はてなキーワード: Charlieとは
(Facebookに投稿したものを転記しました。よかったら読んでください)
羽田空港での日本航空機と海上保安庁機の衝突事故ですが、事故の調査と捜査が始まりました。
それで、今わかっていることをまとめておこうと思います。
長文になりますが、本論に入る前に4つ説明したいことがあります。
前説明①
目的② 事故の責任を明らかにし、違法行為があれば刑事事件として立件する
①の調査は国土交通省の運輸安全委員会が担当し、②の捜査は警察(今回は警視庁)が担当します。
みなさんはどちらの調査・捜査の方が重要とお考えになりますか?
私は①と考えていますので、この投稿は再発防止の観点中心に記述しています。私は誰が悪かったのかという責任論にはほとんど関心がありませんし、(故意でない限り)関係者全員刑事免責でいいと思っています。今回の事故では、日本航空も海上保安庁も被害者に対する民事的責任のみ果たせばいいと考えています。
前説明②
滑走路での衝突事故は、世界的にみると頻繁とまではいいませんが時々起こっています。原因はヒューマンエラーが中心です。
航空事故にはならなくても、事故になる危険が高かった事態をインシデントと言いますが、日本で起こった重大インシデントのうち、かなりの割合が滑走路への誤進入(未然も含む)です。
日本での重大インシデントは国土交通省が全件公表していますが、2023年は14件中3件、2022年は14件中6件がそうでした。特に私たちが乗る可能性が高い旅客機(小型飛行機やヘリを除いた飛行機)だと2022、23年とも2件の重大インシデントが発生しそのうち1件が該当インシデントでした。
事故にはならなくても滑走路への誤進入(未然も含む)という事態は繰り返し起こり続けています。ヒューマンエラーはなくせないということです。
前説明③
羽田空港に限らず飛行機の航路や使われる滑走路などは厳密に定められており公開されています。
今回の事故は北風運用時のC滑走路上で17:47ごろ発生しました。
北風運用の場合、A滑走路を(主に南/西からの便の)着陸、D滑走路を(主に南/西行の便の)離陸、C滑走路を(主に北方面と長距離便の)離発着に使います。
C滑走路は離発着両方で使われますし、C滑走路への着陸経路は、D滑走路の離陸経路と交差しています。
羽田空港の場合、北米方面への便が離発着する15~19時が離発着ラッシュとなります。
事故は、羽田空港の一番忙しい時間帯に、運用が複雑な滑走路上で、日没して既に真っ暗になった時に起こりました。
前説明④
飛行場管制には、離陸や着陸、滑走路横断などの許可を出す飛行場管制(タワーコントロール)と、飛行機や車両が地上走行する許可を出す地上管制(グランドコントロール)の2つがあります。
本論で、(タワー)とか(グランド)とか書いていますが、それはどちらの管制が指示したのか明示したかったのでそのように記述しています。
前置きが長くなりましたが、今までわかっていることを9つ列挙します。
列挙にあたっては、( )内に次の略号をつけていますが、列挙した事柄をどこから収集したかを示しています。
(1)
ILS Z RWY34R Approachという経路を通っているように思います。着陸まで特に目立つ異変はありません。(F)
(2)
羽田の管制と海保機、JAL機へのやり取りがこの事故原因解明の重要ポイントであることは間違いなさそうです。
各種報道もありますが、鵜呑みにせず、やり取りについて自力で追ってみます。(ネA)
この情報は、特に次の2つの投稿を参考にしています。なお時刻については、1~2秒のずれはあります。
https://www.youtube.com/watch?v=LP1xWcyKBDs
この投稿を基準にして他の投稿等と突き合わせして確認しました。
https://www.youtube.com/watch?v=D8FHnIRwe_M
グランドとの交信があります。わかりやすいのですが一部私の解釈と違う部分もあります。
17:42:29 JA722A, Tokyo Ground Hold short charlie.
17:43:11 Japan Air 516, Continue approach 34R.
(タワーからJAL機へ:34R滑走路へ進入を継続してください)
17:44:13 JA722A, Continue charlie.
17:44:53 JA722A, Contact Tower 124.35.
(グランドから海保機へ:周波数124.35でタワーへコンタクトしてください)
17:45:00 Cleard to land 34R Japan Air 516.
(JAL機からタワーへ:34R滑走路は着陸に支障ありません)
この直前にタワーからJAL機へ着陸許可が出ているはずですが、LiveATCには残っていないようです。
17:45:13 JA722A, Tokyo Tower Good Evening number 1 taxi to holding point charlie 5.
(タワーから海保機へ:JA722A、東京タワーです。こんばんは。ナンバー1(離陸順1位)です。C5地点へ移動し停止してください)
この後のタワーと海保機、JAL機の交信は私が探した範囲では残っていませんでした。
(3)
交信記録については、国土交通省が日本語訳したものを公表したという報道があります。(報)
それによると、17:45:13の交信の後、「滑走路停止位置 C5に向かいます。1番目。ありがとう。」と海保機から返答があったということなのですが、ライブやアーカイブでこの交信を聞いたという人は、私が探した限りいません。私が聞いたアーカイブにもありません。
国土交通省はせっかくATCを公開したのだから、日本語訳だけでなく原文を公開してほしいと思います。
この部分は、海保機がどのような認識をもっていたか理解するうえでとても重要だと思います。
(4)
この後、タワーから海保機に対して、滑走路進入許可(Line up)が行われた交信は見つかりませんでした。(報ネA)
タワーは滑走路進入許可も更にその先の離陸許可(Cleared for takeoff)も行っていないと報道されていますが、信憑性は高いと思います。
一方、海保機側は、滑走路進入許可を得たと認識しているという報道がありました。(報)
事実、滑走路に進入し、そこで待機していたため衝突事故は起こったわけですから、タワーと海保機側で認識の相違があったのはほぼ確からしいと思います。
この部分は推測ですが、ナンバー1(離陸順1位)という表現を誤解したのではないかという指摘があります。(報ネ)
一方、2010年までは「taxi into position and hold (from charlie 5)」という指示が使われていました。この意味は「(C5地点から)滑走路に入り待機せよ」となりますが、これと「taxi to holding point charlie 5」を混同したのではないかと推測する意見もありました。(ネ)
いずれにせよ、なぜタワーと海保機との間に認識相違ができたのかという点はもっと調査が進まないとわからないと思われます。
(5)
海保機は、C滑走路に進入しそこで40秒ほど待機していました。(報ネ)
その間、離陸許可を待っていたと考えられますが、離陸許可を得ようとする交信があったかどうかは明らかになっていません。
また、JAL機にはパイロット3名体制だったと報じられていますが、3名とも滑走路に進入した海保機を視認できていませんでした。
既に夜になっている状況で、多数の灯火が光っている滑走路に、わずかな灯火した持たない航空機が進入しても視認は難しいだろうとは思いますが、検証する必要はありそうです。
(6)
羽田空港には、着陸機が接近する滑走路に別の機体が進入した場合、管制画面に注意喚起をする機能が備わっていました。(報)
もしこの機能が正常に動作していたのであれば、タワーはなぜ海保機の滑走路誤進入に気づけなかったのかという疑問が残ります。
(7)
滑走路に進入しようとする飛行機に誤進入を警告する航空機接近警告灯(REL)というシステムがありますが、羽田空港には導入されていません。(ネ)
代わりに、羽田空港には可変表示型誘導案内灯(VMS)が設置されていますが、C滑走路には設置されていないという情報があります。(ネ)(これはまだ確認できていません。すみません)
両方とも滑走路を横断する飛行機に対する警告を発する灯火システムなので、滑走路横断のないC滑走路には設置する考えがなかったかもしれませんが、離陸着陸の混合運用を行う滑走路についても、警告システムを導入すべきなのではないか、少なくとも検討は行う必要はあるのではないでしょうか。
さらに、先進型地上走行誘導管制システム(A-SMGCS)の研究を促進し、将来的に滑走路誤進入が生じにくいシステムを導入してほしいと思います。
(8)
1/1には羽田と新潟基地の間を4往復、事故の起こった1/2も2往復しています。(報ネF)
もし能登地震が起こっていなかったら、この事故もきっと起こっていなかったでしょう。
犠牲となった乗員のご冥福をお祈りします。
(9)
JAL機の乗客乗員379人、一人も死者を出さずに脱出できたことは奇跡的と思います。(報ネ)
まずは、JALの乗員がしっかりと訓練していたことは賞賛に値すると思います。
・後部ではパイロットとの通信が途絶え、CA自らが判断して扉を開けたこと
・パイロットは最後まで機内に留まり、全員が脱出したことを確認してから降機したこと
また乗客もパニックにならず荷物を取り出すことなく整然と脱出したことも、賞賛に値すると思います。
JAL機側に死者がでなかったことは、本当に不幸中の幸いでした。
ちまたには、海保機を犯人と決めつけ、責任を問う声も上がっているようですが、航空機事故が生じるのはそんな単純な原因ではなく、さまざまな不運が積み重なって起こるということをわかってもらえればと思います。
私は、誕生から幼稚園に入るまで、大分の大空団地(おおぞらだんち)という旧大分空港に隣接した団地で育ちました。
毎日飛行機の離発着を見ていました。飛行機を見るのが大好きでしたし、今でも大好きです。
航空機事故はとてもインパクトの強いものですが、それでも他の乗り物に比べれば安全な乗り物と思います。
そしてその安全は、航空関係者の努力のたまものと思っています。
そんなわけで、ちまたの単純な犯人捜しの声にはとても心を痛めています。
最後に、私は専門家ではないので、できるだけきちんと調査し、正確に記述するように努めましたが、もし誤った認識等があればご指摘ください。
Arag_on
@arag_on
ナッシュビルの小学校乱射事件の監視カメラ映像。Audrey Elizabeth Hale, 28才、トランス女性が校内で乱射しています。
あまのじゅく (amanojuku)
@amanojuku
#アリゾナ州 知事 #ケイティ・ホッブス の報道官が辞任。#トランスジェンダー 容疑者による #テネシー州 ナッシュビルの銃撃事件を受け、同報道官はトランス・アジェンダに反対する人々への暴力を擁護するツイートをしていた
Charlie Kirk
@charliekirk11
BREAKING: Arizona Governor Katie Hobbs's press secretary has resigned after posting a tweet advocating violence against those who oppose the radical trans agenda.
LGBT差別禁止法とか理解促進法とか多様性推進とはLGBTが殺人事件を起こしても称賛される世界になります。
𝕬𝖒𝖚𝖑𝖊𝖙 𝕸𝖎𝖗𝖗𝖔𝖗
@ATC555555
NEW 🚨 マドンナがセレブレーション・ツアーのナッシュビル公演を発表、テネシー州でLGBTQ+コミュニティを対象とした2つの法案が可決された後、収益はトランス権利団体に寄付されるとDaily Mailが報道。
https://twitter.com/ATC555555/status/1640548310204428288?s=20
MahinaMelia🏝
@MeliaMahina
「マドンナは、数人のキリスト教徒が殺害された後、ナッシュビルで「トランスの権利」のためにコンサートを行っています.悪魔的。起きろ」Nashvilleでやったらしいけど本人"人身売買で告発されてますからね🤣🎬🍿
https://twitter.com/MeliaMahina/status/1641421782568804354?s=20
buvery
@buvery
ナッシュビルの学校で、乱射女(自称トランス)が射殺した女の子の一人。乱射女に気がついて、火災報知器を鳴らしたんだって。乱射犯の邪悪な女(自称トランス)を擁護するのが、裁判で森奈津子さんにしばかれまくったゲイのしばかれ隊の人物であることは、覚えておこう。
Charlie Kirk
@charliekirk11
BREAKING: Arizona Governor Katie Hobbs's press secretary has resigned after posting a tweet advocating violence against those who oppose the radical trans agenda.
○色即是
@shikisokuze91
·
ナッシュビルの銃殺犯人、結局はトランス”男性”だったの?はなっからトランス女性だと決めつけてあとは知らんふりの連中の下劣さも酷いけど、そもそも犯罪とトランスという属性を直結させて騒ぐこと自体が、ネトウヨと同レベルだからな? #トランス差別に反対します
高機能自閉症の女性に無理やりホルモン療法をするのが反差別なのでしょうか?
@Kanreihaku
ナッシュビルの警察署長は、動機は不明だが恨みによる可能性が高いと発表してる。
https://twitter.com/Kanreihaku/status/1640936068148232195?s=20
つまりトランス男性(男性と言いはる女性)は高機能自閉症なんですね。
@MojaMojappa
💬「トランスの権利」を要求するトランス活動家の群集がテネシー州都を襲撃。
🤖性自認思想って「なりすましOK思想」だもん、自動的にヤバい人が集まっちゃうよねぇ…😨
https://twitter.com/MojaMojappa/status/1641553335059877888?s=20
被害者にしたてた上に警察を襲う。これを批判したら差別ですか?受け入れるために理解促進法が必要でしょうか?
全くありえない話です。
岸田✝️🇯🇵非接種を貫く会
@anthus153
"ハリー・スクラッグス (チャド牧師の娘) は、今日、ナッシュビルでトランス過激派のオードリー・ヘイルによって殺害された 3 人の子供の 1 人でした。
コヴナント学校でのキリスト教徒に対するテロ攻撃の犠牲者であるスクラッグス家と他のすべての人のために祈ってください."
https://twitter.com/anthus153/status/1640679463808815105?s=20
B&N調べ今週のビジネスカテゴリ新刊『100 Stocks That a Young Warren Buffett Might Buy: Proven Methods for Buying Stocks and Building Wealth Like Warren Buffet and Charlie Munger』「せやろか」
『You Negotiate Like a Girl: Reflections on a Career in the National Football League』「せやろか」
『When McKinsey Comes to Town: The Hidden Influence of the World's Most Powerful Consulting Firm』「せやろか」
サマセット=モーム全集で『月と六ペンス』の次の作品だったので、この作品から続けて読んだ。結果、興味深い点もあったが、全体としてはいまいちだった。
1925年に発表された、中国の英国植民地になっている仮想の町を舞台とした作品で、その設定は面白く、簡潔で要領を得た人物描写も巧みで興味深く読んだが、人物の書き込みが足りない。またプロットが性急すぎる(展開が早すぎる)。このせいで全体としてやや散漫な印象を受け、作者が連載小説を書くために書いているだけの印象を受けて、全80章を最後まで読むのがだるく感じた。
全編を通してKittyの揺れ動く心理描写がテーマになっているといえばいえるが、読後感としては、何だこりゃという感じである。サマセット=モームは人間の多様さを書くのだが、それ以外に何もない。中国を題材に取っているため、タオを人生観として提示してこの小説は終わるのだが、どうもとってつけたような結末だという印象がぬぐえない。
この小説を読んで、もうしばらくサマセット=モームはいいやと思った。
主人公のKittyは植民地官僚のCharlieと不倫をしている。夫で細菌学者のWalterは典型的な理系の人として描かれている。非常に真面目で、抑制的で、冷徹な印象を与える。不倫が露見すると、WalterはCharlieを訴えるかわりにKittyをMei-tan-fuという街に連れて転任するよう提案する。この町はコレラが蔓延していて、Walterは医者として派遣される。Kittyは自暴自棄でMei-tan-fu行きを承諾する。転任しても二人の間には冷たいものが流れる。仮面夫婦だ。ある日Kittyは街の修道院を何の期待もなく訪問し、そこで働く修道女たちの姿に感銘を受ける。また修道女たちはWalterの献身的な努力を褒めたたえる。Kittyは自分が無価値な人間であることを悟り、修道院で働き始め、修道院長のMother Superioの人格にも感化されつつ、少しずつ変わっていく。そんな折、Kittyの妊娠が発覚する。身体に宿っているのがWalterの子か、Charlieの子か、はっきりしない。そのことをKittyはWalterに正直に言う。Walterはその直後にコレラにかかって死ぬ。検視によれば、彼は事故でコレラに感染したのか、実験中に故意にコレラに感染したのか、判別がつかない。KittyはWalterの死に衝撃を受ける。修道院長に諭されて帰国を決意する。もとの植民地都市に戻った時にCharlieの妻の発案でCharlieの家に寄宿して、憎んでいたはずのこの男に結局再び身体を許してしまい、激しい自己嫌悪に駆られ、英国に帰ることを決意する。帰途、マルセイユでKittyは母の病死を知る。ロンドンの家に戻ると、父はバハマの植民地総督として赴任が決まったところであり、Kittyはロンドンでの生活を選ばず、父に着いていくことを決める。
定期的に出るんだけどビジネスだとかならずやる。
公務員が法令を起案するときに内閣法制院とかいうとこで議論するけどそこではだいたいそれをやる。日本語の動詞なんて3種類くらいずつあてられる漢字があって意味が違うからな。1文字まちがっても政権がひっくりかえりかねないし。
よくある計る、測る、図るとかも「ケイる、ソクる、トる」とか呼び分けてるはず
英語のA--Alpha. B--Bravo. C--Charlie. D--Delta. E--Echo. F--Foxtrot. G--Golf. H--Hotel. I--India. J--Juliett. K--Kilo. L--Lima. M--Mike. N--November. O--Osca とかとおなじ
恋に落ちてるとまだ言えるの?
誰かのことじゃないよ
違うよ
恋に落ちてるとまだ言えるの?
君の世界を誰かが変えたの?
願うよ君が孤独じゃないと
願うよ思い出は偽りじゃない
洗いざらい許してよ
まだ白旗あげないで 君は今まさに
孤独に謝り続ける
あぁ 散らかっている人生
あぁ 心乱れて死にそう
愛がすれ違ったときを思い出す
調べ求めた真実を見つけた
あぁ 散らかっている人生
そうさ 心乱れて死にそう
愛がすれ違うときを思い出す
探し続けた真実を見つけた
最悪だった でも今よりいいや
試練や苦難が 僕を正した
良いや悪は 全て感じて思うんだ
僕らの周りは 僕らを包むものは
見失った愛の見失った理由だ
僕のせいでなくても僕らは痛めつけられた
そんなとき君を見つけた
世界がひっくり返ったんだよ
それでいいんだよ
孤独に謝り続ける
あぁ 散らかっている人生
あぁ 心乱れて死にそう
愛がすれ違ったときを思い出す
調べ求めた真実を見つけた
あぁ 散らかっている人生
そうさ 心乱れて死にそう
愛がすれ違うときを思い出す
探し続けた真実を見つけた
Life's A Mess - Juice WRLD ft. Halsey
「Life's A Mess」はRex Kudoプロデュースで生前Juice WRLDが収録していた音源にCharlie Handsomeがアレンジを行い、
The Chainsmokersの「Closer」への客演や「Without Me」のヒットで知られるHalseyがコーラスを重ねた。
7月6日に突如Juice WRLDのニューアルバム「Legend Never Die」の発売(アメリカでの発売日は7月10日)とリードトラック「Life's A Mess」のMVが発表されました。
GeniusやYoutubeのアメリカチャートではすぐにトップになって死後も人気が衰えてないんだな、すごいなと思いましたよ。
人気かつJuice WRLDは早録りで有名で未公開音源が1000曲以上あると言われているので当分リリースは続くんでしょうね。
哀愁漂う浮遊感をまとったメロウなビートセンス、内省的なリリックとそれを体現するようにぼそぼそとしたフロウ、その陰鬱さを補うかのように織り込まれるメロディアスな旋律、
これらの特徴を持つラッパーは主にSoundCloudで楽曲を発表していたことから「Cloud Rap」と呼ばれ、Juice WRLDはその決定版といえる存在でした。
Juice WRLDは恋愛を主なテーマとしており、ラッパーにしては独特な詩世界を展開していたのがひと際人気だった一要因なのかもしれない。
自分は「Lucid Dreams」で知ったにわかだけど、オリジナルアルバムは二枚ともすごく気に入ってたのでああいう最期になったのはすごくショックでしたね。
USラッパーが日本語話者だったらというイメージで原曲の押韻の語感をなるべく崩さないよう意識して訳しているんですけど結構違和感残るんだよな…
日本でこういう内容のリリック書くラッパー珍しいので、イメージが次第にRadwimpsの歌詞にずれちゃってたんですけどね。すんません。
https://twitter.com/goeland_argente/status/825881166334996481
Cinq idées reçues sur le “nouveau” Front national
フランス語はそんな上手くないし、フランスの政治には全然詳しくないのでひどい訳です。
どんどん誤りを指摘してください。補足してください。何ならもっといい翻訳をつくってください。
*****
モンペリエ大学とパリ政治学院の政治科学の助教授であるアレクサンドル・デゼは、『問題になっている「新しい国民前線」』の中で、ステレオタイプに反して、国民戦線については、新しい点よりも昔から変わらない点の方がはるかに重要であることを示した。
2014年の選挙での国民戦線の戦績が良くなったことは否定すべくもない。しかしながら、そのことを過大評価してはならない。アレクサンドル・デゼは次のことを思い出すように促す。地方選挙において、国家的レベルと結びつけて考えるなら、1995年のときのように、票の4.7%しか獲得していない。これらの結果を、2012年の大統領選挙の時の人口10000人以上の都市におけるマリーヌ・ル・ペンの結果と比較してみよう。そうすると、今回の地方選挙の結果は、票数に関してはいくらか劣っているものだと言える。ヨーロッパ選挙に関していえば、かつて聞かれたように、29.4%のフランス人が国民戦線に投票したのではない。棄権を考慮に入れるならば、有権者の10%だけである。
奇妙にも、県の選挙の結果は、彼らの前進を示している。ただ、世論調査での高い予想のせいで、この結果は過小評価されている。国民戦線の候補者は43の県で1位であり、1107の小郡(canton)で、降りずに留まっている。
これらの結果というのは、国民戦線を彼らのスローガン通りの「フランスの第一党」とするには不十分なものである。アレクサンドル・デゼは、国民戦線の存在感というのは、市町村レベルでは副次的なものであり、地域圏(1880人の議員のうち118人、議長は1人もいない)・県(4108人の議員のうち62人、議長は1人もいない)・国会(577人の代議士のうち2人)のいずれのレベルでも甚だ不完全なものである。党員の数について言えば、国民戦線には42000人の活動家がいるが、その数は依然共和党と社会党よりも少ない。
2011年1月にマリーヌ・ルペンが国民戦線の党首に選ばれてから、「脱悪役(dédiabolisation)」という戦略が実行されるようになってから、エリゼ宮(※大統領官邸)への道のりは既に引かれたのだ、という声がしばしば聞かれるようになった。しかし、全くそうではない、とアレクサンドル・デゼは静観している。「この読みはメディアの大多数によって共同でつくられ引き継がれたことによって認められているのだから、政治的なフィクションの領域に属するような話である。」
国民戦線は、国政の責任者に至るまでには、おそろしいほどに枠組みを欠いている。他の党との「融和」を誇示するような最近のいくつかの手がかりのうち、いくつかはあまりに短い間であったし、あるいは、内部で問題視されていた。さらに、権力の扉は国民戦線に対して無情にも閉じられたままであるだろう。選挙制度上の理由で、今まさにそうであるように、国民戦線は政治的に孤立したままでいるだろう。「この孤立は、2回に分けての多数決投票が影響力をもつ政治システムのうちでは、権力への道を妨げる最大の障害物になる。」
国民戦線は他の党と同じような党になったのだろうか? マリーヌ・ル・ペンによってなされた刷新というのは、本当に党の顔を変えてしまったのだろうか? アレクサンドル・デゼによれば、これらの疑問への答えは改めて否定的なものである。マリーヌ・ル・ペンの就任の前と後での国民戦線の戦略、プログラムとその支持者を比較して語るところでは、「マリーヌの国民先生とルペンの国民戦線の間には、新しくなったところよりも十分多くの変わらないところが多い」のである。脱悪役? 国民戦線の歴史は、絶え間なく更新される脱悪役の試みの歴史である。したがって、右派へと国民戦線が差し出す手のうちに、あるいは、立派な風貌を打ちだすことによって新しい支持者を集めているとされている周辺的なさまざまな手段のうちに、新しいものは何もないのである。
プログラムに関していえば、国民戦線は常に自らの基礎に立脚している。反体制的批判、国家の特恵、国家の防衛、欧州連合の拒否、ユーロ圏からの離脱、失業と不安の原因と見なした上での移住の拒否である。反リベラルへの再定位は1992年に遡るが、マリーヌ・ル・ペンの社会的な演説は、連続性を担っている。
リーダーシップに関して言うと、マリーヌ・ル・ペンは、彼女の父親のイメージとの対照によってそのメディア上のイメージが形作られている。「このような対照性が推測されていることは、国民戦線に新しく投票するようになった人が、自らの投票を正当化するために持ち出されるような、最先端の議論になっている」とアレクサンドル・デゼは語る。しかしながら、言説における一連の相同性や、マリーヌ・ル・ペンが自分の父親について反対を示さなかった機会を列挙するこの研究者によれば、マリーヌ・ル・ペンと彼女の父親との差は、思われているよりも微々たるものである。例えば、2014年5月に父ルペンが「エボラ殿下」の介入が「人口爆発」と移民の問題を解決しうると主張した時、あるいは、彼が2015年1月に「私はシャルリーではない。私はCharlie Martel(※イスラム教徒のヨーロッパへの進出をイベリア半島までで食い止めた8世紀フランク王国の王)だ」といったとき。これらはいずれも、議員の免責特権の恩恵を被ることはなかった(「人種的憎悪の扇動」として彼女を追及することは、現在進行系で行われている)
最後に、その組織図に関して、「粛清」という幻影を生み出しながら、党によって過激すぎると判断された特定の諸個人を排除した。しかしながら、アレクサンドル・デゼが述べるところでは、「国民戦線は過激な極右のグループや活動家たちと、緊密な関係を維持している。」コゴラン市(Cogolin)の国民戦線の市長は、GI(Génération identitaire)の共同創設者であるジュリアン・ランゲラ(Julien Langella)を広報担当として2014年に起用した。ボーケール(Beaucaire)の国民戦線の市長は、GIのスポークスマンであるダミアン・リュー(Damien Rieu)を、市の広報部長補佐として任命した。二つの例を挙げれば十分だろう。
"I AM KENJI"を見て、「え、"WE ARE KENJI"じゃないの?」とちょっと気になった。
Charlie Hebdoが襲撃された後の"Je suis Charlie"を踏まえての表現だと思う。
何故フランス語では"Je suis Charlie"になったのか。
この記事 ( http://www.washingtonpost.com/news/volokh-conspiracy/wp/2015/01/09/the-two-french-meanings-of-je-suis-charlie/ )によれば、
なので、"Je suis Charlie"は
のダブルミーニングになるとのこと。なのでフランス語では"Nous sommes Charlie"でなくて"Je suis Charlie"としたことには、意味がある。
英語ではそういう意味はないから"WE ARE KENJI"にした方が良かったんじゃないか。
「スローガンなんだから多くの人の合意があれば、何でもいいじゃん」と言われれば、その通りかも。でも思うのは
ということがあると思うので、こだわりたい。更に、雰囲気でパクってしまっているために、"I AM KENJI"は"Je suis Charlie"を正しくパクれてないと思う。
言論の自由を守るためのスローガンと、テロリストに屈しないことをアピールするスローガンは、そんなに簡単に同じにならない気がするんですよ。
日本は宗教に寛容な国であるので、境界線もあやふやで、曖昧だったりする。
例えば、イスラム教徒のことをムスリム(Muslim)と呼ぶということは知っていても、
その認識は、回教徒と呼んでいた頃から変わっていなかったりすることが多い。
襲撃を受けたフランスの新聞が、ムハンマド(Muhammad)を風刺画に書くことの何が問題か、
できるだけ、テロとは距離をおいた形で、少し話してみたい。
イスラームの話をする前に、我が身を振り返ってその曖昧ぶりを思い返してもらいたい。
まあ、宗教のテクニカルな話をすると、はてな村のギーク達は「あとで読む」を付けるだろうから、ちょっと例えてみよう。
まず、仏教には「世界はこういうものだ」という物理層がある。輪廻だとか解脱だとかだ。
モノリシックカーネルもマイクロカーネルも、OSの設計思想も、
結局のところ、ノイマン型アーキテクチャを基にした世界観の上に構築されているわけだ。
宗教とは、目の前に存在する「現実」をリバース・エンジニアリングしている。
その構造分析の結果、あるモデルにピッタリハマれば「悟った」と言われる。
般若心経は、Z80の手書きのニーモニック表と同様だと思えば、親しみも湧くだろうか。
さて、「現実世界」は中々簡単にディスアセンブル出来ないので、
できればインテルから直接、回路図なんかの技術資料をもらうみたいに、
「現実世界」を作り上げたり、その内部構成を知ってる相手に教えを請いたい。
その教えを請うことに成功したのが、預言者であるムハンマドだ。
大天使ジブリールに出会い、アッラーフの啓示を受けたとされている。
電気屋で悩んでたら嶋正利さんにCPUの論理設計について教えてもらえた、みたいなものだ。
まあこのへんでやめとくが、この教えてもらった世界の仕組みを書き留めたものが、クルアーン(コーラン)だ。
血なまぐさい話になるのでさらっと流すが、まあ日本でも大覚寺統と持明院統とが大揉めに揉めて南北朝同時成立したりしてたわけだ。
さて、「現実世界」を理解しハックしたのがムハンマドってことは、クルアーンに従って生活するのが良いわけだ。
つまり、本質的に宗教は「現実世界への関わり方」を示していることになる。
(残念ながら注釈でしか読んだことがなく、その美しいアラビア語による原典に触れたことはないが)
世界への関わり方は、時として人によって酷く違った解釈をされることがある。
デヴィット・フィンチャーの「セブン」という映画を観たことがあるだろうか?
キリスト教の七つの大罪をモチーフにした連続猟奇殺人事件と、それを追う刑事達の物語だ。
フィクションでは分が悪いと思うのであれば、エド・ゲインを思い出しても良い。
母親が狂信的なキリスト教信者であり、女性は悪魔だと教わって育ったと言う。
彼らは、その教えを忠実に守り、どちらかと言えば善意からその行為を行っている。
こうした連続殺人を観て、キリスト教信者をなじったり、キリストを風刺するのは、あまり面白いとは言えない。
彼らは、キリスト教信者ではあったかもしれないが、本来の教えとは異なる解釈をした、単なる犯罪者だからだ。
まあ、現代でもキリスト系のパロディー映画には苛烈な抗議文が届いたりするようだが、
過去、キリスト教会に対する風刺や批判は、即刻刑罰の対象になっていた時代が確かにあった。
「聖☆おにいさん」を書いたら暗殺され、それを民衆が支持する時代だ。
これは信教の自由と、表現の自由の、長い戦いの歴史がもたらした冷戦構造でもある。
表現者は、今回のフランスの新聞社への襲撃は、反対の異を唱えるだろう。
端的に言えば「オマエの意見には反対だが、それを主張する権利は命がけで守る」だ。
疎い人ほど、「ムスリムはそういう過激な宗教の人なんでしょ」という理解をする。
また、「その風刺はいかがなものか」と「表現の自由を守る」が、矛盾なく同時に主張できると判らない人も居る。
そうすると、「表現の自由を尊重しない宗教が、テロに走った」と捉えられてしまう。
「表現の自由を守るためには、テロに屈せず、また風刺画を描く」のが正しいと思われてしまう。
人は理屈ではなく感情で行動するので、こうした時に、出来る事はほとんど無い。
淡々と、「その風刺は侮辱なので訴えます」とフランスの法律の範囲内で行動するしかないのだろう。
ブリジット・バルドーは、何度もそうやって訴えられ、フランス司法はキチンと刑罰を下している。
(またフランスはユダヤ人に対する人種的差別には敏感で、割とちょくちょく出版社に罰金刑を出している)
日本人が日本を馬鹿にした出版社を襲撃する事件があれば、その日本人を非難し、襲撃された出版社側に立つだろう。
その後、日本を馬鹿にした出版社の表現の自由を守りつつ、淡々と法律に則って侮辱されたとして訴えるしかない。
今回、欧州の各種ムスリム団体がテロ行為を非難している事は、忘れてはいけないと思う。
Je suis Charlie(私はシャルリー)とつぶやく前に、Je suis Ahmed(私はアフメド)として呟いたムスリムの言葉も聞いて欲しい。
I am not Charlie, I am Ahmed the dead cop. Charlie ridiculed my faith and culture and I died defending his right to do so.
question:http://anond.hatelabo.jp/20150110214339
宗教を信じる人(イスラム教徒ぽい)が信じない人(non-believer) によって書かれたものを見て、傷つきショックを受けている様子。その横には宗教を信じない人が信じる人によって短剣で殺されている図。
確かに、イスラム教、キリスト教を煽るような鋭い風刺画が数多く書かれたかもしれない。それが嘘ではなく本当のことだからこそ、多くの人が反応し、論争を巻き起こし、それがメディアとしての立場であったのだと思う。それに対して暴力で抵抗するという行為が短絡的で幼く、卑怯で、どんな理由があったにせよ許さざる行為であることは誰の目にも明らかであるはずだ。だからこそ、多くの人が"Je suis charlie”を掲げているわけで、私もここにいる、意見をもったその一人だ、という意味だと思う。をれを卑怯な行為として責めるという人がいることに驚いた。
追記:言いたいことはこの方 http://blogos.com/article/103027/ が的確に言い表しておられますので追記しました。
この種の事件が起きると、被害者の落ち度を指摘する声が上がる。テロは許されないが、被害者も悪い、というわけである。テロが現実に行われているこのタイミングで、被害者側のアラを指摘するということの意味は、どんなにテロはゆるされないとの前提を置いたとしても、結局テロにも一分の理があるといっていることになるのだ。そう、ちょうど性犯罪被害にあった女性に、挑発的な服装だと非難するようなもので、その指摘が真実にかなっていたとしても、その効果は犯罪行為の許容をもたらす。表現行為の当否をめぐる議論は、また別のタイミングで、暴力にさらされていないところでのんびりやってもらいたいものである。
Charlie Hebdoを
非常に極端な新聞社
そんな中で自らの居場所であるイスラム教をバカにするような、それもヘイトスピーチ同然な言論を行うことが、どれほど彼・彼女たちにとっては辛いことか
といじめられっ子に仕立て上げる、ここが論点の間違いです。だから"Je suis charlie”は適切でない、という理論は結局成り立たないばかりか、テロにも一分の理があるといっていることになると思います。
追記:http://blog.goo.ne.jp/iida-miki/e/0d68f604177d2bdeb387e20a5dc9afb0 フランスの新聞社 シャルリー・エブド襲撃事件について
に詳しく書いてあるように、Charlie Hebdoは
シャルリー・エブドの風刺については、何もイスラム教だけに限ったことではなく、イスラム教、というよりもイスラム原理主義など、行き過ぎてしまったものに対する風刺を中心としていたようだ。「表現の自由」というフランスのプレス、フランスの文学、哲学の根幹とも言えるようなものを代表し、具現しつづけていた新聞社だった。彼の風刺画はあくまでもユーモアであり、誰かを傷つけようという意図ではなく、「ちょっとこういうのって行き過ぎ難じゃないの?」という状況を風刺画で描いていた、ということだ。
わけで決してイスラムに対するヘイトスピーチではなかったということは非常に大切な事実であると思う。
追記:根本的にテロ容認論ではないと言っていながら"Je suis Charlie”を掲げることは卑怯な行為というのがどうも矛盾しているとしか思えない、いま、この時期に多くの人が"Je suis charlie”を掲げること=”テロ容認できない”からである。”Je suis Charlie"は、私はイスラム教徒をヘイトします、というような意味ではないと思います。
追記:id:angmar ジャイアン=Charlie Hebdo のび太=イスラム教徒とする理由がわからない。どちらかというと逆だと思う過激で暴力的で人の意見に耳を貸さないジャイアン=過激派イスラム教徒に対して、コツコツとジャイアンを風刺(非難嘲笑含む)してきたのび太=Charlie Hebdoがジャイアンに殴り殺されたという風にも言えると思う。クラスのみんな=フランスはいろんな意見があって、ジャイアンが悪いという人もいれば、でもジャイアンはジャイアンなりの生き方があるだろうと寛容しているひともいる、ジャイアンが怖いし敢えて面と向かって非難することはなかったし、のび太もちょっとやりすぎじゃないって思う人もいたんだけど、この機会に誰もがジャイアン、いくらなんでも人を殺すのはよくない、となっているんではないんですか。
追記:id:kantei3 私はこの時点で"Je suis charlie”を掲げること=”テロ容認できない”ということだと思うので、"Je suis charlie”は卑怯ではないと思います。イスラムなんとかが主要メディアを買い取って、それ方向の出版ばかりやったらそれは非難されるべきことだと思います。Je suis charlieは、繰り返しますが、私はレイシストです、私はイスラム教徒をヘイトします、というような意味ではないと思います。
※追記4
書き始めた時点で存在している、返信が必要だと思ったブコメに対する返信
id:kusoinakakagoshima 卑怯なのはテロ行為なんですが。ムスリムの価値は豚の糞以下だよ 肥やしにもならない
はい、テロ行為はこれ以上ないほどに卑怯です。しかし、表現の自由を守るという文脈で私たちはシャルリーである、と言うのも卑劣な行為ですというのは増田を読めばお分かりいただけると思います。また、あなたの後半の発現はヘイトも同然な発言です。在日の価値は豚の糞以下と言っるのと同様です。つまり、シャルリーにように建前として宗教を批判しているのではなく、建前の時点で宗教を信じている人たちを直接的に攻撃しています。
id:sny22015 難しいな。米映画「ラリー・フリント」では目を背ける様な唾棄すべき表現であっても法の下では護られるべきという、自由を勝ち取って作られた国の理念が描かれていたが…それは自由の濫用だという非難にも首肯できる
アメリカは徹底した表現の自由の国です。あそこまでいくといっそすがすがしいなという思いがあります。ヨーロッパは、特にユダヤ人に対する抑圧の歴史から、第二次大戦後ヘイトスピーチを規制しようという機運が高まってきたので、事情はアメリカとは異なります。
id:vhthlh これフランス国内の一般人や知識人達はどう考えていたのか気になる。
フランス人の間でも前々から議論になっていました。イスラム系団体の中には裁判という言論によってカウンターを行うグループが出てきたりしていましたが、こうした流れのさなかに今回のテロ事件が起きました。恐らく今まで積み重ねてきた努力が水泡に帰してしまうことを考えると、本当にテロは許されざる行為だという思いを強くします。
id:hal9009 これに乗じてこういう統制主義者とでもいうべき規制派・自由嫌いがもっともっとヘイトスピーチとされる行為の範囲を拡大していかなければならないって言い始める機会も増えるだろうな~
表現の自由を維持するためには表現の自由をabuseする言論を一定程度は規制する必要があると考えています。
id:ayanapapa 針ネズミが腫れ物に当たったわけだからどうしようもない。ただ日本も無関係な話ではない、イスラム教徒は増えているが他の先進国と同じく疎外され殻に閉じこもる。近い将来フランスと同じ事が起こらないことを祈る。
id:cider_kondo 欧州極右の主張は「イスラムは非寛容で政教分離を認めない。西欧の価値の根源たる自由と寛容とは相容れぬ」ぐらい。セキュリティホールの一種で、イスラム側が世俗主義を導入しないと論理的解決はほぼ不可能。難しい
ブコメの字数制限があるため分かりかねるところがあるのですが、それはつまり「欧州極右の主張にも表れているように、イスラムに対して持っている問題意識はこれこれが最大にして唯一のものだが、これがセキュリティホールとなってしまっている。イスラム側がそうした問題点を解決しないと先には進めない」ということですか。つまり、イスラムの人々が社会的に疎外されてる云々というところに対する反応だということですね。しかしながら、日本における在日問題も見れば分かるように、二世、三世はほとんどその国の人間と文化的には同質です。そうした人間であっても、社会的に疎外されて、結局イスラム教にしかアイデンティティを見いだせなくなり、そしてイスラム教=私たちという図式になってしまうのです。イスラム教を否定されると、イスラム教しかすがるところがない人々にとっては、自身を否定されたも同然になります。なお、イスラム教はあなたどころか、欧州極右が考えているよりも案外柔軟な姿勢も持つ宗教です。イランのイメージを強く持ち過ぎです。バーレーンのような国では本当にイスラム教徒なのか、というくらいには緩い生活を送る人々が多くいます。
id:oktnzm シャルリーの風刺が表現の自由の枠外なら諸国の言っている表現の自由とは一体なにをさすのやらw一番守りやすいとこ守っても切り捨て行為にしかならんよ。
前者に関して、シャルリーの風刺はヘイトスピーチであるので、それを表現の自由から外すことに何が問題かよく分かりません。後半に関して、主張するところの意図が分かりかねますが、後半部は「一番守りやすい弱者であるイスラーム系移民を守ったとしてもそれは表現の自由の切り捨て行為にしかならない」ということでしょうか。でしたら、そもそも表現の自由の枠内に収まらないヘイトスピーチである以上、切り捨て行為ではないと思われます。
id:type-100 いや、正義の有無に関わらず与えられるところに、自由とか権利の価値はある。これが表現の自由に対する毀損と感じるのであれば、それはあなたが表現の自由よりも他の権利や価値観を優先しているだけの話だ。
与えられる、というか、侵害されないものとして、生まれつき保障されているというところに自由とか権利の価値があることは事実ですが、それを濫用することまでは種々の権利・自由は想定していないと考えています。つまり、他者の権利、即ち平穏無事に他者から毀損されることがないという権利を踏みにじってまで権利の濫用(ここではヘイトスピーチ)を行うことまでは許容されていないということは歴史が証明していることだと思います。なお、これは決して批判を行うことを否定している訳ではないことを付記しておきます。
id:nekora 如何なる歴史があろうと銃を乱射してはいかん。本邦国内に数十あるイスラム寺院にも本件についてどちらを支持するかの聞き取り調査と公表を急げ。
どうでもいいのですが、nekoraさんはもう同人活動を行われないのでしょうか。
id:masm これを見るに、テロは一定の成果を収めたのかな。糞言論であれ、10-0でテロリストが悪いって意思表示することは悪くないのでは?あと、「ヘイトスピーチ同然な言論」か否かを判断する十分なソースをまだ見てない。
はい、10-0でテロリストは悪いです。だからといって、あなたの言葉を借りたらヘイトスピーチも同然な糞言論も表現の自由の一環として保護することになる私たちはシャルリーである、というスローガンは非常に危ういものです。理由は既に述べてきたとおりです。
id:my_yours のっけから和訳を間違えている。
「We are 99%」に代表されるように、この手のスローガンは"私たち"という使い方をすることが多いので、Je suisではありますが、私たちと訳してしまいました。不適切なので、より原文に忠実に訳します。ご指摘ありがとうございます。
id:kappei 元記事の人もブコメで同調している人も、自由主義を理解してない。実はルソー、マルクスの系譜が日本では優勢な気がする。真理がある、と考える人たち。
すみません、何を言いたいのか、100文字という短すぎる制限では分かりかねるところがあります。申し訳ございません。
id:serio キリスト教徒が神だとしているイエス・キリストを、クルアーンで人間だと言明しているイスラームは、それ自体がヘイトスピーチなのではないか、と極論を言ってみたりする。
細かい話になってしまいますが、キリスト教徒はイエス・キリストを神である、とまでは言っていないと思うのでそのたとえの言わんとしているところが分かりません。
id:Mochimasa 『「テロ行為の是非」と「シャルリーによる風刺の是非」は全くの別物である』 それなら"Je suis charlie”は前者の文脈でテロの被害者として掲げられているのだから、後者の文脈でこれを批判するのはフェアではないのでは
それならいいのですが、表現の自由の一環としても利用されている、つまり後者の文脈でも利用されているのが問題なのです。つまり、その二つは別物なのに、スローガンにおいては前者の中に後者の視点も入れてしまっているのです。
id:homarara なんだそりゃ。誰かにとって辛い事は報道しちゃダメ、なんて縛りがあってたまるか。極論を掲載する新聞なればこそ、それを守る戦いが表現の自由を守る事になる。無難な事しか書かない新聞だけ守っても意味ないわ。
自身のアイデンティティを否定するようなヘイトスピーチは表現の自由の枠外であると考えています。「日本人は生まれながらの劣等民族であり、民族的に能無しで蛆虫で寄生虫で云々」というようなヘイトスピーチを載せる自由はどこにもないです。そして本件はイスラム教を自身のアイデンティティにせざるをえなかったにも関わらずそのイスラム教を批判されたために、先の日本人は民族的に云々と同等の効果をもたらしているのです。
id:hate_flag 苦しい生活を送っている移民が宗教に依存しているのでその宗教を批判したらテロられた、というだけのハナシじゃん。悪いのはテロであって宗教批判ではないよね。
はい、テロは圧倒的に悪いです。いや、完全にテロは悪い行為です。ですが、本件でJe suis charlieと掲げることはおかしな話なんです、というのが私の意図です。テロられたというだけの話ではありません。
id:rag_en 『「表現」の結果、とあるポジションが有利になるか不利になるかどうか』は、その「表現」の是非を決定付けません…で終了。表現規制の理由が「傷つく人が」云々な駄論の近似。「救済対象の選別」からの「聖域化」。
100字の文字制限があるからだと思うのですが、言わんとしていることが分かりかねます。申し訳ございません。
id:oldriver 思うに。(1)「テロリストにも三分の理」を全否定したい。つまり「この機にヘイトスピーチも糾弾しよう」というメッセージはNG。(2)言論の自由のコストを引き受ける覚悟表明。つまり、ヘイトは「我々」の問題である。
(1)も(2)もJe suis Charlieという標語の意図、ということですね。どちらも原理的には正しい態度ではあるように見えますが、その態度が本当に正しいものかどうかは非常に疑問なところがあるのですよ。元の増田で書きましたが、これは歴史や民族アイデンティティの問題も入った話です。そもそも、ヨーロッパではユダヤ教/ユダヤ人問題が大きなイシューになっていました。それを考えたときに、増田で書いたようなje suis charlieというスローガンの問題を掲げました。
id:sardine11 「あなたの言うことには何ひとつ賛成できないが、それを言う権利は死んでも守る」ことが言論の自由の意味であり近代社会の前提であるはず。たとえシャルリに嫌悪感を抱いても反テロ運動まで批判するのはどうなの?
反テロ運動を非難しているのではありません。反テロ運動の一環としての表現の自由の中にヘイトスピーチを行う団体名が入っていることを問題視しているのです。
id:ysync 暴力であるテロと言論であるヘイトスピーチを同じ「許してはならない」でくくるのはどうかと。テロは国家権力(暴力)で排除すべきものだが、ヘイトスピーチは批判すべき対象で暴力(国家権力)で排除すべきでない。
ヨーロッパにおけるユダヤ教/ユダヤ人問題が参考になると思います。
id:enemyoffreedom アレをヘイトスピーチとしてしまったらもう宗教の風刺・批判はできないような。不快で低質な表現こそを守れ、というのが表現の自由かな
宗教の風刺批判ではなく、その背後にいる、その宗教を唯一無二のアイデンティティとせざるを得ない、社会的に疎外された移民の人々に対するヘイトスピーチになっているということを増田では書きました。後者に関しては同意しますが、表現の自由は差別的・攻撃的・他者を毀損するまでの表現を認めていません。
id:shakespeareneverdidthis 例え在特会みたいな下衆であっても、報復として殺害されることがあってはならない。
それは全くもってその通りなのですが、表現の自由を守るという文脈も下地にあるスローガンに私は在特会である、というものを使うのはおかしいのではないのかという話です。
少し話が違うけれど、年末にネタのような話題があって、日本のケンタッキーフライドチキンのある店舗が、夏に、カーネルサンダースに浴衣を着せて、スイカを手に持たせていたのね。まあよくある風景です。
で、それをあるアメリカ人が取り上げて、日本人ってこんなにレイシストって喧伝してたの。
スイカと鶏肉って、アメリカ南部ではやっすい食材で、それしか食えないということで黒人を嘲笑するアイテムになってるんですよ。
まあこれは、アホかね、君、何で日本人がアメリカのローカルなステレオタイプを知っておかねばならんのよ、君の方がレイシストやろうという反応と結論になっていたんだけど、私が気になったのは、どうしてケンタッキーの一店舗がやったことが「日本人」とか「日本」になってしまうんだろうってことね。
こういう例は全然珍しくないですよ。触手ポルノに「また日本か」みたいな反応とかね。
例えば、レイディ・ガガとかが、奇抜な格好をしていても、主語は、レイディ・ガガになって、アメリカ人にはならないですよ。
思うに、マイノリティというのは、大きな主語を用いられる人たち、と捉えてもいいかもしれない。逆に言えば個々の事例に対して大きな主語を用いている時点でそれはレイシストであり、セクシストであると言っていいのかも知れない。
西欧の風刺は徹底していて、イスラムを馬鹿にしていてけしからんと言うと、彼らは必ず風刺は全方位にやってますよと答えるの。それがエクスキュースになってるのね。そして実際彼らは、カトリック教会も大統領も女王もイエスもこき下ろしている。
でもね、やっぱりカトリック教会をこきおろすこととイスラムをこきおろすことは、同じじゃないのですよ。
カトリック教会を批判することはカトリックを批判することであって、その辺のパリジャンのポール君は何ら関係ないのですよ。
でもイスラムをテロリストとして描くことは、移民のアフマド君にとっては直接自分たちへの偏見を増大させる効果を持つのですよ。
これはね、やっぱり西洋帝国主義の結果であって白人の特権なわけ。
ここの非相似に鈍感で、俺らは全部を風刺しているんだって思い込んでいる時点で、チャーリーな連中の考えの浅さ、リベラルがレイシストになってしまってるんだよね。
で、Je suis Charlie というスローガン、ものすごく気持ち悪い。
私にはそれが、私たちは特権を享受する側の白人だ、と言っているようにしか見えないから。
[追記]
元記事の人とは違って、私はテロだからいけない、とはそもそも考えていません。テロと呼ばれる暴力があり、テロとは呼ばれない暴力がある、そして良し悪しはあるにしても歴史は暴力によって動いてきました。
そもそもフランス共和国そのものがテロによって成立した国家です。言論の自由が抑圧装置としてしか機能しない時に、それに暴力的に対抗措置をとる者があらわれるのは力学的には当たり前の話です。正義不正義の問題ではありません。
mirunaさんのコメント、「で、それが産油国における世界三大宗教のひとつであるイスラム教に基づく多大な人権侵害の免罪になるわけ?」と言うのがフランスにおけるイスラム教徒の話でどうしてなされるのかまったく理解できません。これはまさしく、マイノリティのみにアカウンタビリティが求められる一例だと思います。
ご存知の方ならば常識でしょうがイスラムには宗教者は存在しません。存在するのはイスラム法学者であって多種多様な学説があり、絶対的な唯一神信仰から多神教的なスフィズムが生じたように、どのような神学も成立可能です。当然のことながらイスラム世界にはかなりの幅と多様性がありますが、サウジアラビアの「公学」は特に極端な厳格性を持つワッハーブ派です。せめて批判するのであれば、サウジアラビア政府、ワッハーブ派を批判してはどうでしょうか。
フランスのムスリムはその多くがアルジェリア移民であって、ジダンもそうですが、アルジェリア少数民族のベルベル人が多数を占めます。これは百年に及ぶフランスのアルジェリア植民地支配の結果であって、ベルベル人を原住民抑圧のための中間層として用いたために、アルジェリア独立後、報復を恐れてベルベル人がフランスに亡命したのがそもそもの発端です。宗教は事後的に影響力を持ったものです。
個人的な見解として、植民地の損失を清算していないフランスには、どのような移民であれ、移民を拒絶する権利はないと考えています。ケベックであれ、インドシナであれ、アルジェリアであれ、ニューカレドニアであれ、異民族の流入に恐怖したのはそれらの場所の原住民も同じことです。
[追記]
suna_kago 問題を西洋と東洋(白色人種と有色人種)に図式化し、後者は前者に対して何をしてもいいと考えているらしい。そのような態度こそが上記の二項対立を強化するのだけど。
この文章からどこをどう読めばそう曲解出来るか理解できません。普通に誹謗中傷の類であると思います。
目くじらをたてるような突込みではないと一般には捉えられるかも知れませんが、大半の人は、夏の時期の写真が年末に話題になったと捉えられることを、そもそも話の本筋ではない部分に「これは年末が夏の国のお話なのか。」と"エスプリ"をきかせる精神構造は、非常にチャーリー的で、見かけ以上に深刻な問題を孕んでいると思います。
yingze 追記部分に粘着気質の気持ち悪い部分が出てきてるなぁ。「植民地の損失を清算」でヤクザの誠意を見せろ手口でしょう。
誠意は見せる必要はありませんが補償と原状回復はなすのが基本です。損害賠償の基本ですが。ここが意識の上でも棚上げされていること自体が、西欧中心史観なんだということを指摘しています。ところで、粘着気質ってこんなにぱっと出されて共有されなければいけないほど自明的にいけないものなんでしょうか。yingzeさんのコメント自体は粘着気質のなせるわざではないのでしょうか。よくわかりません。
sardine11 マイノリティが言論の非対称性に圧殺されてるという指摘は同意したい。ただシャルリの間違いを認めるとしても、反テロ運動自体は間違ってないし犠牲者追悼という大きな意義を無視するのはアンフェアな議論だと思う
反テロ運動=チャーリー追悼ではないでしょう。チャーリーを一方的な犠牲者として描くことがアンフェアです。チャーリーのしたことはしたこととして、銃撃殺人はいけないよと言うならば、少なくともチャーリーをまったく不問に付すような追悼集会というような手段はとらないだろうと思います。私はこの追悼集会で流される感情と踏みにじる感情が、結果ではなくて次の抑圧の原因になると思っているので批判しているのです。それぞれに自己の加害者性を見つめることの方が重要でしょう。
続きを書きました。
※追記:文中で人間違いを行うという致命的なミスを行ってしまいました。James Faronという方に触れていますが、正しくはFrantz Fanonです。当該箇所でも追記しております。混乱を招いたことをお詫び申し上げます。なお、お恥ずかしいことにJames Faronという名前も、正しくはJames Fearonです。彼もまた有名な政治学者です。
※追記3:最後にほんの少しだけ加筆。本件で真に掲げるべき標語について。
※追記4:ブコメに対する返信をトラバに追加。及びブコメで指摘された誤訳について修正。
※追記5:反応が非常に多いのですが、私の意図していることがあまり伝わっていないようなので、別エントリで行ったブコメへの返信の一部を載せます。また、追記3における本文での誤字も修正しました。ご指摘ありがとうございます。
フランスではJe suis charlie、和訳すると『私たちはシャルリー(・エブド)だ(追記4:私はシャルリー(・エブド)だ、が正しい訳です。Jeは一人称単数です。失礼いたしました。)』というスローガンが、あの凄惨なテロ事件以来掲げられている。
言うまでもなく、表現の自由を守るための決意を示すものであるが、果たしてこのスローガンは本当に正しいものなのだろうか。この増田では、出版社及びフランスにおけるイスラム教徒事情を軽く見た後、このスローガンの妥当性を考えていきたい。
今回の事件の舞台となったCharlie Hebdo(以下シャルリー)は、あらゆる権威に対して痛烈な風刺を行ってきた新聞社である。キリスト教はもちろん、政治家も政府もその風刺の対象であり、語弊を恐れずに言えば無政府主義・反権威主義をラディカルに突き詰めた、非常に極端な新聞社である。そもそもの母体はhara-kiriと呼ばれる名前がまたアレな新聞だったが、当時の大統領であるド・ゴールを風刺して、最終的には取り潰されたくらいには、徹底的なスタンスを貫いてきた人々である(ちなみに、どうでもいい情報だが今の名前はスヌーピーのチャーリーから来ている)。
ヨーロッパはそもそもイスラム教徒が多い。理由は実に簡単で、第二次大戦後の経済復興のために、大量の単純労働者を必要とした際に、イスラーム系移民が多く渡ってきたからだ。フランスのお隣のドイツはトルコから移民を受け入れ、フランスはかつての植民地であったアルジェリアを中心に移民を受け入れた。実はこの段階ですでに現代におけるイスラム系移民問題の種は芽吹いていた。
まず、ドイツは純粋に経済復興のためにトルコ系移民を受け入れていた。このことはトルコ政府との間で結ばれた雇用双務協定や、Gastarbeiter――和訳すればゲスト労働者――という単語にも表れている。結果的にはトルコ系移民は切り捨てることはできなかったが、少なくともドイツ政府はトルコ系移民に関して割り切って考えていた。選挙権の付与といった定住化につながる政策に関して恐ろしく消極的だったし、本国へ返そうという意思は逆にかなり強かった。逆に移民側も最初から、自分たちは望まれていないということも分かっていた。もちろん、だからこそのデモや権利を要求する運動などは起こったが、他方で移民の中でも自主的な集まりを作ったり、1970年代には支援団体も作られたし、トルコ本国もトルコ系移民への支援を後に行うようになった。また、コール政権以降、政府も重要な問題として認知するようになった。今でも衝突は絶えないが、フランスのように致命的な暴動は起きていない(今後起きることは否定できないが)。
一方のフランスの移民政策は、経済復興だけではなく、植民地政策の遺産という側面も有していた。イギリスの脱植民地政策及び戦後移民政策と比較すれば分かるが、お世辞にもフランスはよくやれたとは言えない。フランスは住居の確保を行う、あるいはフランス国民と同化させるための種々の政策などを見ると、一応の脱植民地化政策/移民を受け入れようとしていた、というように見えるが、他方で石油危機時には移民を切り捨てようとしたり、またフランス国民との同化を謳っていながら実際には移民は疎外化(James Faronによる論考はこうした矛盾を見事に描き切っていると考える※追記:James Faronではなく、Frantz Fanonです。大変申し訳ございません)されたりと、実体を見ればどうにも政策の焦点がぼやけていた。そもそもの、アルジェリア戦争を始めとした、ド・ゴール政権による一連の植民地関連政策を見ればその曖昧さはより分かるところである。
そうしたフランス社会において、移民は、はっきり言ってアイデンティティに関して隣国ドイツのトルコ系移民以上に大きな問題を有している。フランスの移民の大多数は底辺層であり、底辺層は大体移民である。そして移民のほとんどはイスラム教圏から来た人々であり、既に二世、三世になっている。フランス社会ではフランス人に同化させられるのに実際には同化されていないどころか異質な存在として見られるし、アルジェリアといった自らのルーツであるはずの国は、二世、三世にとってはあまりにも遠すぎる社会である。自らの居場所を見つけられない彼らが何にすがるかと言えば、それはもう彼らの宗教であるところのイスラム教しかない。そこにしか自らの居場所を見いだせないのである。
そんな中で自らの居場所であるイスラム教をバカにするような、それもヘイトスピーチ同然な言論を行うことが、どれほど彼・彼女たちにとっては辛いことか。確かに、シャルリーはイスラム教徒ではなく、イスラム教を風刺した。しかしながら、実体的には、ユダヤ教(ユダヤ教とユダヤ人はほぼ同一)を揶揄する、いや、ヘイトスピーチを行ってるも同然なのだ。イスラム教を風刺しているが、実際にはフランス社会の底辺層に多くいる、自らのアイデンティティをイスラム教でしか確立できない移民を、憎悪をもってペンで攻撃したにも等しいのである。
私は今回のテロは決して許されない行為であると考える。だが、だからといって、言論の自由を守ろう、という意味を下敷きにおいて「私たちはシャルリーである」と言うのはおかしいのではないか。
「テロ行為の是非」と「シャルリーによる風刺の是非」は全くの別物である。繰り返しになるが、テロは決して許してはならないが、同時に、特にヨーロッパにおいて、シャルリーのようなヘイトスピーチも決して許してはならない。
"Je suis charlie"は言論の自由をabuseする卑怯な標語である。
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※追記2
多くの反響を受けて驚いてる。なので、次のことを言うと多くの批判を浴びるだろうが、あえて言おう。
はっきり言って、今回の標語は、黒人に対してレイシストスピーチを行ったKKKがテロを受けたときに私たちはKKKだ、ユダヤ人に対してレイシストスピーチを行ったネオナチ団体がテロを受けたときに私たちはネオナチだ、そして、これも極端な話、在日に対してヘイトスピーチを繰り返し行ってる在特会がテロを受けたときに、私たちは在特会だ、と言ってるも同然な話なのだ。
表現の自由を守るための標語として、特にヨーロッパにおいて、これ以上ふさわしくないものはない。
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※追記3
https://twitter.com/aboujahjah/status/553169081424420864
I am not Charlie, I am Ahmed the dead cop. Charlie ridiculed my faith and culture and I died defending his right to do so. #JesuisAhmed
直訳すると、
「私はシャルリーではない、私は死んだ警察官であるAhmedだ。シャルリーは私の侵攻(※追記5:侵攻ではなく信仰です。失礼いたしました)と文化を嘲笑し、そして私(Ahmed)は彼のそれ(風刺)を行う権利を守るために死んだのだ。#JesuisAhmed」
これこそが表現の自由を守るために真に必要な標語である。一体全体どこの世界に表現の自由を守るという名目で私たちはKKKである、ネオナチである、在特会である、なんてことを言う人々がいるというのか。Je suis charlieはまさにそれを行ってしまった、最悪な標語でる。ヘイトスピーチを行う自由も、それもヨーロッパにおいて、表現の自由の一環として組み込んでしまっているのだ。卑劣意外の何物でもない。
ヘイトスピーチを行うという表現の自由ですら守ろうとし、そして死んだ人物(ここではAhmedという警察官)こそが、真に表現の自由を守るために働いた存在なのだ。
何度も言うが、私は今回のテロは一切是認できない。暴力によって物事を解決しようとする蛮行以外の何物でもないと考えてる。だが、だからといってシャルリーによるヘイトスピーチが免責されるわけでもない。そうしたヘイトスピーチを続けてきた団体の名称を冠して、表現の自由を守るということは、既に述べたように、表現の自由のabuseである。表現の自由を守るためにたたかった人物こそが、真に標語において活用されるべき存在なのだ。
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※追記4
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※追記5
トラバで行っているブコメへの返信の一部をこちらにも載せます。
id:cider_kondo 欧州極右の主張は「イスラムは非寛容で政教分離を認めない。西欧の価値の根源たる自由と寛容とは相容れぬ」ぐらい。セキュリティホールの一種で、イスラム側が世俗主義を導入しないと論理的解決はほぼ不可能。難しい
ブコメの字数制限があるため分かりかねるところがあるのですが、それはつまり「欧州極右の主張にも表れているように、イスラムに対して持っている問題意識はこれこれが最大にして唯一のものだが、これがセキュリティホールとなってしまっている。イスラム側がそうした問題点を解決しないと先には進めない」ということですか。つまり、イスラムの人々が社会的に疎外されてる云々というところに対する反応だということですね。しかしながら、日本における在日問題も見れば分かるように、二世、三世はほとんどその国の人間と文化的には同質です。そうした人間であっても、社会的に疎外されて、結局イスラム教にしかアイデンティティを見いだせなくなり、そしてイスラム教=私たちという図式になってしまうのです。イスラム教を否定されると、イスラム教しかすがるところがない人々にとっては、自身を否定されたも同然になります。
id:type-100 いや、正義の有無に関わらず与えられるところに、自由とか権利の価値はある。これが表現の自由に対する毀損と感じるのであれば、それはあなたが表現の自由よりも他の権利や価値観を優先しているだけの話だ。
与えられる、というか、侵害されないものとして、生まれつき保障されているというところに自由とか権利の価値があることは事実ですが、それを濫用することまでは種々の権利・自由は想定していないと考えています。つまり、他者の権利、即ち平穏無事に他者から毀損されることがないという権利を踏みにじってまで権利の濫用(ここではヘイトスピーチ)を行うことまでは許容されていないということは歴史が証明していることだと思います。なお、これは決して批判を行うことを否定している訳ではないことを付記しておきます。
id:Mochimasa 『「テロ行為の是非」と「シャルリーによる風刺の是非」は全くの別物である』 それなら"Je suis charlie”は前者の文脈でテロの被害者として掲げられているのだから、後者の文脈でこれを批判するのはフェアではないのでは
それならいいのですが、表現の自由の一環としても利用されている、つまり後者の文脈でも利用されているのが問題なのです。つまり、その二つは別物なのに、スローガンにおいては前者の中に後者の視点も入れてしまっているのです。
id:hate_flag 苦しい生活を送っている移民が宗教に依存しているのでその宗教を批判したらテロられた、というだけのハナシじゃん。悪いのはテロであって宗教批判ではないよね。
はい、完全にテロは悪い行為です。ですが、本件でJe suis charlieと掲げることはおかしな話なんです、というのが私の意図です。テロられたというだけの話ではありません。
id:sardine11 「あなたの言うことには何ひとつ賛成できないが、それを言う権利は死んでも守る」ことが言論の自由の意味であり近代社会の前提であるはず。たとえシャルリに嫌悪感を抱いても反テロ運動まで批判するのはどうなの?
反テロ運動を非難しているのではありません。反テロ運動の一環としての表現の自由の中にヘイトスピーチを行ってきた団体名が入っていることを問題視しているのです。
id:enemyoffreedom アレをヘイトスピーチとしてしまったらもう宗教の風刺・批判はできないような。不快で低質な表現こそを守れ、というのが表現の自由かな
宗教の風刺批判ではなく、その背後にいる、その宗教を唯一無二のアイデンティティとせざるを得ない、社会的に疎外された移民の人々に対するヘイトスピーチになっているということを増田では書きました。後者に関しては同意しますが、表現の自由は差別的・攻撃的・他者を毀損するまでの表現を認めていません。
id:shakespeareneverdidthis 例え在特会みたいな下衆であっても、報復として殺害されることがあってはならない。
それは全くもってその通りなのですが、表現の自由を守るという文脈も下地にあるスローガンに私は在特会である、というものを使うのはおかしいのではないのかという話です。
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もう読んでいる人がいるかどうかわからないですが、帰宅してさらに増えていたブコメや種々の反応を読んで、色々と思うところがあったので、もう返信はいたしません。本当は標語の下敷きとなったwe are all khaled saidも含めた補足記事を書こうと思っていましたが、こちらも止めました。
私自身の力不足を痛感しましたが、それ以上に、皆様の貴重な時間を浪費させてしまったことを本当に申し訳なく思います。ここで深くお詫び申し上げます。
http://www.snoopy-exhibition.jp/
まあ、日本ではキャッチ―なのでスヌーピーの名前を付けたんだろうけど実際は作者であるシュルツ展。原画がたっぷり堪能できて、ペンのタッチやベタ塗の筆遣いがダイレクトに伝わる美術展だった。僕にとって一番の驚きは初期の作品だ。1950年代のものが初期にあたるっぽい。この初期のピーナッツの良さに気付いたのは実はつい数か月前。まさにこのスヌーピー展の告知がきっかけだった。
チャーリーブラウンにしろスヌーピーにしろ、晩年のスタイルとはまったく異なる初期のデザインは、かわいらしさが前面に押し出されつつもところどころ写実的で、バランスがちょうどいい。この一連のスタイルを目の当たりにして思い出したのは鳥山明。もちろんシュルツが先だけど。家に戻ってからシュルツと鳥山明の関連性に言及したものはないかと調べてみたものの見当たらなかった。デフォルメと写実の丁度良い塩梅。パースは明らかに歪んでいるにもかかわらず、この世界にはしっくりきている。ロゴのデザイン。手書きのフォントのタッチ。背景の書き込み。そして子供の表情。僕にはすべてが共通しているように思えた。
展示の初めのコーナーにはピーナッツ以外の作品の原画がいくつかあり、子供ばかりを描くピーナッツとは違い、大人が登場している作品もあった。おそらくこれも初期の作品。頭の禿げた太っちょのおじさんは2.5頭身くらいなのに、着ているシャツや背景の小物がしっかり書き込まれてる。薄い影の描写はできるだけ避けているようで無駄のない線とベタのコントラストが余計に写実的な印象を与える。
雨の表現もすごかった。子供がでたらめに書くような斜めの線だけでどしゃぶりの雨を表現してて、キャラクターにもその雨の線はかかってる。でも、その表情はしっかり読み手が受け取れるように配慮されてる。これは百聞は一見にしかず。実際に見て唸ってもらう以外はないように思う。
展示を進んでいくと1960年ごろから僕らが記憶にしまっているいつものチャーリーブラウン、スヌーピーに落ち着いてゆくのがわかる。本音を言わせてもらうとすでに初期のピーナッツに魅了されてしまっている身としては正直面白みにかけるものだった。あの1952年のチャーリーブラウンをもっと見せて!と思ってしまう。
ただ、シュルツが鉛筆でキャラクターを書いてゆく動画の展示には時間を忘れて見入ってしまった。あれだけキャラクターを書き続けているだけあって、まっさらな紙にさらさらと命を吹き込んでいく様は線一本一本に無駄がなく所作すべてが美しい。動画自体が一つの作品のようだった。
http://www.youtube.com/watch?v=dS0vUbWdNxg
http://www.youtube.com/watch?v=ZFbVrzl69dM
そして晩年のコーナーで楽しめたのはくしゃくしゃのメモパッドに描かれたらくがき。シュルツはウォーミングアップとしていたずら書きをしてから作品制作に入る人で、描いてはゴミ箱に捨てていたらしい。それを秘書かお手伝いさんか誰かが捨てずに保管していた。とてもリラックスした状態で描かれたスヌーピーは今までみたことのないタッチで、ピーナッツのテーマとなっているハピネスが一番伝わるコーナーだったように思う。
最後に、このスヌーピー展に足を運ばないと楽しめない作品があったので紹介。それはあまりにも小さく、鉛筆で書かれている地味な作品。でも強烈なインパクトを僕に与えてくれた。それは初期のコーナーに展示されている「高校時代に描いた3つ1組のデッサン」。いろいろなものが3つずつ描かれていて箱、帽子、顔、支離滅裂に思うがまま描かれている。その中にヒゲをはやしたかわいらしいキャラクターの顔と添えられたハーケンクロイツがあるのに気付く。
ヒトラーだ。
なのにかわいい。
こんなにかわいいヒトラーはみたことがない。このシュルツという人のデフォルメのセンスが好きだ。入ってすぐのコーナーにもかかわらず、このヒトラーを見つけた時この展示会は自分にとって特別なものになることがわかった。
もしこれから行こうと思ってる人はこのデッサンをチェックしてほしい。
今回の鑑賞はあくまで美術としてのアプローチ。チャーリーブラウンの台詞と谷川俊太郎の絶妙な翻訳を味わうためにもう一回行かなきゃ。
ライナス「What's the cure for disillusionment, Charlie Brown?」悲しみを癒してくれる薬ってどんなものかなぁ
チャーリー・ブラウン「A chocolate-cream and a friendly pat on the back」一粒のチョコレートと、背中を友達がポンと叩いてくれることだよ
じゃあね!
”迷子”は、あえてやめたんですよね、言葉が優しくなりすぎるかな、と。社会への迷子感は間違いないけれど、チャーリーブラウンを考えると、迷子じゃなくて「何やってもダメ」な負け組の象徴として表現されてるから。
みんな、チャーリーブラウンの目線になって、「皮肉りながらも希望を持って」まだまだやってやると思ってるはずなんだよね.
回し者じゃないけどiTunesのColdplayのライブビデオ(レンタル500円)でこの曲はオヌヌメ。むっちゃくちゃ 会場がキラキラしてる。「Everybody Cha-, Cha-, Charlie's!!」
こういうライブビデオの編集って見たこと無くて、日本人には出来ないかもしれんと思って、レンタルじゃなくて買い直した。大きな画面で見たくなったので、テレビ買い直してもいいかな、くらいに。
いい曲だな。" We'll be glowing in the dark "で曲調に合わせて何となく腕を広げてしまった。
暗い室内で明るみはじめた空に何となく不安を覚え始めた今の自分には気分がぴったりだわ。
ところで、冒頭の元増田の訳なんだが、
その鍵で、負け組たちが集う都会の車に乗った。
これ、the lost boysって負け組じゃなくて迷子だと思うよ。
"負けた"ならthe losing boysだな。
思い出せよ、中二病の焦熱にじらされていたあの頃を(゚´Д`゚)
鍵を盗んで走り出した少年少女たちに重要な価値観は自分があるか、ないか、それだけさね。
まぁ、そんな訳をしたくなる気持ちもわかるけどさ。チャーリー...
追記:
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1374592578
とあるきっかけで、ColdplayのCharlie Brownという曲を聴き、昔はバカっぽい歌詞ばかりだと思っていたColdplayにしてはなんとも間接的な表現が多いので、これを他の日本人がどう訳しているのか気になった。いくつか検索で引っかかる程度は読んでみたんだけど、ずいぶん直訳で、意図とずれているような気が。チャーリーブラウンというUSで誰でも分かる 象徴的なダメダメの毎日に対する感覚も伝わらないし。
グラミーにもノミネートされた曲のようだし、あまりにもずれたものが多くてもったいない。英語が得意なわけではないが残しておく。英語得意な人、もっと完璧なやつ頼むわ。クソな意訳だったらスマン。
元が、"Cartoon Heart"という題名だったようなので、こんな感じで意訳。
鍵を盗んだ。
その鍵で、負け組たちが集う都会の車に乗った。
そのできごとは僕に自由をもたらした。
それはまさに僕の目の前の出来事だった。
しょうもない僕の夢が、
砕けて、破片となって心に刺さった時、
だけどそれはコンクリートを打ち破って伸びる
輝く赤いバラになったとも言えるだろう?
心の中で、
灯がともり、火花が散りはじめ、燃え上がる。
羽ばたけるはず、
闇の中でも輝けるはず、輝けるはずなんだ!
世界中の混乱も、
どんなおかしなことが起こっていても、
どんなに最高なことも、どんなに最低なことでさえも、
まるで政治家のインタビュールームみたいに都合良く解釈できるはずなのさ。
変えられるはず、
闇の中でも輝けるはず。
急浮上さ。
きらめき、期待に高ぶり、
僕たちは闇の中でも輝いていく。
http://www.dailytitan.com/2011/04/the-inevitable-decline-of-cds/より転載:
Almost 11 years ago, stores like Tower Records and Wherehouse Music were mobbed with over 2.4 million people waiting to purchase N'Sync's No Strings Attached album.
Today, music stores like those are almost non-existent, and those that are still in business do not receive much foot traffic in the CD aisles.
The sales of compact disc albums have seen a significant decline since that record week in 2000. Nielsen Sound Scan reported that over 730 million units sold in 2000. In 2010, album sales hit an all-time low of 326 million units sold, including digitally downloaded albums.
"Nobody wants to go through the trouble of going to a music store, finding and buying a CD, opening the package, etc. Now we just click a button on the Internet and instantly have music," said Keegan Gogerty, 22, a singer/songwriter and radio-TV-film student.
Digitally downloading music has played a major role in the decline of CD sales, but the biggest factor is the illegal digital downloading of music.
Pirating music has been on the rise since Napster launched its peer-to-peer file-sharing software in 1999. Napster was known for allowing users to share and trade their MP3 files with one another over the Internet for free.
Napster was later shut down after multiple lawsuits, but more peer-to-peer outlets surfaced, such as Kazaa, Morpheus and LimeWire.
Peer-to-peer sharing has grown from MP3 sharing to multiple-file sharing and torrent sharing.
"I don't blame people for not wanting to purchase music. If I want to support a band, I will attend their concerts or buy a T-shirt. That is where they receive the most royalties anyway," said Charlie Hatano, an advertising graduate student.
"We live in a generation of simple living, the digital age," Gogerty said.
Online music stores such as iTunes and Napster give consumers the option to purchase music at the click of a button.
However, Ashley Sutton, 24, a psychology major, still buys compact discs.
"Nothing beats getting a new CD, reading the booklet and reading the lyrics," said Sutton. "I agree Internet downloading is more convenient, but I find owning a physical CD collection rewarding, rather than clogging up my computer with music I download."
The music industry has tried to crack down on the peer-to-peer file-sharing software programs, but people are still using different forms of illegally downloading or sharing music.
"I'll admit that I have had friends burn an album for me or copy them into my computer for my iPod," Sutton said. Making copies of CDs, illegally downloading the album and sharing, it is all the same.
In an interview with USAToday.com, the Recording Industry Association of America's (RIAA) CEO said illegal music sharing has been "contained."
"I remember people downloading one song at a time with Napster. More recently I have seen people download 10 albums at the same speed they could download one song in 1999," Hatano said.