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はてなキーワード: 岩波新書とは

2020-03-23

2019年に読んだ本

『おあむ物語・おきく物語』(天保8年(1837))

家近良樹『歴史知る楽しみ』(ちくまプリマー新書2018年12月)

石川太郎監修・小泉吉永編集『女大学資料集成〈別巻〉』(大空社、2006年)

磯田道史監修『江戸家計簿』(宝島社新書2017年)

磯田道史他『戦乱と民衆』(講談社現代新書2018年8月)

伊藤セツ『山川菊栄研究――過去を読み未来を拓く』(ドメス出版2018年12月)

今井幹夫『富岡製糸場と絹産業遺産群』(ベストセラーズ2014年)

岩田真美・桐原健真編『カミとホトケの幕末維新』(法蔵館2018年11月)

大塚英志日本バカから戦争に負けた 角川書店教養運命』(星海社新書2017年)

小川剛生『武士はなぜ歌を詠むか 鎌倉将軍から戦国大名まで』(角川学芸出版2016年)

金澤裕之『幕府海軍の興亡 幕末期における日本海軍建設』(慶応義塾大学出版会、2017年)

上條宏之『絹ひとすじの青春――『富岡日記』にみる日本近代』(NHK出版1978年)

神谷大介『幕末海軍――明治維新への航跡』(吉川弘文館2018年1月)

神谷大介『幕末軍事技術の基盤形成――砲術海軍地域』(岩田書院、2013年)

神作研一近世和歌史の研究』(角川学芸出版2013年)

香内信子編『資料母性保護論争』(ドメス出版1984年)

呉座勇一『陰謀日本中世史』(角川新書2018年3月)

佐々大河『ふしぎの国のバード』1~3巻(ハルタコミックス、2015~16年)

サビーネ・フリューシュトュック他編『日本人の「男らしさ」――サムライからオタクまで 「男性性」の変遷を追う』(明石書店2013年)

篠田信一『殴り合う貴族たち――平安朝裏源氏物語』(柏書房2005年)

中公新書編集部編『日本史の論点――邪馬台国から象徴天皇制まで』(中公新書2018年8月)

内藤一成『三条実美 維新政権の「有徳の為政者」』(中公新書2019年2月)

中島岳志保守大東亜戦争』(集英社新書2018年7月)

中野節子『女はいからやさしくなくなったか』(平凡社新書2014年)

中屋敷均『科学非科学』(講談社現代新書2019年2月)

長山靖生帝国化する日本――明治教育スキャンダル』(ちくま新書2018年9月)

文芸春秋編『日本史の新常識』(文春新書2018年11月)

本郷和人『戦いの日本史 武士時代を読み直す』(角川学芸出版2012年)

松浦だるま『累』全14巻(イブニングコミックス、2013~18年)

宮地正人日本リブレット人68 土方歳三榎本武揚 幕臣たちの戊辰函館戦争』(山川出版社2018年8月)

森正人鈴木元編『文学史古今和歌集』(和泉書院2007年)

山川菊栄記念会・労働者運動資料室編『イヌからすとうずらペンと 山川菊栄山川写真集』(同時代社、2016年)

山本博文編『織田信長古文書』(柏書房2016年)

山本ルンルンサーカスの娘オルガ』第3巻(完)(ハルタコミックス2019年)

吉田麻子『知の共鳴 平田篤胤をめぐる書物社会史』(ぺりかん社2012年)

和田裕弘織田信忠――天下人嫡男』(中公新書2019年8月)

渡部周子〈少女〉像の誕生――近代日本における「少女規範形成』(新泉社2007年)

渡邊大門関ヶ原合戦は「作り話」だったのか 一次史料が語る天下分け目の真実』(PHP新書2019年9月)

渡辺尚志『江戸明治 百姓たちの山争い裁判』(草思社2017年)

渡部泰明『和歌とは何か』(岩波新書2009年)

★再読★

鬼頭宏『日本歴史19 文明としての江戸システム』(講談社2002年)

ニコライ著・中村健之介訳『ニコライの見た幕末日本』(講談社学術文庫、1979年)

中屋敷均『ウイルスは生きている』(講談社現代新書2016年)

山川菊栄武家女性』(岩波文庫1983年)

山川菊栄著・鈴木裕子編『山川菊栄評論集』(岩波文庫1990年)

和田英『富岡日記』(筑摩書房2014年)

2020-01-29

anond:20200129225511

Amazonは、佐川ヤマトも投げてるから、もはや配送にあまり信頼がない。

届かないのでは?と言う不安すらある。

から、そんな脅威ではない。

(まあコンビニ受け取りとかにすると思うが)

24h営業と同じで、どこも限界灘。

三木谷さんは、まだ頭がバブル

お客様神様世代

メルカリとかの方が、お客も伝票自分で入れたりして、時代に応じて、ちゃんデザインできてる感じ。

個人の消費を云々しといて

日本の小売がー」

とか飛躍してるのは、なんだか

楽天関係者ぽいよね。

宗教的

消費者は、日本の小売がどうのとか岩波新書

2019-12-12

AI時代と法」という本を読みたいんだが

岩波新書電子書籍では出さないんやな。

老眼から文字を大きくできる電子が便利なんや

2019-08-30

https://lineblog.me/kageki_neko/archives/13233580.html

人間性がゆがむみたいな表現が気になったが、

人格水準の低下とかも内容はともかく雰囲気的には似たようなものか。

引用

登場人物の○○子は私がモデルでしょう

ストーリーは私が□□新人賞に応募した小説のもの

そのまま盗んだでしょ

以上の内容のことを延々と訴え続けた。

私はノーベル文学賞を貰う宿命にあるんです

とも のたまうた。」

岩波新書の『精神病』の最後のほうにあった

かなりよい状態精神病の人が自分ノーベル賞に値すると確信している例を思い出した。

これは精神病だろうなあ。

新人賞が原因で「少しばかり奇妙な行動に及んだ」わけではないだろう。

人間性はゆがんでないが精神病が原因で少し奇妙な行動に及んだくらいなのか。

んで京アニ放火犯精神病であるとともに人間性がゆがんでいるか

かなり悪い行動をしたとかだろうか。

2019-05-11

文系学問における注と参考文献の話、補遺

文系学問において資料実在証明するものとは何か」(anond:20190510230425)についたブコメに応答&補足説明します。

参考文献と注は違うよ!

Wikipediaですら参考文献を求められるので、参考文献(ここで言っている注)のない本はある意味Wikipedia以下の信頼性と考えられても仕方がないことを多くの人に知らせるべきだと思う。

参考文献と注は違います! ぜんぜん別です! 参考にした本を並べてあるのが参考文献(厳密にはこの場合「参考文献一覧」)で、本文中の記述の出典を直接明らかにするのが注です!

参考文献と注については、以下の4つの組み合わせが考えられます

  • a)参考文献も注も揃っている
  • b)参考文献はあるが、注はない
  • c)参考文献はないが、注はある
  • d)参考文献も注もない

このうち、研究書として許されるのはaとcだけです。ここで問題にしているのはbとdで、多くの学術的な新書はbであり(中公新書とかでよくあるやつ)、ごくまれにdみたいな本があります最近だと、岩波新書の『ロシア革命』)。

えっ、cも許されるの? はい、許されます。なぜなら、個々の注でしっかりと典拠を示してある場合は、参考文献リスト存在せずとも出典の表示に不自由はないからです。

これだとわかりづらいかもしれないので、架空の例で説明してみます(わかりづらいかと思ったので書き直しました)。

a)増田うんこを漏らした(注1)。一方、同人作家おしっこを描いた(注2)。

(注1)はてな太郎増田研究Hatelabo2019年、819頁。

(注2)Y. Arim, Oshikko Collection (Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019), p.8107.

参考文献リスト

Arim, Y. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019.

はてな太郎増田研究Hatelabo2019年

b)増田うんこを漏らした。一方、同人作家おしっこを描いた。

参考文献リスト

Arim, Y. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019.

はてな太郎増田研究Hatelabo2019年

c)増田うんこを漏らした(注1)。一方、同人作家おしっこを描いた(注2)。

(注1)はてな太郎増田研究Hatelabo2019年、819頁。

(注2)Y. Arim, Oshikko Collection (Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019), p.8107.

d)増田うんこを漏らした。一方、同人作家おしっこを描いた。

cでも十分に出典表示として問題のないことはご理解いただけるでしょうか? 実際、英語圏でもcのような本はたまにあります。そして、著書ではなく論文レベルだと、cのようなやり方を採用している雑誌はとても多いのです(日本語圏でも英語圏でも)。いや、もちろん理想を言えばaみたいな本であるべきなんです。でも、紙幅の都合というものがあり、印刷費が嵩むからどこかを削りたい、となった場合には、真っ先に参考文献が削られてしまうのは致し方ないと思います

日本出版問題は、そこで「参考文献ではなく、注を削ろう!」という話になってしまうことです。違います注か参考文献、ページ数の関係上どちらかを削らないといけないのなら参考文献を削るべきなんです。

もし注がしっかりとつけられていれば、参考文献の欠如は「どんな文献があるかひと目でわかりづらい」程度の問題しかなりません。しかいくら参考文献があったところで、注がなければ「ではこの記述典拠はいったい何なのか」という根本的な問題惹起します(bの例から正しい出典を復元できるでしょうか?)。参考文献は省いても構いません。しかし注を省いてはダメなのです!(学術的な新規性のある本ではなく、学界の定説初心者向けにわかやす纏める本でなら、読みやすさを優先して逆の判断になっても構わないのですが)

もちろん、これはauthor-date方式やMLA styleの注をつける場合には適用できません。どういう方式かというと、次のような方式です。

author-date方式

増田うんこを漏らした(はてな 2019: 819)。一方、同人作家おしっこを描いた(Arim 2019: 8107)。

参考文献リスト

Arim, Y. 2019. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies.

はてな太郎.2019.『増田研究Hatelabo

MLA style:

増田うんこを漏らした(はてな 819)。一方、同人作家おしっこを描いた(Arim 8107)。

参考文献リスト

Arim, Y. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019.

はてな太郎増田研究Hatelabo2019年

こういう方式の注をつける場合には参考文献が絶対必要です。当たり前ですね(author-date方式についてはanond:20190511230117も参照)。

2種類の「参考文献」

自分実験室の試験管”イメージ偏ってるなー(´・_・`)理系論文での引用たことないんかな。普通に出典書いてるし、それを叩き台に積み上げたり、否定したりするんだが。博士論文なんか引用文献沢山乗るしね

理系学問についてのイメージが偏っている点についてはごめんなさい。でも引用については、申し訳ないけれどそちらが勘違いされていると思います(もちろん私は理系論文ちょっとしか読んだことないので、私に事実誤認があれば教えてほしいのですが)。

文系学問において、参考文献には2種類あります

このうち、理系論文で文献として挙げられるのは「先行研究」だけですよね? でも、文系では「一次文献」も参考文献に含まれ、そこへの参照が論文重要な核を占めているのです。

たとえば上皇陛下が書かれた論文(※1)を見てみると、確かに末尾にずらずらっと先行研究が並んでいますが、論文の核となる部分はあくまハゼ遺伝子を解析した部分にあって、それは当然ながら実験室で採られたデータであり、何らかの文献によって引証される類のものではないわけです。

しかし、皇族つながりで天皇陛下が書かれた論文(※2)を例に出すと、この論文において著者の主張の裏付けとなっているのは古文書における記述であって、その原本研究施設が所蔵していたり史料集として公刊されていたりするわけです(史料集って何ぞや、という点については後述)。

私が最初増田で言ったのは、この「一次文献」の問題です。多くの場合理系ではこういう資料引用しないですよね(最近だと古天文学歴史的史料引用するとかあるのかな?)。しかし今回の研究不正がなされたような分野においては、そのような資料こそが研究の核心にあるという話です。

もちろん、慌てて言いますが「なにをデータにするか」は研究対象によって異なります文化人類学のような分野では、ヨソの土地まで出かけていって住人たちとの会話を書き取ったもの資料です(この分野だと「インタビュー」とかいう生易しいものじゃなくて、ヨソの土地に住み込んでその土地言語習得して日常生活を過ごす中で遭遇した会話や出来事を持ち歩いてるノートに書き付ける、という調査方法が採られます。これを参与観察というわけですが、私にゃ無理ですわ)。記述言語学だと研究対象の言語話者にその言語を口に出してもらって記録する(「これを○○語でなんといいますか?」と聞くこともあれば、話者どうしで会話してもらってそれを横で聞くパターンもあり)、というやり方になるんだろうと思います。なので私が言っているのは、あくまでも近現代史やその隣接領域での話だと思ってください。

一次史料からといって信憑性が高いとは限らない

文系生データは出典となる書籍だったり、原典資料がある場所と。原典原典って、どんどん辿っていけるブロックチェーンみたいな形式理想ってわけか。一時情報当事者証言なら信憑性高いって判断にはなるし

違います! 当事者証言からといって必ずしも信憑性が高いわけではありません! たとえば戦争犯罪裁判にかけられた人の証言のことを考えてみてください。彼もしくは彼女証言をそのまま「信憑性が高い」として扱ってしまってよいか? そんなわけはない。

歴史学において一次史料が重視されるのは、それが「生データ」だからです。それはひょっとしたら当事者の保身によって捻じ曲げられているかもしれないし、当事者が間違えているかもしれないし、当事者が見ても聞いてもいないことは書かれていないかもしれない(たとえば「沖縄返還をめぐる日米交渉」を研究しようと思ったとき日本側の史料は「日本側の政策決定過程」を教えてはくれますが、アメリカ外交官たちがどういう考えを持って交渉に臨んでいたかを教えてはくれないのです。それを知りたければアメリカ側の史料を見るしかありません)。けれども新しい研究は必ず一次史料から出発する必要があるのです。何故ならそれは昔の人によって直接書き記されたものから

なので歴史学では「史料批判」というものを重視します。これは説明すると長くなるので詳しくは歴史学入門書とかを読んでほしいんですが、要するに史料に書かれていることはどのくらい信用できるのか、みたいなことを分析するわけですね。あれれ~? おっかしいぞ~? この人、自分は後方にいたか虐殺行為に関わってなかったって言ってるけど、部隊の記録では後方にいたなんてどこにも書いてないよ~?

(「なにが一次史料か」というのも研究対象によって変わります特に科学史史学史といった分野では「他の研究において先行研究とされている文献が一次史料である」という状況がしばしば発生するのですが、この理屈はわかっていただけますよね)

デジタルアーカイブ史料

図書館ScanSnap SV600を完備し研究する皆の熱意でデジタルライブラリが出来るといいな… P2Pで共有されればノード消滅にも耐えられる。しか日本ではプリウスミサイル上級国民は不逮捕で、P2Pプログラマ逮捕なので

出来るといいな、じゃなくて、既にあります

たとえば国立国会図書館デジタルライブラリーには幕末以降の古書が多く登録されていて、PDFで落とすことができます。archive.orgや、フランス国立図書館デジタルライブラリー「Gallica」も有名ですね。こういうところに所蔵されている文献については、わざわざ現地の図書館まで行かなくともPDFダウンロードすればそれでよいわけです。デジタル化によって歴史学者の仕事は格段にやりやすくなりました。18世紀ドイツ語の本をコタツに入ったままで入手できるんだもんなぁ。

しかし、当たり前ですが全ての史料電子化されているわけではありません。国によってデジタルライブラリーの整備状況に違いがありますし、そもそも現代以降に出版された印刷物の数を考えたら全部をデジタル化するなんて人手も時間も足りない、という場合もあるでしょうし、身も蓋もない話をすれば著作権問題もあるでしょう(とある国では、その国の図書館に直接行かないとデジタル化された史料アクセスできなかったりします。てっきりPDFはないと思っていたのですが、著作権上の問題で館内からしかアクセスできないようになっているだけだそうです)。

また、多くの国では、公文書館史料まではデジタル化は及んでいません。元増田でも書きましたが、お役所ちょっとした書き付けなんかも史料になるわけで、それ全部デジタル化しようとしたらとんでもない数になります(これについて、日本戦前外交文書のかなりの数をウェブで読めるので恵まれていますね……アジア歴史資料センター様には足を向けて寝られません)。なので未だに、現地に行って史料を直接見てくる、というのが重要になるわけです。

さらに言うと、史料が必ずしも公的機関によって保存されているとは限らず、貴族武士の子孫のおうちに保管されていて、読みたい人はご当主様の許可を得て読ませてもらう、という場合もあり、当然デジタル化の波は及んでいません。イギリスだと由緒ある大貴族屋敷には私設の文書館付属している場合もあり、日本歴史学者でもソールズベリ侯爵のお屋敷であるハットフィールドハウスに赴いて史料収集している人もいます。謝辞で「史料を閲覧させてくれた当代のソールズベリ侯に感謝する」みたいなこと書いてあって「すごい……」って思いました)

ただ、「みんなが読みたがる重要史料」については、史料をまとめた本を出すとか、史料を集めたマイクロフィルムを作るとか、そういう形で広く公開されている場合があります(たとえば第一次世界大戦の勃発に関しては、イギリスオーストリアなどの当事国が何十巻にも及ぶ史料集を出版していて、東京大学などの国内研究機関にも所蔵されています)。けれどそういうのを購入するのはお金がかかるし、何より発行から何十年も経ってしまうと入手自体が難しくなってしまう(でも著作権は残っているためデジタル化も遅々として進まない)ので、あんまりお金がなかったり新設されたばかりだったりする大学研究者は結局それらを所蔵している大学図書館に行く必要が……

「注があると読者に嫌われる」は本当か?

しろ最後の注を見て次の本を決めたりするので、注があると読まなくなる人というのがいるのにびっくり…

注なんて読みたくなければ飛ばせばいいのに注があると売れない……? やべえな世の中。/ みんな本当に自己防衛意識が弱いよね。優しい世界生きてるんだろうな

注があると読まない人が居るという話、ただ気持ちよくなるために情報摂取してる層には、正確性の担保なんてむしろ邪魔なんだろね。ワイドショー視聴者と同質。

これ、実際に「注があるから読まない」読者が本当にいるのか、と疑ってみるべき案件だと思うんですよね……。「編集から言われて注を外した」という話は学者あいから漏れ聞こえてきますが、「注があるから読んでいて苦痛だった」という話ってなかなか聞かなくないです? いやもちろん編集者のところにはそういう苦情のお便りが届いているのかもしれませんが……。「注があると売れない」という都市伝説が生き長らえているだけのような……(一般読者からしてみれば、注の存在に気づいてなかった、とか、なんか数字が振ってあるけど気にしてなかった、という場合も多いでしょうし)

注は別に読まなくてもいいです

ちゃんと注まで読んでるのね。今まで気にしたことも無かった…我ながら知的レベル低い…

注がついている本を読んでいる段階で十分かと思いますので安心してください。注は、もし興味がないならさらっと読み飛ばしても別に大丈夫ですよ。というか、注で典拠が示されていても、アラビア語とかギリシャ語とか朝鮮語とかロシア語とかで書かれている場合も多々あるわけで、そんなの普通の読者さんにチェックできるわけないですし。ただ、注を見てみると、おっ、ここはちゃんと原史料を読んで書いてるのか、なーんだ、ここは英語二次文献に頼って書いてるんだ、みたいなことがわかっちゃったりするので、学者仕事の裏側を垣間見ることができて面白いですし、どんな情報源を使って書かれているのか? をチェックしてみることは学術書だけでなく普通ニュースとかを読むときにも重要なことだと思いますよ。

ブコメ

物理分野では「参考文献」の意味増田とは異なる。参考文献は本文記述の直接の引用を表す。あとあまり明確に決まってないけど、注は捕捉説明を指す。「参考にした文献一覧」は存在しない。読書案内なら見かける。

誰がReferences(Bibliography)を参考文献と訳したのか。"refer"した文献のリストであって、本文の著述に紐づけられるものだけリストアップすればよく、逆に、何でもかんでも列挙して博識をひけらかすところではない。

や、まあ、文系でもたいていの場合は「引用文献」ってことですよ。それを「参考文献」と呼んでるだけ。参考にはなったけど言及してない文献は、私なら入れない(でも入れる人もいるかも)。

いま史学科にいる人間全員読んでリアルブクマしとけ。懇切丁寧な論文の"文法書"だぞ。

あなたがこの増田に感心してくれたことは嬉しいけれど、史学科の学生上から目線アドバイスしないでください。こんなの初歩の初歩で、史学科の学生さんならとっくに理解してます史学出身じゃない人たちが「そうだったのか~!」って言ってるだけ。別に史学科の常識を知らないのは悪いことじゃないけれど(私も他学科常識とかわかんないし)、自分が知らなかったある分野の初歩の初歩を解説されて、そこで聞きかじった内容をその分野を学んでいる人の前で「お前らこういうのよく読んどけよ~」って言えちゃうの、ちょっと傲慢すぎません?

2019-05-10

文系学問において資料実在証明するものとは何か

久々にビッグ研究不正ニュースktkr

ということでキリスト教思想史研究やってた人が研究不正で懲戒解雇された件について、報告書に目を通した上でちょっと書きます

今回調査委員会被告発者に求めたのは、以下の項目でした。

この「写し」というのはどういうことでしょうか? 資料のもの調査委員会が求めなかったのはどういうわけでしょうか?

歴史学者にとっては常識なのですが、他の分野の人にとってはどうかわからないので、解説してみます

そもそも文系はどんな材料を使って研究してるのか

これは人というか研究分野によるので、安易なことは言えません。文学哲学社会学人類学歴史学言語学とでは使う資料がぜんぜん違います

で、この被告発者の研究手法は、近現代を扱う歴史家の多くが採用している手法だと思います近現代史を扱う人たちは、

を主に史料として使います(「史料」ってのは、歴史を記録したナマの資料のこと。「資料」と呼ぶと後世に書かれた二次文献なんかも含む)。あるいは、上に書いたようなものをまとめて出版した本とかを使います

これらの史料の特色とは何か……それは、

ことです。

公文書館というのは、「お役所の書いた書類を保管しておく施設」のことです。これはどのくらいかというと半永久的にです。普通文明国ならどんなに細かな書類でも公文書館に保管されていて、(民主国家場合は)数十年して機密解除されたり(独裁国家場合は)体制崩壊して民主化したりすることによって「申し込めば誰でも読める」状態に置かれます。これによって我々はソ連時代領収書なんかをロシア公文書館で読むことができるわけです。ソ連ですら公文書を保管して後世の我々に見せてくれているというのに……いや、これは余談でした。

当たり前ですが、それらはその国(あるいは地方)の公的な記録であって、自分のものにして持ち帰ったりすることはできません。ではどうするか。多くの歴史学者

などの手段史料を入手して研究しています(ちなみに写真撮影もカネを取る公文書館結構ありますね。日本だとどうなんでしょ)。

昔の人が書いたものも、本とかなら古本屋さんとかで流通しているのを買うことができるかもしれませんが、稀覯書でなかなか手に入らなかったり、古雑誌バックナンバーとか揃えるの無理ゲーだったりするので、図書館に所蔵されているのを使うことが多いです。近場の図書館に置いてない? 相互貸借もさせてくれない? そういう場合は当たり前ですが所蔵している図書館がある街まで行きます。その図書館がある街というのが新幹線必要距離だったりパスポート航空券がないと行けない距離だったりすることも稀によくある(歴史学者研究費は旅費と本代に消えていく運命なのです……)。そして、辿り着いた図書館カメラをパシャパシャやったりコピーを黙々と取ったりするわけです(最近スキャナーが普及してくれてマジ嬉しい)。

なので、調査委員会は「一次資料の写し」を求めたわけですね。たとえ彼が清廉潔白研究者であったとしても、一次史料原本なんてふつうは手元にないわけですから

しかし、本来、彼は「一次資料の写し」を提出する必要などありませんでした。自分論文を黙って調査委員会に提出すればよかったのです。なぜでしょうか?

ここで、もう1つの大事な話をします。

文系に「実験ノート」はない

もちろん分野によります心理学みたいに人を対象とした研究だとしっかり実験ノートつけるように言われるかもしれないし、考古学とかは発掘時の状況を克明に記録しておくことが重要だったりするかもしれない。でも、少なくとも近現代史みたいな分野では、実験ノートをつける、という習慣はありません。

私は一度も、理系で求められるような意味での実験ノートを書いたことはないし、書けと言われたこともないし、書いていないことを理由に責められたこともありません。もちろん史料ノートに筆写したりはしていますが、そのノートだって別に厳密なものではない。普通研究においてノートは使いますが、それは高校までのノートと一緒で、鉛筆で書いてもいいし、好き勝手なやり方で書いていいし、なんなら途中で破ったりしてもいいごく普通ノートです。最近ノートじゃなくてパソコンとかを使って研究上のノートを取ってる人も多いんじゃないかな(手書き疲れるもんね……)。

なぜか? と言われれば、

です。

まり、「もとになった資料」というのは、理系のように自分実験室の試験管の中にしかないものではなく、別の誰かが保管してくれているものなのです。

理系学問において標準化された改竄不可能な形で実験ノートをつけなければならないのは、自分実験室の試験管の中にしかオリジナル資料がないからですよね? しか文系場合は、少なくともここまで説明した近現代史場合は、オリジナル資料はどこかの政府管理している公文書館とかどこかの大学図書館かに保管してあるわけで、そこに辿り着くまでの情報さえ明記してあればそれで十分なのです。これはドイツ連邦共和国ベルリン連邦文書館の何々というファイルに保管してある何というタイトル史料だ、とわかれば、チェックのためにはそこに見に行けばよいし、これは19世紀に書かれたほにゃららという新聞に載っていた記事である、と書いてあれば、その新聞が所蔵されている図書館を探して読んでくればいいわけです。

なので、別にどんな方法ノートを取ろうが自由なわけですね。最終的に読者がその元になったデータを見つけられるようにしておけばいいわけから

ゆえに、歴史学論文や著書には膨大な注がつけられます引用した史料のそれぞれについて「どこに保管されている史料なのか」「なんという本の何ページに書いてあることなのか」ということを書かないといけません。

なかには、史料自分の手元にある場合もあります。多くの場合それは「昔の人が出版した商業出版物」なので(たとえば、極端な例ですが『わが闘争』)、他の誰かも持っていることが多いです。もしそういう史料捏造とかしちゃうと「俺もこの本持ってるんだけど、お前が引用してる箇所見つからなかったよ?」という怒られが発生します(なお、捏造ではないですが誤訳指摘は受けたことがあります。コワイ! でも覆面査読なのにこの文献の誤訳を指摘できるってことはあの人しかいないじゃん……ってわかっちゃう! 文系世界基本的に狭い!)。「むっちゃ少数しか発行されなかった自費出版の本」とかが典拠になっている場合もあります。こういう史料典拠にするのも仕方ない場合があるんですよ……典型的には、そこまで有力ではなかった政治家とか在野の知識人とかを研究したい場合、彼らが出してる本は全部自費出版というのがありえます(あと、言語学とかだと、たとえば与那国島方言研究したい場合に一番の参考資料になるのは与那国島のお年寄り自費出版した方言辞典だ、みたいな例がありまして……与那国町が進めてる辞書出版プロジェクトむっちゃ楽しみ)。ごくごく稀に、古本屋歴史上の人物が書いた手紙の山をまるごと購入できた、みたいな奇跡があって、モノホンの一次史料研究個人の所蔵になっている場合があります。これはねえ……もう本当に個々の研究者の良心を信じるほかないよね……若手研究者だと色んな大学を移り歩くこともあるだろうから所属してる大学図書館寄付しろとも言えないしね……原史料出せって言われたときにすぐに見せられるようにしておいてね、定年退職するときは勤務校の図書館に置いていってよ、とお願いするくらいしかできない感じはあるよな……

さて、長々と書いてきましたが、要するに、捏造を疑われた研究者がきちんと注で出典を書いていれば、彼は論文調査委員会の人たちの前に突きつけて「ここに出典書いといたから、見に行って確かめてこい」と言えばそれで済んでいたのです(それが生データにあたるものなので。実際、今回の調査委員会ドイツに問い合わせたりしていますね)。もっと言えば、彼本人から話を聞く前に、調査委員たちはまず典拠との照合作業を行って、彼が誠実に引用したこと、つまり彼が研究不正に手を染めてはいないことを確認してくれていたでしょう――もしも彼が潔白であったならば。

しかし今回の件では、注に不備があったので調査委員たちは注から出典を辿ることができませんでした。そこで被告発者に「写し」を求めた結果、元となる史料そもそも存在しない、捏造されたものであることが判明したわけです。

注をしっかりつけろよ! まことにごもっとも。特に今回のケースは注の多い学術書であり、注の不備は申し開きができません。しかし、しかしです、この背景には、日本出版事情が絡んでいるのです。

「注がない本」問題

今回の被告発者は、学術書のほかに新書も書いていました。多くの新書には、参考文献リストはありますが注はありません。そして日本には、「研究者が書いた真面目な学問に関する本だが、注がない」というのが一定数あります(一応言っておくと、ここではauthor-date方式みたいな「厳密な意味での注じゃないけど、ともかくも出典を示す機能を担っているもの」も含めて注と呼んでいます)。実はこれ、文系あいだでも問題視されていることなのです。

文系学者が書いた学問に関する著書には、明白に書誌情報として区分されているわけではないですが、いくつかの区分があります第一にいわゆる狭義の「学術書」。むっちゃ小難しい語彙で書かれてて、先行研究とか新規性かに一言及して、参考文献を何十ページも載せてたりするやつです。読者は同じ学者、あるいはその卵。これで注を省くのは論外です。第二に「教科書」。これは学生さんとか初学者向けに易しく書き、内容には特に新規性を求められておらず、包括的な参考文献はなくとも読書案内がついていればそれでよし、という感じでしょう。注は別になくたっていい。

そしてこの2つのあいだには、「一般向け」という広大なグレーゾーンが広がっています

あなた読書好きで、少々お硬い本にも興味があるのなら、中公新書とか講談社選書メチエとかそういったレーベルを聞いたことがあるでしょう。岩波書店青弓社社会評論社といった出版社の名前を聞いたことがあるでしょう。実はこの辺、色々な種類の本が入り交じるグレーゾーンなのです。

これらのレーベルで真面目な学術書出版する人もいます講談社選書メチエでも、末尾にビッチリ注がついてたり参考文献リストがあったりするやつあるでしょ? ああいうやつ。一方で、こういうレーベル一般向けの概説書・入門書を書くことに使う人もいます。よく中公新書で、包括的タイトルで薄めの本を見ることがあるでしょ? 今回の『プロテスタンティズム』もそれですね。そして、一般向けの解説を書きながら、さり気なくその中で新しい見方提唱したりする人もいます学術的な新規性のある内容を、一般受けしそうだという理由で限りなく一般向けの本の体裁で書く人もいます最近のやつだと『姦通裁判』マジお勧め)。

さて、こういう本を出す上では、内容は著者の完全な自由にはなりません。編集者は、もちろん学術的に正しい内容を求めているのでしょうが、彼らにとって重要なのは「売れること」です。そのために「一般向けにもうちょっと柔らかい言葉遣いで書いてください」とか色々と内容に介入してくるわけです。文体くらいなら別に構わないかもしれませんが、彼らの中にはこんな要求をしてくる人もいます「注なんてつけたら一般読者に嫌がられます、注は省きましょう」

こうして生まれるのが、「学術的に新規性が高く面白い内容を扱っているのだが、注がない」という一般書の群れです。

もちろんこういった本にも参考文献はあり、「注はないけど、典拠を探しながら読めば典拠がわかるような書き方になっている」本もそれなりにあります(たとえば、はてな太郎の説によれば、と本文中に書いてあれば、注がなくても参考文献リストはてな太郎が書いた『増田研究』という本を探し出せる)。ただ、やっぱりそれは注がある文献の出典表示の厳密さに比べれば一段劣るわけです。

これに関しては、研究者も出版社もそれぞれに問題があります研究者サイドは簡単に「注を省け」なんて要求妥協すべきじゃないし、そもそも「著書を出版する」ことが、博士論文を見るためにはわざわざ学位を授与した大学国会図書館に行くほかなく出版して書店流通させることが最も良い研究成果の流通のさせ方だった時代であればともかく、各大学リポジトリを持っていていくらでもディジタル研究成果を公表できる時代にあって本当に重視されるべきか考え直す必要があるでしょう(でも、欧米出版社でも学術出版は盛んなので、これは日本だけの問題じゃないんですよねぇ。今でもオックスフォードケンブリッジハーバードコーネルといった有名どころのUniversity Press学術書出版しまくってます学術書研究業績として重視されるのは人文系では割と世界標準なので……)。

一方で、出版社は注をもっと重視するべきです。というよりも、日本出版社やジャーナリストノンフィクション作家は注をつけなさすぎます。先日、ボブ・ウッドワードトランプ大統領についてのルポルタージュ出版しましたが、体裁も内容もおおよそ学術的とは呼べない一般書そのものの本なのに、きちんと出典を示す注がついていました。出版社は、学者に注を削れと言うべきではなく、ノンフィクションを書く作家記者たちに注をつけろと言うべきでしょう。

とはいえこれは一朝一夕はいきません。そもそも知の折り詰めである新書」という形態が割と日本独自のもので、そういう一般学術を橋渡しするレーベルが広く一般読者に読まれていることの重要性というもの鑑みると、簡単になくせとか言えません。私も色々お世話になってるし。人口1億人ちょいの書籍市場ではどうしたって限界があり、色々な本を出すのではなく折衷的な本を1冊出すのが経済学的には最も合理的という考え方だってあるでしょう。ただ、やっぱり一般書にも(それこそ講談社ブルーバックス岩波新書レベルにも)注を入れるようにする、というのは必要だと思うのですよね。

さてここまで「注がない本」問題について解説してきました。でも何が一番言いたいかというと、

注はあなたの身を守るためにある

これ。これに尽きます。注はちゃんとつけよう。もしもあなた捏造者でなくとも、研究不正をしていなくとも、実験ノートをつけない我々の業界において潔白を証明してくれるのは注だけなのだから。注だけが資料実在証明してくれるのだから。本の売上よりも、あなたの保身のことを考えよう。あなたが、部屋が汚いとかハードディスクがお亡くなりになったとかパソコンの買い替え時に行方不明になったとかの色々な理由で、史料の「写し」を紛失する日はきっと訪れる。そのときに、これまでのあなた研究の誠実性を証明できるのは、人文系学問においては、注だけなのだ

以上です。駄文に長々と付き合ってくださりありがとうございました。続きはanond:20190511125053で。

2019-02-17

日本語が読めない日本人は「新書」を知らない

日本語がまともに読めない日本人が世の中に大勢存在するというのはショッキング事実などではなく、普通中学の段階で察する常識だ。公立校教師は頭が悪すぎて優秀な生徒に呆れられているし、クラスメイトの大部分もやはり頭が悪くテストの平均点はいつも異常に低い。この事実を知らない人は中高一貫校私立出身なのだろう。

ところで、「新書」と言ったら普通は「岩波新書」「ちくま新書」「講談社現代新書」「中公新書」などを指すが、世間の人たちは割と「ハードカバー新刊」のことだと思っていたりする。

新書はあまり賢くない人たちでも読めるように易しく書かれたものほとんどだ。だが世間のあまり賢くない人たちははあまり賢くない人たちに向けて書かれた新書すらまったく読まない。読まないか存在すら知らないのか、存在を知らないから読まないのか。とにかく彼らは新書という言葉を知らない。専門書など読まないし読めもしない彼らが直接的に知へアクセスするのは難しい。だからこそ新書がある。あまり賢くない人たちでもその気になれば知へアクセスできるようになっている。だが、その新書存在すら知られていない。これではあまり賢くない人たちは人生において知に触れる機会がほぼまったくないということになるのではないだろうか。

おそらく彼らには知に触れるという発想自体がない。彼らにとって世の中はとにかく簡単で、いつも通りの馴染みのやり方ですべてが解決可能で、すべての情報は彼らが既に知っている情報確認しかない。だから新しい考え方というものを知らないし、当然多様な考え方があることも理解できない。「今までこれでうまくいっていたのに!」となる。ネットでもよく見た光景である

読まなくてもいいので新書というもの存在くらいは知っておいてほしいと思う。ふと気が向いた時に扉をあけてみたらいい。扉があることを知らなければ開けようもないが。

ちなみにこの文章新書すごいという話ではない。

2018-11-17

百田尚樹の本に参考文献がないとかそういう話

はじめに書いておくと、『日本国紀』がデタラメの塊なのはかれの書くノンフィクションデタラメだらけなのを見ていれば容易に予想がつくことで、『日本国紀』がデタラメだというそ結論に異議を申し立てるつもりは毛頭ない。あんデタラメ本をわざわざ読み込んで批判されている識者の方々には心から敬意を表する。

だけど、ちょっと待ってほしい。参考文献がないという話だ。いや、参考文献が大事なのはわかる。研究書に参考文献がないのは論外だ。そして『日本国紀』にも参考文献が書かれていないということで、こんなん歴史書としてありえないとかさんざん言われている。『日本国紀』がクソなのはよくわかるのだが、参考文献リストがないからクソとか言われてしまうと非常に困惑する。

なぜなら、現に「参考文献が書かれてないけど、良い一般向けの歴史入門書」というもの存在しているからだ。

ぶっちゃけて言うと岩波新書で出た入門書の類である中公新書講談社現代新書最近「もう選書でやれよ」と言いたくなるくらいに参考文献リストを充実させており最近だと本文中での典拠明示もバッチリやっていたりするが、岩波新書は参考文献を載せていない一般向けの歴史の本というもの継続的現在に至るまで出し続けており、その内容がデタラメというならともかく出版から時間が経っても良質な入門書として評価され得るようなものだったりする。

百田批判したいあまりに「参考文献がないなんてありえない!」と言われると、過去岩波新書出版され私を現在研究分野に導いてくれた良書の数々が肩身の狭い思いをするので、もうちょっとこうなんというか、手心というか……。

参考文献は、当たり前だけどあった方がいいに決まっている。仮に知り合いが「これから一般書を書くんだけど、編集さんから参考文献は削ってって言われちゃった。どう思う?」って言い出したら「いや編集とバトルしてでも参考文献載せろよ」って言うだろう。だがもう出ちゃった本に対しては「良い本だけど、参考文献があればもっと良かった」としか言いようがなく、百田の本を叩きたいあまりに参考文献リストがないなんてありえないとか無価値だとかそんな言い方をされると、気持ちはわかるんですがそれはちょっと賛同できないっすね……とボソボソ呟くことしかできなくなってしまう感があり、あれだ、みんなもっと色んな本読もう……

本論とは違うが、ちょっとだけ言いたいこと。

参考文献は必要だが、「巻末参考文献リスト」はなくてもよい。あった方が便利なのは確かだが、本文中に典拠が明示されていれば、紙幅を気にして削ってしまってもよい。文系場合、参考文献を示すのに色々な表記方法が有り得るが(MLA styleとか)、脚注書誌情報を記すやり方もあり(具体的にはシカゴスタイル見てもらった方が早いかhttps://www.chicagomanualofstyle.org/tools_citationguide/citation-guide-1.html )、この方式場合参考文献リストは「あれば便利」という位置づけに過ぎず「必須」ではない。いやもちろんあった方が便利ですよあった方が。でも脚注だけでも「典拠を示す」という最低限の役割を果たし得る以上、紙幅が足りないねじゃあどこ削るとなったときに真っ先に参考文献リストを削るだろうなと思う。別にこれは日本語圏のみのルールではなく、英文査読誌でも脚注典拠を示させるスタイル場合は参考文献リストをつけない場合が多いんじゃないかな(author-date方式場合は当たり前だけど参考文献リスト絶対必要です)。たとえばこの雑誌https://www.tandfonline.com/action/authorSubmission?show=instructions&journalCode=fnep20脚注スタイルなので参考文献リストつけません。甚だしい場合書籍からも参考文献リストを抜くことがある。いやほんと参考文献リストをつけてほしいのだが、しかし出典表記義務はきちんと果たしているので、問題は単に「チェックしづらい」というだけだ。なのでめんどくせーと思いながらも注を丹念に辿って出典チェックをしたものです。ちなみに日本で出た一般書の話ではなくハーバード大学出版から出た英書の話なので誤解なきように。出典注とfurther readingはついてるけど引用文献リストはついてない、というのも見るな(MazowerのDark Continentとか)。

「巻末に参考文献リストを置いていない」ことと「いっさいの出典表示をしていない」は文系においてはまるっきり別の事柄であり、「参考文献がないのは駄目」という言説が後者意味で言われているならいいのだが前者の意味で言われているのならそれは明白に間違いなので勉強し直してほしい。いやだって文系研究書を乱読していれば絶対に「注で参考文献を表示しているけど、巻末に文献リストはない」本に一定数行き当たるでしょ……?(あー、社会学文化人類学のばっかり読んでたらそういう本には当たらないかも。文学とか歴史学とかだと稀によくあるんだよなー)

あと、新書とかエンタメ路線に振った本とかで注がないのは許せるのだが、ほぼ研究書並の分厚い本を書いておいて注を省くのは本当にやめてほしい自分の専門からは遠いから名指ししておくと最近出たやつだと『アイルランド革命1913-23』とか『ドイツ植民地研究』とかですね。新書とかは学識の折り詰めやエッセンスのようなものなので厳密な出典注を省いても別にいいというか対象読者が違うし……感もあるのだが、この厚みでこの内容で出典注ないのは勿体ないし価値を下げてしまっている。いやもちろん両方ともきちんと緻密な参考文献リストをつけてくれているのである程度は出典の見当がついたりするのだが、このボリューム、この内容で注なしは流石に……これなら、注をつけて文献リストを省いた方が100倍マシだと思う。だってどこを参照してるかわかんないじゃん……いちおう言っておくと英語圏でもこういう「なんで! この厚みで! この内容で! ちゃんと注をつけないの!」という本は存在するので日本文系ガラパゴスだとかそういう話を始めないようにね。でも注を省いてこのお値段なら注をつけたらいったいおいくら万円になっちゃうの……? というのも一方で思ったりするので難しいところなんだよな。ただでさえ日本語でも英語でも学術書は高いのにねえ……

2018-08-20

anond:20180819021032

ちくま文庫目録を手に入れてから講談社現代新書目録を手に入れる。ついでに講談社学術文庫目録も手に入れる。さら岩波新書目録も手に入れてみる。岩波文庫目録もあるといいかもしれない。これら目録kindlepdfで公開されている。

2018-08-15

親の本棚で思い出したこと

親の本棚子供読書に影響うんぬんという話が盛り上がっている。

それとはあまり関係ないが、人間の本の趣味というのは大きく変わってくるんだなぁという話。そして再度交われるんだなぁというお話

自分父親歴史ものとかノンフィクションであれば政治、国際情勢の本を昔から読んでいた。

高校生くらいの頃はたまに自分も読んでいた。

大学に入ると、自分理工系に進んだこともあり、あまり本の趣味が合わなくなってきた。

たまに実家に帰ったとき父親が「この本面白かったぞ」と紹介してくれるのだが、政治家のルポだったり、アメリカ情勢だったりで読み始めても数分で本を閉じてしまう。

自分は専門分野だけでなく、どちらかというとサイエンス寄りの本を読むことが増えていた。

もちろん一般書で、例を挙げればHONZサイエンスで紹介されるような本。

昔は父親が勧めてくれた本を面白く感じてたが、いろいろ知ると父とは好みがずれてくるんだなぁ、感慨深いなぁなどと思ってた。

それから10年以上経ち、自分博士課程まで進んでしまい、その後しばらく働いていると父が倒れた。

入院中で元気をなくしている父にお見舞いする際に、読書が好きだから、なんか本を持って行ってあげようと思った。

父の好きそうな本を持って行ってあげたいが、もう好みはわからない。

仕方ないか自分の手持ちの本の中から、がんばって父にも読みやすそうな本を3冊くらい見繕ってもっていった。

自分が帰った後、母の話によると父は食い入るように本を読んでいたそうだ。

無事手術が終わり、父と話したら、そのときに持って行った菌世界紀行という本が大層お気に入りだったようで、

岩波科学ライブラリーって面白い本いっぱいあるんだなぁ、岩波新書くらいしか読んでなかったよ。退院した後にいっぱい買ったよと笑っていた。

60過ぎた父親に、新しい面白さを見つけてもらってすごく嬉しかった。

次は、大学生のときに勧められた本を自分が読むべきだな。

2018-08-14

anond:20180814000208

知的生き方を支える技術みたいな本ないっすか

以前に同じようなこと考えて色々探してリストアップしたものの、買ってすらいない本の一覧。

迷ったら古典とか長いこと売られてるのを選べと偉い人が言っていたような気がする。

すべて読んで感想をここにアップしろやコラ

2018-08-08

anond:20180804152511

歴史人口学で見た日本』はともかく、『ユーゴ紛争』って、体系的な読書入り口になるか……?

いや、ユーゴ紛争とか国際政治かについて関心を持つ糸口にはなると思うけど、良くも悪くもルポルタージュなので、体系的な読書入り口になるかっつーと微妙では。

ルポルタージュルポルタージュとして興味深いものだけど、往々にして「入り口」というか「とっかかり」であることが多い。本当に相手に体系的にものごとを知ってほしいなら、導入は別の本がいいんじゃないの。

もし国際政治とかそういった話に興味を持ってほしいなら、ナイ&ウェルチ国際紛争』(http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641149175)とか、あるいは有斐閣政治学入門のやつ(http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641150256)とか。

東大出版会最近政治学の入門シリーズ出してるな>http://www.utp.or.jp/book/b297525.html政治学の入門としてはお手頃かなと。

民族問題とかそういうテーマにいざないたいなら、『民族ネイション』(https://www.iwanami.co.jp/book/b225944.html)とか、『民族紛争』(https://www.iwanami.co.jp/book/b226218.html)とか。『ナショナリズム論・入門』(http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641123359)はちょっと初心者にはとっつきにくいかな。

ユーゴ紛争に興味を持ってほしいなら、『ユーゴスラヴィア現代史』(https://www.iwanami.co.jp/book/b268264.html)とか、最近出たやつだとマゾワーの『バルカン』(http://www.chuko.co.jp/shinsho/2017/06/102440.html)なんかがいいんじゃないの。

国際紛争』はレベル的にも大学新入生がちょっと背伸びして読んでみるくらいだから青二才さんにちょうどいいと思うんだよね。色々おもしろエピソードが紹介されてたりするし。やっぱり英米教科書はおもろいわ。

あるいはどんな入門書が適切かわからん問題もあるのかもなー。青二才さんが何かの入門書を探したい、となったときには、だいたい、

この辺をチェックして入門書探して、そこから参考文献を芋蔓式にたどっていくのがいいと思うんだよね。

ただまあ最終的には青二才さんに興味がないとどうにもならんところはあるので。You can lead a horse to water, but you cannot make him drinkですよやっぱ。

2018-05-06

anond:20180506165715

岩波文系観点からも非常に重要で、いわゆる「基本的古典」はかなり岩波文庫にはいってるんだよな。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神とか、ケインズ一般理論とかの経済系もだし

哲学存在と時間とかまあほぼすべてって感がある。

あとドイツ語ではないけど「国際政治」もあるし。

岩波新書の方もかなり重要ものが多いし。大学書店なんだから基本的古典小説もあってしかるべきだとおもうし。

理学部ローカル問題ですらとてもない。

2017-12-06

日本竹島慰安婦で、外交で負けるのは語学力がなく情報もないか

日本広報はきわめて不十分だし、情報も発信できない。

 

たとえば、アメリカアマゾンで「takeshima」で検索しても英語日本立場を主張した本は見つかりません。

https://www.amazon.com/s/ref=nb_sb_noss_2?url=search-alias%3Dstripbooks&field-keywords=takeshima

一方、「dokdo」で検索すると多数の英語の本が見つかります

https://www.amazon.com/s/ref=nb_sb_noss_2?url=search-alias%3Dstripbooks&field-keywords=dokdo&rh=n%3A283155%2Ck%3Adokdo

アメリカエド・ロイス米国下院外交委員長慰安婦問題だけでなく、「独島韓国領土」と発言しましたが

韓国系ロビーももちろんあるでしょうがそもそも日本立場を詳細に説明するような書籍がないのです。

これは、慰安婦問題でも同様です。

https://www.amazon.com/gp/search/ref=a9_asi_1?rh=i%3Astripbooks%2Cn%3A283155%2Ck%3Acomfort+women&keywords=comfort+women&ie=UTF8&qid=1512556009

また他の歴史問題もそうです。(中国韓国の主張が載った本が山ほど見つかる)

尖閣諸島竹島ほどではありませんが、中国の主張のもの翻訳されて売られています

https://www.amazon.com/s/ref=sr_pg_1?fst=p90x%3A1&rh=n%3A283155%2Ck%3ADiaoyu&keywords=Diaoyu&ie=UTF8&qid=1512556117

日本と違い、米国人種差別に厳しいためいわゆるヘイト本絶対に売ってはいけませんが。

竹島 ―もうひとつ日韓関係史 (中公新書)」「竹島日韓どちらのものか」「竹島問題とは何か」

また、慰安婦であれば

朝鮮出身の帳場人が見た 慰安婦真実文化人類学者が読み解く『慰安所日記』」「従軍慰安婦 (岩波新書) 」など良書があります

韓国問題であれば

韓国の米軍慰安婦はなぜ生まれたのか―「中立派文化人類学者による告発と弁明」

韓国の大量虐殺事件を告発するベトナム戦争「参戦韓国軍」の真実

翻訳すればよいでしょう。

このようなもの翻訳出版できるようにするなど、何らかの働きかけをしてほしいです。 出版社の人にはね。

2017-07-15

漢字が読めない

ちょっとお固い新書を読んでいたわけだが、読めない漢字が沢山出てくるものなので、メモしておく。

贖宥、掣肘、桎梏、醵金、開鑿、奢侈、無謬、銑鉄

まぁ、なんとくカンで読めば当たるものもあるが、難しすぎるよ。

意味も調べないとまるでわからないし・・・

尚、上記の漢字群及び、岩波新書である、という情報書籍名を当てたらネ申

170716 追記 ----

ドイツ10講”でした!ブコメいただいた方、するどい・・・

2017-05-29

http://anond.hatelabo.jp/20170529181430

元増田です。ややこしい話なので追記ではなくこちらで応答します。

カテゴリ分けの項で例文を「引用」してるけど、その例文がどこから引用されてるか明記されてないのは大丈夫なの?

これ、正直、悩ましいところなんですよ。というのは、これを厳密に適用すると、一般書が死ぬからです。

講談社選書メチエとか筑摩選書とかああい選書系は詳細な注をつけることもありますが、新書とかだと紙幅の関係上細かな典拠がつけられない場合があります。たとえば話題になっている中公新書の『応仁の乱』ですが、色んな史料引用してきているし史料名前も示しているのに、具体的にどの巻のどのページに書かれてるかまで書いてあるわけじゃないですよね。岩波新書の『多神教一神教』だと、史料から引用そもそも典拠が書かれていません(参考文献リストに使った史料一覧が並んでるだけ)。でもそれをいちいち書いてたら新書サイズにならないわけです。

一人の研究者が、新書のような一般書と分厚い研究書の両方を書くことはよくあります。そして、後者において引用部分に典拠を記さないのは論外ですが、前者だと紙幅の都合上きちんと典拠を書けないことが起こり得るわけで、それは現状どうなのかと言われたら「良いことではないが、研究倫理に反する大問題というわけではない」と見做されているんじゃないかと思います。少なくとも、「ここは引用ですよ」というのがきちんとわかる(=自分文章であるかのように装っていない)のなら、許されているんじゃないかな。引用元の文献リストがあって、地の文とちゃんと区別されている以上、この中のどれかから引用した、とわかるようになっているわけですし。

そしてもう1つネックになるのが、これが予稿だということです。「レジュメみたいなものから、厳密な典拠表示はサボったけど、フルペーパーとして投稿するときにはきちんと典拠表示をつけるつもりでした」と言われたら、「そうか、まあでも本来レジュメでも典拠をつけることが望ましいんだ。次からは気をつけてね?」と言うのが精一杯ではないでしょうか。これが剽窃みたいなケースなら研究室こんこんとお説教して取り下げろと指導する必要がありますが、引用元の文献をきちんとリストアップしていて(著者名・URLタイトルがきちんと書かれているのでまあ問題ないでしょう。逆にそういうきちんとしたリストからこそ今回燃えてるというのが皮肉ですが)、どこからどこまでが引用か明示的に示されているのなら、そこまで大問題でもないような(この程度の不備でこっぴどく学生を叱りつけるとしたらそっちの方がハラスメントです)。

もちろん、それでも厳密に言えば著作権法違反にあたるわけだから違法だ、告発すべきだ、という主張も可能です。何? 新書業界死ぬ? 知ったことか、そんなムラの慣習が法に優先するわけないだろう、法は法だ、たとえ学生が書いて5,000人規模の学会の内部で報告する予定の正式論文ではない予稿とはいえ、違法なんだから許されない――はい、これ、どうなるかおわかりですね。この論点で攻めるというなら私は止めません。が、その場合、例の朝日記者さんが示唆したことをやられても文句は言えないんじゃないですかね……(刀剣乱舞二次創作が許諾されてるといっても、じゃあハリー・○ッターや銀河英○伝説やデ○ズニーの二次創作はどうなの? ちょっとこれから著作権元に確認取って大丈夫? って話になっちゃうので……)

あと、twitterとかで、私が書いた増田から文章を長々と抜き出してそのあとに一言二言感想をつける方がそれなりにいらっしゃいます。賛成の立場中立立場でいらっしゃる方なら、きちんと読んでくれてありがとう、と思うのですが、「pixiv論文けしからん!」とか主張してる人がそれやってるの見ると笑っちゃいます。お前のそれ、適正な引用の条件である文章主従関係満たせてないから! 無断転載から! っていう。なんで自分たちネットでやることは許されてると思ってるんでしょうね。

作業分析してるから機械分析じゃないよね?要件に当てはまるの?

これは私もうっかりしていました。機械分析にかけるのは適法引用じゃない! と主張する人がいたのでこういう項目を立てたのですが、冷静に考えたら手作業分析してたな、とあとになって気づきました。ただ、機械分析から引用じゃない、と主張する人がいる以上、47条の7は提示しておく必要があるだろうと思います

さて、47条の7は、次のような条文です。強調は引用者によります

第四十七条の七  著作物は、電子計算機による情報解析(多数の著作物その他の大量の情報から、当該情報構成する言語、音、影像その他の要素に係る情報抽出し、比較、分類その他の統計的な解析を行うことをいう。以下この条において同じ。)を行うことを目的とする場合には、必要と認められる限度において、記録媒体への記録又は翻案(これにより創作した二次的著作物の記録を含む。)を行うことができる。ただし、情報解析を行う者の用に供するために作成されたデータベース著作物については、この限りでない。

今回の予稿は、電子計算機による解析の前段階として、手作業による分類を行っています。ということは、「目的とする場合」に該当するのでは? と思いますが、いかがでしょうか。最終的にはコンピュータ分析する予定だけど、その準備を手でやるよ、ってことですよね(もしこれが法律解釈として問題があるのでしたら教えてください)。

ところで、この条文は、「著作物をまるまるコピーしてきて、それをコンピュータに読み込ませ、解析する場合」を想定したものです(違ったらごめんなさい)。しかし今回のように、もともとネット上に転がっていた文章分析の素材にして、しかもそれが手作業である以上、

pixivを見ながら手で数えました。コピー? 引用必要な部分しかやってませんよ」

と言われたらそもそも著作権法上の問題はなんら発生しませんし(わたしたちがインターネットを見てるのと同じですからね)、大学の共用のパソコンとかなら別になるのかもしれませんが、自室でプライベートパソコンを使ってコピーして、そのパソコンの中だけで分析を完結させていれば、30条で認められている「私的複製」にあたるので、やっぱり著作権法上の問題存在しないのでは?(この辺、事実誤認等があったら教えていただきたいです)

2016-11-18

http://anond.hatelabo.jp/20161118104805

マネーショート見た後に新保恵志『金融商品とどうつき合うか―仕組みとリスク』(岩波新書2008)を読むとおもしろい。冒頭20ページぐらいで、リーマンショックの原因を法律から解説してる。マネーショートでやってたことのバカバカしさがより具体的に分かる。

それと同じく拝金主義批判テーマにした映画で『ウルフ・オブ・ウォールストリート』もおもしろい。たぶんこの映画を参考にマネーショートも作ってるだろう(マーゴット・ロビーも出てる)。

2016-09-04

ミーハーが選ぶ!光文社古典新訳文庫面白い本ベストテン

http://anond.hatelabo.jp/20160904033715

選定基準

・読みやす

・有名で、他の本や映画に出てきがち

・他文庫の訳よりおすすめ

カラマーゾフの兄弟 ドストエフスキー(訳:亀山郁夫

ド名作。読んでおくと伊坂幸太郎の『陽気なギャングが地球を回す』がもっと楽しい

幼年期の終わり クラーク(訳:池田真紀子

早く来てくれオーバーロード

永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編カント(訳:中山元

NHKの「100分de名著」で取り上げられて改めて脚光。

④猫とともに去りぬ ロダーリ(訳:関口英子)

「本邦初訳」作品古典新訳文庫ならでは。イタリアっぽいユーモア

マダム・エドワルダ/目玉の話 バタイユ(訳:中条省平

エログロ

故郷/阿Q正伝 魯迅(訳:藤井省三

藤野先生』も『狂人日記』も入っていてお得。訳者村上春樹中国関係についての研究面白い

⑦赤と黒 スタンダール(訳:野崎歓

誤訳が多いらしいが、すごく読みやすかった。他の訳では通読できなかったと思う。

ソクラテスの弁明 プラトン(訳:納富信留

訳者は元国際プラトン学会会長(2007~2010年)で、解説の量がすごい。

⑨ジーキル博士ハイド氏 スティーヴンスン(訳:村上博基

読んでおくと、あの映画とかあのミステリーとかのネタ元なので捗るはず。

⑩闇の奥 コンラッド(訳:黒原敏行)

地獄の黙示録』の原作個人的には「叡山の僧兵大将中野好夫の訳より好き。

―――

別の文庫で読んだ方が良いと思うもの独断偏見

①グレート・ギャッツビー(村上春樹翻訳ライブラリーフィッツジェラルド

村上春樹の訳が好き。

車輪の下新潮文庫ヘッセ

高橋健二大政翼賛会文化部長)の訳の方が安い。

③月と六ペンス岩波文庫モーム

英文の読み方(岩波新書)』など、英語の読み方の著作定評のある行方昭夫の訳で。

サロメ岩波文庫ワイルド

保守派論客である福田恆存の訳で。

⑤新訳ハムレット角川文庫シェイクスピア

野村萬斎が自ら演ずるために、河合祥一郎に新訳を依頼しただけあってとても読みやすい。

夜間飛行新潮文庫サン=テグジュペリ

『月下の一群』の堀口大學の訳で。

クリスマス・キャロル新潮文庫ディケンズ

花子とアン』の村岡花子の訳で。

飛ぶ教室新潮文庫ケストナー

池内恵の父、池内了の兄である池内紀の訳で。

カフカ-ポケットマスターピース-01-集英社文庫ヘリテージシリーズ

小説家多和田葉子の訳で。『変身』は先に別の訳を読んでおいた方が新鮮かも。

マーク・トウェイン-ポケットマスターピース-06-集英社文庫ヘリテージシリーズ

はてな民ならハックルベリーは読んでおきたい。柴田元幸の訳で。

―――

サロメ』はまずは舞台で見るとキャッチーで良いと思います

自分はこっちの訳の方が好き・読みやすい・正しいなどあれば是非ご教示ください。

2016-05-15

http://anond.hatelabo.jp/20160515071858

最近新書で『トラウマ』(トラウマ (岩波新書) 新書 – 2013/1/23 宮地 尚子 (著))という本を読んだ。

次のようは話が出てくる。

今、国際条約で身体的な罰を与えることは禁じられている。

そこで、傷跡が残らないタイプ拷問があるらしい。

騒音とまぶしい光で、一日を過ごさせて睡眠不足にさせるとか。

または、捕虜へ目隠しをしておいて『ここは、地上10階です。あなたは、突き落とされます』とか、”恐怖心を受けつける”タイプもやり方もあるとか。

身体に傷跡という証拠を残さなタイプのやり方が写真付きで書いてあった。

   

  

過労死に追い込むブラック企業のやり口も似たようなことをやっている気がする。

恥をかかせたり、クビをちらつかせたり。

ほんと、悪知恵の働く人っているよな。

2016-03-13

ベーカム付き徴兵制とかなら、いいんじゃね?

明治大正の頃は、農村が貧しかたから、

軍隊に入って、ちゃんと三食食べて、まともな衣類が与えられて、

屋根の下で眠ってというので、そんに苦にしない人が多かったらしい。

軍隊生活は、当時の多くの農家暮らしより、ずっと楽だったとのこと。

退役後も、伍長くらいになってからだと、地元のいろんな役職につけたそうだ。

それを今に直すと、退役後に物価スライド制のベーシックインカム

与えるというのが、兵員確保と、社会保障という点で、いいんじゃないかな?

 参考文献 日本軍隊兵士たちの近代史 吉田裕著  岩波新書

2015-12-05

誰でもメディアが残したもの

 人権擁護法案

 この法案を覚えている人、いらっしゃるだろうか? 10年程前、日本人権委員設立し、ヘイトスピーチを取り締まろうとした法案だ。

 この法案が出た当時、表現の自由観点からさまざまな批判が行われた。選抜基準不透明であり、実質的言論弾圧になりうる。そうした批判が主だったように思える。

 当然……と、言うか、なんというか、2ちゃんねるでも、当時山ほどあった個人サイトでも人権擁護法案に反対する運動が起こった。

 人権擁護法案反対の同盟(あぁ、「同盟」って単語も懐かしい)も作られた。

 そして、その反対運動は、最近言葉で言えば「カジュアル差別」とともに行われた。

 「実質的言論弾圧になりうる」という、その一点をきりとれば、至極尤もな主張は「在日利権を持っているマイノリティけが得をして、普通の日本人は損をすることになる。それどころか、実質的に、やつらに日本言論支配されることになる」という、明らかに間違った被害者意識、と言うか差別的な主張とセットで行われた。

 当時、世界各地で、人権委員設立が行われていた。具体的な事例は、当時は法務省HP掲載されていた。現在ならば、師岡康子「ヘイト・スピーチとは何か」(岩波新書)やエリックブライシュ「ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか」(明石書店)などで、当時の流れをつかむことができる。

 だが、そうした観点から、実際の外国人での人権委員活動議論を調べ、紹介するような者はいなかった。

 結局、振り返ってみれば、当時の人権擁護法案反対運動とは、「『他人自由尊厳侵害しない限りは』何を言ってもかまわない」と言う本来表現の自由ではなく「カジュアル差別をしたい」と言う欲望を守るための言論だったのだろう。

 

 別段、驚くべきことでは無い。

 当時のネットでは、すでにカジュアル差別があふれていた。

 YAHOOホロコーストについて検索すると、悪名高き世界史コンテンツが真っ先に出てきた。

 中国人王朝の変わり目に数千万、あるいは億単位人口が増減し、現在漢民族漢民族でもなんでもない得体の知れない雑種と言う、どこから突っ込めば良いのかわからない発言をすることが、「中国史通」の条件だった。

 当然、教科書に書かれている、日中戦争ならびに太平洋戦争当時の日本軍問題行為はすべて中国朝鮮でっちあげと主張する連中が、面白い人、そして、「一方の情報鵜呑みにしない人」の条件だった。

 保障された権利行使する連中を冷笑し、「プロ市民」とあざけり、スイス民間防衛引用しながら中国スパイ呼ばわりすることが、「良識的で政治に関心がある人」の条件だった。人権保障などあきらめ、あるいは現状で満足し、お国迷惑にならないことを第一に考え、軍事増強を唱える。それこそが、「知的」な人間と呼ばれるための条件だった。

 現在、そうした妄言を垂れ流していた個人HPほとんどは消滅している。

 だが、うっかり信じてしまった連中は残った。おそらく、掲示板書き込みをしていたヘビーユーザー氷山の一角で、その何倍ものROM専人間が、上記、カジュアル差別で塗れたデマを信じ、「新しい知見」と考えたであろう事は想像に難くない。

 やっかいな事に、そうした連中のほとんどは、当時自分が疑問に思った事について、情報更新を行っていない。ヘイトスピーチ、そして、その規制法案について語るとき、上であげた該当問題入門書を読むこともせずに、人権擁護法案反対のコピペを唱え続けている連中のなんと多いことか。

 挙句、何の根拠も無く「日本外国と違う。日本においてヘイトスピーチと呼ばれているものは、虐げられた日本人正義の怒りであり、理由の無い差別ではない」などと恥ずかしげも無く言ってみせる。言っていることとやっている事はネオナチほとんど変わらないのだが、彼らに言わせれば違うらしい。

 ホロコースト否定論は相変わらず上位に出てくるし、トンデモ中国史倉山満によって、よりおぞましい物に進化を果たした。

 そして現在twittertogetterには、それらトンデモを真に受けた馬鹿共が今日も元気に、それも大量に発言投稿し続けている。

 だが、忘れてはならない。

 彼らを作り上げたのは、10年前のわれわれだ。中公文庫講談社学術文庫中国の歴史を読むこともせず、

 あるいは、出版されている本を読み、自分攻撃する相手が具体的にどんな主張をしているのか調べることもせず、

 そのくせ、井沢元彦逆説の日本史」や小林よしのり戦争論」を読み、新たな知見に目覚めたとか大それた事を考え、検証の手間を惜しんで、自分HPで全世界に発信してきた私たちだ。

 入門書一冊読まないくせに、そのくせ上記の本を読んだだけで満足し、自分は知識欲旺盛な人間だとのぼせ上がり、そのうぬぼれをwebで全世界に公開した、厚顔無恥私たちだ。

 私たち馬鹿を信じた結果、今の、肥溜めのようなweb界隈がある。それを作ったのは、間違いなく、私たちだ。

 かつて、ネットは誰でもメディアと呼ばれた。その文句のとおり、私たちは多くの情報を発信した。

 だが、振り返ってみて、10年前の私たちは、後世に胸を張れるような情報を発信してきただろうか。

 そして、「古きよき時代」と、あの時代のことを胸を張って言えるだろうか。

 某SNS掲示板やまとめを見ながら、そう言う事を考えずにはいられない。

2015-12-03

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