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はてなキーワード: 海路とは

2024-02-13

ロジスティクスを考えて真っ先似思いつくこと

平時無駄になる

それを柔軟にってものが何もない空間からポンと出ると思っているのだろうか

日本資源豊富な国であればわかるが海路塞がれたら一気に干からびそうになる国なのに

人生の先輩方はそんな簡単なことも判らないのか疑問だ

2024-01-27

能登地震自衛隊もっと大量にヘリを使えば良かったって人がいるが

素人目に見ても

・大量にヘリを集める労力

・その大量のヘリを管制する為の労力

パイロット土地勘が無い事によるリスク

・大量のヘリが着発着する場所の確保

補給整備の問題

そもそもヘリの積載量

とか考えたら、ヘリの大量運用って問題点が多すぎると思うんよ。

大規模なヘリボーン作戦みたいにある程度の損耗を覚悟して物資運ぶなんて、災害支援では色んな意味であり得ないし。

もちろんヘリドローン運用にしても、もっと効果的な使い方はあったかもしれないよ?

今回の地震で得られた教訓を次の地震への備えに活かす事は大事だと思うし、事前計画の不備に対する批判はあって然るべきだとも思う。

でも素人の頭で考えてもヘリを1機飛ばせるルートが確保できてたからって、そこに10機突っ込んでも大丈夫って訳じゃない事くらい分かるじゃん。

特に山間部を通っていくならヘリでも飛行可能ルートは限られる訳だし。

海沿いの地域なら港が使えればそのまま港から物資重機を陸揚げしてただろうし、それができなかったかLCACを使ったりして陸揚げした訳でしょ。

同じ労力を投入するならヘリに注力するよりも、海路陸路人員物資を投入できる状況を回復させる方が優先度が高いってのは素人でも分かる。

流れてくる情報を見る限り今回の地震への自衛隊対応は迅速だったし、その運用も状況に応じて柔軟に対応できている様に見える。

反省点はあるだろうしそれに対する批判もあるべきとは思うけど、それは次の地震への事前計画改善する為であるべきだと思う。

2024-01-13

能登半島地震で知ったことまとめ

防災

ネット不通が1週間以上起こる可能性がある

陸の孤島になると復旧に時間がかかる、1週間分くらいは備蓄しておきたい

備蓄しても家が崩れたら取れない

飛行機での物資投下は今はやっていない

津波は早いとき地震後数分で来る

地震では地すべりも死亡原因の一つ(以前北海道でも起きた)

携帯簡易トイレ備蓄するべき

道路が寸断されると被災後の対応がガラッと変わる

陸の孤島になりやす地域は調べておく

海路は港が使えなくなる可能性もある(今回はだいぶレアケースだったらしいけど)

 

地震

直下型、周期によっては今でもビルが倒れるほどの揺れが有り得る

耐震化していない家は実は結構ある

場合によっては余震が何百回という頻度で来る

 

ボランティア

ボランティア必要かどうかはよく調べる、特に公的情報を見る

ボランティアをする際には自分の衣食住は自分で賄う必要がある(これは東日本大震災でよく見かけた話)

二次被害に注意が必要

 

物資

古着は要らない

開封済みのものは受け入れられない

仕分けが大変なものは送らない

公的機関企業もやってるのでよく調べ空気を読む

 

被災後の避難生活

・1次避難所(体育館など)のイメージが強いが、1週間くらいで2次避難所に移動する人が多い

学生一時的被害の少なかった地域に移動して勉強するケースも有る

仮設住宅の期限は2年

 

その他

地震の関連死はお年寄りが多く、トイレ我慢するため水分を控えすぎたり、エコノミークラス症候群に注意が必要

2024-01-08

anond:20240108222008

きれいな車道歩道も地割れと隆起と沈降で一発でぐしゃぐしゃになる

トンネルが崩れ、橋が落ち、道路が陥没して雪まで降り積もる

ある港は隆起して水がなくなり、ある港は津波で土砂まみれ

片手で数えられるほどしかない外界と繋がる陸路は寸断され、海路は船が接岸できないほど港が荒れていて、空路で降り立てるほどの平地もない

能登人口十数万人の過疎地でよかったよ

100万人単位の人が住んでたら数百人レベル餓死者がでたかもしれん

anond:20240108222810

なんでこんなショボい対応になったのか

道路電気が寸断されて被災地入りしたり、被災地から情報発信することができなかったから。

被災地物資運ぼうにも陸路海路空路も死んでるから運べない。

輪島珠洲市街地改善してきてるけど、山の中だと道路さらに寸断されて車が入れず救援が遅れてる。

2024-01-03

anond:20240103224120

転勤が伴ったり子供もいたりすると引っ越し大変だし、時間もないし、陸路のんびりなんて言ってらんねえよ。

陸路海路で運んだところで完全に守り切れる保証はないし、

そうやってずっと後知恵で人の判断ミスだって言ってればいいわ。

陸路が死んでるのに海路海保破壊されて大ピンチ

弱者男性けが使えるチンチンヘリコプター被災者を助けにいこう

2024-01-02

被災後数日の支援方法って進化してるんだろうか

2011年の大震災で、支援物資が滞ったのを未だに覚えている

あの記憶から送るか迷う人も多いだろう

今回は道路も寸断されているところが多い、海路があると思うけど港も使い物にならないだろうし

2023-11-30

なぜ「回転焼き」は別称がとても多いのだろう

たい焼き」は「さかな焼き」「ぶり焼き」「まぐろ焼き」みたいに各地で別の名前で呼ばれることはない

ほぼ「たい焼き」で名称固定されている

饅頭」とか「どら焼き」とか「煎餅」とか……

もちろんこれらにも別称はあるけれど「回転焼き」ほど多くの別名を持たない

何故「回転焼き」だけあんなにもいろんな名前で呼ばれたのだろう

不思議

「何故別称が多いのか?」という疑問はわかる

地域に広まる際に、売り出す側が違う名前をつけたか

そりゃそうだ、なんだよな

じゃあ「何故他のお菓子別称が多くないのか?」という話になる

いろいろぐぐってみたが、納得するためには日本焼き菓子歴史を紐解かないといけない雰囲気が出てきた

今時点の自分の中のこうなんじゃないかな~という仮説をメモしておこう

回転焼き」は他の和菓子と比べて作るのが簡単

真似して売りやすいということ

なのでそれぞれが好き勝手名前で売った……

他の和菓子はある程度技術設備必要なので真似されなかった、なので別名は増えない

……いや、違う気がするなこれ

大外れではないが芯を食っていない気がする

もっと別の観点がいるな

とりあえず「たい焼き」の別名が少ない理由はわかる

比較的新しいお菓子から

饅頭」の別名が少ないのは逆にとても古いお菓子からだろうな

古くから同じ名前が知られていたのだろう

回転焼き」は最初今川焼き」というローカル地名がついた名前だったのが大きいのではないか

それぞれの地方が「は?今川って何?」と思ったから、それぞれ別の名前が付けられた

ということは例えば関西で「回転焼き」と呼ばれたなら、それ以西は「回転焼き」の名前で広まっているのでは?

と思ったが確かに関西九州では「回転焼き」だが、「太鼓饅頭」とか「二重焼き」とも呼ばれているのか……

いや、でもこの説はもうちょっと考えたい

当時は陸路海路のどちらが情報伝達が速いんだ?

もし海路の方が速いのであれば違う名称飛び地が出来ていても不思議じゃない

先行研究があるはず、本を探して読もう

日記

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何故他のお菓子名称地域差が少ないのに、「回転焼き」だけあんなにもいろんな名前で呼ばれたのか

これに納得するためには回転焼きの歴史だけでなく、他のお菓子歴史までひも解く必要がある

菓子文化誌』

史料でみる 和菓子とくらし』

『図説 和菓子歴史

ここらへんの本か……?

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「元々は他のお菓子名前地域差が大きかったが、一部の呼び名を残して淘汰された」説もありえる

その場合は何故回転焼系列呼び名は淘汰されず群雄割拠が維持されているのかに答える必要がある

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これってお菓子限定した話じゃないかもしれないな

絆創膏だって地域呼び名が異なる

まあこれはそれぞれの地域で主に流通している商品名の違いだろうけれど

しかし読む本が変わってくるかもしれない

しれないが……検索するとっかかりが無いな、しばらくこの疑問は寝かすか

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検索キーワードを思いついた

商標普通名称化」

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回転焼きの特殊性を忘れない為に明記してメモしておこう

回転焼系列のあの丸い焼き菓子は、見た目も味もほぼ同一のものが各地域呼び名が違う点が特殊

実際たい焼きの亜種はそこそこある

例えば福岡にはムツゴロウを模したたい焼きの亜種を出す店がある

しかしそれはたい焼きの亜種ではあるが、タイではなくムツゴロウの見た目をしていて……

たい焼き亜種で例えばまぐろ焼きがあったとしても、それはタイの見た目をしておらずマグロを模したものになるだろう

結局それらは「たい焼きの亜種だよね」という認識になる

回転焼系列はそうではなく「これは要は今川焼きだよね」「いや、回転焼きだよ」と意見統一されない

なんかここの考えがまとまっていないな 要再検討

そうか、今川焼って亜種がないのか?

というか亜種が生まれたい焼きなどになった

なんか焼き菓子がどのように発展したか系統樹を見ると何かヒントが得られるかも

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「連載 たい焼き誕生史一覧」を読むと、明治30年代に、様々な形の焼き菓子ブームが起きたとある

ここらへんを調べると何かありそうだ

それぞれの名称元祖を辿っていけば何かわかるかも

あと焼く金型とか焼き機の流通の流れがわかれば……これは滅茶苦茶調べる難易度高そう

地道な作業になるな……

しかしこの連載を書いた近代食文化研究会という方は凄いな

自分が気になっているような事を地道な調査で調べ上げている

この方の本どれか読んでみるか

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今川焼き」「大判焼き」「御座候」の起源はある程度はっきりしているのに、「回転焼き」の呼び名起源だけどうもはっきりしない

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回転焼系列のあの丸いお菓子がどのように広まったかが詳しく書かれているサイトをやっと見つけた

場所によるものの呼び方の違い、日本列島あちこち、方言アレコレ|第1回|「今川焼き」の呼び方、その違いを探る!|岸江信介 | 未草

これこれ、こういう先行研究を知りたかったんだよ

愛媛県松山市にある菓子製造する機械メーカー松山丸三という会社昭和30年初めにこの菓子製造する(焼く)器具販売した[4]。昭和31年-33年に大ヒットした獅子文六連載小説大番」(週刊『朝日』に連載、1957年映画化、のち1962年テレビドラマ化)にちなみ、この機械製造した菓子を「大判焼き」(当初は「大番焼き」で売り出そうとしたが、「大判」に変えたとのこと)と名付けた。この機器だけではなく、小麦粉や餡などの原料の「大判焼の素」も一緒にして売り出したところ、大ヒットした。松山丸三のホームページ説明(注2参照)によると「大判焼の素をあわせたセットは、素人でもすぐ店が開けるということからみるみる間に、四国中国地方から全国へと広がった」とある祭り盆踊り縁日などに全国各地で販売されたのであろう。同ホームページには当時の器具写真掲載されているが、この器具の上や下に「大判焼」と書かれた暖簾がかけられ、器具とともにこの暖簾もセットだったことがわかる。そして露天での販売は、いつもこの暖簾が掲げられていたに違いない。あとで述べる他の呼び方についても一般的に言えることだが、この菓子販売しているところではほぼ例外がないくらい、この名称暖簾のぼりなどに記し、掲示している。各地で呼び名が異なるため、「回転焼き」であったり「おやき」であったり「あじまん」であったり「七なな越こし焼き」といった名称を店のそばを通る通行人の目のつきやすいところに掲げるのである。実はこの暖簾のぼり記載された名称が、各地でこの呼び名が定着する大きな要因の一つとなっている。例えば「回転焼き」と呼ばれてきた地域に「御座候」の暖簾を掲げた店が新しく現れると、客だけではなく地元の人々からも次第に「御座候」と呼ばれるようになるのである。「大判焼き」の呼び方が全国に広がった理由はここにある[5]。

[5] たこ焼きやお好み焼きという名称が広がったのも、「大判焼き」と同様に露天商暖簾のぼりを掲げて全国各地の盆踊り祭り縁日の折に売ったことが大きいと思われる。

 この菓子呼び方が各地で定着した背景には、新しく店を出した時に新たな呼び名をつけたケースがあるほか、客が店の屋号呼び名として採用したケースがあるなど、さまざまである。例えば、「たこ焼き」「お好み焼き」「鯛焼き」には方言が少ないのに対し、この菓子にはこれまでみたように多くの呼び名があるのも興味深い。

 「大判焼き」を例にみたように、暖簾のぼりなどに書かれた商品名インパクトは大きい。この菓子を焼いてもらうのを待っている時間、どうしてもこの暖簾のぼりに目がいく。そして、この結果、新しい呼び方が定着するという現象が各地で起きてきたのだろう。一時代前までは「御座候」は姫路およびその周辺の呼び方だったが、現在大阪をはじめ、各地のデパ地下進出し、「御座候」の文字を目にすることが増えたため、大阪若者呼び方として定着するようになっている。

この記事の内容を読むことでとりあえず納得し満足した

なぜ「たこ焼き」「お好み焼き」「鯛焼き」には方言が少ないのか?という点は追加で調査必要ではある

お好み焼き」は名前から姿形をイメージできないから、方言がぼこぼこ生まれてもおかしくない気がするんだが……

いや、自分が知らなかっただけでお好み焼きバリアント結構いろいろあるのか、じゃあ納得だわ 

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自分用まとめ

・もともと全国各地に丸い焼き饅頭は広まっておりそれぞれのローカルネームで呼ばれていた

戦後プロパンガスが普及し始めて、屋台調理器具プロパンガス使用するものが開発され販売された

・あの丸い焼き饅頭の焼き機も開発され、その際に「大判焼き」の名称販売された焼き機が一番普及した

しかし元々各地に広まっていたせいでローカルネームが根強く名称統一されなかった プラス 焼き機が普及したので各地域でいろんな屋号商品名が生まれそちらも定着した

・何故もともと全国各地に丸い焼き饅頭は広まっていたか?おそらく作るのが簡単から 材料小麦粉餡子からどこでも仕入れやすく形もシンプル円盤

・何故大判焼き以前にもローカルネームがたくさんあったのか?ここは不明 作るのが簡単から同時多発的に生まれた?発祥今川焼きという名前直感的ではなかった?これの傍証は呼ばれ始めた時期が不明のある程度製法由来の名前直感的な回転焼きという名称がそこそこメジャーであること

確認のためには各地のローカルネーム大判焼き以前か大判焼き以後か調べる必要がある 大判焼き以降に生まれた店の屋号商品名がその地域メジャーという可能性は普通にある 分類が必要

少なくとも御座候蜂楽饅頭大判焼きと同時期(おそらく以後か)、回転焼きと太鼓饅頭大判焼き以前

年表作るか…… いや、先行研究サイトにある程度記述があるか 全て網羅不可能だ 単に「まんじゅう」と呼ぶ人もいるらしいのに

例えばたこ焼きは誕生してからしばらくの間、主に関西のみで広まっていたようだ

それはおそらく、生鮮食品流通が容易にならないとタコ簡単に入手できないか他所地域だと作れなかったのかも(未調査

たこ焼きはその実物とともに名前が全国に広まったので方言が生まれ余地が少なかったのだろう

たい焼き明治頃に東京ローカルお菓子として生まれたようだ

それが戦後に各地域に焼き機と共に広まったのだろう

wikipediaによると東京暮らした文筆家がしばしば作中にたい焼きを登場させていたようだ 名称固定に一役買ったかもしれない

江戸明治大正昭和前半くらいまでに全国レベルで普及していたのに各地でローカルネームで呼ばれていたお菓子……ってのがかなりレア

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メモ

レファレンス協同データベース|今川焼はいつどこで誰が考案したか知りたい。

レファレンス協同データベース|関西では今川焼のことを「御座候」と呼ぶと聞いたがなぜか。また、他にどのような呼び名があるのかも知りたい。

連載 たい焼き誕生史一覧 | Rettyグルメニュース

マイ大阪ガス|関西のギモン、調べます!炎の探偵社|御座候?大判焼?地域で違う「回転焼」の呼び名のナゾ

ニチレイフーズ|今川焼(回転焼・大判焼)って?

1位大判焼き、2位今川焼き、3位回転焼き :: 同志社女子大学

【目で見る方言】「大判焼き」名称問題を深掘り レアな呼び名や派生品も:中日新聞Web

場所によるものの呼び方の違い、日本列島あちこち、方言アレコレ|第1回|「今川焼き」の呼び方、その違いを探る!|岸江信介 | 未草

2022-10-13

沖縄を巡るリアリズム

国の中央沖縄を利害を共にしない別個の主体であるとすると、沖縄にとって不都合中央にとって都合がいい選択がなされるのは、それが中央にとってコスパがいいかである。利害を共にするなら、沖縄にとって不都合なことは中央にとっても不都合なのだから、なされないはずであるしかるになされているのだから、利害を共にしないとの前提は、正しいものとして議論を進めても差し支えない。

利害を共にしないことが事態の根元にあるのだから、このふざけた盤面をひっくり返すには、利害を共にせざるを得ない泥沼に引きずり込んでやればいい。究極的には、中国の傘下に入ることだ。なあに、島津侵略以前は中国のみの属国だったのだから伝統的にはむしろその方が自然だ。香港を見ろ、ひどいことになるぞって? 香港ぞんざいに扱われるようになったのは、上海を筆頭に中国経済が発展し、相対的香港価値が下がったが故。日本中国に膝を屈しない限り、対日本最前線地政学価値は下がらんよ。沖縄にとって中国が気前のいいパトロンであり続けるよう、せいぜい頑張って中国に張り合い続けてくれたまえ。すなわち、日本が栄えれば沖縄も栄え、日本が没落すれば沖縄も没落する。ほら、両者の利害が一致したw

実際のところ、中国陣営入りは実現しなくてもいい。現時点において、安保コスト沖縄偏重させることのコスパがよいのは、どんなにひどい扱いをしても沖縄中国側に鞍替えすることはない、とナメくさっているからだ。俗に言う、釣った魚には餌をやらない、ってやつだね。餌代がいらないw それが、あまりひどい扱いをすると中国側に走りかねないとの可能性が僅かではあっても頭をよぎれば、餌をやらざるを得ない。

沖縄中国陸海空軍駐屯すれば、九州に今の規模をはるかに上回る即応力を置き、エネルギ源輸入海路防衛に多大な労力を割き、西太平洋に散らばる戦略原潜監視し、とそのコスト防衛費対GDP3%なり5%なりといったレベルに達し、2%に増やすどころの騒ぎではないだろう。台湾への外交支援も桁違いに増やす必要が出てくるだろうし。それを思えば、今の沖縄予算を2倍や3倍に増やしても安いもの。それを中央の連中に思い出させるためにも、「ナメられたら殺す!!」覚悟をかためないとね。

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ってなことへの想像力を、小渕元総理沖縄サミット開催決定ぐらいまでの政治家は持っていたと思うんですよ。カネもあるけど、それ以上に、19世紀以来の国民国家というフィクションを守るためのナラティブといいますか。太田中将島田知事顕彰代表例だけど、沖縄の人々も同胞=利害を共にするんだって沖縄返還も、本音での認識はさておき、アメリカ軍政に苦しむ(令和の世の基地問題ですらアレなのだから、当時のそれは推して知るべし同胞包摂するとの建前は大事にしていた。それが、中国がさほどの国ではなかった頃には受け継がれ、中国が少なからぬ面において日本を上回る今において忘れ去られつつあるのは、何と皮肉な話でしょう。

こんな駄文をしたためているのは、例のひろゆき騒動トリガーなんだけど、昭和世代保守じじいとしては、ああいった沖縄の人々とそれ以外の日本人を切断する言葉(とりわけ、沖縄の人たちのしゃべり方を揶揄するもの宗教的絆帯のない日本にとって、言語の一体感が果たす役割は極めて大きいはず)は許しちゃイカンと思うのですよ。キレイゴトであることは百も承知で、沖縄米軍基地偏重していることは、将来において解決すべき課題だと非沖縄在住日本人も認識を同じくしているのだ、という看板は、守り続けなきゃいかんのですよ。打算的に。

2022-10-09

人魚姫』は何の物語か?

もちろん、海の妖怪人間王子に恋をするという悲劇的な恋愛物語であるが、実はフリードリヒ・フーケの『ウンディーネ』という、水の精霊人間騎士との恋愛物語を描いた先行作品存在する。そういう意味ではアンデルセン作品は、あまりオリジナリティが無いとも言えるかもしれない。

フーケの作品ウンディーネ』には無くて、アンデルセンの『人魚姫』には有る要素として、我々がよく知っているのが、主人公人魚姫人間になることの代償として「声」を失うという筋書きである

この「人間になることで声を失う/奪われる」という描写元ネタと考えられているものの一つに、アイルランド海浜に近い場所存在する某村に関する民間伝承がある。

周辺の他村の住民たちは、某村の住民たちのことを「人魚の子孫」と見なし、彼らと会話することを忌避していたというのである

この話から直ぐに連想するのが、ホメロスの『オデュッセイア』にも登場する、妖怪セイレーンのことである。これは、航行する船を操る船乗りたちを、美しい歌声で惑わして誘き寄せ、船を難破させて殺害し、その人肉を喰らったとされる、半人半魚の妖怪である。ここでも「声」禁忌とされている。しかし、どうしてもセイレーン歌声を聞きたいと願った知恵者オデュッセウスは、部下の船乗りたちの耳を蜜蝋で塞がせて、歌声を聞こえないようにさせてからセイレーンたちの居る岩礁の傍を通過するように船を航行させた。オデュッセウス自身は、己の身体を帆柱に縄で縛り付けさせ、決して海に落ちることの無いように万全の防止策を施してから、その耳で彼女たちの歌声を聞いたという。

日本においては、人魚との「会話」が禁じられていたというわけでは無いものの、やはり不吉な影が付き纏う。『吾妻鏡』や『北条五代記』等には、人魚らしき妖怪発見事例が記されており、これを何かの前触れとした陰陽博士などの占術職能者によって、兵革の兆し奥州藤原氏の滅亡の前兆などと見なされたといった例が見出される。

ただし、これらの国文学的な文献に記された人魚は、アンデルセンの『人魚姫』のような美しく可愛らしい姿とは、かなり異なる。例えば、頭部だけが人間人面タイプであったり、四脚らしきものが生えていたりと、なかなか奇怪な姿をしていたようである。中には、頸部に鶏冠の如きヒラヒラしたもの付属していたという事例もある。また、発見される場所も水辺だけではなく、時には、山肌で起きた土砂崩れ現場発見されたことも有るようである

してみると、人魚にとって魚身であることは、我々現代人が思う程、重要ではないのであろうか。実は、先に挙げた『オデュッセイア』に登場するセイレーンにしても、元々は半人半魚ではなく半人半鳥であったとする説が有る。その鳥の怪が、もしも水鳥の怪であったとすれば、後に、半魚の怪との交雑を起こしても、それほど不思議では無いと考えてもよいのかもしれない。重要なのは、半人半怪という混合性である

さて、アイルランドの某村に関する民間伝承比較するために振り返ると、日本においても「妖怪の子孫」と見なされた人々が存在しなかった訳では無い。例えば、江戸時代南町奉行根岸鎮衛(ねぎやすもり)の著した雑話集『耳嚢(みみぶくろ)』に収められた「河童の難を遁るゝ歌之事」という文章を参照してみよう。そこでは、菅丞相(かんしょうじょう)すなわち菅原道真(すがわらのみちざね)の作として伝えられる、次のようなまじない歌を紹介している。

「ひよふすべよ 約束せしを 忘るゝな 川だち男 うぢはすがはら

根岸鎮衛は、菅丞相の作は疑わしいとしつつも「ひよふすべ(ヒョウスベ)と云ふは川童(カッパ)の事の由」と記しているが、これは、長崎県諫早市周辺でのカッパに該当する水怪に対する方言的な呼称であるしかし、カッパ避けの歌が伝えられていたのは、現在で言うところの千葉県(アメリカで言えばノースダコタ州)である。随分と遠くの地までヒョウスベの名が伝えられていたことになる。

岩波文庫版では「川だち」には「水泳の上手い者」との注釈が付けられている。これは遊戯としての水泳のことを言うのではなく、職業的必要性から河川で泳ぐことをしていた者たち、職能者たちと考えるのが妥当である。その川だち男が「我々は菅原氏の関係者なのだ約束を忘れるな」と、歌を通じてヒョウスベ≒カッパに向かって呼び掛けているのである。一体、何を約束したというのか?

菅原道真家系である菅原氏は、遡れば土師氏(はじし)に連なるとされる。土師氏の祖は、野見宿禰(のみのすくね)とされ、当麻蹴速(たいまのけはや)との角力すなわち相撲(すまひ)による決闘を行ったことでも知られる。現代では十把一絡げに河童(カッパ)と総称されるようになった水の妖怪が、相撲を好むことは昔話などを通じて広く知られているが、その起源には、土師氏菅原氏との関わりが存在するということである

この土師氏は、埴輪を作ることを能くしたが、埴輪といえば赤土であるが、この赤い色は、酸化鉄を多く含むためである。このような粘土採掘は、鉄分を含む土の採掘であり、これは時代が下れば、鉄を初めとした金属鉱脈採掘にも関連・発展したことであろう。

鉄に限らず金属は、採掘されるだけでなく精錬されるので、山の掘削、森林樹木伐採という環境変化を伴う。これは、山に水源を発する河川にも影響を及ぼしたと考えられ、そうなると、粘土採掘金属採掘精錬を行う山の民と、漁業・水運などによって河川生業を立てる川の民との間で、何らかの紛争を招いたのは想像に難くない。本来の「カッパによる水難」とは、元々は「山にいるカッパ」による山林環境の変化によって引き起こされた、河川災害環境破壊のことを指したのではないのか。なお、カッパといえば河川などの水辺だけにいると現代人は思いがちだが、カッパ河川から山、山林から河川へと、季節の変化ごとに移動するという伝承が見られるのである

山林の環境破壊が火種となって紛争が発生し、これを停止するための平和条約のようなものが「約束」であり、それが川の民と土師氏菅原氏との間に結ばれたことにより河川災害発生件数が減少したこと、それが「カッパ避け」の実態だったのではないか。川の民に害を及ぼさないと、かつてカッパ親分であったであろう土師氏菅原氏が約束したことが変化して、川だち男が「我々は菅原氏=土師氏の裔であるぞ、だからカッパよ、我々には害を及ぼすな」と呼び掛けるようになったのではないか

ヒョウスベには「兵主部」の漢字が当てられる。このうち「部」は物部や斎部などと同じであるが、では「兵主」は何なのかと言えば、これは大陸から渡来した蚩尤(しゆう)のことではないかと言われている。というのも『史記』では、蚩尤は金属製の戦用武具を生み出した「兵主神」とされており、しか角力(相撲のようなもの)を能くするのである。その上、石や鉄を喰らうとされるので、これは金属精錬象徴するのではないかと考えられる。ここから、兵主部とは元々は「兵主神を祀り、それに関連する金属職能に携わる部民」であろうと考えられる。

脇道に逸れた話の部分が予想外に長くなってしまったが、土師氏菅原氏という職能集団的氏族カッパの裔であると考えられていたということ、そして、カッパに対する民の恐れの根源には、職能活動による影響が存在した可能性のことを言いたかったのである

本筋に戻ると、アイルランド海浜そばの某村に住むという「人魚の子孫たち」が、周辺他村の人々から会話をすることを忌避されたのは何故か。それは、彼らが「予言する能力」を持っていたからではないのかと私は推測する。ただし、予言と言っても、超常の能力ではない。彼らが漁業や水運業など海の船仕事に携わっていた職能集団だったとしたら、どうだろうか。そのような仕事に携わることで、海路における岩礁や難所の存在場所についての知識も蓄積されたであろう。また、船仕事に影響するような天候の変化を読む(予測する)観望天気の知識も蓄積されたであろう。そのような、いわば専門知識能力を身につけた彼らが、もしも「海路のあそこには岩礁が有るぞ」「嵐が来るぞ」と予測して教えてくれたとしたら、何の知識も持たなかった他村の人々は「某村の住民が不吉な予言をする。彼らが予言を行うせいで不吉な出来事が起こる」と逆転した考え方をして、誤解したのではないだろうか。それが「会話を忌避する」ことに繋がったのではないだろうか。

上で粘土採掘金属採掘精錬を行う職能集団カッパの関連を述べたが、こういった専門的な仕事は、その仕組みを外部から理解しにくい。自分たちには出来ない仕事をする能力を持ち、影響力が大きい者のことを、人間尊敬するだけでなく同時に差別もするという例は、古今東西を問わず広く見られる現象である。例えば、西アフリカ伝統的な音楽歌唱職能グリオ(griot、フランス語。現地のウォロフ語でgewelギュウェル、トゥクロール語でgauloガウロ、マンディング語でdjeliジャリなどと呼ばれるのが語源)たちは、歌の言霊を駆使することで、人を幸せ気持ちにしたり、戦の前に闘争心鼓舞したり、逆に人々の間の争い事の調停役を担ったりといった役目を果たすことから、非常に尊敬を受ける反面、亡くなると普通の墓に埋葬されずにバオバブの木の虚穴に遺体を遺棄されるという。そこでは、尊敬差別心理アンビバレントに同居している。

日本人魚が不吉の前兆と見なされた話は既に述べたが、その中には、人魚自身言葉を口にしたという例も見られる。それも、もしかしたら海の民などの姿を人魚に反映していて、やはり海の民による予言とそれに対する恐れの感情の名残なのかもしれない。

西洋人日本渡来するようになると、剥製ミイラ製造技術も伝えられ、魚や動物のパーツを組み合わせることにより、カッパ人魚ミイラ製造されたことは、現在日本の各地に残るミイラの実物とともに知られている。したがって日本における人魚形態傾向が、人面タイプや四脚タイプから現代人にも親しみのある上半身人間下半身タイプへと変化した原因として、西洋人の影響が有るという可能性は、もっと大きく見積もっても許されるであろう。しかし、日本よりも先に西洋人との接触果たしていた中国を通じて、もっと早い時代ミイラ製造技術日本に伝えられていたという可能性は無いのだろうか。その時に、西洋人が抱く人魚イメージも一緒に、早期から日本流入したという可能性は無いのだろうか。大陸西洋から人魚伝承流入によって、前触れ予言というイメージ形成された可能性は、今後より丁寧に調べる必要が有るだろう。

まだまだ考察すべきことは多く残る。

人頭獣身の妖怪しかも不吉の前兆予言を伴うといえば、人頭牛身の妖怪「件(くだん)」が思い浮かぶ。上で半人半怪の混合性が重要と述べたが、この混合性の故に、人間の住まう現実世界と、非日常・非現実世界との結節点となる役目が、人魚や件のような半人半獣の妖怪には与えられたのであろう。そして、その役目を具現化したものが、前触れ予言なのであろう。

また古来、予言神託の役目を担う者の多くが、巫女という女性であった。これは、女性には生理があり妊娠出産可能であることから男性に比べて、より自然というカミの領域に近い存在であり、現実日常世界との仲立ち・結節点の役目を果たすことが出来ると信じられていたかであるセイレーン人魚に限らず妖怪怪物たち(例えば、エデンの園アダムとイブを誘惑した蛇など)に女性性が付与されているのは、ユダヤ教キリスト教仏教などが地位確立する以前の世界において、カミの領域との仲立ちを務める職能を担っていた女性たちに対する、尊敬差別というアンビバレント感情が反映された名残であろう。

最初に『人魚姫』は何の物語か?と掲げ、長々と文を書き連ねたが、正直に言えば、それを確定することは実は難しいと思っている。ただし、少なくとも、異なる世界の住人が出会った物語、それに伴って起こったコンフリクト悲劇物語とは言えるのかもしれない。

乱文も長くなり過ぎたので、ここまでとしよう。

2022-08-21

もしも昭和アイドル田村ゆかり全国ツアーがあったら(という鉄

プロローグ

もうすぐ神楽坂ゆか生誕祭である昭和アイドルっぽさを感じさせる彼女は、もともとは「田村ゆかり」という名前デビューしたと記憶している。

ところで、たまたま先日購入した1978年10月「ゴーサントオ」の時刻表復刻版がある。

https://jtbpublishing.co.jp/topics/CL000461好評の「時刻表復刻版」第6弾 特急時代の幕開け!「ごお・さん・とお」(1978年10月号)ダイヤ改正号 『時刻表復刻版 1978年10月号』 2022年5月23日(月)発売 | 株式会社JTBパブリッシング

https://www.amazon.co.jp/dp/4533149782/

この年は音楽番組ザ・ベストテン」の放送開始の年でもあり、「レッツゴーヤング」「トップテン」「ヒットスジオ」といった番組ゴールデンタイムを彩った時期でもある。キャンディーズ解散し、レコード大賞ピンクレディーが獲得し、山口百恵活躍していた。

いま挙げたようなレジェンドともいうべき女性アイドルたちが全国ツアーを開催していたかどうかは定かではないが、もしもそんな昭和時代に我らが田村ゆかり全国ツアーがあったなら、皆どういう感じで移動していたのだろうか…などと、時刻表を見ていてふと考えてしまったのが懐古鉄オタの性というもの

そんなわけで「もしも昭和トップアイドル田村ゆかり全国ツアーをやっていたら王国民はどうやって民族大移動したのだろうか?」というテーマこそ壮大ながら実際は老眼に抗って縮刷版の時刻表にらめっこして連敗した駄文をそっと放流したいと思った所存。

今年もツアーはあったが、過去最大25公演を誇る2021年の*Airy-Fairy Twintail*の開催地からいくつか選んで当時の時刻表に沿った旅程を考えてみたい。

なお毎日運転ではない季節列車臨時列車は極力排した。仕方ないね

1

初日大宮公演だった。

当時はソニックシティはまだなく、大宮商工会館なる施設が同じ場所にあったらしい。1979年にはサザンオールスターズが公演しているらしいので、昭和トップアイドルもひょっとしたらステージに立っていたかもしれない。

https://www.livefans.jp/venues/1204

この頃は上野東京ライン湘南新宿ラインも、埼京線さえも存在しなかった。国電京浜東北線103系東北本線高崎線115系で到着した大宮駅の片隅には首都圏色の川越線気動車が、反対側には東武野田線の吊り掛け駆動車が見られたはずだ。

2

鉄道旅行的に見せ場になるのが金沢松本公演。

北陸新幹線のないこの時代東京から金沢に向かうメインルート信越本線だった。

上野発916の特急白山1号」に乗れば、長野経由でおよそ7時間後の1611には金沢駅に着き、前の年に落成したばかりの本多の森ホールにどうにか開演時刻ギリギリに間に合う計算だ。少し余裕を持ちたいなら上野819発の特急はくたか1号」で1504金沢着。こちらは長岡経由である

翌朝、今度は金沢から松本に向かう。筆者はAFTでは北陸新幹線長野まで乗り、そこから特急「しなの」に乗り換えて松本に向かったが、この時代は乗り換えなしの列車がある。それが金沢949発、おそらくキハ58の、時刻表ピンクのページによれば堂々10両編成の急行列車。後ろ3両が松本行き急行白馬」、中ほど4両は秋田まりで前寄り5両は青森までロングランする急行しらゆき」だ。間違わずに後寄り3両に乗れば、途中の糸魚川青森秋田行き「しらゆきから切り離され、進行方向を変えて大糸線に入って1435松本着だから公演には余裕を持って臨むことができる。編成分割をする糸魚川では正午を挟んで8分停車するからえびめしなど駅弁を買う余裕もあっただろう。

ただ、逆にいうとそれしか手段はない。ましてキハ58はいわゆる「直角椅子」のクロスシートでリクライニングも方向転換もできない。7時間近くも乗っていたらそれだけで相当疲れてしまう。

さら松本公演が終わった日曜の夜。筆者はAFTのときは最終「しなの」で長野に出て一泊し、翌朝の北陸新幹線で出勤した。しかしこの時代なら松本2056の普通列車新宿行きがある。423に新宿駅に着くから一度帰宅してシャワーを浴びて着替えて出勤する余裕は十分にある。ただしこれもまた「直角椅子」どころかおそらくセミクロス115系だったろうから、少しでも居住性を求めたければ2359発の急行アルプス18号」のグリーン車に乗れば良い。新宿着は500だから余裕を持って出勤できるのは言うまでもない(出勤した後のことは例によって保証できない)。

3

新幹線はすでに博多まで開通していたし、熊本空港には全日空の3発ジェットトライスター東亜国内航空DC-9が就航していたが、鉄道好きとしては1645東京1058熊本着の西鹿児島行き「はやぶさ」か、1700東京発1123熊本着の「みずほ」を推したい。食堂車で夕食・朝食の2食をいただくのんびりとした旅である

ただ、昨今の「サンライズ」などとは違って当時の寝台特急にはシャワー室はなかった。「はやぶさ」「みずほ」には個室もなければ女性専用車もなかったから、今や全国民の1/4に迫らんとする女性王国民の遠征には不向きだったかもしれない。まして当時の長距離列車喫煙可能が当たり前で各ボックスシートの窓際に灰皿が標準装備されていた。

しかしもう少し前の1970年頃に青春時代を過ごした我が母親によれば、当時のスキー列車はいつも満席で男女問わず通路デッキ新聞紙を敷いて座り込んだというから、たくましい遠征女子も実は相当数いたかもしれない。

4

新潟仙台は帰り道がポイントになる。

東北上越どちらも新幹線はこの時代は絶賛工事中。開通は4年後の1982年だ。しか上越線には「とき」東北本線には「ひばり」というエル特急が毎時1本ペースで運転されていたから往路はどうにでもなる。

新潟の帰路、私は最終新幹線に飛び乗れたが、この当時なら2300新潟発の急行佐渡8号」で506上野着か、横になりたければ2312の秋田から来る急行天の川」で555上野着。新津まで普通列車で出ておいて040発の急行鳥海」で642上野着でもいい。

仙台からは公演後だと2320発の急行「新星」がおすすめだ。仙台駅には早々と入線しており2130から発車前の寝台を利用できるのが嬉しい。上野到着は536だから一度帰って身支度を整える余裕もありそうだ。このほか、仙台2257→上野519の青森常磐線経由の急行十和田2号」や、座席車なら仙台2336→上野542の急行「いわて4号」も便利であろう。なお急行十和田」はこのあとも4号・6号が仙台に停車するし、特急ゆうづる」2号・4号も利用できる。

そうして考えてみると、まだまだ高速道路網が未熟だったこの頃、寝ている間に移動できる安価手段鉄道しかなかったのだということを改めて感じさせられる。1970年代でも長距離バス運行されていたが、都内新潟高速道路でつながったのは1985年仙台は87年。歴史でいえば線路の方がはるかに長い。

なおこの当時、上野仙台特急ひばり」で4時間以上かかっていたので、羽田空港から仙台空港への航空便全日空により1日4往復運航されていた。

5

ならばその先はどうか? 札幌公演に行くにはこの当時でも飛行機が当たり前の選択になってきていた。筆者は81年の夏に北海道の親戚を訪ねる旅に出たが、祖父母に連れられて上野から青函連絡船を経て親戚の住む苫小牧まで20時間ぐらいかかったように記憶している。まだ青函トンネルは開通していなかった。

それでは札幌公演に陸路海路で挑むとすればどうなったであろうか?余裕を持って開演に間に合わせるならこのルートである

2140上野特急ゆうづる5号]705青森or2221上野特急はくつる]711青森

青函連絡船5便 730青森→1120函館

1140函館特急おおぞら5号釧路行き]1550札幌or1145函館特急おおとり網走行き]1558札幌

急行自由席に乗れる周遊券を利用するなら上野1908→青森617の「八甲田」や函館1150→札幌1630の稚内行き「宗谷」も良い選択肢であろう。

やはり北海道は遠い。時間に余裕のない向きは素直に飛行機を利用すべきであろうが、千歳空港国鉄の駅が接続されるのは2年後の1980年のこと。この時刻表の時点では札幌駅前からバスに乗るのが普通手段であった。

6

そして福島公演はエクストリーム出勤の宝庫であった。終演後の福島駅発上野行きを見てみると、

2350 急行「あづま4号」437

025 急行出羽」502

043 急行「新星」536(寝台あり)

056 急行「いわて4号」542

155 急行津軽2号」605着(寝台あり)

このほかに夏休みシーズンだけに季節列車臨時列車運転されていたと思われるので、かなりの席数が利用可能であったと推察される。

座席車特急はいわゆる「直角椅子であるが、寝台車連結の急行列車では短時間でも横になって移動できる利点がある。これは現代夜行高速バスでも(実際に運行されてはいるが)まだまだ一般的ではない。バス鉄道車両よりも小さくて何両も連ねて運転されるわけもないから、寝台は不可能ではなくても困難が多いのであろう。

7

国鉄監修時刻表を見る限りでは、東名阪バス国鉄ハイウェイバスしか掲載されていない。関西公演からの帰り道は2240大阪駅→815東京駅の「ドリーム2号」か2200京都駅→643東京駅の「ドリーム4号」しか見当たらない。

鉄道ならば京都2237の特急出雲2号」、同015発の「出雲4号」なら700には、大阪2358の特急瀬戸」や同005の特急あさかぜ2号」でも730には東京駅に着けるからエクストリーム出勤勢の強い味方になり得たと思われる。なんなら関西勢と感想を語り合いつつ酌み交わす余裕は十分にある。しかもこれらは当然寝台車であるから、予約さえ取れれば会場内外で充実至福のひと時を過ごしたのちに千鳥足でベッドに潜り込んで目覚めれば東京駅も間近に迫り、どうかすればまだ夢見心地のまま出勤せざるを得ないベストコンディションを通り越した邪悪な何かを感じずにはいられない有様である

なぜ新幹線ではなく在来線を推すのかと問われれば、その当時の東京行き最終「ひかり116号」は新大阪2034発であるからフェスティバルホール(当時は改築前)から終演後直ちに最寄りの四つ橋線肥後橋駅に走ったとしてもけっこうタイトな時刻設定であることが第一に挙げられる。梅田の地下に慣れない関東勢四つ橋線西梅田を出て乗り換えに手間取ると、最終の新幹線は慈悲もなく出発してしまう…それは正直恐ろしい。

エピローグ

筆者は鉄道好きで鈍行やら夜行やら多少は乗ってきた経験ノスタルジーがあるので満更でもない旅行だなとほくそ笑みつつこ文章を書きつけてはいるが、冷静に考えてみれば当時は今よりずっと不便で居住環境は悪かったように思う。なりふり構わぬ男性特に体力に自信のある若者にはなんということはない行程だったと思うが、女性にはあまり優しくない環境だったし、筆者も若い頃は大きな鞄を抱えて夜行連泊するような旅をしてきたけれど今この歳になってふたたび体験するのは懐古趣味差し引いてもためらいが多めに残る。

とはいえ不便で時間のかかる旅を楽しみたい向きが今もなお大勢いるのは承知している。そんな黒鉄の人々に机上タイムトラベル提供できたら幸いかなと。ただそれだけ。

本文に田村ゆかりは出てこずに時刻表を読み解くだけだったが、10月横浜で公演があるのでよければバス飛行機よりも鉄道を乗り継いで参加して紀行文と公演感想文を読ませてくだされば筆者はDouble Fascinationになれる。

それはともかくできる限り多くの客席を埋めて盛況の公演としたいので、関心のある方は下記から申し込みいただければ幸甚に存じます

https://l-tike.com/concert/mevent/?mid=282963

2022-07-12

anond:20220712151423

防衛力はどこでも必要日本場合本土侵攻の恐れは比較的小さいが、問題海上交易路。だからずっと以前からシーレーン防衛ということが論じられているだろ? 海路を断たれたら兵糧攻め状態になる。太平洋戦争時と同じようにね。

2022-06-26

世界の終りにおいて、世界を救った男テミストクレス(2)

anond:20220626003343


 十年の時が経った。

 満を持したペルシア軍の大遠征が始まる。十年前のマラトンの戦いの規模を遥かに上回る戦力(十五万人程度と言われている)を前に、ギリシア世界は当然のごとくパニックに陥った。

 しかし、ギリシア軍は自国陸軍主体を成す重装歩兵に絶大な信頼を置いており、特にギリシア連合軍の雄たる都市国家スパルタは、強大な軍事力を背景にペルシア軍に対する陸上決戦を提案し、その決戦をスパルタ自身に主導させようと画策する。しかし、テミストクレスがそこで動いた。

 テミストクレス海上決戦以外に活路が無いことを、十年前から看破し、その準備を着々と進めていた。そのため、軍事力を背景に陸上決戦を主張するスパルタ陣営を確実に抑え込む必要があった。また、スパルタの主張する決戦案は、バルカン半島南方コリントス地峡において、複数都市国家犠牲にすることによって最終的な決戦に持ち込む、一種焦土作戦の体を成しており、当然ながらテミストクレスはそのようなスパルタ立案を容れることができなかった。そのため彼は当時ギリシア市民に信頼されていたデルフォイ神託を利用することに決める。

 ギリシア諸侯要請に対してデルフォイから下った神託は以下のようなものであった。『陸上決戦を避け、木の砦を頼れ』。

 テミストクレスは、この『木の砦』こそが、アテナイが着々と準備を進めていた軍艦なのだと主張し、海軍によってペルシア軍を打倒する海上決戦案にギリシア諸侯意識誘導することに成功する。また、自軍立案妨害され立腹するスパルタに対しては、海上決戦の際の軍事的イニシアチブを譲ると確約することによって、何とか説き伏せることにも成功した。

(なお、艦船保有数の関係アテナイ海上決戦においてスパルタに対して大きな影響力を持っていたため、スパルタあくま形式的海上決戦の総司令官に任命されたに過ぎなかった)

 また、このデルフォイ神託は、恐らく事前にテミストクレス賄賂を贈ることによって歪曲された結果であると、後世の歴史家たちによって推測されている。


 以下は歴史の辿った事実の列挙であるギリシア連合軍は、陸路においてスパルタ陸軍、また海路においてアテナイ海軍が主力をなす軍隊を、それぞれ沿岸の主要な陸路海路に布陣させ、海峡と山際の隘路という大軍の利を発揮させにくい地形を戦場に選ぶことで、ペルシアの侵攻を食い止める作戦に出た。

 しかし、要衝であるテルモピュレーにてスパルタ軍は味方の裏切りに遭い、精強を誇ったスパルタ陸軍は時のスパルタであるレオニダ一世の指揮の下で壮絶に奮戦したものの、全滅を遂げる。その情報を聞きつけたギリシア海軍は、実質的指揮官であるテミストクレスの指示の元、南下、後退し、最終的にはアテナイに程近いサラミス海峡へと撤退することによって、当初の予定通り最終的な海上決戦にてペルシア海軍撃滅することを画策していた。

 しかし、ここでテミストクレスの元に悪いニュースが届く。

 テルモピュレーを突破したペルシア陸軍が急速に南下を続け、アテナイへと到達し、故郷が陥落したというニュースであった。

 ギリシア諸侯において絶大な信頼を誇っていたアテナイの陥落に、周囲からテミストクレスに対して注がれる視線は冷ややかであった。しかし、テミストクレスは冷静であった。事前に彼はアテナイ市民サラミス島やその他の土地疎開させていたため、人的な被害殆ど出なかったことが幸いした。テミストクレス諸侯に対して、アテナイ保有するギリシア海軍の半数以上に及ぶ軍船存在を主張し、未だアテナイはその国土を失っていないと説得すると、依然軍議における主導権を確保したままに、海軍を南下させ続けた。やがて、テミストクレス率いるギリシア海軍は、サラミス海峡の隘路に布陣し、静かにペルシア海軍の来襲を待った。


 ペルシア海軍の来襲と共に、膠着状態スタートする。

 この際、テミストクレスペルシャの首脳陣と使者を交わすことで内通していた。ギリシャ陣営の内部情報ペルシャへと流し続けていたのである

 テミストクレスは誰も信用していなかった。敵に対しても、味方に対しても、一切の信用を持たなかった。この内通が、ペルシア侵攻の初期の段階から行われていたという説さえ存在している。

 テミストクレスは膠着状態が続く中で、ギリシャ陣営内において撤退論、転進論が巻き起こっていることをペルシャであるクセルクセスへと伝えると、さらサラミス海峡の出口を塞ぐことができれば、艦隊撤退不可能となり、必ずやギリシア海軍撃滅され、ペルシア軍は勝利栄光に浴することができるだろう、とクセルクセスを焚き付けていた。また、テミストクレスクセルクセスに対して、海上決戦の際にはアテナイギリシア陣営裏切りペルシア勝利に手を貸すことを約束していた。テミストクレスの思惑通り、クセルクセスサラミス海峡へと向かわせていた七百隻の主力艦隊を二つに分けると、二百隻に海峡の出口を包囲させ、また残りの五百隻を以てサラミス海峡に立て籠るギリシア海軍撃滅しようとした。テミストクレスは謀略によって、まんまと敵艦隊を二つに分断したのである

 敵艦隊が二手に別れたことを知ったテミストクレスは、ギリシア諸将に対して海峡が包囲されていると伝えると、撤退や転進は不可能であり決戦のみが活路であると諸将を誘導した。そのようにして諸将の士気を奮起させたテミストクレスは、海峡へと侵入してくる五百のペルシア艦船を静かに待ち受けた。


 当初、ペルシア海軍海峡の奥深くで待ち受けるギリシア海軍発見した際に、攻撃を急がず機を見計らっていた。内通者であるテミストクレス情報通り、アテナイが離反しギリシア海軍が劣勢に立たされるのを待ったのである

 しかし、ペルシア軍の目に映ったのは異様な光景であった。ギリシア陣営の旗の上に、戦意鼓舞するための戦場ラッパの音色が鳴り響き、そしてギリシア艦船が淀みなく戦陣を整え始めたのである

 それでもペルシア軍は攻撃を保留し続けた。ペルシア軍は最後までテミストクレス情報に踊らされ続けた。


     ◇


 テミストクレスの号令一下、突撃を開始したギリシア艦隊の前に、ペルシア軍には動揺が走った。テミストクレスが離反するという事前の情報との乖離も影響した。密集体形で海峡の奥深くへと侵入していたペルシア艦隊は、有効な機動を取ることができず見る見る間に壊走を始める。更には、後方から押し寄せたペルシア艦隊の援軍までもが、ペルシア前衛艦隊撤退を妨げることとなった。

 ペルシア海軍は大混乱へと陥り、急速に戦闘能力を喪っていった。ギリシア海軍勝利が決定づけられたのである


     ◇


 主力艦隊の大部分を喪失したペルシア軍は、このサラミス海峡の戦いの敗戦を重く受け止め、海上部隊の撤退決断する。テミストクレスが当初画策していた、海上兵站を寸断する計略は成功し、ペロポネソス半島への侵略を行っていたペルシア陸軍も急速にその影響力を喪っていった。最終的に、ギリシア連合軍の反撃によってペルシア陸軍ギリシア世界から追い出され、十年を費やしたペルシア帝国の大遠征は失敗に終わり、ギリシア世界の完全勝利となったのである


 当然、この勝利立役者となったのは英雄テミストクレスであった。テミストクレスはまさしく英雄であり、一度は終わってしまった世界、喪われた故郷を彼は取り戻した。ペルシア戦争の勝利はひとえに彼の超人的な洞察力、長期的な戦略立案能力、謀略や陰謀を駆使し敵と味方をコントロールする政治力、それらの能力によって成し遂げられた勝利であった。

 とは言え、テミストクレスはあまりにも優秀すぎ、また、あまりにも自分能力を過信し過ぎていた。

 最終的に、テミストクレスギリシア世界にとっての危険人物である判断され、政治的指導者地位から失脚させられ、かつての仇敵であるペルシアへと亡命している(相変わらずペルシアと内通を行っていた)。その後、ペルシア軍によってギリシア攻撃責任者へと任命されるのだが、母国に弓引くことをよしとせず、毒を呷って自決したと言われている。

 テミストクレスは間違いなく英雄であり、凡庸人間とは違う視野を持って生きた人物であった。とは言え、狡兎死して走狗烹らるという言葉の例に漏れず、自国から危険視された英雄最期は、あまりにも物悲しい。

世界の終りにおいて、世界を救った男テミストクレス(1)

 ギリシャ世界ペルシア軍の大遠征において黄昏に瀕していた。

 空前の規模を誇るペルシア軍団紀元前480年、テルモピュレーの戦いにおいてギリシア陸軍の主力であるスパルタ軍を激戦の末に破り、スパルタの王であるレオニダ一世戦死させた。スパルタ軍という防波堤を失ったギリシア本土容赦なく侵攻され、ギリシアの中心都市であるアテナイペルシア陸軍によって陥落するに至り、アテナイ軍人テミストクレス率いるギリシア海軍絶望していた。「帰る国が無いのに、このまま戦ったところで何になる?」と。

 しかし、彼らのリーダーであるテミストクレスだけは絶望していなかった。

 絶望に染まる軍人たちの中で、彼は唯一希望を手放していなかった。彼は言った。「さあ、世界を取り戻しにいこう」と。


     ◇


 ペルシア戦争の戦乱の始まりをどこに求めるかは諸説あるが、紀元前480年以降のペルシア軍の大規模侵略より10年前、先駆けて起こったマラトンの戦いにおいて既に戦端は開いていた、とする説が有力である

 紀元前490年、マラトンの戦いにおいて沿岸に押し寄せたペルシア軍を、アテナイ軍を主力とするギリシャ連合軍完膚なきまでに破った。二倍に比するペルシア軍に対して、旺盛な士気原動力に戦ったギリシア連合軍は、5000人以上にものぼるペルシア軍の戦死者に対して、僅かに戦死者200人足らずに留まる圧倒的な戦果を以てペルシア軍を退けたのである勝利に沸くギリシア民衆は口々にギリシアの精強な陸軍を讃え、自らの勝利を誇った。それほどまでに完璧勝利だったのである

 一方、自軍主力の三割を一挙に失ったペルシア軍は撤退を始める。ギリシア世界アジアに対する完全な勝利であった。

 しかしただ一人、アテナイ政治家であり軍人でもあるテミストクレスだけは絶望していた。

 いずれギリシア絶対に負ける、と


     ◇


 アテナイギリシアの中心都市であるが、しかしこの都市が円熟を迎えるまでに辿った経緯は涙を誘う。ギリシアはいわゆる都市国家と呼ばれる、一つの都市国家を成す統治形態政治が行われていたのだが、これら都市国家が成立する以前の、ギリシア暗黒時代においてはギリシア半島ペロポネソス半島)には大量の異民族流入しており、戦乱の嵐が吹き荒れていた。

 そのような戦乱のさなか、開闢におけるアテナイいかにして生き延びたのか?

 それは、あまりにも乏しい資源によってであった。

 アテナイは極めて痩せた厳しい土地であった。地中海性の気候の中、雨量は少なく、養えるだけの人口は決して多くない。要するに、戦乱の時代においては重要性の極めて低い土地だったのである。そのため、アテナイ暗黒時代における異民族侵略において、常に見逃され続け、戦乱からは遠ざけられ、その地盤と地歩を少しずつ伸長させてきた。最終的には、ギリシアにおける最も優秀な文化都市としての地位確立するに至ったのである

 さて、そのような経緯もあり、スパルタアテナイ、あるいはテーベといったギリシアの主要都市基本的に国力に乏しく、幾ら軍制を整えたところで養える軍隊には限界があった。当時のアテナイ人口については諸説あるが、最盛期における人口は十万人程度だったと言われ、まともな軍隊として機能する人員は精々一万人を上回る程度だったであろう。


 一方、ペルシア現在におけるアフリカ中東中央アジア南アジア北部にまで跨る大帝国であり、根本的な軍事力、そして人口においてはギリシアに対して天地の差があった。そのような地政学的要因をテミストクレス紀元前480年以前から看破しており、このまま仮に戦争継続すれば、最終的にギリシアが間違いなく敗北するという未来を予見していたのである

 しかし、テミストクレス絶望してばかりではいなかった。来るべきペルシア本軍の大遠征に向けて、着々と準備を開始した。

 彼が最初に行ったのは、海軍備の増強である。これは正に慧眼であり、ギリシア絶望的な状況を打破する最善手にほかならなかった。

 無論、軍事力が精強なペルシア海軍備は相当なものであり、実際、ペルシア戦争が激化した際の艦船保有数は、ギリシア保有する400隻足らずの軍艦に比べ、ペルシア軍のそれは3倍から4倍の1500隻以上(輸送船を含む)に達していた。ギリシア軍は結局のところ、陸軍備においても劣り、海軍備においても劣っていたのである。そのため、不足している海軍備の増強に多少着手したところで、いずれ来る黄昏を打破する目覚ましい一手にはなり難い――そう目するギリシア市民政治家も決して少なくはなかった。というか、そもそもギリシア軍は精強な陸軍を抱えているのだから海軍備の増強は不要であると楽観論に耽るギリシア市民が圧倒的だった。テミストクレスは頭を抱えた。


 テミストクレスは異常者であった。常に真実を見ることしかできない目を持ち、常に真実しか思考きぬ頭脳を持ち得ていた。

 テミストクレスは十年に渡って、世界の終りをただ一人、真摯に見据えていた。やがてギリシアは滅びる。しかし、その寿命を一秒でも長く保つこと、その呼吸が、須臾の間なりとも長く伸びることを目指し続けていた。また、テミストクレス軍人である前に政治家であった。そのため、テミストクレスは数多くの権謀術数を駆使することを厭わなかった。彼の謀略が活かされるのは、決して外敵に対してばかりではない。むしろ、同じくギリシアに属する味方勢力に対して、しばしばその陰謀は向けられていた。 

 ともかく、海軍備の増強に前向きでないアテナイ首脳部を説き伏せるためにテミストクレスは一計を案じる。海軍備の増強に消極的であったアテナイ首脳を説得するために、テミストクレスは同じくギリシア海洋都市国家であるアイギナと呼ばれる都市国家の脅威を説いたのである

 アイギナはギリシア世界においては珍しく、海軍備を主体とする軍制を整えた都市国家であった。地理的にはアテナイの属する沿岸からかに南下した地点に位置しており、当時のアテナイ首脳や市民にとっては、遠くアジア大国ペルシア帝国よりも、海洋国家アイギナはよほど身近な脅威に映っていた。テミストクレスはその心理を利用したのである。まずはこの手近なライバルとなり得るアイギナの脅威を喧伝することで、テミストクレスは徐々にアテナイ首脳の意識海軍備の増強へと向けさせることに成功した。

 さて、この時アテナイ新造した艦船の数は200隻程度で、かつて備えていた旧式の軍艦の凡そ十倍にあたる新型の艦船を建造しおおせたのである。とは言え、先述の通りそれでもなおペルシア軍の海軍備に比べれば、アテナイの所有していた軍艦の数は圧倒的に劣っていた。それでも、テミストクレスの企てた長期的な戦略は間違いなく最善のものであったと言えた。結果的に、海軍備の増強という手段以外にペルシアを打倒し得る勝ち筋は無かったのである

 何故か。


 ペルシア軍は強大な軍事力を動員するだけの国力を備えていた。軍事力インフラを整備する技術力、そして、兵士を養うために必要な兵糧を創出する農業力、それらの総合力において、ペルシアは明らかにギリシアの力を上回っていた。しかし、そのような強大な力は、反面ある種の脆弱性を抱えることにもなる。テミストクレスはそこに目を付けた。

 テミストクレスが着目したのは、ペルシア軍における高度な兵站戦略であるペルシア軍は圧倒的な数の軍隊を抱えるが故に、その大軍を支えるための兵站戦略を整備していた。中継都市本国から創出した食料を、効率的前線へと運び届けるインフラを整備し、兵の士気が低下しないための細心の注意を払っていた。

 しかし、ギリシアが属するバルカン半島並びにペロポネソス半島海岸線は長く、その補給路は長大に達し、沿岸陸路は決して効率の良い輸送ルートとは言えなかった。陸路における兵站戦略が決して最善のものでないことを、ペルシア軍は理解していたのである。したがって、ペルシア軍の兵站必然的海路依存していた。

 艦船による食料の輸送は、陸上のそれに対して圧倒的に効率的である大軍を支えるために行われる、ペルシア軍の必然的兵站形態を、実際にペルシア軍が襲来する十年前の段階で、テミストクレス明察していた。更には、そのペルシア軍が抱える唯一の弱点を攻撃するための、唯一の手段を十年前から整備し続けていたのである

 つまり海上兵站破壊し、ペルシア陸軍機能不全にすること。それが、それだけがギリシアペルシア軍を打倒するための唯一の方策であった。

 そして、それを理解していたのはテミストクレスだけであった。


     ◇


anond:20220626003448

2022-06-13

anond:20220609131448

 新潟まで陸路二日、そこから朝鮮海運の船に割り込んで海路で六日。ようやくウラジオストック到着の報を聞き、甲板に出ると雪がちらついていた。その冬時江が初めて目にした雪であった。

 まだ岸までは五キロメートルほどあったが、灰色景色に沈む懐かしい街が小さく見えていた。しかし懐かしいのは地形ばかりで、港には見慣れぬ高い塔が立ち枯れた林のようにいくつも屹立し、その先端からは黒雲のような煙を絶え間なく吐き出していた。

「あれがぜんぶ煙突か」

発電所です。燃料は石炭で、北樺太にあるのと同じものですな」

 無意識につぶやいた言葉に応じたのは、大太鼓のように太く響く男の声だった。白髪時代遅れの髷に結い、顔の下半分は髭に埋もれた野武士のような容姿だが、ほんの少し前までこの国の老中だった男、遠藤である

「四郎左衛門。あまり寒いところへ出てきては体に障るのではないですか」

「私はすでに四郎左衛門ではありませぬ」

「……そうでした。遠藤殿」

 思わず在職中の感覚で呼びかけてしまい、時江は気まずく言い直した。遠藤、かつての遠藤四郎左衛門蓬莱は本人の言う通り、頼みもしないのに城を下り、この旅に随伴してきた物好きな男だ。

開国して間もない頃、研修にてシベリアを回りました」

「それは初耳です。ウラジオストックへも?」

「無論です」

「どう思いました」

 そう尋ねたのは、ふと、遠藤自分故郷をどう見たか、興味が湧いたからだ。しかし帰ってきたのは時江の思いもよらぬ答えだった。

2022-02-26

anond:20220226210033

地の利って、海路しか補給路がない日本戦争になったらどんな地の利があるんだよ。

しろウクライナよりヤバいんじゃないの?

2022-01-31

ハッタショだけど

世の中が平穏だとうつ病になるように出来てる気がする

コロナ最初しかった

自分が生きている時代に凄いことが起きてると思うとワクワクした

ももう慣れたし飽きた

ミクロンも期待はずれだった

今は憂鬱で体が重く無能感に苛まれ毎日自死夢想してるけど

第三次世界大戦が起きて、食うにも困る感じになったら逆にイキイキと過ごせる気がする

毎日刺激的な新しいことが起きてほしい

自力じゃ脳内麻薬バランスが取れない

バッタの大群が日本に来て飢饉が起こるとか

ポセイドンが全ての海路遮断して世界大恐慌とか

2022-01-20

anond:20220119173546

南海トラフリスク回避しないと意味ない、日本海側は地政学的なリスク海路アクセスの点で不便すぎ、北に行きすぎると気候面でコストが大きい、となって必然的ひたちなか市とか仙台あたりしかなさそう。それでも平地が少なすぎて厳しそうだけど…。あるいは海路妥協して瀬戸内地方か?不便そうだけど…

2021-12-02

空路と同じように海路遮断してるのかな?

JALANA国際線予約受付中止のニュースみてふと思った。

全部遮断しちゃったら島国は干乾びちゃうから例外規定あんだろうけどね。

2021-04-17

anond:20210417180853

だけど、一方で、台湾沖のシーレーン中国が扼することで日本海路が阻まれたら

日本石油オーストラリア南側回りで輸入するか中国の顔色を窺い続ける必要が出てしま

「扼する」なんて表現を使ってかっこつけてるけど、台湾沖を通れなくなっても輸送費が少し増えるだけなので大したことない。

アメリカから太平洋経由で輸入できるのだからなおさら

本当に深刻なのは中国太平洋の西半分を支配するようになったとき

中国間抜け過ぎない?

中国にとって台湾統合したいというのは至上命題というか最重要戦略だとは思う。

だけど、一方で、台湾沖のシーレーン中国が扼することで日本海路が阻まれたら

日本石油オーストラリア南側回りで輸入するか中国の顔色を窺い続ける必要が出てしま

石油輸送費の増大は物価ガソリン代に影響して、深刻な問題になるのは予想できる。

輸出入品は何も石油に限らないし輸出入先はシーレーン上の各国で西アジアだけではない。

から日本米国にとっては、台湾沖を敵とみなした国が掌握する事は許せない。

関係諸国は、そういう共通認識を持っているはずだし、中国台湾統合したいなら

日本尖閣諸島問題などで刺激する事は、百害あって一利なしだったと思うんだよな。

しろ日本安心させて味方に付けて、中国台湾沖を握っても被害はないよと安心させて、

出来れば日米離間し日中という枠組みを作るべきだった。

だけど、日米離間どころか、長年にわたって歴史問題や、靖国参拝尖閣諸島問題日本を刺激し続けたので

今や日本人の8割以上は中国は敵、アメリカに頼るしかないという認識を持つに至った。

敵にシーレーンを握られれば終わりと恐怖を持たせてしまった。この現状変更には50年はかかるだろう。

日米が組むことになればファイブアイズはもちろん日米側、QUADも日米側、勝ち馬に乗りたがってEUが加われば

中国には三跪九叩頭が待ってるだけだ。そして実際に、もうそうなった。日米による台湾防衛宣言がなされてしまった。

間抜けだよなぁ。100年の大計ってものがなかったのかな?

すっごく不思議なんだけど、歴史を後から見ると、間抜け判断連続になる時期がある、そんなものではあるよね。

2021-04-12

anond:20210411235229

ASEANだけで6億人いる

これだけ停滞した日本でさえ、一人当たりにすると5倍以上の豊かさがある、(国によっては40倍)制度を整えたら来るだろう

海は多少あるかもしれんが、イギリス見てたらそれが理由ではないことがわかる

今日本に来ないのは、不法移民になるから不法移民海路ブローカーに頼むしかいから来てないだけ

2021-03-18

anond:20210318135316

植物を煮出したもの」の名前はほぼどの言語でも「茶」から派生した言葉になってしまっている。

今のところ自分が知ってる限りでは、南米マテ茶(マテ)だけが、茶とは独立した言葉

という増田が何年か前にあった

追記

雑に書いたもの結構ブクマついててびびってる。

ちょっと調べた。

漢字で書くとどっちも「茶」になってしまうけど、「茶」の読みに主に2系統あって、陸路インド中近東に広まった広東語の「ちゃ」と海路東南アジアヨーロッパに広まった閩南語の「てー」があるそうな。

でもこの「ちゃ」と「てー」も元は同じものなんじゃないの?

日本語だと茶は「さ」と読むこともあるけど、これは唐音らしい。

呉音では「だ」、漢音では「た」または「さ」になるとのこと。

全然関係ないけど、唐音って唐での読み方じゃなくて宋の時代の読み方らしい。まじかよwwww

唐の時代の読み方は漢音の方。お前、漢と関係ないのかよ。まあ今でも漢字っていうし、そういうノリなんだな。そういや、Chinaも秦だもんな(Chinaは秦Chin女性形なんだって)。

呉音六朝の呉と関連付けられるけど、どうも漢音に対して地方言葉を蔑んだ呼称っぽい。呉音かわいい読み方が多くて好きよ。マ行とナ行が多め。

から独立した言葉としてtisaneとカヴァがあるって指摘がブコメにあった。さんきゅー

あとビルマ語のlakphakというのも

あと、これも読んだ https://sencha-note.com/miang-tea/

いや、モン族・苗族の「tsuaツア」「taタ」は絶対茶と同じだろ

ミャンマーの「ラペ」(Lahpet、Lepet)ってのはビルマ語のlakphakと同じっぽいねラーとも

ポーランドベラルーシリトアニアのherbata(ヘルバタ)、гарбата(ハルバタ)、arbata (アルバタ)はどう見てもharb teaそのまんまで(正確にはharb of teaかもしれんが)、『「tea系統」に入れることができると思います』ってレベルじゃないんですが。

ネイティブアメリカンのオジブウェー語では「aniibiishaaboo」(アニービーシャーブー)とのこと。他文化との交流が少ないところだと結構ありそう。

タイにはミアン(ミエン)と呼ばれる食べる醗酵茶があるとのこと。茶葉の加工品ではあるが、飲料ではないので茶とは別物では?ミャンマーのラペと同じっぽい。ということは、ラペも飲み物ではない?

ところで、チャノキ緑茶紅茶もみんな同じチャノキという植物(種)なんだみたいな説明がよくなされるが、この点には疑問がある。

いまのところ地域変種 varietyということになっているが、

日本でよく知られている茶の木は葉っぱは5~6cmで自生しても5mくらいの高木であるが、アッサム種だと葉は20~30cmほど高さは15mにもなるという。これくらい違いがあると別種だと考えるのが普通ではないだろうか。

参考文献にあった、これらが面白い

https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=4499&item_no=1&attribute_id=17&file_no=1 ダウンロードになるので注意

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/54824/1/KJ00000132295.pdf

茶の「醗酵」についても言いたいことがあるので、時間があったら書く

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