はじめに書いておくと、『日本国紀』がデタラメの塊なのはかれの書くノンフィクションがデタラメだらけなのを見ていれば容易に予想がつくことで、『日本国紀』がデタラメだというその結論に異議を申し立てるつもりは毛頭ない。あんなデタラメ本をわざわざ読み込んで批判されている識者の方々には心から敬意を表する。
だけど、ちょっと待ってほしい。参考文献がないという話だ。いや、参考文献が大事なのはわかる。研究書に参考文献がないのは論外だ。そして『日本国紀』にも参考文献が書かれていないということで、こんなん歴史書としてありえないとかさんざん言われている。『日本国紀』がクソなのはよくわかるのだが、参考文献リストがないからクソとか言われてしまうと非常に困惑する。
なぜなら、現に「参考文献が書かれてないけど、良い一般向けの歴史入門書」というものも存在しているからだ。
ぶっちゃけて言うと岩波新書で出た入門書の類である。中公新書や講談社現代新書は最近「もう選書でやれよ」と言いたくなるくらいに参考文献リストを充実させており最近だと本文中での典拠明示もバッチリやっていたりするが、岩波新書は参考文献を載せていない一般向けの歴史の本というものを継続的に現在に至るまで出し続けており、その内容がデタラメというならともかく出版から時間が経っても良質な入門書として評価され得るようなものだったりする。
百田を批判したいあまりに「参考文献がないなんてありえない!」と言われると、過去に岩波新書で出版され私を現在の研究分野に導いてくれた良書の数々が肩身の狭い思いをするので、もうちょっとこうなんというか、手心というか……。
参考文献は、当たり前だけどあった方がいいに決まっている。仮に知り合いが「これから一般書を書くんだけど、編集さんから参考文献は削ってって言われちゃった。どう思う?」って言い出したら「いや編集とバトルしてでも参考文献載せろよ」って言うだろう。だがもう出ちゃった本に対しては「良い本だけど、参考文献があればもっと良かった」としか言いようがなく、百田の本を叩きたいあまりに参考文献リストがないなんてありえないとか無価値だとかそんな言い方をされると、気持ちはわかるんですがそれはちょっと賛同できないっすね……とボソボソ呟くことしかできなくなってしまう感があり、あれだ、みんなもっと色んな本読もう……
本論とは違うが、ちょっとだけ言いたいこと。
参考文献は必要だが、「巻末参考文献リスト」はなくてもよい。あった方が便利なのは確かだが、本文中に典拠が明示されていれば、紙幅を気にして削ってしまってもよい。文系の場合、参考文献を示すのに色々な表記方法が有り得るが(MLA styleとか)、脚注に書誌情報を記すやり方もあり(具体的にはシカゴ・スタイル見てもらった方が早いか→ https://www.chicagomanualofstyle.org/tools_citationguide/citation-guide-1.html )、この方式の場合参考文献リストは「あれば便利」という位置づけに過ぎず「必須」ではない。いやもちろんあった方が便利ですよあった方が。でも脚注だけでも「典拠を示す」という最低限の役割を果たし得る以上、紙幅が足りないねじゃあどこ削るとなったときに真っ先に参考文献リストを削るだろうなと思う。別にこれは日本語圏のみのルールではなく、英文査読誌でも脚注で典拠を示させるスタイルの場合は参考文献リストをつけない場合が多いんじゃないかな(author-date方式の場合は当たり前だけど参考文献リストが絶対必要です)。たとえばこの雑誌→ https://www.tandfonline.com/action/authorSubmission?show=instructions&journalCode=fnep20 は脚注スタイルなので参考文献リストはつけません。甚だしい場合は書籍からも参考文献リストを抜くことがある。いやほんと参考文献リストをつけてほしいのだが、しかし出典表記の義務はきちんと果たしているので、問題は単に「チェックしづらい」というだけだ。なのでめんどくせーと思いながらも注を丹念に辿って出典チェックをしたものです。ちなみに日本で出た一般書の話ではなくハーバード大学出版会から出た英書の話なので誤解なきように。出典注とfurther readingはついてるけど引用文献リストはついてない、というのも見るな(MazowerのDark Continentとか)。
「巻末に参考文献リストを置いていない」ことと「いっさいの出典表示をしていない」は文系においてはまるっきり別の事柄であり、「参考文献がないのは駄目」という言説が後者の意味で言われているならいいのだが前者の意味で言われているのならそれは明白に間違いなので勉強し直してほしい。いやだって文系の研究書を乱読していれば絶対に「注で参考文献を表示しているけど、巻末に文献リストはない」本に一定数行き当たるでしょ……?(あー、社会学や文化人類学のばっかり読んでたらそういう本には当たらないかも。文学とか歴史学とかだと稀によくあるんだよなー)
あと、新書とかエンタメ路線に振った本とかで注がないのは許せるのだが、ほぼ研究書並の分厚い本を書いておいて注を省くのは本当にやめてほしい。自分の専門からは遠いから名指ししておくと最近出たやつだと『アイルランド革命1913-23』とか『ドイツ植民地研究』とかですね。新書とかは学識の折り詰めやエッセンスのようなものなので厳密な出典注を省いても別にいいというか対象読者が違うし……感もあるのだが、この厚みでこの内容で出典注ないのは勿体ないし価値を下げてしまっている。いやもちろん両方ともきちんと緻密な参考文献リストをつけてくれているのである程度は出典の見当がついたりするのだが、このボリューム、この内容で注なしは流石に……これなら、注をつけて文献リストを省いた方が100倍マシだと思う。だってどこを参照してるかわかんないじゃん……いちおう言っておくと英語圏でもこういう「なんで! この厚みで! この内容で! ちゃんと注をつけないの!」という本は存在するので日本の文系はガラパゴスだとかそういう話を始めないようにね。でも注を省いてこのお値段なら注をつけたらいったいおいくら万円になっちゃうの……? というのも一方で思ったりするので難しいところなんだよな。ただでさえ日本語でも英語でも学術書は高いのにねえ……
論旨は解るがやや衒学的だ。後半2個は蛇足だ。もうちょい絞ったほうがいいぞ。先輩からのアドバイスだ。
江戸時代は、男女問わず、60㎏の米俵を運ぶことができた