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はてなキーワード: イスラム勢力とは

2024-10-26

古代中世ヨーロッパ史の陸戦史上、最も重要野戦10

海戦を入れると10選に収まらないので陸戦のみで…書いてみたら近代以降を入れるのも無理だった。攻城戦もなー

レウクトラの戦い

 斜線陣の工夫によって兵の質量が劣る側が勝利した。意識的場所によって攻撃と防御を使い分ける戦術が発展する(それ以前から右翼重視思想などはあったが)

ガウガメラ(アルベラ)の戦い

 アレクサンドロス大王ひきいるマケドニア軍がペルシア帝国の圧倒的大軍相手陣形と機動性、戦機を掴むセンス勝利した。多民族大国ペルシア帝国の滅亡を決した。

カンネーの戦い

 少数・寄合所帯のカルタゴ軍側がハンニバルの巧みな両翼包囲戦術によって多数のローマ軍を包囲殲滅した

タラウヌムの戦い

 アエティウスひきいる西ローマ帝国と西ゴートの連合軍が命がけでフン族アッティラ王のヨーロッパ侵攻を停止させた

ギネー(ブスタ・ガロールム)の戦い

 東ローマ軍が防御と投射武器によって東ゴート軍の騎兵突撃撃退した(これがあるのでクレシー・アジャンクールの戦いは取り上げない)

トゥール・ポワティエ間の戦い

 フランク王国の宮宰カール・マルテルイスラム勢力ピレネー山脈を東に越える西欧への拡大を阻止した。カール・マルテルの子孫がカロリング朝を興す

レヒフェルトの戦い

 神聖ローマ皇帝オットー一世要塞網も駆使して機動力に優れるマジャール人の侵攻を押し留めた

モヒの戦い

 共に機動力の優れた軍隊の戦い。巧みな戦術モンゴル軍がハンガリー軍大敗させた(リーグニッツの戦いに優先した。さら重要なのはアインジャールートの戦いだが流石にヨーロッパの外)

モルガルテンの戦い

 スイス三州同盟軍パイク兵の密集陣形ハプスブルク軍に勝利を収める。規律士気の高い歩兵なら重装騎兵勝利しうることを示した

グルンヴァルトの戦い

 ポーランドリトアニア連合軍ドイツチュートン)騎士団による領土拡張の野心を打ち砕いた

その他

レウクトラの戦いの前にレカイオンの戦い(戦術的にはガリア戦争のアドゥアトゥカの戦いに似ている)も入れたかった。やるなら古代だけで10戦かな?ファルサルスの戦いなどで嵩増しはできる。

ギネーはやや場違いかも。でも、クレシーもけっきょく歴史の決定打になっていないし、それなら古いタギネーを出すべきかなと。

2024-10-02

anond:20241002100612

イスラエルを止めるにはイスラム勢力核武装必要不可欠との見解です

イラン合意から離脱して5年ぐらいたつのにいっこうに核武装できないイランへの苛立ちが表現されています

現在核武装しているイスラム教国はパキスタンのみですが、

イランは今年パキスタンミサイルを打ち込んだことから関係悪化しています

2024-06-20

anond:20240620182943

うんにゃ、他におかしいと思えるまあまあの根拠がいくつかあるのよ。

というのもイサベル1世というのはカトリック覇権主義の、最終的には軍部使用も辞さないとんでもない鬼婆で、自分は違うけど歴クラなら知らないはずはない有名人な訳。これだけラノベよろしくステレオタイプ化された人物が具体的な名前を伴って登場しているのに、キャラが立っていていて、しかも夫アラゴン王よりもむしろ有名な「女」をスキップしてしまうのは極めて不自然。また、グラナダ制圧の話が書いてあり、実際に動かした軍はカスティリャ軍だったようだが、現場の指揮まで行ったのは当然アラゴン王で「イベリア半島からイスラム勢力駆逐したった」のは具体的には夫王を指しているとしか考えられない。

連合王国としての決定は、無論王室合意必要だったはずなので、王室を「スペイン王」と称しているのだろうか? これはいかにももっともらしい弁明だが、フェルナンドは1516年に死去し、イサベルも退位してしまったので、その後の年次表記でも全く同様に「スペイン王」としているのは、この形式の書き方としてはちょっと不誠実じゃなかろうか。

増田別に元増田糾弾したいわけじゃない。コロンブスへの出資を主導したのはイサベルであるという、ウィキペディア日本語版の「クリストファー・コロンブス」のページにすら書いてあるほどの著名な事実表記に反映できてないにしろ、明白な嘘とまで言えることを書いているわけでもない(自分知識では見つけられないけだけで他にも間違いはあるかもしれないが)。

実際最もありそうなのは、例のPV炎上したので、モチーフになった人物について一夜漬けして、教科書にある目だった文言適当に引いてきた、とうところではないだろうか。でも別段それが悪いことなわけでもない。

ただし、最近なぜかネオナチウィキペディア日本語版ホロコースト否定論を吹聴していることを報じる増田があったのだが、同様にナショナリズムに都合のいい嘘を具体的な記述の中に滑り込ませた匿名記事は、事実結構あったりするのだよね。具体的な見分け方は自分でもはっきりと指摘できないし、元増田はそこまで悪質ではないと思うけど、教科書に書いてある眠くなる事実を、トランピズムのようなハイテンションで書くような増田特に注意する必要があるとは思うんだな。

1分でわかるアメリカ大陸発見」の歴史

1484年:コロンブスポルトガル王! 西に進めばインドに行けるんや! ワイの計算では可能なはずなんや!」

ポルトガル王「うちはアフリカ探索が順調に進んどるし、東から行ったほうが有望そうやから却下やね」

1486年:コロンブススペイン王! 西回りでインドに行って香辛料貿易でがっぽがっぽ! どないでっか!?

スペイン王ちょっと待っててな、いまイスラム教徒と戦うので忙しいんや」

1492年 スペイン王イベリア半島からイスラム勢力駆逐したった! 異教徒から金も奪ったかコロンブス出資したろ!」

コロンブスサンキュー! ワイもスペイン王みたいにインドから教徒駆逐してキリスト教布教したるで! 出航や!」

コロンブス「苦しい航海の末にインドの島々に到達したで! サンサルバドル島やイスパニョーラ島と名付けたで!」

アメリカ大陸西インド諸島)の発見

ちなみに、当時の「インド」はインダス川以東のすべて、つまり南アジアだけでなく東南アジア東アジアも含む概念だった。

コロンブスを含め当時のヨーロッパ人は、コロンブスが「南アジア」に到達したと思ったわけではなく、「東アジアのどこかに到達した」と考えていたのである

1493年:コロンブススペインに帰ってきたで! ワイは英雄や!」

スペイン王「おまえが見つけた土地はおまえに統治を任せるで! エンコミエンダ(委託)やで!」

コロンブス「ほならすぐに出航するで! 今度はイスパニョーラ島植民地建設するために農民職人も連れて行くで!」

コロンブスイスパニョーラ島に帰ってきたで! 原住民も働かせて街を作るで! 金や真珠もどんどん見つけたるで!」

1494年:スペイン王「西回りでアジアに到達した私らと、東回りでインド到達を目指すポルトガルが衝突したら困るなあ……」

スペイン王「西経46度から東側の新領土ポルトガルのもの西側の新領土スペインのものっちゅうことでどや?」

→トルデシリャス条約締結

1495年:コロンブス「反乱を起こした原住民奴隷としてスペインに送るで! 思うように金を採掘できてへんけど、それでなんとか補填できんか?」

スペイン王「いきなり奴隷を送りつけてくるし、イスパニョーラ島から戻ってきた連中も文句言っとるし、向こうはどないなっとるんや」

1496年:コロンブススペイン本国でワイの悪評が広まっとるらしいで……いったん帰るわ……」

1497年:ジョン・カボット伝説の島ハイブラジルを目指して、イギリスから大西洋横断したら、新しい島に着いたで!」

北アメリカニューファンドランド島)の発見

1497年:ポルトガル王「西のほうでどんどん成果が上がっとる……俺らも早くインド目指さんと……!」

ヴァスコ・ダ・ガマ「ほい、アフリカ周回してインドに到達したで!」

→東回りインド航路の発見

1498年:コロンブス「今回で航海も三度目やし、ちょっと探検したろ! おっ、植民地の南のほうになんや大陸があったで!」

南アメリカベネズエラ)の発見

1499年:スペイン王「なんかコロンブスが新しい大陸発見したとか報告しとるけど……ちょっと見てきてくれへん?」

→オヘダ「私にお任せください」 アメリゴ・ヴェスプッチ「ワイもお供します」

→オヘダ「ブランコ岬くらいまで南下したけどこれ以上は無理やわ……いったん帰るで!」

1500年:ボバディージャ「コロンブスさん、ちーっす! スペイン王命令査察に来たで! うーん、残虐な統治をしとるなあ……アウトーっ!」

コロンブス失脚

1500年:カブラル「ヴァスコ・ダ・ガマに続いて、ワイもインドに行くよう命じられたで〜!」

カブラル「大西洋を西に流されて変な土地に着いたで〜! 未知の島っぽいかポルトガル領土宣言するで〜!」

ブラジル発見

1501年:ポルトガル王「なんかカブラルが新しい島を発見したとか報告しとるけど……ちょっと見てきてくれへん?」

ゴンサロコエリョ「私にお任せください」 アメリゴ・ヴェスプッチ「ワイもお供します」

ゴンサロコエリョパタゴニアくらいまで南下したけどまだ陸地が続いとるわ……いったん帰るで!」

1502年:コロンブス最後の出航やで! きっとパナマ海峡があるはずやから、そこを通って(南アジアの)インドを目指すで!」

コロンブスあかんかったわ……海峡なんて無いんか……?」

1503年:アメリゴ・ヴェスプッチ「南の大陸を何度か航海したワイが考えるに、あれはアジアやないで! 新大陸や!」

1507年:ヴァルトゼーミュラー「うおおアメリゴさんすっげえ! アメリゴさんが言ってる新大陸を『アメリカ』と名付けたるで!」

ヴァルトゼーミュラー地図に「四方を海に囲まれ南北アメリカ大陸」が描かれ、そのうち南アメリカ大陸が「アメリカ」と命名される。

アメリゴの説は広く受け入れられたが、南アメリカアジアとは別の大陸だったとしても、まだ「北アメリカアジア東端である」という主張が完全に否定されたわけではなかった。

たとえば、同じく1507年に、コロンブス発見したイスパニョーラ島と、東方見聞録に書かれた日本とを同一視するルイシュ地図作成され、こちらもベストセラーになっている。

1511年:アルブケルケ「インドゴアマレーシアマラッカ占領したった! 香辛料貿易ポルトガルの独占や!」

東南アジアへの進出

1513年:バルボアパナマのあたりまで進出して植民地を作ったで! パナマを横断したら海があったで! この大陸は海に挟まれてるんや!」

太平洋発見

1519年:スペイン王ポルトガルが着々とアジア進出してるやんけ! 私らも早よ西回りでインドに行かな!」

マゼラン「ワイはポルトガルマラッカ遠征にも参加した歴戦の船長やで! スペイン王のために世界一周を目指すで!」

1522年:マゼラン「ワイはフィリピンで殺されてもうたけど、部下が代わりに世界一周を達成してくれたで……ほな……」

世界一周の達成

これによりアジアアメリカが遠く隔たった別の地域であることが実証され、あらためてアメリカ大陸は「新大陸」と認められた。

南アジア東南アジアといった本来インドは「東インド」、南北アメリカは「西インド」として呼び分けられた。

東インド諸島 / 西インド諸島」や「東インド会社 / 西インド会社」などの呼称はそれに由来する。

さらに200年後、ベーリング海峡発見され、ようやくユーラシアアメリカが完全に別の大陸であることが証明されたのだった……。

2024-01-14

anond:20240114151657

地方を切り捨てて自治体外人に乗っ取られる未来が見える見える

イスラム勢力侵略されるのも時間問題だなあ

2023-10-12

anond:20231012234558

歴史的に、英国米国は一緒にできないと思う。

もともとは英国植民地であり、散々揉めまくって独立させることになった英国と、

イスラム勢力けん制したい野心満々な米国なんやし。

2023-09-05

自由恋愛の自滅でイスラム勝利する

自由恋愛人口再生産に失敗し滅びへと向かう中、

人権的なイスラム勢力を伸ばしている。

おそらく数世代以内に

自由主義人口再生産に失敗し滅んだ

教科書に書かれるだろう。

そのときイスラム勢力歴史教育をしていればだが。

 

そもそも長子相続やイエ制度なんかは

社会の維持に有効だったから洗練発展し

伝統として社会に残ってきたものだ。

社会の発展の尺度資本生産性にして

すべてを商品化してしま資本主義のままにしておけば

ある国の人口生産性を食いつぶし

次の資本が発展する余地のある国に資本渡り歩く

グローバリゼーションに焼き尽くされるだけだ。

 

私たちはイエ制度から開放されて自由になったのか?

違う資本主義に取り込まれ食われただけだ。

そもそもより自由なイエ制度という道はなかったのか?

私たちは何も自由なっちゃいない。

anond:20230904221133

2022-02-27

500年後なくなってそうな国家

ぼんやり、500年後なくなってそうな国家を考えた。

まず思いついたのはイスラエル。100年程度はいけるだろうけど、そのうち何かのきっかけでイスラム勢力に飲み込まれて終わると思う。

台湾もなくなっていそうではある。

南北朝鮮も、500年もあったら中国日本ロシアにやられてそうだな。

他なんかあるかな

なお、ここで言う、国家、は政治形態の入れ替わりは含めない。

例えば中共はなくなっているかもしれないけど、それを言ったら日本も、明治維新太平洋戦争集結でなくなっている、とも言えるわけで。

2021-11-20

anond:20211120101837

アメリカ要請を受けてアフガニスタン自衛隊派遣してじわじわと現地で消耗した挙句アメリカ軍が撤退するというのでそれまでの努力無駄になってイスラム勢力からヘイトを買うだけに終わりました、みたいなのが現実的敗戦じゃね。

2021-08-18

1分でわかるアフガニスタン歴史

1747年:アフマド・シャー「イランから独立するで!」

アフガニスタン建国

1838年イギリスロシアインドを狙っとるからアフガンイギリス軍を置かせてくれや」

交渉決裂

イギリス「ほな戦争や!」

第一アフガン戦争

1842年:イギリスあかん、とりあえずアフガン占領したけど、反乱が多すぎるから撤退するわ」

→和睦

1878年イギリス「今度のアフガン国王ロシア寄りっぽくて怪しいわ! また戦争するで!」

→第二次アフガン戦争

1881年イギリス「今回は勝ったけど、めちゃくちゃ苦労したわ…」

イギリスアフガン保護国

1919年アフガン国王世界大戦イギリスが弱っとるみたいやで! いまこそアフガンから追い出す好機や! ジハードや!」

第三次アフガン戦争

アフガン国王あかん、勝てへんわ。和睦するで!」

イギリス「こっちも戦争うんざりやし、もう独立してええで」

アフガン独立する

1919年アフガン国王トルコムスタファ・ケマルかっこええな…ワイも真似したろ! アフガン近代化や!」

1929年アフガン国王あかん、反発が強すぎるわ。無理やり抑えてきたけどもう限界や」

→反乱が多発して首都占拠される

アフガン国王「反乱を鎮圧してワイが王様になったで! もっと穏健に近代化を進めるで!」

1973年アフガン大統領国王が軟弱やからクーデター起こしたったで! 王制を廃止してワイが大統領になるで! ソ連後ろ盾もっと近代化を進めるで!」

1978年ソ連大統領のやつ、最初はワイらに尻尾振っとったのに、最近アメリカにべったりやんけ。ほんならこっちにも考えがあるで」

→四月革命

ソ連アフガン共産主義の同志になったんやで(にっこり)」

イスラム勢力共産化なんかありえへんやろ! 反乱するで!」

1979年ソ連アフガン政府を助ける名目軍事介入するで!」

アフガニスタン紛争開始

アメリカソ連に対抗してもらうためにイスラム勢力武器渡すで〜」

1989年ソ連10年も戦って何の成果も得られませんでした…ソ連軍は撤退するで…」

1991年ソ連「というか、もう国がダメやわ…ほな…」

1992年アフガン政府ソ連が無くなってもうたやんけ。ワイらもあかんわ」

アフガン政府イスラム勢力が集まって新政府誕生したで! でもバラバラに戦ってた派閥の寄せ集めやから内ゲバでズタボロやで!」

1994年タリバンいつまでも派閥同士で争って内戦が終わらんやんけ! ワイらがやるしかあらへんわ!

アルカイダ「アタシらも協力しまっせ^^」

1996年タリバン首都占拠したったで! ワイらは欧米化共産化も目指さへん! 伝統的なイスラム社会を作るで!」

→旧政府あらた北部同盟「北に逃れて『北部同盟』として捲土重来を期すでー」

2001年アメリカなんやテロリストビル飛行機を突っ込ませて大惨事やんけ! ワイらにこんなことしたやつは絶対許さへんで!」

アメリカ犯人アルカイダアフガンにおるらしいやんけ! 引き渡せや!」

交渉決裂

アメリカ「ほな戦争や!」

タリバン政権が打倒される

北部同盟あらた新政府まさかの復活やで! アメリカさんのご指導のもとでやっていくで!」

2021年タリバンアメリカ軍が撤退するっていうから攻勢を仕掛けるで!」

新政府「こりゃかなわんわ、降参します」

タリバン政権復活! ←いまここ

2021-08-16

anond:20210816132503

冷戦の頃はイスラムVS欧米という対立軸はなかったか

ソ連に勝てばいいだけと思ったアメリカイスラム勢力に武器を渡して訓練まで行った。

するとソ連が無くなったあとイスラム勢力はアメリカにその武器を向けてきた。

みたいな笑い話。

イスラムというのは政治宗教が完全に一体化しているので

世俗主義を奉じる欧米とは決定的にノリが合わない。

2020-10-30

anond:20201030210419

同じくイスラム勢力フェミニストと同様に性表現規制積極的

じゃあイスラム中共フェミニスト三者で仲が良いのかと思ったら

中共イスラム教徒も弾圧しているので現実はややこしい

2018-09-26

anond:20180925223206

思想としてのリベラリズム準拠するならまず守るべきは個人自由から

イスラム勢力集団LGBT弾圧を始めたらその脅威にさらされている個人保護するべきだし

LGBT集団イスラム教徒迫害し始めたらやめさせるべきということになるだろうね

どっちも同じくらいの力をもってて集団で殺し合いとかやり始めた場合は実はリベラリズム特に止める根拠を持っていないと思う

せいぜいそれに巻き込まれるのが嫌だと考えている個人保護することくらい

優等生的な答えだと思うけど。それは遠くでやっているうちはそうだけど、たとえば日本に大挙して押し寄せて来た時とかに対応出来ないよね。たとえば日本全体の4割がムスリムになった時に、当然シャリア法でやらせろ!っていう話出るよ。その時に多数決合法的男女平等人権もあっちへ追いやられる。

シャリア法って我々に理解やす言葉翻訳されているが、彼らにとっては信仰のものからね。LGBTがどうだ人権がどうだって、こっちではそういうルールですって事ではあるけど、彼らには届かないと思う。

止めるのは無理にしても、多数派にするのは絶対ダメだと。全然リベラルじゃないけど、そこは譲れない。

2018-09-25

チェチェンとかまさにイスラム勢力が牛耳ってる地域だしさもありなん。

2018-03-03

西ヨーロッパ(+南ヨーロッパ諸国歴史的英雄

anond:20180228164845

オーストリアプリンツ・オイゲン(1663-1736)オーストリアの名将。元はフランス貴族だが、軍人としてハプスブルク家に仕え、祖国フランスと戦い続けることになる。オスマン帝国との戦いでその西進を挫き、スペイン継承戦争においてはイングランドマールバラ公と共に大活躍をした。
スイスウィリアム・テル(?-?)スイス建国英雄として知られる。オーストリア代官に強いられて息子の頭に置かれた林檎を射抜き、後にその代官を射殺したことで、それがリュトリの誓いに始まるスイス独立運動へとつながったという。ほぼ確実に架空人物だが、スイス国民実在を信じているならそれでいいのだ。
スロバキアユライ・ヤーノシーク(1688-1713)伝説的な義賊山間商人聖職者などの金持ちから金品を奪い、それを土地の貧民や有力者たちに渡していた。有力者は見返りにヤーノシークを守っていたという。やがて捕らえられ処刑されたが、民族意識の高まりと共に支配者への抵抗の象徴と見なされるようになった。
チェコヴァーツラフ1世(907-935)ボヘミア公敬虔信徒として、チェコキリスト教化積極的推し進め、また神聖ローマ帝国に臣従して外圧を緩和した。キリスト教に反対する貴族たちによって暗殺されたが、その死の前後にさまざまな奇跡が起こったという。
ハンガリーマーチャーシュ一世オスマン英雄フニャディ・ヤーノシュの息子。ハンガリー王に選出されると、領土としては最大版図を、文化としてはルネサンスをもたらし、ハンガリーの最盛期を築き上げた。水戸黄門のような廻国漫遊譚があるらしい。
ポーランドヤン三世ソビエスキ(1629-1696)若いから各地で戦功を重ね、国民的人気を得たことで自由選挙によって王に選出された。オーストリア首都ウィーンを包囲していたオスマン帝国大軍を、かの有翼重装騎兵フサリア3000騎の中央突破によってさんざんに打ち破り、ヨーロッパ守護者として大きな名声を得た。
オランダウィレム一世(1533-1584)オラニエ公ハプスブルク家支配下にあったオランダ貴族だったが、カトリックへの強制改宗に反発して起きた独立戦争においてその反乱の中心となる。「海乞食」と呼ばれる船団を率いて港湾都市ゲリラ的に襲って勢力を拡大、事実上独立を果たしたものの、戦争が続くなかで暗殺された。
ベルギーアンビオリクス(?-?)ガリアに住むベルガエ人の一部族、エブロネス族の王。「アドゥアトゥカの戦い」において、カエサルの麾下にあったローマの一個軍団を、谷に誘い込んで殲滅した。カエサルにとってはガリア戦争における最大の痛手となり、その後の反撃でエブロネス族の土地占領したものの、とうとうアンビオリクスを捕らえることはできなかった。ウェルキンゲトリクスと似た扱いで、ガリア自由を求めた英雄とされる。
ルクセンブルクヨハン盲目王(1296-1346)ボヘミア王およびルクセンブルク伯。晩年には病を得て盲目になりながら、百年戦争の激戦「クレシーの戦い」に参戦して壮絶な討ち死にを遂げた。ルクセンブルクでは国を発展させた名君として評価が高いが、チェコでは戦争ばかりで領地に戻ってこなかった王として人気がないという。
ドイツビスマルク(1815-1898)プロイセン王国首相普墺戦争普仏戦争勝利してドイツ統一し、外交でもフランスを封じ込めて欧州の均衡を保った。その豪腕ぶりから「鉄血宰相」の異名を取る。他の候補オットー大帝バルバロッサフリードリヒ大王あたりか。
フランスナポレオン・ボナパルト(1769-1821)言わずと知れたフランス皇帝。他の候補カール大帝ジャンヌ・ダルクド・ゴールあたりか。ちなみにカール大帝ドイツでも人気だけど出生地ベルギーが最有力らしい。
スペインエル・シッド(1045-1099)本名ロドリゴディアス通称アラビア語の「アル・サイイド」に由来する。カスティーリャ王国アルフォンソ6世のもと数々の戦いで活躍し、王によって追放されたあともバレンシア征服するなど、レコンキスタ英雄として勇名を馳せた。後に叙事詩に歌われた。
ポルトガルアフォンソ1世(1109-1185)初代ポルトガル王伝説的な「オーリッケの戦い」でムラービト朝大軍寡兵撃破し名声を得た。主君であるカスティーリャ王国対立した後、和解して独立した。イベリア半島イスラム勢力と戦いながら領土を広げ、リスボンまで占領した。
イタリアジュゼッペ・ガリバルディ(1807-1882)南米ウルグアイの「大戦争」に参加し、そこでゲリラ戦術を身につけた。オーストリア支配のもと、統一の機運が高まるイタリアにおいて「赤シャツ隊」と呼ばれる義勇軍を結成、シチリア南イタリア占領すると、そのままサルデーニャ王国に献上。イタリア統一に大きく貢献した。その後も何度か軍を率いて決起しつつも、政治にはほとんど関わらないまま隠遁生活を送った。

2018-02-23

南アジア中央アジア諸国歴史的英雄

anond:20180221160703

インドシヴァージー(1627-1680)ラーター王国建国者ヒンドゥー教徒を糾合し、周囲の各イスラム王朝と対決した。特にムガル帝国に対しては、大々的にゲリラ戦を展開して、当時のムガル皇帝アウラングゼーブを苦しめた。敬虔ヒンドゥー教徒であり、イスラム勢力と戦って独立を勝ちとったために、ヒンドゥー教国のインドでの人気が高い。
パキスタンアウラングゼーブ(1618-1707)ムガル帝国皇帝兄弟同士の後継争いを制し、父親幽閉して即位した。数十年にわたって帝国を栄えさせたが、晩年は長引くヒンドゥー勢力との戦いで財政悪化国土の荒廃を招き、己の統治の失敗を嘆きながら亡くなった。厳格なムスリムとして、ヒンドゥー教徒を激しく弾圧したため、イスラム教であるパキスタンでの人気が高い。
ネパールアマル・シンハ・タパ(1751-1816)ゴルカ朝の名将。ゴルカ朝がネパール統一したあと、アマル・シンハはさらに西へ進軍して領土を拡大した。その後、グル戦争において主力を率いて奮戦するもイギリス軍の前に敗れ去り、失意の彼は聖地サインクンドへ行きそこで亡くなった。グル戦争における彼らの戦いぶりが今も恐れられるグル傭兵誕生につながるのだが、それはまた別のお話。え、「ネパール釈迦だろ」? うん、そうね。
バングラデシュカン・ジャハン・アリもとはインドトゥグルク朝貴族で、ティムールトゥグルク朝を破ったあと、ベンガル地方にやってきて森林を切り開き、いくつかの街を建設して、その地を支配した。イスラム聖者ともされて、彼が建設したモスク群は世界遺産登録されている。
スリランカドゥッタガーマニー(前161-137)タミル人を打ち破り、初めてセイロン島を統一したシンハラ人の伝説的な王。実在はしたらしい。現在でも、タミル人との民族問題となると、シンハラ人がドゥッタガーマニーを持ち出すらしい。
ブータンガワン・ナムゲル(1594-1651)ブータンの高僧にして初代シャブドゥン。チベット仏教ドゥク派の後継争いに敗れてブータンへ逃れてきたあと、たちまち国内統一すると、各地に城砦建設し、たびたび侵入してくるチベット軍やモンゴル軍をことごとく打ち破った。
モルディブハメド・タクルファーヌ(?-1585)モルディブ植民地とし、キリスト教への改宗を迫るポルトガルから独立のため、島から島へと移ってゲリラ戦を展開し、八年の戦いの末にポルトガル人追放し、ウティーム朝を建てた。
カザフスタンアブライ・ハン(1711-1781)「大いなる災厄」と呼ばれたジュンガルの侵攻のなかで勇敢に戦ったため「英雄」と呼ばれ、やがて大きく三つに分かれていたカザフ部族連合の上に立ち、清とロシアの双方から「ハン」と認められるようになった。彼の死後、カザフロシアに対抗できなくなり、その統治に組み込まれていく。
ウズベキスタンティムール(1336-1405)モンゴル帝国の後継を名乗り、中央アジア大帝国を作り上げた世界史上屈指の軍事的天才オスマン帝国との戦争でその皇帝捕虜にしたアンカラの戦いは特に名高い。明との決戦へと向かう途上で死去した。
タジキスタンスマーイール・サーマーニー(?-907)サーマーン朝最盛期の君主。サーマーン朝はタジク人最後独立王朝でもある。サーマーン朝が滅びた後、この地域トルコ系、ウズベク系、そしてロシアの影響下に置かれ続けることになる。タジキスタン通貨ソモニ」はサーマーニーに由来する。
トルクメニスタンアルプ・アルスラーン(1029-1072)セルジューク朝スルタン。名高き宰相ニザームルムルクを重用して国力を高め、東ローマ帝国と戦ってその皇帝捕虜とした。セルジューク朝は「トゥルクマーン」という遊牧民建国したのだが、トルクメン人と「トゥルクマーン」の関係は明らかになっていないらしい。にもかかわらず、トゥルクマーンが建国したセルジューク朝スルタンや、伝説上のトゥルクマーンの祖とされるオグズ・ハンを、トルクメニスタン英雄視しているのは、そこに民族ルーツを求めているかなのだろうか。
キルギスマナス(?-?)世界最長と言われるキルギス英雄叙事詩に謳われる王。オイラト人の支配下にあったキルギスに生まれオイラト人やキタイ人と戦って勝利し、キルギスの王となり、北京への大遠征成功させた帰りに、敵の斧を頭に受けて死んだという。実在たかはよくわからない。実在が確実なクルマンジャン・ダトカのほうがいいかもしれない。
アフガニスタンアフマド・シャー・マスード(1953-2001)アフガンに侵攻したソ連軍を幾度も撃退して「パンシール獅子」と呼ばれた。タリバン政権に対抗する北部同盟の中心人物として活躍したが、9.11の二日前に暗殺された。あんまり最近の人は入れないつもりだったけど他にいないのでは。

2018-02-16

anond:20180216100520

横だけど、それを実現した国はないんだよね。女性経済的優位を保った先進国存在しない。まぁ妄想楽しい

で、これも妄想なのだけれども、男性優位な国の台頭で、先進国が倒れる、ってのが見れないかなー、とも思ってる。ノルウェー国内イスラム勢力のんびり拝見してる。

2017-06-21

フィリピンイスラム勢力の話ってニュースでも一応やってるよな?

なんかネットではニュースで一切報道しないっていうことになってるけど。

なんでなん

2015-10-16

世界の名争50戦

前1285カデシュの戦いエジプトの大ファラオ・ラムセス2世と、製鉄技術で名高いヒッタイトの王ムワタリの戦い。戦況が膠着状態に陥った後、ムワタリが停戦を申し入れ、ラムセス2世が受諾した。これは記録に残る最古の戦争であり、記録に残る最古の平和条約でもある。
前479プラタイアの戦い古代ギリシアペルシアの一連の戦争における決戦。数十万を誇るペルシア軍の攻勢を、一万のスパルタ軍だけで防ぎ止め、押し返し、打ち破った。これによりギリシアからペルシア軍は駆逐され、スパルタは前年のテルモピュライの戦い(映画『300』で有名)の雪辱を果たした。
前371レウクトラの戦い古代ギリシア都市国家テーバイスパルタの戦い。テーバイのエパメイノンダスが編み出した、兵力を左翼に集中する戦術「斜線陣」により、精強を誇ったスパルタファランクスは打ち破られた。皮肉にも、後に斜線陣はテーバイではなくマケドニアに伝わり、ギリシア諸都市はその戦術によって敗れ去ることになる。
前331ガウガメラの戦い「大王」アレクサンドロス3世率いるマケドニア軍とアケメネス朝ペルシア軍の戦い。マケドニア軍の重装歩兵ペルシア軍を受け止めているあいだに、アレクサンドロス自らが率いる騎兵がペルシア軍にできた間隙を衝く、いわゆる「鎚と鉄床」戦術によってマケドニアが勝利し、大国ペルシアは滅びた。
前260長平の戦い中国の戦国時代、趙の老将・廉頗の持久戦術に手を焼いた秦は、情報工作によって廉頗の悪評を流し、若い趙括と交替させた。趙括は勢い込んで秦との決戦に挑んだが、秦の名将・白起によってあっけなく包囲殲滅された。四十万人の捕虜が虐殺されたという。秦の中華統一の過程において最も大きな勝利の一つである
前216カンネーの戦いアルプスを越えてイタリア半島に侵入したカルタゴの名将・ハンニバルが二倍の兵数のローマ軍に大勝した戦い。中央の歩兵が敵を受け止め、両翼の騎兵が敵側背に回り込む、「包囲殲滅」戦術の鮮やかな見本として史上に名高い。しかし、そのハンニバルも後にザマの戦いで敗れ、地中海の覇権はローマのものとなっていく。
前202垓下の戦い秦が倒れた後、中華を二分して戦っていた楚の項羽と漢の劉邦は、互いに疲弊したことで和睦を結んだ。しかし、劉邦は直後に盟約を破り、引き上げる楚軍に襲いかかった。「四面楚歌」となった項羽は、最後の力を振り絞って包囲を破るも、衆寡敵せず自害した。天下は漢のものとなった。
前48ファルサルスの戦い古代ローマ代表する二人の軍事的天才、カエサルポンペイウスの戦い。カエサルは、包囲を狙うポンペイウスの騎兵を重装歩兵で囲い込み、投槍を投げずにそのまま騎兵の顔や目を刺すよう指示して打ち破った。勝利したカエサルローマの実権を握ったが、やがて暗殺されることになる。
前31アクティウムの海戦カエサルの跡を継いだオクタウィアヌスとその政敵アントニウスの戦い。しかし、アントニウスとその愛人クレオパトラは、本拠地エジプトへ逃れることを優先してすぐに戦場を離脱、取り残されたアントニウス軍は壊滅した。アントニウスクレオパトラは自殺し、数年ののちにオクタウィアヌスは初代ローマ皇帝となる。
23年昆陽の戦い漢から帝位を簒奪した王莽に反発して「赤眉の乱」が起こる。昆陽に篭もる赤眉軍は、実数でも40万と言われる王莽軍に包囲されたが、リーダーの一人である劉秀は数千の兵とともに敵の中枢へ突撃を敢行、王莽軍は大混乱に陥り全滅した。主力を失った王莽はまもなく滅亡。劉秀はのちに光武帝として後漢王朝を開く。
208赤壁の戦い三国志に名高い一大決戦。中原を制し、中華統一を目指して大軍を南下させた曹操だったが、見知らぬ土地での疫病、慣れない水上戦に悩まされ、呉の都督・周瑜の火計によって打ち破られた。呉に協力していた劉備は、勝ちに乗じて荊州の南部を占拠し、後の飛躍へと繋げた。
383淝水の戦い五胡十六国時代、前秦皇帝・苻堅は天下統一を狙って百万を号する大軍を南下させ、東晋の将軍・謝石と謝玄が数万の軍でそれを迎え撃った。苻堅は異民族の融和を目指した理想主義的な君主だったが、異民族の混成軍は実際には統率がとれておらず、偽装後退を命じたことが本当の撤退と勘違いされ、前秦軍は自壊して潰走した。
451カタラウヌムの戦いフン族の王アッティラの侵略に対して、西ローマ帝国の名将アエティウスと西ゴート王テオドリックなどが連合して挑んだ決戦。痛み分けに近いものの、西ローマ帝国軍の勝利に終わった。のちにアエティウスの武功を恐れた西ローマ皇帝は彼を暗殺した。この戦いから二十五年後に西ローマ帝国は滅びた。
506鍾離の戦い数十万の大軍同士が激突した南北朝時代最大の決戦。北魏軍は、河に橋を掛けて梁の鍾離城を攻め立てていたが、長雨もあり戦いは長期化した。救援に来た梁の智将・韋叡は、増水に乗じて戦艦を走らせ、北魏が掛けた橋を焼き払った。大混乱に陥った北魏軍は十数万の死者を出して敗走した。
530ダラの戦いサーサーン朝ペルシアの大軍を東ローマ帝国のベリサリウスが破った戦い。ベリサリウスはあえて要塞から出て敵の攻撃を誘うと共に、壕を掘って相手の中央突破を防ぎ、伏兵を巧みに使って撃破した。その後、ベリサリウスは中世欧州最高の名将として、東ローマ帝国の最大版図を現出させる。
627ハンダクの戦い初期イスラムの三つの戦いの一つ。敵対するメッカ軍に対し、ムハンマド率いるメディナ軍は数で劣ったため、ペルシャ人技術者の進言で「ハンダク=塹壕」を巡らせた。メッカ軍は初めて目にする塹壕を突破できず、メディナ攻略を諦めた。以降、アラブ世界におけるイスラムの優位が確立された。世界初の塹壕戦とも言われる。
636ヤルムークの戦い「神の剣」ハーリド率いるイスラム軍と、皇弟テオドロス率いる東ローマ帝国軍の戦い。砂漠の戦闘に慣れたイスラム騎兵が東ローマ帝国軍を渓谷に追い込み撃滅した。イスラム軍は、直後のニハーヴァンドの戦いを経てサーサーン朝ペルシアをも滅ぼし、ここにイスラム帝国が興隆することとなった。
732トゥール・ポワティエ間の戦いイベリア半島から侵攻したウマイヤ朝イスラム帝国と、フランク王国の宮宰カール・マルテルの戦い。イスラム騎兵の猛攻をフランク重装歩兵が跳ね返し、撃退した。イスラム騎兵の強さを痛感したマルテルは、直属の臣下に土地を与えて「騎士」制度を創設し、これが欧州の封建制へと繋がっていった。
751タラス河畔の戦い西へ拡大する大唐帝国と東へ拡大するアッバース朝イスラム帝国中央アジアにおいて衝突した戦い。唐の同盟者ウイグル族に従っていたカルルク族が裏切ったことでアッバース朝が大勝した。これによって、唐の伸張は止まり、中央アジアイスラムに帰し、そして製紙法が西方に伝播した。
1098アンティオキア攻囲戦第一回十字軍は、半年以上の攻城戦の末にアンティオキアを陥落させたが、遅れて到着したイスラム諸国連合軍七万によって逆に包囲されてしまう。しかし「聖槍」の発見で士気を高めた十字軍は、城外に打って出てイスラム軍を打ち破った。次の年にはエルサレムを陥とし、まさしく奇跡的に十字軍成功に終わった。
1141カトワーンの戦いイスラムセルジューク朝を復興させたサンジャルと、遼の再興を掲げて中央アジアに覇を唱えた西遼の耶律大石との戦いで、西遼軍がセルジューク朝軍を包囲殲滅した。セルジューク朝は再び衰退、まもなく耶律大石も亡くなったことで西遼も勢いを失った。この戦いがプレスター・ジョン伝説の原型となったという。
1187ヒッティーンの戦い暑さと渇きに苦しむエルサレム王国軍に対し、イスラムアイユーブ朝サラディンは、夜通し弓矢で攻め立てて士気を挫き、野に火を放って追い詰め、壊滅させた。聖地エルサレムは再びイスラム勢力のものとなった。その奪回のために第三回十字軍、すなわちサラディンと「獅子心王」リチャードの戦いが開始される。
1212ナバス・デ・トロサの戦いイベリア半島で争っていたキリスト教諸勢力が、教皇インノケンティウス3世の要請により連合してイスラム勢力を迎え撃った、「レコンキスタ」最大の決戦。イスラムムワッヒド朝の十二万の大軍が悠然と構えるのに対し、連合軍は猛烈な突撃を敢行。ムワッヒド軍は十万とも言われる被害を出して敗走した。
1214ブーヴィーヌの戦いフランスの「尊厳王」フィリップ2世と、神聖ローマ帝国イングランド王国などの連合軍の戦い。フィリップ2世は北へと逃げてブーヴィーヌに陣取ると、ばらばらに追いかけてきた連合軍を到着した順に各個撃破した。脆弱だったフランスが強国として台頭し、またイングランドで大憲章が成立するきっかけともなった。
1241モヒの戦いバトゥ率いるモンゴル帝国の遠征軍に対し、ハンガリー軍は堅固な陣地を築いて健闘したが、モンゴル軍はイスラムの投石機と中国の火薬兵器で攻撃を加え、さらに周りこんだスブタイの軍によって包囲殲滅した。同時にリーグニッツでもモンゴルの別働隊が勝利していたが、オゴタイ・ハンの死を聞いてバトゥは引き返した。
1260アインジャールートの戦いモンゴル帝国西アジア遠征軍と、イスラム勢力のクトゥズやバイバルスの戦い。先鋒のバイバルス軍が退却を装い、それを追撃したモンゴル軍は、伏兵のクトゥズ軍に包囲されて壊滅した。モンゴルの西進はここで止まった。バイバルスはその後もモンゴル軍に勝ち続け、マムルーク朝実質的建国者となった。
1267襄陽・樊城の戦いモンゴル帝国のクビライ・カンは、入念な準備の上で襄陽と樊城を大軍で包囲、長大な土塁を築いて封鎖した。南宋の主力軍十万が救援に向かったがモンゴルの水軍の前に完敗した。中東由来の新型投石機「回回砲」による攻撃が開始されると襄陽・樊城は為す術なく降伏した。この敗北は南宋の滅亡を決定付けた。
1346クレシーの戦いイングランドフランス百年戦争における初期の決戦。イングランド軍は斜面にV字に長弓部隊を並べ、中央に下馬騎士を置いた。フランス軍クロスボウは射程の違いで長弓に対抗できず、重装騎兵も敵軍を突破できずに惨敗した。その後、百年戦争の終盤まで、イングランドは同様の戦術で勝利を収めていった。
1363鄱陽湖の戦い中国・元末の群雄である朱元璋と陳友諒の戦いで、それぞれ数十万人規模の大船団同士が激突した。大型の艦を鎖で繋いでいた陳友諒軍は、朱元璋が特攻させた火船によって大炎上して敗北した。この勝利により優位を確立した朱元璋は後に明の建国者となる。三国志演義における赤壁の戦いの描写はこの戦いがモデルだという。
1402アンカラの戦いニコポリスの戦いで欧州連合軍に圧勝したイスラムオスマン帝国の「雷帝」バヤズィトと、モンゴルの後継を自称して大帝国を築いたティムールが激突した戦い。結果、オスマンが敗れてバヤズィトは捕虜となり、日の出の勢いだったオスマン一時的に衰退した。ティムールもこの戦いを最後に生涯不敗のまま亡くなった。
1410グルンヴァルトの戦いポーランドリトアニア連合軍ドイツ騎士団が戦った、中世最大とも言われる会戦。リトアニア軍の偽装撤退に誘い込まれたドイツ騎士団は、連合軍の反攻によって壊滅した。この勝利のあと、ポーランドリトアニアは欧州最強国として最盛期を迎える。現代では古戦場跡で行われる祭りが有名。
1420ヴィトコフの戦いヤン・ジシュカ率いるフス派と、それを鎮圧するために結成された10万の十字軍の戦い。フス派は包囲されプラハに立てこもったが、欧州で初めて銃を装備し、武装した荷車をつなげて砦とするなど、革新的な戦術を用いたジシュカの活躍で、十字軍は撤退に追い込まれた。以降もフス派は勝ち続けていくことになる。
1450フォルミニーの戦い他国に先駆けて常備軍を創設し、長弓より射程の長い大砲を活用するなどの軍政改革を行ったフランス元帥リッシュモンは、百年戦争で負け続けだったフランス軍を立て直してイングランド軍を撃破した。このフォルミニーでの勝利は、百年戦争におけるフランスの勝利と、そして以降のフランス軍事的優位を決定付けた。
1453コンスタンティノープルの陥落東ローマ帝国首都にして史上最強城塞都市と、それを包囲したオスマン帝国軍の戦い。「ウルバンの巨砲」「艦隊の山越え」といった大仕掛けにも耐えたコンスタンティノープルだったが、施錠を忘れていた通用口からオスマン軍に侵入され、あえなく陥落した。古代から続いたローマ帝国は中世と共に終わりを迎えた。
1503チェリニョーラの戦い二次イタリア戦争におけるスペインフランスの戦い。レコンキスタにおいて攻城戦の経験豊富だったスペイン軍指揮官ゴンサロは、野戦に攻城戦の技術を持ち込んだ。長槍兵と銃兵の陣形「テルシオ」と塹壕の組み合わせによって、フランスの重装騎兵を打ち破り、欧州に野戦築城の有効性を知らしめた。
1514チャルディラーンの戦いイスラムサファヴィー朝建国者スマーイール1世は神がかり的な戦争の天才だったが、対するオスマン帝国のセリム1世は鉄砲と大砲を大量に運用して、不敗の騎兵「クズルバシュ」をさんざんに打ち破った。初めての敗北を味わったイスマーイール1世は無気力となり、サファヴィー朝の拡大は停滞した。
1588アルマダの海戦黄金時代スペインイングランドが迎え撃った戦い。接舷攻撃を企図するスペインの大艦隊に対し、ドレイク率いるイングランド海軍はヒットアンドアウェイの砲撃戦で勝利した。以降、海戦の主役は白兵から大砲へと移っていく。スペイン没落の画期とも言われるが、実際にはスペインの優位はしばらく続いた。
1619サルフの戦い女真族を統一したヌルハチ率いる後金軍と、その討伐に差し向けられた明軍の戦い。圧倒的に数で優る明軍は、四手に分かれて後金を包囲しようとしたが、全く連携が取れておらず、ヌルハチの見事な内線作戦によって各個撃破された。後金はやがて清となり、明を滅ぼすことになる。
1631ブライテンフェルトの戦い三十年戦争に参戦したスウェーデン王グスタフ・アドルフと、ティリー伯率いる神聖ローマ帝国軍の戦い。グスタフ・アドルフは歩兵・騎兵・砲兵が緊密に連携する「三兵戦術」によって、神聖ローマ帝国軍のテルシオを完全に打ち破った。この三兵戦術が近代的な軍制の基礎となる。
1683二次ウィーン包囲オスマン帝国は15万の大軍をもってオーストリア首都ウィーンを包囲したが、要塞化された都市は容易に陥落しなかった。キリスト教諸勢力は連合して救援に向かい、特にポーランドが誇る有翼重騎兵「フサリア」3000騎の中央突破によって、オスマン軍は大敗した。オスマン帝国の衰退を決定付ける戦いとなった。
1704ブレンハイムの戦いスペイン継承戦争において、イングランドマールバラ公とオーストリアプリンツ・オイゲンの名コンビが、フランス軍を打ち破った戦い。開戦後、しばらくは一進一退が続いたが、マールバラ公はオイゲンと連携して粘り強く戦い、フランス軍の両翼を釘付けにした上で手薄になった敵中央を突破して撃破した。
1709ポルタヴァの戦い北欧の覇権を握ったスウェーデンをめぐる大北方戦争最大の決戦。スウェーデンの若き天才カール12世は、並み居る敵国を瞬く間に撃破し、残るロシアに攻め込んだが、寒さと焦土作戦により疲弊、ポルタヴァで大敗を喫した。カール12世はオスマン帝国に亡命し、スウェーデンの「大国時代」は終わりを迎えた。
1757ロイテンの戦い七年戦争プロイセンの「大王」フリードリヒ2世とオーストリア軍の戦い。斜めに行軍して敵の側面に回りこみ火力を集中させる「斜行戦術」により、プロイセンは倍する敵に勝利した。その後も、イギリス以外のすべての国を敵に回した状況で、フリードリヒ大王は粘り強く戦い抜き、七年戦争プロイセン優位に終わった。
1781ヨークタウンの戦いアメリカ独立戦争。チェサピーク湾の海戦でフランス海軍に敗れたことにより、ヨークタウンに篭もるイギリス軍に支援は届かず、彼らはアメリカ軍に包囲された。イギリス軍は幾度かの抵抗の後に降伏し、この戦いが事実上の終戦となった。勝利の立役者となった総司令官ワシントンは、のちに初代大統領に選ばれた。
1805トラファルガーの海戦欧州を支配し、イギリス本土へ侵攻せんとするナポレオンと、名提督ネルソン率いるイギリス海軍の戦い。敵列の側面に縦列で突入する「ネルソンタッチ」によりイギリスが勝利、ナポレオンの計画は頓挫した。勝利したネルソンは、しかし狙撃により重傷を負い、「私は義務を果たした」と言い残して亡くなった。
1805アウステルリッツの戦いフランス皇帝ナポレオンと、オーストリア皇帝・ロシア皇帝が戦ったために、「三帝会戦」の異名がある。ナポレオンの正確な洞察と完璧な機動により、数で劣るフランス軍が大勝利を収めた。あえて要地を明け渡し、機を見て奪回することで敵を分断する、その華麗な用兵は「戦争芸術」と讃えられた。
1819ボヤカの戦い南米を植民地とするスペイン軍と、それからの独立を目指すシモン・ボリバル率いる革命軍との戦い。わずか三時間で革命軍の勝利に終わったが、南アメリカ諸国の独立を決定づける重要な戦いとなった。敗れたスペインは彼らの独立を承認し、ボリバル大統領とした大コロンビアが誕生することになる。
1863ゲティスバーグの戦い「鉄道と電信の戦い」となったアメリカ南北戦争、最大の決戦。鉄道と街道が集まる要衝ゲティスバーグを巡り、偵察部隊の小競り合いが発生。増援を送りあって戦闘はみるみる拡大、両軍に多大な損害を出して終わった。国力に劣る南軍にとっては、より大きなダメージとなり、名将リーが計画した北部侵攻も頓挫した。
1870セダンの戦い国民皆兵制と鉄道による大規模かつ迅速な動員、参謀幕僚制と電信による戦略レベルでの分進合撃戦術により、参謀総長モルトケの指揮するプロイセン軍が、フランス皇帝ナポレオン3世と十万のフランス兵を捕虜とした戦い。これにより邪魔者を排除したプロイセンは、「鉄血宰相」ビスマルクのもとでドイツ統一を成し遂げる。

2013-09-07

イスラム勢力はなぜ衰退したのか?

ウマイヤ朝オスマン・トルコ

イスラム勢力はかつて西欧に対抗できる勢力だった

西欧イスラム勢力、いったいどこで差がついたのか

慢心(カピチュレーション)……環境の違い(ロシアストーカー行為)……

 
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