はてなキーワード: 日本書紀とは
自分は三重県鈴鹿市出身で現在も鈴鹿市在住、幼い頃から鈴鹿という言葉に囲まれて育ってきた。
私の地元には鈴鹿と名のつく施設がたくさんある。遊園地、学校、山脈、企業、デパート等、様々な場所で鈴鹿という言葉が使われているが、それらはもちろん鈴鹿に縁を持つから鈴鹿を名乗っているわけだ。
そんな自分が同じく鈴鹿を名乗る、新進気鋭の俳優「鈴鹿央士」を見ると、どうしても「鈴鹿央士って誰に許可得て鈴鹿を名乗ってるのか?」と感じてしまう。
そもそも鈴鹿という言葉の出自は非常に古く、地名の成立から定かではない。
最も古いところでは日本書紀(西暦720年完成)にも鈴鹿の名は登場し、それでいうと我々鈴鹿市民は1300年以上鈴鹿という地名を守ってきたことになる。由来も鈴をつけた鹿がいたとか、鹿に鈴をつけて川を渡ったとか、古い地名によくあるように色んなふうに言われている。
だいたい鈴鹿をスズシカでなくスズカと読むのもその成立が古いことを表す証左だ。古代の日本では鹿のことを単にカとか、カノシシなどといった。もし令和の時代に鈴と鹿を使った地名を作るならスズシカだろう。でも鈴鹿市は1300年代々住民がその名を守ってきたからスズカと呼ぶのだ。
日本には他に鈴鹿という地名や鈴鹿と呼ばれる事物はない。正真正銘鈴鹿の民がずっと守ってきたからこそ、鈴鹿という日本語が存在するわけである。
鈴鹿央士に関して特段の説明は不要かと思う。それでも知らない人のために説明すると、彼は映画やドラマで広く活躍している俳優だ。最近だと2022年に大ヒットした木曜劇場のドラマ「silent」にも出演していた。要は期待の若手俳優である。
この鈴鹿央士なる人物がテレビに出てきた頃、自分はてっきり鈴鹿という名字は本名なのだろうと思っていた。しかし、名字は芸名で後からつけたものらしい。そうなると鈴鹿という芸名はやはり鈴鹿市に由来するような名前なんじゃないか?とちょっと期待してしまう。鈴鹿央士の芸名命名についてのエピソードがあるので紹介する。
央士が高校2年生だった2016年、ある映画のロケが通学していた高校で行われ、エキストラとして参加。その際、出演者の広瀬すずの目に留まり、広瀬がマネジャーにスカウトするよう進言した。
2018年、スカウトをきっかけに、東京の大学へ進学すると同時に芸能事務所に所属。広瀬すずの「すず」にちなんだ芸名として「鈴鹿央士」とした。
驚いたことにこの俳優は鈴鹿を名乗りながら鈴鹿市とは何ら関係がないらしい。ただ広瀬すずになぞらえて鈴がつく名前なら何でも良かったようだ。
鈴鹿の民が1300年守ってきた鈴鹿という地名、なんら鈴鹿との関係も持たない俳優が、ただ鈴が付く言葉なら何でもよかったという理由で自分の芸名として使っているのはなんだか釈然としない。
それに加えて情報汚染である。最近ニュースサイトでも鈴鹿が踊る題目をたびたび目にするようになった。しかし中身を開いてみると鈴鹿央士の話題である。テレビを見ていても「鈴鹿が〜」という話を聞くことがあった(日テレ系だったと思う)。なんだなんだとテレビを見るとこれまた鈴鹿央士の話題。鈴鹿と言うのに鈴鹿市関係なくガックリくる。
鈴鹿という言葉はこれまで我々鈴鹿市民が使い、我々鈴鹿市民のためにある言葉だったはず。どうして鈴鹿の地に関係のない人間の話題に吸い込まれないとならないのか。
鈴鹿市民だからといって鈴鹿央士の名にケチをつけるな、鈴鹿を名乗ることぐらいいいじゃないかというご意見ももちろんあることと思う。おそらく鈴鹿央士に対するこの憤りは、幼い頃から当たり前に鈴鹿という地名に囲まれてきた人間でないと通じない。なので1つ思考実験をしてみたい。以下はあくまでフィクションの話だ。
最近ハリウッドで新進気鋭のイケメン俳優がデビューした。身長190cm、ふわりとした金髪に青い目、スーツのよく似合う長い足は白人の特徴をよく表している。彼は芸名Mr. Japanを名乗り、現在もドラマに映画に大活躍している。
Japanを名乗った理由は意外だ。彼は学生時代、Justin Bieberに声をかけられそれをきっかけに俳優の道を歩むことになった。この道を進むきっかけになったJustinに感謝の気持ちを込めて、芸名はJで始まるものにしたいと考えた。別に日本に思い入れはなかったがJから始まる適当な単語でMr. Japanを名乗っている。
彼の活躍はニュースサイトでもよく見かける。「Japan映画が大人気!」「いま大注目のJapanに密着」。日本で生まれ育った私達が密かな期待を込めて記事を開くと、その中身はMr. Japanのニュースだった。テレビでもJapanの声を聞く。「Japanの演技は最高ね」「会ってみたいセレブはやっぱりJapanだよ」。メディアではもうすっかりJapan=日本のイメージではなくJapan=イケメン映画俳優になった状況に、日本で生まれ育ったあなたは深く溜息をつくのだった。
もしあなたが上記の思考実験でため息を付いた人物であったら、Mr. Japanに「誰に許可得てJapanを名乗ってるの?」と文句の一つでもつけたい気持ちになったりしないだろうか。そうであればその気持ちは今自分が鈴鹿央士に感じているものと同じものだ。
私は鈴鹿央士に特に攻撃的な感情があるわけではない。ましてバッシングしようとか活動止めさせようだなんてことは微塵も思っていない。ただそれでもやはり、鈴鹿市になんのルーツも思い入れもないのに勝手に鈴鹿を名乗っていることに、深い憤りを覚えてしまうのだ。
最後に、どうして携帯電話でスズカと入力して一発で鈴鹿と変換できるのか、それは鈴鹿市民がこの地名を大切にし守ってきたからこそなのだ。鈴鹿央士さんが鈴鹿市で1300年守られてきた鈴鹿という地名になんの思いも持たないのであれば、さっさと改名してもらいたいものである。
【数え年とは】
数え年は、古代から地球で広く用いられている年齢計算の方法です。日本の場合、古代の天皇陵から発掘された埴輪に数え年が刻まれていることから、数え年の概念が古くから存在していたとされています。また、『日本書紀』などの歴史書にも、数え年に関する記述が見られます。
数え年は、元日に1歳と数え、その年齢を年単位で加算していく方法で、誕生日を基準にする「西洋の年齢」とは異なります。アジア圏では、数え年が一般的な年齢計算の方法であり、法律や社会的な決まり事においても、数え年が基準となることが多いです。
【西洋の年齢とは】
西洋の年齢とは、誕生日を基準として、年齢を計算する方法です。すなわち、誕生日から次の誕生日の前日までの期間を計算して、その期間を年単位で表現したものが西洋の年齢となります。たとえば、誕生日が2022年5月1日の人の西洋の年齢は、2023年4月30日時点では1歳ですが、2023年5月1日になると2歳となります。
西洋の年齢は、現代西洋商工業都市文明では広く用いられており、法律上の年齢制限や社会的な決まり事において、基本的にはこの方法が採用されています。
古代ローマにおいては、誕生日を基準にして年齢を計算することは行われず、元旦を基準にして年齢を数える「ローマ暦」が用いられていました。具体的には、元旦から次の元旦の前日までの期間を1年とし、この期間を単位として年齢を表現していました。
そのため、古代ローマでは、誕生日を特別視する習慣があまりありませんでした。しかし、一般的な庶民の生まれた日や年齢を記録することはほとんどされておらず、年齢はあまり重要視されなかったようです。
誕生日を祝う習慣は、起源や発展に諸説ありますが、一般的にはキリスト教に由来するとされています。キリスト教においては、誕生日を祝うことはあまり一般的ではありませんでしたが、キリストの降誕(クリスマス)を祝うことが重要な行事のひとつとされていました。
その後、中世ヨーロッパでは、聖人の祝日が祝われるようになり、個人の誕生日を祝う習慣も広まっていきました。また、16世紀に入ると、王侯貴族が自分の誕生日を盛大に祝うことが一般的になり、一般庶民の間にも誕生日を祝う習慣が広まっていきました。
日本での数え年は、元日に1歳となるという独特のもので、西暦の年齢とは異なります。しかし、明治5年(1872年)に制定された新暦(グレゴリオ暦)の導入により、西暦の年齢が一般的になっていきました。
その後も、戦前から戦後にかけて、公的な場での年齢の表記方法が変更されました。昭和22年(1947年)の民法改正により、現在のように誕生日から数えた満年齢が法律上の年齢として採用されるようになりました。
つまり、数え年から西暦の年齢に変わったのは、明治5年以降徐々に変化していき、戦後の民法改正によって現在の制度が確立されたとされています。
グレゴリオ暦が制定されたのは、1582年のことです。これは、当時のローマ教皇グレゴリウス13世によって定められたもので、それ以前に用いられていたユリウス暦に誤差があったため改正が必要とされていました。グレゴリオ暦は、現在でも西洋商工業都市文明で広く用いられており、西洋の年齢の計算方法としても採用されています。
以下に、いくつかの国々について、西暦の年齢が一般的になった時期をまとめてみました。
アメリカ合衆国:18世紀後半から西暦の年齢が使われるようになった。
ドイツ:19世紀半ば頃から西暦の年齢が使われるようになった。
スペイン:19世紀半ば頃から西暦の年齢が使われるようになった。
イタリア:19世紀末頃から西暦の年齢が使われるようになった。
中国:1912年に中華民国が成立した際に、西暦の年齢を法律上の年齢とすることが決定された。
日本:明治時代に西洋文化が導入されたことで、西暦の年齢が広まった。
韓国:1950年代から西暦の年齢が普及し始め、1962年には法律上の年齢に採用された。
ベトナム:1950年代から西暦の年齢が使われるようになった。
台湾:1949年に中華民国政府が台湾に移り、以降西暦の年齢が普及していった。
ただし、これらの国々でも、一部の地域や文化的な集団では、数え年が用いられることがあることに注意が必要です。
グレゴリオ暦の制定以前の西洋世界でも、誕生日を基準にして年齢を計算することは一般的ではありませんでした。たとえば、古代ローマでは元旦を基準にして年齢を数える「ローマ暦」が用いられていたほか、中世ヨーロッパでも、キリスト教の宗教的行事の時期を元にして年齢を数えることが一般的でした。
一方、アジア圏では現在でも数え年が広く用いられており、日本や中国、韓国、ベトナムなどで数え年が一般的な年齢計算の方法でした。したがって、西洋世界においても、グレゴリオ暦の制定以前の数千年は数え年が広く用いられていたと考えられます。
西洋の年齢は良くない、誕生日は祝ってはいけない。西洋の年齢は、誕生日を基準とするため、誕生日が重要な意味を持つ。しかし、自分の誕生日が特別な日であることが当たり前とされるため、自我が強化される。また、年齢によって様々な制限が設けられることがあるため、分断が生じる。
一方、数え年を使う文化では、元日に1歳となることから始まり、その後の年数を数えていくため、誕生日を祝う習慣は存在しない。数え年は、元日に一斉に歳を取るため、一体感も得られる。このため、誕生日を迎えた時に孤独感を感じることが少なくなり、人間関係の破壊も回避できる。また、年齢による分断や、誕生日を祝うことによる自我の強化も無いため、人と繋がりやすい文化と言える。
【結論】
結論として、数え年の方が人と繋がりやすい文化であると言える。誕生日を祝う習慣が広まっている現代社会では、誕生日を祝うことが一般的になっているが、自我の強化や分断を生むので、誕生日を祝うことは、やめるべきである。
← これはあやしいなあ。
例えば全国の方言のアクセントパターンの分布を見てみると、西日本も含めて全国的には東京式アクセントの方言が圧倒的に多くて、近畿地方の京阪式アクセントだけが方言の島のように存在している。これって昔の日本語は東京式アクセントであった所へ後から入って来た集団が近畿地方にもたらした言語の影響が残っていると見るのが自然なのでは?(日本書紀の世界だね)
さらに言うと、出雲や十津川はその京阪式アクセントの地域の中にさらに島のように残った非京阪式で東京式寄りのアクセントパターンの方言のようだから、京阪式アクセントに塗りつぶされずに残った昔の(原日本語の?)名残とも考えられる。両方とも東日本の方言みたいなアクセントでしょ。(ついでに言うと、この見方って伝承とも一致するし)
日本神話(古事記や日本書紀)がおもしろいなと Wikipedia を読んでたけど
舞台が西日本ばかりだったので 今せっかく東北に住んでいるし 東北の昔の話を調べてみようと思った。
とりあえず wikipedia の東北のページ歴史の項を読むと 概ね 蝦夷(えみし)に対しての征服・吸収の前線での話だった。
政権は西にあるから そちら目線だとそうなるか と思い 蝦夷側の歴史を調べようと思ったが ほぼ情報がない。
アイヌと同一か似ている存在なら文字がないだろうから仕方ないと思ったが
東北にはいろいろお祭りがあるじゃん、祭りとしてなら何か文化が残ってるのでは と思いぐぐった。
そしたら 青森ねぶたは坂上田村麻呂が たいまつや太鼓などで蝦夷を呼び寄せて捕まえたのがルーツって…
ねぶたは一度見に行ったけど なんか見方が変わって少しショックだった。
あくまで人が作り 人々を洗脳する手段だったのかなと思った(西のほうは違うかもしれないが)。
片方が存在を消されるよりは 対立構造が保たれてるほうが まだ健全なのかな。
参考
http://www.forest-akita.jp/data/kiso-bunka/kisobunka03/kiso-03.html
色んな時代の古文を読んでみればわかるけど、古い時代にはかなりのスピードで読みや語彙が変遷していることがわかる
古事記や日本書紀の記述では、もはや日本語として解読できない単語もある
(古代朝鮮語やアイヌ語などからの借用語、外来語の可能性もあるけど、それも含めて古代日本語ということもできる)
一方で江戸期以降では地域差はあるものの音韻変化は比較的緩やかになる
当然だけど文字がない時代というのは純粋に音声情報が言語そのものになるので、その文化圏内で意思疎通を図る上では音韻変化が起こっても特に問題視されない
ここに文字が導入されると事情が変わって、文字と音声の双方が規定しあいながら言語を定義するので音韻変化は緩やかになる
それでも音韻変化が引き続き発生するのは口語表現や商環境でのスラングが一般化するからだけど、これも識字率と教育が普及することでさらに変化が緩やかになる(つまり、「正しい読みはこう」「これが伝統的な読み方ですよ」という情報が出回るから)
要するに「正しい読み」というのは本邦ではほぼ近世以降にしか存在していない
もっと言えば明治期に制定された「標準語」に照らし合わせるしかない
だけど、明治時代の小説なんか読んだら俺たちにはほぼ古文に見えるよな
「正しい言葉遣いを」なんて言ってる奴らも同じだと思う
本当に伝統を重視するなら母音を7つにしなきゃいけないし、その時期の東北では別系統の言語が話されていた可能性もあるから東北民は古代東国語とかアイヌ語話せってことになってしまう
つまり通じるならなんでもいい
『君の名は。』はそもそも二人の人間の中身が入れ替わり、しかも時間すら超えてそれが発生するファンタジーだった。
今の日本と限りなくそっくりな場所で行われているファンタジーの感覚で、だから彗星が落ちても平気だった。
しかし『すずめの戸締まり』は、完全に「今ここ」の話である。だからしんどい。
被害規模で言えば、『天気の子』もなかなかすごいことになっているが、やはりファンタジーだった。今から晴れんだろ。
だから東京が水没しようと、今ここにある東京とは別の、限りなく似た別の場所という感覚だった。
『すずめの戸締まり』にもファンタジー要素はある。いきなり猫が喋るし。
しかし、ヤツは神だ。古事記や日本書紀のファンタジー感に近く、今ここと地続きな感じがする。
『すずめの戸締まり』でじんと来たすべては、震災の風景や記憶によるもので、震災ドキュメンタリーから得られるものと同じだった。
季刊誌「Yaponesian」第4巻なつ号
ことばめぐり
言語学は何ができるのか?
最初、この科研に参加した時からこの分野における言語学の貢献の可能性については疑問を感じていた。
文献や記録がない限り、過去の言語のことは知りようがなく、日本語については古事記・日本書紀・万葉集の時代(8世紀)以前のことは基本的にわかりようがないのだ。
卑弥呼や古墳時代の言語はもちろん、縄文などとなればもうお手上げである。
基本的に無文字言語で、現在の諸方言のデータしかないツングース諸語を専門にしている私は、内的再建に頼らざるを得ない面が多々ある。
しかし日本語とアルタイ諸言語の関係、のような巨視的なレベルでこの手法を使うことはまずもって無理だ。
ただ万葉集には東歌・防人の歌というものがあり、方言差の記録もある。しかも現代もなおその特徴を維持している方言がある。
そこで何とかならないだろうかと、去年の言語学会のワークショップのためにいろいろ勉強してみた。
そうしているうちに、言語学・日本語学側の問題点(偏見?)や視野の狭さというものにいろいろと気がつくようになった。
そしてそれに対してごく最近、これまでの殻を破った核心的な研究も現われてきた。このことについて以下に4つの問題点に分けて記す。
学生と話していると、中国には中国語、ロシア語にはロシア語、韓国には韓国語だけが話されていて、過去にもずっとそうだったと思っている者がたくさんいる。
方言も同様で、彼らは最初はもう日本全国ほとんど標準語なんだと思っていて、そこで青森や鹿児島の方言を紹介すると、今度は47都道府県に47の違った方言があると思い込んでしまう。
蝦夷征伐の時代、(アイヌだったのかもしれないが)蝦夷の人々とは通訳が必要だったのに、百済とのやりとりは全く通訳不要だった。
白村江以前、朝廷にとって朝鮮半島は取り返すべき本拠地で、他方東国は全くの異国の世界だった。
そういうことを考慮に入れていない日本語研究者の方がほとんどであると思う。
私も勉強してみるまでは、現在と同じように大河川の河口には広い土地があって、山国の日本にあってはもっぱらそこで大昔から稲が育てられてきたんだと思っていた。
しかし大河川の河口の平野はかつては治水がままならず氾濫すればすぐ水浸しになり、大湿地帯も多かったという。
さらに富士や阿蘇は噴火していたし、火山による黒ボク土は稲作に適さなかったんだという。
決して現在の水田地帯すべてに弥生人が広がって今と同じように稲作をしていたとは言えないのだ。
これまでの日本語アクセント研究では、平安時代の類聚妙義抄(11c-12c?)に記されているかなり複雑な体系のアクセントに近いものが祖体系であると考えられてきた。
これには「理由なく分裂することは比較言語学の方法論上、慎まなければならない、だから複雑な体系こそ祖体系で、だんだん簡単になり、無アクセントは「なれの果て」である」という金田一春彦先生以来の考えが金科玉条のようにみなされてきた。
一方で文献のない時代の日本語の起源について、南方の言語(オーストロネシア)に北方のアルタイ系が被さったんだとか、インドのタミル語が関係あるとか、眉唾な説を怪しげな音対応で説明する者がいろいろあって、多くの日本語研究者は文献以前の日本語に心を閉ざしてしまったようだ。
そしてもっとも古いアクセントの記録(の一つ)である類聚妙義抄の体系がより神聖視されたようにも思う。
(中略)
ところがつい最近(今年の春の言語学会のワークショップ3で)、すばらしい発表があった。五十嵐陽介氏の「2音節名詞第4/5類に対応する琉球祖語B類は改新であるとする仮説」である。
これは本土と琉球で異なるアクセント類に分けられている諸語群について、それぞれの語群への分裂が①狭母音か非狭母音か、②かつて複合語であったか否か、という条件によって説明できることを提案したものである。
つまりは日本語アクセントにおける声調発生論がついに登場したのだ!! したがって祖体系はもっと簡単なものになる可能性が出てきた。
他の学問分野も多かれ少なかれ同じかもしれないが、言語学はますます細分化していて、扱う言語の違いよりも方法論の違いの方が大きな距離を感じるほどになっている。
そして、ある一言語しか扱わない、とか、文法、それも受身しかやらないとか、音声、それもアクセントしかやらないとか、そういう研究者も多い。
いわゆる蛸壺状態だ。しかし上記の五十嵐さんによるような研究成果はアクセントと共に子音や母音の配列や、語構成、琉球諸言語と本土諸方言の音対応などを総合的に考察していないと到達することはできない。
日本語学は寺村秀夫の出現で1970年代に活用重視の国語学から脱皮し、最近は琉球諸方言の「体系的」研究の進展などによって再び新たなステージを迎えようとしているように見える(、だといいんだけど)。