はてなキーワード: 侯爵とは
40代も半ばになろうと言うのに自分は何故か未だに飽きていない。
ちなみに見ていた夏アニメは以下の通り。
天穂のサクナヒメ
杖と剣のウィストリア
グレンダイザーU
俺は全てを【パリイ】 する
☆悪役令嬢の意外な能力
☆悪役令嬢の矜持
☆義姉の代わりに、余命一年と言われる侯爵子息様と婚約することになりました
☆王太子に婚約破棄されたので、もうバカのふりはやめようと思います
俺だけレベルアップな件
空っぽ聖女として捨てられたはずが、嫁ぎ先の皇帝陛下に溺愛されています
☆99回断罪されたループ令嬢ですが今世は「超絶愛されモード」ですって!
☆「死霊術師など穢らわしい」と処刑されたので、魔族に転身致します
☆死に戻り令嬢の仮初め結婚
実は私が本物だった
捨て悪役令嬢は怪物にお伽噺を語る
聖女のはずが、どうやら乗っ取られました
☆できるメイド様
☆手札が多めのビクトリア
☆転生したら才能があった件
転生した悪役令嬢は復讐を望まない
二番手の女 歌姫としての誇りを胸に、最後のご奉公をいたします
念願の悪役令嬢の身体を手に入れたぞ!
宝石姫は、砕けない
未亡人アンネの閨の手ほどき
森の中で公爵が拾ったのは
ルリドラゴン
月が導く異世界道中
魔術師クノンは見えている
☆義姉の代わりに、余命一年と言われる侯爵子息様と婚約することになりました
☆目的は生き延びること
☆は9月初見。ちなみに9月初見で個人的に一番良かったものは「TS衛生兵さんの戦場日記」
漫画で1~2巻見て面白かったら、「なろう」で続きを見ると言う流れが多い。
アニメ1~2話見て面白かったら、原作を見ると言う流れも多い。
いつか飽きることはあるのだろうか・・・
連載中
序盤は割とあるあるな転生なろう系冒険譚だったが、貴族に所有される→医師→宗教家→軍人と話と転職が進むにつれて凶悪に肉厚になっていった。
宗教的権威によって成り立っていた第四帝政が相次ぐ異民族の侵入や内乱によって崩壊していく様をつぶさに描いたオススメの一作。
連載中
小競り合いをしたり王国内の社交があったり、大規模な戦争があったり、超強いストーカーに襲われたりしながらしっかりエロがあって良い。
第一章最終話「クオルデンツェ家の後継者」は本当にいいエピソード。
ちなみに本好きの下剋上の貴族社会が好きな人にオススメ。主人公が1人になる瞬間がほぼ存在しない。
完結済
剣闘士の奴隷の少年は主人を殺して脱走し、逃げ延びた先で吸血鬼に可愛がられる。
成長し旅立とうとする少年は吸血鬼についてきてもらいたがったが、吸血鬼は拒否しこう言った。
出世して、貴族になって、王になって、この地を貴方の物にしたらおいで下さい。そうすれば妻にでも、愛人にでも、あるいは母にでもなりますよ
かくして少年は王を目指すべく旅に出た。
連邦の懲罰艦隊が沿岸の都市を燃やし尽くすシーンはエロでもないのにチョー興奮したぜ!
終盤、公爵として数多の属国を従え、大勢の女を囲い、家庭を作る。安寧の時間が流れる。
道半ばの主人公、途中から覇道を支えた軍師レオポルト、そして読者の心が1つになったとき、軍師はある騒動を起こす。
王になりたい者がいる。私もその者を王にしたい
(中略)
射精した。
ちなみにオチは大嫌い。
本編完結済
襲い来る花々がただただエロい。
バッドエンド編とif続編があり、そちらもオススメ。
本編完結済
友達とセッ!!
完結済
ちゃんと主人公は悪人だが、悪人にも仁義はあるとより強大な悪相手に切った張ったの大冒険。
この作者の作品は割と残酷に時間経過したりするので、嫌な予感がしたら避けよう。
完結済
こういうエロが俺は好きなんだなあ。転移時点でクラスメイトは半分しかいないんです。なんででしょうねえ。
連載中
転移したおじさんはSランク冒険者で引退して学園都市でパパ活します。
女を金で囲う時、おっさんもまた囲われているのだ。
それデモいい
それデモいいと思える
故意だった
怖い 暗い 覚えてるの〜
犯しでしょ〜
総意って笑ってよ
わかれているのnear鉈の事ばかり
"防衛相、初訪沖で玉城知事との会談見送り 国と県の溝浮き彫りに"
一人になると考えてしまう
"基地問題で保革の対立が先鋭化しがちな県内政界で、党派を超えてまとめてきた原動力は「【私利私欲】を捨て、大局を見極め判断することだ」と強調"
あの時 私 忘れたらよかったの?
もう二度と戻れなくても
"... 二度と戻れない人も沢山いた。何という悲劇・しかし、更なる悲劇が沖縄の人々を襲うことになる。沖縄に駐留した米軍兵士の「軍紀は世界中の他の米駐留軍のどれよりも悪く、沖縄は米陸軍の才能のない者や、のけ者の体のいいハキダメ」(ジャーナリスト ..."
今は無料 a 鉈 a 鉈のことだけで
★あなたのことば借り
「鉈を貸して山を伐られる」(なたをかしてやまをきられる)の意味
https://kotowaza.jitenon.jp/kotowaza/3949.php
"琉球王国が誕生する前は、沖縄本島は「南山(なんざん)」「中山 (ちゅうざん)」「北山(ほくざん)」の3つの国に分かれ争っていました。この頃を三山時代と..."
バカかどうか測る。
つまり、ばかり。
366日
ーーーーー
続き
『将棋×音楽 スペシャルコラボイベント 駒音に耳をすませて。』
か調布であったようだ。
https://x.com/cmf_pr/status/1804138179341291737
蒼い鳥弾いてくれました。
254=じこし=ニコし。
これらの壁画は、1879年にこの地の領主であり法律家でありアマチュアの考古学者でもある
マルセリーノ・サンス・デ・サウトゥオラ侯爵(Marcelino Sanz de Sautuola)の5歳の娘マリアによって偶然発見された。
侯爵はこれらの絵が旧石器時代のものであると考え、1880年に発表したが、当時は旧石器時代の絵が知られておらず、学界からは侯爵の捏造だと疑われた。
20年ほどの間に、他の地でもいくつかの洞窟壁画の事例が報告されたが、これらの絵にも当初は否定的な見解がなされた。
しかし、1900年代に入ると科学的な調査も進み、これらの洞窟壁画は間違いなく旧石器時代の絵と認識されるようになった。
小麦粉に卵・砂糖・バターなどを加えて練って成形して焼き上げたお菓子のこと。
辞書的には「通常は甘くて、乾いていて、小さくて、平たいケーキ」と表現される。
「ビスケット」という言葉は「二回調理する」という意味のラテン語「bis coctus」に由来し、
古代においては二度焼きして保存性を高めた乾パンのようなものを指していた。
中世以降、小麦粉や砂糖の生産量が増えてくると、より甘く柔らかいビスケットが作られるようになり、
産業革命を経て、庶民的なお菓子として普及し、多種多様なビスケットが作られるようになった。
しかしアメリカで「ビスケット」というと、ケンタッキーフライドチキンのビスケットのようなパンの一種を指す。
オランダ語で「ビスケット」を意味する「koekje」に由来する。
「koek」はケーキのことで、そこに指小辞「je」が付いて「小さなケーキ」という意味になる。
19世紀初頭のアメリカで、英語由来の「biscuit」と蘭語由来の「koekje」が衝突したが、最終的に後者が勝利した。
そのためアメリカやカナダでは、ビスケットのことを「クッキー」と呼ぶようになった。
日本では、特に糖分や油分が多い高級なビスケットを「クッキー」として呼び分ける傾向にある。
という分類になっている。
イギリス英語では「ウォータービスケット」「セイボリービスケット」などと呼ばれる。
12世紀ごろからあるスコットランドの伝統的な焼き菓子。辞書的には「ビスケットの一種」とされる。
「ショート」は「短い」という意味ではなく「砕けやすい」という意味。
卵や膨張剤が入っていないのが特徴で、バターの割合が高いのでサクサク・ホロホロとした食感になる。
フランス発祥のビスケット。ショートブレッドに似ているが卵は入ることが多いようだ。
スコットランドとフランスは14世紀から16世紀まで同盟を結んでいて文化的にも交流があった。
1670年にサブレ侯爵夫人によって王宮に持ち込まれたビスケットが「サブレ」と名付けられたのが最古の記録である。
サブレ侯爵の領地であるサブレ=シュル=サルトでは伝統的にビスケットが作られていたようだが、
現在広まっているサブレのレシピは、1920年代にサブレ=シュル=サルトのパティシエが発明したものである。
フランス語で「平べったい石」転じて「円盤状のもの」という意味。
蕎麦粉で生地を作ったクレープのようなガレットが特に有名だが、丸いビスケットを「ガレット」と呼ぶことも多い。
つまりパンでもケーキでもビスケットでも、円盤状のものは何でも「ガレット」と呼びうるようだ。
さらに、薄いビスケットは「ガレット(ガレ)」、厚いビスケットは「パレット(パレ)」と呼び分けるらしい。
ドイツ発祥のパン、あるいはビスケットの一種。結び目の形をしているのが特徴。
小さくカリッと焼き上げたスナックタイプのプレッツェルがあり、
ドイツではパンタイプが多いが、アメリカではスナックタイプも人気がある。
郅都(?) -?) 前漢時代の河東郡楊県(現在の山西省宏道県東南部)の出身である。 漢の文帝の時代には、漢の役人を務めた。 警部補時代、法律を厳格に執行し、権力者を寄せ付けなかったため、「鷲」と呼ばれるようになった。
内容
1 バイオグラフィー
1.3 強者に挑む
1.4 皇太子妃の不興を買う
1.6 イーグルの死
2 評価
3 関連項目
4 参考文献
漢の文帝の時代、志杜は文官となり、次いで文帝の家来となった。 景帝の時代になってから、将軍に昇進した。 その勇気ある助言によって、大臣たちを説得することができたのだ。
ある時、景帝に随行して上林宮に行った時、随行していた賈詡がトイレを使っていると、突然イノシシがトイレに突入してきたことがあった。 皇帝は志杜に、その目で嘉吉を救うように指示したが、武器を持った志杜は皇帝の体を守るだけで、行動を起こさない。 景帝が自ら武器を取って助けようとすると、子都は景帝の前にひざまずいて、「一人の妾を失えば、また一人が宮入りする、世に嘉吉のような女が不足するだろうか」と言いました。 陛下がご自身の安全を軽視されるのであれば、国や皇太后をどこに置くというのですか?" 漢の景帝は、志杜の言葉を聞いて、賈賈をおいて、結局、イノシシは誰も傷つけずに、便所から逃げ出したのです。 この出来事を聞いた皇太后は大喜びで、志都に金百枚を褒美として与え、漢の景帝はそれ以降、志都を重用するようになった[1]。
前漢の初め、宮廷は黄蓋の術によって国を治め、何もせずに治めるという方針をとった。 済南県には300余りの謝氏一族がいたが、彼らは強大で狡猾なため、済南の将軍は何もできなかったので、景帝は志都を済南の将軍に任命し、地方の有力者を治めるように命じた。 彼が済南県に到着すると、謝氏一族の悪党の長をすべて処刑させ、他の謝氏一族は恐怖に震え、二度と法を犯すことを恐れなくなった。 済南県に赴任して1年後、県内には一切の残骸がなく、周辺の十数県の知事たちは皆、彼を上官のように尊敬していた[2]。
その後、中尉に昇進し、北軍と都の警備を担当することになった。 有力者の顔色をうかがうことはしなかった。 宰相の周亜夫(しゅうあふ)は傲慢(ごうまん)で横柄(おうへい)だったが、彼に会うと頭を下げるだけで、ひざまずかないのだ。 文帝と景帝の時代には、民衆の搾取が減り、平和で満足な暮らしができ、法を犯す人もほとんどいなかった。 法律は王族の親族や貴族が執行し、法律を破った者は官吏や人に関係なく、法律に従って厳しく罰せられました。 王室からは嫌われ、恐れられ、横目で見られ、陰では「鷲」と呼ばれ、その激しい法執行の比喩とされた[3]。
紀元前153年、漢の景帝の長男である劉栄が皇太子に任命された。 紀元前150年、劉協の母・王耀が密かに大臣を唆して景帝に李自成を皇后にするよう依頼し、景帝は激怒して劉協を臨江王として退位させた[4]。
紀元前148年、劉栄が勅令に違反して菩提寺の土地を流用して宮殿を建てたため、景帝は劉栄を呼び寄せて謁見させることにした。 劉栄は江陵(現在の湖北省江陵県)の北門から出発し、乗り込んだ馬車が壊れてしまったのだ。 江陵の人々は皆、目に涙を浮かべながら、「私の王は帰れない」と内心で言っていた[5]。
都に入った劉栄は、裁判のために尉官室に呼び出された。 劉栄は恐れをなして、景帝に礼状を書こうと筆と剣を求めたが、景帝はそれを許さなかった。 魏斉の侯爵、斗英は人を遣わして劉栄に静かにナイフとペンを渡した。 長男の死を知った皇太后は激怒し、法律を厳格に執行して甘受しようとしない財津を憎んだ。 景帝は彼を故郷に罷免したが、その後、使者を送って延門県知事に任命し、近道で直接赴任させ、県の事務を処理する特権を与えた[6]。
漢の景帝の時代、匈奴の鉄騎兵が長年国境を侵し、国境の県は長い間未開拓のままであった。 彼の清廉潔白の名声を慕っていた匈奴は、彼が燕門の総督に任命されたことを知り、恐れおののいた。 匈奴の騎馬隊は退却し、燕門から遠ざかった。 死ぬまで延門に近づく勇気はなかったという。
匈奴はザイドゥの形をした人形を彫り、匈奴の騎兵が馬上から撃つための標的として設置したのです。 ザイドゥを恐れて、匈奴の騎兵は誰も目標を達成することができませんでした[7]。
景行が再び財津を利用したことを知った道太后は激怒し、直ちに逮捕を命じた。 景帝は「宰子は忠臣である」と宰子を擁護し、釈放の準備をした。 孫の劉栄の死も忘れず、斗太后は「臨江王は忠臣ではなかったか」と言った。 彼女の仲介で、ついに志杜は殺された。 彼の死後まもなく、匈奴の騎兵隊が燕門に再侵攻した[8]。
彼は忠誠心が強く、公正で正直な官吏で、内部では権力者や有力者に立ち向かい、外部では外国の侵略から身を守り、匈奴の神経をすり減らすほどの勇気を持った人物であった。 親族を倍加して仕えれば、政府の下で死んでも妻にはこだわらない」という有名な言葉があるが、これはまさに彼の官僚としての生き様を表している。 後世の人たちは、財津を高く評価していた。
司馬遷は『大史記』-巻122-「涼官伝説」の中で、「彼は素直な人であり、天下を争うほどの人であった」と賞賛している。
漢の成帝の時代、大臣の顧雍はメモで志都を論じ、「趙に連波と馬遂がいて、強い秦は井戸を覗く勇気がなく、近漢に志都と魏商がいて、匈奴は砂幕に南下する勇気がない」と述べている。
唐の古書』巻194には、唐の中宗皇帝の時代に、右補奇人の陸遜が「漢が宰子を祀ると匈奴は国境を避け、趙が李牧を任命すると臨湖は遠くに逃げた」と発言したことが記されている。
上記の名前から、志都は戦国時代の趙の連波、趙奢、李牧など、「戦国の武将、国家の手先」とされた名将と肩を並べることになる[10][11]。
制度設計的には、公爵は五摂家と徳川将軍家に限られるはずだったので、「それくらいなら覚えられるだろう」と言う考えだった。つまり「こうしゃく」と発音した際、上につくのが、近衛、鷹司、九条、一条、二条、徳川でなければ、侯爵です、ということだ。徳川は御三家は侯爵だったから、そこはちょっとややこしいけど、そもそも御三家は、尾張様とか水戸様と呼ばれることが多かったので。
天皇家に極めて近い五摂家と徳川将軍家に与えられた爵位が公爵であったので、これの英訳は Duke ではなく Prince である。宮家が Prince で、本来は宮家よりも摂家の方が格上なので、宮家水準に合わせた結果だ。
直前に島津久光をなだめるために島津宗家と島津久光家が公爵になって、バランスとるために毛利も公爵になって、それでおかしなことになってしまった。
その後、伊藤や山県、大山などの成り上がりまで、公爵になったからおかしなことになった。伊藤が Prince ってのはさすがに無理があるだろう。慶喜家や水戸家が公爵になるならばまだしも。
まあネットにはポルノというものが溢れ返っており、我々は無自覚のままポルノを摂取してそれをメインストリームだと勘違いしながら生きている。
例えばスタンダールの『赤と黒』なんかはフランス文学史に燦然と輝く金字塔的文学とされているけど、実際読んでみたら完全にポルノやんけコレ、となる。当時欧州の文学界には姦通文学の嵐が吹き荒れており、玉石混交のグロテスクなモザイク画が出来上がっていたんだけど。まず、その最高レベルのものから言えば『アンナ・カレーニナ』である。貞淑な女性が徐々にぶっ壊れていき、自分の命さえ省みなくなる生々しいまでの過程はリアリズム小説の真骨頂であった。後はエミール・ゾラの『居酒屋』もいいね。首尾一貫した自然文学小説。それから、翻訳で読んでるからかやや粗い印象だけど(そして『赤と黒』同様にややポルノ臭がするけれど)、バルザックの『谷間の百合』。これは疑似姦通小説とでも呼ぶべきもので、母性的なものの没落を示唆している攻撃的な文学なんだ。
でもね、『赤と黒』は申し訳ないけどただのポルノだ。『ボヴァリー夫人』はアンナ・カレーニナより格が一段落ちるけど、『赤と黒』はそのボヴァリー夫人より更に一段下だ。
「おっす! オラ、ジュリヤン! 田舎の材木屋のしがない子せがれで、日々ぶん殴られながら生活してたんだけど、町の牧師に徹底的にラテン語を叩きこまれた結果、町一番の市長屋敷で家庭教師をすることになった! その結果、お屋敷の奥様に気に入られて、話の行きがかりでその奥様を旦那様である市長から寝取ってやった! そのことがほんのり露見したんで、オラ奥様から遠ざかるという意味合いで都会の神学学校に通わせられた! 都会に着いてからは暫く頭を冷やしてたんだけど、話の行きがかりで社交界の重鎮である侯爵家の世話になることになった! やがて侯爵の秘書としてパリの社交界にデビューしたんだけど、その侯爵家の娘さんは聡明な社交界花形の美少女で、最初はツンケンされたけども、最終的には行きがかりでその美少女をもモノにしてやった!」というものになる。
いやポルノやんけと。
というか、もうなろう小説だよね。『材木屋の子せがれの俺、ラテン語は完璧で聖書のありとあらゆる箇所を暗唱でき、市長家のお屋敷の奥様に気に入られてしまうも、最終的に社交界デビューし、侯爵の秘書としてスパイじみた任務をも任せられてしまい、戻ってこいと言われてももう遅い!』的な。
なろうだよこれ、と。
ちなみに同じスタンダールでも『パルムの僧院』は面白いです。まだ読んでる途中なんだけど。ただ、少なくともこの『赤と黒』に関してはどう控え目に言ってもポルノだし、スタンダール自身通俗小説としてこの小説を書いてたと思う。
とにかく、いかに権威ぶられてもどう見てもポルノ、ってものがあるように、いかに厳粛に見せかけてようが、結局は自分の主張を都合よく擁護してるだけのポルノ作品ってネットにはありふれてんだよね。「なろう」作品がポルノであるのと同じで、都合の良いポルノ作品に頭すっからかんにされてるとどうしても認知歪んでくるよね、って話。