はてなキーワード: 書誌情報とは
しかし本当か?
古賀 正義(中央大学文学部教授)さんは、学校の子どもの居場所を作れと提案
『「若者/支援」を読み解くブックガイド』(かもがわ出版)をご恵送いただきました。弊社の刊行書からは、『ストリートの歌』(鈴木裕之)と『ひきこもりと家族の社会学』(古賀正義・石川良子編)が紹介されています。この二冊からだけでも、幅広く選書されていることがわかります。
@Chuo_PR
@yasuhikomurakam
困難校の生活指導の先生のエスノグラフィーって面白そうだけどあるのだろうか。清濁併せ呑む日本独特の文化だったと思うので面白いのではないだろうか。
子どもたちの側のは『ハマータウンの野郎ども』や『〈ヤンチャな子ら〉のエスノグラフィー』があるが。
と書いて「夜回り先生か…」と思い至る
𓅢ザイタクチュウデス()
@18991129
返信先: @yasuhikomurakamさん
教育社会学だと古賀正義編の以下の本が挙げられるかと思います。
https://amazon.co.jp/dp/4760892621/ref=cm_sw_r_cp_awdb_c_NR-MDb6HH72JJ
@gomaf502
「『家庭』入れる入れない、もし選べたら?」
@UN_Press
【教育実践を本格的に調査・分析】広田照幸・古賀正義・伊藤茂樹編『現代日本の少年院教育――質的調査を通して』
少年院ではどのような教育が行われているのか? 本格的なフィールド調査を通して、教育学の視点から多面的に分析、イメージを一新する研究。
@mirai_teiban
1990年代後半から2010年の間に生まれた世代のこと。生まれた時にはデジタルツールが当たり前に普及していたことから、「デジタル・ネイティブ世代」とも呼ばれます。そんな世代の人々の価値観とは?
ここに投稿したところで状況は何も変わらないのは百も承知でしたが、以下表題の件について書きます。
早大では図書館のシステムWINE(1)が9月に新しくなったが、これが非常に使いづらい。何がつらいのかというと、
ここで出てくる「読み込み」とは蔵書検索結果の読み込み時間である他に、貸出返却の際のシステムの処理時間も含んでいる者もいた。
実際にどういう声が出ているのかというのは「WINE OR KOSMOS 図書館 OR 早稲田 OR 慶應」等の言葉でTwitter検索をかけてもらいたい。賛成の声も見られるが、不満の声が多く投稿されている。
ことの発端は2017年5月に、早稲田大学図書館と慶應義塾大学メディアセンターが図書館システムの共同運用に向けた覚書締結を行ったことからだった。そして翌年にはEx Libris社のシステムを採用することが決まった。前者に関してはこちら、後者に関してはこちらを参照されたい。
また、サービス開始にあたって早稲田大学図書館報『ふみくら』96号に早慶図書館業務共同化プロジェクト担当調査役の方が新図書館システム「WINE」によるサービス開始」を記しているので、こちらも参照されたい。
実際に使いづらさを体験してもらったほうがわかりやすいので、旧WINEと新WINEで検索してみてほしい。例えば、『文藝春秋』第88巻第1号(2010年1月)を戸山図書館で探していたとする。
「タイトル」
→少々見づらいが、図書館所蔵の欄から当該の号は戸山図書館にはなく「中央 3F雑誌(バックナンバー書庫)」へ行き、請求記号「サヘ 0116」の場所へ行けば良いことがわかる。
これに対して新WINEは、
→戸山図書館の戸山-B1を選択 ※「配架場所の確認」ではない
→Holdingsが2017-2019となっているため、一覧に戻る
→別の図書館を選ぶ(政治経済が戸山からは一番近いが、蔵書で言えば中央のほうが多い、など経験が物を言う)
→Holdingsに69-96(69巻から96巻が欠号なしで所蔵されている)とあるためここの請求記号「サヘ 0116」をメモする。
ここまでクリック/タップ数は6回。もちろん初めから中央図書館のものを探していれば3回でたどり着く。
以上のような行動を早大生はとることになる。
クリック/タップ数は基本的には変化はないが、この検索画面の読み込みの遅さが利用者に負担をかけていると感じる。一冊だけならまだしも、何冊も検索するとなると、相当なストレスを感じるだろう。この例においては、検索結果のトップに出てくるものであったが、例えば夏目漱石『吾輩は猫である』など何回も出版されているものであると、目的のものが出てくるまで「結果をさらに読み込む」を選択する必要がある。
今回の図書館システムの変更は早慶での書誌情報合同運用によるコスト削減という部分に主眼が置かれ、教員と学生の利便性というものが二の次になってしまっているように感じた。読み込みだけでも速くならないだろうか。
(1): なおWINEはWaseda university Information NEtworkの略であるが、ほとんど知るものはいない。
ということでキリスト教思想史研究やってた人が研究不正で懲戒解雇された件について、報告書に目を通した上でちょっと書きます。
この「写し」というのはどういうことでしょうか? 資料そのものを調査委員会が求めなかったのはどういうわけでしょうか?
歴史学者にとっては常識なのですが、他の分野の人にとってはどうかわからないので、解説してみます。
これは人というか研究分野によるので、安易なことは言えません。文学と哲学と社会学と人類学と歴史学と言語学とでは使う資料がぜんぜん違います。
で、この被告発者の研究手法は、近現代を扱う歴史家の多くが採用している手法だと思います。近現代史を扱う人たちは、
を主に史料として使います(「史料」ってのは、歴史を記録したナマの資料のこと。「資料」と呼ぶと後世に書かれた二次文献なんかも含む)。あるいは、上に書いたようなものをまとめて出版した本とかを使います。
これらの史料の特色とは何か……それは、
ことです。
公文書館というのは、「お役所の書いた書類を保管しておく施設」のことです。これはどのくらいかというと半永久的にです。普通の文明国ならどんなに細かな書類でも公文書館に保管されていて、(民主国家の場合は)数十年して機密解除されたり(独裁国家の場合は)体制が崩壊して民主化したりすることによって「申し込めば誰でも読める」状態に置かれます。これによって我々はソ連時代の領収書なんかをロシアの公文書館で読むことができるわけです。ソ連ですら公文書を保管して後世の我々に見せてくれているというのに……いや、これは余談でした。
当たり前ですが、それらはその国(あるいは地方)の公的な記録であって、自分のものにして持ち帰ったりすることはできません。ではどうするか。多くの歴史学者は
などの手段で史料を入手して研究しています(ちなみに写真撮影もカネを取る公文書館は結構ありますね。日本だとどうなんでしょ)。
昔の人が書いたものも、本とかなら古本屋さんとかで流通しているのを買うことができるかもしれませんが、稀覯書でなかなか手に入らなかったり、古雑誌のバックナンバーとか揃えるの無理ゲーだったりするので、図書館に所蔵されているのを使うことが多いです。近場の図書館に置いてない? 相互貸借もさせてくれない? そういう場合は当たり前ですが所蔵している図書館がある街まで行きます。その図書館がある街というのが新幹線が必要な距離だったりパスポートと航空券がないと行けない距離だったりすることも稀によくある(歴史学者の研究費は旅費と本代に消えていく運命なのです……)。そして、辿り着いた図書館でカメラをパシャパシャやったりコピーを黙々と取ったりするわけです(最近はスキャナーが普及してくれてマジ嬉しい)。
なので、調査委員会は「一次資料の写し」を求めたわけですね。たとえ彼が清廉潔白な研究者であったとしても、一次史料の原本なんてふつうは手元にないわけですから。
しかし、本来、彼は「一次資料の写し」を提出する必要などありませんでした。自分の論文を黙って調査委員会に提出すればよかったのです。なぜでしょうか?
もちろん分野によります。心理学みたいに人を対象とした研究だとしっかり実験ノートつけるように言われるかもしれないし、考古学とかは発掘時の状況を克明に記録しておくことが重要だったりするかもしれない。でも、少なくとも近現代史みたいな分野では、実験ノートをつける、という習慣はありません。
私は一度も、理系で求められるような意味での実験ノートを書いたことはないし、書けと言われたこともないし、書いていないことを理由に責められたこともありません。もちろん史料をノートに筆写したりはしていますが、そのノートだって別に厳密なものではない。普通の研究においてノートは使いますが、それは高校までのノートと一緒で、鉛筆で書いてもいいし、好き勝手なやり方で書いていいし、なんなら途中で破ったりしてもいいごく普通のノートです。最近はノートじゃなくてパソコンとかを使って研究上のノートを取ってる人も多いんじゃないかな(手書き疲れるもんね……)。
なぜか? と言われれば、
です。
つまり、「もとになった資料」というのは、理系のように自分の実験室の試験管の中にしかないものではなく、別の誰かが保管してくれているものなのです。
理系の学問において標準化された改竄不可能な形で実験ノートをつけなければならないのは、自分の実験室の試験管の中にしかオリジナル資料がないからですよね? しかし文系の場合は、少なくともここまで説明した近現代史の場合は、オリジナル資料はどこかの政府が管理している公文書館とかどこかの大学の図書館とかに保管してあるわけで、そこに辿り着くまでの情報さえ明記してあればそれで十分なのです。これはドイツ連邦共和国のベルリン連邦文書館の何々というファイルに保管してある何というタイトルの史料だ、とわかれば、チェックのためにはそこに見に行けばよいし、これは19世紀に書かれたほにゃららという新聞に載っていた記事である、と書いてあれば、その新聞が所蔵されている図書館を探して読んでくればいいわけです。
なので、別にどんな方法でノートを取ろうが自由なわけですね。最終的に読者がその元になったデータを見つけられるようにしておけばいいわけだから。
ゆえに、歴史学の論文や著書には膨大な注がつけられます。引用した史料のそれぞれについて「どこに保管されている史料なのか」「なんという本の何ページに書いてあることなのか」ということを書かないといけません。
なかには、史料が自分の手元にある場合もあります。多くの場合それは「昔の人が出版した商業出版物」なので(たとえば、極端な例ですが『わが闘争』)、他の誰かも持っていることが多いです。もしそういう史料で捏造とかしちゃうと「俺もこの本持ってるんだけど、お前が引用してる箇所見つからなかったよ?」という怒られが発生します(なお、捏造ではないですが誤訳指摘は受けたことがあります。コワイ! でも覆面査読なのにこの文献の誤訳を指摘できるってことはあの人しかいないじゃん……ってわかっちゃう! 文系の世界、基本的に狭い!)。「むっちゃ少数しか発行されなかった自費出版の本」とかが典拠になっている場合もあります。こういう史料を典拠にするのも仕方ない場合があるんですよ……典型的には、そこまで有力ではなかった政治家とか在野の知識人とかを研究したい場合、彼らが出してる本は全部自費出版というのがありえます(あと、言語学とかだと、たとえば与那国島の方言を研究したい場合に一番の参考資料になるのは与那国島のお年寄りが自費出版した方言辞典だ、みたいな例がありまして……与那国町が進めてる辞書出版プロジェクトむっちゃ楽しみ)。ごくごく稀に、古本屋で歴史上の人物が書いた手紙の山をまるごと購入できた、みたいな奇跡があって、モノホンの一次史料が研究者個人の所蔵になっている場合があります。これはねえ……もう本当に個々の研究者の良心を信じるほかないよね……若手研究者だと色んな大学を移り歩くこともあるだろうから今所属してる大学の図書館に寄付しろとも言えないしね……原史料出せって言われたときにすぐに見せられるようにしておいてね、定年退職するときは勤務校の図書館に置いていってよ、とお願いするくらいしかできない感じはあるよな……
さて、長々と書いてきましたが、要するに、捏造を疑われた研究者がきちんと注で出典を書いていれば、彼は論文を調査委員会の人たちの前に突きつけて「ここに出典書いといたから、見に行って確かめてこい」と言えばそれで済んでいたのです(それが生データにあたるものなので。実際、今回の調査委員会はドイツに問い合わせたりしていますね)。もっと言えば、彼本人から話を聞く前に、調査委員たちはまず典拠との照合作業を行って、彼が誠実に引用したこと、つまり彼が研究不正に手を染めてはいないことを確認してくれていたでしょう――もしも彼が潔白であったならば。
しかし今回の件では、注に不備があったので調査委員たちは注から出典を辿ることができませんでした。そこで被告発者に「写し」を求めた結果、元となる史料がそもそも存在しない、捏造されたものであることが判明したわけです。
注をしっかりつけろよ! まことにごもっとも。特に今回のケースは注の多い学術書であり、注の不備は申し開きができません。しかし、しかしです、この背景には、日本の出版事情が絡んでいるのです。
今回の被告発者は、学術書のほかに新書も書いていました。多くの新書には、参考文献リストはありますが注はありません。そして日本には、「研究者が書いた真面目な学問に関する本だが、注がない」というのが一定数あります(一応言っておくと、ここではauthor-date方式みたいな「厳密な意味での注じゃないけど、ともかくも出典を示す機能を担っているもの」も含めて注と呼んでいます)。実はこれ、文系のあいだでも問題視されていることなのです。
文系の学者が書いた学問に関する著書には、明白に書誌情報として区分されているわけではないですが、いくつかの区分があります。第一にいわゆる狭義の「学術書」。むっちゃ小難しい語彙で書かれてて、先行研究とか新規性とかに逐一言及して、参考文献を何十ページも載せてたりするやつです。読者は同じ学者、あるいはその卵。これで注を省くのは論外です。第二に「教科書」。これは学生さんとか初学者向けに易しく書き、内容には特に新規性を求められておらず、包括的な参考文献はなくとも読書案内がついていればそれでよし、という感じでしょう。注は別になくたっていい。
そしてこの2つのあいだには、「一般向け」という広大なグレーゾーンが広がっています。
あなたが読書好きで、少々お硬い本にも興味があるのなら、中公新書とか講談社選書メチエとかそういったレーベルを聞いたことがあるでしょう。岩波書店や青弓社や社会評論社といった出版社の名前を聞いたことがあるでしょう。実はこの辺、色々な種類の本が入り交じるグレーゾーンなのです。
これらのレーベルで真面目な学術書を出版する人もいます。講談社選書メチエでも、末尾にビッチリ注がついてたり参考文献リストがあったりするやつあるでしょ? ああいうやつ。一方で、こういうレーベルを一般向けの概説書・入門書を書くことに使う人もいます。よく中公新書で、包括的なタイトルで薄めの本を見ることがあるでしょ? 今回の『プロテスタンティズム』もそれですね。そして、一般向けの解説を書きながら、さり気なくその中で新しい見方を提唱したりする人もいます。学術的な新規性のある内容を、一般受けしそうだという理由で限りなく一般向けの本の体裁で書く人もいます(最近のやつだと『姦通裁判』マジお勧め)。
さて、こういう本を出す上では、内容は著者の完全な自由にはなりません。編集者は、もちろん学術的に正しい内容を求めているのでしょうが、彼らにとって重要なのは「売れること」です。そのために「一般向けにもうちょっと柔らかい言葉遣いで書いてください」とか色々と内容に介入してくるわけです。文体くらいなら別に構わないかもしれませんが、彼らの中にはこんな要求をしてくる人もいます。「注なんてつけたら一般読者に嫌がられます、注は省きましょう」
こうして生まれるのが、「学術的に新規性が高く面白い内容を扱っているのだが、注がない」という一般書の群れです。
もちろんこういった本にも参考文献はあり、「注はないけど、典拠を探しながら読めば典拠がわかるような書き方になっている」本もそれなりにあります(たとえば、はてな太郎の説によれば、と本文中に書いてあれば、注がなくても参考文献リストではてな太郎が書いた『増田の研究』という本を探し出せる)。ただ、やっぱりそれは注がある文献の出典表示の厳密さに比べれば一段劣るわけです。
これに関しては、研究者も出版社もそれぞれに問題があります。研究者サイドは簡単に「注を省け」なんて要求に妥協すべきじゃないし、そもそも「著書を出版する」ことが、博士論文を見るためにはわざわざ学位を授与した大学か国会図書館に行くほかなく出版して書店で流通させることが最も良い研究成果の流通のさせ方だった時代であればともかく、各大学がリポジトリを持っていていくらでもディジタルに研究成果を公表できる時代にあって本当に重視されるべきか考え直す必要があるでしょう(でも、欧米の出版社でも学術出版は盛んなので、これは日本だけの問題じゃないんですよねぇ。今でもオックスフォードやケンブリッジやハーバードやコーネルといった有名どころのUniversity Pressは学術書を出版しまくってます。学術書が研究業績として重視されるのは人文系では割と世界標準なので……)。
一方で、出版社は注をもっと重視するべきです。というよりも、日本の出版社やジャーナリスト、ノンフィクション作家は注をつけなさすぎます。先日、ボブ・ウッドワードがトランプ大統領についてのルポルタージュを出版しましたが、体裁も内容もおおよそ学術的とは呼べない一般書そのものの本なのに、きちんと出典を示す注がついていました。出版社は、学者に注を削れと言うべきではなく、ノンフィクションを書く作家や記者たちに注をつけろと言うべきでしょう。
とはいえこれは一朝一夕にはいきません。そもそも知の折り詰めである「新書」という形態が割と日本独自のもので、そういう一般と学術を橋渡しするレーベルが広く一般読者に読まれていることの重要性というものを鑑みると、簡単になくせとか言えません。私も色々お世話になってるし。人口1億人ちょいの書籍市場ではどうしたって限界があり、色々な本を出すのではなく折衷的な本を1冊出すのが経済学的には最も合理的という考え方だってあるでしょう。ただ、やっぱり一般書にも(それこそ講談社ブルーバックスや岩波新書レベルにも)注を入れるようにする、というのは必要だと思うのですよね。
さてここまで「注がない本」問題について解説してきました。でも何が一番言いたいかというと、
これ。これに尽きます。注はちゃんとつけよう。もしもあなたが捏造者でなくとも、研究不正をしていなくとも、実験ノートをつけない我々の業界において潔白を証明してくれるのは注だけなのだから。注だけが資料の実在を証明してくれるのだから。本の売上よりも、あなたの保身のことを考えよう。あなたが、部屋が汚いとかハードディスクがお亡くなりになったとかパソコンの買い替え時に行方不明になったとかの色々な理由で、史料の「写し」を紛失する日はきっと訪れる。そのときに、これまでのあなたの研究の誠実性を証明できるのは、人文系の学問においては、注だけなのだ。
以上です。駄文に長々と付き合ってくださりありがとうございました。続きはanond:20190511125053で。
はじめに書いておくと、『日本国紀』がデタラメの塊なのはかれの書くノンフィクションがデタラメだらけなのを見ていれば容易に予想がつくことで、『日本国紀』がデタラメだというその結論に異議を申し立てるつもりは毛頭ない。あんなデタラメ本をわざわざ読み込んで批判されている識者の方々には心から敬意を表する。
だけど、ちょっと待ってほしい。参考文献がないという話だ。いや、参考文献が大事なのはわかる。研究書に参考文献がないのは論外だ。そして『日本国紀』にも参考文献が書かれていないということで、こんなん歴史書としてありえないとかさんざん言われている。『日本国紀』がクソなのはよくわかるのだが、参考文献リストがないからクソとか言われてしまうと非常に困惑する。
なぜなら、現に「参考文献が書かれてないけど、良い一般向けの歴史入門書」というものも存在しているからだ。
ぶっちゃけて言うと岩波新書で出た入門書の類である。中公新書や講談社現代新書は最近「もう選書でやれよ」と言いたくなるくらいに参考文献リストを充実させており最近だと本文中での典拠明示もバッチリやっていたりするが、岩波新書は参考文献を載せていない一般向けの歴史の本というものを継続的に現在に至るまで出し続けており、その内容がデタラメというならともかく出版から時間が経っても良質な入門書として評価され得るようなものだったりする。
百田を批判したいあまりに「参考文献がないなんてありえない!」と言われると、過去に岩波新書で出版され私を現在の研究分野に導いてくれた良書の数々が肩身の狭い思いをするので、もうちょっとこうなんというか、手心というか……。
参考文献は、当たり前だけどあった方がいいに決まっている。仮に知り合いが「これから一般書を書くんだけど、編集さんから参考文献は削ってって言われちゃった。どう思う?」って言い出したら「いや編集とバトルしてでも参考文献載せろよ」って言うだろう。だがもう出ちゃった本に対しては「良い本だけど、参考文献があればもっと良かった」としか言いようがなく、百田の本を叩きたいあまりに参考文献リストがないなんてありえないとか無価値だとかそんな言い方をされると、気持ちはわかるんですがそれはちょっと賛同できないっすね……とボソボソ呟くことしかできなくなってしまう感があり、あれだ、みんなもっと色んな本読もう……
本論とは違うが、ちょっとだけ言いたいこと。
参考文献は必要だが、「巻末参考文献リスト」はなくてもよい。あった方が便利なのは確かだが、本文中に典拠が明示されていれば、紙幅を気にして削ってしまってもよい。文系の場合、参考文献を示すのに色々な表記方法が有り得るが(MLA styleとか)、脚注に書誌情報を記すやり方もあり(具体的にはシカゴ・スタイル見てもらった方が早いか→ https://www.chicagomanualofstyle.org/tools_citationguide/citation-guide-1.html )、この方式の場合参考文献リストは「あれば便利」という位置づけに過ぎず「必須」ではない。いやもちろんあった方が便利ですよあった方が。でも脚注だけでも「典拠を示す」という最低限の役割を果たし得る以上、紙幅が足りないねじゃあどこ削るとなったときに真っ先に参考文献リストを削るだろうなと思う。別にこれは日本語圏のみのルールではなく、英文査読誌でも脚注で典拠を示させるスタイルの場合は参考文献リストをつけない場合が多いんじゃないかな(author-date方式の場合は当たり前だけど参考文献リストが絶対必要です)。たとえばこの雑誌→ https://www.tandfonline.com/action/authorSubmission?show=instructions&journalCode=fnep20 は脚注スタイルなので参考文献リストはつけません。甚だしい場合は書籍からも参考文献リストを抜くことがある。いやほんと参考文献リストをつけてほしいのだが、しかし出典表記の義務はきちんと果たしているので、問題は単に「チェックしづらい」というだけだ。なのでめんどくせーと思いながらも注を丹念に辿って出典チェックをしたものです。ちなみに日本で出た一般書の話ではなくハーバード大学出版会から出た英書の話なので誤解なきように。出典注とfurther readingはついてるけど引用文献リストはついてない、というのも見るな(MazowerのDark Continentとか)。
「巻末に参考文献リストを置いていない」ことと「いっさいの出典表示をしていない」は文系においてはまるっきり別の事柄であり、「参考文献がないのは駄目」という言説が後者の意味で言われているならいいのだが前者の意味で言われているのならそれは明白に間違いなので勉強し直してほしい。いやだって文系の研究書を乱読していれば絶対に「注で参考文献を表示しているけど、巻末に文献リストはない」本に一定数行き当たるでしょ……?(あー、社会学や文化人類学のばっかり読んでたらそういう本には当たらないかも。文学とか歴史学とかだと稀によくあるんだよなー)
あと、新書とかエンタメ路線に振った本とかで注がないのは許せるのだが、ほぼ研究書並の分厚い本を書いておいて注を省くのは本当にやめてほしい。自分の専門からは遠いから名指ししておくと最近出たやつだと『アイルランド革命1913-23』とか『ドイツ植民地研究』とかですね。新書とかは学識の折り詰めやエッセンスのようなものなので厳密な出典注を省いても別にいいというか対象読者が違うし……感もあるのだが、この厚みでこの内容で出典注ないのは勿体ないし価値を下げてしまっている。いやもちろん両方ともきちんと緻密な参考文献リストをつけてくれているのである程度は出典の見当がついたりするのだが、このボリューム、この内容で注なしは流石に……これなら、注をつけて文献リストを省いた方が100倍マシだと思う。だってどこを参照してるかわかんないじゃん……いちおう言っておくと英語圏でもこういう「なんで! この厚みで! この内容で! ちゃんと注をつけないの!」という本は存在するので日本の文系はガラパゴスだとかそういう話を始めないようにね。でも注を省いてこのお値段なら注をつけたらいったいおいくら万円になっちゃうの……? というのも一方で思ったりするので難しいところなんだよな。ただでさえ日本語でも英語でも学術書は高いのにねえ……
書誌情報に50冊目であることが確認できる作品(よって超人ロックは該当しない,石ノ森の文庫版マンガ日本の歴史は一応該当とする),サブタイトルは割愛,同一作品でも合算はしない(ドラえもんプラス,ダイヤのAact2等)
サザエさんを追加,クレヨンしんちゃんを追加,絶対可憐チルドレンを追加,キングダムを追加,(試験的に)文庫版のマンガ日本の歴史を追加,劇画人間革命を追加
脚注だろうと末尾の文献リストだろうとそこに書く情報は変わらないってのと、以下のような文献の書誌情報を書くスタイルは確立されているので、文献リスト云々の話は関係ないってこと。
そもそも出版されてない資料(昔のお役所の公文書とか、お寺に伝わる古文書とか)
古典(アリストテレスが紀元前に書いたやつが、2010年に岩波文庫とかで出版された場合、アリストテレス 2010って書くの? 間抜けじゃない? それより、最初の注で岩波文庫版の書誌情報を書いておいて、あとは作品名と第何段落とかそういう形式で引用した方がいいよね。古典はジャンル別にそういうの決まってるから)
新聞記事(1本や2本ならいいけど、数十本、数百本となったとき、記事のタイトルと発行年月日まで文献リストに載せるのめんどくさくないです? 文献リストには○○新聞を使ったとだけ書いておいて、注で○○新聞の何月何日何面に書かれてる何というタイトルの記事です、って書いた方がラクじゃない?)
なんかけっこうな数の人に勘違いされてるようで驚く。そんなおかしなことじゃないでしょ。ということで補足。
言っとくけど、これは剽窃や無断転載をしていいって意味じゃないですよ。参考文献の情報を表示する方法が違うってだけの話。
標準的な理系とか社会科学系の論文では、注ってこうやって示しますよね(以下、例はあくまで架空のものです)。
Trump (2018: 70)は次のように主張している。一方、Obama (2018: 47)はこれに反対していて……
この場合、文献リストがないと駄目です。だってこれだけじゃ、どの論文・書籍のことなのかわからないもん。だから、論文の末尾に文献リストをつけて、
って書く必要があるわけです。これがないとアウト。
トランプは次のように主張している(※1)。一方、オバマはこれに反対していて……(※2)
※1 Donald Trump, Make America Great Again (New York: Trump Tower, 2018), 70.
※2 Barack Obama, Yes, We Can (Chicago: UC Press, 2018), 47.
って表示することが許されてるわけですよ。これ、末尾に文献リストつける必要あります? そりゃつけた方が親切だと思うけど、なくても別にいいでしょ。だって参考文献の書誌情報はじゅうぶん伝わってるんだから。
なんで下のようなやり方がされるかっていうとですね、私も確かに上の方が便利だと思うんですが、文系の論文だと、
みたいな資料を引用することが結構あってですね、そういうタイプの資料を扱う研究者にとっては下の形式の方が楽なんですわ……。もちろんそれらの資料でも、工夫すればちゃんと上の形式で引用できますし、実際そうやってるひともいるけど、下のやり方は伝統的なので根強く残ってるのです。
あとまあ、学会によっては「下のやり方で書いて文献リストをつけるな」って投稿規定に書いてあったりするしね(もちろん上を指定してる学会もあります。ケースバイケース)。
http://anond.hatelabo.jp/20170525145352
おっ、せやな。シカゴ・マニュアルそのものじゃないけど、手元の解説書を読んでみたら、次のように書いてあるわ(分量的に引用として許される範囲を超えているけど、そこは勘弁してほしい)。
本書は、2つの最も一般的な引用方式を扱っている。「注記式参考文献目録方式notes-bibliography style」、または簡単に「参考文献目録方式bibliography style」(人文科学全般や一部の社会科学で用いられる)と、「カッコ入り出典―参照リスト方式parenthetical citations-reference list style」、または「参照リスト方式reference list style」(大部分の社会科学、および自然科学と物理学で使われる)と呼ばれるものだ。(後略)(※1)
参考文献目録方式の引用では、資料を使ったことを、典拠に言及するセンテンスの最後に、上つき数字を付けることによって示す。
He argues that "in an uncertain world, printed materials can be put to use in ways that make them powerful." 1
それから、対応する数字をつけた注で、引用の出典を挙げ、それに関する情報(著者、表題、および出版情報)とともに、該当するページ番号を明示する。注はそのページの一番下(脚注と呼ばれる)か、レポートの最後に集められたリスト(後注と呼ばれる)の中に印刷される。すべての注は共通の形式をとる。
N: 1. Adrian Johns, The Nature of the Book: Print and Knowledge in the Making (Chicago: University of Chicago Press, 1998), 623.(※2)
※1 ケイト・L・トゥラビアン(沼口隆・沼口好雌訳)『シカゴ・スタイル――研究論文執筆マニュアル』慶應義塾大学出版会、2012年、194頁。
※2 同、195頁。
元増田でも例を挙げたけど、この方式を採用している英文学術誌なんてたくさんあります。私が見たことある限り(ちゃんと読んだというわけじゃなくて、単純に論文をダウンロードして形式を確認した限りということ)では、中国語・韓国語・ドイツ語・フランス語・スペイン語・イタリア語・ロシア語の学術論文でこの形式は許容されてる。
海外の著者だと、たとえばウンベルト・エーコが『論文作法』って本の中でこの方式を詳しく説明してるので、ご覧になってみては。
人文系からすると、この方式を知らない方がガラパゴスですよ。だって、文系は理系の人はこの方式使わないで別の方式使うよね、って知ってるもん。なんで理系は、文系では別の方式も使うよねって知らないんです?
もちろん、この方式でも、たとえば1冊の本にまとめる場合なんかは末尾に文献リストをつけるのがふつうだと思います。だってそうじゃないと、その分野に関する文献にどんなのがあるか知りたいときにめんどくさいもの。一度、文献リストをつけられてない英語の本を読んだことあるけど、注を逐一確認して文献を探すのめんどくさかったですよ。ただ、論文程度の分量なら、注を逐一確認するのもそこまで苦ではないし、だいたい単にめんどくさいってだけでじゅうぶんに出典表示の義務は果たしてるし、紙幅の問題もあるしで、つけないことが多いんじゃないかなぁ。学位論文とかで、文献リストを絶対につけること! っていう決まりがある場合はつけないといけないけど、それは単に投稿規定守れっていうのと同じ話なので……
結論:場合による
https://togetter.com/li/1113766
https://matome.naver.jp/odai/2149564479015738601
この辺見てると、「そうだよね」というものと「いやいやおかしいでしょ」というものがどちらもある。批判している人の中には文系の慣行に詳しくない人もいるようなので、しがない文系出身者が「文系だとだいたいこんな感じ」というのを提示してみる(「お前の感覚おかしいよ」という指摘があれば教えてください)
「分析に用いている時点でこれは引用ではない」みたいなやつがおかしな意見の代表。いやいや、分析対象として使うのも立派な引用ですから。
たとえば、「私が好きな○○さんの二次創作小説はマジ文学なので文学作品として研究対象にします」だったら、それがマイピク限定とかでなく全体公開されている限り無断で引用して差し支えない(他人の机の中にしまわれている黒歴史ノートを無断で引用するのは当然のことながら違法です)。10年前に20部だけ頒布された同人誌に載っている内容でも引用してよいし、「バナナ」とか「前立腺」とかいう単語も容赦なく引っ張ってきてこの表現の含意はとかここで使われている暗喩法はとか分析していい。
文学研究ってそういうものなんで。たとえばナボコフの研究では、英語版とロシア語版を照らし合わせて登場人物の名前がどんなふうに変更されていてそれにはどういう意味が込められているかとかそういう細かな点を論ずる研究というのも実際あるし、そういう研究対象としての引用というのはまったく問題がない。作者に許可を取る必要もない。
それが本当に研究する価値のある文学作品であり、文学研究としての作法を踏まえているのなら、ラノベだろうが官能小説だろうが二次創作だろうが分析対象にしていい。異世界転生で俺TUEEEEEEであってもそこに文学として研究されるに値する何かがあるならガンガン引用することが許される。文学研究であるなら著者名と出典を明記することは研究倫理上むしろ必要不可欠だし、仮にそれで元の投稿者がマイピク限定にしちゃったりしても、このケースならそこまで研究倫理的に問題はない(と、私は判断する)。
現状、それをやっている人がほぼ絶無なのは、
という理由であって、やっちゃいけないなんてことはない。二次創作書きから直木賞作家とかに登り詰めて死後に全集が作られるような身分になったら生前に書いたピコ手の二次創作小説が掘り起こされて「若き日の習作」として分析対象になってしまうのも甘んじて受けよう。
しかし、問題は、これ文学研究じゃないですよね、という話で、テキストにあらわれる語の頻度を分析してフィルタリング機能に活かそうとかそういう研究だとまた違う話になる。たとえば「夏目漱石の作品中における接続詞の使用頻度」みたいな研究なら著者を明かすことに意味はあるけれど、この場合はそうじゃない。まあ一般的な語の用法の分析じゃないからコーパス使えないことはわかるけど、「有害な表現のフィルタリングのため」という目的で用法を研究するなら研究対象の具体的なURLと作者名は伏せた方がいいだろうし(これがまだせめて「“尊い”という語の用法」みたいに価値判断を加えていなければよかったかもしれないけど)、そもそも個々の作品のURLを列挙できる段階でちゃんとした研究とはいえないんじゃないんですかね。ふつうそういう研究なら、「○○新聞のデータベースで××年分の記事を検索して調べました」とか「pixivのデイリーランキング上位20作品を平成××年△月から△月まで○ヶ月にわたって調査しました」みたいなデータになるはずで、分析対象が10作品だけって段階でサンプル少なすぎるでしょ。いやもちろんサンプルが少ないから悪いというわけではないけど(談話分析とかならたった30分程度のTV番組を分析するだけで論文1本書けるだろうし)、フィルタリングを情報工学的に考えるならまずサンプルたくさん集めないと話にならないというか……
「pixivの規約に引用禁止と書かれている!」という主張はなんとも微妙だ。「は? それpixivの内輪ルールだろ? 著作権法上は自由なんだよ!」というカウンターも見られるが、そう簡単な話でもないと思う。
一般論として、引用は著作権法で保護されているので、それが適正な引用である限り(主従関係とか出典の明示とかそういうことね)自由に引用してよい。なので「無断引用禁止」と書かれている痛いサイトも自由に引用して叩いてよい、ことになっている。そういう意味では、「支部の規約より著作権法の方が偉いに決まってんだろボケ」派の言うことは正しい(実際、著作権的にはこれ問題ないとみなされる可能性が高いのではと思うが、法学クラスタの皆さんその辺どうなんでしょうか)。
しかし、ここで問題になってくるのは
ということだ。
それを読んでいるということは、検索で行き当たった作品を引用しているのではなくpixivのアカウントを取得してログインしそれらを読んでいるということだ。ということは、利用者としてpixiv規約を守る必要があるのではないか。少なくとも、利用しているサービスの規約に反して収集した情報を引用するのは、研究倫理に反するのではないか。
※追記:pixivの規約見たら「本サイト及び関連サイトにアップロードされている投稿作品の情報を、当該著作者(創作者)の同意なくして転載する行為」が禁止なのね。じゃあ、別に引用はしてもいいんじゃん。少なくともこの点で研究倫理がどうこう言うのは不当な非難だと思うので謝罪の上撤回します。
たとえそれが個人的な談話であっても、社会学や文化人類学では引用してよい。「○○村の女性Aさん(45)が私に語って聞かせた結婚生活の愚痴」なんてのも、これらの分野では立派な研究対象だろう。ただしその場合、事前に「私はこの村に社会学や文化人類学の調査で来ているので、皆さんの発言を研究に使います」と断る必要がある(増田にはフィールドワークの経験はないので、実際にどんなふうに許可を取るのかは知らない)。たとえそのような許可を取って滞在している村の住人の発言であっても、「これは絶対に論文に載せないでね」と言われたのに論文で引用したら、そらアウトだろうと思う。
だいいち仮に許可を取ってのことだとしても、社会学や文化人類学の研究なら普通は発言者をボカす。社会運動の指導者とかでもない限り、現代社会に生きる無名人の名前をそのまま載せるなんてありえない。ふつうは、AさんBさんとか、長門さん(仮名)と陸奥さん(仮名)みたいに処理した上で引用するの。
仮にそれが著名人であったとしても、使っちゃいけない、使うべきでない類の資料というのもある。たとえばちょっと前に、毎年ノーベル賞獲れなかったと騒ぎになる某作家さんの高校時代の図書館での貸し出し記録を調べてドヤ顔で記事にしてた新聞があったけど、と、図書館の自由に関する宣言~~~~~ってなりますよね(実際日本図書館協会は激おこだった)。
これが歴史学だとまた話が違ってくるというか、たとえば、百年前の新聞の投書欄を分析して当時の世情を研究するみたいな研究は割とある。その投書欄に書いているのは農民だとか小役人だとか、まあ市井の人々なわけだけど、投書欄に実名を載せているなら実名ごと引用され分析される(ていうかふつう実名をそのまま引用することはないけど、「○○という人物は次のように言っている」と地の文で書かれるとか、注釈で書誌情報の一部として実名が記されるとかはよくあること)。
ただし、これは「百年前の」「新聞への投書」だから許される話だ。書いた本人はたいてい死んでるし、遺族がいたとしてもたいして不利益はない。これがたとえば、公開を意図せずに書かれたお役所の文書だったらどうだろう(近代史でメインに使う史料というのはたいていこれだ)。もちろん、単に「○○という市民が食糧配給が少なすぎると文句を言ってきた」程度の内容なら実名を出してもいいだろうと思う。でも、それが故人の名誉を傷つける内容だったら? 徴兵された普通の人々がどのようにして戦争犯罪に加担していくか、という研究で、某中二病患者に人気の国の国防軍関係の史料が引用された時には、登場人物の多くがイニシャルだった。
インターネットにおけるレイシズム、みたいな研究で、twitterの膨大な投稿を分析し発言者を特定しない形で差別発言の例を挙げることは許されているけど、それが実際のアカウントと紐付けられる形で提示されたら、やっぱまずいんじゃないの。研究対象が著名人であるとかなら別だけど(twitterで右寄りの発言ばっかりしてるラノベ作家がいたとしたら、その人の思想を研究する上でそういうツイートを参考資料として引っ張ってくるのはまあアリだとは思う)、研究というのは告発のためのルポルタージュでも責任追及のための裁判でもないのだから(レイシズムに無批判であるべきだ、という意味ではないので念のため)。
それを考えると、やっぱりあそこで個々の作者さんの名前を出す正当性は全然ない。出典の明示にしても、「○○というサイトで××年~××年にかけて上位20位に入った計△△作品を分析しました」でじゅうぶん。その上で個々の発言者が特定されない形で「バナナ」という語の使われ方を存分に研究すればよかった。
=何が言いたいかというと、確かにあの論文は研究倫理に反するけど、それは同人小説を研究対象として引用することがいけないからではないので、批判する側も適切な論拠を選んだ方がいいですよ、というお話でした。
何でこんなもんを載せたんだ、査読してないのか、という意見もあるけど、してないか名前だけのザル査読なんじゃないかなあ。これ、フルペーパーではなくて学会発表のプロシーディングでしょ? 情報系は知らんけど、人文系だと学会発表で査読しないところもまだまだ多いですよ(内容が酷ければ質疑応答でボコボコにするか論文投稿時に査読で落とせばいい話なので口頭発表時点で査読が無いことは別に悪いとは思わない)。まあ、PDFとして載せちゃった以上は責任問われるのも仕方ないと思うけどね。最低限そこは査読なかったとしても編集委員会の判断とかで弾こうぜ。
あとこれ多分M1の学生の研究に助教と准教授が名を連ねてるだけだとは思うのだが、まあ共著者として名前連ねてる以上は責任を負うってことなんだろうし、実際M1の学生が袋叩きになるよりも准教授が叩かれる方がマトモだとは思うので、うん。
社会調査するならこれ読んどけ! 的なものとしてマサキチトセさんの翻訳が拡散されてる。
http://ja.gimmeaqueereye.org/entry/1758
マサキチトセさんの訳は丁寧だし、社会調査しようと思うなら必要だと思うけど、これこの件に関係ないよね? ごっちゃにしてない?
いちおう言っておくと、
ってこれ全部別の話だからね。
正直、腐女子が研究者や研究者コミュニティに不信を持つのは当然だと思うし、それは腐女子を面白いオモチャとしか見てこなかった研究者サイドの自業自得なので、「法的に問題がないことはわかったけど、あいつらのやっていることは信用できない」と思うのは無理ないです。その感情を否定したいわけじゃない。ただその感情の根拠としてぼくのかんがえたちょさくけんほうとかわたしのかんがえたけんきゅうりんりとかを振りかざさないでほしいだけ。正しい認識の上に立ったところで研究者に対する信頼が急に生まれるなんてことあるわけないんだし。
研究で「引用」というと文献リストに載せるやつなので,今回の件では研究用語的には「引用」では無いんじゃないかなあ。法的には分からない。pdfは全発表のを出してるんだから,いちいち弾いてらんないでしょ。
文系では文献リストは必ずしも必須ではないのよね(この辺、理系からすると何それかもしれないけど)。たとえば文献情報を全部脚注で書いちゃうやつだと文献リストはなくてもいい(だって書誌情報、つまり引用元の出典は脚注で示しているんだから論文の最後にリストとして挙げる必要はないでしょう? もちろん脚注にきちんと文献情報載せない場合は文献リストが必要ですよ)。あと、参考文献リストにない文献を引用するときに注で補ってもいい。
これ日本だけのローカルルールじゃなくて英語圏でもあるからね。たとえばNationalism and Ethnic Politicsなんかはこの方式のはず。
いちいち弾いてらんない、ってのは、せやな。こんな発表が許されるなんて学会の研究倫理はおかしい! とか騒いでる人もいて頭が痛いよね。アホか。
こうして燃えてる時点で侵襲性があるということになるのでは。「衆目に晒された→恥ずかしい→公開をやめる」が「過剰反応」だとしてもそのせいで研究対象は消えてしまったわけで。
ここで言ってる「侵襲性」ってのは、研究発表以降の話じゃなくて研究をする段階の話です。つまりデータを採る段階。
お医者さんだったら、患者さんを診察室に呼びつけて、服を脱がせて、相手が医者じゃなければ屈辱的な姿勢(ケツの穴を見せるとかね)をとらせたりして病気を診察して、それで病気や怪我のデータを採るわけですよね。社会学だったら、時間を割いてアンケートに答えてもらったり、面談してもらったりする。文化人類学なら、調査地に住み込んで、同じメシを食って家族の会話に割り込みながら相手の文化を学んでいく。そういう研究手法が、侵襲性のある、侵襲性の高い研究だってことです。
こういう研究をするときには調査される側の同意が必要だし、データをどこまで公開していいか決める権限は調査される側が持っている、というのが、あちこちで訳知り顔で語られている社会調査の鉄則です。
でも、文献調査はそうじゃない。いったん公開してしまった情報であれば、それを調べる段階では調査される側=文章を書いた人にとっては基本的に関係のない話。だってそうでしょう? いったん公開された情報については、研究者は、本屋さんで本を買ったり、図書館で雑誌のバックナンバーをあさったり、パソコンの前でマウスをポチポチするだけなんですよ? これにいちいち事前の同意が要るという主張はどう考えてもおかしいわけで。
医学論文でもカルテ調査するなら患者本人には(直接的には)迷惑かからず、それを氏名つけて公表したあとに患者本人に影響出る可能性が出てくるわけで"根本的に違う"というのがよくわからん。
カルテって、出版されたり、数万人の会員がいるSNSにアップロードされたりしてるんですか? 根本的に違うってのはそういうことです。当たり前ですけど、二次創作小説でも「作者が誰にも見せずにしまっているもの」「数人の親しい友人以外には見せていないもの」を引用するには許可が必要だし、無断で引用したら大問題ですよ。
会員制で見たい人だけが見られるようにしてある物を引っ張り出してきても許される、引用や研究ってそんなに万能なんです…?
少なくとも引用は万能です。数人の仲間だけにパスワード教えて見せてたならともかく、捨てアドがあれば誰でも会員になれて、数万人規模の会員がいるところに、会員なら誰でも見られる状態で置いてあるものは、著作権法上公開されたものと考えていいと思います。なのでそれが適正な引用方式に従っていれば引用はオッケー、お国の法律が認めてくれてます。やったね!
(ていうかその理屈だと、お金払わないと読めない学術雑誌に掲載された論文は無断で引用しちゃいけないことになりますけど、それでいいんですかね……? NatureとかCellもウカツに引用できない世の中、やばくね?)
研究はこれから議論されていくところなんじゃないかな。少なくとも昔は、書かれたものというのは「書店や図書館に流通し誰でも読める状態に置かれる」か「私家版としてごく少数の人のあいだで流通するか机の引き出しで死蔵される」の二択だったわけですよ。「数万人の会員がいるサイトで公開されてるけど一般公開はしてません」なんて状況、想像もしてなかったでしょ。この辺は今後頭を悩ますしかない。そういうめんどくさいのが嫌な人は歴史学とか古典文学とか考古学とか関係者が軒並み死んでる学問をやりましょう。
二次創作が研究対象になるなんて前例がなく誰もそんな想定をして書いてない。これは前例がないことだということを頭に入れていきなり研究の場に引き釣り出されて心の準備が追い付かない人の気持ちも憂慮してほしい。
前例はあります。
今手元にないんで間違ってたら申し訳ないんですが、2004年に男性向け作品での美少女表象を研究した本が二見書房から出ていて、バッチリ同人誌も引用されてたような。手元に確実にあるやつで確認すると、2009年に創刊されたコンテンツ研究系の学術誌に載ってる尾道の聖地巡礼史を論じた研究では、聖地巡礼同人誌が引用されてます。探せば同人誌を引用した研究はもっと出てくるんじゃないかな。コンテンツ研究だと痛絵馬の分析とかもやってるし、そこまでおかしな事態じゃないです。この辺の学術動向知ってれば「前例がない」なんて発想こそ出てこないですよ。何を今更。
まあ、素人さんがそういう学術動向知っとけ、って無茶ですよね。でも、これでわかったと思うけど、学術って開かれているけれど閉じられた世界なんです。興味のないことには誰も目を向けない。同人誌も同じです。女性向けの島中に置かれてるマイナーCPの薄い本なんて、理屈の上ではコミケ来場者全員に買う機会があるけど実際に買うのはごくごく一握りでしょ? はっきり言って今回の論文だって似たような位置づけなわけですよ。知らない場に引きずり出されて不愉快に思うのはよくわかるし、同情もしますけど。
あとこれ言うと揚げ足取りになっちゃうんであまり言いたくないんですけど、『アララギ』とか『白樺』だって同人誌だし(ていうかあっちが元祖)、そういう意味での同人誌ってたくさん研究で参照されてるし、CiNiiで「同人誌」で検索かけたら戦時中の誰も読んでないようなマイナー文芸同人誌を詳しく紹介するみたいな論文がヒットするわけですよ。同人作品だから引用しちゃいけないとか研究の場に引きずり出してはいけないって言われても、それどこの星のルール? っていう感じがします。明治文学研究とかルール違反の百貨店や~。
これ発表してから2ヶ月近く経って、いろいろ考えましたが、やっぱり私は研究倫理には反してないと思いますね。人に不愉快な思いをさせることがすべての局面において研究倫理に反するわけではないし、やっぱり引用の権利は厳然としてあるので、そこを突っぱねるのは筋悪かな、と。
とある特定の会社については触れるな、責任を問う様な記事を書くなと言われましたが
関係者に緘口令が敷かれ証拠の揉み消しが行われているため、増田にてリークします。
既報にて触れられた箇所は冗長になるため削除しています。
2013年3月に終了した事業で2015年11月時点で配信されない、配信についての期限も切られないのはさすがに民間からすればおかしいのですが、「それではいつ配信されるのか」などの疑問すら封殺して圧力を掛けるのはやり過ぎでは無いでしょうか。
内部資料を入手した上で記事にしているという証拠のため、手元の一部資料を上げておきます。
https://drive.google.com/file/d/0B2eVxJtFskpeNUZURkVjSGZCRms/view?usp=sharing
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◇緊デジとは何か
…東北振興と電子書籍市場活性化を目的とし、書籍電子化を国の補助にて行う総額20億円の事業。
JPOが事業を受託し、パブリッシングリンク社が製作委託業務を請負う。また出版デジタル機構が(補助金とは別に)製作費を立て替える形で、中小の出版社でも費用無しで書籍の電子化が行えるスキームが組まれた。配信も出版デジタル機構が担っている。
実際は2012年4月の出版デジタル機構の設立に伴う"ご祝儀"として組まれた事業。
◇略称
産革:産業革新機構
B社:ビットウェイ社
…2013年10月に機構が合併した電子書籍取次最大手。凸版印刷より買収した。
Y社:機構と取引のある大田区の電子書籍制作会社。イニシャルのみ記載
M社:取次他社。
◇なぜ未配信が発生したのか
(既報ではあるが)とにかく期限内に規定の金額を使い切ること、製作点数を満たすことを優先し、権利処理、製作体制の構築が後回しになったため。
電子化に伴う諸々の権利処理がなされていない状態にも係わらず、見切り発車で電子書籍製作がなされた。仕様も期間中に二転三転し、電子書籍製作を請け負った東北の会社は二重三重に作業を強いられた。
前述した通り緊デジ事業の元請けとなったのはJPOだが、事業スキーム自体は出版デジタル機構ありきで組まれたもの。また、緊デジは機構の営業部門が出版社に対して営業を掛けており、説明会も機構内にて行われていた。JPOとパブリッシングリンク社の出張所も機構内(神保町にあるビル内)に併設されていた。
電子書籍書店への配信部分を担うため、出版デジタル機構では会計監査院の指摘を受ける前から未配信書籍の存在を把握していたが、メンツの問題を恐れて出資母体の産革及び経産省への説明はされていなかった。会計検査院の内々の指摘に対しては、担当の部長や社員が職を辞したので分からない、との説明がされていた。
◇カラ納品で締め日に間に合うように見せかけの納品
・事業は終了すれども納品はされていなかった
何故このようなことになったのか。書籍タイトル募集が不調に終わった後、なんでも良いから申請してくれとの駆け込み募集がなされ、製作、納品、配信と一連の作業が玉突き式に遅れたことに起因する。
すべての工程が問題だったのだが、明確な隠蔽が行われたのは納品工程からである。2013年3月の緊デジ事業締め日に間に合わせるべく、制作会社に未完成のファイルを納品させる"見せかけ上のファイル納品"が行われた。中にはまったく同じファイルをタイトルだけ変えて納品させる例まであった。このカラ納品はネット上の制作会社関係者のブログによっても示唆されている。
これはJPO、PL社、機構の三者による合意の元に行われ、カラ納品をもって産業革新機構および経産省には緊デジ事業は完了したとして報告がされていた。
もちろん実際には納品されていないため、緊デジ締め日以降に発生した実作業によって費用が発生し、決算日をまたいだ予算上の付け替えが発生している。
この納品データを収納したハードディスクは現品が存在しているため、監査を行いファイル日時とファイルの中身を確認するだけで不正行為が判明する。
また、東北の電子書籍製作会社を取材するとカラ納品の指示メール、録音まで保存している会社が複数存在している。
◇電子書籍ファイルフォーマットの多重製作
緊デジ当初はdotbook、XMDFでファイルフォーマットで製作がされていた。このうちePubで作り直し配信した電子書籍や、複数フォーマットで製作を行うが片方のフォーマットでしか配信しなかった電子書籍が一定数存在する。
これらの方針転換は緊デジ期間中にePubが事実上の標準としての地位を固めたことも一因として挙げられる。ネット上の関係者記事からも作り直しや方針転換のため、納品・配信がなされず製作費用が丸々無駄となったものが多数存在することが示唆されている。
どれほどの金額が無駄になったフォーマットに使われたのか、事業が税金を原資としている以上、説明をすべきである。
緊デジで納品された電子書籍ファイルについて、当初は神保町の出版デジタル機構内に併設されているPL社の出張所にて検品がされていた。(異常が見つかったファイルの修正も内々に行われていた)
極めてセンシティブな噂があるため、その後に起こった出来事を事実だけ記す。ファイル納品数の大幅な増加に伴い、当時M社より機構へと出向していたH氏(元M社執行役員部長)の強い働きかけによって、B社と懇意である電子書籍制作会社Y社に、検品残りePubについて検品ならびに修正が委託された。
その際に○千万の金額が"検品と修正の委託"名目で支払われる。(その後H氏はB社と合併した出版デジタル機構の運用部門長として採用されるに至る)
問題は3点。検品と修正がなされているにも関わらず"正常に表示できない"と返答されているファイルがある点、検品について恣意的に特定の1社が選定された疑いがある点、検品費用についての監査が不十分である点である。
1点目
緊デジで製作されたePub電子書籍ファイル(※)は大部分がY社へ検品委託されており、実際に金銭も動いている。であるにも関わらず会計検査院の指摘に対して"正常に表示できない"と返答がされている。はたして、検品・修正は適正にされていたのか。どのような作業が行われていたのか。どのようなやり取りがなされたのか。
※ ePub以外のdotbook、XMDFのフォーマットについては制作中止や配信停止がなされた。別項参照
2点目
まず前提となる情報として、緊デジ事業は電子書籍製作にあたって制作会社公募がなされた。その上で各制作会社に試験を課し、水準に満たない制作会社の足切りを行った上で発注が行われた。
そして、Y社はその"制作"会社選定時の試験で足切りに合った企業である。
足切りにあった企業が緊デジ事業で製作されたファイルの修正と検品を委託されているのである。製作水準に達しない企業が"検品"と修正を行うに足るのかの説明が求められる。
関係者への取材によると"検品"にあたっては検品水準の維持を目的としてY社ただ1社を選んだとの返答だったが、なぜ製作時と同じように公開試験を行い、複数社から選定しなかったのか。透明性のあるプロセスにて選ばれていないため、懇意にしている企業を恣意的に選んだ疑惑があると複数の制作会社からは指摘されている。
3点目
・監査不十分な諸経費分担
出版デジタル機構内に併設された出張所にて検品が行われていた際の費用は、PL社と機構で折半されていた。だが、検品をY社に委託した際にはその費用はほぼ機構のみの負担となっている。
機構の大口出資母体には産革がおり、産革の資金の9割以上が税金で賄われている。前述したように、緊デジ締め日以降に納品されたファイルが存在しており、それらの作業費は緊デジの事業費には乗っていない。
少しややこしくなったので状況を整理すると、緊デジはその事業費外に「締日以降の作業費」「検品・修正費」という形で費用負担が発生しているのだ。
緊デジは東北の復興予算によって賄われた事業だが、出版デジタル機構が負担した作業費用も含めると税金が二重(場合によっては緊デジ事業費、期間外作業費、検品・修正費の三重)に乗った事業ということである。
これは緊デジ事業だけの配信調査・監査では不十分であることを意味する。出版デジタル機構負担分の金銭の流れも含めた監査が必要である。
出版デジタル機構は2014年6月に新社長が就任、新役員体制に移行している。
そして、緊デジは2013年3月に建前上終了している事業である。緊デジ未配信は過去の問題であり現執行部の責任は無い、と現在各所での“言い訳”がなされている。
しかしながら、入手した社内資料では新役員体制への移行時2014年6月時点でもまだ未納品電子書籍が大量に存在していると指摘されている。しかも、あろうことか副社長を排している大手出版社、小学館による大量の未納品まで存在していた。
(より正確には直接申請と代行申請という違いがある。しかしながら納品がされていなかった事実は変わらないため詳細はここでは省略する)
内部関係者より証拠資料付きで告発されたこの件を受け、産業革新機構は出版デジタル機構への投資を不適格として引き上げるべく、引受株式の一部処分を決定したとの情報もある。
http://www.incj.co.jp/PDF/1441072277.03.pdf
◇大手出版社を特別扱い、他社マニュアルを剽窃、著作権法違反をする官製企業の存在意義
機構には緊デジ以外にも問題が指摘されている。取次としての資質が問われているのだ。
ここでは既存出版取次の詳しい説明は省くが、分かりやすく述べると大手・老舗出版社が既得権側として極めて有利な仕組みになっている。料率(出版社取り分)が多くなっており、仮払金と呼ばれる見込み売上金も有利な率で受け取れる。新規の出版社は料率で不利、仮払金も率が悪いどころか受け取れないところもある。
では税金が投入されている電子書籍取次はどうなっているのか。こちらも大手・老舗出版社が有利な仕組みとなっており、一部は取次料なしでの扱いもなされている。取次料なしとは、つまりは大手出版社によってタダで使われているのだ。
税金によって賄われた以上は最低限の公益性・中立性は担保すべきであり、大手・老舗出版社が有利になるのはおかしいと前述の新規・中小出版社からは指摘されている。
民間企業が取引先の重要性に応じて条件に傾斜を付けるのはやむを得ない。だが公器としての存在を期待され出資を受けた以上、中小出版社と同一の条件にするのが筋だという論である。電子書籍取次は出版取次と違い金融機関としての機能は存在しないため、この主張には一定の説得力がある。
この主張には対して、そんなことをすれば同業の取次他社との競争に勝てないと機構出資者の反論もみられた。むろん、公益性の担保と競争力は一部トレードオフの関係にある。だが、現状は競争力の向上と称し得ない。実態は大手出版社に対して国の税金が投入されているのとほぼ同等であり、補助金に近い。
書店に対しても同じことが起こっている。外資を含む一部書店に最恵待遇として有利な料率・条件が結ばれており、事実上の言いなりになっているのだ。
これら重視すべき対象は機構内では戦略出版社、戦略書店と呼ばれ、それ以外はゴミ出版社、ゴミ書店と呼称されている。
税金に群がるのは大手出版社だけではない。「凸版印刷の赤字子会社(※注 ビットウェイ社)を買収した。ではうちに何をしてくれるのか」との大日本印刷の指摘に対して、共通書誌情報システムを大日本印刷関連会社である日本ユニシスへと発注するなどの便宜が図られている。
果たして、このような結果を出版業界は望んでいたのだろうか。出版業界の終わりの始まりに思えてならない。
さらには、同業の取次他社が用いるマニュアルの剽窃まで指摘されている。前述した取次大手M社から部長待遇で転職したH氏の手により、M社資料である電子書籍入稿マニュアルが出版デジタル機構内にて回覧され、出版デジタル機構の同マニュアルの作成時に流用されたという指摘だ。
これは社長、副社長、本部長の認識の元に行われており、社内及び業界内の武勇伝として語られている。もちろんM社の守秘義務違反行為にあたる。競争相手のマニュアルを剽窃する、それによって競争力を高めようとするのは民間でも眉をひそめられる行為だが、税金で作られた企業がやるとなれば民業圧迫との誹りは免れない。
他にも被災地を馬鹿にした発言がなされていた、値段・発売日違い事故の多発、著作権法違反による著者からの抗議、Y社及びT社に対する下請法違反、派遣法に抵触する行為などのコンプライアンス違反が散見されるという、複数の証拠と証言もある。
一部は既に然るべき機関に通報がなされているため、これらの件については調査がなされることを期待したい。万が一ではあるが調査がされない、圧力を受ける等があれば証拠付きで今回のような形式でリークする。
出版に携わる人間として、どうしても許せなかったのは緊デジに関する一連の騒動が終わったこととして隠蔽されようとしていることだ。緊デジには正の面もあり、書籍の電子化が加速したのも東北にある程度の金額が回ったのもまた事実だ。だが、負の面も大き過ぎる。それらは現在進行形で証拠が消され、関係者に箝口令が敷かれようとしている。大手出版社・印刷会社が総出で無かったことにしようとしている。
あえて聞きたいのだが、自浄作用を発揮できない出版業界に、果たしてどれほどの価値があると読者は考えるだろうか。
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【取材にあたり】
手元に資料及び証言が存在していますが、記事内にて提示することでそれに沿った形で資料の書き換え、口裏わせがされるのを防ぐためです。ご容赦ください。
緊デジと出版デジタル機構についての調査、踏み込んだ監査がなされることを期待しつつ、復興予算という名目で行われた事業である以上は、国民や読者が納得する形の結論が出ることを強く望みます。
実用書、学術書、翻訳書、自費出版、ウェブ、モバイル、電子書籍
について、共通して言えるとすれば
ですわ、と。
・「ライターはつけず、あなたが執筆していただきたい」と言われたので承諾した
「著者としての元増田の執筆能力に不安がゼロなわけじゃないけど
「カネが潤沢にあるわけじゃないし、ライターはつけられない
・インタビューなどに行く場合は、私が相手とコンタクトをとり日程を取り決める。出版社からは私と相手ふたりあわせて1000円のみ支給。(珈琲代にもならない。相手への謝礼は?)
この一節なんかも
版元の指定で「やらされ感」あったからこそのコメント、だとすると
やっぱり純然たるコスト削減した制作体制、ってだけな気がしました。
著者の意見は聞くけど
「提案とかけはなれたもの」になることは往々にしてある。
著者とのすりあわせが出来ない編集が
総合して覚える
「ですよねー」感。
なにしろお疲れさまでした。