はてなキーワード: 最高峰とは
この間書いたら
>アスペルガーはむしろ言われたとおりに受け取ってしまう人たちのことなので違うのでは。 自分の興味のある分野に異常な執着を示したり、それ以外の分野に集中できなかったりするの...
といただいたのですが。
そうなんですよ。
奴が異常な執着をしているのはネットのある分野
仕事もその専門分野なんですが。
少しでもそこが侵されたら烈火のように怒り狂い
「こんな考え方あるんじゃないかな?」といわれても
と言い切ります。
例えばある程度地位のある人に対しても同じで(自分はその分野の最高峰だからくらいの考え方なんだと思う)
「わかってます?普通こんなことしないですよ。だって無駄じゃないですか」
なんていっちまう。
お客さん怒って契約つぶれたこともある。
その専門分野がご自慢なら
とお願いしたところ「拒否」
例えばなんですが
「ありえない!こんなのクソですよ!社長バカじゃないですかね!」
と大騒ぎ。
ところが数日後には自分の信頼する人から勧められたと「クソ」発言は忘れたかのように
「これはいいです!」
(普通は恥ずかしくてこんなこと言えないと思うようなことでも平気だ)
簡単に言うと商品のレビューもこいつがいるせい5倍くらい時間がかかる
今日と昨日
昨日は赤がいいっていってたくせに
言われたとおりの事しか受け止められない
例えば上司が
「営業成績悪かったら、ちょっとこのプロジェクトも考えないとな」
なんて言ったら上司に詰め寄る。
「この会社は終わりだ!上司があんなこというなんてありえない!ふつうじゃない」
と騒ぎたてる。
昔々その昔、ジャパニーズガールズバンドの最高峰と言えば、プリンセス・プリンセスで決まりだった。
おそらくあれほどの完成度を誇るガールズバンドは他には存在しないだろう。
で、最近はどうなんだろうか?お薦めガールズバンドなるものは存在しているのであろうか?
ちなみに私は最近、BAND-MAIDにはまっている。プリプリには及ばないものの、演奏がかなり本格的で素晴らしい。
追記
SHOW-YAはすっかり忘れてました。お恥ずかしい。プリプリに勝るとも劣らない素晴らしいガールズバンドですね。形態としては私がハマってるBAND-MAIDの始祖みたいな感じがありますが、SHOW-YAの方がレベルが段違いに高い。当時限界LOVERS聞きまくりましたです。なんで忘れたのかなぁ・・・
他、チャットモンチーはいいガールズバンドですけど、この程度なら実際ざらにあって珍しくありません。
BAND-MAIDはありそうでなかったメイドコスプレのハードロック本格派バンドってところがいい。
そういうなんつーか、本格的にガチでやってんなーって感じのが好みです。
※ブコメ800越えました。800人以上の方が、「これ面白いよ」とか、「こんなに面白そうな漫画あるのか、ブコメしとこう」とか、「伝説級の定義を教えてくれ(個人的にはポケモン種族値で説明していたコメントは『うまい』と膝を打った)」とか、たくさんのブコメ・トラバを頂きました。ありがとうございます。コメントいただいた皆さんには感謝しかありません。
手塚治虫とか鳥山明とか藤子不二雄とか、まとめサイトとか互助会ブログとかで「漫画の歴史に残ると思う漫画家」とか「好きな漫画家ベスト100」とか「天才だと思う漫画家」とか「おすすめ漫画ベスト100」とかに絶対挙がってくるような人いるじゃん?
そういう人じゃなくて、ニッチというか売れてないというか知名度が低いというか、とにかくあんましそういった所で名前を見ないんだけど、「俺は(私は)この漫画家好きなんだよおおおおおなんで誰も言わねええええんんんだよおお本当にお前ら漫画オタなのかよおおおお」ってのを教えてほしい。
俺も何人か挙げとくか。
・鈴木みそ
「おとなのしくみ」「オールナイトライブ」「銭」とかの人。最近はamazon電子書籍を出した時の話とかを漫画にしてた。色々とアイディア豊富だよなあと思う。
ルポ漫画が結構多くてどの作品も基本的にギャグ路線なのだが、「おとなのしくみ」に載っていた飯野賢治(故人)って言うゲームクリエイターとの対談漫画は読んでちょっと震えた。手元に本がないんでうろ覚えだが、飯野さんの作ったゲームがなんかスゲエクソゲーでファミ通のレビューが散々だったらしく、それに飯野さんがブチギレてしまったけどまぁちょっと色々お話しましょうよ、的な話だったと思う。あれは文字で対談記事読むより100倍面白いと思った。吉田豪でも文字で対談記事上げたらあそこまでのクオリティにはならんと思う。
あと、この人の3.11を描いた漫画「僕と日本が震えた日」はすごく良かった。
・穂積
「式の前日」で結構バズってた人。「さよならソルシエ」もすげえ面白かった。
「式の前日」はいわゆる短編集で、表題作「式の前日」は、まんま結婚式の前日の話。これ以上言うとアレなんで気になった人は本編を直接読んでもらうとして、短編集なんで当然他の話も色々入ってる。俺はネットで「今度商業デビューする穂積って作家の式の前日はヤバい」という書き込みだけ見て買ったんで、短編集だと思ってなかったんだ。表題作「式の前日」は文句なしに面白かったんだけど、新人でこんだけの作品書かれると、読む側としては不安になる。「コイツ、これだけの一発屋じゃねえの?」って。
結論から言うと穂積先生は天才だった。式の前日の次のページから始まる…なんだっけ、幼女と親父のハナシとか、オッサン兄弟が居酒屋でグチグチ言うハナシとか、話の運び方がスゲエうまくてグイグイ引き込まれる。しかも読後になんかちょっといい気持ちになれる。そんなもんだからもう俺の次作への期待値は上がる一方で、この人早よ連載書けよと思ってたら「さよならソルシエ」が出た。やっぱり面白かった。
未読の人は、「式の前日」を読むのがいいかな。かなりBLっぽい絵柄なんで、そういう絵が辛い人にはちょっと読みにくいかもだが、まずは我慢して1話読んでみてほしい。多分次の話が読みたくなる。
「ヨコハマ買い出し紀行」「コトノハドライブ」とかの人。ブコメでも複数指摘されていたが四季賞好きなアフタ民は俺です。
とにかく「ヨコハマ買い出し紀行」がヤバすぎる。ヤバすぎて青い表紙の旧版と、愛蔵版?だかの白い表紙のやつと、両方買った。今って多分新刊で買うと白い表紙のほうしか買えないと思うんだけど、こっちには巻末4コマついてないんだよなあ。俺が電子書籍買わない理由に「こういうオマケ要素がない」ってのはそれなりにあるんだけど、最近の電子書籍だとちゃんと載っけてんのかな。「トライガン」とか、買ってきてまず最初にするのはカバー外して「ああ、内藤先生は今日も平常運転だな」って確認する事でしょ?
なんか話がズレてきたので戻すが、「ヨコハマ買い出し紀行」は横浜に買い出しに行く話…では無い。いや、横浜に買い出しにも行く時もあるが、1回か2回ぐらいだ。基本的には主人公の「アルファさん」が経営する喫茶店の日常が語られる。話自体は(ロボットとかのSF要素とかはあるが)そんなに突飛な話ではない。日常が淡々と描かれていく。では何がヤバいのか。芦奈野先生は「空気感」をコマに表現するのがメチャクチャうまい。夏の日差し、雨の匂い、草のざわめき、空の青さ…。そういった「なんでもない」風景や事象を切り取って描くのが本当にうまいと思う。サラッと書いたが、基本モノクロのコミックで「空の青さ」ってなんやねん、というツッコミはあるかも知れないが、青いんだからしょうがない。(ちなみに、カラーページも結構多い。)はじめて読んだ時に結構衝撃を受けたので挙げた。本当はアフタ民として沙村広明先生を挙げようかなと思い、「おひっこs」ぐらいまでタイプしたような気がしていたが、いざ増田を書いたら芦奈野先生になっていた。超スピードとかそんなチャチなモンじゃ断じてねえ(以下略)
「さらい屋五葉」「リストランテ」とかの人。最近は「ACCA13区監察課」がアニメ化された。
好きなんだけど「なぜ好きなのか」を言語化しにくいんだよなあ。友人に勧める時も「まぁ読んでみて」とか素っ気ない事しか言えないし。雰囲気かなあ…。
BL界隈では有名な方らしいが、増田はBLをほぼ読まないのでわからん。あ、俺が挙げてる作品にはBL要素ないから、「そういうのはちょっと…。」という男性増田諸氏も安心して読んでほしい。
ここまで書いてて、BOOWYコピペの「ちょっと渋すぎるかw」を思い出した。ブコメでもさんざん指摘されてるけど、俺が挙げてるのって有名どころかつ第一線バリバリの人ばっかだな。すまぬ…すまぬ…(丸太でボコボコにしながら)
「大奥」「昨日何食べた?」とかの人。よしながふみ先生レベルになると伝説っつってもいいような気もするが、とりあえず挙げておく。好きだから。
漫画好きな女性とよしなが先生について語るときに、「よしなが先生一般向け作品での最高傑作は?」でいっつも喧々諤々の議論になる。女性は「フラワーオブライフ」を推す人が本当に多い。次点で「ジェラールとジャック」かなあ。サンプル少ないけど。「大奥は完結してないから評価保留」って意見も多い。まぁそういう議論(というか、『俺は私はこんなにこの作品好きなんだぜ!』っていうただの自分語り)も好きだから互いに延々と自説を述べるんだが、本当のところは「人による」でしかない。俺も他人に勧めた漫画が「これ、あんまり面白くなかったよ」と言って返却された事は10や20じゃきかないし、俺自身も「これ超面白いよ!」っつって友人から借りた漫画がイマイチだった事は稀に良くある。
まぁそれでも俺は大奥超好きだし、俺に大奥のレビュー書かせたら多分余裕で2万字行くよ。そんぐらい好き。(実は「2万字はよ」のブコメが妙に伸びてるので、内心ヒヤヒヤしている)
2万字レビュー、少しづつですが書いてます。多分この話題も風化したころにシレーっと増田に上げおきますので、ご笑覧頂ければ幸甚です。(そういえば昔「ご笑覧下さい」て新井先生の漫画があったが、面白かったなあ。)
・(追記)岡田あーみん
ある意味伝説だな。こいつら100%伝説だし。EじゃんGじゃん最高じゃん。よしながふみが2万字なら、この人なら5万字書ける。ウソつけお前、絶対書けないだろ。いやいや5万字でしょ?400字詰の原稿用紙で125枚でしょ?小学校の時に読書感想文で80枚出したことあるしヘーキヘーキ。(なお80枚中50枚ぐらいあらすじと本文引用だったもよう)ブコメの「2万字はよ」の方のスターが50ぐらい行ったら書くわ。俺、書くよ…。頑張って書くよ…。
えーっと、何の話でしたっけ、そうそう岡田あーみん先生ですね。劇中のセリフをアンキパンで暗記したのかってぐらい読んでた。昔は「何巻の何ページ」と言われれば、コマのセリフを暗唱できるぐらいだった。
・(追記)桜玉吉
ゲーム系?の人なのかな。作者自身が作中に登場する作品が多い。自分はアフタヌーンの「なあゲームをやろうじゃないか」という漫画でファンになった。またアフタヌーンかよ。そうだよまただよ。アフタヌーン出身の作家ってクッソ面白い人多いから皆にもオススメしたい。まあ玉吉先生はファミ通かLoginかゲーム雑誌の出身だった筈だが。
「なあゲームをやろうじゃないか」が面白かったので、そっからすぐ玉吉先生の全作品を買った。最近は「日々我人間」「伊豆漫玉日記」とかの作品で作者自身の日常話が多いが、俺は「幽玄漫玉日記」とかの昔の漫画のほうが楽しめたな。
「なあゲームをやろうじゃないか(今は「なげやり」という傑作選が出てる)」では毎回1本ゲームを紹介するのだが、ゲームは全然紹介せず、タイトルのギャグ・アナグラム等でひたすらゴリ押ししていく。(例:ペルソナ2罪→なるぺそ堤、とか言って堤市まで行って「なるぺそ!」とか言うだけ、とか)
「北へ~ホワイトイルミネイション~」→「鍛えねえと生きてる意味ねえでしょ」は爆笑した。
未見の人は、「防衛漫玉日記」ってやつの文庫版があるんで、とりあえずそれかな。桜玉吉自身が代アニの漫画科に(漫画家としての身分を隠して)一般生徒として潜入する回とか、2017年じゃ絶対成立しねーだろ。オチとか含めてクッソ面白いし、他の話もメチャクチャ面白い。読んで面白かったら、「〇〇漫玉日記」って作品名のやつと、上で挙げてる「なげやり」あたりをオススメしたい。きっとアナタもぺそみちゃんに恋するはずだ。
・(追記)楳図かずお
俺の書き方が良くない事は百も承知の上で、「俺は伝説級だと勝手に解釈していたがブコメに名前が挙がっていた人」。挙げてくれた人、なんかすいません。怒られる前に謝っておきます。
最初に楳図作品に触れたのは「まことちゃん」って言うギャグマンガで、これは残念ながら俺にはあまり合わなかった。当時は若かったせいもあるが、「なんかキモい絵だなあ」ぐらいの感想だった。
そこから状況が一変するのは数年後、たまたま「漂流教室」を読んだ。…いや、表現を変えよう。「読んでしまった」だな。頭をハンマーでブン殴られた感じっていうか、とにかく全ページからのオーラがすごくて、気づいてたら全巻読破していた。「なんで学校が漂流するのか」とか、「なんで空き地で交信できるのか」とか色々あるんだが、そんな事は些事である(断言)。
正直、あれだけの漫画体験は俺の漫画人生の中でもそうそうない。俺のこれからの人生で、あと何回こんな体験ができるんだろう。そう考えると、なんだかオラわくわくしてきたぞ!!
…で、楳図先生の作品だが、そっから「14歳」「わたしは真悟」「神の左手悪魔の右手」と読んでいくことになるのだが、当時思っていたのは「この作者は頭がおかしい(誉め言葉)」だった。「トリ頭の天才科学者(パッと見、鶏の被り物をつけているように見えるが、本当にトリの顔をしている)」とか、普通思いつくか?
ストーリー展開も超絶で、多分いくつかの漫画フォーマットはこの人が作ったんじゃないかと(勝手に)思っている。まとめブログとかでさんざん言われているような気がしないでもないが、本当に現代の漫画家さんはしんどいよなあ、と思う。なんか面白そうなハナシを思いついても、だいたい先人が似たようなネタやってるんだから。
BL出身の作家さんが多くなったが、これを書いている増田自身は男である。一応来年入籍予定なのだが、嫁(になる予定の女性)が大奥全巻(当然初版のみ)は新居に持ってこないでとか早くメルカリでいらない漫画全部売ってよとかずっと言われてて、どうやって説得しようか迷っている。女性増田諸氏にはそちらのアドバイスもできればお願いしたい。
こちらの「嫁と漫画問題」のほうにも様々なブコメがついた。つけてくれた方々に感謝したい。嫁は大奥に限らず、漫画をほぼ読まない。「逆ハーレムものの本を置かれるのが嫌なのでは」というブコメもあったが、そもそも嫁はBLという概念を理解しているかどうかも怪しいレベルである。例えドラゴンボールでも嫌がるだろう。「なんでそんな人と…」というのは思わないでもないが、漫画以外の部分では本当にいい女性だなと思っている。漫画以外では性格的にもあってると思うし、付き合いも長い。ついでに料理もうまい。…そう、本当に「漫画以外は完璧」なんだよなあ…。
実家に置く…のは無理だ。察してくれ。俺の実家は結構な田舎にあって、実家の敷地面積もまぁそれなりにあるんだが、たまに実家に帰ると確実に言われるのが「漫画捨てていいか」である。実家の俺の部屋(だったところ)は、漫画と本で埋まっている。比喩表現でなく、埋まっている。俺は実家に帰ると、居間で寝ている。
本当に捨てられかねないような場所に漫画を置いておくのは嫌だし、何より大奥クラスの本は手元に置いておいて読みたい時にサッと読みたい。
自炊…は、単に好みの話で、俺が紙の本が好きなので辛い。kindleも買ってみたが、結局買ったのは「野望の王国」だけだった。買った理由も「紙の本がどこにも置いてなくてしょうがなく」だし。あ、ちなみに野望の王国は柿崎が大好きです。次点で疋矢。
交渉…は数年に渡り接触を図っているが、全く進展がない。勇午(←プロの交渉人)でも状況を打開するのは難しいだろう。
多分、レンタルスペースを借りるか、潔く電子書籍に移行するかの2択だと思っている。自炊するヒマは無さそうなので、もう一度全部買うとなると蔵どころか家が一軒建ちそうなので、厳選しないとなあ。
ブコメくれた皆さんありがとう!ちょっと俺の言い方が悪かったかも知れない。マイナーな漫画家じゃなくても全然いいんです。アナタが!好きな!!作家なら!!
自分はこの手の質問を周囲によくするのだが、昔とある友人に「藤子不二雄」って回答されて「あのさあ…。」って返したら「ミノタウロスの皿」をスッと差し出された事があって、なんじゃこれと思って読んだら俺の中の(勝手な)藤子不二雄像がブッ壊されたという、「漫画オタあるある」な体験がある。そんな体験をまたしたくてこの増田を書いた。だからもう、あんまし気にせずに面白いと思った作家さんを挙げてくれるだけで嬉しい。皆のブコメやトラバは何回も読み返した。こんなクソみたいな聞き方した失礼な奴に真摯に対応してくれてありがとう。
あと、こんな事書いてるとマウントされるのでは?という気づかいをしてくれた方(sukekyo氏)、ありがとう。心遣いに感謝する。迷惑だと思うのでidコールはしないが、増田書いてて親切なアドバイスをもらったことがないので、とてもうれしかった。
でも俺はマウントされてボコボコにされようが、プロファイラーにケツの毛の本数までプロファイリングされようが、とにかくクッソ面白い漫画が読みたい。大爆笑したいし、ふむふむ言いながら感心したいし、号泣したい。「アニメとか映画とかゲームとかは?」とかよく聞かれるが、俺の興味対象は何故か漫画だけなんだ。このへんは自分自身でもよくわからない。プロファイルに自信ニキの分析待ってます。
起床してブコメ見たら驚愕な伸びでビビってる。みんなありがとう。本当にありがとう。コメントくれた皆と俺のオゴリで飲み会やって漫画の話を延々やりたいと思った。「お前あれだけ偉そうな増田書いといて〇〇先生知らないとか正気?」とか言われつつ、その先生や作品に対する愛をたっぷりと拝聴したい。当人が愛をもって存分に語るハナシって、何であれ大抵面白い。俺はジャニーズってあんまし好きじゃないんだけど、「ジャニーズファン(特に嵐)の書いたライブレポ」は毎回楽しく読ませてもらっている。っていうか嵐のライブ行った事ある(なんか男性だと優先して入れるやつがあるとかでジャニオタの女性に1枚融通してもらった)。楽曲とかに興味がないので今一つノリきれなかったが、エンターテイメント性はメチャクチャあった。超!エキサイティン!!そりゃあれだけ熱狂的なファンがつくわ、と思った。男性増田諸氏には「女性と会話で盛り上がる為のネタとしてジャニーズのネタは結構使える」と言っておこう。逆に漫画の話をすると、経験上ドンビキされることが多いかな。何年か前のコンパで「ときめきトゥナイト好きなの」と言ってくれた女性がいたから、乗っかろうと思って「何部が一番好き?」って聞いたら「は?」って言われた事がある。(彼女はアニメ版の話をしていた)あの時の女性、本当にすまなかった。
…えーっと、何の話でしたっけ。ジャニーズの話じゃなかったですよね。そうそう漫画の話。
俺、漫画だけは死ぬほど読んでる自信あったけど、そんなチンケなプライドをガタガタに崩壊させるぐらいに知らない作家さんが多かった。まあ、↑で俺が挙げてるのがメジャーどころばっかってので色々察してほしい。
でもそうだよ、なんか忘れてたよ。俺は「オバカミーコ」読んで「片山まさゆきって面白いよな」ってやつに「ノーマーク爆牌党こそが至高に決まってんだろうがよおおおお」と居酒屋でクダを巻きながら爆牌理論のすごさとか八崎の伝説とか色々語ってたんじゃないのか。大同人物語を読んで「切り餅3ツ」とかホントに使うのかよでもあのヒラコーが言ってるし俺の知らない同人界隈ではみんな使ってるんだろうとか思ったりしてたんじゃないのか。
「はじめの一歩って面白いよな。ボクシング漫画最高峰だよな」ってやつに「はじめの一歩も面白い、ベストバウトは鷹山vsホーク、次点で過去編のvs米兵戦だろう。だがな、『ボクシング漫画界ベストバウト』はシュガーのリンvsキンジだ。でも続編のRINは読まなくていいぞ」とか居酒屋でジョッキ片手にブチ上げて、そっから頼まれもしてないのに同じ作者の「ザ・ワールドイズマイン」の話を延々してたりしてたじゃないか。ワールドイズマインはボクシング漫画ですらないが。
「サッカー漫画ってキャプつば以外に面白いのないの?」ってやつに「お前がサッカー好きならジャイキリだが、俺は「リベロの武田」がサッカー漫画では突き抜けてると思う」とか語りだして、「サッカー漫画には必殺技が必要不可欠だが、ジャイキリにはそれがない。いや、最近の椿はスーパーサイヤ人化が激しい部分もあるが…。それはさておき、リベロの武田には必殺技がいっぱい出てくる。」「例えばどんなやつ?」「うーん、『いじめっ子の結界』とか?GKエリアに入れない。入ったらモンゴリアンチョップされる」「それ本当にサッカー漫画?」とか言われたりしてたじゃないか。
…しかしこうして見ると、他の客から見て俺はただの「うるさい端迷惑な客」だし、友人もよくもまあ俺のクソどうでもいい話を聞いてくれたもんだ。友人たちよ、ありがとう。
円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれで出自は壬生氏。
目次 [非表示]
2 遣唐使の渡海の困難
3 天台山を目指すが…
6 長安への求法
7 帰国の旅の苦難
8 関連文献
9 脚注
10 関連項目
794年(延暦13年)下野国都賀郡壬生町(現在の壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏の一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。兄の秋主からは儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄の理解者であって、多くの弟子を最澄に師事させている。
※生誕地については
などの説があり、順徳天皇撰による「八雲御抄」では、みかほの関、みかほノ山での誕生が記されている。
下つ毛野 みかもノ山の越奈良の須 目ぐはし頃は 多が家かもたむ
あずま路の 人に問はばや みかもなる 関にもかくや 花は匂うと
石ふまぬ 安蘇の川原に 行き暮れて みかほの関に 今日やとまらむ
下野や 安蘇の川原に 行きくれば みかもの崎に 宿をかりなん
この他、近くにある円仁ゆかりの安蘇の川原は、みかほの関を沼越しに眺める名所として多くの和歌が詠まれている。
安蘇山の麓に生まれたという説では、慈覚大師円仁の出生については「桓武天皇の延暦13年、廣智菩薩が大慈寺住職のとき、南方に紫雲がたなびき、尋ねていくと安蘇山麓(現在の三毳山のふもと岩舟町下津原手洗窪)…下津原の手洗窪は「慈覚大師誕生の地」として栃木市の史跡に指定されている。
15歳のとき、唐より最澄が帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい、最澄に師事する。奈良仏教の反撃と真言密教の興隆という二重の障壁の中で天台宗の確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問と修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観(法華経の注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。
814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度(出家)する(21歳)。816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。この年、師最澄の東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。817年(弘仁8年)3月6日、大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。
性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗の開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。
836年(承和2年)、1回目の渡航失敗、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。838年(承和5年)6月13日、博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁はずぶ濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。
※上陸日である唐の開成4年7月2日は日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。
最後の遣唐使として唐に留学するが、もともと請益僧(入唐僧(唐への留学僧)のうち、短期間のもの)であったため目指す天台山へは旅行許可が下りず(短期の入唐僧のため日程的に無理と判断されたか)、空しく帰国せねばならない事態に陥った。唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。そこで円仁は遣唐使一行と離れて危険を冒して不法在唐を決意する(外国人僧の滞在には唐皇帝の勅許が必要)。天台山にいた最澄の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。海州東海県で遣唐大使一行から離れ、一夜を過ごすも村人たちに不審な僧だと警戒され(中国語通じず、「自分は新羅僧だ」と主張しているが新羅の言葉でもないようだ、怪しい僧だ)、役所に突き出されてしまう。再び遣唐大使一行のところに連れ戻されてしまった(『行記』839年(開成4年)4月10日条)。
当時、中国の山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島の新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅人社会の助けを借りて唐残留に成功(不法在留者でありながら通行許可証を得る等)する。遣唐使一行から離れ、寄寓していた張宝高設立の赤山法華院で聖林という新羅僧から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出す。春を待って五台山までの約1270キロメートルを歩く(『行記』840年(開成5年)2月19日~4月28日の58日間)。
840年、五台山を巡礼する。標高3000mを超す最高峰の北台にも登山する(47歳)。五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』840年(開成5年)4月28日条)。五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、最澄とともに入唐し、帰国せず五台山で客死した霊仙三蔵)。法華経と密教の整合性に関する未解決の問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。また、南台の霧深い山中で「聖燈」(ブロッケン現象か。『行記』840年5月22日条、6月21日条、7月2日条)などの奇瑞を多数目撃し、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。
当時世界最大の都市にして最先端の文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から約1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。また、金剛界曼荼羅を長安の絵師・王恵に代価6千文で描かせる。
台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得たこの晩、今は亡き最澄が夢に現れた。曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。円仁は師の最澄を拝しようとしたが、最澄はそれを制して逆に弟子の円仁を深く拝したという(『行記』840年10月29日条)。描かせていた曼荼羅が完成する(『行記』840年(開成5年)12月22日条)。
しばらくして、唐朝に帰国を百余度も願い出るが拒否される(会昌元年8月7日が最初)が、その間入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子・惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。享年32)。また、サンスクリット語を学び、仏典を多数書写した。長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた(『入唐新求聖教目録』)。そして、842年(会昌2年)10月、会昌の廃仏に遭い、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った(会昌5年2月)。
当時の長安の情勢は、唐の衰退も相まって騒然としていた。治安も悪化、不審火も相次いでいた。その長安の街を夜半に発ったが(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)、夜にもかかわらず多くの長安住人の送別を受けた。送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁の長安暮らしを支えた長安在留の新羅人たちが主であった。餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。歩くこと107日間、山東半島の新羅人の町・赤山まで歩いて戻った[注 1]。
この際、新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、密告に遭い、この船では帰れなくなる。
「円仁が無事生きている」という情報は日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。楚州の新羅人約語(通訳のこと)劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。博多津に到着し、鴻臚館に入った(『行記』847年(承和14年)9月19日条)。日本政府は円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いるように太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条)。54歳。
この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』で、これは日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている(エドウィン・ライシャワーの研究により欧米でも知られるようになる)。巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。
目黒不動として知られる瀧泉寺や、山形市にある立石寺、松島の瑞巌寺を開いたと言われる。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、浅草の浅草寺もそのひとつ(岩舟町観光協会HP)。このほか北海道にも存在する。
2017.4.28
探しても出てくるはずの無い答えを探し続けている。将来のことだ。絶対に失いたく無いものは何か。何も持っていないはずなのに、踏み切れず、勉学に励めば何とかなるだろうという安定的・楽天的思考の現実。それに対し非営利法人で働き、国連という最高峰に登り詰める偶像が時を経る毎に乖離していく。現実を見つめれば見つめる程、答えのない解が遠ざかっていく、答えなどないのに。自分の主義が徐々に侵食されるのが分かる。枠の中でもがけばもがくほど、その早さは増す。後戻りはできない。明日という積み重ねが恐怖になる。考えない事が唯一の解なのであろうか。踏み出すしか希望の路は無い。私は非確定的な将来を極度に恐れ、安定的思考に走る典型的な人間であるから迷う。自分は俗世に塗れた汚い人間という事が今証明された。主義が曖昧な人間にとって挑戦とは恐怖であり、安定的思考に走るという”慣れ”が人を幸せにするのであろう。永遠に自分には分からないであろう不幸という慣れを幸せに感じて生きる。人生とは妥協であろうか。真の幸福な人生とは成功者の特権であろうか。あゝ結果論哉。迷いが決断を鈍らせる。永遠のジレンマの深淵を覗き続ける。未来が絶望的だ。
端的に言うと、「家族の思い出作りイベント」と「公式の行事」の区別がついてないモンペ。
その演奏会の存在も知らなかったのに、「名誉ある演奏会」⇒「いつもの演奏会とは違うと言っても、優劣を競うコンクールでもない」
⇒「記念なのだから、小学校のブラスバンド活動の延長線上にあるものなのだから、当然、家族で鑑賞の権利がある」
と、変化しながら手前勝手な解釈をしている。ちょっと前まで演奏会の存在も知らなかったのに決めつけた。
この変化は、我が子が名誉ある演奏会に出られるという喜びから、家族全員で鑑賞できないという悲しみに、感情が変化したことによるのだろう。
関係ない人間から見れば、県で1校しか出られない演奏会ならしょうがないねと思うところだ。演奏者の年齢制限もあるのだし。
我が子の成長を家族で確認するための「家族の行事=発表会」ではなく、各県に1校が選ばれて年齢に応じたランクでの最高峰の演奏を披露する「演奏会」なのだろうと推察できる。
1993年のJリーグ創設時にチームがあった、いわゆる「オリ10」と呼ばれる某都市で生まれ育った自分は当時中学生で、たまたまサッカー部に所属していたこともあって、毎週のように友人と汗をかきつつ必死に自転車をこいで近くのホームグラウンドまで試合を観に行っていた。当時からサッカーが本当に好きで、Jリーグは勿論のこと、日本代表の試合も手に汗握りながら欠かさず毎試合観ていたし、翌日は部員と共に試合内容を語ったりしたものだ。ドーハの悲劇をリアルタイムでみてしまった直後は、テレビの前から1時間近く動けなかったほどのショックを受けた思い出もある。
冬の全国高校サッカーなどは、自分と年が近いこともあり、Jリーグなどとはまた少し違った視点と思いを持って(とても同年代とは思えない程の技術に驚きつつ)毎年楽しみに観戦していた。
当時なかなか情報が入らなかった海外のサッカー事情(当時はセリエAが最も人気)は、雑誌の「サッカーダイジェスト」またはフジテレビで深夜やっていた海外サッカー番組などから情報を仕入れ、海外の一流選手が履いているスパイクなどに憧れたりしたものだ。
しかしこういった時代からかなりの時間が経って、いまはもう全くといっていいほどサッカーを観ることはなくなってしまった。
確かにいまは海外の最高峰の試合も簡単に観ることができるし、日本サッカーのレベルも底上げされ、日本代表がW杯に出るのはもはや当たり前というような風潮さえあるし、事実そうだとも思う。このような時代になってしまったことで、昔のような真新しさは確実になくなっていることもひとつの要因ではあるにせよ、そんなことは些細な理由でしかない。
現代サッカーを最もつまらなくさせてしまった最大の理由は「ファウル」の存在であり、これが自分を近代サッカーから遠ざけたたったひとつの理由である。
ちょっと交錯しただけで痛くも痒くもないくせに大げさに痛がりプレーを止め、自らウソまでついてダイブして見せることで必死にFKやPKを貰おうとするあの乞食のようなプレーが、いつの頃からか真っ当な戦術として当たり前のように浸透してしまったのはなぜなのか?この風潮を喜んでいて、何も思わないサッカーファンが本当に存在するのか?昔のようにユニフォームや腕を引っ張られても、危険なタックルを食らっても倒れずに、ゴールに向かいドリブルを続けていたあの熱いプレーが当たり前だった時代を知っているはずの人たちは一体どこにいってしまったのか?
世界に数多ある各種スポーツがこぞって現代テクノロジーを判定の一助として(無論反対意見もありつつ)続々導入しているこの時代に、たかがゴールラインテクノロジーでさえ導入に躊躇している有様なのがこの糞サッカー業界である。そして今回のクラブW杯、鹿島の1点目がビデオ判定によりPKを得たことに関して多くの否定的な意見が伝えられたが、これがまさに現在サッカー界の腐れ具合を象徴している。「こんなのはサッカーではない」とまでぬかした選手までいる。結局は今まで自分らが隠れて姑息に行っていた詐欺のような行いが白日のもとに晒されるのを嫌がっているだけであり、まさに自業自得である。
もちろん全てのプレーに対してビデオ判定をするわけにはいかないから、ここでもテニスのような「チャレンジ制度」を導入すれば良いだけだ。これは野球にも言えることである。テニスのチャレンジ制度は贔屓目抜きに近代スポーツの中で導入された新ルールの中で最も優れた、フェアな発想であることは間違いない。サッカーも早くこれを導入すべきだ。
昔と違いサッカーのいち試合だけでもそれに関わるマネーも比べ物にならないほど大きくなっている。このような状況下で、可能な限り皆の目にフェアなジャッジが示されることのデメリットが一体どれだけあるのか、感情論抜きで説明できる人がいるのか?いたらぜひ反論を聞きたいものだ。このへんのルールがいつまでたっても適用されないことと、協会内での原博実の立場ほど謎なものはない。早くなんとかしてくれー!
自転車で健康寿命が延びる――オランダ・ユトレヒト大学で研究 - BBCニュース
http://www.bbc.com/japanese/video-34524760
http://ameblo.jp/doctor-away/entry-11010434709.html
自転車に乗る人は長生きする 平均寿命が大きく伸びる 調査結果
http://longride.info/general/2694/
”仏パリ心臓血管研究所(Paris Cardiovascular Centre)のエロワ・マリヨン(Eloi Marijon)氏率いる研究チームが、
自転車ロードレースの最高峰ツール・ド・フランス(Tour de France)のフランス人参加選手を対象に行った調査によると、
男性のプロ自転車競技選手は、同世代の一般人と比較して、平均で何と6.3年も長生きする可能性が高いという。
自転車活用拡大推進によって都市と人々が得る4つの果実(渋滞軽減、重大事故減少、健康増進による医療費軽減、排ガスや騒音・CO2減少)等 TBS 情報制作局プロデューサー 国土交通省提供資料
http://www.mlit.go.jp/common/000108300.pdf
(1) 渋滞の緩和:都心部から車を排除する政策をとって1年で、渋滞がなくなった、ビジネス効率が高まった、等の目覚ましい効果。
(2) 交通死亡事故の激減 :交通死亡事故が激減した(初年度 死亡事例 0 件)。
死亡事故は、自動車という1トン以上の重量を持つ危険物が動くから起きるものであり、
自動車より自転車を選ぶ人が増えることによって、自動車が減り、死亡事故も減少する。
道路から自動車という専有面積と重量が大きく高速で動く存在が無くなれば、重大事故原因要素を根本から無くせるため。
(3) 医療費の大幅削減:・ 医療費の大幅削減に成功し平均寿命がのびた。
自転車政策が立ち遅れているイギリスでは、環境ではなく医療費削減の目的で自転車活用推進政策が始まった
自動車を減らし、自転車への乗り換えを促せば促すほど重大事故は減る──調査結果。
Europeans Are The Best Cyclists - OneEurope アメリカとオランダでは4倍の開き 自転車が増えれば増えるほど(そして自動車が減るほど)重大事故が減る=すべての人々の長寿につながる。
http://one-europe.info/eurographics/europeans-are-good-bicycle-travellers
元増田を完全無視して語るとすると、海外に行く東大卒エリートは、そのまま永住するだろうね。
技術者レベルならば、正当な評価と待遇を受けられるし、何の問題もない。
逆に俺みたいな頭悪い奴からすると東大って間違いなく最高峰なんだけど、世界視野で見れば東大とはいえ中上位レベルだし、
東大レベル以上の、そういった高学歴を持つ海外の優秀・準優秀な人を介在させて、高待遇を与えて、要職に付ければ変わるんじゃないかな。
悪い言い方を極端に言ってしまえば、戦後GHQのような体制を取れば、変に歪んだ「日本社会」を改革できると思うよ。劇薬だけど。
タイトル獲得経験者(通算1期)。羽生善治七冠王を崩した棋士である。
顔つきは朴訥とした雰囲気が有るかもしれない。野武士という異名をとったこともある。なぜかニコ生で人気(だった?)。
ソフト指しが疑われているA級順位戦の三浦ー渡辺戦は角換わりの序盤早々にポンと▲4五桂を跳ねる将棋であった。前例はあって無いようなもの。話題になったお陰で棋譜は検索すれば簡単に見つかる。ちなみに将棋の棋譜に著作権は無い。素人目にはこの桂馬は、後手が△4四歩と伸ばせば簡単に取れそうである。プロから見てもそうであったらしく、順位戦の渡辺はそう指した。その後は後手は期待通りに桂馬を取り、引き換えに先手は馬を作り2歩を得た。以降は10手ほど穏やかに進み、先手が戦端を開き一気に後手陣を攻め潰した。馬と歩得の時点で形勢は先手が良かったようだ。実際、今日の竜王戦第一局(対丸山九段)で渡辺はほぼ同局面から△4四歩を見送り、ponanzaはこの選択をそんなに悪くないと評価した。
三浦の▲4五桂にはソフトによる研究が伺える。駒損して歩得と馬を主張するところがソフトっぽいと言われる。同時に三浦の棋風も伺える。端的に言えば研究将棋とはハメ手であり、毒饅頭を目の前にチラつかせる将棋なのだ。渡辺はまんまと引っかかり、自然と思われる桂取りの△4四歩からほぼ一直線の流れで、気づけば形勢を損なった。
行方尚史八段は三浦を表して「局地戦になると異常に力を発揮する人」「狭いところでの三浦君の計算力はすごい」と評した*1。一見して選択肢の狭い局面に誘導し、そこで相手を罠に嵌め、自身の計算力を頼りに仕留めるのが得意である、というわけだ。そして三浦はこの棋風を維持するために、自身の研究に加えて他の棋士の研究をも吸い出してきた。圧倒的な研究量が三浦のウリなのだ。
第68期名人戦(2010年)において三浦は羽生善治名人(当時)に挑戦した。梅田望夫「羽生善治と現代」ではこのシリーズの第二局を通じて、三浦の棋風すなわち研究将棋の極北について論じている。三浦はここでも羽生相手に罠を仕掛けた。当時流行の横歩取り8五飛戦法の、その最新型に一撃必殺の罠を仕掛けた、のだが、この罠は関西有力若手棋士(行方は豊島将之現七段か糸谷哲郎現八段か、誰かは知らないが、と言う)を二晩ホテルに缶詰にして聞き出した研究の成果であると言われる。
自分が出席しない研究会の成果をその日の夜に電話で聞き出したりもする。後日有力棋士に公に批判された。
三浦の将棋脳の特性と、それを活かせる狭く罠を仕掛けやすい展開を収集する研究力・人脈、これによって三浦はトップ棋士たりえた。
近年ではソフトが鬼強いので、誰でも棋力に関係なく高度な研究ができるハズだ。では三浦の強みが無くなったかというとさにあらず。現に順位戦で渡辺は三浦の研究手▲4五桂に対応できず、自然な手に乗って形勢を損ねた。プロより強いソフトが行き渡った現代でも、三浦の研究力は存分に発揮されている。
つまりカンニングしなくても、三浦は十分強い。序盤は優秀な研究があるので仮にカンニングするとしたら中終盤だが、この将棋は優勢な局面から一方的な攻め将棋で終わった。カンニングが必要とは、個人的には思えない。
ちなみに羽生との第68期名人戦、三浦は4タコで無残に敗退した。形勢良しの将棋を勝ちきれず、善悪不明の将棋を手品のように負けた。
第二局で羽生は三浦の罠を看破し、三浦の研究の隙の隙を掻い潜り、見事勝利した。
中学生でプロになった。20歳で棋界最高峰の竜王を取った。タイトル通算17期、史上初の永世竜王資格保持者。名人挑戦者に未だなれない。
生え際は若くして後退した。歯に衣着せぬ実直な物言いも人気。
自玉を固めて細い攻めを繋げて一方的に殴るのが一般に渡辺っぽいとされるが、最近はどんな将棋でも単純に強い。
研究家。ソフトを使用しているがソフトの評価値はあんまり重用していないとも語る*2。
渡辺は単純に強い棋士である。2000年以降、渡辺は将棋界のトップ3以上の実力者でありつづけた。研究家であっても、三浦のような極端さは無い。
人望の厚さが伺われるエピソードも多い。佐藤天彦新名人にも慕われている。
渡辺は正義と公正の棋士である。ゆえに、三浦の若手搾取が許せないらしい。村山慈明現七段から三浦に電話で研究会の成果を根掘り葉掘り何時間も訊かれたと愚痴られた渡辺は、NHK将棋講座誌上で三浦を名指しで、質問三羽烏として痛烈に批判した。
とばっちりを受けた残り二羽の烏は深浦康市九段と丸山忠久九段である。深浦は「羽生善治と現代」にて三浦の研究将棋を擁護し、丸山は今回の将棋連盟の決定に不服ととれるコメントを出した。前述の通り、丸山ー渡辺で開幕した今期竜王戦第一局の序盤は、件のA級順位戦三浦ー渡辺戦とほぼ同じ将棋であった。丸山の意趣返しであるが、渡辺の対策が良く封じ手時点では丸山苦戦の模様。
三浦のカンニング疑惑の聞き取りに、渡辺は理事に混じって同席した。
5人前後の三浦に負かされたと推察される棋士が三浦を告発したという。根拠はつまりプロの直感である。正義の棋士渡辺は告発者の一人であり、卑劣なカンニングを許せず、またタイトル戦の直接の対決者であるから、聞き取りに同席したのだろう。
聞き取りは聞き取りだけで終わり、証拠は一切示されないが、あるともないとも知れない。
三浦からしたら、タイトル戦の直前にタイトルホルダーが連盟を味方につけて、盤外戦術を仕掛けてきたようなものである。
三浦がカンニングしていたのなら、怖くて大舞台には出れないだろう。
三浦がカンニングしていなくても、怖くて大舞台には出れないだろう。
つまり三浦相手に連敗中の渡辺が三浦を竜王戦欠場に追いやったとも言える。
まさしく陣屋事件に勝るとも劣らぬ怪奇事件。なんと命名したらよいだろうか。
パラリンピックを見ていて、いろいろと思うことがある
この人はどんな障害があるのか、どうしてその障害を持っているのか、使っている義足や車イスの形や仕組みはどうなっているのか
そういうことを思うたび、これは「差別」ではないのか、障害者である前にアスリートなのだからそういう目で見ずに普通にスポーツとして見るべきではないか、と
しかし、そもそもパラリンピックは障害者スポーツの最高峰で、いろいろな障害の人が出場している
その障害にも度合いがあり、その度合いによりクラス分けされている
そういうことを考えれば、どこに障害があるのかとか、どんな障害なのか気にするのは当たり前のことなのではないかとも思う
そしてパラリンピックの話になると、よく「パラリンピックは見世物ではないか」という話を聞く
見ていてそう思うこともある
しかし、それを言うならオリンピックも見世物ではないのか、スポーツそのものが見世物ではないのか、とも思う
ここにさほど大きな差を感じない
どれも感動的なことだし、どれもとても興味深くて面白い
難民の人が出ることが美談で、障害者が出ることがタブーになる理由は自分には分からない
自分では差別意識はあまりないと思っているのだが、パラリンピックを見ていて思うことがある
選手同士で揉めていたり、少し汚いプレーをしていたり、ドーピングが発覚したりするのを見て、とても変な気持ちになる
それは、どこかで障害者スポーツは綺麗なものというイメージがあるからだ
勝負よりも参加することに意義があるというイメージがある
しかし、出場している選手はただ純粋にスポーツをしているだけだ
オリンピックと同じ程度には汚いプレーもするだろう
http://shiba710.hateblo.jp/entry/2016/09/14/122251
この底の浅いヒョロヒョロな評論考察を読んでイライラしてしまった。ライターが仕事ほしくてケツにローション塗りたくって新海と川村と野田にケツ差し出して媚びてるようなヌルヌル文章だよ。こんなの。
まあネットを巡回して色んな意見をまとめて自分の考えをたとえ薄っぺらい内容でも分かりやすく主張して言っているという部分ではローションライターとしてはいい線いってるんじゃないか。
で、内容は
東浩紀や渡邉大輔とかはリア充性に注目しているけど、そうじゃない、エンタメ技術論なんだと。うん。その方法論の実現のためにRADWIMPSという存在があると。うん。で、そういう組み合わせを仕掛けた川村元気が天才的なんだと。ううん?
ど、どういうことだろう。一体この人は何を言ってるんだろう。
>こういう風にお互いに共通する世界観、作家性を持つクリエイターを結びつけるのが、まさに「プロデューサーの仕事」なんだなと思う。そして、「音楽×映画」という観点で見ると、川村元気という人はいろんな実績がある。
中略
>高木正勝や山口一郎や野田洋次郎や中田ヤスタカのような作家性の強いアーティストに「映画のための音楽」を作らせる手腕。さらに主題歌と劇伴を同じアーティストが手掛けることによって、映画と音楽が密接に関わりあう作品に仕上げる手腕。そのあたりは、『バクマン』や『君の名は。』や『何者』に共通する、川村元気のプロデューサーとしての天才性だと思う。
おうおうおうおう、いぇいいぇいえいぇい。そうね。はいはいはい。
なんか知ってるなあ。こういう物語と音楽のあり方、なんだっけなあ。昔あったな~、同人誌のタイトルで、椎名林檎とかcoccoとかポルノグラフィティとかの曲名を同人誌のタイトルにしたりさあ。自分の好きなカプのテーマ曲を脳内設定したりあったなあ。つか今でも見かけるなあ。
結局川村元気においての映画と音楽なんてのはこういうことを東宝のプロデューサーとしてのスケールでやっているだけで、天才的な手腕でも何でもない。ただの凡庸さゆえにより大きなマーケットに向けての仕事ができるというだけです。村上春樹聞きながらレディオヘッドとか聞いてる学生と似たようなもんなんです。たぶん、人脈つくりや人と仲良くなることが得意なんでしょう。どうでもいいことですが。
本題なんだけど、もうさ、君の名は。の褒め文章、どれもこれも高校生のポエムみたいなのでうんざりする。なにがちょうちょ結びだよ。テーマが結びだ? んな程度のことたいていの物語系のコンテンツで君の名は。以上の水準でやってるよ。挿入歌の歌詞の考察でアニメ映画の評論かいな。さらにそんなスッカスカの考察のアホみたいな文章にブコメで称賛するスーパーアホもわんさか。こういうアホどもをあぶりだしたことが君の名は。の最大の達成かもしれんな。あと褒めるべきは、中高生をひたすら甘やかしてうっとりした気持にさせるためだけに日本のアニメシーンで最高峰の人材が浪費されたのは虚しいこととはいえけっこうな金儲けになったことだけはまあ褒めてもいいだろう。問題はそんな映画についてクソポエムを書いてしまう連中とそれにくっついていくクソオタ。
チャーリーのポエムに続けて40のオッサンが「ここはまさに同意」じゃないんだよ。
君の名は。に前史みたいなものがもしあるとしたら、適当に今考えつくだけでも、書けるだろう。
そして新海誠が作った山崎まさよしのPVになってしまったような秒速5センチメートルが公開されたのは2007年、ハルヒダンスなんかも当時の中高生にとっては重要なのかな。適当に言ってるだけだけど。
つまり、アニメ文化とPV的映像センスの親和性と消費者のリテラシーがこの10年間でとんでもなく浸透し、上昇した。具体的には、自己像を架空の世界、二次元キャラアニメ世界に没入させる技術が今の10代20代はそれ以前の世代と比べて圧倒的に優れているわけ。
そしてさらにカゲロウプロジェクトや告白実行委員会、ボカロ小説といった、若者向け物語文化がさらにそういうPV的な音楽と物語の需要にさらに拍車をかけた。
はっきり言って、やってること同じでしょ? 君の名は。とカゲプロとかずっと前から好きでしたとかって。新宿感はストリート感に対応しているし、青春ドキドキ胸キュンストーリーだし。
震災をダシにしつつ実際は自分の恋愛の成就にしか興味がないウスラバカのための映画で子供の背伸びにもピッタリ。
というのはまあクソオタ向けのまとめであって、なんでこんなとてつもないヒットしたかって、結局のところ新海誠のくどい撮影のキラキラ画面というのは、大衆にとって衝撃的な画面として映ったってことでしょう。しかも、描かれているものはスピリチュアルでスケールが大きい。ただ素朴に、「え~。アニメでこんなにキラキラした画面初めて~。すご~い」ですよ。それを映画館の大画面で見るんだからカルチャーショックでしょう。物語の内容がアホみたいな間の抜けた王子様とお姫様のきっしょいラブストーリーだとしてもね。べつに中高生がうっとりするのにはそれでいいんですよ。(本当はよくない) 問題はそんなのでポエムしちゃう連中。
田中将賀のパンピ向けデザインが安藤雅司ほかのとんでもない水準のリアリズム超作画で青春ドキドキ胸キュンストーリーが、実際の物語としての出来はともかく、予告だけ見てたらとんでもなくヘルシーで健康的な印象でしょ。そういうただひたすらキュンキュンときめきたいっていう大衆の眠っていた願望を呼び覚ますには充分すぎる画面を提示することができたわけ。本当にただそれだけなの。凡庸な物語センスの新海誠と凡庸な音楽の仕掛け人であるところの川村元気のセンスが大衆向けの子供だましクールジャパンアニメの到達点として結実したというのが妥当な見解でしょうよ。
物語コンテンツの需要における文脈や楽しむための作法には積み重なっていく歴史があるんだということさえ理解できないバカが大量宣伝を大衆向けの物語でやったから川村がすごいんだと単細胞な意見でつっかかってるんだね。ガンダムとマクロスをたとえに出して、君の名は。とカゲプロが似てると思うのは老いだぞ、とか。このエントリの文意さえ読み取れてないみたいで、これはバカでも分かるように書かなかったこっちが悪いのかな。それともバカなのが悪いのかな。
君の名は。をバカにされて頭がフットーしてる人、ケチつけられることがつらい人にオススメなのは川村元気は他所の畑で実った果実を自分の畑で植え直して大衆に売ることの天才とでも思っとけば川村でも天才扱いできるからいいんじゃない?
こっちはライターがフェアな関係であるべき対象を天才とか軽々しく言い出したのがイラついただけなんでね。
文脈なんて前提だよって人もいるけど、だったらライターはその文脈を歴史として記述しなきゃ。ポエムなんかよりも。
なぜヒットしたのか? 天才プロデューサーの仕事だからでありますって。ちゃんちゃらおかしいよ。ライターがプロデューサー褒めそやしてバカな素人がそれに乗っかって「これが君の名は。の正しい評論だよなあ」って好きなもの同士の特権意識で頷き合ってる気持ち悪い構図になってるんだがら。
このライターの人も君の名は。をRADWIMPSの音楽で読み解きたいんじゃなくてただ取引先ともっと仲良くなりたいってだけなんじゃないかなあ。業界の仕組みなんて知らないけどさ。
シン・ゴジラの真価は、これから広がるであろう一見さんによる批評の中にこそ有る。
つまり、「満点からマイナスされうる特撮映画」が帰ってきた、と言う意味だ。
1週間ほど前に話題のゴジラを見に行った。面白かったは面白かった。
が、事前ハードルが上がりすぎていたのか、粗(に私には見えた)の部分が結構気になってしまい、正直世間で言われている程に「大傑作」にはあまり見えなかった。
確かにその通りで、それは欠点だ。
それは、長年特撮ファンが受けたくても受けられなかった指摘だ。
「まあ、子供向けの怪獣映画にしては良く出来てたよね」という感想からの脱却。
「対象年齢を考えても酷い」とか「大人の視聴に耐えうる人間ドラマ」とか
そういった「オヤクソクを共有している視聴者」向きの話じゃない。
つまり、「ファインディング・ドリーと比べて」とか
だからこそ「大傑作」であり、それ故に「まあまあ面白かった」という感想が併存しうる。
最近は「ゼロからプラスして積み上げる特撮映画」しか無かった。
「(全体の質はハリウッドと比較しようも無いけど)特撮部分は良かった」
「(全体の質はハリウッドと比較しようも無いけど)ドラマパートはヒドイ」
みたいな「邦画の予算規模で制約の多い特撮映画において」という限定が常についていた。
粗はある。荒削りでもある。
それでも恐らくは邦画の現場における特撮映画のベストを尽くした映画だと思う。
それは特撮ファンなら邦画の環境に絶望せずに希望を見いだせる一筋の光であるし、
一般人から見れば、「怪獣映画だけど面白いらしいよ」と観に行ける映画になってる。
「日本の特撮映画として100万点」のシン・ゴジラで終わるならソレまでだ。
でもきっと「世界の映画の中で70点」のシン・ゴジラだと評価してもらえる。
怪獣を通じて、日本の災害を正面から描き、国のあり方をポリティカルな視点から捉える。
世の中は稼いだものが正義で、投資してもらえるのは評価された作品だけだ。
その意味で、きっと一般人からみても、投資に一口のれる出来じゃないだろうか。
ダシに使ったので、不満点に共感しつつ、違う視点を提供しておくよ。
映画観に行った後のファミレスでダベってる感じで読んでもらえればと思う。
(人は感じたことが全てであり、反論しようとは思っていない)
主人公の矢口が会議中に巨大生物に言及するのだが、この時点で矢口がそう判断に至った材料は精々ネットの動画程度であり、あそこでアレを「生物」と考えるのはかなり不自然だ。
シン・ゴジラの主人公格である長谷川博己演じる内閣官房副長官の矢口蘭堂は、
竹野内豊演じる内閣総理大臣補佐官(国家安全保障担当)の赤坂秀樹から
「会議は結論ありきで進んでいる。かき回すな」と助言を受けている。
また、エレベーターの中で、立場が上の人間に対して「楽観やこうあって欲しいという願望が、先の大戦で何百万人も殺した」とワリとハッキリ苦言を呈している。
矢口は生物と断定しているのではなく、「巨大生物の可能性を俎上に載せないのはマズイ」と判断しているのではないだろうか。
(ネット上の映像がフェイクであれば、それを作った人間の動機がテロで無いことを確認するまで安心しないタイプ)
ニュース映像での「巨大生物の尻尾」について、ニュースの真偽を問うシーンがないのは映画の都合だと思う。
ニュースの第一報だと見るのが妥当なシーンだし、それならアレは何のジョークだと笑うのが現実的ではなかろうか。
同種の別個体については、検討は並行で続けているが、映画の都合でカット、じゃないかな。
別個体だとすると、観客は「ゴジラ対究極生物なのか?」という疑念を抱きながら観ることになり集中力が削がれる。
(一つは倒れるマンションから逃げ遅れた家族、一つは溢れた川から逃げる男性、もう一つどこかで同じことを思った気がするが覚えていない)
たぶん、残りの一箇所は、自衛隊の戦車が潰れるシーンか、注入第一部隊の全滅の部分じゃないかな。
マンションの荷物を詰めていてマンションごと押し倒される家族、川からの逃げ遅れ(たぶん画面の奥側に向かって走る男性)は、
災害の描き方の問題で、ゴジラによる人死を描いているわけではないと思う。
あの一連のシーンで感じる「いまどこに災害が近づいてきているか一般市民には把握できない」という恐怖は演出として一貫していると思う。
(状況把握のしようがなく、気がついた時にはもう遅いという恐怖は、5年たってやっと直視できるようになった映像だと思う)
病院とか今まさに災害の現場は出てこず、災害が通り過ぎた後の映像だしね。
密室と俯瞰した映像に寄る災害描写は、予算制約を逆手に取った脚本の作り方の問題であり、
その意味で「巨大不明生物がなぎ倒したビルにも当然人が残っている」というのを伝える手法に限界があったのかな、と思う。
ほぼあの家族しか直接の被害は確認できないのに、それ以後の緊迫感は違う。
だけど、アレ入れて欲しくない、というのも判る。
浮いてると思うよ。これはシナリオの歪みが集中してるせいだと思う。
これ、後でちょっと付記するけど、「シナリオの都合の上で」リアリティラインは高く見えるようにしてあるんだと思ってる。
例えば、東京駅前に当然あるはずの広大な敷地について劇中一切言及されていない。明らかに不自然。
筋論として、日本が米国に頼り、米軍が日本国内で武力行使する、という流れのハズ。
仮にも主権国家に対して、他国が熱核攻撃を短期間に強行する理由がない。
日本が壊滅するまで自由にさせておき、主権が及ばないところに出てからの攻撃になるはず。
ちょっと日本以外のまとまりが良すぎるというか、世界があまりにも日本に対して冷淡すぎる。
「ゴジラを生み出したのは、牧元教授という日本人では?」という点、
外務省や駐在武官を無視して政権が直接軍事について外交を行うと言う部分を抑えると
祖母が原爆による被害者であり、日系人でアメリカ政権に対して一定の譲歩を引き出しうる通常外交ルート外の存在は、
石原さとみ演じる米国大統領特使のカヨコ・パタースン以外であっても、
やっぱり荒唐無稽に見えるだろうし、どうしても浮いてしまうのは仕方がないと思う。
彼女はシナリオの不備による歪みを一手に引き受けて浮いているのだと思う。
まあ、じゃあどう直せば良いかって言うと、アメリカ側を描くには予算が足りなそうだな……
ゴジラに原子炉載せて、排熱への対処(生存本能)で進化するって道筋つけると、焼却 or 凍結ってのは判りやすい。
シナリオの都合でアメリカに熱核攻撃を担わせると、日本が特撮的な花である爆発(焼却)を使うのは難しい。
そもそも「カタルシスを得られない」ということそのものが、演出意図なのではないかなと思う。
一応、血を流すことから排熱に血流を用いているのではってのは合理性があるし、血液凝固材も30種類?試して効くのは確認してる。
元素変換する相手ならどこに投与しても一緒って意味では、口に見える部分に引っ掛けて体内注入するってのは効果的とも思う。
仮定に仮定を積み重ねて、地味な作業で原子炉の終息にもってくってのは、福島第一原発事故対応への直喩だろうし。
「ショボい」処理で、しかも「まだ終わってない」ってのを、東京駅に凍結させたゴジラで示しているのでは、と。
(政府が冷温停止を宣言したのも、冷やし続ける必要があるってのも、同じ構図だよね)
加えて、ヤシオリ作戦に関しては、矢口の陣頭指揮の部分にも中途半端さに違和感があり、これまで徹底して「対策室で対応する政治家」を描いてきて、結局最後は「主人公が現場の陣頭指揮を取りに行く」というのを描くのか、というのに少し落胆した。
一応は、逃げ遅れた人がいるかもしれないけどやる?とか、線量が予定よりも多いけど続行するのか?とか、判断はあったと思う。
どっちかというと、多分最初に感じたであろう「え?総理大臣は逃げるの?残らないの?」みたいな感覚を
「いや、指揮官は後方に控えてないと死んだら終わりだから」に観客の気持ちを変えたかったんじゃないかな、と思う。
それでもまあ、良くあるヒーロー映画みたいにゴジラに触れるような最前線までは最後まで行かないし、良かったんじゃないかな。
(良く言われる「陣頭指揮」を観客がどう捉えるかが、映画を見た後で変わったのではないか)
正直に言えば、予算の都合で、東京のみの話にしないと収拾が付かないと思う。
「福島第一原発事故」が「東京駅」で起こったとして、煽りじゃなくて日本としての機能がどうなったか考えるとゾッとする。
その俺の思いと重なるが、何度も「経済的」な話が出てくる。
経済的には莫大な損失とか、熱核攻撃を受けて世界から支援を受けないと復興できないとか。
損得勘定で熱核攻撃を仕方がないと受け入れる「論理」と、象徴的な意味で核攻撃を受け入れられない「感情」との対立軸にも見える。
「国」とは何なのかを観る人に問うシナリオになってたんじゃないかな、と。
まあ観たひとに届かないのであれば、そりゃ成功してないわけだけど。
まあ、観たひとに届かない思いは独り善がりなワケでダメなんだと思うけど、
最初に書いたように、そういう「普通の映画のダメ出し」してもらえるところにシン・ゴジラの価値がある。
と、思うわけで、やっぱり気になる点を俺も最後に列挙して置こう。
熱核攻撃をあの付近で行うことに対して、日本人が触れないってのはあり得ない。
「彼らはここがニューヨークでも同じことをするそうだ」とはセリフにあるけど、あれ「ワシントン」じゃないんだよね。
(あくまでも経済の中心であるというセリフであって、象徴的なんだけども)
突然地上にさまよい出た、排熱の為に進化した、冷却のために海に戻った。
突然さまよいでることも、デタラメに動くのも、再冷却の為に海に戻るのも災害っぽい。
進化の方向性として陸上に特化してしまったとして、海水を捨てて地上に出てくる理由が不明。
牧元教授が好きにした結果、ゴジラを生み出して、意思を方向づけたなら判らなんでもないけど。
(配偶者を原爆で亡くし、国と核を憎んだ牧元教授なら、先の大戦の直接の責任者である国の象徴にまず向かい、その後アメリカ上陸を目指すのは理にかなっている)
途中、スパコンの計算能力貸して欲しいって海外の研究機関に依頼するときに、
一旦「ウチの技術を盗むかもしれないから断ろう」みたいなセリフがあるんだけど、
もしも「間に合わなかったら首都が熱核攻撃を受ける」みたいな状態なら、
「ひとを信じよう」みたいなのんびりした話にはならないと思う。
(秘密裏に国連安保理が熱核攻撃を容認するって、日本は外交力ゼロってことになる)
(そうすると、フランスと裏取引する外交技術との整合が取れない)
シナリオが福島第一原発事故を念頭に置いてるからなんだろうけど、
ゴジラに対して調伏(焼却or冷却)しか選択肢が無くなってるのに違和感がある。
保護が無理、退治が難しそうなら、通常は追い出しの手段を検討するんじゃないか。
餌で釣るのか、行動パターンを読むのか、押し返すのかは別にして。
追い出しにリソースが避けないって言う描写は欲しかったかな……
(これはほとんど「他の個体についての言及がない」ってのと同じポイントだな)
映画を見ながら、実際に災害になったらどう逃げようか俺は考えた。
かなり踏み込んで災害を描いてるような気がするけれども、どうかな。
水谷くんの銅メダルで卓球に興味が湧いた方は、ぜひ「ワルドナー」の変態プレイもみてみてください。
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世界最高峰の、球威も回転もケタ外れの打ち合いを見るの、楽しいですよね。
台から離れた場所からの反撃、相手の強打へのカウンター、忍耐のいるロビング、一打〃〃にハラハラします。
このオリンピック&水谷くんの活躍を機に、卓球が好きになってくれる人が増えるといいなあ。
さて、いまから20年近く前、ぼくは中学高校と卓球をやっていたのですが、
そのとき世界の頂点に君臨していたのは「ヤン・オベ・ワルドナー」というスウェーデンの選手です。
何年にもわたって数々の大会を制覇し続けたのはもちろんのこと、
その無双かつ無慈悲なプレーは、たった1ラリーで相手の戦意を粉砕したと言われます。
彼のスキルのすごいところを挙げればきりがないのですが、中でもとくに超人的なのが
「相手の打つ球のコース上にすでに居て、相手の居ないコースに撃ちぬく」スタイルです。
これを涼しい顔でやるんだから、相手はたまったもんじゃない。気持ち折れます。
当時と今では、ラケットの質や球の大きさ、ルールが変わっているので、単純に比較できませんが、
もしいまこの時代にワルドナーが現役なら、頂点を取るのはやっぱり彼なのだろうと期待をしてしまいます。
そんなワルドナーのプレイの中から、特に変態的なものをご紹介します。
手のつけられない強さにもだえてください。
https://www.youtube.com/watch?v=TFeTtJF4Rt8
https://www.youtube.com/watch?v=rngeXGGyDBo
https://www.youtube.com/watch?v=WNyw3tWsdfI
おまけ:
シン・ゴジラを観てきた。
実際にゴジラが現れたら、本当にこんな後手後手の対応に回るんだろうなというリアル感。
自衛隊が本気で攻撃しても倒せないという、お約束の展開をリアルに描くことで生まれる絶望感。
すごく面白かった。
ところでシン・ゴジラの評価として、エヴァっぽいという声をちらほら聞く。
オーどこに目をつけているんだいキミタチィ。
なぜそれが分からないのか、分かろうとしないのか。
と思うので思うところを書く。
エヴァと言えば言わずもがな、『セカイ系』と呼ばれたジャンルの最高峰である、と言われている。
セカイ系の特徴には諸説あるが、概ね、世界の命運がごく少数の登場人物の意思決定によって左右される物語だとされている。
時として世界の命運を左右するのは、数奇なめぐりあわせのために巻き込まれた、覚悟も力もない少年少女であったりする。
そこで生まれるドラマを描くのがセカイ系というジャンルである。
シン・ゴジラはこのようなセカイ系の特徴を徹底的に排した物語構成を行っている。
ゴジラと戦うのは民主主義の手続きによって選ばれた、国民の代表たる政府関係者と自衛隊である。
何を決定するにも会議を行い、議事録が残り、行動するには法的根拠が必要で、無いなら法案を作るという、民主政治のプロセスが正統に実行されている。
また、ゴジラは確かに脅威ではあるが、セカイを滅ぼす存在ではない。
自衛隊の装備で傷をつけられずとも、米軍の空爆でならダメージを与えられる。
それを使えないのはヒトの都合である。
第2、第3形態のゴジラを自衛隊が攻撃できなかったのは、ひとえに憲法9条下における自衛隊の不自由な運用のためである。
第4形態のゴジラに核を撃ち込めないのは、ゴジラが東京のど真ん中にいるからであって、要するに今まで都市のインフラに投資した金がもったいない、というだけの理由である。
もし東京が壊滅しようと、京都に首都機能を移転し大阪が経済の中心となって、日本という国はつつがなく回っていくだろう。
日本が滅ぶとしたら、劇中で指摘されている通り、株価、円、国債などの暴落によるデフォルトである。
日本の滅亡すらヒトの側の都合で起こる。
滅ぼさないのだ。
そんなセカイを滅ぼさないゴジラと、対策チームは不眠不休で戦っているのである。
なぜなら、誰もセカイを救う力なんて持っていないから。
普通の秀才の集まりだから、不眠不休で対策を立てても、勝てるか分からないのである。
できるだけ多くの協力者を募り、政府の研究機関や民間企業に情報提供し、他国へのコネを活用して、ゴジラを倒す作戦を立てるのである。
それが、セカイを救う力なんて持っていない、普通の日本人達のリアルだから。
なんのために戦っているかと言えば、仕事として、国民の生命と財産を守るために戦っているのである。
避難すれば命は助かるが、それは今までの生活を全て捨てることを意味する。
「簡単に言うなよなぁ」
とボヤかせるのだ。
だから、劇中の所々に見られる、主人公の演説も、ドラマ的な演出もなく淡々と行われる。
聴衆の歓声も、勝鬨の声も上がらない。
作戦決行直前の演説も、演説の内容は重大であるが、その光景はまるで中小企業の社長が朝礼で社員に演説するかのような様子である。
こうして観ると、シン・ゴジラは全然エヴァっぽくないということが分かると思う。
ゴジラが現れようが暴れようが、セカイは盤石だ。
それを倒すのにも、優れたリーダーの英断の下、日本の科学力、工業力、軍事力を集結すれば可能なのだ。
冗談みたいなIQの天才もいらないし、自己犠牲の特攻も必要ない。
国を守る覚悟のなってない、思春期の少年少女の出番など、どこにもない。
庵野はどうしてエヴァの映画を作るのを放って、これを撮ったんだろうか。
少年少女の意思決定が、そのまま人類の滅亡を引き起こしたりする。
そういう話の持つ面白さは、そういう面白さとして存在するが、きっと庵野はもう飽きたんじゃないだろうか?
それより、ヒトの社会の営みの豊かさ、力強さに惹かれてるじゃないだろうか?
そう言いたいんじゃないだろうか?
物語の全編から、もうセカイ系なんてやめよう、エヴァみたいな物語なんて作るのやめよう、というメッセージが伝わってくる。
そりゃ同じ人が作ってるんだから、同じような演出になるのは当然だろう。
上っ面ばかり見て、どうこう言われて、庵野も気の毒だね。
安全をあからさまに軽視する企業は少ないけれども、レベル感が低い所が未だにちらほらある。
「何をそんな大げさな」と言うかも知れないが、安全を軽視すると「従業員が離れる」「体外的な視線が厳しくなる」「事故対応にリソースを割かれる」など、結果として業績に影響する。
コンプライアンスを重視するのも同様だ。一発失敗した時のインパクトがでかいから、それだけ重視する。
じゃあ、どうやって安全を確保するんだろう。
ここでは、自動車で営業周りする人間の、交通災害について考えてみたい。どうやったら事故の発生件数を減らせるのか。
2つの方向性がある。①乗車時間を減らすことと、②事故率を下げることだ。
よく安全対策会議で話し合われるのが、②についてのone of themで、例えば「若年者層へ講習を実施しよう!」などだ。
乗車時間を減らすには、単純に車に乗らなければいい。いかに効率的に車に乗らないかを重視する
・目的地の近くまで乗りあわせて行き、現地で散開する
また、事故率が固定と考えられれば
なんて方法がある。
⇛事故率を下げるには、ハインリッヒの法則に従い、ヒヤリハット数を減らせばいい。
⇛ヒヤリハット数をカウントし、その度にトライアンドエラーにて学習すればいい
こういったニーズから、ドライブレコーダーなどが発売されているのだろう。
こういった対策が企業ではとられている。結局、従業員のスキルが上がれば事故発生率が減ってハッピーだよね?効率も下がらないよね?というパターンだ。
乗る人間の能力向上を狙うには、何ができるか/できていないかを定量的に判断し、事故率を算出する必要がある。
運転スキル = 操作スキル × 認知スキル に分解できると思う
操作スキルは教習所で習うようなものだろう。究極的に言えば車両感覚が正しくあるかどうか。車の挙動が想像できるかだ。こちらは課題と制限時間を与えれば、案外簡単に評価できそうだ。
認知スキルの私の知る最高峰は google:防衛運転 20箇条 だ。しかし、これを実践できているか?を評価する仕組みがまだない。
たとえ、隣で検査官が同乗しても、その時だけ頑張るということが起こりうる。