして入唐と研鑽を果たした天台真言の平安仏教旗手たちが、仏教の使命は鎮護国家にあるとする考えに則り、護国の修法による新羅調伏を担うことになったのは、実に皮肉なことであった。

  

坂上康俊『日本の歴史05巻 律令国家の転換と「日本」』

  

  

  

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

このころ唐では、みずから世界の中心とみなす中華思想が強まり、周辺の国々を夷狄として見下す考えが生まれていた。この考え方は日本にも影響をあたえ、朝廷新羅や、朝廷に服属しない東北九州南部の人びとを蝦夷隼人とよんで夷狄として蔑視しはじめた。

朝廷東北地方九州南部進出した経緯を説明する際、そこには中華思想の影響があったことを説明しています。それに絡めて新羅との関係にもちょこっと触れているので、先にとりあげた東大入試問題を解くときのヒントになるでしょう。

もっとも、この点はやはり、山川出版社新日本史B 改訂版』(日B018)の方が優れています。私が先に引用した箇所のすぐうしろ([後略]とした部分)では、朝廷が「東北地方蝦夷九州南部隼人異民族夷狄)として服従させ」たことを説明し、「律令国家が蛮夷を服属させる帝国であることを内外に示した」と結んでいるのです。

それに比べると、三省堂教科書は、遣唐使中華思想という2つのものを関連付けて理解することが不可能です。

  

  

  

東京書籍日本史B』(日B 004)

遣唐使8世紀には6回、9世紀には2回派遣され

実教出版にも「奈良時代遣唐使は6度派遣され」たとありますが、東京出版9世紀のことも記述していてグッド。

遣唐使は894年、菅原道真の建議で廃止されました。ですから9世紀末まで遣唐使派遣する制度は残っていたはずなんですが、8世紀と比べるとその回数がめちゃくちゃ減っていることが分かるでしょう。

理由は、日本がもはや唐から学ぶべき必要・意欲がなくなってきたこと、唐が政治的混乱に陥って衰退したことによる国威の低下、商船の往来が活発になったことで日本が唐に朝貢をしなくても舶来品を入手できるようになったこと、などです。

これがさっき桐原書店のところで述べた話にもつながっています時代が9世紀(すでに平安時代)になっても、仏教では唐に確固たる先進性がありました。だから日本僧侶たちは唐に留学することを熱望したのです。しか朝廷遣唐使派遣積極的ではなく、彼らは新羅商人の助力を得なければ、渡航が困難という状況だったのです。

  

[引用者注:702年の遣唐使派遣の再開について] その目的なかには、「日本」という国号を認めさせることも含まれていたと考えられる。

東京書籍教科書にだけある、この一文。「日本」がはじめて国際社会に登場したのがこの時点だったと言っているんです。

これ、すごいことを言っていますよ? 「日本」が太古の昔から存在したという皇国史観に対する強烈な一撃です。

ちなみに、このとき天皇」は国際デビューしていません。倭国はなんとかして「日本」への国号変更を唐に認めさせることはできても、皇帝にあたる「天皇」という称号を用いて唐と対等外交をする力がなかったのです。唐では天皇のことを「日本国王主明楽美御徳」(日本国王メラミコト)と呼んでいたようです。もしかしたら当時の日本朝廷内では、「スメラミコトは唐の皇帝に臣従したが、天皇は臣従していないか日本国王ではなく、したがって日本は唐の朝貢国ではない」という回りくどい官僚的答弁があったかもしれませんが、その点は不明です。このような高度に政治的問題は、国史編纂ときに巧妙な隠蔽がおこなわれるからです。(上掲の講談社日本の歴史シリーズ青木和夫著の中央公論社日本の歴史3巻 奈良の都』を参照せよ)

  

さて、これは東京書籍にかぎらず、多くの教科書でそうなのですが、古代史において「天皇」「日本」という表記を用いるときには慎重になっている様子がうかがえます。例えば白村江の戦いでは、唐・新羅と戦った国が「日本」ではなく、「倭」倭国」「朝廷」等の表記になっています

なぜ教科書がこんな表記になっているかというと、「天皇」「日本」という称号国号は、ある時期の特定政治状況のもと、人為的に作られたものからです。具体的には天武朝(673年~686年)のころ、大王とその国を神格化する目的で、初めてこれらの称号国号使用が開始されました。ですから、もし神と同一であるところのその「天皇」、その神のおさめる国である日本」が、天武朝より遥か昔から存在していたかのように記述するならば、それは皇国史観に他なりません。

無論、教科書では便宜的に仁徳天皇推古天皇というような表記が使われていますけど、古代史における「天皇」「日本」という表記の取り扱いについては一応注記が設けられていたりします。例えば『詳説日本史』は壬申の乱ののち、天武天皇が「強力な権力を手にし」て、「中央集権国家体制形成を進」めていく過程で、そのころに「大王にかわって「天皇」という称号が用いられる」ようになったと書いています。同社の参考書『詳説日本史研究』はそこがもっとクリティカルです。「大王から天皇へ」というコラムで、「天皇」という称号が天武朝に始まることの歴史学的な検証を載せ、唐の皇帝が一時「天皇」と称していたのを知った日本側が模倣したという説を紹介しています

こういう細かな表記へのこだわりからも、各社の教科書がどんな史観に基づいているかを見ることができるはずです。

白紙に戻せぬ遣唐使教科書の読み比べ)

山川出版日本史の何がすごいのか、さっぱり分からない」

http://anond.hatelabo.jp/20170604204919

これの筆者です。

id:netcraft3さんに「このままシリーズ化してほしい」と言われたんですが、そのつもりはないです。歴史学に対してろくな知識もないから恥をかきそうだし、人気の増田国会ウォッチャー)みたいに注目をあびるのは恐ろしいです。

  

なので今回で最後になるかもしれませんが、ひとまず「遣唐使」について見ていきましょう。

山川出版社『詳説日本史』の「遣唐使」という項は、次のように書かれています。全文引用します。

618年、隋にかわって中国を統一した唐は、東アジア大帝国をきずき、広大な領地を支配して周辺諸国に大きな影響をあたえた。西アジアとの交流もさかんになり、都の長安(現、西安)は世界的な都市として国際文化が花ひらいた。

東アジア諸国も唐と通交するようになり、日本から遣唐使は8世紀にはほぼ20年に1度の割合で派遣された。大使をはじめとする遣唐使には留学生・留学僧なども加わり、多い時には約500人の人びとが、4隻の船にのって渡海した。しかし、造船や航海の技術はまだ未熟であったため、海上での遭難も多かった。遣唐使たちは、唐から先進的な政治制度国際的文化をもたらし、日本に大きな影響をあたえた。とくに帰国した吉備真備や玄昉は、のち聖武天皇に重用されて政界でも進出した。

朝鮮半島を統一した新羅とも多くの使節が往来したが、日本は国力を充実させた新羅従属国として扱おうとしたため、時には緊張が生じた。8世紀末になると遣新羅使派遣はまばらとなるが、民間商人たちの往来はさかんであった。一方、靺鞨族や旧高句麗人を中心に中国東北部建国された渤海とは緊密な使節の往来がおこなわれた。渤海は、唐・新羅との対抗関係から727(神亀4)年に日本に使節を派遣して国交を求め、日本も新羅との対抗関係から渤海と友好的に通交した。

これはひどい遣唐使派遣再開が何年だったかという記述がありません。

そもそもこの派遣が再開であるという基礎知識すら、この教科書では把握できません。ページを戻って第2章「1,飛鳥の朝廷」の「東アジアの動向とヤマト政権の発展」という項では、「倭は630年の犬上御田鍬をはじめとして引き続き遣唐使派遣し」たとあるのですけど、その後にしばらく派遣を中断した時期があることは記載なし。

一時期は中断していたからこそ、702年の派遣再開に歴史的意義があります。第1回の遣唐使派遣が630年ですから、何と、まだ大化の改新をやっていない時代ですよ? それくらい古い時代から派遣していたにもかかわらず、多くの教科書8世紀初頭の出来事として遣唐使のことを説明するのはなぜでしょうか。それは再開というターニングポイントを重視しているからです。本書もそれに従って、「3,平城京時代」という単元に「遣唐使」の項を配置しています。それならば、中断・再開の経緯について説明を載せるべきです。

  

ちなみに、他の教科書では、遣唐使派遣再開についての説明が次のようになっています

7世紀前半にはじまった遣唐使は、天武・持統天皇時代にはしばらく中断されていたが、702年久しぶりに難波津を出発した。」

東京書籍日本史B』(日B 004)

「また政府は、8世紀のはじめに遣唐使派遣して、669年以後とだえていた唐との国交を回復した。」

実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)

「日本は唐の文化積極的にとり入れようと意欲をもやし、ほぼ20年に1度くらいの割合で遣唐使派遣した。」

山川出版社高校日本史 改訂版』(日B 017)

白村江の戦いののち、30年あまりとだえていた唐との国交が、701(大宝元)年の遣唐使任命によって再開され、以後、遣唐使がたびたび派遣された。それまで、半島から渡来人新羅などに学びながら、ある程度の国家体制を整えてきたが、この年の大宝律令とともに、唐との直接交通を始めたのである。」

桐原書店新日本史B』(日B 011)

律令制度を整えた朝廷も、702(大宝2)年に遣唐使を復活させ、唐の文物制度摂取につとめた。[中略]

こうしたなか、朝廷は新都の造営や貨幣鋳造、国史の編纂などを次々に実行して、中央集権体制にふさわしい国家づくりに励んだ。」

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

  

引用者注教科書のページを戻って「白村江の戦い国内体制の整備」の項では、白村江の戦いののち、遣唐使が「669年を最後に中断した」という記述あり。]

この中では、桐原書店ダントツに優れていると思います

遣唐使が中断していた理由もわかるし、大宝律令の制定と遣唐使の再開という2つの出来事を結びつけて理解することができます

  

三省堂記述おもしろいです。私は前回、この教科書について、「時代の流れがよくわかる」「時系列にしたがった記述が多い」というようなことを書きましたけど、ここでもその特徴が出ています

大宝律令の制定、平城京への遷都、貨幣鋳造、国史編纂というのは国内政治です。一方、遣唐使新羅・渤海との関係は、外交政策です。普通教科書はこれを別項に分けますが、三省堂はこれを同じ項にまとめて一つの時代様相として語っているのがすごい。

  

東京書籍実教出版も、中断・再開に触れています。その点は『詳説日本史』より絶対にマシです。

  

山川出版社高校日本史 改訂版』(日B 017)は、教科書のページ数が少なくて、内容もぺらぺらに薄いです。『詳説日本史』と同様、これでは大雑把に奈良時代の初め頃だったということしか分かりません。(しかも正確には702年に派遣再開されたので、これを奈良時代出来事と把握すると誤りになります)

  

  

  

東大入試でよくわかる遣唐使

東大入試2003年)は、遣唐使の本質にせまる問題を出しています

次の(1)~(4)の8世紀の日本の外交についての文章を読んで、下記の設問に答えなさい。

(1) 律令法を導入した日本では、中国と同じように、外国を「外蕃」「蕃国」と呼んだ。ただし唐を他と区別して、「隣国」と称することもあった。

(2) 遣唐使大伴古麻呂は、唐の玄宗皇帝元日朝賀(臣下から祝賀をうける儀式)に参列した時、日本と新羅とが席次を争ったことを報告している。8世紀には、日本は唐に20年に1度朝貢する約束を結んでいたと考えられる。

(3) 743年、新羅使は、それまでの「調」という貢進物の名称を「土毛」(土地の物産)に改めたので、日本の朝廷は受けとりを拒否した。このように両国関係は緊張することもあった。

(4) 8世紀を通じて新羅使は20回ほど来日している。長屋王は、新羅使の帰国にあたって私邸で饗宴をもよおし、使節と漢詩をよみかわしたことが知られる。また、752年の新羅使は700人あまり大人数で、アジア各地のさまざまな品物をもたらし、貴族たちが競って購入したことが知られる。

  

設問:この時代の日本にとって、唐との関係新羅との関係もつ意味にはどのような違いがあるか。たて前と実際の差に注目しながら、6行以内で説明しなさい。

これの答えがピンポイントで載っている教科書があります

山川出版社新日本史B 改訂版』(日B018)です。これ以外は、どの教科書も上記引用した『詳説日本史』と似たり寄ったりの内容ですからいくら熟読をしても答案を書くことが難しいと思います。(三省堂のぞく。後述)

8世紀に入ると、日本は20年に1度の回数で大規模な遣唐使派遣した。日本は唐の冊封を受けなかったが、実質的には唐に臣従する朝貢であり、使者正月の朝賀に参列し、皇帝を祝賀した。[中略]

一方、日本の律令国家内では天皇皇帝であり、日本が中華となる唐と同様の帝国構造を持った。日本は新羅や渤海を蕃国として位置づけており、従属国として扱おうとした。

白村江の戦いののち、朝鮮半島を統一した新羅は、唐を牽制するために日本とのあいだにひんぱんに使節を往来させ、8世紀初めまでは日本に臣従する形をとった。やがて対等外交を主張したが、朝廷はこれを認めず、藤原仲麻呂新羅への征討戦争を準備した。一方で、新羅民間交易に力を入れ、唐よりも日本との交流が質量ともに大きくなった。現在の正倉院に所蔵されている唐や南方の宝物には、新羅商人仲介したものが多いと考えられる。[後略]

  

山川出版社新日本史B 改訂版』(日B018)

以上に準拠しながら、私なりに要点をまとめておくと、次のとおりです。

  

(1)は、日本が唐から律令を学び、その中華思想の影響を受けたことを言っています。つまり、日本はみずからが「中華となる」という「帝国構造」を作ろうとしたのです。「日本は新羅や渤海を蕃国として位置づけ」て、彼らを野蛮だと侮蔑し、従属国として扱おうとしました。ですが、唐だけは別格です。あのような大国を敵にまわすと、恐ろしいことになりかねません。そういう遠慮があって、唐のことだけは尊重して隣国と呼びました。

(2)は、「日本は唐の冊封を受けなかったが、実質的には唐に臣従する朝貢」をしていたということです。唐の臣下となって朝貢する国々の中にも、その立場にはランクがありました。日本と新羅はともに唐の臣下だったのですけど、日本は新羅より格上の臣下になろうとしたのです。

(3)は、日本と新羅関係悪化について述べています新羅が「8世紀初めまでは日本に臣従する形をとった」ので、その間は関係がうまくいっていました。しかし、新羅が「やがて対等外交を主張」するようになったから、両国関係はこじれてしまったのです。それが最終的には藤原仲麻呂が「新羅への征討戦争を準備」するくらいにエスカレートします。

(4)は、日本と新羅政治的には対立しつつも、経済的には交流が盛んだったという内容です。「新羅民間交易に力を入れ」ました。「新羅商人仲介し」、日本へ「唐や南方の宝物」をもたらしたのです。それは貴族たちが競って購入したがる垂涎の的でした。現在「正倉院に所蔵され」ている宝物も、そういうルートで輸入したものが多いのです。

  

教科書の読み比べをすることの目的は、なにも入試対応するためだけではありません。

例えば『詳説日本史』には、最初引用したとおり、「日本は国力を充実させた新羅従属国として扱おうとしたため、時には緊張が生じた」とか、「8世紀末になると遣新羅使派遣はまばらとなるが、民間商人たちの往来はさかんであった」という記述があります。この短い記述が伝えようとしていることの本当の意味は、『新日本史B 改訂版』(日B018)のような他の教科書と併読することにより、はじめて正確に把握できるのです。

  

ところで、この教科書の著者は、東大の先生が3人、京大の先生が1人です。本書だけに載っているネタを使って入試問題がつくられたのは、そのへんの事情もあるのかなと勘ぐってしまます

もしくは、これは2003年入試問題ということだから、ちょうど講談社の『日本の歴史シリーズ2000年2003年)が発行されていた時期ですし、そちらの内容を意識しているのかもしれないですね。一応、そっちのシリーズから引用しておきましょう。

国内及び新羅などの諸国に対する時と、唐に対する時とで天皇の顔を使い分けるという、まことにすっきりしない状況でもあった。このような努力・苦心を払って日本が手に入れようとしたのは、東アジアの有力国としては新羅より格が上、という地位の確認であり、また初期の遣唐使が唐の高宗蝦夷を見せたことに示されているように(『日本書紀』斉明五年七月三日条)、日本は隼人蝦夷などの異民族をも支配下にいれた大国かつ君子国であるという評価であった。いわば唐を盟主とする諸国の中での相対的に高い地位を求めるとともに、自らの小帝国であることを唐に認めさせようとしたのである。(石母田正天皇諸蕃』)

  

坂上康俊『日本の歴史05巻 律令国家の転換と「日本」』

さきにもふれたように、「日本国」は唐帝国との公的な外交関係では「天皇」の称号を用いることができず、実際には二十年に一度の使い――遣唐使――を送る唐の朝貢国位置づけられていたと考えられるが(東野治之「遣唐使船」朝日新聞社、一九九九年)、国号「倭」から「日本」に変え、「天」をつけた王の称号を定めたのは、唐帝国に対し、小なりとも自ら帝国として立とうとする意志であったことも間違いない。

実際、「日本国」は「蛮夷」を服属させる「中華」として自らを位置づけ、「文明」的と自任するその国制を、周囲の「未開」な「夷狄」におし及ぼし、国家領域を拡げようとする強烈な意欲を、その発足当初は持っていたのである

[中略]

このように、朝鮮半島に対しても圧力を加えて、朝貢を強要する姿勢を示す一方、「日本海」をこえてたびたび使者を送って交易を求めてきた渤海については朝貢国として扱うなど、「日本国」は自らを「中華」とし、帝国として四方に臨もうとしていた。しか東北侵略を止めた9世紀に入ると、こうした「帝国主義」的な姿勢列島外の世界に対する積極的な動きはしだいに退き、十世紀になれば、ほとんどそれは表に現れなくなっていく。

  

網野善彦日本の歴史00巻 日本とは何か』

日本が置かれている立場としては、唐への朝貢という屈辱外交をやめるためには、遣唐使派遣を中止するしかないわけです。しかし、日本は唐と断交して敵対的にのぞむ国力も、その覚悟もありませんでした。

いっぽう、遣唐使は唐の皇帝から賜った国書日本国王へ勅す)を持ち帰るわけにはいきません。日本が唐に朝貢していると認めることは、天皇の威信を傷つけることになるからです。

こうなると、実際には日本が唐に朝貢していることが明らかなのに、国内での建前としてはそれを否定してみせる必要が出てきます。要するに、「遣唐使派遣は朝貢ではない。天皇が唐に臣従しているという批判は当たらない」という建前をでっちあげ、国内的にはそれをゴリ押しすることで、この矛盾を乗り越えようとしたのです。

  

私がこのエントリ題名に「白紙に戻せぬ遣唐使」と付けた由来は、多分みなさんもご存知の、894年に遣唐使が廃止されたことを指す語呂合わせ「白紙に戻そう遣唐使」です。しかし、日本がほんとうに、この"遣唐使"的なるものを白紙に戻せたかというと、それは甚だ疑問です。為政者国内国外で異なる顔を見せたり、外交姿勢の実態と建前を使い分けているというのは、室町時代に明に朝貢して「日本国王」となった足利義満に、ほとんどそのまま適用できる視点だと思います

それに、このことは現代外交問題についても、重要示唆を与えてくれます。例えば政府国内に向けて愛国心ナショナリズムを煽っておきながら、それと同時に国外に向けて国際協調アピールをするというチグハグな状況は、まさにこの延長にあるんじゃないでしょうか。

あるいは唐側の視点で見ると、日唐関係はこんな見方もできるかもしれません。唐は日本がおとなしく朝貢するかぎり、細かいことに目くじらを立てなかった。唐としては蕃国をヘタに刺激して事を荒立てるより、多少その尊大なふるまいを黙認しておく方がメリットがあった。すなわち唐は日本と妥協しあって、朝貢関係があるとも無いとも、どちらとも言える状況を作りあげた。――こういう分析がどれだけ妥当か分かりませんけど、2国間に争いがあるとき玉虫色の決着をつけ、両国政府がそれぞれ自国民の耳に心地よい解釈で説明をしているというのは、これまた現代によく見かける話でしょう。

  

  

  

教科書の読み比べ

遣唐使についての解説が長くなりすぎましたが、じゃあここから、各社の教科書の読み比べをしていきます

  

実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)

遣唐使船はふつう「よつのふね」とよばれ、1隻に100人まりが乗りくみ、多い時で約500人の大使節団であった。

悪くはないですが、遣唐使について普通説明があるだけです。

おもしろい特色がありません。

無理に良い所探しをするなら、「よつのふね」という文学的呼び方を紹介し、その規模がいかに大きかったかを強調していることです。

華々しく飾り立てた大使節団というのは、それを送りだす側も、それを受け入れる側も、両国にとって国威発揚イベントになったと推測できますもっとも、沈没行方不明になることも多々あったので、華々しさとはかけ離れたのが実態だったかもしれませんし、どうなのでしょう?

  

  

  

桐原書店新日本史B』(日B 011)

  

……って、今回はここで文字数制限なのか。

引用をしていると、あっというまに文字数が膨らみますね!

つづきを書きました→ http://anond.hatelabo.jp/20170611234459

2017-05-25

http://anond.hatelabo.jp/20170525145352

ある意味、一昔前にあった「研究者異民族神聖儀式を見てもいいか問題現代版なのかも。

ほらあるじゃん余所者には見せられないと言われてる神聖儀式だけど、研究のためにどうしても見たい……! みたいな。

たぶん今の人類学では、外の人間が、異文化の人が大事にしてる儀式にズカズカ入っていっちゃ駄目ですよ、ということになってるんだと思う。

ただ厄介なのは、その異文化神聖儀式、昔は山奥とか孤島とかでやってたんだけど、今ワールドワイドウェブで全世界から見れるんだよね。

おたくとか腐女子とかの文化、本人たちにとってはすごい大事もので、外から踏み込んできてほしくないし、自分たち文化尊厳尊重してほしいと思ってるし、ついでに言うと昔偏見さらされてきたという過去もある。だからすごいセンシティブ存在、ああ見えても。

でもそれ、外からはよくわからないんですよね。

外部から見たら、そりゃウェブで公開されてる二次創作小説文芸誌に載ってる小説も同じに見えますよ。実際「自分で読まれたくて公開してる」作品もの。そういう意味では同じですよ。後者引用して分析してあれこれ論評していいものとされているんだから、そりゃ前者に対してもそうしていいと思いますよ。

後者への論評なり分析なりは、「トンチンカン批評言いやがって! くやしい! ころす!」みたいな反応を呼び起こすかもしれないけど、「学者がおれの小説分析するなんてゆるせん!」「身の危険を感じる!」みたいなことはあまりない。でも前者への批評はそう言われてしまう。これ、その文化全然知らない外部の人から見たら理不尽ことなんじゃないかな。でもやっぱり、調査対象から嫌悪・拒絶されるような分析は、やっちゃだめだよね。

研究者の扱える対象は増えているけれど、〈外からはそう見えないだけで実は地雷〉な研究対象も増えていて、そういう対象とどう向き合うか、というテーマなのかなあと思いました(こなみかん

追記

hachi09 でもその異民族にも普通アポイントとるもんでないの? 今回はそれすらないし知らぬ間に素材として調理されたことも踏まえておこなんじゃないのかな…

そりゃ異民族側がメアドさえあれば誰でも見られる場所で誰でも見られるように神聖儀式やってるんだからアポなしでも見ていいんじゃね? と思っちゃうのは仕方ないのでは。

2016-12-16

オタベックアルティンにかこつけて話をしたい

ユーリ!!! on ICE 、見てる?

オタベックアルティン、どう?

カザフ英雄」っていう字面を見て以来、ソワソワしていたものが、ユーリ・プリセキー友達になったあの瞬間に全てが弾けた。

カザフスタンを含む中央ユーラシア・テュルク系諸民族が持つ「民族英雄」の姿をはっきりと感じ取ったからだ。

カザフスタンは、歴史的にテュルク系諸民族が多く暮らしてきた土地である

遊牧騎馬民族繁栄した土地であり、彼らはテュルク系の言語と、それに基づく言語文化を持つ。

彼らの文化信仰あるいは歴史は、口承文芸によって伝承された経緯があり、口承文芸のうちの一大ジャンルとして数えられるのが「英雄叙事詩」と呼ばれる物語形態だ。

カザフに限らずテュルク系諸民族の中で広く伝播した『アルパムス・バトゥル』や、キルギス英雄叙事詩マナス』は邦訳出版されており、母語によって英雄叙事詩世界観に触れることができる。中央アジアを題材とした創作物でおそらく現在もっとも有名なのは森薫の『乙嫁語り』だろうが、作中に登場する馬などの名は、先述の英雄叙事詩にて確認できる。アルパムスやマナスとは叙事詩中での主人公にあたる英雄名前であり、英雄たちは作中でもっとも強く、激しく、時に美しい。

英雄叙事詩」の歴史形態などについては省略するが、重要なのはカザフの地に育まれ文化には「英雄」の存在を待望し、受容する姿があるということである

彼らは街や、施設などに英雄叙事詩中に見られる名付けをし、また街中では英雄の像を見ることもできる。余談ではあるが、キルギス首都ビシュケクに立つ騎馬マナス像の馬には、立派なちんちんがついている。あと動物園の馬もなかなかのブツをボロンしてる時がある。

さて、その英雄についてである

英雄叙事詩の主なテーマの一つに「外敵との戦い」がある。英雄が戦う相手は「異民族」や「異教徒であることが多い。たまに超自然的な怪物と戦うこともある。

敵対する異民族や異教徒を、英雄苛烈に打ち倒していくわけだが、全ての異民族や異教徒が敵となるわけではない。

英雄は、時に異民族友達になる。

英雄(オタベック)は、異民族(ユーリ)と友達になるのだ。

盟友となった異民族とともに、英雄さらなる敵を打ち倒していくのである

(英雄叙事詩中に現れる異民族は大抵がモンゴル系の遊牧騎馬民族な訳だが、細かいことはいいんだよ)

敵についても、少し話をしたい。

英雄異民族敵対し、彼らを倒して強さを示す。異民族の長との一騎打ちはしばしば物語クライマックスとなり、もっとも盛り上がるシーンであると言っても良い。

敵の王との一騎打ちである

YOIにおける王といえば、J.J.ルロワに他ならない。

11話でオタベックアルティン対峙したJJの姿は各位の記憶に新しいことと思うが、ここでもオタベックアルティンが持つ英雄性を感じ取ることができる。

そうして「勝利」を得た英雄は、やがて自集団を束ねる長となり、後世へと名を残す偉大な存在となるのだ。

英雄叙事詩はその他様々なエピソードによって構成されているので、興味を持った皆さんには是非読んでいただきたい。

ここまでの参考文献は以下の通りである

 坂井弘紀2002『中央アジア英雄叙事詩:語り伝わる歴史東洋書店

 坂井弘紀訳2015『アルパムス・バトゥル:テュルク諸民族英雄叙事詩平凡社

 若松寛訳2001『マナ少年篇:キルギス英雄叙事詩平凡社

 若松寛訳2003『マナ青年篇:キルギス英雄叙事詩平凡社

 若松寛訳2005『マナ壮年篇:キルギス英雄叙事詩平凡社

我々は幸運にも日本語でテュルク系英雄叙事詩に触れる機会を持った。最大の感謝をここに表す。

以下、蛇足

オタベックアルティンサマーキャンプを経てバレエからは離れたようだけど、彼はその後どこに行ったのだろう?

個人的に、例の演技終了時のポージングからコサックダンス(ホパーク)の匂いを感じた。

12話で明らかになるのだろうか、期待は大きい。

あと、「サマルカンド序曲」っていうタイトルも気になる。

2016-12-11

http://anond.hatelabo.jp/20161210025914

同性愛概念としていけないことだ、罪悪だというわけではない。

ただ少数派であること、弱い集団であるということは、攻撃される理由になる。

人間自分と違う相手不快に思ってしまう。

異文化異民族家族以外、身内以外、そういうのは敵になるリスクが高い存在から自然不安不快に感じる。

そして自分と違う価値観相手に対しても不安をかき立てられ不快になるもの

それでも個々人が少しずつ違っているジャンル(たとえば一人一人違う命を持っている、などだ)においては、全ての個人と全ての個人が互いに不快に思いつつも、結果としてバランスが取れてどこかに攻撃は偏らない。

たとえるなら、ビンの中に空気を入れて栓をした時、分子が一つ一つは内側からビンの壁に衝突を繰り返しているが、てんでばらばらの方向に突撃し合ってるから結果としてビンを動かすことはないようなものだ。

でも、民族とかセクシャリティとかみたいに、A集団とB集団などと認識やすジャンルで違いがある場合、A集団からはB集団への方向へ、B集団からはA集団への方向へ突撃の方向がそろってしまう。

それでもAとBの間にパワーバランスが取れていれば拮抗して攻撃が弱まることもある(泥沼の消耗戦になることもある)が、同性愛者と異性愛者の間には、マイノリティマジョリティという数の差が歴然とある

そして数差というのがパワー差である以上、弱い側がどんどん攻撃されるのはどうしようもない。

長ったらしく書いたけど要は、中学生が斜に構えて言うような「所詮この世は弱肉強食」ってのが、現代においても今なお根本原理だってこと。

マイノリティはいくら理想を語ったところで弱いまんまじゃマジョリティ迫害されるんだよ。

それが嫌なら仲間を増やしてマジョリティマイノリティを逆転させるか、頭数以外の武力とか経済力とか政治力みたいなパワーを持つっきゃない。

社会が何かの分野で昔よりも寛容になってると思うなら、それはその分野でかつて弱者だった層の人数が増えたか、力を持ってあん弱者じゃなくなって、対立側にいうこと聞かせられるようになったってだけ。

そんなん一般個人が何とかしようとしたって実現は大変難しいし、マイノリティ弱者になったらもうこの世は地獄ってことになるじゃないかと怒りたくなるかもしれんが、そうなんだよなあ地獄なんだよなあ。

はぁー生きるの辛い

2016-06-23

[]23(完):増田の眺望

 北方異民族を追い払ったことで増田島に泰平の世が訪れる。

共通の敵と戦ったことで各家にくすぶっていた敵愾心は冷却された。

それ以上に効果的だったのは増田家(八)が他の三家に送った軍目付の存在だ。

いざとなれば暗殺されるだけの存在みえて、彼らには赴任先の軍を「まじめに訓練する権限」が与えられていた。

増田家(五)の強硬な反対を押し切って付与されたこの権限によって、各家の軍隊雑魚ナメクジ化した。

 戦争を起こそうとしても雑魚ナメクジ同士のにゅるにゅるしたナメクジ試合になると悟って、

次世代当主たちは軍事面での野望を抱かなくなった。一方で海外から侵略者増田家(八)の戦略を洗練させた戦い方で、にゅるにゅると迎撃される事になった。

 最終的に増田島は以下の形に落ち着いた。

アルファマスダ家当主領国石高
増田家(八)大便公方(八)(六)半国(七)(九)560万石

 増田島の統一に中心的な役割を果たした増田家(八)は、石高にして全体の半分近くを領する。

増田島の中央位置するのをいいことに島中から名産品をかき集め、みやこの人間を飽食させる島最大の人肛を誇るうんこ生産国でもある。

 旧増田領(九)に運河建設して南と北の交流活性化平和の中でのさらなる発展を目指している。

 当主意向公衆便所の整備が熱心に進められ、多数抱える人口密集地が衛生的なことは海外商人にも感心されている。

 増田匿兵衛は自分戦争向きの人材だとして引退し、増田家(四)から預けられた増田五郎などの育成にあたっている。

 増田騎馬軍団は馬の機動力を活かして各地をむすぶ伝馬に新しい役目を発見した。

ベータマスダ家当主軍目付領国石高
増田家(四)鎮寇将軍(鎮北将軍あらため)増田出羽守(四)(一)(二)北半国(三)290万石

 増田家(四)は連合軍から制圧した旧増田領(一)を預けられる代わりに、(二)南半国を増田家(五)に、(六)半国を増田家(八)に割譲した。

ただし、海上の交易利権はより広く得ており、増田家(四)の廻船は大洋側でも盛んに活動している。

 当主北方異民族の来寇にそなえる意味公式に鎮寇将軍の名をたまわった。

狄人には和戦両様で対応し、彼らとの交易や旧増田領(三)を中心とする金山銀山の開発で豪華絢爛な文化を興した。

金製の馬糞ウニ模型など「出来は素晴らしいけど、なんで作ったの?」と言われる日々である

 増田家(八)はこの芸術品への対抗に金の雲細工を作らせた。後の金のうんこである

ガンママスダ家当主軍目付領国石高
増田家(五)東上管領増田金吾(五)(二)南半国(六)半国290万石

 まったく動かずに北と西から半国ずつ奪った増田家(五)は増田島全体の穀倉となった。

収穫期が訪れるたびに大量の穀物が北や西に送られ、ここでの穀物の出来が相場に大きな影響をあたえた。

 穀物の形で西に流出する栄養素を補うため、漁業によって得た魚を肥料にする方法が開発された。

その魚の栄養増田家(五)の穀物を食べた人々のうんこの形で海に流出し、潮に乗ったものであり、

ここに穀物うんこと魚(とプランクトン)を媒体とした元素の循環が完成した。

 また、受け入れたカラトラヴァ騎士団との交流増田家(五)を海の果ての国々との取り次ぎ役にした。

彼らは居住制限されながらも、布教と皮膚病を治す薬草の探査にあたっている。

 緯度が異なる旧増田領(二)の半分を手に入れたことは増田家を気象変動に強くして、飢饉の防止に貢献した。

なお、石高増田家(四)と互角ながら、鉱山商業収入では大差があり、文化的には他からゆっくりと遅れて行った。

デルタマスダ家当主軍目付領国石高
増田家(十)西国大宰相増田大学(十)(士)210万石

 増田家(十)は他の増田家に比べて独立性が低く、増田家(八)から干渉を強く受けている。

しかし、増田家(四)(五)の思惑もあって、第四の増田家として存在できている。

二位から四位の三家を足せば、石高では増田家(八)を上回るのである

 増田家(八)も西の外様大名を削るよりも、強い藩屏に育てる選択をした。

また、大陸との取り次ぎ役には歴史的増田家(十)が適任であった。

 歴代当主は気性のあらい増田家(士)の武士制御するのに苦労する。連中の雑魚ナメクジ化が増田大学最大の功績であろう。

その他

大名格の増田旗本格の増田商家になった増田消滅(吸収された)増田
(三)(九)(二)(士)(七)(一)(六)


 役目を終えた忍者たちは、走狗として煮られない自衛のために、集まって一つの村を作った。

文化背景の異なる彼らを結びつける手段として、俳句が盛んに利用された。

俳句でなくても「決まりきった単語」を用いて100文字以内で伝えるのが作法であった。

 より荒っぽい忍者コミュニケーション手裏剣を投げつけあった。

帰農した忍者が増えてから野良仕事に使う手斧活躍することもあったという。

 また、村内の政治的対立回避するためカラトラヴァ騎士団からもらった異国の犬が名目的な村長に推戴された。

村民独身おっさんばっかりだったので、将来性には乏しかった。

 ひとつの戦乱の果てに増田家は以上のように整理されたが、勝ち残った増田家が次々と分家増田家をつくったことは言うまでもない。世に増田の種は尽きまじ。

 なぜならこの世界未来のマースだ。

 そじゃーな!

前回

http://anond.hatelabo.jp/20160622000404

2016-06-22

[]22:増田の人望

最後まで負け戦とは締まらぬ結果じゃ……」

大事の前の小事にござりますぞ」

「うるさい、余は初陣であったのだぞ」

はいはい

はいは一回にせぬか。だいたい左翼に比べて右翼がふがいないのが――」

「まあまあ、そのあたりで……」

 地味な増田家(五)の当主最高司令官軍師の言い争いを止めた。

彼がいたことに驚いて、二人は口をつぐむ。増田家(五)の当主は汁をおかわりした。

 増田連合軍は敵味方あわせて三十五万の大合戦に敗れたが、そこからしぶとく反撃を開始した。

気がつけば、北の増峠は増田騎馬軍団に封鎖され、西は増田軍の本隊が、南は後衛部隊が何とか押さえている。

にゆいいつ残された東は増田島の脊梁山脈とその麓にうずまく樹海であった。

増田騎馬軍団は愛馬を屠って生肉を食べる状態になっても戦い抜き、北方異民族の連絡や離脱を阻止した。

南の後衛部隊も同様であり、彼らは補給線に繋がっているだけ抵抗が容易かった。

 いわば増田連合軍は「常山の蛇」となり、増田騎馬軍団が叩かれれば本隊と後衛部隊が、

後衛部隊が叩かれれば本隊が、本隊が叩かれれば後衛部隊が味方を援護した。

増田騎馬軍団には出撃するだけの余力は流石になかった)

 そして、異民族軍が入り込んだ樹海の中には緒戦で追い散らされた武熊たちが巣くっていた。

蛮族は獰猛な熊たちに急襲され、眠れない夜をいくつも過ごした。

「やっぱり武熊は頼りになるのう」と手のひらを返す増田もいたが、

合戦の内容はやはり増田の武熊への不信感を残した。

 増田の誇る忍者たちもこの「狩り」に投入された。増田家(四)の軒猿たちもおり、オールスター状態である

 ある日、薄暗い森の中、武熊さん出会った侵略者恐ろしい恐ろしい勢いでしとめられていく。

「を書くを書く」

デマの流布はゆるさん!原液を飲め。正しいソースはこれだ」

 発泡する元ソースにはバミューダトライアングルにおける魔の海水のごとく浮力がない。溺れる蛮族は沈んでいった。

 その隣では蛮族が熱湯落ちして煮られていた。

 野営地を小さなかわいい影が走り回っていた。気がつくと、蛮族は寝首を掛かれ額に「うんこ」と札を付けられていた。

「ウェーイ(先生、お願いします)」

 瞳を閉じた忍びが突撃してくる蛮族の前に立ち、至近距離で不気味な目をかっと見開いた。

目が合った敵の動きは硬直し、忍びが呪文を唱えると、一枚の何事か書かれた紙切れに化けてしまった。

 ブチの忍犬は茂みに武熊たちを集めて語った。

「この円い鳥たちはな、みなワシが描いたのじゃ(手裏剣ください)」

 興奮した武熊たちは習合すると合体して熱い鳥になり、羽ばたき一つで異民族を吹き飛ばした。

 七連手裏剣と山彦手裏剣から逃げる蛮族の前に全裸小僧があらわれた。

「けいお、しっこうする!!」

 その忍者の姿は見るたびに次々と変わり、本性を確かめるすべがなかったが、忍者としては普通だった。

 ある場所では夏なのに完全凍結した蛮族の死体が大量に発生した。

後に現場確認した増田出羽守は首をひねった。

「うーむ、ふーむ」

「にゃにゃにゃにゃなーん(ご主人様の顔なんてもう忘れたのにゃーん)」

 武熊の猫はすなわち熊猫(パンダである

探検隊をも壊滅させる力をもった熊猫部隊は、その熊猫の一匹に数えられただけでも二百匹を超えた。

彼らは第六指で異民族をつかんでは投げつかんでは投げしていった。

 その忍者増田忍者には珍しく五方手裏剣ではなく、四方手裏剣を用いた。

いや、よく見るとそれは十字の切れ込みが入った乾物であった。

「たべものをしいたげるな!」

 メガネをかけた好青年が木の陰から蛮族をみつめていた。みつめ続けていた。

「20162016!」

 好青年がどこまでも追いかけてくるので、蛮族の世界はいしかモノクロに染まった。

「~~」

 大脳が壊れた蛮族に忍びは何か気の利いた大喜利をささやいた。

忍者検非違使です。本来忍者呼称が現れるのは近世になってからです。軒猿も同時代資料では言われていません」

 戸惑う間に異民族ドナドナされた。

 森から延々と引き出される北方異民族死体をみて、床几に腰掛け当主のひとりがつぶやく

「これではまるで虐殺ではないか……」

 匿兵衛が答えた。

増田島におけるいくさとは本来このようなもの。それでも上様方はもっと御覧になりたいと仰せられるか?」

 アルファマスダたちは揃って首を横に振った。

 別の場所では女神?が現れていた。彼女は低音から高音までノイズのない深みのある声で言った。

「ぼいんは必要ないのです」

 パァアアアアと光が異民族たちに突き刺さり、ヒンニュー教に改心した彼らは増田軍に降伏した。

「神だ!神が降臨された!!」とカラトラヴァ騎士団は大騒ぎした。

 よく知らない宗教気持ち悪い。

 正規兵の部隊も掃討戦に参加している。

その時、増田左混はめずらしく言葉の通じる蛮族と対峙していた。

「俺は降伏しないぞ」

 傲然と胸を張る敵を左混は一喝した。

「武装をつけようとする者は、武装を解く者のように誇ってはならない」

 大人対応に話の通じる異民族は恥じ入った。

 合戦から六日目に、晴れ時々鯖が降った。傀儡使いのまじかる系軍師はそれを吉兆と占った。

 事実北方異民族完膚なきまでに壊滅したのだった。増田領(一)の奪還がなされるのは、一月後のことである

 自意識過剰金髪縦ロール忍者は化粧に二年五ヶ月、自画像角度とかの調整に一年が掛かってしまったため、参戦が間に合わなかった。

 みやこで同時代史料遊戯日記」を書き続けている公家は、伝え聞いた密林での戦いを以上のごとく記した。

前回

http://anond.hatelabo.jp/20160621021245

次回

http://anond.hatelabo.jp/20160623220130

2016-06-21

[]21:増田公方

 一年以上の準備期間を費やして増田連合軍北方異民族追討の兵をあげた。

遠征軍には中心的な増田四家の当主がすべて参加し、統治の安定ぶりを誇示している。

会談では他家に強敵を任せる流れだった増田家(四)も戦後立場を考えれば一家だけ参戦しない判断はできなかった。

そこまで読んでの決断なら増田家(八)の当主は大した奴だと、ちんぽこ将軍は半ば安心していた。

 遠征軍には他の増田家に連なる人間も、北は増田軍(三)ごと降伏した増田家(一)の亡命武将から

南は降伏以来実家に帰っていない増田家(士)の敗戦処理当主まで参加していた。

増田家(六)は増田家(四)の当主兼任

 彼らの総兵力は二十万に達する。まさに増田島の総力を結集した史上初の増田連合軍と言えた。

 二十万人の増田増田領(一)と増田領(三)の境界をなす増峠、その南に広がる大きな盆地邀撃の陣を構えた。

 増峠を越えてやってきた北方異民族軍勢が、平原の北を赤黒く染める。

傭兵を導火線に、全球的な寒冷化に押されて、南下してきたなどの同情できる動機は彼らになく、欲得ずくである

北方異民族支配階級は南からイノシシの子供を輸入し、

肥育したものを潰して塩漬けにし、金の容器に封入保存する風習で知られていた。

 これは缶詰の起源ともされるもので、彼らの文化はともかく、技術は決して侮ることはできない。

また増田島にはない特有兵科を持っていた。

 ?騎兵である

増田島の住民が知らない角のやたらと大きく広い動物?を騎乗可能品種改良したもの騎兵で、威圧感は馬の比ではない

中にはチャリオット形式の敵もいて、赤い服をまとった御者の姿は、何故か増田たちの本能的な殺意を呼び起こした。

 両翼に展開した?騎兵相手取るのは、カラトラヴァ騎士団増田騎馬軍団だ。

尤も、彼らの数はどんなに集めても合計で五千を超えないので左翼に集められている。

右翼には各家から集中された騎乗士を、前列に配置された武熊が補強する状態だった。

 目算では敵の?騎兵は左右共に一万から一万五千。これに数千の軽装歩兵が加わっている。

味方は右翼騎乗士一万に武熊五十頭、左翼騎士団三百に騎馬軍団四千五百、その他が五千であった。

 バックボーン構成する歩兵の数では増田連合軍が確実に上回っている。

上回るように動員し、補給体制を整えてきたのだから劣勢だったら大問題であった。

前衛言い出しっぺの法則増田家(八)本国衆四万がつとめる。指揮官増田出羽守

「このいくさに勝てば、殿が増田家(四)の姫を紹介してくれる……」

 独り言をつぶやいているのは、おめでたいからではなく、恐怖をまぎらわすためだ。

十万人に迫る目前の異民族

https https」「スマフォ」「ニッキニッキ」「タノシクタノシク」

などと口々に意味不明言葉供述しており、受け身の意識でいると狂気に引き込まれる。


特にwww」や「//」と笑ったり恥ずかしがったりしている輩が憎々しいでござる。

 笑ったり恥ずかしがったりできなくしてやるでござる!」

 増田出羽守の後方で増田家(五)の先鋒をつとめる増田左混は言った。

江川の敗北で一時干されていた彼であるが、大軍をひきいた経験はやはり貴重なため、起用されていた。

彼は転がり込んできたカラトラヴァ騎士団と合同訓練を積むことで戦術視野を広げていた。

 中軸を構成する増田軍(五)全体の兵力比較戦場に近いこともあり五万を数える。

彼らの領土は一度も本格的な戦闘舞台になったことがなかった。実に幸せな家であった。


 増田左混の右手には増田家(四)を中核とする歴戦の精鋭たちがいた。

「昔は傭兵にしていたくらいで話が通じる連中だったので候が、そやつらがさらに遠方の異民族まで呼び集めたようでござる」

 増田家(一)の亡命武将が、当主説明する。峠の向こうが冬の間に地獄になったことを想像しながら、

長い準備期間を耐えてきた彼はこのいくさで退くなら果てる覚悟を決めていた。

 戦意の高すぎることが心配される増田軍(四)は合わせて三万であった。

なお、増田軍(四)には旧増田領(二)などに展開している他の部隊存在する。

「ついに増田島を縦断してしまった……」

 反対側の中央左翼よりには増田家(十)の当主がいた。故郷が遠く、別に海上輸送負担があるため、彼らの軍役は軽い。

武熊がトラウマになっている旧増田家(九)家臣団も寄騎につけられて総勢三万だった。


 最後増田家(八)当主がひかえる後衛には、四万人が集まっている。

輜重兵が一部混じった雑多な集団であり、味方にはあまり期待されていなかった。

「この地は我々のシマだ(お腹グルグルしてきた……)!!」

 実はこの当主戦術レベルで戦いに参加するのは初めてだった。


 最初に動いたのはもう一つの部外者であるカラトラヴァ騎士団だった。

恐怖を知らない騎士たちは三十倍を超える敵にむかってまっすぐ突っ込んでいく。

「キホウキホウ」「ツカエツカエ」

 敵はおめきながら迎撃の体勢を整えた。先頭をはしる騎士団グランドマスダーは異国語で部下に叫ぶ。

「カラコール戦法だ!」

 彼が槍を掲げると騎士たちは一斉に顔を左手のあらぬ方向にねじ曲げた。そちらに指をさす。

「「あっ!!?」」

 言語の壁を通じて通用するしぐさをみて、?騎兵たちは一斉に右手をみた。

「「??」」

 何もないことを不審に思って視線を戻した先には視界一杯の白銀騎士たち。

 ごあ、ぐあっしゃゃあああああん!!

 耳を聾する轟音をかなでて敵味方が激突する。?の大きな角も馬にまで装甲を施したカラトラヴァ騎士団相手には障害にならず、敵の右翼は切り裂かれた。

 彼らがこじ開けた突破口を五千の騎乗士が拡張する。一方、増田騎馬軍団は大きく左に回り込む機動をおこなった。

騎士のいない反対翼の戦いは増田連合軍の有利には展開しなかった。

「com.com.」

 ?チャリオットが耳障りな音を立てて迫り、旋回しながら武熊に矢の雨霰をふらす。

「ぶおっ、まおっ」

 武熊たちは腕で頭をかばい、いやいやをした。さらに射られるとたまらず敗走する武熊が現れる――味方の方向へ。

「こっちくんな!」

「やっぱり武熊は増田の敵」

「敵に回すと恐ろしいが、味方にしても頼りないっ!」

 武熊とハサミは使いようなのだが、右翼騎兵勝手なことをわめいて混乱をきたした。

そこに?騎兵たちが威勢よく突っ込んでくる。

「「うわあああああっ」」

 戦場東側での戦いは幸先の悪いものになった。

「すべての増田が我らの背中をみているぞ!」

 増田出羽守は由緒正しいスカラベの前立てを部下に向かって反射させ、刀で敵を指し示した。

五万の雑魚ナメクジがうねうねと敵に向かって進む。時折、敵味方の矢が飛び交い、飛翔音が恐怖を煽り立てる。

至近距離に近づいたことで増田兵は黒い毛皮をまとった敵の中に、本物の生きた毛皮が混ざっていることに気付いた。

「敵の武熊だ!」

「いや、セルクマだ!」

 そいつの身体は増田島の武熊より一回り大きかった。しかも、暴れた時の危険無視して敵兵が大武熊の近くにまとわりついていた。

増田たちはさっそく脱糞する。それでも槍にすがってへっぴり腰で向かっていく。

「イチランイチラン!」「モウケモウケ!」

 異民族は突然騒ぎだし増田の肝をつぶした。ほとんど気を呑まれ状態中央での戦いがはじまった。

右翼の連中は何をやっておる!」

 増田ちんぽこ将軍右翼崩壊をみて叫んだ。事前に打ち合わせた作戦があっさり台無しになってしまった。

「右を向けぇい!」

 烏合の騎兵集団を破砕した敵の?騎兵が奇声をあげて駆け寄ってくる。三万の歩兵は味方の右側面を守るために戦いはじめた。

「やっぱダメだ~~っ」

 同じ頃、中央でも増田家(八)軍団が後退に追い込まれていた。

あれだけ意気込んで進んだのに、撃退されるとは情けない。

負け上手の増田出羽守は無理して流れに逆らうことはせず、部下と一体になって逃げた。

「姫との結婚は無理でござるな……」

 敵の中央はいきおいに乗って増田連合軍を追ってきた。増田家(五)が汚れた尻拭いに割ってはいる。

「必ず負ける兵は必ず勝つ兵と同じ。やはり、軍師にとっては使いやすいわい」

 増田匿兵衛はうそぶいて銅鑼を鳴らせた。前衛が引き出した敵を左右の歩兵が側撃する――計画だったのだが、右側は?騎兵への対処必要だったため機能したのは左側の増田家(十)軍団だけだった。

「放てぇ~~っ」

 自慢の手銃が火を吹き、防備の薄い斜め右から撃ちまくられた蛮族がバタバタ倒れる。

コミュニケーション不能な連中もさすがに怯んだ。そこに増田家(士)の尖兵が斬り込んでいく。

「……この兵があれば天下も狙えたはずでござるが」

 自分のではない脱糞臭いがして、増田中弐は邪念を追い払った。

 戦場西側では増田軍が圧倒していた。鋼鉄戦士たちが?騎兵中央を食いちぎる一方で、増田騎馬軍団が側面や背後に回り込み、騎射で滅多撃ちにする。

増田島の湿潤な気候が蛮族の合成弓にあわなかった影響もあり、一方的射撃戦になる。

 このまま敵の後方を回り込んで、東の騎兵戦も勝利に導けば完勝。

そんな、計画だったのだが、味方の右翼時間稼ぎに失敗したため計画根本から狂っている。

喧騒の中、増田騎馬軍団指揮官たちは、その事実を忍びに聞かされた。

「父上!」

 ある増田騎馬が北を弓でさした。増田典厩は頭をつるりと撫でる。

「まったく、とんだぢゃぢゃ馬ぢゃわい……」

 増田騎馬軍団はじゃじゃ馬が導く方へ進んだ。

 増田軍(四)は敵左翼騎兵の攻勢をしのぎ続けていた――むしろダメージは?騎兵の方が大きかった――が、

動力にまさる敵の動きを拘束することはできず、敵左翼の一部はついに本陣にまで乱入してきた。

精強な増田軍(四)に近い右寄り本陣をおいた方が安全という読みが裏目に出た。

「うろたえるな。うろたえるではない!」

 と叫ぶ増田家(八)当主が一番うろたえていた。尻は腸そのものを体外に排出してしまった感触だ。

ナマコならそれを囮にして逃げるのだが、最高司令官ともなれば、そういうわけにもいかない。

「ipip!」

 馬廻りが角の派手な?騎兵相手にしている間に、随伴していた軽装歩兵が足下まで迫ってくる。

「ひかえろ、下郎が!!」

 当主悲鳴をあげると、腰の大業物を抜いて、一刀のもとに小鬼を斬り捨てた。

!?

「://」

 敵は一瞬硬直する。増田家(八)の当主はかつて伝説的な剣士師事し、

免許皆伝を受けた腕前であり、その太刀筋は異様に鋭かった。

「ぬりゃ!てりゃっ!」

 漏らしながらも、バターのように雑魚ナメクジを斬りまくる。

「それ以上、いけませぬ」

 太刀が刃こぼれだらけになったところで馬廻りが主を止めた。四万の後衛は?騎兵を軒並み倒しおえていた。

普段輜重を護衛している彼らが、増田家(八)では最精鋭なのであった。

輜重が奪われない信頼があるからこそ、増田軍(八)は安心して戦えた(負けられた)。

そして、彼らが防衛された食糧を期待して本隊への合流を目指すことで全体が敗北から早期に立ち直るのであった。

 だが、やはり実戦経験の乏しさは問題であり、頭領がみずから戦う事態後衛はそうとう混乱していた。

そんな最悪のタイミングで敵中央から東にこぼれた大量の歩兵軍団が襲いかかってきた。

 最初東西に引かれていた戦線はいつのまにか、南北に引かれる状態になっており、本陣最右翼最前線だった。

敵味方が増田左混が戦っているあたりを中心にして、回転扉のように右回転した結果である

「ここは一旦、お引きを」

 増田匿兵衛が進言する。当主は言い返しかけたが考えを改めて軍師にしたがった。

くそっ」

 当主の隣で馬を攻める軍師は尋ねた。

「お腰の物は味噌ですかな?」

「……たわけ。うんこに決まっておろうが」

「某もでござる」

 見ると増田匿兵衛も漏らしていた。

 大将敵前逃亡したことで増田連合軍士気は低下、思い思いの方向に退却をはじめた。

あくまでも退却をこばんだ増田家(一)の旧臣たちは敵に突入して討ち死にを遂げた。

「むごい……」

 と漏らしつつも、増田家(四)の当主も、死兵の抵抗を利用して戦場から離脱した。

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2016-06-20

[]20:増田の大望

 最後まで主体性をたもって生き残った二つの増田家。

増田典厩の尽力により、その当主会談が旧増田領(六)で開催される運びとなった。

 二人はそれぞれ供をひとりだけ連れて、竹林にしつらえられた厠の中へ入る。

 帯を解くと、コの字型に並べられた便器にむきあう形で腰掛けた。

「見事な海綿じゃのう」

 増田匿兵衛があたりさわりなく厠の設備を褒めた。

増田家(四)が用意した厠には天窓から竹林を通した光が入り、ほのかに緑色づいて見えた。風も緑に香る。

尻の下から聞こえるせせらぎは大きすぎず小さすぎず、意識リラックスさせてくれる。

自然石のモザイクヘクソカズライヌノフグリなど、野草の絵が壁に描かれ、密室でありながら開放感を演出していた。

 遙か西から伝わった公共トイレ文化増田島で洗練を極めた結果うまれた「便道」、その粋を凝らした厠と言えた。

 便道は権力者にとって便利であり、内密の話をするため多用された。

帯をほどいて便器にまたがるという無防備状態晒し合うことで親密さを高めることもできる。

出シニケーションである

 実際、漏らしても粗相にならずに済む増田家(八)当主は落ち着いた様子だった。

まずは互いの大勝利を称え合う。繊維製品交易を通して二人の間には面識があった。

思えば最初から国境が接していた二家が生き残ったのも不思議めぐり合わせである

 増田家(四)当主が連れ込んだ小姓の増田五郎は固唾を呑んで交渉を見守っていた。

どちらも淡々とした様子で、天下の未来を決める事柄に触れていく。

増田中弐殿はお忙しいようだ」と一方が言えば、

他方は「いきなり領国が三倍にも増えて大変でしょう」と皮肉った。

「三倍……?」

増田五郎は首を傾げた。国数でも石高でも彼らの領地は三倍よりも四倍の増加と言う方がふさわしいはずだ。

 しかし、増田家(四)の当主は小姓にしかからないレベルで表情を強ばらせていた。

「前から提示した条件を受け入れていただけないのなら、代わりに増田領(一)の平定は我らが引き受けましょう」

 増田匿兵衛は膝をつめて核心に触れた。

「……ッ」

 内外に秘密にしていたこであるが、増田家(四)は未だに増田島最北部を平定できていなかった。

 増田家(一)の遺臣が抵抗しているわけではない。

実はかつて傭兵に呼ばれた北方異民族が混乱につけ込んで大量に流入し、容易には討滅できない状況になっているのだ。

 激戦と領土の急速な拡大で疲弊した増田家(四)に、この敵の早期撃破は手に余った。

実は彼らは仮装敵以上に講和必要としていたのだ。

 だが、増田家(八)はおおよその真実を突き止めていた。なんのことはない。

カラトラヴァ騎士団国外情報源と彼らを繋げたのである

残念ながら世界的な視野もつことで、増田家(四)は遅れをとっていた。

 とはいえ、増田家(四)当主一筋縄でいく男ではない。

「では……お願いする」

「えっ!?

 ぶりぶりという謎の音と一緒に、素っ頓狂な声を増田家(八)当主があげた。

内情を知っているとの脅しを素直に受け入れられるとは思いもしなかった。

 いやな予感がした増田匿兵衛は尋ねた。

北方異民族の数はいかほどになるのです?」

「十万じゃ」

 増田匿兵衛も漏らした。

 とりあえず持ち帰ると思ったのだが、増田家(八)当主はその場で自分たち言葉責任もつことに決した。

「これからもよろしくお頼みもうす、ちんぽこ将軍殿」

軍師と連れだって、すっきりした顔で厠から出て行く。

本当にこれで良かったのか、増田家(四)の当主が悩む番になった。

 彼はつぶやいた。

「それにしても、本当に致すとはな……」

「便道」は排泄の形をとるものであって、実際に排泄をすることはイレギュラーに近い。

あるいは小だけで済ますものだ。

だが、敵の首脳は手慣れた美しい所作で海綿や和紙を使って行った。

「まさしく「大物」にございますね」

 増田五郎は緊張でカラカラになった口をやっと開いた。当主ちょっと笑うといきんだ。

「ふんっ!」

 彼の下から聞こえるせせらぎが変化した。最強の武将うんこでもって自らが流されないと示唆したのである

聡明な小姓は主君意図理解した。

「お美事にございます

 だが、

「……切れた」

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2016-06-07

[]:00 増田の路傍

 かつて十一を数えた増田家のうち、すでに四家が領土喪失した。

 明日は我が身に同じ苦難が降りかかることを恐れず、あるいはその恐怖から逃れるために

残る七家は自分以外の増田家を滅ぼす方途を探っていた。

 最北の増田家(一)は、せっかく手に入れた増田領(二)を増田家(三)に奪われ、増田島の北に押し込まれている。

 そこで、ゆいいつ残された海路増田家(四)と連絡し、増田家を挟撃することを目標にしている。

 だが、増田家(四)は他方面も抱えており、なかなか色よい返事をしてこない。

 増田家は足りない兵力を補うため、豊富資金放出して北方異民族傭兵にしはじめた。

だが、それは家中火種を増やす危険行為でもあった。

 主な戦力:譜代衆、旧増田(二)衆、傭兵軍

 滅びた増田家(二)であるが、落城前に降伏したため、当主以下おおくの人物が生き延びている。

 現時点の増田島では城主切腹の代わりに城兵を助命する風習はさいわい存在していない。

そもそも攻めた増田家と守った増田家も親戚なので、あまり目覚めの悪いことはできなかった。

 旧増田領が失陥したあとも、旧増田衆の大半は人質がいるために、増田家(一)で働かされている。

しかし、根無し草使い走り状態に耐えかね出奔するものが後を絶たない。

 サバイバル成功した増田家(三)は、被害をおさえて増田家(一)を確実に詰め、

背後を安全にしてから南進する方針である

地道に南北軸の鯖街道を一層整備して増田家(四)の急襲や北方三家統一後の兵力移動に備えている。

 現状では増田家(一)との海上での戦いが最も激しかったりする。

 主な戦力:譜代衆、カラトラヴァ騎士団、旧増田家(二)国人衆水軍

 恐ろしき当主がひきいる増田家(四)であるが、周辺諸国に比べると勢力の伸張に劣る結果になっている。

 最初につぶして手に入れた増田家(六)領は四方に通じる土地であり、

狭隘土地から得られる利益に比べて防衛コストが高くついた

はてな騎兵の一部が使える状況は維持している)。

 土地交易路に活かせればよいのだが増田家(七)が潰れてしまったことで、その意味も失われてしまった。

増田家(八)が商売相手なら大量輸送可能海路を使えばいいのである

 仇敵である増田家(五)との休戦を何とか成立させたが、敵意は残留しているため、

まだ北にも南にも進めずにいる。

 主な戦力:譜代衆、国人衆増田騎馬軍団水軍

 プリンセスめいキング定評のある(新情報増田家(五)は、はやばやと地方勢力としての生き残りを模索しはじめた。

 彼らが陰に依る大樹に有望視しているのは前から繋がりのある増田家(三)であるが、

国力差が大きくなりすぎたら家臣扱いされてしまう。発言力を確保するためにも戦力増強は必要なのであった。

 しかし、現実は西で接する増田家(八)からの散髪的な攻撃を受けはじめ、領土は守り通しているものの、

消耗戦により頭が寂しくなりはじめている。

 主な戦力、一門衆、譜代衆、足軽軍団、旧増田家(六)国人衆

 無惨にも最初に滅びた増田家(六)の名跡はいちおう姫を捜し出した増田家(四)が継いだ形になっている。

だが、増田家(五)も縁のない土地こじつけで治めるノウハウ豊富なので、内政状況は悪くない。

いずれ旧増田領が大規模な戦場になることが多くの島民に予想されていて、人口流出が進んでいる。

 主な流出先であった増田家(七)が先に戦場になったのは皮肉であるが、そこから人が戻ってきているわけでもない。

 占領されたて増田家(七)領では、増田家に保護されていた宗教が水面下で一揆の準備を進行させている。

領主自分たち既得権益に少しでも手を入れられたら実力を誇示する構えだ。

それどころか、領主が変わったのを奇貨として、権益ではなかったものまで既得権益に組み込もうと図った。

 さいわい増田家(七)の公文書が無事だったため、それには失敗したが、

頭の弱い雑魚ナメクジ当主を言いくるめて増田領(八)での布教活動を認めさせた。

 軍事方面では北方国境要塞には占領軍支配に抵抗する旧増田家(七)の武将も一部に存在する。

しかし、皮肉にも旧主が地方軍の反乱をおそれて中央集権体制を構築していたため、

独自補給する組織のない地方軍の抵抗は長続きしないもの観測されている。

 増田家(八)成功体験によって妙な自信をえた。それがプラスに働くか、マイナスに働くかはまだ未知数である

占領行政関係もあり、元々強かった文官人材(ただし彼らも戦場に立つ)の力がいや増している。

 当主は「領内の全公衆便所に紙運動」をはじめた。財政的に無理なので相伴衆当主に先回りして誤魔化している。

 「東に進み、西は防御」の方針だけは当主が便所でうなりながら確定させた。

 主な戦力:官軍譜代衆、地侍衆(草を含む)、傭兵軍団、水軍

 主な家臣:増田大学増田出羽守増田金吾、増田中弐(元増田家(十)当主)ほか

 動きの鈍い増田家(九)であるが、増田家(士)の圧力が刻々と増しており、

東での火遊びをする余裕が失われつつある。

 彼らには戦力を集中して決戦に勝利するしか生き残る道はない。

国力の差を領内で戦い補給を円滑にすることと、内線作戦による各個撃破で埋める計画である

 主な戦力:一門衆、国人衆水軍

 主な家臣:増田うこん

 陥落した増田家(十)領地は、剽悍で飢えた増田軍(士)が賢者モードに入るまで散々劫掠された。

 中心地の増屋を筆頭に先進地域ダメージはきわめて大きく、他の地方へ散っていった住民も多数にのぼる。

 だが、増田(十)領といえども人口の大半を占める層は他の地域と大差のない一次生産者の人々であり、

彼らは日々、増田家(士)の支配に組み込まれていった。

 増田家(士)も一度破壊しているが、全体が文明価値に暗いわけではなく、

いから生き残った文物の利用を図っている。

 元当主増田家(八)に加わり再起を図っている。後から彼の元につどう旧臣も多い。

 増田家(士)に迷いはなかった。彼らにとって天下統一とは目の前に現れる敵を倒し続ければ自然成るものなのだ

 主な戦力:一門衆、譜代衆、増田領(十)国人衆

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開始時点

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増田地図(勢力色塗り分け品はこちら(外部)

                           増田

                           /\

                         増田 増田

                         |  / |

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                        / |\  |

                      増田-増田-増田

                    /  \ /

              増田増田   増田

               \  /

                増田

2016-01-15

anond:20160113194003

秦:中央集権化による兵力削減と法律厳罰化により各地で反乱勃発

魏:皇帝親族暴政に有力貴族クーデター皇帝から貴族権力移行

明:暗君と国の財政破綻により崩壊異民族に乗っ取られる

清:欧米列強による植民地侵略で弱体化、各地で反政府勢力が立ち上がる

2016-01-14

中国歴代王朝対策と結果」に期間と補足を追記してみました。

http://anond.hatelabo.jp/20160113194003

元増田面白かったので期間と()で補足を追記してみました。

王朝期間対策結果
257王が諸侯領地を与え、諸侯世襲でその領地を治める 諸侯の力が強くなって群雄割拠となる
19領地皇帝の直轄とし、皇帝が任命した官吏がその領地を治める 中央集権に対して地方から反発が起こる(陳勝呉広の乱)
前漢225中央は直轄とし、地方皇族世襲としつつ、徐々に皇族の力を削る 皇族の力が弱くなったことで外戚が専横(新朝建国
後漢161外戚の専横を抑えるため、宦官を重用する(皇太后竇氏の垂簾政治外戚に代わって宦官が専横
後漢36宦官の悪政に対する反乱(黄巾の乱)を鎮圧するため、地方豪族たちを登用する 地方豪族が強大化して群雄割拠となる(三国時代
19地方豪族の力を弱めるため、官吏地方人材推挙するよう改める 官吏人事権を握るようになり、上級官職を独占して貴族化する
26後継者争いを防ぐため、皇族の力を制限する 皇族の力が弱まったことで、国を有力貴族に乗っ取られる(高平陵の変)
39皇族の力を強めるため、皇族優遇する 皇族同士の内乱が起こる(八王の乱
12皇族同士の内乱に勝つため、異民族の助けを借りる 異民族に滅ぼされて群雄割拠となる(永嘉の乱
南北朝 84異民族が国を建て、統治のために漢民族同化する 異民族の気風を残す辺境軍閥が反乱を起こして国が分裂する(六鎮の乱)
南北朝 66軍閥の代わりに徴兵制に改めて、辺境防衛を任せる 領土が拡大すると遠く離れた辺境兵士を送るのが難しくなる
29貴族解体するため、試験によって官吏を登用するように改める(科挙教養のみを重視して実務を軽視するような文弱化を招く
289徴兵制では辺境防衛が難しいため、募兵制に改めて辺境軍隊を置く 軍閥化して反乱が起き、群雄割拠となる(五代十国時代
167軍閥が力を持たないよう、中央官吏の力を強める 文弱化して異民族に敗れる
89漢化して弱体化しないよう、異民族の気風を保つ 差別された漢民族の不満が溜まって反乱が起き、群雄割拠となる(紅巾の乱)
276外戚排除して皇帝独裁体制を構築する 暗君が続いて弱体化し、異民族に敗れる
268漢民族統治するために漢化する 漢化して弱体化した国軍では反乱(太平天国の乱)を鎮圧できず、代わって活躍した義勇軍軍閥化して専横

2016-01-13

中国歴代王朝対策と結果

王が諸侯領地を与え、諸侯世襲でその領地を治める諸侯の力が強くなって群雄割拠となる
領地皇帝の直轄とし、皇帝が任命した官吏がその領地を治める中央集権に対して地方から反発が起こる
前漢中央は直轄とし、地方皇族世襲としつつ、徐々に皇族の力を削る皇族の力が弱くなったことで外戚が専横
後漢外戚の専横を抑えるため、宦官を重用する外戚に代わって宦官が専横
後漢宦官の悪政に対する反乱を鎮圧するため、地方豪族たちを登用する地方豪族が強大化して群雄割拠となる
地方豪族の力を弱めるため、官吏地方人材推挙するよう改める官吏人事権を握るようになり、上級官職を独占して貴族化する
後継者争いを防ぐため、皇族の力を制限する皇族の力が弱まったことで、国を有力貴族に乗っ取られる
皇族の力を強めるため、皇族優遇する皇族同士の内乱が起こる
皇族同士の内乱に勝つため、異民族の助けを借りる異民族に滅ぼされて群雄割拠となる
南北朝異民族が国を建て、統治のために漢民族同化する異民族の気風を残す辺境軍閥が反乱を起こして国が分裂する
南北朝軍閥の代わりに徴兵制に改めて、辺境防衛を任せる領土が拡大すると遠く離れた辺境兵士を送るのが難しくなる
貴族解体するため、試験によって官吏を登用するように改める教養のみを重視して実務を軽視するような文弱化を招く
徴兵制では辺境防衛が難しいため、募兵制に改めて辺境軍隊を置く軍閥化して反乱が起き、群雄割拠となる
軍閥が力を持たないよう、中央官吏の力を強める文弱化して異民族に敗れる
漢化して弱体化しないよう、異民族の気風を保つ差別された漢民族の不満が溜まって反乱が起き、群雄割拠となる
外戚排除して皇帝独裁体制を構築する暗君が続いて弱体化し、異民族に敗れる
漢民族統治するために漢化する漢化して弱体化した国軍では反乱を鎮圧できず、代わって活躍した義勇軍軍閥化して専横

2015-10-16

世界の名争50戦

前1285カデシュの戦いエジプトの大ファラオ・ラムセス2世と、製鉄技術で名高いヒッタイトの王ムワタリの戦い。戦況が膠着状態に陥った後、ムワタリが停戦を申し入れ、ラムセス2世が受諾した。これは記録に残る最古の戦争であり、記録に残る最古の平和条約でもある。
前479プラタイアの戦い古代ギリシアペルシアの一連の戦争における決戦。数十万を誇るペルシア軍の攻勢を、一万のスパルタ軍だけで防ぎ止め、押し返し、打ち破った。これによりギリシアからペルシア軍は駆逐され、スパルタは前年のテルモピュライの戦い(映画『300』で有名)の雪辱を果たした。
前371レウクトラの戦い古代ギリシア都市国家テーバイスパルタの戦い。テーバイのエパメイノンダスが編み出した、兵力を左翼に集中する戦術「斜線陣」により、精強を誇ったスパルタファランクスは打ち破られた。皮肉にも、後に斜線陣はテーバイではなくマケドニアに伝わり、ギリシア諸都市はその戦術によって敗れ去ることになる。
前331ガウガメラの戦い「大王」アレクサンドロス3世率いるマケドニア軍とアケメネス朝ペルシア軍の戦い。マケドニア軍の重装歩兵ペルシア軍を受け止めているあいだに、アレクサンドロス自らが率いる騎兵がペルシア軍にできた間隙を衝く、いわゆる「鎚と鉄床」戦術によってマケドニアが勝利し、大国ペルシアは滅びた。
前260長平の戦い中国の戦国時代、趙の老将・廉頗の持久戦術に手を焼いた秦は、情報工作によって廉頗の悪評を流し、若い趙括と交替させた。趙括は勢い込んで秦との決戦に挑んだが、秦の名将・白起によってあっけなく包囲殲滅された。四十万人の捕虜が虐殺されたという。秦の中華統一の過程において最も大きな勝利の一つである
前216カンネーの戦いアルプスを越えてイタリア半島に侵入したカルタゴの名将・ハンニバルが二倍の兵数のローマ軍に大勝した戦い。中央の歩兵が敵を受け止め、両翼の騎兵が敵側背に回り込む、「包囲殲滅」戦術の鮮やかな見本として史上に名高い。しかし、そのハンニバルも後にザマの戦いで敗れ、地中海の覇権はローマのものとなっていく。
前202垓下の戦い秦が倒れた後、中華を二分して戦っていた楚の項羽と漢の劉邦は、互いに疲弊したことで和睦を結んだ。しかし、劉邦は直後に盟約を破り、引き上げる楚軍に襲いかかった。「四面楚歌」となった項羽は、最後の力を振り絞って包囲を破るも、衆寡敵せず自害した。天下は漢のものとなった。
前48ファルサルスの戦い古代ローマ代表する二人の軍事的天才、カエサルポンペイウスの戦い。カエサルは、包囲を狙うポンペイウスの騎兵を重装歩兵で囲い込み、投槍を投げずにそのまま騎兵の顔や目を刺すよう指示して打ち破った。勝利したカエサルローマの実権を握ったが、やがて暗殺されることになる。
前31アクティウムの海戦カエサルの跡を継いだオクタウィアヌスとその政敵アントニウスの戦い。しかし、アントニウスとその愛人クレオパトラは、本拠地エジプトへ逃れることを優先してすぐに戦場を離脱、取り残されたアントニウス軍は壊滅した。アントニウスクレオパトラは自殺し、数年ののちにオクタウィアヌスは初代ローマ皇帝となる。
23年昆陽の戦い漢から帝位を簒奪した王莽に反発して「赤眉の乱」が起こる。昆陽に篭もる赤眉軍は、実数でも40万と言われる王莽軍に包囲されたが、リーダーの一人である劉秀は数千の兵とともに敵の中枢へ突撃を敢行、王莽軍は大混乱に陥り全滅した。主力を失った王莽はまもなく滅亡。劉秀はのちに光武帝として後漢王朝を開く。
208赤壁の戦い三国志に名高い一大決戦。中原を制し、中華統一を目指して大軍を南下させた曹操だったが、見知らぬ土地での疫病、慣れない水上戦に悩まされ、呉の都督・周瑜の火計によって打ち破られた。呉に協力していた劉備は、勝ちに乗じて荊州の南部を占拠し、後の飛躍へと繋げた。
383淝水の戦い五胡十六国時代、前秦皇帝・苻堅は天下統一を狙って百万を号する大軍を南下させ、東晋の将軍・謝石と謝玄が数万の軍でそれを迎え撃った。苻堅は異民族の融和を目指した理想主義的な君主だったが、異民族の混成軍は実際には統率がとれておらず、偽装後退を命じたことが本当の撤退と勘違いされ、前秦軍は自壊して潰走した。
451カタラウヌムの戦いフン族の王アッティラの侵略に対して、西ローマ帝国の名将アエティウスと西ゴート王テオドリックなどが連合して挑んだ決戦。痛み分けに近いものの、西ローマ帝国軍の勝利に終わった。のちにアエティウスの武功を恐れた西ローマ皇帝は彼を暗殺した。この戦いから二十五年後に西ローマ帝国は滅びた。
506鍾離の戦い数十万の大軍同士が激突した南北朝時代最大の決戦。北魏軍は、河に橋を掛けて梁の鍾離城を攻め立てていたが、長雨もあり戦いは長期化した。救援に来た梁の智将・韋叡は、増水に乗じて戦艦を走らせ、北魏が掛けた橋を焼き払った。大混乱に陥った北魏軍は十数万の死者を出して敗走した。
530ダラの戦いサーサーン朝ペルシアの大軍を東ローマ帝国のベリサリウスが破った戦い。ベリサリウスはあえて要塞から出て敵の攻撃を誘うと共に、壕を掘って相手の中央突破を防ぎ、伏兵を巧みに使って撃破した。その後、ベリサリウスは中世欧州最高の名将として、東ローマ帝国の最大版図を現出させる。
627ハンダクの戦い初期イスラムの三つの戦いの一つ。敵対するメッカ軍に対し、ムハンマド率いるメディナ軍は数で劣ったため、ペルシャ人技術者の進言で「ハンダク=塹壕」を巡らせた。メッカ軍は初めて目にする塹壕を突破できず、メディナ攻略を諦めた。以降、アラブ世界におけるイスラムの優位が確立された。世界初の塹壕戦とも言われる。
636ヤルムークの戦い「神の剣」ハーリド率いるイスラム軍と、皇弟テオドロス率いる東ローマ帝国軍の戦い。砂漠の戦闘に慣れたイスラム騎兵が東ローマ帝国軍を渓谷に追い込み撃滅した。イスラム軍は、直後のニハーヴァンドの戦いを経てサーサーン朝ペルシアをも滅ぼし、ここにイスラム帝国が興隆することとなった。
732トゥール・ポワティエ間の戦いイベリア半島から侵攻したウマイヤ朝イスラム帝国と、フランク王国の宮宰カール・マルテルの戦い。イスラム騎兵の猛攻をフランク重装歩兵が跳ね返し、撃退した。イスラム騎兵の強さを痛感したマルテルは、直属の臣下に土地を与えて「騎士」制度を創設し、これが欧州の封建制へと繋がっていった。
751タラス河畔の戦い西へ拡大する大唐帝国と東へ拡大するアッバース朝イスラム帝国中央アジアにおいて衝突した戦い。唐の同盟者ウイグル族に従っていたカルルク族が裏切ったことでアッバース朝が大勝した。これによって、唐の伸張は止まり、中央アジアイスラムに帰し、そして製紙法が西方に伝播した。
1098アンティオキア攻囲戦第一回十字軍は、半年以上の攻城戦の末にアンティオキアを陥落させたが、遅れて到着したイスラム諸国連合軍七万によって逆に包囲されてしまう。しかし「聖槍」の発見で士気を高めた十字軍は、城外に打って出てイスラム軍を打ち破った。次の年にはエルサレムを陥とし、まさしく奇跡的に十字軍成功に終わった。
1141カトワーンの戦いイスラムセルジューク朝を復興させたサンジャルと、遼の再興を掲げて中央アジアに覇を唱えた西遼の耶律大石との戦いで、西遼軍がセルジューク朝軍を包囲殲滅した。セルジューク朝は再び衰退、まもなく耶律大石も亡くなったことで西遼も勢いを失った。この戦いがプレスター・ジョン伝説の原型となったという。
1187ヒッティーンの戦い暑さと渇きに苦しむエルサレム王国軍に対し、イスラムアイユーブ朝サラディンは、夜通し弓矢で攻め立てて士気を挫き、野に火を放って追い詰め、壊滅させた。聖地エルサレムは再びイスラム勢力のものとなった。その奪回のために第三回十字軍、すなわちサラディンと「獅子心王」リチャードの戦いが開始される。
1212ナバス・デ・トロサの戦いイベリア半島で争っていたキリスト教諸勢力が、教皇インノケンティウス3世の要請により連合してイスラム勢力を迎え撃った、「レコンキスタ」最大の決戦。イスラムムワッヒド朝の十二万の大軍が悠然と構えるのに対し、連合軍は猛烈な突撃を敢行。ムワッヒド軍は十万とも言われる被害を出して敗走した。
1214ブーヴィーヌの戦いフランスの「尊厳王」フィリップ2世と、神聖ローマ帝国イングランド王国などの連合軍の戦い。フィリップ2世は北へと逃げてブーヴィーヌに陣取ると、ばらばらに追いかけてきた連合軍を到着した順に各個撃破した。脆弱だったフランスが強国として台頭し、またイングランドで大憲章が成立するきっかけともなった。
1241モヒの戦いバトゥ率いるモンゴル帝国の遠征軍に対し、ハンガリー軍は堅固な陣地を築いて健闘したが、モンゴル軍はイスラムの投石機と中国の火薬兵器で攻撃を加え、さらに周りこんだスブタイの軍によって包囲殲滅した。同時にリーグニッツでもモンゴルの別働隊が勝利していたが、オゴタイ・ハンの死を聞いてバトゥは引き返した。
1260アインジャールートの戦いモンゴル帝国西アジア遠征軍と、イスラム勢力のクトゥズやバイバルスの戦い。先鋒のバイバルス軍が退却を装い、それを追撃したモンゴル軍は、伏兵のクトゥズ軍に包囲されて壊滅した。モンゴルの西進はここで止まった。バイバルスはその後もモンゴル軍に勝ち続け、マムルーク朝実質的建国者となった。
1267襄陽・樊城の戦いモンゴル帝国のクビライ・カンは、入念な準備の上で襄陽と樊城を大軍で包囲、長大な土塁を築いて封鎖した。南宋の主力軍十万が救援に向かったがモンゴルの水軍の前に完敗した。中東由来の新型投石機「回回砲」による攻撃が開始されると襄陽・樊城は為す術なく降伏した。この敗北は南宋の滅亡を決定付けた。
1346クレシーの戦いイングランドフランス百年戦争における初期の決戦。イングランド軍は斜面にV字に長弓部隊を並べ、中央に下馬騎士を置いた。フランス軍クロスボウは射程の違いで長弓に対抗できず、重装騎兵も敵軍を突破できずに惨敗した。その後、百年戦争の終盤まで、イングランドは同様の戦術で勝利を収めていった。
1363鄱陽湖の戦い中国・元末の群雄である朱元璋と陳友諒の戦いで、それぞれ数十万人規模の大船団同士が激突した。大型の艦を鎖で繋いでいた陳友諒軍は、朱元璋が特攻させた火船によって大炎上して敗北した。この勝利により優位を確立した朱元璋は後に明の建国者となる。三国志演義における赤壁の戦いの描写はこの戦いがモデルだという。
1402アンカラの戦いニコポリスの戦いで欧州連合軍に圧勝したイスラムオスマン帝国の「雷帝」バヤズィトと、モンゴルの後継を自称して大帝国を築いたティムールが激突した戦い。結果、オスマンが敗れてバヤズィトは捕虜となり、日の出の勢いだったオスマン一時的に衰退した。ティムールもこの戦いを最後に生涯不敗のまま亡くなった。
1410グルンヴァルトの戦いポーランドリトアニア連合軍ドイツ騎士団が戦った、中世最大とも言われる会戦。リトアニア軍の偽装撤退に誘い込まれたドイツ騎士団は、連合軍の反攻によって壊滅した。この勝利のあと、ポーランドリトアニアは欧州最強国として最盛期を迎える。現代では古戦場跡で行われる祭りが有名。
1420ヴィトコフの戦いヤン・ジシュカ率いるフス派と、それを鎮圧するために結成された10万の十字軍の戦い。フス派は包囲されプラハに立てこもったが、欧州で初めて銃を装備し、武装した荷車をつなげて砦とするなど、革新的な戦術を用いたジシュカの活躍で、十字軍は撤退に追い込まれた。以降もフス派は勝ち続けていくことになる。
1450フォルミニーの戦い他国に先駆けて常備軍を創設し、長弓より射程の長い大砲を活用するなどの軍政改革を行ったフランス元帥リッシュモンは、百年戦争で負け続けだったフランス軍を立て直してイングランド軍を撃破した。このフォルミニーでの勝利は、百年戦争におけるフランスの勝利と、そして以降のフランス軍事的優位を決定付けた。
1453コンスタンティノープルの陥落東ローマ帝国首都にして史上最強城塞都市と、それを包囲したオスマン帝国軍の戦い。「ウルバンの巨砲」「艦隊の山越え」といった大仕掛けにも耐えたコンスタンティノープルだったが、施錠を忘れていた通用口からオスマン軍に侵入され、あえなく陥落した。古代から続いたローマ帝国は中世と共に終わりを迎えた。
1503チェリニョーラの戦い二次イタリア戦争におけるスペインフランスの戦い。レコンキスタにおいて攻城戦の経験豊富だったスペイン軍指揮官ゴンサロは、野戦に攻城戦の技術を持ち込んだ。長槍兵と銃兵の陣形「テルシオ」と塹壕の組み合わせによって、フランスの重装騎兵を打ち破り、欧州に野戦築城の有効性を知らしめた。
1514チャルディラーンの戦いイスラムサファヴィー朝建国者スマーイール1世は神がかり的な戦争の天才だったが、対するオスマン帝国のセリム1世は鉄砲と大砲を大量に運用して、不敗の騎兵「クズルバシュ」をさんざんに打ち破った。初めての敗北を味わったイスマーイール1世は無気力となり、サファヴィー朝の拡大は停滞した。
1588アルマダの海戦黄金時代スペインイングランドが迎え撃った戦い。接舷攻撃を企図するスペインの大艦隊に対し、ドレイク率いるイングランド海軍はヒットアンドアウェイの砲撃戦で勝利した。以降、海戦の主役は白兵から大砲へと移っていく。スペイン没落の画期とも言われるが、実際にはスペインの優位はしばらく続いた。
1619サルフの戦い女真族を統一したヌルハチ率いる後金軍と、その討伐に差し向けられた明軍の戦い。圧倒的に数で優る明軍は、四手に分かれて後金を包囲しようとしたが、全く連携が取れておらず、ヌルハチの見事な内線作戦によって各個撃破された。後金はやがて清となり、明を滅ぼすことになる。
1631ブライテンフェルトの戦い三十年戦争に参戦したスウェーデン王グスタフ・アドルフと、ティリー伯率いる神聖ローマ帝国軍の戦い。グスタフ・アドルフは歩兵・騎兵・砲兵が緊密に連携する「三兵戦術」によって、神聖ローマ帝国軍のテルシオを完全に打ち破った。この三兵戦術が近代的な軍制の基礎となる。
1683二次ウィーン包囲オスマン帝国は15万の大軍をもってオーストリア首都ウィーンを包囲したが、要塞化された都市は容易に陥落しなかった。キリスト教諸勢力は連合して救援に向かい、特にポーランドが誇る有翼重騎兵「フサリア」3000騎の中央突破によって、オスマン軍は大敗した。オスマン帝国の衰退を決定付ける戦いとなった。
1704ブレンハイムの戦いスペイン継承戦争において、イングランドマールバラ公とオーストリアプリンツ・オイゲンの名コンビが、フランス軍を打ち破った戦い。開戦後、しばらくは一進一退が続いたが、マールバラ公はオイゲンと連携して粘り強く戦い、フランス軍の両翼を釘付けにした上で手薄になった敵中央を突破して撃破した。
1709ポルタヴァの戦い北欧の覇権を握ったスウェーデンをめぐる大北方戦争最大の決戦。スウェーデンの若き天才カール12世は、並み居る敵国を瞬く間に撃破し、残るロシアに攻め込んだが、寒さと焦土作戦により疲弊、ポルタヴァで大敗を喫した。カール12世はオスマン帝国に亡命し、スウェーデンの「大国時代」は終わりを迎えた。
1757ロイテンの戦い七年戦争プロイセンの「大王」フリードリヒ2世とオーストリア軍の戦い。斜めに行軍して敵の側面に回りこみ火力を集中させる「斜行戦術」により、プロイセンは倍する敵に勝利した。その後も、イギリス以外のすべての国を敵に回した状況で、フリードリヒ大王は粘り強く戦い抜き、七年戦争プロイセン優位に終わった。
1781ヨークタウンの戦いアメリカ独立戦争。チェサピーク湾の海戦でフランス海軍に敗れたことにより、ヨークタウンに篭もるイギリス軍に支援は届かず、彼らはアメリカ軍に包囲された。イギリス軍は幾度かの抵抗の後に降伏し、この戦いが事実上の終戦となった。勝利の立役者となった総司令官ワシントンは、のちに初代大統領に選ばれた。
1805トラファルガーの海戦欧州を支配し、イギリス本土へ侵攻せんとするナポレオンと、名提督ネルソン率いるイギリス海軍の戦い。敵列の側面に縦列で突入する「ネルソンタッチ」によりイギリスが勝利、ナポレオンの計画は頓挫した。勝利したネルソンは、しかし狙撃により重傷を負い、「私は義務を果たした」と言い残して亡くなった。
1805アウステルリッツの戦いフランス皇帝ナポレオンと、オーストリア皇帝・ロシア皇帝が戦ったために、「三帝会戦」の異名がある。ナポレオンの正確な洞察と完璧な機動により、数で劣るフランス軍が大勝利を収めた。あえて要地を明け渡し、機を見て奪回することで敵を分断する、その華麗な用兵は「戦争芸術」と讃えられた。
1819ボヤカの戦い南米を植民地とするスペイン軍と、それからの独立を目指すシモン・ボリバル率いる革命軍との戦い。わずか三時間で革命軍の勝利に終わったが、南アメリカ諸国の独立を決定づける重要な戦いとなった。敗れたスペインは彼らの独立を承認し、ボリバル大統領とした大コロンビアが誕生することになる。
1863ゲティスバーグの戦い「鉄道と電信の戦い」となったアメリカ南北戦争、最大の決戦。鉄道と街道が集まる要衝ゲティスバーグを巡り、偵察部隊の小競り合いが発生。増援を送りあって戦闘はみるみる拡大、両軍に多大な損害を出して終わった。国力に劣る南軍にとっては、より大きなダメージとなり、名将リーが計画した北部侵攻も頓挫した。
1870セダンの戦い国民皆兵制と鉄道による大規模かつ迅速な動員、参謀幕僚制と電信による戦略レベルでの分進合撃戦術により、参謀総長モルトケの指揮するプロイセン軍が、フランス皇帝ナポレオン3世と十万のフランス兵を捕虜とした戦い。これにより邪魔者を排除したプロイセンは、「鉄血宰相」ビスマルクのもとでドイツ統一を成し遂げる。

2015-08-28

腋汗を抑える風潮

今年は腋汗を抑えるいろいろな製品CMを見かけた。昨年なんかより多くなっていると思う。先駆的製品である腋汗パットを筆頭にいろんな方法で腋汗が服ににじむのを抑えたり、汗のにおいを低減する製品テレビCMに踊った。でもこれでいいのだろうか。トリンドルが腋になんか塗ってるCMがあった。トリンドルが塗ったあれで発刊を抑えられるのだろう。あんなトリンドルみたいな可憐お嬢さんが、腋の汗を強制的に蓋をして良いのかと思う。これって怖いことだ。人間摂理にある種反している。汗、かいたって良いじゃん。仕方ないじゃん。でも21世紀はいえそうはならない。ある民族が成人の儀礼で身体を傷つけるのが当然と同様に、現代日本では腋汗がにおったり服ににじんだりするのは当然恥たるものなのだ。トリンドルのような可愛らしい女性自然の摂理に反して腋汗を科学的な製品で強引に蓋をして、それがさも当然であるかのように可憐CMに登場する。石狩川はかつて蛇行し北海道を流れていたが、相次ぐ洪水開拓の妨げになった。そこで国家石狩川の流路を強引に変えた。石狩川は100キロくらい短くなったんじゃないだろうか。利根川もひどい。強引に水の流れを変えたのが現代で、これは腋にも言えることだ。トリンドルのようなほんとうにふんわりとした3か国後に堪能な可愛らしいお嬢さんのような人物がCMにでて腋に腋から出る汗を抑える科学製品を塗る。これは現代暗渠だし、不自然であるものの何故か日本人はもうそれを当然と思っている。成人の儀礼刺繍をする異民族違和感を持つにもかかわらず、腋の汗を抑えるために何かを腋に塗りたくるのには違和感のないのが日本人なのだ

2015-07-24

中華思想

中華思想(ちゅうかしそう)は、中国宇宙の中心であり、その文化思想神聖ものであると自負する考え方で、漢民族が古くからもち続けた自民族中心主義思想[1]であり美称[2]である漢民族とは異なる周辺の辺境異民族文化程度の低い禽獣であるとして卑しむことから華夷思想かいしそう)とも称す[1][2]。また夏、華夏中国とも同義である[2]。

中国語では中国中心主義(簡体字: 中国中心主义、英語ではsinocentrism ともよばれ、また「華夷」については中国では「華夷之辨」(英語で Hua-Yi distinction) とよぶ。

引用

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%80%9D%E6%83%B3

2015-05-18

http://anond.hatelabo.jp/20150518191230

こうして見ると高く評価されるにはいくつかの条件があることが分かる。

兵法書が書かれていること…孫武呉起・孫臏・曹操李靖・戚継光

中華統一に貢献していること…白起・王翦・韓信・劉秀・李靖李世民・徐達

異民族撃退していること…李牧・衛青・霍去病・班超・李靖・郭子儀・岳飛・戚継光・左宗棠

この中で三つの条件を全て満たしているのは李靖だけである

2015-01-11

http://anond.hatelabo.jp/20150110214339

少し話が違うけれど、年末ネタのような話題があって、日本ケンタッキーフライドチキンのある店舗が、夏に、カーネルサンダース浴衣を着せて、スイカを手に持たせていたのね。まあよくある風景です。

で、それをあるアメリカ人が取り上げて、日本人ってこんなにレイシストって喧伝してたの。

スイカ鶏肉って、アメリカ南部ではやっすい食材で、それしか食えないということで黒人嘲笑するアイテムになってるんですよ。

まあこれは、アホかね、君、何で日本人アメリカローカルステレオタイプを知っておかねばならんのよ、君の方がレイシストやろうという反応と結論になっていたんだけど、私が気になったのは、どうしてケンタッキーの一店舗がやったことが「日本人」とか「日本」になってしまうんだろうってことね。

こういう例は全然珍しくないですよ。触手ポルノに「また日本か」みたいな反応とかね。

例えば、レイディ・ガガとかが、奇抜な格好をしていても、主語は、レイディ・ガガになって、アメリカ人にはならないですよ。

思うに、マイノリティというのは、大きな主語を用いられる人たち、と捉えてもいいかもしれない。逆に言えば個々の事例に対して大きな主語を用いている時点でそれはレイシストであり、セクシスであると言っていいのかも知れない。


西欧の風刺は徹底していて、イスラム馬鹿にしていてけしからんと言うと、彼らは必ず風刺は全方位にやってますよと答えるの。それがエクスキュースになってるのね。そして実際彼らは、カトリック教会大統領女王イエスもこき下ろしている。

でもね、やっぱりカトリック教会をこきおろすこととイスラムをこきおろすことは、同じじゃないのですよ。

カトリック教会批判することはカトリック批判することであって、その辺のパリジャンのポール君は何ら関係ないのですよ。

でもイスラムテロリストとして描くことは、移民のアフマド君にとっては直接自分たちへの偏見を増大させる効果を持つのですよ。

これはね、やっぱり西洋帝国主義の結果であって白人特権なわけ。

ここの非相似に鈍感で、俺らは全部を風刺しているんだって思い込んでいる時点で、チャーリーな連中の考えの浅さ、リベラルレイシストになってしまってるんだよね。


で、Je suis Charlie というスローガンものすごく気持ち悪い。

私にはそれが、私たち特権享受する側の白人だ、と言っているようにしか見えないから

[追記]

記事の人とは違って、私はテロからいけない、とはそもそも考えていません。テロと呼ばれる暴力があり、テロとは呼ばれない暴力がある、そして良し悪しはあるにしても歴史暴力によって動いてきました。

そもそもフランス共和国のものテロによって成立した国家です。言論の自由が抑圧装置としてしか機能しない時に、それに暴力的に対抗措置をとる者があらわれるのは力学的には当たり前の話です。正義不正義の問題ではありません。

mirunaさんのコメント、「で、それが産油国における世界三大宗教ひとつであるイスラム教に基づく多大な人権侵害の免罪になるわけ?」と言うのがフランスにおけるイスラム教徒の話でどうしてなされるのかまったく理解できません。これはまさしく、マイノリティのみにアカウンタビリティが求められる一例だと思います

ご存知の方ならば常識しょうがイスラムには宗教者は存在しません。存在するのはイスラム法学者であって多種多様学説があり、絶対的唯一神信仰から多神教的なスフィズムが生じたように、どのような神学も成立可能です。当然のことながらイスラム世界にはかなりの幅と多様性がありますが、サウジアラビアの「公学」は特に極端な厳格性を持つワッハーブ派です。せめて批判するのであれば、サウジアラビア政府ワッハーブ派批判してはどうでしょうか。

フランスムスリムはその多くがアルジェリア移民であって、ジダンもそうですが、アルジェリア少数民族ベルベル人が多数を占めます。これは百年に及ぶフランスアルジェリア植民地支配の結果であって、ベルベル人原住民抑圧のための中間層として用いたために、アルジェリア独立後、報復を恐れてベルベル人フランス亡命したのがそもそもの発端です。宗教は事後的に影響力を持ったものです。

個人的見解として、植民地の損失を清算していないフランスには、どのような移民であれ、移民を拒絶する権利はないと考えていますケベックであれ、インドシナであれ、アルジェリアであれ、ニューカレドニアであれ、異民族の流入に恐怖したのはそれらの場所原住民も同じことです。

[追記]

suna_kago 問題西洋東洋白色人種有色人種)に図式化し、後者は前者に対して何をしてもいいと考えているらしい。そのような態度こそが上記の二項対立を強化するのだけど。

この文章からどこをどう読めばそう曲解出来るか理解できません。普通に誹謗中傷の類であると思います

MacRocco 年末の話なのか夏の話なのか、それともこれは年末が夏の国のお話なのか。

くじらをたてるような突込みではないと一般には捉えられるかも知れませんが、大半の人は、夏の時期の写真年末話題になったと捉えられることを、そもそも話の本筋ではない部分に「これは年末が夏の国のお話なのか。」と"エスプリ"をきかせる精神構造は、非常にチャーリー的で、見かけ以上に深刻な問題を孕んでいると思います

yingze 追記部分に粘着気質の気持ち悪い部分が出てきてるなぁ。「植民地の損失を清算」でヤクザ誠意を見せろ手口でしょう。

誠意は見せる必要はありませんが補償原状回復なすのが基本です。損害賠償の基本ですが。ここが意識の上でも棚上げされていること自体が、西欧中心史観なんだということを指摘しています。ところで、粘着気質ってこんなにぱっと出されて共有されなければいけないほど自明的にいけないものなんでしょうか。yingzeさんのコメント自体粘着気質のなせるわざではないのでしょうか。よくわかりません。

sardine11 マイノリティ言論非対称性に圧殺されてるという指摘は同意したい。ただシャルリの間違いを認めるとしても、反テロ運動自体は間違ってないし犠牲者追悼という大きな意義を無視するのはアンフェア議論だと思う

テロ運動チャーリー追悼ではないでしょう。チャーリー一方的犠牲者として描くことがアンフェアです。チャーリーのしたことはしたこととして、銃撃殺人はいけないよと言うならば、少なくともチャーリーをまったく不問に付すような追悼集会というような手段はとらないだろうと思います。私はこの追悼集会で流される感情と踏みにじる感情が、結果ではなくて次の抑圧の原因になると思っているので批判しているのです。それぞれに自己加害者性を見つめることの方が重要でしょう。

続きを書きました。

http://anond.hatelabo.jp/20150113170721

2014-08-09

http://anond.hatelabo.jp/20140809022524

・中途入社異民族扱い、新卒プロパーでないと市民権がない

・「競争」という名の足の引っ張り合いがある

・人の噂やゴシップ好きが多い

仕事の評価は上司へのごますり具合で決まる

部長不倫相手が部署内いる

この辺も追加しておくといいよ

2014-06-14

http://anond.hatelabo.jp/20140614160501

正直奴隷制は細かく分けるといろいろあるからアレだけど、代表的なのは異民族狩りや戦争でまけたとかで奴隷が賄われる奴隷制比較的新しい話だと、アメリカアフリカから奴隷船とか有名か。これは単純にこき使うために連れてきた人たち。

もう一つが農奴。これは土地に縛り付けられた奴隷で、自分農地がある場合とない場合がある(ある方が多いと思う)。これは元々あった共同体のような農耕社会征服者がかぶさったパターンと、共同体的な社会の中で突出した人がでてきて覇権を握るパターンがある。為政者テーマは「生かさず殺さず」なので、どちらにしても残酷ではあるけど、「殺さず」(搾り取りすぎない&防御)という局面を見れば、為政者にそれなりの意義はある。また農奴土地から動かないので、「殺さず」が守れれば安定的社会に適合的。農奴制共同体的な要素と奴隷制としての要素が重層的になっているので理解が面倒。

うまく説明できないけどこんなもんで…農奴制ロシアのが有名。

http://anond.hatelabo.jp/20140613234813

奴隷制結構コストがかかる。雇用はその人の労働力時間単位で買い取るものだけど、奴隷制はその人の人格人生も購入の対象。つまり生活させないといけない。逃げ出さないよう管理必要食糧や住居がかなり低位なな原始社会有効。最大の問題は、労働力世代を超えた再生産ができないので、つまり奴隷結婚できないので、足りなくなったら異民族狩らなきゃいけなくて大変。

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