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はてなキーワード: 中華思想とは

2017-07-04

自分中国世界戦略の一翼を担ってるとしたら

何をする?

前提としては中原覇者漢民族)が世界覇者である中国世界の中心である、という中華思想

自分なら、人口を生かした経済成長ベース

経済的依存させる国を増やす

観光客移民をどしどし送り込み、現地の政治・経済に口を挟めるようにする

さら

ネット書き込みを利用して国内政治への反発する空気演出する

・離間の計:反政府勢力への経済的情報/人的な(間接的な)影響

みんなはどう?

2017-06-11

続・白紙に戻せぬ遣唐使教科書の読み比べ)

http://anond.hatelabo.jp/20170611183038

これのつづき。今回も文字数制限にひっかかったので、分割します。

  

桐原書店新日本史B』(日B 011)

一方、インドの僧菩提、林邑(ベトナム中部)の仏哲、唐僧鑑真らの外国人も、遣唐使船に便乗して来朝し、インド西域東南アジア文化を伝えた。

遣唐使船は日本人が唐へ往来するためだけではなく、外国人日本に招くためにも使われていたのです。「遣唐使」「鑑真」というのは中学生レベル用語です。しかし、この2つを結びつけて説明できる人は案外少ないんじゃないでしょうか?

ちなみに、山川の『日本史B用語集』によると、菩提僊那、仏哲という用語を載せている教科書は、唯一これだけみたいです。しか桐原書店は彼らの業績を説明するための註を設けている徹底ぶりです。入試問題になったら難問だと思いますが、大切なのはこういう人名を丸暗記することじゃなくて、東大寺大仏開眼供養会はインドベトナム出身僧侶たちも参加していた国際色のあるイベントだった、それは遣唐使船がもたらしてくれたものだということでしょう。

  

日本がしばしば新羅従属国として扱おうとしたため、両国関係はしばしば緊張した。しかし、日本遣唐使が唐において新羅人に助けられることもあった。」

これもこの教科書に独特の記述です。遣唐使新羅人に助けられたというのは、円仁著作『入唐求法巡礼行記』のことを念頭に置いているんでしょうか?

また、上掲の講談社日本の歴史シリーズから引用すると、次のような話もあります

遣唐使派遣が間遠になり、日本の船が唐まで行かないなか、それでも求法の念止みがたいとなれば、来航する新羅船を利用するしかない。そしてまた新羅商人たちは、概して好意的に彼らを助けたのであった(坂上早魚『九世紀の日唐交通新羅人』)。こうして入唐と研鑽を果たした天台真言の平安仏教旗手たちが、仏教の使命は鎮護国家にあるとする考えに則り、護国の修法による新羅調伏を担うことになったのは、実に皮肉なことであった。

  

坂上康俊『日本の歴史05巻 律令国家の転換と「日本」』

  

  

  

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

このころ唐では、みずから世界の中心とみなす中華思想が強まり、周辺の国々を夷狄として見下す考えが生まれていた。この考え方は日本にも影響をあたえ、朝廷新羅や、朝廷に服属しない東北九州南部の人びとを蝦夷隼人とよんで夷狄として蔑視しはじめた。

朝廷東北地方九州南部進出した経緯を説明する際、そこには中華思想の影響があったことを説明しています。それに絡めて新羅との関係にもちょこっと触れているので、先にとりあげた東大入試問題を解くときのヒントになるでしょう。

もっとも、この点はやはり、山川出版社新日本史B 改訂版』(日B018)の方が優れています。私が先に引用した箇所のすぐうしろ([後略]とした部分)では、朝廷が「東北地方蝦夷九州南部隼人異民族夷狄)として服従させ」たことを説明し、「律令国家が蛮夷を服属させる帝国であることを内外に示した」と結んでいるのです。

それに比べると、三省堂教科書は、遣唐使中華思想という2つのものを関連付けて理解することが不可能です。

  

  

  

東京書籍日本史B』(日B 004)

遣唐使8世紀には6回、9世紀には2回派遣され

実教出版にも「奈良時代遣唐使は6度派遣され」たとありますが、東京出版9世紀のことも記述していてグッド。

遣唐使は894年、菅原道真の建議で廃止されました。ですから9世紀末まで遣唐使派遣する制度は残っていたはずなんですが、8世紀と比べるとその回数がめちゃくちゃ減っていることが分かるでしょう。

理由は、日本がもはや唐から学ぶべき必要・意欲がなくなってきたこと、唐が政治的混乱に陥って衰退したことによる国威の低下、商船の往来が活発になったことで日本が唐に朝貢をしなくても舶来品を入手できるようになったこと、などです。

これがさっき桐原書店のところで述べた話にもつながっています時代が9世紀(すでに平安時代)になっても、仏教では唐に確固たる先進性がありました。だから日本僧侶たちは唐に留学することを熱望したのです。しか朝廷遣唐使派遣積極的ではなく、彼らは新羅商人の助力を得なければ、渡航が困難という状況だったのです。

  

[引用者注:702年の遣唐使派遣の再開について] その目的なかには、「日本」という国号を認めさせることも含まれていたと考えられる。

東京書籍教科書にだけある、この一文。「日本」がはじめて国際社会に登場したのがこの時点だったと言っているんです。

これ、すごいことを言っていますよ? 「日本」が太古の昔から存在したという皇国史観に対する強烈な一撃です。

ちなみに、このとき天皇」は国際デビューしていません。倭国はなんとかして「日本」への国号変更を唐に認めさせることはできても、皇帝にあたる「天皇」という称号を用いて唐と対等外交をする力がなかったのです。唐では天皇のことを「日本国王主明楽美御徳」(日本国王メラミコト)と呼んでいたようです。もしかしたら当時の日本朝廷内では、「スメラミコトは唐の皇帝に臣従したが、天皇は臣従していないか日本国王ではなく、したがって日本は唐の朝貢国ではない」という回りくどい官僚的答弁があったかもしれませんが、その点は不明です。このような高度に政治的問題は、国史編纂ときに巧妙な隠蔽がおこなわれるからです。(上掲の講談社日本の歴史シリーズ青木和夫著の中央公論社日本の歴史3巻 奈良の都』を参照せよ)

  

さて、これは東京書籍にかぎらず、多くの教科書でそうなのですが、古代史において「天皇」「日本」という表記を用いるときには慎重になっている様子がうかがえます。例えば白村江の戦いでは、唐・新羅と戦った国が「日本」ではなく、「倭」倭国」「朝廷」等の表記になっています

なぜ教科書がこんな表記になっているかというと、「天皇」「日本」という称号国号は、ある時期の特定政治状況のもと、人為的に作られたものからです。具体的には天武朝(673年~686年)のころ、大王とその国を神格化する目的で、初めてこれらの称号国号使用が開始されました。ですから、もし神と同一であるところのその「天皇」、その神のおさめる国である日本」が、天武朝より遥か昔から存在していたかのように記述するならば、それは皇国史観に他なりません。

無論、教科書では便宜的に仁徳天皇推古天皇というような表記が使われていますけど、古代史における「天皇」「日本」という表記の取り扱いについては一応注記が設けられていたりします。例えば『詳説日本史』は壬申の乱ののち、天武天皇が「強力な権力を手にし」て、「中央集権国家体制形成を進」めていく過程で、そのころに「大王にかわって「天皇」という称号が用いられる」ようになったと書いています。同社の参考書『詳説日本史研究』はそこがもっとクリティカルです。「大王から天皇へ」というコラムで、「天皇」という称号が天武朝に始まることの歴史学的な検証を載せ、唐の皇帝が一時「天皇」と称していたのを知った日本側が模倣したという説を紹介しています

こういう細かな表記へのこだわりからも、各社の教科書がどんな史観に基づいているかを見ることができるはずです。

白紙に戻せぬ遣唐使教科書の読み比べ)

山川出版日本史の何がすごいのか、さっぱり分からない」

http://anond.hatelabo.jp/20170604204919

これの筆者です。

id:netcraft3さんに「このままシリーズ化してほしい」と言われたんですが、そのつもりはないです。歴史学に対してろくな知識もないから恥をかきそうだし、人気の増田国会ウォッチャー)みたいに注目をあびるのは恐ろしいです。

  

なので今回で最後になるかもしれませんが、ひとまず「遣唐使」について見ていきましょう。

山川出版社『詳説日本史』の「遣唐使」という項は、次のように書かれています。全文引用します。

618年、隋にかわって中国を統一した唐は、東アジア大帝国をきずき、広大な領地を支配して周辺諸国に大きな影響をあたえた。西アジアとの交流もさかんになり、都の長安(現、西安)は世界的な都市として国際文化が花ひらいた。

東アジア諸国も唐と通交するようになり、日本から遣唐使は8世紀にはほぼ20年に1度の割合で派遣された。大使をはじめとする遣唐使には留学生・留学僧なども加わり、多い時には約500人の人びとが、4隻の船にのって渡海した。しかし、造船や航海の技術はまだ未熟であったため、海上での遭難も多かった。遣唐使たちは、唐から先進的な政治制度国際的文化をもたらし、日本に大きな影響をあたえた。とくに帰国した吉備真備や玄昉は、のち聖武天皇に重用されて政界でも進出した。

朝鮮半島を統一した新羅とも多くの使節が往来したが、日本は国力を充実させた新羅従属国として扱おうとしたため、時には緊張が生じた。8世紀末になると遣新羅使派遣はまばらとなるが、民間商人たちの往来はさかんであった。一方、靺鞨族や旧高句麗人を中心に中国東北部建国された渤海とは緊密な使節の往来がおこなわれた。渤海は、唐・新羅との対抗関係から727(神亀4)年に日本に使節を派遣して国交を求め、日本も新羅との対抗関係から渤海と友好的に通交した。

これはひどい遣唐使派遣再開が何年だったかという記述がありません。

そもそもこの派遣が再開であるという基礎知識すら、この教科書では把握できません。ページを戻って第2章「1,飛鳥の朝廷」の「東アジアの動向とヤマト政権の発展」という項では、「倭は630年の犬上御田鍬をはじめとして引き続き遣唐使派遣し」たとあるのですけど、その後にしばらく派遣を中断した時期があることは記載なし。

一時期は中断していたからこそ、702年の派遣再開に歴史的意義があります。第1回の遣唐使派遣が630年ですから、何と、まだ大化の改新をやっていない時代ですよ? それくらい古い時代から派遣していたにもかかわらず、多くの教科書8世紀初頭の出来事として遣唐使のことを説明するのはなぜでしょうか。それは再開というターニングポイントを重視しているからです。本書もそれに従って、「3,平城京時代」という単元に「遣唐使」の項を配置しています。それならば、中断・再開の経緯について説明を載せるべきです。

  

ちなみに、他の教科書では、遣唐使派遣再開についての説明が次のようになっています

7世紀前半にはじまった遣唐使は、天武・持統天皇時代にはしばらく中断されていたが、702年久しぶりに難波津を出発した。」

東京書籍日本史B』(日B 004)

「また政府は、8世紀のはじめに遣唐使派遣して、669年以後とだえていた唐との国交を回復した。」

実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)

「日本は唐の文化積極的にとり入れようと意欲をもやし、ほぼ20年に1度くらいの割合で遣唐使派遣した。」

山川出版社高校日本史 改訂版』(日B 017)

白村江の戦いののち、30年あまりとだえていた唐との国交が、701(大宝元)年の遣唐使任命によって再開され、以後、遣唐使がたびたび派遣された。それまで、半島から渡来人新羅などに学びながら、ある程度の国家体制を整えてきたが、この年の大宝律令とともに、唐との直接交通を始めたのである。」

桐原書店新日本史B』(日B 011)

律令制度を整えた朝廷も、702(大宝2)年に遣唐使を復活させ、唐の文物制度摂取につとめた。[中略]

こうしたなか、朝廷は新都の造営や貨幣鋳造、国史の編纂などを次々に実行して、中央集権体制にふさわしい国家づくりに励んだ。」

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

  

引用者注教科書のページを戻って「白村江の戦い国内体制の整備」の項では、白村江の戦いののち、遣唐使が「669年を最後に中断した」という記述あり。]

この中では、桐原書店ダントツに優れていると思います

遣唐使が中断していた理由もわかるし、大宝律令の制定と遣唐使の再開という2つの出来事を結びつけて理解することができます

  

三省堂記述おもしろいです。私は前回、この教科書について、「時代の流れがよくわかる」「時系列にしたがった記述が多い」というようなことを書きましたけど、ここでもその特徴が出ています

大宝律令の制定、平城京への遷都、貨幣鋳造、国史編纂というのは国内政治です。一方、遣唐使新羅・渤海との関係は、外交政策です。普通教科書はこれを別項に分けますが、三省堂はこれを同じ項にまとめて一つの時代様相として語っているのがすごい。

  

東京書籍実教出版も、中断・再開に触れています。その点は『詳説日本史』より絶対にマシです。

  

山川出版社高校日本史 改訂版』(日B 017)は、教科書のページ数が少なくて、内容もぺらぺらに薄いです。『詳説日本史』と同様、これでは大雑把に奈良時代の初め頃だったということしか分かりません。(しかも正確には702年に派遣再開されたので、これを奈良時代出来事と把握すると誤りになります)

  

  

  

東大入試でよくわかる遣唐使

東大入試2003年)は、遣唐使の本質にせまる問題を出しています

次の(1)~(4)の8世紀の日本の外交についての文章を読んで、下記の設問に答えなさい。

(1) 律令法を導入した日本では、中国と同じように、外国を「外蕃」「蕃国」と呼んだ。ただし唐を他と区別して、「隣国」と称することもあった。

(2) 遣唐使大伴古麻呂は、唐の玄宗皇帝元日朝賀(臣下から祝賀をうける儀式)に参列した時、日本と新羅とが席次を争ったことを報告している。8世紀には、日本は唐に20年に1度朝貢する約束を結んでいたと考えられる。

(3) 743年、新羅使は、それまでの「調」という貢進物の名称を「土毛」(土地の物産)に改めたので、日本の朝廷は受けとりを拒否した。このように両国関係は緊張することもあった。

(4) 8世紀を通じて新羅使は20回ほど来日している。長屋王は、新羅使の帰国にあたって私邸で饗宴をもよおし、使節と漢詩をよみかわしたことが知られる。また、752年の新羅使は700人あまり大人数で、アジア各地のさまざまな品物をもたらし、貴族たちが競って購入したことが知られる。

  

設問:この時代の日本にとって、唐との関係新羅との関係もつ意味にはどのような違いがあるか。たて前と実際の差に注目しながら、6行以内で説明しなさい。

これの答えがピンポイントで載っている教科書があります

山川出版社新日本史B 改訂版』(日B018)です。これ以外は、どの教科書も上記引用した『詳説日本史』と似たり寄ったりの内容ですからいくら熟読をしても答案を書くことが難しいと思います。(三省堂のぞく。後述)

8世紀に入ると、日本は20年に1度の回数で大規模な遣唐使派遣した。日本は唐の冊封を受けなかったが、実質的には唐に臣従する朝貢であり、使者正月の朝賀に参列し、皇帝を祝賀した。[中略]

一方、日本の律令国家内では天皇皇帝であり、日本が中華となる唐と同様の帝国構造を持った。日本は新羅や渤海を蕃国として位置づけており、従属国として扱おうとした。

白村江の戦いののち、朝鮮半島を統一した新羅は、唐を牽制するために日本とのあいだにひんぱんに使節を往来させ、8世紀初めまでは日本に臣従する形をとった。やがて対等外交を主張したが、朝廷はこれを認めず、藤原仲麻呂新羅への征討戦争を準備した。一方で、新羅民間交易に力を入れ、唐よりも日本との交流が質量ともに大きくなった。現在の正倉院に所蔵されている唐や南方の宝物には、新羅商人仲介したものが多いと考えられる。[後略]

  

山川出版社新日本史B 改訂版』(日B018)

以上に準拠しながら、私なりに要点をまとめておくと、次のとおりです。

  

(1)は、日本が唐から律令を学び、その中華思想の影響を受けたことを言っています。つまり、日本はみずからが「中華となる」という「帝国構造」を作ろうとしたのです。「日本は新羅や渤海を蕃国として位置づけ」て、彼らを野蛮だと侮蔑し、従属国として扱おうとしました。ですが、唐だけは別格です。あのような大国を敵にまわすと、恐ろしいことになりかねません。そういう遠慮があって、唐のことだけは尊重して隣国と呼びました。

(2)は、「日本は唐の冊封を受けなかったが、実質的には唐に臣従する朝貢」をしていたということです。唐の臣下となって朝貢する国々の中にも、その立場にはランクがありました。日本と新羅はともに唐の臣下だったのですけど、日本は新羅より格上の臣下になろうとしたのです。

(3)は、日本と新羅関係悪化について述べています新羅が「8世紀初めまでは日本に臣従する形をとった」ので、その間は関係がうまくいっていました。しかし、新羅が「やがて対等外交を主張」するようになったから、両国関係はこじれてしまったのです。それが最終的には藤原仲麻呂が「新羅への征討戦争を準備」するくらいにエスカレートします。

(4)は、日本と新羅政治的には対立しつつも、経済的には交流が盛んだったという内容です。「新羅民間交易に力を入れ」ました。「新羅商人仲介し」、日本へ「唐や南方の宝物」をもたらしたのです。それは貴族たちが競って購入したがる垂涎の的でした。現在「正倉院に所蔵され」ている宝物も、そういうルートで輸入したものが多いのです。

  

教科書の読み比べをすることの目的は、なにも入試対応するためだけではありません。

例えば『詳説日本史』には、最初引用したとおり、「日本は国力を充実させた新羅従属国として扱おうとしたため、時には緊張が生じた」とか、「8世紀末になると遣新羅使派遣はまばらとなるが、民間商人たちの往来はさかんであった」という記述があります。この短い記述が伝えようとしていることの本当の意味は、『新日本史B 改訂版』(日B018)のような他の教科書と併読することにより、はじめて正確に把握できるのです。

  

ところで、この教科書の著者は、東大の先生が3人、京大の先生が1人です。本書だけに載っているネタを使って入試問題がつくられたのは、そのへんの事情もあるのかなと勘ぐってしまます

もしくは、これは2003年入試問題ということだから、ちょうど講談社の『日本の歴史シリーズ2000年2003年)が発行されていた時期ですし、そちらの内容を意識しているのかもしれないですね。一応、そっちのシリーズから引用しておきましょう。

国内及び新羅などの諸国に対する時と、唐に対する時とで天皇の顔を使い分けるという、まことにすっきりしない状況でもあった。このような努力・苦心を払って日本が手に入れようとしたのは、東アジアの有力国としては新羅より格が上、という地位の確認であり、また初期の遣唐使が唐の高宗蝦夷を見せたことに示されているように(『日本書紀』斉明五年七月三日条)、日本は隼人蝦夷などの異民族をも支配下にいれた大国かつ君子国であるという評価であった。いわば唐を盟主とする諸国の中での相対的に高い地位を求めるとともに、自らの小帝国であることを唐に認めさせようとしたのである。(石母田正天皇諸蕃』)

  

坂上康俊『日本の歴史05巻 律令国家の転換と「日本」』

さきにもふれたように、「日本国」は唐帝国との公的な外交関係では「天皇」の称号を用いることができず、実際には二十年に一度の使い――遣唐使――を送る唐の朝貢国位置づけられていたと考えられるが(東野治之「遣唐使船」朝日新聞社、一九九九年)、国号「倭」から「日本」に変え、「天」をつけた王の称号を定めたのは、唐帝国に対し、小なりとも自ら帝国として立とうとする意志であったことも間違いない。

実際、「日本国」は「蛮夷」を服属させる「中華」として自らを位置づけ、「文明」的と自任するその国制を、周囲の「未開」な「夷狄」におし及ぼし、国家領域を拡げようとする強烈な意欲を、その発足当初は持っていたのである

[中略]

このように、朝鮮半島に対しても圧力を加えて、朝貢を強要する姿勢を示す一方、「日本海」をこえてたびたび使者を送って交易を求めてきた渤海については朝貢国として扱うなど、「日本国」は自らを「中華」とし、帝国として四方に臨もうとしていた。しか東北侵略を止めた9世紀に入ると、こうした「帝国主義」的な姿勢列島外の世界に対する積極的な動きはしだいに退き、十世紀になれば、ほとんどそれは表に現れなくなっていく。

  

網野善彦日本の歴史00巻 日本とは何か』

日本が置かれている立場としては、唐への朝貢という屈辱外交をやめるためには、遣唐使派遣を中止するしかないわけです。しかし、日本は唐と断交して敵対的にのぞむ国力も、その覚悟もありませんでした。

いっぽう、遣唐使は唐の皇帝から賜った国書日本国王へ勅す)を持ち帰るわけにはいきません。日本が唐に朝貢していると認めることは、天皇の威信を傷つけることになるからです。

こうなると、実際には日本が唐に朝貢していることが明らかなのに、国内での建前としてはそれを否定してみせる必要が出てきます。要するに、「遣唐使派遣は朝貢ではない。天皇が唐に臣従しているという批判は当たらない」という建前をでっちあげ、国内的にはそれをゴリ押しすることで、この矛盾を乗り越えようとしたのです。

  

私がこのエントリ題名に「白紙に戻せぬ遣唐使」と付けた由来は、多分みなさんもご存知の、894年に遣唐使が廃止されたことを指す語呂合わせ「白紙に戻そう遣唐使」です。しかし、日本がほんとうに、この"遣唐使"的なるものを白紙に戻せたかというと、それは甚だ疑問です。為政者国内国外で異なる顔を見せたり、外交姿勢の実態と建前を使い分けているというのは、室町時代に明に朝貢して「日本国王」となった足利義満に、ほとんどそのまま適用できる視点だと思います

それに、このことは現代外交問題についても、重要示唆を与えてくれます。例えば政府国内に向けて愛国心ナショナリズムを煽っておきながら、それと同時に国外に向けて国際協調アピールをするというチグハグな状況は、まさにこの延長にあるんじゃないでしょうか。

あるいは唐側の視点で見ると、日唐関係はこんな見方もできるかもしれません。唐は日本がおとなしく朝貢するかぎり、細かいことに目くじらを立てなかった。唐としては蕃国をヘタに刺激して事を荒立てるより、多少その尊大なふるまいを黙認しておく方がメリットがあった。すなわち唐は日本と妥協しあって、朝貢関係があるとも無いとも、どちらとも言える状況を作りあげた。――こういう分析がどれだけ妥当か分かりませんけど、2国間に争いがあるとき玉虫色の決着をつけ、両国政府がそれぞれ自国民の耳に心地よい解釈で説明をしているというのは、これまた現代によく見かける話でしょう。

  

  

  

教科書の読み比べ

遣唐使についての解説が長くなりすぎましたが、じゃあここから、各社の教科書の読み比べをしていきます

  

実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)

遣唐使船はふつう「よつのふね」とよばれ、1隻に100人まりが乗りくみ、多い時で約500人の大使節団であった。

悪くはないですが、遣唐使について普通説明があるだけです。

おもしろい特色がありません。

無理に良い所探しをするなら、「よつのふね」という文学的呼び方を紹介し、その規模がいかに大きかったかを強調していることです。

華々しく飾り立てた大使節団というのは、それを送りだす側も、それを受け入れる側も、両国にとって国威発揚イベントになったと推測できますもっとも、沈没行方不明になることも多々あったので、華々しさとはかけ離れたのが実態だったかもしれませんし、どうなのでしょう?

  

  

  

桐原書店新日本史B』(日B 011)

  

……って、今回はここで文字数制限なのか。

引用をしていると、あっというまに文字数が膨らみますね!

つづきを書きました→ http://anond.hatelabo.jp/20170611234459

2017-05-19

この条約が締結される頃の東アジア世界は、近代国際法を掲げながら、実際には弱肉強食を旨とする西欧列強が浸透してくる時期にあたる。当時朝鮮は清の冊封国であったが、鎖国政策を国是としていたため、国際交流は非常に限られていた。しかしそのような朝鮮にも1860年代以降国際化の波(外圧)が押し寄せ、海上から西欧諸国が訪れるようになる。朝鮮西欧列強との出会いは、概ね芳しいものではなかった。たとえば1866年にはフランス軍キリスト教徒虐殺事件丙寅迫害)の報復として軍艦7隻総兵力1000人で朝鮮江華島攻撃占領する丙寅洋擾が発生し、1871年にはアメリカ合衆国ジェネラルシャーマン事件1866年発生)の報復として軍艦5隻総兵力1200人艦砲85門で朝鮮江華島攻撃占領を行っている(辛未洋擾)。丙寅洋擾と辛未洋擾は朝鮮通商を行うための侵略であったが却って斥和碑を建てるなど攘夷につながった。

当時朝鮮政権を担っていたのは高宗の実父興宣大院君である清朝から西欧列強情報を得ていた大院君は、断固として鎖国を維持する姿勢を貫いた。これは中国における西欧側の非道を知ったこともあるが、朱子学以外を認めない衛正斥邪という思想政策積極的に推し進めたことから分かるように、大院君は中華思想的発想の持ち主であり、その点から西欧諸国夷狄視していたことも理由の一つである。その強い姿勢は「西洋蛮人の侵犯に戦わない事は和議をする事であり、和議を主張することは売国行為である」と書かれた斥和碑を朝鮮各地に建てたことに窺うことができる。このように当時の朝鮮では攘夷熱が高まっていた。

また朝鮮では、文禄・慶長の役時に、中国朝鮮を守ったため、今回も中国朝鮮を守ってくれるに違いないという立場であり、小島毅は「中国東アジア全体にとっての親分だというのが朝鮮認識ですから親分である中国自分を守ってもらおうとするわけですね」と述べている[2]。

日朝間の懸案:書契問題[編集]

他方、西欧列強が迫っていた東アジア諸国の中で、いちはや開国明治維新により近代国家となった日本は、西欧諸国のみならず、自国周辺のアジア諸国とも近代的な国際関係樹立しようとした。朝鮮にも1868年12月明治政府樹立するとすぐに書契、すなわち国書対馬藩の宗氏を介し送った。江戸時代を通じて、朝鮮との関係は宗氏を通じ行われてきたためであるしか国書の中に「皇」や「奉勅」といったことばが使用されていたために、朝鮮側は受け取りを拒否した。近代的な国際関係樹立は、はなから躓いたといえよう。

この問題は、日朝双方の国交に対する思惑がすれ違ったことが原因である日本側は従来の冊封体制的な交隣関係から条約に基礎づけられた関係へと、日朝関係を変化させることを企図したのであるが、一方朝鮮側はこれまでどおり冊封関係にとどまり、その中で日本との関係位置づけようとしていた。前近代における冊封体制下において、「皇上」や「奉勅」ということばは中国王朝にのみ許されたことばであって、日本がそれを使用するということは、冊封体制の頂点に立ち朝鮮よりも日本の国際地位を上とすることを画策したと朝鮮は捉えたのである

なお近代以前の日朝関係については朝鮮通信使に詳しい。

征韓論を唱えた西郷隆盛。ただし江華島事件及びその後の日朝修好条規締結に対して義に悖ると批判していた。

1868年以来、何度か日本から国書がもたらされたが、日朝双方の思惑の違いか両国関係は円滑なものとは言えなかった。書契問題を背景として生じた日本国内における「征韓論」の高まりに、大院君が非常な警戒心を抱いたことも一因である。また釜山においては日朝両国官僚同士が険悪となっていた。長崎出島のごとき釜山倭館限定した国交を望む朝鮮側と、対馬宗氏から外交権を取り上げて外交を一元化し、開国を迫る日本との間に齟齬が生じたのである釜山倭館朝鮮側が日本特に対馬藩使節商人を饗応するために設けた施設であったが、明治政府対馬藩から外交権を取り上げ、朝鮮との交渉に乗り出そうとした。その際、倭館をも朝鮮側の承諾無しに接収日本公館としたことから事態悪化したのである。結果、必要物資供給及び密貿易の停止が朝鮮から宣言される事態となった。

日本側も単に国書を送りつけるだけだったわけではない。版籍奉還という日本国内の難問を無事に乗り越えた1870年朝鮮との国交交渉を有利にするため、冊封体制の頂点に立つ清朝と対等の条約日清修好条規を締結した。これにより冊封体制の維持を理由に国交交渉忌避する朝鮮を、交渉テーブルに着くように促したのである

1873年に対外強硬派の大院君が失脚し、王妃閔妃一派が権力を握っても、日朝関係は容易に好転しなかった。転機が訪れたのは、翌年日清間の抗争に発展した台湾出兵である。この時、日本朝鮮出兵する可能性を清朝より知らされた朝鮮側では、李裕元や朴珪寿を中心に日本から国書受理すべしという声が高まった。李・朴は対馬藩のもたらす国書に「皇」や「勅」とあるのは単に自尊意味するに過ぎず、朝鮮に対して唱えているのではない、受理しないというのは「交隣講好の道」に反していると主張した。これにより朝鮮側の対日姿勢がやや軟化した。

条約締結までの経過[編集]

国交交渉[編集]

国交交渉再開の気運が高まり1875年交渉が行われた。日本側は外務省理事官森山茂と広津弘信、朝鮮側は東莱府の官僚交渉テーブルに着いたが、やはり書契に使用される文字について両者の認識に食い違いが生じた。この他森山洋服着用など欧米スタイルを貫こうとする姿勢朝鮮側が嫌悪感を示したことで交渉ははかばかしくなかった。交渉の停滞に業を煮やした森山4月には砲艦外交を行うことを日本政府に上申した[3]が、三条実美の反対があり、川村純義の建議により日本海軍砲艦二隻(雲揚および第二丁卯)が5月派遣され朝鮮沿岸海域の測量などの名目示威活動を展開した。その後雲揚は対馬近海の測量を行いながら一旦長崎に帰港するが、9月に入って改めて清国牛荘(営口)までの航路研究を命じられて出港した。

江華島事件[編集]

詳細は「江華島事件」を参照

9月20日首都漢城に近い江華島付近で、雲揚所属の端艇が朝鮮砲台から砲撃を受ける事件が発生した(江華島事件)。雲揚は反撃し、永宗島要塞を一時占領、砲台を武装解除し、武器旗章楽器等を戦利品として鹵獲した。この事件における被害は、朝鮮側の死者35名、日本側の死者1名負傷者1名(のち死亡)であった。事件朝鮮側が日本海軍所属軍艦と知らずに砲撃してしまった偶発的なものとされ[4]、この江華島事件の事後交渉を通じて、日朝間の国交交渉が大きく進展した。

条約交渉における日本側の基本姿勢[編集]

ボアソナード

明治政府のお雇い外国人ボアソナードは、事件を処理するために派遣される使節への訓令について、以下を決して朝鮮に譲歩すべきではないと具申した。

釜山・江華港を貿易港として開港する。

朝鮮領海航行の自由

江華島事件についての謝罪要求

またこれらが満たされない場合軍事行動も含む強硬外交姿勢を採ることをも併せて意見している。これらの意見ほとんど変更されることなく、太政大臣三条実美を通じて訓示に付属する内諭として使節に伝えられた。さら朝鮮に対する基本姿勢として、三条はこの江華島事件に対して「相応なる賠償を求む」べきとしながら、使節団の目的を「我主意の注ぐ所は、交を続くに在るを以て、・・・和約を結ぶことを主とし、彼能我が和交を修め、貿易を広むるの求に従ひときは、即此を以て雲揚艦の賠償と看做し、承諾すること」だと述べていた(強調、加筆者)。これは欧米列強干渉を招かないよう配慮すべし、という森有礼の言が容れられたものである

さらボアソナードのいう軍事行動も含む強硬外交姿勢も、日本は忠実に実行に移している。使節団一行には軍艦兵士の護衛がつき、威圧効果朝鮮側に与えようとした。また交渉が決裂した場合に備え、山縣有朋山口県下関に入り、広島熊本両鎮台の兵力をいつでも投入できるよう準備していたのであるさらにいえば、日本砲艦外交姿勢は無論朝鮮の屈服を促すものであったが、同時に日本国内の「征韓論」を唱える不平士族の溜飲を下げることも狙ったものであった。

ただこのように軍事的高圧な姿勢を表面上見せながら、当時の日本は軍費の負担という点からいって、戦争が好ましいとは考えていなかった。また戦争の発生がロシア清朝の介入を許すきっかけになるかもしれず、その点からも極力戦争は避ける考えであった。

以上をまとめると日本側の交渉の基本姿勢は、以下の二点に集約される。

砲艦外交を最大限推し進めながら、実際には戦争をできるだけ回避すること。

江華島事件の問罪を前面に押し出しながら、実質的には条約を締結し、両国の懸案で長年解決しなかった近代的な国際関係樹立すること。

また対朝鮮政策は、実質的には朝鮮宗主国である清朝政策でもあり、清朝干渉をなくすべく事前に清朝の大官たちと折衝を重ねることも日本は行っている。19世紀欧米列強アジア侵略に対抗するため、清朝朝鮮ベトナム琉球などの冊封国保護国化あるいは併合することによって皇帝を中心としたアジア伝統的な国際関係をそのまま近代国際関係へと移行させて清の地位と影響力を保持しようとし、冊封国に対して保護国化、モンゴルチベット新疆などの保護国に対しては植民地化を強めようとしていた。

この時期の東アジアは、日中朝そして西欧列強の間における複雑な絡み合いが相互作用する場が形成されつつあった。日朝間の国交交渉再開もその結果としてもたらされたものであると同時に、また別の歴史事象の原因でもあったのである

2017-04-09

http://anond.hatelabo.jp/20170409101442

世代とか階層によるのかもしれんが

割とベタ自分たち以外はアホだから自分らの感性理解できないっていう

厨二病とか中華思想的な考え方を持ってるやつも多いと思うよ

オタクはそのへん男女とも変わらないね

2016-09-21

蓮舫絶対に許しちゃ駄目だ!

おかしいでしょ。

二重国籍問題だが、そもそも

日本のために働く気ないじゃん。

年寄りに有利な政策を進めるのも、国力の大きな低下を招くことは誰にだってわかるのに、国益を考えているとは考えられない。

そもそもこいつは中華思想の塊のようなやつで一つの中国なんて馬鹿発言をするやつが政治家なんてできない。

なぜなら、国という形は人のためにあるべきものであって、国のために人がいるわけじゃない。

政治家幸せにするために人がいるんじゃない。国民を優先したら一つの中国なんてこんな考え方できないでしょ。

そんなやつが日本政治家なんて、日本一不適合な人材だと思う。

台湾併合を目論む中国は、そして蓮舫台湾人気持ち無視して何を勘違いしているの?

こんなやつに税金投入されるのは我慢できない。

税金使って国益を損なうようなことをするんだぜ??

日本人の皆さん、目を覚ましてください。

2016-05-04

UFO怪談血液型性格判断ってテレビ特集されなくなったな

やっぱり科学的根拠が皆無のもの発言するのが駄目だって批判が多いからだろうかね。

そういえばアニメ昭和アニメばかり推す番組が長い間放送されてきたけど、いつからか無くなったよね。

柴田理恵が毎回同じ場面で泣くシーンが名物だったからね。俺はチャンネル変えてたけど。

日本アニメーションって会社ハウス食品とかが提供してるアニメがよく放送されてたけど、

実はこども劇場って関西(テレビ大阪など)で放送してたアニメ番組もいつの間にか立ち消えになっててその後番組には韓国ドラマ放送されてたりする。

テレ朝系で何時間SPクイズ番組もいつの間にか無くなって今あるのは外国人日本賛美とか外国に住む日本人が凄いとかそういう外国の目から見た日本人像みたいなのが

たくさん放送され出して最近違和感申し訳ない気持ちでいっぱいになってる。

申し訳ないって言うのは、自分は大した日本人じゃないのにテレビではやたら日本贔屓されてて日本人が美化され過ぎてるんだよね。

そりゃノルウェー国立バレエ団の西野麻衣子みたいな超の付く素晴らしい日本人ならともかく、何でもない様な外国の家でシェアしてる日本人とか日本人妻とか

まあ確かに面白い話も多いけど、そこまでして日本人は素晴らしいの!って言いたいのはちょっとした病気じゃないかと思えてならない。

じゃあ何でアルカイダに行った日本人は素晴らしいって放送されないんだろうね。

外国にいる日本人は素晴らしいんなら真っ先に放送しろよって思うわ。勿論アイロニーでだよ?

何かさ、最近安倍総理も在籍してて問題視されてるカルト団体日本会議日本人を賛美する番組を作れって強要されてんの?

それとも電通博報堂などの広告会社テレビ局圧力をかけて日本人世界で最高の民族だって中華思想を吹聴するように急かしてるの?

けどテレビでわざわざ特集するんだから、きっとUFOとか怪談とか血液型性格判断みたいに純粋気持ち日本人スバシイ!を放送してるって好意的に見るよ。

まあ、見ないけど(笑)

2016-03-16

齋藤だけど。

1回目。開国の時に一部の人中華思想欧米思想をいい感じに混ぜてそこそこの国になる。

2回目。一部の人が煽ったので、大衆もその気になり戦争してボロ負け、その後急成長。

今が3回目の初めぐらい。

齋藤の自説による。

http://anond.hatelabo.jp/20160316161927

齋藤だけど。

から理解してくれ。昼寝しそこねたじゃないか。

道徳のために民度が要らないんだよ。

日本道徳とは違う道徳

権力者道徳強制すんのが、中国道徳

から、いつも犠牲者は35人ぐらいだし、10%の成長とかがウソ数字でもそれは道徳からいいの。

っていう中華思想道徳なの。

2015-07-24

中華思想

中華思想(ちゅうかしそう)は、中国宇宙の中心であり、その文化思想神聖ものであると自負する考え方で、漢民族が古くからもち続けた自民族中心主義思想[1]であり美称[2]である漢民族とは異なる周辺の辺境異民族文化程度の低い禽獣であるとして卑しむことから華夷思想かいしそう)とも称す[1][2]。また夏、華夏中国とも同義である[2]。

中国語では中国中心主義(簡体字: 中国中心主义、英語ではsinocentrism ともよばれ、また「華夷」については中国では「華夷之辨」(英語で Hua-Yi distinction) とよぶ。

引用

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%80%9D%E6%83%B3

2015-07-17

http://anond.hatelabo.jp/20150717113614

・向こうとこちらの時間の流れが違う

・異世界への扉は侵略のために帝国が開けたものだった

ツッコミは「帝国なんで情報収集もせずまともな作戦もなく6割で突撃してくるのん」だから

全然答えにも反論にもなってねえ

帝国はいますぐにでも領土拡張を目指さないと瓦解するほどの危機的状況だった

帝国は異世界においては超長期間にわたって最強であり中華思想的な考えが染み付いていた

皇帝が暗愚だった

これは「バカから」って言ってるのと同じ

キャラの行動を「切羽詰ってたから」「バカから」でしか説明できないなら

実際にはそういう話をかく作者がバカなんや

http://anond.hatelabo.jp/20150717112421

・向こうとこちらの時間の流れが違う

・異世界への扉は侵略のために帝国が開けたものだった

帝国はいますぐにでも領土拡張を目指さないと瓦解するほどの危機的状況だった

帝国は異世界においては超長期間にわたって最強であり中華思想的な考えが染み付いていた

皇帝が暗愚だった

ちなみにGATE見てない。

2015-06-10

集団的自衛権にNOが言えて中国にNOが言えないのは中国の犬

はてなに多いけど、どいつもこいつも中国の犬に見えて仕方が無い

いつも大層な資料に目を通してます的な博識アピールコメントでそれなりの理由を述べる奴が

わかりやす侵略中国にはNOと言わないガバガバ

対して日本にはAIIB早期参加推奨で集団的自衛権絶対反対、日本侵略を企てる最悪の国と根も葉もない話でこき下ろし、いつも日本ネガキャンしてる

こうして自分に次ぐ大国日本の動きをただ鈍らせたり封じれると言うのは、中国にとってこれほど都合の良い存在はいない

中には純粋戦争反対人達もいるんだろうけど、そんな人は中国にもNOと言えるだろう。

今は対中国なら個別自衛権で事足りるって主張を彼等はしてるけど

チベット弾圧して南シナ海侵略して尖閣諸島日本海域にも日常的にこそこそと侵入して勝手調査やら何やらしてる

いわば全方位的に侵略の機会を伺ってる中国に対して個別自衛権とか言ってたら、ただ最後に回されるだけなのは明白

その時には身近に協力者は当然いないし、大国である日本小国東アジア平和を見捨てて最後には中華思想に飲まれたとなるだけだ

日本は今のうちに自国も含めた東アジア平和のために、中国に対抗し得る大国として動かざるを得ない状況にある

集団的自衛権抑止力を働かせると言うのは全く妥当な行動だろう

これに反対するならば他の中国対策案を出すべきだ

中国民主的な国で個々を尊重する国であれば軍事力の強化などに付き合わず平和的に統合と言う道があったかもしれない

現状その真逆である以上、NOを突き付けるのは当然だ

2015-02-19

http://anond.hatelabo.jp/20150219022708#tb

自分泥棒呼ばわりされる前に相手を泥棒と罵る

このツイートには新中華思想がぷんぷんと臭っていて、香ばしい

2014-11-25

借り物の言葉口説かれても困る大阪の女

どこにいても大阪弁で通す人間なので。

東京で男に口説かれたときのキショクわるさですよ。

それは大阪最高なる中華思想ではなく。

借り物の言葉からだと。

東京ネイティブに聞いてみると俺らの知ってる東京はイナカモンの「憧れの東京」に破壊されたという。

誰かのエッセイにもあったな。忘れたけど。それはもちろん東京人のおごりかもしれんが。

でそのファンタジーとしての東京に憧れて出てきた人たちが作り上げたのが「かっこいい東京文化」みたいなもんで。

それを類型化したのが恋愛ドラマであり。

そのこじゃれた恋愛ドラマセリフを、ジャニ系でもジュノンボーイでもないおっさんが吐く。

コントか。なんやねん。浜田になるわ。頭どつきたなるわ。

西島秀俊やないねん。お前は。ふつーのおっさんやんけ。

というところで笑ってはいけない東京弁口説く人とのデート24時ですよ。

さいとーさんの間違いはすべてはここに起因する。

少なくとも大阪ネイティブ東京に憧れかっこいい東京人なりすましてるけど

地方出身者とは相性が激しく悪い。ハズ。悪くないの?自分だけ?すまん。

イヤ。地方出身差別してるわけやない。大阪地方です。首都以外は地方

だとしたら。

いくら通じなくてもさ「自分言葉」で語ればええねん。

方言なんかわかんないとかなまってるよってたぶんさんざん言われてきたのかもしれんけどやな。

「かっこいい東京文化ファンタジー」が通じるのは東京とその周辺だけや。

少なくとも「お笑いツッコミ文化」が骨の髄までしみこんでる大阪にはうすっぺらさが鼻について無効化される。

大阪の大半の女はシビア。なんでも笑ったろという目で相対化してみるのに長けている(当社調べ)

いうてね。私は大阪のチャラいおもろかったらええねん、俺おもろいやろアピールするお笑いバカも嫌いですけどw吉本の売れへん芸人かお前は。

それは東京オサレファンタジーと見た目は違うけど同質やわな。嘘くさいという意味で。

そういう意味でそやなあ東京弁口説かれてよかったのは。

ねえさん、すげえタイプっす。俺、いい仕事します。やらせてください。ほんと頑張るんで。というストレート表現ですかね。

ストレートすぎるやろ。でもそうかあ、いい仕事するんや、ちょっと検討しようかとなるで。正味の話。

まあやってませんけどね。タイプやなかったから。一応ヤリマンにも好みあるんで。すまん。

2013-06-08

最近左翼言葉狩りが酷い

いわゆるヘイトスピーチに代表される差別発言が主だけど、その範囲はいつの間にか女性障害者にまで広がってる。

その代表例が「障害者」の「害」をひらがなの「がい」にしろというもの

文字通りに考えれば「害を持つ人」の意味だけど、その「害」を「がい」に変えてしまうと「がい」がどれを指すのか分からなくなる。

左翼言葉狩りの酷さはこれだけじゃない。

例えば、常用漢字である「姦」だとか「女々しい」だとかといった女へんや女という字を使う文字に対して女性蔑視だとする意見は、

戦後以降女性社会進出に伴って声高らかに叫ばれているが、ではそれに代わる文字を用意して欲しいとすると、別の言葉に言換えるようにと

主張する。

その一つが「強姦」だ。

文字通り女性を虐げるとか性的暴行をするの意だが、昨今は「婦女暴行」や「強制わいせつ」などに言葉を変えている。

しかし、これでは罪が軽量であるかのような錯覚を受けてしまう。

強姦」は「殺人」に匹敵する重罪だが、「婦女暴行」では性的暴行ではなくただドメスティックバイオレンス程度の傷害にしか思えない。

言葉狩りをするのなら、せめてそれに代わるものを用意してもらいたいものだ。

左翼はあれは反対、これも反対と主張するが、一方でそれを享受し恩恵を受ける側でもあるという矛盾に全く気付いていない。

例えば、原発事故が起こるまではずっと当たり前のように享受してきたはずだ。

今は太陽光発電という高コストかつ先の見通しの付かない不透明な内容をあたかも実証済みであるかのように主張するが、

今やアメリカですらそのメリットが正しいという明確な根拠を示さなくなっている。

また、昨今話題沸騰中の憲法改正についても、今までGHQ原案の憲法大事にしてきた反米主義者が今これが改正されることをアメリカ自身が望んでいるにも関わらず

意味不明な主張の元に反論している。戦争ができる国が出来るというものだ。自国を防衛することさえ許されない現法で中国韓国の侵略行為を防げるとは現状では言い切れないことも関係する。

死刑廃止論にしてもそうだ。諸外国がしているからという根拠なき根拠によって死刑を廃止し、あろうことか犯罪者を救おうという人間まで現れている。

死刑に変わる罰則を制定しないのに死刑を廃止していいのかという批判にも全く聞く耳を持たずである

女性専用車両や男女参画については、口を酸っぱくして女性社会進出を妨げるなといっておいて、育児出産休暇や社会復帰の面倒を見ろとかレディースデーなどの民間のサービスについては蔑視であるにも関わらず何も主張しない辺り底が知れている。

また、特定の国には配慮しろと主張するくせに日本を守るための訓練をするアメリカ罵倒するが、一方尖閣竹島に侵略してくる中華思想の国や韓国犯罪については無関心を貫いていたりと矛盾している。

矛盾でいうならば、児ポ法改正に伴う単純所持禁止など二次元創作物の規制を謳いながら、一方でクールジャパン日本オタク文化世界に広めようと言う動向は正に矛盾しまた、時代を逆行する勢いだ。

彼らの行動は正に言葉狩りの通りで感情論だけで何もかもを動かそうとしている。

言論の自由表現の自由を謳いながら一方でこれらの言葉狩りを今もなお平然と行っている。

彼らは一体日本の何を正そうというのか、ただ闇雲に社会を混乱させようと画策させているようにしか思えない。

そう感じるのは筆者だけなのだろうか。

2013-04-10

増田にも書くことなくなってきたな

女の価値とかどうでもいいじゃん。年取れば40代ぐらいまでの女も行けるようになるよ

結婚とか出産とかになれば、若い方がいいんだけど、そもそも結婚子供を持つことを望んでるの?

なんかそれがどうも腑に落ちないな。結婚したいの?子供欲しいの?

そういうのは、動物的というか、本能的で、前時代的だよな。今どき結婚子供

そういう古い考え方の人は、やっぱり多いんだな。

百歩譲って好きな人結婚したい、好きな人の子供が欲しいってのはわかるよ。ガキっぽいけど。

でもそうではなくて、結婚したい、子供がほしい。んー封建社会だね。

そんなこと気にしなければ、年行った女とはそれなりに楽しめるし、若い女は若い女でいいところもあるけどさ。

若い女だけを求めてるのは、中華思想みたいでなんかちょっと、やっぱり未熟な感じがするよ。

もっと色んな味わいもあるもんだよ。

2012-12-12

http://anond.hatelabo.jp/20121212145229

どっちの陣営の話?

中華思想みたいだ」と言った大元の増田

それとも「中華思想を分かってるのか」と言った馬鹿にし増田

http://anond.hatelabo.jp/20121212142714

中華思想」はそう単純な思想ではないので

安易に「中華思想みたいだ」「中華思想を分かってるのか」などと言ったら

めんどくさい増田に絡まれちゃう

という教訓が得られましたね

めでたしめでたし

絡んだはいいけど各個撃墜されて醜態さらしてるだけじゃないですか

おそらくミッションの最低限目標だったであろう、

「話をうやむやにして元増田を擁護する」すら出来てませんよ?

http://anond.hatelabo.jp/20121212143858

モナーが美化とか理想化された人間の顔に見えるのか

すげえなあ

何言ってんだおめえ


中国人顔文字は「醜い」じゃなくて「目が細い」「ドジョウヒゲ」だろ

ふっるいステレオタイプを受け継いでるだけだ

ステレオタイプとして「差別的だ」「問題だ」って批判は有りうるが

中華思想上下関係じゃねーだろ


こじつけやりたいならもっと頑張れよ

http://anond.hatelabo.jp/20121212142323

こちらの人はまっとうな感じなので、コメントしてくれたお礼と回答を。

 

しかWikipediaのこの記述は納得できる内容になってると思う。中華思想の概略として読んでも、ぼくがフリーハンドで書いた説明なんかよりずっと正確だと思う。

天人相関説を中華思想の説明の中で述べたのは、中華思想というもの中国王権との関わりの中で生まれたという認識がまずあって、中国王権ってのは単なる権力構造ではなく義務と直結してるってことが示したかたからです。たしかに「中華思想」の考え方に天人相関の考え方は必要条件じゃないので、中華思想というひとくくりの中で述べるのはまずいかもしれないですね。

http://anond.hatelabo.jp/20121212141648

俺はそいつじゃないが、

元増田の「中華思想」の用法は明確に間違ってる。

外国異民族を「自分達との差」で把握するのは世界中どこでも普通のこと。

つーより人間の基本的な認識パターンだ。

自分達より)鼻が高い、(自分達より)体がデカい、(自分達より)毛むくじゃら…



中華思想って言うのは外国異民族文化的に下に見る秩序であって

元増田が挙げた顔文字群はただのステレオタイプ



結論として、元増田中華思想が何かを良くわかってない。

もしくは現代中国への「中華思想だ!」っていう批判を苦々しく思っていて

無理矢理相対化して見せたかたか

おのおの意見が出揃ったところで

中華思想」はそう単純な思想ではないので

安易に「中華思想みたいだ」「中華思想を分かってるのか」などと言ったら

めんどくさい増田に絡まれちゃう

という教訓が得られましたね

めでたしめでたし

http://anond.hatelabo.jp/20121212141648

ねーよwwwじゃあイギリス人イギリス中心の考え方してたらイギリス中華思想かいうのかよwwwいわねーよw

ってかお前は元増田だろうw

初めて見た時は日本人中国人を崇めてる!みたいな内容かと思ったわw

http://anond.hatelabo.jp/20121212135814

横だけど、ネットなんかでよく使われる文脈での「中華思想」の説明は、Wikipediaで言うと、「冊封」の項の華夷思想の説明がわりとしっくりくる。個人的には。

冊封が行われる中国側の理由には華夷思想・王化思想が密接に関わっている。華夷思想世界を「文明」と「非文明」に分ける文明思想である中国文化の高い華(=文明であるとし、周辺部を礼を知らない夷狄(=非文明)として、峻別する思想である。これに対して王化思想はそれら夷狄中国皇帝の徳を慕い、礼を受け入れるならば、華の一員となることが出来ると言う思想である。つまり夷狄である周辺国は冊封を受けることによって華の一員となり、その数が多いということは皇帝の徳が高い証になるのである。また実利的な理由として、その地方の安定がある。


あと、ちょっと蛇足だけど

王権が正当であれば四海波立たず、季節は穏やかに巡り、作柄も良くなる。

↑これは天人相関説だよね?

王権が正当であれば四海波立たず、季節は穏やかに巡り、作柄も良くなる。」という天人相関説の部分まで「中華思想」と言ったときの内容に含めちゃうと、「中華思想」がなんかすごく包括的な語になってきちゃって、多分そういう意識ではあまり使われていないような気がする。あくまで個人的にだけど。

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