ポンコツブクマカが責任がないから少なくて当然とか生産性が低いとか寝ぼけたこと抜かしてるが、一般意志を尊重するなら対正社員で100%支給するべきなのは明白。そもそも新卒なんて生産性ゼロなのにボーナス出て、1年目で有給ついてる理由がわからん。こいつらの利益圧縮で非正規に転嫁させてる理由は身分制度以外になにかあるのだろうか。意思に反して正社員になれなかった者に対して上から目線のよくわからない忠告をした者、無責任な物言いをした者に対しては、逮捕して施設で労働について学びなおしてもらったほうがいいのではないか。
人間の次に強く賢い動物が長い期間の果てに進化を遂げて全生物の頂点に君臨するらしい
そいつらが世界を支配しながら今と同じような体制で物事は回っていくんだって
その筆頭は今のところ猿だって言われてるけど
西縁
さいえん
中華圏にはend of westて意味だよって説明しやすい。
でも語感は和っぽい。
ヒガシサイエンでゴロもいい。
ダメだと思うよ
俺はポンコツなのでそもそも女自体幸せにできないというのもあるが
誰かにひどいことをされた人間は、他の誰かに同じことをしてやりたいと心のどこかで思っていたりする
こういうの読むと、アイマスだかデレマスだのにキチ●イみたいな金額突っ込んだり
パイ揺れがコンマフレームで動くようになったのだと世紀の大発見みたいに騒いだりしてるキモいやつを見ても
いとみちの三巻を読んだ。表紙がとってもかわいらしい。この巻でシリーズは完結するみたいだけど、主人公はもちろんのこと、本作に出てくる登場人物のスピンオフがこれからも読んでみたいなあって思った。
全体を通して感じたのが、長く穏やかに続くエンドロール的な読書感だった。というのも、本作には主人公いとの成長過程があまり描かれているように感じられなかったのが原因。
あるいは最終部に書かれていた一段、
何か、劇的な出来事をきっかけに……(中略)……目には見えない速度でゆっくり少しずつ変わってきたのだ。きっとこの変化を、成長と呼ぶのだろう。
ってところに全てが現れているんだろうと思う。内容的にも高校生活も終わりで、受験もあって環境も、これまでの生活も変わる。終わってしまう。その、それぞれの日々が紡いだ結果が、いとの成長として穏やかに描かれていた。
でもってひしひしと感じたのが、目標を定める尊さや、一途に突き進むことへの美しさだった。いと自身の選択もそうだけど、先輩メイドである智美の踏ん張りも素敵だった。本当に読んでいて気持ちがほっこりとする。
あんまり嫌な登場人物が出てこないのがいいんだと思う。一日一日を丁寧に着実に、しっかりと生活している感が伝わってくるから、心地のいい読書感とともに実生活をちゃんとしなきゃと思わせてくれる作品だった。
もちろん、毎日が毎日そうじゃないんだろうけど。でも、たぶん新しく入ってきたメイドのこまちゃんは、これからきっといとが過ごしたような日々を暮らすんだろうな。また新たなスタートです。
他によかったところで外せないところといえば、なんといっても津軽三味線。セッションがとっても格好良かった。でもってハツヱばあちゃんはハッスルしすぎだと思った。
主人公の大きな特徴であり、シリーズの根幹をなす設定の一つではあるんだけど、あんまり描写されることがない三味線。このあんまり描写されないってのがみそで、こまちゃんとのバトルは文字だけだけどしびれるものがあった。
内容以外だと、個人差はあるんだろうけど、文章が読みやすいってのが特徴として挙げられると思う。越谷オサムの小説は中高生にもおすすめです。
階段途中のビック・ノイズが漫画化されてるけど、本作もメディアミックスされればいいなあ。それこそ、智美の描いた漫画が現実になるみたいな感じで。
こうやって過去にどんな地雷と付き合ってメンタルやられたかわからんから、
付き合う付き合わないは別として嫌なんだよわかったろ?
なにをしよう
とりあえず わっしょいでーす
(わっしょい! わしょしょい!)
(ハイ!)
やっぱやっぱ非モテで涙がにじむ
あっそぼー!
ホンキでサブカル論争=3
(わっしょい! わしょしょい!)
だれダレだれダレだれだ
めらメラめらメラ互助会さん
(わっしょい! わしょしょい!)
ころコロころコロがって
のびノビのびノビのんびりして
わっしょいでーす わっしょいでーす
おんなじ会話してたよ
はてなでわっしょい365
小金井市で起きたストーカー事件の被害者からの手記が発表されました。
つい先日までの私なら、このニュースを聞いて
「警察はひどいなあ」と感じたと思います。ですが、先日自分にも
ストーカーまではいきませんが危険な予感がするお客様が出現し、退職することになりました。
この件において警察は被害者である私以上に起きていることを心配してくれました。
逆に勤務先の上司は接客業の管理職でありながら、今回の手記の表現を借りるならば
怒りを通り越して悲しみを感じるほど、ストーカーの怖さを理解していない様子でした。
わたしは実害(自宅や連絡先の特定、物理的接触)はありませんでした。
自分の身の回りにもストーカー被害で困った人が複数いて、対岸の火事だとは思っていませんでした。
有名なストーカー事件を通じて、ストーカーについて自分なりに考えたりしていました。
そのような中で、ストーカーというのは誰が見ても明らかなほどの被害が出てからでは遅いのでは?
という印象がありました。
なので実害がなくても、
・必ず同じような時間帯に来店する。
・拒絶していることが伝わっているのに近づいてくる。
ということは、危ないなと判断するべきとかんがえました。
来店していることを伝えても軽くあしらわれてしまいました。
現段階では確かに「大げさ」かもしれません。
でも、
・何時まで仕事なのか?
・電車で帰るのか?
・最寄り駅は?
そんなふうにだんだん知っていくうちに、もっと知りたくなるのが
ストーカー(本人は恋心やちょっとした好奇心だと思っている)だと思います。
上司はおそらくそのことも含めてたいしたことはないと判断したのだと思います。
でも、勤務時間がわかったら、コートを着て帰る私の行方を見たいと思うのは
当然のことではないかと思うのです。
このストーカーはその後私の姿を見ることができなくなっても、
いつか、何年後かに私を駅で見かけたら、そこから見失っていた時間を
取り戻すように必死で私の最寄り駅を見つけようとするかもしれません。
人との距離感を測ることができない人というのは、そういうものだと思うのです。
そしてその衝動を正当化する心と、そんな異常なことをするはずないだろうと
笑い飛ばすごまかしの心をふたつ一緒に持ち合わせているはずです。
私は今回の件で、自宅最寄り駅の管轄の婦警さん、自宅の管轄の生活安全課の方、
勤務先の管轄の生活安全課の方と接しましたが、どの方も大変丁寧に対応されていました。
怖がらせないように、という気持ちが伝わりました。
実害がなくても、大げさかもと思っても、相談して欲しいと言ってもらいました。
わたしは職業柄相手がどのように自分に接してくるか?という事に神経質になってしまうところが
あるのですが、そのわたしをもってしても「良い対応である」と感じられる対応でした。
警察官は多少愛想が悪くても仕事が成り立つ可能性が高い職業です。
故に様々なストーカー事件を通じて、それなりに勉強や研修が行われているに違いないと考えられました。
最後まで「急にやめられても困る」という事しか言いませんでした。
わたしは急にやめたりはしなかった。
まだおおげさになっていない時、何が大切かというと、
嫌な予感を与えることだと思います。
本人も、まだ自覚がないうちに、
対応したほうが、
少し大げさくらいの方が、
良いと思っています。
また、ストーカー被害かもしれないと思っている方は、
実害が出るころには、様々な要因がこじれている可能性があると思います。
いろいろややこしくなってから相談されても、急に劇的な解決ができない可能性も
考えるべきだと思います。
「殺されるかもしれない」と言ったかどうか以前に
・ストーカー被害の関連資料をたくさん持って行って相談に来ている。
・人に自分を知ってもらうことによって成り立つ活動をしている。
ということから、ストーカーには困っているが、だからと言って活動をやめる
(夢をあきらめる)わけにもいかない状況だったのではないか?そのことが理解されなかったのでは
そんなに大した付きまといじゃなかった人が、
突然すごいストーカーになることもあると思うのです。
ストーカーにはターゲットを手に入れたいという「目的意識」があるのですから。
「非正社員にも賞与を」政府指針案 同一労働同一賃金:朝日新聞デジタル
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.asahi.com/articles/ASJDH5WKXJDHULFA02T.html
Should be thankful that there was no damage.
これは直訳すると、
となる。
しかし、正確には
と翻訳する方がよいのだろうか?
文中には神という対象が明示されてないから、翻訳にわざわざそのニュアンスを入れるのは違和感がある。
ここで感謝を向けるべき対象は、せいぜい「被害がなかったという幸運」とか「被害がなかったという結果」ではないか。
オスプレイ事故でデマ、「朝日新聞が意図的な誤訳」にソースなし 米軍司令官「感謝されるべき」発言
https://www.buzzfeed.com/kotahatachi/osprey-crash-in-okinawa-debunking
追記
今回のオスプレイ事故で、米軍の司令官の発言とされた"should be thankful that there was no damage"にはソースがなかった。Calci氏は一応謝罪ツイートを出していたが、デマを飛ばした動機・経緯を全く説明していないから、いろいろと謎が残る。
今回彼がおかした問題行動は、ソースがない英文を事実だと偽って流布したというだけではない。この英文を翻訳するときに「神に感謝」というニュアンスが正しいと主張したのである。しかもそのことについて、"ネイティブの翻訳チーム"に確認を取ったとも主張していた。
そうというわけなので、ここではただ純粋に、"should be thankful that there was no damage"という英語を読解していきたい。ネイティブがこの言い回しをつかった場合、神に感謝というニュアンスは自明なのかどうか。
追記2
キリスト教的な価値観に従えば、すべての幸運・結果は神のおかげということになるかもしれない。
そういう意味では、アメリカ人が「被害がなかったという幸運」とか「被害がなかったという結果」に感謝するというのは、結局は神への感謝ということにつながっているのだろう。
とはいえ、もし「神への感謝」というニュアンスが明確なのだとすれば、これはすごく宗教的で信仰のための言葉だということになる。
アメリカの無神論者や異教徒たちは、この言葉をわざわざ避けたりしているのか。ポリコレ的な問題にもなったりしているんだろうか。