はてなキーワード: 8世紀とは
ちょっと調べたら、これは「歩合」の単位とされていて、その方面で調べれば過去の使用例がわかるらしい。小学生教育方面だと「最初は借金の利率で使われた」って説明があったけど、その初出までは書かれてなかった。まあ小学生がそこまで興味持たないだろうからしょうがないか。
正直、興味を持ったのは「分」との歴史的な前後関係なのだ。勘違いしがちだが、「1割1分」の時の「1分」は1%で0.01だが、「五分五分」のときの「五分」は50%でこれはつまり0.5,つまりこの場合の1分は0.1になる。数字の扱いが違うだろうと思ったかもしれないが、「割」はもともと十分率の単位で、十分率を単位とすればその1分は0.1で正しいのだ(このへんはWikipediaにも書いてある)。これを無理やり百分率で例えると、1.1%を「1%1分」と書くようなものだ(実際には今はこういう書き方はしない、例示として書いた)。
とはいえ、借金の利率なら最初から「分」で表してもそれほど困るような気がしない。実際前述にもあるようにことわざでは「割」使う場面少ないしね。「割」だけが先に使われていて、その大雑把な率が使いにくくなったから分をあとから付け足したのか、まえは「分」で示していたのが何らかの都合(借金は特別扱いしたいとか)で「割」を使うようになってそっちが当たり前になったのか、たぶんどっちかなのだ。
税率を割合で示すようなことは租庸調の時代からやってたみたいだから、たぶん文献は豊富にあるはずなんだが、こんな簡単なことがネット検索でわからない。調べるキーワードが足りないだけかもしれないけれど。
(追記: ついでにまとめ)
みなさん反応ありがとうございます。結果的に人力検索になってしまいましたが、もともとこれはそれを目的として投稿したものじゃなくて、自分が「ここまで調べた」のまとめとして書いたものでした。いずれ調べが捗って本当に感謝しています。
とりあえず、
ようで、「割」だけが先に使われていて、その大雑把な率が使いにくくなったから分をあとから付け足した、の予想がそこそこ近かったようだ。
調べているうちに出てきた新たな疑問としては、
あたり。このへんは今回の疑問から少し外れるので、まあそのうち。
「リファレンス使えば」。これね、時々思う。実際使ったこともある。とある地名の表記ブレを、行政機関があまり一般的じゃない方に統一した、って時に、それが単なる自治体PR(統一したほうにはそのPR要素があった)なのか、それともまあそうするだけの根拠があったのか、疑問に思って、「その地名の2つの表記の古文書での使用頻度」を調べてもらった。ちなみに結果としては30件くらい見つけてもらって、見事に半々っぽい結果だったのでまあ納得することになった。
今回は今回で調べてもらってもいいのだけど、前に頼んだ図書館にはおそらくこれ関連の古文書少ないのよ。そうすると一般書籍で記述のあるもの探してもらうことになる。それだったらネットで同じような疑問を持ってそれ調べた人の成果を探したほうが早いの。リファレンス使うとその図書館の調査には2,3週間かかることもあるのね。だったら自分で調べてたどり着けなくなってから頼んだほうがいいと思った。そうね、「分」の1/4 1/10 1/60問題についてはそのうち聞くかもしれない。
原始神道では、神が宿る対象は特定の巨木や山などに限られていたのは増田の言う通り。
しかし平安時代初期(8世紀~)から中世にかけて神仏習合が進むにつれて、森羅万象に神が宿るという思想に変わっていった。
特にこの時代の神道は密教の山岳信仰と密接に結びついていて、山中のあらゆるものに神が宿ると考えられるという思想が、現在まで続く概念の起源となる。
その後は伊勢神道(9世紀~)が「森羅万象に神は宿る」という思想を広め、
江戸時代の吉川神道の開祖である吉川惟足(1616~1695)が明確に「神は幽玄にして森羅万象に充満し、一草一木もこれ神ならずということなし」と表明した。
月曜日だったので人も少なく、わりとゆったり見れた
入口にドーンと今回の展示の関係者として池田大作の言葉が飾ってあった
最初は意外に思ったが、長年シルクロード文化には興味を持っていたみたいなことが書いてあり、シルクロードは仏教伝来の道でもあるし、仏教由来の宗教家としては関係性が深いものなのかと納得した
また最近亡くなった宗教家のコネとマネーのおかげの展示なのかと思うと複雑な気持ちになったが、シルクロードの神秘から新興宗教までと幅広い展示なんだなと思うことにした
展示の一歩目から金持ちの好事家のおっさんのコレクションを見に来たみたいな気持ちにもなり興がそがれたが、もともと古来の名品なんて好事家のおっさんの蔵リレーみたいなところありそうだし、そんなもんなんだろう
展示内容としてはもともとのシルクロードの地域的な広さ、飾られた品の制作年代の広さ、関係する文化圏の多さも相まって、出土品や名品を見ながらなんとなくの歴史を追うだけでも大分理解が難しく、これ予習してから来るべきだったなと反省した
ただ、紀元前2世紀から唐代(8世紀くらい)までのシルクロード(6500kmくらいあるらしい。日本国土は3500kmだそう)関連品なので、もうこれより広いカテゴリの展示ってあるのかなとも思った
序盤で頭がついていかなくなったので、キラキラやデザインを楽しむ方向で見ることにした
老齢の御夫婦がトルコ石で飾られた金の器を見て「見てみ、金ぴかやー」と言っていて、みんなそんなレベルなのかもしれんとなんか安心した
デザインとして気になったものとしては後漢の時代の『車馬儀仗隊』
三列くらいに並んでいて、一番後ろの二頭の馬が荷車を引いていたんだけど、明らかに左右で荷車のクオリティが違っていた
向かって左の荷車は板も薄く、引き縄も細く、板同士の溶接部分も最低限で繊細に作られているのに対し、右の荷車は板も太いし、縄も太く反り方も少なく、溶接部もぼってりと盛られていた
そっか設計図とかきっちりしたものがあるわけでもないし、一個ずつがハンドメイドだからよく見たら大分見た目が変わるんだなと思った
ただ左の荷車はその細い設計のせいか、荷車の後ろの板部分と馬のしっぽ辺りを釣り糸で結び強度アップしており、大量生産をするなら右の荷車を元に設計図を起こす方がいいのだろう
あとは『妙法蓮華経化城喩品 断簡』の文字が細いところと太いところのギャップが激しく、全体的に平体みたいにつぶれていて、あんまり見ない感じの書体だなと思った
こういう古書由来のフォントってあるのだろうかと思いつつ、漢字だけだし、日本だとあんまりフォントに起こしても使えねえなと思って見ていた
なんか最後に日中友好の証として送られてきたらしいラクダのはく製が二頭飾られていて、本当に何を見に来たのかわからん気持ちになった
わりと情報量につかれた後、川端通商店街を歩き、櫛田神社に行った
ネタバレは、控えめに頑張るが。
嫌な人は、ご容赦下さい。
3
2
1
まず、
という前提を飲み込んで欲しい。
根拠としては、
・光の国からやって来ている。
・デザインの一部に アルカイック・スマイルが参照されている。
んで、
シン・ウルトラマン は、何を描いているのか?
現代でこそ、仏教は日本に需要されているが、仏教が伝来した飛鳥時代では〈蕃神〉、つまり異物だった訳だ。
作中では、
原理的には超科学によって地球人もウルトラマンと同等の存在になれると示唆されているが
これって、原理的には万人が悟れる(≒阿羅漢)とする仏教よね。
脅威でもある海外(外星人)の仏教(ウルトラマン)を含めた当時の最新知識を
んで、
自国と外交情勢が落ち着いて、自国のアイデンティティーを確認したくなったので
シン・ウルトラマンは、仏教が伝来し、日本神話が成立した飛鳥時代を引用しつつ
現代日本の外交情勢をモチーフにしているから物語構造が強い。≒面白い。
だが、
『シン・ウルトラマン』の問いかけ そのもの が不愉快な層が居ると。
オリジナル ウルトラマンが表現したかったモノまで分解再構成し、
ここまで長文を読んでくれて thx 。
飛鳥に29、40、41代天皇の墓があって大阪、奈良に16代天皇家族の墓があるのは変だなと思って経済史的に考えてみた。
4世紀、帯方郡と卑弥呼が滅び、渡来人が辰砂利用技術を持ってきて、初代天皇が立つ。天照・卑弥呼から曾孫の代は出雲にも進出。
5世紀、貿易で成功した15〜16代天皇は大阪と奈良盆地に進出して栄える。巨大古墳を作る。
6世紀、29代のとき任那が滅びて百済貿易が中心になる。渡来人が増えたので32代までに飛鳥京が開発される。それで銀山も開発されたが、場所は秘密。
7世紀、33代は遣隋使を送り、34代は遣唐使を送ってまた大陸貿易栄える。36代のとき百済が滅びて渡来人が増えたので38〜41代が奈良を再開発。飛鳥京は国内統一のための機関になり、統一後は廃止。
8世紀、渡来人がいるので43代に古事記(たぶん百済系)、44代に日本書紀(たぶん漢人系)ができる。45代が奈良大仏。47〜49代あたりに続日本紀ができる。50代(平家祖のひとり)が長岡京、平安京を開発。しばらくすると、インフレが酷くなりしばしばデノミをする。
平安時代は長いので飛ばして11世紀、唐と平家が滅びて道教の公家が衰退、仏教の武家が台頭。大陸も日本も諸国分立時代。
古墳の年代が正しいなら、天皇は4世紀からで、5世紀に大阪・奈良時代が始まり、任那滅亡のあとしばらく飛鳥京がある。飛鳥京の謎の石造物は任那系渡来人が来る前のものだろう。そもそも2世紀に福岡伊都国に千如寺が建ったときは天皇がいないだろうし、新羅系渡来人も鉱山開発をしてる。
天皇陵のある奈良や飛鳥や古墳作りがが廃れたのは、国内統一し終わって割の良い古墳作りを村人にさせる必要がなくなったとか、そのあたりの銀山が閉山したとか、任那や百済が滅びて古墳が流行らなくなったとか、産廃の利用方法を古墳作りの他に見つけたとか、唐辛子や香辛料が入ってきて、料理に忙しくなったとか。
初代天皇の父親の墓が鹿児島にあるとされているが、だったら隼人の反乱が起きるはずがないと思う。
だいたい古墳の主は仮託もできるし、もしかすれば戦争の死者が埋められてるかもしれないわけだ。律令制のあとは古墳がないんだろ。
今日、ギリシア神話として知られる神々と英雄たちの物語の始まりは、およそ紀元前15世紀頃に遡ると考えられている。物語は、その草創期においては、口承形式でうたわれ伝えられてきた。紀元前9世紀または8世紀頃に属すると考えられるホメーロスの二大叙事詩『イーリアス』と『オデュッセイア』は、この口承形式の神話の頂点に位置する傑作とされる。
巨体は星々と頭が摩するほどで、その腕は伸ばせば世界の東西の涯にも達した。腿から上は人間と同じだが、腿から下は巨大な毒蛇がとぐろを巻いた形をしているという。底知れぬ力を持ち、その脚は決して疲れることがない。肩からは百の蛇の頭が生え、火のように輝く目を持ち、炎を吐いた。
半人半蛇だけど「炎を吐く邪悪な蛇」のイメージにはなっているかも。
ラードーン(古希: Λάδων, Lādōn)は、ギリシア神話に登場する、林檎園の黄金の林檎を守っていた、100の頭を持つ茶色いドラゴン。
(中略)
口から炎を吐き、一説では顎の関節が尾にある為、体全体が口のようになっており、百の首を持つといわれている。
と、Wikipediaには書かれているが、ラードーンが火を吐くかどうかは定かでない。
何が出典なんだろ?
『ヨブ記』(ヨブき、ヘブライ語:סֵפֶר אִיּוֹב)は、『旧約聖書』に収められている書物で、ユダヤ教では「諸書」の範疇の三番目に数えられている。ユダヤ教の伝統では同書を執筆したのはモーセであったとされているが、実際の作者は不詳。高等批評に立つ者は、紀元前5世紀から紀元前3世紀ごろにパレスチナで成立した文献と見る。
『ヨブ記』によれば、レヴィアタンはその巨大さゆえ海を泳ぐときには波が逆巻くほどで、口から炎を、鼻から煙を吹く。
(中略)
その姿は、伝統的には巨大な魚やクジラやワニなどの水陸両生の爬虫類で描かれるが、後世には海蛇や(それに近い形での)竜などといった形でも描かれている。
ドラゴンになったのは後世。
プリニウスの著作で唯一現存しているのが、自然と芸術についての百科全書的な37巻の大著『博物誌』である。自然界の歴史を網羅する史上初の刊行物であった。
(中略)
プリニウスの『博物誌』10巻には、サラマンドラは斑点を持つ小さなトカゲで、雨が降ると現れるが晴れると姿を消し、体が冷たく火に遭うと溶けると記録されているが、これはサンショウウオに関する記述と考えられている。
また、『博物誌』11巻にはピュラリスというキプロスの炉の炎の中でしか生きられない動物が登場しており、精霊のサラマンダーはこちらに近い。上記の通り、炎を操る特徴からファイアー・ドレイクと同一視され、ドラゴンとして扱われることもある。
『ベーオウルフ』が成立した時期は、作品内部にも外部の言及としても成立の時期を特定する記述が存在しないため、必ずしも明らかではないが、8世紀から9世紀にかけての間に成ったと考えられている[3]。
第一部でベーオウルフは巨人(ドラゴンとも言われている)グレンデルとその母親と戦い、第二部では炎を吐く竜と死闘をかわす。 なお、インパクトが強くかつ謎の多いグレンデルとその親に関しては言及されることが多いが、炎を吐く竜に関してのものは少ない傾向にある。だが、同時にいわゆる「ドラゴンの約束事」(財宝を蓄え守っている、翼を持って空を飛ぶ、火を吐くなど)をほぼそろえている珍しいドラゴンでもある。
スラヴ民族は文字を持たなかったため、伝えられた神話を民族独自に記録した資料は存在しない。スラヴ神話が存在した事を記す資料として、9世紀から12世紀の間に行われたキリスト教改宗弾圧の際の「キリスト教」の立場から記された断片的な異教信仰を示す内容の記述が残るのみである。スラヴ神話は地方により様々なバリエーションがあったことが近年の研究により明らかになっている。
ズメイ・ゴルイニチ(「山の息子の竜」の意)の場合、3つ首以上、多ければ12の体幹を持つと表現され、火や毒を噴くなど、歴然とした一般の「竜」のイメージで描かれる。
『アングロサクソン年代記』はアングロサクソン史を古英語で綴った年代記の集大成である。編纂は9世紀後半のアルフレッド大王の治世に、恐らくはウェセックスにおいて行われた。
「火の竜」を意味する名前の通り、炎をまとい、口からも炎を吐く。空を飛び、それが現れる時は辺り一面、昼のように照らされる。曇天の空に不思議な光が走る時はファイアー・ドレイクが飛んでいるのだとされた。
隕石という説があるらしい。
『イヴァンまたは獅子の騎士』(イヴァンまたはししのきし、Yvain, le Chevalier au Lion)は、1170年から1181年頃にかけてクレティアン・ド・トロワにより著作された散文騎士道物語であり、アーサー王伝説を主題にした5作品のひとつである。
イヴァンは旅の途中で火を吐く大蛇と獅子が戦っているところに出くわす。イヴァンは問答のすえ獅子に加勢し、大蛇を倒した。これに恩義を感じた獅子は、イヴァンと行動を共にするようになり、イヴァンは獅子を連れた騎士とだけしか名乗らなくなる。
『黄金伝説』(おうごんでんせつ、羅: Legenda aurea または Legenda sanctorum、レゲンダ・アウレア)は、ヤコブス・デ・ウォラギネ(1230頃 – 98)によるキリスト教の聖人伝集。1267年頃に完成した。
その時代、エチオピアの町では一人の魔術師が権力を持っていた。彼は常に恐ろしい二匹のドラゴンを連れていて、自分にはむかう者にけしかけていた。あまり大きなドラゴンではなかったが、口や鼻から火や燃える硫黄を噴出し、人や家を焼きつくしたので誰も魔術師に反抗できなかった。その噂を聞いたマタイは魔術師の元を訪れた。魔術師はマタイにドラゴンをけしかけたが、マタイが十字を切るとドラゴンは地面に倒れて眠り込んでしまう。
同じく「黄金伝説」に書かれている、有名な聖ゲオルギウスが退治したドラゴンは、毒を吐くが火は吐かない。
聖マルタが退治したタラスクは、「燃える糞を撒き散らす」と言われているけど、これ英語版では確認できなくない?
タラスクは、レヴィアタンとボナコンの子供なのだが、ボナコンの特徴である「燃える糞」が、日本語訳されるときに混同されたのでは。
といったところから考えると、5世紀くらいまでは「火を吐くドラゴン」概念は薄かったが、
8〜9世紀頃から伝承として語られはじめて、10〜12世紀頃にはすっかり定着していたという感じだろうか。
なぜ火を吐くようになったのか?
サラマンダーは、火をより大きく燃え上がらせる能力があり、火山の溶岩の中に住んでいるという伝承もある。
ズメイや、ヤコブのドラゴンは、吐く息から硫黄の臭いがするといい、火山を連想させる。
ドラゴンには「地を這うドラゴン」と「空を飛ぶドラゴン」の二種類のイメージがあるが、
蛇や蜥蜴からは空を飛ぶイメージがしづらいことを考えると、隕石からの連想には説得力がある。
そこから火を吐くように変わっていったことを考えると、これも自然な解釈に思われる。
うーん、わかんね。
追記。
「フンババの咆哮は洪水であり、彼の口は火を意味し、吐息はまさに死である」というのは単なる比喩なのでは。
http://anond.hatelabo.jp/20170611183038
これのつづき。今回も文字数制限にひっかかったので、分割します。
一方、インドの僧菩提、林邑(ベトナム中部)の仏哲、唐僧鑑真らの外国人も、遣唐使船に便乗して来朝し、インド・西域・東南アジアの文化を伝えた。
遣唐使船は日本人が唐へ往来するためだけではなく、外国人を日本に招くためにも使われていたのです。「遣唐使」「鑑真」というのは中学生レベルの用語です。しかし、この2つを結びつけて説明できる人は案外少ないんじゃないでしょうか?
ちなみに、山川の『日本史B用語集』によると、菩提僊那、仏哲という用語を載せている教科書は、唯一これだけみたいです。しかも桐原書店は彼らの業績を説明するための註を設けている徹底ぶりです。入試問題になったら難問だと思いますが、大切なのはこういう人名を丸暗記することじゃなくて、東大寺の大仏開眼供養会はインドやベトナム出身の僧侶たちも参加していた国際色のあるイベントだった、それは遣唐使船がもたらしてくれたものだということでしょう。
「日本がしばしば新羅を従属国として扱おうとしたため、両国の関係はしばしば緊張した。しかし、日本の遣唐使が唐において新羅人に助けられることもあった。」
これもこの教科書に独特の記述です。遣唐使が新羅人に助けられたというのは、円仁の著作『入唐求法巡礼行記』のことを念頭に置いているんでしょうか?
また、上掲の講談社『日本の歴史』シリーズから引用すると、次のような話もあります。
遣唐使の派遣が間遠になり、日本の船が唐まで行かないなか、それでも求法の念止みがたいとなれば、来航する新羅船を利用するしかない。そしてまた新羅の商人たちは、概して好意的に彼らを助けたのであった(坂上早魚『九世紀の日唐交通と新羅人』)。こうして入唐と研鑽を果たした天台・真言の平安仏教の旗手たちが、仏教の使命は鎮護国家にあるとする考えに則り、護国の修法による新羅調伏を担うことになったのは、実に皮肉なことであった。
このころ唐では、みずからを世界の中心とみなす中華思想が強まり、周辺の国々を夷狄として見下す考えが生まれていた。この考え方は日本にも影響をあたえ、朝廷は新羅や、朝廷に服属しない東北や九州南部の人びとを蝦夷や隼人とよんで夷狄として蔑視しはじめた。
朝廷が東北地方や九州南部に進出した経緯を説明する際、そこには中華思想の影響があったことを説明しています。それに絡めて新羅との関係にもちょこっと触れているので、先にとりあげた東大入試の問題を解くときのヒントになるでしょう。
もっとも、この点はやはり、山川出版社『新日本史B 改訂版』(日B018)の方が優れています。私が先に引用した箇所のすぐうしろ([後略]とした部分)では、朝廷が「東北地方の蝦夷、九州南部の隼人を異民族(夷狄)として服従させ」たことを説明し、「律令国家が蛮夷を服属させる帝国であることを内外に示した」と結んでいるのです。
それに比べると、三省堂の教科書は、遣唐使と中華思想という2つのものを関連付けて理解することが不可能です。
実教出版にも「奈良時代に遣唐使は6度派遣され」たとありますが、東京出版は9世紀のことも記述していてグッド。
遣唐使は894年、菅原道真の建議で廃止されました。ですから、9世紀末まで遣唐使を派遣する制度は残っていたはずなんですが、8世紀と比べるとその回数がめちゃくちゃ減っていることが分かるでしょう。
理由は、日本がもはや唐から学ぶべき必要・意欲がなくなってきたこと、唐が政治的混乱に陥って衰退したことによる国威の低下、商船の往来が活発になったことで日本が唐に朝貢をしなくても舶来品を入手できるようになったこと、などです。
これがさっき桐原書店のところで述べた話にもつながっています。時代が9世紀(すでに平安時代)になっても、仏教では唐に確固たる先進性がありました。だから日本の僧侶たちは唐に留学することを熱望したのです。しかし朝廷は遣唐使の派遣に積極的ではなく、彼らは新羅商人の助力を得なければ、渡航が困難という状況だったのです。
[引用者注:702年の遣唐使派遣の再開について] その目的のなかには、「日本」という国号を認めさせることも含まれていたと考えられる。
東京書籍の教科書にだけある、この一文。「日本」がはじめて国際社会に登場したのがこの時点だったと言っているんです。
これ、すごいことを言っていますよ? 「日本」が太古の昔から存在したという皇国史観に対する強烈な一撃です。
ちなみに、このとき「天皇」は国際デビューしていません。倭国はなんとかして「日本」への国号変更を唐に認めさせることはできても、皇帝にあたる「天皇」という称号を用いて唐と対等外交をする力がなかったのです。唐では天皇のことを「日本国王主明楽美御徳」(日本国王スメラミコト)と呼んでいたようです。もしかしたら当時の日本の朝廷内では、「スメラミコトは唐の皇帝に臣従したが、天皇は臣従していないから日本国王ではなく、したがって日本は唐の朝貢国ではない」という回りくどい官僚的答弁があったかもしれませんが、その点は不明です。このような高度に政治的な問題は、国史編纂のときに巧妙な隠蔽がおこなわれるからです。(上掲の講談社「日本の歴史」シリーズや青木和夫著の中央公論社『日本の歴史3巻 奈良の都』を参照せよ)
さて、これは東京書籍にかぎらず、多くの教科書でそうなのですが、古代史において「天皇」「日本」という表記を用いるときには慎重になっている様子がうかがえます。例えば白村江の戦いでは、唐・新羅と戦った国が「日本」ではなく、「倭」「倭国」「朝廷」等の表記になっています。
なぜ教科書がこんな表記になっているかというと、「天皇」「日本」という称号・国号は、ある時期の特定の政治状況のもと、人為的に作られたものだからです。具体的には天武朝(673年~686年)のころ、大王とその国を神格化する目的で、初めてこれらの称号・国号の使用が開始されました。ですから、もし神と同一であるところのその「天皇」、その神のおさめる国である「日本」が、天武朝より遥か昔から存在していたかのように記述するならば、それは皇国史観に他なりません。
無論、教科書では便宜的に仁徳天皇、推古天皇というような表記が使われていますけど、古代史における「天皇」「日本」という表記の取り扱いについては一応注記が設けられていたりします。例えば『詳説日本史』は壬申の乱ののち、天武天皇が「強力な権力を手にし」て、「中央集権的国家体制の形成を進」めていく過程で、そのころに「大王にかわって「天皇」という称号が用いられる」ようになったと書いています。同社の参考書『詳説日本史研究』はそこがもっとクリティカルです。「大王から天皇へ」というコラムで、「天皇」という称号が天武朝に始まることの歴史学的な検証を載せ、唐の皇帝が一時「天皇」と称していたのを知った日本側が模倣したという説を紹介しています。
これの筆者です。
id:netcraft3さんに「このままシリーズ化してほしい」と言われたんですが、そのつもりはないです。歴史学に対してろくな知識もないから恥をかきそうだし、人気の増田(国会ウォッチャー)みたいに注目をあびるのは恐ろしいです。
なので今回で最後になるかもしれませんが、ひとまず「遣唐使」について見ていきましょう。
山川出版社『詳説日本史』の「遣唐使」という項は、次のように書かれています。全文引用します。
618年、隋にかわって中国を統一した唐は、東アジアに大帝国をきずき、広大な領地を支配して周辺諸国に大きな影響をあたえた。西アジアとの交流もさかんになり、都の長安(現、西安)は世界的な都市として国際文化が花ひらいた。
東アジア諸国も唐と通交するようになり、日本からの遣唐使は8世紀にはほぼ20年に1度の割合で派遣された。大使をはじめとする遣唐使には留学生・留学僧なども加わり、多い時には約500人の人びとが、4隻の船にのって渡海した。しかし、造船や航海の技術はまだ未熟であったため、海上での遭難も多かった。遣唐使たちは、唐から先進的な政治制度や国際的な文化をもたらし、日本に大きな影響をあたえた。とくに帰国した吉備真備や玄昉は、のち聖武天皇に重用されて政界でも進出した。
朝鮮半島を統一した新羅とも多くの使節が往来したが、日本は国力を充実させた新羅を従属国として扱おうとしたため、時には緊張が生じた。8世紀末になると遣新羅使の派遣はまばらとなるが、民間商人たちの往来はさかんであった。一方、靺鞨族や旧高句麗人を中心に中国東北部に建国された渤海とは緊密な使節の往来がおこなわれた。渤海は、唐・新羅との対抗関係から727(神亀4)年に日本に使節を派遣して国交を求め、日本も新羅との対抗関係から渤海と友好的に通交した。
これはひどい。遣唐使の派遣再開が何年だったかという記述がありません。
そもそもこの派遣が再開であるという基礎知識すら、この教科書では把握できません。ページを戻って第2章「1,飛鳥の朝廷」の「東アジアの動向とヤマト政権の発展」という項では、「倭は630年の犬上御田鍬をはじめとして引き続き遣唐使を派遣し」たとあるのですけど、その後にしばらく派遣を中断した時期があることは記載なし。
一時期は中断していたからこそ、702年の派遣再開に歴史的意義があります。第1回の遣唐使派遣が630年ですから、何と、まだ大化の改新をやっていない時代ですよ? それくらい古い時代から派遣していたにもかかわらず、多くの教科書が8世紀初頭の出来事として遣唐使のことを説明するのはなぜでしょうか。それは再開というターニングポイントを重視しているからです。本書もそれに従って、「3,平城京の時代」という単元に「遣唐使」の項を配置しています。それならば、中断・再開の経緯について説明を載せるべきです。
ちなみに、他の教科書では、遣唐使の派遣再開についての説明が次のようになっています。
「7世紀前半にはじまった遣唐使は、天武・持統天皇の時代にはしばらく中断されていたが、702年久しぶりに難波津を出発した。」
「白村江の戦いののち、30年あまりとだえていた唐との国交が、701(大宝元)年の遣唐使任命によって再開され、以後、遣唐使がたびたび派遣された。それまで、半島からの渡来人や新羅などに学びながら、ある程度の国家体制を整えてきたが、この年の大宝律令とともに、唐との直接交通を始めたのである。」
「律令制度を整えた朝廷も、702(大宝2)年に遣唐使を復活させ、唐の文物や制度の摂取につとめた。[中略]
こうしたなか、朝廷は新都の造営や貨幣の鋳造、国史の編纂などを次々に実行して、中央集権体制にふさわしい国家づくりに励んだ。」
[引用者注:教科書のページを戻って「白村江の戦いと国内体制の整備」の項では、白村江の戦いののち、遣唐使が「669年を最後に中断した」という記述あり。]
遣唐使が中断していた理由もわかるし、大宝律令の制定と遣唐使の再開という2つの出来事を結びつけて理解することができます。
三省堂の記述もおもしろいです。私は前回、この教科書について、「時代の流れがよくわかる」「時系列にしたがった記述が多い」というようなことを書きましたけど、ここでもその特徴が出ています。
大宝律令の制定、平城京への遷都、貨幣の鋳造、国史編纂というのは国内政治です。一方、遣唐使、新羅・渤海との関係は、外交政策です。普通の教科書はこれを別項に分けますが、三省堂はこれを同じ項にまとめて一つの時代の様相として語っているのがすごい。
東京書籍、実教出版も、中断・再開に触れています。その点は『詳説日本史』より絶対にマシです。
山川出版社『高校日本史 改訂版』(日B 017)は、教科書のページ数が少なくて、内容もぺらぺらに薄いです。『詳説日本史』と同様、これでは大雑把に奈良時代の初め頃だったということしか分かりません。(しかも正確には702年に派遣再開されたので、これを奈良時代の出来事と把握すると誤りになります)
東大入試(2003年)は、遣唐使の本質にせまる問題を出しています。
次の(1)~(4)の8世紀の日本の外交についての文章を読んで、下記の設問に答えなさい。
(1) 律令法を導入した日本では、中国と同じように、外国を「外蕃」「蕃国」と呼んだ。ただし唐を他と区別して、「隣国」と称することもあった。
(2) 遣唐使大伴古麻呂は、唐の玄宗皇帝の元日朝賀(臣下から祝賀をうける儀式)に参列した時、日本と新羅とが席次を争ったことを報告している。8世紀には、日本は唐に20年に1度朝貢する約束を結んでいたと考えられる。
(3) 743年、新羅使は、それまでの「調」という貢進物の名称を「土毛」(土地の物産)に改めたので、日本の朝廷は受けとりを拒否した。このように両国関係は緊張することもあった。
(4) 8世紀を通じて新羅使は20回ほど来日している。長屋王は、新羅使の帰国にあたって私邸で饗宴をもよおし、使節と漢詩をよみかわしたことが知られる。また、752年の新羅使は700人あまりの大人数で、アジア各地のさまざまな品物をもたらし、貴族たちが競って購入したことが知られる。
設問:この時代の日本にとって、唐との関係と新羅との関係のもつ意味にはどのような違いがあるか。たて前と実際の差に注目しながら、6行以内で説明しなさい。
山川出版社『新日本史B 改訂版』(日B018)です。これ以外は、どの教科書も上記引用した『詳説日本史』と似たり寄ったりの内容ですから、いくら熟読をしても答案を書くことが難しいと思います。(三省堂をのぞく。後述)
8世紀に入ると、日本は20年に1度の回数で大規模な遣唐使を派遣した。日本は唐の冊封を受けなかったが、実質的には唐に臣従する朝貢であり、使者は正月の朝賀に参列し、皇帝を祝賀した。[中略]
一方、日本の律令国家内では天皇が皇帝であり、日本が中華となる唐と同様の帝国構造を持った。日本は新羅や渤海を蕃国として位置づけており、従属国として扱おうとした。
白村江の戦いののち、朝鮮半島を統一した新羅は、唐を牽制するために日本とのあいだにひんぱんに使節を往来させ、8世紀初めまでは日本に臣従する形をとった。やがて対等外交を主張したが、朝廷はこれを認めず、藤原仲麻呂は新羅への征討戦争を準備した。一方で、新羅は民間交易に力を入れ、唐よりも日本との交流が質量ともに大きくなった。現在の正倉院に所蔵されている唐や南方の宝物には、新羅商人が仲介したものが多いと考えられる。[後略]
以上に準拠しながら、私なりに要点をまとめておくと、次のとおりです。
(1)は、日本が唐から律令を学び、その中華思想の影響を受けたことを言っています。つまり、日本はみずからが「中華となる」という「帝国構造」を作ろうとしたのです。「日本は新羅や渤海を蕃国として位置づけ」て、彼らを野蛮だと侮蔑し、従属国として扱おうとしました。ですが、唐だけは別格です。あのような大国を敵にまわすと、恐ろしいことになりかねません。そういう遠慮があって、唐のことだけは尊重して隣国と呼びました。
(2)は、「日本は唐の冊封を受けなかったが、実質的には唐に臣従する朝貢」をしていたということです。唐の臣下となって朝貢する国々の中にも、その立場にはランクがありました。日本と新羅はともに唐の臣下だったのですけど、日本は新羅より格上の臣下になろうとしたのです。
(3)は、日本と新羅の関係悪化について述べています。新羅が「8世紀初めまでは日本に臣従する形をとった」ので、その間は関係がうまくいっていました。しかし、新羅が「やがて対等外交を主張」するようになったから、両国関係はこじれてしまったのです。それが最終的には藤原仲麻呂が「新羅への征討戦争を準備」するくらいにエスカレートします。
(4)は、日本と新羅が政治的には対立しつつも、経済的には交流が盛んだったという内容です。「新羅は民間交易に力を入れ」ました。「新羅商人が仲介し」、日本へ「唐や南方の宝物」をもたらしたのです。それは貴族たちが競って購入したがる垂涎の的でした。現在「正倉院に所蔵され」ている宝物も、そういうルートで輸入したものが多いのです。
教科書の読み比べをすることの目的は、なにも入試に対応するためだけではありません。
例えば『詳説日本史』には、最初に引用したとおり、「日本は国力を充実させた新羅を従属国として扱おうとしたため、時には緊張が生じた」とか、「8世紀末になると遣新羅使の派遣はまばらとなるが、民間商人たちの往来はさかんであった」という記述があります。この短い記述が伝えようとしていることの本当の意味は、『新日本史B 改訂版』(日B018)のような他の教科書と併読することにより、はじめて正確に把握できるのです。
ところで、この教科書の著者は、東大の先生が3人、京大の先生が1人です。本書だけに載っているネタを使って入試問題がつくられたのは、そのへんの事情もあるのかなと勘ぐってしまいます。
もしくは、これは2003年の入試問題ということだから、ちょうど講談社の『日本の歴史』シリーズ(2000年~2003年)が発行されていた時期ですし、そちらの内容を意識しているのかもしれないですね。一応、そっちのシリーズからも引用しておきましょう。
国内及び新羅などの諸国に対する時と、唐に対する時とで天皇の顔を使い分けるという、まことにすっきりしない状況でもあった。このような努力・苦心を払って日本が手に入れようとしたのは、東アジアの有力国としては新羅より格が上、という地位の確認であり、また初期の遣唐使が唐の高宗に蝦夷を見せたことに示されているように(『日本書紀』斉明五年七月三日条)、日本は隼人や蝦夷などの異民族をも支配下にいれた大国かつ君子国であるという評価であった。いわば唐を盟主とする諸国の中での相対的に高い地位を求めるとともに、自らの小帝国であることを唐に認めさせようとしたのである。(石母田正『天皇と諸蕃』)
さきにもふれたように、「日本国」は唐帝国との公的な外交関係では「天皇」の称号を用いることができず、実際には二十年に一度の使い――遣唐使――を送る唐の朝貢国に位置づけられていたと考えられるが(東野治之「遣唐使船」朝日新聞社、一九九九年)、国号を「倭」から「日本」に変え、「天」をつけた王の称号を定めたのは、唐帝国に対し、小なりとも自ら帝国として立とうとする意志であったことも間違いない。
実際、「日本国」は「蛮夷」を服属させる「中華」として自らを位置づけ、「文明」的と自任するその国制を、周囲の「未開」な「夷狄」におし及ぼし、国家の領域を拡げようとする強烈な意欲を、その発足当初は持っていたのである。
[中略]
このように、朝鮮半島に対しても圧力を加えて、朝貢を強要する姿勢を示す一方、「日本海」をこえてたびたび使者を送って交易を求めてきた渤海については朝貢国として扱うなど、「日本国」は自らを「中華」とし、帝国として四方に臨もうとしていた。しかし東北侵略を止めた9世紀に入ると、こうした「帝国主義」的な姿勢、列島外の世界に対する積極的な動きはしだいに退き、十世紀になれば、ほとんどそれは表に現れなくなっていく。
日本が置かれている立場としては、唐への朝貢という屈辱外交をやめるためには、遣唐使の派遣を中止するしかないわけです。しかし、日本は唐と断交して敵対的にのぞむ国力も、その覚悟もありませんでした。
いっぽう、遣唐使は唐の皇帝から賜った国書(日本国王へ勅す)を持ち帰るわけにはいきません。日本が唐に朝貢していると認めることは、天皇の威信を傷つけることになるからです。
こうなると、実際には日本が唐に朝貢していることが明らかなのに、国内での建前としてはそれを否定してみせる必要が出てきます。要するに、「遣唐使の派遣は朝貢ではない。天皇が唐に臣従しているという批判は当たらない」という建前をでっちあげ、国内的にはそれをゴリ押しすることで、この矛盾を乗り越えようとしたのです。
私がこのエントリの題名に「白紙に戻せぬ遣唐使」と付けた由来は、多分みなさんもご存知の、894年に遣唐使が廃止されたことを指す語呂合わせ「白紙に戻そう遣唐使」です。しかし、日本がほんとうに、この"遣唐使"的なるものを白紙に戻せたかというと、それは甚だ疑問です。為政者が国内と国外で異なる顔を見せたり、外交姿勢の実態と建前を使い分けているというのは、室町時代に明に朝貢して「日本国王」となった足利義満に、ほとんどそのまま適用できる視点だと思います。
それに、このことは現代の外交問題についても、重要な示唆を与えてくれます。例えば政府が国内に向けて愛国心やナショナリズムを煽っておきながら、それと同時に国外に向けて国際協調のアピールをするというチグハグな状況は、まさにこの延長にあるんじゃないでしょうか。
あるいは唐側の視点で見ると、日唐関係はこんな見方もできるかもしれません。唐は日本がおとなしく朝貢するかぎり、細かいことに目くじらを立てなかった。唐としては蕃国をヘタに刺激して事を荒立てるより、多少その尊大なふるまいを黙認しておく方がメリットがあった。すなわち唐は日本と妥協しあって、朝貢関係があるとも無いとも、どちらとも言える状況を作りあげた。――こういう分析がどれだけ妥当か分かりませんけど、2国間に争いがあるとき玉虫色の決着をつけ、両国政府がそれぞれ自国民の耳に心地よい解釈で説明をしているというのは、これまた現代によく見かける話でしょう。
遣唐使についての解説が長くなりすぎましたが、じゃあここから、各社の教科書の読み比べをしていきます。
おもしろい特色がありません。
無理に良い所探しをするなら、「よつのふね」という文学的な呼び方を紹介し、その規模がいかに大きかったかを強調していることです。
華々しく飾り立てた大使節団というのは、それを送りだす側も、それを受け入れる側も、両国にとって国威発揚のイベントになったと推測できます。もっとも、沈没や行方不明になることも多々あったので、華々しさとはかけ離れたのが実態だったかもしれませんし、どうなのでしょう?
つづきを書きました→ http://anond.hatelabo.jp/20170611234459
https://twitter.com/goeland_argente/status/825881166334996481
Cinq idées reçues sur le “nouveau” Front national
フランス語はそんな上手くないし、フランスの政治には全然詳しくないのでひどい訳です。
どんどん誤りを指摘してください。補足してください。何ならもっといい翻訳をつくってください。
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モンペリエ大学とパリ政治学院の政治科学の助教授であるアレクサンドル・デゼは、『問題になっている「新しい国民前線」』の中で、ステレオタイプに反して、国民戦線については、新しい点よりも昔から変わらない点の方がはるかに重要であることを示した。
2014年の選挙での国民戦線の戦績が良くなったことは否定すべくもない。しかしながら、そのことを過大評価してはならない。アレクサンドル・デゼは次のことを思い出すように促す。地方選挙において、国家的レベルと結びつけて考えるなら、1995年のときのように、票の4.7%しか獲得していない。これらの結果を、2012年の大統領選挙の時の人口10000人以上の都市におけるマリーヌ・ル・ペンの結果と比較してみよう。そうすると、今回の地方選挙の結果は、票数に関してはいくらか劣っているものだと言える。ヨーロッパ選挙に関していえば、かつて聞かれたように、29.4%のフランス人が国民戦線に投票したのではない。棄権を考慮に入れるならば、有権者の10%だけである。
奇妙にも、県の選挙の結果は、彼らの前進を示している。ただ、世論調査での高い予想のせいで、この結果は過小評価されている。国民戦線の候補者は43の県で1位であり、1107の小郡(canton)で、降りずに留まっている。
これらの結果というのは、国民戦線を彼らのスローガン通りの「フランスの第一党」とするには不十分なものである。アレクサンドル・デゼは、国民戦線の存在感というのは、市町村レベルでは副次的なものであり、地域圏(1880人の議員のうち118人、議長は1人もいない)・県(4108人の議員のうち62人、議長は1人もいない)・国会(577人の代議士のうち2人)のいずれのレベルでも甚だ不完全なものである。党員の数について言えば、国民戦線には42000人の活動家がいるが、その数は依然共和党と社会党よりも少ない。
2011年1月にマリーヌ・ルペンが国民戦線の党首に選ばれてから、「脱悪役(dédiabolisation)」という戦略が実行されるようになってから、エリゼ宮(※大統領官邸)への道のりは既に引かれたのだ、という声がしばしば聞かれるようになった。しかし、全くそうではない、とアレクサンドル・デゼは静観している。「この読みはメディアの大多数によって共同でつくられ引き継がれたことによって認められているのだから、政治的なフィクションの領域に属するような話である。」
国民戦線は、国政の責任者に至るまでには、おそろしいほどに枠組みを欠いている。他の党との「融和」を誇示するような最近のいくつかの手がかりのうち、いくつかはあまりに短い間であったし、あるいは、内部で問題視されていた。さらに、権力の扉は国民戦線に対して無情にも閉じられたままであるだろう。選挙制度上の理由で、今まさにそうであるように、国民戦線は政治的に孤立したままでいるだろう。「この孤立は、2回に分けての多数決投票が影響力をもつ政治システムのうちでは、権力への道を妨げる最大の障害物になる。」
国民戦線は他の党と同じような党になったのだろうか? マリーヌ・ル・ペンによってなされた刷新というのは、本当に党の顔を変えてしまったのだろうか? アレクサンドル・デゼによれば、これらの疑問への答えは改めて否定的なものである。マリーヌ・ル・ペンの就任の前と後での国民戦線の戦略、プログラムとその支持者を比較して語るところでは、「マリーヌの国民先生とルペンの国民戦線の間には、新しくなったところよりも十分多くの変わらないところが多い」のである。脱悪役? 国民戦線の歴史は、絶え間なく更新される脱悪役の試みの歴史である。したがって、右派へと国民戦線が差し出す手のうちに、あるいは、立派な風貌を打ちだすことによって新しい支持者を集めているとされている周辺的なさまざまな手段のうちに、新しいものは何もないのである。
プログラムに関していえば、国民戦線は常に自らの基礎に立脚している。反体制的批判、国家の特恵、国家の防衛、欧州連合の拒否、ユーロ圏からの離脱、失業と不安の原因と見なした上での移住の拒否である。反リベラルへの再定位は1992年に遡るが、マリーヌ・ル・ペンの社会的な演説は、連続性を担っている。
リーダーシップに関して言うと、マリーヌ・ル・ペンは、彼女の父親のイメージとの対照によってそのメディア上のイメージが形作られている。「このような対照性が推測されていることは、国民戦線に新しく投票するようになった人が、自らの投票を正当化するために持ち出されるような、最先端の議論になっている」とアレクサンドル・デゼは語る。しかしながら、言説における一連の相同性や、マリーヌ・ル・ペンが自分の父親について反対を示さなかった機会を列挙するこの研究者によれば、マリーヌ・ル・ペンと彼女の父親との差は、思われているよりも微々たるものである。例えば、2014年5月に父ルペンが「エボラ殿下」の介入が「人口爆発」と移民の問題を解決しうると主張した時、あるいは、彼が2015年1月に「私はシャルリーではない。私はCharlie Martel(※イスラム教徒のヨーロッパへの進出をイベリア半島までで食い止めた8世紀フランク王国の王)だ」といったとき。これらはいずれも、議員の免責特権の恩恵を被ることはなかった(「人種的憎悪の扇動」として彼女を追及することは、現在進行系で行われている)
最後に、その組織図に関して、「粛清」という幻影を生み出しながら、党によって過激すぎると判断された特定の諸個人を排除した。しかしながら、アレクサンドル・デゼが述べるところでは、「国民戦線は過激な極右のグループや活動家たちと、緊密な関係を維持している。」コゴラン市(Cogolin)の国民戦線の市長は、GI(Génération identitaire)の共同創設者であるジュリアン・ランゲラ(Julien Langella)を広報担当として2014年に起用した。ボーケール(Beaucaire)の国民戦線の市長は、GIのスポークスマンであるダミアン・リュー(Damien Rieu)を、市の広報部長補佐として任命した。二つの例を挙げれば十分だろう。
マスターキートンの中でも印象に残っていると言う人が多いであろう砂漠のかーリマンの話。
新疆ウイグル自治区、崑崘山脈から流れ出る2つの大河に挟まれ水の豊かなコータンは紀元前からシルクロード佐伯何度のオアシス国家として栄えていた。こーたん近くタクラマカン砂漠の下には東西交流の後を示すオアシス遺跡が数多く眠っている。その降誕北方110キロにある車は累積ここが舞台になっている。
遺跡の発掘と保険とは味切な関係がある。発掘参加者の紹介保険の丘後から発掘品の盗難破壊に保険をかける場合もある当然発掘されたものが保険の契約内容にふさわしい考古学的価値を持つか否かを鑑定する必要も生じてくる。故に保健委員の仕事も大いに関わってくる。
ウィグルと呼ばれる人々はトルコ系の遊牧騎馬民族で8世紀には中国北西部を支配する大帝国を形成したしかし9世紀後半キルギス人により滅亡現在は中国北西部の各州の民族自治区に分かれて生活をしているウィグル族は15世紀以降イスラム化した会長とはいちにち誤解目回の礼拝を欠かさない。
我々をイーグル足の上に立つの新の神のみであるだがかつてオアシスが水を持つ者が支配者だった私のように小作人として生を受けたものは様子吉田吉田の拍子に告示され続けた私はこの地にとどまった子後はマホメットに最も近い伝説の英雄さリコの生地とされていたからだ私が毛沢東の軍隊のために戦ったのも我々老いぼれ側の信仰の自由のためだ英雄サーディクのように。
われわれはついにあれを発見した。あれこそが1000年の昔この砂漠で戦ったauサービックの聖なる量の上に立った礼拝所の後だ。中央の壁の凹みは聖なる印だ。
「よくわからんが世界中にはよそ者がつかつか踏み込んでけない場所がたくさんあるってことです最近の日本人は平気で工夫を壊しちゃいますけれどもね。」
まず日中そこに下差し込まない東西方向に穴を掘って直射日光を避けるもちろんそれだけで脱水症状しているわけではなくこの時点でミスターハニーがほぼ助からない状態になる。
まず日中そこに下差し込まない東西方向に穴を掘って直射日光を避けるもちろんそれだけで脱水症状しているわけではなくこの時点でミスターハニーがほぼ助からない状態になる。
次に石をしゃぶったり音を掘り出して水を吸ったりと言う行動とる。
われわれは全員おそらく体重の10%位の水分は既に失っています。昼の朝から考えて後5パーセントでも水分をしなれれば我々みんな死んでしまいますまず水できれば塩分が確保できるまではここを動くべきではない。
我々の現在地およそ北緯37度50分タクラマカンの中央よりもずっと南にいます佐伯何度まで少なくとも60キロ2万はかかります北半球の北緯10度位北では北極星のコードから現在地が分かるまず本滝ノ町2開けた何お守りのついた糸を垂らすそして北極星を除く人が分度器で示した角度90度から引くと北極星の行動=色となる言時がない場合は指でも代用が可能である。
さらに花を用意してねずみ男捕まえネズミの血液を飲んでなんとか生きる。
さらに小便を濾過して水を用意する。
人間の体は脱水症状が進むほど帰って頻繁に名が出るもんなんですよ。
砂漠に穴を掘りその上をビニールで嘔吐、太陽熱で、ビニール布の下の空気は温められ血中の水分が蒸発し水滴となる。水滴は、穴の中央のビニール袋に落ちてた。。つまりこれは1種の天然蒸留器である。
彼は新の教えを伝えるために多くの仏教と戦い開始を迫ったが、女子供だけは決して傷つける事はなかった。しかし仏教徒にはとの戦いで彼の部下が誤ってこども園12を処刑してしまったことがあった彼は自ら新の裁きを受けるために腰6-101砂漠の中に身を置いた。生きて砂漠から戻れるか田舎上に撮ったのだそして4日後彼は生還した砂漠の帰りマンとして。
彼は新の教えを伝えるために多くの仏教と戦い開始を迫ったが、女子供だけは決して傷つける事はなかった。しかし仏教徒にはとの戦いで彼の部下が誤ってこども園12を処刑してしまったことがあった彼は自ら新の裁きを受けるために腰6-101砂漠の中に身を置いた。生きて砂漠から戻れるか田舎上に撮ったのだそして4日後彼は生還した砂漠の帰りマンとして。
水をやれ。水を飲ませてやれあいつわかり万だ。